1 血が戻ってきても、人生は戻らない
「……ここ、どこですか?」
トガヒミコは、目を覚まして最初にそう言った。
白い天井。
薄いカーテン。
ベッドの脇に置かれた水。
見知らぬ病室。
窓の外からは、車が走る音が聞こえる。
彼女はゆっくりと身体を起こし、周囲を見渡した。
手首には、身元確認のための識別バンドがつけられていた。
点滴はない。
身体を拘束するものもない。
ただ、部屋の外には職員がいるらしく、廊下から時折、話し声が聞こえた。
「……病院?」
自分の声が、妙に遠く感じられた。
記憶が、ゆっくりと戻ってくる。
戦い。
傷ついた身体。
自分が、本当に望んでいたこと。
そして、最後に見た顔。
麗日お茶子。
自分のことを、理解しようとしてくれた女の子。
自分が好きになった女の子。
自分と同じように、誰かを救いたいと願った女の子。
「……お茶子ちゃん」
その名前を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
トガは、自分の身体を見下ろした。
生きている。
また、生きている。
どうしてなのかは分からない。
死んだはずなのに、目を開けたら、知らない場所にいた。
この世界では、死んだ人間が戻ってくることがあるらしい。
自分以外にも、そういう人たちがいるのかもしれない。
けれど、トガにとって、そんな説明は、まだ遠い話だった。
彼女が最初に考えたことは、もっと個人的で、もっと身勝手な願いだった。
――お茶子ちゃんに会いたい。
会いたかった。
もう一度、あの子の顔を見たかった。
自分のことをどう思っているのか、聞きたかった。
自分がいなくなったあと、何を考えていたのか、知りたかった。
そして、できることなら。
また、自分を見てほしかった。
「……あは」
トガは、小さく笑った。
「……私、ほんとに、どうしようもないですね」
自分が、どんなことをしてきたのか。
自分が、誰を傷つけたのか。
分かっている。
好きな人のようになりたいと願った。
その人の血を欲しがった。
その人の姿になりたいと思った。
その欲望を満たすために、自分以外の誰かの身体を、自分の願いを叶えるためのものとして扱ってしまった。
相手が何を望んでいるのか。
相手が何を怖がっているのか。
そのことよりも、自分が何をしたいのかを優先した。
それは、愛だったのだろうか。
好きという気持ちだったのだろうか。
自分のなかにあった感情を、全部、嘘だったと切り捨てることはできない。
けれど、それを本物だと主張したところで、他人を傷つけていい理由にはならない。
トガは、ベッドの上で膝を抱えた。
「……会いたいなあ」
声が、かすれた。
「……お茶子ちゃん」
返事はない。
当然だ。
ここに、お茶子はいない。
自分が会いたいと思っても、お茶子が会いたいと思っているとは限らない。
自分が生き返ったことを喜んでくれるとも限らない。
自分の過去を、聞いてくれるとも限らない。
そして、会えたからといって、自分が望む言葉を返してくれるわけでもない。
「……そっか」
トガは、顔を上げた。
「……今度は、私が聞かなきゃいけないんだ」
自分が、何をしてきたのか。
それを、相手がどう受け止めるのか。
自分にとって大切だった気持ちを、相手も同じように大切だと思ってくれるのか。
それは、自分が決めることではない。
トガは、ベッドから降りた。
窓の外を見る。
空は、明るかった。
世界は、続いている。
自分が死んだあとも。
自分が戻ってきたあとも。
そして、自分が、誰かに会いたいと願っている今も。
「……お茶子ちゃん」
もう一度、名前を口にした。
今度は、願うだけではなく、少しだけ違う意味を込めて。
会いたいと思うことと、会ってもらえることは、同じではない。
トガは、その事実を、今度こそ自分のものとして受け止めなければならなかった。
2 麗日お茶子は、面会申請書を見つめていた
「……会いたい、か」
麗日お茶子は、机の上に置かれた書類を見つめていた。
復帰者に関する支援記録。
身元確認の進捗。
本人の希望。
面会に関する申し出。
そのなかの一枚に、見慣れた名前があった。
トガヒミコ。
お茶子は、しばらく動かなかった。
彼女が生き返ったことは、すでに聞いていた。
死者の復帰という異常事態は、個人の問題で済むものではない。
戻ってきた人々には、それぞれの事情がある。
家族に会いたい人。
自分の生活を取り戻したい人。
自分がいなくなったあとの世界を知りたい人。
そして、自分が傷つけた人と、もう一度向き合おうとする人もいる。
トガも、その一人だった。
彼女は、お茶子との面会を希望している。
だが、その申し出を受け取ったからといって、お茶子がすぐに応じなければならないわけではない。
相手が会いたいと思うことと、自分が会いたいと思うことは違う。
そのことは、トガ自身にも、今なら少しは分かっているのかもしれなかった。
「……お茶子?」
声をかけられ、お茶子は顔を上げた。
そこにいたのは、クラスメイトだった。
「大丈夫? さっきから、ずっと同じところを見てるけど」
お茶子は、慌てて笑った。
「うん。大丈夫。ちょっと……考えごとしてただけ」
クラスメイトは、机の上の書類を見た。
「……トガちゃん?」
お茶子は、答えられなかった。
トガ。
自分が、最後に向き合った女の子。
自分のことを好きだと言ってくれた女の子。
その「好き」を、どう受け止めればいいのか。
最後まで、答えを出しきれなかった女の子。
お茶子は、あのときのことを思い出していた。
彼女は、真っ直ぐだった。
自分の欲望を隠さず、好きな人の血を求めた。
自分が好きになった人のようになりたいと願った。
それは、普通の恋愛とは違う形だった。
けれど、彼女の感情そのものを、ただ異常だと決めつけることもできなかった。
誰かを好きになる。
その人のようになりたいと思う。
もっと近づきたいと思う。
相手のことを知りたいと思う。
そうした気持ちは、お茶子にも分かる。
だからこそ、トガの気持ちを、簡単には否定できなかった。
しかし。
トガは、その願いを叶えるために、他人の血を奪った。
相手の意思を無視した。
誰かの生活を壊した。
恐怖を与えた。
自分が好きな相手の姿になることを、相手がどう感じるのか、そのことを考えるよりも、自分の願いを優先した。
そこに、傷ついた人々がいる。
トガの苦しみを理解しようとすることと、その人々の苦しみを忘れることは、違う。
彼女が、つらい思いをしてきたからといって。
彼女が、自分の感情をうまく扱えなかったからといって。
傷つけられた人々に、彼女を許す義務が生まれるわけではない。
お茶子は、書類の端を指で押さえた。
