名前とは、何だろう。
誰かに呼ばれるためのもの。
誰かを呼ぶためのもの。
自分が自分であることを、他人に伝えるためのもの。
生まれたとき、両親から与えられるもの。
あるいは、生きていく中で、自分自身で選び取るもの。
名前があるから、誰かを思い出せる。
名前があるから、誰かを探せる。
名前があるから、たとえその人が目の前にいなくても、確かにそこにいたのだと信じられる。
では。
もし、その名前が世界から消えたら。
その人を知る者がいなくなったら。
その人が生きた記録も、死んだ記録も、誰かと交わした約束も、すべてが消えてしまったら。
それでも、その人は存在していたと言えるのだろうか。
◇
午前十七時二十三分。
雄英高校、地下隔離観察区画。
警報は鳴っていなかった。
火災も発生していない。
施設の電源は正常で、通信網にも異常はない。
それなのに、隔離観察室の前には、五人の職員が立ち尽くしていた。
全員が、同じものを見つめていた。
透明な防護ガラス。
その向こうにある、簡素な椅子。
椅子に座る、一人の男。
そして、壁に表示された身元確認用のモニター。
そこには、つい先ほどまで、男の名前が表示されていた。
氏名。
生年月日。
血液型。
指紋照合結果。
DNA照合結果。
あらゆる項目が、空欄だった。
最初から何も登録されていない人間なら、それ自体は異常ではない。
問題は、その空欄が、ただの未登録を意味していなかったことだ。
モニターの表示が、一定間隔で切り替わっている。
『個体情報を照合しています』
『該当データなし』
『個体情報を再照合しています』
『該当データなし』
『個体情報を再照合しています』
『該当データなし』
何度繰り返しても、結果は同じだった。
その下には、別の項目が表示されていた。
『本人申告による氏名:――――』
名前の欄だけが、黒く塗り潰されたように見えた。
いや。
実際に、黒くなっていた。
画面の故障ではない。
文字を入力すれば、その瞬間に黒い線が走り、名前を覆い隠してしまうのだ。
最初に気づいた職員は、誤作動だと思った。
次の職員は、誰かが悪戯をしているのだと思った。
しかし、三人目が自分の端末で同じ現象を確認し、四人目が紙の記録に名前を書こうとして、五人目がその紙を見たとき。
全員が理解した。
これは、単なる機械の故障ではない。
名前そのものが、記録できないのだ。
「……相澤先生には?」
「報告しました。現在、こちらに向かっています」
「塚内警部は?」
「連絡がつきません。通信自体は通じていますが、こちらから送信した報告の一部が、送信履歴から消えています」
「一部?」
「はい。隔離対象の身元に関する情報だけです」
職員の一人が、ガラス越しに男を見た。
男は、椅子に座ったまま動かなかった。
両手を膝の上に置き、俯いている。
疲れ切った人間の姿だった。
長い間、眠っていないのだろう。
顔色は悪く、唇は乾いている。
額には汗が浮かんでいた。
それでも、男は時折、何かを思い出そうとするように眉を寄せていた。
名前。
自分の名前。
彼は、それを思い出そうとしていた。
その名前を口にすれば、何かが変わる。
何かが終わる。
あるいは、何かが始まる。
そんな確信だけが、彼の中に残っていた。
「……僕は」
男の唇が動いた。
防音設備によって声は聞こえない。
だが、職員の一人が、彼の口の動きを読んだ。
「何か言っています」
「何と言っている?」
「分かりません。ただ……」
職員は、男の口元を見つめた。
「何度も、同じ言葉を繰り返しています」
そのとき。
男が、ゆっくりと顔を上げた。
初めて、ガラスの向こうにいる職員たちを見た。
目が合った。
職員の一人が、思わず息を止めた。
男の瞳には、何かが映っていた。
恐怖。
後悔。
そして、どうしようもないほどの切迫感。
まるで、自分の目の前にいる人間たちが、もうすぐ全員死んでしまうと知っているかのような目だった。
男が立ち上がった。
職員たちが身構える。
しかし、男は防護ガラスに近づくと、両手をガラスにつけただけだった。
そして。
声が届かないはずの隔離観察室で。
男は、はっきりと口を動かした。
