一 古い写真には、未来が写っていない
雄英高校の職員室は、夜になると驚くほど静かだった。
昼間は生徒たちの声が絶えず響き、教員同士の打ち合わせが重なり、時には誰かの個性が原因で騒ぎまで起こる。
だが、今は違う。
机の上に積まれた書類。
消し忘れた照明。
窓の向こうに広がる夜の街。
そして、ひとりの男がいた。
相澤消太は、古い写真を見つめていた。
写真の端は、わずかに擦れている。
長い間、何度も取り出され、何度も戻されてきたためだった。
写っているのは、三人の少年。
まだ、プロヒーローでもなければ、教師でもない。
未来の事件を背負うことも、誰かの死を悔やむことも、目の前の友人を救えなくなることも、何ひとつ知らなかった頃の三人だった。
一人は、無愛想な顔でカメラを見ている。
相澤消太。
その隣で、口を大きく開けて笑っているのは山田ひざし。
そして、二人の間から顔を覗かせている少年がいた。
白雲朧。
写真の中の彼は、まるで世界に面白くないことなど存在しないとでも言いたげな顔をしていた。
相澤は写真を裏返した。
そこには、当時のひざしが書いたと思われる文字が残っていた。
『未来のトップヒーロー三人組!』
その下に、別の筆跡で短い言葉が書き足されている。
『こいつら、絶対に大成しない』
誰が書いたのかは、考えるまでもなかった。
相澤は、小さく息を吐いた。
「……うるせえな」
もちろん、返事はない。
写真の中の朧は、相変わらず笑っている。
あの笑顔は、もう二度と見られないと思っていた。
あの日から、長い時間が流れた。
白雲朧の死を受け入れることは、簡単ではなかった。
それでも、生きていかなければならなかった。
教師になった。
生徒たちを教えた。
守れなかったものを、次は守る。
過去の失敗を、これからの若者に繰り返させない。
そうやって、自分なりに前へ進んできた。
しかし、世界は唐突に、終わったはずの問いを突きつけてきた。
黒霧。
白雲朧の記憶。
存在するはずのない友人の痕跡。
それは、失われたものを取り戻せる可能性だった。
同時に、二度目の喪失が始まる可能性でもあった。
相澤は、写真を表に戻した。
「……お前は、何を覚えてるんだ」
その呟きは、写真の中の友人に向けられたものだった。
だが、本当は別の相手に向けるべき言葉だったのかもしれない。
今、黒霧と名乗っている存在に。
白雲朧の記憶を持っているかもしれない、あの黒い霧の男に。
相澤は写真を封筒へ戻した。
机の引き出しを開ける。
そこには、写真以外にも、古い資料が保管されていた。
当時の記録。
訓練に関するメモ。
仲間たちとのやり取り。
その中には、相澤自身が書いた文字もあった。
思い返せば、あの頃の自分は、今よりずっと不器用だった。
朧のように、誰とでも気軽に話せたわけではない。
ひざしのように、自分の感情を大きな声で表現できたわけでもない。
だが、二人がいたからこそ、自分は自分のままでいられた。
口数が少なくても、愛想が悪くても、何も言わなくても。
隣にいてくれる奴らがいた。
その一人が、もういない。
そして、もう一人は、今も隣にいる。
だが、その二人と過ごした時間を、共有できるはずの相手は――。
「相澤」
背後から声がした。
相澤は振り返らなかった。
「……ノックくらいしろ」
「したわ! 二回! お前、考え込んでて聞こえてなかっただけだろ!」
山田ひざしが、職員室の入口に立っていた。
いつもの派手な装いではない。
声も、普段より抑えられている。
それでも、その目には、隠しきれない感情があった。
相澤は引き出しを閉じた。
「何の用だ」
「用がなきゃ来ちゃダメかよ」
「もう夜だ」
「お互い様だろ」
ひざしは、相澤の机に近づいた。
そして、わずかに開いていた引き出しに目を留める。
「……見てたのか」
相澤は答えなかった。
ひざしは、しばらく机の前に立っていた。
やがて、静かに椅子を引いた。
「オレもさ」
ひざしは座りながら、遠くを見るような目をした。
「今日、昔の夢を見たんだ」
「……そうか」
「三人でさ、馬鹿みてえな話をしてた。卒業したら何するかとか、どんなヒーローになるかとか。オレは世界中に声を届けるとか、そんなこと言ってた気がする」
「言ってたな」
「お前は、何て言ったんだっけ」
「忘れた」
「嘘つけ」
「本当に忘れた」
「そういうところだぞ、相澤!」
昔なら、ここで朧が笑ったはずだった。
ひざしの肩を叩き、相澤に向かって「消太はさ、どうせ面倒くさいから全部適当に答えたんだろ」と言っただろう。
そして、相澤が「うるさい」と返す。
ひざしが大げさに騒ぎ、朧がさらに笑う。
何でもない会話。
何度でも繰り返せると思っていた時間。
相澤は、目の前の空席を見た。
その空席には、誰も座らなかった。
ひざしも、同じ場所を見ていた。
「……黒霧に会うんだろ」
相澤が尋ねた。
ひざしは、ゆっくりと頷いた。
「ああ」
「明日か」
「明日だ」
「何を聞くつもりだ」
ひざしは、答えに詰まった。
簡単な質問のはずだった。
何を聞くのか。
何を確かめたいのか。
何を知れば、自分は納得できるのか。
考えてみれば、最初から答えは決まっている。
「……白雲朧を、覚えてるか」
ひざしは呟いた。
「それを聞きたい」
相澤は目を伏せた。
「覚えていると言われたら、どうする」
ひざしの口が止まった。
「……どういう意味だよ」
「文字どおりだ。あいつが白雲朧を覚えていたら、お前はどうする」
「そりゃ……」
ひざしは顔を上げた。
「そりゃ、嬉しいに決まってるだろ」
「そうか」
「だって、そうだろ! あの朧の記憶が残ってるんだぞ。オレたちのことを覚えてるかもしれない。昔のことも、あの頃のことも……!」
そこまで言って、ひざしは言葉を切った。
相澤は、何も言わなかった。
ひざしは、自分の声が思ったよりも大きくなっていたことに気づいたらしい。
手で顔を覆い、深く息を吐いた。
「……悪い」
「謝るな」
「でもよ」
「分かってる」
相澤は窓の外を見た。
「俺も、知りたい」
ひざしは、ゆっくりと顔を上げた。
「白雲が残っているのか。何を覚えているのか。どうして黒霧になったのか。何があったのか。全部知りたい」
相澤は一度、言葉を止めた。
「……ただ、答えが分かったからって、全部が元どおりになるとは限らない」
ひざしは、何も言わなかった。
「それでも、知りたいんだろ」
「……ああ」
「なら、行くぞ」
相澤は立ち上がった。
「明日、黒霧に会いに行く」
ひざしも立ち上がった。
「おう」
二人は職員室を出た。
