僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十九話「普通の女の子になれなかった日」

第一幕 昔の私は、どこにいる?

「子どものころの自分について、何か覚えていますか?」

 

担当者の質問に、渡我被身子は首を傾げた。

 

「そりゃあ、覚えてるよ。全部じゃないけど」

 

「どんなことを覚えていますか?」

 

「うーん……」

 

渡我は、椅子の上で足を組みかけ、やめた。

 

「普通に遊んだこととか。家族とご飯を食べたこととか。学校に行ったこととか」

 

「楽しかった思い出もありますか?」

 

「あるよ」

 

即答だった。

 

「おいしいものを食べたときとか、友達と遊んだときとか。何かをもらったら嬉しかったし、面白いものを見たら笑ったし」

 

そこで渡我は、少しだけ笑った。

 

「私、最初からずっと変な子だったわけじゃないんだよ?」

 

担当者は、その言葉に頷いた。

 

「そうですね。人間を、一つの性質だけで説明することはできません」

 

「……うん」

 

渡我は、自分の指を見つめた。

 

「でも、何かを覚えてるって言っても……私が覚えてることと、周りの人が覚えてることって、違うんだよね」

 

「ええ」

 

「私が楽しかったことを、周りの人は怖かったこととして覚えてるかもしれない。私が何でもないと思っていたことを、誰かは、すごく嫌だったって覚えてるかもしれない」

 

担当者は、慎重に答えた。

 

「その可能性はあります。記憶は、同じ出来事を経験した人の間でも異なります。ただし、誰かの記憶があるからといって、別の人の記憶がすべて間違いになるわけではありません」

 

「……そうだよね」

 

渡我は、机の上に置かれた封筒を見た。

 

封筒の中には、彼女が子どものころに関係した記録が入っている。

 

家族との面談に関する記録。

当時の相談内容。

周囲が彼女の様子について残した報告。

 

すべてがそろっているわけではない。

 

その時点で、記録を作成した人が何を知っていたのか、何を知らなかったのかも、完全にはわからない。

 

それでも、そこには、今まで渡我自身が語ってこなかった出来事が記されていた。

 

「読んでみますか?」

 

「……うん」

 

渡我は、封筒から最初の書類を取り出した。

 

そこには、幼いころの彼女について、家族が相談した内容が記録されていた。

 

血に強く惹かれること。

 

他人の負傷に対して、周囲とは異なる反応を示すこと。

 

自分の衝動を抑えることが難しく、危険につながるのではないかと、家族が心配していたこと。

 

文字を追ううちに、渡我の顔から笑みが消えていった。

 

「……ああ」

 

小さく声が漏れる。

 

「これ、覚えてる」

 

担当者が静かに尋ねた。

 

「どんな場面ですか?」

 

渡我は、紙から目を離さなかった。

 

「鳥を見たとき」

 

部屋の空気が、少しだけ変わった。

 

「怪我をした鳥がいて……血が見えて、それで、私、すごく気になったんだ」

 

渡我は、記憶の中にある光景を見つめるように、宙へ目を向けた。

 

「周りの子は、怖がってた。かわいそうだって言ってた子もいたと思う。でも、私は……違うことを考えてた」

 

彼女は、自分の声を確かめるように続けた。

 

「血が、きれいだなって思った」

 

その言葉を口にした瞬間、幼いころに感じた高揚が、記憶の底からよみがえった。

 

赤い色。

 

目を引く鮮やかさ。

 

自分でも、なぜそこまで気になるのか説明できない、強い衝動。

 

渡我にとって、それは周囲が思うほど恐ろしいものではなかった。

 

むしろ、胸の奥に生まれた、初めて知る感情のように思えた。

 

「……ねえ」

 

彼女は担当者を見た。

 

「子どもって、変なものを好きになったりするでしょ?」

 

「はい。子どもが興味を持つ対象はさまざまです」

 

「じゃあ、好きって思うだけなら、悪いことじゃないよね?」

 

「何かに惹かれる気持ちを抱くこと自体が、直ちに悪いわけではありません」

 

渡我は、頷いた。

 

「……そうだよね」

 

それから、視線を落とした。

 

「でも、私は、そこから先に行っちゃった」

 

彼女は、自分がしたことを知っている。

 

血を見て、惹かれた。

 

それだけでは終わらなかった。

 

もっと近くで見たいと思った。

 

もっと知りたいと思った。

 

手に入れたいと思った。

 

そして、その気持ちを、相手の身体や意思を尊重する形で扱う方法を知らなかった。

 

知らなかったことだけが、すべての理由ではない。

 

彼女が成長する中で、何を選んだのか。

 

誰を傷つけたのか。

 

何を正当化してしまったのか。

 

その責任は、これからも彼女自身が考えなければならない。

 

しかし、幼いころの彼女が、初めて自分の中に生まれた欲望をどう理解すればよかったのかという問題も、そこに残っている。

 

「……私、最初は、悪いことをしてるつもりじゃなかったんだ」

 

渡我は、静かに言った。

 

「ただ、好きだった。気になった。もっと近くで見たかった。それだけだったと思う」

 

担当者は、彼女の言葉を否定しなかった。

 

「あなたが当時、どのように感じていたのかを知ることは大切です。ただ、その感情がどのような行動につながったのかも、同じように考えていきましょう」

 

「……うん」

 

渡我は、次の書類を取り出した。

 

そこには、家族が相談を始めた経緯が書かれていた。

 

娘の様子が心配だったこと。

 

どう接したらいいのかわからなかったこと。

 

このままでは、本人が危険な行動を取るのではないかと恐れていたこと。

 

渡我は、一行ずつ読んでいった。

 

そして、最後の一文で、手が止まった。

 

保護者は、本人が将来、周囲の人々と同じように生活できることを強く望んでいる。

 

「……周りと同じように」

 

渡我は、呟いた。

 

その言葉は、幼いころの記憶と、奇妙なほど深く結びついていた。

 

自分の中にある気持ちを、うまく説明できなかったこと。

 

家族が心配そうな顔をしていたこと。

 

自分が何かを口にすると、部屋の空気が変わったこと。

 

そして、いつの間にか、自分の中にあるものを、そのまま話してはいけないのだと思うようになったこと。

 

「……ねえ」

 

渡我は、書類を置いた。

 

「私が普通じゃないって、誰が決めたんだろう」

 

担当者は、すぐには答えなかった。

 

「当時、家族や周囲の人々が、あなたの行動を危険だと感じたことは、記録からうかがえます。ただ、あなたの感情そのものを、どう理解し、どう扱うべきだったのかについては、さらに検証する必要があるでしょう」

 

「……そっか」

 

渡我は、紙の端を握った。

 

自分が周囲と違うこと。

 

周囲が自分を怖がったこと。

 

自分が誰かを傷つけたこと。

 

それぞれは、同じ問題ではなかった。

 

だが、幼い彼女にとって、それらを分けて考えることは難しかったのだろう。

 

周囲が自分を怖がる。

 

だから、自分はおかしい。

 

自分はおかしい。

 

だから、気持ちを隠さなければならない。

 

隠さなければならない。

 

だから、誰にも相談できない。

 

そんなふうに、少しずつ結びついていったのかもしれない。

 

渡我は顔を上げた。

 

「……私、普通になりたかったんだと思う」

 

その声には、今までになかった響きがあった。

 

怒りだけでも、悲しみだけでもない。

 

ずっと胸の奥にしまっていた、幼いころの願いだった。

 

第二幕 お父さんとお母さんが恐れていたもの

「ご家族は、当時のあなたをどう見ていたのでしょうか」

 

担当者が尋ねる。

 

渡我は、少しだけ考えた。

 

「……怖かったんじゃないかな」

 

「何が、怖かったと思いますか?」

 

「私が、どんな子になるのか」

 

渡我は、窓の外を見た。

 

「私が、何をするかわからないって。血が好きだって言うし、血を見ると、普通の子とは違う反応をするし。……このまま大きくなったら、誰かを傷つけるんじゃないかって、思ったのかもしれない」

 

担当者は、頷いた。

 

「その可能性はあるでしょう」

 

「うん。実際、私は誰かを傷つけた。だから、心配する理由がなかったわけじゃないんだよね」

 

渡我は、両手を握った。

 

「でも、私が小さいころ、まだ何もしてないときから、ずっとそう思われてたら……」

 

言葉が途切れる。

 

彼女は、しばらく考えていた。

 

「……私、自分がどんな子なのか、わからなくなっちゃったのかもしれない」

 

彼女の家族は、娘を危険から遠ざけようとしたのだろう。

 

大切な子どもが、将来、誰かを傷つけるかもしれない。

 

本人自身が、取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない。

 

その可能性が、怖かったのかもしれない。

 

家族が何も感じていなかったわけではない。

 

