僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十六話「麗日お茶子は、答えを持たない」

1 正しい答えを探す少女

「……救いたい、か」

 

麗日お茶子は、誰もいない訓練室で、ぽつりとつぶやいた。

 

放課後の校舎には、まだ人の気配が残っている。

 

廊下の向こうから、生徒たちの声が聞こえた。

 

教室では、誰かが机を動かしているらしい。

 

窓の外には、夕方の空が広がっていた。

 

いつもと変わらない景色。

 

それなのに、お茶子は、目の前の景色に集中できなかった。

 

トガヒミコ。

 

彼女が、もう一度、自分の前に現れた。

 

死んだと思っていた。

 

もう会うことはないと思っていた。

 

最後に交わした言葉も、最後に見た表情も、ずっと心の奥に残っていた。

 

あのとき、もっと話せていたら。

 

もっと早く、彼女のことを理解できていたら。

 

何か違う結果になっていたのだろうか。

 

そんなことを考えた日もあった。

 

けれど、今になって、彼女が生き返ったからといって、過去をやり直せるわけではない。

 

トガが生きている。

 

それは、確かなことだ。

 

彼女は、自分に会いたいと願っている。

 

そして、お茶子自身も、彼女と話したいと思っている。

 

だが、会って何をすればいいのだろう。

 

「……助けたい、って言えばいいんかな」

 

声に出してみる。

 

その言葉は、思っていたよりも軽く聞こえた。

 

助けたい。

 

たった四文字。

 

けれど、その言葉を口にした瞬間、自分は何を約束することになるのだろう。

 

トガを助ける。

 

彼女が抱えている問題を解決する。

 

彼女が、これから誰も傷つけずに生きられるようにする。

 

彼女が、自分の過去を受け入れられるようにする。

 

彼女が、自分自身を否定せずに生きられるようにする。

 

そんなことを、全部、自分ができるのだろうか。

 

そもそも、彼女は、自分にそんなことを望んでいるのだろうか。

 

お茶子は、両手を握った。

 

「……分からへん」

 

誰かを助けたいと思うことは、悪いことではない。

 

それは、自分がヒーローを目指した理由の一つだった。

 

誰かが困っていたら、手を差し伸べたい。

 

誰かが泣いていたら、少しでも安心させたい。

 

誰かが苦しんでいたら、その苦しさを知りたい。

 

そう思ってきた。

 

けれど、自分が助けたいと思った相手が、必ずしも自分に助けられたいとは限らない。

 

自分が、こうすればいいと思っても、相手は、違うことを望んでいるかもしれない。

 

自分が、相手のためだと信じていることが、相手にとっては、ただの押しつけになることもある。

 

それに気づいたとき、お茶子は、自分のなかに、別の問いがあることに気づいた。

 

自分は、誰かを助けたいのか。

 

それとも。

 

誰かを助けられる自分でいたいのか。

 

「……っ」

 

お茶子は、目を閉じた。

 

その二つは、同じではない。

 

誰かを助けたいという願いのなかに、自分自身を救いたいという気持ちが混ざっていることもある。

 

自分が助けられなかった誰か。

 

自分が理解できなかった誰か。

 

自分が、もっと何かできたのではないかと考えてしまう誰か。

 

そんな相手に、もう一度、向き合う機会が訪れたとき。

 

今度こそ、何かを変えたいと思う。

 

今度こそ、救いたいと思う。

 

その願いは、自然なものなのかもしれない。

 

だが、自分が後悔から救われたいからといって、相手に、救われる役割を求めてはいけない。

 

相手の人生は、自分の後悔を解消するためにあるのではない。

 

「……私、何をしたらええんやろ」

 

問いかけても、答えはなかった。

 

お茶子は、顔を上げた。

 

訓練室の窓に、自分の姿が映っている。

 

ヒーローを目指した少女。

 

誰かを助けたいと思ってきた少女。

 

その願いを、今も大切にしている少女。

 

だが、相手が何を望んでいるのか分からないとき。

 

自分が何を言えばいいのか分からないとき。

 

それでも、何かをしなければならないと思うとき。

 

自分は、本当に相手を見ているのだろうか。

 

それとも、相手を救うという役割を果たそうとしているだけなのだろうか。

 

「……答え、持ってへんな」

 

お茶子は、小さく笑った。

 

笑うしかなかった。

 

いつもなら、考えて、考えて、どうすればいいのかを決めようとする。

 

誰かに相談する。

 

必要な情報を集める。

 

自分にできることを探す。

 

そうして、何かしらの結論を出そうとしてきた。

 

しかし、今回ばかりは、正しい答えを見つけること自体が、間違っているような気がした。

 

トガの人生に、あらかじめ用意された正解などない。

 

お茶子が、彼女の気持ちをすべて理解できる保証もない。

 

それでも、彼女が何を話すのか、聞くことはできる。

 

彼女が、何を望んでいるのか、尋ねることもできる。

 

その答えを、自分の望みと違うからといって、勝手に変えないこともできる。

 

お茶子は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……もう一回、会いに行こう」

 

今度は、彼女を救う方法を見つけるためだけではなく。

 

