一 「これから、どうするんだ?」
「で?」
向かい側の椅子に座った人物が、マグネの顔を覗き込んだ。
「これから、どうするんだ?」
マグネは、飲み物の入ったカップを持ち上げた。
「……何が?」
「何が、じゃないだろ。これからの話だよ」
「ずいぶん大雑把な質問ねえ」
「大事な質問だろ」
「そりゃあ、大事でしょうよ。人生の話なんだから」
マグネはカップを置いた。
「だからって、今すぐ答えを出さなきゃいけない理由にはならないわ」
相手は困ったように頭をかいた。
「いや、別に急かしてるわけじゃないんだ。ただ……」
言葉が途切れる。
マグネは、その先を待った。
「……あんたには、いろいろあっただろ」
「そうね」
「だから、これからはさ。もう、あんなことに関わらなくていいように、穏やかに暮らせればいいんじゃないかって」
マグネは、少しだけ目を細めた。
「穏やかに暮らせれば、ねえ」
「もちろん、あんたが何をしたいかにもよるけどさ」
「悪い話じゃないわよ。穏やかな暮らし。大歓迎」
彼女は笑った。
けれど、その笑顔は、すぐには続かなかった。
「……でもね」
マグネはカップの中を見つめた。
「それも、あたしが決めることでしょう?」
「そりゃあ、そうだけど」
「周りが安心できるあたしになることと、あたしが望む生き方をすることは、必ずしも同じじゃないわ」
相手は言葉を止めた。
マグネは責めるつもりなどなかった。
自分を心配してくれているのは分かっている。
もう危険な目に遭ってほしくない。
自分を傷つけた相手から離れ、落ち着いた暮らしを送ってほしい。
そう願う気持ちも、理解できる。
ただ、その願いが善意から生まれたものだからといって、それが自分の答えになるとは限らない。
「穏やかに暮らすのも、いいわ。派手に遊ぶのもいい。どこかに行ってみるのもいい。しばらく何も決めないのだって、別に構わないでしょう?」
「……ああ」
「なのに、あたしが一番先に決めなきゃいけないことみたいに扱われると、ちょっと困るのよね」
「悪かった」
「謝らなくていいわよ。あんたは、あんたなりに考えてくれたんでしょうから」
マグネは、再びカップを手に取った。
「たださ。あたし、今まで散々、他人の都合で人生を決められてきたのよ」
その言葉に、相手の表情が変わった。
マグネは、視線を逸らさなかった。
「敵に何をされるか。誰を信じるか。どこに居場所を作るか。自分が何者で、どんなふうに生きるか。自分で選んだことも、もちろんあるわ。でも、選んだはずの場所ごと、奪われることもあった」
治崎廻。
その名を、彼女は口にしなかった。
口にしなくても、相手には伝わっていた。
「……だから、もう一度、未来を決めなきゃいけないんだろうなって思ってる」
「復讐か?」
相手は、すぐに尋ねた。
その言葉が、思いのほかまっすぐに出てしまったことに気づいたのだろう。
「あ、いや……」
マグネは、しばらく黙っていた。
それから、肩をすくめた。
「復讐したいと思う瞬間はあるわよ」
相手の顔が強張った。
「だって、あいつにされたことを、なかったことにはできないもの。あたしが何を失ったのかも、誰に奪われたのかも、分かってる。腹だって立つわ。今でもね」
「……ああ」
「でも」
マグネは、カップを置いた。
「復讐をしないって決めたら、あたしはあいつを許したことになるの?」
相手は答えられなかった。
「怒りが少し薄れたら、あいつの罪を軽く見たことになる? あいつと関係ないことで笑ったら、あたしがされたことなんて大したことなかったって証明になるの?」
「そんなことはない」
「そうよね」
彼女は、ゆっくりと頷いた。
「だったら、逆も同じじゃない。怒り続けなきゃいけない理由も、復讐を人生の真ん中に置かなきゃいけない理由も、ないはずだわ」
マグネは窓の外を見た。
「……あたしが、あいつを憎んでいることは事実よ。でも、あたしの人生が、あいつを憎むためだけにあるわけじゃない」
それは、口にするより難しいことだった。
怒りを捨てるのなら、簡単な言葉で済むかもしれない。
過去を忘れる。
もう気にしない。
これからは前向きに生きる。
だが、マグネは、そんな言葉で自分を納得させるつもりはなかった。
怒りは残っている。
失ったものも残っている。
それでも、その感情だけに、自分の未来を決めさせない。
「……まだ、何をしたいかは分からないけどね」
マグネは、ふっと笑った。
「分からないなら、分からないまま始めればいいんじゃない?」
自分で口にして、彼女は少しだけ目を丸くした。
