僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十四話「治療と支配の境界線」

第一幕 正常値

「治崎さん。今回の課題は、あなた自身の考え方を整理することです」

 

担当者は、机の上に一枚の資料を置いた。

 

治崎廻は、向かい側の椅子に座ったまま、その資料を見下ろした。

 

資料には、身体機能の回復をめぐる架空の事例が記されていた。

 

ある人物が、事故によって身体に変化を負った。

 

医学的には、以前の状態に近づけるための治療が可能だった。しかし、その治療には一定の負担が伴い、現在の身体に適応しながら生活を再建する方法も存在していた。

 

本人は、治療を受けるかどうか、決めかねている。

 

医療側は、回復の可能性を説明した。

 

家族は、以前の姿に戻ってほしいと願っていた。

 

だが、本人は、治療を受けることに抵抗を感じていた。

 

資料は、そこで終わっていた。

 

治崎は、一通り目を通すと、淡々と答えた。

 

「本人が、治療の必要性を理解していない可能性がある」

 

担当者は尋ねた。

 

「そう考えた理由は?」

 

「以前の状態に近づけることが可能で、現在の生活に不便があるなら、治療の選択肢を検討するべきだ。本人が拒絶しているという理由だけで、可能な改善を放棄するのは合理的ではない」

 

「では、本人が十分な説明を受けたあとも、治療を望まなかった場合は?」

 

「……もう一度、必要性を説明する」

 

「それでも拒否した場合は?」

 

治崎は、少しだけ目を細めた。

 

「拒否する理由を確認する。恐怖や誤解があるなら、解消する必要がある」

 

「そのあとも、治療を望まなかった場合は?」

 

治崎は、すぐには答えなかった。

 

担当者は急かさなかった。

 

沈黙の中で、治崎は資料を読み返した。

 

本人は、以前の状態に戻ることを望んでいないのかもしれない。

 

あるいは、治療によって得られる利益よりも、負担のほうが大きいと考えているのかもしれない。

 

自分の身体に起きた変化を、すでに受け入れ始めている可能性もある。

 

それでも、改善できるなら改善するべきではないのか。

 

治崎にとって、その考え方は、これまで疑問を差し挟む必要のないものだった。

 

壊れたものは直す。

 

損なわれた機能は回復させる。

 

異常があれば、原因を取り除く。

 

それが、自分の知る合理性だった。

 

「……本人が、何を望んでいるのかを確認する必要がある」

 

治崎は、ようやく答えた。

 

「ですが、それだけでは不十分だと?」

 

「……」

 

「治崎さんは先ほど、治療の必要性を理解させると話しました。では、治療を受けないという選択を、本人が十分に理解したうえで選んだ場合はどうでしょう」

 

治崎は、目の前の資料を見つめた。

 

「その選択が、本人にとって不利益になるとしてもか」

 

「どのような不利益でしょうか?」

 

「身体機能の回復を逃す。生活上の不便が残る。将来的に、より大きな問題が生じる可能性もある」

 

「その可能性を、本人に説明することはできます」

 

担当者は、静かに言った。

 

「ですが、説明することと、本人に代わって決めることは違います」

 

治崎は、顔を上げた。

 

「……本人が誤った選択をする可能性はあるだろう」

 

「もちろんです」

 

「ならば、誤りを防ぐために介入する必要もある」

 

「介入が必要な状況はあります。しかし、すべての誤りを防ぐために本人の選択を取り上げてよい、という結論にはなりません」

 

治崎の眉が、わずかに動いた。

 

担当者は、資料を指さした。

 

「この事例では、本人が治療の内容や危険性を理解できていないとは書かれていません。本人には判断する能力があり、治療について説明も受けています。それでも、本人は迷い、拒否する可能性がある」

 

「……」

 

「そのとき、本人が選ぶ結果を、周囲が気に入らないからといって、別の選択へ強制することはできません」

 

治崎は、黙っていた。

 

彼は、自分の判断が正しいと信じていた。

 

だから、相手が自分の判断に従わないとき、まず考えたのは、相手が何を理解していないのか、何が間違っているのか、ということだった。

 

相手の拒絶を、答えとして受け止めることは少なかった。

 

拒絶は、修正すべき問題。

 

不服従は、解決すべき障害。

 

理解不足は、埋めるべき欠陥。

 

そのように扱ってきた。

 

だが、資料の中の人物は、治療について説明を受けている。

 

自分の選択がどのような結果につながるのか、理解しているかもしれない。

 

それでも、治療を受けないと決める可能性がある。

 

その答えを、治崎は合理性だけで覆せるのだろうか。

 

「……では、治療しないという選択も、尊重されるべきだということか」

 

担当者は答えた。

 

「本人が判断できる状況にあり、必要な説明を受けたうえで選んでいるなら、原則として尊重されるべきです。もちろん、緊急性や判断能力、第三者への危険など、状況によって検討すべきことはあります。ただ、本人にとって望ましいと周囲が考える状態を、本人の意思を無視して押しつけてよいわけではありません」

 

治崎は、ゆっくりと目を伏せた。

 

「……望ましい状態、か」

 

「はい」

 

担当者は、静かに続けた。

 

「それを、誰が決めているのか。そこを考える必要があります」

 

治崎は、資料を閉じた。

 

自分が思い描く正常な状態。

 

自分が考える回復。

 

自分が必要だと判断する治療。

 

その基準を、彼は、どこから得ていたのだろう。

 

それが、本当に本人のためのものだったのか。

 

それとも、自分が安心できる世界を作るためのものだったのか。

 

その問いが、ようやく彼の中に生まれていた。

 

第二幕 壊れたものを、元に戻す

「俺の個性は、修復にも使える」

 

治崎は、自分の個性について説明を始めた。

 

「対象を分解し、その構造を把握したうえで、再構成する。適切に使えば、損傷した物質を元の状態に戻すこともできる」

 

担当者は頷いた。

 

「その力を、あなたはどのように考えていましたか?」

 

「有用な能力だ。壊れたものを直せる。失われた機能を取り戻せる。対象の構造がわかれば、問題の原因を特定して、適切な状態に再構成することもできる」

 

「人間に対しても、その考え方を適用していたのでしょうか?」

 

治崎は、一瞬だけ黙った。

 

「……対象による」

 

「具体的には?」

 

「治療が必要な人間なら、問題となる部分を取り除き、適切な状態へ戻すことができる」

 

「では、本人が、その状態へ戻ることを望んでいない場合は?」

 

治崎は答えなかった。

 

担当者は、声を荒らげることなく、問いを続けた。

 

「あなたが、相手にとって望ましい状態を判断したとします。その判断が、医学的な知識や合理性に基づいていたとしても、本人が望んでいなければ、どうするべきでしょうか?」

 

「……本人に説明する」

 

「説明したあと、拒否されたら?」

 

治崎の表情が硬くなる。

 

「……その理由を考える」

 

「考えた結果、本人の選択が間違っていると思ったら?」

 

「……」

 

治崎は、口を閉じた。

 

答えは、以前なら簡単だった。

 

