僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第六話 十三年前の死亡報告書

 

 その報告書は、存在してはならないものだった。

 十三年前。

 オール・フォー・ワンとの最終決戦よりも前。

 緑谷出久が、まだ雄英高校の生徒だった頃。

 彼は一度、死んでいる。

 少なくとも、世界の記録にはそう書かれていた。

 そして、その死亡を確認した人物の名前も。

 死亡したはずの少年が、自ら記した報告書の署名も。

 すべてが、矛盾なく残されていた。

 ただし、その記録を覚えている人間は、誰一人としていなかった。

 ――いや。

 一人だけ、いた。

 雄英高校教師、相澤消太。

 彼は、ようやく思い出しかけていた。

 自分が何を忘れたのか。

 そして。

 なぜ、忘れなければならなかったのか。

     *

1 教師の記憶

「……もう一度、再生しろ」

 雄英高校地下、特別対策室。

 相澤消太は、目の前のモニターを睨みつけていた。

 画面には、十三年前の監視映像が映し出されている。

 映像の画質は悪い。

 音声もところどころ途切れている。

 それでも、映っている人物の顔は判別できた。

 緑谷出久。

 そして、その隣に立っている、もう一人の少年。

 髪の色も、目の形も、顔立ちも似ている。

 だが、同じではない。

 映像の中の出久は、今よりも幼かった。

 もう一人の少年は、今の出久とほとんど同じ年齢に見えた。

 二人は、何かを話している。

 音声はない。

 だが、少年が出久の肩に手を置き、何かを伝えていることは分かった。

 やがて、出久が首を横に振った。

 少年は、困ったように笑った。

 そして、出久を抱きしめた。

 次の瞬間。

 映像が乱れた。

 画面いっぱいに、黒いノイズが走る。

 復旧した映像には、誰も映っていなかった。

 部屋は無人だった。

 扉は閉じている。

 窓もない。

 床には、二人が立っていた痕跡さえ残っていない。

 映像の右下に、時刻が表示されていた。

 午前二時十三分。

 相澤は、再生を止めた。

「……十三秒」

 隣に立つ塚内直正が、顔を上げた。

「何?」

「映像が途切れている時間だ。十三秒間、記録が消えている」

「それがどうした?」

「以前にも、同じことがあった」

 相澤は、別の画面を開いた。

 そこには、現在の雄英高校で撮影された映像が並んでいた。

 出久が地下の面談室から消えた時。

 空が黒い亀裂に覆われた時。

 出久が白い空間へ引き込まれた時。

 すべての映像に、同じ特徴があった。

 異常が発生する直前。

 記録が十三秒間、欠落している。

「偶然ではないな」

 塚内が呟いた。

「ああ」

「だが、なぜ十三秒なんだ?」

「分からない。ただ……」

 相澤は、十三年前の映像をもう一度見つめた。

「この映像の中で、何が起きたのかを思い出しかけている」

「思い出したのか?」

「まだだ」

 相澤は、正直に答えた。

「断片だけだ。白い部屋。緑谷。もう一人の少年。それから……」

 そこで、言葉が止まった。

 頭の奥に、何かが浮かび上がる。

 冷たい床。

 消毒液の匂い。

 遠くから聞こえる警報。

 そして、誰かの叫び声。

『先生!』

 相澤は目を閉じた。

『先生、早く!』

 声が近づいてくる。

『こいつを連れて逃げて!』

 誰が叫んでいるのか。

 分からない。

 だが、その声には聞き覚えがあった。

 出久ではない。

 爆豪でも、轟でもない。

 もっと若い。

 もっと切羽詰まった。

 そして、どこかで聞いたことがある声。

『俺が残る!』

 相澤の目が見開かれた。

「……違う」

「相澤君?」

「今のは……」

 彼は、額を押さえた。

「今のは、俺の記憶じゃない」

 塚内が息を呑んだ。

「どういう意味だ?」

「分からない。俺が経験した記憶のように感じた。だが、声の主が誰なのか分からない。そもそも、俺があの場所にいたのかどうかさえ……」

 その時。

 モニターが、勝手に切り替わった。

 黒い画面。

 白い文字。

 ――記憶情報の復元を確認。

 ――介入者:相澤消太。

 ――記憶の整合性:低下。

 ――復元処理を継続しますか?

 その下に、二つの選択肢が現れた。

 YES。

 NO。

 塚内が端末を操作しようとした。

「触るな!」

 相澤が制止した。

「これは雄英のシステムじゃない」

「しかし、こちらから操作できる可能性が……」

「違う。こいつは、俺たちが操作するのを待っているんじゃない」

 相澤は、画面を睨みつけた。

「俺たちが何を選ぶかを、見ているんだ」

 画面の文字が変わった。

 ――介入者の判断を確認。

 ――相澤消太。

 ――あなたは、記憶の復元を望みますか?