彼女をどうでもいいと思っていた、と簡単に決めつけることもできない。

 

むしろ、どうにかしなければならないという焦りがあったのだろう。

 

しかし、心配していることと、適切な対応ができることは違う。

 

愛情があることと、相手の苦しみを理解できることも、同じではない。

 

渡我の家族が、当時どこまで相談できる相手を見つけられたのか。

 

どんな説明を受けたのか。

 

彼女の個性の特性について、どのような情報を得ていたのか。

 

今の記録だけでは、すべてを確定することはできない。

 

わかっているのは、家族が彼女の行動を心配し、周囲と同じように暮らせることを望んでいたということだ。

 

そして、渡我が、次第に自分の欲望を隠すようになっていったことだった。

 

「……家族が私を心配してたのは、わかるよ」

 

渡我は言った。

 

「私だって、自分の子どもが、何をするかわからないって思ったら、怖いと思うかもしれない」

 

彼女は、笑おうとした。

 

けれど、笑みはうまく浮かばなかった。

 

「でも、私が血のことを話したとき、どうしてそう思うのか、もっと聞いてほしかったな」

 

それは、幼い彼女がずっと言えなかった言葉だった。

 

血が好き。

 

どうして好きなのかわからない。

 

好きだから、気になる。

 

気になるから、近づきたい。

 

自分でも、止め方がわからない。

 

そんなことを、どう話せばよかったのだろう。

 

ただ、好きだと伝えるだけで、周りが怖がる。

 

その反応を見て、彼女は、自分の中にあるものが、誰かに話してはいけないものなのだと考えるようになっていったのかもしれない。

 

「……私、怒ってるのかな」

 

渡我は、ふと呟いた。

 

担当者が尋ねた。

 

「誰に対してですか?」

 

「お父さんと、お母さんに」

 

渡我は、自分でも不思議そうな顔をした。

 

「私、ずっと、わかってほしかったのかもしれない。どうして私がそう感じるのか、私自身もわからなかったから。……でも、わかってもらえなかった」

 

彼女の表情が、少しずつ曇る。

 

「それが、悲しかったのかな。寂しかったのかな。それとも、怒ってたのかな」

 

担当者は、答えを急がなかった。

 

「複数の感情が同時に存在することはあります。悲しんでいるからといって、怒っていないとは限りませんし、怒っているからといって、相手を大切に思っていなかったことになるわけでもありません」

 

渡我は、目を伏せた。

 

「……そっか」

 

家族を責めたい気持ちがあった。

 

自分を理解してほしかった。

 

普通であることを求められるのではなく、自分が何を感じているのか、一緒に考えてほしかった。

 

けれど、家族の側にも、恐怖や戸惑いがあったのかもしれない。

 

そのことを理解しようとしたからといって、自分の苦しみが消えるわけではない。

 

そして、自分が苦しかったことを認めてもらうために、家族の恐怖や戸惑いを、すべて悪意だったことにする必要もない。

 

「……ねえ」

 

渡我は顔を上げた。

 

「親が子どものことを心配してても、間違えることってあるの?」

 

担当者は、すぐに答えた。

 

「あります」

 

「……そっか」

 

「大切に思っていることと、相手にとって適切な対応ができることは、別です。善意や愛情があっても、恐怖や知識の不足から、結果として相手を追い詰めてしまうことはあります」

 

渡我は、その言葉を静かに聞いていた。

 

「じゃあ、親が間違えたからって、親が私を大切に思ってなかったってことにはならないんだね」

 

「そうとは限りません。ただ、本人がどのような影響を受けたのかを考えることは、別に必要です」

 

「……うん」

 

その答えは、彼女が望んでいたものより、ずっと複雑だった。

 

親が悪かった。

 

それだけなら、簡単に怒ることができる。

 

親は自分を愛していた。

 

それだけなら、簡単に自分の苦しみを飲み込むことができる。

 

しかし、実際には、愛情と恐怖が同時に存在していたのかもしれない。

 

彼らは、娘を守りたかった。

 

でも、守ろうとする中で、娘が何を感じていたのかを十分に理解できなかったのかもしれない。

 

そして、渡我自身も、自分の欲望を扱う方法を学べないまま、成長していった。

 

そこには、誰か一人の悪意だけでは説明できない問題があった。

 

けれど、誰か一人の悪意ではなかったからといって、傷がなかったことになるわけでもない。

 

渡我は、両手を見つめた。

 

「……私、お父さんとお母さんに、何をしてほしかったのかな」

 

その問いに、彼女自身もまだ答えを持っていなかった。

 

第三幕 「普通にしなさい」

記憶の中にある家は、明るかった。

 

窓から光が入り、食卓には食事が並んでいた。

 

父と母がいて、渡我がいた。

 

特別な事件が起こるわけでもない、いつもの時間。

 

幼い渡我は、何かを見つけるたびに、家族に話しかけていた。

 

今日は何をした。

 

何を見た。

 

何が好きだった。

 

何が面白かった。

 

そんな話をしていたころも、確かにあった。

 

少なくとも、彼女の記憶の中には、そうした時間が残っている。

 

しかし、いつからだったのだろう。

 

自分の話をするとき、相手の顔色を見るようになったのは。

 

何を口にすれば、家族が安心するのか考えるようになったのは。

 

自分の気持ちを、そのまま言葉にすることができなくなったのは。

 

「普通にしていなさい」

 

その言葉を、渡我は覚えていた。

 

声の調子までは、はっきりしない。

 

怒鳴られたのか。

 

諭されたのか。

 

困った顔で言われたのか。

 

もう、よくわからなかった。

 

ただ、その言葉だけが、記憶に残っている。

 

普通にしていなさい。

 

普通の子は、そんなことをしない。

 

普通の子は、そんなものを欲しがらない。

 

普通の子は、そんなことを考えない。

 

普通の子は、周りを怖がらせない。

 

渡我は、自分の中で、何度もその言葉を繰り返してきた。

 

普通の子は、どうするのだろう。

 

普通の子は、何を好きになるのだろう。

 

普通の子は、どんなことを考えるのだろう。

 

そして、自分は、どうして同じようにできないのだろう。

 

「……私、普通になろうとしたんだよね」

 

面談室で、渡我は言った。

 

お茶子は、少し離れた席で、彼女の話を聞いていた。

 

今回は、担当者の許可を得たうえで、お茶子が同席していた。

 

渡我自身が、そう望んだからだった。

 

「普通の子が好きなものを、私も好きになろうとした。普通の子が笑うところで、私も笑おうとした」

 

渡我は、少し笑った。

 

「血が見えても、気にしないふりをした。誰かが怪我してても、普通の子みたいに心配するふりをした。……もちろん、心配してなかったわけじゃないんだよ? でも、私が最初に感じることを、そのまま口にしちゃいけないんだって思ってた」

 

お茶子は、口を挟まなかった。

 

渡我は、視線を落とした。

 

「私、自分が何を思ってるかより、周りが私をどう見るかばっかり考えるようになってたのかもしれない」

 

その言葉を口にして、初めて気づいたように、彼女は瞬きをした。

 

「……ああ。そうか」

 

自分が何を感じるかよりも。

 

自分が何を好きなのかよりも。

 

周囲が、自分をどう思うか。

 

自分を普通だと認めてくれるか。

 

怖がらずにいてくれるか。

 

そればかりが、気になるようになっていた。

 

「普通にしていれば、みんな安心すると思ったんだ」

 

渡我は言った。

 

「私が普通だったら、お父さんもお母さんも、安心する。周りの人も、私を怖がらない。友達だって、普通に一緒にいてくれる。……そうしたら、私も普通に生きられると思った」

 

お茶子は、静かに息を吸った。

 

「……うん」

 

「でも、普通のふりをしてても、私の中の気持ちは消えなかった」

 

渡我は胸元に手を置いた。

 

「血を見たら、気になる。好きな人がいたら、その人のことを知りたい。近づきたい。同じになりたい。……何も変わらなかった」

 

その事実が、彼女には恐ろしかったのだろう。

 

いくら隠しても、欲望は消えなかった。

 

いくら普通に振る舞っても、心の奥では、周囲とは異なるものを感じ続けていた。

 

すると、次に生まれるのは、どんな感情だろう。

 

私は、どうして普通になれないのだろう。

 

どうして、みんなと同じように感じられないのだろう。

 

どうして、私は、こんなふうなのだろう。

 

「……私、自分が嫌いだったのかな」

 

渡我は呟いた。

 

「それとも、自分を嫌いにならなきゃいけないって思ってたのかな」

 

お茶子は、すぐに答えなかった。

 

それは、彼女自身が考えなければならない問いだった。

 

「……わからないね」

 

お茶子は、正直に答えた。

 

渡我は、少しだけ笑った。

 

「うん。わからない」

 

二人の間に、静かな時間が流れた。

 

