僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第五十五話「あなたのために、あなたを縛らない」

一 最後の授業

崩れた訓練場に、音が戻ってきた。

 

天井から落ちる小さな破片。

 

床を転がる金属片。

 

誰かの荒い呼吸。

 

つい先ほどまで、五人の元生徒たちの記憶を材料にした五体のミッドナイトと、彼女たちの記憶を統合した「理想の教師」が立っていた場所には、もう何もない。

 

ただし、何もないというのは、目に見える範囲の話だった。

 

八百万百は、手元の防護盾を下ろさなかった。

 

「……終わった、のでしょうか」

 

「普通なら、そう言いたいところだね」

 

根津校長は、床に散らばった装置の破片を見渡した。

 

「電源系統は切断済み。主制御盤は破壊され、記憶投影装置も停止。だけど、君たちが壊したものは、装置の本体というよりも、そこから伸びていた部分だった可能性がある」

 

「可能性、ってことは……」

 

峰田実が顔をしかめる。

 

「まだ何かあるってことかよ?」

 

「あるかもしれない。ないかもしれない。残念ながら、現時点では断定できない」

 

「最悪の回答ありがとうございます!」

 

「事実を正確に伝えたまでさ」

 

「今は正確さより安心感がほしいんですけど!?」

 

峰田が抗議する横で、芦戸三奈は警戒を解かなかった。

 

床に片膝をつき、壊れた装置の隙間を覗き込む。

 

「……待って」

 

彼女が指さした先。

 

細い赤い糸が一本、金属片の裏側で動いていた。

 

それは生き物のように床を這い、倒れた柱を避け、壁のひび割れへ入り込む。

 

一度、二度。

 

糸が震えた。

 

次の瞬間、訓練場の壁面を埋め尽くしていた赤い線が、一斉に明滅した。

 

「全員、下がれ!」

 

相澤消太の声が飛ぶ。

 

その目が赤く染まった。

 

個性――抹消。

 

赤い糸の動きが、一瞬だけ止まった。

 

だが、それで終わりではなかった。

 

糸は、相澤の視線が向いている一点から逃げるように床下へ潜り込んだ。一本が二本に分かれ、二本が十本に増え、壊れた装置の残骸を縫い合わせるように走っていく。

 

「相澤先生!」

 

拳藤一佳が叫ぶ。

 

「床が……!」

 

コンクリートの継ぎ目が、赤い糸に引っ張られるように開いた。

 

セメントスが両手を広げる。

 

「下がってください!」

 

床面が隆起する。

 

コンクリートの壁が地面からせり上がり、赤い糸の進路を塞いだ。だが糸は壁を迂回し、天井へ走る。梁に絡みつくと、今度は天井から大量に垂れ下がった。

 

まるで、巨大な蜘蛛の巣だった。

 

「セメントス、右側の梁を支えろ! 百、全員の防護装備を! 取蔭は本体を追うんじゃなく、糸の接続先を探してくれ!」

 

根津が矢継ぎ早に指示する。

 

「了解!」

 

八百万が創造したのは、防塵性の高いマスク、顔面を覆う透明な防護具、そして小型の通信機だった。

 

「皆さん、まずはこちらを装着してください。芳香による個性の影響を受ける可能性があります!」

 

「助かる!」

 

拳藤が防護具を受け取る。

 

芦戸は自分のマスクを確かめ、峰田の顔を見た。

 

「峰田、ちゃんと鼻まで覆って!」

 

「覆ってるって!」

 

「鼻が半分出てる!」

 

「これ以上覆ったら息ができねえ!」

 

「そこを工夫しなさいよ!」

 

言い合いながらも、二人の手は止まらなかった。

 

そして。

 

赤い糸が、中央で一つに束ねられた。

 

糸が編み上がる。

 

長い脚。

 

細い腕。

 

見慣れた髪。

 

教師として幾度も生徒たちの前に立った、あの姿。

 

紫色の衣装をまとった女性が、赤い糸の繭からゆっくりと足を下ろした。

 

ミッドナイト。

 

生徒たちが知っていた姿と、寸分違わぬ外見。

 

ただし、彼女の身体には、幾筋もの赤い糸が巻きついていた。手首、肩、腰、そして首元。糸は衣服の内側にまで潜り込み、まるで彼女自身を操り人形にしているかのようだった。

 

彼女は顔を上げた。

 

「……お見事」

 

聞き覚えのある声。

 

その声音に、峰田の喉が詰まった。

 

「ミッドナイト先生……」

 

芦戸も、すぐには動けなかった。

 

八百万は防護盾を握る手に力を込めた。

 

拳藤が半歩前に出る。

 

取蔭の分離させた小さな手が、彼女の肩の後ろで止まった。

 

教師陣も動かなかった。

 

相澤は目を見開いたまま、彼女を見据えている。

 

プレゼントマイク――山田ひざしの口元から、いつもの明るい言葉は出なかった。

 

ミッドナイトは彼らを順に見渡した。

 

そして、微笑んだ。

 

「あなたたちは、私を覚えているのね」

 

その笑顔に、どこか寂しさが混じっていた。

 

「それなら、最後まで覚えていてちょうだい」

 

彼女の手が、ゆっくりと鞭を抜いた。

 

「私が、あなたたちの前に立つ教師だったことを」

 

鞭が、床を打つ。

 

乾いた音が訓練場に響いた。

 

赤い糸が彼女の腕へと絡みつき、鞭の先端にまで走った。

 

「そして――」

 

ミッドナイトの目が、教師陣へ向けられる。

 

「あなたたちが、私をどう扱うのかを」

 

相澤が捕縛布を構えた。

 

「全員、戦闘態勢」

 

その言葉に、峰田が震える声で尋ねた。

 

「せ、先生……本当に戦うんですか?」

 

相澤は、彼から視線を外さなかった。

 

「戦う」

 

短い答えだった。

 

「だが、倒すことと、相手のすべてを否定することは同じじゃない」

 

「……!」

 

「それを混同するな」

 

ミッドナイトが、静かに笑った。

 

「さすがね、相澤先生。教え方は相変わらず厳しいわ」

 

「お前に評価される筋合いはない」

 

「そうね」

 

彼女の笑みが消えた。

 

「だから、試させてちょうだい」

 

次の瞬間。

 

ミッドナイトの姿が、消えた。

 

二 教師を越えるために

「上だ!」

 

取蔭の声が響く。

 

分離した彼女の身体の一部が、天井付近を飛び回る赤い糸を捉えていた。

 

その視界が、通信機を通して全員へ送られる。

 

ミッドナイトは天井の梁を蹴り、糸を足場にして空中を移動していた。

 

単なる肉体能力ではない。

 

赤い糸が彼女の動きに合わせて伸縮し、身体を引き上げ、空中での方向転換を補助している。

 

「機動力まで強化されているのか!」

 

拳藤が両手を巨大化させた。

 

「だったら、地面に下ろす!」

 

彼女は右手を広げ、落下してきた梁を受け止める。

 

左手で床を叩く。

 

崩れかけたコンクリートを押し固め、元生徒たちの足場を確保した。

 

「八百万さん、足場を作って! 峰田、糸の動きを止められる?」

 

「やってやるよ!」

 

峰田が両手から粘着球を飛ばした。

 

一発目が赤い糸へ。

 

二発目が天井の梁へ。

 

三発目が、ミッドナイトの移動先へ。

 

糸が粘着球に触れた瞬間、動きが鈍る。

 

だが、ミッドナイトはわずかに手首を返した。

 

鞭がしなり、粘着球を巻き取る。

 

「惜しいわね」

 

鞭が振られた。

 

粘着球が、逆に峰田へ飛んでくる。

 

「うわああっ! 俺の技をこっちに返すなあああ!」

 

峰田は床へ滑り込んだ。

 

粘着球が彼の頭上を通過する。

 

直後、赤い糸が床を走り、峰田の足首に絡みついた。

 

「しまっ――」

 

糸が引く。

 

峰田の身体が宙へ浮いた。

 

「峰田!」

 

芦戸が地面を蹴る。

 

個性――酸。

 

彼女は手から酸を噴射し、峰田の足に絡んだ糸を狙う。

 

しかし、ミッドナイトは峰田を振り回すことで照準をずらした。

 

「三奈、こっちに撃てないよね?」

 

「当たり前でしょ!」

 

「なら、どうするの?」

 

「こうするのよ!」

 

芦戸は酸の噴射角を変えた。

 

糸そのものではなく、糸が固定されている壁面の金具へ酸を飛ばす。

 

金具が溶け、糸の支点が失われた。

 

峰田の身体が落下する。

 

「ぬああああっ!」

 

「受け止めますわ!」

 

八百万が創造した大型のクッション材が、彼の下へ滑り込んだ。

 

峰田は見事に着地した。

 

ただし、顔から。

 

「……痛え」

 

「無事ですね」

 

「無事だけど心が無事じゃねえ!」

 

「後で確認しますわ!」

 

八百万は次の創造に入った。

 

彼女が作り出したのは、細長い金属製のワイヤーと、折り畳み式の捕獲器具。それから、赤い糸の振動を調べる小型の計測器だった。

 

「根津校長! この糸、一定の周期で振動しています!」

 

「周波数に規則性があるのかい?」

 

「はい! すべて同じではありませんが、何本かが同じリズムで振動しています。おそらく、動きを統括する接続線です!」

 

「なるほど。ならば、闇雲に切断するより、指揮系統を見つけた方が早い」

 

根津は即座に計算した。

 

「取蔭君、振動の発生源を探してくれ。芦戸君、切断の補助を。拳藤君は、彼女の動きを制限する!」

 

「わかりました!」

 

取蔭は全身を分離させた。

 

腕、脚、胴体、頭部。

 

彼女の身体が複数のパーツへと分かれ、それぞれが別方向へ飛び出す。

 

一つは梁の上へ。

 

一つは壁の隙間へ。

 

一つは床下へ。

 

本体は拳藤の肩に着地し、そこから全体の動きを見渡した。

 

「糸が集まっている場所がある! 右奥の柱、その裏!」

 

「了解!」

 

芦戸が駆ける。

 

ミッドナイトはそれを見て、鞭を横薙ぎに振るった。

 

「そこへ行かせるわけにはいかないわ」

 

