僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十八話「あなたの血は、あなたのもの」

第一幕 赤い線

「あなたの血は、あなたのものです」

 

面談室で、担当者はそう答えた。

 

渡我被身子は、向かい側の椅子に座り、黙って聞いていた。

 

「あなたの身体はあなた自身のものです。あなたの個性も、あなたの人生も、あなたという人間を構成する大切な一部です」

 

「……うん」

 

「ですが、他人の血は、その人のものです。その人の身体も、その人の人生も、あなたのものではありません」

 

渡我は、机の上に置かれた紙を見つめた。

 

前回の面談で自分が書いた質問が、そこに印字されている。

 

『私の血は、私のもの?』

 

『じゃあ、私が好きな人の血は、その人のもの?』

 

「なんか、変だね」

 

渡我が言った。

 

「何がでしょうか?」

 

「私の血は私のものなのに、私の個性を使うと、私じゃない誰かになれるんだもん」

 

担当者は答えず、彼女の続きを待った。

 

「私の身体なのに、私じゃない人の姿になれる。私の中にある力なのに、私じゃない人の顔を借りるために使う。……それって、どう考えたらいいんだろう」

 

渡我は、自分の両手を見た。

 

「私の血を、私の好きなように使うのは、駄目なの?」

 

「あなた自身の身体について、自分で決められることはたくさんあります。ただし、自分の身体や個性の扱いであっても、安全や他者の権利に関わる場合には、考えなければならないことがあります」

 

「じゃあ、どこまでが自分で決めていいことで、どこからが駄目なの?」

 

「それを一つの線だけで決めるのは難しいですね」

 

渡我は顔を上げた。

 

「……線がないの?」

 

「線がないのではありません。状況や行為によって、考えるべきことが違うのです」

 

担当者は、一枚の資料を取り出した。

 

個性に関する相談事例。

医療機関での個性使用。

身体的特徴を変化させる個性と、日常生活上の支援。

他人の身体に作用する能力。

個性の発動に、他者由来の生体物質を必要とするケース。

 

渡我は資料を見て、眉をひそめた。

 

「これ、私みたいな人の話?」

 

「あなたとまったく同じ個性を持つ方の事例とは限りません。ただ、個性を使うために、他者の身体や意思と関わる必要がある人たちの問題です」

 

「……私だけじゃないんだ」

 

「もちろんです」

 

担当者は、そこで少しだけ言葉を強めた。

 

「ただし、似た問題を抱えている人がいるからといって、あなたの行為の責任が軽くなるわけではありません」

 

渡我の肩が、わずかに揺れた。

 

「……わかってる」

 

「あなたの個性を理解し、適切に付き合うための支援が不足していた可能性は検証する必要があります。その一方で、あなたが他人の意思を無視して血を得たり、他人の姿を利用したりした行為については、個別に責任を問わなければなりません」

 

「両方、ってこと?」

 

「そうです」

 

渡我は、その答えを口の中で繰り返した。

 

両方。

 

社会が悪かったこともある。

自分が間違えたこともある。

 

どちらか一つに決めてしまえば、考えやすいのかもしれない。

 

すべてを社会のせいにすれば、自分の責任を考えずに済む。

 

すべてを自分のせいにすれば、社会が自分に何をしてきたのか考えずに済む。

 

けれど、どちらも不十分だった。

 

「……私、ずっと、どっちかだと思ってた」

 

「どちらか、とは?」

 

「私が悪いのか、周りが悪いのか」

 

渡我は苦笑した。

 

「私が悪いなら、最初から私が全部悪かったことにすればいい。周りが悪いなら、私は仕方なかったってことにすればいい。どっちかにしたら、簡単だったんだよね」

 

それは、彼女が自分の過去を考えるときに使ってきた、二つの逃げ道だったのかもしれない。

 

「でも、両方だと……」

 

言葉が途切れる。

 

「……逃げられないね」

 

担当者は頷いた。

 

「そうかもしれません」

 

その返事に、渡我は少しだけ笑った。

 

「そこは、否定してくれてもいいのに」

 

「事実を、必要以上に簡単な形にはできませんから」

 

渡我は目を伏せた。

 

簡単にはならない。

 

自分が苦しかったことを認めてもらえたからといって、心が軽くなるわけではない。

 

社会に問題があったとわかっても、それだけですべてが解決するわけではない。

 

彼女が傷つけた人たちの身体は、時間を巻き戻しても元には戻らないかもしれない。

 

失われた信頼は、本人が望まない限り、取り戻そうとすることさえ許されない場合がある。

 

「……ねえ」

 

渡我は、再び顔を上げた。

 

「私、どうしたらよかったんだろう」

 

担当者は、その問いを簡単には扱わなかった。

 

「今のあなたが、その問いを考えることには意味があります。ただ、過去のあなたに、今のあなたが知っていることをすべて知っていろと求めるのは公平ではないでしょう」

 

「……うん」

 

「一方で、過去のあなたが知らなかったことがあるからといって、被害に遭った方々が受けた痛みが消えるわけでもありません」

 

「うん」

 

「だから、これからは二つのことを同時に考える必要があります。あなたが十分な支援を受けられなかった可能性と、あなたの行為によって傷ついた人たちの現実。その両方を見なければ、必要なことが見えてきません」

 

渡我は、しばらく黙っていた。

 

それから、机の上の資料に指先を置いた。

 

「……この資料、あとで読んでもいい?」

 

「もちろんです」

 

「私と同じような個性の人が、どんなふうに暮らしているのか、知りたい」

 

担当者は頷いた。

 

「それは大切なことだと思います」

 

「それから……」

 

渡我は、一瞬だけ躊躇した。

 

「私が傷つけた人たちが、今、どうしているのかも知りたい」

 

部屋の空気が、静かになった。

 

「ただし、被害に遭われた方が、あなたに情報を伝えることを望まない場合もあります。それは尊重しなければなりません」

 

「……うん」

 

「知りたいと思ったからといって、知る権利が生まれるわけではありません」

 

渡我は頷いた。

 

それは、自分が何度も見失ってきた境界線だった。

 

他人のことを知りたいと思う。

 

好きな人のことを知りたいと思う。

 

傷つけた人が今どうしているのか知りたいと思う。

 

その気持ちが本物であっても、相手が自分に情報を渡す義務を負うわけではない。

 

「……わかった」

 

渡我は、資料を手元に引き寄せた。

 

「今度は、勝手に知ろうとしない」

 

その言葉は、誓いというよりも、自分に言い聞かせるような響きを持っていた。

 

担当者は、それ以上、彼女を褒めなかった。

 

一度正しい言葉を口にしたからといって、それが実際の行動に変わるとは限らない。

 

大切なのは、同じ場面に出会ったとき、彼女が何を選ぶのかだ。

 

面談室の窓から、午後の光が差し込んでいた。

 

机の上に置かれた資料の表紙には、個性についての相談窓口の案内が記載されている。

 

渡我は、その窓口の連絡先を、じっと見つめていた。

 

自分が子どものころ、こうした場所が身近にあったなら。

 

そう考えた。

 

しかし、その仮定の中に逃げ込むのは、まだ早い。

 

過去に何が必要だったのかを考えることと、今、自分が何をすべきかを考えること。

 

