序章 午前二時十三分
最初に死んだのは、緑谷出久だった。
少なくとも、記録上はそうなっている。
午前二時十三分。
場所は、雄英高校地下に建設されていた旧特別研究施設。
死因、不明。
遺体、未回収。
死亡確認者、相澤消太。
死亡報告書の作成者、相澤消太。
記録の承認者、オールマイト。
そして、死亡した少年の最後の言葉は――。
『先生。お願いがあります』
それだけだった。
泣き叫ぶこともなかった。
助けを求めることもなかった。
自分が死ぬことを恐れていないかのように、少年は穏やかに笑っていた。
その笑顔を、相澤は十三年間忘れていた。
忘れさせられていた。
だが、記録には続きがある。
死亡したはずの緑谷出久は、午前二時十四分に再び観測されている。
一分後。
同じ場所で。
同じ顔で。
同じ名前で。
しかし、その人物は死亡した少年とは異なる存在として記録されていた。
『対象個体の再構築を確認』
『記憶情報の欠損を確認』
『人格情報の不一致を確認』
『存在履歴の再生成を開始』
午前二時十五分。
『緑谷出久、生存』
その記録が確定した瞬間、施設にいた二十七人の職員が、同時に自分たちの名前を忘れた。
午前二時十六分。
施設の廊下が消えた。
午前二時十七分。
地下施設そのものが、地図から消失した。
午前二時十八分。
世界中で、誰かが夢を見た。
白い部屋。
二人の少年。
そして、誰かの泣き声。
午前二時十九分。
世界は、何事もなかったかのように朝を迎える準備を始めた。
ただ一人を除いて。
記録の最後に、名前のない少年が立っていた。
彼は、血に濡れた自分の手を見つめていた。
その手は、誰かの命を奪った手だった。
誰かを救おうとした手だった。
そして。
自分自身を殺した手だった。
少年は、壁にもたれかかり、ゆっくりと座り込んだ。
「……ごめん」
誰に謝っているのか、彼自身にも分からなかった。
「ごめんね、出久」
彼は、自分と同じ顔をした少年の名前を呼んだ。
「今度こそ、君だけは……」
そこで、記録は途切れている。
十三年後。
現在。
その名前のない少年が、もう一度、目を開けた。
白い部屋の中で。
世界が彼を忘れたまま。
そして、世界を救おうとしているもう一人の少年が、彼の名前を取り戻そうとしていることを知りながら。
「……だめだよ」
少年は、震える唇で呟いた。
「思い出しちゃ、だめなんだ」
白い部屋の壁に、黒い亀裂が走る。
亀裂の向こうには、星々が広がっていた。
その星々の間に、巨大な何かが存在している。
少年は、それを見上げた。
「お願いだから……」
初めて、彼はその存在に向かって頭を下げた。
「僕を殺すなら、僕だけにしてよ」
返答はなかった。
ただ、壁に新しい文字が刻まれた。
『対象個体の選択を受理できません』
『二つの存在は、同一の起点を共有しています』
『片方の存在を確定した場合、もう片方の存在は不安定化します』
『世界の再構築を開始します』
少年は、笑った。
泣きながら。
「……知ってるよ」
彼は立ち上がった。
「だから、僕が君を殺すんだ」
第一幕 七十時間後に世界が終わる
午前七時三十分。
雄英高校、職員会議室。
「残り六十六時間」
相澤消太は、壁に投影された数字を見上げていた。
「それが、今確認できている再構築までの猶予だ」
会議室には、緑谷出久、爆豪勝己、麗日お茶子、轟焦凍、飯田天哉、切島鋭児郎、八百万百、塚内直正が集まっていた。
本来なら、朝の職員会議が始まっている時間だった。
しかし、今日に限っては、誰も通常業務のことなど考えていなかった。
死者が蘇った世界。
存在しない男。
記録から消される名前。
十三年前の死亡報告書。
そして、二人の緑谷出久。
すべてが一つの場所へと収束しようとしている。
「先に確認しておく」
相澤は全員を見回した。
「今から話すことは、まだ仮説だ。確定した事実と、俺たちの推測を混同するな」
「分かってる」
爆豪が腕を組んだ。
「さっさと話せ。回りくどいのは嫌いなんだよ」
「お前は少し黙ってろ」
「んだと、クソ教師」
「……始めるぞ」
相澤は無視した。
スクリーンに、二枚の写真が表示される。
どちらも緑谷出久の顔だった。
一枚目は、現在の出久。
もう一枚は、十三年前の死亡報告書に添付されていた写真。
顔立ちは同じ。
髪の色も、目の色も、同じ。
しかし、よく見ると違いがあった。
現在の出久の写真では、右手の人差し指に小さな傷跡がある。
十三年前の写真には、それがない。
逆に、十三年前の写真の少年には、左の手首に細い痣があった。
現在の出久には、ない。
「同じ人物に見える」
轟が言った。
「でも、完全に同一ではないんだな」
「ああ」
相澤は頷いた。
「DNA鑑定の結果は、まだ出ていない。だが、写真の撮影時期と身体的特徴を照合すると、二人は同じ人間の異なる時点の姿というだけでは説明がつかない」
「双子って可能性は?」
切島が尋ねた。
「顔が似ているだけなら、それもあり得る」
塚内が答えた。
「だが、二人の指紋は一致している。骨格も、歯並びも、確認できる限りではほぼ同じだ。しかも、二人とも同じ名前で登録されていた痕跡がある」
「……同じ人間が二人いるってこと?」
麗日の声は小さかった。
「そんなことが……」
「普通ならあり得ない」
八百万が慎重に言葉を選ぶ。
「しかし、現在の状況は、すでに通常の科学では説明できない現象の連続です。個性による複製、記憶の転写、あるいは肉体の再構築……可能性を挙げることはできますが、どれも決定的な証拠がありません」
「しかも、今回の問題は身体だけじゃない」
相澤は、画面を切り替えた。
そこには、二つの識別情報が表示されていた。
『対象A:緑谷出久』
『対象B:緑谷出久』
対象A。
生存。
対象B。
死亡。
「システムは、二人を別個体として扱っている」
相澤は言った。
「だが、同時に二人を同じ存在としても扱っている。どちらか一方の存在が確定すると、もう一方が不安定になる」
「だから、どちらかを殺せってか?」
爆豪の声に、明確な怒りが混じった。
「そんなもん、選択肢にすらならねえだろうが」
「俺もそう思っている」
相澤は即答した。
その言葉に、出久は顔を上げた。
相澤は、出久を見ていた。
「緑谷。お前は、十三年前のことを何か思い出したか」
出久は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「……少しだけ」
「話せる範囲でいい」
「白い部屋を見ました。そこに、僕と同じ顔をした男の子がいました」
