僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第三十一話「名前が違っても、存在は消えない」

一 「お前は、誰なんだ」

「……もう一度、聞いてもいいか」

 

相澤消太の問いに、黒霧は顔を向けた。

 

「何でしょうか」

 

「お前は、自分自身を、どういう存在だと考えている」

 

面会室に、静かな空気が流れた。

 

目の前には、一枚の古い写真が置かれている。

 

雄英高校に通っていた頃の三人。

 

相澤消太。

 

山田ひざし。

 

白雲朧。

 

写真の中の少年たちは、未来に何が起きるのかを知らないまま笑っている。

 

その中央にいた少年の記憶が、黒霧の中に残っている可能性がある。

 

だが、可能性は、まだ可能性にすぎない。

 

黒霧は写真を見つめたあと、相澤へ視線を戻した。

 

「……私は、黒霧です」

 

その答えは、これまでと同じだった。

 

しかし、今回は、相澤もひざしも、その名前を聞いてすぐに次の質問をしようとはしなかった。

 

黒霧は続けた。

 

「少なくとも、現在の私は、その名前で存在しています。自分自身の記憶もあります。これまでに経験してきたこともあります。私なりの考え方も、判断もあります」

 

「……ああ」

 

「そのうえで、白雲朧という人物に関する記憶が、私の中に存在する可能性がある。私は、そのことを知りたいと思っています」

 

黒霧は、写真をもう一度見た。

 

「ですが、仮にその記憶が確認されたとしても、それだけで私という存在のすべてを、白雲朧という名前へ置き換えてほしくはありません」

 

ひざしの指が、膝の上でわずかに動いた。

 

相澤は、目を逸らさずに聞いていた。

 

「……置き換えてほしくない、か」

 

「はい」

 

黒霧は、静かに答えた。

 

「私が白雲朧に関する記憶を持っているとしても、それは、私がこれまで黒霧として生きてきた時間を、なかったことにする理由にはならないと思います」

 

相澤は、すぐには返事をしなかった。

 

黒霧は、言葉を続けた。

 

「もし私が、ある人物の記憶を持っているという理由だけで、その人物と同じ存在だと決められてしまうのなら、私がこれまで何を考え、何を経験し、何を選んできたのかは、どこへ行くのでしょうか」

 

その質問に、誰もすぐには答えられなかった。

 

黒霧は、自分の名前を守ろうとしていた。

 

ただし、それは白雲朧という名前を拒絶するためだけではない。

 

自分の存在を、誰かが都合よく決めることを拒もうとしているのだ。

 

彼は、自分の中に何が残っているのかを知りたい。

 

白雲朧という人物が、どのような人間だったのかも知りたい。

 

しかし、それと同時に、自分が何者なのかを、他人の記憶だけで決められたくない。

 

その二つの願いは、必ずしも矛盾しない。

 

過去を知りたいと思うことと、過去に自分のすべてを決められたくないと思うこと。

 

どちらも、黒霧自身の気持ちだった。

 

「……分かった」

 

相澤は、ようやく口を開いた。

 

「お前を、白雲朧の記憶だけで説明しない」

 

黒霧は、相澤を見た。

 

「……本当に、そうお考えですか」

 

「簡単に答えが出せる問題じゃないことは分かっている。俺たちは、白雲を取り戻したいと思っている。お前の中に、あいつの記憶が残っているなら、もっと知りたいとも思う」

 

相澤は、正直に言った。

 

「その願いは、今も変わらない」

 

ひざしが、小さく頷いた。

 

「……オレもだ」

 

相澤は続けた。

 

「だが、それは俺たちの願いだ。お前が何者なのかを決めるための権利ではない」

 

黒霧の霧が、わずかに揺れた。

 

「……そうですか」

 

「お前が黒霧として生きてきた時間を、俺たちは知らない。俺たちが知っているのは、白雲朧という友人の一面だけだ」

 

相澤は、静かに言った。

 

「だから、俺たちの記憶を、お前の存在すべてに置き換えることはできない」

 

黒霧は、しばらく黙っていた。

 

そして、ゆっくりと答えた。

 

「……ありがとうございます」

 

相澤は、首を横に振った。

 

「礼を言うことじゃない」

 

「いいえ」

 

黒霧は、穏やかな声で続けた。

 

「私にとっては、意味のあることです」

 

二 山田ひざしは、友人の名前を呼べない

面会が終わったあと、山田ひざしは施設の外で立ち止まっていた。

 

相澤が少し先まで歩いてから、振り返る。

 

「……どうした」

 

「いや……」

 

ひざしは、頭をかいた。

 

「ちょっと、考えてた」

 

「何を」

 

「名前のことだよ」

 

相澤は、足を止めた。

 

ひざしは、空を見上げた。

 

「オレたち、ずっと、白雲朧って名前を探してたんだよな」

 

「ああ」

 

「黒霧の中に、その名前が残ってるんじゃないかって。記憶が残ってるなら、もう一度、あいつに会えるんじゃないかって」

 

ひざしは、苦笑した。

 

「でも、今日、あいつが『私は黒霧です』って言ったとき、オレ、何も言えなかった」

 

「……そうか」

 

「だって、あいつは、本当にそう言ったんだよ。自分は黒霧だって。自分のことを、そう考えてるんだって」

 

ひざしは、少しだけ目を伏せた。

 

「それなのに、オレは、つい『いや、お前は朧なんだ』って言いそうになった」

 

相澤は、何も言わなかった。

 

ひざしは続けた。

 

「……あいつが、自分で自分の名前を言ったのにさ。オレは、そこに別の名前を重ねようとしてたんだよ」

 

それは、ひざし自身にとって、重い発見だった。

 