自分が正しいと考えるなら、正しいことを実行する。

 

相手が、それを理解できないのなら、理解させる。

 

相手が抵抗するのなら、抵抗を取り除く。

 

それが、合理的な手順だと考えていた。

 

しかし、その手順には、決定的に欠けているものがある。

 

相手が、何を望んでいるのか。

 

相手が、どのような人生を送りたいのか。

 

自分が望む結果を得られなかったとしても、その人が選んだ人生を尊重できるのか。

 

「……俺は、対象を元の状態へ戻すことが、最善だと考えていた」

 

治崎は、静かに言った。

 

「元の状態に戻れば、失われたものを回復できる。異常が解消され、以前のように機能する。それが、修復の目的だ」

 

担当者は、少しだけ首を傾けた。

 

「では、元の状態が、本人にとって望ましい状態ではなかったら?」

 

治崎の視線が止まった。

 

「……何だと?」

 

「本人が、変化したあとの自分を受け入れている場合です。以前の状態へ戻せるとしても、それを望んでいない。本人は、今の状態で生活するための方法を探している。その場合、あなたは、何を修復するべきだと考えますか?」

 

治崎は、すぐには答えられなかった。

 

物質であれば、元の構造を把握し、損傷前の状態へ戻すという考え方は成立する。

 

だが、人間の身体には、本人がどう生きたいかという意思がある。

 

ある変化を、本人が損失だと考えることもある。

 

一方で、その変化を、新しい自分の一部として受け入れている場合もある。

 

治崎が外側から見て、以前の状態のほうが正常だと判断しても、それだけで本人の希望が無効になるわけではない。

 

「……本人が、今の状態に満足しているなら、修復する必要がない場合もある」

 

治崎は、ようやく答えた。

 

「では、その人が、今の身体に不便を感じている場合は?」

 

「……不便を解消する方法を検討する」

 

「その際、本人が望むのは、以前の状態へ戻ることかもしれません。あるいは、別の方法かもしれません」

 

担当者は、穏やかに説明した。

 

「治療や修復の目的は、外から見て正常に見える形へ戻すことだけではないはずです。本人が何に困っているのか、何を望んでいるのかを理解し、その人の生活にとって必要な支援を考えることが重要です」

 

治崎は、自分の袖の先を見つめた。

 

そこには、以前のような手はない。

 

自分の個性を使うための身体は、もう、かつてと同じではない。

 

彼は、自分の状態を、損失として認識している。

 

手があればできることがあった。

 

個性があれば実行できることがあった。

 

それらを失ったことで、自分の行動は大きく制限された。

 

だから、取り戻したい。

 

しかし、もし誰かが、自分の意思を確認せずに、身体を変えようとしたら。

 

自分にとって都合がいいから。

 

周囲が、そのほうが正常だと考えるから。

 

自分は、その変化を望んでいるはずだと決めつけるから。

 

そのような理由で、何かを施されたとしたら。

 

それを、治療と呼ぶことができるのだろうか。

 

治崎は、ゆっくりと目を上げた。

 

「……治す側が、対象の望みを決めてはならない」

 

担当者は頷いた。

 

「そうですね」

 

「治す側が、何を正常だと考えるか。それだけで、治療の目的を決めることもできない」

 

「はい」

 

治崎は、顔を伏せた。

 

「……俺は、それを、考えていなかった」

 

その言葉は、小さかった。

 

だが、彼は、今までの自分の考え方を、少しだけ疑い始めていた。

 

第三幕 エリという少女

治崎は、一度だけ、机に置かれた資料から視線を外した。

 

そのとき、彼の脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。

 

壊理。

 

彼女の身体には、特殊な個性が宿っていた。

 

時間を巻き戻すように、人間の状態を変化させる力。

 

治崎は、その力を利用しようとした。

 

個性を消す薬を作るために。

 

個性というものが社会にもたらす混乱を終わらせるために。

 

そして、組織を再建するために。

 

当時の治崎は、その計画を、合理的なものだと考えていた。

 

個性が社会の秩序を崩している。

 

個性を持つ者と持たない者の間に、力の差がある。

 

その力の差が、人々の生活や、組織のあり方を変えている。

 

ならば、個性を消す方法を確立すればいい。

 

少なくとも、彼は、そう考えていた。

 

問題は、その計画を実現するために、何をしたのかだった。

 

壊理は、治崎に協力したわけではない。

 

彼女は、彼の計画を理解し、自分の意思で参加していたわけでもない。

 

幼い少女が、恐怖と混乱の中に置かれていた。

 

治崎は、その事実を、知っていた。

 

それでも、彼は、その力を自分の計画に必要なものとして扱った。

 

「……俺は、壊理を治そうとしていた」

 

治崎は、低い声で言った。

 

担当者は、すぐには答えなかった。

 

「そう考えていたのですね」

 

「個性が、社会に与えている影響をなくす。そのために、彼女の個性が必要だった」

 

治崎は、言葉を選びながら続けた。

 

「俺は、個性を社会の問題だと考えていた。個性を持つ者がいることで、力の差が生まれ、秩序が変わる。その原因を取り除くことが、必要だと思っていた」

 

「壊理さん自身は、何を望んでいたのでしょうか?」

 

治崎の言葉が止まった。

 

「……」

 

「彼女は、あなたの計画に協力することを、自分で選んでいたのでしょうか?」

 

治崎は、答えなかった。

 

答えは、知っていた。

 

壊理は、彼の計画に協力することを望んでいなかった。

 

彼女は、治崎に恐怖を感じていた。

 

彼女は、そこから逃れたいと願っていた。

 

それでも、治崎は、その少女の身体を、自分の計画に必要なものとして扱った。

 

「……選んでいなかった」

 

治崎は、ようやく答えた。

 

「彼女は、俺の計画を選んでいなかった」

 

担当者は、頷いた。

 

「では、あなたが行っていたことは、彼女を治療することだったのでしょうか?」

 

治崎は、息を止めたように黙った。

 

治療。

 

修復。

 

正常化。

 

彼は、そうした言葉を使ってきた。

 

個性を消す薬を作る。

 

社会の秩序を取り戻す。

 

個性によって生じた問題を解消する。

 

それらは、彼の中で、一つの大きな目的につながっていた。

 

しかし、壊理にとって、それは治療だったのだろうか。

 

彼女が望んでいたことは、何だったのか。

 

彼女自身が、その身体を、どのようにしたかったのか。

 

彼女が、どんな未来を望んでいたのか。

 

治崎は、それらを、計画の中心に置かなかった。

 

「……違う」

 

彼は、低い声で言った。

 

担当者は、静かに待った。

 

「俺は、壊理を治療していたわけではない」

 

治崎は、自分の言葉を聞くように、続けた。

 

「……俺は、彼女を利用していた」

 

その言葉を口にしても、何かが劇的に変わるわけではなかった。

 

彼が壊理にしたことは、消えない。

 

彼女の身体と心に与えた影響も、治崎がその場で認めたからといって、なくなるわけではない。

 

彼女が、彼を許す必要もない。

 

彼女が、治崎の反省を見届ける義務もない。

 

