1 帰ってきた人間は、戻ってきた人間ではない
「……なあ、焦凍」
朝、燈矢は縁側に座ったまま、庭を眺めていた。
「何だ?」
少し離れた場所で、焦凍が答える。
「お前、俺がこの家にいるの、変だと思わねえか?」
焦凍は考えた。
「……変だとは思う」
「おい」
「だって、兄さんは長いことここにいなかったんだろ。俺たちも、その間に変わった。兄さんが戻ってきたからって、昔と同じになるわけじゃない」
「……正直だな」
「嘘をついたら怒るだろ」
「本当のことを言っても怒るけどな」
「知ってる」
燈矢は小さく笑った。
その笑いは、以前よりも少し自然だった。
しかし、笑えたからといって、胸の奥が軽くなったわけではない。
この家には、自分の知らない時間が積み重なっている。
家具の配置も変わった。
家族が使う部屋も変わった。
弟たちは成長し、妹は大人になった。
母親は以前とは違う表情で自分を見つめるようになり、父親は、息子に何を言うべきか迷うようになった。
自分が戻ってきた。
その事実は、確かにある。
けれど、自分が戻ってきたところで、家族の時間が過去に巻き戻るわけではない。
燈矢は、そのことを少しずつ理解し始めていた。
「……俺は、ここにいていいのかね」
何気ない口調だった。
しかし、焦凍は、その質問を軽く受け流さなかった。
「俺は、兄さんがここにいることを拒んでない」
「……前にも聞いたな、それ」
「ああ。でも、もう一つある」
焦凍は隣に座った。
「ここにいたいかどうかは、兄さんが決めることだと思う」
燈矢は弟を見た。
「……俺が?」
「そうだ。俺たちが、兄さんにここにいてほしいかどうかだけで決まる話じゃないだろ」
焦凍は、ゆっくりと言葉を続けた。
「兄さんは、帰ってきた。でも、帰ってくる前の時間を、俺たちが代わりに生きたわけじゃない。兄さんが経験したことも、俺たちには全部分からない」
「……」
「だから、俺たちが『家族だから、ここにいろ』って決めるのも違うと思う」
燈矢は、しばらく黙っていた。
「……お前、本当に、いちいち面倒くせえな」
「そうかもしれない」
「昔なら、もっと単純だっただろ。家に帰ってきたんだから、一緒に暮らせばいい。それで済んだはずだ」
「昔だって、本当にそれで済んでいたのかは、分からない」
その言葉に、燈矢は返事をしなかった。
昔は、確かに家族だった。
同じ家で暮らしていた。
食事をして、話をして、日々を過ごしていた。
けれど、同じ家で暮らしていたことと、互いを理解していたことは同じではない。
自分は、父親に認められるために生きていた。
焦凍は、父親の期待から逃れようとしていた。
冬美は、家族をつなごうとしていた。
夏雄は、父親への不信を抱えていた。
冷は、母親として、妻として、自分の気持ちを押し殺していた。
エンデヴァーは、家族に自分の理想を求めていた。
一つの家に暮らしながら、それぞれが別のものを望み、別の苦しみを抱えていた。
それでも、家族という一つの言葉で、すべてがまとまっているように振る舞っていた。
燈矢は、目を伏せた。
「……俺は、帰ってくれば、何か変わると思ってたのかもしれねえ」
焦凍は、黙って聞いていた。
「父さんが、俺を見てくれる。母さんが、俺を迎えてくれる。冬美や夏雄が、昔みたいに話してくれる。お前が、俺の弟として、そばにいてくれる」
燈矢は苦笑した。
「……そうなってほしいと思っていたのかもしれない。いや、そうなると思いたかったんだろうな」
「……うん」
「でも、そんなわけねえよな。俺がいなかった時間は、消えねえんだから」
焦凍は頷いた。
「……ああ」
燈矢は庭を見た。
「……じゃあ、俺は、どうすればいいんだろうな」
焦凍は、すぐには答えなかった。
その問いに答えることができるのは、燈矢自身だけだった。
ただ、焦凍は一つだけ伝えたかった。
「……昔の家族に戻ろうとしなくてもいいんじゃないか」
燈矢が顔を上げた。
「……何?」
「俺たちは、昔のままじゃない。兄さんも、俺も、みんな変わった。だったら、昔と同じ家族に戻ろうとするんじゃなくて、これから、どんな関係になるのかを考えればいいと思う」
燈矢は弟を見つめた。
焦凍は続けた。
「家族でいたいかどうかも、どう関わりたいかも、それぞれが考えていいんだと思う」
燈矢は、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「……お前は、本当に、俺とは違うことを考えるな」
「……そうだな」
「俺は、ずっと、家族が俺をどう思っているかばかり気にしてた」
燈矢は、ゆっくりと続けた。
「俺が、まだ家族の一員だと思われているのか。俺が、戻ってきたことを喜んでくれるのか。俺が、ここにいていいのか」
焦凍は、何も言わなかった。
「でも、俺がここにいたいかどうかなんて、考えたことがなかったのかもしれねえな」
燈矢は、自分の手を見た。
「……俺は、ここに帰りたかった。でも、昔と同じ場所に戻りたかったのか、それとも、家族に、俺が帰ってきたことを認めてほしかったのか……まだ、よく分からねえ」
焦凍は、静かに頷いた。
「……分からないなら、これから考えればいいと思う」
燈矢は苦笑した。
「またそれかよ」
「ああ」
「……本当に、面倒くせえ弟だ」
そう言いながら、燈矢は立ち上がった。
「……ちょっと、外を歩いてくる」
「分かった」
焦凍は、兄を引き止めなかった。
燈矢が自分の意思で歩き出す姿を、ただ見送った。
兄が、これから何を望むのか。
その答えは、まだ分からない。
けれど、答えが出るまで、兄の人生を代わりに決める必要はない。
焦凍は、もう一度、庭を見た。
過去は変わらない。
だが、これから何を選ぶかは、まだ決まっていない。
そして、その選択を、家族全員で同じものにする必要もないのだった。
2 父親に戻れない男
エンデヴァーは、執務室で書類を読んでいた。
以前の自分なら、朝から晩まで仕事をしていただろう。
身体を鍛え、任務をこなし、次の目標を定める。
何をすべきか。
どうすれば結果を出せるか。
何を成し遂げれば、自分は認められるのか。
その答えを追い続けてきた。
その姿勢は、ヒーローとしての自分を支えた。
同時に、家族を追い詰める原因にもなった。
今、書類の上には、これから取り組まなければならない責任が並んでいる。
過去の行為について、説明しなければならないこと。
関係者に対して、誠実に向き合わなければならないこと。
自分の行いによって生じた問題を、他者に押しつけずに引き受けなければならないこと。
それらは、家族から許されるための手段ではなかった。
自分がしたことに対し、当然、果たさなければならない責任だった。
エンデヴァーは、ペンを置いた。
目の前の書類から視線を上げる。
自分は、父親として、何を間違えたのだろう。
答えは、一つではない。
燈矢を、能力だけで評価した。
息子の願いを、父親の夢と結びつけた。
自分が成し遂げられなかった未来を、子どもたちに求めた。
妻の意思を軽視した。
子どもたちが、それぞれ何を感じているのか、十分に聞こうとしなかった。
その結果、家族のなかで、自分の望みを口にすることが怖い者たちを生み出した。
自分が強くなることだけを考えていたころ、エンデヴァーは、自分の行動に意味があると信じていた。
ヒーローとして強くなる。
社会に貢献する。
人々を守る。
そのために努力し、成果を出す。
それ自体は、間違いではなかったのかもしれない。
だが、自分が正しい目的を掲げていたからといって、家庭のなかで何をしても許されるわけではなかった。
社会に貢献したことは、妻への責任を帳消しにしない。
多くの人々を救ったことは、子どもたちを傷つけた事実を消さない。
そして、家族から許されたいと願うことは、家族に許す義務を与えない。
エンデヴァーは、自分の拳を見た。
この手で、何人もの人を救ってきた。
しかし、家庭のなかでは、同じ手が、家族を脅かす力にもなった。
