一 あの頃のお前なら
「……違う」
相澤消太は、手元の資料を閉じた。
夜の職員室には、彼以外の人影がなかった。
机に向かってから、もうかなりの時間が経っている。
目の前に置かれているのは、黒霧との面会で得られた情報を整理した報告書だった。
記憶に関する反応。
本人が語った内容。
相澤と山田ひざしが提示した写真。
質問に対する黒霧の回答。
そして、確認できていない事項。
どれも、慎重に扱う必要がある。
黒霧の反応が、白雲朧に由来する可能性はある。
だが、それを断定する材料はない。
相澤は、そこまで整理したところで、同じ一文を何度も書き直していた。
『白雲朧に関する記憶が残存している可能性がある』
事実としては、それで十分だった。
それ以上は、まだ分からない。
にもかかわらず、彼の頭の中では、何度も同じ映像が再生されていた。
古い写真。
三人で並んだ姿。
中央で笑っている白雲朧。
そして、写真の中にはない、あの頃の日常。
「……相澤?」
背後から聞こえた声に、相澤は顔を上げた。
「何だ」
「何だじゃねえよ。もうこんな時間だぞ」
山田ひざしが、職員室の入り口に立っていた。
片手には、飲み物の入った紙カップが二つある。
ひざしは、そのうちの一つを相澤の机に置いた。
「ほら。少しは休め」
「頼んでない」
「知ってる。だから勝手に買ってきた」
「……余計なことを」
「うるせえ。飲め」
相澤はカップを見た。
それから、ひざしを見た。
「お前も帰ってないのか」
「お前が帰ってねえからな」
「俺を基準にするな」
「じゃあ、お前が先に帰れよ」
「仕事が残ってる」
「オレも仕事が残ってる!」
ひざしは胸を張った。
「……って言いたいところだけど、今日はもう終わってる」
「帰れ」
「嫌だね」
「子供か」
「お前がそれを言うな!」
いつものやり取りだった。
ただし、いつもなら、ここで笑い声が一つ加わる。
「お前ら、相変わらず仲がいいなあ」
そんな声が、どこからともなく聞こえてくる。
ひざしが「仲よくねえよ!」と返し、相澤が「一緒にするな」と続ける。
そして朧が、二人の反応を見て笑う。
そんな光景が、相澤の頭の中に浮かんだ。
浮かんでしまった。
今の二人だけで成立している会話なのに、もう一人の声を待ってしまった。
相澤は、カップを手に取った。
「……お前は、黒霧のことを考えていたのか」
ひざしは、椅子を引いて座った。
「まあな」
「どんなことを」
「いろいろだよ」
ひざしは、紙カップのふたを指で押さえた。
「もし、本当に朧の記憶が残ってたら、どうするんだろうなって。どこまで思い出せるのか。オレたちのことを覚えてるのか。あの頃のことを、どんなふうに感じるのか」
「そうか」
「……それでさ」
ひざしは、少しだけ声を落とした。
「今日、昔の写真を見てたんだ」
相澤は顔を上げた。
「お前もか」
「お前も見てたのかよ」
「……ああ」
ひざしは苦笑した。
「何だよ。結局、考えてることは同じか」
「そうらしいな」
「で、思ったんだよ」
ひざしは、カップを机に置いた。
「……あの頃の朧なら、今のオレたちを見て、どう言うかなって」
相澤は答えなかった。
ひざしは続けた。
「オレたちが、黒霧の中に朧を探してるって知ったら、あいつは何て言うと思う?」
「分からん」
「だよな」
ひざしは笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
「……本当は、分かってるつもりだったんだよ。あいつなら、きっと笑って、何か言うだろうって。オレたちのことだから、あんまり深刻に考えすぎるな、とか。まだ分からないんだから、これから確かめればいいだろ、とか」
相澤は黙っていた。
「でもさ」
ひざしは、指先を見つめた。
「今、そういうことを考えてる自分が、ちょっと怖くなったんだ」
「……何がだ」
「オレ、勝手に朧の答えを作ってるんだよ」
相澤の視線が動いた。
「朧ならこう言う。朧ならこう考える。朧なら、こんなことは言わない。そうやって、あいつならどうするかを、オレが決めてる」
ひざしは、乾いた笑いを漏らした。
「……そりゃ、昔からの友達だ。どんな奴だったか、ある程度は知ってる。あいつが何を好きで、どういうときに笑って、どんなことに怒るのか。そういうのを知ってるつもりだった」
「……ああ」
「でも、今のオレは、あいつがいない場所で、あいつの答えを作ってるんだよな」
相澤は、カップを机に戻した。
「そうだな」
「……否定しねえのかよ」
「否定できない」
相澤は、静かに言った。
「俺も、同じことをしている」
ひざしは、相澤を見た。
相澤は、机の上の報告書へ目を落とした。
「黒霧の中に白雲の記憶があると分かったら、俺は、それを確かめたくなる。白雲が何を覚えているのか。何を考えているのか。俺たちのことを、どう思っていたのか」
「……ああ」
「そして、あいつが俺の知っているとおりのことを言えば、安心するのかもしれない」
相澤は、目を閉じた。
「反対に、俺の知らないことを言ったら、戸惑うだろう。白雲なら、そんなことを言わない。そんなふうに考えない。そう思ってしまうかもしれない」
「……」
「そのとき、俺は、何を基準に黒霧を判断する?」
相澤は、顔を上げた。
「今の黒霧が話したことか。それとも、俺の記憶にある白雲の姿か」
ひざしは、何も言えなかった。
二人が探しているのは、記憶の正しさだけではない。
自分たちが知っていた人間が、今もどこかにいるという確信だった。
その確信を得たいからこそ、二人は黒霧の言葉に、かつての友人の面影を探そうとしている。
そして、面影が見つからなかったとき、何をするのか。
相手の言葉を疑うのか。
記憶の欠落として処理するのか。
それとも、もっと強い方法で記憶を引き出そうとするのか。
相澤は、胸の奥に生まれた不快感を、無理に消そうとはしなかった。
「……友人を取り戻したい。それ自体は、間違っていないと思いたい」
彼は言った。
「だが、その願いのために、今、目の前にいる存在を無視したら……」
相澤は、言葉を止めた。
ひざしが、その先を引き継いだ。
「……そりゃあ、友人を取り戻すどころか、そいつをもう一度、失うことになるのかもしれないな」
