僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十五話「償いは、相手のためにある」

一 反省文には、被害者の席がなかった

「……書き直せ」

 

低い声が、部屋の中に落ちた。

 

机の上には、数十枚の書類が並んでいる。

 

治崎廻がこれまでに関与した事件。組織の活動。資金の流れ。命令系統。関係者の名前。隠蔽した記録。彼自身が実行したこと。部下に命じたこと。そして、自分の計画を進めるために、誰の人生をどのように利用したのか。

 

過去の資料だけでは分からない部分は、本人の記憶をもとに補足されている。

 

当然、そこにはマグネに関する記録もあった。

 

治崎は、書類の一枚を見つめていた。

 

自分で書いた文章だった。

 

『当時の行動は、組織の目的を達成するために必要な判断だった』

 

その一文に、赤い線が引かれている。

 

訂正を求めたのは、彼の行動を確認している担当者だった。

 

「何が問題だ」

 

治崎は顔を上げた。

 

担当者は即答した。

 

「あなたが必要だったと判断したことは分かりました。それで、その判断によって何が起きたのですか」

 

「……記録に書いてある」

 

「いいえ。ここに書かれているのは、あなたが何を目的にしていたかです。あなたの目的が、結果を正当化するわけではありません」

 

治崎は黙った。

 

担当者は書類を指で押さえた。

 

「組織の目的。計画上の必要性。あなた自身の判断。そうしたものを記録することは、事実関係を確認するうえで必要です。しかし、それだけでは不十分です」

 

「何を書けばいい」

 

「あなたがしたことを書いてください。誰に何をしたのか。それによって何が失われたのか。分からないなら、分からないと書いてください」

 

治崎の眉間にしわが寄った。

 

「失われたものなど、記録できる範囲が限られるだろう」

 

「ええ。だからといって、記録できるものだけを残せばいいわけではありません」

 

「……」

 

「あなたは、これまで自分の目的から物事を見てきた。今回の記録では、その視点だけでまとめないでください」

 

治崎は、もう一度、問題の一文に目を落とした。

 

――組織の目的を達成するために必要な判断だった。

 

それは、かつての彼なら当然のように書いた文章だった。

 

組織を守るため。

 

計画を完遂するため。

 

社会を変えるため。

 

目的を先に置けば、手段はその目的に従うべきだと考えていた。

 

そして、手段にされた人間の意志を、計画の外側へ押し出してきた。

 

壊理もそうだった。

 

組織の構成員もそうだった。

 

マグネもそうだった。

 

自分が必要だと考えたから、必要だった。

 

自分が正しいと思ったから、正しかった。

 

自分が選んだ未来のためなら、他人の未来を奪うことにも意味があるのだと、疑いもしなかった。

 

「……訂正する」

 

治崎は赤線の引かれた文章に手を伸ばした。

 

紙を破り捨てることはしなかった。

 

そこに書かれた言葉もまた、過去の自分が実際に考えていたことだからだ。

 

彼は、その文章の下に新しい一文を記した。

 

『私は、組織の目的を達成するために必要だと判断した。その判断を理由に、他人の意思と生命を、自分の計画に従わせてよいものとして扱った』

 

ペン先が止まった。

 

その先には、何も書かれていなかった。

 

治崎は、しばらく紙を見つめていた。

 

書き加えるべき言葉は、いくらでも思いついた。

 

状況がどうだったか。

 

誰が何を望んでいたか。

 

計画が成功していれば何が変わったはずだったか。

 

自分の行動に至った経緯。

 

それらを書けば、文章は長くなる。

 

しかし、長く書けば書くほど、自分が何をしたのかという事実を、説明の中に埋めてしまう気がした。

 

「……これで終わりではないな」

 

「もちろんです」

 

担当者は答えた。

 

「記録が完成しても、償いが終わるわけではありません」

 

「分かっている」

 

口にした直後、治崎は自分の言葉に違和感を覚えた。

 

本当に分かっているのだろうか。

 

自分は、また早々に「分かっている」と言って、次の段階へ進もうとしているだけではないのか。

 

反省した。

 

罪を認めた。

 

記録を書き直した。

 

それで、何かが変わったのか。

 

少なくとも、マグネの人生は変わらない。

 

彼女が失った時間は戻らない。

 

彼女が選べたはずの未来も、そのまま返ってくるわけではない。

 

書類にどれほど正確な言葉を並べたところで、彼女に起きたことを、彼自身が取り消せるわけではなかった。

 

治崎はペンを置いた。

 

「……次の手続きを説明しろ」

 

担当者は頷いた。

 

「まず、記録にある事実を、関係する機関が確認します。あなた自身が提供した情報も、別の資料や証言と照合することになります。そのうえで、被害を受けた方々への対応を検討します」

 

「被害者への対応、か」

 

「補償や支援が必要かどうか。それぞれが何を望んでいるか。直接の連絡を望まない場合はどうするか。そういったことも含みます」

 

治崎は、そこで顔を上げた。

 

「……マグネについては」

 

担当者は少しだけ間を置いた。

 

「彼女の意思を確認する必要があります。ただし、本人が望まないのであれば、あなたが直接連絡することはできません」

 

「俺が話したいと言ってもか」

 

「あなたが話したいことと、彼女が話したいことは別です」

 

治崎は口を閉じた。

 

それは、先日、自分がようやく認めたはずのことだった。

 

本人が望む状態と、周囲が望む状態は同じとは限らない。

 

他人のためという言葉を使いながら、自分が望んでいることを押しつけてはならない。

 

頭では、理解し始めていた。

 

それでも。

 

「……謝罪もか」

 

「謝罪をするかどうかだけではありません。どのような形で受け取るか、あるいは受け取らないか。それも本人が決めることです」

 

「受け取らないという選択肢もある」

 

「あります」

 

治崎は視線を落とした。

 

自分が謝罪したいと思う。

 

自分のしたことを認めたいと思う。

 

彼女に伝えたい言葉がある。

 

その気持ちが、すべて自分の側にしか存在していないことを、ようやく理解し始めていた。

 

彼女がそれを望むかどうかは、別の問題なのだ。

 

「……俺が謝罪しなければ、反省していないと思われるのではないか」

 

担当者は、すぐには答えなかった。

 

やがて、静かに口を開いた。

 

「それを決めるのは、あなたではありません」

 

治崎の表情がわずかにこわばった。

 

「あなたが謝罪したいと思うことは、あなたの自由です。しかし、その謝罪を彼女に受け取らせる権利はありません」

 

「……」

 

「謝罪を受け取ってもらえなかったからといって、償いをやめていいわけでもありません」

 

治崎は、机の上の書類を見た。

 

そこには、まだ何も書かれていない欄があった。

 

『被害を受けた本人の希望』

 

その欄は、空白だった。

 

彼が何かを書き込むことはできない。

 

謝罪を望むのか。

 

補償を求めるのか。

 

自分と関わりたくないのか。

 

何も望まないのか。

 

彼女が自分をどう思っているのか。

 

それらを、彼が推測して書くことはできない。

 

彼女の代わりに答えを埋めれば、その時点でまた同じことを繰り返す。

 

治崎は、空白を見たまま言った。

 

「……空けておけ」

 

「はい」

 

「俺の判断で埋めるな」

 

「そのようにします」

 

治崎はその言葉を聞いて、初めて、書類を閉じた。

 

空白が残っていることは、手続きが失敗しているという意味ではなかった。

 

自分では埋められない欄がある。

 

それを認めることもまた、必要なことだった。

 

二 謝罪したいのは、誰のためか

その日の夜。

 

治崎は、与えられた部屋の机に向かっていた。

 

机の上にあるのは、公式の記録用紙ではなかった。

 

一枚の便箋。

 

彼は、何度もそこに言葉を書きかけていた。

 

『マグネへ』

 

そこで止まる。

 

『あの時のことを謝罪したい』

 

その一文を書いて、消す。

 