自分は、ヒーローだった。
そして、家族を傷つけた父親でもあった。
その二つは、どちらか片方を選べば済むものではない。
自分が善いことをしたからといって、悪かったことがなくなるわけではない。
自分が罪を犯したからといって、これまでのすべてが無意味になるわけでもない。
ただ、自分が何をしたのかを、正しく認める必要があった。
エンデヴァーは、立ち上がった。
息子に謝罪したいと思う。
妻に、自分が何をしてきたのかを認めたいと思う。
家族と、これからどう関わっていくのかを考えたいと思う。
だが、そのどれもが、自分の望む結末を得るための行動であってはならなかった。
燈矢が許さないなら、許されないまま責任を取る。
焦凍が距離を取りたいなら、その意思を尊重する。
冷が、自分の時間を生きたいと望むなら、その選択を邪魔しない。
冬美が、家族を支える役目から離れるなら、それを責めない。
夏雄が、自分と話すことを拒むなら、無理に話をさせない。
家族が、自分の望む関係にならないとしても。
エンデヴァーは、それを受け入れなければならなかった。
父親として、もう一度家族に認められるために。
その目的だけを、自分の責任の中心に置いてはいけない。
自分がしたことの責任を取ること。
それは、許されるための取引ではない。
エンデヴァーは、書類を整えた。
そして、執務室を出た。
廊下の向こうで、冷とすれ違う。
「……冷」
妻は足を止めた。
「何?」
エンデヴァーは、少しだけ言葉に迷った。
「……今後のことについて、話したいと思っている」
冷は、夫を見つめた。
「今、話したいの?」
「……いや。お前が、話したいと思うときでいい」
冷は、少し考えた。
「……分かったわ。今は、まだ、決められないけれど」
「……ああ」
「話したくないわけではないの。ただ、私にも考える時間が必要なの」
エンデヴァーは、頷いた。
「……分かっている」
冷は、夫を見た。
「本当に?」
エンデヴァーは、わずかに目を伏せた。
「……分かっているつもりだ。だが、これからも、何度も確認しなければならないのだろう」
冷は、静かに頷いた。
「……そうね」
二人は、それ以上、何も言わなかった。
かつてなら、この沈黙を、冷は埋めようとしていたかもしれない。
何か話題を探し、夫の気持ちを確かめ、家庭の空気が悪くならないように努めたかもしれない。
だが、今は、沈黙を沈黙のままにしておいた。
まだ、話す準備ができていない。
それだけのことだった。
エンデヴァーは、妻が去っていく姿を見送った。
そして、自分も歩き始めた。
家族の時間は、家族それぞれのものだった。
自分の都合で、誰かの時間を早めることはできない。
それを尊重することも、父親として学び直すべきことだった。
3 冬美は、今日は休む
午後、冬美は台所で一人、湯を沸かしていた。
何をするわけでもなく、湯が沸く音を聞いている。
以前なら、家族がどう過ごしているのか、常に気にしていた。
燈矢は部屋にいるのだろうか。
焦凍は、兄と話ができているのだろうか。
夏雄は、家族との距離をどう感じているのだろう。
母は、何かを我慢していないだろうか。
父は、今度こそ、家族の気持ちを理解しようとしているのだろうか。
考え始めれば、いくらでも気になることがあった。
しかし、今日は、そうしたことを考えるのを、少しだけ休むことにした。
冬美は、自分のために紅茶を淹れた。
お気に入りのカップを出す。
砂糖を入れるか、入れないか。
それだけのことを、自分で決める。
家族の誰かが飲むものではない。
家族の誰かが望んだものでもない。
自分が飲みたいものを、自分で選ぶ。
冬美は、カップを手に取り、窓のそばへ座った。
湯気が、ゆっくりと立ち上る。
その光景を見ているうちに、ふと、自分が長いあいだ、家族のために何かをしていなければならないと思っていたことに気づいた。
家族の誰かが苦しんでいるなら、何かをしなければならない。
家族の誰かが怒っているなら、間に入らなければならない。
家族が離れそうになったら、つなぎ止めなければならない。
それが、家族を大切にするということだと思っていた。
でも、誰かが苦しんでいるときに、必ず自分が何かをしなければならないわけではない。
誰かが怒っているとき、必ず自分が仲裁しなければならないわけでもない。
誰かが離れようとしているとき、必ず引き止めなければならないわけでもない。
人は、自分自身の感情を、自分で受け止めなければならないことがある。
その手助けをすることはできる。
話を聞くこともできる。
けれど、その人の人生を、代わりに生きることはできない。
冬美は、紅茶を一口飲んだ。
温かい。
それだけのことが、嬉しかった。
「……今日は、これでいいかな」
小さく呟く。
そのとき、台所のほうから足音がした。
夏雄だった。
「……姉ちゃん、ここにいたのか」
「うん」
「何してんの?」
冬美は、自分のカップを見た。
「お茶を飲んでる」
「……見りゃ分かるだろ」
「そうだね」
冬美が笑うと、夏雄も少しだけ笑った。
彼は、冷蔵庫から飲み物を取り出し、向かいの椅子に座った。
「……姉ちゃん、最近、少し休んでるよな」
冬美は、カップを持ったまま頷いた。
「うん。少しね」
「……そのほうがいいと思う」
冬美は、弟を見た。
夏雄は、少し気まずそうに視線を逸らした。
「いや、今までが悪かったって話じゃないけどさ。……姉ちゃん、ずっと家族のことばっかり考えてたから」
冬美は、目を伏せた。
「……そうだね」
「俺も、何かあったら姉ちゃんに相談すればいいと思ってたところがある。姉ちゃんが、何とかしてくれるんじゃないかって」
夏雄は、苦笑した。
「……勝手だよな」
冬美は、首を横に振った。
「そんなことないよ。私も、そうしたかったから」
「……でも、疲れたんだろ?」
冬美は、少しだけ考えた。
「うん。疲れた」
今度は、笑ってごまかさなかった。
「でも、家族のことが嫌いになったわけじゃないよ。みんなが大切なのは、変わらない。ただ、私が頑張れば、全部うまくいくわけじゃないって、やっと分かってきたの」
夏雄は、黙って聞いていた。
冬美は続けた。
「燈矢お兄ちゃんが何を望むかは、燈矢お兄ちゃんが決めることだし、焦凍がどうしたいかは、焦凍が決めること。夏雄が、家族とどう関わりたいかも、夏雄が決めることだよね」
「……ああ」
「それなのに、私は、みんながどうしたら同じ場所に立てるかばかり考えてた」
冬美は、自分の手を見た。
「……みんなが同じ答えを出さなくても、いいんだよね」
夏雄は、少しだけ笑った。
「……母さんにも、同じこと言われたんだろ?」
冬美は、驚いたように顔を上げた。
「何で分かったの?」
「何となく」
夏雄は肩をすくめた。
「……俺も、そう思うから」
冬美は、弟を見つめた。
夏雄は、少し照れくさそうに飲み物を口にした。
「俺は、まだ、燈矢兄さんと話すのは無理だけどさ。……いつか話したいと思うかもしれない。今は、まだ、分からないけど」
「……うん」
「だから、今は、それでいいんだと思う」
冬美は、ゆっくり頷いた。
「……そうだね」
二人は、しばらく同じ部屋で、別々に飲み物を飲んでいた。
何かを解決する話し合いではなかった。
家族のために、何かを決める時間でもなかった。
ただ、姉と弟が、自分自身の気持ちを口にする時間だった。
冬美は、カップを置いた。
「……夏雄」
「何?」
「ありがとう」
夏雄は、眉を寄せた。
「……何が?」
「私が休んでいても、いいって思ってくれたこと」
夏雄は、少しだけ顔を逸らした。
「……別に、そんな大したことじゃないだろ」
冬美は、微笑んだ。
「ううん。私には、嬉しかったよ」
夏雄は、何も言わなかった。
それから、しばらくして、立ち上がった。
「……俺、少し出かけてくる」
「うん。気をつけてね」
「……ああ」
夏雄は、台所を出た。
冬美は、弟の背中を見送った。
そして、もう一度、カップを手に取った。
