写真の中で、緑谷出久は笑っていた。
それは、見慣れた笑顔だった。
困ったように眉を下げ、少しだけ口元を緩めている。何かを言われて照れているのか、それとも撮影の直前まで誰かと話していたのか。
隣には爆豪勝己がいる。
腕を組み、いつもの不機嫌そうな顔でカメラを睨んでいる。けれど、写真の中の彼はほんのわずかに口元を緩めていた。
轟焦凍は、相変わらず表情の変化が乏しい。
麗日お茶子は笑っていた。両手を胸の前で合わせ、まるで何か嬉しいことがあった直後のように。
相澤消太は後列に立ち、面倒くさそうな顔をしながらも、全員が写真に収まるように少しだけ身をかがめている。
そして――。
その五人の間に、もう一人の男がいた。
顔は見える。
髪型も、服装も、体格も、確かに写っている。
なのに。
誰も、その男を認識できなかった。
写真を見れば見るほど、そこにいるのが誰なのか分からなくなる。
顔立ちは記憶に残らないほど平凡だった。
しかし、平凡という印象さえ、次の瞬間には消えてしまう。
黒髪だった気がする。
いや、灰色だったかもしれない。
目の色は覚えている。
そう思った瞬間、目の色そのものを思い出せなくなる。
男の輪郭は写真に存在している。
けれど、男の存在だけが、見る者の記憶に定着しない。
まるで世界そのものが、その人物を覚えることを拒んでいるようだった。
写真の裏側には、こう書かれていた。
――四度目の世界で、今度こそ君を救う。
そして、その下にあったはずの名前は、黒く塗り潰されていた。
*
「……もう一度、確認するぞ」
雄英高校、地下特別対策室。
爆豪勝己は、机の上に置かれた写真を睨みながら言った。
「この写真が、俺たちの端末に勝手に送られてきた。撮影場所は不明。撮影日時も不明。こいつが誰なのか、誰も覚えていない」
「そうだね」
「しかも、写真の裏には『四度目の世界』だの『今度こそ君を救う』だの、ふざけた文章が書いてある」
「うん」
「……テメェ、さっきからそれしか言ってねえぞ、デク」
「ご、ごめん!」
緑谷出久は慌てて背筋を伸ばした。
爆豪は舌打ちする。
「謝れって話じゃねえ。何か思い出したなら言え」
「それが……本当に、何も」
出久は写真に視線を落とした。
見覚えがある。
そんな気がする。
写真の中の自分は、確かに自分だ。
爆豪も、轟も、お茶子も、相澤先生も、間違いなく本人だった。
しかし、撮影した記憶はない。
こんな場所に行った覚えもない。
そもそも、なぜ六人で写真を撮っているのかさえ分からなかった。
「……でも」
出久は、写真の中央にいる男を見つめた。
「この人が、僕を助けようとしていることだけは……分かる気がする」
「根拠は?」
相澤が尋ねた。
「ありません」
「なら、感覚か」
「はい」
「そういう感覚は、今まで何度もお前を救ってきた。だが、今回はそれだけで動くな」
相澤の声は静かだった。
「相手が善意で行動しているとしても、その結果が安全だとは限らない」
「……はい」
「逆も同じだ。こちらに干渉してくるものが、必ずしも敵とは限らない」
その言葉に、轟が顔を上げた。
「死神のことか」
「ああ」
十三年目の終わり。
あの日、世界の空に黒い亀裂が走った。
死者たちは再び消え始めた。
そして、死神は自らが開いた扉の向こうに、さらに巨大な何かが存在していることを認めた。
あれ以来、世界は少しずつ変わり続けている。
死者が戻るという奇跡は、まだ終わっていなかった。
それどころか、今になってようやく、何かが始まったのかもしれない。
「警察にも照会をかけた」
相澤が端末を操作する。
「撮影場所の候補を洗い出したが、現時点では該当施設が見つかっていない。建築物の特徴から、研究施設か、病院の旧棟、あるいは地下施設の可能性がある」
「病院……」
お茶子が呟いた。
写真の中の自分は、白い壁の前に立っている。
壁の一部には、薄く傷が残っていた。
その傷の形は、文字に似ていた。
何かを書き消した痕跡。
何度も削られ、何度も上書きされ、最後には何が書かれていたのか分からなくなった痕跡。
「これ、病院の壁なんかな」
「分からない」
轟が答えた。
「ただ、床の材質は医療施設で使われるものに近い。照明も、一般的なオフィスとは違う」
「じゃあ、誰かが入院してたのか?」
爆豪が写真を指で叩いた。
「俺たちが? こんな場所に?」
「全員が入院していたとは限らない」
相澤は写真を拡大した。
「重要なのは、ここにいる全員が、撮影された状況を覚えていないことだ」
彼は画面を切り替える。
写真のデータを解析した結果が表示された。
撮影機器の情報は存在しない。
位置情報もない。
撮影日時を示す情報も、保存履歴もなかった。
それなのに、画像そのものには破損がない。
データが欠落しているのではない。
最初から、その部分だけが存在しなかったように見える。
「さらに奇妙なのは、こちらだ」
相澤が画像の端を拡大する。
写真の隅。
白い壁に、小さな黒い文字が浮かび上がった。
肉眼ではほとんど見えない。
しかし、拡大すると確かに文字列が存在していた。
――OBSERVATION LOG.
その下には、数字が並んでいる。
04。
その隣に、さらに小さな文字。
――MIDORIYA IZUKU.
