一 彼女を覚えているということ
旧訓練棟・第二演習場。
「……以上が、現時点でわかっている状況だ」
根津校長は、卓上端末を操作しながら説明した。
「前回、ミッドナイトと思われる女性が出現した際、施設内の記録装置は彼女の姿だけでなく、雄英の過去の授業記録や生徒たちの映像にもアクセスしていた。ところが、記録の保存先が通常の校内ネットワークとは異なっている」
「つまり、あいつが勝手に過去の記録を読み込んだってことか?」
プレゼント・マイクが腕を組んだ。
「それとも、最初から誰かが仕込んでいたのかもしれないわけだな」
「そうだ。まだ判断できない」
根津は落ち着いた声で答えた。
「さらに、旧訓練棟には、現在の設備管理システムでは検出できない制御系統が残っている。今回の出現と関係している可能性が高いが、確証はない」
相澤消太は、壁に投影された旧訓練棟の見取り図を見つめていた。
「なら、設備を停止して、彼女が現れるのを待つ。それが一番安全じゃないのか」
「問題は、停止させようとすると校内の安全管理システムに異常が発生することだ」
根津が答えた。
「前回と同じように、設備が自律的に動き始めれば、外部から遮断しようとしても完全に止められない可能性がある。放置するわけにはいかない」
「……やるしかねえってことか」
マイクが、短く息を吐いた。
「まったく。死んだはずの仲間と再会するために、校内設備の総点検まで必要になるとはな」
その言葉に、相澤は目を伏せた。
再会。
その言葉は、あまりにも簡単だった。
彼らが本当に再会したいと願っているのは、誰なのか。
目の前に現れた女性なのか。
自分たちの記憶の中にいる女性なのか。
あるいは、失ったという事実を、少しでも覆したいという自分たちの願いなのか。
まだ、答えは出ていない。
そのとき、演習場の扉が開いた。
「お待たせしました!」
八百万百が入ってくる。
続いて、芦戸三奈、峰田実、拳藤一佳、取蔭切奈が姿を現した。
「校長先生からの要請で、旧訓練棟の設備調査を手伝いに来ました」
八百万が一礼する。
「今回のような事態では、個性を使った設備の破壊だけでは、かえって危険が増す可能性があります。装置の構造を確認しながら、必要な部分だけを停止させるべきだと考えています」
「そういうわけだから、私たちも参加するよ!」
芦戸が拳を握った。
「前回は、ミッドナイト先生とまともに話すところまでいかなかったし!」
峰田は、少し離れた場所から不安そうに声を上げる。
「いや、参加するのはいいけどよ……あの眠り香、正直かなり怖いんだけど。目の前で倒れたら、そのまま拘束されて終わりじゃねえか!」
「だからこそ、対策を準備する必要があります」
八百万が答えた。
「あなたの個性は、こういう狭い場所でこそ役に立つはずです。粘着球で可動部を固定できれば、装置の動きを止められます」
「お、おう……。まあ、俺だって、やるときはやるけどな!」
峰田は胸を張った。
ただし、その足は少し震えていた。
拳藤が、彼の肩を軽くたたく。
「怖いなら、怖いって言っていいのよ。対策を考えるのは、そのためなんだから」
「……拳藤さん、そういうところ、妙に頼もしいよな」
「妙には余計よ」
取蔭は、身体の一部を少しだけ分離させ、天井近くから演習場の構造を確認していた。
「うーん……設備自体は、かなり古い。でも、内部の制御系統だけは新しい部品が混ざっているみたい。後から改造されたのかな?」
根津がうなずく。
「その可能性がある。取蔭君、今回はその機動力を活かして、危険な区域の確認を頼みたい」
「了解!」
相澤は五人を見渡した。
「一つだけ言っておく。今回の目的は、ミッドナイトを倒すことではない」
芦戸の表情が引き締まった。
「でも、もし先生がまた襲ってきたら?」
「その場合は止める」
相澤は即答した。
「ただし、相手が誰であれ、状況を確認せずに攻撃することも、逆に相手が誰だからという理由で無抵抗になることも認めない」
マイクが、相澤の隣へ並ぶ。
「俺たちは、あいつに話を聞きたい。だが、それはあいつの攻撃を全部受け入れるって意味じゃねえ。生徒を危険にさらすなら止めるし、必要なら戦う」
「……先生たちは、本当に戦えるんですか?」
峰田が、思わず尋ねた。
「相手は、ミッドナイト先生ですよ」
その言葉には、恐怖だけではないものが含まれていた。
教師として尊敬していた人物。
自分たちの記憶に残っている人物。
その人と戦うことは、彼女が残したものを否定することにならないのか。
相澤は峰田の目を見た。
「戦うことと、否定することは同じじゃない」
「……」
「相手の行動を止める必要があるなら、止める。それでも、相手が何を考えているのかを聞くことはできる」
相澤は、低い声で続けた。
「お前たちも、自分の記憶を理由に、何も考えず従う必要はない」
マイクが小さくうなずく。
「憧れた相手だからって、その人が何をしても正しいわけじゃねえ。好きだったからって、どんなことでも受け入れなきゃいけないわけでもない」
彼は、少しだけ苦笑した。
「難しい話だがな」
「……わかった」
峰田は、ゆっくりとうなずいた。
「怖いけど、俺もやるよ。ミッドナイト先生が何を考えているのか、ちゃんと聞きたい」
芦戸が、彼の背中を軽く叩いた。
「よし、決まり!」
根津は、端末を閉じた。
「では、全員、装備を確認。これより旧訓練棟へ入る」
誰も反対しなかった。
彼らがこれから向かうのは、懐かしい記憶の中の場所ではない。