やがて、渡我は顔を上げた。

 

「でもね、お茶子ちゃん」

 

「うん?」

 

「私、普通の女の子になりたかったんだと思う」

 

その声は、先ほどよりも、ずっとはっきりしていた。

 

「血が好きなことを隠さなくていい女の子。好きな人ができたら、その人のことを普通に好きになれる女の子。好きって言っても、怖がられない女の子」

 

渡我の目が揺れた。

 

「私だって、普通に恋をしたかったんだよ」

 

お茶子は、胸の奥が痛くなるのを感じた。

 

しかし、そこで「かわいそう」と言ってしまうことが、正しいとは思えなかった。

 

渡我の願いを聞くこと。

 

その願いが叶わなかったことを理解すること。

 

そして、彼女が他人に何をしてきたのかを見失わないこと。

 

そのすべてを、同時に抱えていなければならない。

 

「……でも、普通って、何だったんだろうね」

 

渡我は、静かに尋ねた。

 

お茶子は考えた。

 

自分も、何度も「普通」という言葉を使ってきた。

 

普通に学校へ行く。

 

普通に友達と話す。

 

普通に笑う。

 

しかし、その言葉の中に、どんな基準が隠れているのだろう。

 

周囲に迷惑をかけないこと。

 

周囲を怖がらせないこと。

 

周囲と同じ反応をすること。

 

それとも、周囲が安心できる存在でいること。

 

「……私も、うまく答えられない」

 

お茶子は言った。

 

「普通って、人によって違うし。周りと同じじゃなくても、悪いことじゃないと思う」

 

渡我は、じっと聞いていた。

 

「でも、周りと違うからって、何をしてもいいわけでもないよね」

 

「……うん」

 

「違うことと、誰かを傷つけることは、同じじゃないと思う」

 

渡我は、しばらく黙っていた。

 

その言葉は、彼女にとって、初めて聞くものではなかった。

 

しかし、今までとは違う意味で、心に残った。

 

周囲と違うこと。

 

それを隠さなければならないこと。

 

そして、他人の意思を踏みにじること。

 

それらは、同じではない。

 

自分の欲望を否定しなくてもいい。

 

だからといって、その欲望を叶えるために、他人を傷つけてもいいわけではない。

 

「……そっか」

 

渡我は呟いた。

 

「私、普通になれなかったから、駄目だったんじゃないんだね」

 

お茶子は、慎重に頷いた。

 

「周りと同じじゃなかったこと自体が、悪いわけじゃないと思う」

 

「……でも、私がしたことは、駄目だった」

 

「うん」

 

お茶子は、目を逸らさなかった。

 

「そこは、別のことだから」

 

渡我は、目を閉じた。

 

初めて、その二つを、分けて考えられた気がした。

 

自分は、周囲と違っていた。

 

その違いを、周囲は十分に理解できなかった。

 

自分は、普通になろうとして、気持ちを隠した。

 

それでも、欲望は消えなかった。

 

そして、その欲望を叶えようとして、他人を傷つけるようになった。

 

それぞれの段階は、つながっている。

 

しかし、同じではない。

 

周囲に理解されなかったことが、彼女の孤独を深めた可能性はある。

 

けれど、他人を傷つけた行為の責任まで、その過去の中に消えてしまうわけではない。

 

渡我は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……私、初めて、普通にならなくてもいいのかもしれないって思った」

 

お茶子は、静かに頷いた。

 

「うん」

 

「でも、普通にならなくていいからって、好きなように何をしてもいいわけじゃない」

 

「そうだね」

 

「自分のままでいるために、他の人のことも考えなきゃいけないんだね」

 

お茶子は答えた。

 

「……うん」

 

その言葉を聞いて、渡我は少しだけ笑った。

 

今度の笑みは、誰かに褒めてもらうためのものでも、話を軽くするためのものでもなかった。

 

自分の中で、何かが少しだけ整理されたような笑みだった。

 

しかし、その変化は、まだ始まったばかりだった。

 

第四幕 学校は、何を教えたのか

「学校では、どんなことを覚えていますか?」

 

担当者が尋ねた。

 

渡我は、少し考えた。

 

「……学校?」

 

「ええ。家族以外の人と過ごす中で、覚えていることはありますか?」

 

渡我は、窓の外を見た。

 

教室。

 

机。

 

黒板。

 

友達の声。

 

休み時間。

 

放課後。

 

そこには、普通の子どもたちの生活があった。

 

渡我も、同じ場所にいた。

 

しかし、彼女は次第に、自分が他人と同じようにいられないことを意識するようになっていった。

 

誰かが怪我をしたとき、周囲がどのような反応をするのか。

 

自分は、どんな顔をすればいいのか。

 

どう言えば、怖がられずに済むのか。

 

本当は何を感じているのか。

 

それらを、彼女は少しずつ隠すようになっていった。

 

「……私、笑ってたと思う」

 

渡我は言った。

 

「普通に、笑ってたと思う。友達と話して、遊んで、学校に行って。たぶん、周りから見たら、そんなに変な子じゃなかったんじゃないかな」

 

「それは、あなた自身の記憶ですか?」

 

「うん。まあ、そう思いたいだけかもしれないけど」

 

渡我は苦笑した。

 

「でも、学校で誰かが私に、どうしてそんなことを考えるのって聞いてくれたら……どうだったんだろう」

 

彼女は、そこで言葉を止めた。

 

学校は、個性の使い方や社会での振る舞いを学ぶ場所でもある。

 

しかし、すべての子どもの、あらゆる個性の問題に、十分な対応ができていたわけではないかもしれない。

 

特に、本人の欲望が他者の身体に関わるような個性では、どのように話を聞き、どのような支援につなげるのか、簡単には判断できない。

 

危険があるなら、止めなければならない。

 

他人を傷つける行為があれば、被害を防ぐ必要がある。

 

しかし、止めることだけで、その子どもが自分の欲望を理解する方法まで学べるわけではない。

 

「……私、何かを隠すことが上手になったんだと思う」

 

渡我は、静かに言った。

 

「血が好きだって言わない。気になっても、近づかない。何かを感じても、言葉にしない。普通の子なら、こうするんだろうなって考えて、そのとおりに振る舞う」

 

「それは、あなたを守るためでしたか?」

 

「……どうだろう」

 

渡我は、首を傾げた。

 

「周りを安心させるためだったのかもしれない。自分が怖い子だと思われないためだったのかもしれない。家族を心配させないためだったのかもしれない」

 

彼女は、少しだけ考えてから続けた。

 

「でも、誰かに相談することは、できなかったんだと思う」

 

「なぜでしょう?」

 

「……相談したら、また普通じゃないって言われると思ったから」

 

その言葉は、静かだった。

 

怒りを込めているわけでも、誰かを責めようとしているわけでもない。

 

ただ、当時の彼女が、そう感じていたということだった。

 

「私、自分の気持ちを話すのが怖くなってたんだね」

 

渡我は、ゆっくりと頷いた。

 

「どうしたらいいかわからないって言うことも。血が好きなんだって言うことも。好きな人になりたいって思うことも。……そういうのを話したら、みんなに嫌われると思ってた」

 

お茶子は、静かに彼女を見た。

 

「……本当は、相談したかった?」

 

渡我は、少しだけ迷った。

 

「……したかったんじゃないかな」

 

「誰かに?」

 

「うん。どうしたらいいのか、教えてほしかった」

 

渡我の目が、揺れた。

 

「私、血が欲しいって思ったとき、どうしたらいいのかわからなかった。好きな人ができたとき、どうすればいいのかわからなかった。近づきたいって思ったとき、どこまで近づいていいのかわからなかった」

 

彼女は、自分の言葉を、一つずつ確かめるように話した。

 

「……今なら、相手が嫌だって言ったら、やめなきゃいけないってわかる。でも、昔の私は、それをどうやって覚えたらよかったのかな」

 

その問いに、お茶子も、担当者も、すぐには答えられなかった。

 

子どもに、すべてを最初から理解することは求められない。

 

しかし、子どもだからといって、他人の身体や意思を傷つけてもいいわけではない。

 

だからこそ、大人には、子どもが自分の欲望を理解し、適切な選択を学べるよう支える責任がある。

 

危険な行為を止めること。

 

なぜそれが危険なのか説明すること。

 

本人の感情を聞くこと。

 

別の行動を選べるようにすること。

 

必要なら専門家につなぐこと。

 

それらを、ばらばらに扱ってはいけない。

 

もし、彼女が自分の欲望を話すたびに、ただ否定されていたのなら。

 

彼女は、欲望を扱う方法ではなく、欲望を隠す方法ばかり覚えてしまったのかもしれない。

 

しかし、今の資料だけでは、当時の学校や周囲の大人たちが、どこまで彼女の問題を知っていたのかは、はっきりしない。

 