相澤は、ゆっくりと頷いた。
「そういうことだ」
その答えを口にするのは、簡単だった。
だが、実際に守ることは、きっと簡単ではない。
二人にとって、白雲朧は、単なる過去の人物ではなかった。
友人だった。
一緒に笑った。
一緒に学んだ。
共にヒーローを目指した。
自分たちの人生の一部を、確かに共有していた相手だった。
だからこそ、忘れられない。
だからこそ、取り戻したい。
そして、だからこそ、目の前の相手に、かつての友人の姿を求めてしまう。
ひざしは、深く息を吐いた。
「……明日、もう一度会いに行こう」
「何をする」
「何をするか、決めてから行くんじゃなくてさ」
ひざしは、相澤を見た。
「まず、あいつに聞こうと思う。黒霧として、何を知りたいのか。何を確かめたいのか。オレたちに、何を話してほしいのか」
相澤は、少しだけ目を細めた。
「……こちらの質問だけをするんじゃなくて、向こうの質問にも答えるということか」
「そういうこと」
ひざしは頷いた。
「オレたちが、あいつに何かを求める前に、あいつが何を求めてるか聞かなきゃいけないだろ」
「……そうだな」
「それで、もしあいつが何も思い出したくないって言ったら」
ひざしは、一度言葉を止めた。
「……そのときは、その答えを聞く」
相澤は、机の上の写真を見た。
それは、まだ引き出しの中にしまったままだった。
「……ああ」
相澤は答えた。
「まずは、そこからだ」
二 黒霧に、何を求めているのか
翌日。
黒霧は、面会室で二人を待っていた。
机の上には、昨日預かった写真が置かれている。
相澤とひざしが入室すると、黒霧は丁寧に頭を下げた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
「昨日の写真はどうだった」
相澤が尋ねた。
黒霧は写真を見た。
「何度か見返しました。ですが、新たに思い出したと確信できるものはありませんでした」
ひざしは、わずかに肩を落とした。
けれど、すぐに頷いた。
「そうか。分かった」
黒霧は、二人を見た。
「……何か、確認したいことがありますか?」
相澤は、すぐには答えなかった。
昨日の夜、二人で話したことが、頭をよぎる。
自分たちが何を知りたいのか。
何を求めているのか。
それを、まず自分たち自身が理解しなければならない。
「……一つ、確認したい」
相澤が言った。
「俺たちは、お前の中に白雲朧の記憶があるかどうかを知りたいと思っている」
「はい」
「もし記憶が残っているのなら、その内容も知りたい。俺たちが覚えている過去と、どこが一致するのか。どこが違うのか。それも確認したいと思っている」
「……なるほど」
「だが、その確認が、お前にとって何を意味するのかを、俺たちは十分に考えていなかった」
黒霧の霧が、わずかに揺れた。
相澤は続けた。
「俺たちは、白雲を取り戻したい。もう一度、あいつに会いたい。あの頃のように話をしたい。そう思っている」
ひざしは、黙って聞いていた。
「だが、その願いを叶えることだけを目的にすると、俺たちは、お前の中に白雲を探すことばかりを考えるようになる」
相澤は、黒霧の目を見た。
「お前が何を望んでいるのか。今の自分をどう考えているのか。白雲とは関係のない、お前自身の記憶や意思がどうなっているのか。そういうことを、後回しにしてしまうかもしれない」
黒霧は、しばらく黙っていた。
「……それは、あなた方が、私を白雲朧の記憶を探すための存在として扱ってしまう、ということでしょうか」
「そうだ」
相澤は、簡潔に答えた。
「俺たちに、そのつもりがなかったとしてもな」
ひざしが、口を開いた。
「……オレも、同じだ。昨日、ここで話したとき、オレはお前の中に朧の記憶があるなら、それを知りたいって思った。今も、そう思ってる」
彼は一度、深く息を吸った。
「でも、あいつの記憶が見つかったら、それだけで全部が分かったことにするかもしれない。昔の朧と同じことを言えば、やっぱりあいつなんだって思う。違うことを言えば、まだ思い出せてないんだって思う」
ひざしは、苦笑した。
「……どっちに転んでも、オレが知ってる朧を基準にしてるんだよな」
黒霧は、彼を見ていた。
「それは、あなた方にとって、自然なことではないのでしょうか」
ひざしは、少し考えた。
「自然なことかもしれない。でも、自然だからって、何をしてもいいわけじゃないだろ」
その言葉に、相澤が頷いた。
「……そのとおりだ」
ひざしは、黒霧に向き直った。
「だから、今日は、お前の方から話してほしい。オレたちに何を聞きたいのか。何を知りたいのか。あるいは、何を知りたくないのか」
黒霧は、意外そうに顔を傾けた。
「私が、ですか?」
「ああ」
「……それは、少し意外です」
「だろうな」
ひざしは、苦笑した。
「オレたち、ずっと自分たちの聞きたいことばっかり考えてたからな」
相澤は、静かに続けた。
「お前が白雲朧の記憶を持っているかどうか。その記憶を確認することが、お前自身にとってどんな意味を持つのか。俺たちは、まだ聞けていなかった」
黒霧は、机の上の写真を見た。
その写真には、相澤とひざし、そして白雲朧が写っている。
黒霧にとって、その写真が何を意味するのか。
まだ分からない。
ただ、写真の中の少年が、目の前の二人にとって大切な人物であることは理解できた。
「……私は」
黒霧は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「自分の中にある記憶を、知りたいと思っています」
相澤は、頷いた。
「……ああ」
「ただし、それが白雲朧の記憶なのかどうかを、最初から決めたくはありません。私が何かを思い出したとして、それが彼のものだと考えるのか、今の私に関係するものだと考えるのか。そこは、慎重に確認したいと思います」
「そうだな」
「そして……」
黒霧は、少しだけ間を置いた。
「私は、今の自分についても知りたいのです」
ひざしは、顔を上げた。
「今の自分?」
「はい。私が黒霧として生きてきた時間。私が何を考え、何を選び、何を大切にしてきたのか。そうしたものを、白雲朧に関する記憶の有無だけで判断したくはありません」