過去と現在が交差し、誰も答えを持たない問題が待つ場所だった。
二 舞台の上のミッドナイト
旧訓練棟へ到着した一行は、まず外部の安全確認を行った。
セメントスが建物の構造を調べ、根津が制御系統を監視する。
相澤とマイクは先頭に立ち、八百万たちは後方から設備を確認しながら進んだ。
訓練棟の内部は静かだった。
前回、ミッドナイトが姿を現したホールには、すでに彼女の姿はない。
ただし、中央には、以前と同じ円形の紋様が残っていた。
「……ここから先、装置の反応が強くなっています」
八百万が小声で告げた。
「床面の下に、何らかの動力源があるようです。配線の配置も、通常の訓練設備とは違います」
「切奈、上から見てくれる?」
拳藤が尋ねた。
「了解!」
取蔭は身体を分離させ、小さなパーツを天井近くへ送り込んだ。
視界が、いくつもの方向から共有される。
天井裏の配線。
壁面の隙間。
床下へ続く細い通路。
そして、ホールの奥にある制御盤。
「……あった。奥の制御盤に接続している線が、壁の内側を通ってる。普通に近づくと、床が動くかもしれないね」
「ならば、遠隔で操作できる手段を考えましょう」
八百万が答えた。
「峰田さん、粘着球を使って、動く部品を仮固定できますか?」
「できるけど、動く部品がどこかわからねえと――」
「私が位置を伝えます」
「おう。任せろ!」
峰田は、深呼吸した。
その瞬間。
パチン。
どこかで、小さな音がした。
照明が一斉に落ちる。
「全員、止まれ!」
相澤が声を上げた。
次の瞬間、ホールの左右から、巨大な幕が降りてきた。
白い幕。
そこには、雄英高校のロゴと、見覚えのある文字が浮かび上がっていた。
『理想の教師――ミッドナイト』
「……なに、これ」
芦戸が息をのんだ。
幕の向こうに、光が集まる。
中央の円形装置が回転し始め、複数の鏡が展開した。
そして、その鏡の一枚一枚に、ミッドナイトの姿が映し出された。
教壇に立つ姿。
生徒たちを指導する姿。
戦場で仲間を守る姿。
笑顔で生徒の成長を喜ぶ姿。
それらは、彼女の記録だった。
だが、映像の動きは、どれも整いすぎていた。
迷うことのない教師。
判断を誤らないヒーロー。
いつでも生徒を守るために、正しい選択をする人間。
「……なんだよ、これ」
峰田が、呆然とつぶやいた。
そのとき、ホールの中央に、白い光が降り注いだ。
その中から、ミッドナイトが姿を現す。
「ようこそ、皆さん」
彼女は、優雅に一礼した。
「また会えたわね」
マイクが、半歩前へ出た。
「……今度は、逃げるなよ」
「逃げているつもりはないわ」
ミッドナイトは微笑んだ。
「ただ、あなたたちが本当に何を覚えているのか、確かめたくなっただけ」
相澤が目を細める。
「この装置は何だ」
「舞台よ」
ミッドナイトは答えた。
「あなたたちが私をどう見てきたのか。それを映し出す舞台」
彼女が手を広げた。
鏡が一斉に回転する。
「さあ、教えてちょうだい。あなたたちにとって、ミッドナイトとは、どんな人だったの?」
その瞬間、床が大きく振動した。
白い霧が噴き出す。
「眠り香!」
相澤が叫んだ。
同時に、ミッドナイトの身体が動く。
その手に握られた鞭が、空気を切った。
ピシィッ!
鞭は相澤の捕縛布を狙い、布の動きを封じるように絡みついた。
「……っ!」
相澤は布を引き戻した。
だが、鞭は床面へ巻きつき、布ごと彼の動きを引っ張った。
「相澤!」
マイクが叫ぶ。
ミッドナイトは、彼らを見つめた。
「さあ、始めましょう」
彼女の声が、ホールに響く。
「あなたたちが、私を理想の教師にした理由を――その身体で、考えてみなさい」
三 八百万百――正しさを作る者
最初に動いたのは、八百万だった。
「全員、呼吸器を装着してください!」
彼女は両腕を構え、個性を発動する。
創造。
皮膚から、折り畳まれた防護マスクと交換用フィルターが次々に生み出された。
「眠り香に対する完全な防御にはなりませんが、吸入量を減らすことはできます! 急いで!」
芦戸と拳藤が、それを受け取る。
峰田も、自分のマスクを装着した。
「さ、さすが八百万! こういうとき、本当に頼りになるぜ!」
「お礼は後です!」
八百万は新たな装置を創造した。
小型の送風機。
流量を調整できる金属板。
そして、眠り香の濃度を確認するための簡易測定具。
彼女は、壁面に設けられた噴射口を観察した。
「香りは、床面に近い位置へ集中しています。気流を変えれば、こちらへの流入を減らせるはずです」
「じゃあ、私が床を動かす!」
芦戸が、酸を床面へ流した。
酸は床を無差別に溶かさず、可動式パネルを支える金具だけを狙う。
固定具が外れ、床面の一部が斜めに傾いた。
その変化を利用して、白い霧の流れが壁際へ移動していく。
「よし、これで少しは吸い込まずに済む!」
だが、ミッドナイトはすぐに対応した。
彼女が手を振ると、別の噴射口が開く。
霧が、八百万たちの背後へ回り込んだ。
「なっ……!」
八百万が振り返る。
その瞬間、床面がせり上がった。
彼女の足元に、透明な拘束具が展開する。
「八百万!」
拳藤が叫ぶ。
八百万は倒れながらも、指先で小さな金属片を創造した。
金属片が拘束具の隙間へ滑り込む。
彼女はそれを回転させ、留め具を解除した。
「大丈夫です!」
すぐに立ち上がる。
だが、彼女はミッドナイトを見つめたまま、動けなかった。
目の前の相手は、自分が覚えている教師と同じ顔をしている。
しかし、今、その教師は、生徒たちに向かって眠り香を放っている。