「……あら。今の、なかなかいいこと言ったんじゃない?」
「自分で言うなよ」
「いいじゃない。自分を褒めるくらい、あたしの自由でしょう?」
今度の笑い声には、無理がなかった。
大きな問題が解決したわけではない。
怒りも、悲しみも、消えたわけではない。
だが、マグネは少なくとも、自分の感情を一つの答えにまとめる必要はないのだと、少しずつ受け入れ始めていた。
彼女は、これからも怒るだろう。
いつか笑うだろう。
何かを好きになるかもしれない。
嫌いになるかもしれない。
その全部を含めて、自分の人生だった。
誰かの罪によって始まった人生ではない。
誰かの償いによって許可される人生でもない。
彼女自身が、生きていく人生だった。
二 名前のない未来に、値札はつけられない
その日の午後、マグネは一人で外へ出た。
特に目的はなかった。
目的がないというのは、今の彼女にとって、少しだけ新鮮なことだった。
これまでは、行く場所があった。
会う相手がいた。
やらなければならないことがあった。
敵がいて、仲間がいて、組織があった。
その中で、自分の立場を考え、相手の動きを読み、自分がどう振る舞うべきかを決めてきた。
もちろん、それがすべて嫌だったわけではない。
かつての仲間たちと過ごした時間には、確かに自分にとって意味のあるものがあった。
楽しいこともあった。
腹の立つこともあった。
誰かの言動に呆れ、誰かの不器用さに笑い、誰かのために動こうと思ったこともあった。
過去をすべて否定するつもりはない。
しかし、あの場所に戻ることだけが、自分の未来ではない。
そこから離れた場所へ行くこともできる。
これまで知らなかった場所を知ることもできる。
新しい人間関係を作ることもできる。
そして、一人で過ごす時間を選んでもいい。
マグネは、通りの先にある掲示板の前で足を止めた。
いくつかの案内が貼られている。
仕事の募集。
地域の催し。
短期間の講習。
趣味の集まり。
どれも、自分とは関係のないものだと思っていた。
だが、よく見れば、関係がないと決める理由もなかった。
「……へえ」
彼女は、一枚の案内を読んだ。
専門的な資格を取るための説明会。
それほど大げさなものではない。
参加したからといって、将来が保証されるわけでもない。
そこで何かを学んでも、すぐに仕事に就けるとは限らない。
ただ、新しいことを知る機会にはなる。
「行ってみようかしら」
口にしたあと、彼女は立ち止まった。
誰かに相談する必要があるだろうか。
誰かに、参加してもいいかと確認する必要があるだろうか。
自分が本当に続けられるかどうか、先に考えるべきだろうか。
考え始めると、いくらでも理由が出てくる。
今さら新しいことを始めて、何になる。
途中で嫌になったら、どうする。
自分に向いていなかったら、どうする。
もっと別のことを選ぶべきだったら。
けれど。
「……別に、失敗したって死ぬわけじゃないしね」
彼女は、掲示板から案内を一枚取った。
以前の自分なら、どう考えただろう。
自分の選択が正しかったかどうか。
それが、どんな結果につながるのか。
どこまで見通せているのか。
自分が望んだ結果を得られるのか。
そうしたことを、もう少し慎重に考えたかもしれない。
今だって、何も考えずに決めるわけではない。
だが、すべての選択に、最初から正解を求める必要はない。
一度選んだ道が、自分の望むものと違っていたら、また考えればいい。
やめることもできる。
方向を変えることもできる。
選んだ結果を引き受けることと、最初の選択を一生変えてはいけないということは違う。
マグネは、案内を折り畳み、鞄にしまった。
そのとき、背後から声がした。
「それ、興味あるの?」
振り返ると、近くにいた人が、彼女の手元を見ていた。
「ええ。ちょっとね」
「申し込み、難しくなかったと思うよ。説明会だけなら、気軽に参加できるはず」
「そうなの?」
「うん。私も、まだ詳しいことは分からないけど」
マグネは笑った。
「なら、ちょうどいいわね。あたしも、分からないことだらけだから」
二人は、短い会話を交わした。
名前を尋ねることも、過去を聞くこともなかった。
自分がどんな経験をしてきたのか。
何を失ったのか。
誰を憎んでいるのか。
そんなことを説明する必要はなかった。
ただ、新しいことに興味を持った人間同士として、話をした。
その時間は、ほんの数分だった。
しかし、マグネにとっては、その数分が大切だった。
自分のことを、被害者として説明しなくてもいい。
