第一幕 失ったものを数える
治崎廻は、紙の上に三つの言葉を書いた。
組織。
個性。
地位。
ペンを置く。
しばらく、それらを見つめた。
字は整っていた。書き直す必要もない。余計な装飾も、曖昧な表現もなかった。
自分が失ったものを並べるだけなら、簡単だった。
かつて、自分には組織があった。
盃を交わした者たちがいた。自分の指示に従う者たちがいた。裏社会の中で、誰が何を担い、どう動けば計画を遂行できるのか、その全体を見渡す立場にいた。
自分には個性があった。
物質を分解し、再構成する力。
それを使えば、壊れたものを直し、構造を変え、望む形を作り出すことができた。
そして、自分には地位があった。
ただ命令を受けるだけの人間ではなく、自分の考えで物事を動かす人間だと、信じることができた。
今は、違う。
組織は、自分の支配下にはない。
個性も、かつてのようには使えない。
地位も、自由も、失われた。
それを考えるたび、治崎の胸の奥で、苛立ちが膨らんだ。
なぜ、ここまで失わなければならなかったのか。
なぜ、自分は何もできない場所に座らされているのか。
なぜ、自分が決める側ではなく、他人に扱われる側になっているのか。
その怒りを、彼は何度も分析してきた。
失敗の原因を探す。
計画の欠陥を特定する。
状況を変えるために必要な要素を整理する。
それが、彼の慣れ親しんだ思考だった。
だが、いくら原因を並べても、答えは変わらない。
失ったものは、戻っていない。
そして、彼が失ったものの中には、単なる物や権力では説明できない何かがあった。
「治崎さん」
面談担当者の声が、思考を遮った。
「今日は、以前の面会について振り返りたいと思います」
治崎は、顔を上げた。
「マグネとの面会か」
「はい。面会のあと、ご自身の考えに変化はありましたか?」
「変化というほどのものはない」
即答だった。
担当者は、手元の記録を見た。
「では、彼女との面会について、何を考えましたか?」
「俺が失ったものについて」
「具体的には?」
治崎は、机の上の紙を指した。
「組織、個性、地位だ」
担当者は、その三つの言葉を見つめた。
「それらを取り戻したいと考えているのですね」
「当然だ」
治崎の声には、迷いがなかった。
「失ったものを取り戻したいと思うのは、自然なことだろう」
「その気持ち自体を否定するつもりはありません」
治崎の眉が、わずかに動いた。
「……なら、何が問題だ」
担当者は、問いを返した。
「その三つを取り戻せたら、あなたは何を得られると思っていますか?」
治崎は、答えようとした。
組織が戻れば、計画を立てられる。
個性が戻れば、物事を変えられる。
地位が戻れば、再び自分の判断で行動できる。
どれも、明白な答えだった。
だが、担当者が聞いているのは、その先だった。
「それらを取り戻したあと、何が変わるのでしょうか?」
治崎は口を閉じた。
組織が戻る。
個性が戻る。
地位が戻る。
その先に、何があるのか。
彼は、自分がかつていた場所を思い浮かべた。
古い組織の衰退。
社会における影響力の低下。
個性を持つ者たちが台頭する時代。
かつてなら通用した仕組みが、時代の変化に押し流されていく感覚。
治崎にとって、それは単なる組織の危機ではなかった。
自分が信じていた秩序そのものが、崩れていくように見えたのだ。
だから、取り戻したかった。
組織の力を。
組織が社会で果たしていた役割を。
自分が正しいと信じていた秩序を。
そして、その秩序を再び自分の手で動かせる状態を。
「……失ったものを取り戻せば、元に戻れる」
治崎は、ようやく口を開いた。
担当者は、静かに尋ねた。
「何に、戻れるのでしょうか?」
治崎は、相手を見た。
「……以前の俺にだ」
担当者は、すぐには返事をしなかった。
やがて、静かに言った。
「以前のあなたは、何をしていましたか?」
治崎の目が、わずかに細くなった。
「……組織を維持し、目的を達成するために行動していた」
「その過程で、何をしましたか?」
治崎の表情が硬くなった。
「……何を聞きたい」
「あなたが失ったものだけでなく、あなたの行動によって失われたものも、考える必要があると思っています」
部屋の空気が、冷えたように感じられた。
治崎は、机の上に並んだ三つの言葉を見た。
組織。
個性。
地位。
そのどれもが、自分にとって重要なものだった。
だが、彼がそれらを守るために何をしたのか。
その問いは、今までと同じ方法では処理できなかった。
失敗の原因を分析するだけでは足りない。
誰がどんな損失を被ったのか、という表に置き換えるだけでも足りない。
自分は、何を正しいと思い、何を許されると考え、どの時点で他人の人生を自分の目的の下に置いたのか。
そこまで考えなければ、同じ場所に戻るだけだ。
治崎は、ゆっくりと息を吐いた。
「……話を続けろ」
彼は、担当者を見た。
「俺が、何を取り戻したいのか。その話をするんだろう」
担当者は頷いた。
「はい。ただ、あなたが取り戻したいものを考えるためには、失ったものだけでなく、あなたがそれを守ろうとして何をしたのかも、避けて通れません」
治崎は、答えなかった。
しかし、面談を終わらせることもしなかった。
それだけが、今日の最初の変化だった。
第二幕 組織は、誰のものだったのか
治崎にとって、組織は単なる集団ではなかった。
それは、受け継ぐべきものだった。
幼いころから、彼は、組織の親父を尊敬していた。
古い任侠の世界が衰退していく中で、親父は、時代の変化に合わせられないまま、それでも自分の信じる道を守ろうとしていた。
治崎は、その姿を見てきた。
時代に取り残されること。
かつての力を失っていくこと。
自分たちの存在が、社会に必要とされなくなっていくこと。
そうした現実が、治崎には耐えがたいものに見えた。