 相澤は答えなかった。

 代わりに、画面へ向かって言った。

「質問を変えろ」

 文字が止まった。

「お前は、誰だ」

 沈黙。

「緑谷に何をした?」

 沈黙。

「そして、十三年前に何が起きた?」

 画面が、一度だけ点滅した。

 それから。

 ゆっくりと、文字が浮かび上がった。

 ――質問を受理しました。

 ――回答を開始します。

 相澤と塚内は、息を潜めた。

 しかし、次に現れた文章は、二人の予想を裏切るものだった。

 ――その記録を作成したのは、あなたです。

「……は?」

 塚内が声を漏らした。

 相澤は、画面を凝視した。

 ――十三年前。

 ――対象個体:緑谷出久。

 ――死亡報告書作成者:相澤消太。

 ――死亡確認者:相澤消太。

 ――記録封印者:相澤消太。

 そして、最後に。

 ――あなたは、彼を二度と蘇らせないと誓いました。

 相澤の呼吸が止まった。

「……俺が?」

 その瞬間。

 頭の中で、何かが弾けた。

 白い部屋。

 倒れている少年。

 血に染まった手。

 そして、自分の声。

『……すまない』

 相澤は、よろめいた。

『俺が、もっと早く気づいていれば』

 膝が床についた。

『お前を、こんな目に遭わせずに済んだ』

 誰かが泣いていた。

 誰かが叫んでいた。

 そして、自分は。

 目の前で動かなくなった少年の手を握り締めていた。

『緑谷』

 声が震える。

『緑谷、目を開けろ』

 返事はない。

『……頼む』

 相澤は、記憶の中で叫んだ。

『頼むから……もう一度、目を開けてくれ』

 だが。

 少年は、目を開けなかった。

     *

「相澤君!」

 塚内の声で、意識が戻った。

 相澤は、床に片膝をついていた。

 息が荒い。

 視界が揺れている。

 頭が割れるように痛かった。

 それでも、今の記憶だけは、はっきりしていた。

 自分は、あの場所にいた。

 十三年前。

 白い部屋で。

 出久が死んだ時。

 そして、自分は。

「……俺が、報告書を書いた」

 相澤は、呟いた。

「緑谷の死亡報告書を……俺が書いたんだ」

 塚内は、言葉を失った。

 相澤は、ゆっくりと立ち上がった。

「だが、そんな記憶はない。あいつが死んだことも、そんな場所があったことも……」

「記憶を消された?」

「可能性はある」

 相澤は、モニターを見つめた。

「だが、単純に記憶を消しただけなら、記録まで消えているはずだ」

「……確かに」

「俺たちは、忘れただけじゃない」

 相澤は、低い声で言った。

「忘れたことさえ、忘れさせられていたんだ。」

 その言葉が、地下室に重く響いた。

 直後。

 モニターに、新しい記録が現れた。

 ――第零回観測。

 ――対象個体:緑谷出久。

 ――死亡確認。

 ――再構築処理:失敗。

 ――再構築処理:失敗。

 ――再構築処理:失敗。

 何度も、同じ文字が繰り返される。

 そして。

 ――対象個体は、死を受け入れませんでした。

 相澤は、その一文を見つめた。

 出久は、死を受け入れなかった。

 それは、どういう意味なのか。

 生き返ろうとしたのか。

 誰かを救うために、死ぬことを拒んだのか。

 それとも。

 死ぬことさえ許されなかったのか。

 答えは、まだ分からない。

 だが、相澤は一つだけ理解した。

 この事件は、死者が蘇ったことから始まったのではない。

 もっと前から。

 十三年前よりも、さらに前から。

 誰かが、緑谷出久という人間を観測していた。

 そして、彼の死と生を、何度も書き換えていたのだ。

     *

2 生徒たちの知らない歴史

「……で、結局どういうことだよ」

 雄英高校、会議室。

 爆豪勝己は、机に置かれた資料を睨んでいた。

 呼び出されたのは、爆豪だけではない。

 轟焦凍。

 麗日お茶子。

 飯田天哉。

 切島鋭児郎。

 八百万百。

 そして、緑谷出久。

 全員が揃っていた。

 相澤は、しばらく何も言わなかった。

 彼は今、どこまで話すべきかを考えていた。

 十三年前の死亡報告書。

 自分が作成者として記録されていたこと。

 記憶が戻り始めていること。

 そして、出久が一度死んでいる可能性。

 どれも、簡単に口にできる話ではなかった。

 だが、もう隠し通せる段階ではない。

「……お前たちに、確認したいことがある」

 相澤は言った。

「十三年前のことだ」

「十三年前?」

 飯田が眉を寄せた。

「先生、俺たちはまだ子供だったはずですが……」

「そうだ」

「何か、当時の事件に関することですか?」

「ああ。緑谷に関係する」

 全員の視線が、出久へ向いた。

 出久は、困ったように笑った。

「……僕も、まだ何が起きているのか分からないんだけどね」

「緑谷」

 相澤は、真剣な顔で言った。

「お前は、自分が一度死んでいたと言われたら、どう思う?」

 会議室の空気が凍った。

「……先生?」

 出久は、言葉を失った。

 爆豪が椅子から立ち上がる。

「おい、何だそりゃ」

「質問に答えろ、緑谷」

 相澤は、出久から目を逸らさなかった。

「十三年前、お前の死亡報告書が存在していた。作成者は俺だ」

「……っ」

 出久の顔から、血の気が引いた。

「もちろん、今の俺には、その時の記憶がない。だが、断片的に思い出し始めている」

「そんな……」

 お茶子が口元を押さえた。

「緑谷君が、死んでたって……?」

「記録上は、そうなっている」

「記録上って何だよ!」

 爆豪が机を叩いた。

「死んでたなら死んでた、そうじゃねえならそうじゃねえだろうが! 何でそんな曖昧な話になってんだ!」

「爆豪、落ち着け」

「落ち着けるか!」

 爆豪は、出久を見た。

「おい、デク。お前はどうなんだ。何か覚えてんのか」

 出久は、首を横に振った。

「……分からない」

「またそれかよ……!」

 爆豪の声が荒くなる。

 だが、その怒りが誰に向けられているのか、本人にも分からなかった。

 出久ではない。

 相澤でもない。

 こんな理不尽なことを引き起こしている、何か。

 それに対する怒りだった。

「……俺は」

 爆豪は、拳を握り締めた。

「俺は、こいつが死んだことなんか、一度もねえと思ってた」

 誰も口を挟まなかった。

「何度も死にかけた。何度も無茶をした。何度も、俺がぶっ飛ばしてやろうと思った」

「かっちゃん……」

「けど、死んだことはねえ」

 爆豪は、出久を睨んだ。

「俺の知ってるデクは、生きてた」

 その言葉に、出久は目を伏せた。

「……うん」

「だったら、今ここにいるお前が何だとか、そんな話を勝手に決めんな」

 爆豪は、吐き捨てるように言った。

「お前が生きてることまで、他人に決めさせてたまるか」

 出久の喉が詰まった。

 その時。

「……私も、同じ意見です」

 八百万百が口を開いた。

 彼女は、資料に目を落としていた。

「記録は重要です。しかし、記録が現実を完全に証明するとは限りません。特に、今回のように、記録そのものが改変されている可能性がある場合は」

「八百万……」

「緑谷さんが十三年前に亡くなっていたとしても、今ここにいる緑谷さんの存在を否定する根拠にはなりません」

 八百万は、はっきりと言った。

「むしろ、誰かが記録を改変しているのであれば、その目的を調べるべきです」

「そうだな」

 轟が頷いた。

「問題は、緑谷が本当に死んでいたかどうかだけじゃない」

 彼は資料を指さした。

「誰が、その記録を残したのか。誰が、俺たちに忘れさせたのか。そして、なぜ今になって、それを思い出させようとしているのか」

「……その通りだ」

 相澤は、ゆっくりと息を吐いた。

「だから、確認したい」

 彼は、全員を見回した。

「お前たちの中に、十三年前の記憶がある者はいないか」

 沈黙。

 誰も答えなかった。

 当然だった。

 彼らはまだ幼かった。

 雄英の生徒ですらなかった者もいる。

 十三年前の事件に、直接関わっていたはずがない。

 だが。

「……あります」

 小さな声がした。

 全員が振り返った。

 声の主は、麗日お茶子だった。

「お茶子ちゃん?」

 出久が目を見開いた。

 お茶子は、自分の手を見つめていた。

「うち……さっきから、ずっと気になってたんよ」

「何が?」

「十三年前って聞いて、何か……変な感じがしたん」

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

「うち、その頃のことは、もちろん覚えとる。家のこととか、学校のこととか。でも……」

 言葉が途切れた。

「でも、何だ?」

 相澤が尋ねた。

「……夢を見たことがあるんです」

 お茶子は、震える声で言った。

「小さい頃、何度も同じ夢を見てました」

 出久は、彼女を見つめた。

「夢?」

「うん。白い部屋の夢」

 会議室の空気が変わった。

「そこに、男の子が二人おったんです」

 お茶子は、目を閉じた。

「一人は、緑色の髪をしてて……もう一人も、緑色の髪をしてた」

 出久の心臓が、強く脈打った。

「……二人とも、泣いてた」

 お茶子の目から、涙がこぼれた。

「一人が、もう一人に『ごめんね』って言うんです」

 彼女は、唇を噛んだ。

「それで……」

 声が震える。

「それで、もう一人が……『行かないで』って」

 出久は、息を呑んだ。

 それは、自分が白い空間で見た光景と同じだった。

 幼い自分。

 もう一人の自分。

 そして、別れ。

「……お茶子ちゃん」

 出久は、彼女の名前を呼んだ。

 お茶子は、首を横に振った。

「ごめん。うち、何も覚えてない。夢の中で何があったのか、ちゃんと思い出せん」

 彼女は、涙を拭った。

「でも、その夢を見た日は、いつも……誰かがいなくなった気がしてた」

「誰か?」

「うん」

 お茶子は、出久を見た。

「大切な人が、どこか遠くへ行ってしまったような気がしたん」

 その言葉に、出久の胸が締めつけられた。

 なぜ、お茶子がそんな夢を見ていたのか。

 なぜ、十三年前のことを思い出しかけているのか。

 答えは分からない。

 だが、偶然ではない。

 この事件は、出久一人だけの問題ではなかった。

 仲間たちの記憶にも、何かが残されている。

 消しきれなかった痕跡が。

 世界が再構築されても、完全には消えなかった想いが。

 その時。

 会議室の照明が、一瞬だけ点滅した。

 全員の端末が、同時に震えた。

 画面には、一通の通知が表示されていた。

 差出人は、存在しないアカウント。

 件名はない。

 本文は、たった一行だった。

 ――思い出すのは、そこまでにして。

 その下に、もう一行。

 ――これ以上思い出せば、今度は麗日お茶子が消える。

「……っ!」

 出久が立ち上がった。

「お茶子ちゃん!」

「う、うん……!」

 お茶子の身体が、わずかに揺れた。

 彼女の指先が、透けていた。

 まるで、存在そのものが薄れていくように。

「おい! 何だ、これ!」

 爆豪が叫んだ。

 轟が、すぐにお茶子の身体を支える。

「麗日!」

「大丈夫……! うちは、大丈夫やから……!」

 だが、声は震えていた。

 彼女の指先が、さらに薄くなる。

 出久は、彼女の手を掴んだ。

「お茶子ちゃん! 僕を見て!」

「緑谷……君……」

「大丈夫! 絶対に、大丈夫だから!」

 その言葉を口にした瞬間。

 出久の頭の中に、別の声が響いた。

『君は、三度とも同じことを言った』

 誰の声だったのか。

 思い出せない。

『三度とも、君は僕を忘れた』

 出久の胸が、激しく痛んだ。

『でも、今回は少し違う』

 白い空間。

 幼い自分。

 そして、もう一人の自分。

 彼らが、同時にこちらを見ている。

『今度は、君が選べるから』

 出久は、歯を食いしばった。

「……ふざけるな」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

「誰かを救うために、誰かを消すなんて……そんなの、僕は認めない!」

 出久の身体から、緑色の光が溢れた。

 個性の発動ではない。

 少なくとも、彼自身は個性を使おうとしていなかった。

 それでも、光は広がった。

 お茶子の身体を包み込む。

 透けていた指先が、少しずつ元に戻っていく。

 端末の画面に、文字が浮かび上がった。

 ――対象個体の干渉を確認。

 ――再構築処理に異常。

 ――介入者の選択権を確認。

 ――緑谷出久。

 ――世界の再構築を拒否。

 そして。

 ――処理を中断します。

 お茶子の身体が、完全に元に戻った。

 彼女は、出久の手を握り返した。

「……緑谷君」

「お茶子ちゃん……!」

 出久は、彼女を抱きしめた。

 もう二度と、失いたくなかった。

 誰も。

 誰一人として。

 自分の目の前から消えてほしくなかった。

 しかし、その願いを抱いた瞬間。

 出久は、理解してしまった。

 自分は以前にも、同じ願いを抱いたことがある。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 そして、そのたびに。

