僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第八話「翼の下に、帰る場所はない」

1 目を覚ました男

最初に感じたのは、寒さだった。

 

次に、硬い床の感触。

 

それから、鼻をくすぐる消毒液の匂い。

 

「…………ん?」

 

分倍河原仁は、ゆっくりと目を開けた。

 

見知らぬ天井。

 

白い壁。

 

簡易ベッドが並ぶ広い部屋。

 

窓にはカーテンがかかり、その隙間から、朝の光が差し込んでいた。

 

遠くで誰かが話している。

 

廊下を歩く足音。

 

水の流れる音。

 

ありふれた、世界の音。

 

「……ここ、どこ?」

 

仁は上体を起こした。

 

痛みはない。

 

いや、痛みがないことが、かえって不自然だった。

 

自分は死んだはずだ。

 

あの日。

 

あの場所。

 

羽根が舞っていた。

 

逃げなければならなかった。

 

仲間のもとへ戻らなければならなかった。

 

なのに、目の前にいたのは――。

 

「……ホークス」

 

その名を口にした瞬間、喉の奥が凍りついた。

 

記憶は、ある。

 

自分が何を考えていたのか。

 

誰のために戦おうとしたのか。

 

何を守ろうとしていたのか。

 

そして、誰が自分の前に立っていたのか。

 

全部、覚えている。

 

忘れていない。

 

忘れられるはずがない。

 

「……いやいやいやいや、待て待て待て。ちょっと待てよ。落ち着け俺。落ち着くんだ俺。こういうときは冷静に、冷静に考えるんだ。……冷静になんかなれるかぁ!」

 

自分の声が、部屋のなかに響いた。

 

近くのベッドにいた男が目を覚まし、不思議そうに仁を見た。

 

仁は慌てて両手を上げる。

 

「あっ、すいません! 違うんです! いや、違わないんですけど違うんです! 俺は変な人じゃない! いや、変な人かもしれないけど、今はそういう話じゃないんだ!」

 

「……あの、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫です! 大丈夫じゃないです! 大丈夫なわけねえだろ、死んでたんだぞ俺は!」

 

言ってから、仁は口を閉じた。

 

相手の男は、何も答えなかった。

 

ただ、困ったように目をそらした。

 

仁はその表情を見て、急に自分がひどく場違いな存在になったような気がした。

 

死んだ。

 

そうだ。

 

自分は死んだ。

 

そして今、ここにいる。

 

それがどういうことなのか、誰も説明してくれない。

 

説明できないのかもしれない。

 

誰かが、自分を生き返らせたのか。

 

何かの間違いで戻ってきたのか。

 

死んだ人間が戻ってくるような世界に、自分が巻き込まれただけなのか。

 

分からない。

 

何も分からない。

 

ただ、一つだけ分かることがあった。

 

「……みんなは?」

 

仁はベッドから降りた。

 

足が床につく。

 

ちゃんと立てた。

 

それだけのことが、恐ろしくなった。

 

「なあ、すみません。ここにいた人、俺以外にもいますよね? 俺の仲間っていうか、あの、ちょっと見た目が怖かったり、妙に明るかったり、やたらと口が悪かったりする連中なんですけど」

 

相手の男が戸惑う。

 

「仲間……ですか?」

 

「そう! 仲間! 俺には仲間がいるんだ。いたんだ! いや、いるんだよ! 勝手に過去形にするな俺!」

 

「ここで保護された方々については、こちらで確認を――」

 

「保護?」

 

その単語に、仁の顔から表情が消えた。

 

「……保護、って何?」

 

男は答えに詰まった。

 

仁は気づいていた。

 

ここは、誰かを助けるための施設なのだろう。

 

死から戻った人間。

 

身元や居場所を失った人間。

 

以前の生活に戻れない人間。

 

事情を抱えた人間。

 

そんな人々を、一時的に受け入れるための場所。

 

そこにいる者たちが、皆、親切ではないとは思わない。

 

実際、今も目の前の男は仁を心配してくれている。

 

だが。

 

「……俺の仲間は?」

 

「すみません。今の時点では、こちらからお伝えできる情報が限られていて……」

 

「限られてる?」

 

「個人情報や安全上の理由もありますので――」

 

「……ああ」

 

仁は笑った。

 

口元だけが、ひきつったように動いた。

 

「そうだよな。そりゃそうだよな。俺、死んでたんだもんな。死んでた奴が戻ってきて、いきなり仲間の居場所を教えろって。そりゃ無理だ。無理に決まってる。……決まってるけどさあ」

 

笑いながら、仁は部屋を見渡した。

 

何もない。

 

自分の服は、畳んでベッドの脇に置かれている。

 

荷物はない。

 

財布もない。

 

携帯電話もない。

 

自分のいた世界の続きに立っているはずなのに、自分がそこにいた証拠だけが、どこにも見当たらない。

 

「……じゃあ、せめて外に出てもいい?」

 

「体調を確認してからのほうが――」

 

「もう大丈夫! すこぶる健康! 人生最高の目覚め! いや、人生で一番意味が分からない目覚めだけど!」

 

仁は服をつかんだ。

 

「俺、探さなきゃいけないんだ」

 

「どなたを?」

 

仁は答えようとした。

 

名前を挙げようとした。

 

だが、頭のなかに浮かんだ顔は、一つではなかった。

 

トガ。

 

スピナー。

 

コンプレス。

 

死柄木。

 

そして――。

 

自分を、仲間だと言ってくれた者たち。

 

自分を、必要だと言ってくれた者たち。

 

自分がいてもいい場所を作ってくれた者たち。

 

「……みんなだよ」

 

仁は小さく答えた。

 

「俺の居場所は、あいつらのところなんだ」

 

それは、誰かを脅かすための宣言ではなかった。

 

ただ、自分が自分であるために必要なことだった。

 

「だから、探さなきゃ」

 

仁は、初めて見る外の世界へ歩き出した。

 

その背中を見送る男は、何も言わなかった。

 

引き止める権利が自分にあるのかどうか、分からなかったからだ。

 

それに。

 

仁の足取りを見ていれば、分かった。

 

この男は、ここに留まっていることなどできない。

 

帰る場所があると信じている者は、そこへ向かおうとする。

 

たとえ、その場所がもう存在しないとしても。

 

2 帰る場所は、地図には載っていない

街は、変わっていた。

 

大きな建物の一部が崩れ、道路には修復の跡が残っている。

 

仮設の施設。

 

復旧作業にあたる人々。

 

避難所から戻っていく住民たち。

 

そして、あちこちで見かける、見慣れない光景。

 

以前なら、ここにはいなかったはずの人々がいる。

 

死んだと報じられた人間。

 