廊下の照明が、足元を照らしている。
かつて三人で歩いた廊下とは違う。
今は、二人だけだった。
そして明日、彼らはもう一人の友人に会う。
ただし、その相手が、本当に探している友人なのかどうか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
二 黒霧は、待っていた
施設の通路は、余計な装飾が一切なかった。
壁は無機質な色で統一され、必要な設備だけが整然と並んでいる。
安全を確保するための設備。
個性による予期せぬ事態を防ぐための設備。
外部との連絡を管理する設備。
そこは、誰かを歓迎するための場所ではなかった。
だが、少なくとも、誰かをいたずらに苦しめるための場所でもなかった。
黒霧は、保護と隔離を兼ねた区画の中にいた。
広い部屋。
固定された家具。
監視設備。
外部からの出入りを制御する扉。
そして、部屋の中央に立つ黒い霧の男。
彼は、二人の到着を知らされると、いつもと変わらない丁寧な仕草で頭を下げた。
「お越しになると聞いておりました。相澤消太さん。山田ひざしさん」
その声を聞いた瞬間、ひざしの足が止まった。
聞き覚えのある声ではなかった。
もちろん、あの頃の朧と同じ声でもない。
しかし、声の奥にある響きが、何かを刺激した。
忘れたくても忘れられない記憶。
覚えているつもりだったのに、思い出せなくなっていた言葉。
そして、もう一度聞きたいと思っていた声。
ひざしは一瞬、口を開きかけた。
「おま……」
そこで止まる。
黒霧は、静かに待っていた。
「……いや」
ひざしは言い直した。
「来たぜ、黒霧」
「はい。ようこそ」
黒霧は、穏やかな声で答えた。
その態度には、少なくとも今、この場で二人を拒絶する様子はなかった。
だが、それが歓迎を意味しているのかどうかは分からない。
彼は、相澤たちが何を求めているのかを知っている。
そして、自分が何を答えることを期待されているのかも、おそらく分かっていた。
相澤は、用意された椅子に腰を下ろした。
ひざしもその隣に座る。
黒霧は、二人の向かいに立った。
「今日は、何についてお話ししましょうか」
その問いに、相澤はすぐには答えなかった。
聞きたいことは山ほどあった。
白雲朧の記憶が残っているのか。
自分たちを覚えているのか。
雄英高校で過ごした時間を覚えているのか。
どうして、今のような存在になったのか。
自分たちが知らなかったことが、何かあったのか。
しかし、最初の質問を口にする前に、相澤は一つの事実を改めて認識していた。
目の前の男は、黒霧と名乗っている。
少なくとも、現在の彼は、その名前で自分を認識し、他者と関わっている。
その名前を呼ぶことに、今のところ矛盾はない。
一方、白雲朧という名は、相澤たちにとって、過去から続いている名前だった。
二人が知っているのは、かつての朧だ。
黒霧が、その名を持つべき存在なのかどうか。
その答えは、まだ出ていない。
相澤は、口を開いた。
「……白雲朧という名前を知っているか」
黒霧の霧が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
見間違いだと言われれば、それで済むほどの変化だった。
だが、相澤は見逃さなかった。
ひざしも、息を呑んだ。
黒霧は、しばらく黙っていた。
やがて、その顔にあたる部分を二人へ向けた。
「……白雲、朧」
彼は、その名前を繰り返した。
まるで、初めて聞く言葉を口の中で確かめるように。
「その名前については、いくつかの記録を通じて知っています」
ひざしの表情が曇った。
「記録?」
「はい。過去の資料や、私の存在に関する調査の中で、その人物の名前が浮かび上がっています」
黒霧は続けた。
「また……私の中にも、その名前に結びつく断片的な記憶が存在するようです」
ひざしの目が見開かれた。
「……あるのか?」
声が震えていた。
黒霧は、すぐには頷かなかった。
「断片的な記憶があることと、それが何を意味するのかを理解できていることは、別の問題です」
相澤は、黙って聞いていた。
黒霧は、言葉を選ぶように続けた。
「たとえば、私には、知らないはずの場所に対して、既視感のようなものを覚えることがあります。ある言葉を聞くと、意味を理解する前に、何かが反応することもあります。人の名前が、記録にある文字列以上のものとして感じられる場合もあります」
「それが、白雲の記憶かもしれないってことか」
ひざしが尋ねた。
「可能性はあります」
「なら……!」
「ですが」
黒霧の声が、ひざしの言葉を遮った。
強い口調ではなかった。
怒りも、威圧もなかった。
それでも、その一言は、ひざしを止めた。
「その可能性を、確定した事実として扱うことはできません」
沈黙が落ちた。
相澤は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
ひざしは、口を閉じたままだった。
黒霧は二人を見つめている。
「お二人が、この名前に特別な意味を感じていることは理解しています。ですが、私の中に何らかの記憶が残っているとしても、それだけで私の存在のすべてを説明できるとは限りません」
その言葉は、相澤の胸に重く落ちた。
記憶がある。
それだけなら、希望を持つことができる。
だが、記憶があることと、同じ人間であることは同じではない。
名前が残っていることと、その名前を持つ者の人生が、そのまま続いていることも同じではない。
相澤は、視線を落とした。
「……お前は、白雲朧を自分だと思うか」
ひざしが、はっと息を吸った。
それは、彼自身も聞きたいと思っていた質問だった。
しかし、質問した瞬間に、その答えがどういう意味を持つのか、考えていなかったのかもしれない。
黒霧は、相澤の目を見た。
「……分かりません」
その答えは、拒絶ではなかった。
認める言葉でもなかった。
ただ、分からないという答えだった。
「私の中に、白雲朧に関係する記憶が存在する可能性はあります。しかし、私には、現在の私としての記憶もあります。黒霧として行動してきた経緯も、考え方も、他者との関係も存在します」
「……」
「仮に、白雲朧の記憶が残っていると確認されたとしても、それによって、今の私のすべてが消えるわけではありません」
相澤は、息を止めた。
黒霧は、穏やかに言った。
「それとも、お二人は、私の中に白雲朧の記憶が存在するなら、私は黒霧ではなくなるとお考えですか?」
その問いには、責める響きはなかった。
だからこそ、相澤はすぐに答えられなかった。
