第一幕 最後に、聞きたいこと
「ねえ、お茶子ちゃん」
「うん?」
「今日で、ひと区切りなんだよね?」
渡我被身子は、机の向こうに座る麗日お茶子を見つめた。
面談室は、いつもと変わらなかった。
白い机。
椅子。
窓から差し込む光。
記録を取る担当者。
違うのは、机の上に置かれた書類だった。
これまで続けてきた対話の内容がまとめられ、今回の面談が、渡我とお茶子による集中的な対話の一区切りとなることが記されている。
今後も、渡我には個性に関する相談や、行動と責任について考えるための支援が必要になる。彼女の過去も、被害に遭った人々のことも、ここで扱い終わるわけではない。
ただ、お茶子と渡我が毎回向き合い、互いの気持ちを確かめる時間には、ひとまず区切りを設けることになった。
「うん。ここまで話してきたことを、一度整理する日だね」
お茶子が答えた。
渡我は、少しだけ頬を膨らませた。
「なんだか、卒業式みたい」
「卒業式は、まだ早いと思うよ」
「えー? だって、いっぱい勉強したもん。好きな人のこととか、血のこととか、他人の気持ちとか」
「そうだね」
「私、結構、頭を使ったと思う!」
「うん。そう思うよ」
渡我は、嬉しそうに笑った。
その表情を見て、お茶子も少しだけ笑みを浮かべた。
けれど、二人とも知っていた。
今日で一区切りがつくからといって、渡我がこれまでにしたことが消えるわけではない。
お茶子が彼女の話を聞いてきたからといって、すべてを許せるようになったわけでもない。
二人の関係が、これからどうなっていくのかも、わからない。
それでも、今日までの対話には意味があった。
渡我は、自分の欲望を、ただ否定するのではなく、どう扱うべきかを考え始めた。
お茶子は、人を救いたいと思うことと、その人の未来を自分の望む形に決めることは違うのだと、何度も自分に確かめてきた。
二人は、互いのすべてを理解したわけではない。
しかし、わからないことがあるからこそ、勝手に答えを決めつけないようにしてきた。
渡我は、机に置かれた一枚の紙を見た。
そこには、彼女が今日話したいことを、いくつか書き留めてあった。
一番上には、こう書かれている。
私は、お茶子ちゃんのことが好きだった。
渡我は、その文字を指でなぞった。
「……ねえ、お茶子ちゃん」
「うん」
「最後に、一つだけ聞いてもいい?」
お茶子は、少しだけ姿勢を正した。
「うん。聞くよ」
渡我は、笑みを消した。
「私、ちゃんと、お茶子ちゃんのことが好きだったのかな」
お茶子は、黙った。
渡我は、続けた。
「私、お茶子ちゃんのこと、かわいいと思ってた。強いところも好きだったし、優しいところも好きだった。頑張ってるところも、誰かのために怒れるところも、すごいなって思ってた」
一つひとつ、思い出しながら語る。
「でも、私、好きな人になりたいって思うんだよね。同じ姿になりたい。同じものを見たい。同じように笑いたい。……そういう気持ちが、ずっと一緒にあった」
渡我は、自分の胸元に手を当てた。
「だから、お茶子ちゃんが好きだったのか、お茶子ちゃんみたいになった自分が好きだったのか、わからなくなっちゃった」
お茶子は、答えを急がなかった。
その問いは、渡我自身が、何度も考え続けてきたものだった。
自分の感情を、初めて他人の前で認めようとしている。
その言葉を、簡単な答えで片づけたくはなかった。
「……私が答えていいことなのかな」
お茶子が尋ねた。
渡我は、少し驚いた。
「え?」
「渡我ちゃんが私のことをどう思っていたのか、私が決めることではないと思う」
渡我は、じっとお茶子を見つめた。
お茶子は、続けた。
「私から見て、渡我ちゃんがどんな行動をしていたのか、どんなことを話してくれたのかは、わかる。でも、渡我ちゃんの中に、どんな気持ちがあったのか。その全部を、私が決めることはできないよ」
渡我は、少しだけ口を開いた。
「……そっか」
「だから、私が、あれは本当の好きだったとか、違ったとか、決めることはできないと思う」
その返事は、渡我が期待していたものとは違ったのかもしれない。
彼女は、お茶子に答えてほしかった。
自分の気持ちが、本物だったと。
自分は、ちゃんと人を好きになれたのだと。
そう言ってもらえたら、少しだけ安心できると思っていたのかもしれない。
しかし、お茶子は、その答えを渡我の代わりに決めなかった。
渡我は、しばらく黙っていた。
そして、ふっと息を吐いた。
