一 希望という言葉
「壊理ちゃん。今日の調子はどう?」
「大丈夫です」
「体調のことよ。眠れたか、食事は取れたか、それから……何か気になることはなかった?」
「はい。ちゃんと眠れました」
壊理は、両手を膝の上に置いて答えた。
医療施設の面談室は静かだった。
大きな窓から午後の日差しが差し込み、机の上には温かい飲み物と、壊理が選んだ小さな菓子が置かれている。
面談を担当している医師は、彼女の記録を確認してから微笑んだ。
「よかった。無理をしないで、少しずつ生活のリズムを整えていきましょうね」
「はい」
その隣では、サー・ナイトアイが資料を読んでいた。
向かい側には通形ミリオが座っている。ミリオは壊理が選んだ菓子を一つ手に取り、何か言おうとして、医師に視線を向けられて静かに元へ戻した。
「……食べないんですか?」
壊理が尋ねる。
「いや、壊理ちゃんが選んだものだから、壊理ちゃんが食べるのを見守ろうと思って!」
「ミリオくんも食べていいですよ」
「本当に!?」
「食べていいですが、今は面談中です」
ナイトアイが言った。
ミリオは、菓子をそっと机へ戻した。
「はい……」
壊理が小さく笑う。
その笑顔を見て、ナイトアイの表情もわずかに和らいだ。
こうした時間は、必要だった。
戦いのためでも、個性を研究するためでもない。
壊理が、普通の子供として過ごす時間。
食べたいものを選び、眠りたいときに眠り、気になることを尋ねる。
誰かの指示を待つのではなく、自分の気持ちを確かめる時間。
それを守ることも、彼らの大切な仕事だった。
しかし、面談が終わろうとしたとき、医師が別の資料を取り出した。
「壊理さん。少し先のことについて、確認しておきたいことがあるの」
壊理の肩が、ほんの少しだけ上がった。
「……先のこと?」
「ええ。あなたの個性について、医療の観点から、長期的な支援計画を考えているのよ」
ナイトアイが顔を上げる。
「具体的には、どのような計画でしょうか」
医師は、慎重に言葉を選んだ。
「もちろん、今すぐ何かをしてもらおうという話ではないわ。ただ、壊理さんの《巻き戻し》には、身体の状態を過去へ戻す可能性がある。将来的には、重い怪我を負った患者さんや、個性を失った方に対する治療の研究にもつながるかもしれない」
「……」
「だからといって、壊理さんに責任を負わせるつもりはありません。本人の意思と安全を最優先にすること。それは大前提です」
医師は、はっきりと付け加えた。
悪意のある言葉ではなかった。
壊理の力を利用しようと考えていたわけでもない。
本当に、彼女が持つ可能性を、未来の医療へつなげられないかと考えているのだろう。
「もし安全に使える方法が見つかれば、多くの人を救える可能性があります。失われたものを取り戻すための、希望になるかもしれません」
希望。
その言葉を聞いたとき、壊理の指が止まった。
ミリオが、それに気づいた。
壊理は、机の上の菓子を見つめていた。
さっきまで、どれを食べようか考えていた。
今は、そのことを忘れてしまったようだった。
「……希望」
小さな声が漏れる。
医師は、彼女の様子に気づいた。
「あ、ごめんなさい。少し難しい話になってしまったわね。今日はここまでにしましょうか」
「いえ……」
壊理は顔を上げた。
「わたしの個性があれば、みんな、助かるんですか?」
医師は、すぐには答えなかった。
「……必ず、とは言えないわ。個性には限界もあるし、使うための条件や、あなた自身の負担についても、まだ分からないことが多いの」
「でも、助かるかもしれないんですよね?」
「可能性はあるわ」
壊理は、ゆっくり頷いた。
「……分かりました」
それだけ言って、口を閉じた。
ミリオは、彼女の横顔を見つめた。
何か言おうとした。
けれど、その前にナイトアイが資料を閉じた。
「本日の面談は、ここまでにしましょう」
「サー……?」
「これ以上、壊理に将来の役割を考えさせる必要はありません。具体的な支援計画については、大人たちで整理してから説明します」
医師は、真剣な顔で頷いた。
「そうね。焦らず、本人の意思を大切にしましょう」
壊理は、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
三人が面談室を出る。
廊下を歩きながら、ミリオは壊理の隣をゆっくり進んだ。
「壊理ちゃん。さっきの話、気になった?」
「……少しだけ」
「そっか」
ミリオは、それ以上、すぐには尋ねなかった。
壊理の歩く速さに合わせる。
彼女が何かを話したくなったら、聞けばいい。
そう思った。
しかし、壊理はしばらく沈黙したあと、ぽつりと言った。
「……わたし、誰かを助けられるなら、助けたいです」
ミリオは、頷いた。
「うん」
「でも……」
壊理は、服の裾を握った。
「みんなが、わたしに助けてほしいって思ったら……わたし、全部、やらなきゃいけないんですか?」
ミリオの足が止まった。
壊理は、俯いたまま続ける。
「わたしが助けられるのに、助けなかったら……その人が困るかもしれない。わたしがやらなかったせいで、何かが元に戻らなかったら……」
言葉が途切れた。
それは、彼女自身が、これまでの経験から抱き始めた不安だった。
力を持っていること。
その力を必要とする人がいること。
力を使えば、誰かを救えるかもしれないこと。
その三つが揃ったとき、力を持つ本人には、断る権利が残されているのだろうか。
壊理は、その答えを知らなかった。
「……わたし、まだ、よく分からないんです」
ミリオは、すぐには答えなかった。
「うん」
「誰かを助けたいって思うことは、悪いことじゃないと思います。でも、わたし……」
壊理は、顔を上げた。
「わたしが、何をしたいのかも、まだ分からないんです」
ミリオは、静かに頷いた。
「そっか」
そして、彼女と目線を合わせるために、少し腰を落とした。
「じゃあ、今は分からないままでいいんじゃないかな」
壊理は、目を見開いた。
「……分からないままでも、いいんですか?」
「うん。まだ分からないんだったら、これから少しずつ考えればいい。明日には分かるかもしれないし、何年もかかるかもしれない。途中で考えが変わることだってある」
ミリオは笑った。
「僕だって、最初から全部分かっていたわけじゃないよ」
「……ミリオお兄ちゃんも?」
「もちろん!」
彼は胸を張った。
「僕だって、迷うことはある。何が一番いいのか、すぐに分からないこともある。それでも、考える時間はあるんだ」
壊理は、しばらく彼を見つめていた。
やがて、少しだけ表情が和らいだ。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして!」
そのとき、廊下の奥から、緊急アラームが響いた。
赤い警告灯が、一斉に点灯する。
続いて、館内放送が流れた。
『緊急警報。東側搬入口に侵入者を確認。全職員は避難手順に従ってください』
ミリオの表情が変わった。
壊理を背後へ庇う。
「……壊理ちゃん。僕の後ろにいて」
「は、はい!」
ナイトアイが、廊下の向こうから走ってきた。
「ミリオ、壊理を連れて安全区域へ!」
「サー、何があったんですか?」
「搬入口の警備システムが破られました。侵入者は、施設の奥へ向かっている」
ナイトアイは、一瞬だけ壊理を見た。
そして、すぐに決断した。
「壊理の保護を最優先にします」
その声に、ミリオは頷いた。
だが、壊理は、小さな声で尋ねた。
「……わたしが、狙われているんですか?」
ナイトアイは答える前に、ほんの一瞬だけ言葉を選んだ。
「可能性はあります」
壊理の顔が、青ざめる。
「……わたしの個性が、ほしいから?」
今度は、誰もすぐに答えられなかった。
その沈黙が、壊理には何よりも雄弁だった。
二 回収対象、壊理
東側搬入口。