『俺の判断は間違っていた』

 

それも消す。

 

『どれほどの言葉を並べても、取り返しがつかないことは理解している』

 

消した。

 

どれも嘘ではなかった。

 

少なくとも、今の彼はそう思っていた。

 

しかし、便箋を前にしていると、どうしても一つのことに気づいてしまう。

 

彼は、謝罪の手紙をマグネに届けるところを想像していた。

 

彼女が手紙を読む。

 

彼女が怒る。

 

彼女が何も言わずに捨てる。

 

あるいは、ほんの少しだけ、彼の言葉に耳を傾ける。

 

その先にあるものまで、無意識のうちに思い描いていた。

 

彼女が何らかの反応を示すことを。

 

自分の言葉が、彼女に届くことを。

 

自分のしたことを、彼女に知ってもらうことを。

 

そして。

 

ほんのわずかにでも、彼女が自分を見直すことを。

 

治崎は、ペンを置いた。

 

「……馬鹿な」

 

誰もいない部屋で、そう呟いた。

 

自分は、何を期待しているのだろう。

 

許してほしいなどとは思っていない。

 

そんなことを要求する資格が自分にないことくらい、分かっている。

 

だが、本当に何も期待していないのか。

 

自分が反省していることを知ってほしい。

 

過去の判断を改めたことを知ってほしい。

 

自分が、以前とは違う考えを持ち始めたことを認めてほしい。

 

そうした願いが、本当にどこにもないと言い切れるのか。

 

「……違う」

 

治崎は、手紙を裏返した。

 

謝罪したい。

 

自分の罪を認めたい。

 

それは確かに、自分の中にある願いだった。

 

だが、その願いを満たすために彼女を必要としているなら、何も変わっていない。

 

彼女に自分の反省を認めてもらう。

 

彼女に、自分が変わったことを証明してもらう。

 

彼女に、自分の行動に意味があったと感じさせてもらう。

 

それでは、自分の償いに彼女の協力を要求しているのと同じだ。

 

かつて彼は、壊理の力を利用した。

 

自分が実現したい未来のために、彼女の身体を手段にした。

 

彼女の苦しみよりも、自分の計画を優先した。

 

今度は違う。

 

自分の更生という未来のために、マグネの感情を利用する。

 

自分の罪を軽く感じるために、彼女の反応を求める。

 

それもまた、彼女の人生を、自分のための手段に変えてしまうことになる。

 

治崎は手紙を表に戻した。

 

『マグネへ』

 

その文字をしばらく見つめた後、彼は便箋を二つに折り、机の引き出しにしまった。

 

破り捨てることはしなかった。

 

謝罪したい気持ちまで、なかったことにするつもりはなかったからだ。

 

ただ、それを彼女に届けることは、今の自分が決めるべきことではない。

 

彼女が連絡を望んでいないのなら、届けない。

 

彼女が謝罪を受け取りたくないなら、受け取らせない。

 

自分が何を伝えたいかよりも、彼女が何を望んでいるかを優先する。

 

そのために、自分が何も伝えられない可能性も受け入れる。

 

「……償いというのは」

 

治崎は、誰に向けるでもなく呟いた。

 

「随分と、勝手のできないものだな」

 

それは、彼がこれまで経験してきた物事とは異なっていた。

 

自分が計画を立てる。

 

必要なものを揃える。

 

障害を排除する。

 

望む結果へ向けて進む。

 

治崎にとって、物事を動かすとはそういうことだった。

 

償いには、そのやり方が通用しない。

 

自分がどれだけ努力しても、相手が望む結果になるとは限らない。

 

どれだけ正確に事実を認めても、失われたものが戻るわけではない。

 

どれだけ誠実に謝罪しても、それが受け取られるとは限らない。

 

自分が正しいと思った行動が、相手にとって何を意味するのか。

 

その答えを、自分一人で決めることはできない。

 

しかも。

 

相手が答えを出さなかったとしても、自分は責任から逃げることができない。

 

「……そういうことか」

 

治崎は、ようやく分かった気がした。

 

いや。

 

正確には、分かり始めた。

 

自分の罪を認めることと、罪を償うことは違う。

 

そして、償うことと、許されることも違う。

 

その三つを一つにしていたのは、ほかでもない自分自身だった。

 

罪を認めれば、償いが始まる。

 

償いを続ければ、いつか許される。

 

許されれば、自分は過去を乗り越えられる。

 

そんな筋書きを、どこかで期待していた。

 

けれど、現実には何の保証もない。

 

罪を認めても、許されないかもしれない。

 

償いを続けても、相手から何の言葉も返ってこないかもしれない。

 

それでも、しなければならない。

 

なぜなら、許されるために償うのではなく、奪ったものがあるから償うのだから。

 

治崎は、引き出しを閉じた。

 

その中には、まだ届けられない手紙がある。

 

いつか渡せる日が来るかもしれない。

 

最後まで渡せないかもしれない。

 

どちらになるのかは、彼には分からなかった。

 

初めて、それを自分の計画で決めようとは思わなかった。

 

三 被害者の意思を、加害者の希望で上書きしない

数日後。

 

マグネは、静かな部屋で一枚の書類を読んでいた。

 

目の前にいるのは、彼女の希望を確認するために来た担当者だった。

 

机の上には、必要最低限の資料が置かれている。

 

彼女に関する記録。

 

治崎が提出した説明書。

 

今後の手続きについての案内。

 

それらは、彼女が知ることを望んだ範囲に限られていた。

 

治崎が提出した記録のすべてを、無理に読ませることはしない。

 

彼がどれだけ反省しているかを説明することもない。

 

彼の更生に協力してほしいなどという話も、持ち出されなかった。

 

担当者は、書類を指し示した。

 

「こちらが、今後の対応についての確認事項です。希望する支援があれば、選べる範囲で調整します。現時点では何も選ばないということもできます」

 

「ふうん」

 

マグネは、椅子の背にもたれた。

 

「で?」

 

「治崎氏から直接連絡することについては、本人から希望があった場合でも、あなたの意思を確認するまでは行わない方針です」

 

「本人から希望?」

 

「はい。本人は、あなたに謝罪したいという考えを持っているようです。ただし、それを実際に伝えるかどうかは、あなたの意思を尊重する必要があります」

 

マグネは笑った。

 

楽しそうな笑いではなかった。

 

「謝罪したい、ねえ」

 

担当者は何も言わず、彼女の言葉を待った。

 

マグネは書類を机の上に置いた。

 

「なんだか、変な話だわ」

 

「どのような点でしょうか」

 

「殺されたのはあたしで、今になって謝りたいのはあっち。なのに、あたしがそれをどう受け取るかまで、考えてやらなきゃいけないように聞こえる」

 

「そのような意図はありません」

 

「分かってる。あんたは、ちゃんと選ばせようとしてる。そこは分かってるわ」

 

マグネは自分の指を見た。

 

生きている。

 

呼吸をしている。

 

手を動かせる。

 

声を出せる。

 

かつて奪われたものが、こうして目の前にある。

 

それは、奇跡と呼ぶべきものなのかもしれない。

 

けれど、目を閉じれば、あの日のことを思い出す。

 

自分が何をされたのか。

 

何を奪われたのか。

 

誰の手によって、どんな結末を迎えたのか。

 

彼女が今、生きているという事実は、その過去を消してはくれない。

 

「ねえ」

 

マグネは尋ねた。

 

「この人が反省してるって、あたしが認めなかったらどうなるの?」

 

担当者は少し考えた後、答えた。

 

「本人が提出した記録や、今後の行動を確認することになります。あなたの評価だけで、彼の責任が決まるわけではありません」

 

「じゃあ、あたしが許さなくても?」

 

「はい」

 

「二度と会いたくないって言っても?」

 

「その意思を尊重します」

 

「謝罪なんていらないって言っても?」

 

「受け取ることを強制することはありません」

 

マグネは目を細めた。

 