鞭が空気を切り裂く。

 

拳藤が巨大化した両手を交差させ、直撃を受け止めた。

 

鈍い衝撃が腕に響く。

 

「ぐっ……重い!」

 

ミッドナイトは、拳藤の腕を足場にして跳び上がった。

 

その動きを、相澤が見逃さない。

 

「抹消!」

 

赤い光を帯びた瞳が、ミッドナイトを捉えた。

 

彼女の身体に絡んでいた糸のうち、腕から伸びていた数本が、ぴたりと停止した。

 

鞭の動きが鈍る。

 

だが、すべての糸が止まったわけではなかった。

 

「……やはり、完全には消えないか」

 

相澤は舌打ちした。

 

個性が作用しているのは確かだ。

 

しかし、赤い糸そのものは、ミッドナイトの個性だけで形成されているわけではない。

 

装置の残存機能なのか。

 

何らかの別の力なのか。

 

現時点では判断できない。

 

「相澤先生、目を離さないで!」

 

八百万が叫ぶ。

 

「私たちが周囲を押さえます!」

 

「頼んだ!」

 

相澤は捕縛布を投げた。

 

糸が止まっている一瞬を狙い、ミッドナイトの腕へ絡ませる。

 

ミッドナイトは空中で姿勢を変えた。

 

捕縛布が肩にかかる。

 

それでも彼女は抵抗した。

 

「本当に、容赦がないわね!」

 

「必要なことをしているだけだ!」

 

相澤が捕縛布を引き、彼女を地面へ引き落とそうとする。

 

その瞬間。

 

ミッドナイトの唇が、わずかに動いた。

 

「――香りなさい」

 

赤い糸が、彼女の全身から広がった。

 

甘い香りが、空気に混じる。

 

「来た!」

 

八百万は即座に、自分たちの装着した防護装備を確認した。

 

「皆さん、マスクを密着させてください! 吸入を最小限に!」

 

セメントスが両手を広げ、床面を隆起させた。

 

巨大なコンクリートの壁が、風の流れを遮る。

 

「香気が広がらないよう、空気の流れを制御します!」

 

「ナイス判断だ!」

 

プレゼントマイクが喉に手を当てた。

 

「だったらこっちは、音で道を開くぜ!」

 

彼は息を吸い込む。

 

「――VOICE!」

 

放たれた音波は、無差別に空間を破壊するものではなかった。

 

根津が示した、赤い糸の密集地点。

 

そこへ向けて、狭い範囲に絞り込んだ音圧が叩きつけられる。

 

柱の裏で糸が震えた。

 

何本かが切れ、壁に走っていた赤い光が消える。

 

「効いてる!」

 

芦戸が叫ぶ。

 

「なら、今!」

 

拳藤が巨大な手を床へ叩きつけた。

 

コンクリートが隆起し、ミッドナイトの足場を崩す。

 

彼女はその場から跳び退いた。

 

だが、逃げる先には取蔭の身体の一部が待っていた。

 

分離した腕が、赤い糸の一本へ絡みつく。

 

「捕まえた!」

 

取蔭が叫ぶ。

 

「今のうちに切って!」

 

芦戸が酸を飛ばした。

 

糸は切れた。

 

しかし、切断と同時に、別の糸が伸びてきて取蔭の腕を捕らえた。

 

「うわ、ちょっと! こっちまで絡めないでよ!」

 

取蔭は捕まった腕を分離させ、危険な部分だけを切り離す。

 

「私の身体はばらばらになっても平気だけど、操り人形になる趣味はないの!」

 

「その調子だ!」

 

拳藤が前へ出た。

 

巨大な右手が、ミッドナイトの鞭を正面から叩き落とす。

 

左手が伸び、彼女の移動先を塞いだ。

 

ミッドナイトは、すぐにその手首へ足をかける。

 

「あなたはいつも、誰かを支えようとするのね」

 

「それの何が悪い!」

 

拳藤は手を閉じようとした。

 

だが、ミッドナイトは赤い糸を使って指の間をすり抜ける。

 

「支えることと、相手の代わりに決めることは違うわ」

 

「……だから、今はあなたを止める!」

 

拳藤が手を振り抜いた。

 

ミッドナイトは壁へ叩きつけられる寸前、糸を引いて身体を空中へ逃がす。

 

彼女は苦笑した。

 

「そう。そうやって、自分の判断をするのね」

 

その言葉を聞いた芦戸が、顔を上げた。

 

「先生……今、わざと?」

 

ミッドナイトは答えなかった。

 

彼女は赤い糸に引かれ、再び空中へ舞い上がった。

 

まるで、戦いを終わらせる意思があるのか、それとも終わらせたくないのか、自分でも決められないかのように。

 

相澤は、彼女の動きを見つめていた。

 

そして、胸の奥に生じた疑念を、無理に押し殺すことはしなかった。

 

本当に、あのミッドナイトなのか。

 

あるいは、彼らの記憶を利用して作られた存在なのか。

 

今、答えを出す必要はない。

 

正体がわからないことと、目の前で起きている行為を止められないことは、別の問題だった。

 

「山田!」

 

「わかってる!」

 

プレゼントマイクが、相澤の隣へ並んだ。

 

「俺が糸を散らす。お前は、その間に彼女を止めろ!」

 

「……ああ」

 

「ただし、いつものように一人で抱え込むなよ!」

 

「お前に言われたくない」

 

「俺だって学習するんだよ!」

 

二人の短いやり取りのあと、プレゼントマイクが再び息を吸い込んだ。

 

「いくぜ!」

 

彼の声が、訓練場の空気を揺らした。

 

三 あなたたちの望む先生

音波が、赤い糸を震わせる。

 

コンクリートの壁が、糸の進路を狭める。

 

粘着球が、床から伸びる糸を固定する。

 

酸が、金具を溶かし、接続点を切り離す。

 

巨大な手が、崩れかけた柱を支え、同時に敵の退路を塞ぐ。

 

分離した身体が、狭い隙間へ入り込み、目に見えない接続先を探り続ける。

 

一つひとつは決定打にならない。

 

だが、互いが作った一瞬を、次の誰かが利用していく。

 

それは、雄英で学んだ戦い方だった。

 

個性の強さだけで勝つのではない。

 

自分にできることを見極め、仲間が作った可能性を、次の手へつなぐ。

 

そして今、その戦い方が、ミッドナイトの前で試されていた。

 

「……いい連携ね」

 

ミッドナイトがつぶやく。

 

鞭を振るい、八百万が設置した防壁を砕く。

 

「先生の教えを、よく覚えている」

 

「覚えていますわ!」

 

八百万が答えた。

 

「けれど、先生から教わったことは、それだけではありません!」

 

彼女は次の装備を創造した。

 

手にしたのは、折り畳み式の小型捕獲網。

 

「教わったことを、そのまま繰り返すだけなら、それは学びではなく、模倣です!」

 

八百万が網を投げる。

 

ミッドナイトは鞭で弾こうとした。

 

その瞬間、網の縁に付けられた金属片が展開し、糸の流れに絡みつく。

 

彼女の動きが一瞬だけ止まる。

 

「今です!」

 

「任せな!」

 

芦戸が酸を放った。

 

網の金属片を傷つけないよう、周辺の固定金具だけを狙う。

 

赤い糸が、次々と支点を失った。

 

峰田がその下へ粘着球を投げ込み、切れた糸が再接続するのを防ぐ。

 

「こっちだ、先生!」

 

彼は叫んだ。

 

「いつまでも俺たちの頭の上に立ってられると思うなよ!」

 

ミッドナイトが目を細める。

 

「峰田君。あなたは、以前よりずいぶん勇敢になったのね」

 

「そ、そういうのは戦いが終わってから言ってください!」

 

峰田は一瞬だけ視線を逸らしかけた。

 

だが、すぐに顔を戻す。

 

「……いや」

 

彼は粘着球を握り直した。

 

「今言ってもらっても、いいですけど」

 

「欲張りね」

 

「先生に教わったんです! 失敗したことと、何も学ばなかったことは違うって!」

 

峰田は笑った。

 

怖くないわけではない。

 

相手が自分の記憶にある教師の姿をしているからこそ、怖い。

 

自分の知る人物に攻撃を仕掛けることに、ためらいがないはずもない。

 

それでも。

 

「俺、まだ怖いですよ。今だって、できれば逃げたい。でも、怖いから何もしないって決めたわけじゃない!」

 

彼は、粘着球を床へ叩きつけた。

 

「だから、俺は俺の判断で戦います!」

 

粘着球が、ミッドナイトの足元へ広がった。

 

彼女の靴が、一瞬、床へ固定される。

 

そこを拳藤が逃さない。

 

巨大化した手が、彼女の身体を正面から捕らえようとした。

 

しかし、ミッドナイトは鞭を床へ打ちつけ、身体を大きく後ろへ引く。

 

糸が一本、彼女の身体を引っ張った。

 

その反動で拳藤の手をすり抜け、彼女は天井の梁へ飛び移る。

 

「くっ……!」

 

拳藤が歯を食いしばった。

 

「まだ動けるのか!」

 

「もちろん」

 

ミッドナイトは梁の上で立ち上がった。

 

「教師は、生徒より強くなければならない――なんて決まりはないけれど」

 

鞭が鳴る。

 

「教え子が成長したなら、それを確かめたくなるものよ」

 

その声に、ほんの少しだけ、懐かしい温度があった。

 

芦戸は顔をしかめる。

 

「そういうこと言われると……攻撃しづらいんだけど!」

 

「攻撃しづらいなら、工夫すればいいんじゃない?」

 

取蔭の頭部が、芦戸の隣へ飛んできた。

 

「ほら、私たちの個性って、こういう時に便利でしょ!」

 

「本人が言うと説得力あるなあ!」

 

取蔭の身体が再び分離する。

 

複数の部位が、それぞれ異なる角度からミッドナイトへ接近した。

 

彼女の視線が、次々と移る。

 

右から来る腕。

 

左から迫る脚。

 

梁の裏を進む胴体。

 

床面を滑る手。

 

一つ一つを鞭で弾き、避け、踏み越える。

 

それでも、すべては捌き切れない。

 

取蔭の指が、ミッドナイトの背後へ伸びた糸を掴んだ。

 

「見つけた!」

 