警備員たちが、次々に通路から押し戻されていた。
敵の数は十名ほど。
全員が顔を覆う装備を着け、身体の各所に、小型の制御装置を取り付けている。
その背後では、黒いケーブルが這い回っていた。
ケーブルの先端には、薄い透明板が備わっている。
旧物流施設で確認されたものと、よく似た構造だった。
しかし、同じ仕組みなのか、それとも誰かが模倣したのか。
この時点では、断定できない。
侵入者の一人が、壁の端末を操作した。
「警備システムを封鎖。対象の位置を確認しろ」
別の者が答えた。
「確認できました。対象は医療棟の二階。護衛は複数。通形ミリオ、サー・ナイトアイの姿も確認」
「構わない。対象だけを確保する」
その声を聞いて、侵入者たちは一斉に動き出した。
彼らの目的は、明確だった。
壊理を確保する。
それ以外の人間は、邪魔であれば排除する。
そして、彼女の力を利用できる場所へ連れていく。
「……やはり、来たか」
ナイトアイは、監視映像を見ながら呟いた。
「サー、相手は何者なんですか?」
センチピーダーが尋ねる。
「分かりません。ですが、彼らは壊理の個性を知っている可能性が高い」
ナイトアイは、画面を拡大した。
侵入者の装備には、捕縛用の器具が組み込まれている。
その中には、個性の発動を妨げる目的で使われるものもあった。
「……壊理を、戦闘要員として扱うつもりはないようですね」
センチピーダーが言った。
「ええ。むしろ、彼女を傷つけずに確保しようとしている」
「それなら、なおさら厄介です」
センチピーダーは眉をひそめた。
「彼女を傷つけないことと、彼女の意思を尊重することは違いますからね」
ナイトアイは、僅かに目を細めた。
「……そのとおりです」
彼は通信を開いた。
「バブルガール、ロックロック。侵入者の進行経路を塞いでください。ただし、施設の医療設備を破壊しないように」
『了解!』
『任せろ!』
「リューキュウ、波動ねじれ。外周から侵入した敵がいないか確認を。敵が複数の経路に分かれている可能性があります」
『分かったわ』
『了解! 上から探すね!』
ナイトアイは、次にミリオを見た。
「ミリオ。あなたは壊理を安全区域へ移動させてください」
「はい!」
「敵がどのような能力を持っているか、まだ分かりません。単独で深追いしないように」
「分かりました!」
ミリオは、壊理へ手を差し出した。
「行こう、壊理ちゃん」
壊理は、その手を見た。
一瞬だけ、迷った。
そして、そっと手を取った。
「……はい」
二人が歩き出す。
その直後、廊下の壁が爆ぜた。
金属製の捕縛器具が、壁を破って飛び込んでくる。
「危ない!」
ミリオは、壊理を抱え上げた。
自分の身体を透過させ、器具をすり抜ける。
しかし、壊理を抱えたままでは、接触の条件や透過の制御が難しくなる。
ミリオは壁を抜け、廊下の反対側へ飛び出した。
着地。
透過解除。
すぐに壊理を安全な場所へ下ろす。
「怪我はない?」
「だ、大丈夫です!」
「よかった!」
彼が振り返ると、廊下の向こうから、侵入者たちが現れた。
先頭の男が、手を上げる。
黒いケーブルが床を走り、壁を登り、天井を這う。
「対象を確認。通形ミリオ、サー・ナイトアイ。抵抗をやめろ」
ミリオは、壊理の前に立った。
「それは無理な相談だね!」
男は首を傾けた。
「我々は対象を傷つけるつもりはない。彼女の能力を必要としているだけだ」
「……それを、壊理ちゃん本人に聞いたの?」
男は、数秒間沈黙した。
「本人の意思は、今の状況では重要ではない」
ミリオの笑顔が、消えた。
「……そうか」
彼は一歩前へ出た。
「それなら、絶対に通せないな」
男が指を下ろす。
黒いケーブルが、一斉に襲いかかった。
三 救うための戦い
「ミリオ、右!」
ナイトアイの声が通信に飛び込んだ。
ミリオは、反射的に右へ動いた。
直後、壁から伸びた拘束具が、彼のいた場所を切り裂く。
彼は身体を透過させ、ケーブルをすり抜けた。
だが、敵はその動きを待っていた。
床の下から、別の拘束器具が飛び出す。
ミリオは、透過を解除しかけた身体を再び沈め、床を抜けた。
下階へ落下。
すぐに透過を解除し、壁から弾き出される。
その勢いを使い、別の廊下へ飛び込む。
「うわっ、またこれか!」
背後から、ケーブルが追いかけてくる。
ミリオは壁を透過し、敵の後方へ抜けた。
実体化。
振り返る。
敵の一人の腕を掴む。
「ごめんね!」
ミリオは相手の身体を投げ飛ばすのではなく、勢いを利用して壁から遠ざけた。
男は床へ転がり、動きを止める。
その隙に、ミリオは拘束装置の接続部を踏みつけた。
金属音。
装置が外れる。
だが、別の敵がすぐに迫ってきた。
両手から、細いワイヤーが伸びる。
ミリオは透過した。
ワイヤーが身体を通り抜ける。
しかし、ワイヤーは床へ刺さると、急激に張り詰めた。
周囲の壁と床が引き寄せられ、ミリオの逃げ道を塞ぐ。
「……なるほど!」
彼は、状況を見た。
敵は、単純に捕縛するだけではない。
周囲の設備やケーブルを組み合わせ、移動可能な空間を狭めている。
旧物流施設で戦った、自動予測システムと同じような戦い方だった。
ただし、今回は人間がその装置を操作している。
敵は、ミリオの動きを見ながら、次の拘束を選んでいるのだ。
「僕の動きを見て、罠を変えてるんだね!」
ミリオは、ケーブルの隙間を抜ける。
その瞬間、横から拳が飛んできた。
ミリオは身体を傾けて避ける。
続けて、膝蹴り。
さらに肩からの体当たり。
敵は近接戦闘にも慣れていた。
ミリオは相手の腕をすり抜け、背後へ回り込む。
「でも!」
彼は床を透過し、半階ほど落下してから、壁を抜けて横へ飛び出した。
「僕の動きを全部読めるわけじゃない!」
彼は敵の背中へ体当たりし、相手を床へ押し倒した。
すぐに拘束具を取り外す。
だが、倒れた男が手を伸ばし、ミリオの足首を掴んだ。
「捕まえた!」
「えっ、そこ!?」
床が開いた。
ミリオの身体が落下する。
敵は、そのまま足首を掴み続けようとした。
ミリオは、身体を透過させた。
相手の手をすり抜ける。
落下した先で透過を解除し、床から弾き出される。
彼は転がりながら立ち上がった。
「……ふう。危なかった!」
しかし、息を整える暇もない。
前方から、複数のケーブルが迫っている。
ミリオは笑顔を消した。
「……壊理ちゃんに近づかせるわけにはいかない」
彼は、再び地面を蹴った。
一方、東側の廊下では、バブルガールが侵入者たちと対峙していた。
「はい、そこまで!」
彼女は両手を前へ出し、泡を一斉に放った。
白い泡が廊下へ広がる。
侵入者たちの視界を覆い、足元に滑りやすい膜を作り、さらに独特な匂いを放つ。
「なっ……何だ、この匂いは!」
「甘ったるい……いや、違う、鼻が痛い!」
バブルガールは笑った。
「私の泡は、見た目だけじゃないんですよ!」
彼女は泡を追加で放ち、敵の顔を覆う。
「視界を奪われると、連携しにくいでしょう?」
しかし、侵入者の一人が、装備の側面を操作した。
透明な板が回転し、赤い光を放つ。
その光が泡を照らす。
「光学センサーで位置を確認している……?」
バブルガールは、すぐに判断した。
ならば、視界を遮るだけでは足りない。
彼女は泡を床へ落とし、壁へ貼りつけ、通路全体に異なる色の反射を作り出す。
敵のセンサーが、無数の泡へ向いた。
「どれが本物の進路か、分かりますか?」
バブルガールが走る。
侵入者たちが追いかける。
だが、彼女は角を曲がると、突然立ち止まった。
後ろから追ってきた敵が、泡で滑って転倒する。
「ごめんなさい!」
バブルガールは一瞬だけ謝り、それから、その男の手首に拘束具をかけた。
「でも、こちらも仕事なので!」
二人目が突進してくる。
彼女は身体を沈め、敵の腕を避ける。
肩へ手を添え、勢いを利用して床へ転がす。
三人目は、泡を避けながら飛び込んできた。
