第一幕 救ってくれる人を、探しています
「渡我さん。今日は、今後の支援について相談したいと思っています」
面談室で、担当者が一枚の書類を机に置いた。
渡我被身子は、書類を見下ろした。
「支援?」
「はい。これまでの面談で、あなた自身がどのようなことに困っていたのか、少しずつ整理できてきました。これからは、具体的にどのような支援を受けたいのか、考えていきたいと思います」
「……どんなことでもいいの?」
「何でも無条件に認められるわけではありませんが、希望を話すことはできます」
渡我は、ちょっとだけ顔をしかめた。
「なんだか、テストみたい」
「正解を当てるためのものではありません」
「じゃあ、間違えてもいい?」
「考え直すことはできます」
「ふうん」
渡我は、椅子の背もたれに寄りかかった。
これまで、彼女は何度も自分の気持ちを説明しようとしてきた。
何が好きなのか。
どうして好きなのか。
どうして他人の姿になりたいのか。
どうして血を求めるのか。
しかし、言葉にするたび、どこかで不安になった。
こんなことを言ったら、また怖がられるのではないか。
こんなことを話したら、誰も自分を理解してくれなくなるのではないか。
自分の感情を、そのまま口にしてもいいのだろうか。
今でも、その不安が完全に消えたわけではない。
それでも、以前とは違うことがあった。
自分が何を感じているのか、少しずつ言葉にできるようになった。
そして、その感情をどう行動に移すかは、別に考えなければならないとわかってきた。
「……じゃあ、最初に聞いていい?」
「どうぞ」
「私が誰かに助けてほしいって思ったら、誰に頼めばいいの?」
担当者は、静かに答えた。
「あなたの困りごとによって、相談できる相手は変わります。個性の扱いについてなら専門家、感情や行動についてなら心理的な支援を行う人、生活や今後の手続きについてなら担当者というように、複数の窓口があります」
「一人じゃないんだ」
「はい。一人ですべてを解決しなければならないわけではありません」
渡我は、少しだけ目を丸くした。
「じゃあ……一人の人に、全部わかってもらわなくてもいいんだね」
「そうですね」
「私の個性のことをわかってくれる人と、私の気持ちを聞いてくれる人と、私がしたことについて、ちゃんと考えさせてくれる人が、違っていてもいいんだ」
担当者は頷いた。
「それぞれの役割が違っていても構いません」
渡我は、じっと考えていた。
彼女はずっと、一人の人に、自分のすべてを理解してもらいたいと思っていたのかもしれない。
自分の欲望も。
自分の孤独も。
自分の過去も。
自分が誰かを傷つけてしまった理由も。
全部を理解してくれれば、きっと、自分のことを受け入れてくれる。
そんな期待が、どこかにあったのかもしれない。
しかし、それは相手にとって、とても重い願いだったのではないだろうか。
一人の人が、自分のすべてを理解しなければならない。
一人の人が、自分の苦しみを受け止めなければならない。
一人の人が、自分の過去を許し、未来まで支えてくれなければならない。
そんな条件をつけてしまえば、その人は、いつの間にか自分の人生を支えるためだけの存在になってしまう。
それは、渡我が好きな人に対して、してはいけないことだった。
「……私、相談する人を、自分で選んでもいい?」
渡我は尋ねた。
「もちろんです。あなたの希望は尊重されます。ただし、相手の都合や専門性、必要な安全上の条件などによって、希望どおりにならない場合もあります」
「うん」
「それから、あなたが選んだ相手が、必ずしもあなたの望む答えを返してくれるとは限りません」
渡我は、少しだけ笑った。
「……そこは、もうわかってるよ」
そう言ってから、彼女は顔を伏せた。
本当にわかっているのか。
そう問われたら、まだ自信はなかった。
頭で理解することと、実際にそうなったときに受け止められることは違う。
好きな人に拒まれたら、悲しいだろう。
自分の考えを否定されたら、腹が立つかもしれない。
助けを求めた相手に、できないと断られたら、また孤独を感じるかもしれない。
それでも、相手の答えを、自分の望む形に変えてはいけない。
そのことを、これから何度も、自分自身に確かめていく必要がある。
「……じゃあ、考えてみる」
渡我は顔を上げた。
「誰に、何を助けてほしいのか」
担当者は、穏やかに頷いた。
「それが、今日の目標ですね」
渡我は、少し不安そうに笑った。
「……ちゃんと決められるかな」
「すぐに一つの答えに決めなくても構いません」
「そっか」
彼女は、自分の手元に置かれた白紙を見つめた。
そこには、まだ何も書かれていない。
けれど、その白紙は、かつて彼女が感じていたような、何もできないことの証明には見えなかった。
これから何を選ぶのか。
何を望むのか。
何を変えていくのか。
その答えを、今から書き始めるための紙だった。
第二幕 お茶子ちゃんを選びたい
その日の午後、渡我は、お茶子との面談を希望した。
お茶子は、担当者からその話を聞き、少しだけ考えたあと、参加することを決めた。
彼女にも、迷いはあった。
渡我と話すことは、簡単ではない。
彼女が何を感じ、どうしてそのような行動を取ってきたのかを知ることはできても、それをすべて理解することはできない。
渡我が変わろうとしていることを、嬉しく思う気持ちはある。
しかし、その変化を見届ける責任を、自分だけが背負う必要はない。
渡我が、自分のことをどう思っているのか。
自分との対話に、どれほどの期待を抱いているのか。
そのすべてを、お茶子が思いどおりに調整できるわけでもない。
それでも、話をすることには意味があると思っていた。
だからこそ、お茶子は、自分の意思で面談に参加することを選んだ。
部屋に入ると、渡我はすぐに顔を上げた。
「お茶子ちゃん!」
その声は、いつもどおり明るかった。
ただ、以前のように勢いよく距離を詰めることはしなかった。
「こんにちは、渡我ちゃん」
「こんにちは!」
