一 出席を取らない教師
翌日。
雄英高校旧訓練施設。
立入制限が解除される前の点検作業が、教師陣と元生徒たちによって行われていた。
崩れた壁はセメントスによって補修され、破損した設備は八百万が作成した仮設の器具を使って分類されている。根津校長は、残された記録装置を一つずつ確認していた。
そこに、赤い糸はない。
昨日まで床や壁を這い回り、人々の記憶を利用していたあの異常な糸は、どれだけ探しても見つからなかった。
しかし、異常の発生源に関する決定的な記録も見つかっていない。
「……やっぱり、何も残ってないんですか?」
芦戸三奈が、根津の手元を覗き込んだ。
「何も、というわけではないよ。装置の残骸や、停止した回路の記録は残っている。ただ、それらがどうやってあの現象を発生させたのかという肝心な部分が、きれいに抜け落ちているんだ」
「データだけ消されたんですか?」
八百万百が尋ねた。
「その可能性もある。ただ、通常の情報消去とは挙動が違う。何者かが意図的に消したのか、それとも、こちらが記録として認識できる範囲から外れていたのか。現段階では断定できないね」
「うわあ……またその答えですか」
峰田実が頭を抱えた。
「昨日は戦って、今日は後片づけ。しかも最後に残ったのが『わかりません』って……俺、もっとこう、わかりやすい勝利の報告がほしいんですけど!」
「わかりやすい勝利の報告なら、君たちが昨日勝ち取ったじゃないか」
根津は笑った。
「目の前で起きていた他者の意思を縛る行為を止めた。それは、発生源がわからなくても変わらない事実だよ」
「……まあ、それは、そうですけど」
峰田は頭をかいた。
「でも、こう、気持ちよく終わったって感じはしないんですよ」
「完全に解決していないことと、何も解決していないことは違うわ」
八百万が言った。
「……八百万さん、時々すごく大人だよね」
「時々とは何ですの?」
「いや、今のは褒め言葉!」
「本当に?」
「本当です!」
芦戸が吹き出した。
拳藤一佳と取蔭切奈も、そのやり取りを見て笑う。
だが、その笑い声は、施設の奥から聞こえた音によって止まった。
カツン。
硬い靴音。
全員が振り返る。
廊下の向こうから、一人の女性が歩いてきた。
紫色の衣装。
長い髪。
鞭を携えた姿。
「……ミッドナイト先生?」
八百万が、思わずつぶやいた。
女性は立ち止まり、彼女たちを見た。
「おはよう。朝からずいぶん賑やかね」
いつもと変わらない口調。
まるで、昨日までの出来事など何もなかったかのような態度だった。
しかし、その場にいた全員が、一瞬で戦闘態勢に移行した。
相澤消太は捕縛布に手をかける。
山田ひざし――プレゼントマイクは、生徒たちの前へ出られる位置へ移動した。
セメントスは足元のコンクリートへ意識を向け、根津校長は手元の装置を閉じた。
八百万は創造の準備を整える。
峰田は粘着球を手にし、芦戸はいつでも酸を放てるよう指先を構えた。
拳藤は両手を広げ、取蔭は身体を分離させるために重心を落とす。
その反応を見て、ミッドナイトは目を丸くした。
「まあ……ずいぶんな歓迎ね」
「当然だろ」
相澤が答えた。
「昨日の件が解決したと判断するだけの証拠はない」
「ええ。そうでしょうね」
ミッドナイトは、あっさりと頷いた。
「なら、どうするの?」
「まず、お前が何者なのか確認する」
「どうやって?」
「質問する。答えを聞く。行動を見る。必要なら拘束する」
「……あなたらしいわね」
彼女は苦笑した。
相澤は表情を変えなかった。
「お前が俺の知るミッドナイトだと証明する義務はない。だが、俺たちが何も疑わずに信用する義務もない」
「そうね」
「ただし――」
相澤は、彼女の手元を見た。
「今この場で、誰かの意思を奪おうとしない限り、こちらから先に攻撃を仕掛けるつもりもない」
ミッドナイトは、しばらく彼を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「……その判断でいいわ」
山田が、低く息を吐く。
「なあ、ミッドナイト」
「何かしら、山田先生?」
「ひとつ聞いていいか」
「どうぞ」
「昨日、俺たちが最後に話したこと。覚えてるか?」
ミッドナイトは、すぐには答えなかった。
視線が、元生徒たちへ移る。
八百万。
峰田。
芦戸。
拳藤。
取蔭。
彼女は五人を順に見つめてから、再び山田へ目を向けた。
「……忘れていないわ」
その声に、山田の表情がわずかに揺れた。
「そうか」
彼は、それ以上追及しなかった。
本当に覚えているのか。
記憶の内容が正しいのか。
その言葉が、彼らの知るミッドナイトのものなのか。
確かめたいことは残っている。
それでも、今の答えを、無理に別の意味へ変えることはしなかった。
すると、ミッドナイトが鞭を床へ立てかけた。
「それで……せっかく集まっているところに申し訳ないのだけれど」
彼女は、訓練場の奥を指した。
「一つ、お願いがあるの」
峰田が身構える。
「お願いって、まさか……」
「最後に一度、あなたたちと戦わせてほしいの」
沈黙。
次いで、峰田が叫んだ。
「なんでそうなるんですかあああっ!?」
二 最後の実技試験
「理由を聞かせてもらおう」
相澤は、即座に答えた。
ミッドナイトは頷く。
「昨日の戦いで、あなたたちは自分の答えを見つけた。少なくとも、そう思っているのでしょう?」
「……」
「でも、自分の考えを言葉にすることと、実際に選択できることは違うわ」
彼女は元生徒たちを見渡した。
「本当に自分で考えているのか。相手の言葉に従うだけではなく、自分の判断で動けるのか。それを確かめたいの」
「それは、あなたが試験官になる必要があるのでしょうか?」
八百万が尋ねた。
「そうね。必ずしも私である必要はない」
ミッドナイトは、正直に認めた。
「でも、あなたたちにとって、私が教師だったという事実は変わらないでしょう?」
「……はい」
「だからこそ、最後に一度、戦ってみたいのよ」
その表情には、強制するような色はなかった。
ただ、相手の返事を待っている。
相澤は彼女から目を逸らさない。
「危険があれば、俺たちは介入する」
「当然ね」
「お前が生徒を傷つける行動に出た場合、個性の使用を止める。指示が必要だと判断したら、俺が出す」
「ええ」
「それと、これは授業ではない」
相澤は言い切った。
「お前が本当に教師だったとしても、今ここにいる生徒たちを、お前の生徒だと一方的に扱うことはできない」
ミッドナイトは、少しだけ目を見開いた。
そして、笑った。
「……本当に、厳しい先生」
「聞き飽きた」
「そうでしょうね」
相澤が生徒たちへ視線を向けた。
「参加するかどうかは、お前たちが決めろ。戦う理由を俺が決めるつもりはない」
八百万は、少し考えてから答えた。
「私は参加します」
峰田が目を見開いた。
「えっ、マジで!?」
「ええ。昨日の戦いで学んだことを、実際に使えるか確かめたいですもの」
「……そうだな」
拳藤が頷く。
「私も参加する。戦うことそのものより、自分の判断が正しいと思い込まないためにも、実際に試してみたい」
「私も!」
取蔭が手を上げた。
「同じことを考えてるつもりでも、戦いの最中は見えるものが変わるからね。やってみる価値はあると思う」
芦戸は、軽く拳を打ち合わせた。
「私もやるよ。昨日は先生に操られた糸を切るために戦ったけど、今日は自分の意志で先生に挑む。それなら、戦う意味も違ってくるでしょ?」
全員の視線が、峰田へ集まった。
彼は両手を振った。
「いやいやいや! ちょっと待てよ! 俺、昨日の戦いでもう十分頑張っただろ! 先生相手に、今日も戦うのか!?」
「嫌なら参加しなくていい」
相澤は、あっさり言った。