バブルガールは、目の前に大量の泡を放つ。
相手の顔が覆われた。
「見えない!」
「見えないときは、無理に動かないほうがいいですよ!」
彼女は相手の肘を取り、壁へ押しつけて拘束した。
しかし、通路の奥から、黒いケーブルが伸びてきた。
ケーブルは床を這い、壁を登り、バブルガールの足元へ回り込む。
彼女は跳んだ。
だが、天井から別のケーブルが落ちてくる。
「わっ!」
彼女は床へ転がり、間一髪で回避した。
その直後、ケーブルの先端が床へ刺さる。
金属の音。
床の一部が持ち上がり、彼女の進路を塞いだ。
「……ちょっと、これは困りましたね」
彼女は息を吐いた。
「ミリオくんだけじゃなくて、私たちの動きも読んでいるんですね」
通信機へ手を伸ばす。
「サー、東側通路に追加の敵がいます。拘束装置だけではなく、こちらの動きに合わせて設備を動かす機材を使用しています!」
『了解。無理に突破しないでください。ロックロックと合流を』
「はい!」
彼女は、泡を二つ、三つと床へ転がした。
それぞれ異なる匂いを放つ泡が、通路へ広がる。
黒いケーブルのセンサーが、泡へ向いた。
その隙に、バブルガールは脇の通用口へ走った。
「皆さんの予測どおりに動くつもりはありませんよ!」
四 固定する者、動かす者
ロックロックは、搬入口のそばで、複数のケーブルと格闘していた。
「くそっ、次から次へと!」
彼は壁へ手をつけた。
《ロック》。
壁が固定される。
その壁へ接続していたケーブルが引っ張られ、動きを止めた。
しかし、別のケーブルが、天井から伸びてくる。
「そっちは、させねえ!」
ロックロックは、近くにあった金属製の棚へ触れた。
棚が固定される。
天井から降りてきたケーブルが棚へ巻きつき、動きを止めた。
だが、敵はすぐに別の手段を使ってくる。
床が動き、ロックロックの足元が傾いた。
身体が滑る。
「おっと!」
彼は、床へ手をつき、姿勢を保った。
「こいつら、設備を自由に動かしやがる! 固定するものを増やすほど、別の場所から崩そうとするのか!」
そのとき、センチピーダーが細い通路から現れた。
「ロックロック!」
「来たか!」
センチピーダーは、長い身体を伸ばし、床の隙間を通り抜けた。
「こちらにも敵がいます。医療棟へ向かおうとする侵入者を確認しました」
「分かった! 俺がここを押さえる。お前は先へ進め!」
「しかし、一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃねえから、さっさと行けって言ってんだ!」
ロックロックは、にやりと笑った。
「誰かが全部を固定してくれると思うなよ。固定できない場所があれば、別の場所を支えればいい!」
彼は、壁と床の接続部へ手を伸ばした。
複数の部材が固定され、崩れかけていた搬入口の構造が、一時的に安定する。
その隙に、センチピーダーが進路を確保した。
長い身体が、侵入者たちの足元へ滑り込む。
一本の節が、相手の膝を押し、別の節が腕を絡め取る。
センチピーダーは身体を捻り、敵を床へ倒した。
そのまま拘束具を取り上げる。
二人目が背後から飛び込んできた。
センチピーダーは、長い身体をくるりと回転させ、相手の進路を塞ぐ。
敵の足が止まった瞬間、別の節で腕を押さえた。
「抵抗しないでください。あなた方が何を望んでいるにせよ、ここは医療施設です」
「邪魔をするな!」
敵は、腕に巻きついた器具を作動させた。
その器具から、短い衝撃が走る。
センチピーダーの身体が震えた。
「ぐっ……!」
一瞬だけ拘束が緩む。
敵は、その隙に逃げようとした。
しかし、センチピーダーは身体を引き締めた。
「逃がしません!」
彼は、節の一つで床へ身体を固定し、別の部分で敵の腕を押さえ込んだ。
衝撃を受けても、全身の動きを止められないように、身体の使い方を分散させたのだ。
敵は、身動きが取れなくなった。
「……なぜ、そこまでして邪魔をする!」
「簡単なことです」
センチピーダーは、真っ直ぐに答えた。
「あなた方が、助けを求めている人間を、本人の意思を無視して連れていこうとしているからです」
「彼女の力があれば、助かる人間がいる!」
「その可能性を、彼女自身が望んでいるかどうかを確認しましたか?」
敵は、答えなかった。
センチピーダーは、静かに息を吐いた。
「……そうですか」
彼は相手を拘束し、警備員へ引き渡した。
「ならば、あなた方は彼女を救おうとしているのではありません。自分たちが救いたい人々のために、彼女の人生を利用しようとしているのです」
その言葉は、戦闘中の叫びではなかった。
淡々とした指摘だった。
だからこそ、敵は言い返せなかった。
五 龍と波動
医療棟の外では、リューキュウと波動ねじれが空中から侵入者の位置を確認していた。
「ねじれさん、左の搬入口へ向かう敵をお願い!」
「分かった!」
ねじれが腕を伸ばす。
《波動》による螺旋状のエネルギーが放たれ、敵の足元の床を撃ち抜いた。
床が砕け、男の進路が塞がれる。
彼は跳び退き、別の入口へ走ろうとした。
しかし、その先にはリューキュウがいた。
竜の姿となった彼女が、巨大な翼を広げて通路を塞ぐ。
「ここから先へは進ませないわ」
男が装置を向ける。
黒いケーブルが、リューキュウの脚へ飛んだ。
彼女は脚を引き、ケーブルを避ける。
そのまま長い尾を振るい、ケーブルの束を壁へ叩きつけた。
金属がひしゃげ、センサーが火花を散らす。
男は、すぐに別の装置を取り出した。
その装置から、小さな捕縛球が複数飛び出す。
空中で開き、網を広げながらリューキュウへ迫る。
「……小型拘束装置ね」
リューキュウは翼を広げた。
強い風圧が巻き起こる。
網が風に押し戻され、軌道を変えた。
その隙に、ねじれが上空から急降下する。
「そーれっ!」
彼女の拳が、装置の中央へ叩き込まれた。
衝撃が広がり、装置が砕ける。
男は後ろへ跳んだ。
だが、そこには別の捕縛網が待ち受けていた。
「……しまった!」
リューキュウが身体を回転させ、男の進路を塞ぐ。
ねじれは、エネルギー波を小さく調整し、男の足元へ放った。
床が弾ける。
男は体勢を崩した。
「動かないでください」
リューキュウが、静かな声で告げた。
「抵抗すれば、あなた自身が危険になります」
男は悔しそうに歯を食いしばった。
「お前たちは、壊理の力がどれほどのものか分かっていない!」
ねじれが、少しだけ眉をひそめる。
「分かっているよ。すごい力だってことは」
「ならば、なぜ彼女を使わない!」
その言葉に、ねじれの表情が変わった。
「……使う?」
男は、すぐに言い直す。
「利用すると言っているのではない! 救ってもらうのだ! 彼女の力があれば、失われたものを取り戻せる。治せなかった怪我も、失われた個性も、もう一度――」
「でも、それを壊理ちゃんが望んでいるかどうかは、聞いてないんだよね?」
ねじれは、まっすぐに男を見た。
「あなたが助けたい人がいるのは、分かるよ。大事な人を助けたいって思うのも、分かる」
彼女の声は、先ほどよりも低かった。
「でも、あなたが助けたい人がいるからって、壊理ちゃんに何をしてもらうかまで、あなたが決めていいわけじゃないよ」
男は言葉を失った。
ねじれは、空中で一度だけ身体を回転させた。
「助けてほしいなら、本人にお願いすればいい。断られたら、別の方法を考えればいい。それでも助からないものがあるなら……そのことも、ちゃんと考えなきゃいけないと思う」
彼女は、男の装置を蹴り飛ばした。
「でも、助けてほしいからって、相手を連れていっていいことにはならないよ!」
男は、とうとう黙った。
リューキュウは彼を拘束し、警備員へ引き渡した。
その後、二人は上空から周囲を確認した。
まだ敵は残っている。
医療棟の奥から、ミリオの声が聞こえた。
