一 先生と呼ばれなかった時間
「……では、話してもらいましょうか」
旧訓練棟に隣接する管理室。
相澤消太は、テーブルを挟んで座るミッドナイトを見つめていた。
彼女の両手は自由になっている。ただし、部屋の出入口には相澤とプレゼント・マイクが立ち、セメントスが壁と床の構造を確認していた。根津校長は別室から設備を監視している。
生徒たちは隣の観察室で待機していた。
ミッドナイトは、拘束も監視も拒まなかった。
しかし、完全に気を許したわけでもない。
彼女は椅子の背にもたれ、相澤を見た。
「ずいぶん改まった態度ね。授業の面談でもするつもり?」
「必要なら記録を取る。お前が何を話すかは自由だが、今回の現象に関する調査は続ける」
「ふふっ。そういうところは変わらないのね」
「変わったところを探しているんじゃない。何が起きたのかを知りたいだけだ」
「なら、私も聞いていいかしら?」
ミッドナイトが身を乗り出した。
「あなたたちは、私のことをどこまで知っていたと思っているの?」
相澤は即答しなかった。
プレゼント・マイクが口を開く。
「……長い付き合いだった。仕事もしたし、一緒に戦った。くだらない話も、真面目な話も、山ほどした」
「ええ」
「だから、お前のことはよく知ってると思ってた。少なくとも、俺が知ってるお前のことはな」
マイクは、一度言葉を切った。
「でも、知らないことだってあったはずだ。俺に話さなかったことも、お前の中にしまっていたことも」
「そうね」
ミッドナイトは、窓の外へ目を向けた。
「私は教師だった。雄英の教師として、生徒たちに教えることがあった。ヒーローとして、現場で果たさなければならない責任もあった。それは間違いないわ」
彼女は、テーブルの上に置かれた自分の手を見た。
「でも、学校を離れたら、私は教師じゃなかった」
マイクが、かすかに顔を上げる。
「……そりゃ、そうだろ」
「あなたたちは、そう言えるでしょうね」
ミッドナイトは微笑んだ。
「でも、教師という役割を長く続けていると、いつの間にか、自分自身までその役割で考えるようになるのよ。生徒にどう見られるか。仲間にどう思われるか。自分は教師として、正しい振る舞いをしているか」
彼女は、肩をすくめた。
「人前では明るく振る舞う。生徒には必要なことを伝える。危険なときは迷わず行動する。そういう自分を求められていると感じることがある」
「……誰が求めていたんだ?」
相澤が尋ねた。
ミッドナイトは、少しだけ黙った。
「生徒たちかもしれない。仲間かもしれない。教師という立場そのものかもしれない」
彼女は、相澤を見つめた。
「でも、いちばん強く求めていたのは、私自身だったのかもしれないわね」
相澤の眉が、わずかに動いた。
「私は、頼りになる教師でいたかった。生徒たちに、あの先生なら大丈夫だと思ってほしかった。自分の判断が誰かの役に立つことを、確かめたかった」
彼女は、少しだけ笑った。
「誰かに認めてもらいたい気持ちなんて、教師だからといってなくなるわけじゃないもの」
「……」
「誰かを守りたいと思うことと、守れる自分でいたいと思うこと。その二つが、いつもきれいに分かれているとは限らないのよ」
相澤は、黙って聞いていた。
ミッドナイトは、椅子から立ち上がった。
「あなたたちは、私が生徒を守っていた姿を覚えている。私も、実際に生徒たちを守りたかった。でも、その中に、頼りにされたい気持ちがなかったと言えるかしら?」
彼女は、誰にともなく尋ねた。
「誰かに必要とされることが嬉しかった。自分がここにいてよかったと思いたかった。生徒が成長したら、自分のことのように嬉しかった」
彼女は相澤を見た。
「そうした気持ちは、全部、教師としての使命感にまとめられるものなの?」
相澤は、ゆっくりと首を横に振った。
「……いや」
「そうでしょうね」
彼女は、静かに笑った。
「私は、生徒たちを大切にしていた。それは本当。でも、教師という役割だけで、私自身の気持ちを説明することはできない」
彼女の視線が、隣の観察室へ向いた。
「あなたたちが私を語るとき、私が生徒たちに何をしたのかは語られる。でも、私自身が何を欲しがっていたのかは、あまり語られない」
マイクが、低い声で言った。
「……それを、聞いてほしかったのか」
「聞いてほしいというより、なかったことにされたくなかったのかもしれないわね」
ミッドナイトは、ゆっくりと目を閉じた。
「私は、教師だった。ヒーローだった。仲間だった。でも、それ以外の私が消えてしまうのは、嫌だった」
その言葉が、管理室に落ちた。
相澤は、彼女を見つめていた。
彼女の言葉が、すべて真実だと断定できるわけではない。
この存在が、本当に彼らの知っているミッドナイトなのか、まだわからないからだ。
だが、だからといって、彼女の言葉を聞かずに、正体だけを暴こうとすることもできない。
「……わかった」
相澤は言った。
「お前が教師以外の自分について話したいなら、聞く」
ミッドナイトの目が、わずかに動いた。
「ただし、今ここで話したことを、俺が全部理解したとは言わない。俺が知らなかったお前のことを、これからも知ることができるかどうかは、わからない」
相澤は続けた。
「それでも、聞いたことを、勝手に理想の物語へまとめるつもりはない」
「……」
「お前が話したことを、俺の都合で意味づけない。そのことを、まず約束する」
