一 今日の希望は、スープと絵本
「……あたたかいスープがいいです」
朝の医療施設。
壊理は、テーブルに置かれた朝食のメニューを見つめながら、小さな声で言った。
「スープ?」
通形ミリオが、向かい側から顔をのぞかせる。
「はい。できれば、お野菜が入っているものがいいです」
「なるほど! 野菜入りスープだね!」
ミリオは勢いよくうなずいた。
「よし! それじゃあ、僕も同じものにしよう!」
「ミリオさんは、別のものでもいいんですよ?」
「えっ?」
「ミリオさんも、食べたいものがあると思うので……」
ミリオは一瞬、言葉を失った。
そして、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「……そうだね。ありがとう、壊理ちゃん。じゃあ、僕もメニューを見て決めようかな!」
「はい」
壊理は、少しだけうれしそうにうなずいた。
その様子を、部屋の隅からサー・ナイトアイが見守っていた。
彼の手には、医療チームが用意した壊理の今後に関する資料がある。
個性の安定性。
発動条件。
身体への負担。
本人の意思確認。
安全な生活環境。
今後の医療的な支援。
どれも重要な項目だ。
壊理の個性は、これまで多くの人間に利用されてきた。その力を安全に理解し、本人を守るための準備は欠かせない。
しかし、資料を読み進めるうちに、ナイトアイは一つのことに気づいた。
そこには、壊理本人が、これから何をしてみたいのかという欄がなかった。
もちろん、彼女の希望を聞くこと自体は、難しいことではない。
ただ、医療的な評価や安全管理の項目に比べて、彼女の気持ちを確かめることが、どこか後回しになっている。
彼女を守るために必要な情報。
彼女の未来を支えるための情報。
その二つを集めているうちに、いつの間にか、彼女が自分で選ぶ未来のことを忘れてしまう。
――それでは、今までと何も変わらない。
ナイトアイは資料を閉じた。
「壊理さん」
「はい?」
「少し、今後の生活について話をしてもよろしいですか?」
壊理の顔が、わずかに強張った。
「……わたし、何かしなければいけないんですか?」
その問いに、ナイトアイはすぐに答えた。
「いいえ。何かをしてもらうための話ではありません」
「でも……」
「あなたが何をしたいのか。どのような生活を望んでいるのか。それを聞くための話です」
壊理は、彼の手元にある資料を見た。
「……個性のことですか?」
「それも、必要があれば話し合うでしょう。しかし、それだけではありません」
ナイトアイは資料をテーブルに置いた。
「食事のことでも、遊びのことでも、学ぶことでも。何かやってみたいことがあれば、聞かせてください。今は何も思いつかなくても、構いません」
壊理は、少し考えた。
「……絵本を、たくさん読みたいです」
「ええ」
「それから……お花を見てみたいです」
ミリオが顔を上げた。
「お花?」
「はい。病院のお庭に、少しだけお花があったので……。もっと、いろんなお花を見てみたいです」
壊理は、言い終えると不安そうにナイトアイを見た。
「……それでも、いいんですか?」
ナイトアイは静かにうなずいた。
「もちろんです」
「わたしの個性に関係がなくても?」
「関係がなくても、です」
ナイトアイは、壊理を見つめた。
「あなたの人生は、あなたの個性を役立てるためだけにあるのではありません」
その言葉を聞いた壊理は、何かを確かめるように、もう一度尋ねた。
「……わたしが、誰の役にも立たなくても?」
ミリオの笑顔が、ゆっくりと消えた。
ナイトアイは、少しだけ目を伏せた。
この問いは、単なる質問ではない。
壊理は、ずっと誰かの都合で自分の価値を決められてきた。
役に立つ力があるから。
誰かを治せるかもしれないから。
誰かが望む未来を実現できるかもしれないから。
だから、存在する価値がある。
そんな考えを、彼女自身が抱いてしまうほどに。
「……壊理さん」
ナイトアイは、はっきりと答えた。
「あなたは、誰かの役に立つために生きているわけではありません」
ミリオも続けた。
「壊理ちゃんが誰かを助けたいって思うなら、その気持ちは大切にしていい。でも、助けたくないときも、何もできないときも、何かをするのが怖いときも、それで壊理ちゃんの価値がなくなったりしないよ」
「……本当に?」
「本当だよ」
ミリオは笑った。
「だって、僕もスープが食べたいし、たまには休みたいし、失敗したら落ち込むし、疲れたら寝たいからね!」
「……ミリオさんも?」
「そう! 僕だって、ずっと英雄らしくいられるわけじゃないんだ!」
「英雄なのに?」
「英雄だってお腹は空くんだよ!」
壊理は目を丸くした。
「……そうなんですね」
「そうなんです!」
ミリオは胸を張った。
その瞬間、ナイトアイが冷静に付け加えた。
「食べ過ぎれば体調を崩します。規則正しい生活も必要です」
「ナイトアイさん! そこは話を広げるところじゃないですよ!」
「事実を述べただけです」
壊理の口元が、少しだけ緩んだ。
小さな希望。
大きな決意ではなくてもいい。
誰かを救う使命でなくてもいい。
ただ、自分が望んだこと。
その願いを口にするたび、壊理は少しずつ、自分の人生を自分のものにしようとしていた。
――だが。
その平穏は、突然鳴り響いた警報によって破られた。
『施設内に不審な車両が接近しています。警備担当者は、直ちに東側搬入口へ移動してください』
直後、廊下の照明が赤く点滅した。
ナイトアイが顔を上げる。
ミリオは、壊理の前に立った。
「……壊理ちゃん。僕のそばにいて」
「は、はい……!」
通信機から、バブルガールの声が飛び込んできた。
『ナイトアイさん! 東側搬入口で、医療用の搬送車両を装った車が停止しました! 登録情報に該当する車両はありません!』
続いて、センチピーダーの声。
『運転手は身分証を提示していません。車両後部から複数の装備が確認できます!』
さらに、ロックロックが怒鳴った。
『ちょっと待て! あいつら、搬入口のシャッターを外から固定しやがった! 外に出るつもりも、中へ正式に入るつもりもねえぞ!』
ナイトアイの表情が変わった。
「……搬送車両を装って侵入するつもりか」
通信機の向こうで、リューキュウが告げる。
『こちらから車両を確認するわ。ミリオ、壊理さんを安全区画へ移動させて』
「了解です!」
ミリオは壊理へ向き直った。
「壊理ちゃん、ちょっと移動しよう。怖かったら、そう言っていいからね」
壊理はうなずいた。
しかし、廊下へ出ようとした、その瞬間。
施設内の別の警報が鳴った。
『警告。東側搬送路にて、医療記録照合が要求されています』
『対象確認――特殊巻き戻し個性、対象識別番号――』
「……っ!」
壊理の顔から、血の気が引いた。
スピーカーから、感情のない機械音声が続いた。
『対象の医療的価値は極めて高いものと推定。安全な移送を実行してください』
ミリオの目が、鋭くなった。
「……誰が、そんなことを決めた」
ナイトアイは通信機を握りしめた。
「全員、配置についてください。これは単なる不審車両ではありません。壊理さんを、本人の意思を確認せずに移送しようとしている」
彼は一度だけ、壊理を見た。