両方を、続けなければならなかった。

 

第二幕 血を使わずに生きること

面談の数日後、渡我は個性に関する資料を読み始めた。

 

そこには、彼女が知らなかった事例がいくつも掲載されていた。

 

触れることで相手の感情を読み取ってしまう個性。

 

体温を上げる個性。

 

周囲の水分を吸収する個性。

 

他人の記憶に干渉する個性。

 

動物の姿へ変化する個性。

 

本人が意図しなくても発動するものもあれば、意識的な制御を必要とするものもある。

 

能力によっては、日常生活の中で他人との距離を調整する必要があった。

 

中には、能力が原因で人間関係を築くことに苦労した人もいた。

 

個性は、戦闘に使えるかどうかだけで分類されるものではない。

 

生活に根ざし、人との関わり方に影響し、その人が自分をどう理解するかにも関係している。

 

渡我は、資料の一ページを読み返した。

 

そこには、個性を自分で制御できるようになるまで、周囲の支援を必要とした人物の事例が掲載されていた。

 

本人は、自分の個性を嫌っていたわけではない。

 

ただ、個性を使うたびに他人へ影響が及ぶため、どうすれば安全に使えるのか、長い時間をかけて学ぶ必要があった。

 

その過程では、本人が何を望んでいるかを聞きながら、具体的な使用方法や、困ったときの対応を一緒に考えていた。

 

渡我は紙面を見つめた。

 

「……こういうの、あったんだ」

 

声が漏れた。

 

彼女が過ごしてきた環境には、こうした支援が、少なくとも十分な形では存在しなかった。

 

家族は彼女の欲望に怯えた。

 

周囲は、彼女が他人とは違うことを問題視した。

 

彼女自身も、自分の気持ちがどうして生まれるのか、理解できないまま育っていった。

 

そのことが、彼女の人生に大きく影響した可能性はある。

 

しかし、資料を読んでいるうちに、渡我は別のことにも気づいた。

 

個性に関する支援が充実していれば、すべての問題が解決したのだろうか。

 

幼いころに、血への衝動について相談できる相手がいたなら。

 

血を必要とする個性について、安全な方法や医療的な管理を学ぶ機会があったなら。

 

自分の欲望を恥じずに話せる場所があったなら。

 

何かは変わっていたかもしれない。

 

しかし、それでも、彼女が他人の血を求めたとき、相手がそれを望んでいなければ、別の方法を探さなければならなかった。

 

相手が拒絶したなら、その拒絶を認める必要があった。

 

支援があれば、正しい選択をしやすくなった可能性はある。

 

けれど、支援が不足していたことだけで、相手の同意が必要だという原則まで変わるわけではない。

 

「……そうだよね」

 

渡我は、自分の胸元を押さえた。

 

欲望があることは、罪ではない。

 

けれど、欲望を叶えるために他人を傷つけることは、別の問題だ。

 

そこを一緒くたにされてきたから、彼女は自分の気持ちを隠すことだけを覚えたのかもしれない。

 

そして、隠すことだけを覚えたから、自分の欲望と他人の権利の間に、どんな道を作ればいいのか考えられなかったのかもしれない。

 

もちろん、それだけで説明できるわけではない。

 

彼女の性格も、選択も、出会った人々との関係も、数え切れないほどの要因が絡み合っている。

 

ただ一つ確かなのは、彼女は自分の欲望を扱う方法を学ぶ機会を、十分に得られなかった可能性があるということだった。

 

渡我は、机に向かって紙を一枚出した。

 

そして、書き始めた。

 

『もし、子どものころに相談できる場所があったら』

 

その先を書こうとして、手が止まる。

 

『私は、誰も傷つけずに済んだ』

 

そう書くことはできなかった。

 

それは、誰にも証明できない仮定だ。

 

もしかしたら、何かが変わっていたかもしれない。

 

もしかしたら、彼女は別の道を見つけられたかもしれない。

 

けれど、確実なことのように書けば、今度は自分が、自分の過去に都合のいい物語を与えることになる。

 

渡我は、一度その文章を消した。

 

そして、書き直した。

 

『もし、子どものころに相談できる場所があったら、違う選択をするための方法を知れたかもしれない』

 

そこまで書いて、しばらく考えた。

 

さらに、その下に続ける。

 

『でも、実際に私がしたことは、なくならない』

 

ペンを置いた。

 

「……難しいなあ、本当に」

 

今までの彼女は、物事を極端な形で考えてしまうことがあった。

 

好きなら、全部欲しい。

 

嫌なら、全部拒絶する。

 

誰かに否定されたら、その人のことを許せない。

 

自分が苦しかったのなら、その苦しさをわかってもらいたい。

 

その気持ちが強くなると、間にあるはずの選択肢が見えなくなる。

 

しかし、世界には、簡単には割り切れないことがある。

 

支援を受けることと、自分の責任を認めることは両立する。

 

自分の欲望を否定しないことと、その欲望を実現するために他人を傷つけないことも両立する。

 

過去の環境を検証することと、被害に遭った人々の痛みを尊重することも、両立しなければならない。

 

そのどれか一つを諦めなければならないわけではない。

 

ただし、両立させるには、それぞれの人の声を聞き、具体的な方法を考え続けなければならない。

 

渡我は資料を閉じた。

 

机の上には、個性についての支援資料と、自分が書いた記録が並んでいる。

 

彼女は、その二つを別々にしまうことができなかった。

 

どちらも、今の自分に必要なものだった。

 

第三幕 麗日お茶子の質問

「血が必要な個性を持っていたら、社会は何をしてあげられると思う?」

 

面談室で、お茶子が尋ねた。

 

渡我は、意外そうに目を瞬かせた。

 

「……私に聞いてるの?」

 

「うん。私も、ちゃんと考えたいから」

 

お茶子は、机の上に置いた資料を見た。

 

そこには、個性を安全に扱うための支援体制について、いくつかの案がまとめられていた。

 

本人への医療相談。

個性の制御を学ぶ支援。

家族への説明。

専門家への相談経路。

緊急時に頼れる窓口。

本人の意思と安全を尊重する個性使用の指針。

 

「こういう仕組みがあったら、何が変わったと思う?」

 

渡我は資料を見つめた。

 

「……血を使う個性のことを、隠さなくてよくなったかもしれない」

 

「うん」

 

「血を欲しいって思うことを、どうやって扱えばいいのか、教えてもらえたかもしれない」

 

「うん」

 

「それから……」

 

言いかけて、渡我は少し視線を落とした。

 

「血が欲しいって言っても、必ずしも、その人がおかしいって決めつけられずに済んだかもしれない」

 

お茶子は黙って聞いていた。

 

「私が、血が欲しいって言ったとき、みんなは怖がった。……当たり前だよね。何をするかわからないって思ったんだと思う」

 

渡我の声は、思ったよりも穏やかだった。

 

「でも、怖がられるだけだと、どうすればいいのか、わからないんだよ」

 

「……うん」

 

「血が欲しい気持ちがある。だけど、勝手に取ったら駄目。じゃあ、どうすればいいの? 誰に相談したらいいの? どんな方法なら安全なの? そもそも、そんな相談をしてもいいの?」

 

渡我は、顔を上げた。

 

「そういうことを、一緒に考えてくれる人がいたら、違ったかもしれない」

 