 何かを失ってきたのだ。

     *

3 十三年前の死亡報告書

 その夜。

 雄英高校地下資料庫。

 相澤と塚内は、封印されていた原本を机の上に並べていた。

 十三年前の死亡報告書。

 現場写真。

 関係者一覧。

 そして、出久本人が作成したとされる記録。

 相澤は、報告書の一枚目をめくった。

 そこには、こう書かれていた。

 ――対象個体、緑谷出久。

 ――死亡推定時刻、午前二時十三分。

 ――死亡原因、記録欠落。

 ――遺体、未回収。

 ――現場、再構築により消失。

 相澤は、二枚目をめくった。

 ――対象個体の死亡は、通常の生物学的死とは異なる。

 ――対象個体の存在情報が、世界の記録から削除されつつある。

 ――対象個体の記憶情報は、関係者の記憶と連動している。

 ――対象個体を記憶する者が増えるほど、世界の整合性が低下する。

「……何だ、これは」

 塚内が呟いた。

「緑谷君を覚えている人が増えるほど、世界が不安定になる?」

「ああ」

 相澤は、報告書を読み進めた。

 ――対象個体の存在を維持するためには、記憶情報の分離が必要。

 ――関係者の記憶を封印することで、対象個体の存在を安定化させる。

 ――記憶封印処理の実施を提案する。

 ――提案者:相澤消太。

 相澤の手が止まった。

「……俺が、提案したのか」

 塚内は、何も言わなかった。

 報告書の下には、さらに別の記録が挟まれていた。

 ――記憶封印処理の実施にあたり、関係者の同意を確認。

 その下には、複数の署名が並んでいた。

 相澤消太。

 オールマイト。

 そして、見覚えのある名前がいくつも。

 当時の雄英関係者。

 医療関係者。

 公安の担当者。

 彼らは、全員が同じ選択をしたことになっていた。

 出久の存在を維持するために、彼の死を忘れる。

 彼が死んだことを覚えていれば、世界が不安定になる。

 ならば、忘れるしかない。

 そう記録されていた。

「……待て」

 相澤は、別のページを見つけた。

 そこには、手書きの文章が記されていた。

 公式記録とは違う。

 誰かが、後から書き足したものだ。

 筆跡は、出久のものに似ていた。

 ――僕を忘れてください。

 相澤の呼吸が止まった。

 その下には、続きがあった。

 ――僕を覚えていると、皆さんまで消えてしまう。

 ――だから、僕を忘れてください。

 ――僕がいなくなっても、皆さんが生きているなら、それでいいです。

 相澤は、紙を握り締めた。

「……緑谷」

 その文章を、出久が書いたのだとしたら。

 彼は、自分の死を受け入れたのだろうか。

 違う。

 この文章には、死を受け入れた者の諦めがない。

 むしろ、誰かを守ろうとする意志がある。

 自分が消えることで、他の誰かを救おうとしている。

 相澤は、何度も見てきた。

 出久が、自分を犠牲にしようとする姿を。

 誰かを救うために、自分の身体を顧みない姿を。

 そして、そんな彼を止めるために、何度も叱ってきた。

 なのに。

 十三年前の自分は。

 彼の願いを受け入れてしまったのだろうか。

 記憶を封印することを。

 彼を忘れることを。

 その代わりに、彼を世界に残すことを。

「……違う」

 相澤は、低く呟いた。

「こんなものは、救済じゃない」

 塚内が顔を上げた。

「相澤君?」

「緑谷が自分を犠牲にすることを選んだとしても、それをそのまま受け入れるのが、俺たちの役目だったのか?」

 相澤は、報告書を見つめた。

「俺は、あいつに何度も言ってきた。自分を大事にしろと。周りを頼れと。一人で抱え込むなと」

 声が震えた。

「それなのに、俺は……」

 言葉が続かなかった。

 塚内は、静かに答えた。

「君が当時、何を知っていたのかは分からない。今の君が、当時の君を責めることはできない」

「……分かっている」

「記録が正しいとも限らない。君が同意したという記録そのものが、誰かに作られた可能性だってある」

「ああ」

 相澤は、頷いた。

「だから、確かめる」

 彼は報告書を閉じた。

「緑谷が何を選んだのか。俺が何をしたのか。そして、誰がこの記録を残したのか」

 その時。

 資料庫の奥から、音がした。

 カチリ。

 二人が振り返る。

 そこには、誰もいない。

 ただ、棚の一番下に置かれた古い箱が、わずかに開いていた。

 塚内が近づく。

「……こんな箱、あったか?」

「触るな」

 相澤が制止した。

 箱の表面には、黒い文字が刻まれていた。

 ――第零回観測記録。

 ――閲覧権限:緑谷出久。

 その下に、小さな文字がある。

 ――閲覧者が対象個体本人でない場合、記録を破棄する。

「……緑谷本人しか見られないのか」

 塚内が呟いた。

 相澤は、箱を見つめた。

「いや」

 彼は、静かに言った。

「緑谷本人に、見せたくないんだ」

 その瞬間。

 箱の蓋が、ひとりでに開いた。

 中には、一枚の紙が入っていた。

 他の記録とは違い、真新しい紙だった。

 そこに書かれていたのは、たった一行。

 ――先生、約束を破ってごめんなさい。

 相澤は、動けなかった。

 その筆跡は。

 間違いなく、緑谷出久のものだった。

     *

4 死者は、どこで目を覚ますのか

 その頃。

 南極大陸。

 氷の下に広がる、地図に記載されていない空間。

 そこには、無数の扉が並んでいた。

 大きさも、形も、材質も違う。

 鉄の扉。

 木の扉。

 石の扉。

 そして、扉そのものが存在せず、ただ黒い亀裂だけが開いている場所もあった。

 その一つの前に、死神が立っていた。

 彼女は、目の前の扉を見つめていた。

 扉には、名前が刻まれている。

 ――緑谷出久。

 その文字は、何度も削られ、何度も書き直されていた。

 消そうとしても消えない。

 書き換えようとしても、元に戻る。

 まるで、世界そのものが、その名前を手放すことを拒んでいるようだった。

「……あなたは、何者なの?」

 死神は、扉に問いかけた。

 返事はない。

 彼女は、指先で名前に触れた。

 その瞬間。

 扉の向こうから、声が聞こえた。

『……誰?』

 幼い少年の声だった。

 死神は、息を呑んだ。

「私は……」

 名乗ろうとして、言葉が止まった。

 自分は、何者なのだろう。

 死者を蘇らせた存在。

 扉を開いた存在。

 世界を観測するものの端末。

 そう説明することはできる。

 だが、それだけではない気がした。

 自分には、意思がある。

 選択する力がある。

 そして、今。

 目の前の少年を救いたいと思っている。

「……私は、あなたを助けたい」

 死神は、静かに言った。

 扉の向こうから、声が返ってくる。

『どうして?』

「……分からない」

『分からないのに?』

「ええ」

 死神は、少しだけ笑った。

「それでも、助けたいと思ったの」

 長い沈黙。

 そして。

『……そっか』

 少年の声が、少しだけ柔らかくなった。

『じゃあ、お願いがあるんだ』

「何?」

『僕を、忘れないで』

 死神は、目を見開いた。

『みんな、僕を忘れてしまったから』

 扉の向こうで、少年が泣いていた。

『先生も、お母さんも、みんな……僕のことを忘れてしまった』

 死神は、胸を押さえた。

『でも、僕は覚えているんだ』

「……何を?」

『みんなのこと』

 少年は、答えた。

『みんなが、僕を助けてくれたこと』

 扉の表面に、黒い亀裂が走った。

『だから、僕も……みんなを助けたい』

 死神は、ゆっくりと首を横に振った。

「……あなたは、もう十分に頑張ったわ」

 返事はない。

「これ以上、誰かのために自分を犠牲にする必要はない」

 扉の向こうで、少年が笑った。

『……それ、僕も誰かに言われた気がする』

 死神は、目を閉じた。

 この少年は、何度も同じ選択を繰り返している。

 誰かを救うために、自分を犠牲にする。

 誰かが助かるなら、自分が消えても構わない。

 そして、そのたびに世界が彼を観測し、記録し、必要に応じて書き換えている。

 彼は、英雄なのだろうか。

 それとも。

 英雄であることを強いられた、ただの少年なのだろうか。

 死神は、扉に手を置いた。

「……私は、あなたを忘れない」

 その瞬間。

 扉の向こうで、何かが動いた。

 少年の声が、かすかに聞こえた。

『……ありがとう』

 そして。

 扉に刻まれていた名前の隣に、新しい文字が浮かび上がった。

 ――記憶保持者:死神。

 その下に、さらに文字が現れる。

 ――観測対象との接触を確認。

 ――端末の自律的選択を確認。

 ――規定外の行動を検出しました。

 死神は、顔を上げた。

 空間の奥から、巨大な気配が近づいてくる。

 音もなく。

 形もなく。

 ただ、存在そのものが、世界に圧力を与えるような気配。

 死神は、その気配を知っていた。

 自分が何者であるかを、思い出させた存在。

 自分に扉を開かせた存在。

 そして、自分の意思を観測している存在。

 彼女は、振り返らなかった。

「……それでも」

 小さく呟く。

「私は、私の選択をする」

 その瞬間。

 氷の下の空間に、無数の黒い亀裂が走った。

 世界のどこかで、誰かが目を覚ました。

 そして、誰かが。

 再び、死んだことにされた。

     *

5 僕を殺してくれ

 午後十一時四十分。

 緑谷出久の部屋。

 出久は、机の前に座っていた。

 目の前には、端末がある。

 画面には、あのメッセージが表示されていた。

 ――今度こそ、僕を殺してくれ。

 何度見ても、意味が分からない。

 自分を救おうとしている人物が、自分に殺してほしいと願っている。

 その人物は、自分と同じ顔をしている。

 同じ名前を持っている。

 そして、世界の再構築が始まるまで、残り時間は少ない。

 出久は、端末を操作した。

 返信欄を開く。

 何を書けばいいのか分からなかった。

 君は誰だ。

 なぜ僕を救おうとする。

 なぜ、自分を殺してほしいと願う。

 どうして、僕と同じ顔をしている。

 どうして、みんなは君を忘れている。

 聞きたいことは、山ほどあった。

 だが、出久が最初に打ち込んだ言葉は。

 ――僕は、君を殺さない。

 だった。

 送信。

 画面に、既読の表示は出なかった。

 数秒。

 十秒。

 三十秒。

 返事はない。

「……届いてないのかな」

 出久が呟いた、その時。

 端末が震えた。

 新しいメッセージ。

 ――どうして?

