僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第三話 十三秒間の空白

 

 最初に異常に気づいたのは、雄英高校の警備システムだった。

 正確には、警備システムは異常を検知していなかった。

 検知するべき異常そのものが、記録から消えていたのである。

 午前十時四十二分。

 雄英高校、地下特別面談室。

 分厚い防爆扉。複数の監視カメラ。個性による侵入を想定した多重防御。通信網から独立した記録装置。そして、室内に設置された緊急用の生命反応センサー。

 そのすべてが、十三秒間だけ沈黙した。

 電源は落ちていない。

 配線にも異常はない。

 警備システムのログには、何ひとつ問題が記録されていなかった。

 ただ、面談室にいた五人だけが消えていた。

 緑谷出久。

 爆豪勝己。

 轟焦凍。

 麗日お茶子。

 相澤消太。

 五人の姿が消失した時刻は、午前十時四十二分十八秒。

 再び現れた時刻は、午前十時四十二分三十一秒。

 その間、扉は一度も開いていない。

 壁も床も天井も破壊されていない。

 外部からの侵入も、内部からの脱出も確認されていない。

 そして、五人が再出現した瞬間。

 生命反応センサーは、まるで彼らが最初からそこにいたかのように、正常な数値を表示した。

 ただし。

 緑谷出久の生命反応だけは、一瞬、完全にゼロを示していた。

 その記録もまた、数秒後には消えていた。

     ◇

 ――白い。

 最初に感じたのは、それだった。

 上も下もない。

 右も左もない。

 光源は存在しないのに、世界全体が白く輝いている。

 床を踏んでいる感覚はあった。

 けれど、そこには影がない。

 自分の手を見下ろす。

 指が五本ある。

 手袋はない。

 英雄コスチュームもない。

 いつもの服を着ている。

 緑谷出久は、ゆっくりと息を吸った。

「……どこだ、ここ」

 声が響かなかった。

 いや、響くべき空間がなかった。

 音は確かに発せられたはずなのに、声が空気に触れた瞬間、その存在を許されなかったかのように消えてしまう。

 耳を澄ませる。

 何も聞こえない。

 自分の呼吸さえも。

 それなのに。

 心臓の鼓動だけは、やけに鮮明だった。

 ドクン。

 ドクン。

 ドクン。

 まるで、心臓だけが別の場所に取り残されているようだった。

 出久は胸に手を当てた。

「落ち着け……状況を確認するんだ」

 職業病のようなものだった。

 どんなに異常な状況でも、まずは確認する。

 自分の身体。

 周囲の環境。

 脅威の有無。

 脱出経路。

 救助対象。

 ヒーローとして染みついた思考が、恐怖に呑まれかけた意識をつなぎ止める。

 しかし。

 周囲を見渡しても、確認できるものは何もなかった。

 白い。

 ただ白い。

 地平線すらない。

 自分がどこに立っているのかも分からない。

 そして、何よりもおかしいことがあった。

 自分がここに来る直前、何をしていたのか。

 それを思い出せなかった。

「……面談室」

 ぽつりと呟く。

 そうだ。

 雄英の地下にある面談室。

 相澤先生がいて、爆豪くんがいて、轟くんがいて、お茶子ちゃんがいて。

 そして。

 存在しない男がいた。

 その男は、確かに言った。

『まだ、終わってない』

『今度こそ、君を救う』

『たとえ、世界を敵に回しても』

 そこまでは思い出せる。

 だが、その直後が曖昧だった。

 何かを見た。

 何かが現れた。

 そして――。

「……十三秒?」

 なぜ、その数字が浮かんだのか分からない。

 けれど、十三という数字を考えた瞬間、白い空間の奥で何かが動いた。

 いや。

 動いたように見えた。

 遠くに、小さな影が立っていた。

 出久は目を細める。

 子どもだった。

 緑色の髪。

 丸みの残る頬。

 大きな瞳。

 少し猫背で、両手を身体の前に置いている。

 見覚えのある姿だった。

 あまりにも。

 あまりにも、見覚えがあった。

「……僕?」

 少年が顔を上げた。

 そして、微笑んだ。

「やっと来たね」

 出久の背筋が凍った。

 その顔を知らないはずがない。

 鏡を見なくても分かる。

 あの顔は、自分だ。

 小学生の頃。

 まだ、個性がないと診断されていた頃。

 ヒーローになりたいと夢見て、周囲から笑われても、その夢を捨てられなかった頃。

 母親の前では平気なふりをして、ひとりになると何度も泣いた頃。