自分の怒りを、正当化するために話さなくてもいい。
誰かの罪を理解していると、示さなくてもいい。
目の前の人間と、ただ一つの案内について話せばいい。
それだけで、少しだけ、世界が広くなった気がした。
掲示板を離れたあと、マグネは歩きながら、鞄の中の案内を指で確かめた。
何を学ぶのか。
自分に向いているのか。
これから何をするのか。
まだ、何も決まっていない。
だが、それでよかった。
未来には、まだ名前がない。
名前がないからといって、価値がないわけではない。
誰かが先に意味を与えなければ、存在できないわけでもない。
自分がその先で何を見つけるのかは、これから決めていけばいい。
マグネは、少しだけ足取りを軽くして歩いた。
三 復讐をしないことは、敗北ではない
夜。
マグネは、一人で机に向かっていた。
今日、持ち帰った案内を広げている。
日時。
会場。
必要な持ち物。
申し込みの方法。
どれも、特別なことではない。
だが、明日の自分が、そこへ行くために必要な情報だった。
彼女は、日付を確認した。
その日は、特に予定がなかった。
「……行けるわね」
そう呟いてから、ふと考えた。
自分は、これまで何度も、未来を奪われたと感じてきた。
いや。
実際に奪われたものもあった。
自分の命。
自分が選べたはずの時間。
その先にあったかもしれない生活。
それらは、治崎の行為によって断ち切られた。
死ぬ前の自分が、その先にどんな暮らしを望んでいたのか。
今となっては、はっきり分からないこともある。
もし生き続けていたら、何をしていただろう。
どこにいたのだろう。
誰と過ごしていたのだろう。
そんなことを考えると、胸の奥に、怒りと悲しみが戻ってくる。
何のために奪われたのか。
何を得るために、あの男は自分を殺したのか。
あの男にとって、自分の命は何だったのか。
答えを知りたいと思ったこともある。
目の前に立ち、問い詰めたいと思ったこともある。
あの男が自分の行為をどれだけ理解しているのか。
どれほど後悔しているのか。
どれほど苦しんでいるのか。
確かめたいと思う瞬間もあった。
それらの感情は、今も心のどこかに残っていた。
「……ちっ」
マグネは、舌打ちをした。
「まだ、腹が立つわね」
そんな自分に、少し呆れていた。
もう関わらないと決めた。
直接連絡もいらない。
謝罪を受け取るつもりもない。
これから先、彼の行動をいちいち知る必要もない。
それなのに、頭の中では、何度も彼の姿が浮かぶ。
自分を殺した男。
自分の未来を奪った男。
その男が、これからどうなるのか。
「……別に、気にしたっていいじゃない」
マグネは、自分に言い聞かせるように呟いた。
気にしないと決めたからといって、すぐに気にならなくなるわけではない。
怒りを手放すと宣言したからといって、怒りが消えるわけでもない。
それは、そういうものだ。
大事なのは、怒りがあることそのものではない。
怒りがあることを理由に、自分の行動をすべて決めてしまうことだ。
治崎への復讐をするために生きる。
治崎が苦しむことを見届けるために生きる。
治崎が反省したかどうかを確かめるために生きる。
そんな生き方を選ぶことも、理屈の上ではできるのだろう。
だが、それを選んだとき、自分の一日は、彼を中心に回ることになる。
朝、目を覚ましたとき。
何かを食べるとき。
誰かと話すとき。
何かを始めようと思ったとき。
自分がしていることは、彼への復讐に役立つのか。
彼を苦しめることにつながるのか。
彼に勝つことになるのか。
そんな問いばかりを、考えるようになるかもしれない。
それは、本当に自分が望む未来なのだろうか。
マグネは、机の上の案内を見た。
明日、説明会へ行く。
それは、治崎を苦しめるためではない。
彼に勝ったと証明するためでもない。
彼に関係のない、新しいことを知るためだ。
自分が興味を持ったから。
少しだけ、やってみたいと思ったから。
それ以上の理由は、必要なかった。
「……あいつのせいで、あたしの人生が終わったことにはならない」
彼女は、ゆっくりと口にした。
死んだことが消えるわけではない。
殺されたという事実が消えるわけでもない。
自分が経験したことを、きれいな話に塗り替えるつもりもない。
それでも、彼女は今、ここにいる。
自分で考えられる。
自分で決められる。
自分で選んで、失敗することもできる。
自分で何かを好きになることもできる。
それらは、治崎が自分に与えてくれたものではない。
誰かが返してくれたものでもない。
