僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十七話「好きになること、奪うこと」

第一幕 好きな人の話をしてください

「では、今日は一つだけ質問を変えましょう」

 

机を挟んで座る担当者が、手元の記録を確認した。

 

「渡我さん。あなたが好きな人について、話してください」

 

渡我被身子は、顔を上げた。

 

「……好きな人?」

 

「ええ。誰でも構いません。過去に好きだった人でも、今好きな人でも」

 

「その人になりたいと思った相手でも?」

 

担当者は、一瞬だけ言葉を止めた。

 

それから、慎重に答える。

 

「その人について、あなた自身が何を感じているのかを話してください。どうやってその人になれるのか、ではなく」

 

渡我は、首を傾けた。

 

「どう違うの?」

 

その問いに、担当者はすぐには答えられなかった。

 

別室のモニター越しに様子を見ていた麗日お茶子は、膝の上で両手を握った。

 

違いはある。

 

きっと、ある。

 

けれど、誰かにとって当たり前のことを、当たり前に知っている人間だけが、正しい答えを教えられるわけではない。

 

渡我に必要なのは、答えを暗記することではない。

 

自分の中にある、何かを。

 

何かを好きになるときに生まれる、名前のない感情を。

 

そして、それを他人に押しつけずに抱えていく方法を。

 

お茶子は、隣に座っている蛙吹梅雨を見た。

 

梅雨はモニターから目を離さず、静かに言った。

 

「難しい質問ね」

 

「……うん」

 

「でも、必要な質問なんだと思うわ」

 

室内では、渡我が考え込んでいた。

 

やがて、彼女は小さく笑った。

 

「じゃあ、まずはお茶子ちゃんの話をしていい?」

 

担当者が確認するようにお茶子のいる別室へ目を向ける。

 

お茶子は、ゆっくりと頷いた。

 

「……聞きます」

 

許可が出た。

 

渡我は、椅子の背もたれに寄りかかった。

 

「お茶子ちゃんってさ、最初に見たときから、かわいかったんだよね」

 

「…………」

 

「まっすぐで、頑張り屋で、みんなのことを考えてて。笑うと、すごくかわいいの」

 

いつもの調子に戻りかけた声が、途中で止まった。

 

「でも、私が本当に気になってたのは……」

 

渡我は自分の手を見下ろした。

 

「どうして、そんなふうに笑えるのかなってことだった」

 

お茶子は息を呑んだ。

 

「私、ずっと不思議だったんだ。どうしてみんなは、自分のままでいられるんだろうって」

 

渡我の指が、膝の上で動いた。

 

「好きなものがあって。好きな人がいて。好きって思ったら、それを口にしても、みんなから変な目で見られない。好きな人のそばにいて、好きな人のことを考えて、普通に暮らせる」

 

その声に、笑みが混じる。

 

しかし、笑みは長く続かなかった。

 

「私も、そうしたかった」

 

お茶子は口を開きかけた。

 

けれど、何も言えなかった。

 

渡我が何を言おうとしているのか、わかった気がしたからだ。

 

わかった気がした。

 

その程度の理解で、彼女の過去をわかったことにしたくはなかった。

 

「好きな人がいたら、その人のことをもっと知りたいでしょ?」

 

「……うん」

 

「どんなものが好きなのか、何をしたら笑うのか、何が嫌いなのか。知りたいって思うでしょ?」

 

「そうだね」

 

「それで、私も同じことをしたくなるの。好きな人が好きなものを、私も好きになりたい。好きな人と同じものを見たい。同じ声で笑いたい。同じ顔で……」

 

渡我の言葉が止まった。

 

そして、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 

「同じ顔で笑ったら、同じ気持ちになれると思ってたのかな」

 

担当者は何も言わなかった。

 

お茶子も、口を挟まなかった。

 

渡我は、自分で自分に問いかけるように続けた。

 

「ううん。違うかも。だって、同じ顔になっても、その人の心までは同じにならないもんね」

 

自嘲するような笑い声が漏れた。

 

「そんなの、ずっとわかってたはずなのに」

 

知識として知っていることと、自分の行動の中で理解できていることは、同じではない。

 

渡我はその違いを、少しずつ言葉にし始めていた。

 

「お茶子ちゃんのこと、好きだった。今だって、好き」

 

お茶子は視線を落とした。

 

「でも、私が好きだったのは、お茶子ちゃん自身だったのかな。それとも、お茶子ちゃんみたいになった自分が好きだったのかな」

 

部屋の空気が、静かになった。

 

「ねえ、お茶子ちゃん」

 

渡我はモニターの向こうにいる少女を見つめた。

 

「誰かのことを好きになると、その人みたいになりたくなることって、ある?」

 

お茶子は、すぐには答えなかった。

 

自分の胸の奥を探る。

 

憧れた人。

尊敬した人。

自分を救ってくれた人。

目の前で誰かのために走る人。

 

誰かを好きになれば、その人の言葉や仕草を覚えることがある。

 

勇気をもらうことがある。

その人のようになりたいと願うことがある。

 

だからといって、その人の人生を自分のものにしたいとは限らない。

 

「……あると思う」

 

お茶子は答えた。

 

「私も、すごい人を見て、あんなふうになれたらいいなって思うことはあるよ」

 

「じゃあ、同じだね」

 

「でも、同じじゃないところもあると思う」

 

渡我の笑顔が、止まった。

 

お茶子は言葉を選んだ。

 

「憧れた人に近づきたいって思うことと、その人の代わりになることは違うんじゃないかな」

 

「代わり?」

 

「その人がその人として生きていることを、ちゃんと認められるかどうか。……うまく言えないけど」

 

渡我はしばらく黙っていた。

 

「私がその人になったら、元の人はどうなるの?」

 

「……いなくなるわけじゃない」

 

「でも、その人の場所に、私が入るんだよ?」

 

「うん」

 

「その人がいなくても、みんなが困らないように。私がその人になってあげる」

 

「渡我ちゃん」

 

「だって、同じ顔なんだよ? 同じ声で話せるし、同じ姿で笑えるし。うまくやれば、誰も気づかないかもしれない」

 

渡我は、そこでようやく自分の言葉に引っかかったようだった。

 

「……誰も気づかない」

 

それは、彼女にとって、ずっと魅力的な可能性だった。

 

好きな人の姿になれる。

好きな人のように振る舞える。

好きな人の場所に立てる。

 

それは、孤独を埋める方法だったのかもしれない。

 