黒霧は、二人を見た。
「仮に、私の中に彼の記憶が残っていたとしても、それによって、今の私が空白になるわけではありません。私の現在までの経験が、すべて彼のものになるわけでもないと思います」
相澤は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
「それから、もう一つ」
黒霧は、少しだけ声を落とした。
「私は、あなた方が、私に何を求めているのかを知りたいのです」
相澤の表情が動いた。
「……俺たちが、何を求めているか?」
「はい」
黒霧は、机の上の写真を指した。
「あなた方が、この写真に写っている人物を大切に思っていることは分かります。私がその人物の記憶を持っている可能性を、知りたいと思っていることも分かります」
彼は、静かに続けた。
「しかし、もし私が、その人物と同じようには振る舞えなかったら。もし、あなた方が期待している言葉を言えなかったら。もし、あなた方が思い出してほしいことを、私が思い出せなかったら」
黒霧は、二人を見た。
「そのとき、あなた方は、私をどう扱うのでしょうか」
その質問は、面会室の空気を変えた。
二人が、これまで黒霧に問いかけてきたこと。
白雲朧を覚えているか。
何を思い出したのか。
自分たちのことを覚えているか。
そのすべてが、今、反対側から問い返されている。
自分たちが求める答えを得られなかったとき、どうするのか。
自分たちの記憶と異なる反応をされたとき、どうするのか。
それでも黒霧を、一人の存在として扱うことができるのか。
相澤は、答えを急がなかった。
ひざしも、言葉を探していた。
そして、二人とも、簡単に答えられると思っていた自分自身に気づき始めていた。
三 「お前が朧なら」と言いたくなる
「……正直に言う」
相澤が、静かに口を開いた。
「俺は、戸惑うと思う」
黒霧は、相澤を見た。
「お前が白雲の記憶を持っていたとしても、俺の知っている白雲とは違うことを言うかもしれない。俺が知らないことを覚えているかもしれない。俺が覚えていることを、お前が覚えていないかもしれない」
相澤は、一度、息を吐いた。
「そのとき、俺は、どうして違うのかと考えるだろう。何があったのか、なぜ変わったのか、知りたいと思うだろう」
「……はい」
「そして、たぶん……」
相澤は言葉を切った。
それから、目を逸らさずに続けた。
「お前が、俺の知っている白雲と違うことを言ったら、一瞬、否定したくなると思う」
ひざしが、相澤を見た。
相澤は、静かに続けた。
「白雲なら、そんなことは言わない。白雲なら、そうするはずがない。そう思ってしまうかもしれない」
黒霧は、何も言わなかった。
「……それが、俺の弱さだ」
相澤は、はっきりと言った。
「俺が知っているのは、過去の白雲だ。その記憶は、俺にとって大切なものだ。だが、それがあるからといって、今のお前の考えを否定していいわけじゃない」
ひざしは、唇を噛んだ。
相澤の言葉は、彼自身が考えていたことでもあった。
自分だって、戸惑うだろう。
黒霧が、かつての友人と違う反応を示したら。
昔の朧なら笑っていた場面で、黒霧が笑わなかったら。
昔の朧なら、二人をからかったはずの場面で、黒霧が何も言わなかったら。
その違いを、自分はどう受け止めるのか。
「……オレも」
ひざしは、ゆっくりと顔を上げた。
「たぶん、同じだ」
声がかすれていた。
「オレ、あいつに会いたいんだよ。ずっと、会いたかった。あの頃の話をして、くだらねえことで笑って、また三人で……」
ひざしは、言葉を止めた。
その先を言うことが、急に怖くなった。
また三人で何かをしたい。
もう一度、あの頃の続きに戻りたい。
それは、叶わないと分かっていたはずの願いだった。
それなのに、目の前にいる黒霧の中に、友人の記憶が残っている可能性があると知ってから、その願いが、もう一度、現実味を帯びてしまった。
ひざしは、笑おうとした。
しかし、うまくいかなかった。
「……もし、お前が朧の記憶を持っていて、昔のように話してくれたら、オレは、嬉しいと思う。ものすごく嬉しいと思う」
黒霧は、静かに聞いていた。
「でも、もし、そうじゃなかったら。もし、お前が、オレたちの知らない考え方をしていたら。オレは……」
ひざしは、深く息を吸った。
「……それでも、お前の話を聞かなきゃいけないんだよな」
「……はい」
黒霧は答えた。
「あなた方が、私を理解したいと思ってくださるのであれば」
ひざしは、小さく頷いた。
「……ああ」
彼は、目を閉じた。
友人を取り戻したい。
それは、悪い願いではないはずだった。
亡くなった友人を忘れたくない。
その存在を、なかったことにしたくない。
彼が確かに生きていたことを、覚えていたい。
そうした願いは、人として自然なものなのだろう。
しかし、愛情が深いほど、過去の姿に固執してしまうことがある。
大切だったから。
好きだったから。
自分の人生に欠かせない存在だったから。
だからこそ、変わってほしくない。
自分の知っている姿でいてほしい。
自分の思い出にある言葉を、もう一度言ってほしい。
それは、相手を大切に思う気持ちから始まっている。
だが、その願いが、目の前の相手を見えなくしてしまうなら。
相手の変化を受け入れられなくなってしまうなら。
相手の現在の意思より、自分の記憶を優先するようになってしまうなら。
その愛情は、いつの間にか、相手を縛るものへ変わってしまう。
相澤は、自分の中にある願いを、改めて見つめた。
友人を取り戻したい。
その願いを、なくす必要はない。
だが、そのために、目の前の存在を過去の姿へ押し戻してはならない。
「……黒霧」
相澤は、静かに呼びかけた。
「お前が、今の自分をどう考えているのか。これから何を知りたいのか。そこは、お前自身が決めることだ」
黒霧は、頷いた。
「そして、俺たちが知っている白雲の記憶は、あくまで俺たちが持っている記憶だ」
相澤は続けた。
「お前が何かを思い出したとしても、その内容を俺たちの記憶だけで判断することはできない。逆に、お前が何も思い出さなかったとしても、それだけで、あいつとの関係がなかったと決めることもできない」
「……はい」