今、自分が手にしているものだった。
だからこそ、これからどう使うのかは、自分で決める。
怒りを忘れないことと、怒りに未来を渡すことは違う。
彼を許さないことと、彼を中心に生きることも違う。
「……復讐しないからって、あいつに負けたわけじゃないわ」
その言葉を口にしたとき、彼女は初めて、少しだけ笑った。
誰かに勝ったわけではない。
誰かを許したわけでもない。
ただ、自分がこれからどう生きるかを、もう一度、自分の手に戻そうとしている。
それを敗北と呼ぶ必要はなかった。
マグネは案内を丁寧に折り、鞄の中へしまった。
明日、行ってみよう。
もし面白かったら、続ければいい。
面白くなかったら、やめてもいい。
別のことに興味を持ったら、そちらを調べてもいい。
まだ何も決まっていない未来を、誰かの都合で決める必要はない。
彼女は、机の明かりを消した。
怒りは、まだある。
悲しみも、消えてはいない。
けれど、明日の予定が一つできた。
それは、彼女自身が選んだ予定だった。
四 治崎廻は、何を返せるのか
「あなたが提出した記録について、追加で確認したい点があります」
担当者の言葉に、治崎は書類から顔を上げた。
「どこだ」
「組織の構成員に関する記録です。あなたが把握していた役割と、実際に行われていた活動の間に、いくつか不明点があります」
「……確認する」
治崎は書類を受け取った。
そこに記されているのは、彼がかつて組織を動かすために使っていた情報だった。
誰が何を担当していたか。
何を命じたのか。
どの計画に関与していたのか。
どこまで事情を知っていたのか。
それらを確認しながら、彼は以前の自分の考え方を思い返していた。
自分の計画を中心に、あらゆるものを配置する。
必要な人員を配置する。
必要な情報を集める。
障害となるものを取り除く。
目的に合わないものを切り捨てる。
そうして、組織を動かしてきた。
しかし、記録の中にある人物たちは、治崎の計画の中だけで生きていたわけではない。
彼らには彼らの人生があった。
彼らなりの判断があり、事情があり、願いがあった。
治崎が把握していたのは、彼らが組織の中で何をしていたかという情報にすぎない。
その外側にあるものを、彼は積極的に知ろうとはしなかった。
「……この記録は、修正が必要だ」
治崎は一つの資料を指した。
「ここに記されている活動は、俺の命令によるものだ。しかし、実行した人物が、その全容を把握していたかどうかは、別の問題になる」
「はい」
「俺が把握していた範囲と、本人が知っていた範囲を分ける必要がある。俺が命じたという事実は変わらないが、個々の関与については、確認しなければならない」
「そのように整理しましょう」
治崎は、記録を書き直した。
それは、責任を誰かへ押しつけるためではなかった。
むしろ、自分の責任と、他人の行為を区別するためだった。
彼が命令したこと。
彼が計画したこと。
彼が知っていたこと。
それらを正確に記録する。
そして、他人が何を知っていたのか、何を考えていたのかについては、本人の証言や別の資料がなければ断定しない。
自分の責任を認めることと、事実を曖昧にすることは違う。
自分が悪かったのだから、すべて自分の責任だと大雑把にまとめてしまえば、ほかの人々が何をしたのかも、何をされたのかも、見えなくなってしまう。
それでは、またしても、個々の人間の事情を、治崎自身の考え方の中へ押し込めることになる。
彼は、それを避けようとしていた。
「……記録を修正した」
「確認します」
担当者が書類を受け取る。
治崎は、ふと口を開いた。
「一つ、聞きたい」
「はい」
「過去の記録を明らかにすることは、被害を受けた人々にとって、どの程度の意味がある」
担当者は、すぐには答えなかった。
「人によって違うと思います」
「……そうだろうな」
「事実を知りたい方もいるでしょう。詳細を知ることで、かえって苦痛が増す方もいるかもしれません。情報を受け取ること自体を望まない方もいるはずです」
「つまり、記録を明らかにしたからといって、必ず救いになるわけではない」
「はい。ただ、だからといって、事実を隠していいことにはなりません。必要な情報を整理し、本人の意思や状況に配慮して扱うことが重要です」
治崎は、静かに頷いた。
かつての彼なら、記録を明らかにするかどうかも、自分の目的に沿って決めようとしただろう。
公表した方が都合がいいのか。
隠した方が計画を進めやすいのか。
そうした判断を、合理性という言葉でまとめていた。