彼女が、何を考えているのかを知るために。

 

そして、自分が何を考えているのかも、確かめるために。

 

2 蛙吹梅雨は、簡単な答えをくれなかった

「……梅雨ちゃん、ちょっと相談してもええ?」

 

寮の食堂で、蛙吹梅雨は、飲み物を口に運ぶ手を止めた。

 

向かいに座るお茶子は、いつになく真剣な顔をしていた。

 

「もちろんよ、お茶子ちゃん。どうしたの?」

 

「……トガちゃんのことなんやけど」

 

梅雨は、すぐに表情を変えた。

 

トガヒミコ。

 

敵連合の一員。

 

かつて、お茶子と何度も戦った少女。

 

死んだと思われていた彼女が、再びこの世界へ戻ってきたことは、梅雨も知っていた。

 

「……会ったのね」

 

「うん。話もした」

 

お茶子は、ゆっくりとうなずいた。

 

「トガちゃん、自分の過去を話してくれた。どうして、好きな人の血が欲しかったのか。どうして、普通の女の子になろうとしてたのか。……自分の気持ちを、どう扱えばいいのか分からなかったって」

 

梅雨は、黙って聞いていた。

 

「……私、トガちゃんのこと、もっと知りたいと思ってる。彼女が、何を感じてたのか。どうして、ああいうことをするようになったのか。……それを、知りたいんよ」

 

「うん」

 

「でも、知ったからって、何ができるんやろって思って」

 

お茶子は、自分の手を見つめた。

 

「トガちゃんが苦しかったことは、分かった。……いや、分かったって言い切れるわけやないけど、少なくとも、苦しかったんやろうなって思う」

 

梅雨は、静かにうなずいた。

 

「でも、彼女が傷つけた人たちのことも、忘れたくない。トガちゃんの苦しみを聞いたからって、彼女がしたことが、なくなるわけやないから」

 

「そうね」

 

梅雨は、短く答えた。

 

「……それで、私、何を言えばいいのか分からへんくなって」

 

お茶子は、顔を上げた。

 

「……トガちゃんを助けたいって思う。でも、助けたいって言うことが、正しいんかも分からへん。私が、トガちゃんを助けたいと思うことで、彼女に、私が望む答えを出してほしいと思ってるんやないかって……」

 

梅雨は、しばらく考えていた。

 

そして、ゆっくりと尋ねた。

 

「お茶子ちゃんは、トガちゃんに、どうなってほしいの?」

 

お茶子は、即答できなかった。

 

助かってほしい。

 

生きていてほしい。

 

誰も傷つけずに生きられるようになってほしい。

 

自分の気持ちを、否定しなくてもいいようになってほしい。

 

そして、できることなら、苦しまずに生きてほしい。

 

そう言いたかった。

 

けれど。

 

「……笑っててほしい、って思う」

 

ようやく出てきた言葉は、それだった。

 

「……トガちゃんが、これから、ちゃんと笑えるようになったらええなって」

 

梅雨は、黙って聞いた。

 

「でも、それも……私の願いなんよね」

 

お茶子は、苦笑した。

 

「トガちゃんが、これからどう生きたいのかは、トガちゃんが決めることやのに。私が、こうなってほしいって思ってる」

 

梅雨は、カップを置いた。

 

「お茶子ちゃん。誰かに、こうなってほしいと思うこと自体が、悪いわけじゃないと思うわ」

 

「……うん」

 

「大切な相手なら、幸せになってほしいと思うこともある。苦しんでいる相手を見て、楽になってほしいと思うこともある」

 

梅雨は、お茶子を見つめた。

 

「ただ、その願いを、相手にとっての正解だと決めてしまうのは、別の話よ」

 

お茶子は、うなずいた。

 

「……そうやね」

 

「お茶子ちゃんが、トガちゃんに笑っていてほしいと願うことは、お茶子ちゃんの気持ち。でも、トガちゃんが、何を望んでいるのかは、トガちゃんに聞かなければ分からない」

 

梅雨は、そこで言葉を切った。

 

「そして、トガちゃんが望んでいることが、お茶子ちゃんの願いとは違っていたら……その違いと、どう向き合うかを考える必要があると思うわ」

 

お茶子は、じっと聞いていた。

 

「……うん」

 

「でもね、お茶子ちゃん」

 

梅雨は、少しだけ声を柔らかくした。

 

「相手の望みが分からないからといって、何もできないわけではないと思うの」

 

お茶子は、顔を上げた。

 

「……何もできないわけやない?」

 

「ええ。相手の望みを、すぐにかなえられなくてもいい。相手の気持ちを、完全に理解できなくてもいい。……まずは、相手の話を聞くことができるでしょう?」

 

お茶子は、ゆっくりとうなずいた。

 

「……うん」

 

「話を聞いたからといって、必ず答えが見つかるとは限らない。でも、相手が何を考えているのか、知ろうとすることはできるわ」

 

梅雨は、まっすぐに言った。

 

「その結果、お茶子ちゃんが、どうしても受け入れられないことがあるかもしれない。それでも、相手の話を聞くことはできる。相手の話を聞くことと、相手のしたことを許すことは、同じではないから」