長く行方不明だった人間。

 

もう戻らないと、誰もが思っていた人間。

 

彼らは皆、何かを尋ねていた。

 

自分の家はどこにあるのか。

 

家族は無事なのか。

 

自分の名前は、まだ残っているのか。

 

自分がいなくなったあと、何があったのか。

 

答えを与えられる者は、ほとんどいなかった。

 

誰もが、自分の足元を確かめるだけで精いっぱいだった。

 

仁は、人の流れに逆らうように歩いていた。

 

「トガちゃん……」

 

名前を口にする。

 

「スピナー……」

 

また、口にする。

 

「コンプレス……死柄木……」

 

呼ぶたびに、胸がざわついた。

 

返事はない。

 

当然だ。

 

ここは街だ。

 

人が多い。

 

誰かの声が自分に届くとは限らない。

 

分かっている。

 

分かっているのに、声をかけずにはいられなかった。

 

「あの! すみません! このへんで、こう……仲間を探してる人とか、見かけませんでした? いや、仲間っていうか……」

 

「申し訳ありません。こちらでは分かりません」

 

「ですよね! そうですよね! すみません!」

 

次の人に尋ねる。

 

また断られる。

 

その次の人にも。

 

今度は、露骨に警戒された。

 

仁は、少しずつ声を小さくしていった。

 

かつて自分は、他人から警戒されることに慣れていた。

 

嘘をついたことがある。

 

騙されたこともある。

 

誰かに迷惑をかけたこともある。

 

失敗した。

 

それでも、もう一度やり直せると思った。

 

自分を信じてくれる人間がいるのなら、そいつらを裏切らないように生きたいと思った。

 

だから、あの場所にいた。

 

あの連中と一緒にいた。

 

正義の味方から見れば、最低の集団だったのだろう。

 

人を傷つけた。

 

街を壊した。

 

取り返しのつかないことをした。

 

それでも。

 

仁にとって、彼らはただの犯罪者集団ではなかった。

 

自分の失敗を知っても、そばにいてくれた者たちだった。

 

まともではない自分を、最初からまともであることを要求せずに受け入れてくれた者たちだった。

 

もちろん、彼らが何をしても許されるという話ではない。

 

彼らが誰かを傷つけた事実が消えるわけでもない。

 

仁だって、それは分かっていた。

 

分かっていることと、切り捨てられることは違う。

 

世界が彼らを罪人と呼ぶなら、そう呼べばいい。

 

裁くなら、裁けばいい。

 

しかし、彼らを知らない誰かに、彼らとの時間まで無価値だと決められたくはなかった。

 

仁は歩いた。

 

かつて隠れ家として使われていた場所を探した。

 

記憶を頼りに、道を曲がる。

 

見覚えのある路地。

 

閉じた店。

 

修復された壁。

 

かつて自分が仲間と笑っていた建物は、そこにはなかった。

 

建物があったはずの場所は、柵で囲われている。

 

立入禁止。

 

安全確認中。

 

復旧作業区域。

 

文字を追っても、帰る場所の名前は見つからない。

 

仁は柵の前で立ち止まった。

 

「あれ……?」

 

間違えたのだろうか。

 

いや。

 

道は合っている。

 

角にあった看板。

 

向かいの建物。

 

道路のひび。

 

覚えている。

 

ここだ。

 

ここだった。

 

「……あれ?」

 

もう一度、辺りを見た。

 

誰もいない。

 

声も聞こえない。

 

笑い声も、言い争う声も。

 

死柄木がゲームをしている音も。

 

トガが楽しそうに話す声も。

 

スピナーが漫画の話をする声も。

 

コンプレスが芝居がかった調子で何かを語る声も。

 

何もない。

 

風が吹いた。

 

柵に結ばれた注意書きが、かすかに揺れた。

 

「……嘘だろ」

 

仁は、柵に手を伸ばした。

 

触れた。

 

冷たかった。

 

「嘘だろ……?」

 

もう一度。

 

もう一度、辺りを見回す。

 

自分の記憶がおかしくなったのか。

 

世界のほうがおかしくなったのか。

 

どちらだってよかった。

 

どちらであっても、目の前にないものは、そこにない。

 

「……ちょっと、待ってくれよ」

 

声が震えた。

 

「待ってくれよ。俺、戻ってきたんだぞ?」

 

誰に向けた言葉なのか、仁にも分からなかった。

 

「戻ってきたんだよ。せっかく戻ってきたんだ。今度は、ちゃんと話せるかもしれないだろ? 今度は、もう一回……」

 

言葉が続かなかった。

 

今度は。

 

何をするつもりだったのだろう。

 

仲間たちと、もう一度やり直すつもりだったのか。

 

死ぬ前には言えなかったことを、伝えるつもりだったのか。

 

もう少しうまく立ち回って、誰も失わずに済む未来があったかもしれないと、信じようとしていたのか。

 

けれど、その「今度」は、誰のためのものだったのだろう。

 

仁が生き返ったことは、仲間たちが同じ場所にいるという保証にはならない。

 

自分が戻ったことは、過去が元通りになるという意味ではない。

 

彼らが生きているのか。

 

どこにいるのか。

 

自分を覚えているのか。

 

自分を必要としているのか。

 

何一つ、分からない。

 

仁は、柵に額をつけた。

 

「……なんだよ、それ」

 

笑った。

 

笑おうとした。

 

「俺、また一人かよ」

 

その声は、誰にも聞かれなかった。

 

3 英雄は、誰のために翼を広げる

「復帰者支援に関する報告書です」

 

会議室に置かれた資料を、ホークスは黙って見つめていた。

 

死亡が確認されていた人物。

 

記録上は、存在が失われたはずの人物。

 

生きていたはずなのに、長い間、身元も生活も失っていた人物。

 

そして、本人を取り巻く記録と現実が食い違っている人物。

 

報告書の一枚には、簡潔な情報が記されていた。

 

分倍河原仁。

 

生死をめぐる記録の欄には、修正しきれていない情報が並んでいる。

 

死亡確認。

 

身元再確認。

 

保護施設への搬送。

 

本人確認済み。

 

その下に、手書きの追記があった。

 

本人は、かつての仲間を探している。

 

ホークスは、その一文を何度も読み返した。

 

「……そうですか」

 

声は、普段と変わらなかった。

 

軽い調子。

 

少しだけ気の抜けた、相手に警戒されない声。

 

英雄として人と接するとき、ホークスはその声を使い分けてきた。

 

相手を安心させる声。

 

警戒を解く声。

 

事情を聞き出す声。

 

危険な場所にいる人間を、できるだけ落ち着かせる声。

 

そして。

 

相手に、本当の自分を見せないための声。

 