「だから、俺たちは、確認を続ける。ただし、お前が話したくないことを、無理に聞き出すつもりはない」
黒霧はしばらく沈黙した。
それから、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます」
相澤は、首を横に振った。
「礼を言うことじゃない」
「いいえ」
黒霧は、顔を上げた。
「私が自分のことを考えるために、あなた方が話を聞いてくださる。それは、私にとって意味のあることです」
相澤は、何も言わなかった。
その言葉を、簡単に喜んでしまわないようにしたかった。
黒霧が自分自身について考えようとしている。
それは、一つの前進なのかもしれない。
だが、それをもって、彼らの望む結末へ近づいたと考えるべきではない。
彼は、彼自身のために、自分の過去を知ろうとしている。
その過程で何が分かるのか。
何を思うようになるのか。
どんな結論に至るのか。
それは、まだ分からない。
そして、その答えが何であっても、彼の意思を尊重しなければならなかった。
四 愛しているから、変わってほしくない
面会の帰り道。
相澤とひざしは、並んで廊下を歩いていた。
二人の間には、しばらく沈黙が続いていた。
ひざしが、先に口を開いた。
「……なあ、相澤」
「何だ」
「お前、あいつが今のままでも、いいと思うか?」
相澤は足を止めなかった。
「……何をもって、今のままというのかによる」
「そういうところだぞ、お前」
ひざしは苦笑した。
「いや、分かってる。お前が、適当に答えないのは知ってる。でもさ……」
彼は少しだけ視線を落とした。
「もし、黒霧が、最後まで黒霧のままだったら」
相澤は、黙って聞いていた。
「白雲朧の記憶があるかもしれない。でも、それを自分のものとして受け入れないかもしれない。昔のことを思い出しても、オレたちの友達として振る舞うことを望まないかもしれない」
ひざしは、ゆっくりと息を吐いた。
「……それでも、あいつを尊重できるかって、考えちまうんだよ」
相澤は、立ち止まった。
ひざしも足を止める。
「……それは、簡単じゃない」
相澤は正直に答えた。
「俺たちが、白雲を大切に思っていることは変わらない。あいつと過ごした時間も、俺たちの人生の一部だ」
「……ああ」
「だが、それを理由に、黒霧に白雲の人生を引き継がせる権利が、俺たちにあるわけじゃない」
ひざしは目を閉じた。
「……そうだな」
相澤は、少しだけ視線を逸らした。
「俺たちは、白雲がいなくなったことで、何かを失った。友人を失った。未来を失った。三人で過ごすはずだった時間を失った」
ひざしは、黙って聞いていた。
「……だから、取り戻したいと思う」
相澤は、言葉を選びながら続けた。
「しかし、取り戻したいと思うことと、取り戻せると決めることは違う。失ったものを、別の形で埋めようとすることもできる。だが、そのために、目の前の相手へ、失ったものの代わりになることを求めてはいけない」
ひざしは、ゆっくりと頷いた。
「……オレたちは、黒霧に、昔の朧の代わりになってほしいわけじゃない」
「そう思いたい」
相澤の言葉に、ひざしが顔を上げた。
相澤は続けた。
「だが、実際にそうなったとき、俺たちがどうするかは、まだ分からない」
その言葉は、ひざしにとって、痛いほど正直だった。
「……ああ」
「だから、気をつけなければならない。自分たちが、何を求めているのかを」
二人は再び歩き始めた。
ひざしは、胸の奥にある痛みを感じていた。
黒霧を理解したい。
白雲朧の記憶を知りたい。
もう一度、友人に会いたい。
その願いは、消せない。
消したくもない。
だが、その願いを叶えるために、黒霧に「白雲朧として生きろ」と求めるわけにはいかない。
そんなことをすれば、彼の現在を否定してしまう。
彼の意思を、自分たちの思い出の下に押し込めてしまう。
それは、友人を大切にしていると言いながら、別の存在の意思を無視することになる。
ひざしは、拳を握りしめた。
「……なあ、相澤」
「何だ」
「オレ、ちょっと怖いんだ」
相澤は、顔を向けた。
「何がだ」
「もし、黒霧が本当に朧の記憶を持っていたら。オレたちのことを覚えてたら。あの頃のことを、はっきり思い出したら……」
ひざしは、言葉を切った。
「……嬉しくて、何も考えられなくなるかもしれない」
相澤は、何も言わなかった。
「オレ、あいつに、もう一度会いたいんだよ。会いたかったんだ。ずっと」
ひざしの声が、震えた。
「だから、もし目の前で、あいつが笑ってくれたら。昔と同じように、オレをからかってくれたら。オレ、きっと……」
言葉が続かない。
相澤は、彼の隣に立ち止まった。
「……ひざし」
「何だよ」
「怖いと思うなら、忘れるな」
ひざしは、顔を上げた。
相澤は、まっすぐに彼を見た。
「お前が、何を望んでいるのか。何を失ったのか。何を取り戻したいのか。それを、忘れないことだ」
「……」
「だが、それと同時に、黒霧が何を望んでいるのかも、忘れるな」
ひざしは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
その答えは、決意というより、確認に近かった。
自分の願いを消す必要はない。
ただ、その願いが相手の意思を押しのけてしまわないようにする。
そのために、自分の気持ちを見つめ続ける。
愛情が深いほど、簡単にはできないことだ。
だからこそ、二人は、互いに確認し合わなければならないのかもしれない。
自分たちの望む答えだけを、黒霧に求めていないか。
黒霧が話したことを、自分たちの記憶に都合のよい形へ解釈していないか。
黒霧自身の現在の意思を、過去の友人という名前で塗りつぶしていないか。
一つずつ、確かめなければならない。
それが、友人を大切に思う二人にとって、これから必要になる責任だった。
五 取り戻せないものを、誰かに背負わせない
その夜、相澤は一人で自宅にいた。
机の上には、古い写真が置かれている。
先ほど、職員室から持ち帰ったものだった。
写真に写っている三人は、まだ若い。
未来のことを語り、訓練に励み、くだらない話で笑っていた。
相澤は、写真の中の白雲朧を見つめた。
「……お前なら、どうする」