『思い出した』
職員の一人が、呟いた。
「……思い出した?」
男は頷いた。
そして、もう一度、口を動かした。
『僕の名前を』
次の瞬間。
観察区画のすべてのモニターが、同時に暗転した。
◇
雄英高校、中央指令室。
「全区画の映像が落ちました!」
「電源は生きています!」
「通信網に異常なし! ただし、記録サーバーへのアクセスが拒否されています!」
「誰に拒否されているんだ!」
「分かりません!」
怒号が飛び交う。
画面の前に立つ相澤消太は、眉間に深い皺を刻んでいた。
彼の隣には、塚内直正がいる。
その後ろには、雄英の技術スタッフと警備担当者が集まっていた。
「対象の状態は?」
相澤が尋ねた。
「現在、目視で確認できていません。隔離室の扉は閉鎖状態を維持しています」
「生命反応は?」
「……正常です」
「正常?」
「はい。心拍、呼吸、体温、すべて通常の範囲です」
相澤は目を細めた。
「なら、扉を開けるな。映像が戻るまで、対象には一切接触するな」
「しかし、内部で何か起きている可能性が――」
「だからだ」
相澤の声は低かった。
「何が起きているのか分からないから、動くなと言っている」
職員が口を閉じた。
塚内が、別の画面を見つめていた。
「……妙だな」
「何がです?」
「監視カメラだけじゃない。記録装置のログまで、時間が逆行している」
相澤が振り向いた。
「逆行?」
「さっきまで記録されていたデータが、数秒前の状態に戻っている。いや、正確には……」
塚内は言葉を選んだ。
「現在のデータが、過去のデータに置き換えられている」
技術者が顔を上げる。
「そんなことが可能なはずありません。バックアップは別系統ですし、外部からのアクセスも――」
「分かっている」
塚内は頷いた。
「だから、問題なんだ」
彼は画面を指さした。
「通常の改ざんなら、改ざんされた痕跡が残る。だが今回は、過去のデータそのものが、最初からその状態だったことになっている」
相澤の表情が険しくなる。
「……歴史そのものを上書きしているように見える、と?」
「少なくとも、記録上はな」
塚内は別の端末を操作した。
表示されたのは、隔離対象の男に関する情報だった。
身元不明。
指紋照合不可。
DNA照合不可。
死亡記録なし。
出生記録なし。
そして、つい先ほどまで表示されていた項目。
『本人申告による氏名:――――』
その欄が、消えていた。
項目そのものが、存在しなくなっていた。
「……まずいな」
塚内が呟く。
「何がです?」
「名前が記録できないんじゃない」
彼は、画面を見つめた。
「名前を記録するという概念そのものが、削られ始めている」
相澤は、すぐに判断した。
「雄英の外部通信を制限しろ。記録サーバーを物理的に切り離す。隔離区画の職員には、対象の名前を推測して口にしないよう通達しろ」
「名前を推測するな、ですか?」
「そうだ」
相澤は、険しい目で塚内を見た。
「もし、名前を認識すること自体が異常に関係しているなら、余計な刺激を与える必要はない」
塚内は頷いた。
「分かった」
彼は通信端末を手に取った。
その瞬間。
指令室の中央モニターに、白い文字が浮かび上がった。
『介入者の存在を確認』
室内の音が、すべて消えた。
キーボードを叩く音も。
空調の音も。
人々の呼吸さえも。
誰もが、画面を見つめていた。
『対象個体との接触履歴を照合しています』
『介入者の記憶情報を確認しています』
『介入者の存在履歴に欠落があります』
文字が一行ずつ増えていく。
『対象個体との関係性を確認』
そして。
『救済行動を検出』
相澤が、眉をひそめた。
「救済行動……?」
画面が切り替わった。
そこに表示されたのは、緑谷出久の顔写真だった。
『緑谷出久』
『観測回数:四』
『生存状態:暫定』
『死亡記録:確定』
その下に、新しい文字が現れた。
『介入者は対象個体の死亡を回避しようとしています』
さらに。
『介入者による干渉は、世界の再構築を阻害する可能性があります』
相澤の顔から、血の気が引いた。
「……あの男が、緑谷を救おうとしている?」
塚内は答えなかった。
答えられなかった。