「分倍河原さんは、こちらから接触することを望んでいるんですか?」

 

担当者が首を振った。

 

「現時点では、分かりません。本人は仲間の居場所を探しているようです。支援そのものを拒否しているわけではありませんが、特定の人物との面会については、希望を確認できていません」

 

「……なるほど」

 

ホークスは資料を閉じた。

 

「俺からは、接触しないでください」

 

担当者が顔を上げる。

 

「よろしいのですか?」

 

「よろしいも何も。本人が望んでないんでしょう?」

 

「いえ、まだ確認できていないという意味で――」

 

「だったら、確認できるまで待ちましょう」

 

ホークスは笑った。

 

いつもと同じ、穏やかな笑顔だった。

 

「保護されている方に必要なのは、まず安全と、これからどうするかを自分で決められる余地です。会いたい人に会えるように手伝うのはいい。でも、会う相手までこっちが決めちゃ駄目でしょう」

 

「……そうですね」

 

「俺が行けば、相手に余計な負担をかける可能性もありますし」

 

担当者は、それ以上は尋ねなかった。

 

ホークスも、説明しなかった。

 

説明できないからではない。

 

説明すれば、自分の都合が混ざるからだ。

 

自分が行けば、仁の安全を確認できる。

 

自分が行けば、彼が何を望んでいるのか聞ける。

 

自分が行けば、何かを償えるかもしれない。

 

そう考えることは、簡単だった。

 

けれど、その考えの中心にいるのは、誰だろう。

 

仁だろうか。

 

それとも、仁を殺した自分だろうか。

 

ホークスは会議室を出た。

 

廊下には、取材を終えた記者たちの声が響いていた。

 

復興。

 

再建。

 

新しい英雄社会。

 

失われた命が戻ってきたことへの驚き。

 

それによって、社会がどう変わるのかという期待。

 

誰もが、未来を語りたがっていた。

 

未来を語ることが悪いわけではない。

 

前へ進まなければならないのも分かる。

 

けれど、ホークスには、どうしても先に進めない場所があった。

 

一人の男の名前が書かれた、たった一枚の報告書。

 

分倍河原仁。

 

トゥワイス。

 

自分が、殺した男。

 

「……はぁ」

 

ホークスは廊下の窓から外を見た。

 

遠くに、復旧作業を進める人々の姿があった。

 

その上を、小さな鳥が飛んでいく。

 

翼を広げれば、鳥は風をつかむ。

 

風をつかめば、遠くまで行ける。

 

ホークスは、その翼で多くの人を助けてきた。

 

速く飛ぶための翼。

 

誰よりも早く危険を察知するための翼。

 

誰かを抱えて運ぶための翼。

 

敵の動きを封じるための翼。

 

そして――。

 

一人の男を、殺すために使った翼。

 

「……あんたなら、どうするんだろうな」

 

小さくつぶやいた。

 

誰に向けた問いなのか、ホークスにも分からなかった。

 

かつての自分か。

 

自分を英雄にした人々か。

 

自分が救ってきた誰かか。

 

あるいは、自分が殺した男か。

 

答えはなかった。

 

窓の外で、鳥は遠ざかっていった。

 

ホークスは目を伏せた。

 

彼は、仁に会いたかった。

 

会って、何かを伝えたかった。

 

謝りたかった。

 

生きていてほしいと願いたかった。

 

けれど。

 

「……会いたい、か」

 

その言葉を、自分の口で確かめた瞬間。

 

ホークスは、ひどく嫌なものを見つけた気がした。

 

会いたい。

 

話したい。

 

謝りたい。

 

生きていてほしい。

 

そのどれもが、間違った願いとは限らない。

 

だが、願うことと、相手にそれを受け入れさせることは別だった。

 

自分が会いたいからといって、仁が会いたがっているとは限らない。

 

自分が謝りたいからといって、仁が謝罪を聞きたいとは限らない。

 

自分が償いたいからといって、仁が自分の償いに付き合わなければならない理由はない。

 

そして、自分が助けたいと思っているからといって。

 

仁が、自分に助けられたいとは限らない。

 

「……俺、何やってんだろうな」

 

笑おうとした。

 

いつものように。

 

「いやあ、我ながら面倒くさい男だね。こんなこと考えてる暇があったら、もっとこう、社会のためになることをですね――」

 

声が止まった。

 

その先を続けることができなかった。

 

社会のため。

 

人々のため。

 

未来のため。

 

そうした言葉を並べれば、自分がどこに立っているのか、分かったような気になれた。

 

英雄は、人々を守る。

 

英雄は、危険を排除する。

 

英雄は、必要なときに必要な決断をする。

 

その言葉は、間違いではない。

 

ホークスは、実際にそうしてきた。

 

あの日も、そうだった。

 

トゥワイスの個性が広がれば、戦場は取り返しのつかない事態になりかねなかった。

 

仁を止めなければ、多くの人間が傷つく可能性があった。

 

その判断が、ただの思い違いだったとは言えない。

 

彼は本当に危険な局面にいた。

 

だから、ホークスは止めた。

 

だから、戦った。

 

だから――殺した。

 

だが、必要だったと説明できることと、殺された人間がそれを受け入れなければならないことは、同じではない。

 

当時の判断に理由があったからといって、仁の命が軽くなるわけではない。

 

正義の名の下に選んだ行為だからといって、その行為を受けた相手の怒りまで、正義の説明で片づけていいわけではない。

 

ホークスは手を握った。

 

爪が掌に食い込む。

 

「……言い訳なら、いくらでもできるんだよな」

 

必要だった。

 

他に方法がなかった。

 

あの場では、時間がなかった。

 

多くの人を守るためだった。

 

どれも、事実の一部ではあるのだろう。

 

だが、仁が目の前に立っていたら。

 

その言葉を、一つひとつ聞かされたら。

 

彼は、何を思うだろう。

 

「そんなこと、知るか」

 

そう言うかもしれない。

 

「お前にだけは言われたくない」

 

そう叫ぶかもしれない。

 

あるいは、何も言わないかもしれない。

 

どんな反応をするかは、仁が決めることだ。

 

ホークスが決めていいことではない。

 

「……そうだよな」

 

ホークスは窓に映る自分の顔を見た。

 

笑っていなかった。

 

そこにいるのは、人々が知っている軽妙な英雄ではなかった。

 

一人の男だった。

 

過去に選択をした男。

 

その選択の結果から、逃げることのできない男。

 

「俺が、決めちゃいけないんだ」

 

誰かを助けることと、誰かの生き方を決めること。

 

その境界を、ホークスは知っているつもりだった。

 

それでも、罪悪感が強くなるほど、その境界を越えたくなる。

 