「何をしていた?」
「泣いていました」
出久は、胸元を押さえた。
「僕も……泣いていたと思います」
その場にいた全員が、息を潜めた。
「でも、どちらが泣いていたのか、分からないんです」
出久は、苦しそうに笑った。
「僕が、彼を殺そうとしたのかもしれない。彼が、僕を殺そうとしたのかもしれない。もしかしたら、二人とも……」
「緑谷」
相澤が遮った。
「今は、自分を犯人だと決めつけるな」
「でも、死亡報告書には……」
「記録は証拠の一つだ。判決じゃない」
相澤は、はっきりと言った。
「記録に『僕は、僕を殺した』と書いてあったとしても、それだけでお前が何をしたのかは確定しない」
「……はい」
「それと、もう一つ」
相澤は少しだけ声を落とした。
「昨夜、正門前に来た女性のことだ」
出久は頷いた。
「彼女は、十三年前に死んだ少年の母親だと名乗った」
「……はい」
「彼女の証言によれば、二人の出久は、十三年前に同じ場所で生活していた時期がある」
飯田が目を見開いた。
「同時に、ですか?」
「そうだ」
「しかし、そうなると……」
飯田は言葉を探した。
「十三年前に死亡した緑谷くんと、現在の緑谷くんは、同一の時間軸上に存在していた可能性があるということですか」
「その可能性が高い」
相澤は頷いた。
「そして、問題はそこからだ」
画面に、新しい資料が映し出される。
『世界再構築までの残り時間:六十六時間』
『対象個体の存在安定性:低下』
『関係者の記憶復元:進行中』
『未登録個体の名称:未確定』
「俺たちが記憶を取り戻すほど、世界の再構築が早まる可能性がある」
相澤は言った。
「だが、記憶を封じたままでも、再構築は止まらない。つまり、思い出すこと自体が問題なんじゃない」
「……思い出した先で、何をするか」
出久が呟いた。
相澤は頷いた。
「そうだ」
爆豪が、苛立たしげに机を叩いた。
「だったら簡単だろ。世界をやり直そうとしてるクソ野郎をぶっ飛ばす。終わりだ」
「相手がどこにいるかも分かっていない」
「探せばいい」
「何を手がかりに?」
「知るか!」
「お前は本当に……」
「いいじゃないですか」
不意に、出久が口を開いた。
全員が彼を見る。
出久は、少し困ったように笑った。
「爆豪くんの言うことも、間違ってはいないと思います」
「デク、テメェ……」
「もちろん、相手が何者なのか分からないまま戦いを挑むのは危険です。でも、相手が何をしようとしているのかは、少しずつ分かってきています」
出久は、画面の二つの名前を見つめた。
「彼は、僕を殺そうとしている」
一拍。
「でも、それは僕を憎んでいるからじゃない」
出久の指が、ゆっくりと握り締められる。
「僕を救おうとしているからだ」
誰も、すぐには答えなかった。
それが、最も厄介な問題だった。
相手が憎悪だけで動いているのなら、まだ分かりやすい。
止めればいい。
倒せばいい。
しかし、相手は出久を救いたいと願っている。
その願いを叶えるために、世界を壊そうとしている。
そして、本人はそれを間違いだと思っていない。
「……だからこそ、僕が会いに行きます」
出久が言った。
「もう一人の僕に」
「却下だ」
相澤は即答した。
「先生」
「却下だ」
「まだ何も説明していません」
「説明される前から却下だ」
「でも……」
「緑谷」
相澤の声が、少しだけ鋭くなった。
「お前は、相手が自分を救おうとしているから、自分が行けば何とかなると思っているんだろう」
出久は黙った。
「違うか」
「……」
「お前は、自分が危険を引き受ければ、相手がこれ以上世界を壊さずに済むと思っている」
相澤は、深く息を吐いた。
「十三年前も、そうだったんじゃないのか」
出久の顔から、血の気が引いた。
その瞬間、爆豪が立ち上がった。
「おい」
低い声だった。
「今の、どういう意味だ」
相澤は爆豪を見た。
「まだ分からない。だが、死亡報告書に残された出久の手書きのメモには、こう書かれていた」
彼は、紙を読み上げた。
「『僕を忘れてください。僕を覚えていると、皆さんまで消えてしまう。だから、僕を忘れてください。僕がいなくなっても、皆さんが生きているなら、それでいいです』」
沈黙が落ちた。
麗日は唇を噛んだ。
飯田は拳を握った。
切島は俯き、八百万は目を閉じた。
そして爆豪は。
「……ふざけんな」
そう呟いた。
「ふざけんなよ、デク」
出久は、何も言えなかった。
「またそれかよ」
爆豪は、机に手をついた。
「自分が消えりゃ、みんな助かる? 自分がいなくなりゃ、丸く収まる? 誰も傷つかねえ? 誰も泣かねえ?」
声が震えていた。
怒りのためだけではない。
「そんなもん……誰が決めたんだよ」
出久は、俯いた。
「……ごめん」
「謝るな!」
爆豪の声が、会議室に響いた。
「謝って済む話にすんな! テメェがいなくなったら、俺たちがどうなるか、少しは考えやがれ!」
「……」
「俺はな……」
爆豪は、一度言葉を切った。
「俺は、テメェが生きてることを知ってんだよ」
出久が顔を上げる。
「十三年前に何があったかなんざ、まだ分かんねえ。テメェが誰を殺したのかも、誰に殺されたのかも分かんねえ」
爆豪は、まっすぐに出久を見た。
「だが、今のテメェは生きてる」
一歩、近づく。
「だったら、今のテメェが決めろ」
その言葉に、出久の目が揺れた。
「十三年前のテメェが何を選んだかなんざ知らねえ。別のテメェが何を選んだかも知らねえ」
爆豪は、拳を握った。
「今ここにいるテメェまで、そいつらの選択に従うんじゃねえ!」
出久は、何も言えなかった。
胸が痛かった。
でも、その痛みは、これまで感じていた罪悪感とは違っていた。
自分が何かを失う痛みではない。
誰かが、自分を失いたくないと願ってくれていることの痛みだった。
「……うん」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう、かっちゃん」
「礼なんざいらねえ」
爆豪は顔を背けた。
「勝手に死んだら、今度こそぶっ殺す」
「それはもう、死んでるんじゃ……」
「黙れ!」
ほんの一瞬。
会議室に、いつもの空気が戻った。
だが、その空気は長く続かなかった。
相澤の端末が鳴ったからだ。
画面に表示されたのは、雄英高校の警備システムからの緊急通知だった。
『正門付近にて異常現象を検知』
『対象者一名』
『身元照合――失敗』
『対象者の発言を記録』
相澤は、画面を開いた。
そこには、正門前で撮影された映像が映っていた。
黒いコートの女性。
そして、その女性の隣に立つ、一人の少年。