 オールマイトの映像を繰り返し見て、いつか自分も誰かを救えるのだと信じていた頃。

 その少年が、目の前にいる。

「……どうして」

「どうして?」

 少年は首を傾げた。

「それ、前にも聞いたよ」

 出久は息を呑んだ。

「前にも……?」

「うん」

 少年は嬉しそうに頷いた。

「何回も」

 その言葉が、白い空間に落ちた。

 今度は、消えなかった。

 何回も。

 その意味を理解しようとした瞬間、頭の奥が激しく痛んだ。

「っ……!」

 視界が歪む。

 白い世界に、別の景色が重なった。

 崩壊する街。

 燃え上がる空。

 倒れたヒーローたち。

 瓦礫の中で伸ばされた手。

 誰かの叫び。

 聞き覚えのある声。

 そして。

 自分自身の手が、誰かを救おうと伸ばされている。

 届かない。

 あと少しなのに。

 あと少しで届くのに。

 その手の先にいた誰かが、黒い霧に包まれて消えた。

「やめろ……!」

 出久は頭を押さえた。

「何なんだよ、これ……!」

 少年は動かなかった。

 ただ、悲しそうに出久を見つめていた。

「また、忘れちゃったんだね」

「何を……?」

「僕たちが、何を約束したのか」

 少年は一歩近づいた。

 足音はしない。

 けれど、距離が縮まったことだけは分かった。

「ねえ、デク」

 その呼び方に、出久の心臓が跳ねた。

 昔、そう呼ばれていた。

 からかいの言葉として。

 馬鹿にするための名前として。

 それでも、いつしか自分はその名前を受け入れた。

 そして、誰かがその名前に意味を与えてくれた。

 しかし。

 目の前の少年の声には、嘲りも、侮蔑もなかった。

 懐かしさと。

 寂しさと。

 どうしようもないほどの愛情があった。

「今度は、最後まで一緒にいようね」

「……何を言ってるんだ」

「今度は、ひとりにしないから」

 少年は笑った。

「君が全部を背負わなくてもいいように」

 出久の喉が詰まった。

 それは。

 自分が、誰かに言ってほしかった言葉だった。

 誰かを救いたい。

 誰かを守りたい。

 そのために自分が傷つくことを、長い間、当たり前のように受け入れてきた。

 それが正しいと信じていた。

 誰かが泣いているなら、手を伸ばす。

 誰かが苦しんでいるなら、走る。

 たとえ自分の身体が壊れても。

 たとえ、自分が立てなくなっても。

 そうすることがヒーローなのだと。

 けれど、最近になってようやく気づいたのだ。

 自分ひとりで救える人間には限りがある。

 自分が倒れたら、救えなくなる人がいる。

 自分を大切に思ってくれる人たちがいる。

 だからこそ、仲間と一緒に戦うのだと。

 それなのに。

 この少年は、まるでそのことを知っているかのように話していた。

「君は……誰なんだ?」

 少年は一瞬だけ目を伏せた。

「僕だよ」

「違う。君は……」

「君が忘れた僕」

 少年は、静かに答えた。

「君が置いていった僕」

 出久は言葉を失った。

 少年は続けた。

「君は、いつも前に進む」

「……」

「誰かを助けて、誰かを守って、誰かのために戦って」

 その瞳が、少しだけ揺れた。

「でも、君はいつも、僕を置いていく」

 白い世界が震えた。

 出久の足元に、細い亀裂が走る。

 白い床に生じた亀裂の向こう側には、何もなかった。

 底も、闇も、光も。

 ただ、存在そのものが抜け落ちたような空白が広がっていた。

「君が生きている限り、世界はやり直される」

 少年が言った。

 その瞬間。

 出久の頭の中で、何かが弾けた。

 無数の記憶が押し寄せる。

 知らない街。

 知らない人々。

 知っているはずなのに、知らない仲間たち。

 何度も繰り返される戦い。

 何度も伸ばされる手。

 何度も失われる命。

 そして、何度も。

 何度も。

 何度も。

 同じ少年が、同じ場所で、同じ言葉を口にする。

『君が生きている限り、世界はやり直される』

「違う……!」

 出久は叫んだ。

「僕は……そんなこと、望んでない!」

「うん」

 少年は頷いた。

「知ってるよ」

「だったら……!」

「でも、君はいつも選ぶんだ」

 少年の表情から、笑みが消えた。

「誰かを救うためなら、自分がどうなってもいいって」

 出久は、何も言えなかった。

「だから、世界は君を中心に回り続ける」

 少年の瞳に、涙が浮かんだ。

「君が諦めないから」

「君が死んでも、誰かを助けようとするから」