渡我は笑ったあと、少しだけ緊張した様子で、机の上の紙を見た。
「……あのね。今日は、ちょっと大事なことを話したいんだ」
「うん。聞くよ」
渡我は、大きく息を吸った。
「私、お茶子ちゃんに、もっと話を聞いてほしいって思ってる」
お茶子は、静かに頷いた。
「うん」
「自分のことを、もっと話したい。どうして、こういう気持ちになるのかとか。何を考えてるのかとか。……自分でも、まだよくわかってないんだけど」
「うん」
「それで……」
渡我は、そこで言葉を止めた。
今までの自分なら、ここで一気に言ってしまっただろう。
もっと話したい。
もっと近くにいたい。
もっと自分をわかってほしい。
そして、お茶子がどう答えるのかを、期待して待つ。
しかし、今は、その先にある問いを考えなければならなかった。
お茶子に何をしてほしいのか。
どこまで頼りたいのか。
そして、お茶子が断ったとき、自分はどうするのか。
「……私、お茶子ちゃんを選びたいんだ」
お茶子は、少しだけ目を見開いた。
「え?」
渡我は、頬をほんのり赤くした。
「その……私の話を聞いてもらう人として。今までみたいに、話せたらいいなって思ってる」
お茶子は、すぐには答えなかった。
渡我は、慌てて言葉を付け足した。
「でも、お茶子ちゃんじゃなきゃ駄目ってわけじゃないよ!」
その言葉に、彼女自身が少し驚いたようだった。
「……いや、もちろん、お茶子ちゃんに話したい気持ちはあるよ? だって、好きだもん!」
そう言ってから、渡我は、はっとした。
「あっ、今のは、その……」
お茶子は、困ったように笑った。
「うん。聞いてるよ」
「……うう、恥ずかしい」
いつもの調子が、少しだけ戻ってくる。
しかし、渡我は、そこで話を終わらせなかった。
「でもね、お茶子ちゃん」
彼女は、真面目な顔になった。
「私、お茶子ちゃんに全部を任せたいわけじゃないんだ」
お茶子は、彼女を見つめた。
「私がどう変わればいいのか。どうしたら、自分の気持ちと付き合えるのか。何をすれば、ちゃんと責任を取れるのか。……そういうことまで、お茶子ちゃんに決めてもらいたいわけじゃない」
渡我は、ゆっくりと話した。
「お茶子ちゃんに話を聞いてもらいたい。でも、私の未来を決めるのは、私でいたい」
部屋の中が、静かになった。
その言葉は、彼女がここまでの面談で考え続けてきたことの、一つの答えだった。
お茶子に理解してもらいたい。
しかし、理解してもらうことを、自分の未来の条件にしない。
お茶子に助けてほしい。
しかし、助けてもらうことを、自分が変わるための唯一の手段にしない。
お茶子を選びたい。
しかし、選んだからといって、お茶子が自分を受け入れる義務を負うわけではない。
渡我は、ようやくそのことを、自分の言葉で伝えようとしていた。
「……私のこと、聞いてくれる?」
お茶子は、しばらく考えた。
そして、静かに答えた。
「うん。私も、渡我ちゃんの話を聞きたいと思ってる」
渡我の顔が明るくなった。
しかし、お茶子は、そのまま話を続けた。
「ただ、私は、渡我ちゃんの全部を理解できるわけじゃないと思う」
「……うん」
「それに、渡我ちゃんがしたことについて、私が納得できないこともあると思う」
「……うん」
「これから話していく中で、私が違うと思ったら、そう言うこともある。それでもいい?」
渡我は、一瞬だけ、迷った。
自分のことを理解してほしい。
できれば、自分の気持ちを、否定しないでほしい。
自分が苦しかったことを、ちゃんと知ってほしい。
その願いは、今も残っている。
しかし、お茶子が自分と違う意見を持つことまで、拒むことはできない。
「……うん」
渡我は、ゆっくり頷いた。
「いいよ」
その声には、少しだけ緊張があった。
「お茶子ちゃんが、私のことを全部わからなくても。私の考えと違ってても。それでも、話してみたい」
お茶子は、少しだけ表情を和らげた。
「……ありがとう」
「え?」
「私のことも、ちゃんと考えてくれてるんだなって思ったから」
渡我は、驚いたように目を瞬かせた。
そして、恥ずかしそうに笑った。
「……えへへ」
しかし、その笑みは、すぐに真剣なものへ変わった。
「私、これからも、お茶子ちゃんに話を聞いてほしい」
「うん」
「でも、お茶子ちゃんが話したくないことは、無理に聞かない。私のことをどう思ってるかも、答えたくないときは、無理に答えなくていい」
お茶子は、彼女をじっと見つめた。
「……うん」
「それから、お茶子ちゃんが、もう話せないって思ったら……」
渡我の声が、少しだけ震えた。
「そのときは、ちゃんと教えてほしい。できれば、私がその答えを受け止められるように、考える時間がほしいけど……それでも、最後は、お茶子ちゃんが決めていい」
お茶子は、しばらく黙っていた。
渡我の言葉には、願いがあった。
それでも、自分の願いを相手に押しつけないようにしようとする意志もあった。
お茶子は、静かに答えた。
「わかった。でも、私も、無理をしないようにするね」
「……うん!」
「それから、渡我ちゃんも、私だけを頼りにしないでね」
渡我は、笑みを浮かべたまま頷いた。
「うん。専門家の人にも相談するし、自分でも考える」
「うん」
「お茶子ちゃんは、私の話を聞いてくれる人の一人でいてほしい」
その言葉を聞いて、お茶子は、少しだけ驚いたように瞬きをした。
「……一人、なんだね」
「うん!」
渡我は、少し照れくさそうに笑った。
「本当は、お茶子ちゃんが一番話したい人だけど……一番だからって、全部を任せていいわけじゃないもんね」
お茶子は、静かに笑った。
「そうだね」
その瞬間、渡我の表情から、緊張が少しだけ消えた。
彼女は、お茶子を選んだ。
しかし、お茶子の人生を、自分のために選んだわけではない。
お茶子の意思を尊重しながら、自分がどう関わりたいのかを伝えた。
相手が断る可能性を残したまま、それでも自分の願いを言葉にした。
それは、渡我にとって、今までとは違う選び方だった。
第三幕 私を救うって、どういうこと?
