第一幕 午前二時十三分の世界
1 世界が止まった夜
午前二時十三分。
世界中の時計が、同じ時刻を示した。
東京の高層ビルに設置された電波時計も。
ロンドンの駅舎にある古い時計も。
ニューヨークの病院で、夜勤の看護師が確認したデジタル時計も。
南極観測基地の壁に掛けられた時計も。
そして、雄英高校の地下にある、誰も存在を知らないはずの記録室の時計も。
すべてが、午前二時十三分で止まった。
だが、世界の人間が一斉に眠ったわけではない。
夜勤中の医師は手術を続けていた。
高速道路を走るトラックは、道路の上を進んでいた。
赤ん坊は泣き、犬は吠え、風は吹いていた。
世界は動いていた。
ただ、時間を測るという行為だけが、世界から切り離されていた。
そして、その異常に気づいた者は、世界中に三人しかいなかった。
一人目は、雄英高校の地下で十三年前の死亡報告書を調べていた相澤消太。
二人目は、南極の氷の下で、巨大な扉を見つめていた死神。
三人目は――。
「……やっと、僕の番だ」
白い部屋の中で目を覚ました、緑色の髪の少年だった。
少年は、ゆっくりと身体を起こした。
服は、雄英高校の制服に似ていた。
しかし、校章はついていない。
袖は短く、靴は片方しかなかった。
左腕には、包帯が巻かれている。
包帯の下から、黒い亀裂が覗いていた。
少年は、自分の腕を見つめた。
「……まだ、残ってるんだ」
痛みはなかった。
ただ、そこに何かがあるという感覚だけがあった。
自分の身体なのに、自分のものではない。
自分の記憶なのに、自分のものではない。
自分の名前なのに、口にしようとすると、何かに喉を塞がれる。
少年は立ち上がり、部屋を見回した。
壁は白い。
床も白い。
天井も白い。
扉は一つ。
窓はない。
机も、椅子も、時計もない。
けれど、少年はこの部屋を知っていた。
知っているどころではない。
彼は、この部屋で生まれた。
この部屋で、初めて泣いた。
この部屋で、初めて自分の名前を呼ばれた。
そして、この部屋で――。
「……僕は、死んだ」
少年は呟いた。
その声は、静かな部屋に吸い込まれた。
「何回も」
彼は、自分の胸に手を当てた。
心臓は動いている。
呼吸もできる。
体温もある。
けれど、彼には分かっていた。
今の自分は、生きている人間ではない。
かといって、死者でもない。
世界から消されたものが、世界の隙間に残っている。
その残骸。
その記録。
その、消し忘れ。
「……それでも」
少年は扉へ歩いた。
「今度こそ、間に合わせる」
扉の向こうから、声がした。
『どこへ行くの?』
少年は立ち止まった。
聞き覚えのある声だった。
何度も聞いた。
何度も夢に見た。
何度も、二度と聞きたくないと思った。
「……君には関係ない」
『あるよ』
声は、少年のすぐ後ろから聞こえた。
振り返ると、小さな男の子が立っていた。
緑色の髪。
大きな瞳。
頬には、まだ幼さが残っている。
その少年を見た瞬間、三人目の出久は目を伏せた。
「……君は、まだここにいたんだね」
幼い少年は、微笑んだ。
『うん』
「いつまで?」
『君が、僕を思い出すまで』
「……そう」
『ねえ』
幼い少年が、首を傾げる。
『今度は、二人を助けるの?』
三人目の出久は、答えなかった。
幼い少年は、彼の包帯を見た。
『また、痛いの?』
「痛くないよ」
『嘘だ』
「……」
『君はいつも、そう言う』
幼い少年は近づき、彼の左腕に触れようとした。
三人目の出久は、その手を避けた。
「触らないで」
幼い少年は、悲しそうな顔をした。
『どうして?』
「君に触られると、思い出してしまうから」
『何を?』
少年は目を閉じた。
答えは、もう分かっている。
自分が忘れたかったこと。
自分が忘れられなかったこと。
自分が、何度世界をやり直しても、決して変えられなかったこと。