出久の顔から血の気が引いた。
「……また、僕の名前だ」
「四度目」
轟が言った。
「写真の裏に書かれていた言葉と一致する」
「待って」
お茶子が画面を見つめる。
「じゃあ、これって……この写真が撮られたのが、四度目の世界ってこと?」
「可能性はある」
相澤は肯定も否定もしなかった。
「だが、四度目という数字が何を意味しているかは不明だ。世界の再構築が四回目なのか、観測が四回目なのか、それとも別の意味なのか」
「……観測回数」
出久は小さく呟いた。
頭の奥で、何かが軋んだ。
観測回数。
記憶の欠落。
存在履歴。
死亡記録。
そして、白い場所。
あの空間で聞こえた声が、再び耳の奥に蘇る。
――観測対象を確認。
――前回の記録との照合を開始。
――緑谷出久。
――死亡。
「っ……!」
出久は額を押さえた。
「緑谷くん!」
お茶子が椅子から立ち上がる。
「大丈夫?」
「うん……大丈夫。ちょっと、頭が……」
「また白い場所か?」
爆豪の声が鋭くなった。
出久は一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「……あの場所が、近い気がする」
沈黙が落ちた。
爆豪は写真を睨みつけたまま、拳を握り締めた。
「だったら、余計に放っとけねえな」
「かっちゃん?」
「こいつが誰だろうと、何が目的だろうと関係ねえ」
爆豪は写真の中の男を指さした。
「デクを助けるってんなら、まずは顔出して説明しやがれ。こそこそ隠れて、勝手に人の記憶に穴開けてんじゃねえ」
「……うん」
「あと、デク」
「はい」
「一人で勝手に消えんな」
短い言葉だった。
だが、その言葉の裏にあるものを、出久は知っていた。
あの日。
出久たち五人は、密室から消えた。
扉は開いていなかった。
窓もなかった。
それなのに、五人だけが、まるで世界から切り取られたように消失した。
爆豪はそのことを、まだ完全には受け入れられていない。
怒りの奥に、恐怖がある。
失うことへの恐怖。
また間に合わないかもしれないという恐怖。
それは、出久にも分かっていた。
「……ごめん」
「あ?」
「いや、違う。謝るんじゃなくて……約束する」
出久は、まっすぐに爆豪を見た。
「もう、一人で抱え込まない。何が起きても、みんなに話す」
「最初からそうしろや」
「うん」
「あと、俺が殴る前に言え」
「それはちょっと怖いかな……」
「ぶっ殺すぞ」
「かっちゃん、物騒!」
お茶子が思わず声を上げた。
ほんの一瞬だけ、いつもの空気が戻る。
しかし、誰も笑い続けることはできなかった。
机の上に置かれた写真。
そこにいる六人目の男。
誰も覚えていないのに、確かにそこにいた人間。
彼は一体、何者なのか。
そして、なぜ出久を救おうとしているのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
*
その日の午後。
雄英高校の地下資料庫で、一つの記録が見つかった。
発見者は、警察との共同調査に参加していた塚内直正だった。
「……相澤君。少し、来てもらえるか」
通信越しの声は、いつもより低かった。
『どうしました?』
「見てもらいたい記録がある。できれば、緑谷君にはまだ知らせないでほしい」
『……出久に関することですか』
「そうだ」
短い沈黙。
『分かりました。今向かいます』
通信が切れた。
塚内は、地下資料庫の一番奥にある端末を見つめた。
そこは、雄英が保管する公式記録の中でも、一般職員が閲覧できない領域だった。
十三年前の最終決戦。
オール・フォー・ワンとの戦い。
その直後に発生した、数多くの未解決事件。
そして、記録から削除されたはずの資料。
端末に表示されているのは、古い報告書だった。
紙の原本を電子化したものらしい。
画像は荒く、文字の一部は潰れている。
しかし、中央に記された名前だけは、はっきりと読めた。
緑谷出久。
塚内は息を呑んだ。
その下には、報告書の分類番号が記されている。
――特別事案管理記録。
――極秘。
――関係者以外閲覧禁止。
そして、最も重要な欄。
被対象者の状態。
そこに記されていた文字は、塚内の知る歴史を根底から覆すものだった。
――死亡。
塚内は、画面を見つめたまま動かなかった。
日付は、十三年前。
最終決戦の当日ではない。
その後でもない。
記録上の日付は、最終決戦よりも前だった。
緑谷出久が、まだ雄英高校の生徒だった頃。
「……何だ、これは」
塚内は記録の詳細を開いた。
そこには、さらに不可解な文章が並んでいた。
――対象個体の死亡を確認。
――肉体の回収なし。
――死亡原因:記録欠落。
――現場状況:再構築により消失。
――関係者への聞き取り:実施不能。
――対象個体の生存記録との整合性:不一致。
そして、最後の一文。
――対象個体は、現在も生存している。
「……は?」
塚内は思わず声を漏らした。
死亡した。
しかし、生存している。
それだけなら、誤記録で説明できるかもしれない。
だが、記録の作成日時は確かだった。
電子化された日付ではない。
原本に記載された日付だ。
さらに、報告書の添付資料には、現場写真が存在していた。
塚内は震える指で、その画像を開いた。
そこに写っていたのは、白い部屋だった。
壁には無数の傷。
床には、何かを引きずったような跡。
部屋の中央には、血痕らしき黒い染みが残されている。
そして、壁の片隅。
そこには、誰かが爪で刻んだような文字があった。
――たすけて。
その下に、もう一つ。
――まだ、ここにいる。
塚内は、呼吸を忘れた。
なぜなら、その文字の筆跡が。
緑谷出久の筆跡と、酷似していたからだ。
*
「緑谷君には、まだ伝えるなと言ったはずだ」
相澤は資料庫に入るなり、塚内にそう告げた。
「分かっている」
「それで、何が見つかったんです?」
「……十三年前の記録だ」
塚内は画面を見せた。
相澤は無言で内容を読み進めた。
最初は、眉一つ動かさなかった。
しかし、日付を確認したところで、目つきが変わった。
「……この日付は」
「最終決戦より前だ」
「緑谷は、当時まだ雄英の生徒だった」
「そうだ」
「この記録が正しいなら、緑谷は十三年前に一度死んでいることになる」
「そうなる」
相澤は画面を睨んだ。
そして、次の瞬間。
「あり得ない」
低い声だった。
「俺は、あいつと一緒に戦ってきた。何度も危険な目に遭った。何度も、死にかけた。だが、死んだことなど一度もない」
「私もそう思っていた」
「記録の改竄では?」
「最初はそう考えた。だが、この資料は電子記録だけじゃない」
塚内は、古い箱を机に置いた。
中には、紙の報告書が収められていた。
封印シールには、十三年前の日付がある。
さらに、当時の担当者の署名。