「壊理さん。あなたは、ここに残りたいですか。それとも、安全を確保できる別の場所へ移動したいですか?」
彼女は震えながら、しかし、はっきりと答えた。
「……ここから、連れていかれたくありません」
「わかりました」
ナイトアイは即座に答えた。
「では、あなたの意思を尊重します。そのうえで、ここを守ります」
警報が鳴り続ける。
ミリオは、いつもの明るい笑顔を消していた。
「――今度は、僕たちが守る番だ」
彼は廊下の向こうを見据えた。
「壊理ちゃんの未来を、勝手に決めさせない」
二 救うためなら、連れていっていいのか
東側搬入口。
医療用搬送車両を装った黒い車が、警備シャッターの前に停止していた。
その周囲には、白い装甲服をまとった数人の人間が立っている。
彼らは警備員を直接傷つけることを避けていたが、搬入口の制御端末を破壊し、施設内の通信を妨害していた。
単純な強盗ではない。
標的が明確に決まっている。
そのことは、現場に集まったヒーローたちにもすぐにわかった。
「お待たせしました!」
波動ねじれが上空から降り立つ。
「車の後ろに、大きな拘束装置があるよ! 病院に運ぶためっていうより、誰かを逃がさないためのものっぽい!」
「こちらも確認しました」
センチピーダーが長い身体を伸ばし、シャッターの隙間から侵入しようとした細いワイヤーを押さえ込んだ。
「装置は医療搬送用の規格とは一致しません。捕獲を目的とした機材と思われます」
「やっぱりね!」
バブルガールが両手を構えた。
「壊理ちゃんを、医療資源か何かと勘違いしてるんじゃないでしょうね」
「勘違いではないのだろう」
ナイトアイが現場に到着した。
その背後にはミリオと壊理がいる。壊理は、ロックロックが確保した安全区画に待機することになっていた。
「彼らは、彼女の個性を利用するつもりです」
ナイトアイは装甲服の一団を見据えた。
「だが、今回の目的が何であろうと、本人の意思を確認しない移送は認められません」
装甲服の男が、前へ出た。
「我々は、壊理という少女に危害を加えるつもりはない」
その声は、拡声器を通していた。
「彼女の個性によって、救済できる可能性のある人々がいる。彼女を専門施設へ移送し、適切な医療環境で個性を管理すべきだ」
「医療環境ねえ」
ロックロックが吐き捨てた。
「だったら、なぜ正規の手続きを踏まない? なぜ身分を隠す? なぜ搬入口を破壊する?」
「時間がないからだ」
男は即答した。
「彼女の能力には大きな可能性がある。救える人間がいるのに、その可能性を放置するのか?」
「……その問いを、壊理ちゃん本人にしましたか?」
ミリオが、一歩前へ出た。
「彼女がどうしたいか、聞きましたか?」
「今は判断できないだろう。あの年齢では、自分の個性が持つ意味を十分に理解できない」
男は、ためらわなかった。
「我々が安全な環境へ移送し、必要な説明を行う。本人が理解した後、協力するかどうかを判断させる」
「……順番が逆だ」
ミリオの声が低くなった。
「本人が拒否できるようにするなら、まず、本人が拒否できる状況を守らなきゃいけない」
「君は、彼女を危険な環境に置き続けるつもりか」
「そんなことは言ってません」
「彼女の能力が救済に使える可能性を、君たちは否定するのか?」
「否定していません!」
ミリオは、強く言い返した。
「でも、助けられる可能性があるからって、助けなきゃいけないってことにはならない!」
男の表情が険しくなった。
「君たちヒーローは、救える命が目の前にあれば、救おうとするはずだ。なぜ彼女だけ、特別扱いする?」
「彼女だけ特別なんじゃありません」
ミリオは答えた。
「壊理ちゃんが、自分の人生を選ぶ一人の人間だからです!」
一瞬、搬入口が静かになった。
男は、首を横に振った。
「感情論だ」
その言葉を聞いたナイトアイが、眼鏡を押し上げる。
「いいえ。手続きと同意の問題です。本人が拒否できない状態で移送を強行すれば、その後にどれほど丁寧な説明をしようと、最初の選択を奪った事実は変わりません」
「では、君たちはどうする? 彼女の能力が人命を救う可能性があることを理解していながら、彼女が拒否したら、そのまま放置するのか?」
ナイトアイは、すぐには答えなかった。
その問いの中には、厄介な真実も含まれている。
誰かの個性によって、救える命があるかもしれない。
本人の意思を尊重することと、他者の命を大切にすること。
その二つが、常に簡単に両立するとは限らない。
それでも。
「本人の意思を無視してよい理由にはなりません」
ナイトアイは、はっきりと答えた。
「協力を求めることと、協力を強制することは違います。あなた方が彼女を説得したいのであれば、まず彼女が安全に拒否できる環境を用意するべきです」
「その間にも、救える人間が失われるかもしれない」
「その可能性から目をそらすつもりはありません」
ナイトアイは、男の目を見据えた。
「しかし、それを理由に、別の人間の人生を奪うことも認めません」
男は、黙った。
やがて、ヘルメットの内側で小さく笑った。
「……ならば、我々は彼女を連れていく。君たちが後で理解することになるだろう」
その瞬間、装甲服の一団が動いた。
「全員、戦闘態勢!」
ナイトアイの声が、搬入口に響き渡った。
三 搬入口突破戦
最初に仕掛けてきたのは、前衛の三人だった。
一人が床面へ小型装置を投げ込む。
着地した装置から、複数の金属杭が放射状に展開した。
同時に、搬入口の床が一部だけせり上がり、ヒーローたちの足場を分断する。
さらに後方の二人が、透明な板状の拘束具を一斉に射出した。
狙いは、ヒーローたちの身体ではない。
通路を塞ぎ、壊理のいる安全区画へ向かう経路を封鎖することだった。
「また通路を利用する仕掛けか!」
ロックロックが叫んだ。
「だったら、こっちも利用させてもらう!」
彼は足元の金属杭へ手を伸ばし、個性を発動させる。
固定。
さらに、せり上がる床の端へ触れる。
固定。
最後に、拘束具を射出する装置の支柱へ手を伸ばした。
「三つとも、止めたぞ!」
金属杭は広がりきる前に動きを止め、床のせり上がりも途中で停止した。
宙を走っていた拘束具は、射出装置の角度が固定されたことで、狙いを外した。
「よし!」
しかし、男たちはすぐに別の手段へ切り替えた。
装甲服の一人が、ロックロックの死角へ回り込む。
その腕から、複数の細いケーブルが伸びた。
「ロックロックさん、右!」
センチピーダーが叫ぶ。
ロックロックが振り返るより早く、ケーブルが彼の腕へ巻きつこうとした。
だが、長い身体が横から割り込んだ。
センチピーダーの胴体がケーブルをまとめて絡め取り、引き寄せる。
「そのような小細工で、ロックロックさんを拘束できると思わないでください!」
彼は身体をひねり、ケーブルを装甲服の男の足元へ叩きつけた。
男が体勢を崩す。
すかさずミリオが前へ出た。
「行きます!」
彼は床へ沈み、相手の攻撃が届かない場所を通り抜けた。
床を透過。
壁を透過。
そして、敵の背後へ出現する。
「まず一人!」
ミリオは、相手の武器を持つ腕を横から押し上げた。
発射された拘束弾が、天井へ向かって飛ぶ。
男が振り返る。
その瞬間、ミリオは再び透過し、相手の懐をすり抜けて反対側へ移動した。
「動きが速い……!」