彼は、白雲朧を忘れたくない。

 

あの頃の思い出を、手放したくない。

 

もう一度、昔の友人と会いたい。

 

その願いがあるからこそ、黒霧の中に白雲朧の痕跡を探してきた。

 

けれど、もし、黒霧が自分の名前を持ち、自分の意思を持っているのなら。

 

その名前を、彼が選んだものとして扱わなければならない。

 

「……名前って、難しいな」

 

ひざしが呟いた。

 

「名前は、誰かを呼ぶためにあるだろ。誰かを覚えておくためにもある。オレたちにとって、白雲朧って名前は、あいつのことを思い出すための名前なんだ」

 

「ああ」

 

「でも、黒霧にとって、黒霧って名前は、今の自分を示す名前なんだよな」

 

相澤は、頷いた。

 

「そうだ」

 

ひざしは、少しだけ笑った。

 

「同じ名前を持ってるかどうかだけで、全部が決まるわけじゃないんだな」

 

相澤は、静かに答えた。

 

「……ああ」

 

ひざしは、しばらく黙っていた。

 

それから、ぽつりと口にした。

 

「……オレ、あいつのことを、白雲って呼びたいんだよ」

 

相澤は、顔を向けた。

 

「……何?」

 

「いや、もちろん、今の黒霧を無視して、勝手に呼び続けるって意味じゃない」

 

ひざしは、慌てて付け加えた。

 

「たださ。あの頃のあいつを思い出すとき、オレの中では、白雲朧って名前が浮かぶんだよ。あいつと過ごした時間が、その名前と結びついてるんだ」

 

彼は、胸の前で手を握った。

 

「それまで、全部、黒霧って名前に置き換えろって言われたら……それも、ちょっと違う気がする」

 

相澤は、静かに頷いた。

 

「……その必要はない」

 

ひざしが顔を上げた。

 

「俺たちが、過去の友人を白雲朧と呼び、思い出すことまで、やめる必要はない。俺たちの記憶は、俺たちのものだ」

 

「……ああ」

 

「だが、目の前にいる相手を、本人が望まない形で呼び続けることはできない」

 

相澤は続けた。

 

「俺たちが思い出す白雲朧と、今、目の前にいる黒霧。その二つを、無理に一つにまとめなくてもいい」

 

ひざしは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……そっか」

 

彼は、ほんの少しだけ笑った。

 

「オレ、白雲朧って名前を忘れる必要はないんだな」

 

「当然だ」

 

「でも、黒霧には、黒霧って呼べばいい」

 

「本人がそう名乗っているならな」

 

「……分かった」

 

ひざしは、空を見上げた。

 

今まで、自分は、名前を一つにしようとしていたのかもしれない。

 

白雲朧がいるなら、黒霧ではない。

 

黒霧であるなら、白雲朧ではない。

 

そうやって、二つの名前を、一つの答えへまとめようとしていた。

 

だが、名前が違っても、存在がすべて消えるわけではない。

 

白雲朧の記憶は、ひざしの中に残っている。

 

黒霧という存在は、今、目の前にいる。

 

その二つが、どうつながっているのか。

 

それを、ひざしが決めることはできない。

 

ただ、自分が覚えている友人を、大切に思い続けることはできる。

 

そして、目の前にいる黒霧を、黒霧として尊重することもできる。

 

「……なあ、相澤」

 

「何だ」

 

「次に会ったら、ちゃんと黒霧って呼ぶよ」

 

相澤は頷いた。

 

「そうしろ」

 

「……でも、オレの中で朧が消えるわけじゃない」

 

「消える必要はない」

 

ひざしは、ようやく笑った。

 

「……なら、いいや」

 

二人は、歩き始めた。

 

彼らは、友人を忘れるわけではない。

 

ただ、友人を思い続けることを理由に、目の前の存在の意思を無視しないと決めたのだった。

 

三 黒霧は、白雲朧の代わりではない

数日後、相澤とひざしは、再び黒霧との面会に臨んだ。

 

今回は、写真も録音も持参していなかった。

 

机の上には、白紙のノートが一冊置かれている。

 

相澤が、黒霧に尋ねた。

 

「……今日は、お前が話したいことから始めたい」

 

黒霧は、少しだけ顔を傾けた。

 

「私が、ですか」

 

「ああ。前回、お前は、自分の記憶について知りたいと言った。今日は、そのために何を確認したいのか、聞かせてほしい」

 

黒霧は、しばらく考えていた。

 

「……私には、いくつか、確認したいことがあります」

 

相澤は、頷いた。

 

「聞こう」

 

「まず、白雲朧という人物について。お二人が覚えている、彼の性格や考え方。どのようなことを大切にしていたのか。どんなときに、どのような判断をしていたのか」

 

ひざしは、静かに聞いていた。

 

黒霧は続けた。

 

「ただし、私は、それを聞いたからといって、彼と同じ考え方を持つ必要があるとは思っていません」

 

「……ああ」

 

「私が、彼とは違う考えを持っていたとしても、それをすぐに、記憶が欠けている証拠として扱わないでいただきたいのです」

 

相澤は、頷いた。

 

「分かった」

 

「それから……」

 

黒霧は、少しだけ間を置いた。

 

「私自身が、これまでどのような経緯で、現在の存在になったのか。それについても、可能な範囲で知りたいと思っています」

 

相澤の表情が変わった。

 

「……自分自身の過去を、知りたいということか」

 

「はい」

 

黒霧は、静かに答えた。

 

「白雲朧に関する記憶が、私の中に存在するのなら、それは私の過去を理解するための手がかりになるかもしれません。しかし、それだけで、私の過去のすべてが説明できるとは考えていません」

 