峰田は口を開けたまま固まった。
「……え?」
「嫌なら参加しなくていいと言った」
「いや、それは……」
彼はミッドナイトを見た。
彼女は、何も言わずに待っている。
参加してほしいとも、逃げるなとも言わない。
ただ、自分が決めるのを待っていた。
峰田は、昨日の言葉を思い出した。
怖くても、できることを探す。
失敗したことと、何も学ばなかったことは違う。
そして、自分で選ぶ。
「……参加する」
彼は、粘着球を握り直した。
「怖いけど、参加する。俺が決めた」
芦戸が笑った。
「いいじゃん!」
「ただし!」
峰田は、すぐさま指を立てた。
「俺の安全確保を最優先にしてもらいます! あと、勝てそうになったら全力で応援してください!」
「そこまで含めて、自分で考えなさい」
相澤の返事に、峰田は崩れ落ちた。
「先生が厳しすぎる……!」
「よし」
ミッドナイトは鞭を手に取った。
「それじゃあ、始めましょうか」
根津校長が、軽く手を叩いた。
「私からも条件を追加しよう。今回の訓練では、勝利条件を一つに固定しない」
「勝利条件を一つに固定しない?」
八百万が聞き返した。
「そう。ミッドナイト君を拘束する、時間いっぱいまで攻撃を避け続ける、あるいは、こちらが不利だと判断した段階で撤退する。どれを選んでも構わない」
根津は、楽しそうに笑った。
「ただし、判断の理由は説明してもらう。単に勝った、負けたという結果だけでは採点しないよ」
「……なるほど」
八百万は目を細めた。
「相手を倒すことだけが、戦いの目的ではないということですね」
「そのとおり」
セメントスが訓練場の床へ手をついた。
コンクリートの壁が隆起し、複数の障害物と遮蔽物が形成される。
「安全を確保するため、戦闘区域を限定します。致命的な事故につながる攻撃は私が遮断します」
山田が首を鳴らした。
「俺は音の出力を制限する。必要なら、逃げ道を作るために使うぜ」
相澤は、捕縛布を肩から垂らした。
「俺は個性を使う。ただし、お前たちを助けるために、毎回指示を出すとは限らない」
五人は顔を見合わせた。
「つまり……」
芦戸が言う。
「先生たちも参加するってこと?」
「そういうことだ」
相澤は答えた。
「ミッドナイト一人を相手にした実技試験ではない。教師陣も含めた訓練だ」
峰田が、顔を青くした。
「人数差を考えてくださいよ!?」
「なら、勝利条件を変えればいい」
相澤は続けた。
「お前たちが勝つとは限らない。俺たちが勝つとも限らない。戦いの結果をどう受け止めるかも含めて、お前たち自身で考えろ」
ミッドナイトは、ゆっくりと訓練区域の中央へ歩いていった。
「……では」
彼女は鞭を持ち上げる。
「最後の授業を始めましょう」
その言葉を聞いた八百万は、静かに防護装備を確かめた。
先生がいる。
しかし、答えを教えてくれるとは限らない。
むしろ、今回はその逆だ。
自分たちが答えを出さなければならない。
相澤が手を上げる。
「開始!」
次の瞬間、ミッドナイトの鞭が空を裂いた。
三 個性を使う、判断を使う
最初に動いたのは、芦戸だった。
「行くよ!」
彼女は低く姿勢を落とし、床を蹴った。
正面からミッドナイトへ向かう。
ミッドナイトは、鞭を横薙ぎに振るった。
芦戸はその軌道を見て、即座に身体を傾ける。
鞭が髪の先をかすめた。
彼女は床へ手をつき、滑り込みながら酸を噴射する。
狙いはミッドナイトの身体ではない。
鞭の柄を握る手元でもない。
床面に残った、小さな金属製の固定具だ。
酸が固定具を溶かす。
その瞬間、ミッドナイトの足元の床板がわずかに傾いた。
彼女の重心が動く。
「いい判断ね」
ミッドナイトは、倒れ込む前に鞭を床へ打ちつけた。
鞭を支点に身体を起こし、後ろへ跳ぶ。
その先には、峰田の粘着球が待っていた。
「捕まえた!」
峰田が叫ぶ。
粘着球が、ミッドナイトの着地点へ飛び込む。
しかし、彼女は空中で足首をひねり、身体を横へ回転させた。
靴が粘着球に触れる寸前、鞭が床の柱へ巻きつく。
彼女はそのまま横へ移動した。
粘着球は壁へ貼りつく。
「くっそ、避けられた!」
「まだ終わってないよ!」
取蔭の腕が、壁の裏から伸びた。
分離した手が、鞭の先端を掴む。
別の手が床を這い、ミッドナイトの足元へ回り込む。
さらに、頭部が空中へ移動し、上から全体を見渡した。
「右に行くよ!」
取蔭の声が通信機から響く。
「拳藤、頼んだ!」
「了解!」
拳藤は両手を巨大化させた。
右手が、ミッドナイトの右側へ壁を作る。
左手は床面を押さえ、逃げ道を狭める。
その動きに、ミッドナイトの目が細くなった。
「連携は悪くないわね」
彼女は、鞭を引いた。
取蔭の手が引きずられる。
「わっ、ちょっと!」
拳藤が巨大な手を伸ばし、取蔭の手首を掴んだ。
「引っ張られないで! 離して!」
「そう言われても――」
「離していい!」
拳藤の声が響く。
「取蔭、捕まえ続ける必要はない!」
その言葉を聞いた取蔭は、すぐに鞭を掴んでいた手を分離させた。
手が床へ落ちる。
ミッドナイトは、その手を一瞬だけ見た。
その隙を、八百万は逃さなかった。
「今です!」
彼女が創造したのは、折り畳み式の防護板と、細い金属製のワイヤーだった。
ワイヤーが床を走る。
壁の支柱へ絡み、ミッドナイトの退路を横切る。
「山田先生!」
「了解!」
プレゼントマイクが、短く息を吸い込んだ。
「VOICE!」
狙いを絞った音波が、ミッドナイトの背後にある壁面へ叩きつけられた。
音が跳ね返る。
金属板が震え、空気の流れが変わった。
ミッドナイトの髪が揺れる。
彼女は、その振動を利用して身体をひねった。
ワイヤーを跨ぎ、壁の角を蹴って跳躍する。
「おおっ、今のは危なかったわ!」
彼女は着地と同時に笑った。
「でも、音を使うなら、跳ね返りまで計算しなければだめよ」
「はいはい、授業の感想は後で聞くぜ!」
山田が声を張り上げた。
ミッドナイトは、再び鞭を振るった。
今度は、八百万の防護板を狙った一撃だった。
鋭い音とともに、防護板が横へ弾き飛ばされる。
その下から、彼女の姿が現れた。
八百万は、驚きながらもすぐに次の装備を創造した。
「こんな短時間に、二度も防具を変更するとは……!」
「戦いの途中で状況が変わるのは当たり前でしょう?」
ミッドナイトは鞭を引き戻した。
「最初に用意したものを、最後まで使い続ける必要はないわ」
八百万は、歯を食いしばった。
確かに、そのとおりだった。
装備を準備することはできる。
計画を立てることもできる。
しかし、計画どおりに戦いが進むとは限らない。
重要なのは、失敗しないことではない。
失敗したときに何を見て、何を変えるかだ。
八百万は、手元の防護板を一度下ろした。
そして、新しい装備を創造する。
今度は、防御力を優先した盾ではない。
小さな鏡を複数組み合わせた、視界確認用の装置だった。
「取蔭さん!」
「はいはい!」
分離した目が、周囲の鏡に映る。
ミッドナイトの動きが、複数の方向から確認できるようになった。
「……なるほど」
ミッドナイトは目を細めた。
「見えない位置をなくそうとしているのね」
「いいえ」
八百万は答えた。
「見えない位置があることを前提にして、別の方法で確認できるようにしたのです」
「……いいわね」
ミッドナイトの笑みが、少しだけ深くなった。
「その考え方、忘れないで」
「忘れるつもりはありませんわ。ただし――」
八百万は盾を構え直した。
「先生の教えだからという理由だけで、正しいと判断するつもりもありません!」
彼女が前進する。
ミッドナイトの鞭が振られた。
防護板が衝撃を受け止める。
八百万は、その反動で後退しながら、ワイヤーを伸ばした。
ミッドナイトの鞭に絡む。