「速いだけじゃありませんよ!」
ミリオは相手の装甲服の腰にある操作パネルへ手を伸ばした。
「こういうものは、止めればいいんです!」
拳がパネルを打つ。
操作パネルが破損し、拘束具の展開が止まった。
男が後ずさる。
しかし、後方の敵がその隙を狙い、ミリオへ向かってネットを射出した。
ネットは空中で広がり、ミリオの身体を包み込む。
「ミリオ!」
ねじれが叫ぶ。
「大丈夫!」
ミリオはネットごと透過した。
網が床へ落ちる。
その直後、ミリオが床から飛び出し、ネットを射出した男の肩を押さえた。
「はい、ここまで!」
男の身体が地面へ倒れ込む。
その間に、バブルガールが大量の泡を放出していた。
泡は搬入口の空間全体に広がり、敵の装甲服に取り付けられたセンサーを覆い始める。
「狙ってきたって、こちらの位置が正確にわからなければ困るでしょう?」
泡が一つ弾ける。
甘い香りが広がった。
別の泡が、強い刺激臭を放つ。
さらに、ほとんど匂いのない泡が、装甲服の換気口へ貼りつく。
敵の照準装置が次々と不安定になった。
「対象位置、誤差拡大!」
「映像が乱れている!」
「センサーを切り替えろ!」
敵が対応しようとする。
しかし、切り替えたセンサーにも、バブルガールの泡がまとわりつく。
「一つの手段だけで戦うのは、危ないですよ?」
バブルガールは笑った。
「こちらも、そういうことはわかってますから!」
その言葉に反応し、敵は一斉に照明弾を放った。
光が搬入口を覆う。
泡の輪郭が照らされ、空間内の位置が可視化された。
「泡の配置が読まれた!?」
バブルガールが息をのむ。
敵は、泡そのものを無効化するのではなく、泡が作り出す空間の変化を利用したのだ。
「やるじゃない!」
彼女はすぐに泡の種類を切り替えた。
照明弾の光を反射する泡を広げ、敵の視界を白く染める。
同時に、匂いのある泡を床面へ集中させた。
敵の足元へ流れた泡が次々に弾け、センサーが拾う情報を乱していく。
「光で位置を読むなら、光のほうを増やしてあげます!」
その隙に、波動ねじれが両手を振り上げた。
「じゃあ、こっちは大きいのをいくよ!」
螺旋状のエネルギーが両腕に集まる。
「波動!」
放たれた螺旋波が、搬入口の奥に設置された拘束装置へ飛んだ。
一撃目が外装を砕く。
二撃目が、装置と床をつなぐ支柱をへし曲げた。
三撃目が制御部を貫き、拘束装置の動力が停止した。
「よし、これで通路は確保――」
ねじれが言いかけた瞬間、上空から巨大な金属板が落下してきた。
敵は、拘束装置の停止と同時に、天井の可動部を作動させたのだ。
「上!」
センチピーダーが叫ぶ。
リューキュウが即座に前へ出た。
「下がって!」
彼女の身体が変化する。
翼が広がり、竜の姿が搬入口を覆った。
落下してきた金属板を、リューキュウは両腕で受け止めた。
衝撃が床へ伝わる。
彼女は足を踏ん張り、金属板を横へ押し流した。
「この程度で、通路を塞がせないわ!」
金属板が壁へ激突する。
だが、敵はそれを予測していたかのように、床から二本目の拘束柱を起動させた。
柱が一気にせり上がる。
その先端には、複数のケーブルと可動腕がついていた。
狙いは、リューキュウの翼。
拘束具が広がり、巨大な翼へ絡みつこうとする。
「リューキュウさん!」
ねじれが声を上げた。
リューキュウは翼をすぼめ、身体をひねった。
しかし、ケーブルの一部が翼の端をかすめた。
そこへ、センチピーダーが飛び込んだ。
長い身体がケーブルへ巻きつく。
「リューキュウさん、今です!」
「ありがとう!」
リューキュウは尾を振り、拘束柱の根元を打ち砕いた。
柱が傾く。
ねじれの螺旋波が追撃し、残りの支柱を破壊した。
金属の塊が床へ倒れる。
ロックロックは、その柱へ触れた。
「動くな!」
個性によって、倒れかけた柱が固定される。
搬入口の床が、ようやく静かになった。
しかし、敵の本命は、まだ後方に残っていた。
搬送車両の後部が開き、内部から大型の捕獲装置がせり出してきた。
装置は四本の脚で地面をつかみ、車両から独立する。
中央の筒が回転し、その先端にエネルギーが集まった。
「……あれを使うつもりか」
ナイトアイが目を細めた。
「対象を確認しました。対象の移送を優先します」
無機質な音声が響く。
大型装置の照準が、壊理のいる安全区画を向いた。
ミリオの表情が変わった。
「……させるか!」
彼が走ろうとした、その瞬間。
ナイトアイが腕をつかんだ。
「待ちなさい、ミリオ!」
「でも、壊理ちゃんが!」
「わかっています!」
ナイトアイは、装置を見据えた。
「だからこそ、あなた一人で突っ込んではいけない!」
ミリオは、はっとした。
自分が壊理を守りたいと思うこと。
その願いは、本物だ。
しかし、その願いのために、他の仲間の動きを無視して突進すれば、かえって危険を広げる可能性がある。
ナイトアイは、彼の目を見た。
「あなたは、仲間がいることを忘れないでください」
「……はい!」
「全員、最終装置を止めます! ねじれさん、照準部を狙ってください。リューキュウさんは接近を妨害。センチピーダーは脚部を拘束。ロックロックは支柱を固定! バブルガール、センサーを攪乱してください!」
ナイトアイは一度息を吸った。
「ミリオ。あなたは、装置が露出した瞬間に制御部を破壊する。無理に正面から突っ込む必要はありません」
「了解です!」
「私が、タイミングを伝えます」
ナイトアイの瞳が、鋭く細まった。
「今度こそ、全員で止めます」
四 未来を読む者、未来を選ぶ者
大型捕獲装置が作動した。
中央の筒から、細い光線が走る。
その光線が床に触れた瞬間、搬入口の地面に白い枠が浮かび上がった。
「対象の移送経路を確保」
機械音声が響く。
床面の一部が分離し、壊理のいる安全区画へ向かって移動し始めた。
まるで床そのものが、彼女を装置へ運び込もうとしているかのようだった。
「床を動かして対象を連れてくるつもりね!」
バブルガールが叫ぶ。
「壊理さんの意思を無視したまま、移送を実行するつもりか!」
ナイトアイは床の動きを見た。
彼の個性が、未来を捉える。
大型装置へ向かって進む床。
床に乗ってしまった者が、転倒する可能性。
その隙に拘束具が展開し、逃げ道を塞ぐ未来。
だが、ナイトアイは、その映像を見て、ただ避けるよう指示するだけでは終わらなかった。
「ロックロック、床の中央を固定してください! 端の二枚は動かしたままで!」
「中央だけだな!」
ロックロックが走り、床面へ手を触れる。
中央の床が固定された。
しかし、その両側は動き続ける。
移動する床が中央の固定部へぶつかり、ガタガタと揺れた。
「このままじゃ、中央が持たねえぞ!」
「長時間持たせる必要はありません!」
ナイトアイが答えた。
「移動する床の速度をずらすのです! 同じ速度で動いていた床が中央で引っかかれば、装置の移送経路に誤差が生じます!」
ロックロックは、すぐに意図を理解した。
「なるほど! 全部止めるんじゃなく、動き方を変えるってわけか!」
彼は固定箇所を調整した。
中央の床は止まっている。
両側の床は、微妙に異なる速度で移動していく。
装置の計算した移送経路が乱れ、白い枠が点滅した。
「経路誤差……補正」