「……私、どうしたらいいんやろ」
声に出してみる。
返事はなかった。
トガに会いたいのか。
会うのが怖いのか。
彼女の話を聞きたいのか。
自分の話を、彼女に聞いてほしいのか。
どれも、あるような気がした。
だが、そのどれもが、まだ、はっきりとは言えなかった。
「……私、トガちゃんを助けたいんかな」
その問いが、胸の奥に落ちた。
助けたい。
その言葉は、お茶子にとって、大切なものだった。
誰かが困っていたら、助けたい。
誰かが苦しんでいたら、手を差し伸べたい。
自分がヒーローを目指した理由にも、その願いはあった。
しかし、トガに対して、その言葉を使うとき。
お茶子は、少しだけ怖くなった。
自分は、本当に彼女のために助けたいと思っているのだろうか。
それとも、彼女を助けることで、自分自身が「あのとき、もっと何かできたかもしれない」という後悔から救われたいのだろうか。
彼女を理解できれば。
彼女の気持ちを聞ければ。
彼女が少しでも穏やかに生きられるようになれば。
自分は、あのときにできなかったことを、今度こそできたと思えるかもしれない。
それは、悪い願いなのだろうか。
お茶子には、分からなかった。
ただ、彼女を助けたいと思う自分の気持ちにも、自分自身を救いたいという願いが混ざっているかもしれない。
その可能性を、否定できなかった。
「……私、正しいことを言えるんかな」
お茶子は、顔を伏せた。
トガに会ったとき、何を言えばいいのだろう。
あなたは、間違っていた。
でも、あなたの気持ちは分かる。
だから、やり直そう。
そんな言葉を、簡単に口にしていいのだろうか。
彼女の気持ちが分かると、言い切っていいのだろうか。
自分が、彼女の人生を理解したと、勝手に決めていいのだろうか。
お茶子は、ペンを手に取った。
面会を希望するかどうかを記入する欄がある。
彼女は、しばらく迷ってから、ゆっくりと書いた。
「面会を希望します。ただし、彼女の話を聞くことから始めたいです」
書き終えると、お茶子は、長く息を吐いた。
これは、救済の約束ではない。
彼女を許すという宣言でもない。
ただ、自分が話を聞きたいと思っている。
その気持ちを、まず認めるための一歩だった。
3 好きな人のようになりたかった
面会室は、静かだった。
テーブルが一つ。
椅子が二脚。
開いたままの扉。
壁際には、職員が一人、離れて待機している。
窓からは、午後の光が差し込んでいた。
トガヒミコは、椅子に座っていた。
いつもなら、もっと落ち着きなく動いていたかもしれない。
笑顔を浮かべて、相手の顔を覗き込んで、何かしらの冗談を言っていたかもしれない。
けれど、今日は、静かだった。
膝の上で、指先を組んでいる。
その指が、ときおり小さく動いた。
お茶子が、扉の前に立つ。
トガが顔を上げた。
「……お茶子ちゃん」
その声は、いつもより小さかった。
お茶子は、ゆっくりと部屋に入った。
「……久しぶり、トガちゃん」
言ってから、お茶子は少しだけ迷った。
久しぶり。
それは、まるで、何事もなかったように再会した人へ向ける言葉だった。
しかし、二人のあいだには、何事もなかったわけではない。
戦いがあった。
傷つけ合った。
互いに、相手の人生へ深く踏み込んだ。
そして、トガは、一度、死んだ。
お茶子もまた、彼女を失ったと思った。
その事実を、たった一言で包み込むことはできない。
「……ごめん」
お茶子は、小さく言った。
「……何がですか?」
トガが尋ねた。
お茶子は、すぐには答えられなかった。
「……分からへん。いろんなことが、いっぱいあって……。何に対して謝ったらいいのか、私にも、まだちゃんと分かってへん」
トガは、少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「……お茶子ちゃん、変なの」
「……うん。そうかもしれへん」
「もっとこう、すごいこと言うのかと思ってました」
「……すごいこと?」
「はい。私のことを、ちゃんと理解したとか。もう大丈夫だとか。これからは、私が正しい道を歩けるように手伝うとか!」
トガは、笑いながら言った。
「……でも、そういうこと、言わないんですね」
お茶子は、椅子に座った。
「……言えへんよ」
トガの笑顔が、少しだけ止まった。
「……どうして?」
お茶子は、正直に答えた。
「……分からへんから」
トガは、しばらくお茶子を見つめていた。
お茶子は、続けた。
「トガちゃんが、何を考えてたのか。何を感じてたのか。どうして、ああいうことをしたのか。……聞きたいことは、いっぱいあるんよ」
「……はい」
「でも、私が聞く前から、分かったつもりになるのは違うと思う。私が、トガちゃんを助けたいって思ってるとしても……それが、トガちゃんの望んでることと同じかどうかも分からへん」
お茶子は、自分の手を見た。
「……私、トガちゃんのことを助けたいと思ってる。でも、それが、本当にトガちゃんのためだけなんかは、まだ分からへん」
トガは、静かに聞いていた。
「私は、あのとき、トガちゃんを止めたかった。傷つけられる人を、これ以上増やしたくなかった。……それは、本当やねん」
お茶子は、顔を上げた。
「でも、トガちゃんのことを、もっと知りたいと思ったのも、本当なんよ」
その言葉を聞いた瞬間、トガの指先が動いた。
「……お茶子ちゃんは、私のこと、嫌いじゃないんですか?」
お茶子は、答えに詰まった。
トガは、笑った。
「……あは。ごめんなさい。変なこと聞いちゃった」
「……変なことやないよ」
お茶子は、すぐに答えた。
「……でも、簡単には答えられへん」
トガは、目を伏せた。
「……そっか」
その一言は、思ったよりも静かだった。
お茶子は、胸が痛んだ。
自分が、すぐに「嫌いじゃない」と言えば、トガは少し安心するかもしれない。
自分が、すぐに「好きだよ」と言えば、彼女は喜ぶかもしれない。
けれど、その言葉を、今、簡単に使っていいのだろうか。
トガが傷つけた人々のことを、忘れてはいけない。
彼女がしたことの責任も、なかったことにはできない。
そして、自分自身の気持ちも、まだ整理できていない。
お茶子は、ゆっくりと息を吐いた。
「……トガちゃん」
「はい?」
「……今日は、トガちゃんの話を聞きたい」
トガは、顔を上げた。
「……私の?」
「うん。トガちゃんが、何を考えてたのか。何を好きだったのか。どんなことが、苦しかったのか。……それから、どうして、ああいうことをするようになったのか」
お茶子は、少しだけ視線を落とした。
「……私が、ちゃんと理解できるかどうかは、分からへん。でも、最初から分かったつもりにはなりたくない」
