一 予測どおりの朝
「ミリオ。右足を半歩、後ろへ」
「はい?」
「いいから、動かしなさい」
通形ミリオは、言われたとおりに右足を半歩後ろへ引いた。
直後。
彼の目の前を、サー・ナイトアイが投げた紙束が通過した。
紙束は壁に貼られた標的の中心へ、寸分違わず突き刺さる。
「……おお! さすがナイトアイ!」
「感心している暇があるなら、先ほどの訓練の反省をしなさい」
「反省ならしました! 紙束を避けるとき、もうちょっと大きく動けばよかったです!」
「その場合、二つ目の紙束で額を撃ち抜かれていました」
「えっ、二つ目もあったんですか!?」
「三つ目もありました」
「多すぎません!?」
「実戦の敵は、君の都合に合わせて一回ずつ攻撃してくれるわけではありません」
ナイトアイは眼鏡の位置を直した。
その表情はいつもどおり、厳格だった。
ミリオは頭を掻きながら、にこりと笑う。
「いやあ、勉強になります!」
「反省している顔には見えませんね」
「僕、反省するときも笑顔なんです!」
「知っています。だから余計に困るのです」
トレーニングルームに、ため息が落ちた。
その横で、センチピーダーが腕を組んでいる。
「通形くん。サーは、君に期待しているからこそ厳しいんだ。そこは理解しておいたほうがいい」
「分かってます、センチピーダーさん!」
「分かっているなら、同じ失敗を繰り返さないことだ」
「はい!」
「……君は返事だけは実にいいな」
「そこも僕の長所です!」
「長所の使い方を間違えている」
バブルガールが、くすくすと笑った。
「でも、ミリオくんらしくていいじゃないですか」
「バブルガール。あなたまで甘やかさないでください」
「甘やかしてませんよ。観察しているんです。サーの説教を受けても笑顔を維持できる人って、かなり珍しいですから」
「褒められているのかな、これ?」
ミリオが首を傾げたところで、部屋の扉が開いた。
「みなさん、いますか?」
小さな声。
壊理だった。
彼女は扉の向こうから顔を覗かせ、部屋の中にいる全員を確かめている。
ミリオの表情がぱっと明るくなった。
「おお、壊理ちゃん! おはよう!」
「お、おはようございます……」
「今日は見学?」
壊理はこくりと頷いた。
「サーが、見ていてもいいって……」
「ええ」
ナイトアイは、先ほどまで投げていた紙束を整えながら言った。
「壊理には、無理に何かをする必要はありません。見たいものを見て、聞きたいことがあれば聞けばいい」
その言葉に、壊理は少し安心したように笑った。
ミリオはしゃがみ込み、彼女と目線を合わせる。
「今日は僕のすごいところを見せる予定だからね!」
「さっき、紙で撃たれそうになっていませんでしたか?」
「それは練習の一環だよ!」
「……本当ですか?」
「本当です!」
「ミリオくん。もう少し説得力のある説明をしてください」
バブルガールのツッコミに、部屋の空気が和らいだ。
ナイトアイは、その様子を黙って見ていた。
ミリオは、予想外のことが起きても笑う。
失敗しても、すぐに立ち上がる。
そして、自分が何をすれば誰かの役に立てるのか、いつでも真剣に考えている。
だからこそ、ナイトアイは彼に期待した。
自分の教えを受け継ぎ、いつかオールマイトの後を継ぐ象徴へと成長するのではないかと。
だが、期待は、いつしか一つの確信に変わっていた。
ミリオなら、こうする。
ミリオなら、こう考える。
ミリオなら、こんな未来へたどり着く。
未来を見通す力を持つ男は、その未来を信じることで、何を失ったのだろう。
ナイトアイ自身も、まだ、その問いに正面から答えられずにいた。
そのとき。
トレーニングルームの壁に設置された通信端末が鳴った。
センチピーダーが、すぐに受信する。
「サー。緊急通報です」
ナイトアイの表情が変わった。
「内容は?」
「湾岸地区の旧物流施設で、異常な設備事故が発生したそうです。施設内の自動扉が次々と閉鎖され、避難経路が変化している。救助隊が進入しようとしていますが、進むたびに通路が塞がれるとのことです」
「火災か?」
「熱源は確認されていません。爆発も起きていない。ただ、内部の設備が、まるで救助隊の動きを予測しているかのように反応しているそうです」
ナイトアイの指が止まった。
「……予測している?」
「はい。救助隊が左へ向かえば左側の隔壁が閉まり、右へ向かえば右側の通路が崩落しかける。特定の行動に対して、先回りするように設備が作動しているとの報告です」
部屋の空気が変わった。
ミリオは、ナイトアイを見た。
「サー。もしかして、これ……」
「まだ断定するべきではありません」
ナイトアイは立ち上がった。
「だが、見過ごすわけにもいかない」
彼はセンチピーダーへ視線を向ける。
「救助隊の詳細を。被害者の人数、施設の構造、設備の制御元。分かる範囲で確認してください」
「了解しました」
「バブルガール、現場周辺の避難誘導を担当。ロックロックには設備の固定と救助経路の確保を。リューキュウ、波動ねじれと共に外周の安全確認をお願いします」
通信の向こうから、ロックロックの声が返る。
『了解。建物が勝手に動くって話なら、俺の個性が役に立ちそうだ』
リューキュウも応じる。
『ねじれさんと上空から確認するわ』
『任せて! なんだか、すごく変なことになってるみたいだね!』
波動ねじれの声には、いつもの好奇心が混じっていた。
ナイトアイは一瞬だけ壊理を見た。
彼女を危険な場所へ連れていく必要はない。
だが、彼女は、すでに自分の近くにある異変に気づいているようだった。
「……壊理ちゃんは、センチピーダーたちと安全な場所で待機してください」
「はい……」
壊理は返事をした。
それから、小さく尋ねた。
「サー。未来が分かる人がいたら……こういうことも、止められるんですか?」
ナイトアイは、すぐには答えなかった。
「未来を知ることと、何かを止めることは、同じではありません」
彼は静かに言った。
「ですが、危険を知ることは、対処するための助けになります」
「……じゃあ、未来が分かったら、必ず助けられるわけじゃないんですね」
その問いは、子供の素朴な疑問だった。
しかし、ナイトアイの胸には、重く響いた。
「……ええ」
彼は、壊理の目を見た。
「必ずとは言えません」
壊理は少し考え、それから頷いた。
「分かりました」
ナイトアイは、彼女の頭に手を伸ばしかけて、やめた。
今は言葉を付け足さないほうがいい。
そう判断した。
だが、彼はまだ知らなかった。
その日、彼らが向かう現場で、自分自身がその問いと向き合うことになるのを。
二 未来を先回りする建物
湾岸地区の旧物流施設は、すでに使用を停止していた。
巨大な倉庫がいくつも並び、荷物を運ぶための搬送路と立体通路が複雑に絡み合っている。
施設の中央には、かつて物流制御に使われていた大型の管理棟があった。
そこへ、救助車両が到着する。
「現場周辺の避難は進んでいます!」
バブルガールが通信を確認しながら報告した。
「近隣住民は全員、避難所へ移動中です。施設内には、点検作業員が六名残されています。うち二名は西側の搬送路付近、残る四名は管理棟の内部にいる可能性があります」
「可能性、というのは?」
ナイトアイが尋ねた。
「監視カメラが、途中から同じ映像を繰り返しています。実際に作業員が移動しているのか、映像の記録だけが繰り返されているのか、まだ確認できていません」
「……了解しました」
ナイトアイは手袋を締め直した。
「ロックロック、入口の隔壁は?」
『今、調べてる。こいつは厄介だぞ』
通信の向こうで、金属音が響いた。
『扉の位置が変わるたびに、周囲の搬送機まで動いてる。しかも、動く前に小さな予告灯が点くんだ』
「予告灯?」
『ああ。まるで、次に何が起こるのか、先に知らせているみたいにな』
そのとき、施設の奥で警報が鳴った。
赤い光が、窓の向こうに走る。
ミリオが顔を上げた。
「サー!」
「全員、警戒!」
ナイトアイの声と同時に、管理棟の正面扉が開いた。
その奥から、黒い線が這い出してくる。
最初は、ケーブルに見えた。
次に、それが空中へ浮かび上がると、細い金属の節が連なった触手のような形を取った。
先端には透明な板が浮かび、その板の表面に、赤い光点がいくつも走っている。
それらが一斉に回転し、救助隊の姿を映し出した。
次の瞬間。
施設内の搬送機が動いた。
金属製の荷台が、救助隊の進行方向へ滑り込んでくる。
「全員、退避!」
ミリオが叫んだ。
作業員たちが跳び退く。
荷台は空振りし、壁へ激突した。
だが、異常な存在は攻撃を止めなかった。
赤い光点が、リューキュウへ向く。
直後、巨大な搬送アームが上空から降りてきた。