だが、記録を明らかにすることによって何が起きるかは、彼一人が決められることではない。
被害を受けた人々の事情がある。
調査する側の責任がある。
社会にとって知るべき事実もある。
一つの基準だけで、すべてを処理することはできない。
「……俺は、これまで、何かを返すということを、簡単に考えすぎていたのかもしれない」
治崎は言った。
「返せば、元に戻る。足りなければ、さらに返せばいい。そういうふうに考えていた」
「物によっては、それで解決することもあります」
「だが、命や時間は違う」
治崎は、自分の言葉を確かめるように続けた。
「奪った時間を、同じ長さの時間で埋めることはできない。命を返すことができても、失われた経験まで、元どおりに戻すことはできない」
彼の脳裏に、壊理の顔が浮かんだ。
彼は彼女を、自分の計画を実現するための手段として扱った。
社会を変えるため。
自分の目的を達成するため。
自分が正しいと信じた未来を実現するため。
彼女の身体と力を利用した。
彼女に何が残ったのか。
彼女が何を恐れ、何を望んでいるのか。
それを、自分の判断より優先することができなかった。
「……返せないからといって、何もしなくていいわけではない」
治崎は、静かに言った。
「だが、何かを返したからといって、すべてが元に戻ったと思ってもいけない」
担当者は、頷いた。
「その通りです」
「そして、相手が何を受け取るかも、俺が決めることではない」
「はい」
治崎は椅子に座り直した。
そのことを、彼は忘れないようにしなければならなかった。
自分が何をしたのか。
何を奪ったのか。
何を返せないのか。
それらを明らかにしたうえで、今できる責任を果たす。
それが、彼に残された道だった。
「……続けよう」
治崎は、新しい記録を手に取った。
彼の償いは続く。
マグネが自分を許すかどうかとは関係なく。
彼女が自分の人生をどう生きるかとも、別に。
彼が犯した罪は、彼のものだ。
だからこそ、その罪を説明し、責任を果たすことも、彼自身が引き受けなければならない。
ただし。
その道の終わりに、何が待っているのか。
それだけは、まだ分からなかった。
五 謝罪のない別れ
数日後、マグネは、窓口で必要な手続きを済ませていた。
自分が関係する記録について、どのような扱いを望むか。
今後、どのような連絡を受け取りたいか。
直接の接触を望まない場合、どのような方法で意思を伝えるか。
確認事項はいくつもあった。
その中には、治崎に関することも含まれていた。
マグネは、一つずつ確認していった。
直接の連絡は望まない。
面会も望まない。
彼の反省について、定期的に報告を受ける必要もない。
ただし、自分に関わる手続きで、意思の確認が必要になった場合には、必要な情報を受け取れるようにしておく。
それだけだった。
「今後、希望が変わることがあれば、いつでも申し出てください」
担当者がそう伝える。
「分かったわ」
マグネは書類を確認した。
以前の彼女なら、一度決めたことを変えるのは、何かを撤回するようで嫌だったかもしれない。
しかし、今は少し違う。
今の自分が望んでいることと、未来の自分が望むことは、同じとは限らない。
今、治崎に会いたくない。
それは、今の自分の意思だ。
将来、何かの事情で考えが変わることがあったとしても、今の意思が間違っていたことにはならない。
逆に、今、何かを望んだからといって、将来も同じことを望み続けなければならないわけではない。
自分の考えが変わることも、自分の人生の一部だった。
「……これでいいわ」
マグネは書類に目を通し、手続きを終えた。
部屋を出る前に、担当者が声をかけた。
「念のため、お伝えしておきます。治崎氏の記録の確認や責任に関する手続きは、あなたが直接関わらなくても進められます」
「ええ」
「あなたが彼に接触しないことを選んだために、必要な対応が行われなくなることはありません」
マグネは、少しだけ笑った。
「そう。なら、安心ね」
「……何か、気になることがありましたか」
マグネは立ち止まった。
しばらく考えてから、答えた。
「ううん。気にならないわけじゃないけど、あたしが全部を見届けなくてもいいんだって、改めて思っただけ」
彼女は肩をすくめた。
「あいつが何をするか、あたしが毎回確認する必要なんてないでしょう? あいつが責任を果たしてるかどうかを見張ることまで、あたしの仕事にしちゃったら、あたしはいつまであいつに付き合わなきゃいけないのよ」
担当者は頷いた。
「その必要はありません」