トガは、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……お茶子ちゃんって、ほんとに変ですね」
「……よく言われる」
「……ふふ」
トガは、膝の上で組んでいた手をほどいた。
「……じゃあ、聞いてください」
その声には、少しだけ震えがあった。
「……私が、どうして、ああなっちゃったのか」
お茶子は、うなずいた。
「……うん」
トガは、ゆっくりと話し始めた。
4 普通の女の子になろうとした
「……私、子どものころから、好きなものがあったんです」
トガは、遠くを見るような目をした。
「かわいいもの。きれいなもの。笑っている人。楽しそうな人。……それから、好きになった人」
お茶子は、黙って聞いていた。
「好きになると、その人のことを、もっと知りたくなるんです。どんな声を出すのか。どんな顔をするのか。どんなふうに笑うのか。どんなことを考えているのか」
トガは、自分の頬に指を当てた。
「……その人のことを考えていると、胸がいっぱいになる。もっと近づきたい。もっと、その人のことを知りたい。その人になりたいって、思うんです」
「……うん」
「普通の女の子も、そういうこと、ありますよね?」
お茶子は、すぐには答えなかった。
好きな人のことを考える。
もっと近づきたいと思う。
相手のようになりたいと思うことも、あるかもしれない。
自分だって、好きな人の言葉や仕草に、心を動かされたことがある。
だから、トガの言葉に、理解できる部分はあった。
しかし、それだけで、彼女の気持ちをすべて理解したとは言えない。
「……あると思う」
お茶子は、慎重に答えた。
「でも、トガちゃんが感じてたことと、私が感じてたことが、同じかどうかは分からへん」
トガは、少しだけ笑った。
「……正直ですね」
「……ごめん」
「謝らなくていいですよ。……そういうところ、好きです」
その言葉に、お茶子は、少しだけ息を止めた。
トガの「好き」は、いつも真っ直ぐだった。
隠さない。
ごまかさない。
自分の感情を、相手の前に差し出すことを恐れない。
それは、眩しいほどの率直さだった。
だが、その率直さは、相手が受け止められるかどうかを考えずに、踏み込んでしまうこともある。
お茶子は、トガの次の言葉を待った。
「……私は、昔、血を見ると、すごく気持ちが高ぶったんです」
トガの声が、少しだけ低くなった。
「けがをした人を見たり、血が出ているのを見たりすると……その人に近づきたくなる。触れてみたくなる。もっと、知りたくなる」
お茶子は、身体を硬くした。
トガは、その反応を見ていた。
「……怖いですか?」
「……」
お茶子は、正直に答えた。
「……ちょっと、怖い」
トガは、うなずいた。
「……ですよね」
その声には、責める響きがなかった。
むしろ、当然のことを確認したような調子だった。
「私も、最初は、自分がどうしてそうなるのか分からなかったんです」
トガは続けた。
「周りの子と同じように、かわいいものが好きだった。好きな人がいた。……でも、好きな人を見ていると、ただ好きだと思うだけじゃ、足りなくなっちゃうんです」
彼女は、自分の指を見つめた。
「その人の血が欲しい。その人の姿になりたい。その人と同じになりたい。……そういう気持ちが、どんどん強くなっていった」
お茶子は、何も言わなかった。
トガは、淡々と話している。
けれど、その言葉の向こう側には、幼いころの彼女がいた。
自分のなかに生まれた感情を、どう扱えばいいのか分からなかった少女。
誰かに相談することもできず、何が普通で、何が自分にとって危険なのかも、うまく区別できなかった少女。
その感情が、自分自身を怖がらせたのかもしれない。
「……お父さんとお母さんは、私に、普通になってほしかったんです」
トガは、少しだけ笑った。
「普通の女の子みたいに、かわいいものを好きになって。友達と遊んで。学校へ行って。……そういうふうに、生きてほしかったんだと思います」
「……」
「私だって、そうしたかったんです。みんなと同じように、笑いたかった。好きな人ができたら、普通に好きって言いたかった。……何も隠さずに、自分の気持ちを話せるようになりたかった」
トガは、お茶子を見た。
「……でも、私の『好き』は、みんなが考えているものとは違った」
彼女の声が、少しだけかすれた。
「私は、血を欲しがる。好きな人の血が欲しくなる。好きな人の姿になりたくなる。……それが、私にとって、すごく自然なことだったんです」
トガは、唇を噛んだ。
「でも、周りの人は、そうじゃなかった」
お茶子は、ゆっくりと息を吐いた。
「……怖がられた?」
「……はい」
トガは答えた。
「怖がられました。気味が悪いって思われた。普通じゃないって言われた。……私も、自分が普通じゃないんだって、思うようになりました」
彼女は、少しだけ笑った。
「……それで、私は、普通になろうとしたんです」
お茶子は、黙って聞いていた。
「普通の女の子みたいに笑う。普通の女の子みたいに話す。普通の女の子みたいに、好きなものを好きだと言う。……ただし、誰にも知られないように」
トガは、自分の胸に手を当てた。
「……自分の本当の気持ちは、隠しておく。そうすれば、みんなに嫌われずに済む。そうすれば、みんなと一緒にいられる。そう思っていました」
「……トガちゃん」
お茶子が、名前を呼んだ。
トガは、顔を上げた。
「……でも、隠しても、なくならなかったんです」
その言葉は、静かだった。
「好きな人を見れば、血が欲しくなる。その人の姿になりたいと思う。近づきたい。もっと、知りたい。……そういう気持ちは、どれだけ隠しても、消えなかった」
トガは、自分の手を見つめた。
「……だから、私は、どうすればいいのか分からなかったんです」
その一言を口にしたとき、彼女の表情から、笑顔が消えた。
「……普通になれなかった」
ただ、それだけの言葉だった。
しかし、その短い言葉のなかには、長い時間が詰まっていた。
自分を隠した時間。
誰かに嫌われないように振る舞った時間。
自分の感情を、どう扱えばいいのか分からなかった時間。
そして、自分が、ほかの誰かと同じように生きられないのだと、何度も思い知らされた時間。
お茶子は、すぐには何も言えなかった。
「そんなことないよ」と言うことは簡単だった。
「普通じゃなくてもいいんだよ」と言うこともできる。
しかし、そんな言葉で、トガの過去をすべて包み込めるとは思えなかった。
彼女が苦しかったことは、本当だ。
自分を隠さなければならなかったことも、彼女がそう感じていたことも、本当なのだろう。
けれど。
それが、彼女の行為のすべてを説明するわけではない。
「……つらかったんやね」