糸が、彼女の手首に絡みつく。

 

「これ、あなたの動きを引っ張ってるだけじゃない!」

 

取蔭は糸を引っ張った。

 

「何かに、あなた自身までつながれてる!」

 

ミッドナイトの表情が変わる。

 

赤い糸が一斉に脈動した。

 

次の瞬間、取蔭の腕が引きずられた。

 

「うわっ!」

 

腕が壁に叩きつけられる。

 

「取蔭!」

 

拳藤が巨大な手を伸ばし、飛ばされた腕を受け止めた。

 

「大丈夫!?」

 

「腕はね! でも、今ので確信した!」

 

取蔭は歯を見せて笑った。

 

「この糸、彼女を操ってるだけじゃない。彼女の『役割』まで、固定しようとしてるんだ!」

 

「役割……?」

 

芦戸が顔を上げた。

 

ミッドナイトの周囲に、赤い糸が集まり始める。

 

糸は彼女の腕や脚だけでなく、肩や首、背中へと伸びていた。

 

一本一本が、見えない命令を示すように張り詰める。

 

――教師であれ。

 

――優しくあれ。

 

――強くあれ。

 

――皆に慕われる存在であれ。

 

――生徒を守れ。

 

――生徒を導け。

 

そして、最後に。

 

――生徒たちが望む存在であり続けろ。

 

ミッドナイトの身体が、糸に引っ張られるように前へ傾いた。

 

彼女の表情が、苦しげに歪む。

 

「……やめなさい」

 

小さな声だった。

 

誰に向けた言葉なのか、すぐにはわからなかった。

 

ミッドナイト自身か。

 

赤い糸か。

 

それとも、彼女を見つめる生徒たちか。

 

「私は……」

 

糸が、さらに強く彼女を引いた。

 

「私は、あなたたちが望むミッドナイトです」

 

その声が、訓練場全体へ響く。

 

しかし今度の言葉は、以前の理想像とは違っていた。

 

笑っていない。

 

胸を張ってもいない。

 

その姿は、誰かに無理やり言わされているようだった。

 

「私は、あなたたちが望む先生であり続けます。優しく、強く、迷わず、恐れず、誰よりも生徒を理解し、誰よりも生徒を守る教師として」

 

赤い糸が、彼女の腕を引く。

 

「私は、あなたたちが悲しまないように、変わりません」

 

彼女の鞭が、再び持ち上がった。

 

「だから――」

 

その先を、誰かが遮った。

 

「ふざけるな」

 

相澤だった。

 

彼は、赤い目のまま、彼女を睨みつけていた。

 

「誰がそんなことを望んだ」

 

ミッドナイトの動きが止まった。

 

「……相澤先生?」

 

「お前が俺たちの知っている人間なら、答えろ」

 

相澤は一歩、前へ進んだ。

 

「俺たちは、お前に変わるなと言ったか?」

 

ミッドナイトは答えない。

 

「迷うなと言ったか。恐れるなと言ったか。俺たちのためだけに生きろと言ったか」

 

「……」

 

「答えろ、ミッドナイト」

 

彼女の指が震えた。

 

「私は……」

 

赤い糸が、彼女の首元を締めつけるように動いた。

 

「私は、そうすることが……あなたたちのためだと……」

 

「誰が決めた」

 

相澤の声が、さらに低くなる。

 

「お前か。俺たちか。それとも、その糸か」

 

ミッドナイトは、彼を見つめた。

 

何かを言おうとして、口を閉じる。

 

その瞬間、赤い糸が彼女の身体を大きく引いた。

 

鞭が振り下ろされる。

 

相澤は捕縛布で受け流した。

 

「……っ!」

 

衝撃で、彼の身体が横へ滑る。

 

彼は壁へ足をつき、体勢を立て直した。

 

ミッドナイトが苦しげに息を吸う。

 

「来ないで!」

 

その叫びに、全員が動きを止めた。

 

ミッドナイトの表情が、恐怖に染まっていた。

 

「来ては、だめ……!」

 

彼女は自分の腕を押さえた。

 

「私は、あなたたちを傷つけたくない……でも、身体が……!」

 

赤い糸が、再び彼女の腕を持ち上げた。

 

鞭が、元生徒たちの方へ向けられる。

 

その手を、彼女自身が必死に押さえ込んでいた。

 

「お願い……止めて……!」

 

相澤は一歩踏み出した。

 

その背中を、山田が追い越そうとする。

 

しかし、相澤は手で制した。

 

「待て、山田」

 

「相澤……!」

 

「今度は、俺が聞く」

 

彼はミッドナイトから目を逸らさなかった。

 

「お前が何者なのか、今すぐ結論を出すつもりはない」

 

相澤は、捕縛布を構え直す。

 

「だが、今ここにいるお前が止めてほしいと言うなら、俺は止める」

 

そして、はっきりと告げた。

 

「お前を、俺たちの知っている姿に戻すためじゃない」

 

「……!」

 

「これ以上、お前自身や、ほかの誰かの意思が奪われないようにするためだ」

 

赤い糸が、激しく震えた。

 

それは、まるでその言葉を拒絶するようだった。

 

四 相澤消太と山田ひざしの選択

「相澤……」

 

山田ひざしは、かつての同僚を見つめた。

 

ミッドナイト。

 

その姿を前にすると、彼の胸の奥には、簡単には言葉にできない感情が湧き上がる。

 

彼女と過ごした日々。

 

教師として、生徒たちへ向けた言葉。

 

同僚同士で交わした会話。

 

何気ない笑顔。

 

そのすべてが、本物だった。

 

だからこそ、彼女が目の前にいるのなら、もう一度話したいと思う。

 

もし彼女が苦しんでいるのなら、助けたいと思う。

 

もし彼女が帰ってこられるのなら、帰ってきてほしいと思う。

 

それは、嘘ではなかった。

 

だが、山田はその感情を、すぐに行動へ変えることができなかった。

 

彼は、以前にも似た問いを突きつけられている。

 

黒霧。

 

その奥にあった、白雲朧という存在。

 

自分たちの知る人間が、別の何かに変えられたとき。

 

自分たちの記憶と、目の前にいる存在が一致しなくなったとき。

 

かつての名前を呼び、帰ってこいと願うことは、果たして救いなのか。

 

轟焦凍と荼毘の戦いでも、同じ問いがあった。

 

家族であること。

 

兄弟であること。

 

その関係を理由に、相手へ言葉を届けようとすること。

 

それ自体が間違いだとは思わない。

 

しかし、その関係があるからといって、相手がこちらの望む答えを選ぶ義務を負うわけではない。

 

山田は、息を吐いた。

 

「……なあ、ミッドナイト」

 

彼女の鞭が震えた。

 

「俺は、お前に戻ってきてほしいと思ってる」

 

相澤が、彼を見た。

 

山田は続ける。

 

「一緒に仕事をして、ふざけ合って、教師として生徒たちの未来を考えて……そういう日々が、またあればいいって思う」

 

赤い糸が、わずかに動きを止めた。

 

「だけどな」

 

山田の表情が変わった。

 

「だからって、お前にそれを押しつけるつもりはねえ」

 

「……山田先生」

 

「俺たちが知ってるお前と、今のお前が同じかどうか。俺たちが覚えてるお前が、全部正しかったのかどうか。それを俺が決めることじゃない」

 

彼は、拳を握りしめた。

 

「俺はお前を忘れたくない。だけど、忘れたくないからって、お前を俺の記憶の中に閉じ込めるつもりもない」

 

ミッドナイトの瞳が揺れた。

 

「……でも、私は」

 

「お前が俺たちの知るミッドナイトじゃなかったとしても、今ここで苦しんでることまで、なかったことにはしない」

 

山田は一歩、前へ進んだ。

 

「お前が俺たちにとって大切だった。それは本当だ。俺たちが教わったことも、笑い合った日々も、本物だった」

 

そして、彼は赤い糸を指さした。

 

「けど、それを理由にお前を所有する権利なんか、誰にもない!」

 

ミッドナイトの肩が震えた。

 

赤い糸が、彼女の身体を無理やり動かそうとする。

 

「黙りなさい……!」

 

声は、彼女のものだった。

 

けれど、そこに重なる別の声があった。

 

『それでは、何のために愛したのですか』

 

赤い糸が、床から壁へ、壁から天井へ走る。

 

『何のために憧れたのですか』

 

訓練場の照明が消えた。

 

非常灯の赤い光だけが、周囲を染める。

 

『何のために、誰かを大切にしたのですか』

 

壁面に文字が浮かび上がった。

 

――あなたのために。

 

――あなたが好きだから。

 

――あなたに必要とされたいから。

 

――あなたがいないと、私には何も残らないから。

 

『愛しているなら、変わらないでほしいと願うでしょう』

 

糸が集まる。

 

『大切な人なら、自分を選んでほしいと願うでしょう』

 

『失いたくないなら、どこにも行かないでほしいと願うでしょう』

 

『あなたのためなら、あなたの自由を奪っても構わない』

 

『それこそが、愛の証明ではありませんか?』

 

赤い糸の中心から、声の主が姿を現した。

 

人の輪郭を思わせる、細長い影。

 

その顔には、はっきりとした表情がない。

 

しかし、その声は不気味なほど穏やかだった。

 

「色欲……!」

 

八百万が叫ぶ。

 

その存在は、首を傾けた。

 

「私は、あなたたちの願いを叶えているだけです」

 

「願いだと?」

 

相澤が睨みつける。

 

「誰の願いだ」

 

「ここにいる全員の願いです」

 

色欲は、ゆっくりと腕を広げた。

 

その動きに合わせて、赤い糸が一斉に張り詰める。

 

「彼女を忘れたくない。彼女の教えを失いたくない。彼女の言葉に意味があったと信じたい。彼女が自分たちを大切に思ってくれていたと、そう信じたい」

 

色欲の声は、誰かを嘲笑うものではなかった。

 

むしろ、その願いを理解し、優しく肯定するような口調だった。

 

「それが、なぜいけないのでしょう?」

 

芦戸が拳を握る。

 

「願うこと自体が悪いなんて、私たちも言ってない!」

 

「では、何が問題なのです?」

 

色欲が尋ねる。

 

「あなたたちは、彼女を忘れたくない。彼女が自分たちの教師であったことを、なかったことにしたくない。彼女から受け取ったものを失いたくない」

 