家族のために、何かをしなければならない。
その思いを、完全に手放せるわけではない。
けれど、少しずつ、自分自身の時間を持つことはできる。
冬美は、窓の外を見た。
今日という一日が、静かに流れていく。
家族が、全員同じ気持ちでなくても。
誰かが、誰かと話をしなくても。
それでも、一日を過ごすことはできる。
そのことを、冬美は少しずつ、身体で覚え始めていた。
4 母の隣で、母親にならない
冷は、庭のベンチに座っていた。
手元には、読みかけの本がある。
風が吹くたび、ページの端が揺れる。
冷は、ページを押さえながら、静かに文字を追っていた。
そのとき、焦凍が庭へ出てきた。
「……母さん」
冷は顔を上げた。
「焦凍。どうしたの?」
「……少し、話してもいいか?」
冷は、微笑んだ。
「もちろんよ」
焦凍は、母親の隣に座った。
しばらく、二人は何も話さなかった。
やがて、焦凍が口を開いた。
「……俺、兄さんと話して、少しだけ分かった気がする」
冷は、静かに頷いた。
「……何が?」
「兄さんが、どうして俺を羨ましいと思ってたのか。どうして、俺のことを憎んでいたのか」
焦凍は、自分の手を見つめた。
「俺は、父さんの期待を押しつけられていたことばかり考えてた。でも、兄さんは、父さんの期待を、愛されるためのものだと思ってたんだと思う」
冷は、目を伏せた。
焦凍は続けた。
「俺は、父さんの望みを拒むことで、自分の人生を守ろうとしてた。兄さんは、父さんの望みに応えることで、自分の価値を証明しようとしてた」
彼は、息を吐いた。
「……同じ父さんのもとで育ったのに、全然違うことを考えてたんだな」
冷は、静かに答えた。
「……そうね」
「でも、兄さんが父さんに愛されたかったことは、俺にも、少し分かる気がした」
冷は、息子を見た。
焦凍は、続けた。
「俺だって、父さんに認められたかった時期があったのかもしれない。認められたいというより、父さんに、自分が何を感じているのか、知ってほしかったんだと思う」
冷は、何も言わなかった。
「……でも、兄さんは、父さんに認められることが、自分の価値だと思うようになってしまった。だから、認められなかったとき、自分が何者でもないように感じたんだと思う」
焦凍は、顔を上げた。
「俺は、兄さんが苦しんでいたことを、なかったことにしたくない。……でも、兄さんがしたことも、なかったことにはできない」
冷は、ゆっくり頷いた。
「……ええ」
「その二つを、どっちか一つだけにすることは、できないんだと思う」
冷は、息子の横顔を見つめた。
「……焦凍。あなたは、どうしたいの?」
焦凍は、少しだけ考えた。
「……兄さんと、これからも話したいと思ってる」
「ええ」
「でも、兄さんが、これからどう生きるかまで、俺が決めたいわけじゃない」
冷は頷いた。
「……そうね」
「兄さんが、父さんを許すかどうかも、俺には決められない。兄さんが、自分の罪をどう償うのかも、兄さんが考えなきゃいけないことだと思う」
焦凍は、少しだけ目を伏せた。
「俺は、兄さんを救いたいと思ってる。でも、俺が兄さんを救えるかどうかは、分からない」
冷は、静かに聞いていた。
「……俺が、兄さんのために何かをすることと、兄さんの人生を代わりに生きることは、違うんだと思う」
冷は、息子の手にそっと触れた。
「……そうね」
焦凍は、母親を見た。
「……母さんも、そう思ってる?」
冷は、少しだけ微笑んだ。
「ええ。私は、今まで、あなたたちのために何かをすることが、母親の務めだと思ってきた。でも、あなたたちの人生を、代わりに生きることはできないのよね」
冷は、自分の手を見た。
「私は、あなたたちが苦しんでいると、何かしてあげたいと思う。あなたたちが悲しんでいると、慰めたいと思う。あなたたちが、家族と離れようとしていると、引き止めたいと思うこともある」
焦凍は、黙って聞いていた。
「でも、それが、必ずしも、あなたたちのためになるとは限らないのよね」
冷は、息を吐いた。
「私が、あなたたちを大切に思っていることは、本当よ。でも、その気持ちを理由に、あなたたちの意思を無視してはいけないのだと思う」
焦凍は、ゆっくり頷いた。
「……ああ」
冷は、少しだけ笑った。
「……あなたも、私と話してくれて、ありがとう」
焦凍は、驚いたように顔を上げた。
「……何で?」
「あなたが、自分の気持ちを話してくれたから。私に、何を感じているのか。何を考えているのか。……そのことを、聞かせてくれたから」
冷は、続けた。
「私は、あなたが私をどう思っているのか、怖くて聞けないこともあった。あなたを傷つけたことを、忘れたことはないから」
焦凍は、母親を見た。
「……俺は、母さんを許せるかどうか、まだ分からない」
冷は頷いた。
「……ええ」
「でも、母さんと話すことは、やめたくないと思ってる」
冷の目に、涙が浮かんだ。
「……ありがとう」
焦凍は、母親の手を握った。
「……母さん」
「何?」
「俺は、母さんのことを、全部許すって約束はできない。でも、母さんが、自分の人生を生きたいと思ってることは、応援したいと思う」
冷は、目を見開いた。
焦凍は、続けた。
「母さんが、家族のために全部を引き受けなくてもいいと思う。母さんが、自分のために何かをしたいなら、そうしていいと思う」
冷は、涙を拭った。
そして、ゆっくり頷いた。
「……ありがとう、焦凍」
二人は、しばらく手を握ったままでいた。
母親だから、子どもを救わなければならない。
子どもだから、母親を許さなければならない。
そんな決まりは、ない。
互いを大切に思いながら、それぞれの人生を生きることはできる。
冷は、そのことを、少しずつ、信じられるようになっていた。
焦凍もまた、母親を許していない自分と、母親を大切に思う自分を、無理に一つにまとめる必要がないと感じていた。
それぞれの感情は、矛盾しているようでいて、どちらも自分の本当の気持ちだった。
だからこそ、無理に一つにしなくてもいい。
二人は、そのまま、しばらく庭を眺めていた。
5 兄と弟の距離
その日の夕方、燈矢は、焦凍に声をかけた。
「……焦凍」
「何だ?」
「少し、付き合え」
「……どこへ?」
「外」
それ以上、説明しようとしない兄を見て、焦凍は少しだけ笑った。
「……分かった」
二人は、家を出た。
行き先は、特に決まっていなかった。
ただ、家の中にいるより、外を歩いていたかった。
燈矢は、街を眺めながら歩いていた。
人々が行き交う。
店が開いている。
車が走っている。
何でもない日常が、そこにあった。
「……世界って、普通に動いてんだな」
燈矢が呟いた。
焦凍は、隣で頷いた。
「ああ」
「俺が、何をしてきたかなんて、知らない奴も、たくさんいるんだろうな」
「ああ」
「俺が、何を失ったと思ってたかなんて、知らない奴も、たくさんいる」
「……そうだな」
燈矢は、苦笑した。
「……当たり前だよな。俺の人生なんだから」
焦凍は、兄を見た。
燈矢は、続けた。
「俺は、ずっと、父さんが俺をどう思ってるかばかり考えてた。父さんに認められたい。父さんに愛されたい。父さんに振り向いてほしい。……そのことばかり考えてた」
彼は、街の向こうを見た。
「でも、父さんが、俺をどう思っているかとは関係なく、世界は動いてるんだな」
焦凍は、静かに頷いた。
「……ああ」
「俺が、父さんを憎んでいても、誰も知らない。俺が、父さんに愛されたかったことも、誰も知らない。……俺が、どれだけ苦しんできたかも、誰も知らない」
燈矢は、少しだけ笑った。
「……それでも、俺は、ここにいるんだな」
焦凍は、兄の横顔を見つめた。
「……ああ」
燈矢は、しばらく歩いていた。
やがて、足を止めた。
「……焦凍」
「何だ?」
「俺は、まだ、お前に嫉妬してる」
焦凍は、頷いた。
「……うん」
「お前が、自分の人生を選ぼうとしてることが羨ましい。お前が、父さんへの怒りだけで生きないと決めたことが、羨ましい」