そのとき、画面の最後に一行が表示された。
『排除処理を開始します』
直後。
指令室のすべての照明が消えた。
◇
隔離観察室。
男は、椅子に座っていた。
暗闇の中で、彼は自分の手を見つめていた。
指先が震えている。
思い出したのだ。
名前を。
自分が誰だったのかを。
自分が何をしてきたのかを。
そして。
何を失ったのかを。
「……そうか」
男は、かすれた声で呟いた。
「僕は……」
言葉が止まる。
喉の奥に、何かが詰まったようだった。
思い出した瞬間、記憶が戻ってきた。
それは、一つの人生だった。
生まれた場所。
暮らした家。
学校。
友人。
家族。
笑った日。
泣いた日。
そして、最後の日。
すべてが、彼の中に蘇っていた。
しかし、その記憶には、致命的な欠落があった。
自分の名前を呼ぶ声だけが、聞こえない。
母親が呼んだ名前。
友人が呼んだ名前。
誰かが怒鳴った名前。
誰かが泣きながら呼んだ名前。
それらはすべて、音のない映像になっていた。
口の動きは分かる。
声の調子も分かる。
しかし、名前だけが聞こえない。
まるで、その部分だけが、世界から切り取られてしまったかのように。
「……どうして」
男は頭を抱えた。
「どうして、名前だけ……」
答えはなかった。
代わりに、記憶の中の最後の光景が浮かび上がった。
崩壊する世界。
黒い亀裂。
空を覆う巨大な影。
その下で、誰かが倒れている。
緑色の髪。
傷だらけの身体。
伸ばされた手。
そして。
彼の目の前で、緑谷出久が死んでいた。
「……っ」
男は息を呑んだ。
違う。
思い出したのは、それだけではない。
デクが死ぬ直前。
彼は、何かを言っていた。
声は聞こえなかった。
だが、口の動きは覚えている。
あのとき。
緑谷出久は。
誰かの名前を呼んでいた。
男は震える手で口元を覆った。
「……そうだった」
涙が頬を伝う。
「僕は……君を救えなかったんだ」
暗闇の中で、壁が軋んだ。
黒い線が走る。
男は、顔を上げた。
来た。
また、あれが来た。
この世界を見ているもの。
人間を記録し、分類し、必要ならば作り直すもの。
人間の意志を、ただの観測結果として扱うもの。
男は椅子から立ち上がった。
「……もう、やめろ」
黒い亀裂が広がる。
「君たちは、何度同じことを繰り返すつもりなんだ」
壁に文字が浮かび上がった。
『介入者の記憶情報を確認』
『個体識別を開始』
『名前情報を照合』
男の身体が強張った。
名前。
また、名前だ。
彼が思い出した瞬間を狙って、世界の側がそれを奪おうとしている。
「……やめろ!」
男は壁に拳を叩きつけた。
「それは、僕のものだ!」
黒い亀裂が、拳を包み込んだ。
皮膚の表面に、黒い筋が浮かび上がる。
男は歯を食いしばった。
痛みが走る。
それでも、拳を引かなかった。
「名前は……!」
男の声が震えた。
「名前は、ただの記号じゃない!」
壁の文字が、一瞬だけ止まった。
「誰かが、誰かを呼ぶためのものだ!」
男は叫んだ。
「帰ってきてほしい人がいるから、名前を呼ぶんだ!」
「忘れたくない人がいるから、名前を覚えているんだ!」
「死んでしまった人に、もう一度会いたいから……!」
声が掠れた。
涙が止まらなかった。
「……もう一度、名前を呼びたいんだ」
壁の黒い亀裂が、わずかに揺れた。
男は、震える息を吐いた。
「それを……君たちが決めるな」
その瞬間。
黒い亀裂が、男の腕から離れた。
壁に表示されていた文字が、ゆっくりと変化する。
『介入者の意思を確認』
『個体識別に失敗』
『名前情報の照合に失敗』
『再試行』
男は、壁を睨みつけた。
「何度でもやればいい」
その目に、初めて明確な怒りが宿った。
「僕は……もう、君たちに奪わせない」
黒い亀裂が、壁全体へと広がった。
その向こう側に、星空が見えた。
しかし、地球から見上げる星空ではない。
星々は、あまりにも近かった。
近すぎた。
空間の奥行きが崩れ、星と星の間にあるはずの距離が失われている。
その中心に。
巨大な何かがあった。
男は、それを見た瞬間、膝をついた。
理解できない。
理解してはいけない。
それでも、知っていた。
自分は、以前にもこれを見たことがある。