「リューキュウさん、上です!」
波動ねじれが叫んだ。
リューキュウは即座に個性を発動した。
その身体が巨大な竜へと変化する。
翼が広がり、長い尾が施設の壁面をかすめる。
搬送アームが迫る。
リューキュウは翼をひねり、攻撃を避けた。
だが、アームは途中で折れ曲がり、彼女の進路を追うように向きを変えた。
「追尾している……?」
ねじれが目を見開く。
「違う!」
ナイトアイが叫んだ。
「リューキュウが避けた後の位置へ、先に動いている!」
リューキュウは空中で身体を捻り、尾を振るった。
巨大な尾が搬送アームへ叩きつけられる。
金属がひしゃげ、アームの先端が砕けた。
しかし、異常な存在はそれを待っていたかのように、別のアームを動かした。
今度は、リューキュウが地面へ着地する地点を狙っている。
「着地地点まで読んでいるの!?」
ねじれが叫んだ。
「リューキュウさん、こっちへ!」
彼女の掌から、渦を巻くエネルギーが放たれる。
《波動》による螺旋状のエネルギー波が、搬送アームの付け根を撃ち抜いた。
アームが大きく傾く。
リューキュウはその隙に高度を下げ、管理棟の屋根へ着地した。
「ありがとう、ねじれさん!」
「どういたしまして! でも、これってどういう仕組みなんだろう?」
ねじれは空中で旋回しながら、異常な存在を観察した。
「私たちが動く前から、動く場所が決まってるみたい!」
「少なくとも、こちらの行動を予測しているように見える」
ナイトアイが目を細めた。
「センチピーダー、現場に残る設備の制御記録を確認してください。バブルガール、作業員の安全を最優先に。ミリオ、私と内部へ進みます」
「了解です!」
ミリオは、入口の前へ立った。
その瞬間、透明な板が一斉に彼を向いた。
赤い光点が、彼の姿を映し出す。
次に、床へ赤い線が走った。
一本。
二本。
三本。
それらは、ミリオが進むであろう経路を示すように、床の上へ伸びていった。
「……なんだ、これ?」
ミリオが一歩踏み出す。
赤い線が動いた。
そして、彼が次に足を置こうとした床が、突然跳ね上がった。
「うわっ!」
ミリオは跳び退いた。
床板が壁へ変わる。
次に、左側の隔壁が閉じた。
右側から搬送アームが迫る。
ミリオは身体を透過させ、腕をすり抜けた。
しかし、透過を解除しようとした瞬間、足元の床が消えた。
「おおおおっ!?」
落下。
ミリオの身体が床をすり抜け、そのまま下の階へ落ちていく。
彼は透過を解除した。
身体が床から弾き出され、下の階の空間へ飛び出す。
着地する。
その瞬間、目の前に別の搬送アームが迫っていた。
「ちょっと待って! 休む暇もない!」
ミリオは再び透過する。
アームを通り抜け、床をすり抜け、壁を抜けて、別の通路へ飛び出した。
だが、次の部屋にも、すでに赤い線が走っていた。
ミリオの進路を先回りするように、隔壁が閉じていく。
「……なるほど」
彼は、一瞬だけ足を止めた。
「これ、僕が何をするかを見ているんじゃなくて……僕が何をしそうかを先に決めてるんだ!」
通信機から、ナイトアイの声が届く。
『ミリオ、状況を報告しなさい』
「はい! 僕の動きに合わせて、設備が先に反応しています! 透過しても、次に出てくる場所を狙われます!」
『ならば、こちらの行動を変える必要があります』
「了解です!」
ミリオは、笑顔を浮かべた。
「つまり、向こうが困るくらい、予想外のことをすればいいんですね!」
『……君は、いつでも話を単純化しますね』
「単純なほうが動きやすいですから!」
「それが問題なのです!」
通信が一瞬途切れた。
そして、別の通路の奥で、黒い線が大きくうねった。
異常な存在は、ミリオだけを狙っているわけではなかった。
施設に入った全員の行動を観測し、それぞれの進路を先回りして塞いでいる。
それは、単に未来を予知する存在ではない。
人が選ぶ可能性を読み、その可能性に合わせて、現実の側を変えている。
まるで――。
未来が違う形になる前に、未来のほうを修正しているかのように。
三 予知は、地図ではない
「サー、右の通路から進めます!」
バブルガールの報告が飛び込んだ。
「いいえ」
ナイトアイは、すぐに否定した。
「その通路には入らないでください。正面の床が崩れる可能性があります」
「でも、監視映像では安全に見えます」
「映像が繰り返されているのでしょう」
ナイトアイは施設の図面を睨んだ。
「別の経路を使います。センチピーダー、東側の搬送路へ回ってください。ロックロックは、その周辺の機材を固定して、退路を確保する」
『了解!』
「ねじれさん、リューキュウ。上階から黒い線の発生源を探してください。ミリオは――」
「はい! 僕は中を走り回ればいいんですね!」
「最後まで聞きなさい」
「はい!」
「……ミリオ。あなたは、先ほどの通路へ戻ってください」
ミリオは一瞬だけ首を傾げた。
「えっ? さっき僕が行ったところですよね?」
「そうです」
「また塞がれるんじゃ……」
「その可能性が高い」
ナイトアイは、手袋を締め直した。
「だからこそ、そこへ行くのです」
ミリオは、少し考えた。
そして、いつもの笑顔で頷く。
「分かりました!」
ナイトアイはミリオの腕を掴んだ。
《予知》。
個性が発動する。
視界が変わる。
今、目の前にいるミリオの姿が、いくつもの場面へ分岐していくように見えた。
施設内部。
赤い線。
閉じる隔壁。
床の崩落。
ミリオが透過し、敵の攻撃を避ける。
しかし、予測された攻撃は、その先にも待っている。
ミリオが右へ進めば、右の通路が閉じる。
左へ進めば、左の床が崩れる。
上へ逃げれば、搬送アームが迫る。
下へ潜れば、落下した先で拘束される。
そして最後に――。
ミリオが、崩れた床の下で動けなくなっている姿が見えた。
その上へ、巨大な搬送機が落下してくる。
予知は、そこで途切れた。
ナイトアイはミリオの腕を離した。
「……時間がありません」
「何が見えましたか?」
「あなたが、施設内部で動けなくなる未来です」
ミリオの表情が少しだけ変わった。
「僕が?」
「ええ。あなたが攻撃を避けるたびに、設備がその先を塞ぎます。最終的に、床が崩落し、退路を失う」
ミリオは、数秒間黙っていた。
やがて、笑顔に戻る。
「じゃあ、そうならないようにすればいいんですね!」
ナイトアイは、彼を見つめた。
その言葉は、簡単だった。
あまりにも簡単だった。
「……ミリオ。予知で見た未来は、あなたが思うほど簡単に変えられるものではありません」
「でも、変えられないって決まったわけじゃないですよね?」
「あなたは、未来を軽く考えすぎている」
「軽く考えているつもりはないです」
ミリオは、静かに答えた。
「サーが何を見たのか、僕は全部は分かりません。でも、サーが未来を見たからって、その未来の中にいる僕が、何もしないわけじゃないです」
ナイトアイの眉が、わずかに動いた。
「……それは、どういう意味ですか」
「僕が動けなくなる未来を見たんですよね?」
「そうです」
「なら、その未来を避けるために、僕は何をすればいいんでしょう?」
ナイトアイは、答えようとした。
しかし、すぐに言葉が出なかった。
予知に映った未来は、明確だった。
ミリオが行動し、設備が先回りし、退路を失う。
その一連の流れには、いくつもの選択が含まれていた。
しかし、ナイトアイは、その未来を回避するための手順を説明できなかった。
なぜなら、予知の中で、ミリオが何を考え、何を恐れ、どんな判断をしていたのかまでは、完全に読み取れなかったからだ。
未来の光景は見えた。
だが、その未来を選ぶ人間の心が、全て見えたわけではなかった。
「……まずは、危険な経路を避けることです」
ナイトアイは、ようやく答えた。
「次に、敵の攻撃パターンを把握する。行動を予測されるのであれば、予測の条件を崩す。あなたなら、それができるはずです」
「分かりました!」
ミリオは、力強く頷いた。
「それなら、やってみます!」
「ミリオ」
「はい?」
「……決して、無理はしないように」
その言葉は、命令というより、願いに近かった。
ミリオは、少しだけ目を細めた。
「はい。無理はしません。でも、できることは全部やります」
そして、施設の奥へ走り出した。
ナイトアイは、その背中を見送った。
彼は、ミリオが動けなくなる未来を見た。
だからこそ、彼を守りたいと思った。
だが、未来を見たからといって、その未来以外の可能性まで消えてしまうわけではない。
そのはずだった。
それなのに、彼は、予知された未来を基準にしてミリオの行動を考えていた。
ミリオが何を選ぶかより先に、ミリオがどうなるかを決めていた。
――私は、何を見落としている?