その影は、ミッドナイトの背後へ回った。

 

赤い糸を手に取る。

 

「ならば、彼女を変わらない存在にすればいい」

 

糸が、彼女の身体へ巻きついた。

 

「彼女を、あなたたちの理想の教師として保存すればいい」

 

「やめろ!」

 

山田が叫んだ。

 

色欲は、微笑むように首を傾けた。

 

「なぜです? 彼女を忘れないために、彼女を固定する。それの何が悪いのでしょう?」

 

「……あのな」

 

山田は、息を吸った。

 

「お前は、とんでもなく大事なことを勘違いしてる」

 

彼は、ミッドナイトを見つめた。

 

「誰かを好きになることと、その人の人生を自分のものにすることは違うんだよ」

 

相澤が続ける。

 

「大切にすることと、思いどおりにすることも違う」

 

色欲の影が、二人を見た。

 

「では、あなたたちは彼女をどうするつもりなのです?」

 

「どうもしない」

 

相澤は答えた。

 

「いや、違うな。今ここでしていることは、すでに決まっている」

 

彼は赤い糸を睨んだ。

 

「お前が彼女を操り、他人の意思を奪うことを止める」

 

「彼女が望んでいたとしても?」

 

「その言葉を、彼女が自由に選べる状態で聞くまでは信じない」

 

相澤の声には、迷いがなかった。

 

「今の彼女は、自分の意志で話すことすら妨げられている。その状態で口にした言葉を、本人の望みだと決めつける気はない」

 

「なるほど」

 

色欲の影は、ゆっくりと首を傾けた。

 

「あなたたちは、彼女を解放すると言いながら、彼女を止めるのですね」

 

「そうだ」

 

相澤は即答した。

 

「自由を尊重することは、何をしても許すことじゃない」

 

捕縛布を握り直す。

 

「俺たちは、彼女を思いどおりに戻すために戦うんじゃない」

 

彼は、ミッドナイトを見た。

 

「彼女が何者であれ、彼女自身が選ぶ余地を取り戻すために戦う」

 

その言葉を聞いた山田は、ゆっくりと頷いた。

 

黒霧のとき。

 

荼毘のとき。

 

あのときの言葉が間違いだったとは思わない。

 

名前を呼ぶことも、家族として手を伸ばすことも、間違いではない。

 

それでも、言葉が届くことと、相手を自分たちの望む姿へ戻すことは違う。

 

今回は、違う。

 

山田は、声を張り上げた。

 

「ミッドナイト! お前が俺たちの覚えている姿に戻るかどうかを、俺たちが決めるつもりはねえ!」

 

彼の声が訓練場を揺らした。

 

「だけど、今ここでお前を縛ってるものは、絶対に止める!」

 

色欲の影が、初めて笑みを消した。

 

『――その願いを、最後まで貫けるでしょうか』

 

赤い糸が、爆発的に広がった。

 

五 教師の個性、教え子の答え

「来るぞ!」

 

セメントスの声が響いた。

 

天井から伸びた糸が、槍のように尖った。

 

一本ではない。

 

十本。

 

百本。

 

何百もの赤い線が、元生徒たちと教師陣へ向かって降り注ぐ。

 

「全員、防御!」

 

八百万が叫ぶ。

 

彼女の身体から、複数の装備が創造された。

 

盾。

 

補助ワイヤー。

 

切断用の工具。

 

そして、床面へ固定するための杭。

 

八百万は防護盾を前へ構えながら、手早く杭を投げた。

 

「拳藤さん、壁をお願いします!」

 

「任せて!」

 

拳藤が両手を巨大化させ、迫ってきた赤い糸を正面から押し返す。

 

その背後では、セメントスがコンクリートの壁を何枚も立ち上げていた。

 

壁を一枚。

 

二枚。

 

三枚。

 

赤い糸が壁を突き抜けようとするたび、別の壁が角度を変えて立ち上がる。

 

まっすぐな防御ではない。

 

糸の進路をずらし、速度を落とし、一本ずつ分離させるための構造だった。

 

「これ以上、好きにはさせません!」

 

セメントスは歯を食いしばる。

 

「教え子たちの選択まで、あなたたちの都合で決められてたまるものですか!」

 

「先生!」

 

八百万が叫んだ。

 

「左側の柱を、もう少し内側へ!」

 

「了解です!」

 

コンクリートの柱が移動する。

 

そこへ芦戸が走り込んだ。

 

彼女は壁に触れる寸前、酸を噴射する。

 

狙いは糸ではない。

 

赤い糸が壁に固定される際に利用している金属部品だった。

 

金具が溶ける。

 

糸が支点を失い、床へ落ちた。

 

「これなら、建物を壊さずに糸だけ切れる!」

 

「いいぞ、芦戸!」

 

プレゼントマイクが声を張り上げた。

 

「峰田、右側の足元を固めろ! 取蔭、奥の接続先を確認! 八百万、俺の音で壊れないよう、周辺の補強を頼む!」

 

「了解!」

 

それぞれが、指示を受けて動く。

 

しかし、色欲は彼らの連携を黙って見てはいなかった。

 

赤い糸が、一本ずつではなく、面となって迫る。

 

床から伸びた糸が、峰田の粘着球を避けるように動いた。

 

天井から伸びた糸が、取蔭の分離した身体を追いかける。

 

壁面の糸が、拳藤の巨大な手をすり抜け、腕へ絡みついた。

 

「しまっ……!」

 

拳藤の手が引かれる。

 

ミッドナイトが、その隙を逃さなかった。

 

鞭が走る。

 

拳藤の肩が打たれ、彼女の身体が横へ吹き飛ばされた。

 

「拳藤さん!」

 

取蔭が叫ぶ。

 

「平気!」

 

拳藤は床を転がりながら、すぐに立ち上がった。

 

「まだ動ける!」

 

その言葉と同時に、彼女の両腕が再び巨大化する。

 

「私は、支えるって決めたら最後まで支える!」

 

巨大な手が、天井から落ちる糸を掴んだ。

 

「でも、誰かを支えることと、その人の代わりに生きることは違うんだ!」

 

彼女は糸を引きちぎるように力を込める。

 

「だから、私はあなたの望みどおりにはならない!」

 

拳藤が、糸の塊を床へ叩きつけた。

 

その瞬間。

 

赤い糸が、彼女の周囲で爆ぜた。

 

彼女の腕へ細い糸が食い込み、巨大な手の動きを止めようとする。

 

拳藤は歯を食いしばる。

 

「くっ……!」

 

「拳藤!」

 

取蔭が飛び込んだ。

 

分離させた身体の一部を、糸の隙間へ滑り込ませる。

 

「腕は一本でも、そっちは一本ずつしか動かせないでしょ!」

 

彼女は小さな手で糸を掴み、身体の一部を足場にして、張り詰めた糸を一本ずつ引き剥がしていく。

 

「それに、私の身体は一つじゃないんだよ!」

 

複数の部位が、それぞれ別方向へ引っ張る。

 

赤い糸が、互いに干渉した。

 

一本が引かれる。

 

別の一本が緩む。

 

その一瞬を、峰田は見逃さなかった。

 

「今だ!」

 

彼は粘着球を連続して投げる。

 

糸が交差する部分へ。

 

引き合っている箇所へ。

 

接続先の近くへ。

 

粘着球が次々と貼りつき、糸の動きを固定する。

 

「よしっ! 今なら、俺の粘着が役に立つ!」

 

「いつも役に立ってますわ!」

 

八百万が、工具を手に叫んだ。

 

「少なくとも、今日は!」

 

「今日だけじゃねえよ!」

 

峰田は胸を張った。

 

その直後、頭上から糸が降ってきた。

 

「うわっ、危ねえ!」

 

彼は床へ転がった。

 

芦戸が笑いかけ、すぐに真顔へ戻る。

 

「峰田、左!」

 

峰田は反射的に左へ飛んだ。

 

赤い糸が床へ突き刺さる。

 

八百万が創造した金属製の切断工具が、糸の隙間へ滑り込んだ。

 

芦戸が酸を飛ばし、金属部品を溶かす。

 

セメントスがコンクリートを変形させ、接続先をむき出しにする。

 

そして、取蔭の小さな手が、露出した装置のスイッチを押した。

 

「ここだ!」

 

根津が目を輝かせた。

 

「山田君!」

 

「ああ!」

 

プレゼントマイクが息を吸い込む。

 

「――VOICE!」

 

音波が、露出した中継装置だけを叩いた。

 

赤い糸が、一瞬だけ光を失う。

 

その瞬間を、相澤が逃さない。

 

「抹消!」

 

彼の視線が、ミッドナイトを捉えた。

 

彼女の身体に絡んでいた糸が、止まった。

 

「今だ!」

 

相澤は捕縛布を投げた。

 

布が彼女の腕へ、胴体へ、そして肩へ絡む。

 

ミッドナイトは抵抗しようとした。

 

しかし、身体が動かない。

 

「……っ!」

 

相澤は彼女を無理やり引き倒すのではなく、その場に留めた。

 

「ミッドナイト。聞こえるか」

 

彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……聞こえているわ」

 

「自分の意志で、止めてほしいと言ったのはお前だな」

 

「……ええ」

 

彼女の声が、かすれた。

 

「でも、私は……」

 

「わかっている」

 

相澤は彼女の身体を押さえたまま、視線を逸らさなかった。

 

「まだ、何も決めつけない」

 

色欲の影が、苛立ったように声を上げた。

 

『あなたたちは、彼女を拘束しているではありませんか』

 

「そうだ」

 

相澤は、迷わず答えた。

 

『彼女の自由を尊重すると言いながら、彼女の行動を止めるのですか?』

 

「尊重することと、放置することは違う」

 

彼は捕縛布を握り直した。

 

「相手が誰であっても、他人を傷つける行為を止める必要はある」

 

「……」

 

「だが、止めることを理由に、相手の心まで決めつけるつもりはない」

 

相澤は、静かに告げた。

 

「俺はお前を、俺たちの知るミッドナイトへ戻すために止めているんじゃない」

 

その言葉に、色欲の影が動きを止めた。

 

「お前自身が、自分の意志で選べる状態を取り戻すためだ」

 