お茶子は、ゆっくり頷いた。

 

それは、彼女にも理解できる話だった。

 

個性は、一人ひとり違う。

 

生まれ持った力が、社会にとって都合のいい形ばかりとは限らない。

 

戦闘に向いた個性もあれば、他人の身体や心に作用する個性もある。

 

中には、本人の意思だけでは制御しにくいものもあるだろう。

 

そうした個性を持つ人が、自分を危険な存在だと思い込まずに生きるためには、社会の側にも学ぶ責任がある。

 

ただ一律に禁止し、本人に隠させるだけでは、問題が見えなくなる。

 

見えなくなった問題は、解決しないまま深刻化することがある。

 

「私も、そういう支援は必要だと思う」

 

お茶子は答えた。

 

「個性が違うからって、その人が最初から悪い人だって決まるわけじゃない。個性のことを相談できたり、安全な使い方を学べたり、誰かに頼れる場所があったりすることは、大事だと思う」

 

「……うん」

 

「でも」

 

お茶子は、言葉を続けた。

 

「それがあったら、渡我ちゃんがしたことを全部なかったことにできる、とは思わない」

 

渡我は、静かに頷いた。

 

「うん」

 

「渡我ちゃんが苦しかったことは、ちゃんと考えたい。渡我ちゃんがどんな環境で育ってきたのかも、検証する必要があると思う」

 

お茶子は、資料の一部を指さした。

 

「だけど、渡我ちゃんに血を求められた人たちのことも、同じように考えなきゃいけないと思う」

 

渡我の表情が変わった。

 

「……うん」

 

「血を取られた人は、怖かったかもしれない。何をされるのかわからなくて、不安だったかもしれない。そのあと、自分の身体や、他人を信じることについて、今までと違う気持ちになった人もいるかもしれない」

 

お茶子は、一度言葉を止めた。

 

「それは、渡我ちゃんが苦しかったこととは別に、ちゃんと存在していることだから」

 

渡我は、膝の上で両手を握った。

 

「……そうだね」

 

その声には、反論する響きがなかった。

 

ただ、認めるために必要な重さがあった。

 

「私のことを知ってもらうために、誰かの痛みを使っちゃいけないんだね」

 

お茶子は、少し驚いたように目を上げた。

 

「……うん」

 

「私がどんなに苦しかったか、みんなにわかってもらうために、私に傷つけられた人のことを、後回しにしちゃいけないんだ」

 

「そうだと思う」

 

「でも、私に何があったのかも、なかったことにしちゃいけない」

 

「……うん」

 

二人は、しばらく黙っていた。

 

渡我の過去を検証することは、彼女の行動を正当化するためではない。

 

彼女の個性や欲望を理解しようとすることは、被害者の存在を忘れるためではない。

 

そして、被害に遭った人たちの痛みを認めることは、渡我の過去を考えることを禁じる理由にはならない。

 

どちらか一方を消すことで、もう一方を守ろうとしてはいけない。

 

お茶子は、渡我を見つめた。

 

「私、渡我ちゃんがどうしてそうなったのか、もっと知りたいと思ってる」

 

渡我は、ほんの少し顔を上げた。

 

「……うん」

 

「でも、それは、渡我ちゃんがしたことを許すために、理由を探したいっていう意味だけじゃない」

 

「……わかってる」

 

「同じことが、別の誰かに起きないようにするためにも、何があったのか考えたい」

 

渡我は目を閉じた。

 

自分の過去を、初めてそのような形で見つめようとしていた。

 

自分が苦しんだ証拠として。

 

自分が悪くなかったという証明として。

 

誰かに理解してもらうための材料として。

 

それだけではなく。

 

これからの誰かが、自分と同じ道を歩かなくて済むようにするために。

 

自分の過去を考える。

 

それは、彼女が今まで想像していたものとは、少し違っていた。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「うん?」

 

「もし、私が子どものころに戻れたら、どうしたらよかったと思う?」

 

お茶子は、すぐには答えられなかった。

 

その問いには、正解がない。

 

今の自分が、過去の彼女に何かを教えたとしても、実際にどのような未来になったかはわからない。

 

それでも、お茶子は考えた。

 

「……まず、渡我ちゃんの話を聞く人が、いてほしかったと思う」

 

渡我の目が揺れた。

 

「血が好きだって言ったとき、すぐに否定するんじゃなくて、どうしてそう思うのか、どんな気持ちなのか、聞いてくれる人」

 

「……うん」

 

「それから、誰かを傷つけずに、その気持ちと付き合う方法を、一緒に考えてくれる人」

 

お茶子は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「でも……」

 

渡我は、お茶子の次の言葉を待った。

 

「それでも、渡我ちゃんが誰かを傷つけたときには、止めてくれる人も必要だったと思う」

 

渡我は目を伏せた。

 

「……そっか」

 

「うん。話を聞いてくれることと、何をしても許してくれることは違うから」

 

お茶子は、まっすぐ彼女を見た。

 

「渡我ちゃんが自分の気持ちを話せることも、誰かが渡我ちゃんを止められることも、どっちも必要だったんじゃないかな」

 

渡我は、長い間、何も言わなかった。

 

やがて、ゆっくり頷いた。

 

「……うん」

 

その返事は、今までよりも少しだけ深かった。

 

彼女は、ようやく理解し始めていたのかもしれない。

 

自分を受け入れることと、自分に制限を設けること。

 

その二つは、矛盾しない。

 

自分の欲望を否定されずに生きることと、他人を傷つけないために行動を変えること。

 

それも、矛盾しない。

 

本当に必要だったのは、欲望を持たない人間になることではなかった。

 

自分の欲望を理解し、それをどう扱うのか、選べるようになることだった。

 

第四幕 血を提供するということ

数日後、お茶子は担当者から、個性に関する支援制度の説明を受ける機会を得た。

 

渡我の個性を直接扱う制度が、十分に整っているわけではない。

 

それでも、いくつか検討できる可能性があるという。

 

「まず、個性の発動条件や必要な生体物質について、医療面も含めて整理する必要があります」

 

担当者は説明を始めた。

 

「そのうえで、本人が個性を使用する際に、他者の身体への侵襲を避ける方法があるかどうか、専門家と確認する必要があります」

 

「侵襲を避ける方法……」

 

お茶子は、聞き返した。

 

「たとえば、本人の個性に必要な条件を、誰かの身体を傷つけずに満たせる可能性があるのか。安全な保管や管理が可能なのか。そうしたことを一つずつ調べるわけです」

 

「つまり、渡我ちゃんの個性のために、誰かが血を提供する方法も、考えられるということでしょうか?」

 

「可能性の一つとして検討することはできます。ただし、現時点で実際に有効かどうか、安全かどうかが確認されているわけではありません」

 

お茶子は頷いた。

 

「それから、提供する人の意思も必要になりますよね」

 

「もちろんです」

 

担当者の声が、少しだけ強まった。

 

「本人が望んで提供すること。必要な情報を理解していること。断っても不利益を受けないこと。健康上の安全が確認されていること。こうした条件を満たす必要があります」

 

「断っても、不利益を受けないこと……」

 

お茶子は、その言葉を繰り返した。

 

血を提供するという行為は、単に血を渡すだけのことではない。

 