ミッドナイトは、しばらく彼を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「……あなた、本当に変わったのね」
「そうか?」
「以前なら、もっと短く答えたでしょうね」
「今でも十分短いと思うが」
「ふふっ。そうね」
彼女は笑った。
今度の笑顔は、誰かを挑発するためのものではなかった。
そのときだった。
隣の観察室から、警報が響いた。
『警告。旧訓練棟、第二制御区画に異常な個性反応を検出』
根津校長の声が、通信機から飛び込んでくる。
『相澤君、山田君、すぐに確認してくれ! 今の反応は、ミッドナイト君の個性とは別のものだ!』
相澤の目が鋭くなる。
ミッドナイトも、顔を上げた。
「……あら」
彼女は、静かにつぶやいた。
「ようやく、私以外の誰かが動き出したのかしら」
二 舞台の裏側
「全員、警戒態勢!」
相澤の声が、旧訓練棟に響いた。
管理室の扉が開かれると同時に、廊下の照明が赤く変わった。
観察室から、八百万百、峰田実、芦戸三奈、拳藤一佳、取蔭切奈が出てくる。
「今の警報、ミッドナイト先生の個性ではないんですか?」
八百万が尋ねる。
「根津校長の分析では、別の反応だ」
相澤は、短く答えた。
「ただし、装置の誤認識という可能性もある。誰かが仕掛けたものなのか、旧訓練設備に残っていたものなのか、まだわからない」
「じゃあ、また設備が勝手に動いてるってこと?」
芦戸が床を見る。
その瞬間、廊下の奥から、低い駆動音が響いた。
壁面の一部が開く。
そこから、複数の黒い球体が転がり出てきた。
球体は床面を走り、左右の壁へ分かれていく。
その表面には、細い光の筋が走っていた。
「……何、あれ」
峰田が目を丸くする。
球体の一つが、突然、空中へ浮かび上がった。
次の瞬間、球体が開く。
内部から、細い金属の脚が何本も飛び出した。
小型の機械が、蜘蛛のような形へ変わる。
そして、その中心から、白い霧が噴き出した。
「眠り香!?」
芦戸が叫ぶ。
「違う!」
八百万が即座に答えた。
「成分が一致しません! ただし、吸入による影響がある可能性があります! 全員、防護マスクを装着してください!」
彼女は、すぐに交換用フィルターを創造した。
マスクの装着を確認する間にも、機械は次々と展開していく。
一体が壁へ張りつく。
もう一体が天井へ移動する。
三体目は床面を走り、廊下の出口を塞いだ。
「……どうやら、対話の時間は終わりみたいね」
ミッドナイトが、ゆっくりと拳を握った。
相澤は、彼女を見た。
「お前も、ここから動くな」
「私を疑うのは自由よ。でも、今の機械を動かしているのが私だと決めつけるのは、まだ早いんじゃない?」
「……その通りだ」
相澤は、視線を機械へ戻した。
「だから、まずは機械を止める。お前の話は、その後だ」
彼の目が赤く光る。
個性――抹消。
視線が、最も近くにいる機械を捉えた。
だが、機械の動きは止まらなかった。
「……個性ではない、か」
相澤は舌打ちした。
「ロボット系の制御装置だ。生体の個性反応とは別物らしい」
「じゃあ、物理的に止めるしかないってことね!」
拳藤が巨大化した両手を構えた。
「よし、私が行く!」
「待ってください、拳藤さん!」
八百万が叫んだ。
「機械が何を目的としているのか、まだわかりません! 無闇に破壊すると、別の装置が作動する可能性があります!」
「……なら、どうする?」
拳藤が尋ねた。
八百万は、機械の動きを観察した。
球体は、無差別に攻撃しているわけではない。
動く者を追跡し、一定の距離に近づくと霧を噴射する。
その一方で、ミッドナイトの周囲には、ほとんど近づこうとしていなかった。
「……先生を避けている?」
八百万がつぶやいた。
ミッドナイトは、その言葉を聞いて、顔を上げた。
「……そうね」
彼女は、ゆっくりと手を伸ばした。
「この装置は、私を攻撃対象として認識していないのかもしれない」
「何かわかるんですか?」
取蔭が尋ねる。
「いいえ。私も、今初めて見たわ」
ミッドナイトは、機械の一体を見つめた。
「でも、この動き……私が以前、使っていた訓練設備の制御方式に、少し似ているわね」
根津の声が通信機から響いた。
『その情報は重要だ。ミッドナイト君、可能な範囲で、見覚えのある部分を教えてくれ』
「……ええ」
ミッドナイトは、機械を見たまま答えた。
「ただし、私が知っている設備と同じだとは限らないわ。似ているというだけで、断定はしないで」
相澤が、短くうなずいた。
「それでいい。見えたことだけを話してくれ」
ミッドナイトは、少しだけ目を細めた。
「……そう。今は、私の話を聞くのね」
「必要な情報だからな」
相澤は答えた。
「お前の言葉を、聞く必要があると判断した。それだけだ」
ミッドナイトは、かすかに笑った。
「……十分よ」
その瞬間、機械が一斉に動き出した。
小型の脚が床を蹴り、球体が高速で転がる。
天井に張りついていた機械が、真下へ落下した。
「来るぞ!」
マイクが叫んだ。
三 個性を組み合わせろ
「まずは、通路を確保する!」
拳藤が巨大化した両手を広げた。
落下してくる機械を、右手で受け止める。
左手で壁を押さえ、機械の動きを封じた。
「八百万、制御部がどこにあるか見える!?」
「中央の球体部分です! 脚の付け根にも、補助制御部があるようです!」
「了解!」
拳藤は、機械を握りつぶすのではなく、床へ押しつける。