必要な支援が届かなかった可能性はある。

 

だが、記録に残っていないことを、すべて誰かの悪意だったと決めつけることはできない。

 

「……学校も、私が何を考えてるか、わからなかったんだろうね」

 

渡我は言った。

 

「私、隠してたから」

 

担当者は頷いた。

 

「そうかもしれません。ただ、あなたが隠すようになった理由も、同じように考える必要があります」

 

「……うん」

 

渡我は顔を伏せた。

 

隠したのは、自分だった。

 

しかし、隠さなければならないと思ったのは、なぜだったのだろう。

 

自分が怖がられたから。

 

否定されたから。

 

普通であることを求められたから。

 

あるいは、自分の衝動が、誰かを傷つけるかもしれないという危険を、本能的に感じていたから。

 

きっと、一つだけではない。

 

自分の中にあったものと、周囲から受け取ったもの。

 

それらが絡み合って、彼女の生き方を形作っていった。

 

「……私、全部を誰かのせいにはしたくない」

 

渡我は言った。

 

「でも、全部、自分のせいだったって思うのも、違う気がする」

 

担当者は答えた。

 

「どちらか一方に決める必要はありません。大切なのは、何が起きたのかをできるだけ正確に理解し、それぞれの責任と影響を見極めることです」

 

「……うん」

 

渡我は、少しだけ息を吐いた。

 

それは、彼女が今まで避けてきた作業だった。

 

自分の過去を、一つの物語にまとめないこと。

 

自分は被害者だったから仕方なかった、と言い切らないこと。

 

自分は加害者だから、すべてが自分のせいだった、と決めつけないこと。

 

そのどちらでもなく、何が起きたのかを見つめること。

 

それは、簡単ではなかった。

 

しかし、彼女は、ようやくそこから逃げずに考えようとしていた。

 

第五幕 理解してもらえなかったことと、理解しようとしなかったこと

「お茶子ちゃんは、私のこと、どこまでわかってると思う?」

 

渡我が尋ねた。

 

お茶子は、少し驚いたように目を上げた。

 

「……どこまで、か」

 

「うん。私がどうして血を好きになったのかとか。どうして、好きな人になりたいと思うのかとか。どうして、普通の女の子になりたいって思ったのかとか」

 

渡我は、笑おうとした。

 

「お茶子ちゃん、私を助けたいって思ってくれてるでしょ?」

 

お茶子は、正直に答えた。

 

「……うん。そう思ってる」

 

「じゃあ、私のこと、わかってる?」

 

その問いは、鋭かった。

 

お茶子は、すぐには答えられなかった。

 

彼女は、渡我の話を聞いてきた。

 

血への欲望。

 

好きな人に近づきたい気持ち。

 

普通であることを求められた過去。

 

自分の気持ちを隠すようになっていったこと。

 

それらを聞きながら、渡我がどうして今のような人間になったのか、少しずつ理解しようとしてきた。

 

しかし、渡我がどのように感じてきたのかを、完全に理解できるわけではない。

 

同じ経験をしていない。

 

同じ個性を持っていない。

 

同じ環境で育ったわけでもない。

 

「……全部は、わからないよ」

 

お茶子は言った。

 

渡我は、黙っていた。

 

「渡我ちゃんが、どう感じてきたのか。何が一番つらかったのか。どうして、そういう選択をしたのか。……私が聞いた話から、考えることはできると思う」

 

お茶子は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「でも、私が考えたことが、渡我ちゃんの本当の気持ちと、全部同じだとは思わない」

 

渡我は、お茶子を見つめていた。

 

「だから、わからないことがあったら、聞きたい。渡我ちゃんが話したくないことは、無理に聞かない。でも、私が勝手に、こういうことなんだって決めつけたくない」

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

やがて、渡我は小さく笑った。

 

「……そっか」

 

その表情は、少しだけ複雑だった。

 

理解してほしい。

 

自分がどうしてこうなったのか、わかってほしい。

 

自分が普通になりたかったことを。

 

普通になれなかったことを。

 

それでも、好きなものを好きだと思っていたことを。

 

自分の中にあるものを、ただ異常だと決めつけないでほしかったことを。

 

わかってほしかった。

 

しかし、理解してほしいと願うことと、相手が完全に理解できると期待することは違う。

 

そして、相手が自分を完全に理解できないからといって、その人の理解が無意味になるわけでもない。

 

「……私、わかってほしいって、ずっと思ってたんだ」

 

渡我は言った。

 

「私がどうしてこうなのか。どうして、普通の子みたいになれないのか。どうして、血が好きなのか。どうして、好きな人になりたいのか」

 

彼女は、目を伏せた。

 

「でも、誰かにわかってもらえなかったとき、私は、どうしてわかってくれないのって思ってた」

 

「……うん」

 

「それで、相手がわかってくれないなら、私が相手になればいいって思ったのかもしれない」

 

お茶子は息を呑んだ。

 

渡我は、自分の言葉に、はっとしたようだった。

 

「……ああ」

 

自分が理解されないのなら、相手になる。

 

相手の姿を手に入れれば、もっと近づける。

 

同じ姿になれば、同じ気持ちになれる。

 

相手の立場に立てば、相手のことがわかる。

 

そう考えたのかもしれない。

 

けれど、相手の姿になることは、相手の気持ちを理解することではない。

 

他人の立場を想像することと、他人の人生を自分のものにすることは違う。

 

そして、理解されなかったからといって、相手の境界線を越えていいわけではない。

 

「……私、ずっと、相手のことを知りたいって言ってた」

 

渡我は、言葉をつないだ。

 

「でも、本当は、相手を知りたいんじゃなくて、私のことをわかってほしかったのかな」

 

お茶子は、慎重に答えた。

 

「……そういう気持ちも、あったのかもしれないね」

 

「私がどう感じてるのか、私がどれだけ好きなのか、私がどれだけ近づきたいのか。……それを、相手にわかってほしかった」

 

渡我の声が、小さくなる。

 

「でも、相手が私の気持ちをわかってくれたとしても、私と同じ気持ちになるとは限らないんだよね」

 

「うん」

 

「私を理解してくれたからって、私を好きになるとは限らない」

 

「……うん」

 

「私が好きだって伝えたからって、相手が私を受け入れなきゃいけないわけでもない」

 

「そうだね」

 

渡我は、しばらく黙っていた。

 

その沈黙の中で、彼女は何かを手放そうとしているように見えた。

 

自分が理解されれば、相手は受け入れてくれるはずだという期待。

 

自分の気持ちが本物なら、相手も同じ気持ちになってくれるはずだという期待。

 

自分がどれほど寂しかったのかを知ってもらえれば、過去のことも許してもらえるはずだという期待。

 

それらは、彼女にとって、長い間、希望だったのかもしれない。

 

しかし、その希望を他人に背負わせることはできない。

 

「……お茶子ちゃん」

 

渡我は顔を上げた。

 

「私のことを、全部わかろうとしなくてもいいよ」

 

お茶子は、目を見開いた。

 

「え?」

 

「わからないことがあっても、いいよ。私だって、自分のこと、全部わかってるわけじゃないし」

 

渡我は、少しだけ笑った。

 

「でも、わからないからって、私が何をしてもいいわけじゃない。……それは、別のことだもんね」

 

お茶子は、静かに頷いた。

 

「……うん」

 

その返事を聞いて、渡我は目を閉じた。

 

完全に理解してほしい。

 

それは、自然な願いかもしれない。

 

けれど、完全に理解されなければ、自分は生きていけない。

 

そう考えてしまえば、他人の理解を得ることが、自分の人生を続けるための条件になってしまう。

 

自分が誰かを好きになることも。

 

自分の個性と向き合うことも。

 

自分が何をしたのかを認めることも。

 

すべて、誰かが理解してくれるかどうかに左右されてしまう。

 

それでは、自分自身の人生を選ぶことができない。

 

渡我は、ゆっくりと目を開けた。

 

「……私、自分のこと、まだ全然わかってないんだね」

 

お茶子は答えた。

 

「私もだよ」

 

渡我は、思わず笑った。

 

「お茶子ちゃんも?」

 

「うん。私だって、自分が何を考えてるのか、全部わかってるわけじゃないよ」

 

「……そっか」

 

二人は、しばらく笑っていた。

 

その笑いには、以前とは違う意味があった。

 

お茶子が、渡我のすべてを理解できなくてもいい。

 

渡我が、お茶子のすべてを理解できなくてもいい。

 

わからないことがあるからこそ、相手の話を聞く。

 

相手が答えたくないことは、無理に聞かない。

 

自分の考えが、相手の本当の気持ちと同じだと決めつけない。

 

そして、理解できないことを理由に、相手の意思を無視しない。

 

そのことを、二人は少しずつ学んでいた。

 

第六幕 あの日、私は何を選んだ?