「……そっか」
今度の声には、少しだけ笑みが混じっていた。
「それ、私が自分で考えなきゃいけないことなんだね」
「うん」
渡我は、机の上の紙を見た。
そこには、自分が書いた文章がある。
『私は、お茶子ちゃんのことが好きだった』
彼女は、その文字を、もう一度見つめた。
「……うん。じゃあ、私が話すね」
第二幕 好きだったことは、嘘じゃない
「私、お茶子ちゃんのことが好きだったよ」
渡我は、もう一度言った。
今度は、迷いながらでも、言葉を濁さなかった。
「今だって、好きだよ。もちろん、前と同じじゃないと思うけど」
お茶子は、静かに聞いていた。
「最初は、かわいいなって思った。すごいなって思った。私にはできないことを、普通にできる人なんだなって」
渡我は、少しだけ笑った。
「自分の気持ちを、ちゃんと話せる人。人のために怒れる人。怖くても、誰かのために前に出られる人」
その声は、穏やかだった。
「私、そういうところが好きだったんだと思う」
お茶子は、視線を落とした。
渡我は、ゆっくりと続けた。
「でも、同時に、私もお茶子ちゃんみたいになりたかった。お茶子ちゃんみたいな顔になったら、お茶子ちゃんの気持ちがわかるような気がした。お茶子ちゃんみたいに笑ったら、同じ気持ちになれる気がした」
渡我は、自分の両手を見つめた。
「……今考えると、変だよね」
「……うん」
お茶子は、正直に答えた。
渡我は苦笑した。
「そこは、優しく否定してくれてもいいのに」
「ごめん。でも、渡我ちゃんが今、自分で考えていることだから、簡単に違うって言いたくない」
渡我は、目を瞬かせた。
そして、少しだけ笑った。
「……そっか」
彼女は、再び、自分の気持ちを言葉にした。
「私、お茶子ちゃんになりたかった。でも、お茶子ちゃんのことも、好きだったんだと思う」
その言葉を口にした瞬間、彼女の表情が少しだけ変わった。
「……ああ。そうか」
渡我は、自分で自分の答えを見つけたように、ゆっくり頷いた。
「私、どっちかだと思ってたんだ」
「どっちか?」
「うん。お茶子ちゃんのことが好きだったのか、お茶子ちゃんになりたかっただけなのか。……どっちか一つじゃなきゃいけないって思ってた」
渡我は、少しだけ笑った。
「でも、両方だったのかもしれないね」
お茶子は、静かに聞いていた。
「お茶子ちゃん自身のことが好きだった。それと同時に、お茶子ちゃんみたいになったら、私も何か変われるんじゃないかって思ってた」
渡我は、自分の言葉を確かめるように続けた。
「お茶子ちゃんが持ってるものが、羨ましかったんだと思う。自分のままで、誰かに認めてもらえること。自分の気持ちを話しても、怖がられないこと。……私も、そうなりたかった」
その言葉には、長い間、言えなかった願いが込められていた。
好きな人の姿になりたい。
その人に近づきたい。
その人と同じように生きたい。
それらの気持ちは、彼女の中で、いつも混ざり合っていたのだろう。
憧れと、愛情と、羨望と、孤独。
自分にないものを持っている人に惹かれること。
その人のようになりたいと願うこと。
その人の隣にいたいと願うこと。
それらの感情が、彼女の中では、切り離せないものになっていたのかもしれない。
しかし、それらの感情がどれほど複雑であっても、他人の意思を無視していい理由にはならない。
渡我は、そのことを知っていた。
だからこそ、今、過去の気持ちを言葉にすることができた。
「……私、お茶子ちゃんのこと、好きだったよ」
もう一度、そう言った。
「その気持ちは、本当だったと思う」
お茶子は、彼女を見つめた。
渡我は、少しだけ目を伏せた。
「でも、好きだったからって、私が何をしてもよかったわけじゃない」
その言葉を口にするまでに、彼女は、どれほどの時間を必要としたのだろう。
好きだった。
だから、近づきたかった。
好きだった。
だから、同じになりたかった。
好きだった。
だから、もっと知りたかった。
その気持ちは、彼女の中では、すべて本当だったのかもしれない。
しかし、相手の意思は、別に存在していた。
お茶子自身の人生があり、彼女自身の感情があり、彼女自身の選択があった。
渡我がどれだけ好きだったとしても、そのことは変わらない。
「私、好きだったから、近づきたかった。でも、お茶子ちゃんがどうしたいのかを、ちゃんと考えなかった」
渡我は、顔を上げた。
「私の気持ちをわかってほしくて、相手の気持ちを、後回しにしちゃった」