緑色の髪。
出久と同じ顔。
だが、その少年は、カメラに向かって笑っていた。
「……見つけた」
少年が言った。
「今度こそ、君を殺せる」
映像が途切れた。
次の瞬間。
雄英高校全域に、警報が鳴り響いた。
『緊急事態発生』
『正門付近にて空間異常を確認』
『全職員および生徒は、直ちに避難してください』
出久は立ち上がった。
相澤が叫ぶ。
「緑谷、待て!」
しかし、出久はすでに走り出していた。
今度こそ。
今度こそ、逃げない。
もう一人の自分が、何を望んでいるのか。
なぜ、自分を殺そうとしているのか。
そして、十三年前に何があったのか。
そのすべてを、本人から聞くために。
第二幕 もう一人の緑谷出久
1 正門に立つ少年
正門前は、異様なほど静かだった。
警報が鳴っている。
職員たちが避難誘導を始めている。
それなのに、正門の外に立つ人々だけが、まるで時間を止められたかのように動かなかった。
誰もが、門の向こうにいる少年を見つめている。
少年は、雄英高校の制服を着ていた。
十三年前のものだ。
襟元のデザインも、校章の位置も、現在の制服とは微妙に異なっている。
その袖口には、乾いた血の跡があった。
右手には、古びたノート。
左手には、一枚の写真。
そして、少年の足元には、黒い亀裂が広がっていた。
亀裂は地面を走り、門柱を伝い、空間そのものにひびを入れている。
その向こうには、星が見えた。
昼間の空には存在しないはずの星々。
それらはまるで、こちら側の世界を覗き込む無数の瞳のようだった。
少年は、走ってくる出久を見つけた。
「……久しぶり」
出久は足を止めた。
二十メートルほどの距離。
手を伸ばせば届きそうで、しかし、決して届かない距離。
少年は微笑んだ。
「元気そうだね」
その言葉が、出久の胸を抉った。
知らない相手のはずだった。
会ったことなどないはずだった。
それなのに、出久は、その声を聞いた瞬間に泣きそうになった。
「……君が」
喉が震える。
「君が、もう一人の僕なの?」
少年は少しだけ考えた。
「そうとも言えるし、違うとも言える」
「どういう意味?」
「君は、僕のことを知らないんだよね」
「……うん」
「僕も、君のことを全部知っているわけじゃない」
少年は、自分の手を見つめた。
「君が今、何を考えているのか。誰を大切にしているのか。何を守ろうとしているのか。僕には分からない」
彼は顔を上げた。
「でも、君がどうやって死ぬのかは知っている」
出久の背後から、足音が響いた。
「緑谷!」
相澤だった。
爆豪、轟、麗日、飯田たちも続いてくる。
相澤は出久の前に立ち、少年を睨んだ。
「お前が、十三年前に記録から消えた個体か」
少年は相澤を見た。
その瞬間、笑顔が消えた。
「……先生」
たった一言。
その声に、相澤の身体が強張った。
少年は、まるで昔の教室で出欠を取られた生徒のように、少しだけ姿勢を正した。
「お久しぶりです」
「……お前は」
「すみません」
少年は頭を下げた。
「また、来てしまいました」
相澤は答えなかった。
彼の頭の中で、十三年前の記憶が激しくぶつかり合っていた。
白い部屋。
血の海。
自分の腕の中で死んだ少年。
そして、目の前で頭を下げる少年。
顔は同じだ。
声も同じだ。
だが、何かが違う。
目の奥にあるものが、違う。
現在の出久が、どれほど苦しくても未来を信じようとする人間なら。
目の前の少年は、未来を信じることを何度も試み、そのたびに裏切られてきた人間の目をしていた。
「……お前の名前は」
相澤が尋ねた。
少年は、微笑んだ。
「ありません」
「ふざけるな」
「本当です」
「自分の名前くらいあるだろう」
「ありましたよ」
少年は、左手の写真を見下ろした。
「十三年前までは」
その瞬間、麗日が息を呑んだ。
写真に写っていたのは、二人の少年だった。
一人は、今ここにいる出久。
もう一人は、目の前の少年。
そして、二人の間には、女性が立っていた。
昨日、正門前で泣いていた女性。
少年は写真を見つめながら言った。
「僕は、あの人の息子でした」
「……でした?」
「ええ」
彼は、穏やかな声で続けた。
「でも、僕が死んだあと、世界は僕の存在を消そうとしました。名前を消して、記録を消して、記憶を消して……最後には、僕が誰かの息子だったことまで、なかったことにしようとした」
彼は顔を上げた。
「それでも、お母さんだけは、僕を覚えていてくれた」
その目に、初めて感情が浮かんだ。
喜び。
悲しみ。
そして、耐え難いほどの後悔。
「だから、僕は戻ってこられたんです」
出久は、一歩前に出た。
「だったら、もう一度やり直そう」
少年の表情が止まった。
「……何?」
「君が戻ってこられたなら、まだ間に合うんだよね?」
出久は、少年を見つめた。
「君が何をしたのか、僕が何をしたのか。全部思い出そう。どうして世界がやり直されるのかも、一緒に調べよう」
「……」
「君が一人で背負う必要はない」
その言葉を聞いた瞬間。
少年の顔から、表情が消えた。
「君は」
彼は、静かに言った。
「本当に、何も分かっていないんだね」
次の瞬間。
少年の足元から黒い亀裂が爆発的に広がった。
相澤が叫ぶ。
「全員、下がれ!」
黒い亀裂から、無数の腕が伸びた。
人間の腕ではない。
輪郭だけを真似たような、黒い影の腕。
それらが地面をつかみ、空間を引き裂き、正門前にいた人々へと襲いかかる。
「くっ……!」
出久が動いた。
危険にさらされた警備員を抱え、後方へ跳ぶ。
爆豪の爆破が炸裂し、黒い腕を吹き飛ばした。
轟が氷壁を展開し、避難経路を確保する。
飯田が人々を誘導し、麗日は瓦礫を浮かせて頭上からの落下を防いだ。
しかし、黒い腕は消えなかった。
吹き飛ばされても、焼かれても、凍らされても。
そのたびに、別の亀裂から新たな腕が現れる。
そして、すべての腕が、ただ一人を目指していた。
緑谷出久。
「……やっぱり」
少年は、苦しそうに呟いた。
「君がいる限り、世界は君を中心に壊れ続ける」
出久は、攻撃を避けながら叫んだ。
「だったら、僕が止める!」
「止められない!」
少年の声が、初めて荒々しくなった。
「僕だって、そう思っていた! 何度も! 何度も何度も、そう思ったんだ!」
黒い亀裂が、空を覆い始めた。
「君を助ければ、世界も助かると思った!」
少年の目から、涙がこぼれた。
「君を生かせば、みんなも生きられると思った!」
彼は、自分の胸を拳で叩いた。
「でも、違ったんだ!」
黒い腕が、出久の背後から迫る。
爆豪が爆風で弾き飛ばした。