燈矢は、苦笑した。
「……でも、俺が羨ましいと思ってることを、お前のせいにはしない」
焦凍は、兄を見つめた。
燈矢は、続けた。
「俺は、これからも、嫉妬するかもしれない。お前が、俺にはできなかったことをしているのを見て、腹が立つこともあると思う」
「……ああ」
「でも、そのたびに、お前を憎むことだけを選ぶのは、もうやめたいと思ってる」
焦凍は、深く息を吐いた。
「……うん」
燈矢は、少しだけ顔を逸らした。
「……俺は、お前に、何かを受け継いでほしいと思ってたのかもしれねえ」
焦凍は、黙って聞いていた。
「俺が、父さんに愛されたかったこと。俺が、父さんに認められたかったこと。……その気持ちを、お前にも分かってほしかった」
燈矢は、ゆっくりと続けた。
「でも、分かってほしいと思うことと、同じように怒ってほしいと思うことは、違うんだな」
焦凍は、頷いた。
「ああ」
「……俺は、まだ、全部は分かってねえけどな」
「……俺も、全部は分からない」
燈矢は、笑った。
「……お前、本当にそればっかりだな」
「……でも、嘘をつきたくないから」
「……ああ。そうだったな」
二人は、再び歩き始めた。
しばらくして、燈矢が尋ねた。
「……お前は、俺がこれからどうなっていくと思う?」
焦凍は、少し考えた。
「……分からない」
燈矢は、苦笑した。
「……だろうな」
焦凍は、続けた。
「でも、兄さんが、自分で考え続けるなら、その先に何かを見つけることはできると思う」
燈矢は、弟を見た。
「……何を?」
「それは、兄さんが決めることだ」
燈矢は、目を細めた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……そうだな」
焦凍は、兄と並んで歩いた。
二人の道は、同じではない。
燈矢は、まだ父親への怒りを抱えている。
焦凍も、父親を許していない。
それでも、二人は、互いの人生を、相手の苦しみだけで決めないと選んだ。
兄は、弟に同じ怒りを受け継がせないと決めた。
弟は、兄の苦しみを否定せず、自分自身の未来を選ぶと決めた。
その選択は、互いを救う保証にはならない。
だが、少なくとも、互いの人生を、同じ傷のなかへ閉じ込めることはしない。
それが、今の二人にできることだった。
6 家族会議ではない
夜、轟家のリビングには、家族が集まっていた。
誰かが、全員を集めようとしたわけではなかった。
冬美が夕食を用意し、冷が食卓へ向かい、焦凍が席についた。
夏雄も、今日は家にいた。
エンデヴァーは、少し離れた場所に座っていた。
燈矢は、しばらくしてから、部屋を出てきた。
誰も、彼が来ることを強制していない。
燈矢自身が、食事をしようと思ったから、ここに来たのだった。
「……お邪魔するぜ」
燈矢が言うと、夏雄が思わず顔をしかめた。
「……お前の家だろ」
燈矢は、少しだけ目を見開いた。
それから、苦笑した。
「……そうだったな」
夏雄は、すぐに顔を逸らした。
「……いや、別に。そういう意味じゃねえよ」
「分かってる」
燈矢は、空いている椅子に座った。
そこは、かつての自分の席ではなかった。
誰かが、意図して席を変えたのかもしれない。
あるいは、単に、都合のいい場所がそこだっただけかもしれない。
燈矢は、何も尋ねなかった。
自分の席がどこにあるのか。
自分が、家族のなかで、どのような場所にいるのか。
それを、今すぐに確かめる必要はないと思った。
食卓には、料理が並んでいた。
冬美が用意したものだった。
誰も、家族が全員揃ったことを祝わなかった。
誰も、これで元通りだとは言わなかった。
ただ、食事を始めた。
最初は、会話がなかった。
箸の音。
食器の触れ合う音。
湯気の立つ料理。
そうした音だけが、部屋に広がっていた。
やがて、夏雄が、ぽつりと口を開いた。
「……今日、外に出てたのか?」
燈矢が顔を上げた。
「……ああ」
「焦凍と?」
「ああ」
夏雄は、少しだけ眉を寄せた。
「……何を話してたんだ?」
燈矢は、少し考えた。
「……いろいろだ」
「……そうか」
夏雄は、それ以上、聞かなかった。
燈矢も、無理に説明しなかった。
以前なら、その沈黙は、互いの距離を示すものだったかもしれない。
今も、距離はある。
だが、相手が話したくないことを、無理に聞き出さないという選択もできる。
そのことを、少しずつ、家族は覚え始めていた。
食事が進む。
冬美が、冷に話しかけた。
「お母さん、明日、買い物に行くの?」
冷は、少しだけ驚いたように顔を上げた。
「ええ。少し、出かけようと思っているの」
「何か必要なものがあるの?」
「いいえ。特にないわ。ただ、少し歩きたいの」
冬美は、微笑んだ。
「……そう。楽しんできてね」
冷は、娘を見つめた。
「ありがとう」
その会話は、短いものだった。
けれど、冷は、自分の予定を家族に伝えながら、誰かに許可を求めているわけではなかった。
自分が行きたいから、行く。
それだけだった。
焦凍は、その様子を見て、少しだけ笑った。
夏雄も、何かを言おうとして、やめた。
エンデヴァーは、家族の会話を聞きながら、食事を続けていた。
燈矢は、箸を持ったまま、しばらく考え込んでいた。
家族が同じ場所にいる。
その事実は、確かに嬉しかった。
しかし、誰かが自分に、昔のように話しかけてくれることを期待してはいけない。
自分が、家族の一員だからといって、全員が自分を受け入れなければならないわけではない。
自分が帰ってきたことを喜んでほしいという願いは、自分の気持ちだ。
その気持ちを、無理に捨てる必要はない。
けれど、家族に、その願いを叶える義務を負わせることもできない。
燈矢は、料理を一口食べた。
味は、普通だった。
どこか懐かしいような気もした。
ただ、昔と同じ味かどうかは、分からなかった。
自分の記憶のなかの食卓と、今、目の前にある食卓は、同じではない。
それでも、今、ここにいることは、確かだった。
「……燈矢お兄ちゃん」
冬美が、声をかけた。
燈矢は顔を上げた。
「……何だ?」
「……これ、食べる?」
冬美が、小皿を差し出した。
特別な意味のある料理ではなかった。
ただ、まだ皿に残っていたものを、勧めただけだった。
燈矢は、その皿を見た。
そして、小さく頷いた。
「……ああ。もらう」
冬美は、皿を置いた。
そのとき、夏雄が小さく呟いた。
「……姉ちゃん、食べすぎると、また余るぞ」
「えっ、何でよ。今日はみんな食べるでしょ?」
「いや、兄貴がそんなに食うとは限らないだろ」
燈矢が顔を上げた。
「……俺が食うかどうかまで、お前が決めんなよ」
夏雄は、目を細めた。
「……何だよ。食うのか?」
「……食うよ」
「じゃあ、最初からそう言えよ」
「……うるせえな」
そのやり取りに、焦凍が小さく笑った。
冬美も、笑った。
夏雄は、少し照れくさそうに、飲み物を口にした。
エンデヴァーは、その光景を見ていた。
かつてなら、この程度の会話を見ただけで、家族が元に戻り始めたと思ったかもしれない。
だが、今は、そうは思わなかった。
燈矢が、夏雄と冗談を交わしたからといって、兄弟の問題が解決したわけではない。
冬美が、燈矢に料理を勧めたからといって、過去の傷が消えたわけでもない。
焦凍が笑ったからといって、家族がすべてを許したわけではない。
ただ、その瞬間、家族は一緒に食事をしていた。
その事実を、無理に大きな意味へ変える必要はなかった。
エンデヴァーは、ゆっくりと箸を置いた。
自分が、この家族に何を望んでいたのか。
家族が、仲良く暮らすこと。
子どもたちが、自分の理想に近づくこと。
妻が、自分を支えること。
自分が、家族のなかで、正しい父親であること。
その願いは、すべて、同じではなかった。
家族が仲良く暮らすことを望むのは、悪いことではない。
しかし、そのために、誰かが自分の気持ちを押し殺さなければならないのなら。
その家族の形は、本当に、望むべきものなのだろうか。