お茶子は、静かに息を吐いた。
「……うん」
「だから、私が好きだったことは、嘘じゃないと思う。でも、その気持ちが本物だったからって、私がしたことまで、正しかったことにはならない」
渡我は、はっきりとした声で言った。
「……好きだったことは、嘘じゃない。でも、それは、言い訳じゃない」
お茶子の目が、揺れた。
その言葉は、彼女がずっと聞きたかった言葉なのかもしれない。
あるいは、渡我がようやく、自分自身に言えるようになった言葉なのかもしれない。
お茶子は、静かに答えた。
「……うん」
それだけだった。
許すとも、許さないとも言わなかった。
渡我の気持ちを、代わりに定義することもしなかった。
ただ、その言葉を聞いた。
それで、十分だった。
少なくとも、今の二人にとっては。
第三幕 私は、あなたを許せるのか
「……ねえ、渡我ちゃん」
今度は、お茶子が口を開いた。
渡我は、顔を上げた。
「何?」
「私も、正直に話していい?」
「……うん」
お茶子は、少しだけ息を吸った。
「私、渡我ちゃんのことを、全部許せたわけじゃない」
渡我は、静かに頷いた。
「うん」
「渡我ちゃんが、どうしてそうなったのか。どんな気持ちを抱えていたのか。少しずつわかってきたことはある」
「……うん」
「それでも、渡我ちゃんがしたことを思い出すと、やっぱり、怒りもあるし、悲しい気持ちもある」
お茶子は、目を伏せた。
「傷つけられた人たちのことを考えると、簡単に許していいとは思えない」
渡我は、何も言わなかった。
お茶子は、続けた。
「私自身も、渡我ちゃんのことを、これからどう思っていくのか、まだわからない」
渡我は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
「でも、渡我ちゃんの話を聞いてきたことは、無駄だったとは思ってない」
その言葉に、渡我は顔を上げた。
お茶子は、まっすぐに彼女を見つめた。
「渡我ちゃんが何を感じていたのか、どうして、そういう行動をしてしまったのか。それを知ろうとしたことで、私も、考えたことがたくさんあったから」
「……うん」
「人を助けたいって思うことと、その人の人生を自分で決めてしまうことは違うんだって。理解することと、許すことは違うんだって。……私も、たくさん考えた」
渡我は、静かに聞いていた。
「だから、私は、渡我ちゃんのことを、全部わかったとは思わない。でも、話を聞いてよかったと思ってる」
渡我は、少しだけ唇を噛んだ。
嬉しかった。
その言葉を聞いて、嬉しいと思った。
自分の話を聞いてもらえたこと。
お茶子が、自分との対話を、無意味ではなかったと言ってくれたこと。
それは、渡我にとって、大切なことだった。
しかし、ここで「じゃあ、許してくれる?」と聞いてはいけない。
お茶子が話を聞いてよかったと言ってくれたからといって、その気持ちを、許しの約束に変えてはいけない。
渡我は、そう考えた。
「……ありがとう、お茶子ちゃん」
それだけを言った。
お茶子は、頷いた。
「うん」
少しの沈黙のあと、渡我は、もう一つ尋ねた。
「……私が変わったら、お茶子ちゃんは、私を許せるようになるのかな?」
お茶子は、その問いに、すぐには答えられなかった。
渡我が変わろうとしていることは、大切だ。
過去の行動を繰り返さないために学び続けることも、責任を果たしていくことも、大切だ。
しかし、それが、お茶子自身の気持ちを変える保証になるわけではない。
許すということは、被害に遭った側が自分の意思で決めることだ。
相手が変わったからといって、許さなければならないわけではない。
相手が反省しているからといって、傷ついた気持ちを、なかったことにしなければならないわけでもない。
お茶子は、慎重に言葉を選んだ。
「……わからない」
渡我は、頷いた。
「……うん」
「渡我ちゃんが変わっていくことは、これからのために大切だと思う。でも、それが、私の気持ちを必ず変えるとは言えない」
「……うん」
「それに、私がいつか渡我ちゃんを許せるようになったとしても、それは、私が傷つけられた人たちの代わりに、みんなを許すということではないから」
渡我は、真剣な表情で頷いた。
「……うん。わかってる」
「だから、渡我ちゃんが変わることを、私に許してもらうためだけのものにしないでほしい」
お茶子は、彼女を見つめた。