「君が、何度やり直されても、またヒーローになろうとするから」

 少年は泣いていた。

 けれど、涙は頬を伝わらなかった。

 この世界には、涙が落ちる場所さえないのかもしれなかった。

「ねえ、デク」

 少年が手を差し出す。

「今度こそ、僕を選んでよ」

 出久は、その手を見つめた。

 小さな手だった。

 昔の自分の手。

 何も持っていなかった手。

 誰かを救いたいと願いながら、誰かを救う力を持たなかった手。

 その手が、今、自分に向かって伸ばされている。

 助けてほしいと。

 置いていかないでほしいと。

 そう言っているように見えた。

 出久は、ゆっくりと手を伸ばした。

「……ごめん」

 少年の目が見開かれる。

「僕は……君を置いていったつもりなんて、なかった」

「……」

「でも、もし本当にそうだったなら……ごめん」

 出久は、少年の手を取ろうとした。

「今度は、ちゃんと話そう。君が何を知っているのか、何があったのか。僕が忘れていることも……全部」

 指先が触れた。

 その瞬間。

 少年の身体が、黒く染まった。

「――っ!」

 指先から、墨を落としたような黒い筋が広がっていく。

 手首。

 腕。

 肩。

 首。

 少年の身体を、黒い亀裂が走り抜けた。

「え……?」

 少年が、自分の手を見下ろす。

「違う」

 初めて、その声に恐怖が混じった。

「違う、まだ……」

 黒い霧が少年の背後から溢れ出した。

 その霧の中に、何かがいた。

 人間の形をしているようにも見える。

 しかし、頭があるのかも分からない。

 手足があるのかも分からない。

 ただ、そこにいる。

 存在しているという事実だけが、白い世界を押し潰していた。

 出久は少年を引き寄せようとした。

「待ってろ!」

 しかし、少年は首を横に振った。

「来ちゃ駄目だ!」

「でも――!」

「君が来たら、また始まっちゃう!」

 少年が叫んだ。

 その声が、初めて白い世界全体に響き渡った。

「今度こそ、終わらせなきゃいけないんだ!」

 黒い霧が、少年の身体を呑み込んだ。

 出久の指先から、温度が消える。

「待て!」

 伸ばした手が空を切った。

 少年の姿が消える。

 黒い霧も消える。

 白い世界が、再び静寂に包まれた。

 その中央に。

 小さな紙片が、一枚だけ落ちていた。

 出久は拾い上げる。

 そこには、見覚えのある文字が書かれていた。

 自分の筆跡だった。

 間違いない。

 これは、自分が書いた文字だ。

 しかし、その内容は。

 出久の知らないものだった。

『三度目は、彼を救う』

 その下に、もう一行。

『四度目を始めてはいけない』

 出久が顔を上げる。

 白い世界の彼方で、巨大な影が目を開いた。

 目ではなかった。

 瞳でもなかった。

 それは、こちらを認識するためだけに生まれた、無数の窓のようなものだった。

 そのすべてが、出久を見ていた。

 そして。

 声がした。

 声ではない。

 言葉の形をした、認識そのものだった。

『対象個体を確認』

『緑谷出久』

『生存状態を再評価』

『記憶情報の欠落を確認』

『再構築を――』

「断る」

 出久は、紙片を握り締めた。

 巨大な影の動きが止まった。

「僕は……君たちの言う通りにはしない」

 恐怖はあった。

 身体が震えていた。

 何が起きているのか、何ひとつ分かっていない。

 自分が何度死んだのかも。

 世界が何度やり直されたのかも。

 なぜ幼い自分が、あんな顔で泣いていたのかも。

 何も分からない。

 それでも。

「僕は僕の意志で生きる」

 出久は、顔を上げた。

「誰かを救うために、自分を犠牲にすることだけが、僕の選択肢じゃない」

 巨大な影が、わずかに揺れた。

『選択を確認』

『予測結果との不一致を検出』

『再観測の必要性を再評価』

 その瞬間。

 白い世界に、ひびが入った。

 今度は、出久の足元ではない。

 空間そのものに。

 亀裂の向こうから、誰かの声が聞こえた。

「――緑谷くん!」

 お茶子の声だった。

「デク!」

 爆豪の声。

「緑谷!」

 相澤の声。

 彼らが、自分を呼んでいる。

 出久は、手を伸ばした。

 白い世界が崩壊する。

 巨大な影が、最後にもう一度だけ言葉を発した。

『観測対象の選択を記録』

『次回観測まで、待機』

 そして。

 世界が、裏返った。

     ◇

「――緑谷くん!」

 お茶子の叫びと同時に、出久は息を吸い込んだ。