「……私、あの日のこと、思い出したくなかったんだと思う」

 

渡我が言った。

 

面談室の空気が、再び静かになる。

 

お茶子は、彼女を見つめた。

 

「普通の女の子になれなかった日?」

 

渡我は、頷いた。

 

「うん。でも、何か一日だけ、特別なことがあったわけじゃないんだよね」

 

彼女は、考えながら話した。

 

「最初は、ちょっとしたことだったと思う。血が気になる。好きなものが、周りと違う。みんなが怖がる。私も、どうしていいかわからない」

 

渡我は、自分の手を見た。

 

「それで、普通になろうとする。普通の子みたいに、笑う。普通の子みたいに、振る舞う。……でも、気持ちは消えない」

 

声が少しずつ沈んでいく。

 

「そうしたら、だんだん、自分が何を思ってるのか、言わないようになる。誰かに話したら、また怖がられると思うから」

 

渡我は、目を閉じた。

 

「それで、私、何かを我慢するたびに、自分の中で、何かが溜まっていった気がするんだ」

 

「……うん」

 

「血が欲しい。近づきたい。好きな人になりたい。……そういう気持ちはなくならないのに、それをどうしたらいいのかわからない」

 

彼女は、深く息を吸った。

 

「それで、いつか、我慢することができなくなった」

 

お茶子は、彼女の言葉を聞いていた。

 

渡我は、そこで顔を上げた。

 

「でもね、お茶子ちゃん」

 

「うん?」

 

「我慢できなくなったからって、誰かを傷つけていいわけじゃなかったんだよね」

 

その言葉は、はっきりしていた。

 

「私が苦しかったことと、私が何をしたかは、別だもんね」

 

お茶子は、静かに頷いた。

 

「……うん」

 

「私、今まで、普通の女の子になれなかった日を、ずっと探してたのかもしれない」

 

渡我は、少しだけ笑った。

 

「この日から、おかしくなっちゃったんだって。ここで、何かが変わっちゃったんだって。……そういう日があれば、そこから先は、仕方なかったって思える気がしたのかな」

 

彼女の笑みが消えた。

 

「でも、そんな日は、なかったんだと思う」

 

一つの出来事だけで、彼女の人生が決まったわけではない。

 

血への欲望。

周囲の恐怖。

自分を隠そうとする習慣。

相談できなかったこと。

誰かに近づきたいという願い。

そして、その願いを叶えるために、自分が選んだ行動。

 

それらは、長い時間をかけて積み重なっていったのだろう。

 

もちろん、すべての出来事が、彼女自身の選択だったわけではない。

 

幼い彼女には、自分の気持ちを理解するための知識も、十分な支援もなかったのかもしれない。

 

しかし、後になって、他人の意思を無視し、傷つける行動を選んだことまで、すべて避けられなかったと決めつけることはできない。

 

どの瞬間に、別の選択肢があったのか。

 

誰かに相談できた可能性はあったのか。

 

どのような支援があれば、違う道を見つけられたのか。

 

そして、どんな場面で、彼女自身が相手の意思を見失ったのか。

 

それを、一つずつ考えなければならない。

 

「……私、あの日に戻って、やり直したいって思ってたのかもしれない」

 

渡我は言った。

 

「でも、あの日がどこだったのか、もうわからない。最初に血を見た日なのか、普通になろうとした日なのか、誰かを傷つけた日なのか……」

 

彼女は、ゆっくりと首を振った。

 

「どれに戻っても、たぶん、全部は変わらないんだと思う」

 

お茶子は、静かに聞いていた。

 

「昔の私に、誰かが、ちゃんと話を聞いてくれたらよかった。どうしたらいいのか、一緒に考えてくれたらよかった。……でも、過去をやり直すことはできない」

 

渡我は、目を伏せた。

 

「だったら、これからの私が、どうするかを考えるしかないんだよね」

 

お茶子は、頷いた。

 

「……うん」

 

渡我は、長い時間、黙っていた。

 

そして、ようやく言った。

 

「私、普通の女の子になれなかったことを、ずっと悲しんでたんだと思う」

 

その声は、かすかに震えていた。

 

「でも、今は……」

 

彼女は、唇を噛んだ。

 

「普通の女の子じゃなくても、誰かを傷つけないで生きる方法があるなら、そっちを探したい」

 

お茶子の目が、揺れた。

 

それは、渡我が初めて口にした、未来についての具体的な願いだった。

 

普通になること。

 

周囲から受け入れられること。

 

誰かに好かれること。

 

それだけを目標にするのではなく。

 

自分の欲望を理解し、そのうえで、どんな行動を選ぶのかを考える。

 

誰かに理解されることを待つだけではなく、自分自身で学ぶ。

 

自分の苦しみを理由に、他人の意思を踏みにじらない。

 

それは、簡単な道ではない。

 

しかし、彼女は初めて、自分の人生のために、そうした道を探したいと考えていた。

 

「……渡我ちゃん」

 

お茶子が声をかけた。

 

「うん?」

 

「その道を探すために、必要なことがあったら、相談していいと思うよ」

 

渡我は、お茶子を見た。

 

「……うん」

 

「私にできることがあれば、考えたい」

 

その言葉を聞いて、渡我の表情が変わった。

 

嬉しそうだった。

 

安心したようにも見えた。

 

しかし、そのあと、ほんの少しだけ、戸惑いが混じった。

 

「……お茶子ちゃん」

 

「うん?」

 

「それって、私が変わるために、お茶子ちゃんが必要ってこと?」

 

お茶子は、すぐには答えられなかった。

 

その質問は、渡我自身にとっても、まだ整理されていないものだった。

 

誰かに助けてもらうこと。

 

誰かを頼りにすること。

 

誰かに理解してもらうこと。

 

そのこと自体は、悪いことではない。

 

けれど、誰かが助けてくれることを、自分が変わるための条件にしてしまったら。

 

その人がいなければ、何もできないと思ってしまったら。

 

自分の人生を、他人に委ねてしまうことになる。

 

渡我は、そのことに、ようやく気づき始めていた。

 

第七幕 あなたがいなかったら、私はどうする?

面談の後半、お茶子は渡我の問いに答えようとしていた。

 

「私がいなかったら、どうするか……ってことだよね」

 

渡我は、頷いた。

 

「うん」

 

お茶子は考えた。

 

自分は、渡我を助けたいと思っている。

 

彼女の話を聞きたいとも思っている。

 

彼女が、自分の個性や欲望と向き合い、他人を傷つけずに生きる道を見つけられるなら、そのためにできることをしたい。

 

しかし、自分が彼女の人生の中心になってしまうことは、望んでいなかった。

 

渡我が変わるために、お茶子の理解が必要。

 

渡我が未来を選ぶために、お茶子の許しが必要。

 

渡我が生きていくために、お茶子がそばにいなければならない。

 

もし、そうなってしまえば。

 

渡我は、自分の人生を選ぶことができなくなるかもしれない。

 

そして、お茶子自身も、渡我の未来を背負いすぎてしまうかもしれない。

 

「……私がいなくても、渡我ちゃんが変わるためにできることは、あると思う」

 

お茶子は答えた。

 

渡我は、黙って聞いていた。

 

「専門家に相談することもできる。自分の個性について、もっと詳しく知ることもできる。自分の行動を振り返って、同じことを繰り返さないための方法を学ぶこともできる」

 

「……うん」

 

「それから、私以外にも、渡我ちゃんの話を聞いてくれる人はいるかもしれない」

 

渡我の表情が、少しだけ変わった。

 

「……お茶子ちゃんじゃなくても?」

 

「うん。もちろん、私に話してくれてもいいよ。でも、私だけじゃなくてもいいと思う」

 

お茶子は、慎重に続けた。

 

「私が渡我ちゃんを助けたいと思っていることと、渡我ちゃんが私だけを頼りにしなきゃいけないことは、違うから」

 

渡我は、しばらく何も言わなかった。

 

その言葉を聞いて、彼女は少しだけ安心したのかもしれない。

 

同時に、胸の奥が寂しくなったのかもしれない。

 

お茶子がいなくても、自分は生きていかなければならない。

 

お茶子が、自分の望む答えを出してくれなくても。

 

お茶子が、自分の気持ちを理解しきれなくても。

 

お茶子が、自分を許さなくても。

 

自分自身で、どうするのかを考えなければならない。

 

「……私、ずっと、誰かにわかってもらえたら、何かが変わると思ってた」

 

渡我は言った。

 

「お父さんとお母さんにわかってもらえたら。学校の人にわかってもらえたら。好きな人にわかってもらえたら。……そしたら、私は、普通に生きられるようになると思ってた」

 

お茶子は、静かに聞いていた。

 

「でも、誰かが私のことをわかってくれたとしても、私がどうするかは、私が考えなきゃいけないんだね」

 