お茶子は、ようやく言った。
その言葉を口にしてから、すぐに付け加えた。
「……でも、私、トガちゃんのことを全部分かったとは思ってへん」
トガは、目を上げた。
「……うん」
「……私が、つらかったねって言ったからって、トガちゃんが何をしてきたのか、なくなるわけやないと思う」
お茶子は、視線を落とした。
「……それでも、トガちゃんが苦しかったことまで、なかったことにしたくないんよ」
トガは、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと目を伏せた。
「……お茶子ちゃんって」
声が、小さくなった。
「……本当に、ずるいですね」
「……え?」
トガは、笑った。
しかし、その笑顔には、いつもの明るさがなかった。
「そんなこと言われたら……私、もっと話したくなっちゃうじゃないですか」
お茶子は、答えなかった。
ただ、うなずいた。
「……聞くよ」
トガは、顔を上げた。
お茶子は、続けた。
「……まだ、分からへんことはいっぱいある。でも、聞くことはできるから」
トガは、しばらくお茶子を見つめていた。
それから、ゆっくりと、次の言葉を探し始めた。
5 好きだから、という言葉で
「……私、好きな人の血が欲しかったんです」
トガは、もう一度、その言葉を口にした。
今度は、逃げなかった。
「血を見ると、その人のことが、もっと近くに感じられる気がした。好きな人の血を飲むと、その人の姿になれる。……その人になれたら、その人と同じものを感じられる気がしたんです」
お茶子は、静かに聞いていた。
「誰かを好きになるって、どういうことなんだろうって、ずっと考えていました」
トガは、言った。
「好きな人に近づきたい。好きな人のことを知りたい。好きな人のようになりたい。……普通の人も、そう思うことはあるんですよね?」
「……あると思う」
お茶子は、慎重に答えた。
「でも、近づきたいと思うことと、相手の身体に勝手に触れていいことは違う。相手のことを知りたいと思うことと、相手のものを奪っていいことも違うと思う」
トガは、うなずいた。
「……そうですね」
その返事は、思いのほか素直だった。
「今なら、分かります」
トガは、自分の指先を見つめた。
「でも、当時の私は、その違いを、ちゃんと考えられなかったんです」
お茶子は、黙っていた。
トガは続けた。
「好きな人の血が欲しい。その人になりたい。そう思うと、ほかのことが見えなくなっちゃうんです。その人が怖がっていることも。その人が嫌がっていることも。……自分が、その人を傷つけていることも」
彼女は、唇を噛んだ。
「私は、好きだから、って思っていました。好きだから、近づきたい。好きだから、触れたい。好きだから、その人になりたい。……そういう気持ちは、嘘じゃなかった」
トガは、顔を上げた。
「……でも、好きだからって、何をしてもいいわけじゃなかったんですよね」
お茶子は、うなずいた。
「……うん」
トガは、少しだけ笑った。
「……私、それが分からなかったんです」
その言葉には、後悔があった。
しかし、その後悔は、過去の行為をなかったことにするものではなかった。
トガが、自分の気持ちを理解し始めたからといって、傷ついた人々の痛みが消えるわけではない。
彼女が、自分の過去を語ったからといって、誰かが彼女を許さなければならないわけでもない。
それでも、彼女が、自分の行為を振り返ろうとしていることは、確かだった。
「……私、血が欲しかったんです」
トガは、もう一度言った。
「でも、本当は……それだけじゃなかったのかもしれません」
お茶子は、顔を上げた。
「……どういうこと?」
トガは、少し考えた。
「好きな人の血が欲しい。その人の姿になりたい。その人のようになりたい。……でも、もしかしたら、私は、自分の気持ちを、その人に分かってほしかったのかもしれません」
言葉を選ぶように、続ける。
「自分が、どれだけ好きなのか。どれだけ、その人のことを考えているのか。どれだけ、その人に近づきたいのか。……それを、どうやって伝えたらいいのか、分からなかった」
トガは、お茶子の顔を見た。
「だから、私は、自分のやり方で伝えようとしたんです」
彼女は、そこで言葉を切った。
「……でも、それは、私のやり方だったんです」
お茶子は、静かに聞いていた。
「相手が、どう感じるのかを考えていなかった。相手が、自分に何を望んでいるのかを考えていなかった。……私は、自分が好きだという気持ちばかりを、見ていたんです」
トガは、自分の胸に手を当てた。
「……私の好きは、私のものでした。でも、相手の身体は、相手のものだったんです」
お茶子は、目を伏せた。
その言葉は、正しい。
正しいからこそ、簡単には言葉を返せなかった。
トガの「好き」は、彼女自身のものだった。
誰かを好きになる気持ちそのものを、他人が簡単に否定することはできない。
しかし、その気持ちを表現するために、他人の身体や意思を奪うことは許されない。
その境界を、彼女は越えてしまった。
それは、事実だ。
「……私が、血を欲しがること自体が、悪いんでしょうか」
トガが尋ねた。
お茶子は、すぐには答えなかった。
トガは、顔を伏せた。
「……いえ。ごめんなさい。そんなこと、簡単に答えられないですよね」
「……トガちゃん」
お茶子は、ゆっくりと言った。
「私は、トガちゃんのなかに生まれる気持ちそのものを、全部、悪いって決めたいわけやない」
トガは、顔を上げた。
「……でも、血を欲しがる気持ちを、どうやって扱うのか。誰かを傷つけずに、その気持ちと生きていけるのか。……そこは、考えなきゃいけないと思う」
お茶子は、続けた。
「自分がどう感じるのかと、その気持ちを理由に、誰かに何をしていいのかは、別やと思うから」
トガは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……そうですね」
その答えに、今度は逃げる様子がなかった。
「……私、自分の気持ちが、悪いって言われるのが怖かったんです」
トガは、言った。
「だから、好きなんだから仕方ないって、考えていたのかもしれません」
彼女は、小さく笑った。
「好きなんだから、仕方ない。血が欲しいんだから、仕方ない。……私には、そうするしかなかったんだから、仕方ない」
トガは、お茶子を見た。
「……そう言えば、自分が何をしたのか、考えなくて済むから」
お茶子は、黙っていた。
トガは、続けた。
「でも、仕方なかったって言うだけじゃ、何も変わらないんですよね」
「……うん」
「……私が、誰かを傷つけたことは、変わらない」
トガは、ゆっくりと言葉を重ねた。