 

お茶子は、しばらく黙っていた。

 

自分は、答えが欲しかったのかもしれない。

 

トガに何を言えばいいのか。

 

どうすれば彼女を助けられるのか。

 

どこまで理解し、どこまで受け入れればいいのか。

 

その境界線を、誰かに示してほしかった。

 

しかし、梅雨は、簡単な答えをくれなかった。

 

代わりに、自分が何を望んでいるのか、問い返してくれた。

 

お茶子は、深く息を吐いた。

 

「……ありがとう、梅雨ちゃん」

 

「どういたしまして」

 

「……私、トガちゃんに会いに行く。今度は、何かを言うために行くんやなくて……ちゃんと、話を聞きに行く」

 

梅雨は、うなずいた。

 

「いいと思うわ」

 

お茶子は、少しだけ笑った。

 

「……でも、やっぱり怖いな」

 

「そうね」

 

梅雨は、否定しなかった。

 

「怖いと思うわ。相手が何を言うのか分からないし、自分が、どう答えればいいのかも分からないもの」

 

「……うん」

 

「それでも、怖いと思いながら、会いに行くことはできるわ」

 

お茶子は、その言葉を胸のなかで繰り返した。

 

怖くなくなってから、向き合うのではない。

 

正しい答えが見つかってから、話をするのでもない。

 

怖いままでも。

 

答えがなくても。

 

相手の話を聞きたいと思うなら、会いに行くことはできる。

 

「……よし」

 

お茶子は、顔を上げた。

 

「……行ってくる」

 

梅雨は、微笑んだ。

 

「いってらっしゃい、お茶子ちゃん」

 

3 トガヒミコが、本当に聞きたかったこと

面会室へ向かう廊下で、お茶子は、何度も自分の言葉を考え直していた。

 

何を言おう。

 

どこから話そう。

 

どうすれば、トガを傷つけずに済むだろう。

 

そう考えかけて、足を止めた。

 

「……あかん」

 

小さくつぶやく。

 

トガを傷つけないように。

 

トガを安心させるように。

 

トガが喜ぶように。

 

そのことばかり考えていれば、また、自分が何を言いたいのかを見失ってしまう。

 

彼女が傷つく可能性を、すべてなくすことはできない。

 

お茶子自身も、何かを言われて傷つくかもしれない。

 

それでも、話をする。

 

言葉を選ぶことは大切だ。

 

しかし、相手の反応を、自分の望む形に決めることはできない。

 

お茶子は、深く息を吸った。

 

そして、扉をノックした。

 

「……どうぞ」

 

トガの声が聞こえた。

 

お茶子は、扉を開けた。

 

「……こんにちは、トガちゃん」

 

「……こんにちは、お茶子ちゃん」

 

トガは、椅子に座っていた。

 

前回と同じ場所。

 

同じテーブル。

 

同じ窓。

 

しかし、前よりも少しだけ、緊張しているように見えた。

 

お茶子が椅子に座ると、トガはすぐに尋ねた。

 

「……今日は、何を話してくれるんですか?」

 

お茶子は、一瞬、言葉に詰まった。

 

何を話してくれる。

 

その質問に、何と答えればいいのだろう。

 

前回、自分は、トガの話を聞きたいと言った。

 

彼女が何を考え、何を望んでいるのかを知りたいと。

 

では、今日は。

 

自分は、何を聞きたいのだろう。

 

「……今日はね」

 

お茶子は、ゆっくりと答えた。

 

「……トガちゃんが、何を考えてるのか、もう少し聞きたい」

 

「……私が?」

 

「うん。前に話してくれたこと、いろいろ考えてみたんよ。好きな人のようになりたかったこと。自分の気持ちを、どう扱えばいいのか分からなかったこと」

 

トガは、黙って聞いていた。

 

「……でも、私が、トガちゃんのことを全部理解したと思ってるわけやない。だから、もう少し話を聞きたいと思って」

 

トガは、少しだけ笑った。

 

「……お茶子ちゃんって、本当に、答えをくれないんですね」

 

お茶子は、苦笑した。

 

「……うん。ごめん」

 

「謝らなくていいですよ」

 

トガは、窓の外を見た。

 

「……私、ずっと、答えが欲しかったんです」

 

お茶子は、静かに聞いていた。

 

「どうして、私は普通の女の子みたいになれないのか。どうしたら、みんなと同じように生きられるのか。どうしたら、好きな人に、普通に好きって言えるのか」

 

トガは、自分の手を見つめた。

 

「……誰かが、答えをくれたら、楽になれると思っていたんです」

 

彼女は、少しだけ笑った。

 

「こうすればいいんだよ。あなたは、こういう人なんだよ。こうすれば、みんなに受け入れてもらえるよ。……そういう答えがあれば、私は、迷わなくて済むと思っていました」

 

お茶子は、うなずいた。

 

「……うん」

 

「でも、そんな答え、なかったんですよね」

 

トガは、顔を上げた。

 