しかし、同時に。

 

相手がそこにいることを、必要としなくなる方法でもあった。

 

「そっか」

 

渡我は目を伏せた。

 

「私、好きな人に近づきたかったんじゃなくて……好きな人がいなくても、その人のそばにいられるようにしたかったのかもしれない」

 

その言葉を聞いた瞬間、お茶子の胸が痛んだ。

 

けれど、その痛みを、そのまま渡我への同情に変えてはいけない気がした。

 

彼女が孤独だったこと。

 

他人を傷つけてきたこと。

 

その二つは、同時に存在している。

 

孤独だったからといって、傷つけられた側の痛みがなくなるわけではない。

 

そして、彼女の行動に責任があるからといって、孤独そのものまで嘘になるわけでもない。

 

お茶子は、ゆっくり息を吸った。

 

「……その気持ちは、ちゃんと聞きたいと思う」

 

「うん」

 

「でも、渡我ちゃんが誰かの代わりになることで、傷ついた人たちがいることも、なかったことにはできない」

 

渡我は顔を上げた。

 

「わかってる」

 

「まだ全部、わかってないかもしれないけど……私は、そこも一緒に考えたい」

 

渡我は、何かを言いかけて、口を閉じた。

 

いつものように、明るい声で誤魔化すこともできた。

 

けれど今回は、そうしなかった。

 

「……うん」

 

小さな返事だった。

 

けれど、それは、今までより少しだけ違う返事だった。

 

第二幕 その人の代わりになった日

面談が終わったあと、渡我は記録用紙を渡された。

 

「今日の話を踏まえて、少し書いてみてください」

 

用紙には、いくつかの質問が並んでいた。

 

あなたが好きな人は、どんな人ですか。

 

その人の、どこが好きですか。

 

その人になりたいと思ったとき、あなたは何を望んでいましたか。

 

相手が望んでいないと知ったら、その願いをどうしますか。

 

渡我は、最初の質問に取りかかった。

 

『かわいい人』

 

書いて、消した。

 

『優しい人』

 

それも消した。

 

『私に似ていない人』

 

そこで、手が止まった。

 

自分に似ていない人が好きだったのだろうか。

 

それとも、自分には許されなかったものを持っている人が好きだったのだろうか。

 

自然に笑える人。

自分の欲求を怖がらずに口にできる人。

好きなものを好きだと言って、周囲から受け入れられる人。

 

渡我は、ペンを持ったまま、長い間考えていた。

 

やがて、紙の端に書いた。

 

『私が好きだったのは、その人が、その人のままでいられること』

 

書いてから、目を瞬かせた。

 

「……これ、好きってことなのかな」

 

誰にも尋ねられない問いが、部屋に落ちた。

 

好きな人が、その人のままでいる。

 

それを望むこと。

 

自分の知らないところで笑っていても。

自分のいない場所で誰かと話していても。

自分に似ていないまま、自分の知らない未来を選んでも。

 

その人が、その人として幸せに生きていることを願う。

 

それは、今まで渡我が考えていた「好き」と、少し違っていた。

 

彼女にとって、好きになることは、近づくことだった。

 

触れたい。

知りたい。

味わいたい。

同じになりたい。

 

相手との距離がなくなるほど、気持ちが満たされると考えていた。

 

けれど、距離がなくなることは、必ずしも近づくことではない。

 

相手が自分から離れていく自由を奪えば、物理的には近くに置けても、心は遠ざかる。

 

そして、どれだけ相手の姿を真似ても、その人の人生を理解したことにはならない。

 

渡我は、用紙の質問を見つめた。

 

相手が望んでいないと知ったら、その願いをどうしますか。

 

「……どうするんだろうね」

 

声に出してみた。

 

誰かが答えを教えてくれるわけではない。

 

「諦める、かな」

 

そう呟いてから、首を傾げた。

 

「でも、諦められなかったら?」

 

好きな気持ちを消せないとき。

 

どうしても会いたいとき。

 

どうしても、相手のことを知りたいとき。

 

それでも、相手は自分に近づいてほしくないと言っている。

 

そのとき、気持ちを消せない自分は、何をすればいいのだろう。

 

渡我は、ペンを握り直した。

 

『相手が望んでいないなら、やらない』

 

書いてみた。

 

「……簡単だね」

 

簡単すぎて、怖かった。

 

本当にできるのだろうか。

 

今までの自分は、そうできなかった。

 

だから今、ここにいる。

 

だから、彼女が傷つけた人たちがいる。

 

渡我は、文字の上を指でなぞった。

 

『相手が望んでいないなら、やらない』

 

その一文には、彼女がまだ持っていないものが書かれていた。

 

我慢すること。

相手の答えを受け入れること。

自分の欲望を、相手に処理させないこと。

 

そして何より、相手が自分の思い通りにならなくても、自分の感情を自分で引き受けること。

 

渡我は記録用紙を閉じた。

 

「……できるようになりたいな」

 

誰かに褒めてもらうためではない。

 

お茶子に許してもらうためでもない。

 

まして、自分がもう悪い人間ではないと証明するためでもない。

 

ただ、次に誰かを好きになったとき。

 

その人を好きなまま、傷つけないために。

 

彼女は初めて、そんな未来を考えた。

 

しかし、その未来を考えられるようになったことと、過去の責任が消えることは、やはり別だった。

 

渡我は、用紙の最後に小さく書き足した。

 

『できるようになりたい。でも、できるようになったからって、今までのことがなくなるわけじゃない』

 

ペンを置く。

 

それは、誰かに認めてもらうための文章ではなかった。

 

自分自身が、忘れないための文章だった。

 

第三幕 優しさは、許可証じゃない

「お茶子、ちょっといい?」

 

面談室の外で待っていた梅雨が声をかけた。

 

「うん」

 

二人は廊下を歩き、窓際のベンチに腰を下ろした。

 

外では、復旧工事の人々が忙しそうに動いている。

 

崩れた壁を直す者。

運び込まれた資材を整理する者。

道路の亀裂を確認する者。

 

世界は、まだ傷だらけだった。

 

誰かの人生に刻まれた傷も、そう簡単には修復できない。

 

「話を聞くの、つらくなかった?」

 

梅雨に尋ねられ、お茶子は少し考えた。

 

「……つらくないって言ったら、嘘になるかな」

 

「そう」

 

「でも、つらいからって、聞かないほうがいいのかも、まだわからない」

 