相澤は、白紙のノートを開いた。

 

「……今のところ、どこまで分かっている」

 

黒霧は、これまでの調査で確認できた事実を、慎重に整理して話した。

 

自分の中に、過去の記憶に関係すると思われる反応があること。

 

写真や録音に触れた際、断片的な光景や感覚が浮かんだこと。

 

しかし、それがどこから来たものなのか、自分では確定できないこと。

 

そして、自分が黒霧として過ごしてきた経験や、現在の思考については、はっきりと認識していること。

 

相澤は、一つずつ記録した。

 

分かっていること。

 

まだ分からないこと。

 

推測していること。

 

その三つを、分けて書き記していく。

 

「……これでいいか」

 

黒霧は、ノートを確認した。

 

「はい。少なくとも、現在、確認できている内容としては、適切だと思います」

 

「では、次の確認事項を整理しよう」

 

相澤は言った。

 

「お前が知りたいと思っていることについて、俺たちが持っている情報を整理する。ただし、確認できない部分については、無理に答えを決めない」

 

「……ありがとうございます」

 

「それから、もし途中で、確認を止めたいと思ったら、そう言ってくれ。俺たちが知りたいことと、お前が知りたいことが違う場合もあるだろう。そのときは、進め方を見直す」

 

黒霧は、静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

ひざしは、二人のやり取りを見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。

 

以前なら、まず写真を見せていたかもしれない。

 

録音を聞かせ、何かを思い出したかどうかを尋ねていたかもしれない。

 

だが、今は違う。

 

黒霧が何を知りたいのか。

 

自分自身について、どのような問いを持っているのか。

 

それを、先に聞いている。

 

「……なあ、黒霧」

 

ひざしが呼びかけた。

 

「はい」

 

「昔の朧の話を聞きたいなら、オレ、いくらでも話せるぜ」

 

黒霧は、彼を見た。

 

「……そうですか」

 

「ああ。あいつ、ほんとに変な奴だったんだよ。明るくて、調子に乗りやすくて、何でも面白がってさ。オレが騒いでたら、一緒になって騒ぐし、相澤が黙ってたら、わざとちょっかいを出すし」

 

「余計なことまで話すな」

 

相澤が、すぐに口を挟んだ。

 

「いいだろ! 大事な情報だぞ!」

 

「どこがだ」

 

「人間性だよ!」

 

黒霧は、二人のやり取りを静かに聞いていた。

 

ひざしは、笑いながら続けた。

 

「まあ、そういう奴だったんだ。……でも、オレが覚えてるのは、オレと一緒にいたときのあいつだ。相澤が覚えているあいつとも、少し違うかもしれない」

 

相澤は、ひざしを見た。

 

ひざしは、少しだけ照れたように頭をかいた。

 

「……同じ奴と過ごしてても、見てるところは違うだろ。だから、オレたちの話を聞いて、何か違うと思ったら、それはそれでいいんだ」

 

黒霧は、静かに頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

その言葉を聞いて、ひざしは、ようやく自然な笑顔になった。

 

「いいってことよ!」

 

相澤は、呆れたように息を吐いた。

 

「……声がでかい」

 

「うるせえ!」

 

いつものやり取り。

 

だが、今回は、もう一人の声を無理に待つことはしなかった。

 

白雲朧がここにいると、勝手に決めることもしなかった。

 

ただ、二人は、黒霧に向かって話をしていた。

 

黒霧は、黒霧として、その話を聞いていた。

 

それでよかった。

 

少なくとも、今は。

 

四 記憶を知ることと、過去へ戻ること

「……一つ、聞いてもよろしいでしょうか」

 

黒霧が尋ねた。

 

「何だ」

 

相澤が答える。

 

「もし、私の中に、白雲朧の記憶が残っていると確認された場合。あなた方は、その記憶を、どのように扱うおつもりですか」

 

相澤は、すぐには答えなかった。

 

黒霧は、静かに続けた。

 

「たとえば、私が、彼の記憶にある出来事を思い出したとします。その出来事が、お二人の記憶と一致していた場合、私は、その記憶を持つ存在として認識されるでしょう」

 

「……ああ」

 

「では、もし、その記憶が、お二人の記憶と一致しなかったら?」

 

ひざしが、顔を上げた。

 

「……一致しない?」

 

「はい。私が、別のことを思い出した場合。あるいは、お二人が知らない記憶があった場合。それを、どのように解釈なさいますか」

 

相澤は、静かに考えた。

 

「……まず、何が一致して、何が一致していないのかを確認する」

 

「そのうえで?」

 

「分からないことは、分からないと記録する。推測だけで結論を決めない」

 

「……そうですか」

 

黒霧は、少しだけ顔を伏せた。

 

「私は……記憶が確認されたからといって、過去の人物へ戻ることが、当然の結論になるとは考えていません」

 

相澤は、頷いた。

 

「……ああ」

 

「私は、白雲朧という人物について、知りたいと思っています。ですが、その人物の記憶を知ったとしても、私は、今の自分をすべて捨てる必要があるとは思っていません」

 

黒霧は、目を上げた。

 

「過去の記憶を知ることと、過去の人物として生きることは、同じではないと考えています」

 

その言葉は、明確だった。

 

相澤は、ゆっくりと頷いた。

 

「……そのとおりだ」

 

ひざしは、少しだけ表情を曇らせた。

 

黒霧は、彼の変化に気づいた。

 

「……山田さん」

 

「ん?」

 

「私の言葉が、あなたを傷つけたのであれば、申し訳ありません」

 

ひざしは、慌てて首を振った。

 

「いや、違う。謝ることじゃねえよ」

 

「……ですが」

 

