最初に異常に気づいたのは、雄英高校の警備システムだった。
正確には、警備システムは異常を検知していなかった。
検知するべき異常そのものが、記録から消えていたのである。
午前十時四十二分。
雄英高校、地下特別面談室。
分厚い防爆扉。複数の監視カメラ。個性による侵入を想定した多重防御。通信網から独立した記録装置。そして、室内に設置された緊急用の生命反応センサー。
そのすべてが、十三秒間だけ沈黙した。
電源は落ちていない。
配線にも異常はない。
警備システムのログには、何ひとつ問題が記録されていなかった。
ただ、面談室にいた五人だけが消えていた。
緑谷出久。
爆豪勝己。
轟焦凍。
麗日お茶子。
相澤消太。
五人の姿が消失した時刻は、午前十時四十二分十八秒。
再び現れた時刻は、午前十時四十二分三十一秒。
その間、扉は一度も開いていない。
壁も床も天井も破壊されていない。
外部からの侵入も、内部からの脱出も確認されていない。
そして、五人が再出現した瞬間。
生命反応センサーは、まるで彼らが最初からそこにいたかのように、正常な数値を表示した。
ただし。
緑谷出久の生命反応だけは、一瞬、完全にゼロを示していた。
その記録もまた、数秒後には消えていた。
◇
――白い。
最初に感じたのは、それだった。
上も下もない。
右も左もない。
光源は存在しないのに、世界全体が白く輝いている。
床を踏んでいる感覚はあった。
けれど、そこには影がない。
自分の手を見下ろす。
指が五本ある。
手袋はない。
英雄コスチュームもない。
いつもの服を着ている。
緑谷出久は、ゆっくりと息を吸った。
「……どこだ、ここ」
声が響かなかった。
いや、響くべき空間がなかった。
音は確かに発せられたはずなのに、声が空気に触れた瞬間、その存在を許されなかったかのように消えてしまう。
耳を澄ませる。
何も聞こえない。
自分の呼吸さえも。
それなのに。
心臓の鼓動だけは、やけに鮮明だった。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
まるで、心臓だけが別の場所に取り残されているようだった。
出久は胸に手を当てた。
「落ち着け……状況を確認するんだ」
職業病のようなものだった。
どんなに異常な状況でも、まずは確認する。
自分の身体。
周囲の環境。
脅威の有無。
脱出経路。
救助対象。
ヒーローとして染みついた思考が、恐怖に呑まれかけた意識をつなぎ止める。
しかし。
周囲を見渡しても、確認できるものは何もなかった。
白い。
ただ白い。
地平線すらない。
自分がどこに立っているのかも分からない。
そして、何よりもおかしいことがあった。
自分がここに来る直前、何をしていたのか。
それを思い出せなかった。
「……面談室」
ぽつりと呟く。
そうだ。
雄英の地下にある面談室。
相澤先生がいて、爆豪くんがいて、轟くんがいて、お茶子ちゃんがいて。
そして。
存在しない男がいた。
その男は、確かに言った。
『まだ、終わってない』
『今度こそ、君を救う』
『たとえ、世界を敵に回しても』
そこまでは思い出せる。
だが、その直後が曖昧だった。
何かを見た。
何かが現れた。
そして――。
「……十三秒?」
なぜ、その数字が浮かんだのか分からない。
けれど、十三という数字を考えた瞬間、白い空間の奥で何かが動いた。
いや。
動いたように見えた。
遠くに、小さな影が立っていた。
出久は目を細める。
子どもだった。
緑色の髪。
丸みの残る頬。
大きな瞳。
少し猫背で、両手を身体の前に置いている。
見覚えのある姿だった。
あまりにも。
あまりにも、見覚えがあった。
「……僕?」
少年が顔を上げた。
そして、微笑んだ。
「やっと来たね」
出久の背筋が凍った。
その顔を知らないはずがない。
鏡を見なくても分かる。
あの顔は、自分だ。
小学生の頃。
まだ、個性がないと診断されていた頃。
ヒーローになりたいと夢見て、周囲から笑われても、その夢を捨てられなかった頃。
母親の前では平気なふりをして、ひとりになると何度も泣いた頃。
オールマイトの映像を繰り返し見て、いつか自分も誰かを救えるのだと信じていた頃。
その少年が、目の前にいる。
「……どうして」
「どうして?」
少年は首を傾げた。
「それ、前にも聞いたよ」
出久は息を呑んだ。