それでも、治崎が初めて、自分の行為を、その言葉で呼んだことには意味があった。

 

治療ではなかった。

 

彼女を救うための行為ではなかった。

 

彼女が望んだことを実現するためのものでもなかった。

 

自分の計画を実現するために、彼女の身体を利用した。

 

そのことを、治崎は、少しずつ認め始めていた。

 

「……俺は、個性を社会の問題だと考えていた」

 

治崎は、静かに続けた。

 

「その考えに基づいて、個性を消すことが、社会を治すことだと思っていた」

 

担当者は、彼を見つめた。

 

「では、壊理さんの意思は、どこにあったのでしょうか?」

 

治崎は、目を閉じた。

 

彼女の意思は、そこにあった。

 

彼女は、怖がっていた。

 

逃げたがっていた。

 

自分の身体を、治崎の計画に使われたくなかった。

 

それでも、彼は、その意思よりも、自分の考えを優先した。

 

自分が社会を治すために必要だと信じていたこと。

 

その目的のために、壊理の身体は、必要な材料だった。

 

治崎は、ゆっくりと目を開けた。

 

「……俺は、社会を治すという言葉で、自分のしたことを正当化していたのかもしれない」

 

その声は、かすかに震えていた。

 

「自分が必要だと考えるものを、実現する。そのために、彼女が何を望んでいるのかは、後回しにした」

 

彼は、机の上に視線を落とした。

 

「……それは、治療ではない」

 

担当者は、静かに答えた。

 

「あなたが、今そう考えたことは記録します。ただし、理解したことを、今後の行動につなげていく必要があります」

 

治崎は、頷いた。

 

「……わかっている」

 

しかし、彼の中には、まだ抵抗が残っていた。

 

自分の計画は、すべてが無意味だったのか。

 

個性社会に問題があると考えたことまで、間違いだったのか。

 

個性の存在が、人々の生活や社会の秩序に影響を与えていること自体は、否定できない。

 

個性によって、誰かが傷つくこともある。

 

個性の使い方をめぐって、問題が生じることもある。

 

それなら、社会を改善しようとする考え自体は、必ずしも間違いではなかったのではないか。

 

治崎は、その疑問を口にした。

 

「……個性社会に問題があると考えることまで、否定されるわけではないだろう」

 

担当者は答えた。

 

「もちろんです。社会に問題があると考え、改善を求めること自体は、否定されるものではありません」

 

「……」

 

「ただし、社会を改善することと、個人の身体を、本人の意思に反して変えることは違います。社会のためだと考えても、その人を、自分が望む未来のための道具にしてよいわけではありません」

 

治崎は、目を閉じた。

 

自分は、社会を治そうとしていた。

 

しかし、そのために、一人の少女を利用した。

 

彼女の意思を無視した。

 

彼女の身体を、自分の目的のために使った。

 

その行為は、治療とは呼べない。

 

「……俺は、間違っていた」

 

治崎は、静かに言った。

 

「社会の問題を考えていたことではない。その問題を解決するために、誰かの人生を、自分が自由に扱えるものだと考えたことが、間違っていた」

 

担当者は頷いた。

 

「その違いを、これからも考えていきましょう」

 

治崎は、しばらく動かなかった。

 

彼が初めて見つめているのは、自分の計画が失敗した理由ではなかった。

 

自分が、正しいと信じる目的のために、何をしてしまったのか。

 

その事実だった。

 

第四幕 本人のためという言葉

「……本人のためだと、俺は考えていた」

 

治崎は、面談の中で、何度もその言葉を口にした。

 

壊理のため。

 

組織のため。

 

社会のため。

 

個性に苦しむ人間のため。

 

自分が、何をしようとしていたのかを説明するとき、彼は、必ず何らかの目的を掲げていた。

 

その目的には、理解できる要素もあったのかもしれない。

 

組織が衰退していくことを、彼は問題だと考えていた。

 

個性が社会に影響を与えていることも、事実だった。

 

人々が、個性によって傷つくこともある。

 

個性をめぐる社会的な問題を、解決しようとすること自体は、間違いではない。

 

しかし、そのことと、治崎が選んだ方法は、別の話だった。

 

「……俺は、相手のためになると考えていた」

 

治崎は、静かに続けた。

 

「だから、相手が何を望んでいるかを、後回しにしてもいいと思っていたのかもしれない」

 

担当者は、頷いた。

 

「その考え方は、あなたの行動の中で、どのように表れていたと思いますか?」

 

治崎は、すぐには答えなかった。

 

自分は、相手のためになることを知っている。

 

自分は、相手よりも広い視点で物事を見ている。

 

自分は、相手が理解できない問題を、理解している。

 

そう考えていた。

 

だから、相手が拒絶しても、それを最終的な答えとして扱わなかった。

 

相手が怖がっていても、それを、計画を進めるうえでの障害として見た。

 

相手が、自分の身体を使われたくないと願っていても、自分の目的が達成されれば、結果的には社会全体に利益があると考えた。

 

「……俺は、相手が何を望んでいるかよりも、自分が、相手に何を与えるべきだと考えているかを優先していた」

 

治崎は、ゆっくりと言った。

 

「自分が必要だと考えたことを、相手が受け入れるべきだと思っていた」

 

「そうですね」

 

担当者は答えた。

 

「では、あなたが相手のためになると信じていることが、本当に相手のためになるかどうか、誰が判断するべきなのでしょうか?」

 

治崎は、目を上げた。

 

「……本人だ」

 

言葉は、短かった。

 

「本人の意思を確認しなければならない」

 

担当者は頷いた。

 

「本人の希望を聞き、必要な情報を説明することが重要です。また、本人が決められるように支援することも必要でしょう」

 

治崎は、黙っていた。

 

「ただし、本人が何を望んでいるのかを聞くだけで、すべてが解決するわけではありません。医療的な安全性や、他者への危険、判断能力など、考慮すべきこともあります。それでも、本人の意思を、最初から無関係なものとして扱ってはいけません」

 

治崎は、ゆっくりと頷いた。

 

「……わかっている」

 

今度の返事は、先ほどよりも重かった。

 

彼は、ようやく、自分の考え方に潜んでいた問題を、少しずつ言葉にできるようになっていた。

 

自分が相手を救いたいと思うこと。

 

自分が相手のためになると信じること。

 

それらは、必ずしも悪いものではない。

 

しかし、相手のためになると信じるあまり、相手の意思を無視してしまえば。

 

それは、相手を助けることではなく、相手を自分の判断に従わせることに変わる。

 

治崎は、目を伏せた。

 

「……俺は、相手を治そうとしていたのではなく、自分が正しいと思う形へ、相手を変えようとしていたのかもしれない」

 

担当者は、静かに答えた。

 

「それは、これからも考えていく必要があるでしょう」

 

治崎は、頷いた。

 

彼の中には、まだ、自分の判断を信じたいという気持ちが残っている。

 

自分が正しいと考えることを、簡単に捨てることはできない。

 

しかし、正しいと信じることと、他人の人生を決めることは違う。

 