組織を立て直さなければならない。
かつての影響力を取り戻さなければならない。
親父が守ってきたものを、失わせてはならない。
それが、治崎の出発点だった。
「……俺は、組織を守ろうとしていた」
治崎は、担当者に向かって言った。
「親父が築いてきたものが、消えていくのを見過ごせなかった」
「そのために、何をしようとしたのでしょうか?」
「個性社会の構造を変えることだ」
彼は、迷わず答えた。
「個性が社会の中心にある限り、古い組織は、かつてのような影響力を取り戻せない。個性を利用する者たちが、従来の秩序を押しのけ、社会の仕組みを変えていく。ならば、その根本を変えればいい」
「個性をなくすことによって、組織の立場を取り戻そうとしたのですね」
「……そうだ」
治崎は、腕を組んだ。
「個性がなければ、力関係は変わる。個性の強さを基準にした支配構造も、変化する。組織が再び、必要とされる余地も生まれる」
彼は、自分の計画を説明した。
言葉を並べるほど、その計画がいかに合理的であったかを、示したくなる。
個性社会の変化。
裏社会の再編。
組織の存続。
親父の信念を守ること。
それらを一つの計画にまとめ、目的を達成しようとした。
だが、担当者は、その説明を聞いても頷かなかった。
「それは、組織を守るための計画だったのですか。それとも、組織を守るという目的のためなら、どのような方法も使えると考えていたのですか?」
治崎の視線が止まった。
「……同じことだ」
「同じでしょうか?」
「組織を守るには、成果が必要だ。方法にこだわりすぎれば、何も成し遂げられない」
担当者は、静かに尋ねた。
「では、組織を守るためなら、組織に関わる人々の意思を無視してもよいのでしょうか?」
治崎は、顔をしかめた。
「……状況による」
「あなた自身が、そう判断するのですか?」
「組織を率いる立場なら、判断する責任がある」
「その判断に従いたくない人がいた場合は?」
「組織の目的を理解させる必要がある」
「理解しない場合は?」
「……」
治崎は、口を閉じた。
担当者は、追い詰めるような口調ではなく、ただ問いを重ねていた。
「あなたは、組織を守ることを目的にしていました。その目的を理解しない人は、組織の邪魔をする存在になってしまうのでしょうか?」
治崎は、長い沈黙のあと、答えた。
「……結果として、そうなる場合はある」
「では、組織の中にいる人々は、組織の目的に従うために存在しているのでしょうか?」
治崎の眉が、深く寄った。
「何が言いたい」
担当者は、静かに言った。
「あなたは、組織を守ることが重要だったと話しました。しかし、組織が存続することと、組織に属する人々が、どのように生きたいのかということは、同じではありません」
治崎は、黙っていた。
「組織を守るという目的があっても、そこにいる人々が、その目的のために生きることを強制されるわけではありません」
その言葉に、治崎の目がわずかに動いた。
組織を守る。
その言葉を、彼は疑ったことがなかった。
組織は、守るべきものだった。
親父が築いてきたものだった。
時代に取り残されたとしても、滅びさせてはならないものだった。
だから、守る。
そのために、必要なものを揃える。
そのために、障害を排除する。
そのために、結果を出す。
そこには、疑問を差し挟む余地がなかった。
しかし、そもそも、組織とは誰のものなのだろう。
親父が築いたもの。
自分が受け継ごうとしたもの。
その中で生きる人々が、それぞれに関係を築き、役割を担い、選択していたもの。
組織は、看板だけで成り立つわけではない。
そこにいる人々が、どう生きるのかによっても、意味が変わる。
治崎は、自分の考えに、初めて疑問を感じた。
「……組織がなくなれば、そこにいた人間も、失うものがある」
彼は、ゆっくりと言った。
「そうですね」
「だが、組織を存続させるために、個々の人間が望むことをすべて認めていれば、組織は維持できない」
「すべてを認めなければならない、という話ではありません」
担当者は答えた。
「組織を維持するために、規則や責任は必要でしょう。しかし、それと、個々の人間を組織の所有物のように扱うことは違います」
治崎は、顔を上げた。
その言葉に、何かが引っかかった。
所有物。
その言葉は、自分がマグネにしたことを、思い出させた。
彼女は、組織の一員だった。
自分の計画に従わないと判断した。
だから、排除した。
マグネが何を考えていたのか。
何を望んでいたのか。
自分の決定によって、彼女の人生がどうなるのか。
それらは、自分の計画を遂行するうえで、考慮する必要のないものだと思っていた。
しかし、その考え方そのものが、問題だったのではないか。
「……俺は、組織を守ろうとしていた」
治崎は、もう一度言った。
「だが、いつからか、組織が俺の考えどおりに動くことを、守ることだと思っていたのかもしれない」
担当者は、何も言わなかった。
治崎は、自分の言葉を確かめるように続けた。
「組織の目的を実現する。親父の信念を受け継ぐ。そのために、俺が正しいと考える方法を選ぶ。……そして、その方法に従わない者を、邪魔だと考える」
彼は目を伏せた。
「組織を守ると言いながら、俺は、組織の中にいる人間を、俺の計画のための要素として扱っていたのかもしれない」
その言葉を口にしても、彼の表情に、劇的な変化はなかった。
自分がどれほど重大なことをしたのか、すべて理解したわけではない。
ただ、今まで一つの目的として扱っていたものの中に、複数の人間の意思があったことに、ようやく目を向け始めていた。
担当者は、静かに言った。
「その気づきは、今後の行動につなげていく必要があります」
「……わかっている」
治崎は答えた。
「考えただけで、何かが変わるわけではない」