複数の職員による確認印。
すべてが揃っていた。
偽造することは不可能ではない。
しかし、これだけの記録を、当時から一貫して改竄し続けたと考えるのは無理があった。
「問題は、これだけじゃない」
塚内は別の資料を開いた。
「この事件の記録は、雄英だけでなく、警察庁、病院、消防、そして当時の公安にも残っていた」
「……」
「ところが、どの記録も、現在の公的な歴史と矛盾している」
相澤は黙っていた。
「記録上、緑谷君は死亡している。だが、死亡届はない。遺体もない。葬儀もない。にもかかわらず、事件の関係者が存在している」
「関係者?」
「当時の報告書には、現場にいた人物が記されている」
塚内は、一覧を表示した。
そこには、見慣れた名前が並んでいた。
爆豪勝己。
轟焦凍。
麗日お茶子。
飯田天哉。
切島鋭児郎。
八百万百。
そして、相澤消太。
相澤は、自分の名前を見つめた。
「……俺も、関わっていたのか」
「記録上はな」
「記憶はない」
「私もだ」
塚内は、別の欄を指さした。
そこには、報告書の作成者が記されていた。
――作成者:緑谷出久。
相澤は、息を止めた。
死亡したはずの人間が、自分の死亡記録を作成している。
しかも、その報告書が書かれたのは、死亡した日から三日後だった。
「……どういうことだ」
相澤の声が、わずかに震えた。
「分からない」
塚内は正直に答えた。
「だが、一つだけ分かったことがある」
彼は画面を切り替えた。
記録の末尾に、赤い文字が浮かび上がっていた。
――本記録は、再構築の影響を受けています。
――記録内容の一部は、観測対象の記憶と一致しません。
――記録内容の一部は、観測対象の存在履歴と一致しません。
――記録の閲覧により、対象個体への再接触が発生する可能性があります。
そして、その下に。
――閲覧者への警告。
――思い出してはいけない。
相澤は画面を閉じようとした。
しかし、閉じる前に、画面の表示が勝手に切り替わった。
黒い文字が、一行ずつ現れる。
――閲覧者を確認。
――相澤消太。
――対象個体との関係性を照合。
――教師。
――保護者的役割。
――救済行動の履歴を確認。
――介入者として認定。
相澤の目が見開かれた。
「塚内さん、端末から手を離せ!」
「何だ?」
「いいから!」
だが、遅かった。
画面が一瞬、真っ白になった。
次の瞬間。
資料庫の照明が消えた。
*
暗闇の中で、相澤は誰かの泣き声を聞いた。
子供の声だった。
か細く、途切れ途切れで。
必死に、誰かを呼んでいた。
「……先生」
相澤の背筋が凍った。
その声には、聞き覚えがあった。
何度も聞いた声だ。
訓練で失敗した時。
仲間を助けられなかった時。
自分の力が足りないと悔しがった時。
それでも立ち上がろうとした時。
いつも、少しだけ不安そうに。
それでも、前を向いて。
相澤に話しかけてきた声。
「先生……」
暗闇の向こうに、白い部屋が見えた。
床に膝をついた少年がいる。
緑色の髪。
痩せた肩。
擦り切れた制服。
血に汚れた両手。
少年は、壁に背中を預けていた。
目の前には、巨大な黒い亀裂が走っている。
その向こうには、星々があった。
星ではないのかもしれない。
宇宙のように見えるだけの、何か。
そこから、黒い影が伸びていた。
少年は、その影から逃げるように、床を這っていた。
「先生……」
少年が、再び呼ぶ。
「僕……ちゃんと……できたかな」
相澤は、動けなかった。
声を出そうとしても、喉が動かない。
手を伸ばそうとしても、腕が上がらない。
まるで、この光景を見ているだけの存在にされているようだった。
少年は、泣いていた。
「みんなを……助けられたかな」
黒い影が、少年の足元に触れた。
少年の身体に、亀裂が走る。
皮膚が割れるのではない。
存在そのものが、ひび割れていく。
少年は、自分の手を見つめた。
そこにあるはずの指が、少しずつ薄れていた。
「……ああ」
少年は、小さく笑った。
「そっか」
笑うな。
相澤は思った。
笑うな。
そんな顔をするな。
助けを求めろ。
誰かを呼べ。
お前は、いつもそうやって一人で抱え込む。
だから、今度は。
今度こそ。
――俺を呼べ。
だが、少年は、もう一度だけ呟いた。
「先生……ごめんなさい」
そして。
少年は消えた。
相澤の意識が、そこで途切れた。
*
「相澤先生!」
目を開けると、目の前に塚内がいた。
床に倒れていたらしい。
頭が痛い。
喉が乾いている。
だが、それ以上に。
相澤の胸の奥には、言葉にできない感情が渦巻いていた。
「……今、何が起きた」
「分からない。突然、照明が落ちて……」
塚内は、端末を指さした。
「その後、君が倒れた」
「……俺は、何を見た?」
「君は、何かを見ていたのか?」
相澤は答えなかった。
白い部屋。
泣いていた少年。
黒い亀裂。
そして、自分を呼ぶ声。
あれは記憶なのか。
幻覚なのか。
それとも、記録を見たことによって作られた偽物なのか。
判断できなかった。
しかし、一つだけ確かなことがある。
あの少年は、緑谷出久だった。
今の出久ではない。
雄英に入学したばかりの頃の、まだ幼さの残る少年。
彼は、誰かに助けを求めていた。
そして、相澤は。
その声に、応えられなかった。
「……緑谷には、伝える」
相澤は、ゆっくりと立ち上がった。
「この記録を見せるかどうかは、本人の状態を確認してから決める。だが、隠し続けることはできない」
「相澤君」
「俺は、教師だ」
相澤は塚内を見た。
「生徒が助けを求めていたなら、何があったのかを知る責任がある」
それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。
「たとえ、そいつが十三年前に死んでいたとしてもな」
端末が、再び点滅した。
相澤は振り返る。
画面には、新しい文字が表示されていた。
――介入者の記憶情報に変化を確認。
――過去の記録との一致率が上昇。
――対象個体への接触が予測されます。
――再構築の準備を開始します。
その下に、一つだけ、別の文章が現れた。
まるで、誰かがこの記録を読んでいる相澤に向けて書いたような文章だった。
――先生。
――今度は、間に合いますか。
相澤の手が止まった。
その瞬間、画面は完全に消えた。
*
同じ頃。
雄英高校の屋上では、緑谷出久が一人、街を眺めていた。
空は青い。
雲は流れ、遠くにはビル群が見える。
人々はいつも通りに生活している。
誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが仕事に向かい、誰かが帰宅する。
世界は続いている。
十三年前も。
十二年前も。
そして、今も。
だが、出久には、どうしても拭えない疑問があった。