「……君を殺した日のこと」
幼い少年は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
『そっか』
その返事は、あまりにも穏やかだった。
『じゃあ、今度は僕も一緒に行くよ』
三人目の出久は、目を見開いた。
「駄目だ」
『どうして?』
「君が外に出たら、世界がまた壊れる」
『もう壊れてるよ』
「……」
『それに、僕はずっとここにいたんだ』
幼い少年は、扉を見た。
『ずっと、君たちが迎えに来てくれるのを待ってた』
三人目の出久は、拳を握った。
「……迎えには来ない」
『どうして?』
「僕たちが君を迎えに行ったら、また同じことになる」
『同じことって?』
「誰かが死ぬ」
幼い少年は、微笑んだ。
『それなら、僕が死ねばいいんだね』
「違う!」
三人目の出久は、叫んだ。
幼い少年が、驚いて目を見開く。
少年は、肩で息をしていた。
自分でも、なぜ叫んだのか分からなかった。
ただ、その言葉だけは聞きたくなかった。
『それなら、僕が死ねばいいんだね』
かつて、自分が何度も口にした言葉だった。
自分が犠牲になればいい。
自分がいなくなればいい。
自分が存在しなければ、誰も苦しまない。
そう信じた。
そう信じることでしか、前に進めなかった。
そして、その選択が――すべての始まりだった。
「……君は、死ななくていい」
少年は、震える声で言った。
「誰も、死ななくていいんだ」
幼い少年は、首を傾げた。
『じゃあ、どうすればいいの?』
答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
三人目の出久は、その答えを探すために、十三年もの時間を費やしてきたのだから。
「……僕が、なんとかする」
彼は扉を開けた。
その向こうには、暗闇が広がっていた。
背後から、幼い少年の声がする。
『ねえ』
三人目の出久は、振り返らなかった。
『今度こそ、僕の名前を呼んでね』
扉が閉まった。
そして、白い部屋には再び、幼い少年だけが残された。
少年は、誰もいない空間で、小さく笑った。
『……うん』
『今度こそ、待ってるね』
その瞬間。
白い壁の向こうから、巨大な何かがこちらを見た。
無数の星々。
果てしない暗闇。
理解することさえ許されない、巨大な意識。
幼い少年は、その存在を見上げた。
そして、初めて。
その存在に向かって、笑顔を消した。
『……君には、渡さないよ』
2 午前二時十四分
「――起きろ、緑谷!」
怒鳴り声がした。
出久は、ベッドから飛び起きた。
「うわっ!?」
目の前に、爆豪勝己の顔があった。
「何だ、その反応は!」
「か、勝己!?」
「誰が勝己だ、クソデク!」
爆豪は出久の襟首をつかみかけ、寸前で手を止めた。
「……お前、今まで何をしてやがった」
「何って……寝てた、と思う」
「思う?」
爆豪の眉間に深い皺が寄る。
「午前二時十三分に、全世界の時計が止まった」
「……え?」
「時計だけじゃねえ。世界中の監視システムで、同じ時刻に異常が出てやがる。電波時計も、原子時計も、衛星の時刻情報もだ」
爆豪は、手元の端末を見せた。
画面には、世界各地の時刻が並んでいる。
東京。
ニューヨーク。
ロンドン。
南極。
すべて、午前二時十三分。
「……何が起きたの?」
「それを聞いてんだよ」
爆豪は出久を睨んだ。
「お前、また何か見たんじゃねえだろうな」
出久は、口を開きかけた。
白い部屋。
三人目の自分。
幼い自分。
そして、最後に見た、巨大な存在。
夢だったのか。
記憶だったのか。
それとも、誰かに見せられたものだったのか。
「……夢を見た」
「どんな夢だ」
「僕が、もう一人いた」
爆豪の表情が変わった。
「……またか」
「それだけじゃない。もう一人、いたんだ」