機械音声が繰り返す。
「今です!」
ナイトアイが叫んだ。
ねじれの螺旋波が、照準装置の側面へ飛んだ。
一発目が外装を砕く。
二発目が照準の角度をずらす。
三発目が、中央の筒と制御装置を接続するアームを破壊した。
「照準が逸れた!」
バブルガールが声を上げる。
しかし、大型装置は即座に別の照準部を起動した。
三つの小型レンズが展開し、再び安全区画を捉えようとする。
「まだだ!」
リューキュウが竜の姿で踏み込んだ。
翼を広げ、装置の前へ立ちはだかる。
「壊理さんには、指一本触れさせない!」
尾が床を打つ。
一撃で装置の脚部を横へ押し流した。
大型装置が傾き、照準が天井へ向かう。
その瞬間、センチピーダーの身体が伸びた。
長い胴体が、残った三本の脚へ絡みつく。
「動きを止めます!」
身体をひねり、三本の脚をまとめて引き寄せる。
装置の重量が偏り、片側へ傾いた。
だが、装置は脚部の一部を切り離し、強引に姿勢を立て直そうとした。
「脚を切り離した!?」
センチピーダーが息をのむ。
「構いません! 残った脚を止めてください!」
ナイトアイの指示に、センチピーダーは即座に応じた。
残った脚へ身体を巻きつける。
ロックロックが、切り離された脚部と床の接触箇所を固定した。
装置は、もう自由に動けない。
「バブルガール、センサーを!」
「任せて!」
大量の泡が、装置の三つのレンズへ流れ込む。
赤い照準線が、青へ。
青い照準線が、白へ。
光の点滅が不規則に変わった。
「対象位置の再確認を要求」
装置が、自動音声を繰り返す。
その隙に、ミリオが動いた。
彼は床へ潜り、固定された床板の下を進んだ。
敵の照準は、まだ壊理のいる安全区画を探している。
しかし、泡によって視界を乱され、床の移動経路も狂わされた装置は、ミリオの動きを正確に把握できない。
ミリオは装置の真下で透過を解除し、垂直に飛び上がった。
「ここだ!」
拳が装置の外装へ叩き込まれる。
しかし、外装は厚い。
一撃では、制御部まで届かない。
ミリオはその場にとどまらず、再び透過した。
外装の内部を通り抜け、装置の裏側へ出る。
そこには、複数の配線と駆動部が露出していた。
「見つけた!」
彼は配線を直接つかむのではなく、駆動部の連結部分を狙った。
個性を解除。
拳が装置へめり込む。
金属が砕け、駆動部が停止する。
大型装置が大きく揺れた。
「停止した……?」
敵の一人が、後ずさった。
だが、中央筒が最後の力を振り絞るように明滅した。
「緊急移送モードへ移行」
「まだ動くのか!」
ロックロックが叫んだ。
中央筒の周囲から、複数の拘束ケーブルが飛び出した。
狙いは、装置を破壊しようとするミリオ。
ケーブルは彼の腕へ、脚へ、胴体へ絡みつこうとする。
ミリオは透過して逃れた。
しかし、ケーブルは追尾するように動き、彼が実体化する可能性の高い場所へ先回りしていく。
「くっ……!」
ミリオが再び透過する。
その瞬間、ケーブルは彼の進行先に網を張った。
「ミリオ、下がって!」
ねじれが叫んだ。
だが、ミリオはすぐには動かなかった。
装置の内部に、最後の動力が集中している。
今、完全に止めなければ、再び動き出す危険がある。
そして、壊理のいる安全区画へ向かう通路は、まだ装置の制御下にあった。
「……まだ、止めきれていない!」
ミリオが叫ぶ。
「僕が、ここで止めます!」
「ミリオ!」
ナイトアイの声が響く。
「一人で止める必要はありません!」
ミリオは、一瞬だけ目を見開いた。
ナイトアイは、彼を見ていた。
「あなたが装置の中心へ向かう必要があるなら、我々がその道を作ります! 自分一人で突破しようとしないでください!」
ミリオは、拳を握りしめた。
そして、笑った。
「……はい!」
ねじれが大きく腕を振り上げる。
「波動!」
螺旋波がケーブルの根元へ突き刺さり、一本が破断した。
二本目はセンチピーダーが身体を巻きつけ、三本目はリューキュウの尾が叩き落とす。
バブルガールの泡がセンサーを覆い、ロックロックが床の可動部を固定した。
装置の動きが止まった。
ナイトアイが、ミリオへ叫ぶ。
「今です!」
ミリオは床を蹴った。
透過。
装置の外装を通り抜け、内部へ。
さらに、制御部の裏側へ。
そして、最後の実体化。
「これで――終わりだ!」
拳が、中枢ユニットを打ち砕いた。
大型装置の光が消える。
動いていた床が停止した。
拘束ケーブルが落下する。
中央筒が、ゆっくりと傾いた。
完全な沈黙。
それから数秒後、ナイトアイが通信機を手に取った。
「安全確認を開始してください。装置の停止を確認。施設内の移送経路も復旧させます」
ロックロックが息を吐く。
「やっと終わったか……」
センチピーダーは、拘束した敵の手足を確認していた。
「全員、戦闘継続は困難な状態です。搬入口付近に、重大な負傷者はいません」
バブルガールも、周囲を見渡した。
「センサーも止まってる。少なくとも、今すぐ壊理ちゃんを狙える状態じゃないね」
ねじれは、ミリオへ駆け寄った。
「大丈夫!? どこか痛めてない?」
「大丈夫です! ちょっと、勢いよく殴った手がびりびりしてますけど!」
「それを大丈夫って言うのかなあ!?」
「まあまあ!」
リューキュウは、装置の残骸を見下ろした。
「……この装置を作った者が、壊理さんの個性をどう理解していたのか。調べなければいけないわね」
ナイトアイがうなずいた。
「ええ。記録はすべて回収します。ただし、今はそれよりも――」
彼は安全区画へ視線を向けた。
「壊理さんの意思を確かめることが先です」
五 「助けたい」と「助けなければならない」の違い
壊理は、安全区画から出てこなかった。
戦闘が終わったことは、ロックロックから連絡を受けて知っている。
それでも、彼女はしばらく椅子に座ったまま、両手を握りしめていた。
自分の個性が、誰かを救うことができるかもしれない。
その言葉は、ずっと聞かされてきた。
誰かの傷を治せる。
失われたものを取り戻せる。
かつての姿へ戻せる。
他の誰にもできないことができる。
だから、あなたには価値がある。
だから、あなたは協力しなければならない。
だから、あなたは自分の力を使うべきだ。
言葉は少しずつ形を変えながら、彼女の中に残っていた。
そして今日、また同じことが起きた。
今度は、優しい説明さえなかった。
彼らは、彼女を安全に移送すると言った。
彼女が自分の個性を理解していないから、代わりに決めると言った。
彼女の個性によって救える人がいるから、連れていくと言った。
壊理の気持ちは、最初から確認されていなかった。
「……わたしが、行かなかったから……」
彼女は、かすれた声でつぶやいた。
「みんなが、戦わなきゃいけなくなったんですか?」
部屋の扉が開いた。
ミリオが、ゆっくりと入ってくる。
「壊理ちゃん」
彼は、彼女の前で足を止めた。
「……僕たちが戦ったのは、壊理ちゃんが悪いからじゃないよ」
「でも……」
「僕たちは、自分たちで戦うって決めたんだ」
ミリオは、椅子の横に腰を下ろした。
「壊理ちゃんの意思を無視して、無理やり連れていこうとする人たちを止める。それは僕たちが選んだことなんだ」
壊理は、俯いたまま答えた。
「……でも、わたしが協力していたら、戦わなくてすんだかもしれません」