もしも。
もしも、本当に自分が一度死んでいたのなら。
今ここにいる自分は、何なのだろう。
記憶がある。
感情がある。
仲間との思い出がある。
母との思い出がある。
オールマイトから受け継いだものがある。
人々を救いたいという願いがある。
それらがすべて本物なら、自分は自分なのだろうか。
それとも。
誰かが作り直した、緑谷出久という存在なのだろうか。
「……考えても、分からないか」
出久は、小さく息を吐いた。
答えを出すには、情報が足りない。
そして、今の自分には、情報を集めるための時間さえ足りない気がしていた。
写真の裏に書かれていた言葉。
四度目の世界で、今度こそ君を救う。
あの言葉を書いた人物は、何を知っているのだろう。
何度も世界をやり直してきたのか。
それとも、世界がやり直されるたびに、自分だけが記憶を保っているのか。
そして、なぜ。
自分を救わなければならないのか。
その時だった。
「……緑谷君」
背後から声がした。
振り返ると、お茶子が立っていた。
「お茶子ちゃん?」
「ここにおると思って」
彼女は出久の隣に立った。
しばらく、二人で街を眺めた。
沈黙は気まずくなかった。
むしろ、言葉にしなければならないことが多すぎて、何から話せばいいのか分からなかった。
「……なあ、緑谷君」
「うん」
「もしもやで」
お茶子は、空を見上げた。
「もしも、自分が知らんうちに、何回も死んどったって言われたら……どう思う?」
出久は、すぐには答えられなかった。
「……怖いと思う」
「うん」
「自分が、自分じゃなくなるような気がする。今までの記憶も、みんなとの思い出も、全部、誰かが作ったものかもしれないって……そう考えたら、きっと怖い」
「……うん」
「でも」
出久は、お茶子を見た。
「それでも、今ここにいる僕が、お茶子ちゃんを大切に思っていることは、変わらないと思う」
お茶子の目が揺れた。
「たとえ、僕の過去に何か秘密があったとしても。僕の記憶が、誰かに作り直されたものだったとしても。今、僕が何を感じて、何を選ぶかは……僕自身が決めたい」
出久は、自分の手を見つめた。
かつて、何も持っていなかった手。
誰かを救う力を求めていた手。
たくさんの人を救い、同時に、たくさんの人に救われてきた手。
「僕は、僕でいたい」
それは、願いだった。
答えではない。
確信でもない。
ただ、今の自分が、どうしても手放したくないものだった。
お茶子は、静かに微笑んだ。
「うん」
そして、出久の手を取った。
「じゃあ、一緒に確かめよう」
「お茶子ちゃん……」
「緑谷君が何者なのか。何があったのか。何回、世界がやり直されていたのか」
お茶子は、出久の手を握り締めた。
「一人で答えを出さんでええよ」
その言葉に、出久は目を伏せた。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
そうだ。
自分は、一人ではない。
そのことだけは、誰にも奪わせない。
その瞬間。
出久の端末が震えた。
画面に、一通のメッセージが届いていた。
差出人は、存在しないアカウント。
件名はない。
本文は、たった一行。
――その約束を、三度目にも聞いた。
出久の指先が、冷たくなった。
続けて、もう一通。
――君は、三度とも同じことを言った。
そして、三通目。
――三度とも、君は僕を忘れた。
「……誰だ」
出久は、画面を見つめた。
メッセージは、まだ続いていた。
――それでも、僕は君を救う。
――今度こそ、君が僕を忘れる前に。
最後の一文が表示された瞬間、端末の画面が黒く染まった。
そして、文字が浮かび上がる。
――第五の世界を開始しますか?
出久は息を呑んだ。
その問いの下には、二つの選択肢があった。
YES
NO
どちらも、押されていない。
誰も触れていない。
それなのに、画面の下部には、すでに回答が記録されていた。
――選択結果:NO。
――回答者:緑谷出久。
――選択時刻:十三年前。
「……十三年前?」
出久が呟いた瞬間。
屋上の景色が、揺れた。
青い空に、黒い線が走る。
雲が止まった。
遠くを走る車が、音もなく静止した。
街を歩いていた人々が、まるで写真になったように動きを止める。
お茶子が、出久の手を強く握った。
「緑谷君……!」
「お茶子ちゃん、離れないで!」
出久は彼女を庇うように前へ出た。
黒い亀裂は、空だけではなかった。
屋上の床にも。
手すりにも。
出久の足元にも。
そして、出久自身の手の甲にも。
細い亀裂が走っていた。
痛みはない。
血も出ない。
ただ、自分の身体が、世界から切り離されようとしている。
そんな感覚があった。
視界の端に、白い文字が浮かび上がる。
――再構築を開始します。
――対象個体の状態を確認。
――緑谷出久。
――死亡記録:確定。
――生存記録:矛盾。
――存在履歴:不一致。
――再構築の必要性を検討。
出久は、歯を食いしばった。
「……ふざけるな」
白い空間が、視界を覆い始める。
「僕は……!」
声が、かすれた。
自分の名前を呼ぼうとした。
緑谷出久。
その名前を。
誰にも奪わせないために。
しかし、声が出ない。
白い空間の向こうから、少年の声が聞こえた。
「おかえり」
幼い自分の声だった。
「今度は、ちゃんと選べるかな?」
出久の視界が、真っ白になった。
*
同時刻。
雄英高校地下、特別対策室。
相澤消太は、突然立ち止まった。
手にしていた端末の画面が、黒く染まっていた。
その中央に、一つの名前が表示されている。
――緑谷出久。
その下には、状態を示す文字。
――再構築中。
「……緑谷?」
相澤は、すぐに通信を開いた。
「緑谷、応答しろ!」
返事はない。
「緑谷!」
画面に、別の文字が浮かび上がった。
――介入者の接触を確認。
――相澤消太。
――対象個体との関係性を再評価。
――教師。
――保護者的役割。
――救済行動の履歴を確認。
――介入者の記憶情報を復元します。
「……何?」
次の瞬間。
相澤の頭の中に、記憶が流れ込んできた。
白い部屋。
幼い緑谷出久。
血に汚れた手。
黒い亀裂。
そして、少年の声。
『先生……ごめんなさい』
「――っ!」
相澤は壁に手をついた。
違う。
これは、さっき見た幻覚ではない。
もっと鮮明だった。
もっと具体的だった。
自分が、その場にいた記憶。
自分が、少年の手を握った記憶。
自分が、少年を抱きしめた記憶。
そして。
自分が、少年を助けられなかった記憶。
「……ああ」
相澤の喉から、かすれた声が漏れた。
「そうか……」
思い出した。
すべてではない。
ほんの一部だ。
だが、確かに思い出した。
十三年前。
緑谷出久は、一度死んでいる。
そして、その死を。