その違いを理解しなければ、自分は、また同じ場所へ戻ってしまう。

 

治崎は、そのことを、少しずつ認め始めていた。

 

第五幕 マグネの答えを、俺が決めるな

面談のあと、治崎は、マグネとの面会記録を読み返した。

 

彼女の言葉が、記録の中に残っている。

 

自分が何をされたのかを忘れない。

 

自分の未来を、治崎の贖罪のために使わない。

 

治崎を許すかどうかは、自分で決める。

 

それらの言葉を読み返しながら、治崎は、自分の中にある考えに気づき始めた。

 

自分は、マグネに何を求めていたのだろう。

 

謝罪を受け入れてほしい。

 

自分が変わろうとしていることを、認めてほしい。

 

自分が、過去の自分とは違う人間になれる可能性を、理解してほしい。

 

そうした願いが、なかったとは言えない。

 

しかし、彼女は、その願いを受け入れる義務を負っていない。

 

治崎は、そのことを理解していた。

 

それでも、どこかで、彼女の答えを知りたいと思っていた。

 

自分が何をすれば、彼女が許してくれるのか。

 

どうすれば、自分のしたことを、少しでも埋め合わせられるのか。

 

その答えを知ることができれば、自分は、次に何をすべきかを決められる。

 

しかし、その考え方にも、問題があった。

 

彼女の望みを、自分の行動を決めるための情報として扱っている。

 

彼女の答えを知ることで、自分が何をすればいいのかを決めようとしている。

 

それは、一見すると、彼女の意思を尊重しているように見える。

 

だが、彼女が何を望んでいるかによって、自分が責任を果たすかどうかを決めるのなら。

 

彼女が何も望まないと答えた場合、自分は、何もしなくていいと考えるのだろうか。

 

あるいは、彼女が自分を許すと答えた場合、そこで責任を果たし終えたことにするのだろうか。

 

どちらも、違うはずだった。

 

治崎は、目を伏せた。

 

「……彼女が何を望むかは、彼女が決めることだ」

 

小さく呟く。

 

自分が何を望むかは、自分が決める。

 

彼女が何を望むかは、彼女が決める。

 

自分は、自分がしたことに責任を持たなければならない。

 

そして、彼女が自分を許すかどうかによって、その責任が消えるわけではない。

 

治崎は、面会記録を閉じた。

 

今は、彼女に会わないほうがいいのかもしれない。

 

もう一度、自分の言いたいことを伝えたい気持ちはある。

 

謝罪をしたいという気持ちも、あるのだろう。

 

しかし、自分が話したいからといって、彼女に会う機会を求めていいわけではない。

 

彼女が、会うことを望まなければ。

 

その意思を尊重しなければならない。

 

治崎は、担当者に伝えた。

 

「……マグネへの接触は、今は求めない」

 

担当者は、顔を上げた。

 

「わかりました」

 

「俺が何をしたのか。何を考えていたのか。……それを、もう少し自分で整理する必要がある」

 

担当者は頷いた。

 

「彼女に会わなくても、あなたが取り組めることはあります」

 

「……ああ」

 

「あなたの行為について、記録を整理すること。関係する調査に協力すること。今後、同じような行為を繰り返さないために、どのような制約と支援が必要なのかを考えること」

 

治崎は、目を伏せた。

 

「……彼女が俺を許さなくても、やるべきことは変わらない」

 

「そのとおりです」

 

治崎は、ゆっくりと頷いた。

 

彼は、マグネに、自分の更生を手伝ってもらうつもりはなかった。

 

少なくとも、そうしなければならないと、考え始めていた。

 

彼女の怒りは、彼女のものだ。

 

彼女の未来も、彼女のものだ。

 

自分が、それを使って、自分の望む結末を作ろうとしてはいけない。

 

治崎は、机の上に視線を落とした。

 

「……俺は、まだ、彼女に何を返せるのか、わからない」

 

担当者は答えた。

 

「すぐに答えが出なくても、考え続けることはできます」

 

治崎は、静かに頷いた。

 

「……そうだな」

 

第六幕 本人が望まないなら

数日後、治崎は、別の支援プログラムの説明を受けることになった。

 

そこでは、身体機能に障害を負った人や、個性によって身体が変化した人が、生活を再建するためにどのような支援を受けられるのかが、説明されていた。

 

治崎自身に、その場で何かを治療する役割が与えられたわけではない。

 

彼は、あくまで、支援を受ける側の一人として、説明を聞く立場だった。

 

机の上には、義肢や補助具の資料が並んでいた。

 

失われた機能を補うための道具。

 

日常生活の中で、本人が自分の意思で使えるようにするための支援。

 

必要な動作を練習し、以前とは異なる方法で生活できるようにするための訓練。

 

治崎は、資料をめくった。

 

彼自身も、失ったものがある。

 

かつての身体。

 

個性。

 

自分の思いどおりに物事を動かせるという感覚。

 

その中には、これからも取り戻したいと願うものがある。

 

しかし、支援担当者は、資料を説明するとき、一つの言葉を繰り返した。

 

「本人の希望に応じて」

 

義肢の形状。

 

使いやすさ。

 

日常生活で必要な機能。

 

訓練の進め方。

 

そのどれもが、本人の生活や希望に合わせて検討される。

 

一方的に、支援する側が「これが最善です」と決めるわけではない。

 

「……本人が、希望しない場合は?」

 

治崎が尋ねた。

 

説明していた職員が、顔を上げた。

 

「何を希望しない場合でしょうか?」

 

「たとえば、以前の身体に近づけるための処置を、本人が望まない場合だ」

 

職員は、少し考えた。

 

「まず、その方が何を希望しているのかを確認します。治療や補助具を使うことで得られる利益、負担、危険性などを説明し、そのうえで選んでいただきます」

 

「それでも、望まなかったら?」

 

「判断する能力があり、十分に説明を受けたうえでの意思であれば、基本的に尊重します」

 

治崎は、静かに頷いた。

 

「……本人のためになると、周囲が考えていてもか」

 

「はい」

 

職員は、はっきりと答えた。

 

「私たちは、本人の選択肢を増やすために支援します。本人がどのような生活を望むかまで、代わりに決めるためではありません」

 

治崎は、資料を見つめた。

 

選択肢を増やす。

 

その言葉は、彼の中に、しばらく残った。

 

自分は、これまで、選択肢を増やそうとしていただろうか。

 

それとも、自分が正しいと考えた選択肢だけを残し、ほかの選択肢を排除しようとしていたのだろうか。

 

個性を消す薬を作る。

 

個性社会の構造を変える。

 

裏社会の秩序を取り戻す。

 

その目的のために、彼は、自分が必要だと考える方法を選んだ。

 

しかし、その方法の中で、壊理には、選べる余地があっただろうか。

 

マグネには、選べる余地があっただろうか。

 

自分が関わった人々には、自分の意思を表明する機会があっただろうか。

 

治崎は、目を伏せた。

 

「……俺は、相手のためになると考えたことを、相手に選ばせるのではなく、実行しようとしていた」

 

職員は、黙って聞いていた。

 