「……いいじゃない」

 

その言葉には、安堵だけではなく、かすかな疲労がにじんでいた。

 

彼女は、自分が治崎にされたことを忘れたわけではない。

 

忘れるつもりもない。

 

けれど、事件が起きてからというもの、自分の感情にまで説明を求められるような感覚があった。

 

怒っているのか。

 

許せるのか。

 

復讐したいのか。

 

これからどう生きたいのか。

 

自分が決めなければならないことは山ほどある。

 

だが、そのうえで、加害者がどのように反省しているかまで見届けなければならないのだとしたら。

 

自分の人生は、いつまで治崎を中心に回り続けるのだろう。

 

生き返ったことさえも、彼の罪を評価するための材料にされてしまうのだろうか。

 

それだけは、嫌だった。

 

マグネは、机の上に置かれた書類をもう一度確認した。

 

「じゃあ、今の希望を言っておくわ」

 

担当者がペンを手に取る。

 

「治崎からの直接連絡は拒否する。面会も、手紙も、あたしが希望しない限りはいらない。謝罪を受け取る場に呼ばれるのも嫌」

 

「承知しました」

 

「それから、あいつが反省してるとか、罪を認めたとか、そういう話をあたしに伝えてくる必要もないわ。必要な手続きの情報は教えてちょうだい。でも、あいつの気持ちをあたしが受け止めなきゃいけないような話はしないで」

 

「分かりました」

 

「もう一つ」

 

マグネは、ペンを持つ担当者を見た。

 

「あたしが許したことにしないで」

 

その声は、先ほどより低かった。

 

「会わないことも、何も言わないことも、あいつの償いを認めたって意味じゃない。逆に、怒ってるからって、あたしが復讐だけを望んでることにもしないで」

 

担当者は、静かに頷いた。

 

「あなたの意思として、そのまま記録します」

 

「よろしく」

 

マグネは書類から手を離した。

 

これで何かが解決したわけではない。

 

怒りが消えたわけではない。

 

治崎にされたことが、なかったことになったわけでもない。

 

それでも、少なくとも一つ、彼女自身の意思が形になった。

 

彼と関わらないことを、自分で選んだ。

 

彼の反省を見届ける義務を負わないことを、自分で選んだ。

 

彼が償うかどうかと、自分がどう生きるかを切り離すことを、自分で選んだ。

 

マグネは椅子から立ち上がった。

 

「……ねえ」

 

担当者が顔を上げる。

 

「今度、あたしが何かを望んだときは、そのときに聞いて。今のあたしが何を望んでるかと、明日のあたしが何を望むかは、同じとは限らないから」

 

「分かりました」

 

「一度決めたことでも、あとで変えていいんでしょ?」

 

「もちろんです」

 

マグネは笑った。

 

今度は、ほんの少しだけ、いつもの彼女らしい笑顔だった。

 

「なら、いいわ」

 

彼女は部屋を出た。

 

廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。

 

何かを許したわけではない。

 

何かを忘れたわけでもない。

 

ただ、自分の未来について、他人の都合で先回りして決められることを拒んだのだ。

 

それは小さな選択だった。

 

しかし、彼女にとっては、誰にも渡してはいけない選択だった。

 

四 記録に残らないことを、記録から消さない

治崎は、提出した書類の確認を続けていた。

 

誤記を直す。

 

抜けている資料を探す。

 

自分が把握していた命令や取引について、分かる範囲で補足する。

 

それは、決して華々しい作業ではなかった。

 

誰かが彼の改心を称賛することもない。

 

過去の罪が、一つずつ消えていくわけでもない。

 

むしろ、情報が整理されるほど、自分が関与した範囲の広さが明らかになっていった。

 

一つの計画を動かすために、彼は多くの人間を関係づけた。

 

組織の構成員を、計画の一部として扱った。

 

目的に都合のよい情報を選び、不都合な事実を後回しにした。

 

そして、そうした行動を繰り返したことで、何をしているのかを、自分自身にすら見えにくくしていた。

 

治崎は、ある資料の前で手を止めた。

 

それは、マグネに関する記録だった。

 

当時の状況。

 

彼女が組織に属していた経緯。

 

事件に至るまでに起きたこと。

 

自分が下した判断。

 

そこに書かれている文字は、必要な情報を並べたものにすぎない。

 

彼女がどんなことを考えていたのか。

 

何を楽しみにしていたのか。

 

何を恐れていたのか。

 

何を選びたかったのか。

 

そうしたことを、彼は知らなかった。

 

いや。

 

知ろうとしていなかった。

 

彼女について知っていたのは、自分の組織に関わる人間であること。

 

自分の計画に組み込まれた存在であること。

 

そして、自分が命を奪った相手であること。

 

それだけだった。

 

「……」

 

治崎は、記録の余白に何かを書こうとした。

 

しかし、やめた。

 

そこに想像で言葉を書き足すことは、できない。

 

彼女が何を望んでいたのか、今の自分には分からない。

 

分からないことを、分かったように書くべきではなかった。

 

彼は担当者を呼び、確認した。

 

「この記録についてだが」

 

「はい」

 

「俺が把握している事実と、俺が知らなかったことを分けて記載したい」

 

「それは適切だと思います」

 

「彼女の意思や考えについて、俺が推測したことは、事実として扱うべきではない」

 

「その通りです」

 

「……俺が知らなかったという事実そのものも、残しておくべきだろう」

 

担当者は頷いた。

 

「あなたが把握していたことと、把握していなかったことを明確にするのは、記録の正確性という意味でも重要です。ただし、知らなかったから責任がない、ということにはなりません」

 

「分かっている」

 

治崎はそう答えた後、一度、口を閉じた。

 

また同じ言葉を使ってしまった。

 

本当に分かっていると、簡単に断言していいものなのか。

 

彼は、言葉を改めた。

 

「……その点も理解しているつもりだ」

 

担当者は、特に何も言わなかった。

 

治崎は続けた。

 

「俺が知らなかったのは、俺が必要ないと判断したからだ。確認する必要を感じなかった。相手の考えを聞かずとも、俺の計画は成立すると考えていた」

 

ペンを持つ。

 

「その判断が、何を見落としたのか。そこは記録しておきたい」

 

彼は書き始めた。

 

『私は、本人が何を望んでいるかを確認しなかった。本人の意思が、私の計画を左右する必要はないと判断したためである』

 

一度、ペン先が止まった。

 

その下に、さらに書き加えた。

 

『私は、その判断を合理性と呼んでいた。しかし、相手の意思を確認しないことと、相手の意思が存在しないことは同じではない』

 

書き終えた後、治崎はしばらく紙を見つめていた。

 

これは、彼女の気持ちを完全に理解できたという証明ではない。

 

むしろ、その逆だった。

 

自分は彼女のことを知らない。

 

自分が彼女に何をしたのか、そのすべてを想像することさえできない。

 

だからこそ、彼女が選んだことを、勝手に自分の理解の中へ押し込めてはならない。

 

彼女が望まないなら、近づかない。

 

彼女が答えないなら、答えを捏造しない。

 

彼女が何も望まないなら、その選択を、彼女が何も感じていない証拠にしない。

 

そして、彼女が将来、今とは違う選択をしたとしても、それを自分への評価だと決めつけない。

 

彼女の未来は、彼に対する態度だけで構成されているわけではないからだ。

 

「……これを、提出する」

 

治崎は記録をまとめた。

 

「確認します」

 

担当者が資料を受け取る。

 

「ただし、これを提出したからといって、すべての問題が解決するわけではありません」

 

「分かっている」

 

今度は、治崎もその言葉を軽く扱わなかった。

 

「記録の確認も、責任の判断も、まだ続く。俺がしたことを、これからどう扱うかは、俺一人で決められることではない」

 

「はい」

 

「そして……」

 

治崎は、少しだけ言葉を探した。

 

「マグネが、俺をどう思うかもだ」

 

担当者は頷いた。

 