「ねえ、お茶子ちゃん」
「うん?」
「私、ずっと考えてたんだ」
渡我は、机の上に置かれた紙を指で押さえた。
「救われるって、どういうことなんだろうって」
お茶子は、姿勢を正した。
「……うん」
「誰かが私を助けてくれる。私のことをわかってくれる。私がどうしてこうなったのか、理解してくれる。……そうしたら、私は救われるのかなって」
渡我は、自分自身の考えを確かめるように、ゆっくり話した。
「でも、誰かが私のことを理解してくれたからって、私がしてきたことがなくなるわけじゃないよね」
「……うん」
「誰かが私を助けてくれたからって、私がこれから何もしなくていいわけでもない」
「そうだね」
「じゃあ、救われるって、何なんだろう」
お茶子は、少し考えた。
「……私も、まだ、はっきりとはわからない」
「そっか」
「でも、誰かが自分のことを理解してくれることは、大切だと思う。自分一人では気づけないことを、誰かが教えてくれることもあるから」
渡我は、頷いた。
「うん」
「それに、自分ではどうにもできないことを、誰かに助けてもらうことも、必要だと思う」
「うん」
「でも、誰かが助けてくれたからって、自分で考えなくていいわけじゃない。助けてもらったからって、その人の言うことを全部聞かなきゃいけないわけでもない」
渡我は、お茶子を見つめた。
「……そっか」
お茶子は、続けた。
「助けてくれる人が、必ず正しいとは限らない。私だって、間違えることはあると思う」
「……うん」
「だから、私が渡我ちゃんに何かを言ったとしても、渡我ちゃんは、自分で考えていいんだよ」
その言葉に、渡我は少しだけ目を見開いた。
「……お茶子ちゃんが、私に言ったことでも?」
「うん。もちろん」
「違うと思ったら?」
「そう言っていいよ」
渡我は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……なんだか、変な感じ」
「変?」
「うん。私、ずっと、お茶子ちゃんに、正しい答えを教えてほしいって思ってたのかもしれない」
お茶子は、黙って聞いていた。
「私がどうすればいいのか。何をしたらいいのか。どうしたら、誰かを傷つけずにいられるのか。……それを、お茶子ちゃんが教えてくれたらいいのにって」
渡我は、自分の胸元に手を置いた。
「でも、お茶子ちゃんが全部教えてくれたら、私は、それを守るだけでいいって思っちゃうかもしれない」
お茶子は、静かに頷いた。
「……そうかもしれないね」
「それって、また、自分で考えなくなるってことだよね」
「うん」
渡我は、少しだけ笑った。
「私、何度も、誰かの答えがほしいって思ってたんだ」
誰かに、正しい生き方を教えてほしい。
誰かに、これ以上傷つけない方法を教えてほしい。
誰かに、自分の欲望をどう扱えばいいのか教えてほしい。
誰かに、どうすれば自分が許されるのか教えてほしい。
しかし、その問いには、それぞれ違う答えが必要だった。
個性の安全な扱い方は、専門的な知識を持つ人に相談する必要がある。
自分が他人を傷つけないためには、具体的な行動を学び、自分の欲望を管理する方法を身につけなければならない。
過去に傷つけた人々との関係については、相手の意思と、定められた手続きや責任を尊重しなければならない。
そして、どう生きたいのかという問いについては、他人の意見を聞きながらも、自分自身で考え続ける必要がある。
それらを、一人の人にすべて解決してもらうことはできない。
「……お茶子ちゃん」
「うん?」
「私、救われたいって思ってた」
渡我は、少しだけ目を伏せた。
「でも、今は……」
彼女は、言葉を探した。
「自分で、どうしたいか考えたい。自分が何を望んでるのか、ちゃんと知りたい」
お茶子は、静かに頷いた。
「うん」
「だから、私を救ってくれる人を探すっていうより……」
渡我は、一度、息を吸った。
「私が、自分のことを考えるために、誰に助けてほしいのかを選びたい」
お茶子は、彼女を見つめた。
その言葉は、彼女が今まで口にしてきたものとは、少し違っていた。
救ってほしい。
わかってほしい。
許してほしい。
それらの願いが、なくなったわけではない。
けれど、その願いをすべて叶えてもらうために、誰かを探すのではない。
自分の人生を、自分で考えるために。
そのために必要な助けを、自分で選ぶ。
それは、誰かに依存しないということではなかった。
人間は、一人ですべてを解決できるわけではない。
助けを借りることは、弱さではない。
ただ、助けてもらうことと、自分の意思を手放すことは違う。
渡我は、その違いを、ようやく自分の言葉で表現し始めていた。
「……そっか」
彼女は、小さく笑った。
「私、救われるだけの人には、なりたくないんだ」
お茶子は、頷いた。
「うん」
「自分でも、何かをしたい」
その声には、少しだけ力がこもっていた。
「自分が何をしたのか、忘れないようにしたい。自分の欲望と、ちゃんと向き合いたい。同じことを繰り返さないために、必要なことを学びたい」
お茶子は、静かに彼女を見つめていた。
「それから、いつか……」
渡我は、少しだけ視線を落とした。
「誰かに、自分のことを話すとき。『私、こういう人間なんだよ』って、隠さずに話せるようになりたい」
その言葉には、彼女の長い願いが込められていた。
しかし、隠さずに話せることは、何をしても許されることとは違う。
自分の欲望を認めることは、他人を傷つける行為まで肯定することではない。
むしろ、自分の欲望を理解できるようになるからこそ、それをどう扱うのか、責任を持って選べるようになるのかもしれない。
お茶子は、静かに答えた。
「……私も、そういう話ができる社会のほうがいいと思う」
渡我は顔を上げた。
「本当?」
「うん。自分のことを話せることと、他人を傷つけていいことは違うから。最初から、話すこと自体を禁止する必要はないと思う」
お茶子は、続けた。
「でも、話した相手が、何を感じるかは、その人の自由だよ」
渡我は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
「理解してもらえることもあるかもしれない。でも、理解されないこともあると思う。それでも、自分の気持ちを考えたり、必要な助けを求めたりすることはできる」