第三幕 個性を取り戻せば、俺は元に戻れるのか
面談のあと、治崎は、自分の両手を見つめていた。
かつて、彼の手は、物質を分解し、再構成することができた。
それは、圧倒的な力だった。
壊すこともできる。
修復することもできる。
失われた形を取り戻すこともできる。
一つの対象を分解し、その構造を理解し、別の形へ作り直す。
彼にとって、それは、世界を正しく整えるための手段だった。
崩れたものを直す。
乱れたものを整える。
病んだものを治す。
不要なものを取り除く。
そして、自分が正しいと考える形に戻す。
個性を使うたび、治崎は、自分が世界の構造を理解しているという感覚を強めていった。
目の前にある問題を、分解する。
原因を特定する。
不要な部分を取り除く。
そして、望む結果を再構成する。
それが、彼の思考そのものになっていたのかもしれない。
だが、人間は、物質とは違う。
人の身体を修復すれば、その人の人生まで、元どおりになるわけではない。
人の心を理解したつもりになっても、その人が何を望むのかを、代わりに決めることはできない。
そして、自分が正しいと考える形に整えたからといって、その人が幸せになるとは限らない。
治崎は、そのことを、これまで本当の意味では理解していなかった。
「……個性さえ戻れば」
彼は、声に出した。
言葉は、狭い部屋の中に落ちた。
個性が戻れば、できることが増える。
自分が、再び何かを変えられるようになる。
物事を思いどおりに動かせる感覚を、取り戻せるかもしれない。
しかし、そこで思考が止まった。
個性が戻れば、俺は元に戻れるのか。
彼は、長い間、その問いを避けていた。
個性を失ったことは、彼にとって大きな損失だった。
だが、個性を失う前の自分が、どのような人間だったのか。
自分は、個性があったから、あのような行動をしたのだろうか。
それとも、自分の考え方が、あのような行動を選ばせたのだろうか。
もし、再び同じ力を手に入れたら。
自分は、同じように物事を分解し、組み立て直そうとするのではないか。
そして、相手が望まない形に、相手自身を変えようとするのではないか。
治崎は、指を握り込んだ。
「……違う」
小さく呟いた。
自分は、合理的な判断をしただけだ。
組織を守るために、必要な手段を選んだ。
計画を達成するために、必要な材料を使った。
それらを、これまで何度も自分に説明してきた。
しかし、その言葉の中に、人間の意思はあったのだろうか。
自分が個性を持っていたから、他人を支配したのではない。
自分が、他人の人生を、自分の目的のために利用していいと考えた。
その考えが、あった。
個性は、その考えを実行するための強力な手段になったのかもしれない。
しかし、力を使うことと、その力をどう使うのかは、別の問題だった。
治崎は、ゆっくりと息を吐いた。
個性を取り戻したい。
それは、否定できない。
力を取り戻したい。
自分の意思で、物事を動かせる状態に戻りたい。
その願いは、今も残っている。
だが、個性を取り戻したいからといって、そのために誰かの身体を使っていいわけではない。
力が欲しいからといって、他人の意思を無視していいわけでもない。
かつて自分がしたことは、その境界線を踏み越えた結果だった。
「……個性が戻っても、考え方が同じなら、何も変わらない」
治崎は、静かに言った。
それは、自分自身に向けた言葉だった。
力を失ったから、反省する。
自由を失ったから、後悔する。
地位を失ったから、態度を改める。
それだけなら、状況が変わったとき、また元に戻ってしまうかもしれない。
本当に考えなければならないのは、何を失ったかだけではない。
何を正しいと思っていたのか。
何を許されると考えていたのか。
自分の目的のために、なぜ他人の意思を無視してよいと思ったのか。
その考え方を、見つめ直す必要があった。
治崎は、机の上の紙に、三つの言葉を書き直した。
組織。
個性。
地位。
そして、その下に、もう一行を加えた。
俺は、それらを取り戻して、何をしたいのか。
今度の問いは、先ほどよりも重かった。
彼は、すぐには答えを書かなかった。
第四幕 親父のためだったのか
治崎は、目を閉じた。
記憶の中に、親父の姿が浮かんだ。
かつて、自分を拾い、育て、組織の一員として受け入れてくれた人。
自分に居場所を与えてくれた人。
古い組織が衰退していく中で、それでも自分たちのやり方を守ろうとしていた人。
治崎は、親父を尊敬していた。
いや、尊敬していたという言葉だけでは、足りないのかもしれない。
親父が自分をどう評価しているのか。
自分のことを、どのような人間だと思っているのか。
そのことが、治崎にとって重要だった。
親父が守ろうとしていた組織を、守りたい。
親父が築いてきたものを、失わせたくない。
親父が信じていた秩序を、もう一度、社会の中に取り戻したい。
その願いは、本物だった。
しかし、治崎は、その願いを、自分の計画と一体化させていった。
自分の計画が成功すること。
自分が組織を立て直すこと。
自分が親父の期待に応えること。
それらを、一つの結果として考えるようになった。
そのために、何を犠牲にしてもよいのか。
何を失っても、目的を達成すべきなのか。
その問いに、治崎は、十分に向き合ってこなかった。
「……親父のためだった」
彼は、呟いた。
しかし、その言葉を口にした瞬間、自分の中に、違和感が生まれた。
本当に、親父のためだけだったのだろうか。
親父が望んでいたことと、自分が望んでいたことは、完全に同じだったのか。
親父は、組織を守りたかった。
しかし、自分は、組織を守ることだけでなく、組織を自分の考えどおりに動かしたかったのではないか。
親父が大切にしていたものを受け継ぐことと、自分が組織を支配することは、同じではない。
「……俺は」