「自分がこれから、どう生きたいのか。何をしたいのか。そのために、変わっていってほしい」
渡我は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
その返事は、少しだけ震えていた。
お茶子に許してほしい。
そう願う気持ちは、まだ残っている。
自分を好きになってほしい。
自分のことを理解してほしい。
できれば、自分の未来を、一緒に見ていてほしい。
その気持ちが消えたわけではなかった。
しかし、渡我は、その願いを、お茶子に対する義務にはしないと決めた。
お茶子が許さないというのなら、その気持ちを尊重しなければならない。
お茶子が、自分との関係を続けないと決めたのなら、その選択を認めなければならない。
たとえ、その答えが、自分の望みとは違っていたとしても。
「……私、まだ、許してほしいって思うことはあると思う」
渡我は、正直に言った。
「でも、許してもらえなかったからって、私がするべきことをやめない」
お茶子は、静かに頷いた。
「……うん」
「私が変わることは、お茶子ちゃんが決めることじゃないから」
渡我は、少しだけ笑った。
「……私が決めることだもんね」
「そうだね」
二人の間に、静かな空気が流れた。
それは、和解の瞬間ではなかった。
許しが与えられた瞬間でもなかった。
ただ、二人がそれぞれの意思を、少しだけはっきりと言葉にした時間だった。
第四幕 それでも、好きだった
面談が終わる時刻が近づいていた。
担当者が、最後の確認事項を説明する。
渡我が今後受ける支援。
個性の相談。
行動を振り返るための面談。
今後の対話の扱い。
お茶子も、必要な範囲で希望を伝えた。
そして、すべての確認が終わったあと。
渡我は、机の上に置いていた一枚の紙を、お茶子に見せた。
そこには、短い文章が書かれていた。
『私は、お茶子ちゃんが好きだった』
『お茶子ちゃんのようになりたかった』
『私が欲しかったものと、お茶子ちゃん自身の気持ちは、同じではなかった』
『好きだったことは、嘘じゃない』
『でも、好きだったからといって、傷つけていいわけではなかった』
お茶子は、ゆっくりと読み返した。
「……これ、渡我ちゃんが書いたの?」
「うん」
「そっか」
渡我は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「私、これからも、自分の気持ちがわからなくなることがあると思う。でも、わからなくなったら、また考える」
「うん」
「自分が何を望んでるのか。どうして、それを望んでるのか。……それが、誰かを傷つけることにならないか」
渡我は、静かに続けた。
「それから、誰かを好きになったとき、その人がどうしたいのかも、ちゃんと考えたい」
お茶子は、頷いた。
「……うん」
渡我は、そこで言葉を止めた。
そして、一度、深く息を吸った。
「……私、やっぱり、お茶子ちゃんのことが好きだよ」
お茶子は、静かに彼女を見つめた。
渡我は、今度は、すぐに言葉を付け足さなかった。
好きだという気持ちを、別の言葉で正当化しようとはしなかった。
自分がどれほど寂しかったのか。
自分がどれほど苦しんできたのか。
自分がどれほど、お茶子を必要としていたのか。
そうしたことを並べて、相手に何かを求めようとはしなかった。
ただ、自分の気持ちを伝えた。
「……そうなんだね」
お茶子は、静かに答えた。
「うん」
渡我は、少しだけ笑った。
「それだけ!」
その言葉に、お茶子は、思わず小さく笑みを浮かべた。
「……そっか」
「うん!」
渡我は、いつものように明るい顔をしていた。
しかし、今度の笑顔は、相手に何かを求めるためのものではなかった。
好きだと伝えたから、何かを返してほしい。
好きだと伝えたから、同じ気持ちになってほしい。
好きだと伝えたから、許してほしい。
そうした願いを、すべて消し去ることはできない。
しかし、その願いを相手に押しつけないようにすることはできる。
渡我は、紙をそっと戻した。
「……ねえ、お茶子ちゃん」
「うん?」
「私が、お茶子ちゃんのことを好きだったっていうのは、嘘じゃないよ」
「……うん」
「でも、お茶子ちゃんが、私を好きじゃなくても、それは、お茶子ちゃんが悪いわけじゃない」
お茶子は、静かに彼女を見つめた。
渡我は、少しだけ目を伏せた。
「私が勝手に好きになったんだもんね」
その言葉は、少し寂しそうだった。
