僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第四十九話「先生は、誰の理想だったのか」

一 誰もいないはずの教室

雄英高校の旧訓練棟。

 

かつて、数え切れないほどの生徒たちが訓練を重ねたその場所は、現在、一般生徒の立ち入りが制限されていた。

 

床は整備され、壁面の損傷も修復されている。

 

しかし、建物の一部には、かつての戦闘で生じた傷跡が、完全には消えずに残っていた。

 

その傷跡を見ながら、相澤消太は資料をめくった。

 

「校長。例の反応は、ここで間違いないんだな」

 

「うむ」

 

根津校長は、端末の画面を見上げた。

 

「旧訓練棟の地下制御区画。長期間停止していた設備が、今朝、外部からの命令なしに再起動した。しかも、起動した設備の中に、現在の雄英のシステムでは使われていないものが含まれている」

 

「侵入者か?」

 

「可能性はある。だが、それだけでは説明できない」

 

根津は、別の画面を開いた。

 

そこには、一人の女性の姿が映っていた。

 

黒い髪。

 

口元に浮かぶ、どこか挑発的な笑み。

 

そして、見慣れたヒーローコスチューム。

 

相澤は、画面を見たまま動かなかった。

 

「……ミッドナイト」

 

隣にいたプレゼント・マイクが、喉の奥で息を詰まらせた。

 

「嘘だろ……」

 

声を出した瞬間、自分の声が不自然に震えていることに気づいたのか、彼は一度口を閉じた。

 

「いや、待て。待ってくれよ。こいつは……」

 

言葉が続かない。

 

彼女は、死んだはずだった。

 

教師として、生徒を守るために戦い、帰らなかった。

 

その報せを受けた日から、彼らの時間は確かに変わった。

 

それなのに。

 

画面の中の女性は、まるで何事もなかったかのように、カメラを見上げていた。

 

「映像記録か?」

 

相澤が尋ねる。

 

「現在の映像だ」

 

根津は即答した。

 

「訓練棟の内部センサーが、彼女の姿を記録している。体温、重量、移動に伴う床面の圧力まで検出された。単なる映像ではない」

 

「……どうやって、そんなことが」

 

プレゼント・マイクがつぶやく。

 

根津は、答えなかった。

 

今のところ、説明できる者はいない。

 

彼女がなぜ現れたのか。

 

何によって、再びこの場所に立っているのか。

 

それが死者の復活と呼べる現象なのか、それとも、何か別の仕組みによって成立したものなのか。

 

雄英が保有する資料だけでは、何一つ断定できなかった。

 

「だからといって、彼女を最初から偽物として扱うつもりはない」

 

相澤は、静かに言った。

 

「……相澤」

 

プレゼント・マイクが顔を向ける。

 

「逆に、本物だと決めつけるつもりもない」

 

相澤は続けた。

 

「俺たちの記憶に似ている。それだけで、すべてが同じだとは言えない。だが、目の前に彼女の姿があるなら、本人が何を言うのかを聞く」

 

「もし、俺たちの知っている彼女と違ったら?」

 

「違う部分があるなら、それも聞く」

 

相澤は画面を閉じた。

 

「最初から答えを決めるのはやめる」

 

その言葉に、プレゼント・マイクは何も返せなかった。

 

彼も、彼女をもう一度見たいと思っていた。

 

もう一度声を聞きたい。

 

もう一度、くだらないことで言い合いたい。

 

もう一度、隣で笑っていてほしい。

 

だが、その願いが強いほど、目の前に現れた相手に、自分の知っているミッドナイトであってほしいと求めてしまう。

 

それが、彼女自身の願いとは限らないのに。

 

「……わかった」

 

やがて、マイクは答えた。

 

「俺も、本人の話を聞く。俺が知ってる彼女の話じゃない。今、ここにいる彼女の話をな」

 

根津が、二人を見上げた。

 

「では、作戦を開始しよう。旧訓練棟周辺の避難を完了させた。生徒たちにも協力を要請している」

 

「生徒たちを巻き込むのか?」

 

「すでに訓練棟の設備が雄英の外部システムへ接続しようとしている。放置すれば、校内の安全管理にまで影響が及ぶ可能性がある。さらに、今回の反応は教師用の認証情報を利用している」

 

根津は、真剣な表情で告げた。

 

「彼女の姿をした何者かが、雄英の内部にある情報を使っている。その可能性も考えなければならない」

 

「……生徒を危険にさらさずに止める」

 

相澤が言った。

 

「それが最優先だ」

 

プレゼント・マイクは、扉に手をかけた。

 

「それで、相澤。もし、あいつが本当に俺たちの知ってるミッドナイトだったら?」

 

相澤は、短く答えた。

 

「そのときも、本人の話を聞く」

 

彼らは、旧訓練棟へ向かった。

 

その先にあるのは、懐かしい再会なのか。

 

それとも、記憶だけでは理解できない、新たな戦いなのか。

 

まだ誰にもわからなかった。

 

二 理想の教師

訓練棟の中央ホール。

 

照明は落ち、天井に設けられた補助灯だけが、広い空間を青白く照らしていた。

 

壁面には、古い訓練用の可動パネルが整然と並んでいる。

 

床の中央には、白い円形の紋様が浮かび上がっていた。

 

そして、その中心に――。

 

「……遅かったじゃない」

 

女性が立っていた。

 

その声を聞いた瞬間、プレゼント・マイクの身体が硬直した。

 

聞き覚えのある声だった。

 

軽やかで、少しだけ挑発的で。

 

生徒たちをからかうときも、教師同士で冗談を言うときも、決して失われなかった響き。

 

「ミッドナイト……」

 

マイクが、一歩踏み出した。

 

女性は微笑んだ。

 

「久しぶりね、山田先生」

 

その呼び方に、マイクは息をのんだ。

 

相澤は、彼女の姿を注意深く見つめていた。

 

声も、仕草も、表情も、彼らの記憶にあるものと一致している。

 

しかし、どこか違う。

 

彼女は二人の姿を見ているのに、二人がどうしてこの場所にいるのか、何を思っているのか、確かめようとはしなかった。

 

まるで、二人がここへ来ることを最初から知っていて、決められた台詞を待っていたかのようだった。

 

「……お前、どうしてここにいる」

 

相澤が尋ねた。

 

ミッドナイトは、首を傾けた。

 

「どうして、ですって?」

 

「お前は死んだはずだ」

 

言葉は、冷たく響いた。

 

だが、相澤は目をそらさなかった。

 

「俺たちは、お前を失った。そこは曖昧にしない。だから聞いている。どうして、ここにいる」

 

ミッドナイトは、しばらく黙っていた。

 

そして、小さく笑った。

 

「相変わらず、容赦がないのね」

 

「答えになっていない」

 

「ええ。そうね」

 

彼女は、二人の周囲をゆっくりと歩いた。

 

「でも、あなたたちが本当に知りたいのは、どうして私がここにいるのか、だけなのかしら?」

 

「どういう意味だ」

 

「あなたたちは、私が戻ってきたら、なんて言うつもりだったの?」

 

彼女は、プレゼント・マイクの前で足を止めた。

 

「『おかえり』?」

 

マイクの唇が震えた。

 

「それとも、『待っていた』?」

 

今度は、相澤を見た。

 

「あるいは、『よく帰ってきたな。もう大丈夫だ』かしら?」

 

その言葉を聞いて、相澤の目が細くなった。

 

「……俺たちに、そう言ってほしいのか?」

 

「さあ。どうでしょうね」

 

ミッドナイトは、微笑んだ。

 

「あなたたちは、ずっと私のことを語ってくれていたでしょう?」

 

ホールの壁面に、光が走った。

 

そこに、いくつもの映像が浮かび上がった。

 

雄英高校の講義風景。

 

訓練場で生徒を指導する姿。

 

生徒たちの前で、笑顔を浮かべる彼女。

 