「相手にとって必要だと判断したものを、相手が受け入れるべきだと思っていた」

 

治崎は、資料を閉じた。

 

「……それは、支援ではないな」

 

職員は、静かに答えた。

 

「少なくとも、本人の意思を無視して実施するなら、本人を支えるという目的から外れてしまうでしょう」

 

治崎は、ゆっくりと頷いた。

 

彼にとって、その言葉は、簡単には受け入れられないものだった。

 

合理的に考えれば、最も有効な方法を選ぶべきだ。

 

結果を得られる可能性が高い方法を、優先するべきだ。

 

それが、自分の知る合理性だった。

 

しかし、人間の生活には、結果の効率だけでは測れないものがある。

 

本人が、何を望んでいるのか。

 

何を失いたくないのか。

 

どんな負担を受け入れられるのか。

 

どんな未来を、自分のものとして選びたいのか。

 

その意思を尊重しなければ、どれほど効率的に改善できたとしても、本人のための支援とは呼べない場合がある。

 

治崎は、しばらく資料を見つめていた。

 

「……本人が望む方法が、最も効率的ではない場合もあるだろう」

 

「あります」

 

「回復に時間がかかることもある」

 

「あります」

 

「結果的に、以前と同じ状態に戻れないこともある」

 

「あります」

 

治崎は、静かに息を吐いた。

 

「……それでも、本人が選ぶ余地を残す必要がある」

 

職員は頷いた。

 

「はい」

 

治崎は、資料を手元へ戻した。

 

その言葉を聞いても、彼が失ったものが戻るわけではない。

 

自分の身体に何が必要なのか、今すぐ答えが出るわけでもない。

 

しかし、彼は初めて、自分自身にも同じ問いを向けようとしていた。

 

自分が何を望むのか。

 

何を取り戻したいのか。

 

どんな支援を受けたいのか。

 

それを、自分で決めることができる。

 

一方で、自分が他人に何かを施すときは、相手の意思を確認しなければならない。

 

自分には選ぶ権利がある。

 

そして、他人にも、その人自身の選ぶ権利がある。

 

それは、誰か一人だけに認められるものではなかった。

 

第七幕 壊理に、何をしたのか

治崎は、再び壊理について考えた。

 

彼女の力を利用して、個性を消す薬を作ろうとしたこと。

 

その計画を、社会の秩序を取り戻すためのものだと考えていたこと。

 

そして、その目的を達成するために、彼女の意思を無視したこと。

 

治崎は、自分がどのような言葉を使っていたか、思い返した。

 

治す。

 

取り除く。

 

元に戻す。

 

秩序を回復する。

 

そうした言葉を使うことで、自分がしていることを、正当な行為として捉えていた。

 

彼は、個性社会が問題を抱えていると考えていた。

 

その認識には、彼自身の価値観が含まれていた。

 

個性があるから、社会に不均衡が生まれる。

 

個性を持つ人間が、その力によって、他人を傷つけることがある。

 

個性が、人々の生活を脅かす場合がある。

 

そのことを考えること自体は、無意味ではなかった。

 

しかし、治崎は、その問題を解決するために、個性そのものを排除しようとした。

 

そして、その計画を実現するために、壊理の身体を利用した。

 

彼女に選ばせることなく。

 

彼女が拒絶することを、受け入れることなく。

 

彼女の身体を、必要な成果を得るための手段として扱った。

 

治崎は、目を閉じた。

 

「……俺は、壊理を救うつもりだったのだろうか」

 

そう問いかけてから、しばらく黙った。

 

本当に、彼女を救いたいと思っていたのだろうか。

 

いや、彼は、社会を救おうとしていたのかもしれない。

 

組織を救おうとしていたのかもしれない。

 

親父に認められたいと思っていたのかもしれない。

 

そして、そのすべてを実現するために、壊理の力が必要だった。

 

彼は、その目的を優先した。

 

「……壊理にとって、俺は、何だったんだろうな」

 

治崎は、呟いた。

 

答えは、わかっていた。

 

彼女にとって、治崎は、自分の身体と意思を脅かす存在だった。

 

自分が何を望むのかを聞いてくれる相手ではなかった。

 

彼女が、どのような未来を望むのかを、一緒に考える相手でもなかった。

 

治崎は、彼女の身体を、計画に必要なものとして扱った。

 

彼女が、何を恐れているのか。

 

何から逃れたいのか。

 

どんな生活を送りたいのか。

 

そうした問いを、治崎は、計画の中心に置かなかった。

 

彼は、壊理を「治す」ことを考えていたのではない。

 

自分が問題だと考えた社会を、自分の判断で「治す」ことを考えていた。

 

その計画の中に、壊理という人間の意思は、存在していなかった。

 

治崎は、机の上に手を置こうとした。

 

しかし、彼の袖の先には、かつての手はない。

 

その事実に、ふと、目が止まった。

 

自分は、力を失った。

 

身体を失った部分がある。

 

個性も、以前のようには使えない。

 

そして、その損失を、取り戻したいと思っている。

 

だが、もし自分が、その力を取り戻したとしたら。

 

その力を、何に使うのだろう。

 

壊れたものを修復するためか。

 

失われたものを取り戻すためか。

 

それとも、再び、自分が正しいと考える世界を作るためか。

 

治崎は、静かに息を吐いた。

 

「……俺は、何を治そうとしていたんだ」

 

その問いは、以前とは違う意味を持っていた。

 

自分が問題だと考えたものを取り除くこと。

 

それは、本当に、その問題を抱えている人間を助けることだったのか。

 

それとも、自分が問題だと感じるものを、世界から消そうとしただけだったのか。

 

治崎は、答えを探した。

 

個性があるからといって、その人間が悪いわけではない。

 

個性があるからといって、社会の問題のすべてを、その個性のせいにできるわけでもない。

 

個性の使い方に問題があるなら、その行為を止め、責任を問う必要がある。

 

個性の影響によって、本人が苦しんでいるなら、必要な支援を整える必要がある。

 

しかし、個性を持つ人間そのものを、社会の問題として排除しようとすれば。

 

彼は、再び、同じ間違いを犯すことになる。

 

治崎は、ゆっくりと目を開けた。

 

「……俺は、問題を抱えている人間を、問題そのものとして扱っていた」

 

その声は、かすかに震えていた。

 

「……人間を、その人の抱えている問題と同じものだと考えていた」

 

彼は、しばらく言葉を失った。

 

壊理は、個性を持っていた。

 

その個性が、社会に何らかの影響を与える可能性はあった。

 

しかし、彼女自身は、個性という問題だけで説明できる存在ではなかった。

 

彼女には、自分の意思があった。

 

自分の感情があった。

 

自分の未来があった。

 

そして、彼女には、その未来を、自分で選ぶ権利があった。

 

治崎は、そのことを、無視した。

 

「……俺は、彼女の人生を、自分の考えの中に閉じ込めた」

 

治崎は、ゆっくりと頭を下げた。

 

その場には、壊理はいない。

 

彼女に届く謝罪でもなかった。

 