「……うん」

 

「誰かが私のことを好きになってくれたとしても、私が何をしてもいいわけじゃない」

 

「うん」

 

「誰かが私を許してくれたとしても、それで、私がしたことがなくなるわけじゃない」

 

「……そうだね」

 

渡我は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……そっか」

 

その声は、どこか寂しそうだった。

 

けれど、同時に、少しだけ自由になったようにも聞こえた。

 

誰かに理解してもらわなければ、自分は変われない。

 

誰かに許してもらわなければ、自分の未来は始まらない。

 

誰かに愛してもらわなければ、自分の存在には意味がない。

 

そうした条件を、一つずつ外していく。

 

理解してもらえたら、嬉しい。

 

許してもらえたら、救われるかもしれない。

 

誰かに大切に思ってもらえたら、心が温かくなるだろう。

 

それらは、どれも大切なことだ。

 

けれど、それがなければ、自分の人生を選べないわけではない。

 

渡我は、お茶子を見つめた。

 

「……私、お茶子ちゃんに救われたいって思ってたのかな」

 

お茶子は、答えを急がなかった。

 

「……そういう気持ちも、あったのかもしれないね」

 

「私がどんな人間なのか、わかってほしかった。私がどうしてこうなったのか、知ってほしかった。……それで、私が変われるって、言ってほしかったのかもしれない」

 

渡我は、少しだけ笑った。

 

「でも、それを、お茶子ちゃんに全部やってもらおうとしてたら、違うんだね」

 

お茶子は、頷いた。

 

「うん。私ができることはあると思う。でも、渡我ちゃんの人生を、私が決めることはできないよ」

 

渡我は、ゆっくりと目を閉じた。

 

その言葉は、彼女がずっと求めていたものとは違っていたかもしれない。

 

しかし、今の彼女には、必要な言葉だった。

 

自分の未来を、他人に決めてもらうことはできない。

 

自分の責任を、他人に引き受けてもらうこともできない。

 

自分の欲望を、誰かが理解してくれるまで待つことだけが、人生ではない。

 

「……ねえ、お茶子ちゃん」

 

「うん?」

 

「私、自分で考えてもいいのかな」

 

お茶子は、少し驚いたように目を上げた。

 

「何を?」

 

「これから、どう生きたいのか」

 

その問いに、お茶子は、迷わず頷いた。

 

「もちろんだよ」

 

渡我は、その言葉を聞いて、じっとお茶子を見つめていた。

 

やがて、ほんの少しだけ、笑った。

 

「……そっか」

 

第八幕 普通じゃない私が、選んでいいこと

その日の面談が終わったあと、渡我は一人で記録用紙を見つめていた。

 

そこには、今日の話の要点がまとめられていた。

 

幼いころの欲望。

 

家族の反応。

 

学校での生活。

 

普通であることを求められたこと。

 

自分の気持ちを隠すようになったこと。

 

そして、誰かに理解してもらえなければ、自分は変われないと考えていたこと。

 

渡我は、紙を読み返した。

 

自分の過去は、今まで、いくつかの決まった言葉でまとめられていた。

 

普通になれなかった。

 

周囲に理解されなかった。

 

孤独だった。

 

だから、血を求めた。

 

だから、好きな人になりたかった。

 

だから、他人を傷つけた。

 

けれど、その一つひとつを見つめ直してみると、すべてが同じではなかった。

 

周囲に理解されなかったことは、彼女の孤独に影響したかもしれない。

 

孤独は、誰かに近づきたいという願いを強めたのかもしれない。

 

血への欲望と、他人の姿になりたいという願いは、彼女にとって切り離しがたいものだったのかもしれない。

 

しかし、それらがあったからといって、他人の意思を無視する行為が、避けられない運命だったと決まるわけではない。

 

彼女の過去には、社会が検証すべき問題がある。

 

同時に、彼女自身が向き合わなければならない選択もある。

 

どちらか一つだけを見ても、不十分だった。

 

渡我は、ペンを手に取った。

 

そして、新しい紙に書いた。

 

『私は、普通の女の子になりたかった』

 

その文章を、しばらく見つめる。

 

『血が好きだと思うことを、怖がらずに話したかった』

 

『好きな人ができたとき、どうすればいいのか、教えてほしかった』

 

『誰かに近づきたいと思ったとき、どこまで近づいていいのか、知りたかった』

 

『自分の気持ちを、隠さなくてもいいと思いたかった』

 

書いているうちに、胸の奥が少しずつ痛くなっていった。

 

彼女は、長い間、そうした願いを、自分自身にさえ認めてこなかったのかもしれない。

 

普通の女の子になれなかったことを、ただの失敗のように考えていた。

 

周囲と同じになれなかった自分は、駄目だったのだと。

 

自分が変わらなければならなかったのだと。

 

しかし、今は少し違う。

 

彼女が、自分の気持ちを話せる環境を必要としていたこと。

 

個性について、適切な支援を受ける必要があったこと。

 

欲望を否定するだけではなく、他人を傷つけずに扱う方法を学ぶ必要があったこと。

 

それらは、彼女が悪い人間だから必要だったのではない。

 

一人の人間が、自分自身と向き合い、他人と共に生きるために必要なものだった。

 

渡我は、書き終えた文章を見つめた。

 

そして、その下に、別の言葉を書いた。

 

『でも、私は、誰かを傷つけた』

 

その一文を書いたとき、彼女の手が止まった。

 

自分の過去を語るとき、被害に遭った人たちを、忘れてはいけない。

 

彼女が孤独だったこと。

 

彼女が理解を必要としていたこと。

 

彼女が、自分の欲望を扱う方法を知らなかったこと。

 

そのどれもが、彼女の行為によって傷ついた人々の存在を消す理由にはならない。

 

渡我は、もう一度、ペンを動かした。

 

『私が苦しかったことと、私がしたことは、両方、本当』

 

それから、さらに続ける。

 

『だから、私は、自分の過去を考えることをやめない』

 

『でも、誰かに許してもらうためだけに考えるのではない』

 

『これから、同じことを繰り返さないために考える』

 

書き終えたあと、渡我はペンを置いた。

 

しばらく、その文章を見つめていた。

 

彼女の未来は、まだ決まっていない。

 

自分の欲望を、これからどう扱うのか。

 

どのような支援が必要なのか。

 

誰と、どんな距離で関わりたいのか。

 

どこまで自分のことを話し、どこから先は、自分の中で考え続けるのか。

 

まだ、わからないことばかりだった。

 

それでも、彼女は、初めて自分の未来について、誰かの答えを待たずに考え始めていた。

 

「……普通じゃなくても、いいんだよね」

 

誰に聞かせるでもなく、呟く。

 

そして、少し考えてから、言い直した。

 

「……普通じゃなくても、どうするかは、私が考えていいんだよね」

 

その言葉には、まだ不安があった。

 

しかし、確かに、彼女自身の意思があった。

 

第九幕 お茶子ちゃんがいない世界

次の面談に向けた準備の中で、渡我は、自分の未来について、いくつかの場面を想像した。

 

もし、お茶子が自分の話を聞かなくなったら。

 

もし、次の面談を断られたら。

 

もし、お茶子が、自分を理解できないと言ったら。

 

もし、自分のことを許せないと、はっきり言われたら。

 

それでも、自分は、どうやって生きていけばいいのだろう。

 

以前の渡我なら、その問いを考えることを避けていたかもしれない。

 

お茶子に理解してもらえたらいい。

 

お茶子がそばにいてくれたらいい。

 

お茶子が、自分を嫌いにならなければいい。

 

そう願うことで、答えを先延ばしにしていたのかもしれない。

 

しかし、今の彼女は、少し違うことを考えていた。

 

お茶子が、自分の望む答えを出さなくても。

 

自分を許さなくても。

 

自分との対話を、いつか終えることを選んでも。

 

自分自身で、何をすべきかを考えなければならない。

 

それは、寂しいことだった。

 

自分を理解してくれる人がいることは、心強い。

 

話を聞いてくれる人がいることは、ありがたい。

 

自分が変わろうとしていることを、見守ってくれる人がいるなら、きっと嬉しい。

 

しかし、それらがあることと、自分の未来を他人に預けることは違う。

 

渡我は、机に向かい、紙に書いた。

 

『お茶子ちゃんがいなくても、私は、私のことを考えなきゃいけない』

 

その下に、続ける。

 

『お茶子ちゃんが私を許さなくても、私は、自分がしたことの責任を考えなきゃいけない』

 

さらに、その下に。

 

『お茶子ちゃんが私を理解できなくても、私は、自分の気持ちを理解する方法を探していい』

 

渡我は、書き終えてから、少しだけ笑った。

 

「……そうだよね」

 

彼女は、お茶子に救われたいと思っていたのかもしれない。

 