教師たちと並んで、勝利を喜ぶ姿。

 

そして、かつての戦いの記録。

 

彼女が生徒を守るために行動した場面。

 

仲間を励まし、危険な現場へ踏み込んでいく姿。

 

「ミッドナイト先生は、誰よりも生徒を大切にしていた」

 

映像の中で、誰かの声がした。

 

「先生の強さは、雄英の誇りだった」

 

別の声。

 

「どんなときでも、先生は最後までヒーローだった」

 

さらに別の声。

 

「私たちは、先生が残してくれたものを忘れません」

 

映像が切り替わる。

 

そこに映っていたのは、彼女の死後、彼女について語った人々の記録だった。

 

どれも、彼女への感謝や敬意を込めた言葉だった。

 

ミッドナイトは、それらを見上げた。

 

「……きれいな言葉ばかりね」

 

相澤は黙っていた。

 

「私が残したもの。私が教えたこと。私が守ろうとしたもの」

 

彼女は、壁面に指を伸ばした。

 

「そうやって、みんな私のことを語ってくれた。生徒を守る教師。強いヒーロー。雄英の誇り。誰よりも生徒を大切にした人」

 

「……それ自体は、間違いではない」

 

相澤が答えた。

 

「そうね」

 

ミッドナイトは、彼を見た。

 

「でも、それだけだった?」

 

相澤は答えなかった。

 

「私は、いつだって強かった?」

 

彼女の声が、少し低くなった。

 

「いつでも正しい判断ができた? いつでも生徒たちの気持ちを理解していた? 自分の行動が誰かを傷つける可能性を、全部考えていた?」

 

壁の映像が、次々と切り替わる。

 

生徒を叱る姿。

 

焦りを隠し、教師として振る舞う姿。

 

自分の判断に迷いながらも、何とか仕事を続ける姿。

 

そして、誰も見ていない場所で、疲れたように椅子へ腰かけていた姿。

 

「どうして、そういう姿は語られないの?」

 

ミッドナイトは尋ねた。

 

「私が迷っていたことは? 腹を立てていたことは? 自分の判断に自信が持てなかったことは? 生徒たちに好かれたいと思ったことは? 教師として認められたかったことは?」

 

彼女の笑顔が、少しずつ消えていく。

 

「私は、理想の教師だった?」

 

プレゼント・マイクが、口を開いた。

 

「……違う」

 

ミッドナイトは、彼を見る。

 

マイクは、拳を握りしめた。

 

「いや……そう言いたいわけじゃねえ。お前は、俺たちが知ってるだけでも、いろんな顔を持ってた。強かったし、面倒見もよかったし、正直、いちいち人をからかってくるところもあった」

 

「それは褒めているのかしら?」

 

「半分はな!」

 

いつもの調子で言いかけて、マイクは口を閉じた。

 

今は、冗談でごまかす場面ではない。

 

「……俺たちは、お前のことを語るとき、きっと、自分たちが覚えていたい部分を強調してきたんだと思う」

 

彼は彼女を見た。

 

「お前に救われたこと。お前が残してくれたこと。お前が最後まで戦ったこと。それを忘れたくなかった」

 

「だから、私は理想になった?」

 

「……そうかもしれない」

 

ミッドナイトは、ゆっくりとうなずいた。

 

「じゃあ、あなたたちが覚えている私は、誰のものなの?」

 

その瞬間。

 

壁面の映像が、白い光に包まれた。

 

照明が一斉に落ちる。

 

そして、ホール全体に、彼女の声が響いた。

 

「答えてちょうだい。私を理想の教師にしたのは、誰?」

 

三 戦闘開始――香りの檻

床が振動した。

 

円形の紋様が、赤く明滅する。

 

壁面に並んでいた訓練用パネルが、音を立てて展開を始めた。

 

ホールの両側から、複数の隔壁がせり上がる。

 

天井からは、白い霧が噴き出した。

 

相澤は即座に判断した。

 

「全員、呼吸を止めろ! マスクを着用!」

 

通信機を開く。

 

「根津校長、空調を遮断しろ!」

 

『すでに試みている。しかし、空調制御が旧訓練設備に上書きされている。こちらからは完全に遮断できない!』

 

「なら、外部排気を!」

 

『セメントスと連携している。そちらの位置を確認次第、排気経路を作る!』

 

白い霧が床を這い、空間の中に広がっていく。

 

それは、ただの霧ではなかった。

 

ミッドナイトの個性――眠り香。

 

彼女が放つ香りを吸い込めば、相手は眠気に襲われ、意識を保つことが難しくなる。

 

「……まさか、初手からこれかよ!」

 

プレゼント・マイクは、口元を覆った。

 

ミッドナイトは、指を軽く鳴らす。

 

「戦いになった以上、手加減はしないわ」

 

「おい、待て! 俺たちは――」

 

マイクが言いかけた瞬間、床面が大きくせり上がった。

 

彼の足元が崩れ、隔壁が二人の間に割り込む。

 

「マイク!」

 

相澤は捕縛布を伸ばした。

 

しかし、床の動きによって軌道がずれ、布は隔壁の縁をかすめるだけに終わった。

 

ミッドナイトは、相澤から距離を取る。

 

「どうしたの? 相澤先生。生徒を守るのが、あなたの役目でしょう?」

 

次の瞬間、天井から拘束リングが落下した。

 

相澤は身をひねり、ギリギリで避ける。

 

リングが床へ衝突し、通路を塞いだ。

 

さらに、隔壁の内側から細い噴射口が現れ、眠り香を散布し始めた。

 

「……単なる攻撃じゃないな」

 

相澤は目を細めた。

 

「空間そのものを、眠り香が逃げられない檻に変えている」

 

ミッドナイトが微笑む。

 

「よく気づいたわね」

 

彼女が手を動かすと、床面の紋様が明滅した。

 

「私の香りから逃げるためには、風の流れを変えるか、発生源を止めるか、私の個性を抑える必要がある。でも、そのどれを選ぶかで、あなたたちの行動は変わる」

 

彼女の背後に、複数の隔壁が展開した。

 

「私を押さえに来れば、生徒たちの通路が閉じる。生徒を助けに行けば、私の動きを止められない。空調を止めれば、別の場所に香りが溜まる」

 

相澤の目が鋭くなる。

 

「……こっちの判断を利用するつもりか」

 

「あなたたちは、いつもそうだったでしょう?」

 

ミッドナイトは、わずかに首を傾けた。

 

「誰かを救うために、どれかを選ぶ。選んだことによって、誰かが危険にさらされる。そうすると、あなたたちは自分の判断を責める」

 

彼女の声が、ホールに響く。

 

「だから、今回は選んでみて。私を止めるのか。それとも、あなたたちの生徒を守るのか」

 

床面が、さらに大きく揺れた。

 

そのとき。

 

隔壁の向こうから、威勢のいい声が響いた。

 

「誰がどっちか一つしか選べねえって言ったよ!」

 

爆発音。

 

壁面の一部が吹き飛び、粉塵が舞い上がる。

 

そこに現れたのは、八百万百、峰田実、芦戸三奈、拳藤一佳、取蔭切奈だった。

 

「先生方! こちらから進入できました!」

 

八百万が叫ぶ。

 

「校長先生の指示で、旧訓練棟の外部制御を遮断しに来ました!」

 

「……お前たち、なぜここにいる!」

 

相澤が声を上げる。

 

「必要だから来たんです!」

 

拳藤が、巨大化した両手で落下する隔壁を受け止めた。

 

「生徒を安全区画へ誘導する仕事も、私たちが引き受けます!」

 

「そういうわけだから、先生!」

 

芦戸が床を滑りながら駆け込んだ。

 

「ミッドナイト先生を止めるなら、手伝わせて!」

 

峰田は、二人の背後で震えていた。

 