「前にも……?」
「うん」
少年は嬉しそうに頷いた。
「何回も」
その言葉が、白い空間に落ちた。
今度は、消えなかった。
何回も。
その意味を理解しようとした瞬間、頭の奥が激しく痛んだ。
「っ……!」
視界が歪む。
白い世界に、別の景色が重なった。
崩壊する街。
燃え上がる空。
倒れたヒーローたち。
瓦礫の中で伸ばされた手。
誰かの叫び。
聞き覚えのある声。
そして。
自分自身の手が、誰かを救おうと伸ばされている。
届かない。
あと少しなのに。
あと少しで届くのに。
その手の先にいた誰かが、黒い霧に包まれて消えた。
「やめろ……!」
出久は頭を押さえた。
「何なんだよ、これ……!」
少年は動かなかった。
ただ、悲しそうに出久を見つめていた。
「また、忘れちゃったんだね」
「何を……?」
「僕たちが、何を約束したのか」
少年は一歩近づいた。
足音はしない。
けれど、距離が縮まったことだけは分かった。
「ねえ、デク」
その呼び方に、出久の心臓が跳ねた。
昔、そう呼ばれていた。
からかいの言葉として。
馬鹿にするための名前として。
それでも、いつしか自分はその名前を受け入れた。
そして、誰かがその名前に意味を与えてくれた。
しかし。
目の前の少年の声には、嘲りも、侮蔑もなかった。
懐かしさと。
寂しさと。
どうしようもないほどの愛情があった。
「今度は、最後まで一緒にいようね」
「……何を言ってるんだ」
「今度は、ひとりにしないから」
少年は笑った。
「君が全部を背負わなくてもいいように」
出久の喉が詰まった。
それは。
自分が、誰かに言ってほしかった言葉だった。
誰かを救いたい。
誰かを守りたい。
そのために自分が傷つくことを、長い間、当たり前のように受け入れてきた。
それが正しいと信じていた。
誰かが泣いているなら、手を伸ばす。
誰かが苦しんでいるなら、走る。
たとえ自分の身体が壊れても。
たとえ、自分が立てなくなっても。
そうすることがヒーローなのだと。
けれど、最近になってようやく気づいたのだ。
自分ひとりで救える人間には限りがある。
自分が倒れたら、救えなくなる人がいる。
自分を大切に思ってくれる人たちがいる。
だからこそ、仲間と一緒に戦うのだと。
それなのに。
この少年は、まるでそのことを知っているかのように話していた。
「君は……誰なんだ?」
少年は一瞬だけ目を伏せた。
「僕だよ」
「違う。君は……」
「君が忘れた僕」
少年は、静かに答えた。
「君が置いていった僕」
出久は言葉を失った。
少年は続けた。
「君は、いつも前に進む」
「……」
「誰かを助けて、誰かを守って、誰かのために戦って」
その瞳が、少しだけ揺れた。
「でも、君はいつも、僕を置いていく」
白い世界が震えた。
出久の足元に、細い亀裂が走る。
白い床に生じた亀裂の向こう側には、何もなかった。
底も、闇も、光も。
ただ、存在そのものが抜け落ちたような空白が広がっていた。
「君が生きている限り、世界はやり直される」
少年が言った。
その瞬間。
出久の頭の中で、何かが弾けた。
無数の記憶が押し寄せる。
知らない街。
知らない人々。
知っているはずなのに、知らない仲間たち。
何度も繰り返される戦い。
何度も伸ばされる手。
何度も失われる命。
そして、何度も。
何度も。
何度も。
同じ少年が、同じ場所で、同じ言葉を口にする。
『君が生きている限り、世界はやり直される』
「違う……!」
出久は叫んだ。
「僕は……そんなこと、望んでない!」
「うん」
少年は頷いた。
「知ってるよ」
「だったら……!」
「でも、君はいつも選ぶんだ」
少年の表情から、笑みが消えた。
「誰かを救うためなら、自分がどうなってもいいって」
出久は、何も言えなかった。
「だから、世界は君を中心に回り続ける」
少年の瞳に、涙が浮かんだ。
「君が諦めないから」
「君が死んでも、誰かを助けようとするから」
「君が、何度やり直されても、またヒーローになろうとするから」
少年は泣いていた。
けれど、涙は頬を伝わらなかった。
この世界には、涙が落ちる場所さえないのかもしれなかった。
「ねえ、デク」
少年が手を差し出す。
「今度こそ、僕を選んでよ」
出久は、その手を見つめた。
小さな手だった。
昔の自分の手。
何も持っていなかった手。
誰かを救いたいと願いながら、誰かを救う力を持たなかった手。