機械の脚が激しく動き、拳藤の手から逃れようとした。
その瞬間、峰田が粘着球を投げた。
一つ。
二つ。
三つ。
粘着球が機械の脚へ貼りつく。
「動くなよ、機械野郎!」
脚が床へ固定された。
「よし! これで逃げられねえ!」
だが、別の機械が峰田へ向かって飛び込んできた。
「うわっ、こっち来んな!」
峰田は反射的に後退した。
機械は壁へ跳ね返り、角度を変えて再び迫ってくる。
「峰田さん、左です!」
八百万が叫ぶ。
峰田は身をかがめた。
機械が頭上を通過する。
すかさず、取蔭の分離した手が飛び出した。
手が空中で機械の後部をつかみ、壁面へ叩きつける。
「捕まえた!」
「助かった、取蔭!」
「まだ終わってないよ!」
取蔭は、自分の手を動かし、機械の外装を開こうとした。
だが、機械は内部から細い金属板を展開し、手を振りほどく。
「うわっ! この子、結構しぶとい!」
その瞬間、芦戸が床を滑るように接近した。
「じゃあ、私が足を止める!」
彼女は酸を噴射した。
酸は機械の脚そのものではなく、脚と胴体をつなぐ接続部へ集中する。
金属が変色し、動きが鈍る。
「今!」
拳藤が巨大化した手で機械を押さえ込み、取蔭の手が内部の端子を引き抜いた。
機械が、停止した。
「よし、一体目!」
芦戸が声を上げる。
しかし、残りの機械は、すでに次の行動へ移っていた。
天井の機械が、細いワイヤーを射出する。
ワイヤーが壁面へ張りつき、複数の機械が空中へ移動し始めた。
さらに、床面の機械が白い霧を噴射し、通路を塞ぐ。
「……空間全体を使ってくるのか!」
マイクが叫ぶ。
「根津校長、外部の制御系統はどうなっている!」
『制御信号は旧訓練設備を経由している。しかし、複数の経路に分散しているため、一か所を遮断しても別の経路から動力が供給される!』
「つまり、全部を止めるには、複数の場所を同時に止める必要があるってことですね!」
八百万が答えた。
『その可能性が高い』
「わかりました!」
八百万は、両手を構えた。
創造。
小型の遮蔽板が、彼女の腕から次々と生み出される。
それを床へ差し込み、霧の流れを分断する。
さらに、細い送風装置を複数作り、霧を通路の外へ押し出した。
「セメントス先生! こちらへ空気が抜ける通路を作れますか!?」
『了解した!』
床面が隆起し、壁の一部が変形する。
コンクリートが新しい排気経路を作り、白い霧が外へ流れ始めた。
「よし、これで霧が濃くなるのは防げる!」
相澤は、機械の動きを見ながら指示を出した。
「拳藤は通路を守れ! 取蔭は機械の位置と制御経路を確認! 芦戸は接続部を狙え! 峰田、粘着球で移動経路を封じろ!」
「了解!」
「わかった!」
「任せて!」
生徒たちが、一斉に動き出す。
その後方で、ミッドナイトは動かなかった。
彼女は、自分にできることを考えていた。
自分の個性は、敵を眠らせることができる。
しかし、今の機械に対して、それが有効なのかはわからない。
それに、ここで個性を使えば、味方まで巻き込む危険がある。
以前なら、迷わず行動していたかもしれない。
自分が役に立てるなら、何かをしなければならない。
教師として、仲間として、何もしないわけにはいかない。
しかし、今は違った。
「……相澤」
ミッドナイトが声をかけた。
「私の個性を、装置の近くで使ってもいいかしら?」
相澤は、一瞬だけ彼女を見た。
「効果がわからない以上、無条件では認められない。だが、使うことで状況が改善する可能性があるなら、条件を決めて試す価値はある」
「……条件?」
「生徒たちがいない区域で、短時間だけ使う。俺が個性を抹消できる位置から監視する。異常があれば、すぐに停止する」
ミッドナイトは、少しだけ笑った。
「ずいぶん慎重なのね」
「必要だからだ」
「わかったわ」
彼女は、相澤の指示に従った。
それは、彼女が教師だからでも、ヒーローだからでもない。
その場にいる一人の人間として、自分ができることと、できないことを考えた結果だった。
「……試してみましょう」
ミッドナイトが、機械の群れを見た。
彼女が手を動かす。
香りが、ごく短い時間だけ、機械の周囲へ広がった。
当然ながら、機械そのものが眠ることはない。
しかし、機械の一部には、周辺環境を検知するための生体反応センサーが組み込まれていた。
そのセンサーが、ミッドナイトの個性に反応して誤作動を起こした。
機械の照準が揺れる。
動きが一瞬止まる。
「……効いた!」
取蔭が叫んだ。
「ただし、機械が眠ったわけじゃない。生体反応を誤認しているみたい!」
「なら、今です!」
八百万が、金属板を創造して投げ渡した。
拳藤がそれを受け取り、機械の移動経路へ差し込む。
芦戸が接続部を溶かす。
峰田の粘着球が脚を固定する。
取蔭の手が、内部の端子を引き抜く。
機械が、停止した。
「……これなら、残りも止められるかもしれません!」
八百万が声を上げる。
ミッドナイトは、静かに息を吐いた。
「……そうね」
彼女は、自分の手を見た。
「私の個性が役に立ったのは、確か。でも、私一人では止められなかった」
相澤は、彼女を見つめた。
「それが、連携というものだ」
「……教師としての説明?」
「事実を言っただけだ」
ミッドナイトは、少しだけ笑った。
「そう。なら、覚えておくわ」
四 守ることと、必要とされること
最後の機械が停止したのは、それから数分後だった。