『壊理ちゃんには、絶対に近づけさせないからね!』
ねじれは、その声を聞いて、顔を上げた。
「……ミリオくん、頑張ってるね」
「ええ」
リューキュウは頷いた。
「だからこそ、私たちも全力で支えましょう」
六 見えている未来、届いていない声
ナイトアイは、医療棟の中央通路へ向かっていた。
侵入者たちの装置は、単に扉を開閉するだけではなかった。
人間の動きに反応して、周囲の設備を動かす。
通路を塞ぐ。
拘束器具を飛ばす。
時には、救助対象のいる場所へ誘導するように、わざと安全な道を残す。
それは、旧物流施設の異常と似ていた。
だが、今回は、人間が意図を持って使っている。
そして、その目的は壊理の確保だった。
「サー!」
通信機から、ミリオの声が響く。
「壊理ちゃんのいる部屋の前まで来ました! ただ、扉が閉じていて、中へ入れません!」
「周囲の状況は?」
「扉の前に、拘束装置が三つ。左右の壁からケーブルが伸びています。床も動いているので、無理に実体化すると挟まれそうです!」
ナイトアイは、すぐに状況を整理した。
「ミリオ。扉を無理に突破しないでください。壊理は今、部屋の中ですか?」
『はい! 僕が入る前に、設備が部屋を隔離しました!』
「分かりました。今、向かいます」
ナイトアイは走った。
角を曲がる。
その瞬間、前方に侵入者が現れた。
「サー・ナイトアイ」
男は、落ち着いた声で言った。
「あなたなら理解しているはずだ。壊理の力が、どれほど多くの人々を救える可能性を持っているのか」
ナイトアイは、立ち止まった。
「あなた方は、壊理の意思を確認しましたか」
「それは、これからだ」
男は答えた。
「我々は彼女に、必要なことを理解してもらう。彼女の力が、どれほどの意味を持つのか。その力を使えば、どれだけの人々を救えるのか」
「……つまり、あなた方の結論を彼女に理解させるということですか」
「そうだ」
男は、一歩前へ出た。
「本人が、自分の力の価値を理解していないのなら、教える必要がある。幼い彼女に、全ての判断を委ねるのは酷だろう」
ナイトアイは、男を見つめた。
その言葉には、一理あるように聞こえる部分もあった。
子供が、自分の力の意味を理解しきれないことはある。
大人が説明し、危険を教え、必要な支援を用意することも必要だ。
しかし。
「……説明することと、結論を押しつけることは違います」
ナイトアイは言った。
「彼女が自分の力を理解するために、情報を提供することは必要でしょう。ですが、その力をどう使うべきかまで、あなた方が決めることはできない」
男は、首を横に振った。
「綺麗事だ。彼女が断ったせいで、救えない人間が出たらどうする?」
ナイトアイの表情が、わずかに硬くなった。
「……その責任を、彼女一人へ負わせるつもりですか」
「力を持っている者には、責任がある」
「力を持っていることと、全ての人間を救う義務があることは違います」
ナイトアイの声は、静かだった。
「どれほど優れた能力を持っていても、全ての人を救うことはできない。できないことを、本人の責任として押しつけてはならない」
男は、目を細めた。
「あなたは未来を予知できる。救える未来が見えることもあるはずだ。それでも、その未来を選ばない者を尊重するというのか?」
ナイトアイは、答えようとした。
しかし、言葉が止まった。
彼自身にも、その問いに向き合わなければならない過去があったからだ。
未来が見える。
だから、正しい選択が分かる。
そう信じていた時期があった。
自分が見た未来を変えようとする人間に、無謀だと告げたこともある。
予知を信じるあまり、相手が何を考え、なぜその選択をしようとしたのかを、十分に聞かなかったこともあったのではないか。
ナイトアイは、そのことを考えた。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「……未来が見えたからといって、その未来を実現するために他人を強制してよいわけではありません」
男の表情が変わった。
「ならば、あなたは何もしないのか?」
「いいえ」
ナイトアイは、一歩前へ出た。
「私は、彼女を守ります。彼女が自分の意思で判断できるよう、必要な情報を提供します。そして、誰かが彼女の意思を無視して連れていこうとするなら、止めます」
彼は、拳を握った。
「それが、私の選択です」
男が腕を上げた。
その装置から、黒いケーブルが伸びる。
ナイトアイは即座に身を沈めた。
ケーブルが頭上を通り過ぎる。
彼は懐から紙束を取り出し、指先で弾いた。
紙束が、男の装置へ突き刺さる。
「なっ……!」
装置の表面に、紙が広がる。
視界を遮られた男が、反射的に腕を振った。
その瞬間、ナイトアイは距離を詰めた。
肘を押さえ、身体を捻る。
装置の腕を外側へ流し、足元を払う。
男が床へ倒れた。
ナイトアイは、その腕を押さえ込んだ。
「あなた方の目的については、後で聞きます」
男が身を捩る。
「まだ終わっていない!」
装置が作動した。
ナイトアイの背後の壁が開き、拘束器具が飛び出す。
彼は男を離し、横へ跳んだ。
床を転がり、立ち上がる。
拘束器具が追いかけてくる。
ナイトアイは、壁に手をついて身体を回転させ、その軌道を避けた。
さらに紙束を投げる。
一つはセンサーへ。
もう一つは、ケーブルの接続部へ。
紙束が装置に巻きつき、動きが乱れた。
だが、ナイトアイの背後から、男が起き上がる。
「未来を知る者が、未来を変える者に従うとはな!」
男が拳を振るった。
ナイトアイは、相手の腕を受け流した。
そのまま、相手の手首を掴み、足を払う。
男がよろめいた。
ナイトアイは装置の接続部分へ踏み込み、靴底で蹴りつけた。
金属音。
黒いケーブルが、床へ落ちた。
「……私は、誰かの未来を決めるために、予知を使っているのではありません」
ナイトアイは、低い声で告げた。
「危険を知らせるために使う。判断に必要な情報を得るために使う。ですが、その情報をどう受け取り、何を選ぶのかは、本人が考えなければならない」
彼は男の腕を押さえた。
「あなたが壊理を必要としているとしても、彼女を所有する権利はありません」
男は、歯を食いしばった。
「……ならば、彼女が断ったら、どうする?」
ナイトアイは、迷わず答えた。
「別の方法を探します」
男の目が見開かれた。
「どれほど困難でも、別の方法を探す。彼女に何かを頼むことと、彼女に責任を押しつけることは違うからです」
男は、言葉を失った。
ナイトアイは、相手を拘束した。
その瞬間、廊下の奥から、ミリオの声が響いた。
「サー! 扉を開けられます!」
「……分かりました。すぐに向かいます」
ナイトアイは立ち上がった。
しかし、扉へ向かう前に、男を振り返った。
「あなた方が救いたい人々がいることは、否定しません」
彼は静かに言った。
「ですが、その願いを理由に、別の人間の人生を奪うことは許されない」
七 壊理が選んだこと
壊理の部屋の前。
ミリオは、閉じられた隔壁を前に、何度も透過を試みていた。
しかし、隔壁の向こうには、細い拘束線が張り巡らされている。
身体を透過しても、実体化した瞬間に捕らえられかねない。
「……うーん。正面から入ると、危ないな」
ミリオは頭を掻いた。
「でも、壊理ちゃんを一人にしておくわけにもいかないし……」
彼は床へ手をついた。
一部を透過させ、床の構造を確認する。
拘束線は、隔壁だけではなく、床の下にも繋がっている。
さらに壁の内部には、別の制御器が埋め込まれていた。
「これを全部避けて入るのは、ちょっと大変だな……」
ミリオは、一度、息を吐いた。
焦るな。
焦れば、判断を誤る。
そのとき、扉の向こうから、小さな声が聞こえた。
「……ミリオお兄ちゃん?」
ミリオは、すぐに顔を上げた。
「壊理ちゃん! 大丈夫? 怪我はない?」
「大丈夫です」