「捕らえました!」
しかし、ミッドナイトは簡単には引かれなかった。
彼女は鞭の柄を手放す。
そのまま別の腕でワイヤーを掴み、逆方向へ投げ返した。
八百万の身体が引かれる。
「しまっ……!」
拳藤が巨大な手を伸ばした。
だが、ミッドナイトはそれを見越していた。
彼女は鞭を床へ落とし、素手で拳藤の巨大な手に触れた。
そのまま身体を回転させ、手首の上を駆けるように飛び越える。
拳藤が目を見開いた。
「そこを通るの!?」
「通れる場所があるなら、通るわよ!」
ミッドナイトは、拳藤の背後へ着地した。
そこに待っていたのは、峰田だった。
「今度こそ!」
彼が粘着球を投げる。
今度は一発ではない。
床。
壁。
天井。
ミッドナイトの周囲を取り囲むように、複数の粘着球が飛んだ。
逃げ道を塞ぐのではない。
移動するたび、足場が変わるように配置している。
ミッドナイトが床へ足をつけば、粘着球が待っている。
壁へ飛べば、別の粘着球がある。
天井へ逃げても、粘着球がつるされたワイヤーに絡む。
「……あら」
ミッドナイトは、初めて明確に足を止めた。
峰田が、両手を握りしめた。
「へへ……どうですか、先生!」
「よく考えたわね」
「だろ!?」
峰田の顔が輝く。
「俺だって、ただ逃げてばっかりじゃないんです!」
「でも――」
ミッドナイトは、わずかに身を屈めた。
その足元に、まだ誰も触れていない小さな粘着球があった。
彼女は、その球を鞭の先端で弾く。
粘着球が壁へ飛び、別の球へ接触した。
連鎖するように、ワイヤーが引っ張られる。
配置していた粘着球が、次々と予定外の場所へ移動していった。
「自分の罠が、どう崩れるかまで考えておくべきだったわね」
「うそだろおおおっ!? 俺の完璧な作戦があああ!」
「完璧という言葉を使うのは、まだ早いわね」
ミッドナイトは一気に走った。
峰田の横をすり抜ける。
鞭がしなり、彼の足元へ巻きついた。
「え、ちょ、ちょっと待って!」
鞭が引かれる。
峰田の身体が、宙へ浮いた。
「またこの展開かああああっ!」
「峰田君!」
八百万が叫ぶ。
だが、彼女が動くより早く、芦戸が酸を飛ばした。
狙いは鞭ではない。
鞭を床へ固定していた小さな金具だ。
酸が金具を溶かす。
固定が外れた。
峰田の身体が落下する。
「うわっ!」
拳藤が巨大化した手で受け止めた。
「今度はちゃんと受け止めたよ!」
「ありがとう拳藤さん! 俺、今、すっげえ命拾いした!」
「でも、次は自分で抜け出してね」
「先生たち、厳しくない!?」
訓練場に笑いが起こった。
戦いは続いている。
誰も油断していない。
それでも、そこにはかつての授業を思わせる空気があった。
教師が課題を出し、生徒が失敗し、考え、もう一度挑戦する。
ただし今回は、教師が答えを用意しているわけではなかった。
生徒たちが、何を選ぶのか。
その選択を、教師自身も見守っていた。
四 先生の個性を消すということ
「相澤先生、そろそろ本気を出した方がいいんじゃないですか?」
山田が声をかけた。
「最初から本気だ」
「いやいや、それはないだろ!」
「生徒を相手に、無意味に出力を上げる必要がないだけだ」
「それを本気じゃないって言うんだよ!」
二人のやり取りを、ミッドナイトが聞いていた。
「相変わらずね、あなたたち」
彼女は、鞭を構えながら笑った。
相澤の目が細くなる。
「余裕があるな」
「そう見える?」
ミッドナイトは、すぐに構え直した。
「なら、少しだけ本気を出そうかしら」
彼女は息を吸い込んだ。
香りが、空気に混じる。
昨日の戦いで何度も見た、睡眠を誘発する香り。
しかし今回は、赤い糸による異常な増幅はない。
香りは、彼女自身の個性の範囲内に収まっていた。
それでも、訓練場にいた全員が警戒する。
八百万が声を上げた。
「皆さん、防護マスクを確認してください! 吸入を防ぐ必要があります!」
ミッドナイトは、一気に走った。
彼女の鞭が、八百万の手元を狙う。
八百万は防護盾で受け止めた。
しかし、その盾の向こう側から、甘い香りが漂う。
「……っ!」
八百万は即座に後退した。
同時に、取蔭の頭部が分離し、別の方向から彼女を観察する。
「香りが右側に濃い! 左側ならまだ動ける!」
「了解!」
拳藤が巨大化した手で、左側の空気を押し広げる。
ミッドナイトは、その反動を利用して上へ跳んだ。
「そういう使い方もあるのね」
彼女は天井近くの梁へ着地した。
「個性を使うとき、必ずしも直接相手へぶつける必要はない。周囲の環境を変えるだけでも、戦い方は変えられるわ」
「……授業の途中に解説を挟むの、やめてくれませんか!」
峰田が叫ぶ。
「考える時間がなくなるんですけど!」
「なら、解説が終わる前に行動することね」
ミッドナイトが鞭を振るった。
峰田は、反射的に床へ転がった。
鞭が頭上を通過する。
その瞬間、相澤の捕縛布が伸びた。
「抹消!」
赤い瞳が、ミッドナイトを捉える。
彼女の身体の動きが、一瞬だけ鈍った。
「……やっぱり来るわよね」
相澤は、すでに彼女の移動経路を読んでいた。
ミッドナイトが梁を蹴る前に、捕縛布でその足場を塞ぐ。
彼女は空中で体勢を変え、鞭を梁へ巻きつけた。
しかし、抹消が続いている。
個性に依存した動きが封じられ、彼女は勢いを殺しきれず、床へ降りるしかなくなった。
「ここまでだ」
相澤は捕縛布を引いた。
ミッドナイトの腕を拘束する。
だが、彼女はすぐに膝を曲げ、低い姿勢になった。
「相澤先生」
「何だ」
「あなたは、本当に抹消を使うのが上手ね」
「今さら何を言っている」
「でも、あなたの個性があるからといって、誰もが止まるわけではないでしょう?」
その言葉と同時に、ミッドナイトは鞭を手放した。
鞭が床へ落ちる。
相澤の視線が、一瞬だけそちらへ向いた。
その瞬間、ミッドナイトは拘束された腕を捻り、捕縛布の張力を利用して身体を回転させた。
相澤の腕に、反対方向から力がかかる。
彼は体勢を崩しかけた。
「……!」
ミッドナイトは拘束の隙間をすり抜け、床へ滑り込んだ。
「個性を消すことと、相手の行動すべてを消すことは違うもの」
彼女は立ち上がり、鞭を拾った。
「相手が何をしてくるのか、どう考えているのか。そこまで見なければ、個性だけを抑えても勝てない」
相澤は、彼女を見つめた。
「……わかっている」
「なら、試させてもらうわ」
ミッドナイトは、鞭を一度、床へ打ちつけた。
「今度は、あなたが相手よ」
「……教師対教師か」
「ええ」
彼女は笑った。
「生徒たちには、生徒たちの戦い方がある。あなたたちには、あなたたちの戦い方があるでしょう?」
山田が、横から割り込んだ。
「おいおい、相澤だけが相手をするなんて聞いてねえぞ!」
「なら、あなたも参加する?」
「当たり前だろ!」
山田は拳を握りしめた。
「俺だって、元同僚にやられっぱなしじゃ終われねえ!」
「山田、声を出す前に周囲を見ろ」
相澤が言った。
「わかってる!」
山田は息を吸い込む。
ただし、無差別に叫ぶことはしなかった。
声の出力を抑え、音波を床面へ向ける。
音が跳ね返り、ミッドナイトの足元を揺らした。
彼女が重心を移す。
その瞬間、相澤の捕縛布が再び伸びた。
二人の連携は、長年の経験に裏打ちされたものだった。
声で動きをずらし、捕縛布で移動を制限する。
相手が避ければ、次の手が待っている。
しかし、ミッドナイトもまた、彼らの癖を知っていた。
彼女は、相澤の捕縛布が伸びるより前に、山田の声が跳ね返る方向へ身体を移した。
音波の反射を読み、相澤の捕縛布の軌道を見切る。
そして、二人の間へ飛び込んだ。
「……っ!」
相澤が肘を引く。
山田が一歩下がる。
その隙間を、ミッドナイトはすり抜けた。