しかし、治崎は、自分が何をしたのかを、初めて、その言葉で認めようとしていた。

 

第八幕 善意の形をした支配

「……治崎さん」

 

担当者が、静かに声をかけた。

 

治崎は顔を上げた。

 

「あなたは以前、社会を治すために、個性を消すことが必要だと考えていたと話しました」

 

「……ああ」

 

「その考えを、今、どのように見ていますか?」

 

治崎は、すぐには答えなかった。

 

以前なら、自分の計画について説明し、その合理性を示そうとしただろう。

 

個性社会の問題。

 

組織の衰退。

 

社会における力関係。

 

それらを並べることで、自分の行為が、必要なものだったと証明しようとしたかもしれない。

 

しかし、今は、別のことを考えていた。

 

「……俺は、社会を、あるべき形に戻そうとしていた」

 

担当者は、頷いた。

 

「その、あるべき形とは?」

 

「個性によって生じる問題が少なく、秩序が維持される社会だ」

 

「その社会を、誰が決めるのでしょうか?」

 

治崎は、目を細めた。

 

「……社会全体で考えるべきことだ」

 

「では、あなたは、なぜ、自分一人の判断で、その形を実現しようとしたのでしょうか?」

 

治崎は、言葉を失った。

 

自分は、合理性を信じていた。

 

自分が正しいと考える方法で、社会を改善する。

 

そのために必要なことを、実行する。

 

それが、自分の役割だと思っていた。

 

しかし、その考え方の中には、他人が何を望んでいるのかという問いが、十分に存在していなかった。

 

「……俺は、自分が正しいと思っていたからだ」

 

治崎は、ようやく答えた。

 

「自分が、問題の本質を理解していると思っていた。だから、自分の判断で、解決するべきだと考えていた」

 

「その判断に、異議を唱える人がいたら?」

 

「……排除すべき障害だと考えた」

 

「その人が、あなたの計画によって傷つくことを拒絶したら?」

 

治崎は、目を伏せた。

 

「……それでも、計画を進めようとした」

 

担当者は、静かに言った。

 

「その考え方は、あなたが望む社会を実現するために、誰かの意思を犠牲にしてもよいというものだったのではないでしょうか」

 

治崎は、長い沈黙のあと、頷いた。

 

「……そうだ」

 

その答えは、簡単ではなかった。

 

自分が正しいと考えていたことを、今さら、すべて否定することはできない。

 

自分が問題だと考えていたことの中には、実際に、社会が考えるべき問題もあったのかもしれない。

 

しかし、問題を解決したいという願いがあったからといって、他人の意思を無視する権利が生まれるわけではない。

 

治崎は、自分の考え方を、少しずつ見つめ直していた。

 

「……俺は、善意という言葉を使っていたわけではない」

 

治崎は、呟いた。

 

「だが、自分が必要だと考えることを、相手のためになることだと、決めつけていた」

 

担当者は、頷いた。

 

「それも、善意に似た形を取ることがあります。相手のためだと考えているからこそ、相手が望まないことを押しつけてしまう場合がある」

 

治崎は、その言葉を聞いて、目を伏せた。

 

「……相手が望んでいないとわかっていてもか」

 

「はい。自分の判断のほうが正しいと信じていれば、相手の拒絶を、修正すべき問題として扱ってしまうことがあります」

 

治崎は、壊理のことを思い出した。

 

彼女の拒絶を、彼は知っていた。

 

彼女が、自分の計画に協力することを望んでいないと、知っていた。

 

それでも、自分は、彼女の身体を利用した。

 

彼女のためではない。

 

自分が正しいと考えた社会を作るために。

 

その目的が、どれほど合理的に見えたとしても。

 

彼女自身の意思を無視していい理由にはならなかった。

 

治崎は、静かに息を吐いた。

 

「……俺は、相手のためだと考えることで、相手の意思を無視していた」

 

「そうですね」

 

「自分が正しいと考えたことを、相手に受け入れさせようとしていた」

 

「はい」

 

治崎は、目を上げた。

 

「……それは、相手を支配することと、何が違う?」

 

担当者は、ゆっくりと答えた。

 

「相手が自分の意思で選べるように支えることと、相手が自分の思うとおりに行動するように変えること。その違いが、重要なのだと思います」

 

治崎は、黙っていた。

 

選べるように支える。

 

思いどおりに行動するように変える。

 

その二つは、似ているようで、まったく違う。

 

治崎は、これまで、相手を変えることを優先してきた。

 

相手が自分の計画に協力するように。

 

相手が、自分の考える正しい状態になるように。

 

相手が、自分の目的を達成するために、必要な役割を果たすように。

 

しかし、相手が、自分の意思で選ぶために必要な支援を整えることは、別の行為だった。

 

治崎は、ゆっくりと頷いた。

 

「……俺は、相手を助けることと、相手を自分の思いどおりにすることを、同じものとして扱っていたのかもしれない」

 

担当者は、静かに答えた。

 

「その違いを、これからも考えていきましょう」

 

治崎は、目を伏せた。

 

彼は、まだ、答えを持っていない。

 

しかし、少なくとも、自分の考え方を疑うことができるようになっていた。

 

そのことは、今後、何かを変えるための出発点になるかもしれなかった。

 

第九幕 マグネの怒りを、治療しない

面談のあと、治崎は、再びマグネとの面会記録を読み返した。

 

自分が何をされたのかを、忘れない。

 

自分の未来を、治崎の贖罪のために使わない。

 

許すかどうかは、自分で決める。

 

マグネの言葉は、簡潔だった。

 

しかし、その中には、彼女が、自分自身の意思を取り戻そうとしていることが表れていた。

 

治崎は、その言葉を見つめた。

 

彼女の怒りは、まだ終わっていない。

 

彼女は、自分がしたことを許していない。

 

そして、今の彼女には、自分の怒りをどう扱うのか、自分で決める権利がある。

 

治崎は、以前、その怒りを、どのように見ていただろう。

 

自分に対する敵意。

 

自分の計画への反発。

 

自分の判断を受け入れない態度。

 

そうしたものとして見ていたのではないか。

 

もし、そうなら。

 

彼は、マグネの怒りまでも、自分が解決するべき問題として扱ってしまうことになる。

 

彼女が怒っている。

 

だから、怒りをなくさなければならない。

 

彼女が、自分を許していない。

 

だから、許せるようにしなければならない。

 

彼女が、過去を忘れられない。

 

だから、過去を整理し、前に進めるようにしなければならない。

 

そうした考え方は、一見すると、相手を助けようとしているように見えるかもしれない。

 

しかし、その奥には、彼女の感情を、自分が望む形へ変えようとする考えが潜んでいる。

 

マグネが、怒りを抱え続けることを選んだら。

 

彼女が、治崎を許さないと決めたら。

 

彼女が、過去を忘れないまま、これからの人生を歩むことを選んだら。

 

それらは、彼女自身の意思だった。

 

治崎が、その答えを変える権利はない。

 

「……俺は、彼女の怒りまで、治そうとするところだった」

 

治崎は、静かに呟いた。

 

自分が犯した罪を認めること。

 