口に出してから、彼は目を伏せた。
まただ。
また、白雲ならどうするかを考えてしまった。
それが悪いことだとは思わない。
大切な友人の考え方を思い出すことは、自然なことだ。
困ったとき、信頼していた相手なら何を言うだろうと考える。
失敗したとき、あの人ならどう励ましてくれただろうと思う。
人は、そうやって、失った人との時間を胸に残しながら生きていくことがある。
しかし、今、目の前にいる黒霧は、写真の中の朧ではない。
黒霧には、黒霧として過ごしてきた時間がある。
自分たちが知らない経験がある。
自分たちが知らない考え方がある。
その存在が、白雲朧とどのようにつながっているのか、まだ分からない。
それでも、相澤は、時折、考えてしまう。
もし、白雲の記憶が残っているのなら。
もし、白雲が、今もどこかにいるのなら。
自分たちは、彼を取り戻すことができるのだろうか。
その問いを、捨てることはできなかった。
相澤は、写真を手に取った。
その裏には、ひざしが書いた文字が残っている。
『未来のトップヒーロー三人組!』
相澤は、かすかに笑った。
「……馬鹿か」
当時の自分たちは、未来を知らなかった。
何が起こるのかも。
誰が失われるのかも。
自分たちが、どんな大人になるのかも。
何も知らないまま、未来を語っていた。
その未来が、思い描いたとおりにならなかったとしても、あの頃の願いが嘘だったわけではない。
三人で過ごした時間は、確かに存在していた。
白雲朧は、確かに生きていた。
そして、相澤にとって、友人だった。
その事実は、黒霧が何者なのかという問いとは、別に存在している。
黒霧が白雲朧の記憶を持っていると分かっても、失われた時間が戻るわけではない。
黒霧が白雲とは別の存在だと分かっても、友人との思い出が嘘になるわけでもない。
相澤は、そのことを、ようやく少しずつ整理し始めていた。
失われたものを、すべて元どおりにすることはできない。
しかし、それは、失われたものを大切に思うことをやめなければならないという意味ではない。
自分が友人を忘れないこと。
友人と過ごした時間を覚えていること。
友人の記憶が残っている可能性を、確かめようとすること。
それらは、何も間違っていない。
ただ、そのために、今の黒霧の存在を否定してはならない。
友人を取り戻したいという願いが、別の誰かの現在を奪うことになってはいけない。
相澤は写真を机に戻した。
「……お前が、どんな奴だったのか」
彼は、静かに呟いた。
「俺は、覚えている」
その言葉は、誰かに証明してもらう必要はなかった。
白雲朧を大切に思っていたこと。
一緒に過ごした時間が、自分の人生に残っていること。
それは、相澤自身の記憶だった。
黒霧が同じ記憶を持っているかどうかは、別の問題だ。
彼の中に、白雲朧の記憶が存在するかどうかも、まだ分からない。
だからこそ、相澤は、確かめなければならない。
だが、それは、黒霧を自分の記憶に合わせるためではない。
黒霧が自分自身について知りたいと願うなら、そのために協力する。
彼が話せることを話し、確かめられることを確かめる。
そして、黒霧が自分の存在について、どのような答えを選ぶのかを、尊重する。
その先に、相澤が望む結末があるとは限らない。
友人を取り戻せるかもしれない。
取り戻せないかもしれない。
そもそも、「取り戻す」という言葉では表現できない答えに行き着くかもしれない。
それでも、彼は知りたいと思った。
それは、自分の願いだった。
だからこそ、その願いを、相手の意思より上に置いてはならない。
相澤は、写真を封筒に戻した。
机の引き出しを開け、そこへしまう。
引き出しを閉じる前に、彼は一度だけ、写真を見た。
三人の少年。
過去の自分たち。
そして、まだ見ぬ未来を信じていた頃の自分たち。
相澤は、引き出しを閉じた。
もう一度、黒霧に会いに行こう。
今度は、自分たちが知りたいことだけではなく、彼自身が知りたいことを尋ねるために。
六 同じ名前を持たなくても
翌日、ひざしは自分の部屋で、古い録音データを探していた。
昔の仲間とのやり取り。
訓練の記録。
授業の合間に録音した、何でもない会話。
その中に、白雲朧の声が残っているものがあるかもしれない。
ひざしは、ひとつずつ、ファイルを確認していった。
古いデータは、音質が悪い。
雑音も多い。
声が途切れているものもある。
しかし、その中に、かつての自分たちの時間が残っているような気がした。
「……あった」
ひざしは、あるファイルを開いた。
最初に聞こえてきたのは、若い自分の声だった。
『だから、オレは絶対に世界一のヒーローになるんだって!』
それから、別の声が続く。
『お前、声がでかいんだよ』
相澤の声だった。
ひざしは笑った。
「……変わってねえな、消太」
さらに、録音が続く。
『いいじゃんか! でかい声は、遠くまで届くんだぜ!』
『うるさい』
『お前ら、ほんと仲いいなあ』
その声が聞こえた瞬間、ひざしの指が止まった。
白雲朧の声だった。
彼は、何度もその声を聞いた。
懐かしい。
間違いなく、懐かしい。
ただ、録音は、そこで終わっていた。
短い会話。
何でもないやり取り。
その中に、三人がいた。
ひざしは、しばらく再生画面を見つめていた。
「……これを、黒霧に聞かせたら」
そう呟いて、彼は止まった。
聞かせたい。
朧の声を聞いて、何か思い出すかもしれない。
自分たちと過ごした時間を、思い出してくれるかもしれない。
その期待が、自然と胸の中に生まれる。
しかし、同時に、別の考えも浮かんだ。
もし、黒霧が何も思い出さなかったら。
もし、声を聞いても、何も感じなかったら。
もし、「この声に覚えはありません」と答えたら。
自分は、どうするのだろう。
「……そりゃ、がっかりするよな」
ひざしは、正直に呟いた。
記憶が残っているかもしれないと思っている。
その可能性に、希望を抱いている。
だからこそ、何も反応がなければ、悲しくなるだろう。
だが、そこで、黒霧を責めてはいけない。
思い出せないことを、本人の努力が足りないからだと考えてはいけない。
自分たちが望む反応をしなかったからといって、彼が何かを間違えたわけではない。