「……そんなものに、意味があるのですか?」

 

色欲の声が、低くなる。

 

「彼女が自由になったとして、彼女があなたたちを選ばなかったら?」

 

赤い糸が、再び動き始めた。

 

「彼女が、もう教師ではない道を選んだら?」

 

一本の糸が、相澤の捕縛布へ絡んだ。

 

「彼女が、あなたたちの記憶を捨てたら?」

 

糸が、強く引かれる。

 

「それでも、あなたたちは彼女を大切に思えるのですか?」

 

相澤は、答えた。

 

「それを決めるのも、彼女じゃない。俺たち自身だ」

 

「……!」

 

「俺たちが彼女から受け取ったものまで、彼女の選択一つで消えるわけじゃない」

 

相澤は目を細めた。

 

「だからといって、彼女に俺たちの記憶を背負わせるつもりもない」

 

山田が、続ける。

 

「先生だったお前を忘れない。そのことと、お前がこれからどう生きるかを決めることは、別の話だ」

 

色欲の影が、初めて後ずさった。

 

六 あなたのために、あなたを縛らない

赤い糸が、訓練場全体を覆い尽くした。

 

セメントスが作った壁を、糸が這い上がる。

 

床の隙間から、天井の梁から、壊れた装置の残骸から。

 

あらゆる場所に、赤い糸が生まれていた。

 

その中心で、ミッドナイトがゆっくりと立ち上がる。

 

相澤の抹消が途切れた瞬間、糸が再び彼女の身体を引き動かしていた。

 

「……もう、やめて」

 

彼女は自分の腕を押さえた。

 

「私は、そんなことを望んでいない……!」

 

色欲が、彼女の背後へ姿を現す。

 

「いいえ。あなたは望んでいます」

 

「違う!」

 

ミッドナイトが叫ぶ。

 

「私は、生徒たちが幸せになってくれればいいと思っていた! 私のことを覚えていてほしいと思ったことだってある! 頼られたいと思ったことも、教師として認められたいと思ったこともあった!」

 

彼女は赤い糸を引き剥がそうとする。

 

「でも、だからって……この子たちの人生を、私のために止めてほしいなんて思っていない!」

 

赤い糸が、彼女の腕を強く引いた。

 

「あなたは教師なのです」

 

色欲が囁く。

 

「あなたは、生徒たちにとって特別な存在なのです」

 

「……!」

 

「あなたがいなくなれば、彼らは悲しむでしょう。あなたを忘れられないでしょう」

 

影は、優しく語りかける。

 

「ならば、彼らのために、あなたは変わらないでいればいい」

 

「違う……」

 

「あなたが彼らの望む教師であり続ければ、彼らは安心できます」

 

「違う!」

 

「あなたが彼らの物語の中で、完璧な教師として生き続ければ――」

 

「違うと言っているでしょう!」

 

ミッドナイトの声が、訓練場に響き渡った。

 

一瞬、すべての糸が震えた。

 

彼女は荒い息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……私は、完璧な教師なんかじゃなかった」

 

八百万が、息を呑んだ。

 

「私は迷った。間違えた。わからないことだってあった。生徒たちを守りたいと思いながら、自分が必要とされたいと思うこともあった」

 

ミッドナイトは、自分の手を見つめた。

 

「誰かに認められたくて、教師として立派でありたいと思って……そのために、無理をしたことだってあった」

 

彼女は、かすかに笑った。

 

「それでも、生徒たちを大切に思っていたことは、本当よ」

 

芦戸が、一歩前へ進んだ。

 

「……先生」

 

「だからこそ、こんなふうに利用されたくない」

 

ミッドナイトは、赤い糸を握りしめた。

 

「私が間違えたことも、迷ったことも、恐れたことも、全部なかったことにして……私を、あなたたちの望む姿に固定する」

 

彼女は、色欲を睨みつけた。

 

「それは、私の人生じゃない」

 

色欲の影が、彼女の前へ滑り込んだ。

 

「ですが、それがあなたにとって最も美しい結末です」

 

「誰が決めたの?」

 

「あなたの生徒たちが、あなたを忘れずに済む結末です」

 

「誰が決めたのよ!」

 

ミッドナイトの声が鋭くなった。

 

「私の人生の結末を、どうしてあなたが決めるの!?」

 

色欲が、初めて明確に怒りを見せた。

 

赤い糸が彼女の全身を引き締める。

 

「あなたが変われば、彼らは悲しむ!」

 

「それでもいい!」

 

「彼らがあなたを忘れるかもしれない!」

 

「忘れたくなければ、覚えていてくれればいい!」

 

「彼らがあなたの教えを誤って受け取るかもしれない!」

 

「それを正すことまで、私が決める必要はない!」

 

ミッドナイトは、赤い糸に拘束されたまま、真正面から色欲を見据えた。

 

「私が生徒たちに教えたことが、本当に彼らの力になったのなら……私が見ていない場所で、私が知らない方法で、その子たちが生きていけることを喜ぶべきでしょう!」

 

その言葉に、八百万が顔を上げた。

 

峰田が唇を噛む。

 

芦戸は、目を閉じ、すぐに開いた。

 

拳藤が拳を握る。

 

取蔭は、自分の身体を構成するパーツを引き寄せた。

 

相澤は、静かに頷いた。

 

山田は、ミッドナイトの声を聞きながら、一歩前へ進んだ。

 

「……そうだな」

 

彼は、彼女へ手を伸ばしかけて――止めた。

 

手を伸ばすこと自体が悪いわけではない。

 

だが、今の彼女が望んでいるのは、誰かに抱きしめられることでも、誰かのもとへ帰ることでもない。

 

自分の意志を取り戻すことだ。

 

山田は、手を下ろした。

 

「お前のために、俺たちができることはある」

 

彼の声は、今までより静かだった。

 

「でも、お前のために、お前の人生を俺たちが決めることはできない」

 

相澤が続ける。

 

「生徒たちも同じだ」

 

彼は、八百万たちを見た。

 

「お前たちがミッドナイトから何を受け取ったかは、お前たち自身が決めればいい」

 

八百万が頷く。

 

「はい」

 

「彼女の教えを、どう使うのか」

 

相澤の視線が、順に移る。

 

「どんな未来を選ぶのか。どこへ進むのか。彼女が望んでいると思う道を選ぶ必要はない」

 

「……!」

 

「彼女が望んでいたのは、お前たちが彼女のためだけに生きることじゃないはずだ」

 

相澤は、ミッドナイトを見た。

 

「そうだろう?」

 

彼女は、かすかに頷いた。

 

「……ええ」

 

色欲の影が、激しく震えた。

 

『それでは、愛情に意味などない!』

 

赤い糸が、すべて一斉に動きだす。

 

『慕う心も、憧れも、絆も、何もかもが移ろう!』

 

糸が槍となって降り注ぐ。

 

『誰もが変わり、誰もが離れ、誰もが忘れていく!』

 

セメントスが壁を築く。

 

「来ます!」

 

『だからこそ、変わらない形に閉じ込める必要がある!』

 

山田が声を上げた。

 

「違う!」

 

その声が、訓練場を揺らす。

 

「変わるからって、嘘になるわけじゃねえ!」

 

彼はミッドナイトを指さした。

 

「一緒に過ごした時間は、本物だった! 教えられたことも、笑ったことも、間違えたことだって、本物だった!」

 

相澤が続ける。

 

「失ったものを、永遠にそのまま保存することはできない」

 

彼は捕縛布を構えた。

 

「だが、変わった後も、その記憶をどう生かすかは選べる」

 

八百万が前へ出る。

 

「私は、先生から学んだ知識を、これからも使います。けれど、先生の判断をそのまま正解として扱うつもりはありません」

 

彼女は工具を握りしめた。

 

「学んだことを使って、自分で考え、自分で決めます!」

 

峰田が続く。

 

「俺は、怖くても一歩踏み出す! それが先生の言葉をどう受け取った結果なのかは、俺が決める!」

 

芦戸が笑った。

 

「私は、強い人になりたい。でも、何でも一人で抱え込む強さじゃなくて、怖いって言える強さがいい!」

 

拳藤が、巨大な両手を構える。

 

「私は、誰かを支える! でも、相手の代わりに選ぶことはしない!」

 

取蔭は、自分の身体を分離させた。

 

彼女の手、足、頭部が、赤い糸の束へ向かう。

 

「私は、先生のことを覚えてる! 何気ない言葉も、優しかったことも!」

 

彼女は、真正面から色欲を見据えた。

 

「でも、私が覚えてる先生だけが、先生のすべてじゃない!」

 

五人の声が重なった。

 

「だから――」

 

八百万が創造した工具を構える。

 

「私たちは、私たちの道を選びます!」

 

峰田が粘着球を投げる。

 

「先生のために、俺たちの人生を止めたりしない!」

 

芦戸の酸が、赤い糸の支点を溶かす。

 

「先生を大切に思うことと、先生に縛られることは違う!」

 

拳藤の巨大な手が、糸の塊を押し返す。

 

「誰かを守るために、誰かの自由を奪うわけにはいかない!」

 

取蔭の身体が、糸の網をすり抜ける。

 

「私たちは、自分で決める!」

 

赤い糸が、次々と切れていった。

 

色欲の影が、初めて叫んだ。

 

『そんなものは、愛ではない!』

 

ミッドナイトが、顔を上げた。

 

「いいえ」

 

彼女の声は、はっきりしていた。

 

「それも、愛よ」

 

色欲が、彼女を振り向く。

 

「相手が自分の望む姿でなくても、大切に思うこと」

 

ミッドナイトは、赤い糸を握りしめる。

 

「相手が自分を選ばなくても、その人の幸せを願うこと」

 

一本の糸が、彼女の指の間で切れた。

 

「相手が自分の知らない未来へ進んでも、その選択を尊重すること」

 

二本目が切れた。

 

「それでも、過ごした時間を嘘にしないこと」

 

三本目が切れた。

 

「それができるからこそ、人は誰かを大切にできるのよ!」

 

彼女は、残った糸を引きちぎろうとした。

 

しかし、最後の糸が彼女の手首を締めつける。

 

色欲が、彼女の背後から囁いた。

 

「あなたは、本当にそれを望んでいるのですか?」

 

ミッドナイトの顔が、歪む。

 