治崎は、目を開けた。
「親父に、認められたかったのか」
その言葉を口にして、彼は、しばらく動かなかった。
自分が正しい判断をしていること。
自分が、ほかの誰よりも合理的に考えられること。
自分が、組織の未来を託すに足る人間であること。
それらを、親父に示したかったのではないか。
組織を立て直せば、自分の考えが正しかったと証明できる。
失われた影響力を取り戻せば、自分が有能な人間であることを証明できる。
個性を利用した計画を成功させれば、自分が時代の流れを変えられる人間だと示せる。
それらは、組織のための目標であると同時に、自分自身の価値を証明するための目標でもあったのではないか。
治崎は、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
「……認められたかった」
初めて、その言葉を、自分の口で認めた。
「親父に、自分が間違っていないと、認めさせたかった」
そして、さらに言葉を続けた。
「……俺は、自分の考えが正しいと証明したかったんだ」
組織を守る。
親父の信念を受け継ぐ。
古い秩序を、もう一度、社会の中に取り戻す。
その目的の中に、自分自身の願いが混じっていた。
自分が正しいと信じたい。
自分が選んだ方法に、間違いがなかったと思いたい。
自分が、何もかも失うような人間ではなかったと証明したい。
その願い自体を、否定することはできない。
誰かに認められたいと思うこと。
自分が大切にしてきたものを、守りたいと思うこと。
失敗したくないと思うこと。
それらは、人間ならば抱き得る感情だ。
しかし、その願いを叶えるために、他人を自分の証明に利用していいわけではない。
自分の考えが正しいと証明するために、他人の意見を封じる。
自分の計画が必要だと証明するために、他人の身体を材料にする。
自分が有能であることを示すために、他人の人生を、自分の手で作り替えようとする。
治崎は、そこまで考えて、顔をしかめた。
「……違う」
彼は、もう一度呟いた。
しかし、今度は、その言葉の続きを、簡単には口にできなかった。
自分は、親父のために行動していた。
それは、本当だ。
だが、自分自身の願いも、そこにあった。
親父のためという言葉を使うことで、自分が認められたいという欲望を、正当化していたのではないか。
組織を守るという言葉を使うことで、自分が支配したいという欲望を、見えなくしていたのではないか。
治崎は、机の上の紙を見た。
そこには、新しい言葉が並んでいた。
組織。
個性。
地位。
そして、認められたいという願い。
彼は、その最後の項目を、消さなかった。
自分にとって、不都合な感情だった。
しかし、見なかったことにすれば、また同じことを繰り返すだけかもしれない。
「……俺は、認められたかった」
治崎は、もう一度、その言葉を口にした。
今度は、言い訳を付け加えなかった。
第五幕 欲しいと思うことは、罪なのか
翌日の面談で、治崎は、自分が考えたことを担当者に伝えた。
「俺は、組織を取り戻したい。個性も、地位も、取り戻したいと思っている」
担当者は、静かに聞いていた。
「それから、親父に認められたかった。自分の考えが正しかったと、証明したかった」
治崎は、机の上に置いた紙を見た。
「その願いが、俺の計画に影響していたのかもしれない」
「そのことに、どう感じていますか?」
治崎は、眉を寄せた。
「……気分のいいものではない」
「なぜでしょう?」
「俺は、合理的な判断をしていたつもりだった。組織を守るために、必要なことを考えていた」
治崎は、指先を組んだ。
「だが、その中に、個人的な欲望が混じっていた。自分が正しいと証明したい。認められたい。……そうした感情が、判断を歪めていた可能性がある」
担当者は、頷いた。
「その可能性を認めることは、大切だと思います」
治崎は顔を上げた。
「……だが、欲望があること自体が、間違いなのか?」
担当者は、すぐには答えなかった。
「何かを取り戻したい。認められたい。自分の力を使いたい。そうした願いを持つこと自体が、直ちに間違いになるわけではありません」
治崎の表情が、わずかに変わった。
「ならば、問題は何だ」
「その願いを叶えるために、どのような行動を選ぶのかです」
担当者は、静かに続けた。
「あなたが、組織を取り戻したいと思うこと。それ自体は、あなたの願いです。しかし、そのために他人を脅し、利用し、意思を無視することは、別の問題です」
治崎は、黙っていた。
「個性を取り戻したいと思うことも、地位を取り戻したいと思うことも、同じです。願いを持つことと、その願いのために何をしてもよいと考えることは、同じではありません」
その言葉は、治崎の中で、ゆっくりと意味を持ち始めた。
欲しいと思う。
取り戻したいと思う。
認められたいと思う。
その感情を持つこと自体を、無理に否定する必要はない。
しかし、その感情を叶える方法には、選択がある。
他人の意思を尊重する方法を探すこともできる。
自分の望みを実現できないとき、それを受け入れることもできる。
他人に助けを求めることもできる。
あるいは、願いを叶えることそのものを、考え直すこともできる。
治崎は、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺は、今まで、その二つを同じものとして考えていたのかもしれない」
「どの二つでしょう?」
「自分が必要だと思うことと、他人にそれを受け入れさせることだ」
彼は、手を見つめた。
「俺が必要だと思えば、必要なのだ。俺が合理的だと考えれば、合理的なのだ。だから、相手がどう思っているかよりも、結果を優先していた」
言葉にするほど、自分の考えの輪郭が見えてくる。