「……私は、自分の気持ちが、どんなものなのか、ずっと分からなかった。周りの人たちが、私にどうしてほしいのかは、分かった。普通の女の子になってほしい。変なことをしないでほしい。誰かを怖がらせないでほしい」

 

トガは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……でも、私が、本当は何を望んでいるのかは、分からなかった」

 

お茶子は、何も言わなかった。

 

トガは、続けた。

 

「……だから、好きな人になりたかったのかもしれません」

 

彼女は、自分の胸に手を当てた。

 

「その人の姿になれば、その人のように振る舞えば、その人と同じになれれば……自分が、どうしたいのかを考えなくて済む気がしたんです」

 

お茶子は、トガを見つめていた。

 

自分ではない誰かになる。

 

自分の気持ちを隠す。

 

自分自身を、別の誰かの姿に重ねる。

 

それは、トガにとって、自分の存在を受け入れる方法だったのだろうか。

 

それとも、自分自身を見なくて済む方法だったのだろうか。

 

お茶子には、まだ分からない。

 

「……トガちゃん」

 

お茶子は、慎重に尋ねた。

 

「……今は、自分が何を望んでるのか、少しは分かる?」

 

トガは、しばらく考えた。

 

「……分からないことも、いっぱいあります」

 

正直な答えだった。

 

「……でも」

 

彼女は、お茶子を見た。

 

「……私は、自分の気持ちを、全部なくしたいとは思わなくなりました」

 

お茶子は、目を上げた。

 

「……好きな人のことを考えると、今でも、胸がいっぱいになります。近づきたいと思うこともある。その人のようになりたいと思う気持ちも、完全にはなくなっていません」

 

トガは、言葉を区切った。

 

「でも、それを理由に、誰かの身体や人生を奪いたくない」

 

彼女は、静かに言った。

 

「……私は、自分の気持ちを、どうやって扱えばいいのか、これから考えたいんです」

 

お茶子は、すぐには答えられなかった。

 

その言葉は、彼女にとって、大きな一歩だった。

 

だが、その一歩が、何を意味するのか。

 

これから何ができるようになるのか。

 

まだ、分からない。

 

それでも、トガ自身が、自分の気持ちと向き合おうとしていることは、確かだった。

 

お茶子は、うなずいた。

 

「……そっか」

 

そして、今度は、トガの問いに答える番だった。

 

「……トガちゃん。前に聞かれたこと、覚えてる?」

 

「……何ですか?」

 

「……私が、トガちゃんのことを救いたいのか、って」

 

トガは、少しだけ目を見開いた。

 

「……はい」

 

お茶子は、深く息を吸った。

 

「……私、まだ、答えは持ってへん」

 

トガは、黙って聞いていた。

 

「……トガちゃんを助けたいと思ってる。それは本当。でも、私が、どうすればトガちゃんを救えるのかは、分からへん。そもそも、トガちゃんが、私に救われたいと思ってるのかも、分からへん」

 

お茶子は、続けた。

 

「だから、私は、今は、トガちゃんに、こうすればいいって言いたくない。……私が考えた答えを、トガちゃんの答えにしたくないんよ」

 

トガは、じっとお茶子を見つめていた。

 

「……じゃあ」

 

彼女は、ゆっくりと尋ねた。

 

「……お茶子ちゃんは、私を救えるかどうか、分からないんですね」

 

お茶子は、うなずいた。

 

「……うん。分からへん」

 

トガは、しばらく黙っていた。

 

そして、小さく笑った。

 

「……そっか」

 

その笑顔は、嬉しそうでもあり、少し寂しそうでもあった。

 

「……私、前だったら、そんな答えを聞いたら、怒ってたかもしれません」

 

「……そうなん?」

 

「はい。だって、救ってくれるって言ってほしかったから」

 

トガは、自分の手を見た。

 

「私のことを、分かってほしかった。私が、どんな気持ちでいたのか。何を望んでいたのか。……それを、分かったうえで、私を受け入れてほしかった」

 

彼女は、顔を上げた。

 

「……でも、私、自分のことだって、全部分かっているわけじゃないんですよね」

 

お茶子は、静かに聞いた。

 

「……自分でも分からないことを、誰かに全部分かってほしいって、無理な話だったのかもしれません」

 

トガは、少しだけ笑った。

 

「……もちろん、分かってほしい気持ちは、今もありますけど」

 

「……うん」

 

「……でも、分からないって言われても、それで終わりじゃないんですね」

 

お茶子は、うなずいた。

 

「……うん。分からないから、話を聞きたいんよ」

 

トガは、長いこと、お茶子を見つめていた。

 

それから、ゆっくりとうなずいた。

 

「……じゃあ、もう少し、話してもいいですか?」

 

「……もちろん」

 

お茶子は答えた。

 

「……聞かせて」

 

その言葉は、救済の約束ではなかった。

 

何でも許すという宣言でもない。

 

ただ、彼女の話を聞きたいという、自分の気持ちだった。

 

お茶子は、それを、余計な言葉で飾らなかった。

 

4 「分かるよ」と言わない勇気

トガは、しばらく考えていた。

 

何を話そう。

 

どこから話そう。

 

自分の過去には、たくさんの出来事がある。

 

好きな人のこと。

 