「彼らが、あなたのことを忘れたとしても?」

 

「……」

 

「彼らが、あなたの教えを忘れたとしても?」

 

「……」

 

「あなたの名前さえ、口にしなくなったとしても?」

 

長い沈黙があった。

 

ミッドナイトは、元生徒たちを見つめた。

 

彼らの顔には、それぞれ違う表情が浮かんでいる。

 

悲しみ。

 

怒り。

 

迷い。

 

恐怖。

 

そして、決意。

 

彼女は、一人ずつ、その顔を見つめた。

 

「それなら……それでいいわ」

 

彼女は微笑んだ。

 

「忘れてしまうことだって、あるでしょう」

 

赤い糸が、震える。

 

「私の言葉を、違う意味に受け取ることだってあるでしょう」

 

彼女の笑顔は、完璧な教師のものではなかった。

 

少し困ったような。

 

どこか寂しそうな。

 

それでも、誰かを信じようとする笑顔だった。

 

「でも、それでも私は、あなたたちが自分の人生を生きてくれることを望むわ」

 

色欲が後ずさる。

 

「あなたたちの未来を、私の物語の結末にしないで」

 

ミッドナイトは、言い切った。

 

「私が教師だったことを、あなたたちの人生の答えにしないで」

 

その言葉が、赤い糸を大きく揺らした。

 

七 最後の一撃

「……今だ!」

 

根津校長が叫んだ。

 

「赤い糸が一つの場所に集まっている! 中継装置の奥だ!」

 

訓練場の中央。

 

かつて装置の本体が存在していた場所に、赤い糸が密集し、ひとつの球体を形作っていた。

 

その表面には、細い糸が複雑に絡み合っている。

 

糸の中には、元生徒たちの記憶を思わせる光が瞬いていた。

 

笑顔。

 

言葉。

 

授業の風景。

 

訓練の記録。

 

何気ない日々。

 

色欲は、それらを一つにまとめ、誰にも変えられない形へ固定しようとしていた。

 

「すべての接続を切断する必要がある」

 

根津は通信機を握った。

 

「ただし、装置の中心を直接破壊すれば、周囲の構造も崩れる恐れがある。セメントス君、周囲の支柱を固定してくれ。八百万君、切断用の装備を。山田君は音波を一点に集中。相澤君はミッドナイトの個性と糸の動きを確認してくれ」

 

そして、根津は一拍置いた。

 

「生徒たちは、各自の判断で動いてくれ。指示に従うだけでは、この装置の思惑を断ち切れない」

 

相澤が頷いた。

 

「聞いたな。自分で考えろ」

 

「はい!」

 

五人の声が重なる。

 

最初に動いたのは、セメントスだった。

 

両手を床へつき、コンクリートを操作する。

 

球体の周囲へ、四本の太い支柱が立ち上がった。

 

さらに壁が形成され、球体を取り囲む。

 

崩壊を防ぎながら、糸だけを露出させるための構造。

 

「これで、周囲への影響は最小限に抑えられるはずです!」

 

八百万が、創造した切断用の工具を配った。

 

「皆さん、無理に本体へ接近しないでください。糸の支点を切り離し、接続を無効化します!」

 

「了解!」

 

峰田が球体の周囲へ粘着球を投げる。

 

糸が動く前に、床へ固定する。

 

芦戸が酸を飛ばし、金属製の接続具を溶かす。

 

拳藤が巨大な手で、球体の形が崩れないように押さえた。

 

取蔭は身体を分離させ、球体の隙間へ潜り込む。

 

「見つけた! 糸が集まっている場所、ここ!」

 

彼女の手が、球体の奥にある小さな接続点を掴んだ。

 

「百、こっちは切っていい!」

 

「わかりました!」

 

八百万が工具を構える。

 

だが、その瞬間。

 

赤い糸が、取蔭の腕へ一斉に絡みついた。

 

「うわっ!」

 

彼女の身体が引きずられる。

 

「取蔭!」

 

拳藤が、巨大な手を伸ばす。

 

だが、腕を伸ばせば球体が崩れる。

 

動けない。

 

「……くっ!」

 

拳藤が歯を食いしばる。

 

「取蔭、身体を分離させて!」

 

「もうしてる!」

 

取蔭は残った部位を引き寄せようとした。

 

しかし、糸が分離した身体の一つひとつにまで絡みついていた。

 

「こいつ、私の個性まで利用する気!?」

 

糸が、彼女の身体を球体の内側へ引っ張る。

 

その瞬間、ミッドナイトが動いた。

 

「させないわ!」

 

彼女は鞭を振るい、取蔭へ伸びる糸を打ち払った。

 

一本。

 

二本。

 

三本。

 

すべてを切り離したわけではない。

 

だが、引きずる力が弱まった。

 

取蔭の腕が、球体の隙間から抜け出した。

 

「助かった……!」

 

ミッドナイトは、彼女を見た。

 

「取蔭さん。今よ!」

 

「はいっ!」

 

取蔭の手が、接続点へ伸びる。

 

八百万が工具を投げた。

 

取蔭はそれを受け取り、球体の奥で固定具を切断した。

 

その瞬間、球体の表面に大きな亀裂が走った。

 

赤い光が明滅する。

 

「山田!」

 

相澤が叫ぶ。

 

「ああ!」

 

プレゼントマイクが、全身の呼吸を整えた。

 

力任せに声を放てば、球体だけでなく、周囲の支柱や生徒たちまで巻き込む。

 

必要なのは、破壊ではなく、狙いを絞った一撃だった。

 

「全員、耳を守れ!」

 

八百万が用意した防音装備を装着する。

 

相澤は捕縛布で、ミッドナイトを自分のそばへ引き寄せた。

 

「動けるか?」

 

「ええ」

 

ミッドナイトは、鞭を握り直した。

 

「最後まで、立っているわ」

 

相澤は、それ以上何も言わなかった。

 

ただ、彼女が自分の意志で動けることを確認し、彼女自身の判断を待った。

 

ミッドナイトが頷いた。

 

「……行くわよ!」

 

彼女は鞭を振るった。

 

赤い糸が、球体の表面から伸びる。

 

そのすべてを相手にする必要はない。

 

彼女は一本だけを狙った。

 

球体の中心を、ほかの糸へつないでいる太い線。

 

鞭の先端が、それに絡みつく。

 

「山田先生!」

 

「任せな!」

 

ミッドナイトが引く。

 

赤い糸が張り詰め、球体の中心が露出した。

 

プレゼントマイクが、息を吸い込む。

 

「これで……!」

 

彼の声が、一直線に放たれた。

 

「――VOICE!」

 

音波が、球体の中心だけを撃ち抜く。

 

赤い光が、一瞬、真っ白になった。

 

次いで、あらゆる糸が動きを止める。

 

「今です!」

 

八百万が叫ぶ。

 

芦戸が最後の支点を溶かす。

 

峰田が、動きを再開しようとした糸を粘着球で固定する。

 

拳藤が両手で球体の外殻を押さえ、崩壊を食い止める。

 

取蔭の手が、最後の接続具を引き抜いた。

 

そして、相澤が叫んだ。

 

「抹消!」

 

赤い糸が、一斉に力を失った。

 

床へ落ちる。

 

壁から剥がれる。

 

天井から垂れ下がっていた糸が、まるで命を失ったように、次々と地面へ落下していく。

 

球体の光が消えた。

 

色欲の影が、ゆっくりと膝をついた。

 

「……なぜ」

 

その声には、怒りよりも困惑があった。

 

「なぜ、あなたたちは……彼女を変わらない存在にしておくことを、選ばなかったのです?」

 

八百万は、工具を下ろした。

 

「変わらないでいてほしいと思うことはあります」

 

彼女は答えた。

 

「大切な人がいなくなったとき、その人がいた日々を、そのまま残しておきたいと思うこともあります」

 

峰田が続ける。

 

「俺だって、忘れたくねえよ」

 

芦戸は、床に落ちた赤い糸を見つめた。

 

「でも、変わらないものだけが大切なんじゃない」

 

拳藤が拳を開く。

 

「変わった後だって、大切にできることがある」

 

取蔭が、身体を元に戻した。

 

「私たちは、その方法を自分で考えるよ」

 

色欲の影が、震えた。

 

『――それでは、いつか彼女のことを忘れてしまう』

 

相澤は答えた。

 

「そのときは、そのときだ」

 

『彼女の教えが失われるかもしれない』

 

「なら、残したいと思う者が残せばいい」

 

『彼女の名前が、誰の口からも語られなくなるかもしれない』

 

山田は、目を閉じた。

 

それから、ゆっくりと開いた。

 

「それでも、あいつがいたことまで、なかったことにはならねえよ」

 

色欲の影は、言葉を失った。

 

彼らが掲げるのは、永遠の保存ではなかった。

 

変化を拒むことでもなかった。

 

記憶を手放すことでもなかった。

 

失ったものを失ったまま認め、それでも自分の人生を選び続けること。

 

誰かのために生きることと、誰かのために自分を失うこと。

 

似ているようで、決して同じではないもの。

 

色欲は、赤い糸が落ちていく床を見つめた。

 

「……あなたたちは」

 

影の輪郭が崩れ始める。

 

「彼女を、あなたたちの物語の終わりにしないのですね」

 

ミッドナイトが、静かに答えた。

 

「ええ」

 

彼女は、彼らを見渡した。

 

「この子たちには、この子たちの物語があるもの」

 

色欲の影は、最後に彼女を見つめた。

 

「それでも、あなたは寂しくないのですか?」

 

ミッドナイトは、少しだけ笑った。

 

「寂しいわよ」

 

その答えに、誰も息を呑んだ。

 

「寂しくないなんて、言えないわ。忘れられたくないと思うこともあるし、誰かの心に残りたいと思うことだってある」

 

彼女は、床に落ちた赤い糸を見た。

 

「だけど、寂しいからって、誰かを縛っていいことにはならないでしょう?」

 

色欲の輪郭が、崩れた。

 

「……そう、ですか」

 

その声が、最後まで響く。

 

「それが……あなたたちの、答え……」

 

影が消えた。

 

赤い糸は、完全に動きを止めた。

 

訓練場に、静寂が戻った。

 

長い戦いの末に、誰もが床へ膝をつき、荒い息を吐いていた。

 