そこには、相手の身体に関わる選択がある。

 

善意から提供してくれる人がいるかもしれない。

 

渡我の事情を知り、力になりたいと思う人がいるかもしれない。

 

しかし、相手が「提供しなければ、渡我が困る」と感じるあまり、断れなくなる可能性もある。

 

相手を助けたいという気持ちが、いつの間にか義務になってしまうこともある。

 

だからこそ、本人が自由に断れる仕組みが必要だった。

 

「……渡我ちゃんが、血を欲しいと思っていることを知っている人が、提供したいと言ってきたら?」

 

お茶子が尋ねる。

 

「その場合でも、本人の意思と安全を確認しなければなりません。また、渡我さんとの関係性によっては、心理的な圧力が生じていないか、慎重に検討する必要があります」

 

「好きだから、提供したいって言う人もいるかもしれませんよね」

 

「ええ」

 

「逆に、渡我ちゃんに嫌われたくないから、断れない人もいるかもしれない」

 

「その可能性も考えなければなりません」

 

お茶子は、深く息を吐いた。

 

好きだから提供する。

 

助けたいから提供する。

 

その選択が、本人の自由な意思によるものであれば、尊重されるべきだ。

 

しかし、好きという気持ちがあるからといって、相手が提供する義務を負うわけではない。

 

渡我を助けたいという思いは、彼女の欲望を満たすために、自分の身体を差し出さなければならないという義務にはならない。

 

それは、渡我がこれまで学んできたことと、同じ問題だった。

 

相手の意思を尊重する。

 

相手が望まないことを、愛情や善意を理由に求めない。

 

たとえ、自分にとって必要なことでも。

 

たとえ、相手の協力があれば、自分が楽になれるとしても。

 

お茶子は、説明資料に目を落とした。

 

「この制度を考えるとき、渡我ちゃん本人の意見も必要ですよね」

 

「当然です。本人が何を望んでいるのか、どのような選択肢を受け入れられるのか、説明を受けたうえで意思を確認する必要があります」

 

「一方的に、周りが決めちゃいけない」

 

「はい」

 

お茶子は頷いた。

 

渡我のために、周囲がすべてを決めてしまう。

 

危険だから、こうしなさい。

社会に迷惑をかけるから、こうしなさい。

あなたの個性はこういうものだから、こう生きなさい。

 

もし、またそのような形になれば。

 

新しい制度ができたとしても、彼女は自分の人生を選べないままになってしまう。

 

必要なのは、本人の意見を聞き、選択肢を提示し、安全を確保しながら、本人が考えることを支える仕組みだった。

 

ただし、他人の権利を侵害する行為まで、本人の自由として認めるわけではない。

 

支援と制限。

 

尊重と責任。

 

その両方を成立させるために、制度は必要だった。

 

「……難しいですね」

 

お茶子が言った。

 

担当者は、静かに頷いた。

 

「難しいからこそ、個人の善意や我慢だけに頼ってはいけないのです」

 

その言葉は、お茶子の胸に残った。

 

誰かが血を提供してくれればいい。

 

渡我が我慢すればいい。

 

周囲が理解してあげればいい。

 

そうした個人の善意だけで成り立つ仕組みは、いつか無理が生じる。

 

提供者が断れない状況になれば、善意は圧力に変わる。

 

渡我が欲望を抑え込むことだけを求められれば、また自分の感情を隠すしかなくなる。

 

周囲が彼女を理解することだけを求められれば、被害者の痛みが置き去りになる。

 

だからこそ、一人ひとりに無理をさせない仕組みが必要なのだ。

 

お茶子は資料を閉じた。

 

渡我が抱えている問題は、彼女一人を変えれば解決するわけではない。

 

彼女自身が変わる必要はある。

 

しかし、それだけで十分ではない。

 

社会もまた、何が足りなかったのかを検証し、次の誰かが同じ場所で立ち尽くさないための道を作る必要がある。

 

その道は、彼女が過去にしたことを許すための道ではない。

 

これから同じことが繰り返されるのを防ぐための道だった。

 

第五幕 提供者は、誰のために手を差し出すのか

面談の終わりに近づいたころ、渡我は一つの話を聞いた。

 

自分と同じように、個性の発動に他人の身体が関係する人がいるという話だった。

 

その人は、自分の能力を使うために、他者の協力を必要としていた。

 

しかし、能力を使う相手の意思を無視すれば、相手の身体や生活に影響が及ぶ。

 

そのため、本人は長い間、個性を使うこと自体にためらいを持っていた。

 

「……その人、どうしたの?」

 

渡我は尋ねた。

 

「周囲の支援を受けながら、どんな場面で個性を使用できるのか、本人と協力者の双方にとって安全な条件を整理していったそうです」

 

「協力者って、血をくれる人みたいなこと?」

 

「似た考え方が必要な場合もあります。ただ、具体的な方法は個性によって異なります」

 

渡我は考え込んだ。

 

「その人は、協力してくれる人がいなかったら、どうしてたんだろう」

 

「個性を使わない選択をしたかもしれません。別の方法を探したかもしれません。必要に応じて支援者に相談したかもしれません。すべての状況で一つの答えに決まるわけではありません」

 

「……そっか」

 

渡我は自分の手を見た。

 

自分の個性は、彼女にとって長い間、他人に近づくための方法だった。

 

けれど、もし、個性を使うために相手の協力が必要な場面があったなら。

 

相手が協力しないと決めたとき、自分はどうすればいいのだろう。

 

「ねえ」

 

渡我が顔を上げる。

 

「協力してくれる人がいなかったら、個性を使えないこともあるの?」

 

「あります」

 

「……そっか」

 

それは、彼女にとって、思った以上に大きな意味を持つ答えだった。

 

個性は、自分が持っているものだ。

 

しかし、その力の使い方によっては、他人の身体や意思と無関係ではいられない。

 

そのとき、自分の個性だから自由に使っていい、という考えだけでは足りない。

 

相手の協力が得られないなら、その個性を使わないことも選択肢になる。

 

別の方法を探すこともできる。

 

必要な支援を求めることもできる。

 

そのいずれも許されないほど、個性の使用が本人の生存に深く関わる場合には、社会が別の対応を考える必要もあるだろう。

 

しかし、どれほど個性の使用が重要であっても、他人の身体を、ただ自由に使っていいものに変えることはできない。

 

渡我は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……私、血が欲しいって思ったとき、相手がどう思うか、ちゃんと考えてなかった」

 

担当者は、静かに聞いていた。

 

「私が欲しいんだから、欲しいって思うのは当たり前だって。相手も、私の気持ちをわかってくれるはずだって。……そんなふうに考えてた」

 

渡我は唇を噛んだ。

 

「でも、私が血を欲しがったら、相手は怖いかもしれない。断りたいかもしれない。どうしたらいいかわからなくなるかもしれない」

 

「そうですね」

 

「その人が私のことを怖がっていたら、血を提供してくれないかもしれない」

 

「その可能性もあります」

 

「……そのとき、私は、どうするべきだったのかな」

 

担当者は答えた。

 

「相手が望まないなら、その意思を尊重する必要があります。そのうえで、あなたが抱えている欲求にどう対処するか、支援を求める方法を考えなければなりません」

 