「お、おい! こういうときは、先生たちが全部片づけるもんじゃねえのかよ! なんで俺たちまで、香りで眠らされるかもしれない場所にいるんだよ!」

 

「峰田さん、声を抑えてください!」

 

八百万が叫んだ。

 

「いや、声を抑えると恐怖が内側に溜まるだろうが!」

 

「その理屈は通用しません!」

 

「だよなああああ!」

 

取蔭切奈は、すでに身体の一部を分離させていた。

 

彼女の手が空中を飛び、隔壁の向こうへ入り込む。

 

「外部の制御盤、見つけた! でも、周囲にロックがかかってる!」

 

「切奈さん、その位置を維持してください!」

 

八百万は即座に両腕を構えた。

 

創造。

 

彼女の皮膚から、折り畳まれた人工呼吸器、交換用フィルター、保護ゴーグルが次々と生み出されていく。

 

「全員、装着してください! 眠り香への完全な防護を保証するものではありませんが、吸入を減らすことはできます!」

 

彼女が作り出した器具を、拳藤と芦戸が受け取る。

 

「助かるわ、八百万!」

 

拳藤は呼吸器を装着し、巨大化した手で隔壁を押し返した。

 

「まず、動ける範囲を広げる!」

 

その隙に、芦戸が床へ酸を流す。

 

酸は隔壁そのものを無差別に溶かすのではなく、隔壁を支える金属の固定具へ集中的に流し込まれた。

 

「この程度なら、床まで溶かさないで済む!」

 

固定具が腐食し、隔壁の動きが鈍る。

 

「切奈!」

 

「了解!」

 

取蔭の手が、隔壁の向こうから伸びた。

 

小さな指先が制御盤の端子に触れる。

 

「そこ、押せばいいのね!」

 

彼女の分離した手が、スイッチを押した。

 

隔壁が、ガタンと音を立てて停止する。

 

相澤は、その動きを見て、短く息を吐いた。

 

「……相変わらず、無茶なことをする」

 

「先生ほどじゃありません!」

 

芦戸が言い返す。

 

「私たちだって、もう訓練だけしていればいい生徒じゃないんですから!」

 

その言葉を聞いて、相澤は一瞬、目を細めた。

 

だが、すぐにミッドナイトへ向き直った。

 

「……そうだな」

 

彼は答えた。

 

「だからこそ、俺たちが勝手に答えを決めるわけにはいかない」

 

四 先生の個性、そして生徒たちの判断

ミッドナイトは、生徒たちを見渡した。

 

「……懐かしい顔ぶれね」

 

声には、確かに彼女らしい響きがあった。

 

だが、その笑顔はどこか冷たい。

 

「八百万さん。拳藤さん。芦戸さん。取蔭さん。峰田君」

 

彼女が名前を呼ぶたび、壁面に光が走る。

 

生徒たちの過去の訓練記録が、次々と映し出された。

 

「みんな、ずいぶん成長したのね」

 

「ミッドナイト先生……」

 

八百万が、小さくつぶやいた。

 

彼女は、相手を見つめたまま、すぐには動けなかった。

 

覚えている声。

 

覚えている表情。

 

覚えている、あの大胆な笑い方。

 

だが、目の前の相手が、本当に自分の知っている先生なのか。

 

彼女は、その疑問を振り払えなかった。

 

その隙を、ミッドナイトは見逃さなかった。

 

「どうしたの? 八百万さん」

 

眠り香が、ゆっくりと床を這った。

 

「教師の言うことを聞くのは、得意だったでしょう?」

 

八百万の足元に、透明な拘束具が展開する。

 

彼女が動こうとした瞬間、拘束具が足首をつかんだ。

 

「っ……!」

 

芦戸が、すぐに反応した。

 

「八百万!」

 

酸を放とうとしたが、ミッドナイトは素早く身体をひねり、噴射口から追加の香りを放出した。

 

芦戸の視界が、わずかに揺れる。

 

「くっ……この香り、少し吸っただけでも……!」

 

「芦戸さん、下がって!」

 

八百万は自分の腕から小型の切断器具を創造した。

 

拘束具の留め具へ当てる。

 

火花が散り、足首をつかんでいた装置が切断された。

 

「ありがとうございます!」

 

「お礼は後!」

 

芦戸が踏み込む。

 

「今は、先生を止める!」

 

彼女は酸を床へ流し、滑るように前進した。

 

その動きに合わせ、拳藤が巨大化した両手で床を押さえる。

 

「芦戸、突っ込みすぎないで! こっちが足場を作る!」

 

拳藤の手が床面の可動部を押さえ、芦戸の進路を確保した。

 

一方、取蔭は身体を分離させ、頭部を天井近くへ移動させていた。

 

「先生の位置、確認! 右の壁際に、眠り香の噴射口が三つ!」

 

「情報ありがとう!」

 

八百万がすぐさま小型の遮蔽板を創造する。

 

取蔭の分離した手がそれを受け取り、噴射口へ差し込んだ。

 

一つ目が塞がれる。

 

二つ目。

 

三つ目。

 

白い霧の流れが弱まった。

 

「今です!」

 

相澤の目が赤く光った。

 

個性――抹消。

 

視線がミッドナイトを捉える。

 

彼女の個性が、一時的に抑え込まれた。

 

噴射口から放たれていた眠り香の勢いが、わずかに変化する。

 

「……っ!」

 

ミッドナイトが、初めて大きく目を見開いた。

 

相澤は、その隙に捕縛布を伸ばした。

 

布が彼女の腕をかすめる。

 

だが、ミッドナイトは身体をひねり、拘束を逃れた。

 

「やっぱり、あなたは私の個性を止めるのね」

 

彼女は、相澤を見た。

 

「そうするしかないのかしら?」

 

相澤は、即答しなかった。

 

「危険な個性を使っている以上、必要な場面では止める」

 

「つまり、私が何を言っていても?」

 

「それとこれとは別だ」

 

相澤は、視線をそらさなかった。

 

「お前の個性を抑えることと、お前の話を聞かないことは違う」

 

ミッドナイトの笑みが、わずかに歪んだ。

 

「……本当に?」

 

彼女が指を鳴らす。

 

その瞬間、床面の隔壁が再び動き始めた。

 

相澤の視線が一瞬だけ、床の動きへ向く。

 

そのわずかな隙に、ミッドナイトが身を翻した。

 

眠り香の霧が広がる。

 

「先生!」

 

八百万が叫ぶ。

 

相澤は即座に目を戻した。

 

だが、ミッドナイトはすでに距離を取っていた。

 

「あなたは、私の個性を止めることができる。でも、私の言葉まで止められるのかしら?」

 

「止めるつもりはない」

 

相澤は答えた。

 

「なら、聞きなさい」

 

彼女の声が響く。

 

「あなたたちは、私のことを語ってきた。生徒たちを守った教師。命を懸けて戦ったヒーロー。誰よりも誇り高い仲間」

 

壁面に、再び映像が浮かび上がる。

 

「でも、私がどんな人間だったのかは、あなたたちが決めている」

 

彼女は、相澤を見据えた。

 

「あなたが知っていた私だけが、私のすべてだった?」

 

相澤の胸に、苦いものが広がった。

 

すぐに否定することはできなかった。

 

彼らは、ミッドナイトを語ってきた。

 

忘れないために。

 

残されたものを守るために。

 

生徒たちが、彼女の死を乗り越えられるように。

 

だが、その言葉の中で、彼女の弱さや、矛盾や、迷いを、どこまで伝えてきただろうか。

 

彼女が自分自身について、どんなふうに考えていたのか。

 

本当は何を望んでいたのか。

 

そのすべてを、彼らは知っているのだろうか。

 

相澤は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……知らないことはある」

 

その答えに、ミッドナイトの表情が止まった。

 

「俺が知っているお前は、俺が一緒に働いていた時間の中で見ていたお前だ。全部じゃない」

 

「……」

 