エンデヴァーは、食卓を見つめた。
燈矢は、今も、彼を許していない。
焦凍も、彼を許していない。
冷も、まだ、許すかどうかを決めていない。
冬美と夏雄も、それぞれ違う距離を取ろうとしている。
それでも、家族が、同じ場所にいることはできる。
同じ答えを出さなくても。
同じ気持ちにならなくても。
誰かが、誰かを許さなくても。
エンデヴァーは、静かに息を吐いた。
家族を、一つの正解にまとめようとすること。
それは、かつて自分が、何度も繰り返してきたことだった。
もう、同じことはしない。
そう決めたからといって、明日から正しく振る舞えるとは限らない。
それでも、何度も選び直すことはできる。
家族が、それぞれの意思で生きることを、尊重する。
そのことを、自分自身の責任として、続けていく。
それが、今のエンデヴァーにできることだった。
7 完全な和解という嘘
食事が終わったあと、燈矢は、一人で庭に出た。
夜風が、頬を撫でる。
家のなかから、食器を片づける音が聞こえた。
冬美が、冷に何かを話している。
夏雄が、焦凍に声をかけている。
エンデヴァーの足音も、廊下の向こうに聞こえた。
それぞれが、自分の時間を過ごしている。
燈矢は、その音を聞きながら、しばらく立っていた。
自分は、家族に戻ってきた。
そう思いたかった。
だが、正確には、戻ってきたのではないのかもしれない。
自分がいなかった時間を経て、家族は変わった。
自分も、変わった。
今、ここにいるのは、かつての轟家ではない。
過去の延長線上にある、別の家族だった。
燈矢は、庭の木々を見上げた。
「……家族だから、か」
その言葉を、口のなかで繰り返した。
家族だから、許さなければならない。
家族だから、理解しなければならない。
家族だから、そばにいなければならない。
家族だから、同じ答えを出さなければならない。
それらの言葉は、どれも、どこかで聞いたことがあるような気がした。
そして、自分も、どこかで、それを望んでいたのかもしれなかった。
自分が帰ってきたのだから。
自分が、家族の一員なのだから。
家族は、自分を迎え入れてくれるべきだ。
家族は、自分を理解してくれるべきだ。
家族は、自分の苦しみを知ってくれるべきだ。
そう願っていた。
それは、人間として自然な願いだったのかもしれない。
けれど、その願いを、家族が必ず叶えなければならないと決めることは、できない。
燈矢は、目を閉じた。
自分は、父親に愛されたかった。
それは、本当だ。
自分が苦しかったことも、本当だ。
その苦しみを、誰かに分かってほしいと願うことも、間違いではない。
しかし、家族だからといって、全員が同じ感情を持つ必要はない。
家族だからといって、同じ結論にたどり着く必要もない。
自分が、許されたいと願ったとしても、家族には、許さないという選択がある。
自分が、そばにいてほしいと思ったとしても、家族には、距離を取るという選択がある。
そのことは、残酷だった。
そして、同時に、自分が今まで、どれほど相手の選択を見ていなかったのかを示していた。
燈矢は、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺は、まだ、許されたいんだろうな」
自分が、何をしたのかを認めたい。
自分の罪と向き合いたい。
そう思っている。
それでも、どこかで、誰かに許されたいと願っている。
父親に。
母親に。
弟たちに。
自分が、まだ家族の一員だと認めてほしい。
その願いは、今も消えていない。
燈矢は、その願いを、恥ずかしいものとして切り捨てなかった。
許されたいと思うことは、自然なことかもしれない。
ただし、許されたいからといって、相手に許しを要求することはできない。
誰かに理解してほしいからといって、相手が理解しなければならないわけではない。
自分が家族を求めているからといって、家族が、自分の望む距離で関わらなければならないわけでもない。
その違いを、燈矢は、ようやく理解し始めていた。
家族だからこそ、相手に期待する。
家族だからこそ、失望する。
家族だからこそ、許せないことがある。
そして、家族だからこそ、関係は、簡単には終わらない。
それは、必ず一緒にいなければならないという意味ではない。
許し続けなければならないという意味でもない。
ただ、過去に生まれた感情や、傷つけた事実や、愛されたかった願いが、簡単に消えるわけではないということだった。
燈矢は、家の明かりを見た。
「……俺は、まだ、ここにいていいのか分からねえ」
そう呟いたあと、少しだけ笑った。
「……でも、俺がここにいたいかどうかは、考えてもいいんだな」
その言葉は、誰かに聞かせるためのものではなかった。
自分自身に、確かめるための言葉だった。
家族に、自分がどう思われているか。
家族が、自分をどう受け止めるか。
そのことばかり考えていた。
だが、今は、自分がどうしたいのかを考え始めている。
家族と関わりたい。
その願いが、今もある。
けれど、昔と同じ家族に戻りたいわけではない。
昔と同じ自分に戻りたいわけでもない。
ただ、これから、自分がどう生きていくのか。
家族と、どんな関係を築いていきたいのか。
その答えを、自分で選びたい。
燈矢は、庭から家のなかへ戻った。
扉を開ける。
その瞬間、誰かが自分を待っているわけではなかった。
それでも、家のなかには、家族がいた。
燈矢は、誰にも声をかけず、廊下を歩いた。
自分の部屋へ戻る。
その部屋は、かつての自分の部屋ではない。
だが、今、自分が使っている部屋だった。
燈矢は、椅子に腰かけた。
机の上には、あの日、自分が書いた紙が置いてある。
「俺は、何を望む?」
燈矢は、その文字を見つめた。
まだ、答えは出ていない。
父親を許すのか。
母親と、どんな関係になるのか。
弟たちと、どう向き合うのか。
自分の罪を、どう償うのか。
そして、自分自身の人生を、これからどう生きるのか。
どれも、簡単には答えられない。
それでも、答えを急ぐ必要はない。
自分が、何を望むのかを考える時間は、まだ残されている。
燈矢は、紙を引き出しにしまった。
その問いを、忘れないために。
そして、いつか、自分自身の言葉で答えるために。
8 母は、家族を選べない
翌朝、冷は、一人で出かける支度をしていた。
玄関で靴を履いていると、焦凍が通りかかった。
「……母さん、出かけるのか?」
「ええ。少し散歩をしてくるわ」
「……そうか」
焦凍は、母親の顔を見た。
「……気をつけて」
冷は、微笑んだ。
「ありがとう」
それだけだった。
焦凍は、母親を引き止めなかった。
どこへ行くのか。
何をするのか。
誰と会うのか。
詳しく聞く必要はないと思った。
冷は、自分の時間を持とうとしている。
その選択を、尊重したかった。
玄関の扉が閉まる。
焦凍は、その音を聞きながら、自分の胸の奥に、少しだけ寂しさが生まれるのを感じた。
母親が、家族のためだけに生きなくなる。
そのことは、正しいと思う。
けれど、自分が、母親に何かをしてもらうことを期待していたのも、事実だった。
母親が、いつも家にいてくれること。
家族のことを、気にかけてくれること。
自分が、何かを話したときに、聞いてくれること。
そうしたものを、当たり前のように望んでいた。
けれど、母親にも、自分自身の人生がある。
その人生を、家族のためだけに使い続ける必要はない。
焦凍は、ゆっくり息を吐いた。
家族だからこそ、期待してしまう。
そして、その期待を、当たり前の権利だと思ってしまうことがある。
母親だから。
父親だから。
兄弟だから。
家族だから。
そうした言葉は、相手を大切にする理由になる。
同時に、相手の意思を見失う理由にもなる。
焦凍は、リビングへ向かった。
冬美が、朝食の準備をしていた。
「……母さん、出かけたよ」
焦凍が言うと、冬美は頷いた。
「うん。聞いてる」
「……姉さんは、どうするんだ?」