家族のこと。

 

自分の気持ちを隠していたこと。

 

自分が、何を望んでいたのか分からなくなっていたこと。

 

そして、誰かを傷つけたこと。

 

どれから話しても、簡単には説明できない。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「……うん?」

 

「……私、何度も、誰かに『分かるよ』って言ってほしいと思っていました」

 

お茶子は、黙って聞いていた。

 

「でも、実際に誰かが『分かるよ』って言ってくれたら……本当に、分かってくれてるのかなって、考えてしまうこともあったんです」

 

トガは、少しだけ笑った。

 

「……だって、私が、自分のことを全部分かってないんですから」

 

お茶子は、うなずいた。

 

「……そうやね」

 

「……私、普通の女の子になりたかった。みんなと同じように生きたかった。好きな人に、普通に好きって言いたかった」

 

トガは、少しずつ言葉を重ねた。

 

「……でも、私の『好き』は、みんなが考えているものとは違った。自分の気持ちを、そのまま言ったら、怖がられると思った。だから、隠した」

 

お茶子は、何も言わなかった。

 

「……そのうち、自分でも、何が本当なのか分からなくなったんです」

 

トガは、自分の胸に手を当てた。

 

「みんなに見せている自分が、本当の自分なのか。それとも、誰にも見せていない気持ちのほうが、本当なのか。……どっちも私なのに、どっちかを選ばなきゃいけないような気がしていました」

 

彼女は、視線を落とした。

 

「……だから、誰かになりたかったのかもしれません」

 

トガは、ぽつりと言った。

 

「自分ではない誰かになれば、自分が何者なのか、考えなくて済む。好きな人の姿になれば、その人のように振る舞える。……その人になれたら、私のままでは、うまくいかなかったことも、うまくいくような気がしたんです」

 

お茶子は、ゆっくりとうなずいた。

 

その気持ちのすべてを、自分が理解できるとは思わなかった。

 

しかし、トガが、自分自身を受け入れられずにいたことは、伝わってきた。

 

「……でも」

 

トガは、続けた。

 

「誰かになっても、私は、私のままだったんです」

 

彼女は、苦笑した。

 

「誰かの姿になっても、私は、私の気持ちを持ったまま。その人のように振る舞っても、私が何を望んでいるのかは、分からないまま」

 

トガは、顔を上げた。

 

「……だから、私は、ずっと、誰かに答えを求めていたのかもしれません」

 

お茶子は、静かに言った。

 

「……うん」

 

トガは、少しだけ驚いた。

 

「……お茶子ちゃん、今日は、あんまり『分かるよ』って言わないですね」

 

お茶子は、苦笑した。

 

「……うん。私、分かったつもりになりたくないんよ」

 

「……どうして?」

 

お茶子は、正直に答えた。

 

「……私が『分かるよ』って言ったら、トガちゃんが、もう話さなくていいと思うかもしれへんから」

 

トガは、目を見開いた。

 

「……え?」

 

「私が、分かったって言ったら、それで話が終わってしまうような気がするんよ。……でも、私は、まだ、トガちゃんのことを、ちゃんと知らない」

 

お茶子は、続けた。

 

「……それに、私が分かったと思っても、トガちゃん自身が、まだ分かってないことがあるかもしれへん」

 

トガは、しばらく黙っていた。

 

「……私、話してもいいんですね」

 

その声は、小さかった。

 

お茶子は、うなずいた。

 

「……うん」

 

「……私が、まだ、何を考えてるのか分からなくても?」

 

「……うん」

 

「……私が、話している途中で、気持ちが変わっても?」

 

「……うん」

 

トガは、目を閉じた。

 

「……そっか」

 

そして、ゆっくりと目を開いた。

 

「……じゃあ、私、まだ、話します」

 

お茶子は、うなずいた。

 

「……聞くよ」

 

二人は、しばらく、そのまま座っていた。

 

沈黙が流れる。

 

しかし、その沈黙は、以前とは少し違っていた。

 

トガは、何かを話さなければならないと、焦らなくてもよかった。

 

お茶子も、すぐに答えを返さなければならないと、焦らなくてもよかった。

 

分からないことがある。

 

言葉にできないこともある。

 

それでも、話を続けることはできる。

 

そのことを、二人は、少しずつ学び始めていた。

 

5 救えなかった人のことを、忘れないために

面会のあと、お茶子は、復帰者支援に関する資料を受け取った。

 

トガの今後の生活について、支援の選択肢を検討するためのものだった。

 

そこには、本人の希望を確認する手順や、心理的な支援、生活環境の調整についての説明が書かれていた。

 

お茶子は、一つずつ読み進めた。

 

その途中で、別の資料に目が止まった。

 

敵連合による事件で被害を受けた人々への支援に関する報告だった。

 

個人情報は伏せられている。

 

詳しい住所や名前は記されていない。

 

ただ、被害の内容と、その後の生活への影響がまとめられていた。

 

事件そのものは終わっても、日常がすぐに戻るわけではない。

 

人混みを怖がるようになった人。

 

夜になると、当時のことを思い出して眠れなくなる人。

 