彼は、何を求めてここに来たのだろう。
友人を取り戻すため。
過去の真実を知るため。
失われたものに、もう一度触れるため。
その願いは、嘘ではない。
しかし、もしその願いが、目の前の存在を否定することにつながるのなら。
彼は、何をしようとしているのだろうか。
三 「朧なら、そんな言い方はしない」
「……お前、ずいぶんと難しいことを言うようになったな」
ひざしが、無理に笑おうとした。
「昔の朧なら、もっとこう、なんていうか……」
言葉が続かない。
どんな言い方をしようとしていたのか。
自分でも分かっていた。
昔の朧は、よく笑っていた。
何か問題が起きても、すぐに深刻な顔をするより、まずは冗談を言った。
相澤が訓練でうまくいかず、黙り込んでいたときも。
ひざしが張り切りすぎて、余計な失敗をしたときも。
朧は、二人を笑わせようとした。
ただし、無責任な男だったわけではない。
本当に危険なことが起きれば、誰よりも真剣に向き合った。
困っている人間を見れば、放っておけなかった。
自分がうまくできないことがあっても、それを理由に他人から目を逸らすことはなかった。
そんな男だった。
ひざしは、彼のことを思い出していた。
「……もっと、明るかったんだよ」
ひざしは呟いた。
「いや、今のお前が暗いってわけじゃないんだけどさ。そういうことじゃなくて……」
黒霧は静かに聞いていた。
「とにかく、あいつは、いつも笑ってたんだ。オレが騒いでたら一緒になって騒いだし、消太がしかめっ面してたら、わざと目の前で変な顔をしたりしてさ」
ひざしは、少しだけ笑った。
「……今思えば、オレたちのこと、よくあんなに相手してくれたよな」
相澤は、何も言わなかった。
ひざしの声は、徐々に小さくなっていた。
「だからさ……」
彼は、黒霧を見た。
「もし、お前の中にあいつがいるなら……。あいつの記憶が残っているなら、もう少し、何かあるんじゃないかって思うんだよ」
「何か、とは?」
「……オレたちのことを覚えてるとか。昔のことを思い出すとか。もっと、こう……」
言葉が見つからない。
黒霧は答えを急がせなかった。
ひざしは、自分の膝の上で拳を握った。
「……朧なら、オレの顔を見て、何か言うと思うんだ」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
相澤は、目を閉じた。
ひざしが求めているのは、記憶の有無だけではなかった。
友人が、ここにいると確かめたかったのだ。
自分たちの過ごした時間が、相手の中にも残っていると知りたかった。
自分たちだけが、あの頃を覚えているのではないと。
失われたものが、本当に消えてしまったわけではないと。
何か一つでも、昔と同じものがあれば。
声でも。
表情でも。
くだらない冗談でも。
自分たちが知っている白雲朧の痕跡があれば。
ひざしは、その可能性を信じたいのだ。
相澤だって同じだった。
ただ、ひざしほど、言葉にすることができないだけだった。
「……黒霧」
相澤が口を開いた。
「白雲朧に関する記憶を、確認することはできるか」
黒霧は、少しだけ顔を傾けた。
「どのような確認を想定されていますか」
「当時の資料を見せる。俺たちが知っている出来事について尋ねる。お前が覚えていることがあれば、話してもらう」
「……記憶を無理に引き出そうとすることは、望ましくないと考えます」
「同意する」
相澤は答えた。
「お前が話せる範囲でいい。話したくないことがあれば、話さなくていい」
ひざしは、相澤を見た。
相澤は続けた。
「だが、俺たちは知りたい。お前の中に、あいつの記憶が残っているのか」
黒霧は、静かに考えていた。
「……分かりました」
その答えを聞いた瞬間、ひざしの顔が明るくなりかけた。
しかし、黒霧はすぐに続けた。
「ただし、確認によって得られた反応を、私が白雲朧本人であるという結論に、直結させないでください」
ひざしの表情が止まった。
「……ああ」
「私は、お二人の望む答えを提供するために、ここにいるわけではありません」
その言葉は、穏やかだった。
しかし、明確だった。
「私自身の記憶を確認し、私に何が残されているのかを知る。そのために、協力できる範囲で協力します」
黒霧は、二人を見た。
「ですが、その結果が、お二人の期待するものと異なっていても、私の答えとして扱っていただきたいのです」
相澤は、その言葉を受け止めた。
「……分かった」
ひざしも、ゆっくりと頷いた。
「ああ……分かった」
ただし、ひざしの表情には、まだ揺れがあった。
彼は、期待していた。
白雲朧を取り戻したい。
あの頃のように話したい。
もう一度、笑い合いたい。
その願いは、今も消えていない。
黒霧が自分たちの知らない相手である可能性を、頭では理解しようとしている。
それでも、心は、過去の友人を探し続けていた。
四 思い出は、正解を教えてくれない
相澤が最初に取り出したのは、古い写真だった。
先ほど職員室で見ていたものと同じ写真。
三人の少年が並んでいる。
ひざしは、それを見た瞬間、息を呑んだ。
「……これ」
相澤は、黒霧の前に写真を置いた。
「雄英高校時代の写真だ」
黒霧は、静かに写真へ目を向けた。
黒い霧が、わずかに動く。
「……三人の学生が写っていますね」
「そうだ」
「左側の人物が、あなたです。右側が、山田さん」
「……ああ」
「中央にいる人物が、白雲朧」
黒霧は、その名を口にした。
ひざしは、椅子の端を握りしめていた。
「……何か、感じるか?」
黒霧は答えを探すように、しばらく写真を見つめた。
「……分かりません」
ひざしの肩が、わずかに落ちた。
「ただ……」
黒霧は続けた。
「この写真を見たとき、私の中に、何かが反応したことは確かです」
ひざしが顔を上げた。
「本当か?」
「はい」
「何が見えた?」
黒霧は、写真から視線を離さなかった。
「……断片的な光景です。校舎の廊下。窓から差し込む光。誰かの笑い声」
ひざしの喉が鳴った。
「それから?」
「……誰かが、私に……いや」
黒霧は、言葉を止めた。
「誰かが、ある人物に声をかけている場面が浮かびました。ですが、私がその場面のどこにいたのか、はっきりしません」
「名前は?」
相澤が尋ねた。
「……分かりません」
「声は、俺たちのものだったか」
「分かりません」
相澤は頷いた。
「そうか」
「……お二人は、それでも、私の中に白雲朧の記憶があると考えますか」
ひざしは、答えを急いで探した。
「いや、それは……」
本当は、そうだと言いたかった。