「怖くない?」
一瞬、沈黙。
「……怖いです」
その答えを聞いて、ミリオは目を閉じた。
そして、ゆっくり頷いた。
「そっか。言ってくれてありがとう」
壊理は、扉の向こうで、ためらいながら言葉を続けた。
「……ミリオお兄ちゃん」
「うん?」
「わたし、あの人たちのところへ行きたくないです」
ミリオの表情が引き締まった。
「……うん」
「わたしの個性があれば、助かる人がいるのかもしれないって、分かっています」
壊理の声は、震えていた。
「でも、わたし……あの人たちに連れていかれたくない。何をされるのか、分からないから。何をしなきゃいけないのかも、分からないから……」
ミリオは、扉へ手をついた。
「うん」
「わたし、助けたいって思うこともあります。誰かが困っていたら、助けてあげたいって思います」
壊理は、少しだけ息を吸った。
「でも……自分が、何をしたいのかも、まだ分からないんです」
ミリオは、目を閉じた。
彼は、壊理を守りたいと思っている。
彼女が怖い思いをしなくて済むように。
無理をしなくて済むように。
誰かに利用されないように。
だが、守ることに集中するあまり、彼女の声を聞かずに動いてしまったら、何が違うのだろう。
壊理の代わりに答えを出してしまったら。
壊理の代わりに、何をするべきかを決めてしまったら。
彼女を連れていこうとしている者たちと、どこが違うのだろう。
ミリオは、扉の向こうへ声を届けた。
「壊理ちゃん。今、君はどうしたい?」
壊理は、戸惑ったように黙った。
「……どうしたい、って?」
「うん。僕に何をしてほしいか。今、どうしたいか。君が思っていることを、そのまま教えてほしい」
壊理は、ゆっくりと考えた。
誰かに言われたからではなく。
誰かを助けるためでもなく。
自分が、今どうしたいのか。
その答えを探した。
「……ここから、出たいです」
彼女は言った。
「でも……あの人たちのところへは、行きたくないです」
「分かった」
ミリオは頷いた。
「じゃあ、僕がここから出す。あの人たちのところへ連れていくことはしない」
壊理は、少しだけ声を強めた。
「……それと」
「うん?」
「わたしの個性を使うかどうかは、わたしが決めたいです」
ミリオは、扉に手を置いたまま、静かに聞いていた。
「誰かを助けるために使えるのは、分かっています。でも、わたしが怖いって思っているときに、怖くないふりをして使いたくないです」
壊理の声に、少しずつ力が戻ってきた。
「それに、わたしが使えないときがあっても……怒らないでほしいです」
ミリオは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……うん」
彼は、はっきり答えた。
「壊理ちゃんが使いたくないときは、使わなくていい。怖いときは、怖いって言っていい。嫌なことは、嫌だって言っていい」
彼は深く息を吐いた。
「君が誰かを助けるために生きなきゃいけないなんて、僕は思わないよ」
扉の向こうで、小さな息遣いが聞こえた。
「……本当に?」
「本当だよ」
ミリオは笑った。
「君は、誰かの役に立つためだけにいるんじゃない。壊理ちゃんには、壊理ちゃんの人生があるんだ」
壊理は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく答えた。
「……ありがとう」
ミリオは、立ち上がった。
その表情は、もう笑顔だけではなかった。
彼は、扉の周囲を見回した。
「さて……壊理ちゃんの希望は、ここから出ること。そして、本人の意思を無視して連れていかれないこと」
彼は拳を握る。
「だったら、僕がやることは決まった!」
床を透過する。
壁の中を進む。
隔壁の内側へ、身体の一部だけを滑り込ませる。
ミリオは拘束線の位置を確認し、再び外へ戻った。
「……ここだ!」
彼は、隔壁の制御部へ手を伸ばした。
透過を解除する瞬間、身体を小さく捻る。
拘束線が閉じる。
しかし、その隙間を通り抜けた腕が、制御装置へ届いた。
「これで……!」
拳が叩き込まれる。
制御装置が砕けた。
隔壁が、ゆっくりと開く。
ミリオはすぐに部屋へ入り、壊理の前へしゃがみ込んだ。
「お待たせ!」
壊理は、彼を見つめた。
「……ミリオお兄ちゃん」
「うん!」
「……わたし、外へ出たいです」
「分かった!」
ミリオは、手を差し出した。
「行こう。君が選んだ場所へ」
壊理は、その手を取った。
今度は、先ほどよりもしっかりと。
八 守るということ
二人が廊下へ出た瞬間、奥から複数の足音が響いた。
ナイトアイが駆けつけてくる。
「ミリオ! 壊理!」
「サー!」
「無事ですか!」
「はい! 二人とも無事です!」
ナイトアイは壊理を見た。
彼女の身体に異常はない。
ミリオも、多少の疲労はあるが、動けている。
その事実を確かめて、彼はようやく息を吐いた。
「……よかった」
壊理は、ナイトアイの顔を見上げた。
そして、ためらいながら口を開いた。
「サー……」
「どうしました、壊理」
「わたし、あの人たちのところへ行きたくないです」
ナイトアイは、すぐに頷いた。
「分かりました」
壊理は、少し驚いたように目を見開いた。
「……いいんですか?」
「もちろんです」
ナイトアイは、しゃがみ込んだ。
「あなたの個性について、他の人が必要性を感じることはあるでしょう。あなたの力で助けられる人がいる可能性も、否定しません」
彼は、言葉を慎重に選んだ。
「ですが、それだけで、あなたがその力を使わなければならないことにはなりません」
壊理は、ゆっくりと頷いた。
「……わたし、誰かを助けることが嫌なわけじゃないんです」
「ええ」
「でも、誰かを助けるために、わたしが何をするかまで、勝手に決められるのは……嫌です」
その言葉を聞いた瞬間、ナイトアイの胸に、鈍い痛みが走った。
勝手に決められるのは、嫌。
それは当然のことだ。
しかし、彼は、壊理を守るために何度も判断してきた。
どこへ移動するべきか。
誰と会わせるべきか。
何を知らせ、何をまだ知らせないのか。
危険を避けるために必要なことだと考えていた。
実際、必要な判断もあっただろう。
だが、その判断の中に、壊理自身の意思をどれだけ含めていたのか。
彼は、自分に問いかけた。
壊理の安全を守るために。
壊理の未来を守るために。
その言葉を使うことで、彼女の選択を先回りして決めてはいなかったか。
「……壊理」
ナイトアイは、静かに言った。
「あなたの安全を守ることと、あなたが何を望むかを決めることは、別の問題です」
壊理は、彼を見つめた。
「私は、あなたを危険から遠ざける必要があります。ですが、そのために、あなたの気持ちまで無視してよいわけではありません」
彼は、一度、息を吐いた。
「今後、あなたの個性について何かを決めるときには、あなた自身の意思を確認します。分からないことがあれば、説明します。あなたが考えるための時間も、きちんと用意します」
壊理の目が揺れた。
「……本当に?」
「ええ」
ナイトアイは、はっきり答えた。
「あなたが子供だからといって、あなたの気持ちが重要でなくなるわけではありません」
彼の声は、厳格で、しかし柔らかかった。
「あなたには、嫌だと言う権利があります。怖いと言う権利があります。まだ分からないと言う権利もあります。そして、あなた自身の人生を、少しずつ選んでいく権利があります」
壊理は、俯いた。
その目に涙が浮かんでいる。
「……わたし、まだ……」
彼女は、言葉を探した。
「まだ、何ができるのか、分からないです」
ナイトアイは頷いた。
「分からないままで構いません」
「……何をしたいのかも、まだ分からないです」
「それでも構いません」
「……いつか、分かるようになりますか?」
ナイトアイは、少しだけ微笑んだ。
「それは、私にも分かりません」