訓練棟の制御装置は、セメントスの補強と根津の遠隔操作によって、完全に活動を停止した。
残ったのは、床に散らばった機械の残骸と、破損した壁面だけだった。
八百万たちは、全員の安全を確認した。
峰田は、ようやく呼吸器を外した。
「……はあああ……。マジで、もう今日は何もしたくねえ……」
「そう言いながら、最後まで動いてくれたじゃない」
拳藤が笑う。
「動かなきゃ、もっと危なかっただろうが……!」
峰田は、床へ座り込んだ。
芦戸は、機械の残骸を見下ろした。
「でも、変だよね」
「何がですか?」
八百万が尋ねる。
「この機械たち、私たちを止めようとしていたのに、ミッドナイト先生を直接狙ってなかった。先生の動きに合わせていたのかもしれないけど、先生の命令で動いているとは限らないんでしょ?」
「……そうですね」
八百万は、残骸を確認した。
「制御信号の一部は、ミッドナイト先生が使っていた個性の反応と一致していました。しかし、それだけでは、彼女が装置を操作していたとは断定できません」
取蔭が、分離していた手を戻した。
「むしろ、装置が先生の個性を利用していた可能性もあると思う。先生がそこにいるから反応するだけで、先生自身が命令を出したわけじゃないのかもしれない」
相澤は、うなずいた。
「……根津校長、解析を続けてくれ。誰がこの設備を動かしたのか、何を目的にしていたのかを調べる」
『了解した』
通信が切れる。
相澤は、ミッドナイトへ向き直った。
「お前が先ほど話していたことについて、もう少し聞いてもいいか」
「……ええ」
ミッドナイトは、椅子へ腰を下ろした。
「さっきの話の続きね」
相澤は、短くうなずいた。
ミッドナイトは、少しだけ考えた。
「私は、生徒たちを守りたかった。教師だったから、それは当然の責任でもあったわ」
彼女は、視線を落とす。
「でも、守りたいと思うことと、自分が守れる人間でありたいと思うことは、同じではなかったのよ」
「……」
「私は、生徒たちを大切にしていた。彼らが傷つくことを望まなかった。それは、本当。でも、私が生徒たちを守ることで、自分が教師として正しい人間だと確かめたかった部分もあったかもしれない」
彼女は、小さく笑った。
「誰かに必要とされると、自分の存在に意味があると思えることがあるでしょう?」
相澤は、答えなかった。
「私が教えたことが、誰かの役に立つ。私が戦ったことで、誰かが助かる。そういう結果があれば、教師としての自分を肯定できた」
ミッドナイトは、顔を上げた。
「だからこそ、私は、何もできない自分を認めるのが怖かったのかもしれない」
その言葉に、マイクが顔を上げた。
「……お前でも、そういうことを考えるのか」
「当たり前でしょう?」
ミッドナイトは、彼を見た。
「教師だからといって、何もかもわかっているわけじゃない。ヒーローだからといって、何も恐れないわけでもない」
彼女は、静かに続けた。
「私は、生徒を守るために戦った。でも、そのとき、自分が守れる人間であることを証明したいという気持ちが、まったくなかったと言い切れるかしら?」
相澤は、目を伏せた。
彼もまた、同じ問題を考えたことがある。
生徒を守る。
教師としての責任を果たす。
危険が迫ったとき、自分の個性を使って生徒を救う。
それは、間違いなく必要なことだ。
しかし、その行動の中に、自分が守れる教師でありたいという願いが含まれていたら。
守れなかったとき、自分の価値まで失われたように感じてしまうなら。
その願いは、いつか、生徒たちに何かを求める形へ変わってしまうかもしれない。
先生の言うことを聞いてほしい。
先生を信頼してほしい。
先生が守っているのだから、先生の判断に従ってほしい。
そんな思いが、知らず知らずのうちに、相手の意思を押しのけてしまうこともある。
相澤は、顔を上げた。
「……俺も、考えたことがある」
ミッドナイトが、彼を見た。
「生徒を守ることは、教師として当然の責任だ。だが、自分が守れる教師でありたいと思う気持ちが、その判断に混ざることはある」
相澤は、静かに言った。
「生徒のためと言いながら、本当は、自分が失敗したくないだけなのかもしれない。自分が守れなかったという事実を、受け入れられないだけなのかもしれない」
マイクが、息を吐いた。
「……俺たちは、誰かを守る側にいるつもりで、自分が守られる側になることを、あまり考えねえんだよな」
彼は、ミッドナイトを見た。
「お前がいなくなったとき、俺は、お前が残してくれたものを守らなきゃいけないと思った。お前が教えてきたことを、なくしちゃいけないと思った」
彼は、少しだけ笑った。
「でも、その中には、お前が残したものを守ることで、自分が何とか立っていられるようにしたいって気持ちもあったんだろうな」
ミッドナイトは、何も言わなかった。
マイクは続けた。
「お前が残したものを守る。そう言えば、俺は、お前がいなくなったことに意味を見つけられる気がした。お前の死を、ただ失っただけのことにしたくなかった」
彼は、一度目を閉じた。
「……でも、俺がそうしたかったからって、お前の人生を、俺が意味づけていいわけじゃねえんだよな」
相澤は、静かにうなずいた。
「……そうだな」
ミッドナイトは、二人を交互に見た。
そして、ゆっくりと答えた。
「私も、自分の人生が誰かの役に立ったと思いたかったのよ」
声は穏やかだった。