「何?」
「三人目の僕が」
爆豪は、数秒間、黙っていた。
そして、舌打ちした。
「……やっぱり、二人で終わる話じゃねえのか」
「勝己、何か知ってるの?」
「知るか。だが、昨日の記録を見ただろうが。お前が死んだ記録がある。もう一人のお前がいる。十三年前に何かがあった」
爆豪は、端末をポケットにしまった。
「そこに三人目が出てきたところで、驚くほどのことじゃねえ」
「いや、驚こうよ……」
「驚いてる暇があったら、動け」
爆豪はドアを開けた。
「相澤先生が呼んでる。全員集合だ」
「全員って……?」
「お前の仲間だよ」
爆豪は、振り返った。
「今度こそ、一人で抱え込むなよ」
その言葉に、出久は小さく息を呑んだ。
「……うん」
「返事が軽い!」
「ご、ごめん!」
「謝るな!」
いつものやり取り。
いつもの怒鳴り声。
いつもの朝。
だが、出久は知っていた。
この日常が、何度も失われてきたものなのかもしれない。
そして、誰かがこの日常を取り戻そうとして、世界を壊し続けているのだとしたら。
今度こそ、自分はその誰かの手を取らなければならない。
たとえ、その相手が自分自身だったとしても。
出久は、ベッドから降りた。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
見知らぬ送信者から、一件のメッセージが届いていた。
『おはよう、出久』
『今度は、ちゃんと話そう』
『――お兄ちゃんより』
出久は、画面を見つめた。
「……お兄ちゃん?」
爆豪が振り返る。
「どうした」
「今、メッセージが……」
出久は、画面を見せた。
爆豪の顔から、表情が消えた。
「……お前に、兄貴はいねえだろ」
「……うん」
緑谷出久に、兄はいない。
少なくとも、現在の戸籍上は。
母親の記憶にも、もう一人の出久の言葉にも、三人目の少年の存在があった。
だが、その少年が出久の兄なのかどうかは、まだ分からない。
それでも。
メッセージの最後に添えられた署名を見た瞬間、出久の胸の奥で、何かが軋んだ。
『お兄ちゃんより』
その言葉に、覚えがあった。
幼い頃。
まだ、個性がないと告げられる前。
自分が、ヒーローになりたいと夢を語っていた頃。
誰かが、同じ言葉で自分を呼んでいた。
『お兄ちゃんがいるから、大丈夫だよ』
出久は、頭を押さえた。
「……っ」
断片的な記憶が、蘇る。
夕暮れの公園。
二人の少年。
片方が転び、もう片方が手を差し伸べる。
笑い声。
夕食の匂い。
そして、母親の声。
『出久、お兄ちゃんを呼んできて』
「……あ」
出久は、顔を上げた。
「僕……」
声が震える。
「僕には、兄がいた……?」
爆豪は、すぐには答えなかった。
ただ、出久の肩をつかんだ。
「今は、まだ決めつけるな」
「でも……」
「思い出したことが全部、真実とは限らねえ」
爆豪は、真剣な目で出久を見た。
「だが、思い出したことを、なかったことにもするな」
出久は、ゆっくりと頷いた。
その瞬間、端末に新しいメッセージが届いた。
『午前十時、雄英高校旧校舎』
『十三年前の僕たちが、最後に会った場所で待っている』
『今度こそ、三人で話そう』
そして、最後に。
『出久。君は、僕のことを覚えていなくてもいい』
『でも、僕をもう一度殺す前に、ひとつだけ聞いてほしい』
『あの日、僕が守ろうとしたのは、君じゃない。』
出久の指先が、冷たくなった。
『僕が守ろうとしたのは――』
メッセージは、そこで途切れていた。
第二幕 記録に存在しない兄
3 家族会議
午前七時四十分。
雄英高校、対策本部。
会議室には、出久のほか、相澤、塚内、爆豪、轟、麗日、飯田、切島、八百万が集まっていた。
壁一面のモニターには、昨夜から発生している異常現象の記録が表示されている。
世界各地で停止した時計。
記録から消えた人物。