 出久は、すぐに返信した。

 ――君が僕を助けようとしているから。

 返事は、すぐに届いた。

 ――僕は、君を助けるために、たくさんの人を殺した。

 出久の指が止まった。

 ――君を生かすために、何度も世界を壊した。

 ――君が死ぬたびに、世界をやり直した。

 ――君が僕を忘れるたびに、もう一度、君に会いに行った。

 ――そのたびに、僕は誰かを失った。

 出久は、息を呑んだ。

 メッセージは続く。

 ――僕は、もう一人の君だ。

 ――でも、君が知っている緑谷出久じゃない。

 ――僕は、君が選ばなかった未来だ。

 出久の胸が、強く痛んだ。

 選ばなかった未来。

 それは、どういう意味なのか。

 自分が選ばなかった道を歩んだ、もう一人の自分。

 もしそうなら。

 彼は、どんな人生を歩んできたのだろう。

 何を失ったのだろう。

 そして、なぜ。

 自分を救うために、そこまでしなければならなかったのだろう。

 出久は、返信した。

 ――君は、何を選んだの?

 しばらく、返事はなかった。

 そして。

 ――僕は、君を救うことを選んだ。

 その一文の後に、長い沈黙が続いた。

 やがて、次のメッセージが届く。

 ――そして、君を救うために、世界を犠牲にした。

 出久は、目を閉じた。

 胸の奥が、冷たくなっていく。

 もしも、それが本当なら。

 もう一人の自分は、世界を救おうとして世界を壊したのだ。

 出久は、ゆっくりと返信した。

 ――それでも、僕は君を殺さない。

 今度は、返事が早かった。

 ――どうして?

 出久は、画面を見つめた。

 そして、答えた。

 ――君も、誰かを救おうとしたんだろう?

 ――君が何をしたのか、まだ分からない。

 ――君がどれだけ間違えたのかも、分からない。

 ――でも、君が僕を救おうとしていることは分かる。

 ――だから、君を殺すことを、最初から答えにしたくない。

 送信。

 画面は、しばらく静かなままだった。

 やがて。

 ――……君は、いつもそうだ。

 出久は、息を止めた。

 ――いつも、そうやって僕を困らせる。

 ――君は、僕を救おうとする。

 ――君自身が、僕に救われることを知らないまま。

 次の瞬間。

 出久の部屋の照明が、消えた。

 端末の画面だけが光っている。

 その画面に、新しい文章が現れた。

 ――緑谷出久。

 ――対象個体との直接接触を開始します。

 ――残り時間:七十一時間四十二分。

 出久は、立ち上がった。

「……来るのか?」

 誰もいない部屋に向かって、問いかける。

 その瞬間。

 窓の外に、人影が立っていた。

 あり得ない。

 部屋は高層階にある。

 窓の外に、人が立てる場所などない。

 それでも。

 確かに、そこにいた。

 緑色の髪。

 見慣れた輪郭。

 自分と同じ顔。

 だが、その青年は、今の出久よりもずっと疲れた顔をしていた。

 青年は、窓越しに出久を見つめた。

 そして、口を動かした。

 声は聞こえない。

 だが、何を言ったのか。

 出久には分かった。

 ――ごめん。

 次の瞬間。

 青年の身体に、黒い亀裂が走った。

 その亀裂は、腕から肩へ、胸へ、首へと広がっていく。

 青年は、苦しそうに顔を歪めた。

 出久は、窓へ駆け寄った。

「待って!」

 青年が、首を横に振る。

 ――来るな。

 そう言っているように見えた。

 だが、出久は止まらなかった。

「君を、一人にしない!」

 その言葉を聞いた瞬間。

 青年の表情が、崩れた。

 泣きそうな顔だった。

 怒りでも、絶望でもない。

 長い間、誰かに言ってほしかった言葉を、ようやく聞いた者の顔だった。

 青年は、震える唇を動かした。

 そして、初めて。

 声が聞こえた。

『……そんなこと、言わないでくれ』

 その声は、出久自身の声だった。

『君にそんなことを言われたら……』

 青年の身体が、崩れ始めた。

『僕は……また、君を救いたくなる』

 黒い亀裂が、青年の全身を覆った。

『そして、また……』

 声が途切れる。

 青年は、最後に一度だけ、出久を見つめた。

『……世界を壊してしまう』

 その瞬間。

 青年の姿が消えた。

 窓の外には、何も残っていなかった。

 出久は、呆然と立ち尽くした。

 そして、気づいた。

 窓ガラスに、自分の姿が映っている。

 だが、その反射の中で。

 出久の背後に、もう一人の自分が立っていた。

 振り返る。

 誰もいない。

 もう一度、窓を見る。

 そこには、誰もいなかった。

 ただ、窓ガラスに、指で書かれたような文字が残っていた。

 ――君が僕を救ったら、君は僕になる。

 その下に、さらに一行。

 ――そして、僕が君になったら、世界は終わる。

 出久は、ゆっくりと目を閉じた。

 もう一人の自分は、ただの犠牲者ではない。

 ただの敵でもない。

 彼は、自分が知らない未来を生きた存在だ。

 そして、その未来の果てに、世界を壊すほどの何かを選んでしまった。

 だからこそ、彼は自分を殺してほしいと願っている。

 出久が、彼を救おうとすればするほど。

 世界は、危険に近づいていく。

 それでも。

 出久は、目を開いた。

「……それでも、僕は」

 拳を握る。

「君を、見捨てない」

 その言葉は、誰に聞かせるためでもなかった。

 自分自身への誓いだった。

 窓の外では、夜の街が輝いていた。

 誰も知らない。

 世界が、また一つ、崩壊へ近づいたことを。

 そして。

 世界を救うはずのヒーローが、世界を終わらせるかもしれない存在を、救おうとしていることを。

第五話・終幕 忘れられた名前

 同じ夜。

 雄英高校地下資料庫。

 相澤消太は、最後の一枚を見つめていた。

 それは、十三年前の死亡報告書に挟まれていた、薄い紙だった。

 表には何も書かれていない。

 裏にも何もない。

 ただ、光に透かすと、かすかな文字が浮かび上がった。

 相澤は、ライトを当てた。

 文字が現れる。

 ――記憶封印処理、完了。

 ――対象個体、緑谷出久。

 ――記憶保持者、零名。

 ――世界の整合性、回復。

 相澤は、息を呑んだ。

 記憶保持者、零名。

 誰も覚えていない。

 誰も、出久が死んだことを知らない。

 それによって、世界の整合性が回復した。

 ならば。

 今、記憶が戻り始めているということは。

 世界の整合性が、再び崩れ始めているということなのか。

 相澤は、紙を裏返した。

 そこに、小さな文字があった。

 ――ただし、一名の記憶保持者を確認。

 相澤の手が止まった。

 一名。

 誰も覚えていないはずなのに。

 一人だけ、覚えていた者がいる。

 その名前は。

 ――緑谷出久。

 相澤は、目を見開いた。

「……違う」

 紙の下に、さらに文字があった。

 ――対象個体は、自身の死亡を認識しています。

 ――対象個体は、世界の再構築を拒否しています。

 ――対象個体は、記憶封印処理に抵抗しています。

 ――対象個体は、存在の消失を受け入れていません。

 相澤は、震える指で紙を握った。

 出久は、忘れられていた。

 だが、出久自身は、忘れていなかった。

 自分が死んだことを。

 自分が消えようとしていることを。

 そして、誰かが自分を救おうとしていることを。

 相澤は、ゆっくりと顔を上げた。

「……緑谷」

 その瞬間、資料庫のモニターが一斉に点灯した。

 黒い画面。

 白い文字。

 ――第零回観測記録。

 ――対象個体:緑谷出久。

 ――死亡確認。

 ――再構築処理:失敗。

 ――記憶封印処理:失敗。

 ――存在消失処理:失敗。

 そして、最後に。

 ――対象個体は、現在も生存しています。

 相澤は、画面を見つめた。

 その下に、新しい文章が現れた。

 ――再構築まで、残り七十一時間。

 ――介入者の行動を監視しています。

 ――救済行動の反復を確認しています。

 ――対象個体の選択を待機しています。

 最後の一行。

 ――今度こそ、どちらを殺しますか?