けれど、同時に、彼女が自分自身の気持ちを、自分のものとして受け止めようとしていることも伝わってきた。
好きになったことは、自分の気持ち。
好きになってもらえるかどうかは、相手の気持ち。
その二つを、同じにすることはできない。
渡我は、ゆっくりと顔を上げた。
「……だから、これからも、好きでいるかもしれない」
お茶子は、少しだけ目を見開いた。
「でも、前みたいに、何かをしてほしいって思うための『好き』には、したくない」
渡我は、笑った。
「自分の中にある気持ちとして、大切にできたらいいなって思う」
お茶子は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「……それが、渡我ちゃんの気持ちなんだね」
「うん」
「わかった」
その短い言葉に、渡我は少しだけ安心したように笑った。
理解された、と感じたのかもしれない。
しかし、お茶子が「わかった」と言ったからといって、彼女のすべてを理解したわけではない。
これからも、わからないことはあるだろう。
考えが違うこともあるだろう。
お茶子が、渡我の気持ちをすべて受け入れることも、同じ気持ちになることも、約束されていない。
それでも、今この瞬間、お茶子は、渡我が伝えた言葉を、自分なりに受け止めた。
そのことだけで、渡我は、十分に嬉しかった。
「……ありがとう、お茶子ちゃん」
「うん」
渡我は、静かに笑った。
「好きだったことは、嘘じゃないよ」
そして、もう一度、心の中で、その言葉を繰り返した。
第五幕 最後の質問
立ち上がる前に、渡我は、ふと、もう一つのことを思い出した。
「……あっ、お茶子ちゃん」
「何?」
「最後に、もう一つだけ!」
お茶子は、少しだけ笑った。
「最後って、さっきも言ってなかった?」
「えへへ。そうだった!」
渡我は、照れくさそうに頭をかいた。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「……私が、これから変わっていったらさ」
お茶子は、静かに聞いていた。
「いつか、お茶子ちゃんと、また普通に話せる日が来るかな?」
その問いには、期待が込められていた。
これまでのような、特別な面談ではなく。
罪について話すためだけの時間でもなく。
もっと自然に、何気ない話をして、笑って、互いのことを知っていく。
そんな日が来るのだろうか。
お茶子は、しばらく考えた。
彼女は、その未来を否定したくはなかった。
しかし、約束することもできなかった。
これから、何が起きるのか。
渡我が、どう変わっていくのか。
お茶子自身が、どんな気持ちになっていくのか。
今は、誰にもわからない。
「……いつか、そういう日が来るかもしれないね」
お茶子は、正直に答えた。
渡我の目が、少しだけ明るくなった。
「……本当?」
「うん。でも、今、約束できるわけじゃないよ」
渡我は、少しだけ笑った。
「……うん」
「これから、渡我ちゃんがどう生きていくのかも、私がどう思っていくのかも、まだわからないから」
「……うん」
お茶子は、続けた。
「でも、いつか、また話すことになったら。そのときは、そのときの私たちで、考えればいいんじゃないかな」
渡我は、しばらく黙っていた。
その答えは、彼女が期待していた確約ではなかった。
しかし、未来を完全に閉ざす言葉でもなかった。
ただ、未来はまだ決まっていない。
そのことを、正直に伝える言葉だった。
渡我は、ゆっくり頷いた。
「……うん。そうだね」
そして、笑った。
「私、そういうの、好きだな」
「え?」
「まだ決まってないこと。これから、どうなるかわからないこと」
渡我は、窓の外を見た。
「私、ずっと、答えがほしかったんだと思う。お茶子ちゃんが、私を好きなのか。私を許してくれるのか。私が、これからどうしたらいいのか」
彼女は、お茶子を見た。
「でも、これからのことは、まだ決まってないんだね」
「……うん」
「だったら、私が何をするかで、少しずつ変わっていくのかもしれない」
お茶子は、静かに頷いた。
「そうだね」
もちろん、渡我が変わったからといって、お茶子が必ず関係を続けるわけではない。
彼女が努力したからといって、過去の被害がなくなるわけでもない。
未来は、渡我だけで決められるものではない。
しかし、渡我自身の行動は、彼女自身が選ぶことができる。
その選択が、これからの人生を少しずつ形作っていく。
渡我は、椅子から立ち上がった。