校舎の廊下。
窓から差し込む光。
誰かの笑い声。
それは、確かに自分たちの過ごした時間と重なるものだった。
だが、同じような光景は、どこにでもある。
記憶に関係する断片があったとしても、それが白雲朧のものだと、誰が証明できるのだろう。
「……分からない」
ひざしは、ようやく答えた。
「オレも、今は分からない」
黒霧は、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
その礼の言葉に、ひざしは少しだけ困惑した。
「……礼を言うことか?」
「はい。分からないことを、分からないとおっしゃってくださったので」
ひざしは、何も言えなかった。
黒霧は、写真を見つめたままだった。
「記憶というものは、不思議ですね」
その声は、独り言に近かった。
「自分が経験したことだと感じる場合でも、その記憶が現在の自分にとって、どのような意味を持つのかは、別の問題です」
相澤は、静かに聞いていた。
「仮に、写真に写っている人物の記憶が、私の中に残っていたとします。その記憶は、私が経験したことなのでしょうか。私が受け継いだものなのでしょうか。それとも、私という存在の中に、別の人物の記録が残されているのでしょうか」
黒霧は、写真から顔を上げた。
「記憶があるという事実だけでは、その違いを判断できません」
相澤の脳裏に、別の問いが浮かんだ。
記憶がある。
名前がある。
声が残っている。
それらは、確かに人間を理解するための重要な要素だ。
だが、それらだけで、一人の人間のすべてを決めてしまっていいのだろうか。
記憶が欠けていたら、その人間ではなくなるのか。
過去の性格と変わってしまったら、別人になるのか。
名前を変えたら。
考え方が変わったら。
大切にしているものが変わったら。
その人間は、過去の自分と無関係な存在になってしまうのか。
答えは、簡単ではなかった。
「……黒霧」
相澤が呼びかける。
「お前が、白雲朧に関する記憶を持っていたとしても、今のお前の記憶が消えるわけじゃない」
「はい」
「黒霧として過ごしてきた時間も、なかったことにはならない」
黒霧は、静かに彼を見た。
「……そう考えてくださるのですね」
「少なくとも、記憶を確認する前から、今のお前を否定するつもりはない」
相澤は、自分の言葉を慎重に選んだ。
「俺たちは、白雲朧のことを知っている。だから、あいつの記憶が残っているなら、知りたい」
そこで、一度、言葉を切る。
「だが、そのために、今のお前を消すことが目的になってはいけない」
ひざしは、相澤を見つめていた。
それは、彼自身が言葉にできなかったことだった。
友人を取り戻したい。
その願いが、いつの間にか、黒霧を白雲朧に戻すことへ置き換わってしまう。
そうなれば、彼らは目の前の存在を、そのまま見ることができなくなる。
黒霧が何を考えているのか。
何を望んでいるのか。
何を覚えているのか。
それらを、白雲朧という過去の人物像に合わせて判断するようになってしまう。
それは、本当に友人を救うことなのだろうか。
相澤は、その問いを、胸の奥に残した。
五 「消太」と呼んだ声
「……一つ、聞いてもいいですか」
黒霧が口を開いた。
「何だ」
相澤が答える。
「あなたは、白雲朧という人物を、どのような人間だったと覚えていますか」
相澤は、わずかに目を伏せた。
「……明るい奴だった」
「それは、山田さんもおっしゃっていましたね」
「誰とでも話していた。困っている奴がいたら、放っておけなかった。自分のことより、誰かのことを先に考えることもあった」
相澤は、ゆっくりと言葉を続けた。
「ただ、無責任な奴ではなかった。自分が何をしているのか、分かっていないわけじゃない。危険なことがあれば、ちゃんと立ち止まって考えていた」
「……なるほど」
「それから、少し調子に乗りやすかった」
「おい、そこはもっといいところを挙げろよ!」
ひざしが、思わず口を挟んだ。
相澤は、ひざしを横目で見た。
「いいところを挙げてる」
「どこがだよ!」
「調子に乗れるくらい、周囲を気にしてなかった」
「それ、褒めてんのか!?」
「褒めてる」
「絶対違うだろ!」
いつもの口調だった。
いつものやり取りだった。
ひざしは、言い返しながらも、どこかで、もう一人の声を待っていた。
ここで朧が笑うはずだった。
「まあまあ、二人とも。せっかく俺の話をしてるんだから、もっと褒めてくれてもいいんだぞ」
そんなふうに、軽く割り込んでくるはずだった。
ひざしは、自然と黒霧を見た。
黒霧は、二人のやり取りを静かに聞いていた。
その顔にあたる部分が、わずかに傾いた。
「……今の会話を聞いていると、私は、その人物が二人にとって、非常に大切な存在だったことを理解できます」
ひざしの笑顔が、止まった。
「……ああ」
黒霧は続けた。
「ですが、私には、その人物について、お二人が覚えているような具体的な人物像が、まだありません」
ひざしは、言葉を失った。
「お二人が、彼の言葉を待っていたことも、今、私には分かります。しかし、私がその人物のように振る舞うことが、必ずしも正しいとは限らないと思います」
「……」
「私が彼の記憶を持っている可能性があったとしても、お二人が覚えている彼と、現在の私が同じであるとは、まだ言えません」
黒霧は、少しだけ声を落とした。
「……それとも」
その問いは、静かだった。
「私は、お二人の前では、白雲朧のように振る舞うべきなのでしょうか」
ひざしは、思わず立ち上がりかけた。
「違う! そんなつもりじゃ……!」
しかし、その先の言葉が続かなかった。
本当に、そんなつもりはなかったのだろうか。
黒霧に、白雲朧のように振る舞ってほしいと思っていたことは。
あの頃のように、自分たちのことを思い出してほしいと思っていたことは。
少しでも昔の面影を見つけたら、そこに友人がいると信じたくなっていたことは。
それらを、すべて否定できるのだろうか。
ひざしは、口を閉じた。
「……悪い」
今度は、自然にその言葉が出た。
「いや……違うな」
ひざしは、自分の胸に手を当てた。
「悪いって言うだけじゃ、駄目なんだよな」
相澤は、黙っていた。
ひざしは、黒霧を見た。
「オレは……お前の中に、あいつがいるんじゃないかって思ってる」
黒霧は、静かに聞いていた。
「いたら、嬉しい。正直、ものすごく嬉しいと思う。だって、オレたちの友達なんだ。ずっと、もう一度会いたいと思ってた奴なんだ」
ひざしは、目を逸らさなかった。