渡我は、ゆっくり頷いた。

 

「……うん」

 

それは、当たり前の答えだった。

 

けれど、その当たり前を、彼女は自分の人生の中で学ぶことができなかった。

 

そのことを、彼女は今、初めて自分の言葉で認めようとしていた。

 

「私、誰かに血をもらえなかったら、どうしようって考えるのが怖かったんだと思う」

 

担当者は、黙って聞いていた。

 

「血が欲しいのに、もらえない。好きな人に近づきたいのに、近づけない。……そのままじゃ、どうしたらいいのかわからなかった」

 

渡我は、膝の上で手を握った。

 

「だから、相手が嫌だって言っても、どうにかしようとした。自分の願いを叶えることばっかり考えて……相手が何を感じるか、後回しにしてた」

 

その言葉は、彼女が自分の行為を理解し始めたことを示していた。

 

しかし、理解したことと、責任を取ったことは別だ。

 

彼女が自分の行為の理由を語るとき、それが被害者の痛みを覆い隠す物語になってしまってはいけない。

 

担当者は、その点を明確にした。

 

「今、あなたが話したことは、あなたの行動を理解するために重要です。ただし、被害に遭われた方がどのような思いをしたのかは、その方々自身の言葉を尊重しなければなりません」

 

「……うん」

 

「あなたが怖かったことと、相手が怖かったこと。それぞれの感情を、別々に認める必要があります」

 

渡我は目を伏せた。

 

「……私、相手が怖がってるのを見たこともあったよ」

 

その声が、低くなった。

 

「でも、そのときは、私が怖がらせたんだって、ちゃんと考えなかった。相手が怖がるから、私が欲しいものをくれないんだって……そんなふうに思ってた」

 

渡我は、しばらく言葉を失った。

 

「……ごめんなさい」

 

その謝罪は、目の前の担当者に向けられたものではなかった。

 

そこには、今まで彼女が傷つけた人々への思いがあった。

 

けれど、ここにはその人たちはいない。

 

その場にいない被害者に向かって謝罪の言葉を述べても、それだけで責任を果たしたことにはならない。

 

渡我自身も、それを少しずつ理解し始めていた。

 

「……今の私が謝っても、届かない人もいるよね」

 

担当者は慎重に答えた。

 

「そうかもしれません。謝罪を受け取りたくない方もいるでしょう。あなたと接触すること自体を望まない方もいると思います」

 

「……うん」

 

「その意思も尊重する必要があります」

 

渡我は頷いた。

 

それでも、彼女は言葉を続けた。

 

「でも、私が何をしたのか、忘れないようにしたい」

 

担当者は、彼女を見つめた。

 

「それは、これからの行動で示していくことになると思います」

 

「……うん」

 

渡我は、その言葉を受け止めた。

 

過去を忘れないこと。

 

被害に遭った人たちの意思を尊重すること。

 

自分が同じことを繰り返さないために、具体的な方法を学ぶこと。

 

そして、社会に何が必要だったのかを考えること。

 

どれか一つをやれば、すべてが終わるわけではない。

 

彼女は、これからも何度も迷うだろう。

 

欲望が強くなる日もあるだろう。

 

自分の願いが叶わないことに、理不尽さを感じる日もあるかもしれない。

 

けれど、そうした感情が生まれたとき、その感情を誰かに押しつけずに済む方法を探すことはできる。

 

それが、彼女のこれからの課題だった。

 

第六幕 理解することと、許すこと

その日の面談が終わったあと、お茶子は校内の廊下を歩いていた。

 

資料の入ったファイルを抱え、足を止める。

 

窓の外では、復旧作業が続いている。

 

崩れた場所を直し、失われた設備を新しくし、生活を取り戻すために、多くの人が動いていた。

 

お茶子は、その様子を見ながら考えた。

 

渡我の過去を調べることは、必要だ。

 

彼女がどんな環境で育ったのか。

 

どんな支援を受けられなかったのか。

 

彼女の個性に対して、社会はどんな対応をしていたのか。

 

その問題を検証しなければ、同じことが起きる可能性は残ったままになる。

 

一方で、渡我が傷つけた人たちのことも、忘れてはいけない。

 

彼女が苦しんだ理由を知ったからといって、被害に遭った人たちが、彼女を理解する責任を負うわけではない。

 

彼女が変わろうとしているからといって、被害者がその変化を見届ける義務を負うわけでもない。

 

渡我の人生を立て直すことと、彼女が傷つけた人々の人生を立て直すことは、同じ作業ではない。

 

それぞれに必要な支援があり、それぞれに必要な時間がある。

 

そのことを忘れれば、誰かを救うために、別の誰かを置き去りにしてしまう。

 

「……難しいなあ」

 

お茶子が呟くと、隣から声がした。

 

「何がだ?」

 

振り向くと、飯田天哉が立っていた。

 

「飯田くん」

 

「先ほどから難しい顔をしていたのでな。何か悩んでいるのかと思った」

 

お茶子は、少しだけ迷った。

 

「……渡我ちゃんのこと」

 

飯田は、表情を引き締めた。

 

「そうか」

 

「渡我ちゃんの個性について、もっと支援が必要だったんじゃないかって話をしてたの。そういう仕組みがあったら、違う道を選べたかもしれないって」

 

「その可能性はあるだろうな」

 

「でも、渡我ちゃんが傷つけた人たちのことも、ちゃんと考えなきゃいけないよね」

 

「当然だ」

 

飯田は、はっきりと答えた。

 

「その二つは、対立するものではない」

 

お茶子は彼を見た。

 

「……うん」

 

「彼女がどのような環境で育ったのかを検証し、必要な支援を考えることは、社会の責任だ。しかし、それによって彼女が他者に与えた被害が消えるわけではない」

 

飯田は、まっすぐ前を見つめた。

 

「逆に、彼女が罪を犯したことを理由に、彼女が受けるべきだった支援の不足を見ないふりするのも、違うはずだ」

 

「……そうだよね」

 

「どちらか一方だけを見れば、考えるべき問題を取りこぼしてしまう」

 

飯田は、お茶子を見た。

 

「ただし、被害に遭われた方々が、彼女の事情を理解しなければならないということではない。それぞれの方が、自分の意思で何を望むのかを決めるべきだ」

 

お茶子は頷いた。

 

「うん。梅雨ちゃんにも、同じことを言われた」

 

「蛙吹くんらしいな」

 

二人はしばらく、窓の外を見ていた。

 

やがて、お茶子が小さく言った。

 

「私、渡我ちゃんのことをもっと知りたいって思ってる」

 

「そうか」

 

「でも、知りたいっていう気持ちが、渡我ちゃんを許すことにつながるとは限らないんだよね」

 

「そうだろう」

 

飯田は、少し間を置いた。

 

「理解することは、許すことと同じではない。そして、理解できなかったことが、必ずしも許せない理由のすべてになるわけでもない」

 

「……うん」

 

「誰かの事情を知ることによって、初めて見えてくる問題はある。だが、事情を知ったからといって、被害に遭った人が受けた苦痛まで、説明しきれるわけではない」

 

お茶子は、ファイルを抱え直した。

 

「飯田くんって、こういうとき、すごくちゃんと考えてくれるよね」

 

「私も、まだ考えている途中だ」

 