以前は一人でできていたことを、家族に付き添ってもらうようになった人。

 

自分の身体に触れられることに、強い不安を感じるようになった人。

 

それらは、簡単な一文で記されていた。

 

お茶子は、ページをめくる手を止めた。

 

トガの苦しみを聞いた。

 

彼女が、なぜそうなったのかを知りたいと思った。

 

しかし、その一方で、トガの行為によって傷ついた人々の生活も、続いている。

 

彼らは、トガの気持ちを理解するために、苦しんでいるわけではない。

 

彼女を許すために、心の傷を抱えているわけでもない。

 

トガが、どれほど孤独だったのか。

 

どれほど、普通の女の子になりたいと思っていたのか。

 

その事情を知ったからといって、彼らが受けた被害の意味が変わるわけではない。

 

お茶子は、資料を閉じた。

 

「……忘れたら、あかん」

 

自分に言い聞かせるように、つぶやいた。

 

トガの話を聞く。

 

それは、必要なことだと思う。

 

しかし、それだけではない。

 

トガが、自分の過去を語るとき。

 

お茶子が、その言葉に心を動かされるとき。

 

その物語の外側にも、別の人々の人生がある。

 

彼らの苦しみを、トガが変わるための材料にしてはいけない。

 

彼らが、トガの成長を証明するために、許す役割を負わされてもいけない。

 

誰かを傷つけた人が変わろうとすることと、傷つけられた人が、その変化を受け入れなければならないことは、違う。

 

お茶子は、目を閉じた。

 

もし、トガがこれから、少しずつ変わっていったとして。

 

自分の感情を理解し、他人の意思を尊重できるようになったとして。

 

それでも、彼女を許せない人はいるだろう。

 

もう会いたくないと思う人もいるだろう。

 

トガの過去について、知りたいとも思わない人もいるだろう。

 

その気持ちを、間違いだと決めることはできない。

 

お茶子は、資料をもう一度開いた。

 

今度は、急がずに、一文ずつ読み進めた。

 

彼女は、トガだけを見ていたいわけではなかった。

 

傷ついた人々も、見失いたくなかった。

 

その二つを、同時に考えることは、苦しい。

 

どちらか一方だけを見ていれば、もう少し簡単なのかもしれない。

 

トガの苦しみだけを見れば、彼女を助けたいという気持ちに、集中できる。

 

被害の大きさだけを見れば、彼女を拒絶することを、簡単に正当化できる。

 

しかし、そのどちらかだけを見てしまえば、お茶子は、また一つの答えにすべてを押し込めることになる。

 

トガが苦しかったこと。

 

トガが他人を傷つけたこと。

 

傷つけられた人々が、今も苦しんでいること。

 

お茶子が、彼女を理解したいと思っていること。

 

そして、自分が、何をすべきか分からないこと。

 

どれも、同時に存在している。

 

「……一つに決めなくても、ええんかな」

 

お茶子は、ゆっくりとつぶやいた。

 

すぐに答えは出なかった。

 

けれど、今は、その問いを消さずに持っておこうと思った。

 

答えが出ないからといって、考えることをやめるわけではない。

 

誰かを理解したいからといって、別の誰かの苦しみを忘れるわけでもない。

 

その両方を抱えたまま、進んでいく。

 

それが、簡単ではないからこそ。

 

今の自分には、必要なのだと思った。

 

6 「私のこと、嫌いですか?」

次の面会で、トガは、最初から質問を用意していた。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「……うん?」

 

「……私のこと、嫌いですか?」

 

お茶子は、息を止めた。

 

いつか、聞かれるかもしれないと思っていた。

 

しかし、実際に問いかけられると、何と答えればいいのか、分からなくなった。

 

トガは、笑っていた。

 

けれど、その笑顔は、以前のように相手をからかうためのものではなかった。

 

答えを待っている顔だった。

 

「……嫌い?」

 

お茶子は、言葉を繰り返した。

 

「……はい」

 

トガは、うなずいた。

 

「私が、あんなことをしたから。お茶子ちゃんを傷つけたから。……私のこと、嫌いになりましたか?」

 

お茶子は、すぐに「そんなことない」と言いそうになった。

 

しかし、口を開く直前で、止まった。

 

自分は、トガのことを、どう思っているのだろう。

 

彼女の行為を、許せないと思うことはある。

 

自分や、ほかの人々が傷つけられたことに、怒りを感じることもある。

 

彼女が、自分の気持ちを理由に、他人の意思を無視したことに、納得できない部分もある。

 

それでも、彼女の過去を聞き、苦しかったことを知りたいと思った。

 

彼女が、自分の気持ちをどう扱えばいいのか、分からなかったことを知った。

 

彼女が、好きな人のようになりたかった理由を、少しだけ想像できるようになった。

 

その気持ちは、どれも本当だった。

 

では、自分は、彼女を嫌いなのだろうか。

 

「……私」

 

お茶子は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……トガちゃんがしたことを、許せないと思うことはあるよ」

 

トガは、黙って聞いていた。

 

「トガちゃんが、誰かを傷つけたこと。自分の気持ちを理由に、相手の意思を無視したこと。……それは、間違っていたと思う」

 