ナイトアイは、手を握った。
その答えは、まだ見つからなかった。
四 見えている道、見えていない人
施設内部では、救助作戦が進んでいた。
「作業員を発見しました!」
バブルガールの声が通信に飛び込む。
「西側の搬送路です。作業員二名を確認。怪我はありますが、意識はあります!」
「救助を優先してください」
ナイトアイが指示を出す。
「センチピーダー、現場へ向かい、搬送を手伝ってください。ロックロックは周囲の設備を固定して、落下の危険を防ぐ」
『了解!』
センチピーダーは、長い身体を狭い通路へ伸ばした。
人間の身体では通り抜けられない隙間を、節のある長い体躯が滑るように進んでいく。
曲がり角を越え、倒れた機材の下を潜り、作業員たちのもとへ到着する。
「もう大丈夫だ。私が来た」
「た、助かった……!」
「立てるか?」
「なんとか……」
センチピーダーは、作業員の身体を支えながら、通路の状態を確認した。
頭上の搬送レールが、軋んでいる。
その直後、レールの警告灯が点滅した。
「……来るぞ!」
センチピーダーが作業員を引き寄せた。
巨大な搬送機が、レールから外れて落下する。
だが、その手前で、ロックロックが両手を伸ばした。
《ロック》が発動する。
彼が触れた非生物が、その場に固定された。
落下中の搬送機が、空中で止まる。
「止まれ……!」
ロックロックは歯を食いしばった。
「くそっ、重いぞ!」
「あと少しだ!」
センチピーダーが作業員たちを引きずり、危険区域から脱出する。
その瞬間、搬送機の下で床が崩れた。
固定された機材は空中に残ったまま、崩落した床の上へ取り残される。
「もういい!」
センチピーダーの声が飛ぶ。
「十分だ!」
ロックロックは、すぐに能力を解除した。
搬送機が落下し、崩れた床の下へ沈んでいく。
轟音。
粉塵。
二人は、間一髪で安全な通路へ逃れた。
「……はあっ、はあっ……」
ロックロックは壁へ寄りかかった。
「やれやれ。こいつは、普通の設備事故じゃないな」
センチピーダーも頷く。
「こちらの行動が、全て読まれているようだ」
「読まれているというより、俺たちが動く前に、動くべき場所を限定されている気がする」
ロックロックは、崩れた床を見つめた。
「逃げ道を塞いで、残った道へ誘導する。その先に罠を置く。俺たちに選ばせているようで、実際には選択肢を減らしているんだ」
通信機から、ナイトアイの声が届く。
『その見方は重要です。今の現象は、人の動きを完全に予知しているというより、設備の配置を変えることで、選べる行動を制限している可能性があります』
「なるほどな。未来を当てるんじゃなくて、当たりやすい未来にしてるわけか」
『現時点では、仮説です』
「分かってるよ、サー」
ロックロックは、額の汗を拭った。
「だが、仮にそうなら、こいつの仕組みは厄介だ。相手が誰であろうと、同じように追い込める」
ナイトアイは、黙っていた。
未来を知る力。
未来を変えるための手段。
そして、選択肢を狭めることで、特定の未来を実現しやすくする仕組み。
それらは似ているようで、決定的に違う。
《予知》は、未来の光景を見せる。
しかし、その未来を実現させるために、相手の行動を制限する能力ではない。
それなのに、ナイトアイはときに、予知で見た未来が実現することを前提に、他人の行動を決めようとしていたのではないか。
彼は、過去の自分を思い返す。
オールマイトへ助言したとき。
未来を変えられないと考えたとき。
自分の予知に反する選択を、相手がしようとしたとき。
本当に、未来そのものだけを見ていたのだろうか。
それとも、未来が変わることを恐れ、その可能性から目を逸らしていたのだろうか。
「サー!」
通信から、ねじれの声が響いた。
『上の階で、変なのを見つけたよ!』
「変なもの?」
『うん! 黒い線が全部、管理棟の中央に集まってる! まるで、大きな木の根っこみたい!』
ナイトアイの表情が変わった。
「リューキュウ、ねじれさん。中央部に近づきすぎないようにしてください。構造物が不安定な可能性があります」
『分かったわ』
『了解! でも、あれ、なんだかこっちを見ているみたいだよ!』
その瞬間。
上空の監視映像が、一斉に消えた。
同時に、施設の全ての警告灯が赤く点灯する。
『警告。予測経路に重大な逸脱が発生しました』
無機質な音声が、施設中へ響いた。
『修正処理を開始します』
ナイトアイは、顔を上げた。
「……予測経路の逸脱?」
次の瞬間、施設全体が大きく揺れた。
五 未来を修正する存在
管理棟の中央部。
天井から伸びた無数の黒い線が、床の上へ広がっていた。
それらは複雑に交差し、巨大な輪のような構造を作っている。
輪の中心には、透明な板が浮かんでいた。
そこに映るのは、施設内部の映像だった。
作業員たち。
救助隊。
ミリオ。
ナイトアイ。
一人ひとりの姿が、赤い線と共に表示されている。
そして、その映像の下には、短い文字列が浮かんでいた。
「行動経路・推定」
「障害配置・修正」
「逸脱時・再計算」
その文字列が点滅した瞬間、黒い線が動いた。
床から伸びた金属板が、波のように立ち上がる。
搬送レールが軌道を変え、隔壁が次々に閉じていく。
ねじれは空中で旋回しながら、エネルギー波を放った。
螺旋状の光が、黒い線の集まる場所を貫く。
金属板が弾け飛ぶ。
しかし、破壊された部分から新たな線が伸び、再び形を作り始めた。
「うわっ! 壊しても戻るの!?」
ねじれが驚く。
リューキュウは竜の姿のまま、床へ降下した。
その巨大な爪が、黒い線の束を押さえつける。
「なら、再生する場所を止めるしかないわね!」
彼女が翼を広げる。
風圧で黒い線がなぎ払われ、床へ叩きつけられる。
だが、その直後。
透明な板に、リューキュウの動きが映し出された。
赤い線が、彼女の足元へ走る。
「……何?」
床が動いた。
リューキュウが踏み込もうとした場所が沈み、反対側の床がせり上がる。
竜の巨体が、急な傾斜に足を取られた。
「リューキュウさん!」
ねじれがエネルギー波を放つ。
床を支える黒い線が切れ、傾斜が止まる。
リューキュウは体勢を立て直した。
「ありがとう、ねじれさん!」
「どういたしまして! でも、やっぱり動きを読まれてる!」
「読まれるなら、読まれた動きを外せばいい!」
リューキュウは竜の首を振り、壁へ体当たりした。
壁が砕ける。
その向こうに、新たな空間が現れた。
「ねじれさん! あそこから中央へ行ける!」
「分かった!」
二人は、崩れた壁の隙間から中央へ進入した。
しかし、そこにはすでに黒い線が張り巡らされていた。
一本一本が金属の節で構成され、先端には小さな透明板がついている。
その板が回転し、リューキュウたちを捉えた。
『予測経路を再設定』
無機質な音声。
『対象、飛行移動型。対象、近接破壊型』
黒い線が一斉に動いた。
ねじれは空中へ跳び、エネルギー波を連射する。
一発目が黒い線を砕く。
二発目が、透明板を弾き飛ばす。
三発目が、中心部の構造を揺らす。
だが、攻撃のたびに、別の線が彼女の進路を塞いだ。
「もうっ! 自由に飛ばせてよ!」
ねじれが身体を捻る。
その先で、細い線が鞭のように振るわれた。
リューキュウが割り込む。
大きな翼で攻撃を受け流し、ねじれを背中へ逃がす。
「ねじれさん、攻撃を一度止めて!」
「えっ?」
「中心部の動きを見て!」
ねじれは、瞬間的に攻撃を止めた。
リューキュウは、黒い線がどのように動くかを観察する。
新しい線が伸びる前に、透明な板が一度回転する。
その回転に合わせて、周囲の設備が動く。
そして、設備が動いた後で、別の線が新しい配置を作る。
「……なるほど」
リューキュウが低く唸った。
「中心の板が、指示を出しているようね」
「じゃあ、あれを壊せば……?」
「可能性はあるわ。でも、施設全体とつながっているなら、急に壊すと内部が崩れるかもしれない」
彼女は、周囲を見回した。
「先に、作業員たちを全員救出しなければ」
その判断は正しかった。
しかし、その判断を取るための時間が、敵にはなかった。
床が動いた。
上層の通路が折れ曲がり、中央部へ向かう出口が塞がれる。
黒い線が、新たな壁を形成した。
『予測経路を修正』
音声が響く。
『対象、撤退行動。退路を閉鎖します』
「……撤退することまで想定しているの?」
ねじれの顔が曇った。
リューキュウは、彼女を背中へ乗せたまま、壁の向こうを見つめた。
「私たちが何をするか、その選択肢を限定するつもりなのね」
二人は理解し始めていた。
この存在は、ただ未来を予測しているのではない。
人が選びそうな行動をもとに、設備を動かし、逃げ道を塞ぎ、攻撃を誘導する。
そして、その結果として予測が当たったとき、自分の計算が正しいことを証明する。
まるで、自分の予測を正解にするために、現実を作り替えているかのように。
「でも……」
ねじれは、黒い線を見た。
「それって、未来が本当に決まっていたことになるのかな?」
リューキュウは、すぐには答えなかった。
「分からないわ」
彼女は静かに言った。
「でも、決まっているように見せることはできる。選べる道を狭めれば、結果を誘導することはできるもの」
その言葉を聞いて、ねじれは目を見開いた。
「……そっか」
彼女は、再び拳を握った。
「じゃあ、私たちは、その狭められた道を壊すんだね!」
六 通形ミリオ、予測を裏切る
一方、施設の下層。
ミリオは、廊下の真ん中で立ち止まっていた。
正面には、三つの通路がある。
左。
中央。
右。
それぞれの床に、赤い線が走っていた。
左の通路には、閉じかけた隔壁。
中央の通路には、天井から伸びる搬送アーム。
右の通路には、床の亀裂。
どの道を選んでも、危険が待ち受けている。
「うーん……」
ミリオは腕を組んだ。
「普通に考えると、右は床が危ない。中央はアームが来る。左は隔壁が閉まる……」
赤い光点が、一斉に彼を向く。
『行動経路、推定中』
ミリオは、頭を掻いた。
「つまり、どれを選んでも大変ってことだね!」
『最適経路を提示』
床の一部が光った。
中央の通路に、細い安全経路が浮かび上がる。
ミリオは、その経路を眺めた。
「……なるほど。ここを通れば安全だってこと?」
返答はない。