 肺が痛い。

 喉が焼ける。

 まるで、何時間も水の中に沈んでいたかのようだった。

「っ、はっ……!」

 目の前に、見慣れた天井があった。

 雄英高校、地下特別面談室。

 白い壁。

 防爆扉。

 天井の監視カメラ。

 そして、自分を取り囲む四人の姿。

 相澤が、出久の肩をつかんでいた。

「緑谷! 聞こえるか!」

「せ、先生……?」

「意識はあるな。自分の名前を言え。ここがどこか分かるか」

「緑谷出久……雄英高校の地下面談室です」

「最後に覚えていることは?」

「……」

 出久は、口を開いた。

 しかし、言葉が出なかった。

 白い空間。

 幼い自分。

 黒い霧。

 巨大な影。

 紙片に書かれた文字。

 すべて覚えている。

 覚えているはずなのに。

 記憶の中心に、ぽっかりと穴が開いていた。

「……十三秒」

 ようやく、それだけを口にした。

 爆豪が眉をひそめる。

「何だ、それ」

「分からない。でも……」

 出久は、自分の手を見た。

 右手。

 そこには何もない。

 しかし、指先にだけ、かすかな感触が残っていた。

 小さな手の温度。

 誰かを助けたいと願った、幼い自分の温度。

「誰かが……僕を呼んでた」

 お茶子が息を呑む。

「誰かって……?」

「僕、だと思う」

 沈黙が落ちた。

 轟が静かに口を開く。

「自分自身に呼ばれた、ということか」

「うん……たぶん」

「たぶんって何だよ、たぶんって!」

 爆豪の声が響いた。

「お前、今、消えてたんだぞ!」

「……え?」

 出久は顔を上げた。

 爆豪は怒っていた。

 いつものように。

 いや。

 いつも以上に。

 その拳が震えていることに、出久は気づいた。

「十三秒だ。カメラもセンサーも全部同時に飛んだ。お前ら五人が消えた。扉は開いてねえ。壁も壊れてねえ。なのに、次の瞬間には全員そろってやがった」

「……全員?」

 出久は、周囲を見渡した。

 相澤。

 爆豪。

 轟。

 お茶子。

 そして、自分。

 確かに、全員いる。

「他の人たちは……?」

「俺たち以外は、この部屋には入ってねえ」

 相澤が答えた。

「監視記録上はな」

 その言葉に、出久は違和感を覚えた。

「監視記録上は?」

 相澤は答えなかった。

 代わりに、部屋の隅を見た。

 そこには、透明な防護パネルに囲まれた小型の記録端末があった。

 端末の画面は、正常に動作している。

 しかし、その表示内容がおかしかった。

 面談室の入退室記録。

 出久たち五人の名前が、一覧に並んでいる。

 その下に、見慣れない一行があった。

『在室人数:四名』

 出久は、思わず目をこすった。

 もう一度見る。

『在室人数:四名』

 五人いる。

 どう見ても、五人いる。

 なのに、端末は四人と表示していた。

「先生、これ……」

「気づいている」

 相澤が短く答える。

「お前たちが消えた瞬間、在室人数はゼロになった。再出現した瞬間に四へ戻った」

「……四?」

 お茶子が、青ざめた顔で自分たちを見た。

 爆豪。

 轟。

 相澤。

 お茶子。

 そして出久。

 五人。

 確かに、五人いる。

「じゃあ……誰が、いないことになってるの?」

 誰も答えなかった。

 答えは、あまりにも簡単だったからだ。

 出久は、ゆっくりと端末へ近づいた。

 名前の一覧を確認する。

 相澤消太。

 爆豪勝己。

 轟焦凍。

 麗日お茶子。

 緑谷出久。

 五人の名前がある。

 しかし、そのうち一人の名前だけ、文字の色が違っていた。

 緑谷出久。

 灰色。

 他の四人は白色だった。

「……僕の名前だけ、灰色になってる」

 相澤が端末を操作した。

 表示が切り替わる。

『対象個体:緑谷出久』

『存在状態:暫定』

『生存記録:確認中』

『死亡記録:確定』

 お茶子が口元を押さえた。

「そんな……」

 爆豪の表情が凍りついた。

「ふざけんな」

 低い声だった。

「何が死亡記録だ。こいつはここにいるだろうが」

 端末は反応しない。

「生きてんだろうが!」

 爆豪が端末を殴りつけた。

 鈍い音が響く。

 防護パネルに亀裂が走った。

「爆豪!」

 相澤が制止する。

 しかし、爆豪は端末を睨みつけたままだった。

「記録が間違ってんだよ。こいつは生きてる。俺が見てんだ。ここにいる。呼吸してる。喋ってる。……それのどこが死亡だ」

 最後の言葉は、怒鳴り声にならなかった。

 ただ、ひどく低く。