自分が何かをすれば、少しだけ楽になれる気がするからだ。

 

謝罪を受け入れてもらえれば。

 

手を差し伸べ、受け取ってもらえれば。

 

もう一度、誰かを救えたと思えれば。

 

自分は、あの日の自分を許せるかもしれない。

 

だが、それでは駄目だった。

 

仁は、ホークスを許すために戻ってきたのではない。

 

ホークスを救うために戻ってきたのでもない。

 

彼は、仁として戻ってきた。

 

それだけのことだった。

 

だからこそ。

 

ホークスは、自分の気持ちを仁に背負わせてはいけない。

 

その決意だけは、他人に決めてもらうものではなかった。

 

4 正義の味方に、道を尋ねる

「すみません!」

 

仁は、三人目の警察官に声をかけた。

 

「このへんで、俺の仲間を見ませんでしたか?」

 

警察官は、一瞬、仁の顔を見つめた。

 

どこかで見たことがある。

 

そんな表情だった。

 

仁は、警戒した。

 

自分の顔は、知られている。

 

敵連合の一員として、報道されたことがある。

 

犯罪者として、名前が出たこともある。

 

そのこと自体は分かっていた。

 

けれど、今の自分は、何をすればいいのだろう。

 

「……すみません。分倍河原さん、ですよね?」

 

名前を呼ばれた。

 

仁は、ぎこちなく笑った。

 

「はい! いや、はいですけど、あの、俺、別に悪いことをしに来たわけでは――」

 

「分かっています」

 

警察官は、静かに答えた。

 

「今のあなたは、保護対象です。こちらでも、必要な支援を受けられるよう手続きを――」

 

「俺は、仲間を探してるんです!」

 

声が大きくなった。

 

周囲の人々が振り返った。

 

仁は、すぐに頭を下げた。

 

「あっ、すみません! すみません、怒鳴るつもりじゃなくて! 俺、こういうの慣れてなくて! いや、慣れてるんだけど、慣れてないっていうか……」

 

自分でも、何を言っているのか分からなくなった。

 

警察官は、落ち着いた声で話した。

 

「あなたの仲間がどこにいるか、今ここで確かなことは言えません。ただ、捜索のための相談を受ける窓口はあります。必要なら案内します」

 

「……本当ですか?」

 

「はい」

 

仁は、ほっとした。

 

「ありがとうございます! 助かります! いや、本当に助かります。こう、親切にされると……」

 

言葉が詰まった。

 

親切にされると、何をしていいか分からなくなる。

 

かつては、親切にされること自体が珍しかった。

 

仕事を失った。

 

人間関係を失った。

 

金も失った。

 

自分を信じてくれる人間は、ほとんどいなくなった。

 

それでも、何とか生きていた。

 

誰かに認められたいと思っていた。

 

誰かに必要とされたいと思っていた。

 

その願いを、仁は一人で抱えきれなかった。

 

だから、仲間を求めた。

 

そして、彼らと出会った。

 

彼らは、善人ではなかった。

 

仁自身も、善人ではなかった。

 

けれど、彼らの前では、自分が何もかも失敗した人間だということを、毎秒、証明し続けなくてもよかった。

 

うまくできない日もあった。

 

間違えることもあった。

 

それでも、そばにいられた。

 

それが、仁にとっては大きなことだった。

 

「……俺の仲間たち、悪い奴らなんですけどね」

 

警察官が、仁を見た。

 

仁は、慌てて付け足した。

 

「いや、悪い奴らなんです! そりゃもう、悪いんですよ! 俺だって、あいつらがやったこと全部、正しいなんて言えません! 言うつもりもないです! でも……」

 

仁は、視線を落とした。

 

「……でも、俺が一人だったとき、あいつらは俺を仲間にしてくれたんです」

 

警察官は何も言わなかった。

 

「だから、探したいんです。あいつらがどこにいるのか。今、どうしてるのか。俺のことを、どう思ってるのか。何も分からないから……」

 

仁は、拳を握った。

 

「……何も分からないまま、また一人になるのは、嫌なんです」

 

言い終えたあと、仁は自分がひどく情けない人間に思えた。

 

大人の男が、そんな理由で誰かを探している。

 

誰かに必要とされたい。

 

一人になりたくない。

 

そばにいてほしい。

 

当たり前の願いだ。

 

それなのに、口に出すと、どうしようもなく幼い願いに聞こえた。

 

「……すみません」

 

仁は、笑ってごまかした。

 

「変な話ですよね。今さら、何言ってんだって感じですよね」

 

警察官は、首を横に振った。

 

「変な話ではありません」

 

「……え?」

 

「あなたにとって、大切な人たちなんでしょう」

 

仁は、答えられなかった。

 

大切。

 

その言葉を、誰かが自分に向けて使う。

 

ただそれだけのことが、胸に刺さった。

 

「……はい」

 

仁は、ようやく答えた。

 

「……大切です」

 

その一言を口にした瞬間、仁は自分がまだ、ここにいるのだと感じた。

 

死んだ過去を持っていても。

 

どこから戻ってきたのか分からなくても。

 

自分の居場所が失われていても。

 

まだ、自分の気持ちは消えていない。

 

自分の願いは、自分のものだ。

 

誰かが善悪を判断するより先に。

 

誰かが、戻ってきた理由を説明するより先に。

 

仁は、仲間を大切に思っている。

 

その事実だけは、誰にも取り上げられない。

 

警察官は、相談窓口の場所を書いた紙を渡した。

 

仁は、何度も礼を言った。

 

それから歩き出した。

 

紙を握りしめながら。

 

小さな希望を、なくさないように。

 

5 翼の下には、誰の居場所があるのか

その日の夕方。

 

ホークスは、仕事を終えてから、一人で街を歩いていた。

 

特別な目的があるわけではない。

 

少なくとも、そう説明するつもりだった。

 

報告書に書かれた場所を確認するため。

 

復旧の進み具合を、自分の目で確かめるため。

 

支援活動の状況を把握するため。

 

理由ならいくらでも作れた。

 

実際、彼はそのいずれも行っていた。

 

ただ、足が向く場所は、資料に記された施設ではなかった。

 

かつて、ある男と話した場所。

 

敵連合の一員であることを隠し、仲間として振る舞った場所。

 

本当の目的を伏せたまま、笑い合った場所。

 

ホークスは、その記憶から逃れることができなかった。

 

当時、仁は彼を信じた。

 

信じてしまった、と言うべきなのかもしれない。

 

ホークスは、彼の仲間になりすました。

 

話を聞き、笑顔を向け、相手の警戒を解いた。

 

それは、任務の一環だった。

 

敵の内部に入り込み、危険を把握し、被害を未然に防ぐ。

 