ただ、床の光が点滅を続けている。
ミリオは一歩踏み出した。
その瞬間、正面の搬送アームが動いた。
彼は透過する。
アームが身体を通り過ぎる。
次の瞬間、床の一部が沈んだ。
ミリオは落下しながら透過を解除し、床から弾き出されて別の位置へ飛び出す。
しかし、そこにも搬送アームが迫っていた。
「うわあああっ!」
再び透過。
再び落下。
再び飛び出す。
ミリオは、壁と床を抜けながら、なんとか攻撃を避けていく。
だが、逃げれば逃げるほど、経路は狭まっていった。
「これは……!」
ミリオは、通路の壁をすり抜け、隣の部屋へ飛び出した。
そこには、赤い線がびっしりと張り巡らされている。
壁にも、天井にも、床にも。
まるで、施設そのものが巨大な網になっているようだった。
『予測外の移動を確認』
『行動経路を修正』
『対象の次動作を再推定』
ミリオは、その表示を見つめた。
「……次の動作を、再推定?」
敵は、最初から全てを正確に予測しているわけではない。
ミリオが予想外の動きをすれば、予測をやり直す。
つまり、そこには計算の間がある。
小さな隙が。
ミリオの目が輝いた。
「そういうことか!」
彼は、床へ向かって飛び込んだ。
身体を透過させる。
床を通り抜け、下の階へ落下する。
だが、その途中で透過を解除した。
床の内部から弾き出され、横の壁へぶつかりそうになる。
すぐに再び透過。
壁を抜ける。
天井を抜ける。
そして、予測経路が示していない、設備の裏側へ飛び出した。
『予測外の移動を確認』
『行動経路を再設定』
赤い線が、激しく点滅した。
ミリオは笑った。
「やっぱり! 君たち、僕が何をするかを完全に分かっているわけじゃないんだ!」
彼は、床へ手をついた。
「僕が動くたびに、その動きをもとに次の予測を作り直してる!」
ミリオは走り出した。
今度は、最短経路を選ばなかった。
前へ行く。
急に止まる。
横へ飛ぶ。
透過する。
透過を解除する。
床を抜けて、壁を抜け、天井から飛び出す。
まるで、目的地を忘れたかのような、ばらばらの動きだった。
当然、効率は悪い。
無駄も多い。
危険な行動も含まれている。
しかし、赤い線は、彼の動きに合わせて何度も書き換わっていた。
『再推定』
『予測外の移動』
『行動経路を再設定』
そのたびに、設備の反応がわずかに遅れる。
「よし!」
ミリオは、壁を透過した先で身体を実体化させた。
彼の目の前には、小さな制御盤があった。
そこへ向かって、黒い線が集まっている。
「見つけた!」
ミリオは制御盤へ飛び込もうとした。
だが、その瞬間、足元の床が跳ね上がった。
「うわっ!」
身体が空中へ弾かれる。
黒い線が、彼の進路を塞ぐ。
『対象が目的地点へ接近』
『捕獲手順を実行』
巨大な隔壁が、ミリオの周囲を囲い込むように閉じていく。
「しまっ……!」
ミリオは透過した。
しかし、隔壁を抜けた先には、別の壁が待っていた。
そこにも赤い線が走っている。
次の瞬間、床が開いた。
落下する。
落ちた先は、空の搬送路だった。
搬送路の両側から、巨大な金属板が迫る。
ミリオは壁を透過して逃れようとした。
しかし、壁の向こうは、すでに隔壁で塞がれている。
『予測経路を確定』
『対象の移動可能範囲を制限』
「……なるほど」
ミリオは、息を吐いた。
これが敵の狙いだ。
自分の動きを先回りし、選択肢を狭め、最後には動く場所そのものを奪う。
そして、身動きが取れなくなった相手を、予測どおりに捕らえる。
ミリオは、閉じていく金属板を見つめた。
「でもさ……」
彼は、笑った。
「僕、まだ何も諦めてないんだよね!」
ミリオは、わざと床へ倒れ込んだ。
そして、身体を透過させる。
落下。
その途中で、透過を解除した。
身体が床から弾き出される。
彼は、その勢いを利用して、迫る金属板の隙間へ飛び込んだ。
肩が、わずかに金属をかすめる。
だが、抜けた。
そのまま床を透過し、下層へ落下する。
そして、次の床から実体化して飛び出した。
ミリオは、制御盤の裏側へ転がり込んだ。
「……よし!」
彼は息を切らしながら、笑った。
「未来が分かってるなら、僕が諦めるかどうかだって、予測できると思った?」
もちろん、装置は返答しない。
だが、その表面の赤い光は、以前よりも不規則に点滅していた。
ミリオは、通信機へ手を伸ばした。
「サー! 見つけました! 中央の制御部に近い場所です! でも、ここから先はちょっと危険です!」
『ミリオ、位置を報告してください!』
「ええと……下層の搬送路の裏です!」
『それでは伝わりません!』
「ですよね!」
ミリオは周囲を見回した。
壁の一部に、管理用の表示が浮かんでいる。
彼は読み取った。
「管理棟、下層、搬送路の制御区画……たぶんここです!」
『了解。すぐに向かいます。決して、単独で制御部を破壊しようとしないこと!』
ミリオは、少しだけ考えた。
「……はい!」
返事をした。
しかし、その顔には、まだ何かを考えている様子が残っていた。
彼は、自分の手を見つめる。
予知された未来。
そこでは、自分は身動きが取れなくなっていた。
だが、今の自分は、ここにいる。
危険が消えたわけではない。
予測が外れたわけでもない。
ただ、予測された未来へ向かう途中で、自分が別の選択をした。
それだけのことだった。
未来を変えるというのは、もしかすると、そういうことなのかもしれない。
七 サー・ナイトアイの誤算
「……ミリオが、制御区画へ?」
ナイトアイは通信を聞きながら、施設の図面を見つめていた。
先ほど自分が《予知》で見た未来。
ミリオは、施設内部で動けなくなり、崩落に巻き込まれるはずだった。
しかし、今の彼は、危険な場所を抜け、制御区画の近くまで到達している。
予知と異なる行動が、すでに起きていた。
ナイトアイは目を閉じた。
彼の個性は、対象の未来を見通す。
未来の光景を、本人の意思とは無関係に見せる。
しかし、未来を見たあと、その未来がどのように実現するのかを、全て理解できるわけではない。
彼が見たのは、ミリオが動けなくなる光景だった。
そこへ至るまでの選択は、彼の頭の中で一つの流れとして理解されていた。
だが、それは本当に唯一の流れだったのか。
あるいは、自分が見た光景をもとに、ミリオの行動を予測していたからこそ、別の可能性を見落としたのか。
「サー」
センチピーダーが声をかけた。
「何か、気になることでも?」
ナイトアイは、しばらく沈黙していた。
「……私は、ミリオが危険な未来へ向かうことを予知しました」
「はい」
「その未来を避けるため、彼に危険な経路を避けるよう指示した。ですが、結果として彼は、自分で別の道を見つけた」
センチピーダーは、頷いた。
「彼らしい判断ですね」
「ええ」
ナイトアイは、眼鏡を押し上げた。
「私は、彼が何をするかを予測していました。ですが、彼が何を考えて、その行動を選ぶのか。その可能性を、十分に考えられていなかったのかもしれません」
センチピーダーは、すぐには答えなかった。
「サーは、未来を予知することに自信を持っていらっしゃいます。それは、悪いことではありません」
「……」
「ですが、予知は、全ての可能性を考慮する能力ではありません。見えた未来があるからといって、見えなかった未来が存在しないことにはならない」
ナイトアイは、顔を上げた。
センチピーダーの言葉は、静かだった。
「私たちが現場で判断する際にも、同じことが言えます。報告された情報が正確でも、報告されていない事実が存在しないとは限りません」
「……その通りです」
ナイトアイは、深く息を吐いた。
「私は、未来を知ることができる。そのことを、長く誇りに思っていました。実際に、多くの人を助ける役に立った」
彼は、一度言葉を区切った。
「しかし、未来を知っているという事実が、いつしか私の判断そのものを支配していたのかもしれません」
センチピーダーは、ナイトアイの顔を見た。
「未来を知ることと、その未来を絶対のものとして扱うことは、違いますね」
「……ええ」
ナイトアイは、短く答えた。
「その違いを、私は十分に理解していたつもりでした」
彼は、自分の手を見つめた。
だが、理解していることと、実際に行動へ反映できることは違う。
彼は、未来を変えるために行動してきた。
それでも、変えられないと判断したとき、その判断そのものを疑うことができたのだろうか。
自分が見た未来を、相手に伝えるとき。
相手がその未来を拒み、別の選択をしようとしたとき。
彼は、本当に、その意思を信じていたのだろうか。
それとも、自分の予知を正しいものと考え、相手の選択を、未来を知らない者の無謀な行動として扱っていたのだろうか。
「……私は、ミリオを信じていました」
ナイトアイは、呟いた。
「彼の明るさも、強さも、何度失敗しても立ち上がる姿も知っていた。ですが、私は同時に、彼がどのような未来へ向かうのかを、自分が知っていると思い込んでいたのかもしれません」
センチピーダーは、静かに尋ねた。
「それは、信じることと矛盾しますか?」
ナイトアイは、答えられなかった。
信じていた。
確かに、信じていたはずだった。
だが、自分が信じていたのは、ミリオという人間だったのか。
それとも、自分の予知に映った、ミリオの未来だったのか。
その違いを、彼は考えなければならなかった。
そのとき、通信機から、バブルガールの声が響いた。
『サー! 作業員の救出は進んでいます。でも、施設全体が動き始めました!』
ナイトアイは、すぐに顔を上げた。
「状況を報告してください」
『管理棟の中央から、黒い線が全域へ広がっています。隔壁だけじゃありません。搬送レールや床の支持構造まで、勝手に配置を変え始めています!』
「……施設そのものを再構築しているのか」
『はい! このままでは、救助経路が全て塞がれます!』
ナイトアイは、施設の図面を見つめた。
赤い線が、次々と書き換わっている。
彼が予測した経路も、先ほどまで安全だった通路も、次々と危険な場所へ変わっていく。
だが、ナイトアイは、もう一つの可能性を考えていた。
この異常な存在が行動を予測しているのなら、こちらが選ぶ道を限定することで、予測を実現させているのなら――。
その仕組みを崩す方法は、未来の正解を探すことではない。