その手が、今、自分に向かって伸ばされている。
助けてほしいと。
置いていかないでほしいと。
そう言っているように見えた。
出久は、ゆっくりと手を伸ばした。
「……ごめん」
少年の目が見開かれる。
「僕は……君を置いていったつもりなんて、なかった」
「……」
「でも、もし本当にそうだったなら……ごめん」
出久は、少年の手を取ろうとした。
「今度は、ちゃんと話そう。君が何を知っているのか、何があったのか。僕が忘れていることも……全部」
指先が触れた。
その瞬間。
少年の身体が、黒く染まった。
「――っ!」
指先から、墨を落としたような黒い筋が広がっていく。
手首。
腕。
肩。
首。
少年の身体を、黒い亀裂が走り抜けた。
「え……?」
少年が、自分の手を見下ろす。
「違う」
初めて、その声に恐怖が混じった。
「違う、まだ……」
黒い霧が少年の背後から溢れ出した。
その霧の中に、何かがいた。
人間の形をしているようにも見える。
しかし、頭があるのかも分からない。
手足があるのかも分からない。
ただ、そこにいる。
存在しているという事実だけが、白い世界を押し潰していた。
出久は少年を引き寄せようとした。
「待ってろ!」
しかし、少年は首を横に振った。
「来ちゃ駄目だ!」
「でも――!」
「君が来たら、また始まっちゃう!」
少年が叫んだ。
その声が、初めて白い世界全体に響き渡った。
「今度こそ、終わらせなきゃいけないんだ!」
黒い霧が、少年の身体を呑み込んだ。
出久の指先から、温度が消える。
「待て!」
伸ばした手が空を切った。
少年の姿が消える。
黒い霧も消える。
白い世界が、再び静寂に包まれた。
その中央に。
小さな紙片が、一枚だけ落ちていた。
出久は拾い上げる。
そこには、見覚えのある文字が書かれていた。
自分の筆跡だった。
間違いない。
これは、自分が書いた文字だ。
しかし、その内容は。
出久の知らないものだった。
『三度目は、彼を救う』
その下に、もう一行。
『四度目を始めてはいけない』
出久が顔を上げる。
白い世界の彼方で、巨大な影が目を開いた。
目ではなかった。
瞳でもなかった。
それは、こちらを認識するためだけに生まれた、無数の窓のようなものだった。
そのすべてが、出久を見ていた。
そして。
声がした。
声ではない。
言葉の形をした、認識そのものだった。
『対象個体を確認』
『緑谷出久』
『生存状態を再評価』
『記憶情報の欠落を確認』
『再構築を――』
「断る」
出久は、紙片を握り締めた。
巨大な影の動きが止まった。
「僕は……君たちの言う通りにはしない」
恐怖はあった。
身体が震えていた。
何が起きているのか、何ひとつ分かっていない。
自分が何度死んだのかも。
世界が何度やり直されたのかも。
なぜ幼い自分が、あんな顔で泣いていたのかも。
何も分からない。
それでも。
「僕は僕の意志で生きる」
出久は、顔を上げた。
「誰かを救うために、自分を犠牲にすることだけが、僕の選択肢じゃない」
巨大な影が、わずかに揺れた。
『選択を確認』
『予測結果との不一致を検出』
『再観測の必要性を再評価』
その瞬間。
白い世界に、ひびが入った。
今度は、出久の足元ではない。
空間そのものに。
亀裂の向こうから、誰かの声が聞こえた。
「――緑谷くん!」
お茶子の声だった。
「デク!」
爆豪の声。
「緑谷!」
相澤の声。
彼らが、自分を呼んでいる。
出久は、手を伸ばした。
白い世界が崩壊する。
巨大な影が、最後にもう一度だけ言葉を発した。
『観測対象の選択を記録』
『次回観測まで、待機』
そして。
世界が、裏返った。
◇
「――緑谷くん!」
お茶子の叫びと同時に、出久は息を吸い込んだ。
肺が痛い。
喉が焼ける。
まるで、何時間も水の中に沈んでいたかのようだった。
「っ、はっ……!」
目の前に、見慣れた天井があった。
雄英高校、地下特別面談室。
白い壁。
防爆扉。
天井の監視カメラ。
そして、自分を取り囲む四人の姿。
相澤が、出久の肩をつかんでいた。
「緑谷! 聞こえるか!」
「せ、先生……?」
「意識はあるな。自分の名前を言え。ここがどこか分かるか」
「緑谷出久……雄英高校の地下面談室です」
「最後に覚えていることは?」
「……」
出久は、口を開いた。
しかし、言葉が出なかった。
白い空間。
幼い自分。
黒い霧。