「……俺は、自分の判断が正しいと信じることで、他人の拒絶を、考える必要のないものにしていた」
担当者は、静かに言った。
「それは、あなたが今後、向き合っていく必要のある部分だと思います」
治崎は、頷いた。
「……そうだな」
それは、謝罪ではなかった。
自分がこれまでしてきたことを、すべて理解したという宣言でもなかった。
ただ、彼は初めて、自分の願いと、自分の行為を分けて考えようとしていた。
何かを欲しいと思うこと。
それを手に入れるために、他人を支配すること。
その二つは、同じではない。
そして、その違いを理解しなければ、彼は、何を取り戻したとしても、同じ場所へ戻ってしまうだろう。
第六幕 マグネが望まなかったもの
「……マグネは、俺に何を求めていたのだろうな」
治崎が、突然、そう尋ねた。
担当者は、すぐには答えなかった。
「それは、マグネ本人にしかわからないことです」
「……そうだろうな」
治崎は目を伏せた。
以前の自分なら、相手が何を求めているのか、推測することを当然だと思っていた。
相手の立場を分析する。
行動の理由を推定する。
何を与えれば、何を受け入れるのかを考える。
それは、組織を動かすうえで、必要な能力だった。
しかし、他人の気持ちを推測できることと、その人の答えを決めていいことは違う。
マグネが何を望んでいるのか。
彼女が、何を奪われたと感じているのか。
彼女が、これから、どのような人生を歩みたいのか。
それらを、治崎が代わりに決めることはできない。
「……俺は、彼女に、何を返せるのだろう」
治崎は、低い声で言った。
担当者は、慎重に答えた。
「あなたが彼女に何を返せるのかを考えることはできます。ただし、彼女が何を望んでいるのかを、あなたが決めることはできません」
「……」
「彼女が謝罪を望んでいるのか。補償を望んでいるのか。接触を望んでいないのか。それぞれ、本人の意思を確認しなければなりません。そして、彼女が何も望んでいない場合でも、あなたが果たすべき責任がなくなるわけではありません」
治崎は、静かに頷いた。
マグネは、面会で、自分の怒りを伝えた。
彼女は、自分が何をされたのか、忘れないと言った。
そして、治崎の更生のために、自分の人生を使うつもりはないと告げた。
あのとき、治崎は、その言葉を、すべて理解できていたわけではない。
自分の行為によって、彼女の人生が奪われた。
その事実は認めていた。
しかし、彼女が生き返ったのなら、これから何かを取り戻せるのではないか。
その考えが、彼の中にはあった。
今なら、その考えが、どれほど自分に都合のいいものだったのか、少しだけわかる気がした。
マグネが生き返ったことは、自分が彼女にしたことを消さない。
彼女がこれからの人生を選べるようになったからといって、その選択が、自分のために用意されたものになるわけではない。
彼女が、治崎を許さないと決めたとしても。
彼女が、二度と会わないと決めたとしても。
彼女が、治崎の存在を、自分の人生から切り離すと決めたとしても。
その答えは、彼女自身のものだった。
治崎は、自分の指を見つめた。
「……俺は、彼女が許すかどうかを、考えるべきではないのかもしれない」
担当者は、彼を見た。
「どういう意味ですか?」
「彼女が俺を許すかどうかは、彼女が決めることだ。俺が、それを望んでも、彼女の答えを変えることはできない」
治崎は、少しだけ目を伏せた。
「俺は、彼女に許してもらうことを、目標にしてはいけないのかもしれない」
「許してもらいたいという気持ちが生まれること自体を、無理に否定する必要はないと思います。ただ、許しを得ることを、彼女に義務として求めてはいけません」
治崎は、黙っていた。
「あなたが果たすべき責任は、彼女の許しがあるかどうかで変わるものではありません」
その言葉は、治崎にとって、思った以上に重かった。
自分は、何かをしたら、結果を得るべきだと考えてきた。
計画を実行すれば、成果を得る。
問題を解決すれば、望む状態を手に入れる。
誰かに謝罪すれば、許しを得られるかもしれない。
しかし、責任を果たすことは、必ずしも望む結果を得ることではない。
謝罪しても、許されないことがある。
補償しても、元には戻らないものがある。
自分が変わっても、関係が修復されないことがある。
それでも、責任を果たす必要がある。
なぜなら、それは、相手から何かを得るための取引ではないからだ。
治崎は、ゆっくりと頷いた。
「……わかった」
その言葉は、まだ、完全な理解を意味しなかった。
しかし、彼は、少なくとも、マグネの人生を、自分が取り戻したいものの一部として考えることをやめようとしていた。
第七幕 取り戻したいものの正体
その夜、治崎は、もう一度、机の上の紙を広げた。
最初に書いた三つの言葉。
組織。
個性。
地位。
そして、認められたいという願い。
彼は、それらを見つめた。
自分が、本当に取り戻したいものは何なのか。
組織を取り戻したい。
それは、確かに本当だった。
だが、組織が戻れば、今の自分が失ったものを、すべて取り戻せるのだろうか。
個性を取り戻したい。
それも、本当だった。
しかし、個性が戻れば、自分がしたことまで変わるのだろうか。
地位を取り戻したい。
自分が決める側に戻りたい。
誰かに命令されるのではなく、自分の判断で行動したい。
だが、他人の指示に従わなくてもよい立場に戻ることが、本当に自由なのだろうか。
治崎は、考えた。
自分は、失ったものを取り戻すことで、以前の自分に戻りたいのだと思っていた。
しかし、以前の自分とは、どんな人間だったのか。
他人の身体を、目的のための材料として扱った人間。
他人の意思を、自分の計画に従わせるべきものとして扱った人間。
自分が合理的だと判断したことを、他人が受け入れなければならないと考えた人間。
それが、以前の自分だった。