飯田は、少しだけ視線を落とした。

 

「正しいことを言うのは、難しい。特に、自分が被害を受けた側ではない問題について、簡単に答えを出してしまうのは危険だと思う」

 

その言葉に、お茶子は目を見開いた。

 

飯田もまた、考えているのだ。

 

正義とは何か。

 

人を裁くことと、人を理解すること。

 

被害を受けた者の怒りと、加害した者の事情。

 

そのどちらかを都合よく消してしまわないために。

 

「……私も、考える」

 

お茶子は言った。

 

「誰かを救いたいって思うことが、何かを決めつけることにならないように」

 

飯田は頷いた。

 

「そのためにも、周囲と話し合うことは大切だろう。だが、最終的に何を望むのかは、それぞれの本人が決めることだ」

 

お茶子は、もう一度、窓の外を見た。

 

目の前には、まだ壊れた世界がある。

 

そこには、誰かが失ったものも、誰かが犯した罪も、誰かが抱えてきた苦しみも、すべて残っている。

 

それらは、誰か一人の努力で、一度に解決できるものではない。

 

だからこそ、目を背けずに、考え続ける必要がある。

 

お茶子は、ファイルを胸に抱いたまま歩き始めた。

 

彼女ができることは、まだ限られている。

 

それでも、誰かのために考えるとき、その誰か以外の人間が存在していることを忘れない。

 

そのことを、自分自身に言い聞かせていた。

 

第七幕 血の向こう側にいる人

数日後、渡我は担当者に、もう一つの相談をした。

 

「私、被害に遭った人たちに、謝りたいって思ってる」

 

担当者は、彼女の言葉を聞いた。

 

「そうですか」

 

「でも、会ってくれない人もいるよね」

 

「いると思います」

 

「私の顔を見たくない人も」

 

「そうですね」

 

渡我は、目を伏せた。

 

「……私、謝りたいのに」

 

その声には、焦りが混じっていた。

 

自分がしたことを考えれば、謝罪したいと思うのは自然なことかもしれない。

 

傷つけた人たちに、自分の気持ちを伝えたい。

 

自分が何をしたのか、理解したことを知ってもらいたい。

 

そして、いつか何かを償いたい。

 

しかし、その願いを実現するためには、相手に接触しなければならない。

 

相手が自分と会うことを望んでいないなら、その願いは叶わないこともある。

 

「謝罪することは、あなたが責任を考えるうえで大切なことです。ただし、相手がそれを望んでいない場合、謝罪を受け取ってもらうために接触することはできません」

 

「……うん」

 

「謝罪は、相手に受け取る義務を負わせるものではありません」

 

渡我は、拳を握った。

 

「わかってる。でも……」

 

言葉が止まる。

 

「でも、私が謝らなかったら、何もしてないのと同じじゃない?」

 

担当者は、首を横に振った。

 

「そうとは限りません」

 

渡我は顔を上げた。

 

「相手が謝罪を望んでいない場合でも、あなたが責任を取るためにできることはあります。被害の回復に必要な対応に協力すること。定められた制限を守ること。自分の行為について学び、再発を防ぐこと。あなたに求められる責任を、具体的な形で果たしていくことです」

 

「……それも、償いなの?」

 

「償いのすべてではないかもしれません。しかし、少なくとも、自分がしたことから逃げないための行動にはなります」

 

渡我は、しばらく考えていた。

 

「……私、謝ったら、少し楽になれると思ってたのかもしれない」

 

担当者は、黙って聞いていた。

 

「ごめんなさいって言って、それで、少しでも私のことをわかってもらえたら。私が変わろうとしてるって、知ってもらえたら。……そしたら、少しだけ、安心できるのかなって」

 

渡我の声が震えた。

 

「でも、それって、私が安心するために、相手に何かをしてもらおうとしてたのかもしれない」

 

担当者は、慎重に頷いた。

 

「そういう気持ちが生まれること自体を、否定する必要はありません。ただ、その気持ちを相手に処理してもらうことを求めないようにする必要があります」

 

「……うん」

 

謝罪を受け取ってもらいたい。

 

自分の変化を認めてもらいたい。

 

もう一度、誰かとつながりたい。

 

そうした願いが生まれることそのものは、自然なことだろう。

 

しかし、その願いを叶えるために、被害に遭った人たちに新たな負担を求めてはいけない。

 

相手が謝罪を受け取らないこと。

 

会いたくないと言うこと。

 

自分の変化に関心を持たないこと。

 

それらは、相手が自分の人生を守るために選んだ行動かもしれない。

 

渡我が変わろうとしているからといって、相手がその変化に参加しなければならない理由はない。

 

「……じゃあ、私が今できることって、何だろう」

 

「まず、あなた自身が責任を取るために求められていることを、確実に行うことです。そして、同じ行為を繰り返さないために、必要な支援を受け続けることです」

 

「……うん」

 

「謝罪できる機会が訪れるかどうかは、相手の意思や状況によります。それをあなたが自由に決めることはできません」

 

渡我は、長い時間、黙っていた。

 

「……わかった」

 

そして、小さく付け加えた。

 

「相手が私を許さなくても、私がしなきゃいけないことは、なくならないんだね」

 

担当者は答えた。

 

「そうです」

 

渡我は、何度か頷いた。

 

謝罪を受け取ってもらえなかったら、自分はどうすればいいのか。

 

許してもらえなかったら、変わろうとする意味はあるのか。

 

その問いに、今の彼女は答えを持っていなかった。

 

しかし、少なくとも、一つのことは理解し始めていた。

 

自分が変わることは、相手に許してもらうためだけのものではない。

 

相手が許さなくても。

 

相手が自分に会わなくても。

 

相手が、自分の存在を二度と思い出したくないと願っていても。

 

それでも、同じことを繰り返さないために生き方を変えることには、意味がある。

 

それは、誰かに認めてもらうための努力ではなく、自分自身の責任だった。

 

第八幕 あなたの血は、あなたのもの

最後の面談で、担当者は渡我に一枚の紙を渡した。

 

「今回の話を踏まえて、あなた自身の考えをまとめてみましょう」

 

渡我は、紙を見た。

 

そこには、大きく三つの問いが書かれていた。

 

一つ目。あなた自身の身体と個性について、何を望んでいますか。

 

二つ目。他人の身体と個性について、何を尊重する必要がありますか。

 

三つ目。あなたが過去にしたことと、これからの責任について、どう考えますか。

 

渡我は、紙を机に置いた。

 

しばらく考えてから、一つ目の問いに答えた。

 

『私は、自分の個性を理解したい』

 

その下に続ける。

 

『血を欲しいと思う気持ちがあることを、ただ恥ずかしいことだと決めつけたくない』

 

さらに、その下に。

 

『でも、その気持ちがあるからといって、誰かの血を勝手に取っていいわけではない』

 

渡我は、ゆっくりとペンを動かした。

 

『自分の個性をどう使うのか、他人を傷つけずに使う方法があるのか、専門家と考えたい』

 

一つ目の問いに、答えが生まれた。

 

続いて、二つ目。

 

『他人の身体は、その人のもの』

 

渡我は、いったん手を止めた。

 

そして、さらに書き足した。

 