ひざしは、録音データを停止した。
「……まず、聞いてみるか」
誰かに聞かせるために用意した音声ではなく。
自分が、もう一度、聞きたいと思った音声として。
彼は、その録音を保存した。
黒霧に聞かせるかどうかは、次に会ったとき、本人に尋ねてから決めればいい。
聞いてみたいか。
聞くことに抵抗はないか。
今、自分の中にある記憶を確かめたいと思っているか。
それを、黒霧自身が決めればいい。
ひざしは、録音データを別のフォルダに移した。
その名前を入力する。
『三人の記録』
少し考えてから、彼は文字を追加した。
『三人の記録――共有できるかは、まだ分からない』
自分で入力しておきながら、ひざしは苦笑した。
「……長えよ」
だが、消さなかった。
その名前には、今の自分の気持ちが残っている。
三人の記録は、確かに存在している。
ひざしの中に。
相澤の中に。
そして、何らかの形で、黒霧の中にも存在している可能性がある。
ただし、同じ記録を持っているからといって、同じ人間だと決まるわけではない。
共有できる記憶があるとしても、その意味まで同じとは限らない。
それでも、記憶を確かめることには意味がある。
ひざしは、その録音を、もう一度だけ再生した。
『お前ら、ほんと仲いいなあ』
若い朧の声が、部屋の中に響く。
ひざしは、目を閉じた。
「……うるせえよ」
小さく呟く。
「……お前がいたからだろ」
返事はない。
録音の中の朧は、そこで笑っていた。
それでも、ひざしは再生を止めなかった。
今はただ、もう少しだけ、その声を聞いていたかった。
黒霧のためではない。
相澤のためでもない。
自分が、もう一度聞きたかったから。
それもまた、彼自身の願いだった。
その願いを大切にしながら、彼は、目の前にいる黒霧の意思も大切にしようとしていた。
二つのことは、矛盾しないはずだった。
ただ、その両方を守るためには、自分の願いを何度も見つめ直す必要がある。
ひざしは、そう考え始めていた。
七 友人を取り戻したいという罪
数日後。
相澤は、再び黒霧との面会に臨んだ。
今回は、ひざしも同行している。
机の上には、前回の写真と、ひざしが用意した録音データがあった。
黒霧は、それらを見てから、二人の顔を見た。
「……本日は、何についてお話ししましょうか」
相澤は、ゆっくりと口を開いた。
「前回、俺たちは、お前の中に白雲朧の記憶があるかどうかを確認したいと話した」
「はい」
「今日は、その確認をする前に、一つだけ伝えておきたいことがある」
黒霧は、静かに聞いていた。
「俺たちは、白雲を取り戻したいと思っている」
相澤は、まっすぐに言った。
「それは、今も変わらない」
ひざしは、頷いた。
「……ああ」
「俺たちは、あいつと過ごした時間を覚えている。あいつのことを大切に思っている。だから、もう一度会いたいと思っている」
相澤は、一度、言葉を止めた。
「だが、その願いを、お前に背負わせるつもりはない」
黒霧の霧が、わずかに動いた。
「……背負わせる、とは?」
「俺たちが白雲を失ったこと。それを、お前が埋めなければならないとは思っていないということだ」
相澤は続けた。
「お前が白雲の記憶を持っていても、持っていなくても。俺たちが望むような反応をしても、しなくても。俺たちが失ったものを、すべてお前に返してもらうことはできない」
黒霧は、しばらく黙っていた。
「……それでも、あなた方は、私の中にある記憶を確認したいと考えているのですね」
「そうだ」
相澤は答えた。
「お前自身が知りたいと思っているなら、俺たちも協力したい。俺たちが持っている情報を伝えることもできる。お前の反応を記録し、分からないことを整理することもできる」
「……はい」
「だが、お前が何を思い出すかを、俺たちが決めることはできない」
相澤は、黒霧の目を見た。
「お前が、どのような結論に至るかもだ」
ひざしが、口を開いた。
「オレは、今でも、朧に会いたいと思ってる」
その言葉には、隠しようのない感情があった。
「もし、お前の中にあいつの記憶が残っているなら、知りたい。昔のことを思い出して、何かを感じてくれたら、嬉しいと思う。あの頃のことを、少しでも共有できたら……」
ひざしは、そこで言葉を止めた。
「……でも、それは、オレの願いだ」
彼は、黒霧を見た。
「お前が、その願いを叶えるためにいるわけじゃない」
黒霧は、静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
相澤は、小さく首を振った。
「礼を言うな。これは、俺たちが忘れてはいけないことだ」
「……はい」
黒霧は、写真を見た。
それから、ひざしが用意した録音データに目を向けた。
「こちらは、何でしょうか」
ひざしは答えた。
「昔の録音だ。オレたちが、雄英にいた頃のもの。朧の声も入ってる」
黒霧は、少しだけ身体を傾けた。
「……聞いてみてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
ひざしは、再生を開始した。
若い相澤の声。
若いひざしの声。
そして、白雲朧の笑い声。
短い会話が、部屋に響いた。
黒霧は、目を閉じた。
しばらく、そのまま聞いていた。
やがて、録音が終わる。
ひざしは、息を詰めていた。
「……何か、感じたか?」
黒霧は、ゆっくりと目を開けた。
「……はい」
ひざしの表情が動いた。
「本当か?」
「声を聞いたとき、何かが反応したように感じました」
「どんな……?」
黒霧は、しばらく考えた。
「……笑い声です」
「笑い声?」
「はい。私の中に、誰かが笑っている光景が浮かびました。ただし、それが録音の中の人物なのか。私自身が、その場にいたのか。私には、まだ判断できません」
ひざしは、喉を鳴らした。
「……そうか」
嬉しい。
それは、間違いなく嬉しいことだった。
何も感じないと言われるより、ずっと。
だが、ひざしは、すぐに続けて尋ねることをしなかった。
もっと思い出せ。
それは誰の記憶だ。
お前は、朧なのか。
そう尋ねたい気持ちを、必死に抑えた。
黒霧は、自分の意思で話している。
その言葉を、急いで結論に変える必要はない。