その可能性を、ミリオは否定しなかった。
「……そうかもしれないね」
壊理が顔を上げた。
ミリオは、正直に続けた。
「壊理ちゃんが協力するって言っていたら、あの人たちは、今日ここで戦わなかったかもしれない。でも、それと、壊理ちゃんが協力しなきゃいけなかったかどうかは、別の話だよ」
「……別?」
「うん。誰かを助けたいと思うことと、誰かを助けなければならないことは違うんだ」
ミリオは、自分の言葉を確かめるように、一つずつ話した。
「壊理ちゃんが、いつか誰かを助けたいって思う日が来るかもしれない。その気持ちは、きっと大切なものだと思う」
彼は、少し笑った。
「でも、今日そう思わなかったからって、壊理ちゃんが悪いわけじゃない。怖かったからでも、嫌だったからでも、今は決められなかったからでも、同じだよ」
壊理の瞳が揺れた。
「……誰かが、困っていても?」
「うん」
「わたしなら、助けられるかもしれなくても?」
「うん」
「……助けられなかった人が、わたしを恨んでも?」
ミリオは、少しだけ息をのんだ。
その問いは重かった。
どれほど優しく答えたところで、すべての人が彼女の選択を受け入れるとは限らない。
彼女の力に希望を見いだす者は、これからも現れるだろう。
その希望がかなわなかったとき、彼女を責める者がいるかもしれない。
他者の期待を拒むことは、必ずしも、誰からも責められないという意味ではない。
ミリオは、その現実を隠さなかった。
「……そういう人が、いるかもしれない」
壊理の肩が震えた。
「でも、だからって、その人の気持ちを全部背負わなきゃいけないわけじゃないんだ」
ミリオは、彼女の目を見た。
「誰かを助けたいなら、助ければいい。でも、自分の人生を全部差し出すことまで、約束しなくていい」
壊理は、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと尋ねた。
「……ミリオさんは、わたしを助けて、後悔したことがありますか?」
ミリオの胸が、わずかに痛んだ。
彼は、すぐには答えなかった。
壊理を救いたいと願った。
彼女の苦しみを知ったとき、どうにかして助けたいと思った。
だから戦った。
だから手を伸ばした。
その気持ち自体を、今も後悔していない。
しかし、その過程で自分の判断が正しかったと、いつも言い切れるわけではない。
壊理の気持ちを十分に理解できていたのか。
自分の善意を、彼女の望みと取り違えていなかったか。
救いたいという思いが強すぎて、彼女が何を望むのかを聞く前に、行動を決めていなかったか。
考えれば、迷うことはいくらでもある。
「……助けたいと思ったことは、後悔してないよ」
ミリオは答えた。
「でも、何もかも正しかったとは思ってない」
壊理は、彼を見た。
「僕が、壊理ちゃんのために何かをする。そのこと自体が悪いわけじゃない。でも、壊理ちゃんが何を望んでいるのかを聞かないまま進んだら、僕の気持ちばかりが先に行ってしまう」
彼は、少しだけ苦笑した。
「僕、そういうところがあるからね。元気づけようとして、相手がまだ話したくないことまで聞こうとしたり、なんとかしようとして、一人で突っ走ったり……」
「……そうなんですか?」
「そうなんです!」
ミリオは、少しだけ胸を張った。
「だから、これからも間違えると思う。壊理ちゃんの気持ちを全部理解できるなんて言わない。でも、わからないときは聞くよ。聞いて、教えてもらって、それでも間違えたら謝る」
彼は、壊理に向けて手を差し出した。
「それで、また一緒に考えよう」
壊理は、その手を見た。
かつて、彼女に差し伸べられた手は、救いの象徴だった。
自分を暗闇から連れ出してくれる手。
自分の苦しみを終わらせてくれる手。
その手を取れば、すべてが変わるのだと、彼女は思った。
しかし、今の彼女には、少し違って見えた。
この手は、自分の行き先を決めるためのものではない。
自分が歩きたいと思ったとき、そばにいてくれるためのものだ。
壊理は、ゆっくりと手を伸ばした。
そして、ミリオの手を取った。
「……はい」
彼女は、小さくうなずいた。
「わたしも……ちゃんと、言えるようになりたいです」
「うん」
「嫌なことは、嫌だって」
「うん」
「わからないことは、わからないって」
「うん」
「……やりたいことがあったら、やりたいって」
ミリオは、優しく笑った。
「それがいいね」
壊理は、少しだけ笑った。
「……でも、まずは」
「うん?」
「スープが食べたいです」
ミリオは、今度こそ大きく笑った。
「よし! 今日の最優先事項は、スープです!」
六 ナイトアイの責任
廊下では、ナイトアイが回収した装置の記録を確認していた。
今回の装置には、壊理の個性に関する情報が組み込まれていた。
それだけではない。
移送経路を計算する仕組み。
対象の意思より、移送を優先させる緊急判断。
本人の拒否を、移送計画を妨げる要因として処理する構造。
その設計思想は、単なる拘束装置のものではなかった。
人を救うという目的を設定し、その目的を達成するために、本人の意思を二次的な条件へと追いやる。
そこには、傲慢が作り上げた未来予測装置とは別の形で、似た危険が表れていた。
目的が正しいなら、手段の問題は後回しにしてよい。
救える命があるなら、本人の意思を確認する時間は無駄だ。
本人が理解できないなら、代わりに決めてよい。
その理屈は、一見すると合理的だ。
しかし、合理性を理由に人間の意思を押しのけることは、簡単に暴力へつながる。
ナイトアイは記録を閉じた。
その背後から、センチピーダーが歩いてきた。
「ナイトアイさん。装置の所有者を特定できるでしょうか」
「今のところ、確証はありません。車両の登録情報は偽造されており、装置の記録も一部が消去されています」
「今回の事件は、傲慢の装置と直接の関係があるのでしょうか」
「断定はできません」
ナイトアイは答えた。
「ただ、他者を救うという目的を掲げ、その人の意思を後回しにしている点では、共通する問題があります」
センチピーダーは、静かにうなずいた。
「彼女の個性が、他者にとって大きな希望であることは事実です。しかし、その希望を叶える責任まで、彼女が負う必要はない……ということでしょうか」
「ええ」
ナイトアイは、資料をそろえた。
「希望を持つこと自体は、悪いことではありません。困難な状況にいる人々が、何かを願うことも当然でしょう」
彼は、一度だけ言葉を切った。
「問題は、その希望を実現する責任を、誰が負うべきなのかということです」
「……本人ではない、と?」
「本人が自ら望み、引き受けると決めた責任であれば、尊重すべきでしょう。しかし、他者が勝手に期待し、それを役目として背負わせることは違います」
センチピーダーは、目を伏せた。
「確かに……」
「壊理さんの個性は、彼女の一部です。ですが、彼女のすべてではありません。個性の可能性だけを見てしまえば、彼女が何を好み、何を恐れ、何を望んでいるのかを見失う」
ナイトアイは、壊理のいる部屋の方へ目を向けた。
「私は、そうした見落としを、これ以上見過ごしたくありません」
「今後、どのような対策を?」