 画面が消えた。

 地下資料庫は、再び静寂に包まれた。

 相澤は、しばらく動かなかった。

 やがて。

 彼は、静かに報告書を閉じた。

「……誰も殺させるものか」

 それは、教師としての誓いだった。

 十三年前に果たせなかった誓い。

 そして、今度こそ果たさなければならない誓い。

 たとえ、世界そのものが敵になろうとも。

 生徒を救うために。

 そして。

 生徒が、自分自身を救えるようになるために。

 相澤は、資料庫を後にした。

 その背後で。

 封印された報告書の一番最後のページが、ひとりでに開いた。

 そこには、今まで存在しなかった署名が記されていた。

 ――報告書作成者。

 ――緑谷出久。

 その下に、もう一つ。

 ――死亡確認者。

 ――緑谷出久。

 そして、最後の一文。

 ――僕は、僕を殺した。

     *

第二章 第六話「十三年前の死亡報告書」――完。

次話 第七話「僕を殺した僕」

 出久は、自分自身が自分を殺したという記録を知る。

 だが、記録が意味するのは、単純な自殺ではなかった。

 十三年前、緑谷出久は二人いた。

 一人は、生き残るために世界を拒んだ少年。

 もう一人は、彼を生かすために世界を犠牲にした少年。

 二人は、同じ願いを持っていた。

 ――誰も死なせたくない。

 しかし、二人が選んだ方法は、正反対だった。

 そして今。

 再構築まで、残り七十一時間。

 出久は、もう一人の自分を救おうとする。

 相澤は、十三年前の選択を覆そうとする。

 死神は、世界の観測者に逆らい始める。

 それぞれの願いが交錯する中、雄英高校に一人の訪問者が現れる。

 その人物は、出久を見るなり、泣き崩れた。

 そして、こう告げる。

 ――「あなたは、私の息子を二度殺したんです」

 その女性の手には、十三年前に死亡した少年の写真が握られていた。

 写真に写っていたのは。

 緑谷出久ではなかった。

 