何度も。
何度も。
そして、そのたびに。
大切な人を失ってきた。
「……まだ、早いんだ」
男は呟いた。
「君が目を覚ますには……まだ、早い」
巨大な何かが、こちらを向いた。
男は、顔を上げた。
「僕の名前なんて、どうでもいい」
彼は、はっきりと言った。
「僕が誰だったかなんて、どうでもいい」
黒い亀裂が、男の身体を照らす。
「でも、あの人だけは……」
言葉が詰まる。
それでも、彼は続けた。
「緑谷出久だけは、死なせない」
巨大な何かが、思考を発した。
『対象個体の死亡は、観測結果として確定しています』
「知るか!」
男は叫んだ。
「そんなもの、僕が認めない!」
『観測結果の変更は、世界の整合性を損ないます』
「だったら、壊せばいい!」
『世界の再構築が必要となります』
「やればいい!」
『再構築により、現在の世界は消失する可能性があります』
男は、歯を食いしばった。
その言葉の意味を理解していた。
世界を作り直せば、今あるものは失われる。
デクだけではない。
お茶子も。
爆豪も。
轟も。
相澤も。
オールマイトも。
今を生きている人々も。
すべてが、消えるかもしれない。
それでも。
男は、拳を握り締めた。
「……だから、僕は」
声が震えた。
「だから、僕は……今度こそ、別の方法を探すんだ」
彼は、巨大な何かを睨みつけた。
「世界を壊さずに、あの人を救う」
その言葉に、巨大な何かは反応しなかった。
ただ、星々の奥で、何かが瞬いた。
『観測対象の選択を記録』
『介入者の行動を継続観測』
『排除処理を保留』
黒い亀裂が、閉じ始めた。
男は、その場に崩れ落ちた。
息が荒い。
身体が震えている。
それでも。
彼は、笑った。
ほんの少しだけ。
「……まだ、終わってない」
その言葉を、彼は何度も繰り返した。
「まだ、終わってないんだ」
◇
午後十八時五分。
雄英高校、医療区画。
緑谷出久は、検査台の上に座っていた。
心電図。
血圧。
体温。
神経反応。
あらゆる検査結果は、正常だった。
少なくとも、医学的には。
「……本当に、何も異常がないんですか?」
出久が尋ねた。
医療スタッフは、困ったように笑った。
「数値上はね。むしろ、驚くほど安定しているよ」
「でも、僕は……」
「君が体験したことについては、医学的な検査だけでは判断できない。記憶の欠落や、時間感覚の異常については、今後も注意深く確認していこう」
「……はい」
出久は頷いた。
医療スタッフが退出すると、部屋には相澤とお茶子が残った。
相澤は、腕を組んでいた。
「緑谷。さっきの話を、もう一度聞かせろ」
「白い空間のことですか?」
「ああ。覚えている範囲でいい」
出久は、少し考えた。
どこまで話すべきだろう。
幼い自分のこと。
世界がやり直されるという言葉。
巨大な影。
紙片に書かれていた内容。
すべてを話すべきなのだろう。
けれど。
自分の口からそれを語ることに、なぜか抵抗があった。
まるで、言葉にした瞬間、それが現実になってしまうような気がしたのだ。
「……僕は、子どもの頃の自分に会いました」
相澤は黙って聞いていた。
「その子は、僕が何度もそこに来ていると言っていました。それから……僕が生きている限り、世界はやり直されるって」
お茶子の表情が曇った。
「世界が……やり直される?」
「うん」
出久は、膝の上で手を握った。
「僕は、何度も誰かを救おうとしていたみたいです。でも、そのたびに何かを忘れて……また同じことを繰り返している、と」
「それは、あくまでその子の発言だな?」
相澤が確認した。
「はい。僕自身の記憶にはありません」
「よし。なら、現時点では仮説として扱う」
相澤は、きっぱりと言った。
「お前が見たものを否定するつもりはない。だが、正体も仕組みも分からないものを、そのまま事実として受け入れることはできない」
「……はい」
「特に、お前自身の命に関わる話だ。自分が世界の異常の原因だと思い込むな。証拠がない」
出久は、顔を上げた。
相澤の目は、真剣だった。
「分かったな」
「……はい」
そのとき。
医療区画の扉が開いた。
爆豪と轟が入ってくる。
「おい、クソデク」