「お前が、自分のことをどう考えてるのかを話してくれたんだろ。だったら、オレは、それを聞かなきゃいけない」

 

ひざしは、少しだけ笑った。

 

「正直、寂しい気持ちはあるよ。オレは、白雲朧に、もう一度会いたいと思ってるからさ。もし、その記憶が残ってるなら、もっと知りたい。昔のことを、一緒に思い出したい」

 

黒霧は、静かに聞いていた。

 

「でも、それは、オレの願いだ。お前に、そうしろって命じることはできない」

 

ひざしは、胸の前で手を握った。

 

「……あいつの記憶があるなら、オレは嬉しいと思う。でも、記憶があるからって、お前にあいつの人生を生きてほしいわけじゃない」

 

彼は、少しだけ言葉を切った。

 

「……いや、以前のオレなら、そこまで考えられなかったかもしれないな」

 

相澤は、隣で黙っていた。

 

ひざしは続けた。

 

「でも、今は、そう思う。オレが覚えている白雲朧と、お前が今、どういう存在なのか。それは、別に考えなきゃいけないんだ」

 

黒霧は、しばらく黙っていた。

 

やがて、静かに頭を下げた。

 

「……ありがとうございます」

 

ひざしは、少しだけ笑った。

 

「だから、礼を言うなって!」

 

「……申し訳ありません」

 

「謝るなって!」

 

相澤が、呆れたように言った。

 

「……お前ら、もう少し落ち着け」

 

ひざしが噛みつく。

 

「お前もだよ!」

 

黒霧は、二人を見ていた。

 

そのやり取りに、何かを感じたのかどうか。

 

彼自身にも、まだ分からなかった。

 

しかし、二人が、自分の意思を尊重しようとしていることは理解できた。

 

それは、過去の記憶があったとしても、なかったとしても、変わらないことだった。

 

五 「白雲を忘れろ」とは言わない

面会が終わる頃、黒霧は、相澤たちへ尋ねた。

 

「……一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」

 

相澤は頷いた。

 

「何だ」

 

「私が、白雲朧に関する記憶を持っている可能性について、今後も確認を続けるのであれば、その記録を、現在の私の記録と分けて整理していただきたいのです」

 

「……どういう意味だ」

 

「白雲朧に関係する記憶が確認されたとしても、それをもって、私が黒霧として行ってきたことや、現在の考え方が、すべて白雲朧に由来するものだと決めないでいただきたいのです」

 

黒霧は、静かに続けた。

 

「過去の記憶に関する情報と、現在の私が何を考え、どのような判断をしているのか。それぞれを分けて記録していただきたいと思います」

 

相澤は、しばらく考えた。

 

「……分かった」

 

「ありがとうございます」

 

「その方が、記録としても正確だ。確認できたことと、そこから考えられる可能性を混同しないようにする」

 

相澤は、ノートを開いた。

 

「白雲朧に関する情報は、過去の記録として整理する。黒霧としての現在の記録は、それとは別に扱う。関係があると確認できた部分については、その根拠を明確にする」

 

「……はい」

 

「ただし、過去の記憶が、今の行動の背景を理解するうえで重要な情報になる可能性はある。その場合も、事実と推測を分けて扱う」

 

黒霧は、静かに頷いた。

 

「それで、お願いします」

 

ひざしは、そのやり取りを見ながら、少しだけ目を伏せた。

 

自分たちが探しているのは、白雲朧の記憶だった。

 

それを知ることができれば、友人がどのような人間だったのか、さらに理解できるかもしれない。

 

自分たちが知らなかったことも、分かるかもしれない。

 

しかし、その記憶は、黒霧の中に存在している可能性があるものだ。

 

黒霧の中にあるからといって、二人が自由に扱ってよいものではない。

 

黒霧自身が、その記憶を知りたいと思っている。

 

だからこそ、二人は協力する。

 

だが、その記憶を、黒霧の現在を説明する唯一のものにしてはならない。

 

ひざしは、少しだけ息を吐いた。

 

「……分かった。オレも、その方がいいと思う」

 

黒霧は、彼を見た。

 

「……ありがとうございます」

 

「だから、礼はいいって!」

 

相澤が、また呆れたように息を吐いた。

 

「……お前は、本当に落ち着かないな」

 

「お前に言われたくねえ!」

 

黒霧は、二人を見つめていた。

 

そのやり取りは、昔の友人を思い出させるものなのかもしれない。

 

しかし、今の彼には、それを確かめる方法がなかった。

 

何かが反応した。

 

懐かしいような感覚がある。

 

だが、その感覚の意味は、まだ分からない。

 

黒霧は、無理に答えを出そうとはしなかった。

 

自分が何者なのか。

 

どの名前が、自分を最もよく表しているのか。

 

過去の記憶が、どのような意味を持つのか。

 

それらは、今後も考えていく必要がある。

 

しかし、今すぐに一つの結論へまとめる必要はなかった。

 

黒霧は、机の上の写真を見た。

 

「……この写真は、しばらくお預かりしていてもよろしいでしょうか」

 

相澤は、頷いた。

 

「構わない」

 

ひざしも頷いた。

 

「ああ。お前が、自分で見たいと思ったときに見ればいい」

 

黒霧は、写真を手に取った。

 

そして、慎重に机の上へ戻した。

 

「……ありがとうございます」

 

今度は、ひざしも何も言わなかった。

 

礼を言うなと、繰り返すことはしなかった。

 

黒霧が、今の自分の意思で写真を受け取ろうとしている。

 

それを、尊重すればよかった。

 

六 相澤消太が、名前を呼び直す

面会室を出る前、相澤は、一度だけ黒霧を振り返った。

 

「……黒霧」

 