「おい、デク! 話を聞くのは後だ!」
「分かってる!」
出久は少年を見た。
「でも、今しかない!」
「何が今しかないんだよ!」
少年が叫んだ。
「僕と話すこと? 僕を説得すること? 僕を救うこと?」
彼は、涙を拭おうともしなかった。
「君は、いつだってそうだ。誰かが苦しんでいたら、手を伸ばす。誰かが泣いていたら、助けようとする。誰かが死にそうになったら、自分のことなんか忘れて飛び込んでいく!」
少年は、出久を睨んだ。
「その結果、君は何を失った?」
出久は答えられなかった。
「君が守ろうとしたものは、全部、君を失うことを望んでいたのか?」
少年の声が震えた。
「君が死ねば、みんなが救われるとでも思っているのか?」
「……違う」
「じゃあ、どうして!」
少年の叫びが、空間を震わせた。
「どうして君は、十三年前に僕を殺したんだ!」
2 十三年前の記憶
その言葉が放たれた瞬間。
世界が、止まった。
黒い腕が空中で静止する。
爆豪の爆発が、轟の氷が、舞い上がった瓦礫が。
すべてが動きを止めた。
音が消えた。
風が止まった。
人々の呼吸さえ、聞こえなくなった。
出久は、目の前の少年を見つめていた。
「……僕が」
声が震えた。
「僕が、君を殺したの?」
少年は、答えなかった。
ただ、出久の目を見ていた。
その目が、すべてを語っていた。
「……違う」
出久は、首を振った。
「僕は、そんなこと……」
「覚えていないんだね」
少年は、静かに笑った。
「それなら、仕方ないよ」
彼は、ノートを開いた。
古びたページ。
何度も書き直された文字。
その中には、出久の字によく似た筆跡で、日付と記録がびっしりと書き込まれていた。
『一回目』
『出久が死亡』
『世界の再構築に失敗』
『二回目』
『出久が生存』
『他の人々の存在が不安定化』
『三回目』
『出久が自分を犠牲にすることを拒否』
『世界の再構築が暴走』
『四回目』
『僕が出久を殺す』
出久は、息を呑んだ。
ページの最後には、赤い文字で書かれていた。
『失敗』
『失敗』
『失敗』
『失敗』
その下に、何度も同じ言葉が繰り返されている。
『僕が間違えた』
『僕が間違えた』
『僕が間違えた』
「……これは」
「僕の日記だよ」
少年は言った。
「十三年間、ずっと書いてきた」
「十三年間……?」
「うん。正確には、十三年分の記憶を持ったまま、何度も何度も同じ時間を繰り返してきた」
少年はノートを閉じた。
「世界が再構築されるたび、僕は違う場所で目を覚ます。あるときは白い部屋。あるときは廃墟。あるときは、誰もいない街」
彼は、自分の手を見つめた。
「最初のうちは、君を探していた。君を見つけて、助けて、今度こそ一緒に生きようと思っていた」
「……」
「でも、君を見つけるたび、君は死んだ」
出久の胸が、締めつけられる。
「あるときは、僕が間に合わなかった。あるときは、君が僕を庇った。あるときは、君が自分から……」
少年は、言葉を止めた。
「……もう、数えきれない」
その声は、ひどく疲れていた。
「君は、何度も死んだ。僕も、何度も死んだ。みんなも、何度も死んだ」
少年は顔を上げた。
「それでも、世界は終わらなかった」
彼の瞳には、怒りすら残っていなかった。
「終わってくれなかったんだ」
出久は、言葉を失った。
世界を救うこと。
命を守ること。
未来をつなぐこと。
それが、ヒーローの仕事だった。
だが、目の前の少年は、未来が何度も繰り返される地獄を生きてきたのだ。
誰かを救っても、次の世界では別の誰かが死ぬ。
世界を守っても、次の世界では世界そのものが壊れる。
どれほど努力しても、結末だけが変わらない。
「……君は」
出久は、ゆっくりと口を開いた。
「僕を助けようとして、何度も世界をやり直したの?」
少年は頷いた。
「そうだよ」
「それで……僕が死ぬたびに、やり直した?」
「そうだ」
「僕が生き残ったときは?」
少年は、目を伏せた。
「……君が生き残ると、世界が壊れた」
その言葉は、あまりにも静かだった。
だからこそ、出久には分かった。
彼は、何度もその結論にたどり着いている。
何度も、同じ答えを突きつけられてきた。
そして、その答えを否定するために、さらに多くの世界を犠牲にしてきたのだ。
「だから、君は僕を殺すことにしたんだね」
少年は、頷かなかった。
否定もしなかった。
ただ、出久を見つめていた。
その沈黙こそが、答えだった。
「……分かった」
出久は、目を閉じた。
「だったら、僕は君を止める」
少年の表情が歪んだ。
「どうして?」
「君が、もう苦しまなくていいように」
「……やめて」
「君が、もう一人で世界を背負わなくていいように」
「やめろ!」
「君が、僕を救おうとしてくれたことを――」
「やめろって言ってるだろう!」
少年の叫びとともに、世界が再び動き始めた。
黒い腕が、出久へと殺到する。
爆豪が叫んだ。
「デク!」
出久は、避けなかった。
黒い腕が、彼の胸を貫いた。
「――っ!」
血が飛び散る。
麗日の悲鳴。
轟の叫び。
爆豪の爆発音。
だが、出久は倒れなかった。
黒い腕に貫かれたまま、少年を見つめていた。
「……君を」
出久は、血を吐きながら言った。
「君を、殺させない」
少年の顔が、凍りついた。
次の瞬間、黒い腕が砕け散った。
出久の胸元から、緑色の光が溢れ出す。
その光は、黒い亀裂を押し広げるのではなく、縫い合わせるように広がっていった。
裂けた空間が、少しずつ元に戻る。
少年は、呆然と立ち尽くした。
「……どうして」
彼の声が震えた。
「どうして、まだ……」
出久は、膝をついた。
胸の傷から血が流れている。
それでも、彼は笑った。
「君が、僕だからだよ」
少年の目から、涙が溢れた。
「……違う」
「君は、僕を救おうとしてくれた」
「違う!」
「だから、今度は僕が――」
「違うんだよ!」
少年は、絶叫した。
そして、出久に向かって走り出した。
3 救えなかったもの
少年の手には、いつの間にか小さなナイフが握られていた。
刃は、黒い光を帯びている。
その刃を見た瞬間、出久の頭の中で、何かが弾けた。
白い部屋。
血に染まった床。
泣き叫ぶ声。
『出久、逃げろ!』
『先生、そっちじゃない!』
『僕を置いていって!』
記憶が、断片的に蘇る。
十三年前。
二人の出久は、同じ場所にいた。
一人は、世界を救おうとしていた。
もう一人は、世界をやり直そうとしていた。
そして、二人の間には、数えきれないほどの死者がいた。
オールマイト。
相澤。
爆豪。
麗日。
轟。
飯田。
切島。
八百万。