選べる道を取り戻すことだ。
「全員へ通達!」
ナイトアイは声を張った。
「これからは、最短経路や予測された安全経路にこだわらないでください。危険があれば、仲間と相談し、別の道を探す。必要なら、予定を変更する!」
彼は、通信機を握りしめた。
「この施設が示す『正解』に従わないこと!」
一瞬、通信が静かになった。
そして、ミリオの明るい声が返ってきた。
『了解です、サー! 僕、そういうの得意です!』
ナイトアイは、思わず目を閉じた。
「……それは、別の意味で心配なのですが」
八 それぞれの力、それぞれの選択
「サーからの指示を受けた!」
バブルガールは、避難誘導を続けながら周囲を見回した。
「最短経路にはこだわらず、全員で状況を判断して動いて!」
「了解!」
作業員を支えていた救助隊員が頷く。
バブルガールは、手の中に泡を作り出した。
彼女の個性《バブル》によって生み出された泡は、それぞれ異なる匂いを持っている。
普段なら、敵の注意を逸らしたり、嗅覚へ刺激を与えたりするための能力だ。
だが、今は別の使い方ができる。
彼女は、いくつもの泡を通路へ放った。
泡が壁や天井に付着し、複雑な香りを放つ。
「これで、監視用のセンサーが嗅覚にも反応するなら、少しは邪魔できるはず……!」
赤い光点が、泡へ向いた。
次の瞬間、搬送アームが泡の集まる方向へ動いた。
「やっぱり!」
バブルガールは走り出した。
「この泡を追わせれば、避難経路を確保できる!」
彼女は泡を次々に飛ばし、敵の注意を引きつける。
その隙に、作業員たちは別の通路へ進んだ。
「急いで! こっちです!」
しかし、通路の途中で、床が跳ね上がった。
バブルガールは、とっさに身を伏せる。
床の板が壁のように立ち上がり、避難経路を塞いだ。
「もう、しつこい!」
彼女は泡を床へ投げつけた。
泡が弾け、強い匂いが広がる。
搬送アームが、再び泡のほうへ動いた。
バブルガールは、そのわずかな隙を見逃さなかった。
「今です! 走って!」
作業員たちが、壁の端に残った狭い隙間を抜ける。
そこへ、ロックロックが飛び込んできた。
「よし、道を作るぞ!」
彼が両手を壁へつける。
《ロック》が発動し、壁の一部がその場へ固定された。
壁の動きが止まり、狭い通路が確保される。
「これでしばらくは動かねえ!」
「助かりました!」
バブルガールが叫ぶ。
「ただし、長くは持たないぞ!」
ロックロックは歯を食いしばった。
「別の道を探すまでの時間しか稼げねえ!」
「十分です!」
彼女は作業員を誘導しながら、周囲の泡を増やした。
一方、施設上層では、リューキュウと波動ねじれが、中央部の黒い線へ挑んでいた。
「ねじれさん、中心の板へ集中攻撃を!」
「分かった!」
ねじれが両手を掲げる。
螺旋状のエネルギー波が、次々と放たれた。
最初の一撃は、透明板の周囲を守る金属片を砕く。
二撃目が、黒い線の束を吹き飛ばす。
三撃目が、中心部へ迫った。
だが、透明板は回転し、攻撃の軌道を変えた。
エネルギー波が別の壁へ弾かれ、そこを走っていた搬送レールを破壊する。
「危ない!」
リューキュウが身体を広げ、落下する機材を翼で受け止めた。
巨大な翼が震える。
「ねじれさん、少し威力を抑えて!」
「ごめん! でも、あいつ、攻撃を逸らしてる!」
「分かっているわ!」
リューキュウは、機材を床へ押し戻した。
「中心部を直接壊すだけでは、施設全体を巻き込むかもしれない。外側から、黒い線の接続を断つ必要がある!」
ねじれは、周囲を見た。
黒い線は、中央から外へ伸びている。
一本一本が、床や壁の設備に繋がっていた。
「……じゃあ、全部壊すんじゃなくて、つながりを切るんだね!」
「そうよ!」
リューキュウは、翼を広げた。
「私は線を押さえる。ねじれさんは、接続部分だけを狙って!」
「了解!」
リューキュウの巨大な爪が、黒い線の束を押さえつける。
線は暴れるように動き、彼女の腕へ巻きつこうとした。
だが、リューキュウは爪に力を込め、動きを封じる。
ねじれが空中で姿勢を変え、狙いを定めた。
「そこっ!」
螺旋状のエネルギー波が、線の接続部を撃ち抜いた。
火花が散る。
黒い線が一本、床から切り離された。
すぐに別の線が伸びてくる。
だが、その一本が切れたことで、施設の東側にあった隔壁の動きが止まった。
「効いてる!」
ねじれが叫ぶ。
「一度に全部を止めなくていい!」
リューキュウが応じる。
「作業員たちが通れる場所から順に、接続を切っていく!」
彼女たちは、さらに攻撃を続けた。
すべての設備を一度に破壊するのではない。
救助経路を確保するため、必要な箇所だけを切り離す。
それぞれの能力を、状況に応じて組み合わせる。
未来を予測して最適な動きを選ぶのではなく、その場で起きたことを見て、次の行動を決める。
それは、ナイトアイが得意とする戦い方とは少し違っていた。
しかし、今はそれが必要だった。
九 見えていなかったもの
「ミリオ! 中央部へ向かってください!」
ナイトアイの声が通信機から響いた。
「了解です!」
ミリオは、壁を透過して制御区画へ進んでいた。
赤い線が、彼の前で何度も書き換わる。
だが、先ほどほどの正確さはない。
バブルガールの泡が監視系統を乱し、ロックロックが設備を固定し、リューキュウとねじれが接続部を切断している。
施設全体が、一つの予測に従うことができなくなっていた。
『予測経路の不整合を確認』
『制御系統に遅延が発生』
『経路の再計算を開始』
無機質な音声が、繰り返し響く。
ミリオは、その隙を使って走った。
透過。
落下。
解除。
跳躍。
再び透過。
一つひとつの動作は、確かに危険だった。
しかし、彼はそのたびに状況を見て、次の一手を選んでいる。
誰かが決めた正解を、ただ追っているわけではない。
「サー! 制御盤まで、もう少しです!」
『了解。ですが、絶対に無理はしないこと!』
「はい!」
ミリオは、制御区画の入口へ飛び込んだ。
そこには、巨大な透明板が浮かんでいた。
周囲の黒い線が、何本も繋がっている。
透明板には、現在の施設内部が映し出されていた。
そして、その画面の隅に、新しい文字列が浮かんでいる。
「対象行動の逸脱」
「予測信頼度の低下」
「安定経路の再設定」
ミリオは、それを見て眉をひそめた。
「……安定経路?」
その瞬間、床が揺れた。
中央の透明板から、新たな黒い線が伸びてくる。
今までの線よりも太く、硬い。
先端にある透明板には、ミリオの姿が映っていた。
赤い光が、彼の身体をなぞる。
『対象、通形ミリオ』
『行動履歴を照合』
『最適対応を選定』
「……おお、僕の名前まで出てる!」
ミリオは、目を見張った。
次の瞬間、黒い線が一斉に襲いかかる。
彼は透過した。
線が身体を通り抜ける。
しかし、その直後、床がせり上がった。
ミリオは落下し、床をすり抜けようとした。
だが、その床が分割され、無数の板となって動き始める。
「うわっ、細かい!」
透過を解除すると、ミリオの身体が板の間から弾き出された。
その勢いを利用し、彼は壁を抜ける。
しかし、壁の向こうにも、黒い線が待っていた。
まるで、どこへ逃げても、先回りするための準備ができているようだった。
『対象の行動、予測済み』
『捕獲経路を実行』
黒い線が、ミリオの身体を取り囲む。
彼は、動きを止めた。
「……そうか」
ミリオは、小さく呟いた。
「僕が今までやってきたことを見て、次に何をするかを考えてるんだ」
黒い線が迫る。
彼は動かなかった。
「じゃあ、次に僕が何をするかは……」
ミリオは、笑った。
「まだ決めてないよ!」
彼は、あえて真っ直ぐ走った。
透過しない。
跳ばない。
壁も抜けない。
ただ、黒い線へ向かって突進した。
『予測経路を更新』
透明板が回転する。
その瞬間、ミリオは、突然身体を透過させた。
黒い線が反応する。
床が跳ね上がる。
だが、彼は床を抜ける直前に透過を解除し、床から弾き出された勢いで壁へ突っ込んだ。
壁を透過する。
その向こうで、再び実体化する。
そして、目の前の制御盤へ拳を叩き込んだ。
「これで――!」
衝撃。
制御盤の外装が砕けた。
しかし、透明板そのものは壊れなかった。
黒い線が、ミリオの腕へ絡みつく。
『対象、制御装置へ接触』
『逸脱行動を修正』
線が引き絞られる。
ミリオは、腕を動かそうとした。
だが、引き抜けない。
「ぐっ……!」
黒い線が、身体へ巻きついてくる。
ミリオは、透過しようとした。
しかし、線の拘束が、身体の動きを邪魔している。
透過を使うには、意識的に個性を発動させなければならない。
焦れば、呼吸やタイミングを誤る。
「……落ち着け、ミリオ」
彼は、自分へ言い聞かせた。
「慌てなくていい。慌てたら、向こうの思うつぼだ」
彼は目を閉じた。
黒い線が、さらに身体を締めつける。
痛みが走る。
それでも、ミリオは呼吸を整えた。
どこへ逃げるか。
どの壁を抜けるか。
何を壊すか。
それだけではない。
自分が、今何をしたいのか。
本当に守りたいものは何なのか。
彼は、目を開いた。
「……僕は、ここから出る」
小さく言った。
「それで、みんなと一緒に、この施設を止める」
彼は、身体の一部だけを透過させた。
線が、腕をすり抜ける。
拘束が緩む。
その隙に、身体全体を透過させた。
線を抜ける。
床を抜ける。
そして、天井から実体化して飛び出した。
落下の勢いを利用して、ミリオは透明板の背面へ回り込む。
そこには、黒い線が集まる根元があった。
「見つけた!」
彼は拳を握った。
しかし、振り下ろす寸前で、手を止めた。
黒い線の根元は、建物の支持構造にも繋がっている。
ここを壊せば、制御は止まるかもしれない。
だが、建物の一部が崩れる可能性もある。
その下には、まだ救助を待つ人々がいる。
ミリオは、拳を握ったまま、考えた。
壊せば早い。
しかし、壊すことが正解とは限らない。
自分が勝つためだけに、別の誰かを危険にさらすわけにはいかない。
「……サー!」
彼は通信機へ声を飛ばした。
「制御部の根元を見つけました! ただ、建物の支持構造にも接続しています! ここを壊すと、崩落する可能性があります!」
返答まで、一瞬の間があった。