英雄としての仕事。

 

必要な仕事。

 

ホークスは、その判断を今でもすべて間違いだったとは言えない。

 

だが、任務だったからといって、仁が感じた友情まで偽物だったと決めつけていいのだろうか。

 

自分が利用した信頼を、最初から存在しなかったものとして扱っていいのだろうか。

 

仁が自分に見せた笑顔は、任務のために作られたものではなかった。

 

仁が語った孤独は、情報を引き出すための材料ではなかった。

 

彼は本当に、ホークスを仲間だと思ったのかもしれない。

 

その信頼を利用したのは、ホークスだ。

 

「……ずるいよな」

 

誰に聞かせるでもなく、言った。

 

自分がどれだけ罪悪感を抱えていようと、仁の気持ちが戻ってくるわけではない。

 

自分がどれだけ後悔しようと、仁が失ったものは、なかったことにはならない。

 

自分が苦しんでいるからといって、仁にその苦しみを理解する義務があるわけでもない。

 

ホークスは、立ち止まった。

 

遠くに、古びた建物が見えた。

 

かつて、仁たちが身を寄せていた場所の一つだった。

 

今では使われていない。

 

外壁は補修されているが、入口には管理区域を示す札が掲げられていた。

 

ホークスは、建物を見つめた。

 

ここで、仁は何を話しただろう。

 

どんなことに笑っただろう。

 

誰の話を、どんな顔で聞いたのだろう。

 

そこにいた自分は、どんな顔をしていたのだろう。

 

英雄としての自分。

 

潜入者としての自分。

 

彼らの敵としての自分。

 

そして、仁が友人だと思っていた自分。

 

いったい、どれが本当だったのだろう。

 

答えは、一つではないのかもしれない。

 

複数の自分が存在することそのものが、嘘なのではない。

 

問題は、その自分たちが、何をしたかだ。

 

ホークスは、翼に触れた。

 

羽根は、風を受けてかすかに揺れた。

 

誰かが怖がっていたら、翼を広げて守る。

 

誰かが危険にさらされていたら、翼を使って飛ぶ。

 

誰かが逃げようとしていたら、追いつく。

 

今まで、そうやって生きてきた。

 

しかし、仁が自分から逃げたいと思ったら。

 

自分を見たくないと思ったら。

 

自分の声を聞きたくないと思ったら。

 

そのとき、翼はどうあるべきなのだろう。

 

道を塞ぐために広げるのか。

 

捕まえるために使うのか。

 

それとも――。

 

「……何もしない、か」

 

口にしてみると、ひどく難しいことのように思えた。

 

ホークスは、誰かを助けるために動くことには慣れている。

 

状況を分析し、必要な手段を選び、結果を引き受ける。

 

だが、誰かの人生に関わりたいと思いながら、相手が自分を必要としているかどうか分からないとき。

 

善意が相手を傷つける可能性があるとき。

 

自分の後悔を解消するために、相手を利用してしまうかもしれないとき。

 

何もしないで待つことは、行動するよりも難しかった。

 

「……俺は、助けたいんだよ」

 

ホークスは、胸の内でつぶやいた。

 

仁を。

 

あの男を。

 

自分が殺した男を。

 

だが、その願いを口にした瞬間、別の声が浮かび上がる。

 

――誰が、助けてくれと頼んだ?

 

ホークスは目を閉じた。

 

答えはなかった。

 

あったとしても、それは仁自身が答えるべきことだ。

 

だから、ホークスは翼を広げなかった。

 

そこに誰もいなかったからではない。

 

助ける必要がないと判断したからでもない。

 

今の自分には、仁が求めてもいないものを差し出さないことが、必要なのだと思ったからだ。

 

守るという言葉を使って、相手の選択を奪わない。

 

支援という言葉を使って、相手に借りを作らせない。

 

謝罪という言葉を使って、相手に許すことを求めない。

 

それが、今の自分にできる、最初の一歩だった。

 

ホークスは、建物に背を向けた。

 

そのときだった。

 

道の向こうに、人影が見えた。

 

少し離れた場所。

 

柵のそばに、一人の男が立っている。

 

黒い衣服。

 

見覚えのある姿勢。

 

落ち着きなく動く手。

 

立ち止まっているのに、どこか今にも走り出しそうな身体。

 

ホークスは、息を止めた。

 

見間違えるはずがなかった。

 

分倍河原仁。

 

トゥワイス。

 

彼が、そこにいた。

 

6 再会は、奇跡とは限らない

先に気づいたのは、仁だった。

 

視線が合った瞬間、彼の身体が固まった。

 

それまで動いていた手が止まる。

 

口元に浮かびかけていた表情が、消える。

 

そして、その顔に、少しずつ何かが戻ってくる。

 

驚き。

 

警戒。

 

怒り。

 

恐怖。

 

懐かしさ。

 

嫌悪。

 

自分でも整理できない感情が、次々と彼の表情を変えていった。

 

「…………」

 

ホークスは、動けなかった。

 

声をかけるべきか。

 

謝るべきか。

 

仁の名前を呼ぶべきか。

 

彼が望んでいるかどうかも分からないのに、自分から言葉をかけていいのか。

 

考えている間に、仁が一歩、後ずさった。

 

その動きを見た瞬間、ホークスは自分の答えを知った。

 

追いかけてはいけない。

 

少なくとも、今は。

 

ホークスは両手をゆっくりと下ろした。

 

翼を閉じる。

 

身体の向きも、逃げ道を塞がないように少しだけ変えた。

 

仁が、眉をひそめた。

 

「……何だよ」

 

声が聞こえた。

 

低く、かすれていた。

 

ホークスは、答えようとした。

 

何かを言わなければと思った。

 

生きていてよかった。

 

戻ってきてくれてうれしい。

 

ずっと、後悔していた。

 

もう一度、話がしたかった。

 

言葉はいくらでも浮かんだ。

 

けれど、そのどれもが、今の仁にとって必要な言葉だとは限らない。

 

「……ホークス」

 

仁が、名前を呼んだ。

 

そこには、かつての親しみはなかった。

 

ただ、名前を知っているから呼んだ。

 

そういう声だった。

 

それが当然だと、ホークスは思った。

 

自分がそうさせたのだから。

 

「……はい」

 

いつもの軽い声を出そうとして、やめた。

 

仁は、ホークスを見ていた。

 

まるで、目の前にいる人間が、本当に存在しているのか確かめるように。

 

「……お前、何でここにいるんだ?」

 

ホークスは、答えを探した。

 

ここに来た理由ならある。

 

仕事の帰りだ。

 

復旧状況を確認していた。

 

かつての記憶をたどっていた。

 

仁に会えたらと思っていた。

 