治崎は資料から手を離した。

 

彼ができることは、彼がするべきことをすることだけだ。

 

それは、彼女の反応を得るためではない。

 

許しを勝ち取るためでもない。

 

自分の罪を小さく見せるためでもない。

 

奪ったものを、すべて返せるわけではない。

 

失われた未来を、元どおりにできるわけではない。

 

しかし、だからといって何もしなくていいことにはならない。

 

彼には、まだ行動する余地が残されている。

 

その余地を、今度こそ自分の利益だけのために使わない。

 

治崎は、机の上を片づけ始めた。

 

反省文は完成していない。

 

償いも終わっていない。

 

だが、記録の最初の束は、ようやく彼の手を離れた。

 

五 受け取られない謝罪

数日後。

 

治崎は、今後の手続きについて説明を受けていた。

 

彼が提出した記録の確認は、まだ続いている。

 

すべてが確認されたわけではない。

 

本人の記憶だけでは、証明できないこともある。

 

彼が関わった計画の全容を明らかにするには、さらに調査が必要だった。

 

そして、被害を受けた人々への対応も、個々の事情を確認しなければならない。

 

治崎は、説明を聞きながら、一つのことを尋ねた。

 

「マグネの回答は、どうなった」

 

担当者は書類を確認した。

 

「本人の意思は、すでに記録されています。直接の連絡や面会を望んでいません」

 

「……そうか」

 

「彼女の希望に従い、今後も直接接触は行わないことになっています」

 

「分かった」

 

治崎は、それ以上、尋ねなかった。

 

彼女がどのような表情でその意思を告げたのか。

 

怒っていたのか。

 

悲しんでいたのか。

 

自分に対して何か言いたいことがあったのか。

 

そうしたことを知りたいという気持ちは、確かに存在した。

 

けれど、彼女は、自分と関わらないことを選んだ。

 

その意思を受け取った以上、彼がそれ以上の説明を要求することはできなかった。

 

「……彼女が望む対応を、優先してくれ」

 

「そのように進めます」

 

「俺への説明は、手続きに必要な範囲でいい」

 

担当者は、少し意外そうな顔をした。

 

治崎が自分から情報を求めることをやめるのは、これまでの姿勢とは違っていたからだろう。

 

だが、彼は、それ以上のことを言わなかった。

 

マグネが自分を拒絶した。

 

その事実を、彼は自分に都合よく解釈しない。

 

彼女は自分を許していない。

 

だから自分の反省は無意味なのだ、とも考えない。

 

自分が接触を拒まれたことを、彼女がまだ怒っている証拠だと決めつけることもしない。

 

彼女が何を考えているかは、彼女にしか分からない。

 

ただ、今の彼女は、自分と関わらないことを望んでいる。

 

それが、今の彼が知るべき事実だった。

 

「……一つだけ、確認したい」

 

治崎は言った。

 

「俺が提出した記録は、彼女が受け取らなくても、手続きの中で扱われるのか」

 

「はい。本人が直接受け取ることを望まない場合でも、必要な調査や責任の確認は別途進められます」

 

「補償についてもか」

 

「本人の意思や事情を確認しながら検討します。本人が関与したくない場合に、無理に協力を求めることはしません」

 

治崎は目を閉じた。

 

「……そうか」

 

それなら、少なくとも、自分の償いを彼女に背負わせずに進められる。

 

いや。

 

償いを進められるという言い方も、少し違うのかもしれない。

 

彼が行っているのは、まず、責任を明らかにすることだ。

 

自分が何をしたのか。

 

何を隠したのか。

 

誰にどのような影響を与えたのか。

 

その事実を明らかにし、必要な責任を負うこと。

 

それが、償いの始まりだった。

 

彼女がそれを知るかどうかは、彼女が決める。

 

彼女が何かを受け取るかどうかも、彼女が決める。

 

彼女が彼の行動に価値を感じるかどうかも、彼女が決める。

 

そして、彼女が何も望まなかったとしても、彼が責任を果たすことは変わらない。

 

治崎は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……分かった。続けてくれ」

 

担当者は頷いた。

 

説明が終わり、治崎は部屋から案内された。

 

廊下の途中で、彼は足を止めた。

 

窓の外には、人々の姿があった。

 

誰かが歩いている。

 

誰かが話している。

 

誰かが荷物を運び、誰かが立ち止まり、誰かが自分の行きたい方向へ進んでいる。

 

誰もが、治崎の存在を知らないまま、自分の生活を続けていた。

 

彼は、今まで、そのような日常をあまり意識したことがなかった。

 

自分が何をしようとしているのか。

 

自分の計画が何を実現するのか。

 

そればかりを見ていたからだ。

 

自分の考えが正しいと証明されれば、世界は変わる。

 

自分の計画が完成すれば、社会の問題は解決する。

 

そう信じていた。

 

その一方で、自分の計画が完成しなくても、世界には人々が生きている。

 

彼の計画とは関係なく、人々は何かを望み、何かを選び、何かを失いながら、それぞれの未来へ向かっていく。

 

マグネも、その一人だった。

 

彼女の未来は、彼が奪ったものだった。

 

けれど、その未来を、今度こそ自分が決めるわけにはいかない。

 

治崎は窓から視線を外した。

 

自分が償うことによって、彼女が何を思うのかは分からない。

 

彼女が、いつか自分の名前を忘れるかもしれない。

 

怒りとともに覚えているかもしれない。

 

あるいは、まったく別の感情を抱くようになるかもしれない。

 

どれでもいい、とは言えなかった。

 

彼女が忘れたらいいと願うことさえ、今の彼にとっては、自分の望みを押しつけることになり得る。

 

彼女が怒り続けることを望んでいるわけでもない。

 

自分に対して、こう思ってほしい。

 

こうなってほしい。

 

そうした願いを、彼女の生き方に重ねてしまうこと自体が、問題なのだ。

 

治崎は、歩き始めた。

 

謝罪は、相手が受け取らなければ成立しない言葉なのかもしれない。

 

けれど、責任は、相手が受け取らなくても存在する。

 

言葉を届けられないからといって、何もしなくていいわけではない。

 

許されないからといって、責任から逃げていいわけでもない。

 

そして、償いを続けることによって、必ず許されると期待していいわけでもない。

 

彼はようやく、その三つを切り離し始めていた。

 

六 償いを、報酬にしない

その日の終わり。

 

治崎は、今後の活動について記された書類を確認していた。

 

そこには、彼自身が実行するべきことが並んでいる。

 

事実関係の説明。

 

未提出の資料の確認。

 

必要な調査への協力。

 

被害に関する記録の提供。

 

関連する手続きへの対応。

 

そして、継続的な確認。

 

どれも、一度実行すれば終わるものではない。

 

新たな事実が見つかれば、追加の説明が必要になる。

 

過去に自分が書いた記録が不正確だったと分かれば、訂正しなければならない。

 

自分にとって不都合な情報が出てきても、隠さずに対応する必要がある。

 

治崎は、その書類を読み終えた。

 

「……確認した」

 

担当者が尋ねる。

 

「内容に異議はありませんか」

 

「現時点ではない」

 

「今後、内容の変更や追加が必要になる可能性もあります」

 

「その場合は、対応する」

 

治崎は署名した。

 

そこに、劇的な変化はなかった。

 

彼の顔つきが突然穏やかになったわけでもない。

 

過去を思い出して涙を流したわけでもない。

 

自分の犯した罪を、完全に理解したと宣言したわけでもない。

 

彼はただ、書類に署名した。

 

その署名によって、失われた命が戻るわけではない。

 

傷つけられた人間が、すぐに安心できるわけでもない。

 

誰かが彼を許すわけでもない。

 

それでも、彼は署名した。

 

自分がやるべきことだからだ。

 

「……これで、俺ができることは何だ」

 

治崎は尋ねた。

 

担当者は書類を受け取りながら答えた。

 