自分の知っている彼女なら、こんなことをするはずがない。
そう思いたかった。
けれど、彼女の言葉は、前回から一貫している。
自分を理想の教師として扱うな。
自分を知っていると思い込むな。
自分の記憶だけで、他人のすべてを決めるな。
八百万は、息を整えた。
「……ミッドナイト先生」
彼女は、声を張った。
「私は、先生からたくさんのことを学びました。知識を身につけること。判断を誤らないように、事前の準備を怠らないこと。そして、周囲の人をよく見て、自分にできることを考えること」
ミッドナイトは、微笑んだ。
「ええ。それは大切なことね」
「……でも」
八百万は、彼女を見据えた。
「だからといって、先生の判断が、常に正しいとは限らない」
その言葉に、ミッドナイトの笑顔が止まった。
「私は、先生が正しいと思うから従うのではありません。先生が教えてくれたことを、自分で考え、判断するために使いたいのです」
八百万は、創造した金属板を構えた。
「だから、今の先生の行動が危険だと判断したなら、私は止めます!」
彼女は金属板を床へ突き立てた。
板の先端から、複数の固定具が展開する。
床面の可動装置が、部分的に動きを止めた。
「……自分で考える、か」
ミッドナイトは、小さくつぶやいた。
その瞬間、鞭が八百万へ飛んだ。
八百万は金属板を掲げ、鞭を受け止める。
金属が軋む。
「くっ……!」
鞭が板へ巻きつき、彼女の手から奪い取ろうとする。
「八百万、離れて!」
芦戸が叫んだ。
しかし、八百万はすぐには手を離さなかった。
彼女はもう片方の手から、小型の切断器具を創造した。
鞭を切断するのではなく、鞭が板へ絡みついた位置に挟み込む。
そして、金属板を一気に回転させた。
鞭が外れる。
その瞬間、八百万は後退した。
「……先生が何を望んでいるのか、私はまだわかりません」
彼女は言った。
「でも、わからないからといって、自分の判断を捨てるつもりはありません!」
ミッドナイトは、静かに彼女を見つめていた。
「……そう」
彼女は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それでいいのよ、八百万さん」
その言葉を残し、彼女は再び、鞭を振るった。
四 峰田実――恐怖を隠さない者
峰田実は、壁際で膝を震わせていた。
白い霧。
動く床。
飛び交う鞭。
そして、自分たちを攻撃しているミッドナイト。
彼女は、かつて教師として、生徒たちを導いてきた人間だ。
それなのに、今、彼女は生徒たちを追い詰めている。
「……何なんだよ、これ」
峰田は、歯を食いしばった。
「俺たちは、先生に憧れてたんだぞ……!」
ミッドナイトが、彼を振り返った。
「憧れていた?」
「そうだよ!」
峰田は、思わず叫んだ。
「俺は、先生が好きだった! 授業も、戦い方も、あの大胆なところも! 生徒のことを見てくれてるところも!」
言い終えてから、峰田は、自分の声が思った以上に大きく響いたことに気づいた。
彼は、震える手を握りしめた。
「……俺は、強いヒーローじゃねえ。今だって、怖い。眠り香を吸って倒れたらどうしようって思うし、先生に近づいて攻撃されたら、どうなるんだって考える」
ミッドナイトは、彼を見つめていた。
峰田は、続けた。
「でも、だからって、何もしなくていいとは思わねえんだよ!」
彼は、自分の頭から粘着球を引き抜いた。
「……俺は、先生に憧れてた。だからこそ、先生が間違ってると思ったら、ちゃんと止めたい!」
粘着球が、床へ落ちた。
その瞬間、峰田は両手を振り上げた。
「行けえええええっ!」
粘着球が次々と飛び、床面の可動レールへ貼りついた。
二つ。
五つ。
十。
次々に増えた粘着球が、レールの動きを妨害する。
床がガクンと揺れた。
「よし! これで少しは動きが鈍る!」
「峰田さん、よくやりました!」
八百万が叫ぶ。
だが、ミッドナイトは止まらなかった。
彼女が床を蹴り、峰田へ接近する。
鞭が、弧を描いて飛んできた。
「うわああああっ!」
峰田は反射的に身をかがめた。
鞭が頭上を通過する。
続いて、ミッドナイトの足が彼の腕を払った。
峰田は床へ倒れる。
「峰田!」
芦戸が声を上げる。
峰田は、慌てて立ち上がろうとした。
だが、足元の床が傾き、身体が滑っていく。
「くそっ……!」
彼は、残った粘着球を床へ叩きつけた。
粘着球が床に張りつき、滑っていた身体が止まる。
峰田は、そのまま身体をひねった。
そして、ミッドナイトの鞭へ粘着球を投げつけた。
一つ。
二つ。
三つ。
粘着球が鞭の途中へ貼りつく。
動きが鈍った瞬間、峰田は声を張った。
「……俺は、先生のことを、何でも知ってたわけじゃねえ!」
彼は、彼女を見た。
「先生が、どんなことで悩んでたのか。何を怖がってたのか。誰にも言えなかったことがあったのか。俺は、知らねえ!」
一度、息を吸う。
「だけど、俺が先生に憧れてた気持ちは、本物だ!」
彼は、震える手を握りしめた。
「俺が憧れてたのは、先生が絶対に間違えないからじゃねえ! 強くて、怖いものなんて何もないからじゃねえ!」
峰田の声が、少しだけ震えた。
「俺は、先生が自分の個性を使って、俺たちに教えてくれたから……俺たちの前に立ってくれたから、憧れてたんだ!」
彼は、涙をこらえながら言った。
「だから、今の先生が何を考えているのか、知りたいんだよ! 俺たちが知らなかった先生がいるなら、それも聞きたい!」
彼の声が、ホールに響いた。