「二人とも、相手のことを知りすぎているのよ」
彼女は鞭を振るった。
相澤が腕で受け流す。
山田がその横から声を放つ。
ミッドナイトは、床へ伏せた。
音波が頭上を通過する。
そのまま床を蹴り、相澤の足元へ踏み込んだ。
「相澤先生!」
拳藤が叫ぶ。
相澤は捕縛布を引き戻し、辛うじて距離を取った。
彼は、ミッドナイトを見つめた。
「……確かに、俺たちのことをよく知っている」
「でしょう?」
ミッドナイトは、笑みを浮かべた。
「でも、それがすべてじゃないわ」
彼女は生徒たちを見渡した。
「知っている相手でも、これから何を選ぶかまではわからないもの」
その言葉を聞いて、相澤は一度だけ目を閉じた。
そして、視線を生徒たちへ向ける。
「聞いたな。相手を知っていることを、相手を理解したことと混同するな」
「はい!」
八百万が答えた。
その返事に、ミッドナイトは少しだけ寂しそうに笑った。
「……やっぱり、教えるのはあなたの役目ね」
相澤は何も答えなかった。
彼が教えられるのは、考えるための手段だ。
判断の材料だ。
危険を避ける方法だ。
だが、その先で何を選ぶかは、生徒たち自身のものだった。
教師がいなくても、彼らは考えなければならない。
教師がそばにいても、彼らは自分で考える必要がある。
そのことを確かめるために、戦いは続いていた。
五 根津校長の盤面
「さて」
根津校長は、戦場を眺めながら小さくつぶやいた。
「ここからが面白いところだね」
彼の目の前には、訓練場の簡易立体模型が表示されている。
ミッドナイトの位置。
元生徒たちの位置。
教師陣の立ち位置。
遮蔽物の状態。
そして、床面に設置された訓練用のセンサー。
根津は、それらを頭の中で素早く組み立てていた。
「彼女は生徒たちを攻撃しながら、教師陣の介入を誘っている。直接的な勝利を狙うより、こちらの選択肢を増やしているんだ」
「選択肢を増やしている?」
セメントスが聞き返す。
「そう。相澤君が抹消を使えば、誰が動くか。山田君が音を使えば、誰がその反射を利用するか。彼女は、こちらの個性よりも、こちらが個性をどう使うかを見ている」
根津は、小さく笑った。
「そして、私たちにも同じことを求めているのだろうね」
「……それは、教師としての指導なのか。あるいは、彼女自身の願いなのか」
セメントスが、静かに言った。
根津は、すぐには答えなかった。
「まだわからないよ」
その答えに、セメントスは小さく頷いた。
「わからないからこそ、決めつけない。それも今回の学び、ということですか」
「そういうことだね」
根津は指を動かした。
訓練場の隅で、小さな警告灯が点灯する。
「……おや?」
彼の表情が変わった。
「どうしたんですか、校長?」
「訓練エリアの自動安全制御が、予定外の動作を始めている」
「故障ですか?」
「その可能性はある。ただ、今のところ、外部からの制御信号は確認できない」
根津は警告表示を拡大した。
「問題は、訓練区域の出口が閉じ始めていることだ」
セメントスが顔を上げた。
「生徒たちは知っているんですか?」
「いや。これは、今回の訓練計画に含まれていない」
根津は、即座に通信機を取った。
「相澤君、山田君。訓練区域の安全制御が予定外の動作をしている。今すぐ戦闘を止めてくれ」
通信機に、ノイズが走った。
『……こちら、相澤。聞こえている』
「訓練を中止。全員を出口へ――」
その瞬間。
訓練場の床面に、赤い光が走った。
根津が目を見開く。
昨日、すべて止まったはずの赤い糸。
それに似た光が、床の隙間から現れた。
「……何だ?」
セメントスが、床へ手をついた。
「校長、これは――」
「まだ触れないでくれ!」
根津が叫んだ。
しかし、遅かった。
赤い光が、床面を走り、訓練用のセンサーへ入り込んだ。
次の瞬間、訓練場の壁が大きく動いた。
コンクリートの隔壁が下り、出入口が閉ざされる。
床が隆起する。
天井から補助設備が下り、戦場を複数の区域に分割した。
「全員、停止しろ!」
相澤の声が響いた。
ミッドナイトは、すぐに鞭を下ろした。
しかし、動いたのは彼女だけではない。
訓練区域の壁面から、無数の訓練用人形が現れた。
人型の模擬敵。
それぞれが、異なる武器と移動方式を備えている。
本来なら、人間の判断を必要とする訓練用の機械だ。
だが今、動きが異常だった。
人形は、誰の指示も受けずに動いている。
しかも、その進路は、訓練場にいる全員へ向かっていた。
「……校長!」
山田が叫ぶ。
「自動制御が暴走している!」
根津が答えた。
「人形の制御信号が、こちらの指令を無視している! 停止コードも受け付けない!」
「昨日の装置と関係があるのか?」
相澤が問う。
「まだわからない! だが、今は原因の特定よりも――」
根津の声が強くなった。
「全員の安全を確保することが先だ!」
その言葉を聞いた相澤は、即座に決断した。
「山田、音で人形の接近を遅らせろ! セメントス、通路を作れ! 八百万、拘束装備を用意! 他の全員は、個別に行動せず、互いの位置を確認しろ!」
命令が、次々と飛ぶ。
だが、相澤は最後に一言付け加えた。
「……ただし、状況を見て、自分で判断しろ。俺の指示が届かない場所では、お前たちの判断が必要になる」
生徒たちは、一斉に動き出した。
ミッドナイトが、彼らの前へ立った。
「どうやら、本当に授業が始まってしまったみたいね」
「先生、まだ戦うつもりですか!?」
峰田が叫んだ。
「今は敵が増えたんですよ!?」
「ええ。だからこそ、戦いを続ける必要があるわ」
ミッドナイトは、鞭を握り直した。
「ただし、今度は私を倒すことが目的ではない」
彼女は、迫ってくる人形を見据えた。
「あなたたちが、何を守るために、どう動くのか。それを自分で決めることよ」
次の瞬間、模擬敵の群れが一斉に動き出した。
最後の授業が、想定外の形で再開した。
六 教師がいない場所で
最初に襲いかかってきたのは、四脚型の訓練用人形だった。
低い姿勢で床を走り、八百万の足元へ突進する。
「八百万さん!」
芦戸が叫ぶ。
八百万はすぐに後退し、防護盾を展開した。
人形が盾へ衝突する。
強い衝撃が腕に伝わる。
八百万は、盾の裏側に設けた支持具を床へ押し当て、倒れないように踏ん張った。
「……っ!」
人形が、盾を押し続ける。
八百万は、その動きを観察した。
脚部は四本。
前方に荷重が集中している。
突進後の方向転換は遅い。
「芦戸さん、右側の脚部をお願いします!」
「了解!」
芦戸は横へ走り、酸を噴射した。
狙いは、脚部の駆動軸を覆う金属部品。
酸が金属を溶かし、右前脚の動きが鈍る。
その瞬間、八百万は盾を傾けた。
人形の重心が崩れる。
床へ倒れ込む寸前、峰田が粘着球を投げた。
「今だ!」
粘着球が、残った三本の脚へ貼りつく。
人形の動きが止まった。
「よし!」
峰田が拳を握る。
「俺たち、ちゃんと連携できてるじゃねえか!」
「喜ぶのは後ですわ!」
八百万が叫んだ。
別の人形が、天井から降りてきていた。
細い腕が伸びる。
先端には、訓練用の捕獲ネットが備えられていた。
「うわっ、上からも来るの!?」
峰田が飛び退く。
芦戸は、床を滑って逃れた。
八百万は防護盾を持ち上げ、ネットを受け止めた。
その瞬間、取蔭の身体が分離した。
腕が天井へ伸び、機械の関節に絡みつく。
別の手が、壁面の配線を掴んだ。
「捕まえた!」
取蔭が叫ぶ。
「でも、これ、電源を切れば止まるってわけじゃなさそう!」
「どういうこと?」
拳藤が尋ねる。
「配線を切っても動いてる! こいつ、自分の身体を動かしているのは、電気だけじゃないみたい!」
「そんなことが……」
八百万が目を細めた。