ナイトアイは、そこで初めて、ミリオへ即座に指示を出さなかった。
彼は、施設の図面を見た。
周囲の状況を確認した。
そして、ミリオの言葉を考えた。
「……分かりました」
ナイトアイは答えた。
「破壊を急がないでください。あなたが現場を見て、危険があると判断したのであれば、その判断を尊重します」
ミリオは、一瞬だけ目を見開いた。
「……はい!」
ナイトアイが続ける。
「我々が、別の方法を探します。あなたは、その場の状況を監視し、危険があれば直ちに退避してください」
「了解です!」
ミリオは、制御部の背面へ身を寄せた。
彼は、拳を下ろした。
その選択が、正解だったかどうか。
今の時点では、誰にも分からない。
ただ、彼は自分で考え、自分で判断した。
その判断を、ナイトアイは信じることにした。
十 正解を一つにしない
「サー、制御部へ接続している線を切り離せば、施設の動きは止められるかもしれません」
センチピーダーが、施設の図面を拡大した。
「ただし、中央部の支持構造に接続している線もあります。一度に切れば、管理棟が崩れる可能性があります」
ナイトアイは図面を見つめた。
「……では、支持構造へ繋がっている線だけを残し、他の接続を順番に解除する」
「可能でしょうか?」
「試してみる価値はあります」
ナイトアイは、ロックロックへ連絡した。
「ロックロック。管理棟の支持構造を確認してください。動いている部材のうち、固定できるものはありますか」
『いくつかある。だが、全てを固定するのは無理だ。固定した部材に負荷が集中する』
「それで構いません。建物全体を止める必要はない。崩落を防ぐための時間を稼いでください」
『了解だ』
「リューキュウ、ねじれさん。黒い線の接続部を、中心からではなく外側から順番に切断してください。建物の支持構造に繋がっている線は、まだ触らないように」
『分かったわ』
『了解! 今度は壊しすぎないようにするね!』
「お願いします」
ナイトアイは、次にバブルガールへ指示した。
「避難経路の確保を続けてください。作業員たちの位置を定期的に確認し、移動するたびに私へ報告を」
「はい!」
最後に、ナイトアイはミリオへ通信を繋いだ。
「ミリオ。あなたは、制御部の状態を見ていてください。状況が変わったら、すぐに報告を」
『分かりました!』
ナイトアイは、通信機を握りしめた。
彼は、今までなら、最も安全で、最も合理的な経路を探そうとしていた。
予知の結果をもとに、失敗しない行動を選ぼうとしていた。
しかし、今の状況には、全てを確実に予測できるだけの情報がない。
何が正解か、分からない。
どの選択にも、危険がある。
それでも、全ての行動を止めるわけにはいかない。
危険を承知で、誰かが選ばなければならない。
その選択を、誰か一人の判断に委ねるのではなく、現場にいる者たちが、それぞれの立場から考え、相談し、修正していく。
それが、今できる最善だった。
ナイトアイは、眼鏡を押し上げた。
「……私は、未来を知ることができる」
彼は、自分自身へ言い聞かせるように呟いた。
「ですが、未来を知ることは、未来を所有することではない」
センチピーダーが、静かに頷いた。
「そのとおりです、サー」
「予知は、判断のための情報です。答えそのものではない」
ナイトアイは、顔を上げた。
「見えた未来に固執するのではなく、見えた情報をもとに、今何をすべきかを考える。それが、私の役割なのかもしれません」
彼は、モニターに映る現場を見た。
リューキュウが黒い線を押さえ、ねじれが接続部を切断する。
ロックロックが建物の一部を固定し、センチピーダーが作業員を安全な場所へ運ぶ。
バブルガールは泡を使い、設備の注意を逸らしながら救助経路を確保する。
ミリオは、制御部の背面で、状況の変化を細かく報告している。
誰も、全ての情報を持っているわけではない。
誰も、全ての未来を知っているわけではない。
それでも、彼らはそれぞれの判断を持ち寄り、一つの問題へ向き合っていた。
ナイトアイは、初めて、その光景を違う角度から見た。
彼は、これまでミリオを導こうとしてきた。
彼の才能を見抜き、足りないものを教え、進むべき道を示そうとしてきた。
そのこと自体が、間違いだったわけではない。
しかし、彼はいつしか、ミリオがどこへ向かうべきかを、自分が知っていると思い込んでいたのではないか。
未来の光景を知ることができるからこそ、彼の選択を正しい方向へ導けると。
その思いは、本当に相手を信じることだったのだろうか。
それとも、自分が信じる未来を実現するために、相手の選択を管理しようとすることだったのだろうか。
ナイトアイは、目を閉じた。
答えは、まだ出ない。
だが、今は、その問いから目を逸らすべきではなかった。
十一 未来の網を切り裂け
「サー! 接続部を三か所、切断できました!」
ねじれの声が通信に響く。
「管理棟の動きが少しずつ鈍くなっています!」
「そのまま続けてください。ただし、無理に中心へ近づかないように」
ナイトアイが答える。
しかし、その直後。
モニターの映像が激しく揺れた。
黒い線が、一斉に動き始める。
『重大な経路逸脱を検出』
『安定化処理を開始』
『予測経路を強制修正』
「……強制修正?」
ナイトアイが目を細めた。
施設の全ての隔壁が動き始めた。
救助経路を塞ぐ。
避難経路を塞ぐ。
搬送機を移動させる。
それだけではない。
今まで固定していた部材に負荷が集中し、ロックロックが押さえていた構造物が軋み始めた。
『くそっ! 負荷が上がってる!』
ロックロックの声が響く。
「ロックロック、無理に固定を維持しないでください!」
『分かってる! だが、ここを外せば通路が崩れるぞ!』
センチピーダーが、すぐに応じた。
『私が作業員を動かす! 固定を解除する場所を指定してくれ!』
『東側の支柱だ! そこだけは維持してくれ!』
『了解!』
センチピーダーは長い身体を伸ばし、崩れかけた支柱へ巻きついた。
支柱が倒れないように支える。
その間に、ロックロックは別の部材へ手を伸ばし、固定位置を変更した。
固定していたものを全て止めるのではない。
必要な部分を残し、負荷のかかる場所を変える。
そうして、崩落を防いでいく。
バブルガールは、作業員たちを別の通路へ誘導する。
「こちらです! 足元に気をつけて!」
泡を一つ飛ばす。
搬送アームがそちらへ向いた隙に、作業員たちを通す。
さらに別の泡を放ち、別方向へ注意を逸らす。
その場にある設備の動きそのものを、利用しようとしていた。
「あと少しです! 頑張って!」
作業員の一人が振り返る。
「あなたは、逃げなくていいんですか!?」
バブルガールは笑った。
「私は、まだやることがありますから!」
彼女は作業員たちを安全な場所へ送り出すと、すぐに次の経路へ走った。
一方、中央部では、リューキュウとねじれが最後の接続を切ろうとしていた。
だが、黒い線の束が、二人を包み込むように広がっている。
『対象、破壊型。対象、遠距離攻撃型』
赤い光点が、二人を交互に捉えた。
『攻撃経路を予測』
無数の細い線が、槍のように伸びた。
「ねじれさん、上へ!」
リューキュウが叫ぶ。
ねじれは急上昇し、攻撃を避けた。
リューキュウは、翼で線を弾き飛ばす。
しかし、線は途中で折れ曲がり、彼女の脚へ巻きつこうとした。
「くっ……!」
リューキュウは身体を捻り、線を爪で引きちぎる。
その隙に、ねじれが《波動》を放った。
螺旋状の光が、線の接続部を貫く。
一本。
二本。
三本。
周囲の設備が、次々と動きを止めた。
だが、中心部へ残る最後の線は、特に太く、周囲の支持構造と複雑に繋がっていた。
「これを切れば、中心の制御は止まるはず……」
ねじれが、攻撃の構えを取る。
しかし、リューキュウが彼女を制した。
「待って。切断したときの影響が読めないわ」
「でも、切らなきゃ止まらないよ!」
「そうね。だから、タイミングを合わせる」
リューキュウは、周囲を見た。
「ロックロック、支持構造の状態は?」
『東側は維持できてる! 西側は不安定だが、センチピーダーが支えている!』
「センチピーダー、もう少しだけ支えられる?」
『可能です!』
「バブルガール、作業員たちの避難は?」
『全員、外へ出ました! これ以上の救助対象はいません!』
ナイトアイの声が続く。
『今です。ねじれさん、接続部を切断してください。リューキュウは、構造が崩れた場合に備えて支えをお願いします』
「了解!」
ねじれが、両手を前へ伸ばした。
螺旋状のエネルギーが、掌に集まる。
一瞬だけ、施設の全ての光が、彼女の手元へ集まったように見えた。
ねじれは息を整え、狙いを定める。
「……行くよ!」
エネルギー波が放たれた。
螺旋状の光が、黒い線の束を貫く。
接続部が砕けた。
その瞬間、施設全体が大きく揺れた。
「来るわ!」
リューキュウが叫ぶ。
彼女は竜の身体を広げ、天井から落ちる部材を受け止めた。
ロックロックが、支柱を固定する。
センチピーダーが、長い身体で構造物を支える。
バブルガールは泡を放ち、残る搬送アームを別方向へ誘導した。
そして、ミリオが制御区画から飛び出した。
「みんな、離れて!」
彼は透過し、落下する部材をすり抜けた。
床を抜け、壁を抜け、仲間たちのいる通路へ飛び出す。
その直後、黒い線が一斉に動きを止めた。
透明板が、ゆっくりと回転する。
赤い光点が、一つずつ消えていく。
『予測経路……』
音声が途切れた。
『……再設定……』
最後の光が、消えた。
施設が、静かになった。
それまで絶え間なく動いていた設備が、ぴたりと止まった。
隔壁は開いたまま。
搬送アームは動かない。
床も、天井も、もう変形しない。
ただ、崩れかけた建物が軋む音だけが、残っていた。
ねじれが、ゆっくりと息を吐いた。
「……止まった?」
リューキュウは、周囲を確認した。
「ええ。少なくとも、設備の異常な動きは停止したようね」
ミリオが、拳を高く掲げた。
「やったあああああ!」
その声が、静まり返った施設の中へ響いた。
「みんな、無事ですかー!?」
「無事だ!」
ロックロックが返す。
「こっちは問題ない!」
センチピーダーも頷いた。
「作業員の救出も完了しています」
バブルガールは、肩で息をしながら笑った。