そして、名前も顔も思い出せない大勢の人々。
彼らが死ぬたび、世界は壊れた。
世界が壊れるたび、二人の出久は別の選択をした。
片方は、自分を犠牲にして誰かを救おうとした。
もう片方は、誰かを犠牲にしてでも自分を救おうとした。
二人とも、誰も死なせたくなかった。
二人とも、間違っていると思いたくなかった。
だからこそ、二人は相手を許せなかった。
「……僕は」
出久の口から、声が漏れた。
「僕は……君を……」
少年が、目の前まで迫っていた。
ナイフが振り下ろされる。
その瞬間、出久は少年の手首をつかんだ。
刃が、喉元で止まる。
二人の目が合った。
同じ顔。
同じ瞳。
違う人生。
「……君を、殺したくない」
出久は言った。
少年は、歯を食いしばった。
「僕だって……!」
その声が、震えた。
「僕だって、君を殺したくない!」
ナイフが、床に落ちた。
少年は、その場に崩れ落ちた。
「僕だって……君と、生きたかったんだ……」
彼は顔を覆った。
「君と一緒に、笑いたかった。くだらないことで喧嘩して、みんなとご飯を食べて、普通に歳を取って……」
声が、嗚咽に変わる。
「君が生きている未来を、見たかったんだ……!」
出久は、少年の前に膝をついた。
「……うん」
「でも、僕が君を救おうとすると、誰かが死ぬ!」
「……うん」
「僕が君を諦めれば、君が死ぬ!」
「……うん」
「どうすればよかったんだよ……!」
少年は、出久の胸をつかんだ。
「教えてよ……! 僕は、どうすればよかったんだ……!」
出久は、答えられなかった。
簡単な答えなどない。
十三年前の彼が、何を選ぶべきだったのか。
今の自分なら、正しい選択ができるのか。
そんな保証は、どこにもない。
ただ一つだけ、分かることがあった。
この少年は、ずっと一人だった。
世界がやり直されるたび、記憶を抱えたまま取り残された。
誰にも理解されず、誰にも信じてもらえず、誰にも助けを求められず。
自分の選択で誰かが死ぬたびに、その責任をすべて自分一人で背負ってきた。
そして最後には、自分を殺すことだけが救いだと信じるようになった。
出久は、少年を抱きしめた。
少年の身体が、強張った。
「……何を」
「分からない」
出久は、正直に答えた。
「僕には、まだ何も分からない」
少年は、動かなかった。
「君が正しかったのか、僕が正しかったのか。それも分からない」
出久は、少年の背中に腕を回した。
「でも、君が苦しかったことは分かる」
「……」
「君が、僕を助けたかったことも分かる」
「……やめてよ」
少年の声が、かすれた。
「そんなこと言わないでよ……」
「どうして?」
「僕は、君を殺したんだ……」
「……うん」
「僕は、何度も君を殺したんだ……!」
「……うん」
「君を助けるために、たくさんの人を殺した!」
少年は、出久の胸を叩いた。
「君を生かすために、世界を壊した!」
何度も。
何度も。
何度も。
出久は、その手を受け止めた。
「……うん」
少年は、泣き崩れた。
「だから、僕を憎んでよ……!」
その言葉を聞いた瞬間。
出久は、目を閉じた。
十三年前。
自分は、この少年を殺したのかもしれない。
彼の選択を否定し、彼の願いを拒み、彼の命を奪ったのかもしれない。
だが。
「……憎めないよ」
出久は、静かに言った。
少年の身体が止まった。
「僕は、君を許せるかどうかも分からない。君がしたことを、全部正しいと言うつもりもない」
出久は、少年を抱きしめる腕に力を込めた。
「でも、君を憎むだけで終わらせたくない」
少年は、顔を上げた。
涙で濡れた目が、出久を見つめる。
「……どうして?」
出久は、少しだけ笑った。
「だって、君は僕なんだろう?」
その言葉に、少年の表情が崩れた。
「……っ」
「だったら、君が苦しんでいるのに、君を見捨てたくない」
少年は、何かを言おうとした。
だが、声にならなかった。
出久は続けた。
「君がしたことの責任を取るなら、僕も一緒に考える。君が壊したものを直すなら、僕も一緒に直す」
「……」
「でも、君が自分を殺すことで終わらせようとするなら、それだけは止める」
出久は、少年の目を見た。
「僕は、君を殺さない」
その瞬間。
少年の身体に走っていた黒い亀裂が、わずかに光った。
しかし、光はすぐに消えた。
少年は、出久の胸を押し返した。
「……遅いよ」
その声には、もう涙がなかった。
「遅すぎるんだ」
出久は、手を伸ばした。
「待って!」
少年は立ち上がった。
その背後に、黒い亀裂が開く。
亀裂の向こうには、白い部屋があった。
そして、その部屋の中央に。
一人の少年が立っていた。
緑色の髪。
小さな身体。
怯えた目。
かつての、緑谷出久。
「……あれは」
出久が呟いた。
少年は、白い部屋を見つめた。
「君が忘れた、最初の僕だよ」
「最初の……?」
「君がまだ、何も失っていなかった頃の僕」
少年は、振り返った。
「そして、僕たちが最初に間違えた場所」
黒い亀裂が、さらに広がる。
少年は、その中へ足を踏み入れた。
「次に会うときは、もう話し合えない」
「待って!」
出久が叫んだ。
「まだ聞きたいことがある! 十三年前、僕たちは何をしたんだ! どうして、世界は僕たちのどちらかしか生かせないんだ!」
少年は、足を止めた。
しばらく黙っていた。
そして、振り返らずに答えた。
「……世界が、僕たちを選んだんじゃない」
その声が、風に消えていく。
「僕たちが、世界に選ばせたんだ」
黒い亀裂が閉じた。
少年の姿が消えた。
正門前に、静寂が戻った。
出久は、伸ばした手を下ろせなかった。
最後の言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
僕たちが、世界に選ばせた。
それは、どういう意味なのか。
世界が二人の存在を両立できないのなら。
二人の出久が、どちらか一方を選ばなければならなかったのなら。
その選択をしたのは、世界ではなく。
二人自身だったのか。
第三幕 先生が殺した少年
1 記録の向こう側
正門前の異常現象が収束したのは、それから三分後だった。
黒い亀裂は消えた。
空も元に戻った。
負傷者は出たが、幸い、死者はいなかった。
ただし、正門の監視カメラには奇妙な映像が残されていた。
少年が現れる。
出久と話す。
黒い亀裂が広がる。
そして、少年が消える。
その間、映像の時間表示は一秒も進んでいなかった。
映像の長さは三分。
記録された時間は、ゼロ秒。
まるで、世界そのものが、少年の存在を記録することを拒否しているかのようだった。