相澤消太は、知っていた。
知っていたのに。
忘れていた。
いや。
忘れさせられていた。
「……ふざけるな」
相澤は端末を握り締めた。
画面に、新たな文字が浮かび上がる。
――介入者の記憶復元が進行しています。
――対象個体との接触履歴を復元。
――世界の整合性が低下しています。
――再構築を優先します。
相澤は、画面に向かって言い放った。
「聞こえているんだろう」
返事はない。
「緑谷を返せ」
画面の文字が、止まった。
「何度世界をやり直そうが、何度記憶を消そうが、何度あいつを死んだことにしようが……」
相澤は、静かに目を細めた。
「俺は、あいつの教師だ」
画面に、最後の一文が浮かび上がる。
――介入者の意思を確認。
――救済行動を検出。
――再構築の妨害者として認定します。
相澤は笑わなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、目の前の画面を睨みつけた。
「上等だ」
*
そして、誰も知らない場所で。
あの写真の中にいた男が、目を覚ました。
暗闇。
冷たい床。
遠くに、無数の光が見える。
彼は、ゆっくりと身体を起こした。
その顔には、疲労が刻まれていた。
何度も眠れない夜を過ごした者の顔。
何度も大切なものを失った者の顔。
何度も、救えなかった誰かを思い出してきた者の顔。
彼は、手のひらを見つめた。
そこには、黒い亀裂が走っていた。
「……また、失敗したか」
声は掠れていた。
目の前に、白い文字が浮かび上がる。
――第五の世界。
――再構築開始。
――介入者の記憶復元率:十二パーセント。
――対象個体の記憶復元率:〇・〇〇一パーセント。
――再構築完了予測:不明。
男は、しばらくその文字を見つめていた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……違う」
彼は呟いた。
「まだ、第五の世界じゃない」
黒い亀裂が、彼の腕を這い上がる。
「これは……四度目の世界が、壊れ始めただけだ」
男は、暗闇の向こうを見た。
そこには、巨大な影があった。
人の形をしているようで、人ではない。
無数の星を抱えているようで、星そのものでもない。
見る者の意識に応じて、その姿を変える存在。
世界の外側から、すべてを観測するもの。
男は、その影に向かって言った。
「今度こそ、僕が先に見つける」
影は答えない。
「君が、彼を見つける前に」
男は拳を握り締めた。
「僕が、緑谷出久を救う」
その瞬間、影の奥で、無数の光が瞬いた。
男の耳に、声が届く。
音ではない。
言葉ですらない。
意味だけが、直接、意識に流れ込んでくる。
――観測対象の介入者。
――存在履歴の欠落。
――救済行動の反復。
――介入者の目的を照合。
男は、笑った。
「……そうだよ」
そして、はっきりと言った。
「僕は何度でも、君の邪魔をする」
黒い亀裂が、さらに広がる。
影の向こうで、世界の記録が書き換わっていく。
その中に、一つだけ。
決して消えない記録があった。
緑谷出久。
死亡。
生存。
死亡。
生存。
死亡。
生存。
その文字列は、無限に繰り返されていた。
そして、そのすべての記録の末尾に。
同じ言葉が刻まれていた。
――対象個体は、世界の再構築を拒否しています。
*
白い空間。
緑谷出久は、そこに立っていた。
足元には何もない。
空もない。
地平線もない。
ただ、どこまでも続く白。
そして、目の前に。
幼い自分が立っていた。
緑色の髪。
丸い目。
少しだけ大きな服。
かつて、何の力も持っていなかった頃の自分。
少年は、出久を見上げていた。
「おかえり」
出久は、答えなかった。
答えられなかった。
目の前の少年が、何者なのか。
自分の記憶なのか。
世界が作り出した幻なのか。
それとも、自分が忘れてしまった過去そのものなのか。
分からない。
しかし、少年の瞳を見た瞬間。
胸の奥が、痛んだ。
少年は、少しだけ首を傾げた。
「……まだ、思い出せないんだね」
その声には、怒りがなかった。
悲しみもなかった。
ただ、長い時間を待ち続けた者の、静かな疲れがあった。
「僕は……君を知っているの?」
「うん」
「僕の過去なの?」
「うん」
「じゃあ、教えてよ」
出久は一歩、前へ出た。
「僕は、何を忘れているの?」
少年は、すぐには答えなかった。
その代わり、出久の手を取った。
小さな手だった。
冷たかった。
「……君は、何度も世界を救おうとした」
少年は言った。
「何度も、誰かを助けようとした」
白い空間の向こうに、無数の光景が浮かび上がる。
炎に包まれた街。
崩れ落ちるビル。
泣き叫ぶ人々。
血に染まった戦場。
手を伸ばす仲間たち。
そして、そのすべての中心に立つ、緑谷出久。
「君は、何度も正しいことを選ぼうとした」
少年の声が、少しだけ震えた。
「でも……世界は、君が選んだ結果を受け入れなかった」
光景が、次々と消えていく。
「だから、君は……」
少年は、出久を見上げた。
「世界をやり直すことを、拒んだんだ」
出久の心臓が、大きく脈打った。
「……僕が?」
「うん」
「でも、さっきの記録には、僕が『NO』を選んだって……」
「そうだよ」
「それが、世界をやり直すことを拒んだって意味なの?」
少年は頷いた。
「君は、みんなが死ぬ世界を受け入れたんじゃない」
少年は、出久の手を強く握った。
「みんなが生きている世界を、誰かの都合で何度も壊されることを、拒んだんだ」
出久は、息を呑んだ。
「……じゃあ」
言葉が、喉に引っかかる。
「僕は、世界を救えなかったの?」
少年は、悲しそうに微笑んだ。
「違うよ」
そして。
その言葉を口にした。
「君は、世界を救ったんだ」
出久の目が見開かれる。
「でも、そのせいで……」
少年は、白い空間の奥を見た。
「君は、世界から消されることになった」
その瞬間。
白い空間の天井に、黒い亀裂が走った。
向こう側から、巨大な影が覗いている。
少年は、出久の手を離した。
「……時間がない」
「待って!」
出久は、少年の腕を掴んだ。
「君は誰なんだ!?」
少年は振り返った。
その顔は、出久自身の顔だった。
だが、その目だけが違った。
長い時間を生きた者の目。
何度も別れを経験した者の目。
それでも、最後まで希望を捨てなかった者の目。
「僕は――」
少年が答えようとした瞬間。
黒い影が、白い空間へと侵入した。
少年の身体に亀裂が走る。
「――っ!」
出久は手を伸ばした。
だが、少年の身体は、光の粒子となって崩れ始めていた。
「待って! まだ、何も聞いてない!」
少年は、最後に一度だけ笑った。
「大丈夫」
その笑顔は、出久がよく知っているものだった。
自分が、誰かを安心させる時に浮かべる笑顔。