「爆豪くん……」
「検査は終わったのか」
「うん。今のところは」
「そうか」
爆豪は、それだけ言って壁際に立った。
轟は椅子を引き寄せ、出久の前に座った。
「緑谷。ひとつ確認したい」
「何?」
「お前が白い空間で見た子どもは、本当にお前自身だったのか?」
出久は、少しだけ考えた。
「……顔も声も、昔の僕そのものだった。でも、あの子が本当に僕だったのかは、分からない」
「記憶を共有していたわけではない?」
「うん。あの子は、僕が知らないことを知っていた。僕が忘れていることを、覚えているみたいだった」
轟は頷いた。
「なら、別の可能性もある」
「別の可能性?」
「お前の記憶から作られた存在かもしれないし、お前と同じ情報を持つ別の存在かもしれない。あるいは、どちらでもないのかもしれない」
出久は、少し驚いた。
轟は続けた。
「今の段階で、本物か偽物かを決める必要はないと思う」
「……うん」
「重要なのは、そいつが何を言ったか。そして、その言葉が本当なのかどうかだ」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう、轟くん」
「礼を言われるようなことじゃない」
轟は立ち上がった。
「分からないことが多すぎる。なら、一つずつ調べるしかない」
「……そうだね」
爆豪が舌打ちした。
「で、結局どうすんだよ」
相澤が答える。
「まずは隔離対象の男を調べる。今回の異常と、あの男が無関係だとは考えにくい」
「本人は?」
「身元を思い出した可能性があるらしい。ただし、名前の記録に異常が起きている」
爆豪が眉をひそめた。
「名前?」
「ああ。本人が名前を申告した直後から、記録が消え始めた」
出久の胸に、嫌な予感が走った。
「……先生」
「何だ」
「その人の名前が、記録できなくなっているんですか?」
「そうだ」
出久は俯いた。
白い空間で見た紙片。
そこに書かれていた、自分の筆跡。
『三度目は、彼を救う』
もし、あの紙片が本当に自分の書いたものなら。
もし、あの男が、自分を救おうとしているのなら。
彼は、誰なのだろう。
そして。
自分は、彼に何をしたのだろう。
「……会わせてください」
出久は顔を上げた。
「その人に、もう一度会いたいです」
相澤は、すぐには答えなかった。
「今の状態で接触させるのは危険だ」
「分かっています。でも……」
「緑谷」
「その人は、僕を救おうとしているんです」
言葉にした瞬間、出久自身が驚いた。
なぜ、そう思ったのだろう。
証拠はない。
男が何者なのかも分からない。
それなのに。
彼が、自分を救おうとしている。
そのことだけは、疑えなかった。
「……僕には、そう感じられるんです」
相澤は、しばらく出久を見つめていた。
やがて、短く息を吐いた。
「分かった。だが、条件がある」
「はい」
「俺も同席する。対象の行動に異常が見られた場合、即座に接触を中止する。お前も、勝手に近づくな」
「はい」
「それから」
相澤の目が鋭くなった。
「何があっても、ひとりで判断するな」
出久は、少しだけ笑った。
「……はい」
今度は、きちんと答えられた。
◇
午後十八時四十分。
地下隔離観察区画。
隔離室の照明は復旧していた。
防護ガラスの向こうには、男が座っている。
しかし、記録端末は依然として異常を示していた。
『個体識別:不能』
『名前情報:取得不可』
『存在履歴:照合失敗』
そして、その下に新しい項目が増えていた。
『本人の記憶状態:回復傾向』
出久たちは、観察室の前に立った。
男は、彼らの姿を見ると、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、出久を捉える。
男は、一瞬だけ息を止めた。
そして、笑った。
泣きそうな顔で。
「……来てくれたんだね」
出久は、ガラス越しに彼を見つめた。
「あなたは……僕を知っているんですね」
「うん」
「僕が、何度も死んだことも?」
男の笑顔が消えた。
相澤が、すぐに反応する。
「緑谷。質問は慎重にしろ」
しかし、男は静かに首を横に振った。
「いいんだ」
彼は出久を見つめた。
「……君には、知る権利がある」