「……じゃあ、またね、お茶子ちゃん」
お茶子も立ち上がった。
「うん。またね、渡我ちゃん」
二人は、向かい合った。
以前なら、渡我は、ここで相手に何かを求めていたかもしれない。
もう少し話してほしい。
もっと、自分のことを見ていてほしい。
自分の気持ちを、忘れないでほしい。
しかし、今は、その言葉を口にしなかった。
自分が好きだという気持ちを伝えた。
お茶子は、それを聞いた。
それで、今は十分だった。
渡我は、ゆっくりと一歩、後ろへ下がった。
そして、笑った。
「……お茶子ちゃん。話を聞いてくれて、ありがとう」
お茶子は、頷いた。
「うん。私も、話してくれてありがとう」
二人は、それ以上、何も言わなかった。
言葉にしなくても、伝わるものがある。
けれど、言葉にしなければ伝わらないものもある。
そして、言葉にしたからといって、相手が自分の望む答えを返してくれるとは限らない。
それでも、二人は、話をした。
互いの気持ちを、自分たちの言葉で伝えた。
そのことは、これからの二人にとって、きっと大切なものになるだろう。
しかし、それが何を意味するのかは、今すぐに決めなくてもいい。
渡我は、静かに部屋を出た。
お茶子は、その背中を見送った。
それぞれの未来へ進むために。
第六幕 許されるためではなく
面談室を出たあと、渡我は、自分の記録用紙を見つめた。
そこには、最後に書き足した言葉が残っている。
『好きだったことは、嘘じゃない』
彼女は、その文字を指でなぞった。
以前の自分なら、この言葉を、何かを許してもらうために使っていたかもしれない。
好きだった。
だから、仕方なかった。
寂しかった。
だから、止められなかった。
普通になれなかった。
だから、こうするしかなかった。
そんなふうに、自分の過去を説明するために。
そして、相手に、その説明を受け入れてもらうために。
しかし、今は違った。
好きだったことは、嘘ではない。
それでも、その気持ちが、他人の意思を踏みにじっていい理由にはならない。
彼女が苦しかったことも、本当だった。
それでも、その苦しさによって、傷つけた人たちの痛みが消えるわけではない。
どちらか一方だけを選ぶことはできない。
自分が好きだったことを、嘘にしなくてもいい。
しかし、その気持ちを理由に、過去の行為を正当化してはいけない。
渡我は、記録を閉じた。
これから、何をすればいいのか。
まだ、わからないことが多い。
個性について、専門家と相談する必要がある。
自分の欲望を、どう扱うのか学ばなければならない。
過去に傷つけた人たちへの責任も、考え続けなければならない。
そして、自分がこれから、どのように生きていきたいのかも、選び続ける必要がある。
彼女は、ゆっくりと歩き出した。
かつて、彼女が望んでいたのは、普通の女の子になることだった。
自分の気持ちを隠さずに、誰かを好きになりたかった。
好きな人のそばにいて、何気ない話をして、笑いたかった。
自分が何を感じているのかを、怖がらずに話したかった。
その願いは、今も残っている。
しかし、これからは、その願いを叶えるために、他人の人生を奪わない。
誰かの姿になることで、その人との距離を消そうとしない。
誰かが自分を好きにならなければ、自分の気持ちに価値がないと考えない。
自分を理解してもらうために、相手の意思を押しつぶさない。
自分がしたことから、逃げない。
それらを、一つずつ、学び続ける。
簡単ではないだろう。
時には、失敗することもあるかもしれない。
しかし、失敗したときに、自分の選択を振り返り、必要な支援を求め、同じことを繰り返さないために行動することはできる。
それが、今の渡我にできることだった。
彼女は、窓の外を見た。
街は、まだ復旧の途中だった。
壊れたものを直すために、多くの人が動いている。
けれど、すべてを元どおりにできるわけではない。
失われたものを、取り戻せない人もいる。
傷ついた心を、簡単には癒やせない人もいる。
それでも、人々は、これからの生活を選んでいく。
渡我もまた、その一人だった。
彼女は、過去を消すことはできない。
しかし、未来の行動を選ぶことはできる。
過去にしたことを、なかったことにはできない。
しかし、同じことを繰り返さないために、学ぶことはできる。
誰かが、自分を許してくれるとは限らない。
それでも、自分が責任を果たすことをやめなくていい。
渡我は、静かに息を吐いた。