 ひどく苦しそうだった。

 出久は、胸が痛くなった。

「爆豪くん……」

「黙れ」

「でも……」

「黙れっつってんだろ!」

 爆豪が振り返った。

 その目を見た瞬間、出久は言葉を失った。

 怒り。

 恐怖。

 そして、その奥にある、何か。

 それは、出久が知っている感情だった。

 かつて、自分が何度も彼に向けさせてしまったもの。

 自分が勝手に傷つき、自分が勝手に犠牲になり、周囲の人間に何も言わずに戦場へ向かっていた頃。

 爆豪は、何度も怒った。

 勝手に死のうとするな。

 勝手に全部背負うな。

 勝手に俺たちを置いていくな。

 その怒りが、今、再び彼の目に浮かんでいた。

「……二度と、勝手に消えんじゃねえ」

 爆豪は、それだけ言った。

 出久は、うまく笑えなかった。

「……うん」

 約束できるかどうかも分からない。

 自分が何に巻き込まれているのか、何ひとつ分かっていない。

 それでも。

「約束する」

 爆豪は何も言わなかった。

 ただ、出久から目を逸らさなかった。

     ◇

 同じ頃。

 面談室の外では、雄英の技術スタッフが異常記録の解析を進めていた。

「あり得ない……」

 若い技術者が、何度も画面を確認する。

 彼の名前は伏せられていた。

 この事件に関する記録は、すでに通常の校内ネットワークから切り離されていたからだ。

「監視カメラは正常。映像データも破損していない。なのに、十三秒間だけ、映像そのものが存在していない」

「フレーム落ちじゃないのか?」

「違います。フレーム落ちなら、前後の映像に時間の飛びが出る。でも今回は、時刻情報まで連続しているんです」

 別の技術者が画面を覗き込む。

「つまり?」

「映像が失われたんじゃない。最初から、そこに何も起きていなかったことになっている」

 室内が静まり返った。

 そのとき、別の端末から警告音が鳴った。

「……待ってください」

 若い技術者が顔を上げる。

「これは、どこのシステムですか?」

「何が?」

「この端末、今、外部からアクセスを受けています」

「外部? ネットワークから切り離しているだろう」

「だから、おかしいんです」

 画面には、黒い背景に白い文字が表示されていた。

 誰も操作していない。

 カーソルも動いていない。

 文字だけが、ひとりでに増えていく。

『観測対象の状態を確認しています』

『存在履歴の整合性を確認しています』

『前回記録との照合を開始します』

 技術者たちは息を呑んだ。

 その下に、さらに一行が現れた。

『緑谷出久』

 そして。

『観測回数:三』

「……三?」

 誰かが呟いた。

 その瞬間、画面が一度だけ明滅した。

 表示が変わる。

『観測回数:四』

 技術者の一人が、慌てて電源を切った。

 画面が暗くなる。

 しかし、警告音は止まらなかった。

 電源を切ったはずの端末から、音が鳴り続けている。

 そして、暗い画面に。

 誰かの顔が映った。

 緑色の髪。

 幼い顔。

 大きな瞳。

 画面の向こうにいる少年は、ゆっくりと口を開いた。

『まだ、見つからない』

 技術者たちは、誰も動けなかった。

『今度こそ、見つけないと』

 少年が、こちらを見た。

 そして、微笑んだ。

『あの人が、また死んじゃうから』

 画面が真っ暗になった。

 警告音が止まる。

 室内に、静寂が戻った。

 誰もが、今見たものを理解できなかった。

 ただ一つ。

 全員が同じことを考えていた。

 ――あれは、本当に緑谷出久だったのか。

     ◇

 面談室。

 出久は、椅子に座ったまま、自分の手を見つめていた。

 白い空間の記憶は、少しずつ薄れている。

 それでも、完全には消えていなかった。

 幼い自分。

 黒い霧。

 巨大な影。

 そして、あの紙片。

『三度目は、彼を救う』

『四度目を始めてはいけない』

 彼とは、誰なのか。

 自分を救おうとしていた男なのか。

 それとも。

 自分が救おうとしている、誰かなのか。

「緑谷」

 相澤が声をかけた。

「少し休め。今の状態で調査を続けても、まともな判断はできない」

「でも……」

「でも、じゃない」

 相澤は厳しい声で言った。

「お前が何を見たのかは、あとで聞く。今は身体の状態を確認する。異常があれば、すぐに対応する」

「……はい」

 出久は頷いた。

 そのときだった。

 面談室の外から、慌ただしい足音が聞こえてきた。

 扉が開く。

 入ってきたのは、塚内直正だった。