「今度は、君が選べるから」
そして。
少年は消えた。
残された白い空間に、一つだけ声が響く。
それは、少年の声ではなかった。
もっと低く。
もっと深く。
世界の外側から、直接、意識に触れてくる声。
――観測対象、緑谷出久。
――記憶復元の開始を確認。
――世界の再構築を妨害する要因を検出。
――対象個体の選択権を剥奪します。
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
恐怖はあった。
何が起きているのか分からない。
自分が何者なのかも、まだ分からない。
それでも。
出久は、はっきりと言った。
「……僕の人生は、僕が決める」
白い空間が、震えた。
「誰かが僕を何度死んだことにしようと」
出久は、一歩前へ踏み出した。
「誰かが僕の記憶を消そうと」
もう一歩。
「誰かが、僕の未来を決めようと」
彼は、拳を握った。
「僕は、僕の選択を手放さない!」
黒い亀裂が、砕け散った。
その向こうに広がっていたのは、宇宙だった。
無数の星。
無数の世界。
無数の可能性。
そして、そのすべてを見つめる、巨大な存在。
出久は、その姿を見上げた。
初めて。
自分の意思で。
世界の外側にいるものを、見つめ返した。
その瞬間、巨大な存在の内部で、何かが変化した。
――観測対象が、観測者を認識しました。
――予測外の反応を確認。
――記録を更新します。
――緑谷出久。
――観測対象から、観測者への干渉を確認。
そして。
世界が、再び動き始めた。
第二章 第五話「写真に写らない一人」 完
次話予告
第六話「十三年前の死亡報告書」
十三年前、緑谷出久は確かに死亡していた。
少なくとも、世界の記録はそう告げている。
相澤消太は、封印されていた記憶の断片を取り戻し始める。そこにあったのは、少年を救えなかった教師の悔恨と、存在しないはずの研究施設の記録。
一方、白い空間から戻った出久の身体には、誰にも見えない変化が生じていた。
彼の記憶の奥底に眠る、もう一人の緑谷出久。
その少年が残した言葉。
――君は、世界を救ったんだ。
そして、雄英の端末に新たな記録が出現する。
「第零回観測――緑谷出久、死亡確認」
その記録の作成者は。
――緑谷出久本人だった。
――忘却の向こう側――
世界が、再び動き始めた。
風が吹いた。
雲が流れた。
遠くで車のクラクションが鳴り、街路樹の葉が揺れ、どこかの建物から人々の笑い声が聞こえてくる。
ほんの数秒前まで、世界は止まっていた。
時間が凍りつき、空に黒い亀裂が走り、緑谷出久の身体そのものが、世界から切り離されようとしていた。
だが今は、何事もなかったかのように日常が戻っている。
まるで、先ほどの異常など最初から存在しなかったかのように。
「……緑谷君?」
お茶子の声が聞こえた。
出久は、ゆっくりと振り返った。
「お茶子ちゃん……」
「緑谷君! よかった……!」
彼女が駆け寄ってくる。
出久の肩を掴み、顔を覗き込み、怪我がないか確かめる。
「大丈夫? どこか痛いところない? さっき、急に動かなくなって……空も変になって……うち、何が起きたんか全然……!」
「大丈夫。僕は……」
言いかけて、出久は口を閉じた。
自分は何を見たのだろう。
白い空間。
幼い自分。
世界を救ったという言葉。
そして、世界の外側から自分を見つめていた巨大な存在。
あれは夢ではない。
少なくとも、ただの夢ではなかった。
出久は、自分の手を見つめた。
手の甲にあったはずの黒い亀裂は、消えていた。
痛みもない。
痕跡もない。
しかし、確かに覚えている。
自分の身体が、存在そのものから崩れ始めていた感覚を。
「……お茶子ちゃん」
「うん?」
「僕、さっき……何秒くらい動かなかった?」
「え?」
お茶子は、困惑した表情を浮かべた。
「何秒って……」
彼女は端末を取り出した。
「屋上に来てから、そんなに時間は経ってないと思うけど……」
画面を確認する。
時刻は、午後三時十七分。
出久が屋上に来たのは、午後三時十六分。
たった一分。
その間に、出久は別の空間で、幼い自分と話をしていた。
あの場所では、もっと長い時間が流れていた気がする。
何分だったのか。
何十分だったのか。
あるいは、何時間だったのか。
分からない。
「……そうなんだ」
出久は、曖昧に笑った。
お茶子は、そんな彼をじっと見つめた。
「緑谷君」
「うん」
「また、何かあったんやね」
出久は答えられなかった。
彼女の目は、真剣だった。
心配している。
怒っているわけではない。
責めているわけでもない。
ただ、自分が知らないところで、出久がまた何かを背負ってしまったのではないかと恐れている。
それが分かるからこそ、出久は言葉を選んだ。
「……白い場所に行ったんだ」
「白い場所?」
「うん。何もない、真っ白なところ。そこで、昔の僕に会った」
お茶子の顔が強張った。
「昔の……緑谷君?」
「たぶん、そう。小さい頃の僕だった。あの子は、僕が何度も世界を救おうとしたって言った」
出久は、空を見上げた。
「それから、僕は世界を救ったんだって。でも、そのせいで世界から消されることになったって……」
言葉にした途端、胸の奥が重くなった。
自分が世界を救った。
その結果、世界から消されることになった。
あまりにも矛盾している。
けれど、あの少年は嘘をついているようには見えなかった。
「……緑谷君は、どう思う?」
お茶子が尋ねた。
「え?」
「その子が言ったこと。信じられる?」
出久は考えた。
すぐに答えは出なかった。
「……全部は信じられない。でも、全部が嘘だとも思えない」
「そっか」
「それに、僕は……」
出久は、言葉を探した。
「僕は、あの子を知っている気がしたんだ。顔も声も、自分自身なのに、何かが違った。でも、あの子が僕のことを見ていた目は……」
出久は、自分の胸元を握った。
「ずっと、僕が知っている誰かの目だった」
お茶子は、静かに聞いていた。
「僕が、誰かを救えなかったときにする顔。僕が、何かを諦めそうになったときにする顔。僕が……誰かに助けてほしいって思ったときにする顔」
「……」
「あの子は、ずっとそれを知っているみたいだった」
風が吹いた。
お茶子は、出久の手を取った。
「ほんなら、探そう」
「え?」
「その子が誰なのか。何があったのか。緑谷君が何を忘れているのか」
お茶子は、まっすぐに出久を見た。
「今度は、うちも一緒に探す」
「……ありがとう、お茶子ちゃん」
「ううん」
彼女は、少しだけ笑った。
「それに、写真のことも気になるし」
出久は、端末を取り出した。
あの写真。
六人が写っていた、存在しないはずの記念写真。
その中にいた、誰も覚えていない男。
写真の裏に記された言葉。