どれも、嘘ではない。

 

しかし、それらを全部並べれば、真実になるわけではなかった。

 

「……少し、考え事を」

 

口から出たのは、それだけだった。

 

仁は笑った。

 

「考え事?」

 

その笑い方に、ホークスは胸を突かれた。

 

仁がかつて、冗談を言うときに見せていた笑顔とは違う。

 

笑っていなければ、立っていられない人間の顔だった。

 

「へえ。考え事ねえ。英雄様も大変だな。仕事に悩んで、社会に悩んで、世界の未来に悩んで。いやあ、立派だねえ! 俺なんか、自分がどこにいるのかも分かんねえってのに!」

 

仁は笑い続けた。

 

「いや、分かってるよ! ここがどこかぐらい分かる! 分かるけど、俺がいるべき場所がどこなのか、さっぱり分からねえんだよ! あっはっは! 生き返ったら何とかなると思ったのに! 何とかならねえじゃねえか!」

 

ホークスは、黙っていた。

 

慰める言葉が見つからなかった。

 

というより、見つけてはいけない気がした。

 

仁の苦しみは、自分が言葉で整えていいものではない。

 

彼がいま抱えている孤独に、ホークスが勝手に意味を与えてはいけない。

 

「……お前は?」

 

仁の声が変わった。

 

「お前は、何とかなると思ってんのか?」

 

ホークスは、答えられなかった。

 

仁は、彼の沈黙を見ていた。

 

「……そっか」

 

それだけ言って、視線を外した。

 

一歩。

 

仁が動く。

 

ホークスは追わなかった。

 

もう一歩。

 

仁は柵に沿って歩き始めた。

 

ホークスは、その姿を見つめた。

 

仁は、途中で一度だけ振り返った。

 

ホークスが近づいていないことを確かめるように。

 

翼を広げていないことを確かめるように。

 

そこに、今までとは違う何かを探しているように。

 

ホークスは動かなかった。

 

仁は、再び前を向いた。

 

遠ざかっていく背中。

 

それは、かつて自分の前から消えていった背中と、どこか似ていた。

 

あのとき、ホークスは追いつくことを選んだ。

 

逃がしてはならないと判断した。

 

多くの人を守るために。

 

取り返しのつかない事態を防ぐために。

 

そして、今もその判断が必要だった場面はあったのだと、彼は思っている。

 

だが、今日。

 

今、この瞬間。

 

仁が自分から離れていくことを止める理由は、どこにもなかった。

 

少なくとも、ホークスが仁のためだと胸を張って言える理由はなかった。

 

「……待ってください」

 

気づけば、声が出ていた。

 

仁の足が止まった。

 

ホークスは、自分が何をしているのか分からなくなりかけた。

 

引き止めるのか。

 

また、自分の都合で。

 

また、相手の行動を変えようとして。

 

言葉を続ける前に、ホークスは一度、息を吸った。

 

「……いや」

 

自分の声で、自分を止めた。

 

「すみません。今のは、忘れてください」

 

仁が、ゆっくりと振り向いた。

 

「……何だよ、それ」

 

怒りを含んだ声だった。

 

「呼び止めておいて、忘れろって?」

 

「……そうですね」

 

「ふざけんなよ」

 

仁の顔が歪んだ。

 

「何なんだよ、お前! いや、何なんだよ俺! 何で俺、こんなところにいるんだよ! 何でお前がそこにいるんだよ! 何で――」

 

声が途切れた。

 

仁は、口元を押さえた。

 

その手が震えていた。

 

ホークスは、動かなかった。

 

近づけば、支えられるかもしれない。

 

声をかければ、少しは落ち着くかもしれない。

 

そう考える自分がいた。

 

けれど、今の仁が望んでいるのは、支えられることだろうか。

 

自分に、近づかれることだろうか。

 

ホークスは答えを持っていなかった。

 

「……悪い」

 

仁が言った。

 

「……俺、ちょっと、頭が混乱してて」

 

すぐに顔を上げる。

 

「いや、ちょっとじゃねえ! ずっと混乱してる! 死んだと思ったら生き返ってるし、帰る場所はなくなってるし、会いたい奴には会えねえし、会いたくない奴には会っちまうし!」

 

仁は、笑った。

 

今度は、声がほとんど出なかった。

 

「……最悪だ」

 

その言葉を聞いた瞬間、ホークスは理解した。

 

自分がここにいること自体が、仁にとって傷になる可能性がある。

 

仁は、仲間を探しに来たのだ。

 

自分の生活を取り戻すために。

 

自分の居場所を見つけるために。

 

そこへ、自分が現れた。

 

仁にとって、ホークスはただの英雄ではない。

 

死の瞬間に、自分の前にいた男だ。

 

その男が、いまも翼を持ち、何事もなかったように立っている。

 

仁には、その姿をどう受け止めるかを決める権利がある。

 

怒ってもいい。

 

憎んでもいい。

 

話したくないと言ってもいい。

 

許さないと告げてもいい。

 

自分がどう感じるのか分からないまま、何も答えないという選択だってある。

 

ホークスは、自分の願いを押しつけることができなかった。

 

「……分倍河原さん」

 

仁の目が、鋭く動いた。

 

「その名前で呼ぶな」

 

ホークスは、すぐに口を閉じた。

 

仁は、ひどく疲れた顔をしていた。

 

「……今は、どっちでもいいんだよ。分倍河原でも、トゥワイスでも。俺が何なのか、俺にもよく分かんねえんだから」

 

少しだけ、視線が揺れた。

 

「……ただ」

 

仁は言った。

 

「今、俺に話しかけるな」

 

ホークスは、頷いた。

 

「……分かりました」

 

仁は、ホークスを睨んだ。

 

もっと何か言いたそうだった。

 

怒鳴りたいのかもしれない。

 

質問したいのかもしれない。

 

何があったのか、なぜ自分が戻ってきたのか、誰が何を知っているのか。

 

それとも、何も聞きたくないのかもしれない。

 

仁自身にも、分からないのだろう。

 

だから、ホークスは何も尋ねなかった。

 

「……じゃあな」

 

仁は、背を向けた。

 

今度こそ、歩き出す。

 

ホークスは、呼び止めなかった。

 

仁の姿が、路地の向こうへ消えていく。

 

その背中を見送ってから、ホークスはようやく息を吐いた。

 

「……これで、いい」

 

誰に言い聞かせるでもなく、呟いた。

 

いいはずがない。

 

何も解決していない。

 

仁は孤独なままだ。

 

居場所も見つかっていない。

 

仲間の行方も分からない。

 

ホークスへの怒りも、まだ言葉になっていない。

 

自分は、何も助けられなかった。

 

それでも。

 