「相澤くん。緑谷くん。……全員、無事か?」

「今のところは」

 相澤が答える。

「何があった?」

 塚内は手に持っていたタブレットを見せた。

「君たちが消えた十三秒間について、別の異常が確認された」

「別の異常?」

「雄英だけじゃない」

 塚内の表情は、いつになく硬かった。

「同じ時刻に、世界各地で同じ現象が発生している」

 出久は顔を上げた。

「……世界各地?」

「ああ。病院、警察署、研究施設、一般家庭。場所も状況も違う。だが、共通点がある」

 塚内は画面を操作した。

 複数の映像が表示される。

 病室のベッド。

 警察署の取調室。

 住宅街の交差点。

 研究所の実験室。

 どの映像も、ある瞬間に十三秒間だけ途切れていた。

 そして、その途切れた時間の前後で。

 死者が消えていた。

 ある病院では、蘇生したばかりの老人が姿を消した。

 ある警察署では、保護されていた帰還者が消えた。

 ある住宅では、十三年前に亡くなった女性が、家族の目の前で消失した。

 そして。

 最後の映像。

 雄英高校の映像だった。

 地下特別面談室。

 五人の姿が消える。

 十三秒後、五人が戻る。

 そこまでは、先ほど見た映像と同じだった。

 しかし、塚内が映像を拡大すると。

 出久の姿が消えた瞬間、画面の端に、もう一人の人物が映っていた。

 面談室の隅。

 壁際。

 誰もいなかったはずの場所に。

 男が立っていた。

 存在しない男。

 彼は、消えていく出久を見つめていた。

 その表情は。

 絶望していた。

 まるで、また同じことが起きてしまったかのように。

「……彼は、いつからそこにいたんですか?」

 出久が尋ねた。

「分からない」

 塚内は首を横に振った。

「映像を遡っても、彼が入室する場面はない。そもそも、彼の姿は、君たちが消える直前の映像にしか映っていないんだ」

「じゃあ……」

「十三秒間の空白の中だけ、存在していた可能性がある」

 誰も言葉を発しなかった。

 塚内は、もう一つの映像を表示した。

 それは、面談室の外に設置された監視カメラの映像だった。

 扉は閉じたまま。

 誰も出入りしていない。

 しかし、扉の前に置かれた小さな観葉植物が、一瞬だけ揺れていた。

 まるで、そこを誰かが通り抜けたかのように。

 次の瞬間。

 植物の葉が、一枚だけ落ちた。

 その葉は、床に触れる直前。

 黒い霧に包まれ、消えた。

「……死者が消えているだけじゃない」

 お茶子が呟いた。

「何かが……世界の中から、いろんなものを消してる」

「そう考えるのが妥当だろうな」

 塚内は頷いた。

「問題は、それが何を基準にしているのかだ」

 出久は、目を閉じた。

 白い空間の中で、幼い自分が言った言葉が蘇る。

『君が生きている限り、世界はやり直される』

 もし、それが本当なら。

 もし、自分が世界の再構築に関わっているのなら。

 自分が生きていること自体が、誰かを危険にさらしているのだろうか。

 自分が存在することが、世界を壊しているのだろうか。

 考えたくなかった。

 けれど、考えずにはいられなかった。

「……塚内さん」

「何だ?」

「僕たちが消えた十三秒間。その前後で、ほかに何か変わったことはありませんでしたか?」

 塚内は、少し考えた。

「ある」

 彼は、別の記録を表示した。

「君たちが消える直前、世界中の複数の観測機器が、同じ方向を向いた」

「方向?」

「方角と言っていいのか分からない。地上の観測機器だけじゃない。衛星、宇宙望遠鏡、深海の測定装置まで、同じ瞬間に、同じ座標を示した」

 画面に、地球の図が表示される。

 無数の線が伸びている。

 それらは、地球上のあらゆる場所から、一つの地点へ向かっていた。

 南極大陸。

 死神が目覚めた場所。

 そして、十三週間前から異常が始まった場所。

「……南極」

 出久が呟いた。

「ああ」

 塚内は頷いた。

「だが、座標は南極の地表じゃない。地下でもない。観測結果によれば、その地点は――」

 彼は言葉を切った。

 そして、慎重に続けた。

「地球の外側にある」

 室内が凍りついた。

「宇宙空間、という意味ですか?」

 轟が尋ねる。

「いや。宇宙空間とも違う」

 塚内は、苦い顔をした。

「観測機器が示した座標は、地球からの距離を計算できなかった。距離を測定しようとすると、数値が無限大になる。ところが、同時に、地球の中心からわずか数メートルの地点としても記録されている」