「それ自体が悪いとは思わない。人に認められたいと思うことも、誰かの力になりたいと思うことも、自然な感情でしょう」
彼女は、顔を上げた。
「でも、それを理由に、自分がいつでも正しくなければならないと思い込むと、他人にも同じことを求めてしまう」
相澤の眉が、わずかに動いた。
「……他人にも?」
「ええ。私は、生徒たちに自分の力で立ち上がってほしかった。自分で考えてほしかった。けれど、それと同時に、教師として、彼らが間違った選択をしないように導かなければならないとも考えていた」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「その二つが、いつも一致するわけではないのにね」
誰も、すぐには返答できなかった。
ミッドナイトは、椅子の背に身を預けた。
「……だから、私は教師だけではなかったのよ」
彼女は、静かに言った。
「生徒たちを愛していた。彼らを守りたかった。でも、その中には、誰かに必要とされたい気持ちも、自分の判断が正しかったと思いたい気持ちもあった」
彼女は、目を閉じた。
「それも含めて、私だった」
五 教師の背中を追う者
翌日。
雄英高校の一室に、八百万、峰田、芦戸、拳藤、取蔭が集まっていた。
前日の戦闘は、すでに安全管理チームへ引き継がれている。
旧訓練棟の設備は停止したままだが、ミッドナイトの出現に関する原因は特定されていない。
それでも、彼女は今、雄英の管理下で話を続けている。
その事実だけでも、状況は少しずつ変わり始めていた。
「……ねえ」
芦戸が、椅子の背にもたれた。
「みんなは、ミッドナイト先生のこと、どう思ってた?」
峰田が顔を上げる。
「どうって……好きだったよ。憧れてたし、かっこいいと思ってた」
「うん。それは私も同じ」
芦戸は、うなずいた。
「でも、昨日の話を聞いて、ちょっと考えちゃったんだよね。先生が強かったから、先生のことを好きだったのかな。それとも、先生が私たちにいろんなことを教えてくれたからかなって」
八百万は、少し考えてから答えた。
「私は、先生が自分の判断で行動していたことに、憧れていたのだと思います」
彼女は、手元のノートを見つめた。
「教師として正しいことを教えてくださるだけではなく、実際に行動して、その結果に向き合っていた。そうした姿を見て、自分も知識を身につけ、自分の判断で行動できる人になりたいと思いました」
「でも、先生が間違えたことがあったら?」
拳藤が尋ねる。
「……その場合は、先生が間違えたという事実も、受け止める必要があると思います」
八百万は、ゆっくりと答えた。
「間違いがあったからといって、これまで学んだことがすべて無意味になるわけではありません。ただ、先生が間違えない存在だったと考えるのは、違うと思います」
取蔭が、うなずいた。
「私は、先生のことを全部知っているとは思ってなかったな。授業で見ていた先生と、それ以外の場所で過ごしている先生は、同じ人でも違う面があっただろうし」
彼女は、指先を動かした。
「でも、憧れている相手の知らない部分って、どうしても想像で埋めちゃうんだよね。あの先生ならこう考えるはず、とか。こういうときは、こうするはず、とか」
「……そうだな」
拳藤は、腕を組んだ。
「相手が自分の期待どおりに動いてくれると、安心する。自分が憧れていたものが、間違っていなかったと思えるから」
彼女は、窓の外を見た。
「だけど、それって、相手のためというより、自分のためなのかもしれない」
峰田が、ゆっくりとうなずいた。
「……俺、先生が俺たちを守ってくれる人だって思ってた。だから、先生が俺たちの前に立ってくれることを、当たり前みたいに考えてた部分があったのかもしれない」
彼は、頭をかいた。
「先生が怖がってるかもしれないなんて、あんまり考えなかった。だって、俺たちが怖がってるとき、先生は前に立ってくれる人だったからさ」
芦戸が、静かに答えた。
「でも、前に立ってくれる人だって、怖いことはあるよね」
「……うん」
峰田は、うなずいた。
「先生が強いからって、ずっと強くいなきゃいけないわけじゃないんだよな」
八百万は、目を伏せた。
「……私は、先生のように強くなりたいと思っていました。でも、先生が強さを求められて苦しんでいたのだとしたら、同じことを先生に求めるべきではないのかもしれません」
「憧れって、難しいね」
芦戸がつぶやいた。
「好きだからこそ、相手に期待しちゃう。好きだからこそ、自分の知ってる相手でいてほしいって思っちゃう」
拳藤は、ゆっくりとうなずいた。
「でも、憧れた相手だって、自分とは違う一人の人間だものね」
取蔭は、窓の外へ目を向けた。
「……先生が何を望んでいたのか、これから聞けるなら、聞いてみたいな」
「うん」
八百万が答える。
「ただし、先生がすべてを話したいと思っているとは限りません。私たちが聞きたいからといって、話すことを強制してはいけないと思います」
その言葉に、全員がうなずいた。
彼女たちは、ミッドナイトに憧れていた。
その気持ちは、今も変わらない。
しかし、その憧れは、彼女にすべてを語らせる権利ではない。
彼女の人生を、自分たちのために説明させる権利でもない。
ただ、彼女が話したいと思うなら、耳を傾ける。
彼女が話したくないなら、その境界線を尊重する。
彼女のすべてを理解したと主張するのではなく、わからない部分があることを認めながら、それでも彼女を大切に思う。