仁が話しかけるなと言ったとき、話しかけないこと。

 

仁が離れていくとき、追いかけないこと。

 

仁が答えを出せないとき、代わりに答えを出さないこと。

 

その小さな選択だけは、間違えずに済んだ。

 

「……これが、最初か」

 

ホークスは、翼を背に収めた。

 

英雄の翼は、誰かを守るためにある。

 

だが、誰かを守るという行為は、いつでも相手に触れることではない。

 

差し出した手を、相手が取らないこともある。

 

その手を拒まれることもある。

 

それでも、手を差し出す側が、自分の願いを正しさに変えてはいけない。

 

ホークスは、帰り道を歩き始めた。

 

背中にある翼が、妙に重かった。

 

それは、風をつかむための重さではない。

 

飛ぶための重さでもない。

 

自分が何をしたのかを、もう一度、確かめるための重さだった。

 

7 あの男を、英雄にしないために

夜。

 

仁は、小さな公園のベンチに座っていた。

 

相談窓口でもらった紙は、ポケットのなかにある。

 

折り目がついていた。

 

何度も開き、何度も閉じたからだ。

 

紙には、支援を受けるための連絡先が書かれている。

 

そこに相談すれば、仲間を探すための手続きについて教えてもらえるかもしれない。

 

宿泊できる場所もある。

 

食事もある。

 

困ったときに頼れる人もいる。

 

それらは、決して悪いことではない。

 

助けてもらうことを、拒む必要はない。

 

仁だって、分かっている。

 

だが。

 

自分が本当に欲しいものは、そこに書かれていなかった。

 

帰る場所。

 

自分を知っている者。

 

自分がいなくなったあとも、自分のことを覚えていてくれる者。

 

自分が戻ってきたことを、喜んでくれる者。

 

「……はあ」

 

仁は、空を見上げた。

 

星は、ほとんど見えなかった。

 

街の明かりが強いせいだ。

 

それでも、夜空は広がっている。

 

自分が死ぬ前にも、空はあった。

 

自分が死んでいる間にも、空はあったのだろう。

 

そして今も、同じように空がある。

 

世界は、こちらの事情など知らないまま、続いていく。

 

「……俺、何してたんだっけな」

 

仁は、自分の手を見た。

 

この手で、誰かを傷つけたことがある。

 

この手で、誰かを助けたこともある。

 

誰かに手を差し伸べたことも。

 

差し伸べられた手を、取ったこともある。

 

自分は、仲間を守りたかった。

 

そのために戦った。

 

その結果、誰かを傷つけた。

 

その事実から逃げたいわけではなかった。

 

自分がしたことを全部なかったことにして、善人として生き直したいわけでもない。

 

自分は、自分だ。

 

失敗した自分。

 

誰かを必要とした自分。

 

仲間を大切に思った自分。

 

敵連合のトゥワイス。

 

分倍河原仁。

 

どちらかだけが偽物で、どちらかだけが本当の自分だと決める必要はない。

 

けれど。

 

「……あいつは、何なんだよ」

 

ホークス。

 

彼の顔が浮かぶ。

 

自分が信じた男。

 

自分の仲間のふりをした男。

 

そして、自分を殺した男。

 

あの男は、何を考えていたのだろう。

 

自分を殺したことを、後悔しているのだろうか。

 

自分が生き返ったことを、喜んでいるのだろうか。

 

もう一度会いたいと、思っているのだろうか。

 

そんなことを考えている自分が、嫌だった。

 

「……何で俺が、あいつのことなんか考えなきゃいけないんだよ」

 

仁は頭を抱えた。

 

「いや、考えるだろ! 考えるに決まってるだろ! だって、あいつが――」

 

声が止まった。

 

死んだときの記憶が、脳裏をよぎる。

 

仁は、目を閉じた。

 

忘れたいわけではない。

 

だが、忘れられないまま、どう生きればいいのか分からなかった。

 

「……俺は」

 

言葉が、夜の空気に溶けた。

 

「……どうしたらいいんだよ」

 

誰も答えなかった。

 

それでも、仁はしばらくそこに座っていた。

 

帰る場所がない。

 

そう思った。

 

けれど、正確には違うのかもしれない。

 

帰る場所が、なくなったのか。

 

帰る場所が、分からなくなったのか。

 

帰りたい場所が、変わってしまったのか。

 

自分が戻ってきたことで、誰かの生活を壊してしまうのではないか。

 

自分が戻ってきたことを、誰かが迷惑に思っているのではないか。

 

分からないことばかりだった。

 

ひとつだけ確かなのは、自分が今、生きているということ。

 

それと。

 

ホークスが、目の前にいたということ。

 

「……あいつ」

 

仁は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……何で、追ってこなかったんだよ」

 

問いかけた言葉は、すぐに自分の耳へ戻ってきた。

 

追ってきてほしかったのか。

 

いや。

 

違う。

 

追ってきてほしくなんかなかった。

 

あんな男に、これ以上、自分の人生に踏み込まれたくなかった。

 

自分の言葉を聞かせたかったわけでもない。

 

怒りをぶつけたかったわけでもない。

 

今は、ただ、顔も見たくなかった。

 

そう思っていたはずだ。

 

だったら、追ってこなかったことは、よかったことなのだろう。

 

ホークスは、仁の言葉を聞いた。

 

話しかけるなという言葉を、受け取った。

 

だから、追ってこなかった。

 

ただ、それだけ。

 

それなのに、仁の胸には、説明できない苛立ちが残っていた。

 

自分は、何を期待していたのだろう。

 

追いかけられたら、怒ればよかった。

 

謝られたら、拒絶すればよかった。

 

言い訳をされたら、怒鳴ればよかった。

 

けれど、何もされなかったら。

 

自分は、何に怒ればいいのだろう。

 

「……ああ、くそ!」

 

仁は立ち上がった。

 

「何なんだよ、もう!」

 

拳を握る。

 

握った拳を、開く。

 

何度も。

 

自分の手が、まだ自分の意思で動くことを確かめるように。

 

「……勝手に、いなくなるなよ」

 

その声は、かすかだった。

 

誰に向けた言葉なのか。

 

ホークスに向けたのか。

 

かつての仲間に向けたのか。

 

あるいは、戻ってきた自分自身に向けたのか。

 

仁には、分からなかった。

 

彼は夜空を見上げた。

 

帰る場所は、見つからない。

 

答えも、見つからない。

 

それでも、仁は歩き出した。

 

今夜の寝床を探すために。

 

明日、相談窓口へ行くために。

 

もう一度、仲間の行方を尋ねるために。

 

自分が何を望んでいるのか、いつか自分自身の言葉で確かめるために。

 

ホークスのためではない。

 