「でも……だからって、お前にあいつのふりをしてほしいわけじゃない。少なくとも、そう思いたくはないんだ」
彼は、言葉を探した。
「……オレたちが覚えてるあいつと違うところがあったとしても、それを理由に、お前が間違ってるなんて言いたくない」
黒霧は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに尋ねた。
「では、もし私が、白雲朧の記憶を持っていたとしても、彼とは異なる考え方をしていたら?」
「……え?」
「もし、彼が大切にしていたものを、私が大切だと思わなかったら。彼が笑っていたことに、私は笑えなかったら。彼なら許した相手を、私は許せなかったら」
ひざしは答えられなかった。
黒霧の声は、穏やかだった。
「それでも、私が白雲朧の記憶を持っていることを、受け入れられますか?」
その質問は、ひざしの中に、深く沈んだ。
昔の友人を取り戻したい。
その願いを叶えるために、どこまでの違いを許容できるのか。
昔と同じであることを、どこまで求めるのか。
相澤は、静かに目を閉じた。
答えは、すぐには出なかった。
いや。
おそらく、今すぐ出すべき答えではないのだ。
六 名前を呼ぶことと、名前を押しつけること
「……白雲」
相澤の口から、その名前がこぼれた。
黒霧が、顔を上げた。
ひざしも、相澤を見た。
相澤自身、意識して口にしたわけではなかった。
ただ、写真を見たときから、ずっと心の中にあった名前だった。
何度も呼んだ。
もう返事がないと知りながら、何度も。
過去の記憶の中で。
夢の中で。
目の前にいる黒霧を見つめるときでさえ。
彼は、白雲朧を探していた。
黒霧は、その名前を聞いて、わずかに身じろぎした。
黒い霧の一部が、細く揺れる。
まるで、風に触れた煙のように。
相澤は、その変化を見ていた。
「……何か、感じたか」
黒霧は、すぐには答えなかった。
「……名前を聞いたとき、何かが反応したように思います」
ひざしの目が見開かれた。
「それは……」
「ですが、何が反応したのかは分かりません。記憶なのか。感情なのか。あるいは、名前に結びついている何らかの情報なのか」
黒霧は、静かに続けた。
「私には、それを区別するための確かな基準がありません」
相澤は、頷いた。
「……そうか」
ひざしは、身を乗り出しかけた。
「でも、今、反応したんだろ?」
「はい」
「白雲って呼んだら、何かが動いた。それは、何かの手がかりになるんじゃないか?」
「手がかりになる可能性はあります」
「だったら……!」
ひざしは、そこで言葉を止めた。
黒霧が、彼を見ていた。
その視線は、責めているようには見えなかった。
ただ、待っているようだった。
ひざしが、自分の言葉の続きを考えるのを。
「……だったら、もっと調べよう」
ひざしは、ようやく言った。
「無理に思い出させるんじゃなくて。お前が何を覚えてるのか、何に反応するのか、ちゃんと確かめよう。オレたちが覚えてることを話すこともできる。写真だって、ほかにもある」
黒霧は、静かに頷いた。
「それでしたら、協力できると思います」
ひざしは、少しだけ表情を和らげた。
「……ありがとうな」
「礼を言われるようなことではありません」
「いいんだよ。オレが言いたいんだから」
その言葉に、黒霧は何も答えなかった。
相澤は、二人のやり取りを見ていた。
ひざしは、まだ友人を探している。
自分も、同じだ。
しかし、今の会話で、一つだけ、はっきりしたことがあった。
白雲という名前に反応があったからといって、それだけで、黒霧の存在を白雲朧と決めることはできない。
反応がなかったとしても、記憶がないと決まるわけではない。
名前が、何かを呼び起こす。
それは、手がかりにはなる。
だが、結論ではない。
そして、彼らは、その違いを見失ってはならない。
相澤は、机の上の写真を見た。
三人の少年。
昔の自分たち。
そこには、未来が写っていない。
写真の中の朧が、いつか命を落とすことも。
相澤が教師になることも。
ひざしがプロヒーローとして活躍することも。
そして、黒霧が、今ここに立っていることも。
写真は、過去の一瞬だけを切り取っている。
その一瞬が大切だからといって、その後の時間まで、写真の中に閉じ込めてよいわけではない。
相澤は、その事実を、改めて理解し始めていた。
七 写真を持つのは、誰なのか
話し合いが一区切りついたとき、黒霧は、もう一度、写真へ目を向けた。
「……その写真を、もう少し見てもよろしいでしょうか」
相澤は、写真を持ち上げた。
「構わない」
彼は、写真を黒霧の前へ差し出した。
黒霧は、それを受け取った。
黒い霧の身体から、細い触手のようなものが伸び、写真の端を支える。
その動作は、慎重だった。
まるで、壊れやすいものを扱うように。
「……この写真は、長い間、保管されていたのですか」
「ああ」
「あなたが持っていたのですか」
「そうだ」
「山田さんも、この写真を?」
「オレも同じのを持ってるよ」
ひざしは、少し笑った。
「つっても、オレのはもっとひどいぞ。昔、飲み物をこぼしてさ。隅っこがシミになっちまってる」
「……それは、保管状態に問題がありますね」
「おい、そこは笑うところだろ!」
黒霧は、写真から目を離した。
「……申し訳ありません。冗談の意図を、正しく理解できませんでした」
ひざしは、口を開けたまま固まった。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そうか」
彼は、笑顔を保とうとした。
「いや、いいんだ。今のは、そんなに面白い話じゃなかったしな」
相澤は、視線を落とした。
黒霧は、二人の反応を見ていた。
「……私が、白雲朧ではない可能性があることを、改めて感じましたか」
ひざしの笑顔が消えた。
「違う」
相澤が先に答えた。
「今のやり取りだけで、そんな判断はできない」
「ですが、山田さんは、かつての友人と私を比較していました」
「……そうだな」
相澤は否定しなかった。
「俺たちは、お前とあいつを比較してしまう。それは、たぶん、これからもある」
黒霧は静かに聞いていた。
「だが、比較した結果を、お前に押しつけるつもりはない」
相澤は、言葉を選んだ。
「お前が知らない冗談があってもいい。俺たちが知っている記憶を共有できなくてもいい。今のお前が、俺たちの知らない考えを持っていても、それだけで間違っているとは言わない」
ひざしは、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな。オレも、そうしたい」