それが、彼女たちにできる、次の一歩だった。
六 相澤消太の問い
同じ頃、管理室では、相澤と根津が向き合っていた。
「……前回と今回の設備の挙動を比較した結果、旧訓練棟の制御装置は、ミッドナイト君の個性反応を利用していた可能性が高い」
根津が説明する。
「ただし、彼女自身が装置を操作した痕跡は、確認できていない」
「つまり、彼女の個性を利用して、設備が動いていた可能性がある?」
「そうだ。もっとも、現段階では断定できない。装置の制御経路は複雑で、外部からの干渉があったのか、それとも設備自体が自律的に動作していたのかも不明だ」
相澤は、資料を見つめた。
「……彼女が、装置に利用されていた可能性もあるのか」
「否定はできない」
根津は、静かに答えた。
「だからこそ、彼女自身の話を聞きながら、調査を進める必要がある」
相澤は、しばらく黙っていた。
黒霧と向き合ったとき。
彼は、かつての仲間を取り戻したいという願いを抱きながらも、目の前にいる存在を、過去の白雲朧と同じだと決めつけることはできなかった。
轟焦凍と荼毘が向き合ったとき。
家族としてのつながりがあったからこそ、焦凍は兄を止めなければならなかった。兄が何を望んでいようと、他者を傷つける行為を放置するわけにはいかなかった。
どちらも、簡単な答えではなかった。
そして、今回も同じだ。
彼女がミッドナイトであるかどうか、今は断定できない。
だが、もし本当に彼女なら、話を聞きたい。
彼女が何を考えていたのか、何を望んでいたのか、知りたい。
しかし、その願いを理由に、彼女の言葉や行動をすべて受け入れることはできない。
「……相澤君」
根津が尋ねた。
「君は、彼女をどうするつもりだ?」
相澤は、即答しなかった。
「……今は、決めない」
根津は、静かに彼を見つめた。
「決めない、か」
「彼女が何者なのか、どうして現れたのか。わからないことが多すぎる。だが、わからないからといって、最初から危険な存在だと決めつけるつもりもない」
相澤は、机の上に手を置いた。
「一方で、本人が何を望んでいるとしても、他者を傷つける行為を認めるつもりもない」
「……なるほど」
根津は、うなずいた。
「黒霧のときとは違う決断をするのだな」
相澤は、短く答えた。
「……あのときは、過去の仲間を取り戻したいという思いがあった。だが、今は、その思いだけで判断しない」
彼は、目を閉じた。
「俺たちが知っているミッドナイトを、取り戻したいと思っているのかもしれない。だが、それは俺たちの願いだ。彼女自身がどうしたいのかとは、違う」
根津は、静かに耳を傾けていた。
「だから、彼女に、俺たちの記憶の中へ戻ることを求めない。俺たちが知っている姿であることを、証明させるつもりもない」
相澤は、顔を上げた。
「ただし、これから何をするのかは、別の問題だ。彼女の話を聞くことと、彼女の行動をすべて認めることは違う」
「その判断を、君自身が引き受けるということか」
「そうだ」
相澤は、うなずいた。
「教師として、ヒーローとして。目の前の相手が誰であっても、必要なときには止める。だが、止めたからといって、その人の言葉を聞くことまでやめない」
彼は、窓の外へ目を向けた。
「……俺たちは、以前よりも、少しはましな判断ができるようになっているといいんだがな」
根津は、微笑んだ。
「そのためには、考え続けることだ。答えを出した後も、それが本当に相手のためになっているのか、問い直す必要がある」
「……そうだな」
相澤は、静かにうなずいた。
そのとき、管理室の扉が開いた。
プレゼント・マイクが、顔をのぞかせる。
「おい、相澤。ミッドナイトが話をしたいそうだ」
相澤は立ち上がった。
「……わかった」
彼は、根津へ一礼した。
「調査は続けてくれ。俺は、もう一度、彼女の話を聞く」
「了解した」
根津は答えた。
「ただし、くれぐれも慎重に。君たちが感情的になれば、また違う問題が生じる可能性がある」
「わかっている」
相澤は、短く返した。
そして、マイクとともに、管理室を出た。
七 彼女は、何を望んでいたのか
ミッドナイトは、訓練棟の外へ続く廊下に立っていた。
窓から、夕日が差し込んでいる。
彼女は、その光を見つめていた。
相澤とマイクが近づくと、ゆっくりと振り返った。
「……来たのね」
「ああ」
相澤が答える。
「話したいことがあると聞いた」
「ええ」
ミッドナイトは、窓の外へ目を向けた。
「……私は、生徒たちを大切にしていた。それは、本当よ」
「……」
「教師として、彼らに教えられることがあると思っていた。自分の経験を伝え、彼らが自分で選べるように支えたいと思っていた」
彼女は、少しだけ笑った。
「でも、私は、いつも教師として正しいことができたわけじゃない」
その言葉を聞いて、マイクは何も言わなかった。
「生徒たちが危険な目に遭うと、焦った。自分が守らなければならないと思った。彼らが自分の判断で行動しようとすると、その判断が正しいのか、不安になったこともある」
ミッドナイトは、ゆっくりと続けた。
「私は、彼らが自分で選べるようになってほしかった。でも、彼らが選んだ道が危険だと感じたとき、止めなければならないとも思った」
彼女は、自分の手を見た。
「その二つの間で、迷うことがあったのよ」
相澤は、静かにうなずいた。
「……当然だろう」