お茶子は、慎重に言葉を続けた。

 

「……でも、トガちゃんのことを、全部、嫌いだって言い切れるかどうかは……私にも、まだ分からへん」

 

トガの表情が、わずかに変わった。

 

お茶子は、言葉を続けた。

 

「……トガちゃんがしたことに、怒りを感じることと。トガちゃんが、どんな人間なのかを知りたいと思うことは、私のなかで、両方あるんよ」

 

トガは、目を伏せた。

 

「……そっか」

 

その声は、少しだけ震えていた。

 

「……じゃあ、私が、嫌いじゃないってことですか?」

 

お茶子は、首を横に振った。

 

「……そういうふうに、簡単には言えへん」

 

トガは、顔を上げた。

 

お茶子は、正直に続けた。

 

「……私が、トガちゃんのことをどう思っているのか。これから、どういう気持ちになるのか。……それは、私自身も、まだ分からへん」

 

トガは、しばらく黙っていた。

 

そして、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……お茶子ちゃんって、残酷ですね」

 

お茶子の胸が、痛んだ。

 

「……ごめん」

 

「……謝らなくていいです」

 

トガは、少しだけ笑った。

 

「……だって、私、ずっと、答えが欲しかったんです」

 

彼女は、自分の手を見つめた。

 

「好きって言ったら、好きって返してほしかった。会いたいって言ったら、会いたいって返してほしかった。……私が、どれだけ相手のことを好きなのか、分かってほしかった」

 

トガは、お茶子を見た。

 

「……でも、それって、相手に、同じ気持ちになってほしいって、求めていたんですよね」

 

お茶子は、黙っていた。

 

「……私が、好きだから。私が、寂しいから。私が、近づきたいから。……そういう理由で、相手にも、同じように感じてほしいと思っていた」

 

トガは、少しだけ笑った。

 

「……今でも、そう思うことはあります」

 

その正直な言葉に、お茶子は、顔を上げた。

 

「……でも、相手が、同じ気持ちになってくれるとは限らないんですよね」

 

「……うん」

 

「……私が、好きでも。相手は、私を好きじゃないかもしれない」

 

「……うん」

 

「……私が、近づきたいと思っても。相手は、離れたいと思っているかもしれない」

 

「……うん」

 

トガは、ゆっくりとうなずいた。

 

「……分かってきた気がします」

 

お茶子は、すぐに答えを返さなかった。

 

分かってきた。

 

その言葉を、彼女の変化として喜びたい気持ちはあった。

 

しかし、それは、トガがこれからも考え続けなければならない問題だった。

 

一度、理解したからといって、いつでもその通りに行動できるとは限らない。

 

感情が強くなったとき。

 

拒絶されたとき。

 

寂しくなったとき。

 

再び、同じことを繰り返したくなるかもしれない。

 

だから、お茶子は、その場で「よかったね」とは言わなかった。

 

代わりに、こう尋ねた。

 

「……トガちゃん。もし、これから、誰かを好きになったら」

 

トガは、顔を上げた。

 

「……どうしたいと思う?」

 

その質問に、トガはすぐには答えられなかった。

 

そして、その沈黙こそが、二人にとって、次の問いの始まりだった。

 

7 お茶子の答えは、まだ途中にある

面会が終わったあと、お茶子は、一人で廊下を歩いていた。

 

トガは、今も自分の気持ちと向き合っている。

 

好きなものを、好きだと思う気持ち。

 

誰かに近づきたいという願い。

 

自分自身を受け入れられないという苦しさ。

 

それらを、どう扱えばいいのか。

 

彼女は、まだ、答えを持っていない。

 

そして、お茶子もまた、答えを持っていなかった。

 

トガを助けたい。

 

その気持ちは、本当だ。

 

けれど、何をすれば救いになるのかは、分からない。

 

自分が、彼女にとって必要な人間なのかも、分からない。

 

そして、彼女が傷つけた人々のことを考えれば、彼女のために何かをすることが、いつでも正しいとも言えない。

 

お茶子は、廊下の窓の前で立ち止まった。

 

「……私、ヒーローになりたいんよね」

 

小さく呟く。

 

誰かを助けたい。

 

誰かの力になりたい。

 

その願いを、今も捨てたくはない。

 

しかし、自分がヒーローだからといって、誰かの人生を救う方法を、必ず知っているわけではない。

 

自分が正しいと思うことが、いつでも相手にとって正しいわけでもない。

 

そして、自分が「救いたい」と思った人が、必ずしも、自分に救われたいと思っているわけでもない。

 

「……それでも」

 

お茶子は、窓の外を見つめた。

 

「……私は、話を聞きたい」

 

その言葉は、今の自分にできる、最も確かな答えだった。

 

トガの人生を、代わりに決めることはできない。

 

彼女の気持ちを、すべて理解することもできない。

 

彼女が傷つけた人々の痛みを、なかったことにもできない。

 

それでも、トガが話したいと思うのなら、その話を聞くことはできる。

 

その話を聞いたうえで、自分が何を感じたのか、正直に考えることもできる。

 