自分の苦しみを、理解してほしいと思っていたのかもしれない。

 

自分がどうしてこうなったのか、その理由を知ってほしいと思っていたのかもしれない。

 

しかし、誰かに救われることだけを、自分の未来にしてしまえば。

 

その人がいなくなったとき、また自分の人生を見失ってしまう。

 

誰かに理解されることだけを、自分の望みにしてしまえば。

 

理解されなかったとき、自分を否定されたように感じてしまう。

 

誰かに許されることだけを、自分の目標にしてしまえば。

 

許されなかったとき、自分が変わろうとする意味まで失ってしまう。

 

そんな生き方を、もう続けたくはなかった。

 

渡我は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……私、自分で、何をしたいのか考えたい」

 

声に出してみると、不思議な感じがした。

 

自分のことを、自分で決める。

 

これまで当たり前のように思えるそのことが、彼女にとっては、初めての課題のように感じられた。

 

好きな人のことを考える。

 

自分の個性について考える。

 

自分がしてきたことを考える。

 

自分が、これからどう生きたいのかを考える。

 

そのすべてを、誰かが答えてくれるのを待つのではなく。

 

自分で問いを立てて、考え、選ぶ。

 

その選択が、間違っていることもあるだろう。

 

迷うこともあるだろう。

 

自分が望んでいたものとは違う答えに、たどり着くこともあるかもしれない。

 

それでも、その選択を、自分のものにすることはできる。

 

渡我は、紙の最後に書いた。

 

『私は、私の未来を、誰かの答えだけで決めない』

 

その文章を見つめていると、胸の奥に、少しだけ不安が生まれた。

 

誰かの答えに頼らずに、自分で決める。

 

それは、自由であると同時に、責任を負うことでもある。

 

自分の選択が、誰かを傷つけないか。

 

自分の願いが、他人の意思を押しのけていないか。

 

自分が楽になるために、誰かに負担を押しつけていないか。

 

そのことを、いつも考えなければならない。

 

でも。

 

「……やってみたいな」

 

渡我は、初めて、そう思った。

 

自分が望むものを、自分で考えてみたい。

 

自分の未来を、自分の意思で選んでみたい。

 

そのために、誰かの助けを借りることはあっても。

 

自分自身の選択を、すべて他人に預けてしまうのではなく。

 

自分の足で、進んでみたい。

 

それは、彼女が「普通の女の子になりたい」と願っていたころには、考えられなかった未来だった。

 

第十幕 私は、何を望んでいる?

次の面談の日。

 

渡我は、いつもより早く部屋に入った。

 

机の上に、記録用紙を置く。

 

その隣には、彼女が自分で書いた紙があった。

 

お茶子が部屋に入ってくると、渡我は顔を上げた。

 

「お茶子ちゃん」

 

「こんにちは、渡我ちゃん」

 

「……今日は、ちょっと話したいことがあるんだ」

 

お茶子は、席に座った。

 

「うん。聞くよ」

 

渡我は、自分の紙を見つめた。

 

「私、普通の女の子になりたかったんだと思う」

 

お茶子は、静かに頷いた。

 

「……うん」

 

「でも、今は、普通になりたいっていうより、自分のままで生きる方法を知りたいって思ってる」

 

「……うん」

 

渡我は、顔を上げた。

 

「血が好きだっていう気持ちがある。好きな人になりたいって思うこともある。誰かのことを、もっと知りたいって思うこともある」

 

その声は、落ち着いていた。

 

「でも、そういう気持ちがあるからって、誰かを傷つけていいわけじゃない。相手の意思を無視していいわけでもない」

 

お茶子は、まっすぐに彼女を見つめた。

 

「うん」

 

「だから、私は、自分の気持ちをなくすことだけを目標にするんじゃなくて、どうしたら、その気持ちを人を傷つけない形で扱えるのか、考えていきたい」

 

渡我は、少しだけ緊張した表情を浮かべた。

 

「……それからね」

 

「うん?」

 

「私、ずっと、お茶子ちゃんに、わかってほしいって思ってたんだ」

 

お茶子は、静かに聞いていた。

 

「私がどうしてこうなのか、どうして血が好きなのか。どうして、好きな人になりたいって思うのか。どうして、普通の女の子になりたかったのか」

 

渡我は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「でも、私が自分のことを全部わかってないのに、お茶子ちゃんに全部わかってもらおうとするのは、違うんだね」

 

「……うん」

 

「お茶子ちゃんが私を理解してくれたら、嬉しい。でも、理解してくれなかったとしても、私が自分のことを考えるのをやめる必要はない」

 

お茶子は、頷いた。

 

「そうだね」

 

渡我は、少しだけ笑った。

 

「……私、初めて、そう思えたんだ」

 

その言葉には、静かな喜びがあった。

 

しかし、その喜びの奥に、まだ不安が残っていることも、お茶子にはわかった。

 

自分で考える。

 

自分で選ぶ。

 

自分の人生を、自分のものにする。

 

その決意は、まだ始まったばかりだった。

 

「……ねえ、お茶子ちゃん」

 

渡我が尋ねた。

 

「うん?」

 

「もし、私が自分で考えて、自分で選んだことがあったら……」

 

彼女は、言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。

 

「それを、お茶子ちゃんに話してもいい?」

 

お茶子は、すぐに答えた。

 

「もちろん」

 

渡我の表情が、少しだけ和らいだ。

 

「……そっか」

 

「でも、私がその選択をどう思うかは、私が決めることだよ」

 

お茶子は、誤解のないように、言葉を添えた。

 

「渡我ちゃんが自分で選んだことだからって、私が全部賛成しなきゃいけないわけじゃない。私が違うと思ったら、そう伝えることもあると思う」

 

渡我は頷いた。

 

「……うん」

 

「でも、渡我ちゃんが自分で考えたことを、聞くことはできる」

 

「……うん」

 

それを聞いて、渡我は、ようやく笑った。

 

「ありがとう」

 

お茶子も、少しだけ表情を和らげた。

 

「うん」

 

二人の間には、まだ解決していない問題があった。

 

渡我が傷つけた人々の痛み。

 

彼女の個性と欲望について、社会が検証すべき問題。

 

彼女自身が、これから果たしていく責任。

 

それらは、今日の対話だけで解決するものではない。

 

しかし、今の渡我は、少なくとも、自分の未来を誰かに決めてもらうだけの存在でいたくないと思い始めていた。

 

お茶子に救ってもらう。

 

お茶子に理解してもらう。

 

お茶子に許してもらう。

 

それらを望むこと自体は、悪いことではないのかもしれない。

 

けれど、それだけを、自分の生きる理由にしたくはなかった。

 

「……お茶子ちゃん」

 

渡我は、もう一度、彼女を見た。

 

「私、自分で選びたい」

 

お茶子は、頷いた。

 

「うん」

 

「自分が何をしたいのか。どう生きたいのか。誰に助けてほしいのか。……誰と、どんなふうに関わりたいのか」

 

渡我は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「もちろん、誰かを傷つけないように、考えながら」

 

「……うん」

 

「それから、私が誰かを傷つけたことも、忘れないようにしたい」

 

その言葉を聞いて、お茶子は、静かに息を吐いた。

 

渡我が、自分自身の選択について考えようとしている。

 

それは大切な変化だった。

 

しかし、その変化を、お茶子が作り出したと考えてはいけない。

 

渡我が、自分で考え、選び始めたことなのだから。

 

お茶子は、彼女を見つめた。

 

「……渡我ちゃん」

 

「うん?」

 

「これから、迷うこともあると思う」

 

「うん」

 

「自分の気持ちがわからなくなったり、どうしたらいいのかわからなくなったりすることもあると思う」

 

「うん」

 

「そのときは、誰かに相談してもいいんだよ。私でも、ほかの人でも」

 

渡我は、静かに頷いた。

 

「……うん」

 

「でも、最後にどうするかを考えるのは、渡我ちゃん自身だよ」

 

渡我は、しばらくお茶子を見つめていた。

 

そして、ようやく、笑った。

 

「……うん。そうする」

 

その返事は、これまでとは違っていた。

 

ただ、相手に同意するための返事ではなかった。

 

自分の中で、考えたうえで出した答えだった。

 

第十一幕 救われるだけの人には、なりたくない

面談を終えたあと、渡我は、もう一度、自分の記録用紙を開いた。

 

そこには、今日、考えたことが書かれていた。

 

『私は、普通の女の子になりたかった』

 

『でも、今は、自分のままで生きる方法を知りたい』

 

『自分の欲望を否定しないことと、他人を傷つけないことは、両立させられるはず』

 

『誰かに理解してもらうことと、自分の未来を他人に決めてもらうことは、違う』

 

渡我は、最後の一文をじっと見つめた。

 

そして、その下に書き足した。

 