峰田は仰向けに倒れた。

 

「……終わった?」

 

「終わった、と思うわ」

 

芦戸が答える。

 

「『と思う』って言うなよ……今度こそ終わったって言ってくれよ……」

 

「じゃあ、今度こそ終わった!」

 

「本当だな!?」

 

「たぶん!」

 

「たぶんをつけるなあああ!」

 

その声に、八百万が思わず笑った。

 

拳藤も、取蔭も、かすかに笑う。

 

セメントスは崩れかけた壁を支えながら、静かに息を吐いた。

 

根津は、停止した装置の残骸を見つめている。

 

「……反応は止まった。少なくとも、今この場で確認できる異常は消えたようだね」

 

「原因はわからずじまいか」

 

相澤が尋ねた。

 

「残念ながらね。装置が何を基盤に動いていたのか、赤い糸が何を意味していたのか。今ある記録だけでは判断できない」

 

根津は、小さく首を振った。

 

「ただ、わからないことが残ったからといって、目の前で解決した問題まで無意味になるわけではない」

 

相澤は頷いた。

 

「そうだな」

 

そして、彼はミッドナイトを見た。

 

「……ミッドナイト」

 

彼女は、ゆっくりと振り返った。

 

彼女の身体に、もう赤い糸は絡んでいなかった。

 

けれど、彼女が何者なのか。

 

本当に、かつて雄英で教壇に立っていた彼女自身なのか。

 

その答えは、まだ出ていなかった。

 

相澤は、それを無理に確かめようとはしなかった。

 

「お前に、聞いておきたいことがある」

 

「何かしら?」

 

「お前は、自分の意志でここにいるのか」

 

ミッドナイトは、一瞬だけ目を伏せた。

 

やがて、顔を上げる。

 

「……今は、自分で選んで、ここにいるつもりよ」

 

「そうか」

 

「それで、納得できる?」

 

相澤は答えなかった。

 

彼女の言葉を、完全に信じたわけではない。

 

すべてを疑っているわけでもない。

 

ただ、今の彼女が、自分の意志でそう答えた。

 

その事実だけを受け止めた。

 

「今は、それでいい」

 

ミッドナイトは微笑んだ。

 

「……ありがとう」

 

その言葉に、山田が顔を上げた。

 

彼は何かを言おうとして、やめた。

 

今すぐ彼女に尋ねたいことは山ほどある。

 

本当にミッドナイトなのか。

 

どこまで覚えているのか。

 

自分たちが知っていた彼女と、今ここにいる彼女は、同じなのか。

 

しかし、そのどれもが、今すぐ答えを求めるべき質問とは限らなかった。

 

山田は、ただ言った。

 

「……帰ろうぜ」

 

ミッドナイトが、彼を見つめる。

 

「ええ」

 

彼女は頷いた。

 

「そうしましょう」

 

その返事を、誰もが聞いていた。

 

それ以上、誰も彼女へ何かを求めなかった。

 

八 忘れないことと、縛らないこと

旧訓練施設の出口へ向かう廊下。

 

戦闘で負傷した者はいないか、装備に問題はないか。

 

八百万と根津が確認を進め、セメントスは崩れた通路を補修していた。

 

峰田は、まだ足元を気にしながら歩いていた。

 

「なあ……俺、今日の戦いで一つわかったことがある」

 

芦戸が横目で見る。

 

「何?」

 

「先生が相手だと、すげえ攻撃しづらい」

 

「今さら?」

 

「いや、だってさ。相手が敵だってわかってても、顔が知ってる人なんだぞ! しかも、俺たちの弱点を知ってる先生なんだぞ! 戦いにくいに決まってるだろ!」

 

「それはそうね」

 

八百万が頷いた。

 

「ミッドナイト先生は、私たちの個性だけでなく、考え方や行動の癖もよく理解していらっしゃいました。あの状態で戦うのは、簡単ではありませんでしたわ」

 

「でも、だからこそ、私たちの知らないことも使えたんじゃない?」

 

芦戸が言った。

 

「私たちが一人ひとり違うこと。先生のことを、それぞれ違うふうに覚えてること」

 

取蔭が、肩を回した。

 

「一人の記憶だけだったら、もっと苦戦してたかもね」

 

拳藤は、彼女の隣で頷いた。

 

「私たちが、同じ答えを出す必要はなかった」

 

「同じ人を大切に思っていても、受け取るものが違うんですものね」

 

八百万が言う。

 

峰田は、少し考えてから口を開いた。

 

「……じゃあ、先生のことを忘れない方法も、人によって違っていいんだよな」

 

「そういうことじゃない?」

 

芦戸は笑った。

 

「私は先生のこと、たぶんこれからも思い出すよ。何か決めるときとか、怖くなったときとか。けど、先生が言ったことを全部正解にするつもりはない」

 

彼女は少しだけ、視線を落とした。

 

「だって、先生だって迷ってたんだもんね」

 

八百万が頷く。

 

「ええ。完璧ではないからこそ、私たちが学べることもあるのでしょう」

 

「俺は……」

 

峰田は、少しだけ言い淀んだ。

 

「俺は、怖がりなままでもいいのかもしれないって思った」

 

芦戸が、優しく笑う。

 

「うん」

 

「怖くなくなるまで待つんじゃなくて、怖いままで、できることを探す。先生が教えてくれたのは、そういうことだったのかもしれない」

 

「それも、あんたが選んだ答えだよ」

 

「……そうだな」

 

峰田は頷いた。

 

拳藤は、歩きながら天井を見上げた。

 

「守るって、難しいね」

 

「急にどうしたの?」

 

取蔭が尋ねる。

 

「さっきの戦いで、何度も思ったんだ。相手を守ろうとして、相手の動きを制限することはある。危険なときは、止めなきゃいけないことだってある」

 

拳藤は、自分の巨大な手を見た。

 

「でも、それを理由に、相手の代わりに全部決めてしまったら……それは、本当に守っていることになるのかなって」

 

取蔭は、少し考えた。

 

「全部、相手に任せればいいってわけでもないんでしょ?」

 

「うん」

 

拳藤は頷いた。

 

「だから、難しいんだと思う。でも、難しいからって、誰か一人が全部決めるのは違う」

 

取蔭は笑った。

 

「なら、一緒に悩めばいいんじゃない?」

 

「……そうだね」

 

二人は顔を見合わせた。

 

八百万は、その会話を聞きながら、静かに微笑んでいた。

 

彼女にとって、ミッドナイトから受け取ったものは、知識や技術だけではない。

 

自分で考えること。

 

準備をすること。

 

それでも、予想どおりにいかない現実の中で、判断を下すこと。

 

そのすべてが、教師から生徒へ渡されたものだった。

 

けれど、受け取ったものをどう扱うかまで、教師が決める必要はない。

 

それは、生徒自身が考え、選んでいくことだ。

 

「……私も、もっと考えなくてはいけませんわね」

 

八百万がつぶやいた。

 

「何を?」

 

芦戸が尋ねる。

 

「これから、自分がどんな人間になりたいのか。誰の言葉を参考にして、何を目標にして、どのような道を選んでいくのか」

 

八百万は前を向いた。

 

「先生の教えを大切にすることと、先生の代わりになることは違いますもの」

 

彼女は、小さく笑った。

 

「私は、ミッドナイト先生の人生を引き継ぐことはできません。でも、先生から学んだことを使って、自分の人生を生きることはできます」

 

「それでいいんじゃない?」

 

芦戸は、彼女の肩を軽く叩いた。

 

「私たち、それぞれ違うんだからさ」

 

「ええ」

 

八百万は頷いた。

 

「それぞれ、違う道を選べばよいのですわね」

 

その少し後ろを歩いていた山田は、彼女たちの会話を聞いていた。

 

生徒たちは、自分たちなりの答えを見つけ始めている。

 

教師が教えられることはある。

 

間違いを指摘することも、危険を止めることも、考えるための材料を与えることもできる。

 

けれど、最後の選択まで代わりに行うことはできない。

 

山田は、隣を歩く相澤へ視線を向けた。

 

「……なあ、相澤」

 

「何だ」

 

「俺たちも、これから変わっていかなきゃな」

 

相澤は、少しだけ目を細めた。

 

「当たり前だ」

 

「即答かよ」

 

「教師だからな」

 

「その理屈、今日の話の流れで使うのか?」

 

「教師だからこそ、使うんだ」

 

山田は、しばらく彼を見つめた。

 

そして、小さく笑った。

 

「……そうだな」

 

二人は、もう何も言わなかった。

 

かつての同僚が、どこかへ消えてしまったのかもしれない。

 

目の前にいる存在が、本当に彼らの知るミッドナイトなのかもわからない。

 

その不確かさは、消えていない。

 

それでも、彼らはもう、わからないことを理由に一つの結論へ飛びつこうとはしなかった。

 

わからないなら、わからないまま向き合う。

 

相手の言葉を聞く。

 

行為を見極める。

 

危険があれば止める。

 

それでも、相手の心まで、自分たちの望む形に決めつけない。

 

その選択は、今ここでしかできないものではない。

 

これからも、何度だって求められるだろう。

 

相澤は、歩きながら一度だけ振り返った。

 

旧訓練施設の奥。

 

赤い糸は、もう動いていなかった。

 

だが、床に残ったわずかな傷痕は、まだ消えていない。

 

原因も、正体も、すべてが明らかになったわけではない。

 

それでも、今はそれでよかった。

 

相澤は前を向いた。

 

「行くぞ」

 

「おう」

 

山田が答えた。

 

その後ろで、元生徒たちの声が重なる。

 

教師が先頭を歩く。

 

生徒たちが、その背中を追う。

 

けれど、誰もが、同じ足取りではなかった。

 

歩幅も違う。

 

速度も違う。

 

向かう先も、いつかは違っていくだろう。

 

それでいい。

 

誰かのために、自分の未来を固定する必要はない。

 

誰かを忘れないために、自分の人生を止める必要もない。

 

大切な人から受け取ったものを胸に抱きながら、それぞれが、自分の選んだ道を歩いていけばいい。

 

それこそが、教えを受け継ぐということなのだから。

 

九 彼女のいない物語

訓練施設の外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。

 

戦闘中に張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。

 

芦戸は、大きく伸びをした。

 