巨大な影。
紙片に書かれた文字。
すべて覚えている。
覚えているはずなのに。
記憶の中心に、ぽっかりと穴が開いていた。
「……十三秒」
ようやく、それだけを口にした。
爆豪が眉をひそめる。
「何だ、それ」
「分からない。でも……」
出久は、自分の手を見た。
右手。
そこには何もない。
しかし、指先にだけ、かすかな感触が残っていた。
小さな手の温度。
誰かを助けたいと願った、幼い自分の温度。
「誰かが……僕を呼んでた」
お茶子が息を呑む。
「誰かって……?」
「僕、だと思う」
沈黙が落ちた。
轟が静かに口を開く。
「自分自身に呼ばれた、ということか」
「うん……たぶん」
「たぶんって何だよ、たぶんって!」
爆豪の声が響いた。
「お前、今、消えてたんだぞ!」
「……え?」
出久は顔を上げた。
爆豪は怒っていた。
いつものように。
いや。
いつも以上に。
その拳が震えていることに、出久は気づいた。
「十三秒だ。カメラもセンサーも全部同時に飛んだ。お前ら五人が消えた。扉は開いてねえ。壁も壊れてねえ。なのに、次の瞬間には全員そろってやがった」
「……全員?」
出久は、周囲を見渡した。
相澤。
爆豪。
轟。
お茶子。
そして、自分。
確かに、全員いる。
「他の人たちは……?」
「俺たち以外は、この部屋には入ってねえ」
相澤が答えた。
「監視記録上はな」
その言葉に、出久は違和感を覚えた。
「監視記録上は?」
相澤は答えなかった。
代わりに、部屋の隅を見た。
そこには、透明な防護パネルに囲まれた小型の記録端末があった。
端末の画面は、正常に動作している。
しかし、その表示内容がおかしかった。
面談室の入退室記録。
出久たち五人の名前が、一覧に並んでいる。
その下に、見慣れない一行があった。
『在室人数:四名』
出久は、思わず目をこすった。
もう一度見る。
『在室人数:四名』
五人いる。
どう見ても、五人いる。
なのに、端末は四人と表示していた。
「先生、これ……」
「気づいている」
相澤が短く答える。
「お前たちが消えた瞬間、在室人数はゼロになった。再出現した瞬間に四へ戻った」
「……四?」
お茶子が、青ざめた顔で自分たちを見た。
爆豪。
轟。
相澤。
お茶子。
そして出久。
五人。
確かに、五人いる。
「じゃあ……誰が、いないことになってるの?」
誰も答えなかった。
答えは、あまりにも簡単だったからだ。
出久は、ゆっくりと端末へ近づいた。
名前の一覧を確認する。
相澤消太。
爆豪勝己。
轟焦凍。
麗日お茶子。
緑谷出久。
五人の名前がある。
しかし、そのうち一人の名前だけ、文字の色が違っていた。
緑谷出久。
灰色。
他の四人は白色だった。
「……僕の名前だけ、灰色になってる」
相澤が端末を操作した。
表示が切り替わる。
『対象個体:緑谷出久』
『存在状態:暫定』
『生存記録:確認中』
『死亡記録:確定』
お茶子が口元を押さえた。
「そんな……」
爆豪の表情が凍りついた。
「ふざけんな」
低い声だった。
「何が死亡記録だ。こいつはここにいるだろうが」
端末は反応しない。
「生きてんだろうが!」
爆豪が端末を殴りつけた。
鈍い音が響く。
防護パネルに亀裂が走った。
「爆豪!」
相澤が制止する。
しかし、爆豪は端末を睨みつけたままだった。
「記録が間違ってんだよ。こいつは生きてる。俺が見てんだ。ここにいる。呼吸してる。喋ってる。……それのどこが死亡だ」
最後の言葉は、怒鳴り声にならなかった。
ただ、ひどく低く。
ひどく苦しそうだった。
出久は、胸が痛くなった。
「爆豪くん……」
「黙れ」
「でも……」
「黙れっつってんだろ!」
爆豪が振り返った。
その目を見た瞬間、出久は言葉を失った。
怒り。
恐怖。
そして、その奥にある、何か。
それは、出久が知っている感情だった。
かつて、自分が何度も彼に向けさせてしまったもの。
自分が勝手に傷つき、自分が勝手に犠牲になり、周囲の人間に何も言わずに戦場へ向かっていた頃。
爆豪は、何度も怒った。
勝手に死のうとするな。
勝手に全部背負うな。
勝手に俺たちを置いていくな。
その怒りが、今、再び彼の目に浮かんでいた。
「……二度と、勝手に消えんじゃねえ」
爆豪は、それだけ言った。
出久は、うまく笑えなかった。
「……うん」
約束できるかどうかも分からない。