彼女たちが考えている間にも、人形は動き続けている。
取蔭の腕を引きずり、天井から床へ降りようとしていた。
拳藤が巨大化した手を伸ばした。
「これ以上は進ませない!」
彼女は両手で人形を掴み、床へ押さえつけた。
金属が軋む。
人形が抵抗する。
その腕が、拳藤の手を引き剥がそうとする。
「……っ、力が強い!」
「拳藤さん!」
取蔭が叫ぶ。
「右腕の関節、もう一度押さえて!」
「わかった!」
拳藤は両手の角度を変えた。
片方の手で胴体を固定し、もう片方で腕の関節を押さえる。
そこへ、八百万が作った拘束具が飛んだ。
「これを!」
拘束具が関節へ装着される。
峰田の粘着球が、さらに周囲へ貼りついた。
芦戸が酸で固定具の可動部分を狙い、動きを鈍らせる。
人形が、ようやく沈黙した。
拳藤は大きく息を吐いた。
「……止まった?」
取蔭は、分離した目で人形を観察する。
「今のところは!」
「『今のところ』って言わないでよ!」
峰田が叫んだ。
だが、その声に、誰もが笑う余裕を取り戻していた。
彼らは、教師の指示が届かない場所で、自分たちの判断を使っていた。
誰か一人の命令がなくても、状況を見て、互いに声をかけ、行動を変える。
昨日の戦いで学んだことが、確かにここで生きていた。
そのとき、通信機から相澤の声が入った。
『状況を報告しろ』
八百万が応答する。
「四脚型一体、天井型一体を拘束しました。ですが、どちらも制御装置を停止させても動き続ける兆候があります!」
『わかった。無理に破壊するな。機械の動きに共通点があるなら、根津校長へ情報を送れ』
「了解しました!」
通信が切れる。
芦戸は、倒れた人形の周囲へ視線を走らせた。
「……これ、誰かが私たちを困らせるために動かしてるのかな?」
「可能性はある」
八百万が答えた。
「ですが、今の段階で誰かの意図だと決めつけることはできません。故障、異常な制御、あるいは私たちがまだ知らない仕組み……複数の可能性が残っています」
「つまり、また『わからない』か」
峰田が肩を落とす。
「そうですわね」
「八百万さんまで、その言葉を使わないでくれよ……!」
しかし、彼はすぐに顔を上げた。
「でも、今はわかってることもある」
「何?」
芦戸が尋ねる。
「こいつらが動いていること。俺たちを襲ってくること。だったら、原因がわからなくても、まず止めなきゃいけない」
峰田は粘着球を握った。
「それに、全部を一人で解決する必要もない」
八百万が頷いた。
「ええ。原因を突き止めるのは根津校長や先生方の役割です。私たちは、いま自分たちにできることをします」
芦戸は、拳を握りしめた。
「じゃあ、次に来るやつも、みんなで止めよう!」
拳藤が笑った。
「その前に、取蔭。分離させた身体、全部戻った?」
「……あ」
取蔭が固まった。
「……右手が、まだ天井にいる」
「何やってんのよ!」
「いや、だって、ほら! 敵が来たから!」
「取りに行きなさい!」
「はーい!」
緊張の中に、小さな笑いが生まれた。
それもまた、彼らが日常を取り戻していくための一歩だった。
七 教師たちの判断
訓練場の反対側。
相澤、山田、セメントス、根津は、複数の訓練用人形を相手にしていた。
「数が多いな!」
山田が叫んだ。
「出力を上げすぎるな。天井の設備が落ちる!」
相澤が捕縛布を振るう。
人形の腕を絡め取り、動きを止める。
しかし、別の人形が横から迫った。
相澤は身体をひねって避ける。
捕縛布を引き戻し、今度は脚部へ巻きつける。
人形が倒れる。
その瞬間、相澤の視界から外れた位置で、別の人形が動き出した。
個性――抹消。
相澤の視線が向いた対象の個性を消すことはできる。
しかし、個性だけで動いていない機械の動作まで止めることはできない。
「……やはり、抹消だけでは止まらないか」
相澤は舌打ちした。
人形が、床を蹴って迫る。
相澤は捕縛布を使って距離を取り、山田へ声をかけた。
「山田、関節を狙え!」
「了解!」
山田は音を一点へ集中させた。
「VOICE!」
狙いは、機械の関節部。
音波が金属を震わせる。
人形の動作が乱れ、脚部がわずかに浮いた。
そこへセメントスがコンクリートの壁を作り、進路を塞ぐ。
「今です!」
相澤が捕縛布を投げた。
人形を壁へ固定する。
山田は出力を落としながら、再び音を放つ。
今度は機械の接続部だけを狙う。
金属が軋む。
人形が、ようやく動きを止めた。
「……よし!」
山田は息を吐いた。
「だが、こいつら、妙だな」
「何がだ?」
相澤が尋ねる。
「動き方だよ。普通の訓練用人形なら、俺の音を受けた時点で、バランスを崩して止まる。けど、こいつは途中で軌道を変えた」
「自動補正か?」
「それだけじゃない気がする」
山田は、停止した人形を見つめた。
「まるで、俺たちの動きを見て、次の行動を選んでいるみたいだった」
セメントスが、眉をひそめた。
「学習機能が搭載されている可能性はあります。ただ、通常の訓練用機械にそこまで高度な機能はありません」
根津が通信機を操作した。
「こちらでも確認した。訓練用人形の設定には、戦闘中の行動を記録し、対応を変える機能はある。ただし、それが独立して作動することはないはずだ」
「じゃあ、誰かが制御してる?」
山田が尋ねる。
「その可能性もある」
根津は慎重に言った。
「だが、制御信号は確認できていない。外部からの通信も、現時点では見つかっていない」
相澤は、目を細めた。
「また、原因不明か」
「ええ。申し訳ないが、まだ断定できない」
根津は一度だけ、深く息を吐いた。
「ただし、わからないという理由で、現場の判断を遅らせるわけにはいかない。今は、停止できるものから止めよう」
相澤が頷いた。
「同意する」
そのとき、ミッドナイトが二人の間へ降り立った。
鞭を握り、周囲の人形へ視線を走らせる。
「……どうやら、本当に面倒なことになったみたいね」
相澤は、すぐに彼女を見た。
「お前は、これを知っていたのか?」
ミッドナイトは、首を振った。
「いいえ。少なくとも、私が知っている範囲では、こんな動き方をする訓練用人形はなかったわ」
「少なくとも、か」
「ええ。断言できるほど、今の私がすべてを知っているとは思わないから」
その返事に、相澤の目がわずかに細くなった。
彼女は、自分が知っていることと、知らないことを分けて話している。
それが、かつてのミッドナイトらしい答えなのか。
それとも、そう答えるように設計された存在なのか。
まだわからない。
だが、相澤はその疑問を、すぐさま行動の理由にはしなかった。
「……わかった。今は共同で対処する」
「いい判断ね」
「お前が何者であっても、現場の危険を放置する理由にはならない」
ミッドナイトは、笑った。
「そうね。だから、まずはこの子たちを止めましょう」
山田は、二人のやり取りを見ながら、少しだけ目を伏せた。
以前なら、彼は違う言葉を選んでいたかもしれない。
彼女の名前を呼び、覚えていることを伝え、帰ってきてほしいと願ったかもしれない。
その願いが間違いだったとは思わない。
けれど今、彼女に求めることは、それだけではない。
ここにいる人々と協力し、目の前の問題を解決すること。
相手の正体を決めつけず、それでも必要な判断をすること。
それが、今の彼にできる選択だった。
「よし、行くぜ!」
山田が声を張り上げる。
「全員、周囲を確認! 動いてる人形を止める!」
相澤が続けた。
「ただし、機械の動作が止まったからといって、すぐに安全だと判断するな。必ず二人以上で確認しろ!」
「了解!」
その声に、セメントスがコンクリートを動かした。
壁が立ち上がる。
床が隆起する。
人形の進路が変わり、相澤の捕縛布が伸び、山田の音が狙いを絞って放たれる。