『血だけじゃない。時間も、気持ちも、生活も、その人が何をするかを決める権利も、その人のもの』

 

書きながら、自分がこれまで、どれほど多くの境界線を無視してきたのかを思い出した。

 

誰かの血を欲しがったこと。

 

誰かの姿になろうとしたこと。

 

誰かの心を、自分の望む方向へ動かせると思ったこと。

 

相手が自分に何を望んでいるのか、きちんと確かめなかったこと。

 

彼女は、紙の上に書いた言葉を見つめた。

 

『好きだから、知りたい』

 

それは、本当だった。

 

『好きだから、近づきたい』

 

それも、本当だった。

 

『好きだから、同じになりたい』

 

その気持ちも、嘘ではなかった。

 

けれど、どれほど本当の気持ちであっても、それが相手の意思より上に置かれていいわけではない。

 

渡我は、最後の問いに向き合った。

 

『私は、他人を傷つけた』

 

その一文は、簡潔だった。

 

けれど、その下に続ける言葉は、簡単には見つからなかった。

 

『私は、苦しかった』

 

それも、事実だ。

 

『私は、必要な支援を受けられなかった可能性がある』

 

それも、検証されるべきことだ。

 

『でも、それによって、私が他人を傷つけたことがなくなるわけではない』

 

渡我は、ゆっくりと書き足した。

 

『私がどんな環境で育ったのかを考えることは、必要だと思う』

 

『同じことが、ほかの誰かに起きないようにするために』

 

『でも、私が傷つけた人たちは、私の過去を理解するために、自分の痛みを差し出さなければならないわけではない』

 

書き終えた瞬間、渡我はペンを置いた。

 

その文章を、何度も読み返す。

 

自分の過去を、誰かに理解してもらいたかった。

 

自分がどうしてこうなったのかを、知ってほしかった。

 

自分の気持ちを否定するだけでは、何も変わらないのだと、わかってほしかった。

 

その願いは、今でも残っている。

 

しかし、それを叶えるために、被害者に何かを強いることはできない。

 

自分の過去を語ることはできる。

 

社会が果たすべき責任について、声を上げることもできる。

 

個性を持つ人間が、よりよく生きるための支援を求めることもできる。

 

けれど、自分が傷つけた人たちが、その話を聞く義務を負うわけではない。

 

そのことを、彼女は忘れないようにしなければならない。

 

「……できた」

 

渡我は、紙を担当者に差し出した。

 

担当者は、内容を丁寧に読んだ。

 

そして、静かに頷いた。

 

「よく考えましたね」

 

渡我は、少しだけ笑った。

 

「……まだ、全部わかってるわけじゃないけど」

 

「ええ。一度考えたことで、すべてが解決するわけではありません」

 

「うん」

 

「これから実際の場面で、迷うこともあると思います。そのときは、今回考えたことを振り返り、必要な支援を求めながら、行動を選んでいきましょう」

 

渡我は、ゆっくり頷いた。

 

「……うん」

 

一度答えを出しただけでは、足りない。

 

感情が強くなれば、また迷う。

 

欲しいものが手に入らなければ、寂しくなる。

 

好きな人に拒絶されたら、悲しくなる。

 

他人が自分の望むように振る舞ってくれないことに、腹が立つかもしれない。

 

それでも、そうした感情が生まれたとき、他人の意思を踏みにじっていいわけではない。

 

自分の感情を理解すること。

 

自分の行動を選ぶこと。

 

他人の境界線を尊重すること。

 

そして、必要なときには、助けを求めること。

 

それらを、これからも続けていかなければならない。

 

渡我は、最後にもう一つ、紙の端に書き足した。

 

『あなたの血は、あなたのもの』

 

その下に、少しだけ間を空ける。

 

『私の血は、私のもの』

 

さらに、その下に。

 

『だから、私は、自分の血や個性をどう扱うのか、考える責任がある』

 

最後の一文を書き終えたとき、渡我は、ほんの少しだけ表情を和らげた。

 

誰かの血を、自分の望みのために奪うことなく。

 

誰かの姿を、自分の孤独を埋めるために利用することなく。

 

それでも、自分の欲望を否定せずに生きる方法を探す。

 

その答えは、まだ見つかっていない。

 

けれど、答えを探すことはできる。

 

他人の身体を奪わなくても、自分の人生を選ぶことはできる。

 

他人の意思を無視しなくても、誰かを好きでいることはできる。

 

他人を傷つけた過去があっても、同じことを繰り返さないために行動することはできる。

 

そして、過去の責任から逃げずに、社会に何が必要だったのかを考えることもできる。

 

渡我は、記録用紙を閉じた。

 

「……ねえ」

 

「はい」

 

「私、普通の人になりたいって、ずっと思ってたんだ」

 

担当者は、彼女を見つめた。

 

「でも、今は……」

 

渡我は、少し考えてから言った。

 

「自分のままで、誰かを傷つけない方法を知りたい」

 

その言葉に、担当者は、静かに頷いた。

 

「それは、とても大切な目標だと思います」

 

渡我は、ゆっくり息を吐いた。

 

「……うん」

 

しかし、彼女の胸の奥には、まだ一つの問いが残っていた。

 

自分のままで生きる。

 

それは、いったい、どういうことなのだろう。

 

自分の欲望を否定しなくてもいい。

 

自分の個性を、ただ嫌う必要はない。

 

けれど、自分の望みを叶えるために、他人を傷つけてはいけない。

 

では、自分が生まれたときから持っているものを、社会が受け入れてくれなかったら。

 

自分の感情を話しただけで、周囲から拒絶されたら。

 

そのとき、自分はどうすればよかったのだろう。

 

渡我は、その問いを胸に抱いたまま、面談室を出た。

 

今日のところは、まだ答えを出せない。

 

それでも、次に向き合うべきものが何なのか、少しずつ見えてきていた。

 

第九幕 血の向こうに、人がいる

面談の帰り道、渡我は窓の外を見た。

 

街は、少しずつ復旧していた。

 

新しく取り付けられた看板。

補修された道路。

建て直された建物。

 

かつての暮らしを取り戻そうとする人々が、忙しそうに行き交っている。

 

渡我は、そこで、ふと思った。

 

自分のことを誰も知らない場所へ行ったら。

 

自分が何をしたのか、誰にも知られていない場所へ行ったら。

 

そこでは、もう一度、最初から生きられるだろうか。

 

自分が過去に傷つけた人たちのことを知らない人々。

 

自分の個性を恐れない人々。

 

自分の欲望を理解しようとしてくれる人々。

 

そんな場所なら、もう一度やり直せるのかもしれない。

 

けれど、すぐに、その考えを打ち消した。

 

自分がどこへ行っても、過去にしたことが消えるわけではない。

 

誰も知らない場所へ移ったからといって、責任までなくなるわけではない。

 

それに、自分が変わるために必要なのは、過去を知らない人々に囲まれることだけではない。

 

自分が何をしたのかを忘れず、そのうえで、これから何を選ぶのかを考えることだ。

 

渡我は、立ち止まった。

 

道の向こうで、親子が歩いていた。

 

子どもが何かを指さし、親が笑っている。

 

その光景を見て、渡我は胸の奥が少しだけ痛くなった。

 

自分にも、あんなふうに、何かを教えてくれる人がいたらよかったのだろうか。

 