呼びかけると、黒霧が顔を上げた。

 

「はい」

 

その返事を聞いて、相澤は、少しだけ胸の奥が痛むのを感じた。

 

以前、白雲朧を呼んだとき。

 

頭の中では、返事が戻ってくることを、どこかで期待していた。

 

昔のように。

 

何でもないことのように。

 

「何だよ、消太」

 

そんな返事が返ってきたら、どれほど嬉しかっただろう。

 

しかし、今、目の前にいる相手は、黒霧と名乗っている。

 

そして、その名で返事をした。

 

相澤は、しばらく黙っていた。

 

黒霧は、待っていた。

 

「……また、話を聞かせてくれ」

 

相澤は言った。

 

「お前が、知りたいことについて。俺たちが答えられることなら、答える」

 

黒霧は、静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

相澤は、一度、言葉を切った。

 

「……それから、俺たちが、何かを決めつけそうになったら、言ってくれ」

 

黒霧が、わずかに顔を傾けた。

 

「……何を、でしょうか」

 

「お前のことだ」

 

相澤は、はっきりと答えた。

 

「俺たちが、白雲の記憶に引っ張られて、お前の現在を無視しそうになったら。そのときは、言ってくれ」

 

黒霧は、しばらく相澤を見ていた。

 

「……あなた方が、そのように考えてくださることは、ありがたいと思います」

 

「だが?」

 

相澤が尋ねた。

 

黒霧は、ゆっくりと答えた。

 

「私は、あなた方が、自分自身の気持ちを持つことまで、やめてほしいとは思っていません」

 

相澤は、顔を上げた。

 

「……何?」

 

「あなた方が、白雲朧を大切に思っていること。もう一度会いたいと思っていること。それは、あなた方自身の気持ちです」

 

黒霧は、静かに続けた。

 

「私の意思を尊重するために、その気持ちまで捨てる必要はないと思います」

 

ひざしが、思わず顔を上げた。

 

黒霧は、二人を見た。

 

「あなた方が、私に白雲朧の記憶を求めること。その記憶が見つかったら、嬉しいと思うこと。それ自体を、私は否定するつもりはありません」

 

「……」

 

「ただし、その願いを、私が叶える義務にしないでいただきたいのです」

 

相澤は、静かに息を吐いた。

 

黒霧は、最後に付け加えた。

 

「あなた方が、自分の気持ちを持つことと、私が自分の意思を持つこと。その二つは、両立できるはずです」

 

その言葉は、相澤が生徒たちから学んだことと、重なっていた。

 

全員が、同じ答えを持つ必要はない。

 

同じ気持ちを持つ必要もない。

 

違う願いを抱えたままでも、相手の意思を尊重することはできる。

 

相澤は、黒霧を見つめた。

 

「……ああ」

 

短い返事だった。

 

しかし、その中には、彼が今、理解し始めていることが含まれていた。

 

自分は、白雲朧を忘れなくていい。

 

ひざしも、友人を忘れる必要はない。

 

二人が、もう一度会いたいと願うことも、否定する必要はない。

 

ただ、その願いのために、黒霧の意思を押しつぶしてはならない。

 

「……ありがとう、黒霧」

 

相澤は、初めて、自然にその名前を呼んだ。

 

黒霧は、わずかに頭を下げた。

 

「どういたしまして」

 

返事は、白雲朧のものではなかった。

 

少なくとも、相澤には、そう聞こえた。

 

しかし、それでよかった。

 

その声は、今、目の前にいる黒霧の声だった。

 

相澤は、それを、そのまま受け止めた。

 

七 ミッドナイトが残したものは、誰かの選択の中にある

数日後。

 

雄英高校の教室では、授業の合間に、生徒たちがそれぞれの課題に取り組んでいた。

 

相澤は、教室の後方から、その様子を見ていた。

 

八百万は、仲間たちの意見を聞きながら、課題の進め方を整理している。

 

緑谷は、相手の提案を細かく確認し、自分の考えと照らし合わせていた。

 

爆豪は、納得できない部分があれば、遠慮なく指摘している。

 

轟は、双方の話を聞きながら、見落とされている条件を探していた。

 

耳郎と芦戸は、意見が分かれた仲間たちの間に入り、双方が何を気にしているのかを整理していた。

 

飯田は、決まったことと未確認のことを分け、議論が混乱しないようにしている。

 

全員が同じ意見を持っているわけではない。

 

話し合いの中では、反論もあれば、考え直すこともある。

 

それでも、彼らは、互いの意見を聞きながら、課題を進めていた。

 

相澤は、その光景を見ていた。

 

ふと、ミッドナイトのことを思い出した。

 

彼女が生きていた頃。

 

教壇に立ち、生徒たちに教えていた頃。

 

厳しく注意することもあった。

 

彼らの未熟さに、はっきりと言葉を投げかけることもあった。

 

それでも、彼女は、生徒たちが成長することを信じていた。

 

自分が教えたことを、生徒たちがどう受け止めるのか。

 

それを、いつも自分の思いどおりに決められるわけではない。

 

生徒たちが、別の考え方をすることもある。

 

自分が教えたことを、違う状況で使うこともある。

 

時には、教師の考えが、すべての状況に適用できないこともある。

 

それでも、教えることには意味がある。

 

生徒が、自分で考えるための知識を持つ。

 

自分の選択について、理由を説明できるようになる。

 

自分と異なる考え方に触れ、それでも自分の答えを選べるようになる。

 

そして、その結果に責任を持つ。

 

相澤は、そのことを、ミッドナイトからも学んできたのだと思った。

 

彼女が残したものは、単に、過去の授業の記憶だけではない。

 