誰かに救われたと証明するためでもない。

 

ただ、自分が生きているからだ。

 

それだけは、誰かに代わりに決めさせたくなかった。

 

8 翼を広げないという決断

同じ夜。

 

ホークスは、部屋の明かりをつけずに座っていた。

 

窓の外には、復興のための照明が点々と光っている。

 

街は動いていた。

 

人々は働いていた。

 

新しい制度が作られ、支援の仕組みが整えられ、失われたものを取り戻すための努力が続いている。

 

彼らには、彼らの明日がある。

 

ホークスにも、明日がある。

 

そして、仁にも。

 

「……生きてたな」

 

ホークスは、呟いた。

 

声に出した途端、胸が痛くなった。

 

生きていた。

 

仁が、生きていた。

 

自分が殺した男が、再びこの世界に立っていた。

 

その事実に、安堵している自分がいた。

 

その事実を、喜んでいる自分がいた。

 

同時に、仁が再び自分の前に現れたことを恐れている自分もいた。

 

何を言われるのだろう。

 

何を問われるのだろう。

 

どんな顔をされるのだろう。

 

許されないことは分かっている。

 

それでも、許されない自分を前にして、何もできなくなることが怖かった。

 

自分は、誰かを助ける人間でありたい。

 

そう思ってきた。

 

自分の存在によって、誰かが少しでも安心できるなら。

 

自分が飛ぶことで、誰かが一歩でも先へ進めるなら。

 

それが、自分の望みだった。

 

けれど、仁に対しては。

 

自分が何かをするたび、それが仁を傷つけるのではないかと考えてしまう。

 

自分が助けることによって、仁が自分を拒絶する自由を奪ってしまうのではないか。

 

自分が謝罪することによって、仁に返事をする負担を押しつけてしまうのではないか。

 

自分が心から後悔していることを伝えることによって、仁に自分の気持ちを理解するよう求めてしまうのではないか。

 

そんなことばかり考えていた。

 

「……難しいねえ」

 

いつもの口調で言ってみた。

 

軽く。

 

冗談めかして。

 

しかし、誰も笑わなかった。

 

ホークスは、椅子から立ち上がり、窓の前に立った。

 

翼を広げる。

 

窓ガラスに、羽根の影が重なった。

 

その姿は、昔から変わらない。

 

飛べる。

 

助けられる。

 

追いつける。

 

間に合うかもしれない。

 

その力は、失われていない。

 

だからこそ、使うべきではない場面を、見極めなければならない。

 

仁が助けを求めてきたら、できる限り応じる。

 

仁が仲間を探すための支援を必要としているなら、手続きや安全面について、自分にできることを考える。

 

仁が話をしたいと言うなら、逃げずに聞く。

 

だが、仁が望まないのなら。

 

その拒絶を、受け止めなければならない。

 

それは、償いとは違うのかもしれない。

 

何かをしたという実感もない。

 

英雄らしい成果もない。

 

誰かに褒められることもない。

 

それでも。

 

自分が助けたいと思うことと、相手が助けられたいと思うことは、同じではない。

 

その違いを認めずに、助けるという言葉を使えば。

 

自分はまた、仁の気持ちを無視することになる。

 

ホークスは翼を閉じた。

 

「……次は、俺が決める番じゃない」

 

自分に言い聞かせるように、呟いた。

 

仁が生きている。

 

その事実は、奇跡かもしれない。

 

だが、奇跡だからといって、そこに正解が用意されているとは限らない。

 

再会したからといって、和解する必要はない。

 

謝罪したからといって、許される必要もない。

 

過去に理由があったからといって、その理由によって相手の痛みを消すこともできない。

 

これから、何が起きるのか。

 

仁は、自分をどう思うのか。

 

二人が、再び話すことがあるのか。

 

ホークスには分からなかった。

 

分からないままでいることは、苦しい。

 

けれど、相手の答えが分からないからといって、勝手に答えを作ってはいけない。

 

それが、今の自分にできることだった。

 

英雄の翼は、誰かを抱えて飛ぶためにある。

 

だが、ときには。

 

翼の下へ入るかどうかを、相手に委ねなければならない。

 

ホークスは窓の外を見つめた。

 

そこには、仁の姿はない。

 

もう、どこかへ行ってしまった。

 

今夜、彼がどこで眠るのか。

 

明日、誰を探すのか。

 

何を願うのか。

 

何を拒絶するのか。

 

それは、仁自身の時間だった。

 

ホークスは、彼の時間を奪わないと決めた。

 

そして、いずれ仁が自分の前に立ったときには。

 

理由を隠さない。

 

英雄の顔で逃げない。

 

必要性を盾にして、彼の怒りを封じない。

 

ただ、あの日に自分が何をしたのか、何を判断し、何を選んだのかを話す。

 

その話を聞くかどうかも。

 

受け入れるかどうかも。

 

仁が決めることだ。

 

「……待ってる、なんて言うのも、俺の都合か」

 

ホークスは、苦笑した。

 

自分は、いつだって言葉を選べる。

 

相手に合わせて。

 

状況に合わせて。

 

その場に必要な自分を作ることができる。

 

だが、今度ばかりは。

 

言葉を選ぶことによって、真実を覆い隠してはいけない。

 

何を言われても。

 

何を拒まれても。

 

仁が自分を許さなくても。

 

その事実を、彼の責任にしてはいけない。

 

ホークスは、明かりをつけた。

 

机の上に、報告書が置かれている。

 

その名前を、もう一度見る。

 

分倍河原仁。

 

彼は、誰かの後悔を解消するための存在ではない。

 

英雄が罪を償ったと証明するための存在でもない。

 

誰かが救われたという物語に、無理やり組み込まれる必要もない。

 

ただ、一人の人間だ。

 

自分の過去を持ち。

 

自分の願いを持ち。

 

自分の居場所を探す、一人の人間。

 

ホークスは、その名前の横に、何も書き加えなかった。

 

接触の予定も。

 

説得の計画も。

 

謝罪の言葉も。

 

今は、何も。

 

仁が何を望むのかを知るまでは。

 

その空白を、ホークスの願いで埋めてはいけなかった。

 

夜は、まだ明けない。

 

仁の帰る場所も、まだ見つからない。

 

ホークスの罪も、まだ終わらない。

 

それでも、二人の物語は、ここから始まる。

 

翼の下に入るかどうかを、選ぶのは仁だ。

 

翼を広げる理由を、自分の都合で決めてはならない。

 

そして、いつか二人が向き合うとき。

 

ホークスは、英雄としてではなく。

 

仁がかつて信じた友人としてでもなく。

 

仁を殺した男として、そこに立たなければならない。

 

その事実から、逃げずに。

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