「でも……そのために、俺たちが何も考えずに攻撃を受け続ける必要はねえだろ!」
峰田は、最後の粘着球を投げた。
それは、ミッドナイトの足元にある装置へ貼りついた。
装置の可動部が停止する。
床の動きが、一瞬だけ止まった。
「……っ!」
ミッドナイトは、初めて、はっきりと目を見開いた。
峰田は、息を切らしながら彼女を見上げた。
「……俺、今でも先生に憧れてるよ」
彼は、正直に言った。
「でも、憧れてるからって、先生が何をしても正しいなんて思わねえ」
ミッドナイトは、何も言わなかった。
峰田は、震える膝を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……だから、話を聞かせてくれよ」
彼は、彼女を見た。
「俺たちが知らない、先生の話を」
五 芦戸三奈と拳藤一佳――守る者の選択
そのとき、訓練棟の壁が大きく動いた。
複数の隔壁が展開し、ホールの中央が二つに分かれる。
「……っ! また来る!」
芦戸が叫んだ。
床面から、長い金属柱が伸びる。
その柱は、壁の上部にある可動レールへ接続されていた。
レールが回転し、数枚の大型パネルが一斉に落下してくる。
拳藤は、両手を巨大化させた。
「危ない!」
彼女は落下するパネルを両腕で受け止めた。
衝撃が、肩から全身へ伝わる。
「ぐっ……!」
巨大な手が、パネルを押し返す。
しかし、パネルは一枚ではなかった。
二枚目。
三枚目。
次々と落下する。
「拳藤さん!」
取蔭が叫ぶ。
拳藤は歯を食いしばった。
「大丈夫! でも、このままじゃ支えきれない!」
芦戸が、床面へ酸を流す。
「じゃあ、支柱を溶かす!」
酸が金属の接続部を狙う。
火花が散り、固定具が緩んだ。
だが、ミッドナイトが指を動かすと、別の支柱が作動した。
落下するパネルの角度が変わり、今度は拳藤の背後にいる八百万たちへ向かっていく。
「しまった!」
拳藤は振り返ろうとした。
だが、その動作をすると、支えていたパネルが落ちる。
一瞬。
判断が必要だった。
自分が受け止めているパネルを維持するか。
仲間を守るために、そちらへ動くか。
拳藤は、歯を食いしばった。
「……取蔭! 八百万たちを頼む!」
「了解!」
取蔭の身体が分離し、複数のパーツが飛び出した。
一つは八百万の腕を引き、もう一つは芦戸の肩を押して退避させる。
さらに、頭部が落下パネルの隙間へ入り込み、壁面の制御部を見つけた。
「右上の支柱! そいつを止めれば、落下角度が変わる!」
「わかった!」
八百万が即座に反応した。
彼女は金属製の固定具を創造し、拳藤へ投げ渡す。
拳藤は受け取った固定具を、巨大化した手で支柱へ押し込んだ。
ガキン!
支柱が固定され、パネルの落下が止まる。
拳藤は、ゆっくりと息を吐いた。
「……助かった」
「何言ってるの!」
芦戸が駆け寄った。
「こっちこそ、拳藤が支えてくれたから助かったんだよ!」
拳藤は、少しだけ笑った。
「それぞれが、自分にできることをしただけよ」
その言葉に、八百万がうなずいた。
「……そうですね」
彼女は、ミッドナイトを見つめた。
「誰かを守るために、一人がすべてを背負う必要はありません」
拳藤が、彼女へ向き直る。
「先生が私たちに教えてくれたことも、そうだったんじゃないですか?」
ミッドナイトは、動かなかった。
拳藤は、続けた。
「私たちは、先生に憧れていました。でも、先生がすべての責任を一人で背負う姿だけを、理想にしていたわけじゃありません」
「……そう?」
「ええ」
拳藤は、巨大化した手をゆっくりと下ろした。
「先生が強かったことは知っています。でも、私たちは、先生が一人で何でもできる存在だったから、憧れていたわけじゃない」
彼女は、自分の手を見つめた。
「仲間と一緒に戦う姿。自分にできることを考えて、周囲の人を支える姿。私たちは、そういうところも見ていたはずです」
芦戸が、横から口を挟んだ。
「そうそう! 先生が何でも一人でやっちゃう人だったら、私たちだって、何を学べばいいかわかんなかったと思う!」
「芦戸さん、それは少し失礼では……」
八百万が言いかける。
「いや、でも、本当でしょ?」
芦戸は笑った。
「私たちは、先生を見て、自分もできるようになりたいって思ったんだよ。先生と同じになるんじゃなくて、自分なりに強くなりたいって」
その言葉を聞いて、ミッドナイトは、少しだけ目を細めた。
「……自分なりに、ね」
彼女の手が動く。
鞭が、再び空気を切った。
「なら、見せてちょうだい。あなたたちが、自分で選んだ強さを!」
六 取蔭切奈――見えない部分を見る
ミッドナイトの鞭が、床面を打った。
その衝撃で、白い霧が大きく広がる。
八百万が創造した送風機が、唸りを上げた。
霧の流れが変わり、ホールの上部へ押し上げられていく。
「今なら、かなり薄くなってる!」
八百万が叫んだ。
取蔭は、身体を分離させた。
小さなパーツが、あちこちへ飛び散る。
彼女の目と耳が複数の位置へ分かれ、ホール全体を確認していく。
「……あれ?」
取蔭が、ふと動きを止めた。
「どうした、切奈?」
拳藤が尋ねる。
「ミッドナイト先生の動きが、少し変なんだ」
「変?」
「うん。鞭を振るう前に、床の装置が先に動いている。先生の動きを読んで装置が動いているんじゃなくて……装置が動くから、先生がその動きに合わせているみたい」
相澤の目が、鋭くなった。
「……つまり、彼女が装置を完全に支配しているわけではない可能性がある」