自分が何に巻き込まれているのか、何ひとつ分かっていない。
それでも。
「約束する」
爆豪は何も言わなかった。
ただ、出久から目を逸らさなかった。
◇
同じ頃。
面談室の外では、雄英の技術スタッフが異常記録の解析を進めていた。
「あり得ない……」
若い技術者が、何度も画面を確認する。
彼の名前は伏せられていた。
この事件に関する記録は、すでに通常の校内ネットワークから切り離されていたからだ。
「監視カメラは正常。映像データも破損していない。なのに、十三秒間だけ、映像そのものが存在していない」
「フレーム落ちじゃないのか?」
「違います。フレーム落ちなら、前後の映像に時間の飛びが出る。でも今回は、時刻情報まで連続しているんです」
別の技術者が画面を覗き込む。
「つまり?」
「映像が失われたんじゃない。最初から、そこに何も起きていなかったことになっている」
室内が静まり返った。
そのとき、別の端末から警告音が鳴った。
「……待ってください」
若い技術者が顔を上げる。
「これは、どこのシステムですか?」
「何が?」
「この端末、今、外部からアクセスを受けています」
「外部? ネットワークから切り離しているだろう」
「だから、おかしいんです」
画面には、黒い背景に白い文字が表示されていた。
誰も操作していない。
カーソルも動いていない。
文字だけが、ひとりでに増えていく。
『観測対象の状態を確認しています』
『存在履歴の整合性を確認しています』
『前回記録との照合を開始します』
技術者たちは息を呑んだ。
その下に、さらに一行が現れた。
『緑谷出久』
そして。
『観測回数:三』
「……三?」
誰かが呟いた。
その瞬間、画面が一度だけ明滅した。
表示が変わる。
『観測回数:四』
技術者の一人が、慌てて電源を切った。
画面が暗くなる。
しかし、警告音は止まらなかった。
電源を切ったはずの端末から、音が鳴り続けている。
そして、暗い画面に。
誰かの顔が映った。
緑色の髪。
幼い顔。
大きな瞳。
画面の向こうにいる少年は、ゆっくりと口を開いた。
『まだ、見つからない』
技術者たちは、誰も動けなかった。
『今度こそ、見つけないと』
少年が、こちらを見た。
そして、微笑んだ。
『あの人が、また死んじゃうから』
画面が真っ暗になった。
警告音が止まる。
室内に、静寂が戻った。
誰もが、今見たものを理解できなかった。
ただ一つ。
全員が同じことを考えていた。
――あれは、本当に緑谷出久だったのか。
◇
面談室。
出久は、椅子に座ったまま、自分の手を見つめていた。
白い空間の記憶は、少しずつ薄れている。
それでも、完全には消えていなかった。
幼い自分。
黒い霧。
巨大な影。
そして、あの紙片。
『三度目は、彼を救う』
『四度目を始めてはいけない』
彼とは、誰なのか。
自分を救おうとしていた男なのか。
それとも。
自分が救おうとしている、誰かなのか。
「緑谷」
相澤が声をかけた。
「少し休め。今の状態で調査を続けても、まともな判断はできない」
「でも……」
「でも、じゃない」
相澤は厳しい声で言った。
「お前が何を見たのかは、あとで聞く。今は身体の状態を確認する。異常があれば、すぐに対応する」
「……はい」
出久は頷いた。
そのときだった。
面談室の外から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
扉が開く。
入ってきたのは、塚内直正だった。
「相澤くん。緑谷くん。……全員、無事か?」
「今のところは」
相澤が答える。
「何があった?」
塚内は手に持っていたタブレットを見せた。
「君たちが消えた十三秒間について、別の異常が確認された」
「別の異常?」
「雄英だけじゃない」
塚内の表情は、いつになく硬かった。
「同じ時刻に、世界各地で同じ現象が発生している」
出久は顔を上げた。
「……世界各地?」
「ああ。病院、警察署、研究施設、一般家庭。場所も状況も違う。だが、共通点がある」
塚内は画面を操作した。
複数の映像が表示される。
病室のベッド。
警察署の取調室。
住宅街の交差点。
研究所の実験室。
どの映像も、ある瞬間に十三秒間だけ途切れていた。
そして、その途切れた時間の前後で。
死者が消えていた。
ある病院では、蘇生したばかりの老人が姿を消した。
ある警察署では、保護されていた帰還者が消えた。