――四度目の世界で、今度こそ君を救う。
出久は、その写真を開いた。
そして、気づいた。
「……あれ?」
「どうしたん?」
「写真が……」
画像が、変わっていた。
ほんのわずかな変化だった。
最初に見たとき、写真の中の男は、出久とお茶子の間に立っていた。
いや、正確には、二人の少し後ろだった。
だが今は。
男の立ち位置が、変わっている。
彼は、出久の隣に立っていた。
そして、その片手を。
出久の肩に置いていた。
「……こんなの、さっきは……」
出久の声が震えた。
お茶子が画面を覗き込む。
「うそ……」
写真の男は、カメラを見ていた。
先ほどまで、顔を認識できなかった。
だが、今は違う。
目鼻立ちが、少しずつ明瞭になっている。
髪の色。
輪郭。
口元。
そして、その瞳。
出久は、息を止めた。
その顔には、見覚えがあった。
いや。
顔を知っているのではない。
その表情を、知っている。
それは、誰かを救おうとする者の表情だった。
自分のことなど、どうでもいい。
他の誰かが助かるなら、それでいい。
たとえ、自分が傷ついても。
たとえ、自分が消えても。
その表情を。
出久は、嫌というほど知っていた。
「……僕?」
思わず、口に出していた。
お茶子が振り返る。
「緑谷君?」
「この人……」
出久は、写真を見つめた。
「僕に、似てる」
その瞬間。
画像の男が、笑った。
写真の中で。
静止しているはずの画像の中で。
確かに、その口元が動いた。
出久の端末に、文字が浮かび上がる。
――認識率が上昇しました。
――対象個体との同一性を確認。
――記憶情報の照合を開始。
――緑谷出久。
――緑谷出久。
――緑谷出久。
同じ名前が、何度も繰り返される。
そのたびに、写真の男の顔が明瞭になっていく。
そして、最後の一行。
――対象個体との同一性:判定不能。
出久は、端末を握り締めた。
写真の男は、自分に似ている。
しかし、同じ人間だとは思えない。
あの瞳は、自分よりもずっと疲れていた。
あの笑顔は、自分よりもずっと悲しそうだった。
あの表情は、何度も何度も、同じ失敗を繰り返してきた者の表情だった。
そして。
その男は、出久の肩に置いた手を、少しだけ動かした。
まるで、出久を励ますように。
まるで、そこにいる出久へ、何かを伝えるように。
画像の下に、新しい文字が表示された。
――思い出してくれて、ありがとう。
出久の心臓が、大きく跳ねた。
続けて、もう一行。
――でも、まだ思い出さないで。
そして。
――君が僕を思い出したら、次は君じゃなく、僕が消える。
画面が暗転した。
*
午後三時二十分。
雄英高校、中央管制室。
「何だ、今の数値は……!」
管制室にいた職員が、思わず声を上げた。
複数のモニターに、異常な数値が表示されていた。
空間の歪み。
時間の不整合。
存在情報の重複。
それらは、十三年前の最終決戦でも、先日の死者復活現象でも観測されたことのない数値だった。
「地下特別対策室から連絡! 緑谷出久の生体反応に異常なし! ただし、記録上の存在情報が……!」
「存在情報が、どうした!」
「二つあります!」
管制室が静まり返った。
「二つ?」
「はい! 現在の緑谷出久の情報と、もう一つ……同じ名前、同じ生体情報を持つ、別の個体の情報が検出されています!」
「そんな馬鹿な!」
「ですが、照合結果は一致しています! 同一人物と判定されています!」
「同一人物なら、なぜ二つある!」
「分かりません!」
モニターの一つが、突然、黒く染まった。
白い文字が浮かび上がる。
――重複個体を検出。
――緑谷出久。
――緑谷出久。
――緑谷出久。
――統合処理を開始します。
「待て、止めろ!」
職員が操作卓を叩いた。
「外部からのアクセスだ! システムを切り離せ!」
「切り離せません! そもそも、どこからアクセスされているのか……!」
画面が、次々と書き換わっていく。
――対象個体A:緑谷出久。
――状態:生存。
――対象個体B:緑谷出久。
――状態:死亡。
――統合処理を開始します。
――統合処理を開始します。
――統合処理を開始します。
その瞬間。
すべてのモニターが、一斉に消えた。
そして、暗闇の中で。
一つだけ、音声が流れた。
『……やめろ』
男の声だった。
若い。
疲れている。
そして、どこか懐かしい。
『そいつを、統合するな』
管制室の職員たちは、誰も動けなかった。
『そいつは、僕じゃない』
音声が途切れた。
数秒後。
モニターが復旧した。
そこに表示されていたのは、たった一行。
――対象個体Bの記録を保護しました。
その下に、別の文字が現れる。
――保護者:緑谷出久。
管制室の誰かが、呟いた。
「……緑谷出久が、緑谷出久を保護した?」
答える者はいなかった。
*
その頃、地下特別対策室では。
相澤消太が、机に置かれた写真を見つめていた。
写真の男。
六人目の人物。
その顔は、少しずつ明瞭になっている。
そして、相澤は気づいた。
男の顔が明瞭になるにつれて、自分の記憶の中にも、何かが戻り始めている。
白い部屋。
泣いている少年。
自分の手を握る、小さな手。
そして、少年の隣に立つ、もう一人の少年。
同じ緑色の髪。
同じ顔。
しかし、年齢が違う。
片方は幼い。
もう片方は、今の出久よりも少し年上に見えた。
二人は、何かを話していた。
相澤は、記憶の中で、その会話を聞いた。
『……僕が残る』
年上の少年が言った。
『君は、向こうへ行って』
『嫌だ』
幼い少年が首を振る。
『だって、君が残ったら……君が……』
『大丈夫』
年上の少年は、微笑んだ。
『僕は、もう一度やり直せるから』
『嘘だ』
『……』
『君は、嘘をつくとき、右手を握るんだ』
年上の少年の手が、わずかに動いた。
確かに、拳を握っていた。
幼い少年は、泣いていた。
『僕を置いていかないで』
その声が、相澤の胸を抉った。
年上の少年は、幼い少年を抱きしめた。
『ごめんね』
そして、囁いた。
『でも、君だけは生きて』
次の瞬間、白い部屋が崩れた。
黒い亀裂が走り、二人の姿が消えていく。
相澤は、そこで記憶から引き戻された。
「……そういうことか」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
今、写真に写っている男。
出久と同じ顔をした、もう一人の人物。
彼は、出久を救おうとしている。
しかし、その理由は。
単に、出久を大切に思っているからではないのかもしれない。
もっと深い。
もっと残酷な理由がある。
あの男は、出久の代わりに何かを引き受けたのだ。
そして、その結果。
世界から忘れられた。
相澤は、拳を握った。
「……緑谷」
今度は、間違えない。
あいつが何を忘れていても。