「お前が何を考えていたのか、何を後悔していたのか、全部わかっているとは言わない」

 

相澤は続けた。

 

「だが、わからないからといって、お前の話を聞くことをやめるつもりもない」

 

ミッドナイトは、彼を見つめたまま、動かなかった。

 

その瞬間、背後の装置が大きな音を立てた。

 

「……相澤先生! 床がまた動いています!」

 

拳藤が叫んだ。

 

床面が左右に分かれ、中央へ向かってせり上がる。

 

その間に、取蔭が分離した身体を滑り込ませ、制御盤へ近づいた。

 

「まずい! ここ、完全にロックされてる!」

 

「壊せばいい!」

 

芦戸が前へ出る。

 

「でも、制御盤の周りに冷却管があります! 無理に破壊すると、別の装置まで暴走する危険が!」

 

八百万が叫んだ。

 

「なら、私が固定する!」

 

拳藤が巨大化した両手で、動き始めた支柱を挟み込んだ。

 

「八百万、冷却管を保護する板を作れる!?」

 

「可能です!」

 

八百万は次々と金属板を創造し、制御盤の周囲へ差し込んだ。

 

芦戸は酸を調整し、制御盤の外装だけを慎重に溶かしていく。

 

取蔭が分離した指先を細くし、内部の端子へ差し込んだ。

 

「見つけた! 主電源の接続部!」

 

「切れる?」

 

「ちょっと待って! ……あと少し!」

 

そのとき、ミッドナイトが動いた。

 

彼女の手が上がる。

 

床面の別の噴射口が開く。

 

「……っ!」

 

八百万たちの周囲へ、眠り香が流れ込んだ。

 

「全員、退避!」

 

相澤が叫ぶ。

 

だが、拳藤は両手を広げ、八百万と取蔭をかばった。

 

「切奈! そのまま続けて!」

 

「でも、拳藤!」

 

「この装置を止めないと、もっと危険になる!」

 

拳藤の大きな手が、落下する隔壁を押し返す。

 

芦戸は酸を床面に広げ、香りが流れ込む方向をそらした。

 

「こっちに来る前に、流れを変える!」

 

眠り香の白い霧が、酸で変化した床面の溝に沿って流れ、壁際の排気口へ向かっていった。

 

その隙に、取蔭が主電源の接続部を切り離す。

 

カチッ。

 

装置の動きが、一瞬だけ止まった。

 

「切れた!」

 

「今だ!」

 

八百万が叫ぶ。

 

彼女は創造した遮断板を、制御盤へ押し込んだ。

 

火花が散る。

 

警報が鳴り響く。

 

そして、動き続けていた床面が、ようやく停止した。

 

五 プレゼント・マイクの声

「……よくやった、お前ら!」

 

プレゼント・マイクが、隔壁の向こうから姿を現した。

 

彼の身体には、いくつかの擦り傷があったが、動きに支障はない。

 

「先生、無事だったんですね!」

 

芦戸が声を上げる。

 

「当然だ! このプレゼント・マイク様を、そんな簡単に眠らせられると思うなよ!」

 

いつもの調子で言い放ったが、その目は、ミッドナイトから離れなかった。

 

彼女はホールの中央に立ち、マイクを見つめていた。

 

「……あなたの声は、昔から大きかったわね」

 

「お前が言うか?」

 

マイクは、思わず苦笑した。

 

「俺が声を上げなきゃ、会議で好き勝手に話を進めてたのは誰だよ」

 

「あなたが話をまとめるのが下手だったからでしょう?」

 

「おいおい、そこはもう少し言い方があるだろ!」

 

ほんの一瞬、以前と同じ会話が戻ったように思えた。

 

マイクの胸に、感情が押し寄せる。

 

その笑い方。

 

その皮肉。

 

その、少しだけ人をからかう口調。

 

間違いない。

 

彼の記憶にいるミッドナイトと、よく似ている。

 

「……お前、やっぱり」

 

彼は、半歩前へ出た。

 

「お前なんだな」

 

ミッドナイトの表情が、静かに変わった。

 

「私が誰なのか、あなたが決めるの?」

 

マイクの足が止まった。

 

彼女は、続けた。

 

「あなたは、私のことをよく知っていると言うでしょう。長い付き合いだったもの。仕事もしたし、喧嘩もした。くだらない話だって、山ほどした」

 

彼女の声に、かすかな震えが混じった。

 

「でも、あなたが知っているのは、あなたの前での私だけよ」

 

マイクは、答えられなかった。

 

「私は、あなたに見せていなかった顔も持っていた。あなたに話さなかったこともあった。あなたが知らない場所で、悩んだり、迷ったり、後悔したりしていたかもしれない」

 

彼女は、自分の胸元へ手を当てた。

 

「それなのに、あなたが私を知っているという理由で、私のすべてをわかったつもりになったら……私は、どこに行けばいいの?」

 

その言葉に、マイクの顔から笑みが消えた。

 

彼は、何かを言おうとした。

 

だが、言葉が出てこない。

 

彼女を失ってから、何度も思い出した。

 

彼女との会話。

 

彼女の笑顔。

 

彼女が残してくれた言葉。

 

自分たちが一緒に過ごした時間。

 

それらは、彼にとって、かけがえのないものだった。

 

だが、彼女が自分に見せなかったものまで、理解していたわけではない。

 

それなのに、彼女の死後、彼は何度も語ってきた。

 

ミッドナイトはこういう人だった。

 

こんなことを大切にしていた。

 

最後まで、こういう人だった。

 

その言葉に嘘があったわけではない。

 

だが、それが彼女のすべてであると、言い切れるわけでもない。

 

「……悪かった」

 

マイクは、静かに言った。

 

ミッドナイトが、目を見開いた。

 

「俺は、お前のことを忘れたくなかった」

 

マイクは続けた。

 

「お前がいなくなったことを、受け入れたくなかった。お前が残してくれたものまで消えてしまうような気がして、何度も話した。生徒たちに、お前がどんな教師だったのかを伝えようとした」

 

彼は、目を伏せた。

 

「でも、俺が話してきたことは、俺が覚えているお前のことだ。俺が大切にしたいと思った、お前の姿だ」

 

そして、顔を上げた。

 

「それが、お前のすべてだなんて、言うつもりはねえ」

 

ミッドナイトは、黙っていた。

 

「お前が何を考えていたのか、全部わかってるなんて言わない。俺が知らなかったこともあるだろう。知っていたつもりで、見落としていたこともあるかもしれない」

 

マイクは、ゆっくりと息を吸った。

 

「だから、今度は聞く。お前が何を言いたいのか。何を怒っているのか。俺たちが何を間違えたと思っているのか」

 

彼は、真正面から彼女を見つめた。

 

「俺の知っているお前に戻ってくれなんて、言わねえ。俺が知ってるお前と違うからって、否定するつもりもねえ」

 

彼女の瞳が揺れた。

 

「……本当に?」

 

「ああ」

 

マイクは、うなずいた。

 

「ただし、お前が誰かを傷つけるなら、止める。生徒たちを危険にさらすなら、守るために戦う。それは変わらねえ」

 

その言葉に、相澤がわずかに顔を上げた。

 

マイクは続けた。

 

「でも、戦うことと、お前を理解したつもりになることは違う。止めることと、お前の話を聞かないことも違う」

 

彼の声は、少しずつ力強くなっていった。

 

「俺はお前の言葉を聞く。だが、お前が俺たちの答えを決めることも認めねえ。俺たちは、お前のために何も考えず従うわけじゃない。お前も、俺たちの記憶の中の姿に従う必要はない」

 

ミッドナイトは、しばらく彼を見つめていた。

 

そして、ゆっくりと目を閉じた。

 

「……ずるいわね」

 

小さな声だった。

 

「そういうことを言われると、簡単には怒れないじゃない」

 

「怒っていいんだぜ」

 

マイクは、少しだけ笑った。

 