「……また、消されたか」
相澤は映像を確認しながら呟いた。
「いえ」
塚内が首を振った。
「今回は違います」
「何が違う」
「映像だけではありません。警備システムの記録も、現場にいた職員たちの証言も残っています」
塚内は、端末を見つめた。
「前回までの異常現象では、記録そのものが書き換えられていました。今回は、書き換えられていない」
「つまり?」
「……あの少年が、意図的に記録を残した可能性があります」
相澤は、画面を見た。
少年は、確かにカメラを見ていた。
そして、言った。
『見つけた』
『今度こそ、君を殺せる』
「……あいつは、何かを伝えようとしている」
相澤は呟いた。
「ただし、緑谷に直接伝えられない何かを」
「どうして、直接伝えられないのでしょう」
塚内の問いに、相澤は答えなかった。
答えられなかった。
だが、一つだけ確かなことがある。
少年は、出久を殺すと宣言した。
それなのに、出久を殺す機会を何度も逃している。
本当に殺すつもりなら、もっと簡単な方法があったはずだ。
正門前での攻撃。
あの黒い腕は、出久の身体を貫いた。
少年が本気で殺そうとしたのなら、そのまま致命傷を与えることもできたはずだ。
だが、少年はそうしなかった。
あるいは、できなかった。
「……緑谷」
相澤は、出久を見た。
出久は、まだ正門前に立っていた。
少年が消えた場所を、じっと見つめている。
「何を言われた」
出久は、ゆっくりと振り返った。
「……僕たちが、世界に選ばせたんだって」
相澤の表情が変わった。
「それだけか」
「はい」
「他には?」
出久は、少し迷った。
そして、正直に答えた。
「僕は、彼を殺したのかもしれません」
「……」
「十三年前、僕たちは何かを選んだ。僕が彼を殺したのか、彼が僕を殺そうとしたのか、それとも……」
出久は、自分の手を見た。
「僕たち二人で、誰かを犠牲にしたのか」
相澤は、目を閉じた。
その言葉は、彼自身の記憶の中にも、何かを呼び起こしていた。
十三年前。
自分は、何かを選んだ。
選ばなければならなかった。
二人の少年。
二つの存在。
一つの世界。
そして、誰かの命。
「……緑谷」
相澤は、低い声で言った。
「今から話すことは、俺の記憶が正しければ、という前提だ」
「はい」
「十三年前、俺はお前を殺した」
出久は、息を呑んだ。
「……先生?」
「正確には、お前と同じ顔をした少年を、俺はこの手で殺した」
相澤は、自分の右手を見た。
「そして、その直後に、もう一人の緑谷出久が生き残った」
彼は、顔を上げた。
「だが、俺はその少年を助けたわけじゃない」
「……」
「俺は、そいつに頼まれたんだ」
相澤の声が震えた。
「『僕を殺してください』と」
出久の心臓が、強く跳ねた。
「……それは」
「俺は断った。何度も断った。だが、そいつは……」
相澤は、言葉を切った。
白い部屋。
泣いている少年。
その手には、血がついていた。
『先生、お願いします』
『僕を殺してください』
『このままじゃ、またみんなが死んでしまう』
そして、もう一人の少年が叫ぶ。
『やめてよ!』
『僕は、君を殺したくない!』
『だったら、どうして僕を置いていくの!』
記憶が、断片的に蘇る。
相澤は、目を開いた。
「……俺は、二人を救おうとした」
「……」
「だが、どちらか一方しか、世界に残せなかった」
出久は、言葉を失った。
「そして俺は……」
相澤は、拳を握った。
「一人を殺し、もう一人に忘れることを約束させた」
その瞬間、出久の頭の中で、何かが弾けた。
『先生、約束を破ってごめんなさい』
死亡報告書の余白に書かれていた言葉。
あれは、誰が書いたものだったのか。
誰との約束だったのか。
そして、誰が約束を破ったのか。
「……先生」
出久は、震える声で尋ねた。
「僕は、何を忘れたんですか」
相澤は答えなかった。
ただ、出久を見つめていた。
その目には、教師としての責任と、一人の人間としての後悔があった。
「……すべてだ」
相澤は言った。
「お前が死んだことも。もう一人のお前がいたことも。俺が何をしたのかも」
彼は、深く息を吐いた。
「そして、俺たちが何を守ろうとしていたのかも」
2 母親の告白
その日の午後。
雄英高校の面談室に、昨夜の女性が再び訪れた。
彼女の名前は、緑谷久美子。
少なくとも、彼女が現在使用している身分証には、そう記されていた。
ただし、過去の戸籍記録を調べても、彼女が二人の少年を育てていた証拠は見つからなかった。
確認できたのは、緑谷出久の母親としての記録だけ。
もう一人の少年に関する記録は、何一つ残っていない。
彼女は、出久と向かい合って座っていた。
相澤と塚内は、少し離れた場所で話を聞いている。
久美子は、古い写真を机の上に置いた。
「……あの子は、最初からあなたのことを知っていました」
出久は、写真を見つめた。
二人の少年。
同じ顔。
違う表情。
「どういうことですか?」
「あなたが、まだ小さかった頃のことです」
久美子は、ゆっくりと話し始めた。
「ある日、家の前に男の子が立っていたんです。あなたと同じ顔をした男の子が」
出久は、息を呑んだ。
「その子は、ひどく疲れていました。服は破れていて、身体中に傷があって……何日も食べていないような様子でした」
彼女は、写真の端を指でなぞった。
「私は、警察に連絡しようと思いました。でも、その子が言ったんです」
久美子は、目を閉じた。
「『お母さん、僕を家に入れてください』って」
出久の胸が、痛んだ。
「……お母さん、と?」
「ええ。私は、その子を知りませんでした。なのに、その子は私を母親と呼んだ」
彼女は、少しだけ笑った。
「そして、あなたの名前を呼んだんです」
「僕の?」
「『出久はいますか』って」
面談室が静かになった。
「私は、あなたを呼びました。あなたは二階から降りてきて、その子を見た」
久美子の声が震えた。
「あなたは、驚いていました。でも、その子を見た瞬間、泣き出したんです」
出久は、目を見開いた。
「……僕が?」
「ええ」
久美子は頷いた。
「あなたは、その子に駆け寄って、抱きしめました。そして、こう言ったんです」
彼女は、震える声で再現した。
「『よかった。今度は、間に合ったんだね』って」
出久の頭が、真っ白になった。
「……そんな」
「その子も泣いていました。二人で抱き合って、ずっと泣いていたんです」
久美子は、涙を拭った。
「私は、何が起きたのか分かりませんでした。でも、あなたたちは、まるで何年も会えなかった兄弟のようでした」
「……兄弟」
「ええ」