十三年前の死亡報告書。
そして、出久に届いた謎のメッセージ。
「まず確認する」
相澤が口を開いた。
「緑谷。お前に届いたメッセージは、すべて同じ送信者からか?」
「はい。少なくとも、表示上は同じです。でも、送信者の情報がありません。電話番号も、アカウントも、発信元の識別情報も……」
「通信記録は?」
塚内が答えた。
「存在しません。メッセージを受信したという記録は残っていますが、送信された記録がない。つまり、受信側にだけ情報が現れています」
「……相変わらず、ふざけた仕組みだな」
爆豪が吐き捨てた。
「この世界の通信網を使ってるわけじゃねえってことか」
「その可能性が高い」
塚内は、モニターを切り替えた。
「こちらは、昨夜の世界的な時刻異常の分析結果です」
表示されたのは、無数のグラフだった。
「時計が止まったのではありません。各機器の時刻情報が、午前二時十三分に固定されていたんです。機器自体は動いていましたし、記録媒体への書き込みも続いていました」
「時間そのものが止まったわけではない?」
飯田が確認した。
「ええ。むしろ逆です。世界の時間は通常どおり進んでいたのに、時間を記録する機能だけが、ある一点に固定された」
八百万が眉をひそめた。
「特定の時刻を基準に、世界の記録が上書きされている……ということでしょうか」
「それも考えられます」
塚内は、別のデータを表示した。
「そして、異常が発生したのは、すべての時計ではありません」
画面には、停止した時計と正常に動作した時計が並んでいた。
「停止したのは、外部の時刻情報を参照する機器、あるいは世界標準時と同期する機器に集中しています。完全に独立した機械式時計の一部は、正常に動いていました」
「つまり、時計を止めたんじゃなくて……」
麗日が、言葉を探す。
「時計が信じている時間を、変えた?」
「そういう表現が近いかもしれません」
相澤は腕を組んだ。
「世界そのものを書き換えているのか。それとも、世界の記録だけを書き換えているのか」
「その区別がつかないのが問題です」
塚内は、最後の資料を表示した。
「ただし、一つだけ確かなことがあります」
全員が画面を見た。
「午前二時十三分という時刻は、十三年前の緑谷出久の死亡報告書に記録された死亡推定時刻と一致しています」
沈黙が落ちた。
出久は、自分の手を見た。
十三年前。
自分は死んだことになっている。
その死亡時刻が、世界中の時計を停止させた。
偶然とは考えにくい。
「……僕が原因なんでしょうか」
出久が呟くと、爆豪が即座に答えた。
「違う」
「でも、僕の死亡時刻と一致してる」
「だから何だ」
爆豪は、出久を睨んだ。
「お前の死亡時刻を使って、何かをやってる奴がいる。それだけだろうが」
「……」
「原因と、利用されてる奴を一緒にするな」
その言葉に、出久は顔を上げた。
爆豪は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「お前は昔から、何でも自分のせいにしすぎなんだよ」
「勝己……」
「その癖を直せ。話はそれからだ」
切島が、苦笑した。
「まあ、爆豪の言い方はともかく、俺も同じ意見だぜ。何が起きてるか分からねえのに、誰か一人を犯人にするのは違うだろ」
「うん」
出久は頷いた。
「ありがとう」
相澤は、そこで話を切った。
「問題は、これからだ」
彼は、午前十時に届いたメッセージを表示した。
『雄英高校旧校舎』
『十三年前の僕たちが、最後に会った場所』
「旧校舎は、十三年前に解体されている」
相澤は言った。
「現在の地図には残っていない。施設台帳にも、旧校舎の記録はほとんどない。だが、緑谷が持っている写真には、現在の雄英高校には存在しない建物が写っていた」
「……あの写真の場所が、旧校舎なんですね」