ある住宅では、十三年前に亡くなった女性が、家族の目の前で消失した。
そして。
最後の映像。
雄英高校の映像だった。
地下特別面談室。
五人の姿が消える。
十三秒後、五人が戻る。
そこまでは、先ほど見た映像と同じだった。
しかし、塚内が映像を拡大すると。
出久の姿が消えた瞬間、画面の端に、もう一人の人物が映っていた。
面談室の隅。
壁際。
誰もいなかったはずの場所に。
男が立っていた。
存在しない男。
彼は、消えていく出久を見つめていた。
その表情は。
絶望していた。
まるで、また同じことが起きてしまったかのように。
「……彼は、いつからそこにいたんですか?」
出久が尋ねた。
「分からない」
塚内は首を横に振った。
「映像を遡っても、彼が入室する場面はない。そもそも、彼の姿は、君たちが消える直前の映像にしか映っていないんだ」
「じゃあ……」
「十三秒間の空白の中だけ、存在していた可能性がある」
誰も言葉を発しなかった。
塚内は、もう一つの映像を表示した。
それは、面談室の外に設置された監視カメラの映像だった。
扉は閉じたまま。
誰も出入りしていない。
しかし、扉の前に置かれた小さな観葉植物が、一瞬だけ揺れていた。
まるで、そこを誰かが通り抜けたかのように。
次の瞬間。
植物の葉が、一枚だけ落ちた。
その葉は、床に触れる直前。
黒い霧に包まれ、消えた。
「……死者が消えているだけじゃない」
お茶子が呟いた。
「何かが……世界の中から、いろんなものを消してる」
「そう考えるのが妥当だろうな」
塚内は頷いた。
「問題は、それが何を基準にしているのかだ」
出久は、目を閉じた。
白い空間の中で、幼い自分が言った言葉が蘇る。
『君が生きている限り、世界はやり直される』
もし、それが本当なら。
もし、自分が世界の再構築に関わっているのなら。
自分が生きていること自体が、誰かを危険にさらしているのだろうか。
自分が存在することが、世界を壊しているのだろうか。
考えたくなかった。
けれど、考えずにはいられなかった。
「……塚内さん」
「何だ?」
「僕たちが消えた十三秒間。その前後で、ほかに何か変わったことはありませんでしたか?」
塚内は、少し考えた。
「ある」
彼は、別の記録を表示した。
「君たちが消える直前、世界中の複数の観測機器が、同じ方向を向いた」
「方向?」
「方角と言っていいのか分からない。地上の観測機器だけじゃない。衛星、宇宙望遠鏡、深海の測定装置まで、同じ瞬間に、同じ座標を示した」
画面に、地球の図が表示される。
無数の線が伸びている。
それらは、地球上のあらゆる場所から、一つの地点へ向かっていた。
南極大陸。
死神が目覚めた場所。
そして、十三週間前から異常が始まった場所。
「……南極」
出久が呟いた。
「ああ」
塚内は頷いた。
「だが、座標は南極の地表じゃない。地下でもない。観測結果によれば、その地点は――」
彼は言葉を切った。
そして、慎重に続けた。
「地球の外側にある」
室内が凍りついた。
「宇宙空間、という意味ですか?」
轟が尋ねる。
「いや。宇宙空間とも違う」
塚内は、苦い顔をした。
「観測機器が示した座標は、地球からの距離を計算できなかった。距離を測定しようとすると、数値が無限大になる。ところが、同時に、地球の中心からわずか数メートルの地点としても記録されている」
「……何だよ、それ」
爆豪が吐き捨てた。
「外側にあるのに、内側にもあるってことか?」
「そういうことになる」
「ふざけんな。どこの馬鹿がそんな座標を作った」
「分からない」
塚内は、出久を見た。
「だが、一つだけ確かなことがある」
その目は、警察官としての厳しさと、ひとりの人間としての不安を同時に湛えていた。
「この現象は、死者の帰還が始まったときから続いていたわけじゃない。少なくとも、今回の十三秒間の空白は違う」
「……何が違うんですか?」
「今回、初めて観測された反応がある」
塚内は、最後の画面を表示した。
そこには、たった一つの文字列が記録されていた。
『再観測』
その下に、小さな数字がある。
『対象:緑谷出久』
そして。
『観測回数:四』
◇
同じ頃。
雄英高校の地下、隔離された観察室。
存在しない男は、椅子に座っていた。
両手を握り締め、床を見つめている。
彼は、何も話さなかった。
誰が問いかけても。