生徒たちが今、考え、選び、互いの意見を聞きながら行動していること。

 

その中にも、彼女の教えは生きている。

 

ただし、それは、彼女が今も同じ場所に立っているという意味ではない。

 

ミッドナイトは、戻ってこない。

 

彼女の声を、今ここで聞くことはできない。

 

彼女が、今の生徒たちを見て、何を思うのかも、確かめることはできない。

 

それでも、彼女の存在が、すべて消えてしまったわけではなかった。

 

彼女と過ごした時間が、生徒たちの記憶に残っている。

 

彼女が教えたことが、生徒たちの判断の中に生きている。

 

そして、生徒たちは、それぞれの方法で、その教えを受け継いでいる。

 

相澤は、教室の入り口から、生徒たちを見つめた。

 

彼らの答えは、全員が同じではない。

 

それでも、同じ教室で、同じ課題に向き合っている。

 

自分と違う意見を持つ者を、すぐに排除しようとはしていない。

 

何が正しいのかを、互いに考えようとしている。

 

その姿を見て、相澤は、静かに息を吐いた。

 

「……そういうことか」

 

ミッドナイトが残したものは、過去に閉じ込められているわけではない。

 

彼女の名前を呼ぶことだけが、彼女を覚えている方法でもない。

 

生徒たちが、自分の考えを持ち、自分で選び、責任を果たそうとするとき。

 

その行動の中にも、彼女が教えてきたことは続いていく。

 

相澤は、教室へ入った。

 

「……お前たち」

 

生徒たちが顔を上げる。

 

「話し合いの内容は、まとまったか」

 

八百万が答えた。

 

「はい。まだ意見が一致していない部分もありますが、それぞれの理由を整理したうえで、共通して確認できたことと、引き続き検討することを分けました」

 

「……そうか」

 

相澤は、資料を確認した。

 

意見が一致していない部分がある。

 

それを、無理に一つにまとめていない。

 

それぞれが、何を重視しているのか。

 

どこが一致し、どこが違うのか。

 

それが、分かるように整理されていた。

 

相澤は、頷いた。

 

「よくやった」

 

生徒たちの表情が、少しだけ明るくなった。

 

相澤は、彼らを見渡した。

 

「……意見が違うこと自体は、問題じゃない。理由を説明できること。相手の意見を聞けること。必要なら、考えを見直せること。その方が重要だ」

 

「はい!」

 

生徒たちが答える。

 

相澤は、教室の窓から差し込む光を見た。

 

ミッドナイトが残したもの。

 

それは、彼女の名前だけではない。

 

彼女が教えたことを、それぞれの方法で受け継いでいく、生徒たちの選択だった。

 

八 名前が違っても、存在は消えない

面会の最後に、相澤は黒霧へ、一つの質問をした。

 

「……黒霧」

 

「はい」

 

「お前は、白雲朧という名前を、どう考えている」

 

黒霧は、少しだけ顔を傾けた。

 

「……まだ、はっきりとは分かりません」

 

「そうか」

 

「その名前に関係する記憶が、私の中に残っている可能性はあります。しかし、それがどのような意味を持つのか。私自身が、その記憶をどのように受け止めるのか。まだ、答えは出ていません」

 

相澤は、頷いた。

 

「……分かった」

 

黒霧は、続けた。

 

「ただ、私は、その名前に関する記憶を知りたいと思っています。自分が何を覚えているのか。何が、今の自分につながっているのか。それを確かめたい」

 

「……ああ」

 

「ですが、仮に、白雲朧に関する記憶があると分かったとしても、私は、黒霧として生きてきた時間を、なかったことにするつもりはありません」

 

黒霧は、相澤を見た。

 

「私は、現在の自分を、過去の名前だけで説明されたくないのです」

 

相澤は、静かに答えた。

 

「……その意思を尊重する」

 

黒霧は、少しだけ顔を傾けた。

 

「ありがとうございます」

 

相澤は、首を横に振った。

 

「礼を言うことじゃない。お前が、自分の存在について考えることは、お前自身の権利だ」

 

相澤は、少しだけ言葉を切った。

 

「そして、俺たちが、過去の友人を覚えていることも、俺たちの記憶だ。お前が、その記憶をすべて共有していなかったとしても、俺たちが白雲朧を大切に思う気持ちは変わらない」

 

黒霧は、黙って聞いていた。

 

「俺たちは、白雲朧を忘れるつもりはない。だが、そのために、お前を白雲朧として扱うことを、無理に求めるつもりもない」

 

相澤は、はっきりと告げた。

 

「お前は、黒霧だ。少なくとも、今のお前は、そう名乗っている。俺たちは、その名前を尊重する」

 

黒霧の霧が、わずかに揺れた。

 

「……ありがとうございます」

 

今度は、ひざしも口を挟まなかった。

 

相澤は、もう一つだけ言葉を続けた。

 

「……ただし、過去のことを、すべて忘れたわけじゃない」

 

黒霧が顔を上げる。

 

「俺たちが覚えている白雲朧のことを、いつかお前に話すことはあるだろう。お前が知りたいと思うなら、協力する。お前が、今の自分とは違うと感じる部分があったとしても、それを否定するつもりはない」

 

相澤は、静かに言った。

 

「過去の記憶を大切にすることと、現在の存在を尊重することは、両立できるはずだ」

 

黒霧は、しばらく黙っていた。

 

やがて、ゆっくりと頷いた。

 

「……はい」

 

それは、完全な和解ではなかった。

 

黒霧が、自分の中に白雲朧の記憶があると確信したわけでもない。

 

相澤とひざしが、友人を取り戻せたと感じたわけでもない。

 

まだ分からないことは、いくつも残っている。

 