その自分に戻ることが、本当に、自分が望んでいることなのだろうか。
治崎は、ペンを手に取った。
そして、最初の三つの言葉の下に、ゆっくりと書き足した。
『自分の判断を、もう一度信じたい』
彼は、その文章を見つめた。
そうだ。
それが、自分の願いの一部なのかもしれない。
自分は、失敗した。
計画は、崩れた。
組織を守ろうとした結果、組織を失った。
自分が正しいと信じていた方法は、破綻した。
そして、自分が他人のために必要だと考えていたことは、他人の人生を奪う行為につながった。
その事実を認めることは、自分の判断を、疑うことでもあった。
治崎は、自分が合理的な人間だと信じてきた。
状況を分析し、必要な手段を選び、結果を出す。
それが、自分の価値だった。
しかし、その判断が、他人の意思を無視するものであったのなら。
その合理性は、何のためにあったのだろう。
自分が失敗したから、考え直さなければならないのか。
それとも、成功していたとしても、考え直す必要があったのか。
治崎は、長い時間、答えを探した。
そして、ようやく、一つの文章を書いた。
『自分が正しいと信じていることは、他人の人生を決める権利にはならない』
ペンが止まる。
彼は、その文章を見つめた。
それは、自分がこれまで、理解していなかったことだった。
自分が正しいと思う。
自分が必要だと思う。
自分が、相手のためになると考える。
その判断が、どれほど強い確信を伴っていたとしても。
それだけで、他人の意思を無視する権利が生まれるわけではない。
自分が、相手を治療したいと思っていても。
自分が、相手を修復したいと思っていても。
自分が、相手の人生をよりよい形に変えられると信じていても。
相手の身体や人生は、自分の所有物ではない。
治崎は、ゆっくりと息を吐いた。
それが、自分が取り戻したいものを考えるうえで、避けられない問いだった。
彼が本当に取り戻したいのは、組織だけなのか。
個性だけなのか。
地位だけなのか。
それとも。
自分が正しいと信じ、その判断によって世界を動かせるという感覚なのか。
その問いに、まだ明確な答えは出なかった。
しかし、彼は、これまでとは違うことを考え始めていた。
自分の願いを、ただ正しいものとして扱うのではなく。
その願いが、他人に何を求め、何を奪うのかを考える。
そのことを避けてしまえば、再び力を得たとき、自分は同じ過ちを繰り返すかもしれない。
治崎は、紙を閉じた。
明日も、考えなければならない。
自分が何を取り戻したいのか。
そのために、何をしてはならないのか。
そして、何もかも失った今、自分には、どのような選択肢が残されているのか。
第八幕 取り戻すことと、やり直すこと
翌日、治崎は担当者に、一つの疑問を投げかけた。
「……俺が、失ったものを取り戻したいと思うこと自体は、間違いではないんだな」
担当者は答えた。
「その願い自体を、すべて間違いだと決める必要はないと思います」
「たとえば、組織を取り戻したいと思うことも?」
「何を意味するかによります。組織が持っていた役割や関係を取り戻したいのか。以前と同じ支配構造を復活させたいのか。それによって、考えるべきことは違います」
治崎は、頷いた。
「個性を取り戻したいと思うことも?」
「その願いを持つことと、実現するために何をするのかは、別の問題です」
「……地位も同じか」
「はい」
治崎は、少しだけ目を伏せた。
彼は、自分の願いを、否定する必要はないと聞いて、安堵したのだろうか。
それとも、まだ自分の願いが認められたことに、何かを期待していたのだろうか。
自分でも、はっきりしなかった。
しかし、担当者は、彼の表情を見て、言葉を続けた。
「ただ、願いそのものを否定する必要がないことと、その願いを実現する権利があることは、同じではありません」
治崎は顔を上げた。
「……わかっている」
「本当に、理解できていますか?」
治崎の表情が、硬くなった。
担当者は、穏やかな声で続けた。
「あなたは、以前、自分が必要だと考えたことを実現するために、他人の身体や意思を、自分の計画の一部として扱いました。あなたが、その行為を必要だと信じていたことは、事実かもしれません。しかし、その確信が、他人の同意を不要にするわけではありません」
治崎は、しばらく黙っていた。
「……俺は、目的を達成することを優先していた」
「はい」
「そのために、他人が何を望んでいるかを、十分に考えていなかった」
「そうですね」
治崎は、目を伏せた。
「……ならば、これから俺が何かを望んだとき、何をすればいい?」
担当者は、少し考えた。
「まず、その願いが、誰にどのような影響を与えるのかを考えることです。そして、実現するために、他人の身体や意思を無視する必要があるなら、その方法を選ばないこと。必要な支援を求めること。自分が望んでいる結果を、本当に求め続けるべきなのか、考え直すことも必要です」
治崎は、ゆっくりと頷いた。
「……そうか」
「また、あなたの願いが叶わない可能性も、受け入れる必要があります」
その言葉に、治崎は顔を上げた。
「……願いが、叶わない可能性」
「はい。自分が何かを望んだからといって、必ず実現できるわけではありません。他人の協力が必要な場合には、その人が協力しないこともあります。社会の仕組みや、あなた自身の状況によって、実現できないこともあるでしょう」
治崎は、黙っていた。
願いが叶わない。
それは、彼が長い間、受け入れたくなかったことだったのかもしれない。
自分が必要だと考えたことは、実現しなければならない。
計画を立てた以上、成功させなければならない。
失敗したなら、方法を変えてでも、結果を得なければならない。
その考え方が、彼の行動を支えてきた。
しかし、そのために、他人の意思を無視していいわけではない。