根津が通信機越しに答えた。
『その可能性は考えられる。床面の制御ログには、彼女の動作と一致しない命令が混ざっている』
「……誰かが装置を動かしている?」
マイクが声を上げた。
『あるいは、装置が独自に動いているのかもしれない』
根津の声は慎重だった。
『現時点では、誰かが背後にいると断定することはできない』
相澤は、ミッドナイトを見つめた。
彼女自身が戦いを仕掛けていることは確かだ。
だが、戦場のすべてを彼女が決めているとは限らない。
その可能性を考慮する必要があった。
「切奈、装置の動作と先生の動きを、できるだけ分けて観察してくれ」
「了解!」
取蔭の分離した手が、天井の制御レールへ入り込む。
別の手が、床面のセンサーに触れる。
頭部は、ミッドナイトの足元を監視する。
そして、彼女は気づいた。
「……やっぱり!」
取蔭が叫ぶ。
「先生が移動する直前に、床面の白い線が光ってる! その光が出ると、近くの隔壁が動き始めるんだ!」
「それは重要な情報です!」
八百万が言った。
「つまり、床面の制御系統を停止できれば、先生の動きを誘導している仕組みを弱められる可能性があります!」
「でも、床の線は全部つながってる!」
取蔭が続けた。
「どこか一か所を止めても、別の場所から動力が流れ込んでくるみたい!」
「なら、複数の場所を同時に止める!」
拳藤が答えた。
「八百万、固定具を準備して! 芦戸、金属の接続部を溶かすときは、周囲の配線を傷つけないように!」
「了解!」
「わかった!」
取蔭は、分離した身体をさらに細かく動かした。
手が一つ目の制御盤へ。
足が二つ目の接続部へ。
頭部が三つ目のセンサーへ。
彼女は、一つ一つの場所に、自分の身体の一部を送り込んでいく。
「……先生の動きは、私たちが知っているミッドナイト先生に似ている。でも、装置の動きは、先生本人の意志とは限らない」
取蔭は、戦場を見ながら言った。
「だったら、先生の行動だけを見て、全部を判断するのは危ないと思う」
その言葉に、相澤がうなずいた。
「……よく見ている」
取蔭は、少しだけ笑った。
「見えないところを見るのが、私の得意分野だからね!」
次の瞬間、彼女の分離した手が、三つの制御部へ同時に触れた。
八百万が作った固定具が、接続部へ差し込まれる。
芦戸の酸が、金属製の補助支柱を溶かす。
拳藤の巨大な手が、床面の可動パネルを押さえる。
そして、取蔭が三つの端子を同時に引き抜いた。
火花が散る。
床面の白い線が、一つずつ消えていく。
ミッドナイトの足元で、装置の動きが止まった。
彼女は、初めて明確に驚いた。
「……あなたたち」
取蔭は、身体を元に戻しながら言った。
「先生のことが大切だからこそ、先生だけを見ていればいいわけじゃないんです」
ミッドナイトの表情が、静かに変わった。
「……どういう意味?」
「先生が何を考えているのか、知りたいです。でも、先生が何をしたのかを、全部先生の気持ちだけで説明できるとは限らない」
取蔭は、まっすぐに彼女を見た。
「先生が誰かを傷つけたなら、その行動を止めます。でも、それだけで、先生の気持ちまで全部わかったつもりにはなりません」
彼女は、一つずつ言葉を選んだ。
「逆に、先生が優しい人だったからといって、どんな行動も正しいとは思いません」
取蔭は、肩をすくめた。
「……要するに、私たちは、先生のことを知りたい。でも、知ったつもりにはなりたくないんです」
ミッドナイトは、しばらく彼女を見つめていた。
そして、静かに笑った。
「……いい答えね」
その瞬間。
残った制御装置が、最後の力を振り絞るように明滅した。
床面が、再び動き始める。
「しまった! まだ残ってる!」
取蔭が叫んだ。
七 根津校長とセメントス――戦場を作り替える
「全員、足元に注意!」
根津校長の声が通信機から響く。
床面が、左右へ大きく傾き始めた。
天井から落下するパネル。
壁から伸びる拘束アーム。
床面に広がる眠り香。
それらが一斉に動き、演習場全体が、巨大な機械仕掛けの罠へと変わっていく。
「……これ以上、設備の動きを放置することはできない」
根津が言った。
『セメントス、構造を変える。こちらの指示に合わせて、中央ホールの支持部を補強してくれ』
『了解!』
セメントスは、建物の外部から個性を発動した。
コンクリートがうねる。
壁面がせり上がる。
床下から柱が伸び、危険な可動パネルを押し返した。
セメントスは、建物の構造そのものを少しずつ作り替えていた。
通路を塞ぐ隔壁の下へ、コンクリートの楔を差し込む。
落下する装置の下へ、支持柱を立てる。
そして、眠り香の流れを誘導するため、排気経路の周囲に細い溝を作っていく。
「……根津校長、排気経路の変更は可能ですか?」
『可能だ。今、外部の空気流量を調整している』
「では、こちらからも風の通り道を確保します!」
セメントスの手が動く。
コンクリートの壁が変形し、空気が抜ける通路を形成する。
眠り香の白い霧が、その通路へ流れ込み、建物の外へ排出され始めた。
「……よし!」
相澤が声を上げた。
「これで、全員が動きやすくなる!」
しかし、根津は画面を見つめたまま、眉をひそめていた。
「……妙だな」
「どうしました、校長?」
八百万が尋ねる。
「訓練棟の設備は、我々が構造を変えるたびに、別の経路を使って対応している。まるで、こちらの対策を学習しているかのようだ」
「ミッドナイト先生が、装置を操作しているのでは?」