梅雨は、お茶子の横顔を見た。

 

「お茶子は、渡我さんを助けたいのね」

 

「うん。そう思ってる」

 

「でも、どう助けるのかは、まだわからない」

 

「……うん」

 

「だったら、わからないまま話を聞くのも、一つの方法なんじゃないかしら」

 

お茶子は小さく笑った。

 

「梅雨ちゃんって、そういうところ、すごいよね」

 

「そうかしら」

 

「うん。でも、私、ちょっと怖いんだ」

 

笑みが消えた。

 

「渡我ちゃんのことを知れば知るほど、何かをしてあげたいって思うんだよ。苦しんでたんだねって。寂しかったんだねって。もっと早く誰かが気づいていれば、違ったのかなって」

 

梅雨は黙って聞いていた。

 

「でも、そう思ったときに、渡我ちゃんが傷つけた人たちのことを、後回しにしてしまいそうになる」

 

お茶子は、指を組み直した。

 

「私、助けたいって思うと、相手のことばかり考えちゃう。目の前にいる人を救いたくて、手を伸ばしたくなる。でも……」

 

その手が、別の誰かに届かなくなることもある。

 

「私が、渡我ちゃんを助けたいからって、傷つけられた人たちに、渡我ちゃんを許してあげてって言うことはできないよね」

 

「ええ。できないわ」

 

梅雨は、はっきりと答えた。

 

「それは、お茶子の優しさで決めていいことじゃないもの」

 

「……うん」

 

「お茶子が渡我さんの話を聞くことと、被害に遭った人たちが渡我さんを許すことは、別のことよ」

 

梅雨の声には、冷たさがなかった。

 

ただ、境界線を曖昧にしない強さがあった。

 

「渡我さんに、これから変わる機会が与えられることと、過去に傷つけられた人が、そのことを忘れなきゃいけないことも別。誰かが前を向けたからって、別の誰かまで同じ速さで前を向く必要はないわ」

 

お茶子は、しばらく黙っていた。

 

「……そうだよね」

 

「それに、お茶子」

 

梅雨は、少しだけ声を和らげた。

 

「あなたも、自分を後回しにしすぎないで」

 

「え?」

 

「渡我さんを助けることに一生懸命になるあまり、自分が何を感じているのか、忘れないでほしいの」

 

お茶子は目を伏せた。

 

渡我のことを考えているとき、自分の中にある感情を一つずつ整理するのは難しかった。

 

怒り。

悲しみ。

戸惑い。

同情。

それから、ほんの少しの希望。

 

全部が一緒になって、うまく名前をつけられない。

 

「私、渡我ちゃんに、幸せになってほしいんだと思う」

 

「ええ」

 

「でも、渡我ちゃんが幸せになっていくことを、私が見届けなきゃいけないわけじゃないんだよね」

 

梅雨は、少しだけ驚いたように瞬きをした。

 

「そうね」

 

「私が救わなきゃいけないって、勝手に決めるのも……」

 

お茶子は、自分の言葉に気づいたように、口を閉じた。

 

救いたい。

 

でも、救う役目を自分だけのものにしてしまったら。

 

渡我が変わるための道筋も、渡我が選ぶべき未来も、自分の考える正解の中に押し込めてしまうのではないだろうか。

 

それでは、渡我が他人の姿を借りて自分の望む関係を作ろうとしていたことと、どこが違うのだろう。

 

もちろん、まったく同じではない。

 

お茶子の願いは、渡我を傷つけるためのものではない。

 

けれど、善意であっても、相手の人生を自分の思い描いた形に整えたくなることはある。

 

自分が救ったと胸を張れる結末。

 

自分が手を伸ばしたから変われたのだと納得できる結末。

 

そんな結末を求めるあまり、相手の意思を見失うことがあるのなら。

 

それもまた、一つの支配になり得る。

 

「……私も、ちゃんと考えなきゃ」

 

お茶子が呟いた。

 

梅雨は、静かに頷いた。

 

「そうね。でも、一人で全部背負う必要はないわ」

 

その言葉に、お茶子はようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 

誰かを救うことは、一人ですべてを引き受けることではない。

 

そのことを、自分も覚えていなければならない。

 

第四幕 好きだから、知りたい

次の面談は、予定よりも少し早く始まった。

 

渡我が、自分から話したいと申し出たためだった。

 

「今日は何を話しますか?」

 

担当者の問いに、渡我は、用意してきた紙を机の上に置いた。

 

「好きな人のこと」

 

「前回の続きですね」

 

「うん。考えたんだ」

 

渡我は、紙の一部を指で押さえた。

 

「私、好きな人のことを知りたいって思うんだよね。それは、今でも変わらない」

 

「はい」

 

「でも、知りたいと思ったことを、全部知っていいわけじゃないんだよね?」

 

担当者は頷いた。

 

「そうです」

 

「好きな人の秘密も?」

 

「はい」

 

「その人が教えてくれないことも?」

 

「はい」

 

渡我は顔をしかめた。

 

「……難しいね」

 

「なぜ難しいと思いますか?」

 

「だって、好きなんだもん」

 

あまりにも単純な理由だった。

 

だからこそ、彼女の中では強い力を持っていた。

 

「好きな人のことって、知りたくならない? どうして悲しそうなのかとか、何を隠しているのかとか、誰と一緒にいるのかとか。自分の知らない顔をしていたら、もっと知りたくなる」

 

「そうですね。誰かに関心を持つと、その人について知りたいと思うことはあります」

 

「じゃあ、どこからが駄目なの?」

 

担当者は少し考えた。

 

「相手が知られたくないと思っていることを、相手の意思に反して調べたり、相手が拒んでいるのに距離を詰めたりすることです」

 

渡我は不満そうに唇を尖らせた。

 

「でも、知られたくない理由が、困ってるからだったら?」

 

「それでも、相手の意思を無視していい理由にはなりません」

 

「助けを求めてるのに、うまく言えないだけかもしれないよ?」

 

「その可能性はあります」

 

「じゃあ……」

 

「だからといって、渡我さんが相手の代わりに答えを決めていいわけではありません」

 

渡我は黙った。

 

目の前の担当者は、彼女の話を否定しているわけではなかった。

 

誰かが助けを求められずに苦しむことはある。

 

本当は頼りたいのに、言葉にできないこともある。

 

だからこそ、気にかけることには意味がある。

 

けれど、それと同時に。

 