「全員、安全な場所へ移動できました!」
ねじれが、嬉しそうに両手を上げた。
「やったね! 未来を止めたよ!」
「……いいえ」
ナイトアイの声が、通信から聞こえた。
「未来を止めたわけではありません」
全員が、少しだけ動きを止めた。
ナイトアイは続けた。
「私たちが止めたのは、誰かの行動を予測し、その行動に合わせて選択肢を塞ごうとする仕組みです」
彼は、静かに言った。
「未来そのものを止めたわけではない。これから何が起こるのかは、まだ分かりません」
ミリオは、通信機を見つめた。
そして、笑顔で頷いた。
「そうですね!」
彼は、動かなくなった制御板を見た。
「でも、これから何をするかは、僕たちが決められます!」
ナイトアイは、返答しなかった。
ただ、彼の胸の奥で、何かが少しだけほどけたような気がした。
十二 未来を知る者は、何を見落とした
救助隊が到着し、施設内の安全確認が始まった。
作業員たちは無事に救出され、重傷者もいなかった。
壊れた設備は調査対象となり、黒い線と透明板の残骸は慎重に回収された。
しかし、その正体が何なのかは、まだ分からない。
安寧システムの残滓と関係があるのか。
誰かが意図的に作り出したものなのか。
それとも、既存の制御システムが、何らかの異常な情報を受け取って動いていたのか。
現時点では、どれも可能性の域を出なかった。
ナイトアイは、施設の外で、ミリオと向き合っていた。
「……よくやりました」
「ありがとうございます!」
ミリオは、胸を張った。
「でも、サーの指示があったから、他のみんなも動けたんです。僕一人じゃ、無理でした!」
「……そうですね」
ナイトアイは頷いた。
「全員が、それぞれの役割を果たした結果です」
ミリオは、少し考えてから尋ねた。
「サー。さっき、僕の未来を予知しましたよね?」
「ええ」
「僕が、動けなくなる未来を」
「……そのとおりです」
「でも、僕は動けなくなりませんでした」
ナイトアイは、黙って彼を見た。
ミリオの声は、いつものように明るかった。
しかし、そこには、からかうような調子はなかった。
「サーの予知が間違っていたって言いたいわけじゃないんです」
彼は、言葉を選ぶように続けた。
「僕は、サーの予知を信じています。未来が見えることが、どれだけすごいことかも知っています。危険を見つけて、誰かを助けるために使える力だってことも」
ナイトアイは、静かに聞いていた。
「でも、今日の僕は、サーが見た未来とは違う行動をしました。どうすれば助かるのか、最初から分かっていたわけじゃない。途中で何度も困ったし、失敗しかけたし、危ない目にも遭いました」
ミリオは、自分の手を見つめた。
「それでも、考えて、動いて、みんなに助けてもらって、何とかここまで来られた」
彼は、顔を上げた。
「だから、未来を知ることができても、それだけで全部が決まるわけじゃないんだと思います」
ナイトアイは、目を伏せた。
「……そうですね」
「それと……」
ミリオは、少しだけ困ったように笑った。
「僕は、サーの予知を否定したいわけじゃないんです。むしろ、サーが見た未来を教えてくれるから、僕たちは危険に備えられる。今回だって、サーが僕の未来を見てくれたから、何に気をつければいいのか分かりました」
「しかし、私は……」
ナイトアイは、言葉を止めた。
ミリオは待った。
急かさない。
無理に続きを求めない。
それもまた、彼らしい態度だった。
やがて、ナイトアイは口を開いた。
「私は、未来を見通す力を持っています。その力で、多くの危険を事前に把握し、被害を防ぐことができました」
彼は、遠くを見つめた。
「だからこそ、私は、未来を知ることの重要性を誰よりも理解しているつもりでした」
一度、呼吸を整える。
「ですが、今日の戦闘で、改めて気づかされました。未来を知ることは、判断に役立つ。けれど、見えた未来を絶対のものとして扱えば、それ以外の可能性を、自分自身が見落としてしまうことがある」
ミリオは、頷いた。
「はい」
「私は、あなたが危険な未来へ向かうと知り、その未来を避けるように指示しました。ですが、あなたがどう考え、どのように行動するか。その可能性を、十分に考えていなかった」
ナイトアイは、ミリオを見た。
「私は、あなたが選ぶ未来を信じていたつもりでした。しかし、私は同時に、自分が見た未来を、あなたの未来として扱っていたのかもしれません」
その言葉は、ナイトアイ自身にとっても、容易に口にできるものではなかった。
自分の能力を否定することではない。
過去の判断が、全て間違っていたと認めることでもない。
ただ、自分が正しいと思ってきたものを、もう一度見つめ直すということだった。
「……サー」
ミリオは、静かに言った。
「僕は、サーに教えてもらったことを、無駄だったなんて思っていません」
ナイトアイの目が、僅かに動く。
「未来を考えること。危険を予測すること。失敗しないために準備すること。それは、今でも大切だと思います」
ミリオは、笑顔を浮かべた。
「でも、僕は、未来が分からないときでも、前へ進みたいんです」
ナイトアイは、その言葉を聞いていた。
「どうなるか分からない。正しいかどうかも、すぐには分からない。それでも、困っている人がいたら、助けたい。何かできることがあるなら、やってみたい」
ミリオは、拳を握った。
「もちろん、考えなしに突っ込むのが正しいとは思いません。ちゃんと考えます。失敗したら反省します。危険なら、誰かに助けてもらいます」
彼は、少し照れくさそうに笑った。
「でも、未来が見えないからって、何もしない理由にはしたくないんです」
ナイトアイは、しばらく彼を見つめていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……あなたらしい答えですね」
「そうですか?」
「ええ。無謀で、楽観的で、時に理解に苦しみます」
「褒められてます?」
「半分は」
「もう半分は?」
「反省しなさい」
「やっぱり!」
ミリオが笑う。
ナイトアイも、ごく僅かに口元を緩めた。
しかし、その表情はすぐに真剣なものへ戻った。
「ミリオ。今回の件で、私は一つ、考えなければならないことができました」
「何ですか?」
「予知された未来を、誰かに伝えるとき。私は、その未来が絶対だと受け取られることを恐れていました。ですが、同時に、その未来を変えようとする相手の意思を、どこまで信じていたのか……自分自身に問い直す必要があります」
彼は、ゆっくりと言葉を続けた。
「未来を見たからといって、その未来に登場する人間の選択まで、私が決めていいはずはありません」
ミリオは頷いた。
「そうですね」
「未来を伝えることは、命令を下すことではない。危険を知らせることは、他人の人生を決めることではない」
ナイトアイは、自分自身へ言い聞かせるように言った。
「私が見た未来は、私が知り得た情報の一つです。それをどう扱うか。どのような選択をするのか。最終的に、それを決めるのは、当事者自身であるべきなのでしょう」
ミリオは、笑った。
「それなら、僕はこれからも、自分で選びます」
「ええ」
「そのときは、また助言をお願いします!」
ナイトアイは、一瞬だけ目を見開いた。
そして、静かに頷いた。
「……分かりました」
彼らの間にあるものは、単なる師弟関係ではない。
未来を見通す者と、その未来へ向かって歩こうとする者。
導こうとする者と、自分自身で進もうとする者。
意見が違うこともあるだろう。
判断を誤ることもあるだろう。
それでも、互いの意思を尊重しながら、話し合うことはできる。
ナイトアイは、その可能性を、今度こそ見落としたくないと思った。
十三 壊理の問い
少し離れた場所で、壊理は大人たちの会話を聞いていた。
詳しい内容は、全て理解できたわけではない。
未来を予知すること。
予知された未来を変えること。
自分が何を選ぶのか。
その選択が、誰かの未来に影響すること。
難しい言葉が、いくつも出てきた。
それでも、壊理には、一つだけ分かったことがあった。
未来が見える人にも、分からないことがある。
未来が見えたとしても、その未来をどうするのか、全てを決められるわけではない。
壊理は、そっと自分の手を見た。
自分の個性《巻き戻し》。
人や生き物の状態を、過去の段階へ戻す力。
失われたものを取り戻すことができるかもしれない力。
傷ついた人を救えるかもしれない力。
けれど、それがどれほど大きな力なのか、壊理自身には、まだ分からない。
周囲の大人たちは、ときどき、彼女の個性について話す。
これから何ができるのか。
どんな未来が待っているのか。
誰を助けることができるのか。
それは、壊理のことを心配しているからなのだろう。
彼女を大切に思ってくれているからなのだろう。
それでも。
壊理は、時々、怖くなる。
自分の力が、誰かの期待どおりに使われなければならないものになってしまうのではないか。
自分が、誰かを救うためだけの存在になってしまうのではないか。
未来を知る人がいる。
未来を変えたいと願う人がいる。
そして、自分には、過去を巻き戻す力がある。
もしかしたら、自分も、何かを変えることができるのかもしれない。
でも、それは――。
自分が望んだことなのだろうか。
壊理は、少しだけ顔を伏せた。
「……ミリオお兄ちゃん」
「ん?」
ミリオが、すぐに振り向いた。
「未来って……自分で決めてもいいの?」
その問いに、ミリオは一瞬だけ驚いた。
ナイトアイも、静かに壊理を見た。
壊理は、言葉を探すように続ける。
「もし、未来が分かる人がいて……その人が、こうなるって言ったら……」
小さな手が、服の裾を握る。
「それと違うことを考えても、いいの?」
誰も、すぐには答えなかった。
壊理は、少し不安そうに顔を上げる。
「……わたし、よく分からなくて」
ミリオは、壊理の前にしゃがみ込んだ。
「もちろん、いいよ」
彼は、はっきりと言った。
「未来が分かる人がいても、壊理ちゃんが何を考えるかは、壊理ちゃんのものだよ」
壊理は、目を見開いた。
「でも、もし……わたしが間違えたら?」
ミリオは、少し考えた。
「そのときは、どうして間違えたのか、一緒に考えよう」