自分が望むものを手に入れられないことは、ある。
自分が正しいと思う方法が、認められないこともある。
他人が、自分の計画に協力しないこともある。
そのとき、何をするのか。
相手を従わせるのか。
自分の願いを諦めるのか。
別の方法を探すのか。
あるいは、その願いそのものを、考え直すのか。
その選択をすることが、治崎に求められていた。
「……俺は、失ったものを取り戻したい」
治崎は、静かに言った。
「その気持ちは、今も変わらない」
担当者は、頷いた。
「はい」
「だが、そのために、他人を自分の計画の中へ押し込んではならない」
言葉にしてみる。
その意味を、自分自身に確かめるように。
「他人が協力しないなら、協力しないという意思を尊重しなければならない。自分が必要だと考えたとしても、相手の身体を使っていいことにはならない」
担当者は、静かに答えた。
「そのとおりです」
治崎は、しばらく目を伏せていた。
「……それでは、思いどおりにいかないこともある」
「そうですね」
「時間がかかることもある」
「あります」
「何も取り戻せない可能性もある」
「あります」
治崎は、長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「……それでも、自分の望みを、他人に押しつけるわけにはいかない」
その言葉は、まだ、彼のすべてを変えたわけではない。
しかし、治崎は、初めて、その原則を、自分自身の願いと結びつけて口にした。
自分の望みを、他人の意思より上に置かない。
そのことを理解しなければ、彼は、何を取り戻しても、また同じことを繰り返す。
治崎は、目を上げた。
「……次も、その話を続けたい」
担当者は頷いた。
「わかりました」
「俺が、他人を支配しようとしていたことについて。……それを、どう考えればいいのか」
治崎は、自分の手を見つめた。
「俺は、治すことと、支配することを、同じものとして扱っていたのかもしれない」
担当者は、彼の言葉を記録した。
「その点は、次回、詳しく考えていきましょう」
治崎は頷いた。
面談室を出るとき、彼は、まだ自分の願いを捨ててはいなかった。
組織を取り戻したい。
個性を取り戻したい。
地位を取り戻したい。
その願いは、残っている。
しかし、その願いを叶えるために、他人の身体や人生を自分の所有物として扱うことはできない。
そのことを、ようやく、彼は考え始めていた。
第九幕 マグネのいない場所で
その夜、治崎は、面会の記録を読み返した。
マグネの言葉が、記録の中に残っている。
自分が彼女に何をしたのか。
彼女が、何を失ったのか。
そして、自分の更生のために、自分の人生を使うつもりはないという意思。
治崎は、その文章を読み返した。
「……彼女は、俺を許すつもりがない」
その言葉を口にしても、彼の中に、すぐに怒りが湧くわけではなかった。
以前なら、相手が自分の考えを受け入れないことに、苛立ちを覚えただろう。
相手が、自分の考える合理性を理解しないことに、不満を持っただろう。
そして、どうすれば相手を説得できるか、どうすれば相手の考えを変えられるかを考えたかもしれない。
しかし、マグネの言葉は、そうした考え方を拒んでいた。
彼女は、治崎に、自分を許すための条件を提示したわけではない。
自分が何をすれば、彼女が許してくれるのか。
その答えを教えたわけでもない。
ただ、自分がされたことを忘れないと言った。
そして、自分の未来を、自分で選ぶと伝えた。
治崎は、ゆっくりと記録を閉じた。
「……俺は、彼女に、許してもらいたいのだろうか」
自分自身に、問いかける。
答えは、簡単ではなかった。
許されたいと思う気持ちは、あるのかもしれない。
自分がしたことを、いつまでも責められ続けることに、耐えられる自信があるわけではない。
自分が変わろうとしていることを、誰かに認めてもらいたいという気持ちも、あるのかもしれない。
しかし、その願いを叶えるために、マグネに何かを求めることはできない。
彼女は、彼女自身の人生を生きるために戻ってきた。
治崎の更生を手伝うために戻ってきたわけではない。
彼の罪を軽くするために、彼女の存在があるわけでもない。
治崎は、そのことを考えた。
自分は、これまで、他人を自分の目的に結びつけてきた。
組織を守るため。
個性社会を変えるため。
親父に認められるため。
そのために必要な人間を、必要な役割に当てはめてきた。
そして、目的に合わない者を、排除しようとした。
マグネも、その一人だった。
彼女が何を望んでいたのか。
自分に対して、どんな気持ちを抱いていたのか。
彼女の人生に、どんな未来があったのか。
そのことを、彼は十分に考えていなかった。
「……俺は、他人を、俺の目的に合わせていた」
治崎は、静かに言った。
その言葉は、単純だった。
だからこそ、重かった。
他人を目的に合わせる。
相手の意思ではなく、自分の目的に合わせて、相手の存在を扱う。
治崎は、その考え方を、組織の運営だけでなく、人間そのものに適用してしまっていたのかもしれない。
自分が何かを望む。
その望みを叶えるために、他人が必要になる。
ならば、その人を自分の目的に適した形に変える。
それが、彼の中では、合理的な方法だった。
しかし、人間は、目的を達成するための道具ではない。
他人の身体も、人生も、意思も、本人のものだ。
そのことを、治崎は、これから学ばなければならない。
だが、学び始めたからといって、過去が変わるわけではない。
マグネは、彼を許していない。
そして、彼女に、許す義務はない。
治崎は、記録を机の中にしまった。
今は、それでよかった。
自分の罪を考えるために、マグネの存在を必要とすることさえ、慎重でなければならない。