「可能性はある。だが、彼女が視線を向けていない場所でも、装置が先回りして動いている」
根津は、端末の画面を切り替えた。
「この装置には、戦闘の動きから次の行動を予測する機能があるのかもしれない」
相澤は、短く息を吐いた。
「……傲慢の装置と似ているな」
その言葉に、マイクが顔を上げた。
「おい。まさか、あのときと同じ仕組みなのか?」
「断定はできない」
相澤は、すぐに答えた。
「だが、行動を予測し、選択肢を誘導するという点では、似ている」
根津がうなずいた。
「ならば、こちらの行動を単純化してはならない。装置に同じような動きを繰り返し見せれば、先回りされる危険がある」
マイクは、笑った。
「だったら、こっちも同じことをしなきゃいいわけだ!」
「……それは、具体的には?」
八百万が尋ねる。
「俺に聞くな!」
マイクは即答した。
「そこは、みんなで考えるんだろ!」
「……プレゼント・マイク先生」
八百万は、少しだけ呆れた顔をした。
しかし、すぐに笑った。
「ええ。そうですね。こちらの行動を一つに固定しないことが重要です」
彼女は、戦場を見渡した。
「私が装置の固定具を作ります。芦戸さんが接続部を溶かし、取蔭さんが離れた場所から制御部を操作する。拳藤さんは落下物を支え、峰田さんは可動レールの動きを止める」
「了解!」
「はいよ!」
「わかった!」
それぞれが答える。
「教師陣は、設備そのものの破壊を防ぎながら、ミッドナイト先生の動きを止める。根津校長が制御経路を特定し、セメントス先生が構造を補強する。相澤先生が個性を抑え、プレゼント・マイク先生が装置を破壊する」
八百万は、一度呼吸を整えた。
「それぞれの役割を固定しすぎず、状況に応じて交代できるようにしましょう」
相澤は、短くうなずいた。
「いい判断だ」
「……ありがとうございます」
八百万は、ミッドナイトへ向き直った。
「先生。私たちは、先生のすべてを理解しているとは言えません。けれど、先生が何をしても止めない、というわけでもありません」
彼女は、まっすぐに言った。
「私は、自分で考えて行動します。それが、先生から学んだことですから」
ミッドナイトは、静かに目を細めた。
「……そう。なら、見せてちょうだい」
彼女の手が、再び上がった。
「あなたたちが、自分の憧れを、自分の判断へ変えられるのかどうかを」
八 理想を壊す一撃
「全員、作戦開始!」
相澤の声が響いた。
最初に動いたのは、峰田だった。
彼は、頭から粘着球を引き抜き、床面の可動レールへ投げつける。
一つ。
二つ。
五つ。
十を超える粘着球がレールに貼りつき、床の移動を妨害する。
「さあ、これ以上は動かさせねえぞ!」
床が、ガタンと揺れた。
「八百万、今だ!」
「はい!」
八百万は、創造した固定具を床面へ差し込んだ。
金属の支えが、可動レールを左右から挟み込む。
動きが止まる。
その瞬間、芦戸が酸を流し込んだ。
酸は、レールを支える金具だけを狙い、腐食させていく。
「これで、動力を伝える部分が弱くなる!」
拳藤が巨大な手を広げ、せり上がってきた支柱を押さえた。
「そのまま続けて!」
取蔭の分離した手が、制御盤の内部へ滑り込む。
「制御信号が来てる! こいつを切れば、奥の装置も止まるはず!」
彼女が端子を引き抜く。
火花が散った。
床面の白い線が消える。
セメントスのコンクリートが、崩れかけていた構造物を支えた。
根津が、制御盤へ向かって指示を出す。
『外部動力の供給を停止! 今だ、マイク!』
「任せろ!」
プレゼント・マイクが息を吸った。
「ヴォオオオオオオオオオオオッ!!」
圧倒的な声の衝撃が、中央装置へ向かって放たれた。
外装がひび割れる。
金属板が剥がれ、内部の機構が露出する。
しかし、装置は最後の抵抗を見せた。
天井から、大型の拘束リングが落下する。
狙いは、装置の破壊を妨げるためではない。
相澤だった。
「相澤!」
マイクが叫ぶ。
相澤は、その場から飛び退いた。
拘束リングが床へ衝突し、巨大な穴を作る。
だが、ミッドナイトは、その隙に動いていた。
彼女は、装置の奥へと走る。
「……まずい!」
相澤が駆け出した。
個性――抹消。
赤い瞳が、ミッドナイトを捉える。
彼女の眠り香が、一時的に抑えられた。
相澤は捕縛布を伸ばす。
布が、彼女の腕へ巻きついた。
「止まれ!」
ミッドナイトは振り返った。
「……相澤」
その声には、以前のような挑発的な響きがなかった。
「お前が何をしたいのかは、まだわからない」
相澤は、捕縛布を握りしめた。
「だが、生徒たちを危険にさらす行動は止める」
「……それでも、私の話を聞くの?」
「聞く」
相澤は即答した。
「止めることと、聞くことは両立できる」
彼は、彼女を見た。
「お前が話すことを、俺がすべて正しいと思うとは限らない。お前が俺たちのことをどう思っているのか、俺たちが何を間違えたのか、納得できないこともあるだろう」
相澤は、捕縛布を引いた。
「それでも、話は聞く。だから今は、これ以上、装置を動かすな」
ミッドナイトは、黙っていた。
そのとき、背後の装置が大きな光を放った。
制御盤が再起動する。
拘束リングが再び動き始めた。
「……っ!」
相澤が身構える。
ミッドナイトは、彼の手を見た。
そして、静かに言った。
「……あなたは、変わったのね」
「そうかもしれない」
相澤は答えた。
「俺たちは、何度も間違えた。黒霧のときも、荼毘と焦凍が向き合ったときも、相手をどうするべきか、答えを出そうとした」