その声は、穏やかだった。
しかし、ひどく疲れていた。
「ただ、今の僕には……全部を話すことはできない」
「どうしてですか?」
「思い出せないことがあるから」
男は、自分の胸に手を当てた。
「それに……思い出してはいけないこともある」
出久は、眉をひそめた。
「思い出してはいけない?」
「うん」
男は頷いた。
「君が知れば、君はきっと、自分を責めるから」
その言葉に、出久の胸がざわついた。
「……僕が?」
「君は、そういう人だから」
男は、少しだけ笑った。
「自分に責任がないことまで、自分のせいだと思い込む」
出久は何も言えなかった。
男は続けた。
「だから、君に伝えたいことがある」
彼はガラスに近づいた。
「ひとつだけ、覚えておいてほしい」
出久は、彼を見つめた。
「何ですか?」
男は、ゆっくりと口を開いた。
「君が世界を壊したんじゃない」
その言葉が、出久の胸に突き刺さった。
「……え?」
「君が世界をやり直したわけじゃない。君が、みんなを死なせたわけでもない」
男の声が震えた。
「それだけは、絶対に忘れないでほしい」
出久は、言葉を失った。
まるで。
自分が、いつかその罪を背負うことになると知っているかのようだった。
「……あなたは」
出久は、ゆっくりと尋ねた。
「あなたは、誰なんですか?」
男は目を閉じた。
長い沈黙があった。
やがて、彼は答えた。
「……分からない」
その言葉は、嘘ではなかった。
男は、本当に分からなかった。
自分の名前が。
自分が何者だったのかが。
ただ、一つだけ。
どうしても忘れられないものがあった。
男は目を開けた。
「でも……君を知っている」
彼は、出久を見つめた。
「君が、どんな人間なのかを」
その瞬間。
観察室の照明が、再び明滅した。
相澤が身構える。
「全員、下がれ!」
壁に黒い亀裂が走った。
今度は、隔離室の壁だけではない。
観察室の外壁。
廊下。
天井。
すべてに、細い黒い線が浮かび上がっていく。
警報が鳴り響いた。
「異常発生! 隔離区画全域で、空間計測に異常!」
「退避してください! ただちに退避を!」
出久は、男を見た。
男も、出久を見ていた。
その顔に、恐怖が浮かんでいた。
「……来た」
男が呟く。
「また、来たんだ」
黒い亀裂が、防護ガラスの中央に伸びた。
その向こうに、白い空間が見えた。
出久の心臓が跳ねる。
見覚えがある。
あの場所だ。
何もない白い世界。
幼い自分が立っていた場所。
そして、その奥に。
巨大な影があった。
男が、叫んだ。
「緑谷くん! 目を閉じて!」
出久は反射的に顔を背けた。
しかし、遅かった。
白い空間の奥で、何かがこちらを見た。
世界が静止した。
警報の音が消える。
職員たちの動きが止まる。
相澤の手が、空中で静止している。
お茶子も、爆豪も、轟も。
誰一人、動かない。
出久だけが、その場に立っていた。
そして。
壁の向こう側から、声がした。
『対象個体を確認』
出久は、歯を食いしばった。
また、あの声だ。
『緑谷出久』
『死亡記録:確定』
『観測回数:四』
出久は、拳を握り締めた。
「……僕は、生きている」
声が震えた。
それでも、言い切った。
「僕は、ここにいる!」
巨大な影が、わずかに揺れた。
『生存状態と死亡記録の不一致を確認』
『整合性の回復を開始します』
出久の身体が、白い光に包まれた。
足元から、感覚が消えていく。
指先が冷たくなる。
心臓の鼓動が遠ざかる。
視界が白く染まっていく。
「……っ!」
出久は、手を伸ばした。
誰かに。
何かに。
自分を、この世界につなぎ止めるものに。
その瞬間。
ガラスの向こう側から、男が叫んだ。
「――君は、君の名前を忘れるな!」
出久は、目を見開いた。
「君が誰かに何と呼ばれても!」
男の身体にも、黒い亀裂が走っていた。
彼は、ガラスに両手をついていた。
「君が何度死んだことにされても!」
声が掠れる。
「君が君であることだけは……!」
男は、泣きながら叫んだ。
「誰にも、奪わせるな!」
その瞬間。
出久の中で、何かがつながった。
名前。
自分の名前。
緑谷出久。
それは、ただの記号ではない。