誰かが助けを必要としているかどうかを、自分だけで決めつけることはできない。

 

手を差し出すことと、相手を無理に引っ張ることは違う。

 

「……じゃあ、助けたいときは、どうしたらいいの?」

 

「相手の様子を見て、声をかける。必要なら、助けを申し出る。そのうえで、相手の答えを聞くことです」

 

「断られたら?」

 

「断られたことを受け止める必要があります。ただし、命に関わる危険がある場合など、本人の判断だけに任せられない状況もあります。そのときは、別の方法で安全を確保することも必要でしょう」

 

「……相手が自分を傷つけるってわかってても?」

 

「状況によります。ですが、あなたが相手の人生のすべてを決めてよいという意味ではありません」

 

渡我は紙を見つめた。

 

「私、きっと、何回も間違えてたんだね」

 

その声に、担当者は慎重に答えた。

 

「あなたがしたことの中には、相手の意思を踏みにじり、深刻な被害を生んだものがあります。それは、間違いなく向き合わなければならないことです」

 

「うん」

 

「ただし、今回の質問を考え続けることには意味があります。理解することは、過去の行為を消すためではありません。これから同じことを繰り返さないために必要なのです」

 

「……うん」

 

渡我はゆっくりと頷いた。

 

自分の欲望を悪いものだと決めつけるだけなら、簡単だった。

 

好きになってはいけない。

近づきたいと思ってはいけない。

誰かになりたいと思ってはいけない。

 

そう決めてしまえば、もう何も考えなくて済む。

 

けれど、それでは何も変わらない。

 

自分の気持ちを否定することと、自分の行動に責任を持つことは違う。

 

渡我は、ずっと自分の欲望を否定されてきた。

 

血が好きだった。

それを隠せと言われた。

普通になれと言われた。

周りと同じように振る舞えと言われた。

 

彼女の欲望を理解しようとせず、ただ矯正しようとした人たちがいた。

 

その社会のあり方が、彼女を追い詰めた部分は確かにあったのだろう。

 

けれど、社会が彼女に十分な場所を与えなかったことと、彼女が他人に何をしてもよかったということは、違う。

 

「ねえ」

 

渡我が口を開いた。

 

「私、好きな人を好きなままでいたいんだ」

 

担当者は、彼女を見つめた。

 

「……はい」

 

「好きって気持ちを、なくしたいわけじゃない。だって、それまでなくしたら、私の中に何もなくなっちゃう気がするから」

 

渡我は、胸のあたりに手を置いた。

 

「でも、好きだからって、何でもしていいわけじゃないんだよね」

 

「そうです」

 

「その人が嫌だって言ったら、やめなきゃいけない。私がどれだけ寂しくても、どれだけ好きでも」

 

「はい」

 

「それで、相手が私のことを好きじゃなくても……」

 

声が小さくなった。

 

「それでも、好きだったことは、なくならないんだよね」

 

担当者は、すぐには答えなかった。

 

やがて、落ち着いた声で言った。

 

「相手の気持ちがあなたと同じでないからといって、あなた自身が感じたことまで、なかったことになるわけではありません。ただし、その気持ちを相手にどう示すかは、あなたが選ぶ必要があります」

 

渡我は目を伏せた。

 

好きでいることはできる。

 

けれど、好きだからといって、相手に同じ気持ちを求めることはできない。

 

その人が自分を選ばない自由も。

 

自分の知らない人生を歩む自由も。

 

自分を好きにならない自由も。

 

認めなければならない。

 

「……そっか」

 

渡我は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「私が好きな人を好きなままでいるためにも、その人が私を好きじゃない自由を、認めなきゃいけないんだね」

 

誰かに教えられた正解を繰り返しているだけではない。

 

彼女は、ようやくその意味を、自分自身の問題として考え始めていた。

 

第五幕 あなたのことが知りたい

その日の面談が終わる直前、渡我は突然、担当者に尋ねた。

 

「ねえ、私、もう一つ聞いていい?」

 

「どうぞ」

 

「お茶子ちゃんと、もう一度話したい」

 

「その希望は伝えます。ただし、麗日さんにも予定や気持ちがあります。面談を続けるかどうかは、麗日さん自身が決めることです」

 

「……わかってる」

 

渡我は、いつものように笑おうとした。

 

けれど、うまく笑えなかった。

 

「断られても、仕方ないよね」

 

「そうですね」

 

「嫌われてるかもしれないし」

 

「その可能性もあります」

 

「……はっきり言うね」

 

「あなたが相手の気持ちを、都合のいい形に決めつけないためです」

 

渡我は、目を丸くした。

 

そして、少しだけ笑った。

 

「そっか。私が勝手に、お茶子ちゃんは私のことを嫌ってないって決めるのも、違うんだ」

 

「そうですね」

 

「でも、嫌われてるって決めるのも、違うんだよね?」

 

「それも、あなたが決めることではありません」

 

渡我は、しばらく考えていた。

 

相手の気持ちは、相手のもの。

 

好かれているか。

嫌われているか。

許されているか。

まだ望みがあるのか。

 

それらを、自分の希望や恐怖だけで決めつけない。

 

「……難しいなあ」

 

「すぐに完璧にできるようになる必要はありません。間違えたときに、自分で気づいて修正できるようになることが大切です」

 

渡我は、小さく頷いた。

 

「じゃあ、お茶子ちゃんに伝えて」

 

彼女は、少し考えてから言った。

 

「『話してくれてありがとう』って」

 

それから、付け足す。

 

「あと……『また話したい。でも、無理なら断っていいよ』って」

 

担当者は、その言葉を記録した。

 

渡我は、自分の言葉を聞いて、どこか落ち着かない様子だった。

 

今までなら、相手が断る余地を残さなかった。

 

好きだから会いたい。

会いたいから近づく。

近づきたいから、姿を変える。

拒絶されても、好きだという気持ちは変わらない。

 

だから、相手もいつか、自分を受け入れてくれるはずだと考えた。

 

そう信じることで、自分の願いと相手の意思のずれを見ないようにしていた。

 

けれど、今回は違う。

 

会いたいという気持ちを伝えたうえで、断られる可能性を残す。

 

断られることを恐れながらも、それを相手の選択として認めようとする。

 

それは、渡我にとって、今までとは違う一歩だった。

 

しかし、まだ一歩にすぎない。

 

本当に断られたとき、彼女がどうするのか。

 

自分の望む答えが返ってこなかったとき、どんな感情が生まれるのか。

 