黒霧は、写真を見下ろした。
「……ありがとうございます」
その言葉を聞いて、相澤は少しだけ眉を寄せた。
「礼を言うな」
黒霧が顔を上げた。
「……なぜでしょうか」
「お前が、今の自分を説明するために、俺たちの許可を必要とするわけじゃないからだ」
相澤は、まっすぐに黒霧を見た。
「お前が何者なのか。何を覚えているのか。何を望んでいるのか。それを決めるために、俺たちの承認が必要なわけじゃない」
黒霧は、しばらく黙っていた。
やがて、写真を机に置いた。
「……それでも、あなた方が私の話を聞いてくださることには、意味があると思います」
「……そうか」
「私は、自分の中にあるものを、まだ理解できていません。お二人が知っている過去について聞くことで、私自身が何を感じるのかを知ることができるかもしれません」
黒霧は、ゆっくりと言った。
「ですが、その過去を受け入れるかどうか。そこから何を考えるか。どのような名前を、自分のものとして扱うか。それは、私自身が考えることです」
相澤は、頷いた。
「そうだ」
黒霧は、写真をもう一度見た。
「……この写真を、しばらくお預かりしてもよろしいでしょうか」
相澤は、すぐには答えなかった。
ひざしが、彼を見た。
写真を渡すということは、黒霧に何かを託すことにもなる。
友人の記憶。
過去の痕跡。
自分たちが大切にしてきた時間。
それを、黒霧がどう扱うのか。
何を感じるのか。
何も感じないのか。
それは、分からない。
だが、写真を渡すことによって、彼が白雲朧になるわけではない。
写真を受け取ったからといって、彼が白雲朧を名乗る義務を負うわけでもない。
相澤は、写真を黒霧の前へ押し出した。
「……構わない」
ひざしも頷いた。
「オレからも、頼む。大事にしてくれ……って言うと、ちょっと変か。お前がどう扱うかは、お前が決めてくれ」
黒霧は、二人を見た。
「……分かりました」
彼は写真を持ち上げた。
今度は、先ほどよりも少しだけ慎重に。
その仕草に、何か特別な意味があったのかどうかは分からない。
相澤たちには、判断できなかった。
ただ、黒霧が、自分の意思で写真を受け取った。
それだけが、確かなことだった。
八 取り戻したいものは、誰のものなのか
面会の終了時間が近づいていた。
相澤は、最後にもう一つ質問をした。
「……黒霧」
「はい」
「お前は、白雲朧の記憶を知りたいと思うか」
黒霧は、すぐには答えなかった。
その沈黙は、これまでのものとは少し違っていた。
自分の中にある記憶。
自分の名前。
自分が現在まで生きてきた時間。
それらを、どう考えればいいのか。
黒霧は、目の前の二人を見つめた。
「……知りたいと思う部分はあります」
相澤は、黙って聞いていた。
「私の中に、自分では説明できない反応があるのなら、それが何に由来するのか、知ることには意味があると思います」
「……ああ」
「ですが、私が知りたいのは、白雲朧という人物の記憶だけではありません」
ひざしが、顔を上げた。
「……どういう意味だ?」
黒霧は、少しだけ考えてから答えた。
「私自身が、どのようにして今の私になったのか。その過程に、何があったのか。何が残り、何が失われたのか。なぜ、私は黒霧という存在として生きているのか」
その声は、静かだった。
「白雲朧に関する記憶が、私の中に存在するのなら、それは重要な手がかりになるでしょう。しかし、それだけが私の存在を説明するすべてだとは、考えられません」
相澤は、その言葉を聞いた。
黒霧は続けた。
「私には、黒霧として過ごしてきた時間があります。お二人が私のことを、どのように評価しているかとは別に、私自身が経験してきたことがあります。それらを、すべてなかったことにしてしまうことは、できないと思います」
ひざしは、拳を握った。
「……ああ」
「もし、白雲朧の記憶を確認した結果、私がその人物と何らかの関係を持っていたと分かったなら、その事実を知りたいと思います。ですが、それによって、私が現在の自分を否定しなければならないとは、考えていません」
黒霧は、相澤を見た。
「……あなた方は、どうでしょうか」
相澤は、答えられなかった。
「白雲朧の記憶が、私の中に残っていた場合。それを知ったあなた方は、私に何を望みますか?」
その質問は、今までで最も難しいものだった。
ひざしは、目を伏せた。
何を望むのか。
もう一度、友人に会いたい。
昔のように話したい。
あの頃のことを、共有したい。
自分たちが覚えている時間を、相手も覚えていてほしい。
それは、確かに願いだった。
だが、その願いをすべて叶えようとしたとき、何が起こるのだろう。
黒霧に、白雲朧として振る舞ってほしいと求めることになるのではないか。
黒霧が自分の意思で何かを選ぶたびに、それを、白雲朧ならどうしたかという基準で測ることになるのではないか。
黒霧が過去の友人と違うことを恐れ、その違いを消そうとするのではないか。
それは、友人を取り戻すことなのだろうか。
それとも、目の前の存在を、もう一度、自分たちの望む形へ作り直そうとすることなのだろうか。
ひざしは、ゆっくりと顔を上げた。
「……オレは」
声が、少し震えていた。
「お前の中に、朧がいるなら……知りたい。あいつが何を覚えているのか。何を考えていたのか。どんなことを感じていたのか。知りたいと思う」
黒霧は、静かに聞いていた。
「でも、それが分かったからって、お前にあいつへ戻れって言いたいわけじゃない」
ひざしは、言い切ったあと、しばらく黙った。
「……そう言いたいんだ。今は」
その最後の言葉に、彼自身の迷いがにじんでいた。
今は、そう言いたい。
本当に、最後までそう思えるのか。
もし明日、黒霧が白雲朧の記憶を鮮明に語り始めたら。
もし、かつての友人と同じ口調で笑ったら。
もし、自分たちが知っている表情を見せたら。
そのときも、今と同じように、黒霧の現在の意思を尊重できるのか。
過去の友人の姿が鮮明になるほど、その願いが強くなる可能性がある。
愛情は、時に相手を見つめるための力になる。
だが、愛情が深いほど、相手にこうあってほしいという願いも強くなり得る。
自分が覚えているあの人でいてほしい。
自分が好きだったあの人に戻ってほしい。
自分たちが失ったものを、もう一度返してほしい。
その願いが、相手の今を見えなくしてしまうこともある。
相澤は、自分の胸にあるものを見つめ直していた。
自分も、同じだ。
白雲朧を取り戻したい。
その願いを、否定することはできない。