渡我は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……お茶子ちゃん」
「うん?」
「私、今、少しだけ、未来がある気がした」
お茶子は、驚いたように彼女を見た。
渡我は、照れくさそうに笑った。
「まだ、何をするのか、全然決まってないんだけどね」
「うん」
「でも、これから何をしたいのか、考えてもいいんだって思えたから」
お茶子は、ゆっくりと頷いた。
「……うん。考えていいと思うよ」
その言葉を聞いて、渡我は、少しだけ肩の力を抜いた。
まだ、答えはない。
しかし、答えがないことを、自分が何もできない理由にしなくてもよかった。
第四幕 お茶子ちゃんには、頼まないこと
面談が一段落したあと、渡我は、もう一つ、伝えたいことがあると話した。
「お茶子ちゃん。私、お願いしたいことがあるんだ」
お茶子は、少しだけ身構えた。
「……うん。何?」
渡我は、一瞬、言葉に迷った。
しかし、逃げずに話すことにした。
「私が、これから変わろうとしてることを……ずっと見届けてほしいって、前だったら言ってたと思う」
お茶子は、黙って聞いていた。
「私が、ちゃんと変われたかどうか。誰かを傷つけずにいられるようになったかどうか。そういうのを、お茶子ちゃんに見ててほしいって」
渡我は、少しだけ笑った。
「だって、好きな人に、自分が変わったって知ってほしいもん」
その言葉に、お茶子は、わずかに表情を和らげた。
しかし、渡我は、そこで続けた。
「でも、今は……それを、お茶子ちゃんにお願いするのは違う気がするんだ」
「……どうして?」
「私が変わることを、お茶子ちゃんのためだけにしたくないから」
お茶子は、目を見開いた。
渡我は、自分の胸元に手を置いた。
「お茶子ちゃんに認めてもらいたいから、変わる。お茶子ちゃんに好きになってもらいたいから、変わる。お茶子ちゃんに許してもらいたいから、変わる。……そういうのも、気持ちとしてはあると思う」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「でも、それだけだったら、お茶子ちゃんが私を好きにならなかったとき、許してくれなかったとき、私は、どうしたらいいのかわからなくなっちゃう」
お茶子は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
「それに、お茶子ちゃんに見届けてほしいって言ったら、お茶子ちゃんは、私が変わるかどうかに、責任を感じちゃうかもしれない」
渡我は、顔を上げた。
「私、それは嫌なんだ」
お茶子は、しばらく黙っていた。
渡我は、彼女を見つめた。
「だから、これから私がどう変わるかは、私が責任を持ちたい」
その声は、静かだった。
「お茶子ちゃんが見ていてくれたら、嬉しい。でも、見ていなくても、私は、自分がしなきゃいけないことを続ける」
お茶子の胸の奥に、何かが広がった。
嬉しさだけではない。
彼女がこれからどう生きていくのか、まだわからないという不安もあった。
しかし、少なくとも今の渡我は、自分の変化を、お茶子に認めてもらうためだけのものにしないと決めていた。
「……渡我ちゃん」
「うん?」
「ありがとう」
渡我は、目を丸くした。
「え?」
「私に、全部を背負わせないでくれて」
渡我は、少しだけ困った顔をして笑った。
「……ううん。私、今まで、いっぱい背負わせようとしてたと思う」
「……うん」
「ごめんね」
お茶子は、その言葉を受け止めた。
しかし、すぐに許しの言葉を返すことはしなかった。
渡我がこれまでしてきたことの中には、お茶子自身が傷ついたこともある。
そして、お茶子が受け止めることのできない感情も、まだ残っていた。
「……今は、まだ、何もかも許せるわけじゃないよ」
お茶子は、正直に言った。
渡我は、静かに頷いた。
「うん」
「でも、渡我ちゃんが、自分で考えようとしていることは、伝わってる」
「……うん」
「それは、大切なことだと思う」
渡我は、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
二人の間に、静かな時間が流れた。
お茶子は、ふと、自分自身のことも考えていた。
自分もまた、誰かを救いたいと思ったとき、その人の未来を背負いすぎてしまうことがあるのではないだろうか。
相手が望む答えを出してくれなければ、失敗したように感じてしまうことがあるのではないだろうか。
自分が救いたいと思った人が、自分の考える道とは違う未来を選んだら。
そのとき、自分は、相手の意思を尊重できるだろうか。
誰かを救いたいという願いは、尊い。
しかし、その願いが、相手の人生を自分の思い描いた形に変えようとするものになったら。
善意であっても、相手の選択を奪ってしまうかもしれない。
お茶子は、そのことを忘れたくなかった。
「……私も、考えなきゃね」
お茶子が呟いた。
「何を?」
渡我が尋ねる。
「誰かを助けたいって思ったときに、その人が何を望んでいるのか、ちゃんと聞くこと」
渡我は、静かに頷いた。
「……うん」
「自分が助けたいと思う形が、その人にとっての正解だとは限らないから」
渡我は、少しだけ笑った。
「……なんだか、私たち、似たようなことを考えてるね」
「そうかもしれないね」
「でも、同じじゃないんだよね」
「うん。同じじゃないと思う」
二人は、顔を見合わせて笑った。
それは、互いの気持ちが同じになったから生まれた笑いではなかった。
違う人間同士が、違う考えを持ちながら、それでも話をすることができる。
そのことを、少しだけ嬉しく思ったからだった。
第五幕 私のことは、私が決める
その日の最後に、渡我は、今後の支援について希望を伝えることになった。
担当者は、いくつかの選択肢を説明した。
個性について専門家に相談すること。
感情や行動について、継続的に面談を受けること。
必要に応じて、生活上の支援を受けること。
今までの行動を振り返り、再発を防ぐための方法を学ぶこと。
それぞれについて、どんな目的があり、何を期待できるのか、説明があった。
渡我は、真剣に聞いていた。
以前なら、誰かに「こうしなさい」と言われれば、そのとおりにすることが正しいのだと思ったかもしれない。
あるいは、誰かに指示されること自体に反発し、自分の気持ちを守るために、すべてを拒絶しようとしたかもしれない。
しかし、今は違う。
自分に何が必要なのか。