――続・僕は、僕を殺した。

「……今度こそ、どちらを殺しますか?」

画面に表示された文字を、相澤消太は黙って見つめていた。

雄英高校地下、特別記録保管室。

窓はない。

厚い隔壁と複数の認証装置に守られたこの部屋は、通常の情報システムから切り離されている。外部ネットワークとの接続はなく、電源系統も独立していた。

それなのに。

誰も操作していない端末が、勝手に起動した。

そこに映し出されたのは、十三年前の死亡報告書。

緑谷出久。

死亡推定時刻、午前二時十三分。

死亡原因、記録欠落。

遺体、未回収。

現場、再構築により消失。

そして最後に添えられた、手書きの一文。

『僕は、僕を殺した。』

相澤は、ゆっくりと息を吐いた。

「……ふざけるな」

低い声だった。

怒りを押し殺した声。

「誰が、誰を殺したんだ」

端末は答えない。

代わりに、画面が切り替わった。

『対象個体の選択が必要です』

その下に、二つの項目が現れる。

『対象A:緑谷出久』

『対象B:緑谷出久』

同じ名前。

同じ顔写真。

同じ生年月日。

違うのは、写真の下に記された識別番号だけだった。

対象A。

生存状態――暫定。

対象B。

死亡状態――確定。

相澤は椅子から立ち上がった。

「……二人いるのか」

その言葉を口にした瞬間、胸の奥が軋んだ。

違う。

二人いる、というだけではない。

彼は、この光景を知っている。

十三年前。

白い部屋。

赤い警告灯。

耳をつんざく警報音。

床に広がる血。

腕の中で冷たくなっていく少年。

そして――。

『先生、早く!』

子供の声が、記憶の底から蘇った。

『そっちの僕を連れて行って!』

誰の声だ。

誰が、そんなことを言った。

『俺が残る!』

違う。

あれは、誰かを助けるための声だった。

誰かを置き去りにするための声ではなかった。

相澤は額を押さえた。

「……思い出せない」

思い出せないことが、恐ろしかった。

自分は教師だ。

生徒を守るためなら、何度でも危険に飛び込んできた。

それなのに。

十三年前、自分は生徒の死亡を確認した。

その記録に、自分の署名がある。

さらに、彼はその死を忘れないと誓った形跡まで見つけていた。

なのに今まで、何一つ覚えていなかった。

「緑谷……」

名前を呼ぶ。

今、雄英の校舎にいる緑谷出久。

自分の知る、あの少年。

いや、もう少年ではない。

かつて世界を救った男。

誰よりも多くのものを背負い、それでも他人に手を伸ばそうとする男。

彼が今も生きていることを、相澤は疑っていない。

疑いたくもない。

だが、もし十三年前に死んだのも、同じ緑谷出久だったのなら。

今、自分の前にいる彼は何者なのか。

その答えを考えようとした瞬間、端末が再び明滅した。

『警告』

『記憶の復元を検知』

『再構築までの残り時間を更新します』

画面に数字が現れる。

残り七十時間五十九分。

相澤は数字を睨んだ。

「再構築……」

その言葉を、初めて聞いたわけではない。

世界が再構築される。

歴史が書き換えられる。

記憶が消される。

そして、人が存在しなかったことにされる。

これまでの異常現象は、すべてそこにつながっているのかもしれない。

だが。

「世界をやり直すために、生徒を殺す?」

相澤は、端末の電源ケーブルを引き抜いた。

画面は消えなかった。

「ふざけるな。そんな選択を、教師に押しつけるな」

暗闇の中で、画面だけが白く光っていた。

そして最後に、文字が浮かび上がる。

『あなたは、十三年前にも同じことを言いました』

相澤の手が止まった。

『だから、あなたは彼を殺しました』

その瞬間。

相澤の脳裏に、鮮明な映像が蘇った。

白い部屋。

二人の少年。

そして、自分の手に握られた拳銃。

「――っ!」

相澤は、反射的に後ずさった。

拳銃など持っていない。

ここは雄英の記録保管室だ。

それでも、指先には確かな感触が残っていた。

冷たい金属。

引き金。

震える手。

そして、目の前に立つ緑谷出久。

いや。

緑谷出久と同じ顔をした、もう一人の少年。

少年は泣いていた。

「先生」

その声を、相澤は知っていた。

「お願いです」

少年は、血に濡れた手で相澤の服をつかんだ。

「僕を殺してください」

相澤は、目を見開いた。

「……違う」

声が震える。

「俺は……お前を殺していない」

だが、記憶の中の自分は答えなかった。

ただ、泣いている少年を見つめていた。

少年はもう一度、言った。

「僕を殺してください」

「どうしてだ」

「このままだと、みんな死んじゃうから」

「何を言っている」

「僕がいる限り、世界はやり直されるんです」

少年は、泣きながら笑った。

その表情が、あまりにも見覚えのあるものだったから。

相澤は、胸が張り裂けそうになった。

「だから……僕を殺してください」

「そんなことをして、何が変わる!」

「変わります」

少年は、はっきりと言った。

「今度こそ、僕じゃない僕が生き残れる」

そこで、記憶は途切れた。

「……っ、くそ」

相澤は壁に手をついた。

今のは幻覚か。

それとも、封じられていた記憶か。

判断できない。

だが、一つだけ分かった。

十三年前。

自分は、二人の緑谷出久のうち、片方を生かそうとしていた。

そしてもう片方は、自らの死を望んでいた。

なぜ。

何が起きた。

何を守るために。

相澤は、再び端末を見た。

画面は、いつの間にか別の記録を表示していた。

『第零回観測記録』

『閲覧条件:対象個体の存在証明』

『対象個体が閲覧を拒否した場合、記録は自動消去されます』

その下に、見慣れた名前があった。

緑谷出久。

そして、もう一つ。

緑谷出久――死亡後の記録。

相澤は、唇を噛んだ。

「……今度は、逃がさない」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

世界か。

十三年前の自分か。

それとも、今もどこかで出久を殺そうとしている、もう一人の出久か。

相澤は端末の画面を撮影し、記録を複製した。

今度は消される前に。

今度は忘れさせられる前に。

すべてを知る。

そして、二度と同じ選択をしない。

その決意を胸に、相澤は保管室を出た。

廊下の先には、まだ朝の光が差し込んでいた。

世界は、何事もなかったかのように動いている。

生徒たちが登校し、教師たちが授業の準備をし、ニュースが死者の帰還を報じている。

人々は今日も生きている。

だからこそ、相澤は思った。

もし十三年前、自分が守ったものが世界そのものだったのなら。

もしその代償として、一人の少年を忘れなければならなかったのなら。

今度は、その世界のほうを疑ってやる。

1 存在しない母親

同じ頃。

雄英高校の正門前に、一人の女性が立っていた。

年齢は五十代半ばほど。

黒いコートを着て、両手で古びた封筒を握りしめている。

髪には白いものが混じり、目元には深い疲労が刻まれていた。

彼女は正門を見上げていた。

かつて、ここで多くの英雄たちが学んだ。

かつて、ここで一人の少年が世界を救った。

そして十三年前。

彼女の息子は、ここへ来ることなく死んだ。

少なくとも、彼女が知る歴史では。

「……緑谷、出久」

女性は、その名前を口にした。

すると、封筒の中から一枚の写真が滑り落ちた。

彼女は慌てて拾い上げた。

写真には、二人の少年が写っていた。

一人は、緑色の髪。

もう一人も、緑色の髪。

二人は肩を並べて立っていた。

顔立ちはよく似ている。

しかし、目の色も、表情も、微妙に違う。

片方は、困ったように笑っていた。

もう片方は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

写真の裏には、日付が記されている。

十三年前。

その下に、女性の筆跡で書かれた文字。

『あなたたちが、二人とも帰ってきますように』

女性は写真を胸に押し当てた。

「……ごめんね」

誰に謝っているのか。

通り過ぎる人々には分からない。

「お母さん、遅かったね」

そんな声が聞こえた気がした。

女性は、顔を上げた。

そこには誰もいない。

ただ、正門の向こうに、緑色の髪の男が立っていた。

緑谷出久。

ニュースで何度も見た顔。

かつて世界を救った英雄。

今も、人々に希望を与え続けている男。

女性は、その顔を見た瞬間、息を呑んだ。

そして。

「……ああ」

足元が崩れた。

「あなたは……」

女性は、写真を握りしめたまま、その場に膝をついた。

涙が溢れた。

「あなたは、私の息子を……」

声が出ない。

言葉にすれば、すべてが本当になってしまう。

十三年間、必死に否定してきたこと。

誰も信じてくれなかったこと。

何度も夢に見たこと。

それでも、彼女は言った。

「あなたは、私の息子を二度殺したんです」

2 知らない名前

「……え?」

出久は、女性の前で立ち尽くした。

何を言われたのか、理解できなかった。

自分が。

彼女の息子を。

二度、殺した。

女性は、出久を睨んでいた。

憎悪だけではなかった。

怒りだけでもない。

その目には、どうしようもない悲しみがあった。

長い時間をかけて、何度も何度も同じ悲しみを味わわされた人間の目だった。

「待ってください」

出久は、ゆっくりと膝をついた。

「僕は……あなたの息子さんを知りません」

「知っているでしょう」

「いいえ。本当に……」

「知っているでしょう!」

女性の声が、正門前に響いた。

周囲の人々が振り返る。

警備員が駆け寄ろうとするが、女性はそれを拒んだ。

「あなたは、あの子の顔を知っている。あの子の声を知っている。あの子が何を恐れて、何を望んでいたかも、知っている!」

「……っ」

「それなのに、あなたは二度も……!」

女性は言葉を詰まらせた。

その手が震えている。

「一度目は、世界を救うためだった」

出久の背筋が凍った。

「二度目は……」

女性は、彼を見た。

「あなた自身を救うためだった」

出久の呼吸が止まった。

その言葉は、初めて聞くはずだった。

なのに。

胸の奥が、強く反応した。

痛み。

罪悪感。

そして、どうしても思い出せない誰かの顔。

「……誰なんですか」

出久は、震える声で尋ねた。

「あなたの息子さんは……誰なんですか」

女性は、封筒からもう一枚の紙を取り出した。

古い死亡診断書だった。

用紙の端は変色し、何度も開かれた跡がある。

記載された名前は、ほとんど黒く塗りつぶされていた。

だが、完全には消えていない。

残された文字を、出久は読んだ。

緑谷――。

そこから先は、黒い線に覆われていた。

女性は言った。

「私の息子は、緑谷出久ではありません」

出久は、息を呑んだ。

「あなたと同じ顔をした、もう一人の子です」

周囲の音が遠ざかった。

「十三年前、あの子は死にました」

女性は、出久の手に死亡診断書を押しつけた。

「そしてあなたは、その子が生きていた世界を、二度も壊した」

3 消えた少年の名前

女性が語る内容は、あまりにも異常だった。

十三年前。

彼女には、二人の息子がいた。

血のつながった息子と、もう一人。

もう一人の子は、ある日突然、家に現れた。

彼女の息子と同じ顔をしていた。

同じ声で話した。

けれど、性格は違った。

片方はよく笑い、片方は笑うことが苦手だった。

片方は人に助けを求めることができた。

片方は、どんなにつらくても、自分一人で抱え込もうとした。

それでも、二人は兄弟のように暮らしていた。