「俺たちだって、怒ることはある。お前が何を言おうと、どんなことを考えていようと、それを聞いて、俺が納得できるかどうかは別の話だ」

 

彼は、肩をすくめた。

 

「それでも、聞くのをやめるつもりはねえ」

 

ミッドナイトの笑顔が、消えた。

 

その代わりに、彼女の目に、別の感情が浮かんだ。

 

悲しみ。

 

苛立ち。

 

そして、何かを諦めたような、静かな怒り。

 

「……だったら」

 

彼女は、ゆっくりと手を持ち上げた。

 

「本当に聞けるか、試してみましょう」

 

ホール全体が、再び振動した。

 

「先生!」

 

八百万が叫ぶ。

 

天井から、数十本の可動アームが展開した。

 

床面には、新たな白い紋様が浮かび上がる。

 

そして、眠り香が、再び空間へ噴き出した。

 

六 眠り香の迷宮

「全員、散開!」

 

相澤が叫んだ。

 

可動アームが一斉に降下する。

 

拳藤は巨大化した両手を広げ、落下してくるアームを受け止めた。

 

「くっ……! この数は、さすがにきつい!」

 

「拳藤さん、右側の支柱を固定してください!」

 

八百万が、金属製の支持器具を創造して投げ渡す。

 

「受け取った!」

 

拳藤はそれを受け取り、巨大な手で支柱へ押し込んだ。

 

可動アームの一部が停止する。

 

その隙に、芦戸が床面へ酸を流し込んだ。

 

酸はアームの根元を狙い、固定具を腐食させていく。

 

「これなら、動かせる範囲が減るはず!」

 

しかし、ミッドナイトはすぐに反応した。

 

「さすがね、芦戸さん。でも、全部の装置を止められるかしら?」

 

床面の紋様が光る。

 

芦戸の周囲に、四枚の隔壁がせり上がった。

 

「えっ!?」

 

閉じ込められる直前、取蔭の分離した腕が隔壁の隙間へ滑り込んだ。

 

「三奈、頭を下げて!」

 

「わかった!」

 

取蔭の手が隔壁の制御部をつかむ。

 

芦戸はすぐさま酸を放ち、隙間を広げた。

 

「さっすが切奈!」

 

「お互いさま!」

 

二人は素早く抜け出した。

 

しかし、霧は濃くなっていた。

 

呼吸器のフィルターにも、限界がある。

 

八百万は、新たなフィルターを創造しながら、周囲の風の流れを確認していた。

 

「……このままでは、いずれ吸入を防ぎきれなくなります!」

 

「空調を復旧させるしかないな!」

 

ロックロックが外部から通信で答える。

 

『こちらも制御盤に接続できたが、旧設備がこちらの操作を拒絶している! 根津校長、何か方法は!?』

 

『地下の主制御系が独立して稼働している。旧設備の電源だけを落とすことは可能だが、その場合、訓練棟全体が安全機構を失う!』

 

「つまり、全部止めたら、建物そのものが危険になるってことか!」

 

『その可能性がある!』

 

相澤は、戦場を見渡した。

 

ミッドナイトは、中央に立っていた。

 

彼女の周囲には、眠り香を噴き出す装置が展開している。

 

「……根津校長。外部の電源を遮断するのではなく、空調制御を訓練棟から切り離せますか?」

 

『可能だ。ただし、主制御区画の接続端子へ直接アクセスする必要がある』

 

「誰が行く?」

 

「私が行きます!」

 

八百万が、即座に答えた。

 

「必要な器具を創造できます。取蔭さんに内部へ入ってもらい、私が制御端子を切り離します」

 

「私も一緒に行く!」

 

芦戸が言った。

 

「制御区画までの通路を作るには、酸が必要になるかもしれない」

 

「俺も同行する!」

 

拳藤が続けた。

 

「二人を守る役目が必要だろう」

 

相澤は、一瞬考えた。

 

それから、うなずいた。

 

「わかった。ただし、無理に突破しようとするな。危険があれば撤退する。装置を止めることより、お前たちの安全が優先だ」

 

「はい!」

 

四人が動き出す。

 

その瞬間、ミッドナイトが腕を振った。

 

床面から、白い拘束具が展開する。

 

狙いは、八百万たちの通路だった。

 

「行かせないわ」

 

「……っ!」

 

芦戸が酸を放ち、拘束具の一部を溶かす。

 

だが、残った装置が横から迫る。

 

拳藤が巨大化した手で受け止めた。

 

「ここは通さない!」

 

「取蔭さん!」

 

八百万が叫ぶ。

 

「はいはい!」

 

取蔭の分離した身体が、拘束具の隙間を縫って飛んだ。

 

腕が装置の内側へ入り、接続部を探る。

 

「見つけた! この端子だ!」

 

彼女の指が端子をつかむ。

 

しかし、ミッドナイトが素早く動き、取蔭の身体の一部へ手を伸ばした。

 

「切奈、戻って!」

 

拳藤が叫ぶ。

 

取蔭は即座に身体を分離させ、接触を避けた。

 

その一瞬の隙に、芦戸が酸を放つ。

 

酸はミッドナイトの足元へ流れ、彼女の進路を塞いだ。

 

「先生、ごめんなさい!」

 

芦戸は叫んだ。

 

「でも、ここは通させてもらう!」

 

彼女が酸をさらに広げる。

 

ミッドナイトは後退した。

 

その間に、八百万が創造した工具を取蔭へ投げ渡す。

 

「その端子を、こちらへ引き抜いてください!」

 

「任せて!」

 

取蔭の手が端子をつかむ。

 

引き抜く。

 

火花が散った。

 

同時に、訓練棟全体の空調制御が、一瞬だけ沈黙した。

 

霧の流れが止まる。

 

次の瞬間、天井から、外部排気の音が響いた。

 

根津校長とセメントスが、外部の排気経路を開いたのだ。

 

眠り香が、ゆっくりとホールの外へ流れ始めた。

 

「……よし!」

 

相澤が短く叫んだ。

 

「これで、呼吸の問題は少し改善する!」

 

だが、ミッドナイトは、まだ動きを止めなかった。

 

彼女の目が、相澤へ向けられる。

 

「……あなたたちは、ずいぶん手際がいいのね」

 

「訓練してきたからな」

 

相澤が答える。

 

「生徒たちを守るために?」

 

「それもある」

 

相澤は、捕縛布を構え直した。

 

「だが、それだけじゃない」

 

彼は、ミッドナイトを見据えた。

 

「俺たちは、ただお前を止めるためだけに戦っているわけじゃない。何が起きているのかを理解するためにも戦っている」

 

「理解?」

 

「お前がなぜここにいるのか。何を望んでいるのか。何を怒っているのか」

 

相澤は続けた。

 

「それを聞く前に、俺たちが勝手に答えを出すつもりはない」

 

ミッドナイトは、しばらく黙っていた。

 

やがて、薄く笑った。

 

「……では、最後まで聞いてもらいましょうか」

 

彼女の足元に、巨大な円形装置がせり上がった。

 

「あなたたちが、私を理想の教師に仕立て上げた理由を」

 

七 先生は、生徒を守るだけの人だったのか

円形装置の中央に、光が集まる。

 

壁面の映像が、一斉に切り替わった。

 

そこに映し出されたのは、ミッドナイトが教師として活動していた頃の記録だった。

 

訓練場で生徒に助言を送る姿。

 

授業で厳しく指導する姿。

 

生徒の成長を喜ぶ姿。

 

そして、誰かの行動に怒り、厳しい言葉を投げかける姿。

 

「私は、教師だった」

 

ミッドナイトが言った。

 

「生徒を守り、育てることが仕事だった。そうね?」

 

相澤は、うなずいた。

 

「そうだ」

 

「では、私は生徒のためなら、自分の気持ちをすべて後回しにするべきだった?」

 

「……いや」

 