冬美は、少しだけ考えた。
「私は、今日は、少し休もうと思ってる」
焦凍は、微笑んだ。
「……そうか」
「うん。家族のことを考えない時間も、必要だと思うから」
焦凍は、頷いた。
「……そうだな」
冬美は、焦凍を見た。
「焦凍は?」
「……俺は、兄さんと話すかもしれない」
「そう」
「でも、兄さんが話したくないなら、無理には話さない」
冬美は、微笑んだ。
「……うん。それがいいと思う」
焦凍は、食卓へ座った。
空いている席がある。
母親の席。
燈矢の席。
それぞれの席が、空いている。
だが、その空席を、誰かが無理に埋める必要はない。
家族が揃わないことは、失敗ではない。
誰かが、休むことも。
誰かが、距離を取ることも。
誰かが、まだ許せないことも。
そのすべてが、今の家族の現実だった。
そして、現実を受け止めることは、諦めることとは違う。
焦凍は、食事を始めた。
冬美も、向かいに座る。
二人は、しばらく静かに食事をしていた。
やがて、冬美が、ふと笑った。
「……ねえ、焦凍」
「何?」
「私、今朝、自分が何を食べたいのか、ちゃんと考えたんだ」
焦凍は、顔を上げた。
「……何を?」
「パン」
「……それで?」
「それだけ」
冬美は、笑った。
「でも、前だったら、みんなが何を食べるかばかり考えてたと思うの」
焦凍は、少しだけ目を見開いた。
冬美は、続けた。
「自分が食べたいものを、ちゃんと考える。そんなことから始めてもいいのかなって」
焦凍は、静かに頷いた。
「……いいと思う」
冬美は、微笑んだ。
「ありがとう」
その小さな会話を聞きながら、焦凍は、家族が変わり始めていることを感じた。
誰かが、劇的に変わったわけではない。
誰かが、すべてを許したわけでもない。
ただ、ほんの小さな選択を、自分の意思で決め始めている。
自分が何を食べたいのか。
自分が、今日は何をしたいのか。
誰と話したいのか。
誰と距離を取りたいのか。
そんなことを、一つずつ、自分で決める。
その小さな選択が、これからの人生を形作っていくのかもしれない。
焦凍は、窓の外を見た。
今日は、よく晴れていた。
その空の下で、家族は、それぞれの一日を始めようとしている。
同じ家にいても、別々の時間を過ごすことがある。
別々の答えを持つこともある。
それでも、家族であることを、すぐに否定する必要はない。
そして、家族であることを理由に、同じ答えを出す必要もない。
焦凍は、ゆっくり息を吐いた。
「……俺も、今日は、自分のために何かしようかな」
冬美が、笑った。
「いいんじゃない?」
焦凍も、少しだけ笑った。
「……そうだな」
二人は、それぞれの食事を続けた。
その時間は、特別なものではなかった。
けれど、その普通の時間のなかに、誰かの意思を尊重するという、小さな変化があった。
9 家族だからこそ、終わらない
夕方、燈矢は、もう一度、家族の前に立った。
今度は、何かを宣言するためではなかった。
ただ、一つだけ、伝えておきたいことがあった。
家族は、リビングにいた。
冷は、散歩から帰ってきたところだった。
冬美は、椅子に座って本を読んでいた。
夏雄は、ソファでスマートフォンを見ている。
焦凍は、窓辺に立っていた。
エンデヴァーも、部屋の隅にいた。
燈矢は、しばらく家族を見回した。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……俺は、まだ、みんなを許してねえことがある」
誰も、驚かなかった。
燈矢は続けた。
「父さんのことも、母さんのことも、お前たちのことも……まだ、どう受け止めればいいのか、分からねえ」
冷は、静かに聞いていた。
冬美は、本を閉じた。
夏雄も、スマートフォンを置いた。
焦凍は、兄を見つめていた。
「……でも、俺は、みんなに、俺と同じ答えを出してほしいとは思わない」
その言葉に、焦凍が顔を上げた。
燈矢は、続けた。
「俺は、ずっと、自分の苦しみを分かってほしいと思ってた。自分が、どれだけ傷ついていたのかを、知ってほしいと思ってた」
彼は、自分の手を見た。
「だから、俺は、誰かが自分と同じ気持ちを持ってくれれば、自分の苦しみを理解してもらえたと思える気がしてた」
燈矢は、顔を上げた。
「でも、誰かが、自分と同じ気持ちを持たなかったからって、その人が自分の苦しみを否定しているとは限らねえんだな」
焦凍は、ゆっくりと頷いた。
燈矢は、続けた。
「俺は、父さんを許せない。それは、俺の気持ちだ。俺が、これからどう生きるかも、俺が決めることだ」
彼は、家族を見回した。
「でも、俺が父さんを許せないからって、お前たちも父さんを許してはいけないわけじゃねえ。俺が、家族と話したいからって、お前たちが、俺と話さなきゃいけないわけでもねえ」
夏雄は、目を伏せた。
燈矢は、続けた。
「俺は、これからも、自分がしたことの責任を取る。自分が傷つけた人たちに対して、何ができるのか、考え続ける」
彼は、深く息を吐いた。
「それは、家族に許してもらうためじゃねえ。俺が、これから生きていくために、やらなきゃいけないことだと思うからだ」
エンデヴァーは、静かに頷いた。
燈矢は、父親を見た。
「……父さん」
「ああ」
「俺は、父さんを許せるかどうか、まだ分からねえ」
「ああ」
「でも、父さんが、これから責任を取ろうとしていることは、見ていくつもりだ」
エンデヴァーの目が揺れた。
燈矢は、すぐに付け加えた。
「……それが、許すって意味じゃねえからな」
「ああ。分かっている」
「……本当に?」
エンデヴァーは、少しだけ目を伏せた。
「……分かっているつもりだ。だが、まだ、完全に理解できているとは言えない」
燈矢は、しばらく父親を見ていた。
そして、少しだけ頷いた。
「……そうか」
それだけだった。
次に、燈矢は焦凍を見た。
「……焦凍」
「ああ」
「お前は、お前の人生を生きろ」
焦凍は、兄を見つめた。
燈矢は、続けた。
「俺は、まだ、お前が羨ましいと思う。お前が、俺とは違う生き方を選んでいることが羨ましい。俺が、選べなかったものを、お前が選んでいるように見えることもある」
彼は、少しだけ苦笑した。
「でも、そのことを、お前の罪にはしない」
焦凍は、静かに頷いた。
「……うん」
「……俺は、俺の人生を考える。お前は、お前の人生を考えろ」
「……ああ」
燈矢は、冬美を見た。
「……冬美」
「……何?」
「お前は、家族をつなごうとしなくていい。俺のために、何かをしようとしなくていい。……お前自身の人生を生きろ」
冬美は、涙を浮かべながら頷いた。
「……うん」
燈矢は、夏雄を見た。
「……夏雄」
夏雄は、顔を上げた。
「……何だよ」
「お前は、今、俺と話したくないなら、話さなくていい。いつか、話したいと思ったら、そのときに話せばいい。……俺が、兄貴だからって、お前が、俺を許す必要はねえ」
夏雄は、しばらく兄を見つめていた。
そして、短く頷いた。
「……分かった」
最後に、燈矢は冷を見た。
「……母さん」
冷は、息子を見つめた。
「……何?」
「俺は、母さんが、俺を守れなかったことを、今でも苦しいと思ってる。……でも、母さんが、自分の人生を生きたいと思っていることは、邪魔したくねえ」
冷の目から、涙がこぼれた。
「……燈矢」
「……俺は、母さんに、俺の苦しみを全部背負ってほしいわけじゃねえんだ」
燈矢は、顔を伏せた。
「俺は、ただ、俺が苦しんでいたことを、知ってほしかった。……それだけだったんだと思う」
冷は、ゆっくり頷いた。
「……ええ」
「……今になって、それが分かった」
燈矢は、家族を見回した。
「……俺は、まだ、みんなと、どう関わっていけばいいのか分からねえ。これから、家族として、どういう関係になっていくのかも分からねえ」
彼は、一度息を吸った。
「でも、俺は、誰か一人の答えを、家族全員の正解にしたくない」
その言葉が、部屋に響いた。