「……私、これからも、考えるよ」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「自分が何を好きなのか。何をしたいのか。どうすれば、誰かを傷つけずにいられるのか」
そして、少しだけ笑った。
「……私の人生だもんね」
その言葉は、過去を否定するためのものではなかった。
過去を正当化するためのものでもなかった。
自分の人生を、自分で選んでいくための言葉だった。
第七幕 それぞれの答え
その夜、お茶子は、一人で窓の外を眺めていた。
渡我との対話が、一つの区切りを迎えた。
その事実を、まだ完全には実感できていなかった。
彼女は、渡我を助けたいと思っていた。
彼女の話を聞きたいと思っていた。
自分が知らなかったことを知り、彼女の過去に何があったのかを理解しようとしてきた。
そして、今も、彼女がこれから変わっていけることを願っている。
しかし、渡我が変わるために、お茶子がすべてを引き受ける必要はない。
渡我の未来は、渡我自身が選ぶものだ。
お茶子が何を望もうと、彼女の人生を代わりに決めることはできない。
そして、お茶子自身もまた、自分の人生を選ぶ必要がある。
誰かを助けたいと思うこと。
相手の話を聞くこと。
相手が自分とは違う考えを持っていることを認めること。
それらは、大切なことだ。
しかし、相手の未来を、自分の思い描いた形に変えようとしてはいけない。
お茶子は、ゆっくりと目を閉じた。
渡我の言葉が、心に残っている。
「好きだったことは、嘘じゃない」
その言葉を聞いたとき、お茶子は、何かを返さなければならないような気持ちになった。
彼女の気持ちが本物だったと認めること。
彼女を許すこと。
彼女が変わったと、伝えること。
しかし、それらをすべて、今すぐに決める必要はなかった。
渡我が好きだったという気持ちは、渡我のものだ。
お茶子が、その気持ちをどう受け止めるのかは、お茶子が決めることだ。
二人の感情は、同じではない。
だからといって、どちらかの感情が、嘘になるわけではない。
渡我が、本当にお茶子を好きだったこと。
お茶子が、渡我のしたことに怒りや悲しみを抱いていること。
その二つは、同時に存在している。
どちらか一方だけを消す必要はない。
お茶子は、静かに息を吐いた。
「……私も、ちゃんと考えていこう」
渡我の未来を、渡我自身のものとして尊重するために。
自分自身の感情も、無理に正しい形に整えないために。
そして、誰かを救いたいと思うとき、その願いが相手の意思を奪うものにならないように。
それは、お茶子自身が選んだ、これからの課題だった。
第八幕 虚飾の向こう側
数日後。
渡我は、個性に関する相談の準備を進めていた。
自分が何を知りたいのか。
どんな状況で、どのような感情が生まれるのか。
どんなときに、自分の行動を制御することが難しくなるのか。
それらを、一つずつ整理していく。
同時に、過去に自分がしたことについても、考え続けていた。
誰かの血を求めたこと。
誰かの姿になろうとしたこと。
自分の願いを叶えるために、他人の意思を無視してしまったこと。
それらは、彼女の人生の一部になっている。
しかし、その一部だけが、彼女のすべてではない。
彼女は、今も、誰かを好きになることがあるかもしれない。
誰かのことを知りたいと思うこともあるだろう。
自分ではどうにもならない衝動に、戸惑うこともあるかもしれない。
そのとき、どうするのか。
以前と同じ選択を繰り返さないために、何ができるのか。
それを考えることが、これからの彼女の生き方になる。
渡我は、机の上の記録用紙を見た。
そこには、いくつもの言葉が並んでいる。
『自分の欲望を理解する』
『相手の意思を尊重する』
『自分の行為に責任を持つ』
『助けを求める』
『自分の未来を、自分で選ぶ』
どれも、当たり前のことのように見えた。
しかし、彼女にとっては、長い間、考えることさえできなかったことだった。
誰かを好きになる。
誰かの隣にいたいと思う。
誰かに、自分を理解してほしいと願う。
それらの気持ちを、どう扱えばいいのか。
その答えを、彼女はこれからも探していく。
そして、いつか、自分の気持ちを隠さずに話せる日が来るかもしれない。
自分がどんな人間なのかを、他人に決めてもらうのではなく。
自分自身で、自分が何を望んでいるのかを考えられるようになるかもしれない。