何を知りたいのか。
どんな支援を受けたいのか。
そのことを、自分で考えていた。
説明が終わると、担当者が尋ねた。
「どの支援から始めたいですか?」
渡我は、少しだけ考えた。
「……まず、個性のことを、ちゃんと知りたいです」
「個性についての相談ですね」
「うん。私の個性が、どういう条件で発動するのか。安全に使う方法があるのか。血を欲しいと思う気持ちを、どうやって扱えばいいのか。……そういうことを、専門家の人と考えたい」
担当者は頷いた。
「わかりました。そのための相談先を調整します」
「それから、今までの自分の行動についても、ちゃんと考えたいです」
渡我は、続けた。
「どうして、私は、相手が嫌だって言ってるのに、やめられなかったのか。どうして、自分の気持ちを優先してしまったのか。……そういうことも、考えたい」
「そのための面談も、引き続き検討できます」
「……うん」
渡我は、少しだけ迷った。
そして、もう一つの希望を伝えた。
「それから、お茶子ちゃんとは……」
お茶子が、顔を上げた。
「私が希望する間、話を続けられたら嬉しいです。でも、お茶子ちゃんが無理だと思ったら、無理に続けなくていい」
担当者は、確認するように言った。
「麗日さんの意思も確認したうえで、今後の面談方法を相談しましょう」
「うん」
渡我は頷いた。
そして、少しだけ笑った。
「私、自分で、こうしたいって言えたね」
お茶子は、その言葉を聞いて、表情を和らげた。
「……うん」
「ちょっと、嬉しい」
「そうだね」
渡我は、自分の手を見つめた。
自分で選ぶ。
それは、誰かの助けを拒むことではない。
専門家に相談してもいい。
周囲の人の意見を聞いてもいい。
自分では気づけないことを、教えてもらってもいい。
それでも、何を望んでいるのかを、自分自身で考えることはできる。
自分の人生について、自分の意思を持つことはできる。
そして、自分が選んだことに、責任を持つこともできる。
渡我は、顔を上げた。
「……私、これからも、迷うと思う」
担当者は頷いた。
「そうでしょうね」
「自分の気持ちがわからなくなることもあると思う。誰かに、こうしたほうがいいって言われて、それが正しいのか、わからなくなることもあると思う」
「そのときは、相談してください」
「うん」
渡我は、少しだけ笑った。
「でも、相談したあとに、どうするかは、ちゃんと自分でも考えたい」
担当者は、穏やかに頷いた。
「それでいいと思います」
その言葉を聞いて、渡我は、ゆっくりと息を吐いた。
彼女は、ようやく理解し始めていた。
自分自身の意思を持つことは、誰の助けも借りずに生きることではない。
むしろ、自分には何ができて、何ができないのかを知ること。
どこで助けが必要なのかを考えること。
誰に、何を、どこまで頼るのかを選ぶこと。
そのうえで、自分が何をするのかを決めること。
それが、自分自身の人生を選ぶということなのかもしれない。
渡我は、記録用紙を受け取った。
そこには、彼女が希望した支援が書かれている。
個性への理解。
感情と行動への向き合い方。
責任を果たすための取り組み。
お茶子との対話。
どれも、彼女が自分で選んだものだった。
もちろん、選んだだけで終わるわけではない。
これから実際に取り組み、迷い、必要なら見直していくことになる。
それでも、最初の一歩は、彼女自身が決めた。
「……私、頑張ってみる」
渡我は呟いた。
「何をするか、ちゃんと自分で考えて」
その声は、静かだった。
しかし、そこには、今までになかった意志があった。
第六幕 選ばれたから、応えなければならない?
面談を終えたあと、お茶子は、渡我が提出した希望の記録を見せてもらった。
そこには、彼女が自分で選んだ支援の内容が書かれていた。
個性についての専門的な相談。
自分の欲望と行動を理解するための面談。
過去の行為と向き合い、同じことを繰り返さないための取り組み。
そして、お茶子との対話を、可能な範囲で続けたいという希望。
お茶子は、最後の項目を見つめた。
「……私との対話、か」
その文字を見たとき、彼女の胸の奥には、嬉しさと、少しの不安が生まれた。
渡我が、自分を信頼してくれている。
そのことは、伝わってくる。
しかし、自分が、どこまで応えられるのだろう。
渡我は、自分の話を聞いてほしいと願っている。
自分を理解してほしいと思っている。
自分の変化を、見ていてほしいと願っている。
そうした気持ちがあるのは、わかる。
それでも、お茶子が、その願いのすべてを叶える必要があるわけではない。
自分の気持ちを無理に押し殺してまで、対話を続けることはできない。
渡我が望む答えを、必ず返せるわけでもない。
そして、渡我の人生を、最後まで見届けなければならないという責任を、自分一人が負う必要もない。
「……私も、ちゃんと考えなきゃ」
お茶子は、小さく呟いた。
渡我は、誰を頼るのかを、自分で選んだ。
その意思は、尊重されるべきだ。
しかし、お茶子自身も、自分が何を引き受けられるのかを、自分で選ぶ必要がある。
相手が助けを求めたからといって、すべてに応えなければならないわけではない。
相手が自分を選んだからといって、その人の未来を背負わなければならないわけでもない。
お茶子は、以前よりも、そのことを強く意識するようになっていた。
誰かを救いたいという願いは、相手の意思を尊重することと両立しなければならない。
自分が何をできるのか。
何をしたいのか。
どこから先は、自分一人では引き受けられないのか。
その境界線を、自分自身が考える必要がある。
お茶子は、記録を担当者に返した。
「……今後の対話について、私の希望も、ちゃんと伝えたいです」
担当者は頷いた。
「もちろんです。麗日さんの意思も、同じように尊重されます」
「はい」
お茶子は、少しだけ肩の力を抜いた。
渡我が、自分で選ぼうとしているのなら。
自分も、自分の意思で、これからの関わり方を考えよう。
助けたいから、すべてを背負うのではない。
助けたいからこそ、相手が自分の人生を選べるように、必要な距離を保つ。
自分が間違えたときは、間違えたと認める。
相手の考えが自分と違っていても、すぐに正そうとせず、まず話を聞く。
そして、自分にはできないことを、できるふりをしない。
それは、お茶子にとっても、学ばなければならないことだった。
第七幕 私が選んだ人
数日後。