「私が、どうしてそうなったのかを話しても。どれだけ苦しかったのかを話しても。……それで、傷ついた人たちが、もう傷ついていないことにはならない」
お茶子は、静かにうなずいた。
「……ならへんと思う」
トガは、目を閉じた。
その言葉を聞いても、彼女は怒らなかった。
自分の過去を説明することと、その過去によって傷ついた人々の痛みを消すこと。
その二つは、違う。
彼女は、ようやく、その違いを、自分の言葉で認めようとしていた。
6 被害者の痛みは、彼女の物語の外にある
「……お茶子ちゃん」
トガが、顔を上げた。
「……私が、誰かを傷つけたこと」
お茶子は、待った。
「……その人たちは、今も、私のことを怖いと思っているんでしょうか」
お茶子は、答えを探した。
正直に言えば、分からない。
傷つけられた人々が、今、どんな気持ちでいるのか。
トガをどう思っているのか。
彼女の復帰をどう受け止めているのか。
そのすべてを、お茶子が知っているわけではない。
「……そう思っている人も、いると思う」
お茶子は、答えた。
「……今は、近づいてほしくないと思っている人もいるかもしれへん」
トガは、ゆっくりとうなずいた。
「……そうですよね」
「……でも、全員が同じ気持ちとは限らへん。人によって、違うと思う」
お茶子は、続けた。
「ただ、どんな気持ちでいるかは、その人たちが決めることやと思う。トガちゃんのことを許すかどうかも、会いたいかどうかも」
トガは、何も言わなかった。
お茶子は、言葉を続ける。
「……私たちが、トガちゃんの苦しさを話しているときでも、傷ついた人たちのことを忘れたらあかんと思う」
その言葉を口にした瞬間、お茶子は、自分自身の胸にも何かが刺さるのを感じた。
自分は、トガの苦しみを知りたいと思っている。
彼女がどうして、ああいう行為をするようになったのか。
どうすれば、自分の感情と向き合えるようになるのか。
これから、どんなふうに生きていけばいいのか。
そうしたことを考えたいと思っている。
しかし、そのあいだにも、彼女が傷つけた人々の人生は続いている。
彼らは、トガの内面を理解するために生きているわけではない。
彼女を許すために、苦しみを抱え続けているわけでもない。
自分の生活が壊れたこと。
自分の身体を傷つけられたこと。
自分の意思を無視されたこと。
自分の安全を失ったこと。
それらは、トガがどれほど苦しかったのかとは、別の問題だ。
被害を受けた人々が、彼女の事情を聞きたくないと思うこともあるだろう。
自分の被害を、彼女の成長のための材料にされたくないと思うこともあるだろう。
そうした気持ちも、尊重されなければならない。
「……トガちゃん」
お茶子は、慎重に言った。
「私は、トガちゃんのことを知りたいと思ってる。……でも、トガちゃんが傷つけた人たちの気持ちまで、私が代わりに決めることはできへん」
トガは、うなずいた。
「……はい」
「その人たちが、トガちゃんのことを許すかどうかも、トガちゃんのために話を聞いてくれるかどうかも、その人たちが決めることやと思う」
お茶子は、少しだけ視線を落とした。
「……だから、私がトガちゃんの話を聞いたからって、みんなが同じようにしなきゃいけないわけやない」
トガは、ゆっくりと目を閉じた。
「……分かってます」
その声は、小さかった。
「……分かってるつもりです」
彼女は、自分の手を見つめた。
「……でも、怖いです」
「……うん」
「私が、自分のことを話せば話すほど……みんなが、もっと私を嫌いになるんじゃないかって」
トガは、少しだけ笑った。
「……私、嫌われるの、怖いんです」
その言葉に、お茶子は、胸が痛んだ。
トガは、自分の行為によって、人々を傷つけた。
その結果として、彼女を怖がる人がいる。
彼女を避けたい人がいる。
彼女を許せない人がいる。
それは、彼女が受け止めなければならない現実だ。
しかし、嫌われることが怖いという気持ちまで、偽物になるわけではない。
彼女は、誰かに受け入れてほしいと思っている。
誰かに、自分のことを知ってほしいと思っている。
その願いは、彼女のなかにある。
けれど、その願いを叶えるために、他人へ許しを要求することはできない。
お茶子は、すぐに慰める言葉を探すのをやめた。
「……怖いよね」
トガは、顔を上げた。
「……お茶子ちゃん?」
「……私も、怖いことはあるよ」
お茶子は、正直に答えた。
「自分が何か言って、相手を傷つけるんじゃないかって。自分が正しいと思っていることが、実は、相手のことをちゃんと見ていないだけなんじゃないかって」
トガは、黙っていた。
「……だから、今は、トガちゃんに、何かを約束することはできへん」
お茶子は続けた。
「私は、トガちゃんのことを、全部理解できるとは言えない。トガちゃんがしたことを、全部許すとも言えない。……でも、トガちゃんの話を聞きたいと思ってる」
彼女は、まっすぐにトガを見た。
「その気持ちだけは、嘘やないよ」
トガは、しばらく、お茶子を見つめていた。
それから、ぽつりと呟いた。
「……お茶子ちゃんは、私のことを、救いたいんですか?」
お茶子は、すぐには答えられなかった。
その問いは、ずっと、自分のなかにあった問いでもあった。
7 救いたいという願い
「……私、トガちゃんを助けたいと思ってる」
お茶子は、ゆっくりと言った。
「でも……」
言葉が止まる。
トガは、急かさなかった。
お茶子は、自分の手を見つめた。
「……私、誰かを助けたいって思うとき、すぐに、自分が何かをしなきゃって考えてしまうんよ」
トガは、静かに聞いていた。
「誰かが苦しんでいたら、手を差し伸べたい。誰かが困っていたら、助けたい。……それは、私がヒーローを目指した理由の一つでもある」
お茶子は、顔を上げた。
「でも、トガちゃんに対して、同じように考えていいのか、分からなくなってきた」
トガは、少しだけ首をかしげた。
「……どうしてですか?」
「……私が、トガちゃんを助けたいと思うことと、トガちゃんが、私に助けられたいと思うことは、同じじゃないから」
トガの表情が、わずかに変わった。
「……私が、トガちゃんのためだと思って何かをしても、それが本当にトガちゃんのためになるとは限らへん。私が、こうすればいいと思っても、トガちゃんが、そうしたいとは限らへん」
お茶子は、続けた。
「……それに、私がトガちゃんを助けたいって思うことで、私自身が、何かから救われたいと思っているのかもしれへん」
「……お茶子ちゃん自身が?」
「うん」
お茶子は、うなずいた。
「私は、トガちゃんと向き合ってきた。でも、あのとき、何ができたのか、もっと何かできたんじゃないかって、考えることもある」
自分が、トガのことをもっと理解していたら。