ミッドナイトの鞭が、機械の脚部へ絡みついた。
相澤が視線を向ける。
「抹消!」
人形の動きが一瞬、鈍る。
その隙にセメントスが壁を作り、山田が関節を狙う。
最後に、ミッドナイトが鞭を引いた。
人形が床へ倒れた。
「一体、停止!」
彼女が叫ぶ。
相澤は短く頷いた。
「次へ行くぞ」
四人は、再び走り出した。
その姿を、根津は少し離れた場所から見つめていた。
教師もまた、変わっていく。
自分の知識を過信せず。
自分の個性に頼り切らず。
相手の正体がわからないからといって、何もかもを拒絶せず。
それでも、必要なときには、止めるべきものを止める。
その判断は、過去の関係を捨てることではない。
過去の関係に、すべてを決めさせないということだ。
根津は、通信機を握り直した。
「……さて」
彼の目が、訓練場の奥へ向く。
「この現象の原因は、何だろうね」
その問いに、答えはなかった。
八 勝つためではなく、選ぶために
訓練区域の中央。
ミッドナイトは、八百万たちと合流した。
「皆さん、無事?」
「はい!」
八百万が答える。
「こちらは五体を拘束しました。ただ、制御系統は停止していません。物理的に動けない状態にしています」
「よくできたわね」
ミッドナイトは、彼女たちを見渡した。
「では、次に何をする?」
八百万は、一瞬だけ口を閉じた。
教師からの問い。
かつてなら、正しい答えを探していたかもしれない。
先生が望んでいるのは何か。
先生なら、どう考えるのか。
それを想像し、答えを組み立てることが、正解だと思っていたかもしれない。
しかし、今は違う。
「……現時点では、すべての人形を拘束することだけが最善とは限りません」
八百万は答えた。
「原因を確認しながら、危険区域を狭める必要があります。動けなくなった人形も、別の人形の動作によって再起動する可能性がありますから」
「では、そのために何をするの?」
「まず、通路を確保します。セメントス先生と連携して、逃げ道を作ります。同時に、取蔭さんの分離した身体で、死角の確認を続けます。拳藤さんは、必要な場所で構造物を支えてください」
八百万は、続けた。
「芦戸さんと峰田君には、接近してくる人形の動きを制限してもらいます。私は拘束具と防護装備を追加で創造します」
「了解!」
拳藤が笑う。
「いい判断だと思うよ」
取蔭も頷いた。
「私も、別の場所へ回る!」
峰田が、粘着球を手に取る。
「よし、やるか!」
芦戸が笑った。
「さっきまで逃げたいって言ってたのに?」
「逃げたい気持ちは、今もある!」
峰田は、真剣な顔で答えた。
「でも、逃げる以外にできることがあるなら、そっちもやるんだよ!」
ミッドナイトは、その返答を聞いて、静かに微笑んだ。
「……そう」
それ以上、何も言わなかった。
彼女は自分の答えを押しつけなかった。
正解を与えなかった。
ただ、生徒たちが自分で選んだ答えを、見守っていた。
そのとき、訓練場の奥で大きな音がした。
壁面が割れる。
巨大な訓練用人形が、瓦礫を押しのけながら出現した。
ほかの人形よりも一回り大きい。
胴体は重装甲。
両腕は巨大な打撃装置。
脚部には、床面を破壊するための強化機構が備わっていた。
「……あれは、設置されていた機体じゃない」
八百万が、思わずつぶやいた。
「訓練施設の資料に、あんな人形はありませんでした」
根津の声が通信機から入る。
『全員、距離を取ってくれ! その機体は、こちらが確認している訓練用人形の仕様に該当しない!』
「つまり、またわからないってことですね!」
峰田が叫ぶ。
『そのとおりだ!』
「校長、そこは否定してくださいよおおお!」
巨大な人形が、腕を振り上げた。
床を叩く。
衝撃波が走る。
五人は、それぞれの方向へ跳んだ。
拳藤が巨大な手で床を支える。
芦戸は酸を噴射し、床面に滑り込む。
峰田は粘着球を壁へ貼りつけ、身体を引き寄せた。
八百万は防護盾を展開して、飛び散る破片を防ぐ。
取蔭は身体を分離させ、危険区域から離れる。
「……大きいだけじゃない!」
取蔭が叫んだ。
「動きが速い! しかも、こっちの位置を正確に追ってる!」
「なら、狙われる場所をずらせばいい!」
拳藤が答えた。
彼女は巨大化した両手を、人形の正面へ構えた。
「こっちだ!」
人形が拳藤を狙う。
腕を振り上げる。
拳藤は両手で受け止めた。
衝撃が走る。
足元のコンクリートが砕けた。
「くっ……!」
拳藤の身体が沈む。
「拳藤さん!」
芦戸が叫ぶ。
「大丈夫! まだ押さえられる!」
しかし、拳藤の腕にかかる負荷は大きい。
力だけでは、長くは耐えられない。
「八百万さん、支えるための器具を!」
「すぐに!」
八百万は創造を行った。
大型の補助ジャッキ。
固定用の杭。
そして、腕の負荷を分散させるための支持具。
それらを次々と床へ設置する。
「拳藤さん、三秒だけ耐えてください!」
「わかった!」
三秒。
一秒目。
拳藤の腕が沈む。
二秒目。
人形がさらに力を加える。
三秒目。
支持具が、床へ固定された。
「今です!」
拳藤が手を開く。
八百万の器具が、人形の腕を支える。
その瞬間、芦戸が酸を飛ばした。
狙いは、腕の駆動部。
金属が溶ける。
巨大な腕の動きが鈍る。
「峰田君!」
「任せろ!」
峰田が粘着球を投げた。
一つ。
二つ。
三つ。
球が、人形の肘と膝へ貼りつく。
動きが止まる。
しかし、完全ではない。
人形は強引に腕を動かそうとしていた。
「まだ止まらない!」
取蔭が叫ぶ。
彼女の分離した手が、人形の背中へ回り込んだ。
「だったら、どこから動力が来てるのか、探してやる!」
小さな手が、装甲の隙間へ入る。
指先が、複雑に絡み合った部品へ触れた。
「……あった!」
取蔭が叫んだ。
「背中の中央! そこに何かある!」
八百万が顔を上げる。
「根津校長、聞こえますか! 背面に未知の部品があります!」
『確認した! だが、まだその正体はわからない。無理に取り外さず、動作を止めることを優先してくれ!』
「了解!」
八百万は、装備を変更した。
切断用の工具ではなく、装甲を押し広げるための小型ジャッキ。
取蔭の手がそれを受け取る。
「よし、これなら……!」
彼女は、装甲の隙間に工具を差し込んだ。
少しずつ広げる。
金属が軋む。
そこへ、相澤が走り込んできた。
「離れろ!」
彼の目が、人形を捉えた。
「抹消!」
しかし、人形は止まらない。
相澤は即座に判断を切り替えた。
「……個性では止められない。山田!」
『聞こえてる!』
山田の声が通信機から響いた。
「関節へ音を集中させろ! セメントス、動けないように足場を固めろ!」
『了解!』
山田が息を吸い込んだ。
「――VOICE!」
音波が、人形の膝関節を狙う。
金属が震えた。
同時に、セメントスが床を変形させ、脚部を固定する。
人形の動きが止まった。
「今だ!」
相澤が捕縛布を投げる。
腕へ絡みつき、動きを抑える。
拳藤が巨大な手で、もう片方の腕を押さえた。
峰田の粘着球が、関節をさらに固定する。
芦戸が酸を飛ばし、駆動部の部品を溶かす。
八百万が最後の支持具を装着する。
そして、取蔭の手が、背面の未知の部品へ届いた。
「……見つけた」
彼女の指先が、それを掴んだ。
その瞬間、人形の全身が震えた。
「離せ!」
相澤が叫ぶ。
取蔭は即座に手を分離させた。
未知の部品が、装甲の隙間から外へ飛び出す。
床へ落ちる。
人形は、完全に動きを止めた。
静寂。
誰もが、荒い息を吐いていた。
「……止まった?」
峰田が、恐る恐る尋ねた。
八百万は、人形の動作を確認した。
「はい。少なくとも、現在は完全に停止しています」
拳藤が、ようやく両手を下ろした。
「……よかった」