だが、黒霧が白雲朧と同じ存在だと証明されれば、自分は何を求めるのだろう。
あの頃のように笑ってほしい。
自分たちの名前を呼んでほしい。
同じ思い出を語ってほしい。
そして、もう一度、友人として隣にいてほしい。
そうした願いを抱くこと自体は、自然なことなのかもしれない。
しかし、黒霧がそれを望まなかったら。
自分たちが知っている白雲朧の人生を、今の黒霧が自分のものだと感じなかったら。
あるいは、自分たちが知らない過去の経験によって、黒霧が別の考えを持つようになっていたら。
それでも、自分は彼を白雲朧と呼び続けるのだろうか。
その名前を呼ぶことで、彼の現在の意思を押しのけてしまうのではないか。
相澤は、ゆっくりと口を開いた。
「……俺は、まだ答えを出せない」
黒霧は、静かに頷いた。
「そうですか」
「白雲を取り戻したいという気持ちはある。だが、そのために、今のお前を否定することになるなら……」
相澤は、そこで言葉を切った。
「……それが正しいのか、分からない」
ひざしは、彼を見ていた。
相澤が、ここまで自分の迷いを口にするのは珍しいことだった。
いつもなら、必要な情報を集め、考え、行動する。
分からないことがあっても、分からないとだけ言って止まるわけではない。
だが、今は違った。
自分が何を求めているのか。
その願いが、誰かの意思を尊重することと両立できるのか。
答えを出す前に、考えなければならないことがあった。
黒霧は、写真を見下ろした。
「……それでも、私は、お二人が知っている過去について、話を聞いてみたいと思います」
相澤が顔を上げた。
「……いいのか」
「はい。私自身が、何を感じるのかを知りたいからです」
黒霧は、二人に視線を戻した。
「ただし、その記憶が、私の中にどのような形で存在しているのか。それを、最初から決めないでいただきたいのです」
ひざしは、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
相澤も頷いた。
「約束する」
それが、二人にできる最初の約束だった。
友人を取り戻すと約束するのではない。
白雲朧が戻ってくると約束するのでもない。
黒霧が、過去の友人と同じ存在だと決めることでもない。
ただ、彼の記憶を確認するとき、彼自身の意思を無視しない。
記憶を手がかりにしながらも、記憶だけで彼の存在を決めない。
その約束を、これから何度も守る必要があるだろう。
そして、その約束が本当に守れるのかどうかは、まだ分からなかった。
九 面会の終わりに、名前を残す
「……本日は、ここまでにしましょう」
施設の担当者が、面会の終了時間を知らせた。
相澤は頷いた。
ひざしは、立ち上がる前に黒霧を見た。
「……また来てもいいか?」
黒霧は、わずかに顔を傾けた。
「面会の許可があれば、問題ありません」
「そういう手続きの話じゃなくてさ」
ひざしは苦笑した。
「いや、手続きも大事だけど。オレたちが、またお前に会いに来てもいいかって話」
黒霧は、しばらく黙っていた。
「……はい」
ひざしの表情が、少しだけ明るくなった。
「ありがとうな」
黒霧は、その言葉を聞いて、ゆっくりと答えた。
「こちらこそ。お二人のお話を聞くことは、私自身を理解するための手がかりになるかもしれません」
相澤は、黒霧の手元にある写真を見た。
「その写真は、しばらく持っていていい」
「ありがとうございます」
「ただし、何かを思い出さなければならないと思う必要はない」
相澤は、はっきりと告げた。
「その写真を見て、何も感じなかったとしても、無理に何かを探そうとするな。お前がどう感じるかは、お前が決めればいい」
黒霧は、写真を見下ろした。
「……分かりました」
「それと」
相澤は、言葉を続けた。
「今日、白雲の名前を呼んだことで、お前が何かを思い出したとしても……それを、俺たちの望む答えに合わせる必要はない」
黒霧は、静かに頷いた。
「はい」
ひざしは、相澤の横に立っていた。
何か言いたそうな顔をしている。
相澤が視線を向けると、ひざしは小さく肩をすくめた。
「……オレも、同じだ」
彼は、黒霧を見た。
「お前の中に、朧の記憶があるなら、知りたい。でも、オレが知ってる朧と違うところがあったって、それだけで、お前を否定するつもりはない」
言葉にすることは、難しかった。
それが本当にできるのか、自信もない。
だが、ひざしは、今の自分にできるだけの言葉で伝えた。
「……だから、無理に思い出そうとしなくていい。お前が知りたいと思うことを、知っていけばいい。オレたちが話せることがあれば、話すからさ」
黒霧は、二人を見た。
「……ありがとうございます」
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
かつてのような時間ではなかった。
笑い声があったわけでもない。
昔の思い出を共有し、懐かしむことができたわけでもない。
それでも、何かが始まった。
黒霧が、自分の中にある記憶と向き合おうとしている。
相澤とひざしが、自分たちの知る過去を、相手の現在へ押しつけないようにしようとしている。
それは、友人を取り戻すための道になるのかもしれない。
あるいは、友人とは別の存在として黒霧を理解するための道になるのかもしれない。
どちらになるのかは、まだ分からない。
相澤は、扉へ向かった。
ひざしも、その後に続く。
出る直前、相澤はもう一度、黒霧を振り返った。
「……また来る」
黒霧は、静かに頭を下げた。
「お待ちしております」
扉が閉じた。
廊下に出た二人は、しばらく何も言わなかった。
ひざしが先に口を開いた。
「……なあ、相澤」
「何だ」
「お前、あいつのこと、どう思った?」
相澤は歩きながら答えた。
「……まだ分からない」
「だよな」
「ただ」
相澤は足を止めた。
「少なくとも、黒霧は、自分が何を覚えているのかを知りたいと思っている。今の自分を否定されたくないとも考えている」
ひざしは、静かに頷いた。
「……ああ」
「それを無視して、白雲の記憶だけを探すわけにはいかない」
ひざしは、目を伏せた。
「……分かってる」
その声には、まだ痛みが残っていた。
分かっている。
だが、すぐに納得できるわけではない。
黒霧の中に白雲朧の記憶があるなら、もっと知りたい。
あの頃の朧が、どこかに残っているなら、もう一度会いたい。
その願いが、どうしても消えない。
相澤も同じだった。
だからこそ、二人は気をつけなければならない。
自分たちの願いを叶えるために、黒霧の今を奪ってしまわないように。