自分の欲望を話しても、すぐに拒絶されず。

 

ただし、誰かを傷つけたら、きちんと止めてもらえる。

 

自分の個性を否定されずに、その使い方を学べる。

 

自分の気持ちを聞いてもらいながら、他人の気持ちも考えることを教えてもらえる。

 

そうした環境があれば、違う道があったかもしれない。

 

しかし、過去にそれがなかったからといって、今、彼女が何もしなくていいわけではない。

 

むしろ、今からできることを考える必要がある。

 

自分が受けられなかった支援を、これから同じような悩みを抱える誰かが受けられるようにすること。

 

個性の違いだけで、人を危険な存在だと決めつけない社会を作ること。

 

そして、その社会を作ることが、他人に被害を与える行為を見逃すことと同じにならないようにすること。

 

渡我は、空を見上げた。

 

「……私に、できることがあるのかな」

 

答えは、まだわからない。

 

彼女は、これからも責任を問われるだろう。

 

自分の行為によって傷ついた人たちがいることは、変わらない。

 

彼女がどんな理由を語ろうと、被害者が受けた痛みを、彼女に都合のいい形に変えることはできない。

 

それでも、社会が何を見落としたのかを考えることには意味がある。

 

自分がなぜその選択をしたのかを理解することにも、意味がある。

 

同じことを繰り返さないために、具体的な方法を学ぶことにも、意味がある。

 

それらは、過去を消すためのものではない。

 

これからの未来を、少しでも変えるためのものだ。

 

渡我は、再び歩き始めた。

 

その足取りは、軽くはなかった。

 

しかし、以前のように、ただ自分の欲望に引きずられて進む足取りでもなかった。

 

彼女は、考えながら歩いていた。

 

自分の気持ちについて。

 

他人の気持ちについて。

 

そして、これからの自分について。

 

その先に、何があるのかは、まだわからない。

 

終幕 誰かの人生を、誰かの答えにしない

その夜、お茶子は渡我から提出された記録の写しを読んでいた。

 

『あなたの血は、あなたのもの』

 

『私の血は、私のもの』

 

『だから、私は、自分の血や個性をどう扱うのか、考える責任がある』

 

お茶子は、その文章を何度も読み返した。

 

そこには、渡我が自分の個性を理解しようとする姿勢が表れていた。

 

自分の欲望を、ただ否定するのではなく。

 

他人の意思を無視することなく。

 

自分が何を選ぶべきなのかを、考えようとしている。

 

それは、大切な変化だった。

 

けれど、お茶子は、その文章だけで渡我を判断したくなかった。

 

言葉を理解することと、実際に行動を変えることは違う。

 

一度、自分の間違いを認めたからといって、同じ過ちを二度と犯さないと保証されるわけではない。

 

大切なのは、これからの行動だ。

 

そして、渡我の変化を確かめるために、被害者たちに新たな負担をかけてはいけない。

 

彼らには、それぞれの生活がある。

 

それぞれの事情がある。

 

渡我のことを忘れたい人もいるだろう。

 

二度と関わりたくない人もいるだろう。

 

自分が受けた被害について、誰にも話したくない人もいるかもしれない。

 

それらの意思は、尊重されなければならない。

 

お茶子は、資料を閉じた。

 

渡我が変わるために、被害者が何かをしてあげる必要はない。

 

渡我が過去を理解するために、被害者が自分の苦痛を語る必要もない。

 

渡我が謝罪したいと思っているからといって、謝罪を受け取る必要もない。

 

彼女の未来は、彼女自身が選ぶものだ。

 

そして、傷つけられた人たちの未来も、その人たち自身が選ぶものだ。

 

誰かの人生を、別の誰かの更生のための物語にしてはいけない。

 

そのことを、お茶子は忘れないようにしたかった。

 

彼女は立ち上がり、窓の外を見た。

 

夜の街では、明かりが一つずつ灯っている。

 

まだ復興の途中にある場所も多い。

 

以前と同じ生活を取り戻せていない人もいる。

 

失われたものが、二度と戻らない人もいる。

 

そんな世界の中で、彼らは、それぞれの人生を続けている。

 

渡我もまた、その一人だった。

 

彼女には、自分の人生を立て直す責任がある。

 

けれど、その責任を果たすために、誰かが彼女を許したり、支えたり、彼女の過去を受け入れたりする義務はない。

 

必要な支援は、社会が整えなければならない。

 

彼女自身は、自分の行為に責任を持たなければならない。

 

傷つけられた人たちは、それぞれの意思で、自分の人生を選ぶことができなければならない。

 

その三つを、同時に守ること。

 

それが、彼女たちが今、考えようとしていることだった。

 

お茶子は、静かに目を閉じた。

 

渡我被身子は、普通の女の子になりたかったのかもしれない。

 

けれど、普通という言葉の中に、自分を押し込めることだけが、彼女の進むべき道ではない。

 

自分の欲望を理解すること。

 

他人の意思を尊重すること。

 

自分の行為に責任を持つこと。

 

そして、必要な助けを求めること。

 

その一つひとつを学びながら、自分自身の生き方を作っていくこと。

 

それは、誰かの姿を借りなくてもできることなのかもしれない。

 

しかし、その道を歩むためには、彼女が過去に何を経験してきたのかを、見つめ直す必要がある。

 

なぜ、彼女は自分の欲望を隠さなければならないと思ったのか。

 

なぜ、周囲は彼女の苦しみを理解することができなかったのか。

 

どのような言葉が、彼女を孤立させたのか。

 

そして、彼女自身は、どの瞬間に、他人の意思を見失ったのか。

 

その問いは、次の面談で、さらに深く掘り下げられることになる。

 

お茶子は、記録用紙を机に置いた。

 

渡我を理解することは、必要だ。

 

しかし、理解することは、彼女に代わって過去を決めることではない。

 

彼女を救いたいと思うことは、必要かもしれない。

 

しかし、そのために、彼女が傷つけた人々の痛みを消すことはできない。

 

どちらも、決して忘れてはならない。

 

窓の外では、夜の街が静かに輝いていた。

 

そして、渡我被身子は、まだ知らない。

 

自分がこれから見つめることになる過去が、どれほど苦しいものなのかを。

 

自分が「普通」という言葉の中に隠してきた感情が、どれほど複雑なものだったのかを。

 

自分を追い詰めた環境を見つめ直すことは、自分がしたことの責任から逃げることではない。

 

自分がしたことの責任を認めることも、自分が受けた苦しみをなかったことにすることではない。

 

その二つを同時に認めるために、彼女は、もう一度過去と向き合わなければならない。

 

誰かの血を奪うことでしか、自分の欲望を叶えられないと思っていた少女が。

 

誰かの姿にならなければ、誰かの隣にいられないと思っていた少女が。

 

自分自身の姿のまま、他人の人生を尊重しながら生きる方法を探すために。

 

そして、その道を探すことが、どれほど難しいことであっても。

 

彼女が過去に傷つけた人たちの存在を、決して忘れないために。

 

物語は、次の問いへと進んでいく。

渡我被身子は、いつから「普通の女の子になりたい」と願うようになったのだろう。

 

そして、彼女が普通であることを求められたとき。

 

本当は、誰が、何を恐れていたのだろう

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