それは、彼女の怒りを消すことではない。

 

彼女が抱えている痛みを、自分にとって扱いやすい形にすることでもない。

 

彼女が、自分を許さないままでも。

 

彼女が、自分との関係を断つことを選んでも。

 

自分は、自分の責任を果たさなければならない。

 

治崎は、ゆっくりと目を閉じた。

 

彼女が、何を望むのか。

 

その答えは、彼女自身が決めることだ。

 

自分が、何をすべきなのか。

 

その答えは、自分で考えなければならない。

 

治崎は、マグネとの再面会を求める申請書を取り出した。

 

書類は、まだ白紙だった。

 

彼は、一瞬、ペンを手に取った。

 

謝罪したい。

 

自分が何をしたのか、もう一度伝えたい。

 

自分が、少しずつ、以前とは違うことを考え始めていると、知ってほしい。

 

そうした願いが、胸の奥にあった。

 

しかし、彼は、ペンを置いた。

 

今、会いたいと思っているのは、自分だ。

 

マグネが、会いたいと思っているかどうかは、わからない。

 

彼女が、もう一度、自分の話を聞きたいと思っているかどうかも、わからない。

 

それなのに、自分が会いたいからという理由で、面会を求めることは、彼女の意思を、再び自分の願いの下に置くことになりかねない。

 

治崎は、申請書を裏返した。

 

「……今は、会わない」

 

その言葉を、静かに口にする。

 

それは、マグネのために何かをしてあげたという意味ではなかった。

 

彼女の怒りを尊重したことで、自分の罪が軽くなるわけでもない。

 

ただ、彼女の意思がわからない以上、自分の願いを優先して接触するべきではないと、考えたのだった。

 

治崎は、申請書を机の引き出しにしまった。

 

自分には、まだ、取り組むべきことがある。

 

自分が何をしたのか。

 

その行為に、どのような考え方が影響していたのか。

 

これから、同じことを繰り返さないために、何を変える必要があるのか。

 

それらを考えることは、マグネが自分に会ってくれるかどうかとは関係がない。

 

彼女の怒りを、自分の更生のために利用してはいけない。

 

そのことを、治崎は、ようやく理解し始めていた。

 

第十幕 治療する権利は、誰のものか

最後の面談で、担当者は、治崎に一つの問いを投げかけた。

 

「治崎さん。あなたにとって、治療とは、何でしょうか?」

 

治崎は、すぐには答えなかった。

 

治療。

 

身体の機能を回復すること。

 

病気を改善すること。

 

失われたものを取り戻すこと。

 

不調を解消し、生活を送りやすくすること。

 

彼は、これまで、その言葉を疑ったことがなかった。

 

だが、今は、その中に、いくつもの問いが含まれていることに気づいていた。

 

「……本人が抱えている問題を、改善することだ」

 

治崎は、答えた。

 

「では、問題とは、誰にとっての問題でしょうか?」

 

治崎は、目を上げた。

 

「……本人にとっての問題だ」

 

「周囲の人々にとって、問題だと考えられている場合は?」

 

治崎は、口を閉じた。

 

本人は、困っていない。

 

しかし、周囲が、その人の身体的な特徴を気にしている。

 

本人は、そのままで生きたいと思っている。

 

しかし、周囲は、以前の状態に戻ることを望んでいる。

 

本人は、今の自分を受け入れ始めている。

 

しかし、周囲は、その姿を見るたびに、失われた過去を思い出してしまう。

 

そのような状況で、周囲が本人を治療しようとしたら。

 

それは、本当に、本人のためなのだろうか。

 

治崎は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……治療する側が問題だと考えていても、本人にとっては、そうではないことがある」

 

担当者は、頷いた。

 

「そうです」

 

「その場合、治療の必要性を判断するためには、本人が何を望んでいるのかを確認する必要がある」

 

「はい」

 

治崎は、しばらく黙っていた。

 

「……だが、本人が、明らかに危険な状態にある場合は?」

 

「その場合は、安全を確保するための対応が必要になることがあります。ただし、その対応も、状況に応じて慎重に判断しなければなりません。本人の意思を尊重することと、安全を確保することは、どちらか一方だけを考えればよい問題ではありません」

 

治崎は、頷いた。

 

その答えは、彼が考えていたほど単純ではなかった。

 

本人の意思を、常に何より優先すれば、あらゆる問題が解決するわけではない。

 

しかし、安全や合理性を理由に、本人の意思を無視してよいわけでもない。

 

必要なのは、状況を見極め、本人の意思を確認し、必要な情報を説明し、可能な限り、本人が自分で選べるようにすることだった。

 

「……治療というのは、相手を、こちらが望む状態へ変えることではないのだな」

 

治崎は、静かに言った。

 

「本人が望む生活を送るために、必要な支援を考えることでもある」

 

担当者は、頷いた。

 

「そうですね」

 

治崎は、目を伏せた。

 

彼は、これまで、自分の個性を、修復のための力だと考えてきた。

 

壊れたものを直す。

 

異常なものを取り除く。

 

自分が正しいと考える形に戻す。

 

しかし、今は、その考え方の中に、危うさがあったことを認め始めている。

 

修復することは、いつでも望ましいわけではない。

 

元に戻すことが、本人の望みと一致するとは限らない。

 

そして、自分が正しいと考える状態に近づけることが、その人にとって幸せだとは限らない。

 

治崎は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……俺は、治すことを、相手のためにする行為だと考えていた」

 

担当者は、静かに聞いていた。

 

「しかし、相手の意思を無視してまで、治すことを実行するなら……」

 

治崎は、言葉を探した。

 

「……それは、相手のためではなく、自分のためなのかもしれない」

 

担当者は、すぐには答えなかった。

 

治崎は、続けた。

 

「自分が正しいと信じていることを、実現したい。自分が望む形に、相手を変えたい。その欲望を、治療や修復という言葉で、正当化していたのかもしれない」

 

彼は、目を伏せた。

 

「……俺は、自分が望むことと、相手が望むことを、同じものとして扱っていた」

 

その言葉を口にしたとき、彼は、ようやく自分の間違いの輪郭をつかみ始めていた。

 

善意があっても、相手の意思を無視してはいけない。

 

合理的な目的があっても、相手の身体を自由に扱っていいわけではない。

 

治療の必要性があっても、本人が望む未来を、勝手に決めていいわけではない。

 

その原則を、これからの自分の行動に反映させなければならない。

 

担当者は、静かに尋ねた。

 

「では、今後、あなた自身が何かを望んだとき、何を考える必要があると思いますか?」

 

治崎は、ゆっくりと答えた。

 

「……自分が、それを望んでいるということを認める」

 

担当者は頷いた。

 

「そして?」

 

「その願いを叶えるために、他人の意思を無視していないか、考える」

 

「それから?」

 

治崎は、少しだけ目を伏せた。

 

「……相手が望んでいないなら、自分の願いを実現する方法を、考え直す必要がある」

 

担当者は、静かに答えた。

 

「そのとおりです」

 

治崎は、深く息を吐いた。

 