母親が呼んでくれた名前。
オールマイトが託してくれた未来。
爆豪が何度も怒鳴りつけてきた名前。
お茶子が、優しく呼んでくれた名前。
仲間たちが、何度も自分を呼び戻してくれた名前。
そのすべてが、出久の中にあった。
「……僕は」
白い光の中で、出久は顔を上げた。
「僕は、緑谷出久だ!」
世界が、激しく震えた。
『対象個体の自己認識を確認』
『外部記録との不一致を検出』
『再構築処理を中断』
巨大な影が、初めて大きく揺れた。
出久は、叫んだ。
「僕の人生は、僕が決める!」
白い世界に、亀裂が走った。
「僕が何を忘れていたとしても!」
「僕が何度、死んだことにされていたとしても!」
「僕が今、ここで生きていることまで……!」
声が、震える。
それでも。
「君たちに、決めさせるものか!」
次の瞬間。
白い世界が砕け散った。
◇
隔離観察区画。
時間が動き出した。
警報が鳴り響く。
職員たちが一斉に動き出す。
相澤が出久の身体を支え、お茶子が駆け寄る。
「出久くん!」
「緑谷!」
「おい、クソデク!」
出久は、床に膝をついていた。
呼吸が荒い。
全身から汗が噴き出している。
それでも。
彼は、生きていた。
「……大丈夫」
そう言おうとして、声が掠れた。
「大丈夫……だよ」
「どこがだ!」
爆豪が怒鳴る。
「今、身体が透けてただろうが!」
「……え?」
出久は、自分の手を見た。
そこには、何も異常はない。
しかし、相澤の顔は険しいままだった。
「緑谷。今の現象について、覚えていることをすべて話せ」
「はい……」
出久は、ゆっくりと息を整えた。
そして、ガラスの向こうを見た。
男は、床に倒れていた。
「……あの人は?」
相澤が振り返る。
「生命反応はある。意識を失っているだけだ」
出久は、安堵の息を吐いた。
そのとき。
壁のモニターが、正常な表示に戻った。
隔離対象の情報。
氏名。
生年月日。
血液型。
指紋照合結果。
DNA照合結果。
すべてが、空欄だった。
ただし。
一つだけ、変化していた。
『本人申告による氏名:取得不可』
その下に、別の文字が表示されていた。
『対象個体の存在履歴:一部回復』
そして。
『関係者情報:照合対象を検出』
画面が切り替わる。
そこに表示されたのは、二つの名前だった。
『緑谷出久』
『――――』
もう一つの名前は、黒く塗り潰されていた。
しかし、今度は。
その黒い部分に、細い白い線が走っていた。
文字の輪郭。
何かを書こうとしているような。
あるいは、何かを思い出そうとしているような。
そんな線だった。
塚内が、画面を見つめた。
「……記録が、回復し始めている?」
相澤は答えなかった。
ただ、倒れている男を見つめていた。
出久は、静かに呟いた。
「……あの人は、僕を知っている」
お茶子が、彼の手を握った。
「うん」
「僕が何度も死んだことにされているのも、知っている」
「うん」
「それから……」
出久は、言葉を切った。
男が叫んだ言葉を思い出す。
『君が君であることだけは、誰にも奪わせるな』
出久は、自分の手を見つめた。
「……あの人は、僕が忘れている何かを、覚えているんだ」
誰も否定しなかった。
ただ一つ。
そのとき、観察室の壁に、誰にも気づかれないほど小さな文字が浮かび上がった。
『名前情報の復元に失敗』
『記憶情報の復元に失敗』
『存在履歴の復元に失敗』
そして。
『それでも、対象個体は存在する』
文字は、ゆっくりと消えた。
◇
午後十九時十二分。
隔離観察区画の異常は、ひとまず収束した。
男は医療区画へ移送され、厳重な監視下に置かれた。
記録装置は復旧したものの、異常発生中のデータの大半は失われていた。
ただし、職員たちの記憶には、確かに残っていた。
男が名前を思い出したこと。
世界の記録が変化したこと。
そして、緑谷出久が、自分の存在を否定する何かに抗ったこと。
その夜。
雄英高校の医療区画で、出久はひとり、窓の外を見つめていた。
街の灯りが、遠くに見える。
人々は、いつも通りに生活している。
食事をして。
家族と話して。
眠りにつく。
世界が何度もやり直されているかもしれないことなど、知らないまま。