「なら、いいわ」
マグネはドアに手をかけた。
「……あたし、これから少し予定があるの」
「そうですか」
「新しいことを始めようと思ってね」
それは、誰かに聞かせるための宣言ではなかった。
彼女が何を始めるのか、まだ具体的には決まっていない。
説明会に行く。
そこで話を聞く。
興味があれば、続きを調べる。
それだけだった。
けれど、彼女はその予定を、少しだけ楽しみにしていた。
「じゃあ、また何か必要になったときには、よろしくね」
「はい」
マグネは部屋を出た。
その後ろ姿を、誰も引き止めなかった。
彼女は、治崎に最後の言葉を伝えに行くわけではない。
自分を殺した男に、人生を取り戻したと宣言しに行くわけでもない。
自分がこれから何をするのかを、彼に知ってもらう必要もない。
その未来は、彼に見せるためにあるのではなかった。
彼女自身が、生きるための未来だった。
彼女は、廊下を歩く。
歩いた先には、外へ出るための扉がある。
扉の向こうには、いつもの街がある。
自分にとって、まだ知らない場所もある。
これから知ることになるものもある。
そこに治崎がいるかどうかは、関係なかった。
彼女はドアを開けた。
外の空気が、頬に触れる。
「……さて」
マグネは、空を見上げた。
「どこから始めようかしらね」
その問いに、答えはまだなかった。
だからこそ、彼女は歩き出せた。
六 治崎廻の、最初ではない一歩
治崎は、机に向かっていた。
一枚の紙が、目の前にある。
そこには、これまでの手続きについて、簡潔に記録されていた。
何を提出したか。
どの事実を認めたか。
どの部分に、追加の確認が必要なのか。
それから、今後、何をしなければならないのか。
彼は、最後の欄に目を向けた。
『被害を受けた本人との接触に関する方針』
そこには、マグネが直接の接触を望んでいないことが記されていた。
治崎は、その一文を読んだ。
何度読んでも、意味は変わらなかった。
彼女は、自分と関わりたくない。
自分の謝罪も、反省も、今は受け取りたくない。
その意思を、彼は尊重しなければならない。
彼女がなぜそう決めたのか。
どのような気持ちで、その決断を下したのか。
自分への怒りが、どの程度残っているのか。
それらを知ることはできない。
知りたいと思う気持ちは、まだある。
だが、彼女が伝えないことを選んだのなら、その選択を無理に越えてはならない。
治崎は、記録の下に、自分の確認事項を書き加えた。
『本人が接触を望まないことを、反省の評価として扱わない』
そして、その下に続けた。
『本人が自分の人生をどのように生きるかは、私の責任の果たし方を決めるための条件ではない』
最後に、もう一つ。
『本人の意思を、私の更生を証明するための材料にしない』
治崎は、ペンを置いた。
読み返す。
立派な言葉に見えるかもしれない。
しかし、言葉を書いただけでは、何も証明されていない。
彼は、そのことを理解していた。
これから先、彼女について聞かれることがあるかもしれない。
彼女が何を望んでいるのか。
彼女はどのように暮らしているのか。
何かを受け取るつもりはあるのか。
そうした質問に、答えたくなる瞬間もあるだろう。
知らないのに、知っているように話したくなるかもしれない。
自分が彼女のことを考えていると、誰かに伝えたくなるかもしれない。
そのときこそ、気をつけなければならない。
彼女を理解しようと考えること自体は、悪いことではない。
しかし、自分が理解できたと思った瞬間に、彼女が本当に何を考えているのかを、勝手に決めてしまう可能性がある。
治崎は、以前、その間違いを犯した。
相手に何が必要なのかを、自分が決めた。
相手にとって何が正しいのかを、自分が決めた。
相手がどのような未来を望むべきかを、自分が決めた。
その判断の結果、彼は他人の人生を奪った。
だからこそ、今度は違う選択をしなければならない。
彼女が、自分と関わらないことを選んだ。
それが、今、彼にできる唯一の答えだった。
「……分かった」
誰に向けるでもなく、治崎は呟いた。
許されたわけではない。
和解したわけでもない。
彼女が自分を理解してくれたわけでもない。
ただ、彼女は自分の意思を示した。
そして、彼は、それを尊重することを選んだ。
「……俺は、俺がしたことを続けて償う」
その声には、以前のような断定的な響きはなかった。
自分がすべてを理解したとも、これからは間違えないとも言わない。
そうした保証を、自分自身に与えることはできなかった。