「生徒を守るためなら、自分が何を感じているかを語らず、強く振る舞い続けるべきだった?」

 

「違う」

 

「仲間を助けるためなら、迷いを見せてはいけなかった?」

 

相澤は、黙った。

 

彼女の質問は、彼がこれまで口にしてきた言葉を、ひとつずつ問い直すものだった。

 

教師だから。

 

ヒーローだから。

 

仲間だから。

 

そんな肩書きがあるからといって、その人間が持つ感情まで、ひとつの型にはめてよいのだろうか。

 

「……俺は、お前にそんなことを求めたつもりはない」

 

相澤は言った。

 

ミッドナイトの表情が変わった。

 

「本当に?」

 

その声は、鋭かった。

 

「あなたは、私が死んだ後、何度も言ったでしょう。あのとき、彼女は教師として最後まで戦った。彼女が残したものを、私たちが受け継がなければならない。彼女の意志を忘れてはいけない、と」

 

相澤は、目をそらさなかった。

 

「言った」

 

「それは、間違いではないの?」

 

「間違いだった部分も、あるかもしれない」

 

ミッドナイトの目が、わずかに揺れた。

 

相澤は続けた。

 

「俺たちは、お前を失った。だから、お前が残してくれたものを失いたくなかった。生徒たちが、お前の死によって何もかも無意味だったと思わないように、お前が教えてきたことを伝えたかった」

 

彼は、少しだけ息を吐いた。

 

「だが、そうするうちに、俺たちは、お前の姿を一つの意味へまとめようとしたのかもしれない」

 

「……」

 

「お前が残したものを受け継ぐことと、お前を理想の教師にすることは、同じじゃない」

 

相澤は、まっすぐに言った。

 

「お前が生徒を守ったことは事実だ。お前が教師として働いてきたことも事実だ。だが、それだけが、お前という人間のすべてではない」

 

ミッドナイトは、彼を見つめていた。

 

「お前にだって、弱さはあっただろう。自分の判断を後悔したこともあったかもしれない。誰かに腹を立て、誰かと距離を置きたいと思うこともあったかもしれない」

 

相澤は言葉を重ねた。

 

「俺は、その全部を知っているわけじゃない。だから、理解したふりはしない」

 

彼は一歩、前へ出た。

 

「俺たちが覚えているお前だけで、お前を決めつけることはしない」

 

ミッドナイトの目が、細くなった。

 

「……ずいぶん、簡単に言うのね」

 

「簡単じゃない」

 

相澤は、即答した。

 

「お前を失ったことは、今も受け入れられない。もう一度話せるなら、話したいことはいくらでもある。聞きたいことも、聞いてほしいこともある」

 

彼は、わずかに眉をひそめた。

 

「だが、だからといって、俺が知りたいことをお前が話す義務があるわけじゃない。俺たちが望む姿に、お前が戻らなければいけないわけでもない」

 

その言葉に、プレゼント・マイクが顔を上げた。

 

相澤は続ける。

 

「俺は、お前がどういう人間だったのか、今も全部は知らない。これからも、全部わかることはないかもしれない」

 

静かな声だった。

 

「それでも、目の前にいるお前の言葉を聞くことはできる」

 

ミッドナイトは、動かなかった。

 

その瞬間、円形装置が異音を立てた。

 

光が強くなり、壁面の映像が乱れ始める。

 

「……そこまで」

 

ミッドナイトが、突然、声を低くした。

 

「そこまで言って、あなたは何をするつもりなの?」

 

「何も、勝手には決めない」

 

「では、私がここにいることを受け入れるの?」

 

「それも、今の段階では決められない」

 

ミッドナイトは、目を見開いた。

 

相澤は、続けた。

 

「俺は、お前がここにいる理由を知りたい。お前の言葉を聞きたい。だが、それだけで、すべての行動を認めるつもりはない」

 

「……」

 

「お前が生徒を危険にさらすなら、止める。お前の個性によって、誰かが意識を失う危険があるなら、抹消する。設備を破壊しようとするなら、捕縛する」

 

彼は、目を細めた。

 

「だが、それでお前の話を聞くことまでやめるつもりはない」

 

ミッドナイトは、長い沈黙の末に、微笑んだ。

 

「……本当に、あなたらしいわ」

 

その表情には、どこか疲れた色があった。

 

「いつも、都合よく答えを出さない。白か黒かを決めるのが、そんなに嫌なの?」

 

「そういう問題じゃない」

 

相澤は答えた。

 

「決められないことを、決められないままにしておく必要がある場合もある」

 

その言葉を聞いたとき、ミッドナイトの目に、初めて明確な動揺が浮かんだ。

 

しかし、次の瞬間。

 

彼女は手を振り上げた。

 

「……ならば、最後まで試しましょう!」

 

円形装置から、無数の拘束具が飛び出した。

 

「相澤!」

 

プレゼント・マイクが叫ぶ。

 

「来るぞ!」

 

八 教師たちの連携

拘束具が、雨のように降り注いだ。

 

相澤は捕縛布を伸ばし、最初の一群を絡め取る。

 

そのまま身体をひねり、別の拘束具へ巻きつけた。

 

金属が軋む。

 

「教師だからって、毎回こんなものまで相手にしなきゃいけないのか!」

 

マイクが叫ぶ。

 

「文句はあとだ!」

 

相澤は、視線をミッドナイトへ向けた。

 

個性――抹消。

 

彼女の眠り香が、再び抑え込まれる。

 

その瞬間、マイクが息を吸った。

 

「ヴォオオオオオオオオオオッ!!」

 

彼の声が、ホール全体を震わせた。

 

轟音によって、天井から吊り下げられた拘束装置が揺れる。

 

固定具が外れ、装置の一部が床へ落下した。

 

しかし、マイクは声を無差別に広げなかった。

 

相澤が指示した方向へ、音の圧力を集中させる。

 

敵の装置だけを狙い、隔壁の外にいる生徒たちへ影響が及ばないよう、声の向きを調整する。

 

「今だ、相澤!」

 

相澤の捕縛布が、ミッドナイトの腕へ伸びた。

 

彼女は身をひねる。

 

捕縛布が、腕の外側をかすめた。

 

その瞬間、床が動いた。

 

相澤の足元が落ち、身体が傾く。

 

彼は片手で床の縁をつかんだが、もう片方の手は捕縛布を握ったままだった。

 

「相澤!」

 

マイクが叫ぶ。

 

だが、彼が声を出すより早く、床の下から複数の拘束アームが伸びてきた。

 

相澤の身体をつかもうとする。

 

そのとき、セメントスの声が通信機から響いた。

 

『その位置を動くな!』

 

床面の一部が隆起した。

 

セメントスが外部から操作したのだ。

 

コンクリートが柱となってせり上がり、相澤の身体を支える。

 

続いて、別の柱が伸び、拘束アームの動きを押し返した。

 

『根津校長、こちらから訓練棟の構造を補助する!』

 

『了解した。外壁の一部を開放し、排気経路を拡張する!』

 

旧訓練棟の外壁に、複数の隙間が生まれた。

 

そこから風が流れ込み、眠り香を外へ押し出していく。

 

セメントスは、床と壁の形状を変えながら、訓練棟の構造を少しずつ作り替えていた。

 

通路を塞ぐ隔壁の下へ、コンクリートの楔を差し込む。

 

落下する装置を、壁面から伸ばした柱で支える。

 

さらに、ホール中央の床を隆起させ、ミッドナイトと生徒たちの間に、低い防護壁を作った。

 

『相澤! 右側の壁を使え! そこの床はまだ持つ!』

 

「了解!」

 

相澤は捕縛布を引き、壁面へ飛び移った。

 

そこで再び、ミッドナイトへ視線を向ける。

 

抹消。

 

彼女の個性が抑えられる。

 

マイクの声が、再びホールを震わせた。

 

「ヴォオオオオオオオッ!!」

 