壊理は、驚いたように顔を上げた。
「ですが、分からないことを、一緒に考えることはできます」
ナイトアイは言った。
「あなたが考える時間を、私たちが奪わないようにすることもできます」
壊理は、小さく息を吸った。
そして、こくりと頷いた。
「……はい」
そのとき、通路の奥で、金属が砕ける音が響いた。
敵の残りが、まだ抵抗している。
ミリオはすぐに振り向いた。
「……サー。壊理ちゃんをお願いします」
「ミリオ!」
ナイトアイが呼び止めた。
「深追いはしないこと。仲間と連携し、危険があればすぐに退いてください!」
ミリオは、にかっと笑った。
「はい! ちゃんと考えて動きます!」
「その返事を信用するには、実績が足りません!」
「ひどい!」
しかし、ミリオは笑ったまま、通路の奥へ走り出した。
彼はもう、壊理の代わりに何を望むべきかを決めていなかった。
壊理が自分で選べるように、必要な場所を守ろうとしていた。
それが、今の自分にできることだった。
九 予測される戦い、予測されない一手
「敵の残りは三名!」
バブルガールの声が通信に響いた。
「二名は東側の廊下、一名は管理棟側へ逃走中です!」
「了解!」
ミリオは床を透過し、東側の廊下へ飛び出した。
目の前にいた敵が、拘束装置を構える。
「通形ミリオ!」
「やあ!」
ミリオは身体を透過させ、相手の攻撃をすり抜けた。
そのまま背後へ回り込み、腕を掴む。
「捕まえた!」
相手を引き倒し、拘束具を取り上げる。
だが、もう一人が、ミリオの背後へ回り込んでいた。
小型装置が作動する。
床から、金属の輪が飛び出す。
ミリオは跳んだ。
しかし、輪は空中で開き、別方向から迫ってくる。
彼は身体を透過させ、輪をすり抜ける。
着地。
その瞬間、床が沈んだ。
「うわっ!」
ミリオは落下しかけたが、すぐに壁を透過し、隣の通路へ飛び出した。
そこには、バブルガールが待ち構えていた。
「ミリオくん、こっち!」
彼女が放った泡が、敵の顔面へ広がる。
独特な匂いが漂う。
敵は反射的に顔を背けた。
「何だ、この匂いは!」
「私の特製です!」
バブルガールは、敵の手首を掴んで装置を奪い取った。
「この装置、危険なものが多すぎますよ!」
彼女が装置を床へ置く。
ミリオは、その隙に敵の背後へ回り込み、拘束をかけた。
「よし、二人目!」
「あと一人ですね!」
バブルガールが頷く。
そのとき、通信機からロックロックの声がした。
『最後の一人は管理棟へ向かってる! 俺が追ってるが、設備を動かして逃げてやがる!』
「了解!」
ミリオは走り出した。
だが、ナイトアイの声が飛ぶ。
『待ちなさい、ミリオ! 単独で管理棟へ向かわないこと!』
ミリオは足を止めた。
「……了解です!」
彼は、すぐにバブルガールへ視線を向けた。
「バブルガールさん、ロックロックさんの位置を確認できますか?」
「今、確認します!」
通信が繋がる。
『管理棟の西側だ! 床が次々に動く! こいつ、逃げ道を作っているんじゃない。俺たちが追いかける道を、わざと選ばせてる!』
ミリオは、考えた。
「……なるほど。なら、追いかける道を変えればいいんですね!」
ナイトアイが、通信の向こうで静かに答えた。
『そうです。ただし、独断では動かないこと。ロックロック、周囲の固定できる設備を確認してください。ミリオは、彼が選ばせようとしている経路から外れてください』
「了解!」
ロックロックが、壁へ手をつけた。
《ロック》。
壁が固定される。
次に、床の一部へ触れる。
床の動きが止まった。
「おい、これならいけるかもしれねえ!」
彼は、固定した壁を足場にして、通路の上へよじ登った。
そのまま天井近くの点検通路へ入る。
下の廊下では、侵入者が赤い線を使って逃げ道を作っている。
だが、ロックロックは、その動きを無視した。
床を進まず、壁を固定し、点検通路から回り込む。
敵が気づいたときには、すでに真上へ到達していた。
「なっ……!」
ロックロックが飛び降りた。
「残念だったな!」
彼は、敵の装置へ手を伸ばす。
《ロック》が発動した。
装置が、その場に固定される。
敵は引き剥がそうとする。
だが、装置は動かない。
「なぜだ、動け!」
ロックロックは、床へ着地しながら笑った。
「自分で動かせると思っていたものが、動かなくなった気分はどうだ?」
敵が拳を振るう。
ロックロックは、腕で受け止めた。
そのまま体勢を崩し、壁へ押しつける。
ミリオが駆け込んできた。
「ロックロックさん、助太刀します!」
「おう! こいつを押さえろ!」
ミリオは身体を透過させ、敵の背後へ回り込んだ。
実体化。
相手の腕を掴み、拘束する。
敵は、とうとう動けなくなった。
施設を襲った侵入者たちは、全員が拘束された。
残った装置も回収され、医療棟の安全は確保された。
戦いは終わった。
だが、壊理をめぐる問題は、まだ何一つ終わっていなかった。
十 壊理が言ったこと
侵入者たちの身柄が確保されたあと、壊理は面談室へ戻っていた。
医師が安全を確認し、必要な処置を行った。
怪我はない。
身体にも異常は見られない。
それでも、壊理は、すぐにはいつもの表情に戻れなかった。
ミリオが隣に座る。
ナイトアイも、少し離れた椅子に腰を下ろした。
しばらく、誰も話さなかった。
やがて、壊理が口を開いた。
「……あの人たち、わたしに何をしてほしかったんでしょう」
ミリオは、少し考えた。
「君の個性を使って、何かを取り戻したかったんだと思う」
「……何かを?」
「うん。自分たちが失ったものや、誰かに戻してあげたいものがあったんじゃないかな」
壊理は、俯いた。
「……それなら、わたしが使ってあげたほうがよかったんでしょうか」
「壊理ちゃん」
ミリオは、すぐに声をかけた。
「君が使いたくないと思ったなら、使わなくてよかったんだよ」
「でも……」
壊理の声が震えた。
「わたしが使っていたら、助かった人がいたかもしれません」
ナイトアイが、静かに答えた。
「その可能性はあります」
壊理は顔を上げた。
「……はい」
「ですが、可能性があることと、あなたが必ずその行動を取らなければならないことは違います」
ナイトアイは、慎重に言葉を続けた。
「あなたの個性によって助けられる人がいるかもしれない。それは事実です。しかし、そのために、あなたの意思を無視してよい理由にはなりません」
壊理は、黙って聞いていた。
「あなたが誰かを助けたいと思うとき、手を差し伸べることはできるでしょう。ですが、あなたが怖いと感じているとき、どうしても嫌だと思うとき、分からないことがあるときに、無理をする必要はありません」
ナイトアイは、一度言葉を止めた。
「そして、あなたが助けられなかった人がいたとしても、その責任を、あなた一人に負わせることはできません」
壊理の目に、涙が浮かんだ。
「……わたし、一人で全部、考えなくてもいいんですか?」
「ええ」
ナイトアイは、頷いた。
「あなたが考えることは大切です。しかし、あなた一人で全てを背負う必要はありません」
ミリオも、壊理の隣で頷いた。
「僕たちも一緒に考えるよ。君の代わりに決めるんじゃなくて、君が自分で決められるように」
壊理は、しばらく黙っていた。
それから、少しずつ言葉を紡ぐ。
「……わたし、誰かを助けられるようになりたいです」
ミリオは、優しく頷いた。
「うん」
「でも、誰かを助けることだけを考えて、生きるのは……まだ、分からないです」
「うん」
「わたし、いろんなことをしてみたいです。おいしいものも食べたいし、遊びたいし、学校にも行きたいし……」
声が、少しずつ大きくなっていく。
「まだ知らないことが、たくさんあるから……」
壊理は、膝の上の手をぎゅっと握った。
「だから、わたしが何をしたいのか、ちゃんと自分で考えたいです」
彼女は、顔を上げた。
「わたしは……誰かを助けるためだけにいるんじゃないです」