だが、一つだけ、確かなことがあった。

 

二人は、黒霧の名前を尊重することを選んだ。

 

黒霧は、過去の記憶を知ることを、自分自身の意思で選んだ。

 

どちらも、相手へ押しつけられた結論ではなかった。

 

そのことに、意味があった。

 

九 友人を失ったまま、友人を忘れない

面会が終わり、相澤とひざしは、帰り道を歩いていた。

 

夕暮れの街には、人々の姿があった。

 

仕事を終えて帰る人。

 

買い物袋を手にした人。

 

友人と話しながら歩く人。

 

誰かを待っている人。

 

それぞれに、自分の生活がある。

 

相澤は、ふと、昔の自分たちを思い出した。

 

三人で、雄英高校の廊下を歩いていた頃。

 

授業が終わり、訓練を終え、何でもない話をしていた頃。

 

あの頃の三人は、これから先も、ずっと一緒にいられると思っていたのかもしれない。

 

しかし、現実は違った。

 

白雲朧は、いなくなった。

 

二人は、その事実を抱えて生きてきた。

 

そして今、黒霧という存在の中に、友人の記憶が残っている可能性がある。

 

それを知ったことで、二人は、もう一度、友人を取り戻せるかもしれないと思った。

 

だが、その願いを叶えるために、黒霧の現在を否定してはならない。

 

相澤は、足を止めた。

 

「……ひざし」

 

「何だ」

 

「……俺たちは、白雲を失った」

 

ひざしは、顔を上げた。

 

「ああ」

 

「その事実は、変わらない」

 

相澤は続けた。

 

「黒霧の中に、白雲の記憶があると分かったとしても、俺たちが過ごした時間が、そのまま戻ってくるわけじゃない」

 

ひざしは、ゆっくりと頷いた。

 

「……ああ」

 

「俺たちは、もう一度会いたいと思っている。だが、それは、黒霧に、失った時間を返してもらうということではない」

 

相澤は、ひざしを見た。

 

「白雲朧を、大切に思い続けることはできる。黒霧の現在を、尊重することもできる。どちらかを捨てる必要はない」

 

ひざしは、しばらく黙っていた。

 

やがて、静かに笑った。

 

「……そっか」

 

彼は、空を見上げた。

 

「オレ、ずっと、白雲朧を取り戻すか、諦めるか、どっちかだと思ってたのかもしれない」

 

「……ああ」

 

「でも、そうじゃないんだな」

 

ひざしは、少しだけ目を伏せた。

 

「オレが覚えている朧は、オレの中に残ってる。黒霧が、自分のことをどう考えるかは、黒霧が決める。それは、同じ場所に並べておいてもいいんだ」

 

相澤は、頷いた。

 

「そうだ」

 

ひざしは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……じゃあ、オレは、あいつを忘れない」

 

「忘れる必要はない」

 

「でも、黒霧を、あいつの代わりにしない」

 

相澤は、静かに答えた。

 

「……それでいい」

 

ひざしは、少しだけ笑った。

 

「……なあ、相澤」

 

「何だ」

 

「オレたち、少しは大人になったのかな」

 

相澤は、ひざしを横目で見た。

 

「……さあな」

 

「おい!」

 

「少なくとも、今も余計なことを言っている」

 

「それは昔からだろ!」

 

二人は、いつものように言い合った。

 

そして、ふと、言葉が途切れた。

 

そこには、もう一人の声がない。

 

だが、二人は、その空白を、無理に埋めようとはしなかった。

 

白雲朧の記憶は、二人の中に残っている。

 

黒霧という存在は、今も、別の場所で生きている。

 

その二つを、同じものにしなくてもいい。

 

友人を忘れないことと、現在の相手を尊重することは、両立できる。

 

二人は、再び歩き始めた。

 

その足取りには、まだ痛みが残っていた。

 

けれど、その痛みを理由に、黒霧の意思を奪わないと決めた。

 

それが、二人の選んだ道だった。

 

十 名前が違っても、存在は消えない

その日の夜、黒霧は、預かっていた写真を机の上に置いた。

 

三人の少年が写っている。

 

写真の中の白雲朧は、笑っていた。

 

その笑顔を見て、黒霧は、何かを思い出したような感覚を覚えた。

 

だが、それが何なのかは、分からない。

 

自分の経験なのか。

 

過去の人物の記憶なのか。

 

それとも、写真の中の情景に対する、説明できない反応なのか。

 

答えは、まだなかった。

 

黒霧は、写真に向かって、静かに言った。

 

「……白雲朧」

 

その名前を口にしても、何かが大きく変わるわけではなかった。

 

身体が変化することもない。

 

別の人格が、突然、現れるわけでもない。

 

ただ、名前が、部屋の中に響いた。

 

黒霧は、しばらく写真を見つめていた。

 

そして、今度は、別の名前を口にした。

 

「……黒霧」

 

それは、現在の自分が名乗っている名前だった。

 

白雲朧という名前には、まだ分からないことが多い。

 

黒霧という名前にも、自分が知らない過去があるのかもしれない。

 

だが、その二つの名前を、今すぐ一つにまとめる必要はない。

 

自分が何者なのか。

 

どの記憶が、自分の中にあるのか。

 

それを、少しずつ確かめていけばいい。

 

黒霧は、写真を机の端へ移した。

 

そして、自分の記録を開いた。

 

これまでに確認されたこと。

 

自分が覚えていること。

 

自分が感じたこと。

 

まだ分からないこと。

 

それらを、一つずつ整理し始めた。

 

彼は、白雲朧の記憶を知りたい。

 

しかし、その記憶を知ることで、自分の現在を消すつもりはなかった。

 

過去を知ることと、過去へ戻ることは違う。

 