ただし、その未来が訪れたとしても、過去に傷つけた人々の痛みが消えるわけではない。
彼らは、彼ら自身の人生を歩いている。
渡我が変わることを、見届ける義務はない。
彼女を許す必要もない。
彼女の変化を、認める必要もない。
それでも、渡我は、自分ができることを続けていく。
誰かに許されるためだけではなく。
自分が同じことを繰り返さないために。
自分の人生を、自分のものとして生きるために。
彼女は、静かに記録を閉じた。
そして、机の上に置いていた小さな紙片を手に取った。
そこには、短い言葉が書かれていた。
好きだったことは、嘘じゃない。
渡我は、その言葉を見つめた。
それは、過去を正当化するための言葉ではない。
他人に許しを求めるための言葉でもない。
自分の気持ちを、無理に否定しないための言葉だった。
好きだった。
それは本当だった。
けれど、傷つけた。
それも本当だった。
その二つを、片方だけに塗り替えないこと。
それが、渡我被身子が、これから生きていくために必要なことだった。
終幕 好きだったことも、傷つけたことも
夜の街に、明かりが灯っていた。
渡我は、窓の外を見つめていた。
かつて、彼女が「普通の女の子になりたい」と願った世界。
自分の気持ちを隠さずに、誰かを好きになりたかった。
好きな人の隣にいて、何気ない話をして、笑いたかった。
自分が何を感じているのかを、怖がらずに話したかった。
その願いは、今も、彼女の中に残っている。
しかし、彼女は、もう、誰かの姿にならなければ、自分の望みを叶えられないとは思っていなかった。
自分の気持ちを理解してもらうために、相手の気持ちを無視してはいけない。
誰かを好きだからといって、その人が自分を好きになる義務を負うわけではない。
自分が苦しかったからといって、他人を傷つけていいわけではない。
そして、誰かが自分を許してくれなかったとしても、自分が変わろうとすることを、やめる必要はない。
渡我は、長い時間をかけて、そのことを学び始めた。
彼女の過去は、消えない。
彼女が傷つけた人々の痛みも、消えない。
彼女を追い詰めた環境について、社会が検証すべき問題も残っている。
それらは、別々の問題でありながら、同じ世界の中に存在している。
一つを認めるために、もう一つを消す必要はない。
渡我は、自分が好きだったことを、嘘にしない。
しかし、その気持ちを、誰かを傷つける言い訳にもしない。
お茶子は、渡我の気持ちを聞いたことを、無意味だったとは思わない。
しかし、それを理由に、すべてを許したことにもしない。
二人は、それぞれの答えを持って、別々の未来へ進んでいく。
もしかしたら、いつか再び話す日が来るかもしれない。
もしかしたら、それぞれが違う場所で、別々の人生を歩み続けるのかもしれない。
今は、わからない。
だからこそ、その未来を、勝手に決めない。
渡我が、自分の未来を選ぶように。
お茶子も、自分の未来を選ぶ。
どちらか一方が、もう一方の人生を決めることはできない。
それでも、二人が交わした言葉は、消えない。
好きだったことは、嘘じゃない。
傷つけたことも、嘘じゃない。
その二つを、片方だけに塗り替えずに、生きていく。
それは、簡単なことではない。
けれど、渡我は、これからも自分の欲望と向き合う。
自分が何をしたのかを忘れず、同じことを繰り返さないために、学び続ける。
お茶子もまた、誰かを救いたいと願うとき、その人の意思を置き去りにしないように、自分自身を見つめ続ける。
二人の間に、完全な理解が生まれたわけではない。
許しが成立したわけでもない。
しかし、二人は、互いの人生を自分の答えにしてしまわないことを、少しずつ学んだ。
渡我は、最後に、もう一度だけ、窓の外を見た。
そして、静かに呟いた。
「……好きだったことは、嘘じゃない」
その言葉のあとに、彼女は何も付け加えなかった。
もう、言い訳にする必要はなかった。
誰かに、許してもらうための言葉でもなかった。
ただ、自分の過去を、正しく見つめるための言葉だった。
彼女は、明日も、自分自身の人生を選んでいく。
そして、お茶子もまた、自分の未来へ進んでいく。
それぞれの選択を、互いに尊重しながら。
虚飾の向こう側に、どんな未来が待っているのかは、まだわからない。
しかし、少なくとも、二人はもう、相手の人生を自分の願いだけで決めようとはしていなかった。
虚飾編・後編、終幕。
虚飾編後編終幕、次回治崎マグネ編