今度は、床面に展開した大型装置へ向けた一撃だった。

 

装置の外装がひび割れ、内部の機構が露出する。

 

セメントスが、その下からコンクリートの柱を伸ばした。

 

装置が持ち上がり、床から引き離される。

 

根津が制御区画へ指示を出した。

 

『外部電源を切り替える! セメントス、支持を維持してくれ!』

 

『了解!』

 

装置の光が、弱まった。

 

「……これで終わりだ!」

 

マイクが声を張り上げた。

 

だが、その直後。

 

ミッドナイトが、自分の意志で動いた。

 

個性は抑えられている。

 

眠り香も、今は放出できない。

 

それでも彼女は、床を蹴り、相澤へ向かって突進した。

 

「なっ……!」

 

相澤は身をひねった。

 

彼女の拳が、彼の肩をかすめる。

 

相澤は反射的に捕縛布を伸ばした。

 

布が彼女の腕へ絡みつく。

 

そのまま引き倒せば、制圧できる。

 

しかし、相澤は力を緩めた。

 

「……お前、何を」

 

その一瞬を、ミッドナイトは逃さなかった。

 

彼女は捕縛布を腕へ絡ませたまま、相澤の懐へ踏み込む。

 

そして、額を彼の胸へぶつけた。

 

鈍い音がした。

 

相澤が、よろめく。

 

「相澤!」

 

マイクが叫ぶ。

 

相澤は、片膝をついた。

 

ミッドナイトは、彼の前に立っていた。

 

「どうしたの?」

 

彼女は言った。

 

「私の言葉を聞くんじゃなかったの?」

 

相澤は、額を押さえながら立ち上がった。

 

「……聞くと言った。攻撃を受け続けるとは言っていない」

 

その返事に、ミッドナイトが目を見開いた。

 

そして、次の瞬間。

 

彼女は、声を上げて笑った。

 

「……あははっ!」

 

それは、これまでの挑発的な笑みとは違っていた。

 

どこか懐かしく、どこか苦しそうな笑いだった。

 

「そうよね。そうだったわね。あなたは、そういう人だった」

 

その言葉を聞いた相澤は、彼女から目をそらさなかった。

 

「……お前は、何を確かめたい?」

 

ミッドナイトの笑みが、ゆっくりと消えた。

 

「……私が、ここにいてもいいのか」

 

彼女は、ぽつりと言った。

 

「あなたたちが覚えている私と違っていても。あなたたちの理想に、当てはまらなくても。あなたたちが知らなかった私が、ここにいてもいいのか」

 

相澤は、すぐには答えなかった。

 

そして、静かに言った。

 

「お前がここにいる理由は、まだわからない」

 

ミッドナイトは、彼を見つめた。

 

「……」

 

「お前が何者なのか、今の時点で断定することもできない」

 

彼は、正面から言葉を続けた。

 

「だが、お前が何を望んでいるのかを聞くことはできる。お前がどういう人間だったのか、俺たちが知らなかったことを聞くこともできる」

 

相澤は、一歩だけ前へ出た。

 

「俺たちが、お前を理想の教師にしたのだとしたら、そのことについて話す必要がある。だが、それは、お前が俺たちの問いに答える義務があるという意味じゃない」

 

彼は、息を吐いた。

 

「お前が何を話すのか。どこまで話すのか。それも、お前が決めることだ」

 

ミッドナイトの表情が、かすかに揺れた。

 

「……本当に、面倒な人ね」

 

「よく言われる」

 

「そうでしょうね」

 

彼女は、少しだけ笑った。

 

しかし、その笑顔はすぐに消えた。

 

「……でも、話を聞いてくれるなら、もう少しだけ、見せてあげる」

 

彼女の背後で、円形装置が再び起動した。

 

「お前……!」

 

相澤が身構える。

 

ミッドナイトは、首を振った。

 

「安心して。これは、あなたたちを眠らせるための装置じゃないわ」

 

彼女が手を伸ばす。

 

壁面の映像が、一斉に切り替わった。

 

今度は、教師たちの記録ではなかった。

 

生徒たちの記録だった。

 

九 その記憶は、誰のものなのか

映像に映し出されたのは、雄英高校で過ごした生徒たちの日々だった。

 

教室での会話。

 

訓練での失敗。

 

試験に向けた練習。

 

教師たちから叱られ、励まされ、再び立ち上がる姿。

 

その中に、ミッドナイトがいた。

 

彼女は、ときに厳しく指導し、ときに生徒の成長を喜び、ときに大きな声で笑っていた。

 

生徒たちが語ってきた、彼女の思い出。

 

その一つ一つが、ホールの壁を埋め尽くした。

 

「……これは」

 

八百万が、息をのむ。

 

「私たちの記録……?」

 

「そうよ」

 

ミッドナイトが答えた。

 

「あなたたちが私をどう覚えているのか。その記録が集められている」

 

「誰が、そんなものを……」

 

取蔭が周囲を見回した。

 

「この装置が、自動的に記録を集めたのか? それとも、誰かが意図的に……」

 

根津が通信機越しに答えた。

 

『記録の保存先が、通常の校内システムとは異なる。アクセスの痕跡も、不完全だ。誰が、どの段階で集めたのか、まだわからない』

 

「つまり、誰かが私たちの記憶を利用している可能性があるってこと?」

 

芦戸が尋ねた。

 

『そうだ。だが、現時点では断定できない』

 

壁面の映像が、突然切り替わった。

 

そこには、ミッドナイトが生徒たちに語りかける姿が映っていた。

 

「生徒たちは、これから先、たくさんの選択をすることになるわ」

 

彼女の声が響く。

 

「その選択を、私たち教師がすべて決めることはできない。けれど、選択するための知識を与えたり、安全に挑戦できる場所を整えたりすることはできる」

 

映像の中の彼女が、微笑む。

 

「教師の役目は、生徒たちの未来を代わりに決めることじゃない。自分で選べるように、支えることよ」

 

その言葉を聞いて、相澤は、ゆっくりと目を閉じた。

 

皮肉なことだった。

 

彼女が語ったことは、今、彼らがようやく理解し始めたことと、同じだった。

 

生徒たちの未来を決めるのではなく、自分で選べるようにする。

 

それが教師の役目。

 

しかし、彼女の死後、彼らはどうだったのか。

 

彼女が残した言葉を伝えようとするあまり、その言葉を絶対の教訓にしてしまわなかったか。

 

彼女が生きた姿を語ろうとするあまり、その姿を理想化してしまわなかったか。

 

「……俺たちは、お前の言葉を残そうとしてきた」

 

相澤は、壁面を見つめながら言った。

 

「でも、その言葉を、俺たちが都合よく使ってしまった部分もあるのかもしれない」

 

ミッドナイトは、答えなかった。

 

「お前が教師として何を望んでいたのか。どういう生徒になってほしいと思っていたのか。俺たちは、その一部しか知らなかったのに、理解したつもりになっていたのかもしれない」

 

相澤は、視線を彼女へ向けた。

 

「だから、これからは、お前が何を言うのかを聞く。そして、生徒たちが何を覚えているのかも聞く。俺たちの話だけで、お前の姿を決めることはしない」

 

マイクが、隣に並んだ。

 

「……俺もだ」

 

彼は、壁面に映る記録を見ていた。

 

「お前が残した言葉を、俺たちがどう受け取ったのか。それを伝えることはできる。でも、それが、お前のすべてだったとは言わない」

 

彼は、ミッドナイトへ向き直った。

 

「お前が何を望んでいたのか。俺たちが知らなかったこと。俺たちが聞きそびれたこと。それを、今からでも聞きたい」

 

ミッドナイトの目が、わずかに揺れた。

 

その瞬間、円形装置が大きな音を立てた。

 

映像が乱れる。

 

白い光が、彼女の身体を包み込んだ。

 

「……っ!」

 

相澤が身構える。

 