彼女は、写真を見つめた。
「それから、その子は家で暮らすようになりました。あなたは、その子を兄のように慕っていました。あの子も、あなたを弟のように大切にしていました」
出久は、写真に手を伸ばした。
二人の少年の間には、確かな親しさがあった。
片方が笑えば、もう片方も笑う。
片方が泣けば、もう片方がそばにいる。
そんな、何気ない日常の一瞬だった。
「……名前は」
出久は尋ねた。
「その子の名前は、何だったんですか」
久美子は、口を開いた。
だが、声が出なかった。
彼女は、何度も口を動かした。
「……あの子の名前は」
涙が、机の上に落ちた。
「……ごめんなさい」
出久は、首を横に振った。
「謝らないでください」
「違うの……覚えているの。確かに覚えているのに……」
久美子は、自分の頭を押さえた。
「思い出そうとすると、何かが邪魔をするの。名前を思い出したら、あの子が消えてしまう気がするの……!」
その瞬間、部屋の照明が明滅した。
相澤が立ち上がる。
「全員、端末から離れろ!」
壁のモニターが勝手に起動した。
黒い画面。
白い文字。
『第零回観測記録』
『対象個体の母親による名称復元を検知』
『記録の完全開示まで、残り一段階』
久美子は、画面を見つめた。
「……あの子が、消えてしまう」
出久は、彼女の手を握った。
「大丈夫です」
そう言ったものの、何を根拠に大丈夫だと言えるのか、出久自身にも分からなかった。
それでも、彼は続けた。
「僕がいます。先生もいます。みんなで、あの子を探します」
久美子は、出久を見つめた。
「……あなたは、あの子を憎んでいないの?」
「……分かりません」
出久は正直に答えた。
「僕は、まだ何も覚えていません。あの子が何をしたのかも、僕が何をしたのかも」
一度、息を吸う。
「でも、あの子が僕を救おうとしてくれたことは、分かりました」
出久は、写真を見た。
「だから、僕もあの子を救いたい」
久美子は、泣きながら微笑んだ。
「……そう」
彼女は、出久の手を握り返した。
「それなら……お願いがあります」
「はい」
「今度こそ、二人とも帰ってきて」
その瞬間。
モニターに、新しい文字が表示された。
『名称復元条件を満たしました』
『対象個体の存在履歴を復元します』
『母子関係を確定します』
『兄弟関係を確定します』
出久は、息を呑んだ。
画面に、二つの名前が並んだ。
一つ目。
緑谷出久。
二つ目。
黒い文字に覆われた名前。
しかし、その文字の下に、小さな補足が表示されていた。
『対象個体の名称は、緑谷出久ではありません』
『対象個体は、緑谷出久の兄弟ではありません』
『対象個体は――』
画面が激しく明滅した。
『対象個体は、緑谷出久の――』
そこで、表示が途切れた。
代わりに、別の警告が浮かび上がる。
『死亡記録の再確定を開始します』
『対象A:緑谷出久』
『死亡時刻:午前二時十三分』
『死亡状態:確定』
出久の身体が、ぐらりと傾いた。
「出久くん!」
麗日が、彼の身体を支えた。
同時に、モニターの数字が変わる。
『世界再構築までの残り時間』
六十六時間。
六十五時間。
六十四時間。
そして。
六十三時間五十九分。
相澤が叫んだ。
「記録を切れ! 今すぐだ!」
塚内が端末を操作する。
しかし、画面は反応しない。
『記録の完全開示を開始します』
『対象個体の存在を確定します』
『緑谷出久の死亡を確定します』
「やめろ!」
出久は、モニターに手を伸ばした。
「僕は、生きている!」
その声に、画面が一瞬だけ止まった。
『対象個体の自己認識を確認』
『生存意思を確認』
『観測記録との不一致を検出』
出久は、歯を食いしばった。
「僕は、緑谷出久だ!」
画面が、強く明滅する。
『自己認識を確認』
『生存意思を確認』
『対象個体の存在を再評価します』
そして。
『再評価の結果――』
すべての文字が消えた。
画面は、真っ黒になった。
部屋の中に、静寂が落ちた。
出久は、肩で息をしていた。
麗日が、彼の手を握っている。
「出久くん……大丈夫?」
「……うん」
出久は、頷いた。
「大丈夫」
だが、その声は震えていた。
相澤は、黒い画面を見つめていた。
先ほどまで、そこには二人の存在を管理する記録が表示されていた。
そして今、その記録は消えた。
ただし。
画面の端に、小さな文字が残っていた。
誰も気づいていない。
誰も、まだ読んでいない。
『対象個体の名称』
『緑谷――』
その先は、黒い線に覆われていた。
第四幕 零番目の世界
1 忘れられた部屋
その夜。
出久は、再び白い部屋にいた。
今度は、夢ではなかった。
床の感触がある。
空気の冷たさがある。
自分の呼吸が聞こえる。
壁は真っ白で、窓も扉もない。
ただ、部屋の中央に、小さな机が置かれていた。
机の上には、二つの椅子。
一つは、出久が座れる大きさ。
もう一つは、少しだけ小さい。
出久は、椅子に近づいた。
その背もたれに、名前が刻まれている。
緑谷出久。
もう一つの椅子にも、名前が刻まれていた。
だが、そこは黒く塗りつぶされている。
出久は、指で黒い部分に触れた。
その瞬間、頭の中に声が響いた。
『やっと来たね』
出久は、顔を上げた。
机の向こうに、少年が座っていた。
正門前で会った、もう一人の自分ではない。
もっと幼い。
小学生くらいの姿。
緑色の髪。
大きな瞳。
そして、出久がよく知っている、あの表情。
かつての自分。
個性がないと告げられた日。
ヒーローになれないと知った日。
それでも、ヒーローを諦められなかった少年。
「……君は」
出久は、息を呑んだ。
「僕なの?」
少年は首を傾げた。
『そうだよ』
「でも……」
『君が忘れた僕』
少年は、椅子から降りた。
『君が、最初に置いていった僕』
出久は、言葉を失った。
少年は、机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
『第一回再構築計画』
出久は、その文字を見つめた。
「……第一回?」
少年は頷いた。
『うん』
「じゃあ、零回目は……?」
少年は、笑った。
『零回目は、まだ世界が始まる前』
「世界が始まる前?」
『君たちが、まだ何も選んでいなかった頃』
少年は、窓のない壁を見上げた。
『まだ、誰も死んでいなかった頃』
出久は、胸が苦しくなった。
「……そんな世界が、あったの?」
『あったよ』
少年は、頷いた。
『少なくとも、僕はそう覚えている』
「どうして、その世界はなくなったの?」
少年は答えなかった。
代わりに、机の上に二枚目の紙を置いた。