彼女の行為を許せないと思うことも。

 

彼女の苦しさを理解したいと思うことも。

 

その両方を、なかったことにしないこと。

 

それが、今の自分にできることだった。

 

お茶子は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……答えは、まだ途中や」

 

自分に言い聞かせるように、呟く。

 

「……やから、考え続ける」

 

それは、ヒーローとしての決意だった。

 

しかし、以前とは少しだけ違う。

 

すぐに誰かを救う方法を見つけることだけが、自分の責任ではない。

 

相手の話を聞くこと。

 

自分の限界を認めること。

 

分からないときに、分からないと言うこと。

 

自分が正しいと思う答えを、相手に押しつけないこと。

 

それらもまた、誰かと向き合うために必要なことなのだ。

 

お茶子は、歩き出した。

 

トガに、また会いに行こう。

 

今度は、何かを教えるためだけではなく。

 

何かを約束するためだけでもなく。

 

ただ、彼女が何を考えているのかを、もう少し聞くために。

 

そして、自分自身も、何を望んでいるのかを、考え続けるために。

 

8 トガヒミコは、答えを急がない

夜。

 

トガは、机の上に置いた紙を見つめていた。

 

以前、自分が書いたもの。

 

好きなもの。

 

そして、これから、しないこと。

 

他人の気持ちを勝手に決めない。

 

自分の「好き」を、相手に押しつけない。

 

自分の願いを叶えるために、相手の身体や人生を奪わない。

 

その文字を、ゆっくりと読み返す。

 

「……難しいですね」

 

トガは、小さく笑った。

 

これから、自分が誰かを好きになったとき。

 

相手が、同じ気持ちを返してくれなかったら。

 

自分が、会いたいと思ったときに、相手が会いたくないと言ったら。

 

自分が、近づきたいと思ったときに、相手が距離を置きたいと願ったら。

 

自分は、どうするのだろう。

 

以前なら、自分の気持ちを、何とか相手に伝えようとした。

 

もっと強く。

 

もっと分かりやすく。

 

もっと、無視できないように。

 

そうすれば、相手も、自分の気持ちに気づいてくれると思っていた。

 

けれど、相手が気づいたとしても。

 

相手が、自分の気持ちを理解したとしても。

 

それで、同じ気持ちになってくれるとは限らない。

 

そのことは、少しずつ分かってきた。

 

「……私、好きな人に、好きって言いたいです」

 

トガは、紙に書いた。

 

その下に、少し迷ってから、もう一文を加えた。

 

「でも、好きと言われた相手が、どう答えるかは、相手が決めること」

 

書き終えて、彼女は、しばらくその文字を見つめていた。

 

それは、寂しい答えだった。

 

自分の気持ちが、相手に届くとは限らない。

 

相手が、自分を受け入れてくれるとも限らない。

 

それでも、自分の気持ちを持つことはできる。

 

好きな人がいることを、否定しなくてもいい。

 

その気持ちを、誰かに押しつけずに、抱えていくこともできるかもしれない。

 

トガは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……お茶子ちゃん」

 

小さく名前を呼ぶ。

 

彼女は、自分のことを、全部理解できるとは言わなかった。

 

何でも許せるとも言わなかった。

 

けれど、話を聞きたいと言った。

 

それは、トガにとって、思っていたよりも大きなことだった。

 

自分のことを、すぐに説明できなくてもいい。

 

自分の気持ちを、全部整理できなくてもいい。

 

それでも、話をしていい。

 

そう思える相手がいることは、彼女にとって、まだ不慣れな経験だった。

 

「……次は、何を話そうかな」

 

トガは、紙を折りたたんだ。

 

好きだった人のこと。

 

家族のこと。

 

自分の気持ちを隠していた時間のこと。

 

それから、誰かを傷つけたこと。

 

彼女には、まだ、話していないことがたくさんあった。

 

そして、まだ、自分でも言葉にできないことがある。

 

それらを、少しずつ話していこう。

 

自分が、どんな人間なのかを知るために。

 

自分の気持ちを、誰かの人生を奪う理由にしないために。

 

トガは、ベッドに横になった。

 

好きだという気持ちは、今も彼女のなかにある。

 

それを、消す必要はないのかもしれない。

 

しかし、その気持ちをどう扱うのかは、これからも考えなければならない。

 

好きになること。

 

近づきたいと思うこと。

 

相手と同じになりたいと願うこと。

 

そして、相手が、自分とは違う意思を持っていることを認めること。

 

その境界は、まだ曖昧だった。

 

明日になれば、また迷うだろう。

 

うまくできないこともあるだろう。

 

それでも、答えを急がずに、考え続けることはできる。

 

トガは、目を閉じた。

 

「……おやすみなさい」

 

自分に向けた言葉だった。

 

彼女は、まだ、救われたわけではない。

 

自分が傷つけた人々も、まだ、救われたわけではない。

 

お茶子も、正しい答えを見つけたわけではない。

 

それでも、二人は、もう一度話すことを選んでいる。

 

それは、すべてを解決する約束ではない。

 

ただ、相手の人生を、自分の答えで決めつけないための、小さな始まりだった

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