「……難しいな」

 

担当者は、少しだけ表情を和らげた。

 

「簡単ではないでしょう。ただ、今のあなたが考えるべきことは、そこから始まるのだと思います」

 

治崎は、頷いた。

 

彼は、まだ、自分の欲望を捨ててはいない。

 

組織を取り戻したい。

 

個性を取り戻したい。

 

過去の地位を取り戻したい。

 

そして、自分が正しかったと、証明したい。

 

その気持ちは、今も残っている。

 

しかし、その願いがあるからといって、他人を支配する権利が生まれるわけではない。

 

そのことを、彼は、ようやく少しずつ理解し始めていた。

 

第十一幕 境界線のこちら側

面談を終えた治崎は、資料を手元にまとめた。

 

そこには、今日、考えたことが書かれていた。

 

『本人が望む状態と、周囲が望む状態は、同じとは限らない』

 

『治療の目的は、本人の意思を無視して、周囲の望む形へ変えることではない』

 

『自分が正しいと信じることは、他人の人生を決める権利にはならない』

 

治崎は、一つずつ、目を通した。

 

それらは、これまでの自分には、当たり前のことではなかった。

 

彼は、相手のためになると考えたことを、相手が受け入れるべきだと思っていた。

 

自分が、合理的だと考えたことを、相手が理解すべきだと思っていた。

 

自分の計画に必要なことを、他人もまた、受け入れるべきだと考えていた。

 

その考え方の中では、相手が拒絶することは、正当な選択ではなかった。

 

相手の意思を尊重することよりも、自分の計画を達成することのほうが、優先されていた。

 

しかし、今は、そのことを、少しずつ疑い始めている。

 

自分が正しいと信じること。

 

他人が、正しいと考えること。

 

その二つが、異なる場合もある。

 

そのとき、自分の考えを、相手に押しつけていいわけではない。

 

治崎は、紙を閉じた。

 

彼には、まだ、償うべきことがある。

 

壊理に対してしたこと。

 

マグネに対してしたこと。

 

そして、自分の計画のために、他人の身体や意思を利用してきたこと。

 

その責任は、彼が今、考え方を変え始めたからといって、消えるわけではない。

 

過去にしたことは、なかったことにはならない。

 

それでも、これからの行動を変えることはできる。

 

自分が望むことを、相手の意思よりも上に置かない。

 

自分が正しいと信じていることを、相手に強制しない。

 

相手が望まない場合には、その意思を尊重する。

 

そして、自分がしたことについて、責任を果たす。

 

その一つひとつが、これからの治崎に求められることだった。

 

治崎は、窓の外を見た。

 

「……俺は、まだ、何も取り戻していない」

 

その声には、諦めのような響きがあった。

 

しかし、彼は、その言葉のあとに、こう付け加えた。

 

「……だが、考え直すことはできる」

 

失ったものは、すぐには戻らない。

 

自分の力も、立場も、過去も。

 

そして、自分が傷つけた人たちとの関係も。

 

しかし、何を失ったのかを考えることはできる。

 

何を間違えたのかを考えることもできる。

 

同じことを繰り返さないために、何を変えるのかを考えることもできる。

 

治崎は、静かに立ち上がった。

 

その歩みは、まだ重かった。

 

自分がしてきたことを、本当に理解するまでには、時間がかかるだろう。

 

自分の欲望を、他人の意思を無視せずに扱えるようになるまでにも、時間がかかるだろう。

 

それでも、彼は、考え始めていた。

 

治療と支配。

 

修復と改変。

 

善意と自己満足。

 

その境界線を、これからも見失わないために。

 

終幕 治したいのは、誰のため?

夜、治崎は机に向かっていた。

 

そこには、今日の面談で使った資料が置かれている。

 

彼は、最後に一枚の紙を取り出した。

 

そして、そこに、一つの問いを書いた。

 

自分が何かを治したいと考えたとき、それは、本当に相手のためなのか。

 

治崎は、その問いを見つめた。

 

すぐに答えを書くことはできなかった。

 

人間の願いは、単純ではない。

 

誰かを助けたいと思うことの中にも、自分が正しいと認められたいという気持ちが混じることがある。

 

誰かを治したいと思うことの中にも、自分が望む形へ、相手を変えたいという欲望が潜んでいることがある。

 

誰かのために行動していると信じながら、実際には、自分の安心や満足を優先していることもある。

 

治崎は、そのことを、少しずつ理解し始めていた。

 

自分の願いを、すべて否定する必要はない。

 

何かを取り戻したいと思うことも。

 

自分の力を使いたいと思うことも。

 

誰かに認められたいと思うことも。

 

それ自体が、ただちに間違いになるわけではない。

 

しかし、その願いを叶えるために、他人の身体や人生を、自由に扱っていいわけではない。

 

治崎は、ペンを持ち直した。

 

そして、問いの下に、一つの文章を書いた。

 

『相手が望むことを、相手自身が選べるようにする』

 

彼は、その言葉を見つめた。

 

治療とは、ただ、以前の状態へ戻すことではない。

 

修復とは、ただ、自分が正しいと考える形に変えることではない。

 

本人が何を望んでいるのか。

 

何に困っているのか。

 

どのような未来を、自分のものとして選びたいのか。

 

そのことを、確かめる必要がある。

 

そして、その答えが、自分の望みとは違っていたとしても。

 

自分が、正しいと信じる答えとは違っていたとしても。

 

その人が、自分の意思で選ぶ余地を残さなければならない。

 

治崎は、目を閉じた。

 

自分が壊理にしたこと。

 

自分がマグネにしたこと。

 

そのどちらも、治療ではなかった。

 

彼は、自分の目的を実現するために、他人の身体と人生を利用した。

 

その事実は、消えない。

 

今の彼が、それを理解し始めたからといって、過去の傷が癒えるわけではない。

 

壊理が、自分を許す義務はない。

 

マグネが、自分の変化を認める義務もない。

 

彼女たちは、自分自身の人生を選ぶことができる。

 

治崎のためではなく。

 

治崎の計画のためでもなく。

 

自分自身の意思で。

 

治崎は、静かに紙を閉じた。

 

そして、最後に呟いた。

 

「……俺は、相手を治すと言いながら、自分の望みを押しつけていた」

 

その言葉は、今の彼がたどり着いた、一つの答えだった。

 

しかし、それで終わりではない。

 

気づいたことを、実際の行動に変えなければならない。

 

自分の欲望を認めながら、他人の意思を尊重する。

 

自分の願いを持ちながら、その願いが叶わない可能性も受け入れる。

 

自分がしたことを認めながら、その責任を、誰かに引き受けてもらおうとしない。

 

それらを、これからの人生で、何度も確かめていかなければならない。

 

治崎廻は、まだ答えを持っていない。

 

しかし、彼は初めて、何を治すべきなのかという問いを、自分自身に向け始めていた。

 

他人の身体ではない。

 

他人の意思でもない。

 

自分が正しいと信じて疑わなかった、その考え方そのものを。

 

そして、その変化が本物になるかどうかは、これからの彼の行動にかかっていた。

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