「まず、本人の意思確認を必須とする手続きを整えます。医療的な研究や能力の使用を提案する場合も、拒否できることを明確に伝えなければならない。説明は、本人が理解できる形で行い、即答を求めない」
「そして、断った場合にも不利益を与えない環境を作る必要がありますね」
「その通りです」
ナイトアイはうなずいた。
「本人の意思を尊重すると口にするだけでは不十分です。実際に拒否できる仕組みを整えなければ、その言葉は飾りにすぎません」
彼は、少しだけ目を閉じた。
以前の自分なら、きっとこう考えただろう。
予知によって危険を避けられるなら、その危険を避けるべきだ。
未来を知ることができるなら、最善の道へ導くべきだ。
その判断が、誰かの意思よりも優先されることがあっても、結果として救えるものが増えるのなら、仕方がないのかもしれない。
しかし、今は違う。
予知の結果を示すことはできる。
可能性を説明することもできる。
その人が危険な選択をしようとしているなら、理由を伝え、別の道を提案することもできる。
だが、その先で何を選ぶかまで、自分が決めてよいわけではない。
そして、相手が選んだ道の結果から目をそらすこともできない。
「私は、未来を見通せることを理由に、責任を軽く考えていたのかもしれません」
ナイトアイはつぶやいた。
「……未来を知っているなら、失敗を防げる。失敗を防げるなら、最善の結果を得られる。そう信じていれば、選択を間違えた者を見たとき、なぜ正しい道を選ばなかったのかと考えてしまう」
彼は、センチピーダーを見た。
「しかし、選択には、その人が何を大切にしているかという問題がある。私が予測した危険を避けることと、その人が望む人生を歩むことが、必ずしも一致するとは限りません」
「……ええ」
「ですから、今後は、予知を理由に相手の選択を決めない。そして、見えている危険については、情報を伝える責任を持つ。判断を支え、必要な安全を確保し、本人が選べる環境を守る」
ナイトアイは、はっきりと告げた。
「それが、これからの私の責任です」
センチピーダーは、深くうなずいた。
「私も、協力します」
「ありがとうございます」
そのとき、廊下の向こうから、ミリオの声が響いた。
「ナイトアイさーん! スープの注文、どうしますかー!?」
ナイトアイは、無言で眼鏡を押し上げた。
「……今の話をしていた直後に、それですか」
センチピーダーが、思わず笑う。
「良いことではありませんか。壊理さんが、自分の希望を口にできているのですから」
「……確かに」
ナイトアイは、わずかに口元を緩めた。
「では、私も一つ注文しましょう」
彼は廊下へ向かって声を張った。
「ミリオ! 食事の手配をするなら、栄養の偏りがないように確認しなさい!」
「はーい! ナイトアイさんは野菜多めですねー!」
「誰がそのような指定をしました!」
今度は、センチピーダーが声を出して笑った。
七 希望を、役目に変えないで
食堂には、あたたかな湯気が漂っていた。
ミリオが自分のスープを一口飲み、満足そうにうなずく。
「うん! おいしい!」
壊理も、スプーンを持った。
少しだけ冷ましてから、口へ運ぶ。
温かな味が広がった。
「……おいしいです」
「よかった!」
ミリオが笑う。
ナイトアイは、二人の向かい側で食事を取っていた。
その隣には、センチピーダー、バブルガール、ロックロック、リューキュウ、ねじれもいる。
今回の襲撃に関する調査は続いている。
装置の所有者も、壊理の情報をどこから得たのかも、まだ明らかではない。
だが、今はひとまず、食事をする時間だった。
ねじれはスープの皿をのぞき込んだ。
「壊理ちゃん、野菜は好き?」
壊理は少し考えた。
「……嫌いではないです」
「じゃあ、好きな野菜は?」
「……まだ、よくわかりません」
ねじれは、にっこり笑った。
「そっか! じゃあ、これから見つければいいね!」
壊理は驚いたように顔を上げた。
「……これから?」
「うん。いろんなものを食べてみて、好きなものを探すの! 野菜だけじゃなくて、お菓子でも、果物でも、なんでも!」
「……わたしが、選んでいいんですか?」
「もちろん!」
ねじれは勢いよくうなずいた。
「好きなものがわからなかったら、いろいろ試してみればいいんだよ! それで、やっぱり好きじゃなかったら、別のものを探せばいいの!」
ミリオが、感心したように手を叩いた。
「さすがねじれさん! すごくいい考えですね!」
「でしょー!」
「では、まずは野菜を全部食べてから、デザートを選びましょう」
ナイトアイが冷静に言った。
「ナイトアイさん、急に現実的!」
ねじれが笑う。
壊理も、小さく笑った。
その笑顔を見て、ミリオは嬉しくなった。
だが、今度は、その嬉しさを理由に、何かを求めようとはしなかった。
もっと笑ってほしい。
もっと元気になってほしい。
過去の苦しみを忘れ、明るく生きてほしい。
そんな願いを抱くこと自体は、悪いことではない。
しかし、壊理には、壊理の速度がある。
笑いたいときに笑い、悲しいときに悲しみ、自分で決めたいときに決められること。
その自由を守ることこそ、今の自分にできることなのだ。
「……ミリオさん」
「ん?」
壊理がスプーンを置いた。
「わたし、いつか……誰かを助けたいって思うかもしれません」
ミリオは、うなずいた。
「うん」
「でも、今は……まだ、わからないです」
「うん」
「誰かを助けたいと思うことが、怖いときもあります」
彼女の声は、少し震えていた。
「助けられなかったら、どうしようって。わたしのせいで、誰かがもっと苦しくなったら、どうしようって」
ミリオは、真剣な表情で聞いていた。
「それでも、いつか……そうしたいと思える日が来たら」
壊理は、ゆっくりと顔を上げた。
「そのときは、自分で決めたいです」
「……うん」
「誰かに、やらなきゃいけないって言われたからじゃなくて。わたしが、そうしたいと思ったから……そうできるようになりたいです」
ミリオは、まっすぐに答えた。
「そのときは、僕たちが支えるよ」
壊理の目が、揺れた。
「……でも、今は」
彼女は、両手を小さく握った。
「今は、まだ、絵本を読みたいです。お花を見たいです。あたたかいものを食べたいです」
少しだけ、口元が緩む。
「……それから、好きなものを、もっと見つけたいです」
ミリオは、笑った。
「いいね。いっぱい見つけよう!」
ナイトアイも、静かにうなずいた。
「それらは、誰かを救うための準備である必要はありません」
壊理は、彼を見た。
「あなたが自分の人生を楽しむために、大切にしてよいものです」
彼は、言葉を続けた。
「いつか、誰かを助けたいと思う日が来るかもしれません。そのときは、その希望を尊重しましょう。しかし、それを役目に変えないよう、私たちが気をつけなければならない」
ナイトアイは、壊理を見据えた。
「あなたが何かをできるという事実と、あなたがそれをしなければならないという義務は、違います」
彼は、自分自身にも言い聞かせるように、言葉を選んだ。
「あなたの未来を、あなたの個性だけで決めることはしません。あなたの可能性を、あなたの義務として扱うこともしません」
壊理は、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとうございます」