出久は、ポケットから端末を取り出した。
画面には、先ほどまで表示されていた異常なメッセージは残っていなかった。
ただ、ひとつだけ。
見覚えのないファイルが追加されていた。
ファイル名は、空欄。
作成日時も、空欄。
送信元も、空欄。
出久は、しばらく迷った。
そして、ファイルを開いた。
中には、一枚の画像があった。
古い写真だった。
色褪せている。
ところどころに傷があり、端が焼け焦げている。
それでも、写真に写っている人物は、はっきりと見えた。
緑谷出久。
爆豪勝己。
轟焦凍。
麗日お茶子。
相澤消太。
そして、もう一人。
見知らぬ男。
彼らは、どこかの建物の前に並んでいた。
今の姿と大きく変わらない者もいる。
少し若く見える者もいる。
しかし、全員が笑っていた。
まるで、大きな戦いを終えたあとに撮影した記念写真のようだった。
出久は、息を呑んだ。
この写真を撮った記憶はない。
こんな場所へ行った記憶もない。
そもそも。
この写真の中の男を、知らない。
なのに。
その男の顔を見た瞬間、胸の奥が締めつけられた。
懐かしい。
どうしようもなく、懐かしい。
その男は、写真の中で出久の肩に手を置いていた。
出久は、その手を見つめた。
写真の中の自分は、今より少しだけ幼く見えた。
そして、その隣で。
男は、泣きそうな顔で笑っていた。
画像の下には、短い文章が添えられていた。
『この写真を覚えているなら、まだ間に合う』
出久は、指先を止めた。
さらに、文章が続いていた。
『覚えていないなら、何も思い出さないでほしい』
『君が思い出すたび、世界は君を見つける』
最後に。
『そして、君が思い出したとき――』
文章は、そこで途切れていた。
出久は、画面を見つめたまま動けなかった。
誰が送ったのか。
なぜ、この写真を持っているのか。
どうして、自分たちが一緒に写っているのか。
分からないことばかりだった。
ただ、ひとつだけ。
写真の裏側に、手書きの文字があることに気づいた。
出久は、画像を拡大した。
そこには、こう書かれていた。
『四度目の世界で、今度こそ君を救う』
その下に。
誰かの名前が書かれていた。
出久は、その文字を読もうとした。
しかし。
名前の最後の一画を認識した瞬間、画面が真っ暗になった。
端末が震える。
新しいメッセージが届いた。
送信元は、存在しない。
本文は、たった一行。
『思い出してはいけない』
出久は、端末を握り締めた。
そのとき。
窓の外。
遠く離れた街の上空に、黒い亀裂が走った。
今度は、見間違いではなかった。
亀裂の向こう側に、無数の星が見えた。
そして、その星々の中心に。
巨大な何かが、こちらを見ていた。
出久は、ゆっくりと立ち上がった。
恐怖はあった。
何が起きているのか、まだ分からない。
それでも。
彼は、目を逸らさなかった。
「……僕は、忘れない」
小さな声だった。
しかし、その言葉は、確かに彼自身の意志だった。
「何があったのか。誰が僕を救おうとしているのか。どうして、僕が何度も死んだことにされているのか」
出久は、窓の外を見つめた。
「全部、僕自身の目で確かめる」
その瞬間。
空の亀裂が閉じた。
街は、何事もなかったかのように夜へ戻っていく。
だが、世界のどこかで。
誰かが、静かに目を覚ました。
その人物は、暗闇の中で、自分の名前を呟いた。
声は、誰にも聞こえなかった。
名前は、記録されなかった。
それでも。
その人は、確かに存在していた。
そして、その人は知っていた。
緑谷出久が、再び世界に見つかったことを。
その人物は、震える手で顔を覆った。
「……もう、時間がない」
涙が、指の隙間からこぼれ落ちる。
「今度こそ……間に合わせないと」
暗闇の向こうで、何かが動いた。
黒い霧が、床を這う。
その人物は、立ち上がった。
「待っていて」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
ただ、その人は歩き始めた。
世界の記録から消された名前を取り戻すために。
そして。
四度目の世界を、五度目へ進ませないために。
第二章 帰還者
第四話 名前を失った男 完