「記録の提出を続け、必要な確認に応じることです。こちらから追加の説明を求める場合もあります。責任の判断については、今後の手続きに従ってください」

 

「それ以外には?」

 

「現時点で、被害を受けた方に直接働きかけることはできません」

 

「そうか」

 

「あなたが何かをしたいと思っても、それが相手にとって望ましいこととは限りません。まずは、現在求められている対応を行ってください」

 

治崎は、短く頷いた。

 

自分の行動のすべてを、自分の考えで決めることはできない。

 

もちろん、何も考えなくていいわけではない。

 

判断する責任は残る。

 

だが、自分の判断を、他人の意思より上に置いていいわけではなかった。

 

彼は、かつて「社会を治す」と言った。

 

壊理の力を使えば、社会の仕組みそのものを変えられる。

 

そう考えた。

 

しかし、その考えの中には、壊理本人の望みがなかった。

 

彼女が何を恐れているのか。

 

何を望んでいるのか。

 

何をされたくないのか。

 

それらを、計画の中心に置かなかった。

 

自分が望む結果を実現するために、彼女の身体を利用した。

 

今になって、その過ちを認め始めている。

 

だからこそ、今度は、自分の償いを成功させるために、マグネの感情を利用してはならない。

 

彼女が許してくれたら、償いは成功。

 

彼女が許してくれなければ、失敗。

 

そんな形にしてしまえば、また、彼女の意思を自分の結果に組み込むことになる。

 

「……俺は」

 

治崎は、静かに言った。

 

「自分の罪を償うことを、何かの成果にしたかったのかもしれない」

 

担当者は何も言わず、聞いていた。

 

「記録を提出する。責任を認める。被害への対応を進める。そうすれば、最後には何らかの結果が得られると考えていた」

 

「結果が得られること自体は、悪いことではありません」

 

「……ああ」

 

「ただし、その結果があなたにとって望ましいものになるとは限りません」

 

「分かっている」

 

治崎は一度、目を伏せた。

 

「俺は、自分が何をしたかを認める。それによって、何かが戻ると期待するべきではない」

 

「はい」

 

「失ったものを取り戻すために償うのではない。少なくとも、それだけではない」

 

彼は、自分の言葉を確かめるように続けた。

 

「俺が奪ったものがあるから、責任を果たす。その責任を果たした結果、何かが戻るかどうかは、俺が決めることではない」

 

担当者は、静かに頷いた。

 

治崎は顔を上げた。

 

「……これでいいのか」

 

その問いは、以前の彼なら決して口にしなかったものだった。

 

正解を求める。

 

正解を定める。

 

正解から外れるものを排除する。

 

それが、彼のやり方だった。

 

今は、自分が正しいかどうかを、自分一人で決めていいのか分からなくなっている。

 

それは、ただ迷っているというだけではなかった。

 

自分の判断を絶対のものとして扱わないために、必要な迷いでもあった。

 

担当者は、安易に答えを与えなかった。

 

「今、あなたが話したことは、考え方として重要だと思います。ただ、それをもって、すべてが解決したとは言えません」

 

「……そうだな」

 

「これからの行動を見ていく必要があります」

 

治崎は、短く息を吐いた。

 

「なら、続ける」

 

誰かに認められるためではない。

 

誰かに許されるためだけでもない。

 

自分が犯した罪から、目を逸らさないために。

 

そして、これ以上、他人の未来を自分の計画のために利用しないために。

 

償いは、相手が受け取らなくても続けなければならない。

 

相手が許してくれなくても、続けなければならない。

 

相手が何も言わなくても、続けなければならない。

 

それは、彼にとって初めての経験だった。

 

誰も保証してくれない道。

 

どこまで進めば終わるのか、分からない道。

 

進んだからといって、過去を取り戻せるわけではない道。

 

それでも、進む。

 

治崎は、机の上の書類をまとめた。

 

自分がこれから何をしていくべきなのか。

 

すべてを理解できたわけではない。

 

だが、少なくとも、してはならないことの一つは理解し始めていた。

 

償いを、相手から何かを得るための取引にしてはならない。

 

謝罪を、許しを要求するための道具にしてはならない。

 

反省を、罪を帳消しにするための証明にしてはならない。

 

そして、相手の未来を、自分の更生物語の一部にしてはならない。

 

「……マグネ」

 

その名が、口からこぼれた。

 

返事はない。

 

当然だった。

 

彼女はここにいない。

 

彼女は、自分と関わらないことを選んだ。

 

治崎は、その事実を受け入れた。

 

彼女に伝えたい言葉は、まだある。

 

けれど、それを伝えないという選択をすることも、自分には求められている。

 

言葉を届けることが、いつでも誠実な行動とは限らない。

 

沈黙が、必ずしも逃げであるとは限らない。

 

相手が望んでいない接触を避けるために、言葉を飲み込むこともある。

 

彼は目を閉じ、やがて開いた。

 

「……俺は、俺の責任を果たす」

 

それは、彼女に向けた宣言ではなかった。

 

彼女に聞かせるための言葉でもなかった。

 

自分自身が、これから守るべき約束だった。

 

その約束を守り続けられるかどうかは、未来の彼自身が証明しなければならない。

 

今の彼にできるのは、その一歩を踏み出すことだけだった。

 

七 怒りを、誰かの更生に使わせない

一方、マグネは街を歩いていた。

 

用事を終えた帰り道だった。

 

少し前なら、こんな時間に外を歩くことさえ、もっと違った感覚で受け止めていたかもしれない。

 

今も、何もかもが元どおりになったわけではない。

 

死ぬ前の生活と、今の生活は同じではない。

 

自分が経験したことを、簡単に説明することもできない。

 

周囲の人間が、自分のことをどう見ているのか。

 

以前と同じように接してくれる人がいる。

 

気を遣いすぎて、かえって距離を取る人もいる。

 

何を話せばいいのか分からず、ただ黙っている人もいる。

 

そうした反応の一つひとつに、マグネは疲れることがあった。

 

生き返ったのだから、前向きに生きればいい。

 

命が戻ったのだから、過去を乗り越えればいい。

 

そんな言葉を、面と向かって言われたわけではない。

 

けれど、人々が自分に期待するものを、彼女は感じることがあった。

 

せっかく与えられた未来なのだから。

 

今度こそ、幸せになれるように。

 

そんな願いは、悪意から生まれたものではないのだろう。

 

ただ、それを受け止める側にも、都合がある。

 

自分は、まだ怒っている。

 

忘れていない。

 

納得できないこともある。

 

それなのに、未来を取り戻したのだから、前向きにならなければいけない。

 

そう考え始めれば、今度は別の形で、自分の感情を押し殺すことになってしまう。

 

マグネは足を止め、店先に並んでいる商品を眺めた。

 

特別なものではない。

 

日用品。

 

食べ物。

 

小さな雑貨。

 

そこに並んでいるものは、彼女の過去とは関係がなかった。

 

誰かの計画のために用意されたものでもない。

 

誰かの反省を証明するための道具でもない。

 

彼女が欲しければ、手に取ることができる。

 

気に入らなければ、買わなくてもいい。

 

そんな当たり前のことに、ふと目が留まった。

 

「……あたし、何してんだろ」

 

独り言が漏れた。

 

治崎のことを考えていた。

 

これから彼がどうなるのか。

 

どれほど反省するのか。

 

責任をどう取るのか。

 

自分のことを、どう思っているのか。

 

知りたくないと言ったはずだった。

 

直接連絡を望まないとも伝えた。

 

彼の気持ちを受け止める必要はない、と自分で決めた。

 

それなのに、気づけば彼のことを考えている。

 

許せない。

 

許したくない。

 

忘れたくない。

 

そんな気持ちがあるのは、仕方がない。

 

自分が経験したことを、無理に美しい話へ変える必要はない。

 

けれど。

 

自分の頭の中に、いつまでも治崎がいる。

 

何かを決めようとすると、治崎のことが浮かんでくる。

 