芦戸は床へ座り込んだ。
「もう無理。今日はもう何もしたくない」
「同感……」
峰田が仰向けに倒れた。
「俺、明日から訓練施設に入る前に、全機械の履歴書を確認する……」
「そんなものはないわよ」
取蔭が笑う。
「じゃあ、作ってくれよ!」
「自分で作りなさい!」
笑い声が起こる。
しかし、相澤は床に落ちた部品を見つめていた。
小さな金属製の部品。
表面には、見慣れない細い刻印がある。
根津が、すぐに回収用のケースを持ってきた。
「不用意に触れないでくれ。これが何なのか、慎重に調べる必要がある」
「昨日の異常と関係があるんでしょうか?」
八百万が尋ねた。
根津は、ケース越しに部品を確認した。
「その可能性はある。ただし、今の段階では、関係があるとも、ないとも言えない」
「……また、わからない、ですね」
峰田がつぶやいた。
「そうだね」
根津は微笑んだ。
「ただ、今日は一つだけ、はっきりしたことがある」
彼は、元生徒たちを見渡した。
「君たちは、教師の指示がなければ動けないわけではなかった」
八百万は、少しだけ目を見開いた。
「……校長」
「もちろん、君たちだけでは難しかった場面もあった。教師の個性も、知識も、判断も必要だった。だが、そのどれもが、君たち自身の判断を代わりに行ったわけではない」
根津は、静かに続けた。
「教師がいるから生徒が考えられることはある。教師がいないからこそ、生徒が考えなければならないこともある。大切なのは、どちらか一方に頼り切ることではないのだろうね」
相澤は、腕を組んだ。
「……そういうことだ」
山田が笑った。
「結局、今日も授業だったわけか」
「教師がいなくても、教室は成立する」
相澤は、動きを止めた機械を見た。
「だが、教師がいないからといって、考えることをやめていいわけじゃない」
ミッドナイトが、静かに頷いた。
「ええ。よくできました」
その言葉に、五人は一瞬だけ彼女を見た。
だが、今度は誰も、その評価だけを求めてはいなかった。
彼女が褒めたから正しいのではない。
彼女が教えたから正しいのでもない。
彼らは、自分たちで考え、行動し、その結果を受け止めた。
それだけで、十分だった。
九 先生のいない教室で
訓練は、予定外の事故によって中断された。
人形はすべて停止し、訓練区域の安全制御も根津の指示で切り離された。負傷者は出なかった。
未知の部品は回収され、検査に回されることになったが、その正体は依然として不明のままだった。
夕方。
元生徒たちは、旧訓練施設に隣接する空き教室へ集まっていた。
戦闘で使った装備を片づけ、今日の出来事を整理するためだ。
教室の黒板には、八百万が書き出した記録が残っていた。
発生した現象。
確認できた事実。
まだわからないこと。
そして、最後の項目。
次に同じことが起きた場合、どう判断するか。
芦戸は、椅子へ腰かけた。
「……なんか、今日の方が昨日より疲れた気がする」
「昨日は命がけで戦ったからね」
取蔭が答えた。
「今日は、命がけにならないように考えることが多かったんじゃない?」
「それ、すっごく疲れるんだけど」
「でも、大事なことだと思うよ」
拳藤は黒板を見上げた。
「私たち、昨日までは『先生を忘れないこと』と『先生に縛られないこと』を考えていた。でも今日は、実際に先生の指示が届かない場所で、自分たちの判断を使った」
八百万が頷いた。
「ええ。指示が届かないからといって、判断を放棄するわけにはいきませんでした」
「それに、先生の指示が届く場所でも、全部をそのまま実行すればいいわけじゃない」
芦戸が言った。
「状況が変わったら、自分で考え直さなきゃいけない」
峰田は、椅子の背にもたれた。
「……俺さ、今まで、先生の指示をちゃんと聞くことが正しいって思ってた」
彼は、少しだけ言葉を探した。
「もちろん、危ないときに指示を聞くのは大事だよ。だけど、指示がないときに何もできないなら、それは違うんだよな」
八百万が微笑んだ。
「そうですわね。指示を理解することと、自分で判断できることは、両立するはずです」
「うん」
峰田は頷いた。
「怖いときに誰かの言葉を頼りにするのは悪くない。だけど、誰かが何も言わなかったからって、何もできなくなる必要はないんだ」
その言葉に、しばらく沈黙があった。
やがて、拳藤が小さく笑った。
「……私たち、少しは成長したのかな」
「少しどころじゃないと思うけど?」
取蔭が答える。
「でも、成長したからって、もう迷わなくなるわけじゃないんでしょ」
「そうね」
八百万は、黒板の最後の項目を見た。
次に同じ現象が起きた場合。
どう判断するか。
彼女は、少し考えてから、チョークを手に取った。
そして、新しい一文を書き加えた。
わからないことを、わかったことにしない。
峰田が、それを読み上げた。
「……わからないことを、わかったことにしない」
「ええ」
八百万は頷いた。
「相手が誰なのか、何を考えているのか、何が起きているのか。わからないときに、それを自分の願望だけで決めつけてはいけないと思います」
芦戸が、黒板の隣へ一文を加えた。
でも、わからないからといって、何もしないわけでもない。
拳藤も続ける。
目の前で危険が起きているなら、止める。
取蔭が、さらに書き足した。
そして、あとで考え直す。
最後に、峰田がチョークを受け取った。
彼は少し考え、ゆっくりと書いた。
間違えたら、次を考える。
五人は、黒板を見つめた。
誰か一人が決めた答えではない。
教師が与えた正解でもない。
互いの考えを聞き、足りない部分を補い、少しずつ形にしていった答えだった。
「……これで、いいんでしょうか?」
八百万が、小さく尋ねた。
その問いに、相澤が答えた。
「知らん」
五人が一斉に振り返った。
「「「「「ええっ!?」」」」」
相澤は、いつもの無表情で続けた。
「それを決めるのは、俺じゃない。今日の出来事を振り返って、自分たちが次にどうするか考えるために書いたんだろう。なら、今の段階では、それでいい」
山田が、横から口を挟んだ。
「相澤先生、もうちょっと言い方ってもんがあるだろ!」
「じゃあ、お前が説明しろ」
「ええと……そうだな!」
山田は、黒板を見た。
「つまりだ! 今の答えが絶対に正しいとは限らねえ。でも、それを考えて、書いて、みんなで確認したことには意味がある。次に何かあったとき、その答えを使ってみればいい。もし違っていたら、また直せばいいってことだ!」
峰田は、首を傾げた。
「……最初からそう言ってくださいよ」
「俺は最初からそういう意味で言ってる!」
「いや、全然わからなかったです!」
芦戸が笑い、拳藤も笑った。
八百万は、黒板の文字を見つめながら、小さく頷いた。
ミッドナイトは、教室の入口に立っていた。
彼女は、いつの間にかそこへ来ていた。
しかし、誰も驚かなかった。
彼女は教室へ入らず、黒板を見つめていた。
そこには、彼女自身が教えた言葉も、彼女が考えもしなかった答えも並んでいる。
どれか一つが、すべてを代表しているわけではない。
そして、その中に、自分の名前はない。
ミッドナイトは、少しだけ笑った。
それでよかった。
彼らが今日書いた答えは、彼女のためだけにあるのではない。
彼ら自身が、これから生きていくためのものだ。
それを、彼女が自分のものにする必要はない。
「……いい教室ね」
彼女がつぶやいた。
その声に、相澤が振り返った。
「何か言ったか?」
「いいえ」
ミッドナイトは、微笑んだ。
「何でもないわ」
彼女は黒板を見つめた。
「……あなたたちが考えた答えなら、あなたたちが使っていけばいい」
八百万が、彼女へ向き直った。
「先生は……それで、いいのですか?」
ミッドナイトは少しだけ目を細めた。