もっと早く、彼女の気持ちに気づいていたら。
もっと違う言葉をかけていたら。
何かが変わっていたのだろうか。
それは、今となっては、分からない。
トガの人生には、トガ自身の選択がある。
お茶子が、その選択をすべて変えることはできなかった。
そして、それは、お茶子が何かを間違えたからだと、簡単に結論づけられるものでもない。
人は、他人の人生を、すべて背負うことはできない。
しかし、お茶子は、背負おうとしていたのかもしれなかった。
「……もし、今度こそトガちゃんを助けられたら」
お茶子は、言葉を選んだ。
「……私は、あのときのことを、少しだけ、やり直せたと思えるかもしれへん」
トガは、何も言わなかった。
「……でも、それって、トガちゃんのためだけやないよね」
お茶子は、目を伏せた。
「私が、自分の後悔を軽くしたいから、トガちゃんを助けようとしてるのかもしれへん」
そのことに気づいたとき、お茶子は、怖くなった。
自分は、救う側でありたいと思っている。
誰かの苦しみに気づき、手を差し伸べる人間でありたいと思っている。
しかし、その願いが、自分自身を正しい人間だと思いたい気持ちと結びついてしまうこともあるのではないか。
誰かを助けられれば、自分は正しいことをしたと思える。
誰かを救えれば、自分の後悔も軽くなる。
相手が、元気になってくれれば。
相手が、自分に感謝してくれれば。
自分は、あのとき、何かを成し遂げたと思えるかもしれない。
けれど、それでは、相手の人生を、自分が救われるためのものとして扱ってしまうことになる。
お茶子は、顔を上げた。
「……だから、私は、今、トガちゃんに、何をしてあげられるかを決める前に」
少し息を吸う。
「……トガちゃんが、何を望んでいるのか、聞きたい」
トガは、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと笑った。
「……お茶子ちゃん」
「……うん?」
「……やっぱり、変です」
お茶子は、少しだけ苦笑した。
「……そうかな」
「はい。だって、普通は、助けてあげるって言うじゃないですか。大丈夫だよって。これからは私がいるからって」
トガは、膝の上で手を組んだ。
「……でも、お茶子ちゃんは、私が何を望んでいるのか、聞こうとするんですね」
お茶子は、うなずいた。
「……うん」
「……私が、助けてほしいって言わなかったら?」
お茶子は、答えた。
「……そのときは、どうしたらいいのか、一緒に考えたい」
「……私が、助けなんかいらないって言ったら?」
「……それも、聞くよ」
トガは、目を見開いた。
「……私が、お茶子ちゃんのこと、大嫌いだって言ったら?」
お茶子は、一瞬だけ息を止めた。
そして、正直に答えた。
「……悲しいと思う」
トガは、黙っていた。
「……でも、私が悲しいからって、トガちゃんが私を好きにならなきゃいけないわけやないよ」
その言葉を聞いて、トガの目が揺れた。
「……お茶子ちゃん」
彼女は、声を震わせた。
「……私、そういうこと、言ってほしかったのかもしれません」
お茶子は、黙って聞いた。
「私が、誰かを好きになったとき。私が、誰かのそばにいたいと思ったとき。……相手も、同じように思ってくれなきゃいけないって、どこかで思っていたのかもしれない」
トガは、顔を伏せた。
「……だって、好きだったんです。すごく、好きだったんです。どうしようもなく、好きだったんです」
声が、少しずつ震える。
「……だから、同じように好きになってほしかった。私の気持ちを、分かってほしかった。私が、どれだけ、その人のことを好きなのか……知ってほしかった」
彼女は、両手を握りしめた。
「……でも、好きだからって、相手も自分を好きになる義務があるわけじゃないんですよね」
お茶子は、うなずいた。
「……うん」
「……私が、好きだからって、相手の人生を変えていいわけじゃない」
「……うん」
「……私が、近づきたいからって、相手が、近づかせてくれなきゃいけないわけじゃない」
「……うん」
トガは、目を閉じた。
その顔には、悲しみがあった。
理解したからといって、簡単に受け入れられるわけではない。
頭で分かっても、心がすぐに追いつくとは限らない。
自分が好きな人に、同じように好きになってもらえないこと。
自分が近づきたい人に、距離を置かれること。
自分の願いが、相手の願いと一致しないこと。
それは、誰にとっても、簡単なことではない。
そして、トガにとっては、自分が生き方そのものを否定されたように感じてしまうほど、苦しいことだったのかもしれない。
けれど、その苦しさを理由に、他人を傷つけていいわけではない。
トガは、ゆっくりと目を開いた。
「……お茶子ちゃん」
「……うん」
「……私、まだ、好きです」
お茶子は、黙っていた。
「……好きな人のことを考えると、今でも、胸がいっぱいになります。もっと近づきたいと思うこともある。……その人になりたいと思う気持ちが、完全になくなったわけじゃない」
トガは、正直に言った。
「……でも、それを理由に、誰かを傷つけたくない」
その言葉は、誓いというほど強くはなかった。
自信に満ちた宣言でもない。
むしろ、迷いのなかから、ようやく取り出した言葉だった。
トガ自身、これからどうすればいいのか分かっていないのだろう。
自分の欲望が、完全に消えるわけではない。
自分が好きになることを、やめられるわけでもない。
それでも、自分の気持ちを、他人を傷つける理由にしたくない。
その願いだけは、彼女の言葉として、そこにあった。
お茶子は、ゆっくりとうなずいた。
「……そっか」
それ以上、何も言わなかった。
「えっ、それだけですか?」
トガが、少しだけ顔を上げる。
お茶子は、苦笑した。
「……うん。今は、それだけ」
「……もっと、こう、何かあると思ったのに」
「……ごめん。私、まだ、うまいこと言えへん」
トガは、しばらくお茶子を見つめていた。
そして、小さく笑った。
「……でも、それでいいです」
彼女は、初めて、少しだけ肩の力を抜いた。
「……お茶子ちゃんが、分かったふりをしないでくれるのは、うれしいです」
お茶子は、何も言わなかった。
ただ、トガの話を聞き続けた。
8 血の向こうに見えたもの
面会の終わりが近づいたころ、トガは、窓の外を見つめていた。
「……お茶子ちゃん」
「……うん?」
「……私、ずっと、誰かになりたかったんです」
お茶子は、静かに聞いていた。
「好きな人になりたかった。好きな人と同じになりたかった。……そうすれば、その人に近づけると思ったんです」
トガは、自分の胸に手を当てた。
「……でも、私は、私じゃなくなりたかったのかな」