それは、決して簡単なことではなかった。
「……ひざし」
相澤が呼んだ。
「何だよ」
「俺たちは、白雲を取り戻したいと思っている」
「ああ」
「だが、黒霧を白雲に戻すことだけが、正しい答えだとは限らない」
ひざしは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。そうだな」
二人は、再び歩き始めた。
彼らが帰ろうとしている場所には、まだ多くの仕事がある。
守らなければならない生徒たち。
対応しなければならない事件。
向き合わなければならない現実。
その中で、彼らはこれからも生きていく。
そして、また黒霧に会いに行く。
次に会ったとき、彼は何を話すのだろう。
どんな記憶を見つけるのだろう。
何も思い出さないかもしれない。
思いがけないことを思い出すかもしれない。
どちらであっても、彼らは、その答えを受け止めなければならない。
友人を取り戻したいという願いを抱えたまま。
その願いが、相手の意思を無視する危険を持っていることを忘れずに。
十 黒霧の中に残されたもの
一人になった部屋で、黒霧は写真を手にしていた。
二人が帰った後も、写真は机の上に置かれたままだった。
彼は、それを持ち上げ、ゆっくりと眺めた。
三人の少年。
その中に、自分がいる。
そう言い切ることは、まだできなかった。
写真の中央にいる少年は、白雲朧。
彼の名前は、記録に残っていた。
彼の過去も、ある程度は知られている。
そして、黒霧自身の中にも、彼の名前に反応する何かがある。
だが、それが何を意味するのかは分からない。
黒霧は、写真を少し傾けた。
窓から差し込む光が、写真の表面に反射した。
その瞬間、頭の奥で、何かが揺れた。
廊下。
窓。
笑い声。
誰かの足音。
そして、誰かが自分を呼ぶ声。
――消太。
黒霧は、ぴくりと顔を上げた。
音は、あまりにも短かった。
聞き間違いかもしれない。
記憶なのかもしれない。
自分の中に存在する情報が、写真を見たことによって反応しただけなのかもしれない。
その違いは、まだ分からない。
しかし、たった一つの言葉が、妙に耳に残っていた。
消太。
それは、今日、部屋を訪れた男の名前だった。
相澤消太。
そして、昔の写真に写っている少年の名前でもある。
黒霧は、写真を見つめたまま、静かにその名前を口にした。
「……消太」
言葉が、部屋の中に落ちる。
何も起きなかった。
霧が大きく乱れることもない。
身体の輪郭が変わることもない。
声が変わることもない。
彼の中に何かが残っているのか。
それとも、ただ、記録として知っている名前を繰り返しただけなのか。
黒霧には、まだ分からなかった。
「……白雲、朧」
今度は、その名前を口にした。
白雲朧。
それは、目の前の写真の中にいる少年の名前だ。
自分の中にあるかもしれない記憶の名前。
二人の男が、取り戻したいと願っている存在の名前。
そして、今の自分には、まだ確かな意味を持たせることのできない名前だった。
黒霧は写真を机に置いた。
すぐに片づけることはしなかった。
見続けることもしなかった。
ただ、目の前に置いたまま、しばらく考えていた。
自分は、何者なのだろう。
白雲朧の記憶が、自分の中に残っているのだとしたら。
その記憶は、今の自分に何を意味するのだろう。
自分の中にあるものを、すべて取り出して並べたら、答えが分かるのだろうか。
それとも、人間という存在は、記憶を集めただけでは説明できないものなのだろうか。
黒霧は、写真に視線を戻した。
「……私は」
言葉が途切れた。
その先を、どう続ければいいのか分からなかった。
自分は白雲朧だ、と言うことはできない。
自分は白雲朧ではない、と断定することもできない。
どちらも、今の自分には、確かな答えではなかった。
彼は、少しだけ顔を傾けた。
「……私は、黒霧です」
その名前は、今の自分が使っている名前だった。
自分が、これまで他者と関わる中で名乗ってきた名前。
自分の存在を示すために使ってきた名前。
それが、真実のすべてを表しているかどうかは分からない。
だが、少なくとも、今の自分がその名で存在していることは確かだった。
そして、白雲朧という名前も、これから調べるべきものとして、目の前に残されている。
二つの名前が、今の彼の中で、まだ一つの答えにはなっていない。
黒霧は、写真を丁寧に置き直した。
それから、少し離れた場所に腰を下ろした。
写真を見続ける義務はない。
何かを思い出す義務もない。
昔の人物と同じように振る舞う義務もない。
相澤とひざしは、そう言っていた。
その言葉が、どのような意味を持つのか。
本当に、自分の意思を尊重しようとしてくれているのか。
これからの二人の行動を見なければ、分からないこともあるだろう。
だが、今日、彼らは、答えを強制しなかった。
それは、黒霧にとって、一つの事実だった。
彼は、再び写真を見た。
中央の少年は、笑っている。
その笑顔に、何かを感じる。
懐かしいような。
遠いような。
自分のもののようで、自分のものではないような。
説明できない感覚だった。
「……あなたは、誰だったのでしょうか」
黒霧は、写真の中の少年に向けて、静かに尋ねた。
当然、返事はない。
それでも、その問いは、彼の中に残った。
白雲朧という名前。
黒霧という名前。
二つの名前の間に、まだ見えていない過去がある。
その過去を知ることが、自分を理解するための手がかりになるのかもしれない。
ただし、その答えが何であっても、現在の自分の存在を、最初から否定する必要はない。
黒霧は、そう考え始めていた。
それが本当に正しいのかどうかは、まだ分からない。
それでも、彼は、写真を片づけなかった。
机の上に残したまま、明かりを落とした。
暗くなった部屋の中で、写真の輪郭だけが、かすかに見えていた。
三人の少年。
そのうちの一人は、今も教師として生きている。
もう一人も、今も生きている。
そして、三人目の少年については、まだ答えがない。
白雲朧は、どこにいるのか。
黒霧の中に、今も残っているのか。
それとも、二人が探しているのは、すでに失われた過去の姿なのか。
答えを知るためには、これからも、記憶を調べていく必要がある。
だが、その過程で、黒霧自身の意思を無視してはならない。
彼は、過去を知るための器ではない。
相澤たちの悲しみを埋めるための存在でもない。
彼自身の現在を持つ、一つの存在だった。
そのことを、三人が理解するまでには、まだ時間が必要だった。