渡我は、個性についての専門的な相談に向けた準備を始めた。
担当者から説明された内容を読み返し、自分が何を聞きたいのか、どんなことに困っているのかを書き出していく。
『血への欲求が生まれたとき、どう対処すればいいのか』
『自分の個性について、どのような方法で理解を深められるのか』
『他人の身体を傷つけずに、自分の個性と付き合う方法はあるのか』
『衝動が強くなったとき、どうすれば安全な行動を選べるのか』
それらの問いは、どれも彼女自身が考えたものだった。
以前なら、誰かに「こうしなさい」と言われるまで、どうすればいいのかわからなかったかもしれない。
しかし、今は違う。
自分が何を知りたいのか。
何に困っているのか。
どんなことを変えたいのか。
そのことを、自分の言葉で説明しようとしていた。
一枚目の紙をまとめると、彼女は次の紙を取り出した。
今度は、お茶子との対話について考える。
『お茶子ちゃんに話したいこと』
そう書いてから、少しだけ悩んだ。
何を話したいのだろう。
自分の過去。
自分の欲望。
自分が変わろうとしていること。
それから、自分が今も、お茶子を好きだということ。
どれも、話したい。
けれど、すべてを今すぐ話す必要はない。
お茶子が何を聞きたいのか。
どんな話なら、受け止められるのか。
そのことも、考えなければならない。
渡我は、紙に書いた。
『私は、お茶子ちゃんに、私の話を聞いてほしい』
そして、続けた。
『でも、お茶子ちゃんが、私の望む答えを出す必要はない』
『お茶子ちゃんが私を許さなくても、私がするべきことは変わらない』
『お茶子ちゃんが私を好きじゃなくても、その気持ちを無理に変えようとしない』
そこまで書いて、渡我はペンを置いた。
「……うん」
小さく頷く。
自分が誰を選ぶのか。
誰に助けを求めるのか。
それは、自分の意思で決められる。
しかし、自分が選んだ相手が、その願いにどう応えるのかは、相手自身が決めることだった。
それは、彼女が誰かを好きになるときに、忘れてはならないことだった。
渡我は、紙を重ねて、丁寧にそろえた。
そして、ふと、笑った。
「……私、自分で考えるの、ちょっと楽しいかも」
自分が何を考えているのかを知ること。
自分が何を望んでいるのかを知ること。
まだ答えがないものに、少しずつ答えを探していくこと。
それは、思っていたよりも、悪くなかった。
もちろん、苦しいこともある。
自分の過去を思い出せば、つらくなる。
自分が傷つけた人たちのことを考えれば、簡単には前を向けない。
自分の欲望が強くなれば、どうすればいいのか、わからなくなることもあるだろう。
それでも、誰かの答えを待つだけではなく、自分自身で考えることができる。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
「……よし」
渡我は、紙を封筒にしまった。
次の相談に持っていくために。
自分が選んだ、最初の一歩を忘れないために。
第八幕 お茶子ちゃん、もう一つだけ
次の面談で、お茶子は、渡我が準備してきた紙を見せてもらった。
「……いっぱい書いたんだね」
「うん!」
渡我は、少し得意げに笑った。
「自分で考えたんだよ。何を聞きたいのか、何を知りたいのか」
「そっか」
お茶子は、紙を丁寧に読み返した。
そこには、渡我が自分の個性について知りたいことと、これからの行動について考えたいことが、整理されていた。
「……すごいね」
お茶子が言うと、渡我は、ぱっと顔を明るくした。
「本当?」
「うん。ちゃんと、自分が何を知りたいのか、考えたんだね」
「えへへ……」
渡我は嬉しそうに笑った。
しかし、すぐに、自分の表情を意識したように、少しだけ照れくさそうになった。
「……でも、まだ、全然わからないことだらけだよ」
「うん。それでも、いいと思う」
お茶子は、紙を渡し返した。
「わからないことがあるから、相談するんだもんね」
渡我は、静かに頷いた。
「……うん」
二人は、しばらく、これからのことについて話した。
どんな支援を受けたいのか。
何を知りたいのか。
どんなことを変えたいのか。
そして、これからも、どのように話を続けていきたいのか。
渡我は、お茶子に、自分の希望を伝えた。
お茶子も、自分の希望や、引き受けられることについて、正直に話した。
二人は、すべてに同意したわけではなかった。
考え方が違うところもあった。
渡我の過去について、お茶子がまだ納得できないこともあった。
それでも、お互いの意見を聞き、どこまでなら一緒に考えられるのかを、少しずつ確認していった。
そして、面談の終わりが近づいたころ。
渡我が、ふと口を開いた。
「……お茶子ちゃん」
「うん?」
「私、もう一つだけ、聞いていい?」
「うん。何?」
渡我は、少しだけ緊張した表情を浮かべた。
「私、お茶子ちゃんのこと、好きだって言ったよね」
お茶子は、静かに頷いた。
「……うん」
「今も、好きなんだ」
その言葉に、お茶子は、少しだけ目を伏せた。
渡我は、続けた。
「でも、今は、前みたいに、好きだから何かをしてほしいっていう気持ちだけじゃないんだ」
お茶子は、彼女を見つめた。
「好きだから、話したい。好きだから、知りたい。好きだから、これからも、できるなら関わっていたい」
渡我は、少しだけ笑った。
「でも、お茶子ちゃんが、私と同じ気持ちじゃなくてもいい」
お茶子は、静かに聞いていた。
「私が好きだって思うことと、お茶子ちゃんが私をどう思うかは、別だから」
渡我は、目を伏せた。
「……だから、私が好きだっていう気持ちを、何かの約束みたいにしたくないんだ」
お茶子は、少し驚いたように顔を上げた。
「約束?」
「うん。私が好きだから、これからもそばにいてね、とか。私が好きだから、私のことを理解してね、とか。……そういうふうに、したくない」
渡我は、自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと続けた。
「私が好きだっていうのは、私の気持ち。お茶子ちゃんが、どうしたいのかは、お茶子ちゃんが決めること」
お茶子は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
渡我は、少しだけ笑った。
「だから、今は、こうして話してくれることが嬉しい。これからも話せたら、もっと嬉しい。でも、もし、いつか話せなくなったとしても……」