その感情を、誰かを傷つける理由に変えずにいられるのか。

 

それは、これから確かめていかなければならない。

 

一方、お茶子は、渡我からの伝言を聞いていた。

 

「また話したい。でも、無理なら断っていいよ、か……」

 

連絡を伝えてくれた担当者が、静かに尋ねる。

 

「どうされますか? 次回の面談に参加するかどうかは、麗日さんの意思に任せます」

 

お茶子は、手元の資料に目を落とした。

 

その中には、渡我がこれまで起こした事件の記録がある。

 

被害者の証言。

現場の報告。

彼女が関与した事件で、日常を奪われた人々の記録。

 

一つひとつが、現実の出来事だった。

 

渡我が変わろうとしていることを理由に、忘れていいものではない。

 

自分が彼女の話を聞くことを選んだとしても、それはすべてを許すという意味ではない。

 

そして、自分が話を聞かない選択をしたとしても、それは彼女が二度と変われないという意味にはならない。

 

お茶子は、資料を閉じた。

 

「……次も、話を聞きます」

 

担当者が頷く。

 

「わかりました」

 

「でも、私が渡我ちゃんを救えるかどうかは、まだわかりません」

 

「それで構いません」

 

「それに、私が話を聞くことと、渡我ちゃんが責任を取ることは、別ですよね」

 

「もちろんです」

 

お茶子は、静かに息を吐いた。

 

それなら、まだ話せる。

 

何かを約束するためではない。

 

誰かに許しを与えるためでもない。

 

ただ、相手の話を聞き、そのうえで自分の答えを考えるために。

 

「……私も、渡我ちゃんのことを、ちゃんと知りたいです」

 

その言葉は、救済の宣言ではなかった。

 

彼女の過去を肯定するものでもない。

 

ただ、まだ知らないことがあると認める言葉だった。

 

第六幕 好きな人の自由

次の面談の日。

 

お茶子が部屋に入ると、渡我は少しだけ背筋を伸ばした。

 

「お茶子ちゃん」

 

「こんにちは、渡我ちゃん」

 

いつもの軽い挨拶。

 

けれど、その間にあるものは、以前とは違っていた。

 

渡我は、席に座るよう促されると、お茶子に尋ねた。

 

「……来てくれて、ありがとう」

 

「うん」

 

「忙しかった?」

 

「少し。でも、大丈夫」

 

渡我は、口を開きかけてから、止めた。

 

「……大丈夫って言ってても、本当は大丈夫じゃないこともある?」

 

お茶子は、少し驚いた。

 

「あるよ」

 

「そっか」

 

「でも、今は大丈夫。今日は、渡我ちゃんと話したいと思って来たから」

 

渡我は、ほっとしたように目を細めた。

 

その表情を見て、お茶子は思った。

 

彼女は、今まで相手の言葉を聞いていただろうか。

 

それとも、自分が望む意味だけを拾い上げていただろうか。

 

自分の期待に合う言葉を、相手の本心として扱ってしまってはいなかっただろうか。

 

お茶子は、机の上に置かれた一枚の用紙に気づいた。

 

「それは?」

 

「宿題。好きな人のことについて、考えてきたの」

 

「そっか」

 

「見てもいい?」

 

渡我が聞いた。

 

お茶子は、少しだけ目を見開いた。

 

それから笑った。

 

「うん。私がいいって言える範囲ならね」

 

渡我は、その答えを聞いて、ゆっくり頷いた。

 

「……うん」

 

用紙には、渡我の字で、いくつかの文章が書かれていた。

 

『好きな人は、その人のまま生きていてほしい』

 

『自分の知らない場所で笑っていても、その人が幸せなら、それを否定しない』

 

『私が知らないことを、その人が誰にも話したくないなら、無理に聞き出さない』

 

そして、その下に。

 

『私のことを好きじゃなくても、その人が悪いわけじゃない』

 

お茶子は、最後の一文を何度か読み返した。

 

「……渡我ちゃん」

 

「うん?」

 

「これ、考えたんだね」

 

「うん。考えた」

 

渡我は、褒められるのを待つ子どものように見えた。

 

けれど、すぐに自分の表情に気づいたのか、視線を落とした。

 

「……これを書けたからって、できるとは限らないけどね」

 

「うん」

 

お茶子は、正直に頷いた。

 

「でも、考えることには意味があると思う」

 

渡我は、少しだけ顔を上げた。

 

「私、今でも、好きな人のことをもっと知りたいと思うよ」

 

「うん」

 

「その人が何を考えているのか、どうしてそんなことを言ったのか、私のことをどう思ってるのか。すごく知りたくなると思う」

 

「うん」

 

「でも、知りたいからって、その人の答えを勝手に決めたら、駄目なんだよね」

 

「……そうだね」

 

「だから、これからは、ちゃんと聞こうと思う」

 

渡我は、そこで少しだけ笑った。

 

「もちろん、聞いていいかどうかも、聞いてからね」

 

お茶子は、思わず笑みを浮かべた。

 

「うん。それ、大事だと思う」

 

二人の間に、小さな笑いが生まれた。

 

それは、すべてが許されたから生まれた笑いではない。

 

何もかも解決したからでもない。

 

ただ、今この瞬間、二人が同じ言葉を理解しようとしていることが、ほんの少しだけ嬉しかった。

 

渡我は、お茶子を見た。

 

「ねえ、お茶子ちゃん」

 

「何?」

 

「私がいつか、誰かを好きになったらさ」

 

「うん」

 

「その人が私のことを好きじゃなくても、ちゃんと好きでいられるようになりたい」

 

お茶子は、彼女を見つめた。

 

「……それは、簡単じゃないと思う」

 

「うん。わかってる」

 

「寂しいと思うし、つらいと思うし、どうしてって考えちゃうこともあると思う」

 

「うん」

 

「でも、その気持ちを、相手に何かをさせる理由にはしないこと。それが大事なんじゃないかな」

 

渡我は、ゆっくり頷いた。

 

「好きでいてもいい。でも、好きだからって、何かを奪っていいわけじゃない」

 

「……うん」

 

「会いたいと思っても、会いたくないって言われたら、相手の答えを聞く」

 

「うん」

 

「近づきたいと思っても、近づいてほしくないって言われたら……」

 

渡我は、言葉を止めた。

 

お茶子は、彼女の続きを急かさなかった。

 

渡我は自分で考え、答えを探した。

 

「……止まる」

 