「ええ。でも、教師という役割を意識しすぎると、自分が迷っていることを認めにくくなる」
彼女は、顔を上げた。
「生徒たちに、先生も迷っているのよ、と言うことが、いつも正しいとは限らない。相手が不安になっているときには、必要な情報を与え、安心できるようにすることも必要だから」
「……」
「でも、私は、自分が不安であることを、いつも隠せるわけじゃなかった」
彼女は、小さく笑った。
「それでも、教師としての自分が、いつも正しい判断をしなければならないと思っていた。だから、間違いを認めることが怖かった。迷っている自分を見せることが怖かった」
マイクが、ゆっくりと口を開いた。
「……お前は、そんなことを考えてたのか」
「ええ」
ミッドナイトは、彼を見た。
「あなたたちに話さなかっただけで、考えていなかったわけじゃないわ」
マイクは、目を伏せた。
彼女は、話を続けた。
「私は、教師として生徒たちを守りたかった。でも、それと同時に、誰かに認められたかった。自分が役に立つ人間だと思いたかった。必要とされることで、自分の存在を確かめたかった」
彼女は、静かに息を吐いた。
「そうした気持ちは、教師としての責任と、いつもきれいに分けられるものではなかった」
相澤は、少しだけ眉をひそめた。
「……それを、後悔しているのか?」
ミッドナイトは、首を横に振った。
「いいえ。誰かに認められたいと思うこと自体は、悪いことではないと思う。人の役に立ちたいと思うことも、大切な気持ちよ」
彼女は、相澤を見つめた。
「でも、それが強くなりすぎると、自分が必要とされることを優先してしまうことがある」
「……」
「誰かを守ることが、自分が守れる人間であることを証明する手段になってしまう。誰かを助けることが、自分の価値を確かめるための行為になってしまう」
彼女は、静かに言った。
「そうなったとき、本当に相手のために行動しているのか、自分自身のために行動しているのか、わからなくなることがあるのよ」
その言葉は、相澤の胸に深く刺さった。
生徒を守る。
その言葉は、教師にとって、決して間違いではない。
しかし、守るという行為の中に、自分の価値を確かめたいという願いが混ざることはある。
自分がいなければ、生徒は危険にさらされる。
自分が守らなければ、誰も守れない。
そう考え始めたとき、教師は、生徒のために行動しているつもりで、生徒が自分を必要とする状況を求めてしまうかもしれない。
相澤は、ゆっくりと息を吐いた。
「……それは、俺にもあるかもしれない」
ミッドナイトは、彼を見た。
「君にも?」
「生徒が危険な目に遭うのを見たくない。それは本当だ。でも、自分がその危険を止められる教師でありたいという気持ちが、判断に混ざることもある」
相澤は、視線を落とした。
「自分がいれば防げた。自分がもっと早く動いていれば助けられた。そう考えることで、何かを失ったとき、自分の責任として説明できる気がする」
彼は、静かに続けた。
「だが、それは必ずしも、相手のための考え方ではないのかもしれない」
マイクが、低い声で言った。
「……自分が何とかできたはずだって考えれば、未来が全部、理解できるような気がするんだよな」
彼は、少しだけ笑った。
「俺たちが何もできなかった理由を、外側の事情や、相手の選択や、どうにもならない状況に求めるより、自分が悪かったと思った方が、何かを理解できるような気がする」
ミッドナイトは、二人を見つめた。
「……そうね。自分が悪かったと思えば、次はもっと頑張ればいいと思えるものね」
「だが、誰かを守れなかったことが、いつも自分の努力不足だったとは限らない」
相澤は答えた。
「それを認めるのは、難しい」
「ええ」
ミッドナイトは、うなずいた。
「だからこそ、私は、自分が教師であることに頼っていたのかもしれない」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「教師だから、生徒を守る。ヒーローだから、危険に立ち向かう。仲間だから、最後まで支える。そういう役割があれば、自分が何をしたいのか、どんな気持ちなのかを、考えなくても済むことがあるから」
その言葉に、マイクは目を閉じた。
彼女が語っているのは、彼自身にも当てはまることだった。
友人を失った悲しみ。
教師としての責任。
生徒たちを支えなければならないという思い。
そのどれもが本物だった。
しかし、その役割にしがみつくことで、自分自身の悲しみや、どうしようもない気持ちから目をそらしていた部分もあったのかもしれない。
「……お前は、教師じゃない時間が欲しかったのか?」
マイクが尋ねた。
ミッドナイトは、少しだけ笑った。
「もちろん」
その答えは、驚くほど自然だった。
「教師じゃない時間が欲しいと思うこともあったわ。仕事のことを考えずに、ゆっくり過ごしたい日もあった。誰かに頼られるのではなく、自分が誰かを頼りたいと思った日もあった」
彼女は、窓の外を見つめた。
「そういうときでも、私は教師だった。けれど、教師であることが、私のすべてではなかった」
相澤は、静かに答えた。
「……その通りだ」
彼は、彼女を見た。
「教師であることは、お前の一部だ。だが、それだけで、お前の人生のすべてを説明することはできない」
ミッドナイトは、目を閉じた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……ようやく、そう言ってもらえた気がするわ」