「俺が、父さんを許せないからって、お前たちも許せないわけじゃねえ。俺が、母さんと話したいからって、母さんが、俺と話さなきゃいけないわけでもねえ。焦凍が、俺とは違う人生を選ぶからって、俺が、それを裏切りだと決める必要もねえ」
燈矢は、ゆっくりと続けた。
「……俺は、俺の答えを探す。お前たちは、お前たちの答えを探せばいい」
誰も、すぐには何も言わなかった。
その沈黙は、これまでとは違うものだった。
家族の誰かが、何かを決めるまで、ほかの誰かが待たされる沈黙ではない。
誰かが、誰かの答えを、無理に変えようとする沈黙でもない。
ただ、燈矢の言葉を、全員がそれぞれの立場で受け止めるための沈黙だった。
やがて、冷が口を開いた。
「……そうね」
彼女は、微笑んだ。
「私たちは、それぞれ、自分の答えを探していけばいいのね」
冬美が、頷いた。
「……うん」
夏雄は、少しだけ目を逸らしながら答えた。
「……そうだな」
焦凍は、兄を見つめた。
「ああ」
エンデヴァーは、長いこと黙っていた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……俺も、自分の責任を取り続ける」
燈矢は、父親を見た。
「……それも、父さん自身が決めたことだな」
「ああ」
「……俺が許すかどうかとは、別なんだな」
エンデヴァーは、頷いた。
「……そうだ」
燈矢は、静かに息を吐いた。
その夜、轟家は、完全な和解を迎えたわけではなかった。
誰も、過去を許しきっていない。
誰も、失われた時間を取り戻していない。
燈矢は、父親への怒りを抱えている。
焦凍は、兄を救いたいと思いながら、兄の罪を代わりに背負うつもりはない。
冬美は、家族をつなぎたいという願いを持ちながら、もう自分を犠牲にし続けないと決めている。
夏雄は、兄との関係を、まだ、自分のなかで整理できていない。
冷は、家族を愛しながら、母親だからという理由だけで自分の人生を失わないと決めた。
エンデヴァーは、家族から許されることを期待せず、自分がしたことの責任を取り続けると決めた。
それぞれの答えは、違っていた。
それでも、その違いを、誰かの間違いだと決めつけないこと。
そのことだけは、家族全員が、少しずつ選び始めていた。
燈矢は、部屋へ戻る前に、家族を見回した。
「……じゃあ、俺は戻る」
誰も、引き止めなかった。
誰も、行かないでくれとは言わなかった。
それは、冷たいことではなかった。
燈矢が、自分の意思で部屋に戻ることを、家族が尊重していたのだ。
燈矢は、リビングを出た。
廊下を歩く。
自分の部屋へ向かう。
その背中を、焦凍は見送った。
兄は、まだ、苦しんでいる。
これからも、苦しむことがあるだろう。
父親への憎しみが、再び強くなることもある。
自分がしたことを考えて、立ち止まることもある。
弟を羨ましいと思い、怒りが湧き上がることもある。
それでも、兄は、自分の人生を考え始めている。
その歩みを、焦凍が代わりに進めることはできない。
ただ、兄が話をしたいと思ったとき、話を聞くことはできる。
必要なら、止めることもできる。
そして、自分自身も、自分の人生を選ぶ。
それが、焦凍の答えだった。
10 終わらないということ
夜、冷は、窓辺に置いた花を見ていた。
小さな白い花。
自分のために買った花だった。
誰かに贈るためでも、家族のためでもない。
ただ、自分が、きれいだと思ったから買った。
そのことを、冷は、少しだけ誇らしく思っていた。
家族は、今も、同じ家にいる。
けれど、同じ気持ちでいるわけではない。
燈矢は、父親を許していない。
焦凍は、兄を大切に思いながら、兄の怒りを受け継がないと決めた。
冬美は、家族をつなぐことだけを、自分の役割にしないと決めた。
夏雄は、兄と向き合うための時間を、もう少し必要としている。
エンデヴァーは、自分がしたことの責任を取り続けなければならない。
そして、自分自身も、まだ、これからどう生きていくのかを考えている。
冷は、花に触れた。
花びらは、薄く、柔らかかった。
この花が、いつまで咲いているのかは分からない。
明日には、萎れてしまうかもしれない。
しばらく、咲き続けるかもしれない。
それでも、今、この花は、ここにある。
冷は、その事実を、静かに受け止めた。
家族の関係も、同じなのかもしれない。
今、互いを大切に思っている。
それでも、ずっと同じ関係でいられるとは限らない。
誰かが、距離を取りたくなる日が来るかもしれない。
誰かが、もう一度、話をしたいと思う日が来るかもしれない。
誰かが、許せない気持ちを抱えたまま、別の人生を選ぶかもしれない。
そのどれもが、起こり得ることだった。
だからこそ、冷は、家族の未来を、一つの結末に決めつけないことにした。
家族が、必ず許し合う。
家族が、必ず同じ場所へ戻る。
家族が、必ず一緒に暮らし続ける。
そうした未来を、願うことはできる。
けれど、それを、全員が従わなければならない正解にしてはいけない。
冷は、ゆっくりと息を吐いた。
家族だからこそ、終わらない。
それは、苦しみが永遠に続くという意味ではない。
許せない気持ちが、永遠に変わらないという意味でもない。
ただ、家族の問題には、誰か一人が答えを出せば終わるようなものではないことがある。
誰かが謝罪しても、別の誰かには、まだ怒りが残る。
誰かが許しを決めても、別の誰かは、まだ許せない。
誰かが前へ進もうとしても、別の誰かは、まだ過去を振り返っている。
それぞれの時間がある。
それぞれの傷がある。
それぞれの望みがある。
そして、それぞれの答えがある。
家族だからこそ、その違いを、簡単には割り切れない。
それでも、違う答えを持ったまま、同じ家で暮らすことはできるかもしれない。
距離を取りながら、必要なときに話すこともできるかもしれない。
互いを許せないままでも、互いの存在を認めることはできるかもしれない。
その可能性を、冷は、少しだけ信じ始めていた。
彼女は、花瓶の水を替えた。
そして、部屋の明かりを消した。
暗闇のなかで、窓の向こうに、庭の木々が見える。
そこには、家族の誰かが、今も過ごしている。
燈矢は、自分の部屋にいる。
焦凍は、明日のことを考えているだろう。
冬美は、ようやく少し休んでいるかもしれない。
夏雄は、自分の時間を過ごしている。
エンデヴァーは、自分の責任と向き合っている。
冷自身も、これからの人生を考えている。
誰も、同じ場所に立っていない。
それでも、それぞれが、自分の人生を生き始めている。
家族だから、同じ答えを出す必要はない。
家族だから、誰かの罪を代わりに背負う必要もない。
家族だから、誰かの怒りを受け継がなければならないわけでもない。
そして、家族だからこそ、互いの人生を尊重することを、何度も選び直さなければならない。
冷は、目を閉じた。
この家族の問題は、終わっていない。
これからも、何度も、同じような問いが生まれるだろう。
燈矢が、再び怒りを抱える日もある。
焦凍が、兄を理解できず、距離を取りたくなる日もある。
冬美が、また家族のことを気にかけすぎてしまう日もある。
夏雄が、兄と向き合うことに迷う日もある。
エンデヴァーが、自分の責任と向き合うことに耐えられなくなる日もある。
そして、冷自身も、家族のために何かをしてあげたいと願い、自分の気持ちを後回しにしてしまう日があるかもしれない。
それでも、そのたびに、選び直すことはできる。
家族の誰かが、正しい答えを持っているわけではない。
一つの答えだけが、全員の未来を決めるわけでもない。
そのことを、少しずつ、覚えていく。
それが、これからの轟家に必要な時間だった。
11 荼毘、そして燈矢
深夜、燈矢は、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
そこには、自分が書いた問いが残っている。
「俺は、何を望む?」
その問いに、今も答えはない。