彼は、彼女を見据えた。
「だが、相手を知っているという理由だけで、相手の選択まで決められるわけじゃない。誰かを救いたいからといって、その人が望む答えをこちらが勝手に決めることもできない」
ミッドナイトの目が、わずかに揺れた。
「だから、今回は違う」
相澤は続けた。
「お前を、俺たちが知っているミッドナイトに戻そうとはしない。お前が何者なのか、今の段階で断定もしない。ただし、今ここで何をするのかについては、俺たちが判断する」
彼は、捕縛布を引き締めた。
「……それが、俺たちの選択だ」
ミッドナイトは、静かに目を閉じた。
そして――。
彼女は、自ら、捕縛布をつかんだ。
「……なら、最後まで見届けなさい」
次の瞬間、彼女は捕縛布を引き、相澤の体勢を崩した。
相澤の身体が前へ傾く。
彼は反射的に布を放し、床へ手をついた。
ミッドナイトは、そのまま装置へ走ろうとした。
しかし、その進路を塞いだのは、プレゼント・マイクだった。
「……悪いな、ミッドナイト」
彼は、彼女を見つめていた。
「俺は、お前に戻ってきてほしいと思った。昔みたいに、何事もなかったように、隣で笑っていてほしいと思った」
彼は、拳を握りしめた。
「でも、それは俺の願いだ。お前がどうしたいのかとは、違うかもしれねえ」
ミッドナイトは、立ち止まった。
「……マイク」
「俺は、今のお前を、俺の記憶に合わせて変えようとはしない。お前が何を言うのか、何を望んでいるのか、それを聞く」
彼は、一歩だけ前へ出た。
「だが、お前が生徒たちを傷つけるなら、止める。お前が俺たちに何を求めているとしても、そこは譲らねえ」
マイクの声が、力強く響いた。
「……それでも、話をするつもりはある。お前が話したいと思うなら、聞く」
ミッドナイトは、目を見開いた。
その瞬間、装置が大きな音を立てた。
中央の鏡が、次々と割れ始める。
白い光が、ホール全体を包み込んだ。
相澤が叫ぶ。
「全員、退避!」
セメントスが床面を隆起させ、防護壁を作る。
根津が制御装置の外部電源を遮断する。
八百万が追加の遮蔽板を創造し、拳藤と芦戸が仲間たちを守る。
取蔭の身体が分離し、負傷者がいないか確認する。
峰田は最後の粘着球を装置へ投げつけ、動きを止めた。
そして、マイクの声が、最後の衝撃を叩きつけた。
「ヴォオオオオオオオオオオオッ!!」
中央装置が、完全に沈黙した。
鏡がすべて砕け散る。
白い光が消える。
そして、ホールの中に、静けさが戻った。
九 憧れは、境界線を越える
戦闘が終わった。
床面の可動装置は停止し、眠り香の噴射も止まった。
セメントスが崩れた壁を補修し、根津が外部の安全確認を進める。
八百万たちは、負傷者がいないことを確認していた。
峰田は、その場に座り込んだ。
「……はあああ……。もう、二度とやりたくねえ……」
「でも、最後まで頑張ったね!」
芦戸が笑った。
「……お前、今の戦いのどこが楽しいんだよ!」
「楽しいとは言ってないよ!」
拳藤が、二人の間に入る。
「言い合いは後。まずは、全員の状態を確認して」
取蔭は、分離していた身体を元に戻した。
「大きな異常はないみたい。装置も停止してる」
八百万は、息を整えながら、ミッドナイトを見つめた。
彼女は、ホールの中央に立っていた。
鞭を手放し、両手を下ろしている。
周囲には、もう鏡も、映像もない。
ただ、彼女自身がそこにいた。
相澤は、ゆっくりと歩み寄った。
「……これ以上、戦うつもりはあるか?」
ミッドナイトは、彼を見た。
「今は、ないわ」
「なら、こちらも攻撃はしない」
相澤は答えた。
「ただし、事情を確認するため、安全な場所で話をする必要がある。協力してもらう」
ミッドナイトは、少しだけ笑った。
「……命令?」
「安全確保のための判断だ」
「ふふっ。相変わらずね」
彼女は、ゆっくりと両手を上げた。
「わかったわ。今は、あなたたちの指示に従いましょう」
その言葉に、マイクは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
だが、彼はまだ、彼女へ近づこうとはしなかった。
彼女が本物なのか。
何によってここに現れたのか。
その正体は、まだわからない。
そして、彼女自身が、どのような思いを抱いているのかも、すべては聞けていない。
それでも。
彼女の記憶を守りたいという願いのために、彼女の行動をすべて受け入れるつもりはない。
彼女を理想の教師として尊敬しているからといって、その理想に従わせるつもりもない。
「……ミッドナイト先生」
八百万が、彼女の前に立った。
「私は、先生に憧れていました」
ミッドナイトは、静かに彼女を見つめた。
「知識を身につけること。自分にできることを考えること。自分の判断で行動すること。その大切さを、先生から学びました」
八百万は、一度だけ息を吸った。
「でも、先生が何を考えていたのか、私はすべて知っているわけではありません。先生がどんなことに迷い、何を恐れていたのか、知らないこともたくさんあります」
彼女は、目をそらさずに続けた。
「だから、これからは、先生の姿を自分の理想に合わせるのではなく、先生が何を伝えたいのかを聞きたいです」
ミッドナイトは、少しだけ目を細めた。
峰田も、ゆっくりと立ち上がった。
「……俺も、先生に憧れてる」
彼は、頭をかいた。
「でも、先生が何でもできるからとか、絶対に間違えないからとか、そういう理由じゃねえんだ」
峰田は、正直に言った。