名前を知ることと、その名前を名乗る義務を負うことも違う。

 

そして、誰かが自分を大切に思っているからといって、その人の記憶の中で生きなければならないわけでもない。

 

黒霧は、記録に新しい一文を加えた。

 

『白雲朧に関する記憶が、自分の中に存在する可能性がある。しかし、その意味については、まだ結論を出していない』

 

その下に、もう一つ書いた。

 

『自分が黒霧として過ごしてきた時間についても、同様に、記録と確認を続ける』

 

書き終えたあと、黒霧は少しだけ考えた。

 

さらに、短い一文を付け加えた。

 

『過去の記憶を知ることと、現在の自分を否定することは、同じではない』

 

彼は、その文章を見つめた。

 

それが、最終的な答えになるかどうかは分からない。

 

この先、さらに多くの事実が明らかになれば、考えが変わるかもしれない。

 

それでも、今の自分は、そう考えている。

 

それだけは、確かなことだった。

 

黒霧は、記録を閉じた。

 

写真は、机の上に残っている。

 

白雲朧という名前も、自分の中にある問いも、まだ消えていない。

 

そして、黒霧という名前も、今の自分を示すものとして残っている。

 

二つの名前は、今のところ、一つの答えにはなっていなかった。

 

それでも、どちらかを急いで消す必要はない。

 

黒霧は、明かりを落とした。

 

静かな部屋に、三人の少年が写った写真だけが残る。

 

過去は、過去として存在している。

 

現在は、現在として続いている。

 

その二つを、無理に同じ形にする必要はなかった。

 

終幕 友人を取り戻すことと、目の前の人間を見失わないこと

相澤消太と山田ひざしは、白雲朧を忘れない。

 

共に過ごした時間。

 

交わした言葉。

 

くだらない冗談。

 

未来を語り合った日々。

 

それらは、二人の記憶の中に残っている。

 

そして、二人は、もう一度、友人に会いたいと思っている。

 

その願いも、消す必要はない。

 

しかし、黒霧の中に白雲朧の記憶が残っているとしても、それだけで、黒霧の存在をすべて説明できるわけではない。

 

黒霧には、黒霧として生きてきた時間がある。

 

彼自身の考え方がある。

 

彼自身の意思がある。

 

それらを、過去の友人の記憶だけで塗りつぶしてはならない。

 

黒霧は、自分の中に何が残っているのかを知りたいと思っている。

 

白雲朧に関する記憶も、現在の自分の記憶も、どちらも確かめたいと思っている。

 

それは、彼自身の願いだった。

 

相澤とひざしは、そのために協力することを選んだ。

 

彼が何を知りたいのかを聞く。

 

彼が何を望んでいるのかを確かめる。

 

自分たちが覚えている過去を伝える。

 

そして、その記憶をどう受け止めるかは、黒霧自身に委ねる。

 

それが、二人の選んだ道だった。

 

その道は、簡単ではない。

 

黒霧が、白雲朧の記憶を持っていると明らかになるかもしれない。

 

何も確かめられないまま、時間が過ぎるかもしれない。

 

予想もしなかった過去が見つかり、二人の記憶が揺らぐこともあるだろう。

 

それでも、二人は、最初から結論を決めない。

 

友人を取り戻したいという願いを抱きながら、目の前の存在の意思を尊重する。

 

それが、白雲朧を大切に思うことと、黒霧を黒霧として尊重することを、両立させるための道だった。

 

そして、ミッドナイトが残したものも、同じように受け継がれていく。

 

彼女の名前を覚えていること。

 

彼女の言葉を大切にすること。

 

その記憶を、自分の判断に生かしていくこと。

 

それらを、同じやり方で行う必要はない。

 

生徒たちは、それぞれの経験と考え方を通じて、彼女から学んだことを自分のものにしていく。

 

全員が同じ答えを持たなくてもいい。

 

それぞれが違う考えを持ちながらも、互いの意思を尊重することはできる。

 

相澤は、そのことを、教え子たちから学んだ。

 

教師である自分もまた、答えの出ていない問いに向き合い続けなければならない。

 

自分が正しいと信じていることを、何度でも問い直す。

 

自分の願いが、誰かの意思を押しのけていないかを確認する。

 

そして、必要ならば、判断を改める。

 

その姿勢が、今の相澤にできることだった。

 

白雲朧の記憶は、消えない。

 

黒霧という存在も、消えない。

 

二つの名前が、今すぐ一つにまとまらなくてもいい。

 

名前が違っても、存在がすべて消えるわけではない。

 

過去を大切にすることと、現在を否定しないことは両立できる。

 

そして、失った友人を忘れないことと、目の前の人間を見失わないことも、両立できるはずだった。

 

相澤とひざしは、これからも黒霧に会いに行く。

 

友人を取り戻せたと決めつけるためではない。

 

友人を取り戻せないと諦めるためでもない。

 

黒霧が、自分自身の過去と現在を理解しようとする、その過程に協力するために。

 

そして、二人自身もまた、白雲朧を大切に思いながら、その先を生きていくために。

 

物語は、ここで一つの区切りを迎える。

 

すべての謎が解けたわけではない。

 

すべての痛みが消えたわけでもない。

 

しかし、二人は、もう一つのことを理解した。

 

友人を取り戻したいという願いと、目の前にいる存在の意思を尊重することは、両立できる。

 

その答えを、これからも行動によって確かめていく。

 

相澤消太・山田ひざし・黒霧編、終幕




相澤先生、プレゼントマイク、黒霧編終幕。次回ギャラティカVSサンイーター編この章は唯一バトルメインです、この暴食編以降は対話、バトル半々ぐらい予定です。
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