「うん」

 

「それで、つらかったら、そのつらさは、自分でどうにかする」

 

「全部一人で抱えなくてもいいよ。誰かに相談したり、助けを求めたりしてもいいから」

 

「……そっか」

 

渡我は少し考えてから、頷いた。

 

「じゃあ、相手に押しつけないで、誰かに相談する」

 

「うん」

 

「私がつらいからって、相手に同じ気持ちになってもらわなきゃいけないわけじゃない」

 

「そうだね」

 

渡我は、自分の手を見つめた。

 

その手は、誰かに触れたいと願った手だった。

 

誰かの血を求めた手だった。

 

誰かの姿になり、その人のように生きようとした手だった。

 

これまでの彼女にとって、手を伸ばすことは、相手との距離を埋めることだった。

 

けれど、本当に相手と向き合うためには、手を伸ばさないことが必要な瞬間もある。

 

触れたいと願っても、触れない。

 

知りたいと思っても、踏み込まない。

 

そばにいたいと思っても、離れる。

 

その選択が、好きという感情を否定することにはならないのだとしたら。

 

彼女は、好きなまま、変わることができるのかもしれない。

 

もちろん、それは簡単なことではない。

 

一度理解しただけで、これまでの癖が消えるわけではない。

 

感情が強くなれば、また境界線を見失うかもしれない。

 

拒絶されたとき、彼女の心の中に、どうしようもない寂しさが生まれるかもしれない。

 

だからこそ、覚えておかなければならない。

 

好きという気持ちは、自分の中にある。

 

相手の意思は、相手の中にある。

 

二つは、同じものではない。

 

そして、その間にある距離を、無理やり消してはいけない。

 

渡我は、顔を上げた。

 

「お茶子ちゃん」

 

「うん?」

 

「私、まだお茶子ちゃんのことが好きだよ」

 

お茶子は、静かに彼女を見つめた。

 

渡我は続けた。

 

「今までのことがあったから、そんなこと言われても困るかもしれないけど」

 

「……うん」

 

「それでも、好きだったことは、嘘じゃないんだ」

 

お茶子は、すぐには答えなかった。

 

彼女が渡我の気持ちを、受け入れると約束することはできない。

 

同じ気持ちだと言うこともできない。

 

そして、今ここで、その感情を否定する必要もない。

 

お茶子は、慎重に言葉を選んだ。

 

「渡我ちゃんが私を好きだっていう気持ちは、渡我ちゃんのものだよ」

 

渡我は、じっと聞いていた。

 

「でも、私がどう思うかは、私が決めること。私の気持ちを、渡我ちゃんの好きって気持ちだけで決めることはできない」

 

「……うん」

 

「だから、私は、私の気持ちをちゃんと考えるね。渡我ちゃんも、自分の気持ちと、自分がしたことを、これからも考えてほしい」

 

渡我は、ゆっくりと頷いた。

 

「うん」

 

それから、いつもの笑みを浮かべかけて――やめた。

 

今度は、無理に明るくしなくてもよかった。

 

「……ありがとう、お茶子ちゃん」

 

「うん」

 

「話を聞いてくれて」

 

お茶子は、わずかに表情を和らげた。

 

「私も、話してくれてありがとう」

 

その言葉を交わしても、二人の間にある問題は何も消えていなかった。

 

お茶子が渡我を許したわけではない。

 

渡我が自分の過去を償い終えたわけでもない。

 

傷つけられた人たちが、二人の知らない場所で抱えている痛みは、そのまま存在している。

 

それでも、渡我は初めて、自分の気持ちを相手に押しつけずに伝えようとした。

 

お茶子は、初めてではなくても、もう一度、相手の答えを決めつけずに聞こうとした。

 

その小さな違いが、いつか何かを変えるのかもしれない。

 

あるいは、変えるためには、もっと多くの時間が必要なのかもしれない。

 

今は、まだわからない。

 

わからないからこそ、二人は話し続ける必要があった。

 

第七幕 好きだから、奪ってしまった

面談の終了時刻が近づいていた。

 

担当者が次回の予定について説明している間、渡我は、机に置かれた自分の記録用紙を見つめていた。

 

そこには、彼女が今日考えたことが書き足されていた。

 

『好きだから、知りたい』

 

『でも、知りたいからって、何でも知っていいわけじゃない』

 

『好きだから、近づきたい』

 

『でも、近づきたいからって、相手の嫌がることをしていいわけじゃない』

 

『好きだから、同じになりたい』

 

『でも、同じになるために、相手の場所を奪っていいわけじゃない』

 

渡我は、最後の一文を見つめた。

 

相手の場所を奪う。

 

彼女は今まで、何度もそうしてきた。

 

誰かの姿になって、誰かの生活に入り込もうとした。

 

その人が持っているものを、自分も手に入れられると思った。

 

好きな人の顔になれば、その人の気持ちに少しでも近づけると思った。

 

けれど、姿を手に入れても、心までは手に入らない。

 

他人の場所に立っても、その人が歩いてきた道を、自分が歩いたことにはならない。

 

その人のふりをしている間、本物のその人には、何が起きていたのだろう。

 

その人を待っていた人たちは。

 

その人と一緒に過ごすはずだった人たちは。

 

自分の知らないところで、何を失っていたのだろう。

 

渡我は、ペンを持ち直した。

 

『好きだから、奪ってしまった』

 

そこまで書いて、手が止まる。

 

この文章だけでは、あまりにも足りない。

 

好きだったから、仕方なかった。

 

好きだったから、止められなかった。

 

好きだったから、自分には必要だった。

 

そう言ってしまえば、また同じ場所に戻ってしまう。

 

彼女の気持ちが本物だったことは、事実なのかもしれない。

 

けれど、気持ちが本物だったことは、相手の被害を小さくする理由にはならない。

 

「……違う」

 

渡我は呟いた。

 

そして、続けて書いた。

 

『好きだから、奪ってしまった。でも、好きだったことは、奪ったことの言い訳にならない』

 

書き終えると、彼女は長い間、その文章を見つめていた。

 

それから、ゆっくりと紙を閉じた。

 

彼女はまだ、誰かを好きになりたいと思っている。

 

血への欲求も、誰かに憧れる気持ちも、完全になくなったわけではない。

 

他人の姿に惹かれる感情が、明日になれば消えているという保証もない。

 

それでも、これからの自分が何をするかは、考え続けることができる。

 

自分の欲望があることを認める。

 