何を尋ねられても。
ただ、同じ言葉を繰り返すだけだった。
「……間に合わなかった」
警備員が困惑した表情を浮かべる。
「何が間に合わなかったんだ?」
「また、間に合わなかった」
男は顔を上げた。
その目は、真っ赤に充血していた。
「彼が消えるのを、止められなかった」
「緑谷出久のことか?」
男は答えない。
代わりに、震える手で自分の胸を押さえた。
「今度こそ……救いたかったのに」
警備員は、彼の様子を見つめていた。
危険人物。
正体不明。
身元不明。
異常現象との関連が疑われる存在。
そうした分類はいくらでもできる。
しかし、目の前の男は。
ただ、泣いていた。
自分が救えなかった誰かを思い出しながら。
「……君は、何者なんだ?」
警備員が尋ねた。
男は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「僕は……」
言葉が止まる。
眉間に皺が寄った。
何かを思い出そうとしている。
しかし、記憶の奥に手を伸ばすたび、黒い霧のようなものが視界を覆う。
「……分からない」
男は呟いた。
「自分の名前も、顔も、何もかも……」
その目から、涙がこぼれた。
「でも、あの人だけは覚えてる」
「緑谷出久か?」
「違う」
男は首を横に振った。
「緑谷出久だけじゃない」
彼は、震える唇で続けた。
「僕は……あの人たちを、何度も見てきた」
警備員の表情が変わった。
「何度も?」
「何度も、何度も……」
男は頭を抱えた。
「死んでいくところを」
その瞬間。
観察室の照明が、一度だけ明滅した。
男が顔を上げる。
壁の向こうから、何かが聞こえた。
声ではない。
音でもない。
それなのに、男には分かった。
また来たのだ。
世界を見ているものが。
自分たちの存在を、記録しようとしているものが。
男は、椅子から立ち上がった。
「……駄目だ」
警備員が身構える。
「おい、どうした!」
「駄目だ。まだ、早い」
男は壁を見つめた。
その向こうに何があるのか。
彼には、分かっていた。
いや。
正確には、思い出しかけていた。
「まだ、彼に思い出させちゃいけない」
男の声が震える。
「思い出したら……また、同じことになる」
壁の表面に、細い黒い線が走った。
男は、歯を食いしばった。
「頼むから……」
黒い線が広がる。
「今度だけは、やめてくれ」
壁の向こうから、何かが応えた。
『観測対象の記憶情報に異常を確認』
『介入者の存在を検出』
『個体情報の照合を開始』
男の顔から、血の気が引いた。
その言葉を知っている。
この声を知っている。
そして、このあと何が起こるのかも。
男は、震える手で壁に触れた。
「……僕は、君たちの言いなりにはならない」
黒い亀裂が、彼の手の下で止まった。
「彼を救う」
男は、はっきりと言った。
「今度こそ、必ず」
その瞬間。
壁に浮かんでいた文字が、ゆっくりと書き換わった。
『介入者の意思を確認』
『敵対行動の可能性を検出』
『排除対象に指定』
男は笑った。
涙を流しながら。
「……そうだよ」
彼は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「僕は、君たちの敵だ」
◇
その日の夕方。
雄英高校の屋上に、緑谷出久の姿があった。
風が吹いている。
空は青い。
遠くには、復興の進む街並みが広がっていた。
かつて大きな戦いがあった場所。
多くの人が傷つき、多くの人が命を落とした場所。
それでも、人々は生きている。
街を直し、仕事をし、食事をして、笑っている。
死者が帰ってきた世界でも。
世界が何度もやり直されているかもしれない世界でも。
人々は、今日を生きている。
出久は、手すりに手を置いた。
「……僕が生きている限り、世界はやり直される」
あの少年の言葉が、頭から離れなかった。
もし、それが本当なら。
自分が生きていることが、世界を繰り返す原因なのかもしれない。
だが。
それを確かめるために、自分が死ぬわけにはいかない。
それだけは、分かっていた。
自分が死んだら、何かが終わるのかもしれない。
しかし、何が終わるのか分からないまま、自分の命を差し出すことはできない。
それは、かつての自分が何度も繰り返してきた過ちと同じだからだ。
「……ひとりで決めるな、か」
ふと、爆豪の言葉が蘇った。
勝手に消えるな。
勝手に全部背負うな。