彼女の声が、ほんの少しだけ震えた。
「……私は、そのときに、自分がどうするかを考える」
お茶子は、目を伏せた。
渡我が、そこまで考えていたことが、嬉しかった。
しかし、同時に、彼女がそう考えなければならないほど、これまで誰かとの関係に、強くしがみつこうとしてきたのだと思うと、胸が痛んだ。
「……渡我ちゃん」
お茶子は言った。
「私は、今、こうして話せていることを、大切にしたいと思ってる」
渡我は顔を上げた。
「……うん」
「でも、これからどうなるかは、まだわからない。私も、渡我ちゃんも、これからいろいろなことを考えていくと思うから」
「……うん」
「だから、今の気持ちを、大切にしながら、これからのことを考えていこう」
渡我は、静かに頷いた。
「……うん」
その答えは、彼女が期待していたものとは、少し違っていたのかもしれない。
確実な約束ではない。
永遠にそばにいるという保証でもない。
しかし、今この瞬間、お茶子は、自分の意思で、渡我と話すことを選んでいた。
それだけで、十分だった。
渡我は、少しだけ笑った。
「……ありがとう、お茶子ちゃん」
お茶子も、微笑んだ。
「うん」
二人は、しばらく、静かに座っていた。
何かが劇的に変わったわけではない。
過去が消えたわけでもない。
これから先、二人がどのような関係になるのかも、まだわからない。
それでも、渡我は、初めて、自分の気持ちを伝えたうえで、相手の選択を待つことができた。
それは、彼女がこれまで、うまくできなかったことだった。
誰かを好きになる。
その人に近づきたいと思う。
自分の気持ちを伝える。
そして、相手がどうしたいのかを、聞く。
その一つひとつを、相手の意思を尊重しながら行うこと。
それは、簡単ではない。
けれど、今の渡我は、その難しさを知ったうえで、そうした関係を築いてみたいと思っていた。
第九幕 私が選んだのは、答えではない
面談が終わったあと、渡我は、廊下を歩いていた。
足取りは、以前よりも少しだけ落ち着いていた。
彼女は、自分が選んだ支援について考えていた。
個性について、専門家に相談する。
自分の欲望と行動について、学び続ける。
過去の責任から逃げない。
お茶子との対話を、互いの意思を尊重しながら続ける。
そのどれもが、今の自分に必要だと思えた。
しかし、それらを選んだからといって、もう迷わなくなるわけではない。
自分の欲望が強くなったとき、どうすればいいのか。
誰かを好きになったとき、どうすればいいのか。
自分の思いどおりにならないことに、どう向き合えばいいのか。
その答えは、これからも探していかなければならない。
渡我は、立ち止まった。
窓の外に、空が見える。
「……私、ちゃんと選べたのかな」
誰に聞くでもなく、呟いた。
その問いには、まだ不安があった。
自分が選んだ支援が、十分なものなのか。
自分が望んでいることが、本当に自分の望みなのか。
誰かに認めてもらいたいという気持ちが、まだ残っているのではないか。
いろいろな考えが浮かんでくる。
けれど、今は、そのことを悪いとは思わなかった。
人間は、一度決めたら、二度と迷わなくなるわけではない。
自分で選んだことでも、あとから考え直すことはある。
間違ったと思ったら、修正する必要もある。
それでも、自分が何を望むのかを考え、自分で選んだことには、意味がある。
渡我は、ゆっくりと息を吐いた。
「……うん。選べたんだと思う」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に、少しだけ温かいものが生まれた。
自分の未来を、誰かに全部決めてもらうのではなく。
自分の望みを、自分で考えた。
誰かに助けを求めることを、弱さだと考えず。
それでも、自分の意思を手放さないようにした。
そして、自分を助けてくれる人にも、自分の人生があることを、忘れないようにした。
それは、彼女にとって、大きな変化だった。
まだ、何も解決していない。
過去の傷は、残っている。
被害に遭った人々の痛みも、残っている。
彼女が、自分の行為について責任を果たしていく道のりも、これから続く。
それでも、自分が何をするのかは、考えられる。
自分が何を望むのかは、言葉にできる。
自分が誰に助けを求めるのかは、自分で選ぶことができる。
渡我は、再び歩き始めた。
今度は、誰かの背中を追いかけるためだけではなく。
自分自身の未来へ向かうために。
第十幕 選ぶということは、断られる可能性も選ぶこと
その夜、渡我は、今日の面談の記録を読み返していた。
最後のページには、彼女が自分で書いた文章があった。
『私は、お茶子ちゃんに話を聞いてほしい』
『でも、お茶子ちゃんが私の望む答えを出す必要はない』
『私は、私の人生を、自分で選びたい』
渡我は、その言葉を見つめた。
自分で選ぶということは、望んだとおりになると保証されているわけではない。
誰かに助けを求めても、断られることがある。
自分の考えを伝えても、理解されないことがある。
誰かを好きになっても、その人が同じ気持ちになるとは限らない。
そして、自分がどれだけ変わろうとしても、過去に傷つけた人たちが、自分を許すとは限らない。
その可能性を、渡我は、ようやく考え始めていた。
以前なら、断られることは、相手が自分を拒絶することのように感じられた。
自分を受け入れない。
自分を理解しない。
自分を好きにならない。
その答えを聞いた瞬間、自分自身を否定されたように感じたかもしれない。
しかし、今は少し違う。
相手が断ることと、自分に価値がないことは、同じではない。
相手が自分を好きにならないことと、自分が誰かを好きでいてはいけないことも、同じではない。
相手が自分を許さないことと、自分が変わろうとする意味がなくなることも、同じではない。
渡我は、ゆっくりとペンを動かした。
『断られることがあっても、私は、自分の気持ちを考えていい』
その下に、さらに書き足した。
『でも、断られたとき、自分の願いを叶えるために、相手の意思を無視してはいけない』
書き終えると、彼女は、静かに頷いた。
それは、今までの自分に、最も必要な言葉だったのかもしれない。
誰かを好きになること。
誰かに助けを求めること。
誰かに、自分のことを知ってほしいと願うこと。
どれも、自然な気持ちだ。