その欲望を叶えるために、相手の意思を踏みにじらない。

 

相手が拒絶したとき、その拒絶を自分への攻撃として扱わない。

 

そして、誰かを傷つけた事実から、逃げない。

 

どれだけ時間がかかっても。

 

誰にも許してもらえなくても。

 

自分が変わったと、誰にも信じてもらえなくても。

 

それでも、自分が何を選ぶかは、自分の責任だった。

 

渡我は立ち上がった。

 

「……じゃあ、またね。お茶子ちゃん」

 

「うん。またね、渡我ちゃん」

 

一歩、歩き出す。

 

渡我は、振り返りかけた。

 

もう一度、お茶子の顔を見たいと思った。

 

笑っているかどうか、確かめたくなった。

 

自分に対して、どんな気持ちを抱いているのか知りたくなった。

 

胸の奥が、むずむずした。

 

いつものように、少しでも近づきたくなった。

 

その瞬間、彼女は足を止めた。

 

「……また、聞きたくなっちゃった」

 

小さな声で呟く。

 

お茶子が振り向いた。

 

「何を?」

 

渡我は、少しだけ困った顔をして笑った。

 

「お茶子ちゃんが、私のことをどう思ってるのか」

 

お茶子は、彼女を見つめた。

 

「……そうなんだ」

 

「うん。でも、今日は聞かない」

 

「どうして?」

 

渡我は、少し考えた。

 

「今は、まだ考えてる途中だから」

 

自分が知りたいことを、すべて今すぐ知る必要はない。

 

相手にも、考える時間がある。

 

答えたくない日がある。

 

言葉にできないことがある。

 

そして、答えを出さないことも、一つの選択なのかもしれない。

 

渡我は、今度こそ振り返らずに、部屋を出た。

 

お茶子は、その背中を見送った。

 

彼女が変わっていけるかどうかは、わからない。

 

どれほどの時間が必要なのかも、わからない。

 

けれど、今日の渡我は、自分の中に生まれた衝動を、行動に移す前に立ち止まった。

 

それだけで、過去が消えるわけではない。

 

それだけで、人が救われるわけでもない。

 

それでも。

 

何かを奪う前に立ち止まること。

 

相手の答えを、自分の望みで塗り替えないこと。

 

自分の気持ちを、自分の責任として抱えること。

 

その一つひとつが、いつか彼女の生き方を変えるかもしれない。

 

お茶子は窓の外を見た。

 

復旧工事の音が聞こえる。

 

壊れたものを、元の形に戻すだけでは足りない。

 

壊れた理由を知ること。

壊された人の声を聞くこと。

同じことを繰り返さない方法を考えること。

 

そして、誰かの未来を取り戻すとき、その未来を誰が決めるのか、忘れないこと。

 

それらが必要なのだ。

 

渡我の問題も、きっと同じだった。

 

彼女が誰かにならなくても、誰かを好きでいられる未来。

 

誰かに受け入れられなかったとしても、自分の人生を続けられる未来。

 

相手を奪わなくても、自分の欲望と向き合える未来。

 

そんな未来を、渡我自身が選べるようになるのか。

 

お茶子は、まだ答えを持っていなかった。

 

ただ、答えを持っていないからといって、考えることまでやめたくはなかった。

 

第八幕 その血は、誰のものなのか

その夜、渡我は一人で机に向かっていた。

 

面談で使った記録用紙の裏に、今日のことを書き残している。

 

『好きだから、奪ってしまった』

 

『好きだったことは、奪ったことの言い訳にならない』

 

そこまで書いたところで、彼女のペンが止まった。

 

その下に、もう一つの問いが浮かんでいた。

 

では、私は、何を好きになっていたのだろう。

 

好きな人の笑顔。

 

好きな人の姿。

 

好きな人の声。

 

好きな人が持っているもの。

 

それとも。

 

好きな人の血。

 

渡我は、自分の指先を見つめた。

 

彼女の個性は、血を媒介にして他人の姿へと変わる力だ。

 

その力は、彼女にとって、ただ戦うための能力ではなかった。

 

相手に近づく方法だった。

 

自分ではない誰かになれる、特別な方法だった。

 

幼いころから、彼女はその力と、自分の欲望が切り離せなかった。

 

好きなものを見ると、欲しくなる。

 

欲しくなると、近づきたくなる。

 

近づけば、もっと知りたくなる。

 

そして、いつしか、相手と同じになりたくなる。

 

その連鎖の中で、血は、好きな人に近づくための鍵だった。

 

しかし、血は、ただの鍵ではない。

 

その人の身体から流れるものだ。

 

その人が生きている証でもある。

 

本人が望まないなら、勝手に奪っていいものではない。

 

そして、血を手に入れたとしても、その人の人生を手に入れたことにはならない。

 

渡我は、ゆっくりとペンを動かした。

 

『血は、その人のもの』

 

書いてから、眉を寄せる。

 

「……それだけじゃないよね」

 

血を誰のものと考えるか。

 

個性とは、誰のものなのか。

 

自分が生まれつき持っていたものを、周囲が恐れたら。

 

自分が好きだと思うものを、周囲が異常だと呼んだら。

 

それでも、自分自身の感情まで、他人に決められていいのだろうか。

 

彼女は、自分の生き方を振り返った。

 

社会は、彼女の欲望を受け止める場所を十分に用意できなかった。

 

家族も、学校も、周囲の人々も、彼女がなぜそう感じるのかを理解するより先に、その欲望を抑え込もうとした。

 

彼女に必要だったのは、ただ欲望を否定されることではなかったはずだ。

 

自分の欲望を理解する方法。

自分と他人の境界線を学ぶ機会。

周囲を傷つけず、自分も壊さずに生きるための道。

 

そうしたものを、彼女はもっと早く知りたかったのかもしれない。

 

しかし、それは、彼女が他人を傷つけた事実を消さない。

 

社会が彼女を追い詰めた部分があったとしても、彼女が他人にしたことの責任まで、社会だけに押しつけることはできない。

 

誰かが彼女を理解できなかったことと、彼女が他人を理解しなくてもよかったことは、同じではない。

 

渡我は、その二つの事実を、同時に抱えようとしていた。

 

「……難しいなあ」

 

小さく呟く。

 

以前なら、ここで考えるのをやめていたかもしれない。

 

自分はこういう人間だから。

自分はこうするしかないから。

好きなんだから、仕方ないから。

 