けれど、燈矢は、もう一度、ペンを取った。
そして、その下に、短い言葉を書き加えた。
「誰かに決めてもらうな。」
書き終えると、燈矢は、その文字を見つめた。
自分は、父親に愛されたかった。
それは、今でも変わらない。
父親を許せるようになるかどうかも、分からない。
自分がしたことを、どう償うのかも、まだ分からない。
家族と、これからどのような関係になっていくのかも、分からない。
それでも、自分が何を望むのかまで、誰かに決めてもらう必要はない。
父親に愛されなかったと感じたことは、過去の事実だった。
しかし、それが、自分の未来まで決めるわけではない。
自分が、誰かに許されたいと思うこと。
それは、自分の気持ちだ。
誰かが、許せないと思うこと。
それも、その人の気持ちだ。
自分が、家族と関わりたいと思うこと。
それも、自分の選択だ。
家族が、距離を取りたいと思うこと。
それも、その人たちの選択だ。
その違いを、互いの裏切りとして扱わなくてもいい。
燈矢は、ペンを置いた。
そして、紙を引き出しにしまった。
燈矢という名前を、捨てるつもりはない。
荼毘という名前も、なかったことにはしない。
自分が愛されたかったことを、恥ずかしい願いとして切り捨てない。
自分がしたことを、過去の苦しみだけで正当化しない。
その両方を抱えて生きていく。
自分が何者だったのか。
自分が何を望んでいたのか。
自分が、これから何を選ぶのか。
その問いを、これからも、考え続ける。
燈矢は、窓の外を見た。
空は暗かった。
それでも、明日になれば、また朝が来る。
明日になれば、再び、家族と顔を合わせることがあるかもしれない。
焦凍と話すこともあるだろう。
母親と、少しだけ会話をすることもあるかもしれない。
夏雄が、こちらを見ないまま、部屋を通り過ぎることもあるだろう。
父親が、何かを伝えようとして、言葉を飲み込むこともあるかもしれない。
そのどれもが、まだ、分からない。
だが、分からないからこそ、自分で決めることができる。
燈矢は、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺は、まだ、終わってねえんだな」
小さく呟く。
荼毘としての過去は、終わっていない。
自分がしたことへの責任も、終わっていない。
家族との関係も、終わっていない。
それでも、自分の人生は、憎しみだけで終わらなければならないわけではない。
燈矢は、目を閉じた。
そして、明日、何をしようかと考えた。
大きなことではない。
父親に会いに行くか。
焦凍と、もう少し話をするか。
自分の過去を、もう一度整理するか。
何かを選ぶのか。
何もせずに過ごすのか。
その答えは、明日の自分が決めればいい。
誰かの期待に応えるためではなく。
誰かの怒りを受け継ぐためでもなく。
自分自身の人生を生きるために。
燈矢は、布団に入った。
すぐに眠れるとは思わなかった。
それでも、今夜は、過去の怒りだけを数え続けることを、少しだけやめてみようと思った。
それは、許しではない。
忘却でもない。
ただ、自分がこれから何を望むかを考えるための、静かな時間だった。
12 次の憤怒へ、次の虚飾へ
同じ夜。
轟家から離れた場所で、焦凍は、窓の外を見ていた。
兄が、自分の人生を考え始めた。
それは、焦凍にとって嬉しいことだった。
しかし、兄がこれからどうなるのかは、まだ分からない。
自分が、兄を救えるかどうかも、分からない。
焦凍は、もう、その答えを急いで探そうとは思わなかった。
兄が自分自身の答えを探すように。
自分も、自分自身の答えを探していく。
兄を大切に思うこと。
兄の罪を、なかったことにしないこと。
兄の怒りを、否定しないこと。
そして、その怒りを、自分の未来にはしないこと。
その選択を、何度も繰り返す。
それが、焦凍の道だった。
彼は、ゆっくり息を吐いた。
家族の問題は、終わっていない。
だが、誰か一人の答えを、家族全員の正解にしないという一歩は、確かに踏み出された。
その一歩が、どこへ向かうのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ、家族の誰もが、自分の人生を選ぶことを、少しずつ許し始めていた。
そのころ、別の場所では、一人の男が、見覚えのない天井を見つめていた。
「……ここ、どこだ?」
声が、乾いた部屋に響く。
男は、自分の身体を起こそうとした。
頭が重い。
記憶が、途切れ途切れに戻ってくる。
人混み。
仲間の声。
自分を信じてくれた人たち。
自分を拒絶した人たち。
誰かの笑顔。
そして、背後から迫る気配。
翼。
銃声。
自分が、最後に見た光景。
男は、息を呑んだ。
「……俺、死んだんじゃなかったのか?」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
男は、ベッドから降りた。
壁に手をつく。
扉へ向かう。
外から、人の声が聞こえる。
自分の知らない時間が、流れている。
「……俺、何で、ここにいるんだ?」
男は、扉の前で立ち止まった。
自分は、何をすればいいのだろう。
誰に会えばいいのだろう。
どこへ行けばいいのだろう。
かつて、自分には居場所があった。
仲間がいた。
自分を受け入れてくれる人がいた。
自分が、役に立てる場所があった。
だが、その居場所は、もうないのかもしれない。
男は、自分の手を見つめた。
「……俺、また一人になったのか?」
その問いに、誰も答えなかった。
さらに離れた場所で、一人の青年が、その報告を受け取っていた。
翼を持つ青年。
ヒーローとして、数え切れない任務をこなしてきた男。
彼は、報告書に記された名前を見た瞬間、息を止めた。
ジン・ブバイガワラ。
トゥワイス。
かつて、自分が手をかけた男。
仲間を大切にし、誰かの居場所を守ろうとし、そのために、自分自身を危険へ追い込んだ男。
自分が、彼の命を奪った。
あのとき、あれが最善だったのか。
ほかに、道はなかったのか。
考え続けても、答えは出なかった。
そして今、その男が、帰ってきた。
ホークスは、報告書を握りしめた。
助けたい。
今度こそ、助けたい。
自分が、あのときできなかったことを。
自分が、奪ってしまった未来を。
そう願った。
だが、その願いが、本当にトゥワイスのためのものなのか。
それとも、自分自身が、罪の意識から逃れたいだけなのか。
その答えを、ホークスは、まだ持っていなかった。
そして、その答えを持たないまま、トゥワイスに手を伸ばすことは、彼にとって、残酷なことになるのかもしれなかった。
翼の青年は、報告書を見つめた。
彼は、もう一度、男の名前を読んだ。
「……ジン」
その名を口にした瞬間、胸の奥に、重いものが落ちた。
自分は、彼を助けたい。
だが、彼が、自分に助けられたいと思っているとは限らない。
彼が、もう一度、自分と関わりたいと思っているとも限らない。
そして、彼が、かつての自分を覚えているなら。
自分が、彼を殺したことを覚えているなら。
彼は、何を思うだろう。
ホークスは、目を閉じた。
助けたいという願いが、相手にとって、救いになるとは限らない。
それでも、何もしないままでいることが、正しいとも思えなかった。
ホークスは、報告書を机に置いた。
そして、立ち上がった。
翼が、わずかに揺れる。
彼は、これから向き合わなければならない男のことを、思い浮かべた。
かつて、自分が、その命を奪った男。
そして、今、再び、この世界に戻ってきた男。
ホークスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……今度は、間違えたくない」
その言葉が、本当にトゥワイスのためのものなのか。
それとも、自分自身のためのものなのか。
まだ、分からない。
だが、次の物語は、そこから始まろうとしていた。
6章嫉妬荼毘編終幕、次話から虚飾編前編ホークス、トゥワイス編開幕