彼は、また間違えるかもしれない。
自分の都合で物事を判断してしまうかもしれない。
他人の気持ちを、分かったつもりになるかもしれない。
だからこそ、自分の行動を確認し続けなければならない。
必要であれば、修正しなければならない。
不都合な事実があれば、認めなければならない。
その積み重ねこそが、これから彼が負うべき責任だった。
治崎は、書類をまとめた。
自分が犯した罪を、消すことはできない。
奪った未来を、そのまま返すこともできない。
しかし、だからといって、何もしないことを選んではならない。
彼は机の引き出しを開いた。
そこには、以前書きかけた手紙が入っていた。
『マグネへ』
その文字は、まだ残っている。
治崎は手紙を取り出した。
彼女に謝罪したい。
自分が間違っていたことを伝えたい。
そう思う気持ちが、なくなったわけではない。
だが、今の彼女は、それを望んでいない。
彼は手紙をしばらく見つめたあと、再び引き出しにしまった。
破り捨てる必要はなかった。
自分の気持ちを、なかったことにする必要もない。
ただ、その気持ちを実現するために、彼女の意思を越えてはならなかった。
治崎は引き出しを閉じた。
そして、次の作業に取りかかった。
彼女が知ることのない場所で。
彼女が評価することのない手続きの中で。
誰かに褒められる保証もなく。
許される保証もなく。
それでも、自分がすべきことをする。
それが、今の彼にできることだった。
七 憤怒の、その先へ
マグネは、翌日、説明会へ行った。
会場に着くと、すでに何人かが集まっていた。
初めて顔を合わせる人々。
それぞれが、別々の事情を抱えている。
仕事を探している人。
新しい技術を覚えたい人。
今の生活を変えたい人。
特に大きな理由もなく、興味を持って参加した人。
マグネは、その中に混じって席に座った。
自分が何者なのかを、わざわざ説明する必要はなかった。
過去に何をしたのか。
誰に何をされたのか。
どれほどの怒りを抱えているのか。
それを知ってもらわなければ、ここにいてはいけないわけではない。
彼女は、前方の説明に耳を傾けた。
内容は、思っていたよりも具体的だった。
必要な手続き。
学べること。
その先でできる仕事。
参加にあたっての注意点。
できることと、できないこと。
説明する側も、すべてがうまくいくと約束するわけではなかった。
これを学べば、必ず成功する。
これを続ければ、人生が変わる。
そんな話ではない。
ただ、選択肢が一つ増える。
それだけのことだった。
マグネは、配られた資料に目を通した。
「……なるほどね」
分からない部分もあった。
難しいと感じるところもあった。
もっと詳しく聞いてみたいと思うところもあった。
彼女は、質問の時間に手を挙げた。
「ここなんだけど、もう少し詳しく聞いていい?」
説明する側が頷く。
マグネは、気になった部分について尋ねた。
特別な質問ではなかった。
それでも、彼女は自分が疑問に思ったことを、遠慮せずに聞いた。
誰かが、彼女を助けるために答えを用意していたわけではない。
彼女が自分で考え、質問し、答えを聞いた。
それだけだった。
説明会が終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。
帰り際、参加者の一人が声をかけてきた。
「どうでした?」
マグネは、考えた。
「思ったより、面白かったわ」
「本当ですか。自分も、もっと難しいものかと思ってました」
「難しいところもあったけどね。でも、知らないことを知るのは、悪くないわ」
「続けるんですか?」
「そうねえ」
マグネは、資料を手に持った。
「もう少し、考えてみる。今すぐ決めなくてもいいでしょう?」
「そうですね」
二人は笑った。
マグネは会場を出て、街へ向かった。
自分の未来が、大きく変わったわけではない。
明日から新しい人生が始まると、宣言できるわけでもない。
治崎への怒りが消えたわけでもない。
それでも、今日は一つ、自分で選んだことがあった。
説明会へ行く。
質問する。
話を聞く。
面白いと感じる。
続けるかどうかを考える。
その一つひとつが、自分の選択だった。
誰かの計画を完成させるためではない。
誰かの更生を助けるためでもない。
誰かに、過去を乗り越えたと証明するためでもない。
自分自身のためだった。
マグネは、空を見上げた。
雲の隙間から、夕日が差している。
かつての自分は、もっと違う未来を想像していたのかもしれない。
今となっては、確かめようがない。