「……ありがとうな」
ひざしは、ようやく言った。
黒霧は、首を傾けた。
「何に対するお礼でしょうか」
「お前が、感じたことを話してくれたことにだ」
「……そうですか」
黒霧は、録音データを見た。
「この声を聞いて、何かが反応したのは事実です。しかし、それが何を意味するのかは、まだ分かりません」
「分かってる」
ひざしは頷いた。
「急いで決める必要はない」
相澤も続けた。
「今回のことは、手がかりとして記録しておく。だが、結論は出さない」
「……はい」
相澤は、少しだけ息を吐いた。
自分たちは、確かに一つの手がかりを得た。
黒霧の中に、白雲朧に関係する記憶が残っている可能性は、少し高まったのかもしれない。
だが、確かなことは、それだけだった。
黒霧が白雲朧と同じ人間なのか。
その記憶は、どのような形で残っているのか。
黒霧が、今後どのような結論を選ぶのか。
それらは、まだ分からない。
相澤は、その不確かさを、無理に埋めようとはしなかった。
「……これからも、確認を続けたい」
相澤は黒霧に告げた。
「ただし、続けるかどうかは、お前の意思も確認しながら決める」
黒霧は、静かに頷いた。
「……分かりました」
その返答を聞いて、相澤は、少しだけ肩の力を抜いた。
自分たちは、まだ友人を取り戻せるかどうか分からない。
だが、少なくとも、黒霧が自分自身について知りたいと望んでいる間は、そのために協力することができる。
それは、相澤が望む結果を約束するものではない。
しかし、今、目の前の相手と共に進める道ではあった。
八 罪は、願いの中にも生まれる
面会が終わり、二人は施設を出た。
空は曇っていた。
風が吹き、街路樹の枝が揺れている。
ひざしは、しばらく何も言わなかった。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……反応、あったな」
「ああ」
「笑い声が浮かんだって」
「そうだな」
ひざしは、空を見上げた。
「……嬉しかったよ」
その声は、小さかった。
「何かを感じたって言ってくれて、嬉しかった。オレたちだけが、あの頃のことを覚えてるわけじゃないのかもしれないって思った」
相澤は、黙って聞いていた。
「……でも、同時に、怖かった」
「何がだ」
「もし、あいつが思い出してくれたら。オレたちのことを覚えてくれてたら。あの頃のことを、もう一度話してくれたら……」
ひざしは、目を閉じた。
「……オレ、きっと、もっと求めちまうんだよ」
相澤は、顔を向けた。
「もっと思い出してほしい。もっと、昔のことを話してほしい。もっと、オレたちの知ってる朧に戻ってほしい。そう思うかもしれない」
ひざしは、拳を握りしめた。
「……そんなことをしたら、オレは、黒霧に何を求めてるんだろうな」
相澤は、答えを急がなかった。
ひざしは続けた。
「友人を取り戻したいって思ってる。大切な奴だったから。失いたくなかったから。もう一度会いたいから。……でも、その願いを叶えるために、黒霧が今まで生きてきた時間を無視したら」
彼は、顔を上げた。
「……それは、友人を救うことじゃないよな」
相澤は、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
「……じゃあ、どうすればいいんだろうな」
その問いには、答えがなかった。
相澤も、ひざしも、まだ分からない。
黒霧の中に白雲朧の記憶が残っているなら、どう向き合うべきなのか。
どこまで尋ねていいのか。
どのように記憶を確認すればいいのか。
自分たちの願いを、どう扱えばいいのか。
そのすべてに、明確な正解があるわけではない。
ただ、一つだけ、避けなければならないことがある。
自分たちが失ったものを、黒霧に返してもらおうとすること。
黒霧の中に何かを見つけたからといって、それを自分たちが望む形で扱うこと。
彼が何を感じ、何を望み、どのような結論を出すのかを、先回りして決めてしまうこと。
それだけは、避けなければならない。
相澤は、歩きながら言った。
「……自分の願いを、なくす必要はないんだと思う」
ひざしは、顔を上げた。
「……え?」
「白雲を取り戻したい。もう一度会いたい。そう思うこと自体は、間違っていない」
相澤は続けた。
「ただ、その願いがあるからといって、黒霧にそれを叶える義務があるわけではない」
「……ああ」
「俺たちは、自分たちの願いを抱えたまま、黒霧の意思も尊重しなければならない」
ひざしは、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
「簡単ではないだろうがな」
「分かってる」
ひざしは、苦笑した。
「オレ、そういう難しい話、苦手なんだよなあ」
「知ってる」
「おい!」
「だが、避けるわけにもいかない」
相澤は、前を向いた。
「黒霧が、自分の存在について知りたいと言っている。俺たちは、そのために協力する。だが、結果がどうなるかは、決めつけない」
ひざしは、しばらく考えてから、頷いた。
「……分かった」
二人は、再び歩き始めた。
友人を取り戻したいという願いは、まだ残っている。
その願いが、いつか叶うのかどうかは分からない。
しかし、願いがあることと、その願いを他人に押しつけることは違う。
自分が失ったものを取り戻したいと思うことと、そのために相手の現在を奪うことも違う。
二人は、その境界線を、これから何度も確かめなければならない。
それは、友人を大切に思っているからこそ、必要なことだった。
そして、友人を取り戻したいという願いが、誰かの意思を押しつぶすものへ変わってしまったとき。
その願いは、愛情から始まったとしても、罪になり得るのだ。
九 黒霧が選ぶ、次の質問
その夜、黒霧は、机の上に置いた写真を見ていた。
写真の中では、三人の少年が笑っている。
そのうちの二人が、今日、自分を訪ねてきた。
相澤消太。
山田ひざし。
彼らは、自分の中に白雲朧の記憶が残っているかもしれないと考えている。
そして、自分の中に何かを見つけたとき、それを確かめたいと思っている。
黒霧は、その願いを理解できた。
彼らにとって、白雲朧は大切な友人だった。
一緒に過ごした時間がある。