「……何だよ、それ」

 爆豪が吐き捨てた。

「外側にあるのに、内側にもあるってことか?」

「そういうことになる」

「ふざけんな。どこの馬鹿がそんな座標を作った」

「分からない」

 塚内は、出久を見た。

「だが、一つだけ確かなことがある」

 その目は、警察官としての厳しさと、ひとりの人間としての不安を同時に湛えていた。

「この現象は、死者の帰還が始まったときから続いていたわけじゃない。少なくとも、今回の十三秒間の空白は違う」

「……何が違うんですか?」

「今回、初めて観測された反応がある」

 塚内は、最後の画面を表示した。

 そこには、たった一つの文字列が記録されていた。

『再観測』

 その下に、小さな数字がある。

『対象:緑谷出久』

 そして。

『観測回数:四』

     ◇

 同じ頃。

 雄英高校の地下、隔離された観察室。

 存在しない男は、椅子に座っていた。

 両手を握り締め、床を見つめている。

 彼は、何も話さなかった。

 誰が問いかけても。

 何を尋ねられても。

 ただ、同じ言葉を繰り返すだけだった。

「……間に合わなかった」

 警備員が困惑した表情を浮かべる。

「何が間に合わなかったんだ?」

「また、間に合わなかった」

 男は顔を上げた。

 その目は、真っ赤に充血していた。

「彼が消えるのを、止められなかった」

「緑谷出久のことか?」

 男は答えない。

 代わりに、震える手で自分の胸を押さえた。

「今度こそ……救いたかったのに」

 警備員は、彼の様子を見つめていた。

 危険人物。

 正体不明。

 身元不明。

 異常現象との関連が疑われる存在。

 そうした分類はいくらでもできる。

 しかし、目の前の男は。

 ただ、泣いていた。

 自分が救えなかった誰かを思い出しながら。

「……君は、何者なんだ?」

 警備員が尋ねた。

 男は、しばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

「僕は……」

 言葉が止まる。

 眉間に皺が寄った。

 何かを思い出そうとしている。

 しかし、記憶の奥に手を伸ばすたび、黒い霧のようなものが視界を覆う。

「……分からない」

 男は呟いた。

「自分の名前も、顔も、何もかも……」

 その目から、涙がこぼれた。

「でも、あの人だけは覚えてる」

「緑谷出久か?」

「違う」

 男は首を横に振った。

「緑谷出久だけじゃない」

 彼は、震える唇で続けた。

「僕は……あの人たちを、何度も見てきた」

 警備員の表情が変わった。

「何度も?」

「何度も、何度も……」

 男は頭を抱えた。

「死んでいくところを」

 その瞬間。

 観察室の照明が、一度だけ明滅した。

 男が顔を上げる。

 壁の向こうから、何かが聞こえた。

 声ではない。

 音でもない。

 それなのに、男には分かった。

 また来たのだ。

 世界を見ているものが。

 自分たちの存在を、記録しようとしているものが。

 男は、椅子から立ち上がった。

「……駄目だ」

 警備員が身構える。

「おい、どうした!」

「駄目だ。まだ、早い」

 男は壁を見つめた。

 その向こうに何があるのか。

 彼には、分かっていた。

 いや。

 正確には、思い出しかけていた。

「まだ、彼に思い出させちゃいけない」

 男の声が震える。

「思い出したら……また、同じことになる」

 壁の表面に、細い黒い線が走った。

 男は、歯を食いしばった。

「頼むから……」

 黒い線が広がる。

「今度だけは、やめてくれ」

 壁の向こうから、何かが応えた。

『観測対象の記憶情報に異常を確認』

『介入者の存在を検出』

『個体情報の照合を開始』

 男の顔から、血の気が引いた。

 その言葉を知っている。

 この声を知っている。

 そして、このあと何が起こるのかも。

 男は、震える手で壁に触れた。

「……僕は、君たちの言いなりにはならない」

 黒い亀裂が、彼の手の下で止まった。

「彼を救う」

 男は、はっきりと言った。

「今度こそ、必ず」

 その瞬間。

 壁に浮かんでいた文字が、ゆっくりと書き換わった。

『介入者の意思を確認』

『敵対行動の可能性を検出』

『排除対象に指定』

 男は笑った。

 涙を流しながら。

「……そうだよ」

 彼は、誰にも聞こえない声で呟いた。

「僕は、君たちの敵だ」

     ◇

 その日の夕方。

 雄英高校の屋上に、緑谷出久の姿があった。

 風が吹いている。

 空は青い。

 遠くには、復興の進む街並みが広がっていた。

 かつて大きな戦いがあった場所。

 多くの人が傷つき、多くの人が命を落とした場所。

 それでも、人々は生きている。

 街を直し、仕事をし、食事をして、笑っている。

 死者が帰ってきた世界でも。

 世界が何度もやり直されているかもしれない世界でも。

 人々は、今日を生きている。

 出久は、手すりに手を置いた。

「……僕が生きている限り、世界はやり直される」

 あの少年の言葉が、頭から離れなかった。

 もし、それが本当なら。