何かを楽しもうとすると、治崎にされたことを思い出す。

 

自分の怒りは正しい。

 

そう思うたびに、その怒りを保ち続けることまで、自分に課してしまう。

 

もし明日、少しだけ気分が軽くなったら。

 

もし、治崎のことを考えない時間が増えたら。

 

もし、彼とは関係のないことで笑えるようになったら。

 

それは、彼を許したことになるのだろうか。

 

自分が経験したことを、軽く扱うことになるのだろうか。

 

マグネは、ゆっくりと息を吸った。

 

「……違うわね」

 

彼女は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。

 

治崎を許すかどうかと、自分が笑うかどうかは、別のことだ。

 

彼のことを忘れないことと、彼のことだけを考え続けることも違う。

 

怒っていることと、怒り以外の感情を持たないことも違う。

 

自分の未来を取り戻すというのは、過去のことを一切考えなくなることではない。

 

過去に何をされたのかを忘れないままでも、これから何をするかを選ぶことはできる。

 

治崎を許さなくてもいい。

 

彼に謝罪してもらう必要もない。

 

彼の更生を見届ける必要もない。

 

彼に罰を与え続けることだけが、自分の人生の目的になる必要もない。

 

マグネは、もう一度、店先を見た。

 

小さな雑貨の中に、目に留まるものがあった。

 

特別な意味はない。

 

事件とも、治崎とも、何の関係もない。

 

ただ、少し気に入った。

 

彼女は店に入り、それを手に取った。

 

店員が声をかける。

 

「そちら、気になりますか?」

 

「ええ。ちょっとね」

 

「色違いもありますよ」

 

「へえ。じゃあ、そっちも見せて」

 

そんな会話を交わす。

 

短い、何でもないやり取りだった。

 

彼女が何を考えているか、店員は知らない。

 

彼女が誰に殺されたのかも、知らない。

 

彼女が怒っていることも、知らない。

 

知らないまま、普通に接している。

 

マグネは、そのことに少しだけ救われた。

 

もちろん、それがすべてではない。

 

過去の事件を理解してくれる人も必要だ。

 

怒りを受け止める場も必要だ。

 

自分が経験したことを、言葉にできる場所も必要だろう。

 

けれど、何も知らないまま、ただ一人の客として接してくれる人がいることも、悪くなかった。

 

自分は、被害者である前に、今を生きている人間でもある。

 

誰かの罪を証明するために存在しているわけではない。

 

誰かが更生する物語の中で、重要な役割を果たすために生きているわけでもない。

 

自分のために何かを選んでいい。

 

自分が好きだと思ったものを、好きだと言っていい。

 

何かを楽しんでもいい。

 

楽しくない日があってもいい。

 

怒りが消えない日があってもいい。

 

それらを、誰かに許可してもらう必要はなかった。

 

「……これ、もらうわ」

 

マグネは、気に入った品を店員に差し出した。

 

それは大きな買い物ではなかった。

 

人生を一変させるような選択でもなかった。

 

ただ、自分が欲しいと思ったから買った。

 

自分が選んだ。

 

誰かの計画とは関係なく。

 

誰かへの復讐とも関係なく。

 

誰かを許すためでもなく。

 

彼女自身のために。

 

店を出たマグネは、袋を手に持ち、再び歩き始めた。

 

その歩みは、過去を捨て去った人間のものではなかった。

 

過去を抱えたまま、それでも自分の行き先を考えようとしている人間のものだった。

 

八 答えを与えないという責任

その後も、治崎の手続きは続いた。

 

記録の確認。

 

不足資料の提出。

 

関係する事実の説明。

 

彼が以前、正しいと考えていた判断の検証。

 

新たに判明したことがあれば、追加の対応が求められた。

 

治崎にとって、決して楽な時間ではなかった。

 

自分が忘れたかったことも、認めたくなかったことも、記録の中では一つの事実として扱われる。

 

彼がどれだけ合理的だったと主張しても、その結果によって誰が傷ついたのかは、別に確認される。

 

彼が何を考えていたかという説明は、責任を判断するための一つの情報にはなっても、免罪符にはならない。

 

それでも、彼は資料を提出し続けた。

 

自分に都合のよい部分だけを残さない。

 

分からないことを、分かったふりで埋めない。

 

確認できないことを、確定した事実として扱わない。

 

そして、他人の意思を、本人に代わって記載しない。

 

その一つひとつは、目立たない。

 

だが、彼が今まで避けてきたことばかりだった。

 

ある日、彼は担当者に尋ねた。

 

「……俺が今後、何かを償うために行動するとして、それが相手の望むものではなかった場合はどうなる」

 

「具体的な内容によります」

 

「たとえば、補償を申し出たとする。相手が望まなかった場合、俺は何もしないことになるのか」

 

「相手が望まない方法で、無理に補償を受け取らせることはできません。ただ、あなたが負うべき責任までなくなるわけではありません」

 

「……つまり」

 

「被害を受けた方の意思を尊重することと、加害者が責任を果たすことは、別々に考える必要があります」

 

治崎は黙った。

 

「相手が何を望むかを確認することは重要です。しかし、相手にあなたの償いの方法をすべて考えてもらう必要はありません。あなた自身ができる責任の取り方について、検討することも必要です」

 

「……被害者に、俺の償いを設計させるなということか」

 

「少なくとも、あなたの行動の全てを決める役割まで、相手に負わせるべきではありません」

 

治崎は、その言葉をしばらく考えた。

 

マグネが彼に関わらないと決めた。

 

その事実は、彼の責任が消えたことを意味しない。

 

彼女に接触できないのであれば、ほかの手続きの中で、自分が果たすべき責任を考える必要がある。

 

彼女に、償い方を教えてもらうわけにはいかない。

 

彼女に、自分の罪を理解するための教材になってもらうわけにもいかない。

 

彼女に、自分が更生できるかどうかを見届けてもらうわけにもいかない。

 

「……分かった」

 

治崎は言った。

 

「彼女が関わらないことを選んだなら、その選択を前提にして、俺ができる対応を進める」

 

「はい」

 

「彼女が関わらないことを、俺の判断への賛成と解釈することもない」

 

「その通りです」

 

「反対に、拒絶されたからといって、俺の行動に意味がないと決めることもない」

 

担当者は頷いた。

 

「あなたが責任を果たすことと、彼女がどう受け止めるかは、別の問題です」

 

治崎は小さく息を吐いた。

 

「……面倒な話だな」

 

「そうですね」

 

担当者は、思いのほか率直に答えた。

 

治崎は一瞬、言葉を失った。

 

相手は、彼を安心させようとはしなかった。

 

償いがどれだけ大切かを説き、彼の理解を褒めることもしなかった。

 

ただ、面倒なことだと認めた。

 

それが、かえって現実的だった。

 

責任を果たすことは、いつでも気持ちよく進められるとは限らない。

 

何をしても、取り返せないものが残る。

 

誠実に対応しても、相手から何も返ってこないことがある。

 

その結果を受け入れながら、必要な行動を続ける。

 

美談ではない。

 

成功が保証された計画でもない。

 

「……俺は、これまで、複雑な問題を一つの答えにまとめようとしてきた」

 

治崎は言った。

 

「複雑だからこそ、管理する必要があると考えていた。全員が同じ方向を向けば、問題を解決できると」

 

「それが、あなたのこれまでの考え方だったのですね」

 

「ああ。だが、全員の意思が同じ方向を向くという前提そのものが、間違っていたのかもしれない」

 

彼は、窓の外を見た。

 

「相手が許すかどうか。何を望むか。何を受け取るか。そうしたことを、俺が決めることはできない。俺の償いについても、俺が望む結果だけを正解とするわけにはいかない」

 

担当者は、静かに答えた。

 

「それを理解したうえで、今後も対応を続ける必要があります」

 

「……ああ」

 

治崎は頷いた。

 

「続ける」

 