「俺は、先生が教えてくれたことを、自分の中でちゃんと考えたい。先生が何を望んでいたのか、知りたい。だから、先生が何を考えているのか、聞かせてほしい」
芦戸が、拳を握りしめた。
「私も! 先生が残してくれたものを大切にしたい。でも、そのために先生を一つの姿に閉じ込めるのは、違うと思う」
拳藤が、うなずいた。
「誰かに憧れることは、その人と同じ人間になることじゃない。自分で考えて、自分の道を選べるようになることだと思う」
取蔭も、少しだけ笑った。
「だから、先生が私たちの知らない人だったとしても、驚かないようにしたい。だって、私たちが知らなかった部分があっても、それで先生が先生じゃなくなるわけじゃないから」
ミッドナイトは、誰も遮らずに聞いていた。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
「……あなたたちは、ずいぶん立派になったのね」
その言葉に、相澤が口を開いた。
「……いや」
彼は、ミッドナイトを見据えた。
「立派になったかどうかを、お前が決める必要はない」
ミッドナイトが、目を見開いた。
相澤は続けた。
「生徒たちが何を学んだのか。これからどんな人間になるのか。それは、生徒たち自身が考えていくことだ」
彼は、生徒たちを見渡した。
「俺たち教師が、すべてを決めるわけじゃない」
そして、もう一度、ミッドナイトへ向き直った。
「お前が教えてきたことが、彼らの中でどう生きるのか。それも、彼らが選ぶことだ」
マイクが、隣でうなずいた。
「……そうだな。俺たちが勝手に、お前の理想を決めるわけにはいかねえ」
彼は、彼女の目を見た。
「お前が何を望んでいたのか。何を大切にしていたのか。俺たちが知らなかったことがあるなら、今から聞く」
マイクは、少しだけ口元を緩めた。
「お前が話したいと思うならな」
ミッドナイトは、しばらく沈黙していた。
そして、静かに答えた。
「……ええ」
彼女は、ゆっくりとうなずいた。
「話すわ」
その声は、今までよりもずっと落ち着いていた。
「でも、今日のところは、ここまでにしましょう」
相澤は、うなずいた。
「わかった」
ミッドナイトは、彼らを見渡した。
「次に会ったときは、あなたたちが知らなかった私のことを、少しだけ話してあげる」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「教師としての私だけじゃない。あなたたちが、理想の教師と呼ぶ前の私のことも」
その言葉を最後に、彼女は静かに目を閉じた。
姿は、消えなかった。
ただ、彼女は、その場に立ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
彼女が本当に何者なのか。
なぜ、ここに現れたのか。
その答えは、まだわからない。
だが、少なくとも今、彼らは、彼女を自分たちの記憶だけで決めつけることをやめた。
憧れは、人を前へ進ませる。
しかし、憧れが相手の声を覆い隠すとき、それは境界線を越えてしまう。
誰かを大切に思うことと、その人のすべてを知っていると思うことは違う。
誰かの記憶を守ることと、その人を理想の姿に閉じ込めることも違う。
そして、教師が生徒を導くことと、生徒の未来を代わりに決めることも違う。
相澤とプレゼント・マイクは、今回、別の選択をした。
黒霧と向き合ったとき、相澤たちは、失われた仲間を取り戻したいという思いに揺さぶられた。
轟焦凍と荼毘が向き合ったとき、家族としての絆と、犯した罪に対する責任が、激しくぶつかり合った。
だが、今度は、相手を自分たちの知っている姿へ戻そうとはしなかった。
本物か偽物かを急いで決めることも。
かつての仲間だからと、すべてを許すことも。
理想の教師だからと、どんな行動も受け入れることも。
彼らは、そのどれも選ばなかった。代わりに、目の前にいる相手が何を望み、何を語ろうとしているのかを聞くことにした。
そして、必要なときには、教師として、ヒーローとして、相手の危険な行動を止める。
その決断は、冷たさではない。
相手を一人の人間として扱うための、もう一つの誠実さだった。
次回予告
第五十一話「彼女は、教師だけではなかった」
戦いを終えたミッドナイトは、ようやく自分の言葉で語り始める。
教師としての自分。
ヒーローとしての自分。
そして、そのどちらでもない、一人の人間としての自分。
彼女が生徒たちを大切に思っていたことは、本当だった。
生徒たちを守りたいと願っていたことも。
彼らが自分の力で未来を選べるようになってほしいと考えていたことも。
しかし、教師だからといって、いつでも正しく、強く、犠牲的であり続けなければならないわけではない。
彼女にも迷いがあった。
恐れがあった。
誰かに認められたいという気持ちがあった。
そして、教師としての顔の陰に、他人には見せなかった思いがあった。
相澤は、彼女を美化しない。
プレゼント・マイクも、彼女を自分の記憶の中だけに閉じ込めない。
生徒たちもまた、自分たちが憧れてきた教師像と、目の前の一人の人間を、もう一度見つめ直すことになる。
彼女が残したものを大切にすることと、彼女のすべてを知っていると思い込むことは違う。
彼女を愛していたからこそ、彼女の弱さや迷いにも、耳を傾けなければならない。
次回、第五十一話「彼女は、教師だけではなかった」
理想の教師という肩書きの向こう側に、彼女自身の声がある。
その声を、今度こそ聞くために。