「最初は、夢だと思いました」

女性は言った。

「だって、あの子は……死んでいたはずだったから」

出久の指が強張る。

「死んでいた?」

「ええ。少なくとも、私たちがいた世界では」

女性は遠くを見るような目をした。

「ある夜、あの子が帰ってきたんです。血だらけで、泣いていて……もう一人の自分を連れていました」

「もう一人の……自分」

「その子は言いました。『この子を、僕の弟にしてください』って」

出久は何も言えなかった。

「私は、何が起きたのか分かりませんでした。でも、あの子が必死だったから。もう一人の子も、帰る場所がないように見えたから……二人とも、私の子として迎えました」

女性は、写真を見つめた。

「しばらくは、幸せだったんです」

その一言が、出久の胸に刺さった。

「二人でご飯を食べて、学校の話をして、喧嘩をして……くだらないことで笑って。あの子たちは、普通の子供として暮らしていました」

彼女は、そこで言葉を切った。

「でも、もう一人の子は、少しずつ変わっていった」

出久の脳裏に、あの白い部屋が浮かぶ。

小さな自分。

泣いていた自分。

『おかえり』

『ずっと待ってたよ』

「夜になると、うなされるようになりました。誰かの名前を呼ぶんです。先生、かっちゃん、お茶子ちゃん……それから、知らない人たちの名前も」

出久は、息を止めた。

「そして、いつも最後に同じことを言いました」

女性は、震える声で口にした。

「『今度こそ、間に合わせないと』って」

それは、あの謎の男が言っていた言葉と同じだった。

『もう、時間がない』

『今度こそ……間に合わせないと』

出久の脳内で、点と点がつながり始める。

だが、つながった先にあるものは、まだ見えない。

「その子は、何をしようとしていたんですか」

出久が尋ねると、女性は首を振った。

「分かりません。ただ……」

彼女は、出久を見つめた。

「その子は、あなたを助けようとしていました」

4 最初の殺人

「あなたを助けるために、あの子は何度も世界をやり直した」

女性の声が、静かに響いた。

「一度目は、あなたが死んだ世界でした」

出久の心臓が、嫌な音を立てた。

「二度目は、あなたが生き残った代わりに、ほかの人たちが死んだ世界」

女性は、唇を噛んだ。

「三度目は……私たちが、あなたのことを忘れた世界」

出久は、首を横に振った。

「そんな……」

「あなたは、覚えていないでしょうね」

「……」

「でも、あの子は覚えていました。全部」

女性は、死亡診断書を見下ろした。

「誰が死んだのか。誰が生き残ったのか。何度やり直しても、何を選んでも、結局誰かが失われることを」

彼女は、出久の手を握った。

「だから、あの子は決めたんです」

その手は、驚くほど冷たかった。

「あなたを殺すことを」

出久の瞳が揺れた。

「……僕を?」

「ええ」

「でも、それなら……どうして、僕を助けようと……」

「あなたを殺せば、あなたを救えると思ったから」

女性は、涙をこぼした。

「あなたが存在しなければ、世界はあなたを中心にやり直されなくなる。あなたが死ねば、もう一人のあなたも、何度も世界を壊さずに済む。あの子は、そう信じたんです」

出久は言葉を失った。

彼女は続けた。

「でも、あの子は最後まで、あなたを殺せなかった」

「……」

「あなたが泣いたから」

その言葉と同時に、出久の視界が白く染まった。

白い部屋。

幼い自分。

自分と同じ顔をした少年。

少年は、目の前で泣いていた。

『どうして、そんなことをするの?』

『……ごめんね』

『僕たち、友達じゃなかったの?』

『ごめんね』

『僕を殺したら、君はどうなるの?』

少年は答えなかった。

ただ、出久の頬に手を伸ばした。

『僕は、君を救いたかった』

『だったら、一緒に生きようよ』

その瞬間、少年は笑った。

悲しそうに。

本当に、悲しそうに。

『……それができたら、よかったね』

白い世界に、黒い亀裂が走る。

少年の身体が、崩れていく。

『ごめんね』

『ごめんね、出久』

そして――。

『僕は、僕を殺した』

「――っ!」

出久は、正門前で膝をついた。

呼吸ができない。

胸が痛い。

頭の中に、知らない記憶が流れ込んでくる。

自分と同じ顔をした少年。

少年の手。

少年の声。

そして、少年が最後に見せた笑顔。

「……違う」

出久は、首を振った。

「違う……僕は……」

何が違うのか。

分からない。

けれど、分かってしまったことがある。

自分は、彼を知らないのではない。

忘れているのだ。

5 母親の願い

女性は、出久を責めるように見つめていた。

けれど、その目に宿る感情は、憎しみだけではなかった。

「私は、あなたを憎みたかった」

彼女は言った。

「十三年間、ずっと」

出久は、顔を上げられなかった。

「あなたが世界を救ったと聞くたびに、思いました。どうして、あの子は救われなかったのか。どうして、あの子だけが死ななければならなかったのか」

女性は、涙を拭った。

「でも、あの子は……最後まで、あなたを憎んでいなかった」

出久の指が震える。

「あなたを救いたいと言っていた。あなたが生きているなら、それでいいと……そう言っていたんです」

「……」

「私は、そんなあの子が許せなかった」

女性は、出久の胸元をつかんだ。

「どうして、自分の命を大切にしなかったの。どうして、あなたばかりを救おうとしたの。どうして、私のところに帰ってきてくれなかったの!」

彼女の声は、悲鳴に変わった。

「私は、あなたを責めたいんじゃない!」

出久は、目を見開いた。

「ただ……」

女性は、彼の服を握りしめたまま、崩れるように泣いた。

「ただ、あの子の名前を思い出したいんです」

その言葉に、出久は息を呑んだ。

名前。

そうだ。

彼女は、息子の名前を口にしていない。

口にできないのか。

それとも。

「……名前を、忘れたんですか」

女性は、ゆっくりとうなずいた。

「最初は、覚えていました。毎日呼んでいました。あの子の名前を呼んで、食事を作って、学校に送り出して……」

彼女は、自分の胸を押さえた。

「でも、ある日、呼べなくなったんです」

「……」

「口を開いても、声が出ない。紙に書こうとしても、文字が消える。写真を見ても、名前のところだけが思い出せない」

女性は、出久を見つめた。

「それでも、私は忘れたくなかった」

彼女の声が震える。

「だから、何度も書きました。何度も呼びました。誰も信じてくれなくても、あの子がいたことだけは、絶対に忘れないと決めたんです」

出久は、彼女の手を握った。

「……僕が、思い出します」

女性は、目を見開いた。

「何を?」

「あなたの息子さんのことを」

「あなたは……」

「僕が何をしたのか、まだ分かりません。どうして忘れているのかも、分かりません」

出久は、震えながらも彼女を見つめた。

「でも、あなたが忘れたくない人を、僕まで忘れたままにはしたくない」

その瞬間。

女性の持っていた写真が、淡い緑色の光を放った。

写真の裏側に、文字が浮かび上がる。

黒く塗りつぶされていた部分。

消された名前の痕跡。

一文字。

もう一文字。

だが、三文字目が浮かび上がる直前、写真に黒い亀裂が走った。

「――っ!」

出久は、とっさに写真を押さえた。

黒い霧が、紙の表面から染み出してくる。

女性が悲鳴を上げた。

「いや! やめて! お願い、あの子をまた奪わないで!」

黒い霧は、写真の中の少年の顔を覆い始めた。

出久は、写真を両手で包み込んだ。

「やめろ!」

緑色の光が弾ける。

黒い霧が、わずかに後退した。

その瞬間、出久の頭の中に、知らない声が響いた。

『記録されていない個体への接触を確認』

『記憶の復元を停止してください』

『対象個体の存在は、世界の安定性を損ないます』

出久は、写真を握りしめた。

「……その子が存在したことで、世界が壊れたとしても」

声が震える。

「その子が生きていたことまで、なかったことにするな!」

黒い霧が、激しく渦巻いた。

『対象個体は、すでに死亡しています』

「だから何だ!」

出久は叫んだ。

「死んだら、忘れられなきゃいけないのか!」

その声に、女性が顔を上げた。

「死んだ人間は、誰かの記憶の中にしか残れないことがある!」

出久の目から、涙がこぼれた。

「だったら、その記憶まで奪うな!」

緑色の光が、黒い霧を押し返した。

写真の亀裂が止まる。

そして。

裏面に、文字が一つだけ残った。

『零』

名前ではない。

けれど、それは確かに、何かの手がかりだった。

黒い霧は消えた。

女性は、写真を胸に抱きしめた。

「……ありがとう」

彼女は、涙を流しながら言った。

「ありがとう、出久くん」

その言葉を聞いた瞬間。

出久の胸の奥で、何かが砕けた。

『出久くん』

その呼び方。

その声。

彼は、知っている。

十三年前。

白い部屋の中で。

誰かが、自分をそう呼んでいた。

6 記録されていない十三年

その夜。

雄英高校の地下保管室では、相澤と塚内が、発見された記録の解析を続けていた。

「……これを見てください」

塚内が、新たな画面を表示した。

死亡報告書の添付資料。

通常のシステムでは開けない形式だったが、相澤が撮影した画像を解析したところ、埋め込まれていた識別情報が見つかった。

『第零回観測記録』

『対象個体:未登録』

『観測開始時刻:十三年前』

『観測終了時刻:未確定』

そして、最後の項目。

『観測対象との関係性』

画面が明滅する。

『母子』

塚内は、息を呑んだ。

「母親がいる……?」

「さっき来た女性のことか」

相澤は、画面を見つめた。

「いや、待て」

彼は記録を拡大した。

そこには、もう一つの項目があった。

『母子関係の確定条件』

『対象個体が、母親によって認識されていること』

塚内は眉をひそめた。

「どういう意味です?」

相澤は、答えなかった。

だが、その意味は分かり始めていた。

この世界では、存在が記録によって管理されている。

名前。

戸籍。

記憶。

歴史。

そして、人と人との関係。

それらがすべて書き換えられるなら。

母親が息子を息子として認識できなくなったとき、その子は本当に存在しなくなるのか。

いや。

もっと恐ろしい可能性がある。

息子が存在しなかったことにするために、母親の記憶そのものが書き換えられている。

「……塚内」

「はい」

「十三年前の緑谷の記録を、全部洗い直せ」

「もう一人の緑谷についてですか?」

「それだけじゃない」

相澤は、画面の端に表示された項目を指した。

『関係者記憶封印』

そこには、複数の名前が並んでいた。

相澤消太。

オールマイト。

緑谷出久。

そして、他にも多数。

「こいつら全員が、何かを忘れている」

塚内は顔を曇らせた。

「もし、その記憶を戻したら……」

「世界が再構築される可能性がある」

相澤は、はっきりと言った。

「だが、記憶を封じたままでも、いずれ同じことが起きる」

彼は画面を閉じた。

「だったら、こっちから真相を暴く」

そのとき、端末が再び起動した。

二人は同時に振り返った。

新しい記録が表示されている。

『第零回観測記録』

『対象個体の記憶復元を検知』

『関係者の記憶復元を検知』

『世界再構築までの残り時間を更新』

数字が変わる。

残り六十六時間。

相澤は、拳を握った。

「……時間が縮んでいる」

塚内は、画面を見つめた。

「出久くんが思い出すほど、世界の再構築が早まる……?」

「あるいは」

相澤は、低く言った。