マイクも、すぐに彼女へ向き直った。

 

ミッドナイトは、ゆっくりと後退した。

 

「……今日は、ここまでね」

 

「待て!」

 

相澤が声を上げる。

 

「まだ聞きたいことがある!」

 

「ええ。知っているわ」

 

ミッドナイトは、彼を見た。

 

「あなたたちは、これから、もっとたくさんのことを聞きたいのでしょうね。私が何を考えていたのか。何を望んでいたのか。何に怒っていたのか」

 

彼女は、少しだけ微笑んだ。

 

「でも、あなたたちが聞きたいことを、私がすべて話すとは限らない」

 

「……それでいい」

 

相澤は答えた。

 

「お前が何を話すかは、お前が決めることだ」

 

ミッドナイトの笑顔が、ほんの少しだけ変わった。

 

「……そう」

 

彼女は、小さくうなずいた。

 

「なら、また会いましょう」

 

その言葉を最後に、白い光が強くなった。

 

ミッドナイトの姿が、ゆっくりと薄れていく。

 

プレゼント・マイクが、思わず手を伸ばした。

 

「待て、ミッドナイト!」

 

しかし、彼女は手を伸ばさなかった。

 

彼女は、ただ、二人を見つめていた。

 

そして、最後に一言だけ残した。

 

「……今度は、あなたたちが覚えていない私の話をしましょう」

 

光が消えた。

 

円形装置が沈黙する。

 

ミッドナイトの姿は、もうなかった。

 

十 答えを決めないという決断

戦闘が終わった後も、旧訓練棟の中には、しばらく沈黙が残っていた。

 

八百万は、壁面に映し出された記録の残骸を確認していた。

 

取蔭は、分離させた身体を戻しながら、周囲の装置を調べている。

 

芦戸は、壊れた床面を見つめていた。

 

拳藤は、疲れた様子で肩を回した。

 

峰田は、ようやく呼吸器を外した。

 

「……なあ。結局、今のは何だったんだ?」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

根津校長の声が、通信機から響く。

 

『訓練棟内の設備は、ほぼ停止した。だが、彼女の出現に関係する記録は、ほとんど消失している』

 

「……つまり、理由はわからないってことですか」

 

八百万が尋ねる。

 

『現時点では、そうなる』

 

セメントスが、崩れた壁の補修を始めた。

 

『設備の損傷は大きい。だが、建物全体の崩壊は防げた。君たちの判断が適切だったからだ』

 

「……あの人は」

 

峰田が、恐る恐る口を開いた。

 

「本当に、ミッドナイト先生だったのかな」

 

その質問に、相澤はすぐに答えなかった。

 

彼自身も、まだわからない。

 

彼女の声。

 

表情。

 

言葉の選び方。

 

自分たちが知っている彼女と、重なる部分はあった。

 

だが、同時に、彼らが知らなかった何かも、確かにあった。

 

あれが本物のミッドナイトなのか。

 

何らかの仕組みによって再現された存在なのか。

 

誰かが彼女の記憶や個性を利用しているのか。

 

まだ、判断できる材料は足りない。

 

相澤は、静かに答えた。

 

「……わからない」

 

生徒たちが、彼を見た。

 

「俺たちが知っているミッドナイトに似ていた。だが、それだけで、すべてが同じだとは言えない」

 

彼は続けた。

 

「だから、今の段階で、本人だと断定することもしない。偽物だと決めつけることもしない」

 

「でも、先生……」

 

八百万が言った。

 

「もし、本人だったら……?」

 

相澤は、目を伏せた。

 

「そのときは、本人が何を望んでいるのかを聞く」

 

「……」

 

「もし、俺たちの知らない面があったとしても、それを理由に否定することはしない。だが、本人だからといって、すべての行動を認めるわけでもない」

 

彼は、八百万を見た。

 

「生徒を守る必要があるなら、守る。危険があれば止める。話を聞ける状況なら、聞く」

 

相澤の声は、静かだった。

 

「それだけだ」

 

プレゼント・マイクが、少しだけ笑った。

 

「……お前らしいな」

 

「何がだ」

 

「白黒を決めるのを、急がねえところだよ」

 

「急いで決めても、事実が変わるわけじゃない」

 

相澤は答えた。

 

「俺たちが答えを欲しがっていることと、答えが出せることは別だ」

 

マイクは、ゆっくりとうなずいた。

 

「……そうだな」

 

彼は、消えたミッドナイトの立っていた場所を見つめた。

 

「俺は、あいつに戻ってきてほしかった」

 

その声は、いつもの明るさを失っていた。

 

「もう一度話したかった。もう一度、くだらないことで言い合いたかった。もう一度、あいつの笑い声を聞きたかった」

 

彼は、一度だけ目を閉じた。

 

「だから、もし今、目の前にあいつが現れたら、俺はきっと、昔のままのお前でいてくれって言いたくなると思う」

 

相澤は、何も言わなかった。

 

「でも、それは俺の願いだ。あいつの願いとは限らねえ」

 

マイクは、少しだけ口元を緩めた。

 

「……今回は、ちゃんと聞く。俺が知ってるミッドナイトの話だけじゃなくて、俺が知らなかったミッドナイトの話を」

 

相澤は、うなずいた。

 

「俺もだ」

 

彼らは、生徒たちを見た。

 

「お前たちも、今日のことを考えておけ」

 

相澤が言った。

 

「ミッドナイトについて、何を覚えているのか。何を大切にしたいと思っているのか。それを、他人が決めた理想に合わせる必要はない」

 

「……自分たちの記憶を、話してもいいんですか?」

 

八百万が尋ねた。

 

「もちろんだ」

 

相澤は答えた。

 

「お前たちが覚えている彼女の姿も、彼女について考えてきたことも、それぞれ違うだろう。違っていていい」

 

彼は、ゆっくりと続けた。

 

「ただし、自分が覚えている姿だけで、彼女のすべてを知っていると思わないことだ」

 

生徒たちは、黙って聞いていた。

 

「誰かを大切に思うことと、その人のすべてを知っていると思うことは違う。思い出を大切にすることと、その人を理想の像に閉じ込めることも違う」

 

相澤は、視線を落とした。

 

「俺たちは、教師として、その違いを考えなければならない」

 

プレゼント・マイクが、その言葉を引き継いだ。

 

「それに、俺たちだって、全部を知ってるわけじゃない。先生だからって、何でもわかるわけじゃねえ。大人だからって、いつでも正しいわけでもねえ」

 

彼は、生徒たちを見渡した。

 

「だから、次はお前たちの話を聞かせてくれ。お前たちは、ミッドナイト先生のことをどう覚えている?」

 

八百万は、顔を上げた。

 

峰田は、何かを言おうとして、口を閉じた。

 

芦戸は、両手を握りしめていた。

 

拳藤は、少しだけ眉をひそめ、取蔭は壁面に残った映像の残滓を見つめていた。

 

彼女について語りたいことは、いくらでもある。

 

感謝。

 

悲しみ。

 

怒り。

 

後悔。

 

そして、まだ言葉にできない気持ち。

 

だが、そのすべてを、今すぐ一つの答えにまとめる必要はない。

 

相澤は、扉へ向かった。

 

「今日はここまでだ。まずは、全員の安全を確認する。話をするのは、そのあとでいい」

 

マイクも、うなずいた。

 

「……ああ。急ぐ必要はねえ」

 

二人は、最後にもう一度、ホールの中央を見た。

 

そこには、誰もいなかった。

 

しかし、彼女の問いだけが、確かに残っていた。

 

――先生は、誰の理想だったのか。

 

相澤たちは、まだ答えを持っていない。

 

それでも、今度は、その答えを勝手に決めない。

 

彼女の言葉を聞く。

 

生徒たちの声を聞く。

 

そして、わからないことを、わからないまま認める。

 

その決断が、色欲編の最初の一歩となった。

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