「……一緒に?」
「うん。僕だって間違えるし、サーだって、きっと間違えることはある。だから、一人で全部決めなくてもいいんだ」
ミリオは、笑顔を浮かべた。
「でも、壊理ちゃんがどうしたいのかを、壊理ちゃんより先に誰かが決めてしまうのは違うと思う」
壊理は、少しだけ視線を落とした。
「……わたしが、嫌だって言っても?」
「うん」
「怖いって言っても?」
「もちろん」
「……こうしたいって言っても?」
ミリオは、すぐに頷いた。
「それを、ちゃんと聞くよ」
壊理の表情が、少しだけ和らいだ。
「……よかった」
その言葉は、小さかった。
だが、確かにそこにあった。
ナイトアイは、そのやり取りを黙って聞いていた。
彼は、自分が未来を知る人間であることに、誇りを持ってきた。
しかし、未来を知ることができるからといって、誰かが何を望むのかまで分かるわけではない。
その人が何を怖がり、何を嫌がり、どんな人生を生きたいと思っているのか。
それらは、予知の映像だけでは分からない。
本人の声を聞かなければならない。
そして、その声を聞いたうえで、何をすべきかを考える。
ナイトアイは、眼鏡を外した。
「……壊理」
「はい」
「未来について、誰かから何かを言われたとしても、分からないことがあれば、遠慮せずに尋ねなさい」
彼は、静かに言った。
「あなた自身が、何を望んでいるのか。そのことを、誰かが勝手に決めてはなりません」
壊理は、少し考えてから頷いた。
「……はい」
ナイトアイは、その返事を聞いた。
だが、彼はまだ、壊理の未来について、何も決めなかった。
それが今、彼にできる、最も誠実な態度なのかもしれなかった。
十四 予知の外側
現場の調査が一段落したころ、センチピーダーが回収された記録を整理していた。
「サー。中央部の残骸から、奇妙な記録が見つかりました」
ナイトアイは、画面へ目を向けた。
「どのようなものですか?」
「明確な設計図ではありません。設備が動く直前に、複数の経路が記録されていたようです。ただ、その経路は、実際の動きと完全には一致していない」
「予測経路と実際の移動が、ずれていたということですか」
「はい。ある時点までは一致しているのですが、対象が予測外の行動を取ると、記録が書き換えられている。その後、設備の配置も変わっているようです」
ナイトアイは、記録を見つめた。
「……やはり、予測を実現するために、環境そのものを変えていた可能性がありますね」
「ええ。ただし、誰が、何の目的で、この仕組みを作動させたのかは分かっていません」
「安寧システムとの関連も、まだ断定できませんね」
「はい」
ナイトアイは、画面を閉じた。
分からないことは多い。
今回の異常が、オール・フォー・ワンの残したものなのか。
安寧システムの残滓が何らかの影響を及ぼしたのか。
それとも、別の要因によって引き起こされたのか。
どれも、今は決められない。
だが、この仕組みが示していたことは、少なくとも一つあった。
未来を予測することと、未来を実現させることは違う。
そして、未来を実現させようとするために、他者の選択肢を奪うことは、予測の精度を高めることとは別の問題だ。
「……予知という力は、情報を得るためのものです」
ナイトアイは、静かに言った。
「未来の光景を見たからといって、それが絶対の正解であるとは限らない。まして、その未来に登場する人々の行動を、私が決めていいはずはない」
センチピーダーは、彼を見た。
「サーは、今回のことで考え方が変わられたのですね」
「……変わったというより、考え直す機会を得たのでしょう」
ナイトアイは苦笑した。
「私自身の判断についても、まだ振り返るべきことが多い。未来を見通せることを誇りに思うあまり、未来が変わる可能性を、どこまで真剣に考えていたのか」
彼は、ミリオを見た。
ミリオは、壊理と話しながら、彼女の歩く速度に合わせていた。
何かを教え込むわけでもなく、彼女の代わりに答えを出すわけでもない。
ただ、壊理が何を話したいのかを待っている。
その姿を見て、ナイトアイは、少しだけ目を細めた。
彼が見落としていたもの。
それは、未来そのものではないのかもしれない。
未来を選ぼうとする人間の意思。
未来が見えないからこそ、迷いながら一歩を踏み出す人間の姿。
そして、誰かの未来を守りたいと思うとき、その人の選択を奪わないようにすることの難しさ。
予知の光景には、行動が映る。
結果が映る。
ときには、避けられないように見える結末さえ映る。
だが、その人が何を思い、なぜその行動を選び、誰の言葉を受け取りながら生きていくのか。
その全てを、一度の予知で理解することはできない。
「……私は、未来を見ていました」
ナイトアイは呟いた。
「ですが、未来を見ている人間自身を、十分に見ていなかったのかもしれません」
その言葉は、誰かに向けたものではなかった。
過去の自分へ向けた言葉だった。
そして、これからの自分へ向けた問いでもあった。
十五 傲慢編の始まり
夕暮れが、湾岸地区を包み始めていた。
救助された作業員たちは病院へ搬送され、施設周辺の安全確認も進んでいる。
今回の異常による被害は、幸いにも最小限に抑えられた。
だが、ナイトアイは、それを単純な成功として片づけることができなかった。
彼らは、確かに危険を乗り越えた。
しかし、それは誰か一人が正しい未来を知っていたからではない。
それぞれが状況を見て、考え、助け合ったからだ。
間違いを避けるために計画を立てた。
その計画が通用しなくなれば、別の方法を探した。
誰かの判断が危険を招きそうになれば、別の誰かが支えた。
そして、最後まで、全員が自分の役割を選び続けた。
ナイトアイは、壊理を見た。
彼女はミリオの隣で、小さな声で話している。
ミリオは、その言葉を遮らずに聞いていた。
壊理は、まだ自分の未来について、はっきりとした答えを持っていないのだろう。
何ができるのか。
何をしたいのか。
自分の個性が、これからどのような意味を持つのか。
それらを、急いで決める必要はない。
彼女は、誰かを救うために生まれてきたわけではない。
誰かの願いをかなえるためだけに、生きるわけでもない。
彼女自身の人生がある。
その人生を、彼女自身が少しずつ知り、選んでいく時間が必要なのだ。
ナイトアイは、静かに息を吐いた。
「……未来を知る者は、何を見落としたのか」
その問いを、もう一度、自分の胸に刻む。
彼は、これまで未来を見通すことで、正しい判断を下そうとしてきた。
しかし、未来を知ることができても、その未来をどう扱うかは別の問題だ。
誰かを救うために、危険を予測する。
そのことは、間違っていない。
だが、予測した未来を絶対のものとして扱い、他人が別の選択をする可能性を最初から捨ててしまえば、それは救うための力ではなく、支配するための力へ近づいてしまう。
そして、未来を変えようとする人間の意思を信じることは、必ず成功すると信じることではない。
失敗する可能性を認めること。
望んだ結果にならない可能性を受け入れること。
それでも、相手が自分自身の人生を選ぶ機会を残すこと。
その難しさを、ナイトアイは改めて理解し始めていた。
「サー」
ミリオが声をかけた。
「そろそろ戻りましょう!」
ナイトアイは頷いた。
「ええ」
彼は歩き出す。
その背後には、回収された黒い線と透明板の残骸があった。
未来を予測し、行動を先回りし、選択肢を狭めることで、特定の結果を実現しようとした仕組み。
その正体は、まだ分からない。
ただ、それが示した問題は、ナイトアイ自身の問題とも重なっていた。
未来を知ることは、必ずしも、未来を理解することではない。
未来を予測することは、必ずしも、未来を守ることではない。
そして、他人のために最善の道を示そうとすることが、いつしか他人の選択を奪う行為へ変わることもある。
ナイトアイは、その可能性を見落としたくなかった。
彼は、ミリオと壊理の後ろ姿を見つめた。
未来は、まだ決まっていない。
少なくとも、彼が代わりに決めていいものではなかった。
強欲編が終わっても、問題は残っている。
人々の願いを支配の道具へ変えてきた仕組み。
正しさを絶対視し、他人の選択を認められなくなる心。
そして、自分が見たもの、自分が信じたものを、全ての答えだと思い込んでしまうこと。
それらは、オール・フォー・ワンだけの問題ではない。
誰かを救いたいと願う者にも。
誰かを導きたいと考える者にも。
未来を知りたいと願う者にも。
そして、未来を変えたいと願う者にも。
起こり得る問題だった。
ナイトアイは、胸の奥に残る痛みを感じながら、それでも前を向いた。
今度こそ、予知された未来だけを見つめるのではなく、その未来の中で生きる人間の声を聞こう。
自分の判断を正しいと思い込む前に、別の可能性を探そう。
未来を知っているという理由で、誰かの選択を奪わないようにしよう。
その誓いが、これからどこまで守れるのか。
まだ分からない。
だが、分からないからこそ、考え続けなければならない。
そして、次に向き合うべき問題は、もう目の前にあった。
壊理。
彼女が持つ、過去を巻き戻す力。
その力が、誰かの希望になり得ること。
そして、その希望を理由に、彼女自身の人生が、誰かによって決められてしまうかもしれないこと。
ナイトアイは、足を止めた。
「……ミリオ」
「はい?」
「壊理のことを、これからもよく見ていてあげてください」
ミリオは、すぐに頷いた。
「もちろんです!」
だが、ナイトアイは、それだけでは足りないと感じていた。
壊理を守ること。
そのために、彼女の代わりに答えを出すこと。
その二つは、同じではない。
むしろ、彼女を守ろうとするあまり、彼女自身が選ぶ機会を奪ってしまうこともある。
だからこそ、大人たちは考えなければならない。
彼女の力に、どのような意味を見いだすのか。
彼女に、何を期待するのか。
そして、その期待を、彼女自身が望んでいないとき、どうするのか。
未来を知る者として。
未来を見守る者として。
大人として。
その問いから、目を逸らしてはいけない。
夕暮れの空の下、ナイトアイは静かに歩き出した。
そして、傲慢編の本当の問題が、これから姿を現そうとしていた。
傲慢編開幕