「ええ」
「私たちが、先生の教えを別の意味に受け取ったとしても?」
「ええ」
「いつか、先生の言葉を思い出さなくなったとしても?」
その問いに、ミッドナイトは、すぐには答えなかった。
彼女は一人ひとりの顔を見つめた。
そして、静かに言った。
「忘れられたら寂しいわ。それは、きれいごとではなく、本当の気持ちよ」
八百万は、黙って聞いていた。
「だけど、私が寂しいからといって、あなたたちが私を忘れないように生きなければならないわけではないでしょう?」
ミッドナイトは、笑った。
「あなたたちの人生は、あなたたちのものよ」
山田が、少しだけ目を伏せた。
相澤は、静かに腕を組んでいた。
「……そうか」
彼は言った。
「なら、俺たち教師も、忘れないようにしなければならないな」
「何をですか?」
峰田が尋ねた。
「教師がいなければ生徒は育たない、と思い込まないことだ」
相澤は黒板を見た。
「教師が教えることはある。間違いを止めることもある。だが、生徒が何を考え、どこへ進むのかまで、教師が決める必要はない」
山田が頷く。
「それに、俺たち教師だって、間違える。だから、生徒から教わることもあるんだ」
「……先生たちも、まだ勉強中なんですね」
取蔭が言った。
「当然だ」
相澤は即答した。
「教師になったからといって、何もかもわかるようになるわけじゃない」
「そういうことだ!」
山田が笑った。
ミッドナイトは、彼らを見つめた。
それは、教師が生徒へ教えるだけの関係ではない。
教師と生徒が互いに考え、互いに変わり、必要なときには互いの誤りを指摘できる関係だった。
大切な相手だからこそ、何も言わずに従うのではない。
大切な相手だからこそ、違う意見を伝えることもある。
そして、大切な相手だからこそ、相手の人生を自分の所有物にしない。
ミッドナイトは、一歩だけ後ろへ下がった。
「……ありがとう」
今度の言葉は、昨日よりもはっきりしていた。
八百万が微笑む。
「こちらこそ、ありがとうございました」
峰田が続けた。
「俺も……ありがとうございました、先生」
芦戸が手を振った。
「また、何か教えてくださいね!」
言った直後、彼女は少しだけ考えた。
「……あ、でも、今のは押しつけじゃないからね! 先生が嫌なら、別に……」
ミッドナイトは笑った。
「わかっているわ、三奈さん」
拳藤と取蔭も、彼女へ頷いた。
誰も、彼女にここへ残ってほしいとは言わなかった。
誰も、以前と同じ教師に戻ってほしいとは求めなかった。
ただ、自分たちが受け取ったものを、これからも自分たちの人生で使っていくと伝えた。
ミッドナイトは、その言葉を静かに受け止めた。
「それじゃあ……授業は、これで終わりね」
彼女は教室の外へ向かった。
「先生!」
八百万が、もう一度呼びかけた。
ミッドナイトが振り返る。
「何かしら?」
八百万は、少しだけ笑った。
「出席は、取らないのですか?」
ミッドナイトは一瞬、目を丸くした。
それから、声を上げて笑った。
「そうね。今日は取らないでおくわ」
彼女は、教室を見渡した。
「だって、あなたたちはもう、自分でここへ来て、自分で考えて、自分で帰ることができるもの」
その言葉を最後に、彼女は廊下へ出た。
今度は、誰も引き止めなかった。
彼女がどこへ向かうのか。
本当に、どこかへ去っていくのか。
それすら、今はわからない。
ただ、彼女が自分の意志で歩いていくことを、誰も邪魔しようとはしなかった。
教室には、彼女のいない時間が残された。
黒板には、五人が書いた言葉が残っている。
わからないことを、わかったことにしない。
でも、わからないからといって、何もしないわけでもない。
目の前で危険が起きているなら、止める。
そして、あとで考え直す。
間違えたら、次を考える。
その言葉は、誰か一人の正解ではない。
これから何度も、書き直されていく答えだった。
教師のいない教室で。
教師が目の前にいる教室でも。
彼らは、自分たちの人生を、自分たちで選び続ける。
それこそが、ミッドナイトから受け取ったものを、本当の意味で受け継ぐことだった。
十 色欲の残した問い
夜。
旧訓練施設の管理室。
根津校長は、回収した未知の部品を調べていた。
外観は、ありふれた金属片に見える。
しかし、表面に刻まれた細い線は、既存の回路図にも、雄英の設備記録にも一致しなかった。
装置の内部には、動力源と呼べる部品が存在しない。
通信装置も確認できない。
それでも、あの巨大な人形は動いた。
赤い糸も、停止したはずの訓練区域も、原因のわからない挙動を示した。
根津は、記録をもう一度確認した。
発生時刻。
動作の順序。
センサーの反応。
停止処理。
どこにも、決定的な答えはない。
「……不思議だね」
根津は、小さくつぶやいた。
「これほど多くの記録があるのに、肝心な部分だけがわからない」
彼は、窓の外を見た。
今日の戦いは終わった。
元生徒たちは、自分たちの判断で危険を乗り越えた。
教師たちも、それぞれの個性と経験を使いながら、必要な場面で介入した。
そして、ミッドナイトは最後まで、自分が唯一の正解を持っているとは言わなかった。
それは、確かな変化だった。
だが、未知の部品が何を意味しているのかは、まだわからない。
赤い糸と関係しているのか。
訓練用人形の異常動作と、何か共通点があるのか。
そもそも、これらが一つの現象なのか、それとも複数の現象が偶然重なっただけなのか。
根津は、記録用紙を閉じた。
「急いで結論を出すのは、やめておこう」
わからないものを、わかったことにしない。
今日、元生徒たちが黒板に書いた言葉。
それは、研究者である自分にも必要なことだった。
根津は部品を保管ケースへ戻した。
ケースには、簡潔にこう書き込んだ。
原因未確定。継続調査。
そして、彼はもう一つだけ記録を残した。
現時点で確認できたこと――意思を固定しようとする行為は、対象が誰であっても容認できない。
それは、今回の事件から得られた確かな答えだった。
色欲が消えたわけではない。
色欲という概念が、この世から消滅したわけでもない。
誰かを好きになること。
必要とされたいと思うこと。
忘れられたくないと願うこと。
誰かに自分のことを理解してほしいと願うこと。
そのような感情は、人の中からなくならないだろう。
しかし、その願いを理由に、他人の心を自分の望む形に固定することはできない。
大切な人が変わることを、受け入れられない日もある。
失った相手を忘れたくないと、強く願う日もある。
その気持ちを抱えること自体を、否定する必要はない。
必要なのは、その感情を誰かへ押しつけないこと。
そして、自分が抱えている願いが、相手の自由を奪うものになっていないか、何度でも考え直すことだ。
根津は、静かに目を閉じた。
色欲編は、終わった。
だが、憤怒は、まだ終わっていない。
誰かを助けたいという願いが、いつか誰かを支配することになるのなら。
誰かを救いたいという正義が、救われる側の意思を認めないものになるのなら。
人は、どこまで相手のために手を伸ばしていいのだろう。
その問いは、別の場所で、すでに始まっていた。
色欲編、終幕
ミッドナイトを忘れないことと、彼女のために生き方を固定することは違う。
彼女の遺志を一つの正解にせず、それぞれが選んだ道で受け継いでいく。
そして、ミッドナイトもまた、生徒たちの未来を自分の物語の結末にしない。
教師がいない教室で、彼らは自分自身の答えを探し始めた。
教師が目の前にいても、自分で考える。
教師がいなくなっても、自分で考え続ける。
その答えは、まだ完成していない。
だからこそ、彼らはこれからも歩いていく。
色欲編終幕次回予告は憤怒編開幕