何度世界がやり直されていても。
たとえ、本人が自分自身の過去を知らなくても。
教師として、できることがある。
相澤は端末を取り出し、塚内に連絡を入れた。
「塚内さん。例の記録を、もう一度調べてください」
『何か分かったのか?』
「……緑谷出久には、二つの存在情報がある可能性がある」
『二つ?』
「一つは、今ここにいる緑谷です」
相澤は、写真を見つめた。
「もう一つは……」
言葉が、止まった。
写真の男が、こちらを見ていたからだ。
さっきまで、カメラを見ていたはずの男。
今は違う。
写真の中の男は、明らかに相澤を見ていた。
そして、その口元が動いた。
声は聞こえない。
しかし、何と言ったのか。
相澤には分かった。
――まだ、思い出さないで。
その瞬間、写真の端に、新しい文字が浮かび上がった。
――相澤消太。
――記憶復元率:十八パーセント。
――警告。
――あなたが彼の名前を思い出したとき、彼はあなたを忘れる。
相澤は、動かなかった。
彼の名前。
写真に写っている男の名前。
それを、思い出したとき。
出久が、自分を忘れる。
どういう意味だ。
名前を思い出すだけで、なぜそんなことが起きる。
そもそも、相澤はまだ、その男の名前を知らない。
知らないはずだった。
なのに。
胸の奥に、確かに何かが引っかかっている。
何度も呼んだ名前。
何度も叱った名前。
何度も、帰ってこいと願った名前。
相澤は、目を閉じた。
そして。
喉の奥から、言葉がこぼれ落ちた。
「……お前は、誰だ」
写真の男は、悲しそうに笑った。
次の瞬間。
写真の中から、男の姿が消えた。
六人で写っていたはずの写真。
そこには、五人だけが残されていた。
しかし。
写真の裏に記されていた文字は、変わっていなかった。
――四度目の世界で、今度こそ君を救う。
その下に、今まで存在しなかった一文が追加されていた。
――僕の名前を思い出さないで。
*
午後三時二十七分。
雄英高校の屋上。
出久は、お茶子とともに、再び写真を確認していた。
男の姿は消えていた。
それなのに、写真を見た瞬間、出久の胸に激しい痛みが走った。
「……あれ?」
何かを忘れた。
そんな気がした。
さっきまで、確かに何かを覚えていた。
誰かの顔。
誰かの声。
誰かの手の温もり。
そして、誰かが自分の肩に置いた手。
しかし、それが誰なのか。
思い出せない。
「緑谷君?」
お茶子が顔を覗き込んだ。
「どうしたん?」
「……分からない」
「何が?」
「何か、大切なことを……忘れた気がするんだ」
出久は、自分の胸を押さえた。
痛い。
理由は分からない。
ただ、どうしようもなく、寂しかった。
まるで、もう二度と会えない誰かと、今まさに別れたばかりのように。
「……緑谷君」
お茶子が、そっと彼の手を握った。
「大丈夫やよ」
出久は、彼女を見た。
「忘れてしまっても、また一緒に探せばええから」
その言葉に、出久は少しだけ笑った。
「……うん」
だが、その時。
端末が、再び震えた。
今度は、写真ではない。
メッセージだった。
差出人は、やはり存在しないアカウント。
本文は、一行だけ。
――君が僕を忘れた回数は、これで四回目だ。
出久は、息を呑んだ。
続けて、二通目。
――でも、今回は少し違う。
三通目。
――君は、初めて僕を見つけた。
そして、最後のメッセージ。
――だから、お願いだ。
――今度こそ、僕を殺してくれ。
出久の指が止まった。
空は青いままだった。
街は、いつも通り動いている。
人々は何も知らない。
誰も、何も気づいていない。
しかし、出久には分かった。
この世界には、もう一人の自分がいる。
自分を救おうとしている、もう一人の緑谷出久がいる。
そして、その人物は。
自分に救われることを望んでいない。
彼が望んでいるのは。
自分自身の死だった。
出久は、端末を握り締めた。
「……君は、何をしたんだ」
誰もいない空に向かって、呟く。
「僕を救うために……何を犠牲にしたんだ?」
返事はなかった。
ただ、端末の画面に、新しい文字が浮かび上がった。
――対象個体B。
――死亡記録:未確定。
――救済可能性:残存。
――接触期限:残り七十二時間。
出久は、顔を上げた。
七十二時間。
三日間。
その間に、何かをしなければならない。
何を。
誰を。
どうやって。
まだ、何も分からない。
それでも。
今度こそ、見つけなければならない。
世界から忘れられた、もう一人の緑谷出久を。
そして、彼が望んでいる死の意味を。
出久は、端末をポケットにしまった。
「……お茶子ちゃん」
「うん」
「お願いがあるんだ」
お茶子は、彼の目を見た。
「一緒に、探してほしい」
「もちろん」
迷いのない返事だった。
「何があっても、一緒やよ」
出久は頷いた。
そして、二人は屋上を後にした。
その背後で。
誰もいないはずの屋上の監視カメラが、ゆっくりと動いた。
レンズが、二人の背中を追う。
その画面には、二人の姿が映っていた。
緑谷出久。
麗日お茶子。
そして。
彼らの間に、もう一人。
緑色の髪をした青年が、静かに立っていた。
青年は、出久の背中を見つめていた。
その顔には、安堵があった。
そして、深い悲しみがあった。
「……見つけてくれたんだね」
青年は、小さく笑った。
「ありがとう」
その身体が、少しずつ薄れていく。
「でも……」
青年は、最後に一度だけ、出久の背中へ手を伸ばした。
「君が僕を見つけてしまったら、もう……」
言葉の途中で、青年の姿が消えた。
監視カメラの映像には、最初から誰も映っていなかった。
記録にも残らなかった。
ただ一つ。
映像の音声データにだけ、かすかな声が残されていた。
――緑谷出久。
――存在記録、消失。
――救済行動、継続。
――世界の再構築まで、残り七十一時間五十九分。
第五話、まだ終わらない。
誰も覚えていない男。
もう一人の緑谷出久。
十三年前の死亡記録。
そして、出久自身が望んだはずのない「殺してくれ」という願い。
謎は一つ解けるたびに、さらに深い謎へとつながっていく。
だが、今回の事件で一つだけ、確かなことがあった。
もう一人の緑谷出久は、ただ世界をやり直しているわけではない。
彼は、世界が再構築されるたびに、何かを犠牲にしている。
そして、その犠牲の果てに、今の緑谷出久を生かそうとしている。
なぜ、そこまでして。
何を救うために。
そして、なぜ最後には、自分を殺してほしいと願うのか。
その答えを知るためには、十三年前に何が起きたのかを突き止めなければならない。
相澤消太が忘れてしまった記憶。
雄英高校の地下に封印された記録。
そして、存在しないはずの研究施設。
すべての道は、そこへつながっている。
――第六話「十三年前の死亡報告書」へ続く。