「はあーっ! 外の空気って、こんなにおいしかったんだ!」

 

「それは、君がずっと訓練施設にいたからではないかな」

 

根津が笑った。

 

「根津校長、それは言わないでくださいよー!」

 

峰田が頭を抱える。

 

「俺なんか、最後の方は空気を吸うのも怖かったんですからね!」

 

「大げさだなあ」

 

取蔭が笑う。

 

「大げさじゃねえよ! 何だよあの糸! 人間の心を使って操り人形を作るとか、趣味が悪すぎるだろ!」

 

「だからこそ、趣味の悪い相手には負けたくないんでしょ?」

 

芦戸が言った。

 

「……それは、そうだけどさ」

 

峰田は言葉を詰まらせた。

 

八百万は、静かにミッドナイトを見た。

 

彼女は、少し離れた場所に立っていた。

 

風に髪を揺らしながら、空を見上げている。

 

その横顔には、疲れが見えた。

 

戦いの傷ではない。

 

もっと深い場所で、何かを考えているような顔だった。

 

八百万は、一歩前へ出た。

 

「……ミッドナイト先生」

 

彼女が振り返る。

 

「何かしら?」

 

「その……」

 

八百万は、言葉を探した。

 

尋ねたいことは、たくさんある。

 

先生は本当に先生なのか。

 

今も私たちを覚えているのか。

 

以前のように、私たちへ教えてくれるのか。

 

けれど、どれも今すぐ答えを求めるべき質問ではないように思えた。

 

「私は、先生から学んだことを、これからも大切にします」

 

ミッドナイトは、静かに彼女を見つめた。

 

「でも、先生の教えをそのまま守ることだけが、大切にする方法ではないと……今日、改めて思いました」

 

八百万は微笑んだ。

 

「これからは、自分で考えて、自分で選びます」

 

「……そう」

 

ミッドナイトは、優しく頷いた。

 

「それでいいのよ」

 

その返事を聞いた八百万は、少しだけ目を伏せた。

 

そして、笑った。

 

「はい」

 

続いて、峰田が一歩前に出る。

 

「先生!」

 

「何かしら、峰田君?」

 

「俺も、先生に教わったことを忘れません!」

 

彼は胸を張った。

 

「怖くても、できることを探す! そのために、もっと強くなる!」

 

ミッドナイトは微笑んだ。

 

「期待しているわ」

 

「……はい!」

 

その言葉を聞いた峰田は、少しだけ泣きそうな顔をした。

 

けれど、彼は泣かなかった。

 

それを見て、芦戸が笑った。

 

「ほら、峰田。ちゃんと自分で立ってるじゃん」

 

「うるせえ!」

 

「褒めてるんだけど?」

 

「わかってるよ!」

 

芦戸はミッドナイトへ向き直った。

 

「先生、私も!」

 

彼女は、自分の胸元を拳で叩いた。

 

「私は、強くなる! でも、何でもできる人になるんじゃなくて、できないことはできないって言える人になりたい!」

 

「……そう」

 

ミッドナイトは、少し目を細めた。

 

「それは、とても大切なことね」

 

拳藤も歩み寄る。

 

「私も、誰かを支えられる人になりたいです。でも、相手の代わりに決めてしまわないように、自分の判断を疑うことも忘れないようにします」

 

取蔭は笑いながら、隣に並んだ。

 

「私は、先生のことを思い出すとき、これからもいろいろなことを思い出すと思う。授業のことも、ちょっとした雑談も、何でもない場面も」

 

彼女は、肩をすくめた。

 

「でも、私が覚えてる先生が、先生の全部だとは思わないよ」

 

ミッドナイトは、五人を順に見た。

 

彼女は、何かを言いかけた。

 

しかし、すぐに口を閉じた。

 

そして、ゆっくりと微笑んだ。

 

「……ありがとう」

 

その言葉は、とても小さかった。

 

けれど、誰も聞き逃さなかった。

 

山田は、その様子を少し離れた場所から見ていた。

 

相澤が、隣へ並ぶ。

 

「……どうした」

 

「いや」

 

山田は、空を見上げた。

 

「生徒ってのは、すげえなと思ってさ」

 

相澤は、鼻を鳴らした。

 

「今さら気づいたのか」

 

「お前は本当に素直じゃないな!」

 

「お前が素直すぎるんだ」

 

二人は、同時に小さく笑った。

 

そして、山田はミッドナイトへ目を向ける。

 

「……なあ、相澤」

 

「今度は何だ」

 

「俺たちも、あいつに何かを教わったんだろうな」

 

相澤は、しばらく黙っていた。

 

「……そうかもしれない」

 

山田は頷いた。

 

「教師は、いつだって教える側だと思ってた。でも、違うんだな」

 

彼は、元生徒たちを見つめた。

 

「教えたことが、どう受け取られるかまでは決められない。教えた相手が、どんな道を選ぶかも決められない」

 

「当たり前だ」

 

相澤が答えた。

 

「生徒は、教師のために存在しているわけじゃない」

 

「……そうだな」

 

山田は、少しだけ笑った。

 

「だから、俺たちも生徒たちのために変わらなきゃいけないんだろうな」

 

相澤は、彼を見た。

 

「変わることを怖がるな、ということか?」

 

「そういうこと!」

 

山田は、いつもの調子を少しだけ取り戻した。

 

「俺だって、いつまでも同じじゃいられねえ。お前だってそうだろ?」

 

相澤は答えなかった。

 

その代わり、遠くで笑い合う生徒たちを見つめた。

 

「……そうだな」

 

その答えは、今までよりも柔らかかった。

 

ミッドナイトも、彼らを見ていた。

 

元生徒たちの笑顔。

 

教師たちの会話。

 

彼女が知っているものと、知らないものが混じった光景。

 

その中に、自分が必ずしも中心として存在する必要はない。

 

彼らが自分のことを覚えていてくれれば、うれしい。

 

時には、自分の言葉を思い出してくれれば、もっとうれしい。

 

けれど、彼らが自分の知らない場所で、知らない誰かと出会い、自分が想像もしなかった未来を選ぶこと。

 

それは、決して悲しいことだけではない。

 

教師であることは、生徒の人生のすべてを導くことではない。

 

時には、見送ること。

 

時には、間違いを止めること。

 

時には、答えを与えず、考えるための時間を残すこと。

 

そして、いつか自分がいなくなった後も、生徒たちが自分自身の足で歩いていけると信じること。

 

ミッドナイトは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……いい子たちね」

 

誰へ向けた言葉なのか。

 

彼女自身にも、はっきりとはわからなかった。

 

その言葉を聞いた山田が、苦笑した。

 

「まったくだ」

 

相澤は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「だから、俺たちが余計なことをしないようにしないとな」

 

「おいおい、俺たちだって教師だぜ?」

 

「だから言ってる」

 

「ひどいなあ!」

 

その会話に、芦戸が振り返った。

 

「何ですか、先生たち。何か話してたんですか?」

 

「いや、何でもない!」

 

山田は、いつもの明るい声で答えた。

 

「ただ、みんなが成長してるなって話だ!」

 

「えー、そんなの当たり前じゃないですか!」

 

芦戸が笑う。

 

八百万も微笑み、拳藤と取蔭が顔を見合わせる。

 

峰田は、少し照れくさそうに鼻をこすった。

 

その光景を見つめながら、ミッドナイトは静かに笑った。

 

彼らは、もう彼女だけを見てはいなかった。

 

それでよかった。

 

むしろ、それこそが、彼女が願っていた未来だったのかもしれない。

 

ミッドナイトは、一歩だけ後ろへ下がった。

 

誰も、その動きに気づかなかった。

 

彼女は、自分が彼らの物語の中心に立ち続ける必要はないと知っていた。

 

彼らの未来は、彼女のためにあるわけではない。

 

彼女の記憶を保存するために、彼らの人生が用意されているわけでもない。

 

彼らは、それぞれの人生を選ぶ。

 

迷いながら。

 

間違えながら。

 

時には、誰かの言葉を忘れながら。

 

それでも、受け取ったものを、自分のものへと変えていく。

 

その歩みを、誰かの手で止めることはできない。

 

止めてはいけない。

 

ミッドナイトは、もう一度だけ、彼らを見つめた。

 

「……さようなら」

 

風が吹いた。

 

彼女の声は、誰にも届かなかった。

 

その姿が、夕暮れの光へ溶け込むように薄れていく。

 

だが、誰もそれを目にしていなかった。

 

いや、あるいは。

 

誰かが気づいていたとしても、声をかけなかったのかもしれない。

 

彼女が自分の意志で立ち去ろうとしているのなら。

 

その選択を、誰かが引き止める必要はない。

 

残された者たちは、これからもミッドナイトを思い出すだろう。

 

彼女の言葉を思い出すだろう。

 

授業の風景を。

 

何気ない笑顔を。

 

厳しく叱られたことを。

 

励ましてもらったことを。

 

そして、彼女から学んだことを、少しずつ自分の人生に生かしていくだろう。

 

その中で、彼女の姿は変わっていく。

 

思い出すたびに、新しい意味が生まれることもある。

 

以前は気づかなかった言葉の重さに、何年も後になって気づくことだってある。

 

それは、記憶が壊れることではない。

 

記憶が、その人自身の人生とともに育っていくということだ。

 

ミッドナイトは、彼らの人生を自分の物語の結末にしない。

 

彼らも、彼女の人生を、自分たちの物語の結末にしない。

 

誰かを大切に思うこと。

 

誰かを忘れずにいること。

 

そして、誰かの知らない未来へ進んでいくこと。

 

そのすべては、同時に存在できる。

 

夕暮れの空の下、元生徒たちは歩き出した。

 

教師たちも、その後を追う。

 

誰も、同じ道を歩くとは限らない。

 

けれど、彼らは確かに、同じ場所から歩き始めた。

 

ミッドナイトという教師から受け取ったものを胸に抱いて。

 

彼女のために生き方を固定するのではなく。

 

彼女がいなくても、自分の人生を選べるように。

 

そしていつか、自分たちも誰かへ何かを伝えたとき。

 

その相手が、自分の知らない答えを選んでくれることを、願えるように。

 

それが、彼女の遺志を一つの正解にしないということ。

 

それが、忘れないことと、縛らないことの違いだった。

 

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