 自分が生きていることが、世界を繰り返す原因なのかもしれない。

 だが。

 それを確かめるために、自分が死ぬわけにはいかない。

 それだけは、分かっていた。

 自分が死んだら、何かが終わるのかもしれない。

 しかし、何が終わるのか分からないまま、自分の命を差し出すことはできない。

 それは、かつての自分が何度も繰り返してきた過ちと同じだからだ。

「……ひとりで決めるな、か」

 ふと、爆豪の言葉が蘇った。

 勝手に消えるな。

 勝手に全部背負うな。

 勝手に俺たちを置いていくな。

 出久は、小さく笑った。

「……本当に、厳しいなあ」

「誰が?」

 背後から声がした。

 振り返る。

 お茶子が立っていた。

 彼女は、飲み物を二つ持っていた。

「はい。温かいやつ」

「ありがとう」

 出久は受け取った。

 二人は並んで、街を見下ろした。

 しばらく、何も話さなかった。

 沈黙は、不思議と苦しくなかった。

 やがて、お茶子が口を開いた。

「……怖かった?」

 出久は、すぐには答えなかった。

 誤魔化すこともできた。

 大丈夫だと笑うこともできた。

 でも。

「……うん」

 彼は、正直に答えた。

「怖かった」

 お茶子は頷いた。

「そっか」

「自分が何を見たのか、まだよく分からない。でも……僕が、何か大事なことを忘れている気がする」

「うん」

「それが、みんなを危険にさらしているのかもしれない」

 お茶子は、出久を見た。

「……だから、ひとりで何とかしようと思った?」

 出久は、答えられなかった。

 その沈黙だけで、十分だった。

 お茶子は、小さく息を吐いた。

「出久くん」

「うん」

「私、あなたが何を忘れているのか、まだ分からない」

「……うん」

「世界が何回やり直されているのかも、あなたが本当に死んだことがあるのかも、分からない」

 彼女は、手すりに両手を置いた。

「でもね」

 夕方の風が、彼女の髪を揺らした。

「あなたが怖いって言ってくれたことは、分かったよ」

 出久は、顔を上げた。

「……お茶子ちゃん」

「怖いなら、怖いって言っていいんだよ。分からないなら、分からないって言っていい。私たち、そういうことを一緒に考えるためにいるんじゃないの?」

 彼女は笑った。

 その笑顔は、少しだけ震えていた。

「もちろん、何でもすぐに解決できるわけじゃないと思う。私だって、怖いし……何が起きているのか分からないのは、不安だよ」

 彼女は、出久の手を取った。

「でも、だからこそ、一緒にいたいんだ」

 出久の胸が、熱くなった。

「……うん」

「また何かあったら、ちゃんと言ってね」

「……うん」

「約束」

 お茶子が小指を差し出した。

 出久は、一瞬だけ目を見開いた。

 そして、微笑んだ。

 小指を絡める。

「約束する」

 その瞬間だった。

 出久のポケットの中で、端末が震えた。

 雄英の緊急連絡用端末。

 画面には、相澤からのメッセージが表示されていた。

『緊急。隔離観察室で異常発生』

 続けて、もう一通。

『対象の男が、身元を思い出した可能性がある』

 出久は画面を見つめた。

 その下に、三通目のメッセージが届く。

『本人が名乗った名前は――』

 文章が途切れていた。

 送信者は相澤。

 しかし、メッセージの末尾に、見覚えのない文字列が追加されていた。

『緑谷出久』

『死亡記録:確定』

『観測回数:四』

 出久の指先が、冷たくなった。

 その直後。

 端末の画面が暗転した。

 そして、文字が浮かび上がる。

『次の観測を開始します』

 お茶子が、出久の手を握り直した。

「……出久くん?」

 出久は答えなかった。

 空を見上げる。

 青い空の、ほんの一瞬。

 雲の向こう側に、黒い亀裂が走ったように見えた。

 瞬きをする。

 亀裂は消えていた。

 しかし。

 今度は、はっきりと聞こえた。

 あの声が。

 白い世界で、自分を見ていたものの声が。

『緑谷出久』

『観測対象を確認』

『次回観測まで、待機』

 出久は、ゆっくりと息を吐いた。

 そして、隣にいるお茶子の手を握り返した。

 もう、ひとりで抱え込まない。

 そう決めたばかりなのだから。

 たとえ世界が、自分を何度も死者として記録しようとも。

 自分が何を忘れていようとも。

 自分の人生を、自分以外の誰かに決めさせるつもりはなかった。

 ――まだ、何も終わっていない。

 だが、出久はまだ知らない。

 自分が手を握っているこの瞬間でさえ。

 世界のどこかでは、十三年前に死んだ人々が、再び姿を消し始めていることを。

 そして、雄英高校の地下で。

 存在しない男が、ついに自分の名前を思い出したことを。

 彼の名は――。

 その名前を記録しようとした瞬間、世界から文字が消えた。

 まるで、その名前だけは、まだ誰にも知られてはならないとでもいうように。

第二章 帰還者

第三話 十三秒間の空白 完

次回、第四話「名前を失った男

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