「世界が、思い出させないために急いでいる」

画面に、新しいメッセージが現れた。

『介入者を確認』

『対象個体の母親による認識を検知』

『未登録個体の存在安定性が上昇』

『再構築計画に遅延が発生』

相澤は目を細めた。

「……母親が、息子を覚えているからか」

画面は、さらに文字を表示する。

『未登録個体の名称を確定してください』

『名称が確定した場合、対象個体の存在履歴が復元されます』

『ただし、名称の確定は、観測記録の完全開示を引き起こします』

最後に、一文。

『完全開示後、緑谷出久の死亡記録が再確定されます』

相澤は、ゆっくりと立ち上がった。

「……そういうことか」

名前を取り戻せば、少年の存在を取り戻せる。

しかし、その代わりに、出久自身の死が確定する。

二人の出久。

一人の存在を取り戻せば、もう一人が消える。

それが、この世界に仕掛けられた選択なのだ。

「塚内」

「はい」

「緑谷に、今のことを伝えるな」

「しかし……」

「本人が知らないまま決められるのは、もう終わりにする」

相澤は、端末を睨みつけた。

「だが、選択肢を突きつけるのは、俺たちが真相を確かめてからだ」

彼は、静かに続けた。

「今度こそ、あいつに選ばせる」

その言葉を聞いたかのように、画面が明滅した。

『選択権は、対象個体にありません』

相澤は、笑った。

笑えるような状況ではなかった。

それでも、彼は笑った。

「だったら、教えてやる」

画面に向かって、言い放つ。

「俺たちの生徒に、そんなものを押しつける権利は、お前にはない」

画面が暗転した。

だが、その直前。

一瞬だけ、別の文字が浮かび上がった。

『先生』

『今度は、僕を忘れないで』

相澤の表情が凍りついた。

その声は。

十三年前、腕の中で死んでいった少年の声と、同じだった。

7 南極の扉

南極大陸。

氷の下、地図には存在しない空間。

そこには、扉があった。

巨大な扉ではない。

人間が一人、通り抜けられる程度の大きさ。

表面には無数の文字が刻まれている。

そのほとんどは、人間の言語ではなかった。

ただ、中央に刻まれた名前だけは、読むことができた。

緑谷出久。

扉の前に、死神が立っていた。

彼女は、手を伸ばしかけて、止めた。

「……また、あなたなのね」

返事はない。

扉の向こうから、かすかな音が聞こえた。

誰かが泣いている。

幼い子供の泣き声。

死神は目を閉じた。

十三年前。

彼女は、ここで目覚めた。

世界に死者が戻る、そのずっと前。

誰も知らない場所で、誰にも知られない記録を見つけた。

死んだはずの少年。

生きているはずの少年。

同じ名前。

同じ顔。

違う未来。

そして、何度も繰り返される世界の終わり。

彼女は、その記録を見ていた。

見ていることしかできなかった。

だが、今は違う。

彼女は、扉に手を触れた。

「あなたは、誰なの?」

その瞬間、扉の向こうから声がした。

『……お母さん』

死神の表情が変わった。

それは、彼女の知らない声だった。

だが、なぜか胸が痛んだ。

『お母さん、どこ?』

小さな声。

不安そうな声。

置いていかれた子供の声。

死神は、扉に額を押し当てた。

「……私は、あなたのお母さんじゃない」

『……そっか』

声が、少しだけ沈んだ。

『ごめんなさい』

死神は目を閉じた。

その謝罪を、彼女は知っている。

自分が何かを望むたび、誰かが謝る。

自分が誰かを救おうとするたび、誰かが自分のせいだと思い込む。

そんな世界を、彼女は何度も見てきた。

「謝らなくていい」

死神は言った。

「あなたが、何をしたのか。私はまだ知らない」

『……うん』

「あなたが、何者なのかも」

『……うん』

「でも」

彼女は、扉に手を置いた。

「あなたが、ここにいることは分かった」

扉の向こうが、静かになった。

「だから、私はあなたを忘れない」

その瞬間、氷の下に低い振動が走った。

扉に刻まれた文字が、一斉に光る。

『観測端末による規定外の認識を検知』

『未登録個体の存在安定性が上昇』

『観測者の行動が、再構築計画に影響しています』

死神は、顔を上げた。

「……観測者?」

彼女は、自分が何を意味する存在なのか、完全には理解していない。

だが、分かったことが一つある。

自分は、ただ死者を呼び戻したのではない。

誰かが消される世界に、扉を開けてしまったのだ。

そして、その扉の向こうには。

世界が忘れたがっている少年がいる。

「……待っていて」

死神は、静かに言った。

「今度は、私があなたを探すから」

その瞬間、扉の向こうから、小さな声が返ってきた。

『……ありがとう』

死神は、笑おうとした。

けれど、うまく笑えなかった。

なぜなら、その声のすぐ後ろから。

もう一つの声が聞こえたからだ。

『死神』

低く、深く、どこまでも遠い声。

人間の声ではない。

言葉という形式を借りて、意識に直接触れてくる何か。

『あなたの役割は、観測です』

死神は振り返らなかった。

『対象個体への情動的介入は、規定外です』

「……そう」

『対象個体の名称を復元してはなりません』

死神は、扉を見つめた。

「どうして?」

沈黙。

『名称が復元されれば、死亡記録が確定します』

「それは、誰のため?」

『世界の安定のためです』

死神は、初めてその声に問い返した。

「その世界に、あの子はいるの?」

答えはなかった。

「その世界は、あの子を覚えているの?」

沈黙。

「その世界は、あの子を救ったの?」

返事はない。

死神は、静かに目を閉じた。

「……なら、私は世界の安定より、あの子を選ぶ」

その瞬間。

氷の下で、巨大な何かが動いた。

遠い宇宙のどこかで、無数の星が一斉に明滅した。

観測記録に、新しい項目が追加される。

『端末個体の自律的選択を確認』

『予測外の選択を確認』

『再構築計画の再評価を開始』

そして。

『対象個体――緑谷出久』

『死亡記録、再確定処理を保留』

死神は、初めて笑った。

「……まだ、終わっていないのね」

扉の向こうで、少年が答えた。

『うん』

『まだ、終わってない』

8 眠れない夜

その夜、出久は眠れなかった。

ベッドに横になっても、目を閉じるたびに、白い部屋が浮かんでくる。

自分と同じ顔をした少年。

少年の泣き顔。

少年の笑顔。

そして、最後の言葉。

『僕は、僕を殺した』

出久は、起き上がった。

机の上には、女性から預かった写真の複製がある。

原本は彼女が持ち帰った。

しかし、出久は、写真を見た瞬間に浮かび上がった『零』という文字を記録していた。

零。

ゼロ。

始まりであり、何もないことを示す数字。

第零回観測記録。

そして、存在しない少年。

「……君は、誰なんだ」

出久は、写真に問いかけた。

答えはない。

それでも、彼は目をそらさなかった。

「僕は、君を知らない」

自分の言葉が、部屋に響く。

「でも、知らないままでいたくない」

彼は、机の引き出しからノートを取り出した。

そこには、最近起きた異常現象が書き込まれている。

死者の帰還。

存在しない男。

十三秒間の空白。

名前を失った男。

写真に写らない一人。

十三年前の死亡報告書。

一つ一つを、線でつないでいく。

そして、その中心に自分の名前を書いた。

緑谷出久。

その隣に、もう一つの名前を書くための空白を残す。

「……今度は、僕が探す番だ」

そう呟いたとき。

スマートフォンが震えた。

非通知。

いや、発信元そのものが存在しない。

画面には、短いメッセージが表示されていた。

『思い出してくれて、ありがとう』

出久は、息を呑んだ。

続けて、もう一通。

『でも、まだ思い出さないで』

そして、三通目。

『君があの子の名前を思い出したら、僕は君を殺さなければならなくなる』

出久の指が止まった。

最後に、四通目が届いた。

『それでも、君は僕を探すの?』

出久は、しばらく画面を見つめていた。

それから、ゆっくりと返信を打った。

『うん』

送信。

一秒後。

『どうして?』

出久は、迷わず答えた。

『君が、僕を救おうとしてくれたから』

少し間があった。

『僕は、君を救いたかった』

『でも、僕は失敗した』

『何度やり直しても、誰かが死んだ』

『君を生かそうとするたび、世界が壊れた』

出久は、画面を見つめた。

『だから、もう一度だけ、やり直す』

『今度こそ、君を殺す』

出久は、目を閉じた。

十三年前。

自分と同じ顔をした少年が、何を考えていたのか。

なぜ、自分を殺そうとしたのか。

そして、なぜ自分は彼を殺したのか。

まだ、何も分からない。

だが、彼の言葉から一つだけ分かったことがある。

もう一人の出久は、今も苦しんでいる。

誰かを救おうとするたび、世界を壊してしまう。

誰かを生かそうとするたび、別の誰かを失ってしまう。

その繰り返しの中で、彼は一つの結論にたどり着いた。

自分を殺せば、すべてが終わる。

それが正しいと、信じ込んでしまった。

出久は、返信した。

『君が僕を殺そうとするなら、僕は君を止める』

すぐに返事が来た。

『僕を殺さないと、世界が終わる』

出久は、画面を握りしめた。

『それでも』

そして、もう一度打ち込んだ。

『僕は、君を殺さない』

送信。

今度は、長い沈黙が続いた。

やがて、最後のメッセージが届く。

『……どうして、君はいつもそうなんだ』

出久は、泣きそうになった。

その言葉は、あまりにも懐かしかった。

まるで、何度も何度も、自分に向けられてきた言葉のようだった。

『僕が、君を救いたいから』

返信した直後、画面が暗くなった。

そして、聞こえた。

スマートフォンからではない。

部屋の外からでもない。

頭の中に直接響く声。

『……僕を、忘れないで』

出久は、顔を上げた。

窓の外。

夜の街。

その向こうに広がる空に、黒い亀裂が走っていた。

十三年前の死亡報告書。

そこに記された二人の緑谷出久。

一人は、生きている。

もう一人は、死んでいる。

だが、世界はそのどちらも、正しく記録できていない。

出久は、窓に手を伸ばした。

「……忘れない」

声に出して、誓った。

「今度こそ、絶対に」

その瞬間、空の亀裂が一斉に光った。

そして世界のどこかで。

十三年前に死んだはずの少年が、ゆっくりと目を開けた。

少年の目の前には、白い部屋。

そこには、誰もいない。

机も、椅子も、窓もない。

ただ、正面の壁に、一つの文字が刻まれていた。

『零』

少年は、その文字を見つめた。

そして、泣きながら笑った。

「……やっと、思い出してくれたんだね」

彼の身体には、黒い亀裂が走っていた。

その亀裂の向こうに、無数の星が見える。

少年は立ち上がった。

「だったら、今度こそ……」

彼は、自分の胸に手を当てた。

「今度こそ、君を救う」

その背後で、巨大な影が動いた。

『観測対象の再構築を開始します』

少年は、振り返らなかった。

「……違う」

彼は、静かに言った。

「今度は、僕が選ぶ」

白い部屋に、黒い亀裂が広がっていく。

その亀裂の向こうから、無数の声が響いた。

『再構築を開始します』

『対象個体の存在を確定します』

『死亡記録を更新します』

『観測回数を更新します』

そして最後に。

『観測回数――零』

少年は、目を閉じた。

「……おかえり、出久」

白い世界が、崩れ始めた。

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