彼はもう、許しを約束として求めない。

 

反省を成果として差し出さない。

 

自分が変わったことを、誰かに証明してもらおうとしない。

 

もちろん、そうした願いが完全に消えたわけではなかった。

 

自分の行動を認めてもらいたいと思うことは、まだある。

 

かつての自分とは違うと、誰かに知ってほしいと思う瞬間もある。

 

しかし、その願いを、自分が責任を果たす理由にすることはやめようとしていた。

 

彼が償うのは、褒められるためではない。

 

許されるためだけでもない。

 

誰かが自分を必要としていると感じるためでもない。

 

自分が奪ったものがあり、その責任から逃げてはならないからだ。

 

治崎は椅子から立ち上がった。

 

「次の確認資料を用意しておく」

 

「お願いします」

 

部屋を出る直前、彼は一度、振り返った。

 

「……もし、いつか彼女が自分から何かを伝えてきた場合は」

 

「そのときに、本人の意思を確認しながら対応します」

 

「俺が勝手に、それを謝罪を受け取ってくれたという意味にすることは許されないな」

 

「はい」

 

治崎は頷いた。

 

「なら、そうならないようにする」

 

それだけ言って、部屋を出た。

 

マグネが、いつか彼に何かを伝える日が来るのか。

 

来ないのか。

 

それは分からない。

 

そして、分からないままでよかった。

 

彼女の未来を、彼の期待の中に閉じ込めないために。

 

九 それぞれの人生を、別々に歩く

夕方。

 

マグネは、買い物袋を手に帰路についていた。

 

袋の中には、先ほど買った小さな品が入っている。

 

それ以外には、たいしたものは入っていなかった。

 

だが、彼女は、何度か袋を持ち直しながら歩いた。

 

自分で選んだもの。

 

自分が気に入ったもの。

 

それを持って帰る。

 

ただそれだけの行為だった。

 

途中、彼女は少し立ち止まった。

 

遠くから、人々の話し声が聞こえてくる。

 

子供が笑っている。

 

誰かが誰かを呼んでいる。

 

店先で、店員が客に礼を言っている。

 

何でもない光景だった。

 

それらは、自分が生きていた頃にもあったはずだ。

 

そして、自分が命を奪われた後も、続いていたのだろう。

 

世界は、自分のために止まっていたわけではない。

 

治崎の計画のためだけに動いていたわけでもない。

 

誰かが生き、誰かが死に、誰かが何かを願い、誰かがその願いを叶えようとする。

 

ときには、その願いが誰かを傷つけることもある。

 

だからこそ、願いがあることだけを理由に、何をしても許されるわけではない。

 

自分が望む未来を持つことと、他人の未来を奪うことは違う。

 

そして、自分が他人に未来を奪われたからといって、その後の人生まで、その人間に渡さなければならないわけではない。

 

マグネは空を見上げた。

 

夕暮れの色が、ゆっくりと変わっていく。

 

治崎は、自分の罪を償おうとしている。

 

それは、彼が決めたことだ。

 

彼は彼で、自分がしたことに責任を負わなければならない。

 

自分は、自分の人生を生きる。

 

それは、別々のことだ。

 

彼が反省することと、自分が幸せになることは、同じ計画の中に置く必要はない。

 

彼が苦しんでいるからといって、自分が彼の苦しみを和らげる義務を負うわけではない。

 

彼が謝罪したいと思っているからといって、自分がその言葉を聞く必要はない。

 

彼が変わったと証明したいからといって、自分がその証明を認める必要もない。

 

それでも、彼が責任を果たすことは、必要なことなのだろう。

 

自分が見ていなくても。

 

自分が知らなくても。

 

自分が認めなくても。

 

彼が何をしたのかという事実が消えるわけではないからだ。

 

マグネは、袋を持ち直した。

 

「……あたしは、あたし」

 

口に出してみると、少しだけ、しっくりきた。

 

自分は、マグネだ。

 

かつての仲間と過ごした時間がある。

 

自分なりの考え方がある。

 

好きだったものがある。

 

嫌いなものがある。

 

腹が立つこともある。

 

笑いたいこともある。

 

これから、新しく好きになるものもあるかもしれない。

 

もう一度、誰かを信じようと思う日が来るかもしれない。

 

来ないかもしれない。

 

今は、まだ分からない。

 

だが、そのどれも、治崎の罪に対する答えである必要はなかった。

 

自分が何かを選ぶたびに、彼との関係を説明しなければならないわけではない。

 

彼を許すかどうかを決めなければ、未来へ進めないわけでもない。

 

許さないままでいい。

 

怒りが残っていてもいい。

 

忘れたくなくてもいい。

 

そのうえで、自分の未来に、彼以外のものを置いていい。

 

マグネは、再び歩き始めた。

 

その先に何があるのかは分からない。

 

しかし、それを決めるのは、彼女自身だった。

 

十 許されないまま、責任を果たす

治崎は、最後の書類を提出した。

 

もちろん、それですべてが終わったわけではない。

 

提出した記録には、今後も確認が必要な部分が残っている。

 

関係者への聞き取りも、追加資料の確認も、責任の判断も、続いていく。

 

彼がしたことのすべてを、短期間で明らかにできるわけではない。

 

その中には、彼自身が忘れていたこともあるだろう。

 

自分では重要ではないと思い、記録に残さなかったこともあるだろう。

 

だからこそ、今後も確認が必要だった。

 

治崎は、提出控えを受け取った。

 

「……これで、俺が現時点で提出できる資料は以上だ」

 

「確認します。追加で必要なものがあれば、改めて連絡します」

 

「分かった」

 

彼は立ち上がり、軽く頭を下げた。

 

その動作に、特別な意味はなかった。

 

感謝を伝えるためのものでも、許しを求めるためのものでもない。

 

ただ、手続きを進めた相手に対して、頭を下げた。

 

部屋を出ると、廊下は静かだった。

 

治崎は、しばらくそこに立っていた。

 

過去の自分なら、今の状況をどう考えるだろう。

 

自分の力は戻らない。

 

かつての地位も戻らない。

 

組織があった頃の自分には、戻れない。

 

自分の罪を認めても、何かが与えられるわけではない。

 

マグネは自分との接触を拒否した。

 

彼女は謝罪を受け取ることを望んでいない。

 

今後、彼女が自分をどう思うのかも、分からない。

 

かつての治崎なら、失敗だと判断したかもしれない。

 

自分の努力が報われていない。

 

望む結果に届いていない。

 

自分の考えが、相手に認められていない。

 

そう考え、何かを変えようとしただろう。

 

もっと正確に説明すればいい。

 

もっと強く説得すればいい。

 

もっと確実に、望む結果へ向かう仕組みを作ればいい。

 

しかし、それでは、結局同じ場所へ戻ってしまう。

 

彼は、廊下の窓を見た。

 

外には、帰路につく人々がいた。

 

治崎とは関係のない人々。

 

マグネとも関係のない人々。

 

自分が何をしたのかを知らない人々。

 

彼らは、彼の罪を許すために生きているわけではない。

 

彼が更生したことを証明するために、そこにいるわけでもない。

 

世界は、彼の物語を完成させるために存在しているわけではなかった。

 

その当たり前のことを、治崎は、ようやく少しだけ理解し始めていた。

 

「……俺は」

 

言葉が漏れた。

 

「何も、取り戻せていないな」

 

失われたものは、失われたままだ。

 

それが現実だった。

 

そして、取り戻せないという現実は、何もしなくていいという意味ではない。

 

過去を変えることはできない。

 

だからこそ、過去から目を逸らしてはならない。

 

マグネが彼を許さないとしても、責任は残る。

 

彼女が自分を忘れたとしても、責任は残る。

 

彼女がこれから幸せになったとしても、責任は残る。

 

彼女が、彼とは無関係な未来を選んだとしても、責任は残る。

 

治崎は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……それでいい」

 

その声は、小さかった。

 