『私は、救われるだけの人にはなりたくない』

 

書き終えた瞬間、彼女は、少しだけ手を止めた。

 

救われること。

 

誰かに助けてもらうこと。

 

それ自体が、悪いことではない。

 

自分一人では、どうにもならないことがある。

 

自分の力だけでは、変えることができない環境もある。

 

だからこそ、支援を受けることには意味がある。

 

誰かに話を聞いてもらうことにも、意味がある。

 

誰かに助けを求めることにも、意味がある。

 

けれど、誰かに救われることだけを、自分の生き方にしてしまえば。

 

自分の未来を、他人の手に預けてしまうことになる。

 

自分がどう生きたいのか。

 

何を変えたいのか。

 

何を守りたいのか。

 

誰と、どのように関わりたいのか。

 

その答えを、自分自身で考えることまで、誰かに任せてしまうことになる。

 

渡我は、そのことを、もうしたくなかった。

 

「……私、誰かに助けてもらいたいって思うことは、あると思う」

 

彼女は呟いた。

 

「でも、助けてもらうだけじゃなくて……」

 

しばらく考えてから、言い直す。

 

「自分でも、何かをしたい」

 

その言葉には、まだ具体的な内容がなかった。

 

何をすればいいのか。

 

どんな方法で責任を果たすのか。

 

自分の個性と、どのように付き合っていくのか。

 

それらは、これから考えなければならない。

 

それでも、彼女は初めて、自分の未来を、自分自身の行動と結びつけて考えていた。

 

「……お茶子ちゃんに救ってもらうだけじゃ、嫌なんだ」

 

その声は、小さかった。

 

しかし、確かだった。

 

お茶子に助けられたいという気持ちは、まだある。

 

彼女のことが好きだという感情も、なくなったわけではない。

 

お茶子が自分の話を聞いてくれることは、嬉しい。

 

自分の気持ちを、少しでも理解しようとしてくれることは、ありがたい。

 

しかし、お茶子が自分を救う物語の中で、渡我がただ救われるだけの存在になってしまえば。

 

彼女は、自分自身の人生を選ぶことができない。

 

お茶子がどんな結末を望むのか。

 

お茶子が、渡我をどう思っているのか。

 

お茶子が、彼女のために何をしてくれるのか。

 

そればかりを気にしていては、自分が何を望んでいるのか、考えられなくなる。

 

「……私、何がしたいんだろう」

 

渡我は、紙の上に新しい問いを書いた。

 

私は、これから、どう生きたい?

 

その問いに、すぐ答えを書くことはできなかった。

 

けれど、今度は、そのことを恥ずかしいと思わなかった。

 

わからないなら、考えればいい。

 

まだ答えがないなら、探せばいい。

 

誰かに助けてもらいながらでも、自分で考えることはできる。

 

誰かに理解してもらいながらでも、自分で選ぶことはできる。

 

そして、誰かに許されなかったとしても、自分が果たすべき責任を果たすことはできる。

 

渡我は、ペンを置いた。

 

窓の外には、夕暮れが広がっていた。

 

今日も、何もかも解決したわけではない。

 

過去は消えていない。

 

傷ついた人たちの痛みも、消えていない。

 

彼女が抱えている欲望も、消えていない。

 

それでも、彼女は、少しだけ違う問いを持つことができた。

 

自分は、どうなりたいのか。

 

その答えを、自分で探してみたい。

 

それが、今の彼女にできる、最初の一歩だった。

 

終幕 誰かに救われる前に

夜、渡我は、今日の記録をもう一度読み返していた。

 

『私は、普通の女の子になりたかった』

 

『でも、今は、自分のままで生きる方法を知りたい』

 

『私は、救われるだけの人にはなりたくない』

 

最後の一文を見つめたあと、彼女は、その下に書き足した。

 

『私は、私の人生を、自分で選びたい』

 

その言葉を書いたとき、胸の奥に、小さな不安が生まれた。

 

自分で選ぶ。

 

自分で考える。

 

自分で責任を持つ。

 

それは、誰かがすべてを決めてくれることより、ずっと難しい。

 

自分が何を望んでいるのか、わからないこともある。

 

自分が選んだことが、正しいのかどうか、不安になることもある。

 

そして、自分が望んだ未来が、誰かの望む未来と違うこともあるだろう。

 

そのとき、どうすればいいのか。

 

自分の願いを、どこまで大切にしていいのか。

 

誰かの願いを、どこまで尊重しなければならないのか。

 

自分の意思を守ることと、他人の意思を守ること。

 

その両方を、どうやって成立させればいいのか。

 

渡我は、まだ答えを持っていなかった。

 

しかし、答えを持っていないからといって、誰かに決めてもらわなければならないわけではない。

 

相談することはできる。

 

話を聞いてもらうこともできる。

 

助けを求めることもできる。

 

ただし、誰かが助けてくれることと、自分の人生をその人に預けることは違う。

 

誰かが自分を理解してくれることと、その人に自分の未来を決めてもらうことも違う。

 

誰かに救われることと、自分自身で生きていくことも、両立できるのかもしれない。

 

渡我は、机に肘をついた。

 

「……私、自分のこと、何も知らなかったんだなあ」

 

その声には、少しだけ苦笑が混じっていた。

 

自分が何を好きなのか。

 

どうして、そのものを好きだと思うのか。

 

誰かを好きになったとき、何を望んでいるのか。

 

何が怖くて、何を失うことを恐れているのか。

 

それらを、これから少しずつ知っていく必要がある。

 

自分の欲望を否定せずに。

 

他人の意思を踏みにじらずに。

 

自分がしてきたことの責任から逃げずに。

 

その道のりは、きっと長い。

 

誰かに理解してもらえない日もあるだろう。

 

自分自身のことがわからなくなる日もあるだろう。

 

自分が望んでいたものが、思っていたものとは違うと気づく日もあるかもしれない。

 

それでも、自分で考えることはできる。

 

自分で選ぶことはできる。

 

そして、選んだことに責任を持つことはできる。

 

渡我は、記録を閉じた。

 

そのとき、ふと、お茶子の顔が思い浮かんだ。

 

優しくて、まっすぐで、誰かを救いたいと願う人。

 

自分の話を聞いてくれた人。

 

自分の気持ちを、勝手に決めつけずに聞こうとしてくれた人。

 

渡我は、彼女のことが好きだった。

 

その気持ちは、今も変わっていない。

 

しかし、お茶子の気持ちが、自分と同じである必要はない。

 

お茶子が、自分を好きにならなくてもいい。

 

自分を許さなくてもいい。

 

自分の未来を、自分と同じように考えなくてもいい。

 

お茶子は、お茶子自身の人生を選ぶことができる。

 

そして、渡我もまた、自分の人生を選ばなければならない。

 

「……お茶子ちゃん」

 

渡我は、そっと呟いた。

 

「私、もう少し、自分で考えてみるね」

 

その言葉は、お茶子に伝えるためのものではなかった。

 

自分自身に、伝えるための言葉だった。

 

今までの彼女は、誰かに理解されることを待っていた。

 

誰かに受け入れられることを待っていた。

 

誰かが、自分を救ってくれることを待っていた。

 

しかし、これからは違う。

 

誰かの助けを借りてもいい。

 

誰かの言葉に、支えられてもいい。

 

それでも、自分が何を望むのか。

 

自分がどう生きるのか。

 

その答えを、他人に決めてもらうだけの人間にはなりたくなかった。

 

渡我は、ゆっくりと立ち上がった。

 

窓の外には、夜の街が広がっている。

 

かつて、彼女が普通になりたいと願った世界。

 

その世界は、今も、彼女を完全には理解していない。

 

彼女自身も、まだ自分のことを理解しきれていない。

 

過去に何があったのか。

 

何を失ったのか。

 

何を奪ってしまったのか。

 

何を、これから取り戻せるのか。

 

その答えは、すぐには見つからないだろう。

 

それでも、彼女は考え続ける。

 

自分の欲望を、ただの罪として封じ込めるのではなく。

 

自分の苦しみを、誰かを傷つける理由にするのでもなく。

 

自分の未来を、誰かに決めてもらうのでもなく。

 

自分が自分であることを認めながら、他人もまた、その人自身であることを尊重するために。

 

それが、渡我被身子の、これからの課題だった。

 

そして、その課題に向き合うためには、次に、もう一つの問いを考えなければならない。

 

誰かに救われたいと願うことと、誰に救いを求めるのかを自分で選ぶことは、どう違うのだろう。

 

その答えを探すために、渡我は、自分の未来について、もう一度考え始める。

 

お茶子に救われるだけの存在でいることを、拒むために。

 

誰かに理解してもらうことと、自分の未来を他者に委ねることの違いを知るために。

 

そして、初めて、自分自身の意思で、助けを求める相手を選ぶために。

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