その問いに、お茶子は答えられなかった。
トガは続けた。
「自分の気持ちを隠して。普通の女の子のふりをして。みんなが望む私になろうとして……。それが、うまくいかなくて」
彼女は、目を伏せた。
「……だったら、好きな人になればいいと思ったのかもしれません」
お茶子は、ゆっくりと息を吐いた。
その言葉を聞いて、何かが見えた気がした。
トガが、好きな人の血を求めたこと。
その人の姿になりたがったこと。
自分の欲望を、どのように扱えばいいのか分からなかったこと。
それらは、彼女のなかで、別々の問題ではなかったのかもしれない。
自分のままでは、受け入れてもらえない。
自分のままでは、好きな人に近づけない。
自分のままでは、誰かと同じように生きられない。
そう考えるようになったとき、彼女は、自分を変えるために、他人になろうとしたのかもしれない。
しかし。
他人になることは、他人を理解することと同じではない。
他人の姿になることは、他人の心を知ることと同じではない。
他人の身体を奪うことは、他人に近づくことと同じではない。
トガが求めたものは、彼女自身にも、まだ十分には分かっていないのだろう。
それでも、血の向こう側にあったのは、単純な欲望だけではなかった。
誰かに近づきたいという願い。
自分の気持ちを知ってほしいという願い。
自分のままでは、誰かに受け入れてもらえないのではないかという恐怖。
そして、その願いをどうすればいいのか分からなかった、孤独だった少女の姿。
お茶子は、その姿を見ていた。
けれど、同時に、忘れてはいけないことがあった。
トガが、誰かになろうとしたとき。
その誰かには、本人の人生があった。
本人の身体があった。
本人の意思があった。
本人が、なりたい自分を選ぶ権利があった。
トガが、自分の苦しさを乗り越えるために、その誰かの人生を奪っていいわけではなかった。
お茶子は、ゆっくりと口を開いた。
「……トガちゃん」
「……はい?」
「……自分のまま、生きるのって、難しいことなんかもしれへんな」
トガは、顔を上げた。
「……でも、誰かになることと、誰かを好きになることは、違うと思う」
お茶子は、慎重に言葉を続けた。
「誰かのことを好きでも、相手と同じにならなくてもいい。相手のことを、全部分からなくてもいい。……それでも、その人を好きだと思うことは、できるんやと思う」
トガは、黙っていた。
「……それに、自分のままでいることが、いつでも簡単なわけじゃないと思う。自分の気持ちが、周りに理解されないこともある。自分が、どうしたらいいのか分からなくなることもある」
お茶子は、そこで一度、息を吸った。
「……でも、だからって、誰かの人生を使って、自分を変えようとすることはできへん」
トガは、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
「……私も、トガちゃんに、どうしたらいいっていう答えを、全部持ってるわけやない」
お茶子は、正直に言った。
「……でも、トガちゃんが、自分の気持ちをどうやって扱っていけばいいのか、一緒に考えることはできるかもしれへん」
トガは、お茶子を見つめた。
その目には、まだ迷いがあった。
不安があった。
そして、少しだけ、期待もあった。
「……お茶子ちゃん」
「……うん」
「……私、まだ、分からないことばかりです」
「……うん」
「……自分の気持ちを、どうしたらいいのか。好きな人に近づきたいって思ったとき、どうすればいいのか。……誰かに嫌われたくないって思ったとき、どうすればいいのか」
トガは、目を伏せた。
「……これからも、間違えるかもしれません」
お茶子は、うなずいた。
「……そうかもしれへん」
トガは、少しだけ驚いたようだった。
お茶子は、続けた。
「……でも、間違えるかもしれへんからって、何も考えなくていいわけやないと思う。自分が何をしたのか、誰を傷つけたのか、どうしてそうなったのか。……それを、これからも考えていく必要はあると思う」
トガは、ゆっくりと息を吐いた。
「……はい」
お茶子は、彼女を見つめた。
「……私も、考えるよ」
「……お茶子ちゃんも?」
「うん。私も、トガちゃんに何を言えばいいのか、まだ分からへん。自分が、本当にトガちゃんのことを理解したいと思っているのか。助けたいと思っているのか。……その気持ちも、ちゃんと考えたい」
トガは、黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……じゃあ」
彼女は、少しだけ顔を上げた。
「……また、話してもいいですか?」
お茶子は、うなずいた。
「……うん」
「……私の話、まだ、いっぱいあります」
「……聞くよ」
お茶子は答えた。
「……ただ、私は、全部を理解できるとは約束できへん。トガちゃんがしたことを、何でも許せるとも言えへん」
トガの表情が、少しだけ揺れた。
お茶子は、続けた。
「……でも、トガちゃんが、これからどう生きたいのかを考えるために、話したいと思ってくれるなら。私は、聞きたい」
トガは、しばらくお茶子を見つめていた。
それから、ゆっくりと、うなずいた。
「……はい」
その返事には、少しだけ、力がこもっていた。
「……私も、話したいです」
面会の時間が終わる。
二人は、すぐに立ち上がらなかった。
この時間が終われば、また、それぞれの生活へ戻らなければならない。
トガには、トガの課題がある。
自分の感情をどう扱うのか。
自分が傷つけた人々のことを、どう受け止めるのか。
これから、誰と、どのように生きていくのか。
お茶子にも、お茶子の課題がある。
自分は、誰かを救うことで、何を得ようとしているのか。
自分が正しいと思うことを、相手に押しつけてはいないか。
理解したいという願いを、相手を自分の望む姿に変えたいという願いにしてはいないか。
答えは、まだ出ていない。
けれど、二人は、もう一度話すことを選んだ。
その選択だけは、確かだった。
9 被害者のいない救済など、どこにもない
面会を終え、お茶子は一人で廊下を歩いていた。
窓の外では、夕方の光が街を照らしている。
人々が行き交い、車が走り、復旧作業が続いている。
世界は、何事もなかったように動いている。
しかし、お茶子は知っている。
この世界には、トガによって傷つけられた人々がいる。
彼女の行為によって、生活を変えられた人々がいる。
彼らは、トガの過去を理解するために生きているわけではない。
トガが苦しかったことを知ったからといって、自分の苦しみを忘れられるわけではない。
誰かを好きになる気持ちが本物だったからといって、その気持ちによって傷つけられた人の痛みが偽物になるわけでもない。