それから、少し迷った後、口を開いた。
「……あの」
「はい?」
ナイトアイが答える。
「今日の午後……お花を見に行ってもいいですか?」
部屋が、静かになった。
その言葉は、とても小さな願いだった。
誰かを治すわけでもない。
失われたものを取り戻すわけでもない。
誰かの人生を変えるわけでもない。
ただ、自分が見たいものを見に行きたい。
それだけだ。
ナイトアイは、すぐに答えた。
「もちろんです」
「……でも、みなさん、お仕事があるんじゃ……」
「仕事の都合を調整するのは、私たちの役目です」
ナイトアイは言った。
「あなたが何かを望むたび、周囲の大人たちに遠慮する必要はありません。もちろん、安全を確保するために相談することは必要です。しかし、希望を口にすることそのものを、ためらわなくてよいのです」
「……はい」
ミリオが、勢いよく立ち上がった。
「よし! 午後はお花を見に行こう!」
「ミリオ、座りなさい。まだ食事中です」
「はいっ!」
勢いよく座るミリオを見て、壊理は声を出して笑った。
その笑い声は、まだ小さい。
それでも、彼女自身から生まれたものだった。
誰かが期待したからではない。
誰かを安心させるためでもない。
笑いたいと思ったから、笑ったのだ。
希望を、役目に変えないで。
その言葉は、彼女がこれから歩いていく人生の、最初の小さな約束になった。
八 支える英雄
午後。
医療施設の庭には、風に揺れる花々が咲いていた。
壊理は、ゆっくりと歩いていた。
ミリオは、彼女の少し後ろを歩く。
ナイトアイも、すぐそばにいる。
センチピーダーとバブルガールは、必要以上に周囲を囲まない距離を保ちながら、警備を続けていた。
ロックロックは施設の出入口を確認し、リューキュウは上空から周辺を見守る。
ねじれは、花壇の前でしゃがみ込んでいた。
「壊理ちゃん、これ見て!」
ねじれが指さす先には、小さな黄色い花が咲いていた。
「この花、さっきの花より背が低いんだよ! でも、こっちの葉っぱは大きいの!」
壊理は、その花をじっと見つめた。
「……本当ですね」
「でしょー!」
「どうして、葉っぱの大きさが違うんでしょう?」
「うーん……種類が違うからかな? 育ってきた環境も違うのかも!」
「……そうなんですね」
壊理は、花壇の前にしゃがみ込んだ。
花びらに触れようとしたが、すぐに手を止める。
「……触っても、いいんでしょうか」
ミリオは、すぐに答えなかった。
かわりに、花壇の札を確認した。
「ええと……この花は、見るだけにしましょうって書いてあるね」
「……そうなんですね」
壊理は、手を引っ込めた。
「じゃあ、見るだけにします」
その言葉を聞いて、ナイトアイは小さくうなずいた。
壊理は、今、自分で選んだ。
誰かに触ることを命じられたわけでも、触ってはいけないことを強く禁止されたわけでもない。
書かれた説明を読み、自分で判断した。
それは、ごく当たり前のことだった。
しかし、彼女にとっては、その当たり前を少しずつ取り戻していくことが、大切なのだ。
「……きれいですね」
壊理が言った。
「うん」
ミリオは、隣に立った。
「きれいだね」
二人は、しばらく花を眺めていた。
やがて壊理が、ミリオを見上げた。
「……ミリオさん」
「うん?」
「わたしが、いつか誰かを助けたいと思ったら……そのときは、一緒に考えてくれますか?」
ミリオは、うなずいた。
「もちろん」
「でも、わたしが……やっぱり怖いって言ったら?」
「そのときも、一緒に考えるよ」
「……今は、まだわからないって言ったら?」
「それでもいいよ」
壊理は、少しだけ笑った。
「……何度も、同じことを聞いてしまいますね」
「いいんだよ」
ミリオは、優しく答えた。
「一回聞いただけで、全部わかるようになるわけじゃないから。何度でも聞いていいし、何度でも確認していい。僕だって、そうするよ」
「ミリオさんも?」
「うん。僕だって、間違えることがあるからね」
彼は、少し照れくさそうに笑った。
「それに、僕もこれから覚えていくところなんだ。誰かを救うことと、その人が自分で生きられるように支えること。その違いを、ちゃんと考えられるようになりたい」
壊理は、彼を見つめた。
「……ミリオさんは、もう立派なヒーローなのに?」
「立派かどうかは、これからも考えていくよ」
ミリオは、花壇を見下ろした。
「でも、ヒーローになったからって、何でもわかるようになるわけじゃないんだ。だから、わからないことは学ぶ。間違えたら認める。助けを求められたら手を伸ばす。そして、相手が何を望んでいるのか、ちゃんと聞く」
彼は、壊理へ向き直った。
「僕は、そういうヒーローになりたい」
壊理は、しばらく考えていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……わたしも」
「うん?」
「わたしも……いつか、自分がどんな人になりたいのか、考えてみたいです」
「いいね!」
ミリオは、嬉しそうに笑った。
「それも、壊理ちゃんが自分で決めていいんだよ!」
その様子を、少し離れた場所からナイトアイが見ていた。
彼は予知を使っていない。
壊理が将来、どのような人生を送るのかも、今は知ろうとしていない。
その未来を見たところで、彼女が何を望むのかまで決まるわけではないからだ。
未来を知ることは、必ずしも未来を理解することではない。
そして、未来を理解したつもりになることは、未来を決める権利を得ることでもない。
ナイトアイは、静かに目を閉じた。
これからも彼は、予知を使うだろう。
危険を見つけ、可能性を考え、助けるために行動する。
しかし、予知によって見えた未来を、他者の意思より優先しない。
見えた危険について伝える。
そのうえで、相手が判断できるようにする。
そして、自分の判断が間違っていたなら、その責任から逃げない。
それが、彼のこれからの在り方だった。
「……ナイトアイさん?」
壊理が、彼の方を振り返った。
「どうしましたか?」
「……一緒に、お花を見ませんか?」
ナイトアイは、少し驚いたように目を開けた。
それから、ゆっくりと歩み寄った。
「ええ。喜んで」
壊理は、二人の間にある花壇を指さした。
「この花、黄色くて、きれいなんです」
「そうですね」
ナイトアイは、花を見た。
「……名前は、あとで調べてみましょうか」
「はい!」
その返事を聞いて、ミリオは笑った。
「よーし! じゃあ、今日は花の名前を調べる日だ!」
「ミリオ、勝手に予定を増やさないでください」
「ええっ!? でも、壊理ちゃんが知りたいかもしれないじゃないですか!」
ナイトアイは、壊理を見た。
「……知りたいですか?」
壊理は、少し考えた。
そして、答えた。
「……はい。でも、今日はお花を見ていたいです」
ナイトアイは、うなずいた。
「わかりました。では、名前を調べるのは、また別の日にしましょう」
「……はい」
壊理は、花へ視線を戻した。
今日、彼女が知りたいのは、花の名前ではない。
ただ、花を見ていたい。
それで十分だった。
誰かの希望を背負うためではなく。
誰かの罪を償うためでもなく。
ただ、自分の望む時間を過ごすために。
壊理は、ゆっくりと花を眺めた。