自分が許されないことを、望んでいるわけではない。

 

自分が永遠に苦しめばいいと、考えているわけでもない。

 

ただ、許されることを、責任を果たすための条件にしない。

 

自分が許されなかったら何もできない、という考え方を捨てる。

 

償いは、相手の意思を尊重することから始まる。

 

相手の意思が、自分の望むものではなかったとしても。

 

相手が自分を拒んだとしても。

 

相手が何も言わなかったとしても。

 

その意思を、自分の都合で塗り替えない。

 

治崎は、窓から目を離した。

 

今の彼には、まだ多くの責任が残っている。

 

これから何をするべきなのか、すべて分かっているわけでもない。

 

自分の考え方が、本当に変わったのかどうか。

 

それを証明するのは、今の言葉ではない。

 

これからの行動だ。

 

同じ過ちを繰り返さないこと。

 

自分に都合の悪い事実を隠さないこと。

 

相手の意思を、自分の計画のために利用しないこと。

 

そして、誰かに許してもらうことを、自分が責任を果たすための条件にしないこと。

 

それらを、これから何度も選び続けなければならない。

 

治崎は、そのことを理解していた。

 

完全ではない。

 

確信があるわけでもない。

 

それでも、彼は歩き始めた。

 

誰も見ていなくても。

 

誰も称賛していなくても。

 

マグネが、その行動を知らなくても。

 

彼が自分の罪に向き合うことは、必要だった。

 

彼が犯した罪は、彼のものだ。

 

だからこそ、彼の責任も、彼自身が引き受けなければならない。

 

十一 相手の未来を、償いの結末にしない

夜。

 

マグネは、部屋に戻った。

 

買ってきた品を机の上に置き、袋を畳む。

 

それから、椅子に腰を下ろした。

 

今日一日、治崎のことを思い出さなかったわけではない。

 

担当者との話を思い返した。

 

彼が謝罪を望んでいるという話も、頭の隅に残っていた。

 

自分は、彼を許していない。

 

許すつもりがあるのかどうかも、今は分からない。

 

彼がこれから何をするかも、詳しくは知らない。

 

それでよかった。

 

マグネは、窓の外を見た。

 

夜の街には、いくつもの明かりがあった。

 

一つひとつの明かりの向こうに、人がいる。

 

何かをしている人。

 

これから眠る人。

 

誰かと話している人。

 

一人で過ごしている人。

 

自分と同じように、明日を迎えようとしている人。

 

それぞれに、違う事情がある。

 

同じ出来事を経験しても、同じ感情を抱くとは限らない。

 

同じ傷を受けても、同じ道を歩くとは限らない。

 

そして、同じ未来を望むとは限らない。

 

治崎は、自分がしたことを償おうとしている。

 

マグネは、自分がこれからどう生きるかを考えようとしている。

 

二人の人生は、過去の一つの出来事によって結びついてしまった。

 

だが、その先まで、同じ道を歩く必要はない。

 

彼が責任を負うことと、彼女が自由になることは、同じ過程で進めなければならないものではない。

 

彼がどれだけ反省しても、彼女の怒りを消すことはできない。

 

彼女がどれだけ未来へ進んでも、彼の罪をなかったことにはできない。

 

それぞれが、それぞれの人生を生きる。

 

その二つは、矛盾しない。

 

「……ねえ、マグネ」

 

彼女は、自分の名を小さく呼んだ。

 

「これから、どうする?」

 

返事はない。

 

自分で自分に問いかけたのだから、当然だった。

 

それでも、彼女は考えた。

 

今すぐ答えを出す必要はない。

 

明日になれば、今日とは違うことを考えているかもしれない。

 

来週になれば、今まで知らなかったものに興味を持つかもしれない。

 

いつか、過去を思い出すことが少なくなるかもしれない。

 

あるいは、思いがけない瞬間に、怒りが強く戻ってくるかもしれない。

 

それでもいい。

 

どれか一つだけを、自分の正しい未来として決めなくていい。

 

復讐だけに生きる必要はない。

 

許しだけを目指す必要もない。

 

誰かに、自分が立ち直ったと証明する必要もない。

 

自分が何かを望んだとき、その理由を、治崎との関係だけで説明しなくてもいい。

 

自分は、自分のために生きていい。

 

マグネは椅子から立ち上がり、机の上に置いた品を手に取った。

 

しばらく眺めてから、棚の上に置く。

 

明日になれば、また別のことを考えるだろう。

 

この品を見て、今日のことを思い出すかもしれない。

 

何も思い出さないかもしれない。

 

それも、自分の自由だった。

 

彼女は、明かりを消した。

 

暗闇の中で、目を閉じる。

 

怒りは、まだある。

 

過去も、消えてはいない。

 

けれど、明日もまた、彼女の人生は続く。

 

それは、治崎が与えてくれた未来ではない。

 

彼が償うことによって、ようやく許可される未来でもない。

 

誰かに認めてもらわなければ、進めない未来でもない。

 

自分が選んでいく未来だった。

 

マグネは、静かに息を吐いた。

 

「……あたしの人生だものね」

 

その言葉は、誰かに聞かせるためのものではなかった。

 

彼女が、自分自身に返した言葉だった。

 

そして、彼女は眠りについた。

 

エピローグ 別々の明日へ

治崎廻の罪は、消えていない。

 

彼が提出した記録も、彼が認めた過ちも、これから続く手続きも、すべてはその事実を前提としている。

 

彼が反省したからといって、被害が消えるわけではない。

 

彼が責任を果たそうとしているからといって、被害を受けた者が彼を許す義務を負うわけでもない。

 

彼が変わったと感じたからといって、その変化を誰かに認めさせる権利が生まれるわけでもない。

 

治崎は、これからも責任を果たさなければならない。

 

その道がどれほど長くなるのか、彼には分からない。

 

どこまで行けば、十分だと言えるのか。

 

失われたもののうち、どれだけを補えるのか。

 

最後まで補えないものが残るのか。

 

その答えを、今の彼は持っていなかった。

 

しかし、彼はもう、分からないことを理由に、何もしないとは決めていなかった。

 

一方で、マグネの人生も続いていく。

 

彼女は、治崎を許していない。

 

彼と関わることも望んでいない。

 

今後、彼がどのように償うのかを、わざわざ見届ける必要もない。

 

それでも、彼女は未来を選ぶことができる。

 

何を好きになるのか。

 

誰と過ごすのか。

 

どこへ行くのか。

 

何を望むのか。

 

それらを、治崎への怒りだけで決める必要はない。

 

もちろん、怒りを捨てる必要もない。

 

怒りがあることと、怒りだけに支配されることは違う。

 

許さないことと、過去だけに縛られることも違う。

 

マグネは、自分の人生を選び直していく。

 

その過程で、何を思うようになるのかは、誰にも決められない。

 

治崎にも。

 

周囲の人々にも。

 

そして、今のマグネ自身にも。

 

二人の間に、和解はない。

 

握手も、涙の謝罪も、すべてを許すという約束もない。

 

あるのは、消えない過去と、それぞれがこれから引き受ける人生だけだった。

 

だが、それは、何も解決していないという意味ではない。

 

治崎は、自分の罪を償うことを、マグネから何かを受け取るための取引にしないと決め始めた。

 

マグネは、自分の未来を、治崎への怒りだけに支配させないと決め始めた。

 

一人は、他人の人生を自分の計画のために利用することをやめようとしている。

 

もう一人は、自分の人生を他人の罪のためだけに使わないと決めようとしている。

 

二人が別々の道を選ぶことは、過去から逃げることではない。

 

むしろ、過去を消せないまま、その先を生きるという選択だった。

 

治崎は、償いを続ける。

 

マグネは、自分の未来を歩き始める。

 

その道が交わるかどうかは、もう彼が決めることではない。

 

そして、彼女も、今すぐ決める必要はなかった。

 

それぞれの明日は、それぞれのものだった

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