お茶子は、足を止めた。
自分は、トガと話をした。
彼女の過去を聞いた。
好きな人のようになりたかったこと。
普通の女の子になりたかったこと。
自分の気持ちを、どう扱えばいいのか分からなかったこと。
そして、自分の「好き」を理由に、他人を傷つけてしまったこと。
その話を聞いて、彼女のことを、少しだけ理解できた気がした。
けれど、理解できたと思うこと自体、まだ早いのかもしれない。
一度話を聞いたくらいで、彼女の人生のすべてが分かるわけではない。
自分が感情を動かされたからといって、彼女の行為が許されるわけでもない。
それでも、お茶子は、彼女の話を聞きたいと思った。
なぜなら、相手がしたことを正しく判断するためにも、相手がどんな人間なのかを知る必要があると思ったからだ。
罪を犯した人間を、罪だけで説明することはできない。
しかし、その人間の苦しみを語ることで、罪を消すこともできない。
その二つを、同じ場所に置いて考えること。
それは、簡単ではない。
時には、矛盾しているように感じるかもしれない。
トガを理解したいと思いながら、彼女の行為に怒りを覚えることもあるだろう。
彼女の苦しみに共感しながら、彼女が傷つけた人々の苦しみを思い出すこともあるだろう。
彼女を救いたいと思いながら、彼女の願いをすべて叶えることはできないと認めることもあるだろう。
それでも、どれか一つを切り捨てれば、彼女を本当に知ることにはならない。
お茶子は、窓の外を見た。
「……正しいこと、言えたんかな」
小さく呟く。
答えはなかった。
「……いや、まだ、分からへんよね」
そう言って、自分でうなずいた。
分からない。
だから、次も話す。
次は、もっと聞く。
彼女が、何を望んでいるのか。
何を怖がっているのか。
何を、これから変えていきたいと思っているのか。
そして、自分自身が、どう向き合っていきたいと思っているのか。
その答えを、急いで決めない。
お茶子は、歩き出した。
救うという言葉を、簡単に使わないために。
理解するという言葉を、相手の人生を決めるために使わないために。
そして、彼女が傷つけた人々の痛みを、置き去りにしないために。
10 トガヒミコは、まだ好きだった
夜。
トガは、病室のベッドに座っていた。
机の上には、紙とペンが置かれている。
彼女は、しばらくその紙を眺めていた。
そして、ゆっくりと書き始めた。
好きなもの。
かわいいもの。
きれいなもの。
笑っている人。
好きな人。
自分が憧れたもの。
自分が、なりたいと思ったもの。
書き出すと、思っていた以上に、たくさんあった。
トガは、ペンを止めた。
「……私、こんなに、好きなものがあったんだ」
小さく笑った。
好きなものがあること自体は、悪いことではない。
誰かを好きになることも。
何かに憧れることも。
誰かのようになりたいと思うことも。
その気持ちが、自分のなかに生まれること自体は、罪ではない。
問題は、その気持ちを理由に、何をするのかだった。
好きだから、近づきたい。
好きだから、相手のことを知りたい。
好きだから、その人のようになりたい。
その願いを、自分のなかで抱えていることはできる。
相手に伝えることもできる。
相手が望むなら、そばにいることもできる。
だが、相手が望まないなら。
相手が距離を置きたいと思うなら。
相手が、自分とは違う人生を生きたいと思うなら。
その意思を、尊重しなければならない。
トガは、ペンを持ち直した。
紙の下に、もう一つの項目を書いた。
これから、しないこと。
他人の気持ちを、勝手に決めない。
自分の「好き」を、相手に押しつけない。
自分の願いを叶えるために、相手の身体や人生を奪わない。
そして、自分が苦しいからといって、その苦しさを理由に、誰かを傷つけない。
書き終えたあと、トガは、長いこと、その紙を見つめていた。
「……できるかな」
自信はなかった。
自分のなかにある衝動が、明日になれば、きれいに消えているわけではない。
誰かを好きになったとき、また、強い欲望が生まれることもあるだろう。
誰かに拒絶されたとき、苦しくなることもあるだろう。
自分の願いが、相手の願いと一致しないことを、受け入れられなくなることもあるかもしれない。
それでも、その気持ちが生まれたからといって、すぐに行動しなければならないわけではない。
気持ちと行動は、別だ。
好きになることと、相手のものを奪うことは、別だ。
自分の苦しさを認めることと、その苦しさを理由に、他人を傷つけることも、別だ。
トガは、紙を折りたたんだ。
「……私、まだ、好きです」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
好きだった人。
自分を理解しようとしてくれた人。
麗日お茶子。
そして、好きになるという感情そのもの。
それらは、彼女のなかに残っていた。
消すことはできない。
消す必要があるとも、今は思わなかった。
ただ、自分が好きだと思うことと、その相手が何を望んでいるのかを、別々に考えられるようになりたい。
自分の気持ちが、相手に受け入れられなかったとしても。
自分が、自分のままで生きていく方法を、探していきたい。
トガは、窓の外を見た。
夜空には、星が見えていた。
「……お茶子ちゃん」
小さく名前を呼ぶ。
次に会ったとき、彼女は何を話してくれるのだろう。
自分の話を、もっと聞いてくれるだろうか。
自分のことを、もっと理解しようとしてくれるだろうか。
それとも、やはり、自分の行為を許せないと告げるのだろうか。
どんな答えが返ってくるのか、分からない。
それでも、トガは、次も話したいと思った。
許されるためだけではない。
自分の苦しさを、なかったことにしてもらうためでもない。
自分が何をしてきたのか。
自分が何を望んでいるのか。
そして、自分が、これからどう生きたいのか。
それを、自分自身の言葉で話すために。
トガは、紙を机の引き出しにしまった。
明日も、考えよう。
自分の好きなものを。
自分の気持ちを。
自分が、誰かを傷つけずに生きるために、できることを。
その答えは、まだ見つかっていない。
けれど、彼女は、初めて、自分の気持ちを消すことだけが、答えではないのかもしれないと思った。
自分の感情を否定しなくてもいい。
ただし、その感情を理由に、他人の人生を奪ってはいけない。
その境界を、これから、何度も確かめていかなければならない。
トガは、ベッドに横になった。
そして、静かに目を閉じた。
好きなものを、好きだと思うこと。
好きな相手の意思を、尊重すること。
その二つを、同じ人生のなかで両立させられるのか。
それが、彼女の新しい問いになった。