『第二回再構築計画』
そして、三枚目。
『第三回再構築計画』
四枚目。
『第四回再構築計画』
そのすべてに、同じ言葉が記されていた。
『緑谷出久の生存を確認』
『世界の崩壊を確認』
『再構築を開始』
出久は、紙を握りしめた。
「……僕が、生きていると世界が壊れるの?」
少年は、ゆっくりと首を振った。
『違うよ』
「え……?」
『君が生きているから、世界が壊れるんじゃない』
少年は、出久を見つめた。
『君が死ぬ世界を、誰かが拒み続けているからだよ』
出久の呼吸が止まった。
「……誰が?」
少年は、答えなかった。
ただ、机の向こうを指差した。
そこには、いつの間にか扉があった。
白い扉。
その中央に、名前が刻まれている。
緑谷出久。
出久は、ゆっくりと扉に近づいた。
取っ手に手を伸ばす。
その瞬間、扉の向こうから声が聞こえた。
『出久』
女性の声。
母親の声。
『出久、帰ってきて』
出久は、息を呑んだ。
「……お母さん?」
扉の向こうで、誰かが泣いていた。
『お願い……』
『今度こそ、二人とも……』
出久は、取っ手を握りしめた。
扉を開けようとする。
しかし、開かない。
どれほど力を込めても、扉は動かなかった。
「どうして……!」
少年が、背後から言った。
『その扉は、君一人では開けられない』
出久は振り返った。
「どうすればいいの?」
少年は、少しだけ悲しそうに笑った。
『もう一人の君と、一緒に開けるんだ』
その瞬間。
部屋全体が震え始めた。
白い壁に、黒い亀裂が走る。
天井が崩れる。
床が裂ける。
少年の身体が、少しずつ透けていく。
「待って!」
出久は、手を伸ばした。
「君は、誰なんだ!」
少年は、最後に笑った。
『僕は――』
声が、途切れる。
黒い亀裂が、少年の身体を覆い尽くす。
そして。
『君が、最初に救えなかった人だよ』
白い世界が、崩れた。
2 目覚め
「――っ!」
出久は、ベッドから跳ね起きた。
全身が汗で濡れている。
心臓が激しく鼓動していた。
窓の外は、まだ暗い。
時計は、午前二時十二分を示していた。
出久は、震える手で時計を見つめた。
一分後。
午前二時十三分。
その瞬間、部屋の照明が消えた。
スマートフォンが震える。
画面には、見覚えのある表示が浮かんでいた。
『対象個体の夢見を確認』
『第零回観測記録との接触を確認』
『記憶の復元を開始します』
出久は、息を呑んだ。
画面が切り替わる。
そこには、短いメッセージが表示されていた。
『今度こそ、思い出して』
送信者の名前は、ない。
だが、出久には分かった。
もう一人の自分だ。
出久は、震える指で返信した。
『何を?』
しばらくして、返事が届いた。
『僕たちが、最初に殺した人のこと』
出久の身体が、凍りついた。
『……誰を?』
返事は、すぐには来なかった。
一分。
二分。
三分。
そして、ようやく。
『君だよ』
出久は、画面を見つめた。
『僕たちが、最初に殺したのは、君なんだ』
その瞬間。
時計が、午前二時十三分を示した。
世界が、再び止まった。
終幕 僕を殺した僕
雄英高校地下、特別記録保管室。
相澤消太は、眠れずにいた。
十三年前の記録を、何度も読み返していた。
自分が書いた死亡報告書。
自分が承認した記録。
自分が忘れた約束。
そして、今朝、目の前に現れたもう一人の緑谷出久。
相澤は、画面に表示された二つの名前を見つめていた。
『対象A:緑谷出久』
『対象B:緑谷出久』
「……何が違う」
彼は呟いた。
「二人とも、緑谷出久だ。二人とも、生きたいと思っていたはずだ」
画面は答えない。
相澤は、目を閉じた。
そして、十三年前の記憶を、もう一度たどった。
白い部屋。
二人の少年。
泣きながら、互いに手を伸ばす姿。
『先生、僕を殺してください』
『先生、お願いです。あの子を助けてください』
二人の声が、重なった。
相澤は、額を押さえた。
「……違う」
その瞬間、彼の脳裏に、別の記憶が蘇った。
十三年前。
白い部屋の中央に、二人の少年が立っていた。
片方は、出久。
もう片方も、出久。
その二人の間に、一人の小さな少年が倒れていた。
緑色の髪。
小さな身体。
閉じられた瞳。
そして、胸元に広がる血。
相澤は、息を呑んだ。
あのとき。
自分が殺したと思っていた少年は。
二人の出久のどちらでもなかった。
いや。
二人の出久であり、二人の出久ではなかった。
記憶の中で、少年が目を開けた。
そして、相澤に向かって笑った。
『先生』
『僕を、忘れてください』
相澤は、立ち上がった。
「……まさか」
その瞬間、端末が起動した。
画面には、新しい記録が表示されていた。
『第零回観測記録』
『対象個体の名称復元を開始』
『対象個体の存在履歴を確認』
『対象個体の死亡時刻――午前二時十三分』
『対象個体の生存状態――不明』
そして、最後に。
『対象個体は、緑谷出久ではありません』
相澤は、息を止めた。
その下に、新しい文字が浮かび上がる。
『対象個体は、緑谷出久の――』
画面が暗転した。
次の瞬間。
世界中の時計が、午前二時十三分を示した。
人々は眠りの中で、同じ夢を見た。
白い部屋。
二人の少年。
そして、床に倒れた、三人目の少年。
少年は、ゆっくりと目を開けた。
その顔は、緑谷出久に似ていた。
だが、完全に同じではなかった。
少年は、誰もいない部屋で呟いた。
「……やっと、ここまで来たんだね」
彼の足元に、黒い亀裂が広がる。
その向こうには、無数の星々。
そして、その星々を見つめる、巨大な存在の気配。
少年は、ゆっくりと立ち上がった。
「今度こそ、僕が選ぶ」
彼は、白い扉に手をかけた。
その扉には、三つの名前が刻まれていた。
一つ目。
緑谷出久。
二つ目。
緑谷出久。
そして三つ目。
黒く塗りつぶされ、読むことのできない名前。
少年は、その三つ目の名前を指でなぞった。
「……ごめんね」
彼は、静かに呟いた。
「僕たちが、君を忘れたせいで」
扉が開く。
その向こうには、十三年前の世界が広がっていた。
まだ、誰も死んでいない世界。
まだ、誰も何も失っていない世界。
そして、すべてが始まる前の世界。
少年は、一歩を踏み出した。
「……今度こそ」
その声が、白い空間に響いた。
「今度こそ、三人とも救ってみせる」
扉が閉じた。
世界の時計が、再び動き始めた。
そして、雄英高校の端末に、新しい記録が刻まれた。
『観測回数:零』
『対象個体:三』
『世界再構築までの残り時間』
六十三時間。
その下に、最後の一文が表示されていた。
『第三の緑谷出久を確認』