しかし、その気持ちを叶えるために、相手の意思を奪ってはいけない。
自分の願いが叶わなかったとき、その悲しみを、相手の責任にしてはいけない。
そして、自分が苦しいからといって、他人を傷つけていいわけでもない。
渡我は、紙を閉じた。
「……私、少しだけ、わかってきたかも」
小さく呟く。
完璧に理解したわけではない。
明日になれば、また迷うかもしれない。
それでも、今日、彼女は、自分で選んだ。
誰に、何を頼むのか。
誰と、どのように関わりたいのか。
自分自身が、これから何をすべきなのか。
その選択は、誰かに救ってもらうためだけのものではない。
自分が、自分の人生を続けるためのものだった。
終幕 私は、私を諦めない
夜が深くなったころ、渡我は、机の上の紙を片づけていた。
今日、書いた文章を、一枚ずつ読み返す。
自分の個性について、知りたいこと。
自分の欲望について、考えたいこと。
自分が過去にしたことについて、忘れてはいけないこと。
そして、誰に助けを求め、どのように生きたいのか。
どれも、すぐに答えが出るものではなかった。
自分の個性を理解するためには、専門的な知識が必要になる。
自分の欲望を扱うためには、時間をかけて、具体的な方法を学ばなければならない。
過去の責任を果たすためには、自分の行為を振り返り、必要な対応を続けなければならない。
お茶子との関係についても、まだわからないことが多い。
彼女は、自分をどう思っているのだろう。
今後、どこまで話を続けてくれるのだろう。
いつか、自分のことを許してくれるのだろうか。
そんな疑問は、まだ胸の奥に残っている。
しかし、渡我は、以前ほど、その答えにしがみついてはいなかった。
答えを知りたいと思うことは、悪くない。
誰かの気持ちを知りたいと思うことも、悪くない。
けれど、相手が答えを出すまで、自分の人生を止めてしまう必要はない。
お茶子が、自分を許すかどうか。
お茶子が、自分と同じ気持ちになるかどうか。
お茶子が、自分のことを、どこまで理解できるか。
それらは、お茶子自身が決めることだった。
そして、渡我には、渡我自身が決めるべきことがある。
自分の欲望を、どう扱うのか。
自分がしたことに、どう責任を持つのか。
これから、どのような人間として生きたいのか。
その問いを、他人の答えだけに委ねることはできない。
渡我は、最後に一枚の紙を手に取った。
そこには、今日の面談の前に書いた言葉が残っていた。
『私は、私の人生を、自分で選びたい』
その言葉を、もう一度読み返した。
「……うん」
小さく頷く。
そして、その下に、新しい一文を書き足した。
『助けてもらってもいい。でも、私の人生を、私が諦めない』
書き終えた瞬間、渡我は、少しだけ笑った。
自分を諦めない。
それは、自分が何をしてもいいという意味ではない。
過去を忘れるという意味でもない。
誰かに許されるまで、自分自身を否定し続けるという意味でもない。
自分がしたことを認め、その責任を考えながら、それでも、自分の未来を選ぶことをやめない。
自分の欲望を理解するために、助けを求める。
自分の行動を変えるために、学び続ける。
他人を傷つけないために、自分の選択を見直す。
そして、必要なときには、もう一度、誰かに相談する。
それらを続けることが、彼女にとっての、自分を諦めないということだった。
渡我は、立ち上がった。
窓の外には、夜の街が広がっていた。
彼女がかつて、普通になりたいと願った世界。
その世界は、今も、彼女を完全には理解していない。
彼女自身も、まだ自分のことを理解しきれていない。
それでも、彼女は、もう一度、自分の人生を選び始めていた。
誰かにならなくても。
誰かに許されなくても。
誰かに、自分の未来を決めてもらわなくても。
自分のままで、誰かを傷つけずに生きる方法を探すために。
そして、誰かに助けてもらいながら、自分自身の足で歩くために。
渡我は、静かに目を閉じた。
「……私を救う人は、私が選ぶ」
その言葉は、誰かにすべてを解決してもらうための宣言ではなかった。
自分自身の意思を、取り戻すための言葉だった。
誰に助けを求めるのか。
どのような支援を受けるのか。
何を学び、何を変え、どんな未来を選ぶのか。
それを、自分で考えるための言葉だった。
そして、その選択には、相手の意思も含まれる。
自分が助けを求めた人が、どのように応えるのか。
自分と同じ気持ちを持つのか。
自分を許すのか。
自分との関係を続けるのか。
その答えは、相手自身が決めることだ。
渡我は、ようやく、そのことを自分の生き方と結びつけ始めた。
自分で選ぶこと。
相手にも、選ぶ自由を残すこと。
そして、選んだ結果を、自分自身で引き受けること。
その三つは、切り離せないものだった。
明日になれば、また迷うかもしれない。
誰かに助けを求めることが怖くなるかもしれない。
自分の欲望を扱えず、何をすべきかわからなくなることもあるだろう。
それでも、彼女は考える。
自分が何を望んでいるのか。
どうすれば、他人を傷つけずに、その望みと向き合えるのか。
自分が過去にしたことに、どう責任を持つのか。
その問いを、誰かに丸ごと預けてしまわないために。
そして、いつか、自分の姿のままで、誰かの隣に立てるようになるために。
渡我は、机の上の紙を、丁寧にしまった。
そこには、まだ答えのない問いが、いくつも残っている。
しかし、今の彼女は、それを恐れるだけではなかった。
答えがないのなら、探せばいい。
わからないことがあるのなら、相談すればいい。
間違えたのなら、認めて、修正していけばいい。
過去に傷つけた人たちの痛みを忘れず、それでも、自分の未来を諦めない。
それが、今の渡我被身子が選んだ道だった。
そして、その道の先には、もう一つ、向き合わなければならないことが待っている。
自分が誰かを好きだったこと。
その気持ちが、本物だったこと。
そして、その気持ちを理由に、誰かを傷つけてしまったこと。
その二つは、決して同じではない。
けれど、どちらか一方だけを消してしまえば、彼女の過去を正しく見つめることはできない。
愛情があったことも、傷つけたことも、どちらも真実だった。
その二つを、片方だけに塗り替えずに、未来へ進むことはできるのだろうか。
渡我は、その問いを胸に抱いたまま、明日へ向かう。
誰かに救われることを望みながら、自分自身の人生を選ぶために。