その言葉は、はっきりしていた。
ミリオは、笑顔を浮かべた。
「……うん」
ナイトアイは、しばらく何も言わなかった。
壊理が、自分自身の言葉で、自分の希望を語った。
彼女が何をしたいのか。
何をしたくないのか。
何を恐れ、何を望んでいるのか。
その答えを、誰かが代わりに決めるのではなく、彼女自身が語ったのだ。
ナイトアイは、胸の奥に重いものを感じていた。
彼女の声を聞くこと。
彼女の意思を尊重すること。
その大切さは、今まで何度も考えてきたはずだった。
だが、今日の戦いで、彼は改めて気づかされた。
誰かを守ろうとする気持ちが強いほど、その人が何を望んでいるのかを聞く前に、先回りして判断してしまうことがある。
危険から遠ざけること。
最善の道を示すこと。
将来のために必要だと思うことを教えること。
それらは、時に必要な行為だ。
しかし、それだけで相手の人生を守ったことにはならない。
相手が自分の気持ちを言葉にする機会。
自分で選び、失敗し、考え直す機会。
そして、自分が何を望んでいるのか分からないときに、分からないと言える時間。
それらがなければ、守る側の善意は、相手の人生を決めつける力へと変わってしまう。
ナイトアイは、静かに目を閉じた。
「……壊理」
「はい」
「今日、あなたが自分の気持ちを話してくれたことを、私は大切にしたいと思います」
壊理は、彼を見つめた。
「ありがとうございます」
「そして、今後は、あなたの個性について考えるときにも、あなた自身の気持ちを必ず確認します」
彼は、真剣な表情で続けた。
「大人たちが考える将来の可能性だけで、あなたの未来を決めつけないようにします」
壊理は、小さく頷いた。
「……はい」
ミリオが、笑顔で手を上げた。
「じゃあ、今日は難しい話はここまで!」
ナイトアイが、即座に振り向く。
「ミリオ。まだ報告書が残っています」
「ええっ!?」
「侵入者の数、使用された装置、戦闘中に確認された設備の異常。全て記録する必要があります」
「……僕もですか?」
「当然です」
「壊理ちゃんと、まだお菓子を食べる約束をしていたのに!」
壊理は、少し驚いてから笑った。
「……ミリオお兄ちゃん。お仕事が終わってからで大丈夫です」
ミリオは、彼女を見た。
そして、胸を張った。
「分かった! 必ず終わらせるよ!」
「その前に、報告書を正確に書きなさい」
「はい……!」
面談室に、小さな笑い声が戻った。
壊理は、机の上の菓子を一つ手に取った。
そして、自分で選んだものを口へ運んだ。
それは、誰かを救うための行動ではなかった。
何かの役に立つための行動でもなかった。
ただ、自分が食べたいと思ったから、食べた。
その小さな選択を、誰も奪わなかった。
それだけのことが、今の彼女にとって大切だった。
十一 希望を所有する者
一方、侵入者たちの取り調べは、別室で進められていた。
ナイトアイとセンチピーダーが、装置の記録と証言を整理している。
バブルガールは、回収された装置の写真を並べていた。
ロックロックは、施設の破損箇所を確認している。
リューキュウと波動ねじれは、他に侵入者がいないか、周辺の確認を続けていた。
「彼らは、壊理の個性を知っていました」
センチピーダーが、記録を見ながら言った。
「それだけではありません。彼女の能力で、失われたものを取り戻せると考えていたようです」
「誰から情報を得たのでしょうか」
ナイトアイは、眉をひそめた。
「医療記録が漏れたのか。それとも、別の経路から彼女の存在を知ったのか……」
「今のところ、証言は一致していません」
センチピーダーは答えた。
「彼らは、壊理の個性を必要としていた。それだけは確かです」
バブルガールが、写真の一枚を指さした。
「この装置、旧物流施設で見つかったものと、構造が似ていますね」
「ええ。ただし、同じ製造元なのか、誰かが模倣したのかは分かりません」
ナイトアイは、写真を手に取った。
透明板。
黒いケーブル。
人間の行動を予測し、その動きに合わせて拘束器具を動かす仕組み。
それは、単なる捕獲装置ではない。
相手の選択肢を制限し、望む結果へ誘導するためのものだった。
そして、彼らは、その装置を使って壊理を確保しようとしていた。
「……彼らにとって、壊理は何だったのでしょうか」
ナイトアイは、静かに呟いた。
センチピーダーが答える。
「希望、でしょうか」
「希望……」
「失われたものを取り戻すための希望。救えなかった人を救うための希望。彼らが、自分たちの望む未来へ進むための希望」
センチピーダーは、一度言葉を区切った。
「ですが、希望として扱われることと、その人自身を尊重することは、同じではありませんね」
ナイトアイは、目を伏せた。
「……ええ」
希望という言葉は、確かに美しい。
苦しんでいる人が、明日を信じるための言葉。
何かを失った人が、再び立ち上がるための言葉。
諦めそうになった人が、もう一度歩き出すための言葉。
しかし、希望を必要とする側が、その希望を持つ人間の意思を無視したとき。
希望は、いつしか義務へと変わる。
「あなたには、この力があるのだから」
「あなたなら、助けられるのだから」
「あなたが断れば、救われない人がいるのだから」
そうした言葉は、相手に選択を与えているようで、実際には、選ばない自由を奪ってしまうことがある。
ナイトアイは、壊理の声を思い出した。
――わたしは、誰かを助けるためだけにいるんじゃないです。
その言葉は、決して、自分以外の人間をどうでもいいと言ったものではなかった。
壊理は、誰かを助けたいと思っている。
しかし、自分自身の人生も、大切にしたいと思っている。
その二つは、矛盾しない。
むしろ、その両方を認めなければ、人は誰かを助けることさえ、苦しい義務として背負わされてしまうのかもしれない。
「……彼女を守らなければなりませんね」
ナイトアイが言った。
センチピーダーは頷いた。
「ええ。ただし、本人の意思を尊重しながら」
「そのとおりです」
ナイトアイは、資料を閉じた。
「彼女の力を利用しようとする者から守る。それだけでは足りない。彼女が、誰かの期待に応えなければならないと思い込まないようにする必要もあります」
バブルガールが、静かに頷く。
「壊理ちゃんは、まだ小さいですからね」
「だからこそ、大人たちが気をつけなければならない」
ナイトアイは答えた。
「彼女の未来を、善意で囲い込まないように」
その言葉は、彼自身にも向けられていた。
十二 正しさの影
夜になり、ナイトアイは一人で報告書を書いていた。
机の上には、侵入者たちの供述記録と、装置の分析結果が並んでいる。
彼らは、壊理を利用しようとしていた。
その事実は、揺るがない。
壊理の意思を確認せず、彼女の力を自分たちの目的を達成するための手段として扱っていた。
だから、彼らを止める必要があった。
その判断は、正しい。
しかし、ナイトアイは、それだけで終わらせることができなかった。
彼自身もまた、未来を知る力を持つ者として、他人の選択に助言してきた。
危険を避けるため。
よりよい結果へ進むため。
誰かが後悔しないようにするため。
それらの目的は、必ずしも間違っていない。
だが、目的が正しいと思っていたからこそ、自分の判断を疑わなかったことはなかっただろうか。
彼は、過去を思い返す。
オールマイトとの決別。
未来を変えようとする彼に対して、自分がどのような言葉を投げかけたのか。
彼の選択を、どこまで認めたのか。
未来が変わる可能性を、どこまで本気で信じていたのか。
そして、ミリオを後継者として育てる中で。
彼の未来を予知し、彼の才能を評価し、彼に何を求めたのか。
ナイトアイは、ペンを置いた。
「……私は」
声が、部屋に落ちた。
「正しい判断をしようとしてきた」
それは、事実だった。