勝手に俺たちを置いていくな。
出久は、小さく笑った。
「……本当に、厳しいなあ」
「誰が?」
背後から声がした。
振り返る。
お茶子が立っていた。
彼女は、飲み物を二つ持っていた。
「はい。温かいやつ」
「ありがとう」
出久は受け取った。
二人は並んで、街を見下ろした。
しばらく、何も話さなかった。
沈黙は、不思議と苦しくなかった。
やがて、お茶子が口を開いた。
「……怖かった?」
出久は、すぐには答えなかった。
誤魔化すこともできた。
大丈夫だと笑うこともできた。
でも。
「……うん」
彼は、正直に答えた。
「怖かった」
お茶子は頷いた。
「そっか」
「自分が何を見たのか、まだよく分からない。でも……僕が、何か大事なことを忘れている気がする」
「うん」
「それが、みんなを危険にさらしているのかもしれない」
お茶子は、出久を見た。
「……だから、ひとりで何とかしようと思った?」
出久は、答えられなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
お茶子は、小さく息を吐いた。
「出久くん」
「うん」
「私、あなたが何を忘れているのか、まだ分からない」
「……うん」
「世界が何回やり直されているのかも、あなたが本当に死んだことがあるのかも、分からない」
彼女は、手すりに両手を置いた。
「でもね」
夕方の風が、彼女の髪を揺らした。
「あなたが怖いって言ってくれたことは、分かったよ」
出久は、顔を上げた。
「……お茶子ちゃん」
「怖いなら、怖いって言っていいんだよ。分からないなら、分からないって言っていい。私たち、そういうことを一緒に考えるためにいるんじゃないの?」
彼女は笑った。
その笑顔は、少しだけ震えていた。
「もちろん、何でもすぐに解決できるわけじゃないと思う。私だって、怖いし……何が起きているのか分からないのは、不安だよ」
彼女は、出久の手を取った。
「でも、だからこそ、一緒にいたいんだ」
出久の胸が、熱くなった。
「……うん」
「また何かあったら、ちゃんと言ってね」
「……うん」
「約束」
お茶子が小指を差し出した。
出久は、一瞬だけ目を見開いた。
そして、微笑んだ。
小指を絡める。
「約束する」
その瞬間だった。
出久のポケットの中で、端末が震えた。
雄英の緊急連絡用端末。
画面には、相澤からのメッセージが表示されていた。
『緊急。隔離観察室で異常発生』
続けて、もう一通。
『対象の男が、身元を思い出した可能性がある』
出久は画面を見つめた。
その下に、三通目のメッセージが届く。
『本人が名乗った名前は――』
文章が途切れていた。
送信者は相澤。
しかし、メッセージの末尾に、見覚えのない文字列が追加されていた。
『緑谷出久』
『死亡記録:確定』
『観測回数:四』
出久の指先が、冷たくなった。
その直後。
端末の画面が暗転した。
そして、文字が浮かび上がる。
『次の観測を開始します』
お茶子が、出久の手を握り直した。
「……出久くん?」
出久は答えなかった。
空を見上げる。
青い空の、ほんの一瞬。
雲の向こう側に、黒い亀裂が走ったように見えた。
瞬きをする。
亀裂は消えていた。
しかし。
今度は、はっきりと聞こえた。
あの声が。
白い世界で、自分を見ていたものの声が。
『緑谷出久』
『観測対象を確認』
『次回観測まで、待機』
出久は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、隣にいるお茶子の手を握り返した。
もう、ひとりで抱え込まない。
そう決めたばかりなのだから。
たとえ世界が、自分を何度も死者として記録しようとも。
自分が何を忘れていようとも。
自分の人生を、自分以外の誰かに決めさせるつもりはなかった。
――まだ、何も終わっていない。
だが、出久はまだ知らない。
自分が手を握っているこの瞬間でさえ。
世界のどこかでは、十三年前に死んだ人々が、再び姿を消し始めていることを。
そして、雄英高校の地下で。
存在しない男が、ついに自分の名前を思い出したことを。
彼の名は――。
その名前を記録しようとした瞬間、世界から文字が消えた。
まるで、その名前だけは、まだ誰にも知られてはならないとでもいうように。
第二章 帰還者
第三話 十三秒間の空白 完
次回、第四話「名前を失った男