そう言ってしまえば、その先を考えずに済む。

 

けれど、今は違う。

 

わからないままでも、考え続けることができる。

 

自分が間違っていた部分を認めながら、自分の気持ちそのものまで、無理に消し去らなくてもいい。

 

その二つを、どうすれば両立できるのか。

 

渡我は、紙の最後に書き足した。

 

『好きなものを好きだと思うことと、それを手に入れる権利があることは、同じじゃない』

 

書き終えた瞬間、胸の奥に、冷たいものが落ちたような気がした。

 

好きだから、欲しい。

 

欲しいから、手に入れたい。

 

その気持ちは、これからも生まれるだろう。

 

問題は、その先だ。

 

欲しいものを手に入れられなかったとき。

 

自分の望みが、誰かの望みとぶつかったとき。

 

自分の欲望を叶えることで、誰かが傷つくとわかったとき。

 

そのとき、自分は何を選ぶのか。

 

それが、渡我被身子の、これからの問題だった。

 

そして。

 

その問いは、彼女の個性そのものにも、深く結びついていた。

 

血を飲むこと。

 

他人の姿になること。

 

他人の力を借りること。

 

個性を持つ人間が、自分の力をどこまで使っていいのか。

 

本人が望んでいないなら、どんな事情があっても許されないのか。

 

では、自分自身の個性を否定され続けてきた人間は、どこに助けを求めればよかったのか。

 

渡我は、まだ知らない。

 

自分の血と、他人の血。

 

自分の個性と、他人の個性。

 

それぞれの境界線を、どう考えればいいのか。

 

ただ一つ、今日の面談でわかったことがある。

 

自分の欲望がどれほど強くても、それを叶えるために、相手の意思を消してはいけない。

 

それは、誰かを好きになることを諦めるという意味ではない。

 

好きでいることを、誰かを傷つける理由にしないという意味だった。

 

渡我は紙を閉じた。

 

「……明日も考えよう」

 

その声は小さかった。

 

けれど、彼女はもう、考えることから逃げようとはしていなかった。

 

終幕 奪わずに、近づくために

数日後。

 

お茶子は、個性に関する資料を読み返していた。

 

血液を介する個性。

他人の姿へ変化する個性。

本人の身体や意思に直接関わる個性。

能力の発動条件と、それに伴う危険性。

 

資料には、多くの分類や注意事項が書かれていた。

 

しかし、それらのどこにも、個性を持つ人間が、自分の能力とどう向き合って生きるべきなのかという問いに対する、完全な答えは載っていなかった。

 

個性の使用を制限すれば、他人を守れることがある。

 

だが、制限することだけで、その人の問題をすべて解決できるわけではない。

 

社会の安全のために必要なルールはある。

 

他人を傷つける行為を、個性だからといって許してはならない。

 

同時に、個性を持って生まれたこと自体を、罪のように扱ってもいけない。

 

お茶子は、資料を閉じた。

 

渡我のことを考えると、どうしても、この問題に行き着く。

 

彼女が持って生まれた力は、彼女の生き方に深く関わっていた。

 

しかし、力の性質が、彼女のすべてを決めるわけではない。

 

同じ個性でも、使い方は違う。

 

同じ欲望でも、行動は違う。

 

同じ孤独を抱えていても、誰かを傷つける人もいれば、傷つけない方法を探そうとする人もいる。

 

だからこそ、彼女が何を選ぶのかを、個性だけで決めつけてはいけない。

 

お茶子は、窓の外を見た。

 

空は少しずつ暗くなっている。

 

その向こうでは、復興のために多くの人が働いている。

 

失われたものを取り戻すために。

壊れた日常を、もう一度作り直すために。

 

ただ元通りにするだけでは、足りない。

 

誰かが無理をしなければ成り立たない社会なら、また誰かが追い詰められる。

 

異なる個性を持つ人間が、ただ同じ形になることを求められる社会なら、同じ悲劇が繰り返されるかもしれない。

 

必要なのは、誰かを一方的に矯正することでも、すべての行動を無条件に認めることでもない。

 

自分と他人の違いを理解し、その違いが誰かを傷つけない形で共存できる道を探すこと。

 

そして、誰かを守るための仕組みが、別の誰かの存在を押しつぶしてしまわないようにすること。

 

それは、渡我一人のための問題ではなかった。

 

社会全体が、これからも考え続けなければならない問題だった。

 

そのとき、お茶子の端末に通知が届いた。

 

次回の面談についての連絡だった。

 

渡我から、追加の質問が提出されているという。

 

お茶子は、画面を開いた。

 

そこには、短い文章があった。

 

『私の血は、私のもの?』

 

その下には、もう一つ。

 

『じゃあ、私が好きな人の血は、その人のもの?』

 

お茶子は、しばらく画面を見つめていた。

 

答えは、簡単なようで、簡単ではなかった。

 

血は、本人の身体に属する。

 

他人が勝手に奪っていいものではない。

 

けれど、その一文だけで、渡我が抱えてきた問題のすべてを説明できるわけでもない。

 

彼女は、自分の個性をどう使えばいいのか。

 

社会は、その個性を持つ人間に、どんな選択肢を用意するべきだったのか。

 

欲望を否定せずに、他人の意思を守る方法はあるのか。

 

そして、誰かを好きになることが、誰かの存在を奪うことにならないためには、何が必要なのか。

 

お茶子は、端末を閉じた。

 

次に話すべきことは、決まった。

 

ただし、答えはまだない。

 

答えを急げば、また誰かの意思を置き去りにしてしまうかもしれない。

 

だから、二人は次の問いに進む。

 

血と個性。

 

本人の意思。

 

そして、自分が自分として生きること。

 

渡我被身子が、他人の姿にならずに、誰かを好きでいられる未来を考えるために。

 

お茶子は、静かに立ち上がった。

 

窓の外には、まだ直すべきものがいくつも残っている。

 

誰かの失ったものを、すべて取り戻せるわけではない。

 

けれど、これから同じものを奪わないために、できることはあるはずだった。

 

それは、誰かの手を無理やり引くことではない。

 

相手の手が、こちらへ伸びてくるのを待つことでもない。

 

手を差し出して、相手が選べる余地を残すこと。

 

その選択が自分の望みと違っていても、相手の意思として受け止めること。

 

そして、自分自身もまた、自分の人生を選ぶこと。

 

そのために、社会は何を変えられるのか。

 

次の面談では、その問いが二人を待っていた。

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