共に笑い、共に学び、共に未来を語った。
だからこそ、その人物を失ったことが、どれほど大きな出来事だったのか。
黒霧にも、想像することはできた。
しかし、彼らの願いが理解できることと、自分がその願いを叶えなければならないことは違う。
自分が白雲朧の記憶を持っているとしても、それだけで、彼らが知っている友人と同じ存在であると決めていいわけではない。
そして、自分が白雲朧とは異なる存在であるとしても、それだけで、記憶の中に残るものを否定する必要もない。
黒霧は、写真を見つめた。
「……記憶とは、難しいものですね」
誰に向けるでもなく、呟いた。
彼は、過去を知りたいと思っている。
自分の中にある、説明できない反応を知りたい。
自分が何者なのかを理解したい。
それは、自分自身のための願いだった。
相澤とひざしの願いとは、同じではない。
彼らは、失った友人を取り戻したい。
自分は、自分の中にあるものを理解したい。
二つの願いは、重なる部分があるかもしれない。
だが、すべてが同じ方向を向いているとは限らない。
彼らが知りたいことと、自分が知りたいことが、同じとは限らない。
彼らが望む答えと、自分が望む答えも、同じとは限らない。
その違いを、最初から消してしまうべきではなかった。
黒霧は、写真の端をそっと押さえた。
「……次に会ったときは」
彼は、考えた。
自分から、何かを尋ねてみよう。
彼らが知りたいことだけではなく、自分が知りたいことを。
白雲朧という人物について。
彼が、どのようなことを大切にしていたのか。
何を考え、何を選び、何を望んでいたのか。
そして、相澤とひざしが、その人物をどのように覚えているのか。
ただし、それを知るのは、白雲朧のように振る舞うためではない。
自分の中に、どのような記憶が残っているのかを理解するためだ。
それが、今の自分にとって必要だと思った。
黒霧は、その考えを心の中で整理した。
彼は、白雲朧の記憶を持っているかもしれない。
しかし、今の自分には、黒霧として過ごしてきた時間がある。
その時間を、すべて無意味なものとして扱うつもりはなかった。
過去を知ることと、現在を否定することは違う。
そして、過去に関する答えを得ることと、未来の生き方を決めることも違う。
黒霧は、写真を机に戻した。
もう一度、あの声を聞きたいと思った。
録音の中にあった笑い声。
それを聞いたとき、自分の中に何かが反応した。
その何かを、もう少し確かめたい。
それは、黒霧自身の願いだった。
彼は、明かりを落とした。
写真は、机の上に残されたままだった。
三人の少年が写った写真。
そのうちの一人が、今の自分とどのようにつながっているのか。
その答えは、まだない。
だが、黒霧は、その問いから目を逸らさないことにした。
誰かの願いを叶えるためではなく。
自分自身を知るために。
十 友人を大切にするということ
翌朝。
相澤は、雄英高校の校庭に立っていた。
朝の光が、校舎の壁を照らしている。
遠くから、生徒たちの声が聞こえてきた。
誰かが急いでいる。
誰かが笑っている。
誰かが、授業の準備に追われている。
いつもの学校だった。
相澤は、しばらくその光景を眺めていた。
彼は教師だ。
生徒たちに知識を教える。
危険な状況でどう行動すべきかを教える。
個性の使い方を教える。
ヒーローとして必要な技術を身につけさせる。
そして、時には、生徒たちが自分では答えを見つけられない問題について、一緒に考えることもある。
だが、教師だからといって、すべての問題に正解を持っているわけではない。
どの道を選べばいいのか。
どの判断が正しいのか。
誰かの願いを尊重しながら、別の誰かを守るにはどうすればいいのか。
そうした問いに、いつでも明確な答えを出せるわけではない。
黒霧との問題も、同じだった。
友人を取り戻したい。
その願いは、相澤自身のものだ。
だが、その願いを叶えるために、黒霧の意思を無視してしまったら。
それは、本当に友人を大切にすることなのだろうか。
相澤は、校庭にいる生徒たちを見た。
彼らにも、それぞれの未来がある。
教師が望む未来。
周囲の大人が望む未来。
社会が望む未来。
本人が望む未来。
それらが、いつも一致するとは限らない。
教師は、生徒を導く。
だが、導くという言葉を使って、生徒の人生を自分の思いどおりに決めていいわけではない。
相澤は、そのことを、改めて考えていた。
自分が教えてきたこと。
生徒に求めてきたこと。
選択することの意味。
自分の選択に責任を持つこと。
そして、他人の選択を尊重すること。
それらは、教室の中だけで語るものではなかった。
自分自身が、その問いに向き合わなければならない。
相澤は、ゆっくりと息を吐いた。
白雲朧を大切に思っている。
今も、忘れていない。
もう一度会いたいと思っている。
その願いを、捨てるつもりはない。
しかし、友人を取り戻したいという願いが、黒霧の現在の意思を無視するものになってはいけない。
相澤は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「……俺が、決めることじゃない」
その言葉は、黒霧のことだけを指していたわけではなかった。
自分が何を望むのか。
何を失ったのか。
何を取り戻したいのか。
それらは、自分が考えることだ。
だが、黒霧が何者なのか。
どの名前を自分のものとして扱うのか。
自分の過去を、どのように受け止めるのか。
その答えまで、自分が決めるわけにはいかない。
相澤は、校舎へ向かって歩き始めた。
生徒たちのもとへ戻る。
教師として、今日もやるべきことがある。
そして、いつかまた、黒霧に会いに行く。
そのとき、自分は何を尋ねるのか。
何を話すのか。
どこまで踏み込むのか。
その問いを、これからも考え続けなければならない。
友人を大切にするということは、相手が自分の知っている姿であり続けることを求めるだけではない。
相手が、自分の知らない存在へ変わっていたとしても。
自分の望む答えを選ばなかったとしても。
その意思を、ひとりの人間の意思として受け止めること。
それが、今の相澤にとって、向き合わなければならない課題だった。