その隣には、彼女の選択を代わりに決めようとしない人々がいた。
必要なときには助けてくれる。
危険が迫れば守ってくれる。
迷ったときには一緒に考えてくれる。
けれど、彼女の人生そのものを、自分たちの願いで埋め尽くそうとはしない。
ミリオは、彼女を救うことだけを目標にする英雄から、彼女が自分の人生を歩めるよう支える英雄へと変わり始めていた。
ナイトアイは、予知の正しさにこだわる者から、不確かな未来に対して責任を持つ者へと変わり始めていた。
そして壊理は、誰かの希望である前に、自分自身の希望を持ってよいのだと知り始めていた。
彼女は、もう一度、花へ目を向けた。
「……きれい」
その小さな言葉に、誰も別の意味を押しつけなかった。
それは、ただ花を見た彼女の感想だった。
誰かの未来を救うための言葉ではない。
誰かに期待される役目でもない。
彼女自身の、今この瞬間の気持ちだった。
九 希望の持ち主
夕方。
医療施設の会議室では、襲撃事件についての初期報告がまとめられていた。
犯行グループは拘束され、装置も回収された。
彼らは壊理の個性に関する情報を入手し、その能力によって救済できる可能性のある人々を理由に、彼女を移送しようとしたとみられる。
しかし、装置の購入経路や、壊理の情報をどこから得たのかについては、まだ解明されていない。
ナイトアイは、報告書を読み終えると、ペンを置いた。
「本人の意思確認が不十分なまま、医療上の利益を理由に移送を実行する。そのような仕組みを、再び許してはなりません」
リューキュウがうなずいた。
「被害者の個性が特殊であるほど、周囲は、その能力をどう扱うべきかに意識を集中してしまうのね」
「ええ」
ナイトアイは答えた。
「しかし、個性の特異性は、本人の意思を軽視する理由にはならない」
バブルガールが資料をめくる。
「これからは、壊理ちゃんの個性について相談したい人が来た場合も、本人が望まないなら断れることを明確にする必要がありますね」
「そうだな」
ロックロックが腕を組んだ。
「断るって言ったら、そこで話が終わる。それが当たり前にならなきゃいけねえ」
「ただし、安全面の確認や、個性の暴走を防ぐための支援は必要です」
センチピーダーが補足する。
「本人の意思を尊重することと、必要な支援をしないことは違います。本人が何を望んでいるのかを確認し、そのうえで、安全を確保できる選択肢を用意するべきでしょう」
「そのとおりです」
ナイトアイは、全員を見渡した。
「私たちに求められているのは、壊理さんがどのような未来を選んでも、その選択を支えられる環境を作ることです」
ねじれが、少し首を傾げた。
「でも、本人が何を望んでいるのかわからなかったら?」
「聞けばよいのです」
ナイトアイは答えた。
「本人が答えられないなら、答えられるまで待つ。選べないなら、選択肢を整理する。判断に必要な情報を伝え、考える時間を確保する」
彼は、少しだけ視線を落とした。
「そして、こちらが望む答えが返ってこなかったとしても、それを間違いだと決めつけない」
「……難しいですね」
ねじれが言った。
「ええ。簡単ではありません」
ナイトアイは、素直に認めた。
「しかし、難しいことだからといって、本人の意思を省略してよいわけではありません」
会議室の扉が開いた。
ミリオが顔をのぞかせた。
「みなさーん! 壊理ちゃんが、さっき見たお花のこと、もう少し知りたいそうです!」
ナイトアイは、少しだけ眉間を押さえた。
「……今、会議中です」
「はい! なので、会議が終わったら、一緒に花の名前を調べませんか?」
「それは、会議が終わってから決めます」
「了解です!」
ミリオは元気よく答えると、扉を閉めた。
会議室に、沈黙が流れた。
そして、ねじれが吹き出した。
「ふふっ……ミリオくんらしいね!」
ロックロックも、肩を揺らして笑う。
「まったく、あいつは……」
ナイトアイは、ため息をついた。
しかし、その表情は、どこか穏やかだった。
ミリオは、何もかも正しく理解したわけではない。
これからも失敗するだろう。
壊理の気持ちを理解できず、戸惑うこともあるかもしれない。
彼女が自分の望みを伝えられずに悩んだとき、どのように支えればいいのか、答えが見つからないこともあるだろう。
それでも、彼は考え始めた。
救うことだけではなく、本人が自分で生きられるように支えることを。
ナイトアイもまた、未来が見えるからといって、その未来を決めてよいわけではないと学び始めていた。
予知は、責任をなくす力ではない。
むしろ、見えた危険をどう伝え、どう支えるかという新たな責任を生む。
そして、壊理は、小さな願いを自分の言葉で伝え始めた。
それらは、誰かを救うための義務ではない。
彼女自身が望む人生の、一部なのだ。
ナイトアイは報告書の最後に、一文を書き加えた。
「壊理の個性に関するいかなる提案においても、本人の意思と生活を最優先する。彼女の能力を、彼女が負わなければならない役目として扱わないこと」
書き終えると、ペンを置いた。
「……希望は、役目ではありません」
彼は静かにつぶやいた。
「希望とは、本人が望むときに、初めてその人自身のものになるのです」
窓の外には、夕日が差していた。
その光の下で、壊理はきっと、明日のことを考えているだろう。
何を食べようか。
どんな絵本を読もうか。
どんな花を見ようか。
今はまだ、わからないことばかりだ。
それでも、わからないままでいい。
その答えを急かさず、彼女が自分で選べるようにすること。
そして、彼女が何かを望んだとき、その願いを「誰かのために役立つかどうか」で測らないこと。
それが、彼女の周囲にいる大人たちの責任だった。
希望を、役目に変えないで。
誰かの可能性を、義務に変えないで。
誰かの未来を、自分の願いで埋め尽くさないで。
その約束は、壊理だけのためにあるのではない。
誰かを救いたいと願う、すべての人間が忘れてはならないことだった。
傲慢編・完全終幕
傲慢との戦いを終えた壊理は、自分の望みを少しずつ言葉にし始めた。
あたたかいスープを飲みたい。
怖くない絵本を読みたい。
いろいろな花を見たい。
どれも、世界を救うための大きな願いではない。
しかし、それこそが彼女の人生だった。
彼女が何かをできるからといって、何かをしなければならないわけではない。
彼女の力が誰かの希望になり得るからといって、その希望を叶える責任まで背負う必要はない。
ミリオは、彼女の未来を代わりに決めるのではなく、彼女が自分で決められるよう支えることを選んだ。
ナイトアイは、見えた未来を絶対の正解として押しつけるのではなく、不確かな未来に対して責任を持つことを選んだ。
そして壊理は、いつか誰かを助けたいと思う日が来たら、そのときは自分で決めたいと願った。
その希望は、誰かから与えられた使命ではない。
誰かの罪を償うための役目でもない。
彼女自身の願いなのだ。
傲慢編――完全終幕。
未来を保証できなくても、人は未来を選べる。
希望を押しつけなくても、人は希望を持てる。
誰かのために生きることを強いられなくても、人は自分の意志で誰かを助けようと思える。
その選択を支えることこそ、ヒーローにできることなのだから。
傲慢編終幕、次回色欲編開幕