彼は、誰かを苦しめるために予知を使ってきたわけではない。
他人を支配するために、未来を知ろうとしてきたわけでもない。
彼は人を救いたかった。
失敗を防ぎたかった。
できるだけ多くの人が、無事に明日を迎えられるようにしたかった。
その願いまで、否定するつもりはない。
しかし。
「……正しいと信じていたからこそ、相手が何を望んでいるのかを、聞かなくなっていたのではないか」
ナイトアイは、目を閉じた。
予知を信じること自体が、罪なのではない。
未来を知ること自体が、間違いなのでもない。
危険を予測し、事前に備えることは必要だ。
助けられる人を助けるために、その能力を使うことも必要だ。
問題は、その力によって得た情報を、どのように扱うか。
未来が見えたからといって、その未来を変えようとする人間の意志を、どこまで信じられるのか。
予知された未来が望ましくないものであったとき、その未来を変えたいという願いを、無謀だと切り捨ててはいなかったか。
ナイトアイは、ゆっくりと目を開いた。
「……私は、まだ答えを出せていません」
報告書には、今日の戦闘について、すべての事実を記録する必要があった。
侵入者の数。
使用された装置。
戦闘の経過。
負傷者の有無。
救助の手順。
それらを、正確に記す。
そして、その後で。
自分自身の判断についても、振り返らなければならない。
未来を知る者は、何を見落としたのか。
その問いの答えを、他人に語る前に、自分自身で探さなければならない。
そのとき、面談室の扉が開いた。
ミリオだった。
「サー。まだ起きていたんですね」
「報告書を書いています」
「僕の報告書は、もう書き終わりました!」
「……それは素晴らしい」
「本当です!」
ナイトアイは、少しだけ微笑んだ。
「では、提出してください」
「はい!」
ミリオは、書類を机へ置いた。
そのあと、少し迷うように立ち止まった。
「……サー」
「何ですか?」
「今日、壊理ちゃんが、自分の気持ちを話してくれました」
ナイトアイは頷いた。
「ええ」
「僕、壊理ちゃんを守りたいと思っています。あの子が怖い思いをしないように。誰かに利用されないように。安心して暮らせるように」
「分かっています」
「でも……」
ミリオは、一度言葉を止めた。
「僕が、壊理ちゃんを守るために、何をするべきかまで全部決めてしまったら、それは違うんですよね」
ナイトアイは、ミリオを見つめた。
彼は、答えを急がなかった。
「……そうですね」
ナイトアイは言った。
「守るために必要な判断はあります。危険が迫っているときには、誰かが決断しなければならないこともあるでしょう」
彼は、ゆっくりと言葉を続けた。
「ですが、危険が去ったあとも、相手の意思を無視して決め続ける必要はありません。本人が自分で考え、選ぶための場所を残すことも、守るということの一部です」
ミリオは、頷いた。
「……そうですよね」
「ミリオ」
ナイトアイは、彼の目を見た。
「あなたは、よく考えていましたね」
「えっ?」
「壊理が何を望んでいるのか、何を怖がっているのか。私が先に答えを出すのではなく、彼女自身に尋ねようとしていた」
ミリオは、少し照れたように笑った。
「……僕だって、全部分かっているわけじゃないです」
「それでいいのです」
ナイトアイは、静かに答えた。
「分からないからこそ、聞くことができる。分からないからこそ、相手の言葉を待つことができる」
彼は、視線を報告書へ戻した。
「私は、そのことを、もっと早く理解しておくべきだったのかもしれません」
ミリオは、何も言わなかった。
ただ、静かに隣へ立っていた。
ナイトアイは、もう一度、ペンを手に取った。
報告書の最後に、短い言葉を書き加える。
「保護対象の個性について検討する際は、本人の意思を確認し、本人が判断するための情報と時間を確保する。本人の可能性を、周囲の期待のみで定義してはならない」
それは、規則のような言葉だった。
しかし、今のナイトアイにとっては、自分自身への戒めでもあった。
正しいと信じること。
正しいと信じるからこそ、疑うこと。
そして、自分の答えが、他人の人生を決めるものになっていないかを確かめること。
それが、これから彼が向き合うべき課題だった。
十三 明日を選ぶ権利
翌朝。
壊理は、施設の庭にいた。
小さな花壇の前で、しゃがみ込んでいる。
花壇には、色とりどりの花が咲いていた。
壊理は、その中から一つを見つめ、そっと指を伸ばした。
花びらには触れず、ただ、近くで眺める。
その横へ、ミリオがやってきた。
「おはよう、壊理ちゃん!」
「おはようございます」
「今日はいい天気だね!」
「……はい」
ミリオは、花壇を覗き込んだ。
「何を見ていたの?」
「このお花です」
壊理は、小さな花を指さした。
「昨日は、まだ咲いていなかったんです」
「へえ! 一晩で咲いたんだ!」
「そうみたいです」
壊理は、少し嬉しそうに笑った。
「……明日には、別のお花も咲くかもしれませんね」
ミリオは頷いた。
「そうだね!」
二人は、しばらく花壇を眺めていた。
やがて、壊理が口を開いた。
「……ミリオお兄ちゃん」
「うん?」
「わたし、これから、もっといろんなことをしてみたいです」
ミリオは、微笑んだ。
「うん」
「お花を育てることも。学校に行くことも。友達を作ることも。いろんな本を読んだり、おいしいものを食べたり……」
壊理は、少し照れくさそうに笑った。
「まだ、知らないことが、いっぱいあるから」
「いいね!」
ミリオは、力強く頷いた。
「全部、少しずつやってみよう!」
「はい!」
壊理は顔を上げた。
「それで……いつか、誰かを助けたいって、心から思ったときには」
彼女は、少しだけ真剣な表情になった。
「そのときに、自分で考えて、決めたいです」
ミリオは、静かに頷いた。
「うん。それがいいと思う」
「でも、もし、分からなくなったら……」
「そのときは、相談しよう!」
ミリオは笑った。
「一人で全部考えなくてもいいよ。僕たちも、一緒に考える。でも、最後に壊理ちゃんがどうしたいのか、その気持ちは大切にする」
壊理は、しばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
遠くから、ナイトアイが二人を見ていた。
彼は、あえて声をかけなかった。
壊理が自分の意思で話し、ミリオがその言葉を聞いている。
それだけで、今は十分だった。
未来は、まだ決まっていない。
壊理が何を選ぶのか。
彼女の個性が、これからどのような形で使われるのか。
彼女が誰を助け、どのような人生を歩むのか。
その全てを、誰かが今の時点で決めることはできない。
そして、決める必要もない。
彼女には、考える時間がある。
失敗する時間がある。
何かを好きになる時間がある。
誰かを助けたいと思う時間もあれば、自分自身のために生きたいと思う時間もある。
その全てが、彼女の人生だ。
ナイトアイは、静かに眼鏡を押し上げた。
未来を知ることと、未来を決めることは違う。
未来を守ることと、未来を所有することも違う。
そして、誰かを希望と呼ぶのなら。
その人自身が、どんな未来を望んでいるのかを、聞かなければならない。
壊理は、花壇の花をもう一度見つめた。
「……明日も、見に来たいです」
ミリオが笑顔で頷く。
「もちろん! 明日も一緒に見よう!」
壊理は、小さく笑った。
その言葉に、特別な力は必要なかった。
個性を使う必要もなかった。
誰かの過去を戻す必要もなかった。
ただ、明日もここへ来たいと思った。
それだけだった。
しかし、それこそが、彼女自身が選んだ未来の始まりだった。
壊理は、誰かの希望である前に、一人の子供だ。
そして、一人の子供には。
誰かに何かを与える前に。
誰かの願いをかなえる前に。
自分自身の人生を生きる権利がある。