八 記憶の中の人間
夕暮れが、廊下を赤く染めていた。
ミッドナイトは、ゆっくりと立ち上がった。
「……今日は、ここまでにしましょう」
相澤は、うなずいた。
「わかった」
「まだ、話していないことはたくさんある。でも、すべてを一度に話す必要はないでしょう?」
「……そうだな」
マイクも、静かに答えた。
「聞きたいことは、まだある。でも、お前が話したくないことまで、無理に聞き出すつもりはねえ」
ミッドナイトは、二人を見つめた。
「……ありがとう」
その言葉は、小さかった。
相澤も、マイクも、すぐには返答できなかった。
彼女から礼を言われることを、想像していなかったからだ。
彼らは、まだ彼女のすべてを理解していない。
なぜ、ここに現れたのか。
何が、彼女をこの場所へ連れてきたのか。
彼女の記憶と個性を利用しているものは何なのか。
どれも、わからないままだ。
それでも、彼女の言葉を聞くことはできた。
教師としての彼女。
ヒーローとしての彼女。
そして、そのどちらでもない、一人の人間としての彼女。
そのすべてが、必ずしも一つの役割に収まるわけではない。
「……相澤」
ミッドナイトが、ふと声をかけた。
「何だ」
「あなたたちは、私がいなくなった後、私のことをどう語ってきたの?」
相澤は、少しだけ考えた。
「……生徒たちに、教えてきたことを伝えた。お前が残したものを忘れないように、言葉にしてきた」
「それだけ?」
「……それだけではないかもしれない」
相澤は、正直に答えた。
「俺たちは、お前を失ったことを受け入れられなかった。だから、お前が残してくれたものを守ることで、自分たちが前へ進もうとした」
彼は、静かに続けた。
「お前がいなくなったことに意味を見いだそうとした。そうすることで、自分たちが何かを失ったという事実に、向き合おうとした」
ミッドナイトは、黙って聞いていた。
「……だが、そこに、お前が何を望んでいたのかという視点が、どこまであったのかはわからない」
相澤は、顔を上げた。
「俺たちが覚えている姿と、お前が自分自身をどう思っていたのか。その二つは、同じとは限らない」
ミッドナイトは、少しだけ笑った。
「……そうね」
彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
「私も、自分がどんな人間だったのか、いつでもわかっていたわけではないもの」
その言葉に、相澤は目を見開いた。
ミッドナイトは、続けた。
「人は、自分のことを全部理解しているわけじゃない。自分が何を望んでいるのか、何を恐れているのか、後になってから気づくことだってある」
彼女は、自分の手を見つめた。
「だから、あなたたちが私のことを覚えている姿と、私自身が思っている姿が、完全に一致することはないのかもしれないわね」
マイクが、小さく笑った。
「……そうだな」
彼は、彼女を見た。
「だから、これからも聞く。俺が覚えているお前の話もする。お前が知らなかった俺のことも、話すかもしれない」
ミッドナイトは、彼を見つめた。
「……ええ」
「ただし、俺の話を聞いたからって、俺のことを全部わかったと思わないでくれよ?」
マイクが、冗談めかして言う。
ミッドナイトは、思わず笑った。
「あら。あなたのことなんて、最初から全部わかっているつもりだけれど?」
「おいおい!」
マイクが大げさに肩をすくめる。
「そこは、今までの話を何だと思って聞いてたんだよ!」
「冗談よ」
「冗談に聞こえねえんだよなあ!」
そのやり取りを見て、相澤は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
以前と同じ会話ではない。
しかし、以前とまったく違う会話でもない。
彼らは、かつての仲間を取り戻したいと思っている。
だが、取り戻すという言葉の意味は、今までとは違っていた。
昔の姿に戻すことではない。
自分たちの記憶どおりに振る舞わせることでもない。
今、目の前にいる相手が何を考えているのかを聞き、その言葉を受け止めること。
そして、必要なときには、自分たちの考えも伝えること。
同じ人間であっても、同じ考えを持っているとは限らない。
大切な仲間であっても、すべてを許せるとは限らない。
それでも、話を続けることはできる。
相澤は、ミッドナイトを見た。
「……また話を聞かせてくれ」
ミッドナイトは、うなずいた。
「ええ。次は、もっと個人的な話をしましょう」
彼女は、少しだけ笑った。
「あなたたちが知っている教師としての私ではなく、私自身が何を望んでいたのか。その話をね」
そして、窓の外へ目を向けた。
「……ただし、全部を話すとは約束しないわよ」
相澤は、短く答えた。
「それでいい」
マイクも、うなずいた。
「話したいことだけでいい。俺たちが聞きたいことを、全部話す必要はねえ」
ミッドナイトは、二人を見つめた。
その表情には、まだ迷いが残っていた。
それでも、以前より少しだけ、肩の力が抜けているように見えた。
彼女は、ゆっくりと廊下を歩き出した。
相澤とマイクは、その背中を追わなかった。
彼女がどこへ向かうのか。
何を考えているのか。
それを、今すぐ知る必要はなかった。
彼女自身が、自分の行き先を選ぶ時間を残すこと。
それもまた、彼らができることの一つだった。