彼女の怒りを、自分が変わるための材料にしてはいけない。
彼女が話してくれたことを、自分にとって都合のいい物語に変えてはいけない。
彼女が、自分を許すかどうかとは関係なく。
自分は、自分がしたことについて考え続けなければならない。
治崎は、静かに目を閉じた。
「……俺は、何を取り戻したい」
その問いは、まだ終わっていなかった。
第十幕 取り戻したいものを、捨てる必要はあるのか
次の面談までの間、治崎は、自分の願いについて、何度も考え直した。
組織を取り戻したい。
個性を取り戻したい。
地位を取り戻したい。
その願いを、無理に消す必要はあるのだろうか。
自分が過去に間違った行動をしたからといって、何かを望むこと自体まで、否定しなければならないのだろうか。
治崎は、そこに疑問を感じていた。
自分が何かを失ったとき、その失ったものを取り戻したいと思うことは、自然なことかもしれない。
自分が大切にしていたものを、もう一度手に入れたい。
自分ができていたことを、再びできるようになりたい。
自分が失った立場を、取り戻したい。
そう願うこと自体は、必ずしも悪いことではない。
問題は、その願いを叶えるために、何を選ぶのかだ。
誰かの協力を必要とするなら、その人の意思を尊重する。
他人の身体が関わるなら、その人の同意と安全を考える。
自分が望むものを、他人が望まない場合には、別の方法を探す。
そして、どうしても叶わない願いについては、その現実を受け入れることも必要になる。
治崎は、自分が失った個性について考えた。
もし、再び個性を使えるようになる機会があったとしたら。
自分は、何をするだろう。
物質を分解し、修復する。
壊れたものを直す。
形を変える。
その能力を、再び使いたいと思うことは、確かにある。
しかし、その力を使って、他人の身体や人生まで、自分の考える形に作り替えようとするなら。
それは、以前と何も変わらない。
治崎は、ゆっくりと息を吐いた。
「……力を取り戻すことが、問題なのではない」
彼は、呟いた。
「その力を使って、何をしようとするのかが、問題なのだ」
その言葉は、彼自身の考えを、少しずつ変え始めていた。
以前の治崎は、力を持つことと、その力を使って結果を出すことを、密接に結びつけていた。
力があれば、問題を解決できる。
結果を出せば、自分の判断が正しかったと証明できる。
その考え方が、彼を支えてきた。
しかし、今は、違う可能性を考えるようになっていた。
力があっても、使わない選択はできる。
何かを変えられても、変えないほうがいい場合がある。
自分が正しいと考えても、相手が望んでいなければ、立ち止まる必要がある。
そして、自分が何かを取り戻したいと望んでも、それを実現するために、誰かを犠牲にする必要はない。
治崎は、紙の上に書いた。
『取り戻したいという願いは、他人を支配する権利にはならない』
その一文を、じっと見つめる。
まだ、彼は、自分の願いを捨ててはいなかった。
組織を取り戻したい。
個性を取り戻したい。
地位を取り戻したい。
それらの願いは、残っている。
だが、それを叶えるために、他人の意思を無視していいわけではない。
治崎は、初めて、その違いを、自分自身の問題として考え始めていた。
終幕 治崎廻は、まだ答えを持たない
面談の終わりに、担当者が尋ねた。
「治崎さん。今の時点で、あなたは何を取り戻したいと考えていますか?」
治崎は、しばらく黙っていた。
以前なら、すぐに答えられたはずだった。
組織。
個性。
地位。
それらを取り戻すことが、自分の目標だと。
しかし、今は、その答えだけでは足りなかった。
「……俺は、組織を取り戻したいと思っている」
担当者は、頷いた。
「個性も、地位も、取り戻したい」
治崎は、続けた。
「そして、自分の判断が正しかったと、証明したい気持ちもあるのだと思う」
その声は、静かだった。
「……だが、今は、その願いを叶えるために、何をしていいのか、わからない」
担当者は、答えた。
「それを、これから考えていきましょう」
治崎は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
面談は、そこで終わった。
治崎は、席を立つ前に、自分の手を見つめた。
かつて、その手は、世界を分解し、再構成することができた。
壊れたものを直し、望む形へ変えることができた。
しかし、人間の人生は、物質のように扱えるものではない。
他人の意思を、自分の判断だけで変えることはできない。
他人の身体を、目的のための材料にすることもできない。
そして、誰かに許してもらいたいと願っても、その人の気持ちを、自分の都合で変えることはできない。
治崎は、立ち上がった。
自分が何を取り戻したいのか。
その願いは、まだ消えていない。
しかし、その願いを叶えるために、どのような選択をするのか。
そこには、まだ、答えがなかった。
彼は、廊下を歩きながら、考え続けた。
自分が正しいと思うこと。
自分が必要だと思うこと。
自分が、相手のためになると信じること。
それだけで、他人の人生を決めていいわけではない。
そのことを、本当に理解できるようになるには、まだ時間がかかるだろう。
そして、次に向き合うべき問いは、治崎の個性そのものに関わる問題だった。
修復すること。
治療すること。
元の状態に戻すこと。
それらは、本当に、いつでも善いことなのだろうか。
本人が望んでいないとき。
本人が、その変化を拒んでいるとき。
本人が、自分の身体や人生を、自分で選びたいと願っているとき。
その意思を無視してまで、相手を「治す」ことに、どんな意味があるのだろう。
治崎廻は、まだ答えを持っていない。
しかし、彼は初めて、自分が望むことと、他人が望むことの間に、越えてはならない境界線があるのだと、考え始めていた。