それでも、今ここにある未来は、自分がこれから選んでいくことができる。
失った時間を取り戻すことはできない。
奪われた経験を、そっくりそのまま取り返すこともできない。
だが、これから先に何を置くかは、まだ決まっていない。
その先を、治崎への復讐だけで埋める必要はなかった。
許しだけで埋める必要もなかった。
誰かが望む正しい人生で、埋める必要もなかった。
彼女は、自分の歩幅で歩き始めた。
「……さて」
小さく笑う。
「次は、何をしてみようかしらね」
その問いへの答えは、まだない。
けれど、彼女はもう、そのことを怖いとは思わなかった。
未来が決まっていないということは、選択肢が残っているということでもある。
そして、その選択肢を選ぶ権利は、彼女のものだった。
終幕 奪われたものと、奪えなかったもの
治崎廻が、マグネにしたことは変わらない。
彼は彼女の命を奪った。
彼女の未来を、彼自身の判断によって断ち切った。
その罪は、彼が反省したからといって消えるものではない。
彼がどれだけ正確に記録を残しても、どれだけ責任を果たそうとしても、彼女の失った時間がそのまま戻るわけではない。
マグネは、彼を許していない。
彼と関わることを望んでもいない。
彼の謝罪を受け取る義務もない。
彼の反省を評価する義務もない。
彼が更生したかどうかを見届ける義務もない。
その意思は、尊重されなければならない。
だが、彼女の人生は、それだけでは終わらない。
治崎への復讐だけを目的にする必要はない。
彼の罪を忘れる必要もない。
彼のことを考えないよう、自分に命じる必要もない。
彼女は、自分の怒りを抱えたままでも、新しいことを始めることができる。
自分の過去を覚えたままでも、誰かと笑うことができる。
彼を許さないままでも、自分の未来を選ぶことができる。
それらは、互いに矛盾するものではなかった。
治崎は、これからも責任を果たさなければならない。
誰かに許してもらうためだけではなく、自分が犯した罪から逃げないために。
マグネは、これからも自分の人生を歩いていく。
誰かに復讐したと証明するためではなく、誰かを許したと示すためでもなく。
自分が生きるために。
二人の道は、交わらない。
そして、それでいい。
彼女が彼と再び向き合うことがなければ、そのまま別々に生きていけばいい。
彼がどれだけ反省しても、彼女に接触を求めてはならない。
彼女が自分の未来を楽しめるようになっても、彼の罪が消えるわけではない。
彼女が怒りを抱き続けても、彼が責任を果たすことは変わらない。
二人の人生を、一つの結末にまとめる必要はなかった。
治崎の物語には、まだ責任を果たすための長い道が残っている。
マグネの物語には、まだ名前のついていない未来が残っている。
その未来を、彼女は自分で選び始めた。
奪われたものは、すべて戻るわけではない。
失われた時間も、過去に存在した可能性も、完全には取り戻せない。
それでも。
奪われたからといって、その先のすべてまで奪われたことにはならない。
彼女の未来を、治崎が決めることはできない。
彼女の怒りが、彼女の未来のすべてを決める必要もない。
そして、周囲の誰も、彼女にどんな人生を送るべきかと命じることはできない。
それを決める権利は、彼女自身にある。
マグネは、夕暮れの街を歩いていく。
その足取りは、過去を忘れた人間のものではない。
痛みが消えた人間のものでもない。
ただ、自分の未来を、もう一度、自分の手で選ぼうとする人間のものだった。
治崎は、別の場所で、次の記録に取りかかっている。
彼が自分の責任を引き受けることと、彼女が自分の未来を選ぶこと。
その二つは、最後まで別々のものだった。
それでも、どちらも、ここから先へ続いている。
マグネは振り返らなかった。
治崎も、彼女を呼び止めなかった。
過去は消えない。
罪も消えない。
怒りも、すぐには消えない。
だが、未来は、過去と同じ形である必要はなかった。
許さなくても、進める。
忘れなくても、選べる。
奪われた未来の、その先を誰が決めるのか。
その答えを、マグネは自分の生き方で選び始めた。
そして、治崎廻は、彼女の答えを自分のものにしないことを、これからも学び続けなければならない。
二人の物語は、和解ではなく、境界線によって終幕を迎えた。
それは、逃げるための終わりではない。
それぞれの人生を、それぞれの手に戻すための終わりだった。
――治崎廻・マグネ編、終幕。
治崎廻・マグネ編、終幕、次回相澤先生、プレゼントマイク、黒霧編開幕