麗日が言った。
「可能性は高い」
「でも、十三年前に解体されたなら、今は何も残っていないんじゃ……」
「普通ならな」
相澤は、出久を見た。
「だが、今回の相手は、普通の方法でメッセージを送ってきているわけじゃない」
「午前十時に行けば、何か分かるかもしれない」
出久は、そう言った。
相澤は頷いた。
「ただし、単独行動は禁止だ。現地には俺たちが同行する。異常が発生した場合、原因を突き止めることよりも、全員の生還を優先する」
「はい」
出久は答えた。
そのときだった。
「……一つ、いいですか」
ずっと黙っていた轟が、口を開いた。
全員が彼を見る。
轟は、出久の端末に表示されたメッセージを指差した。
「この文章だ」
『僕が守ろうとしたのは、君じゃない』
「もし、もう一人の緑谷が、本当に緑谷の兄だったとして……」
轟は、わずかに眉を寄せた。
「なぜ、緑谷を守らなかったことを、そんなに強調する?」
出久は、息を呑んだ。
「……え?」
「普通なら、逆じゃないか。自分が守ろうとしたのは弟だ、と言うはずだ」
轟は、画面を見つめた。
「なのに、わざわざ否定している。まるで、緑谷がずっと勘違いしていたことを訂正するみたいに」
その指摘は、出久の胸に深く刺さった。
確かに、そうだ。
自分は、もう一人の出久が自分を救おうとしていたのだと思っていた。
そして、三人目の出久も、自分を救うために世界をやり直していたのだと考えていた。
だが、メッセージは、それを否定している。
『僕が守ろうとしたのは、君じゃない』
では、誰を守ろうとしたのか。
三人目の少年は、誰を救うために、世界を繰り返しているのか。
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「……もしかしたら」
彼は、言った。
「僕たちは、最初から勘違いしていたのかもしれない」
相澤が、目を細めた。
「何をだ」
「世界が、僕たち二人のどちらかしか生かせないと思っていたことです」
出久は、画面に表示された三つの名前を見つめた。
緑谷出久。
緑谷出久。
そして、黒く塗りつぶされた三つ目の名前。
「もし、三人目の僕が、本当に僕たちの兄だったとしたら……」
彼は、言葉を選びながら続けた。
「彼が守ろうとしていたのは、僕たち二人じゃなくて、僕たちが一緒に生きていた世界そのものだったんじゃないでしょうか」
誰も、すぐには答えなかった。
出久は、自分の考えが正しいとは思っていない。
だが、一つだけ、気になることがあった。
十三年前の死亡報告書。
あの記録には、遺体が回収されていないと書かれていた。
死亡推定時刻は、午前二時十三分。
現場は、再構築によって消失。
そして、関係者の記憶は封印された。
もし、三人目の少年が、二人の出久のどちらでもない存在だったのなら。
彼の死は、誰によって記録されたのか。
なぜ、彼の死ではなく、出久の死として記録されたのか。
そして――。
なぜ、出久自身が、自分の死亡報告書を書いたかのような記録が残っているのか。
相澤が、静かに言った。
「……十時までに、旧校舎の記録を可能な限り洗い出す」
彼は、全員を見回した。
「何が待っているかは分からない。だが、今度こそ、記録に書かれた結末をそのまま受け入れるつもりはない」
その言葉に、出久は頷いた。
そして、彼はまだ知らなかった。
旧校舎に向かうことになる全員のうち、たった一人だけが、すでにその場所を知っていることを。
その人物は、会議室の外に立っていた。
扉の向こうで、話を聞いていた。
黒い髪。
疲れた目。
顔に刻まれた、深い傷。
彼は、誰にも気づかれないように、静かに呟いた。
「……今度は、間に合うだろうか」
そして、手の中にある古い写真を握りしめた。
写真には、三人の少年が写っていた。
4 写真の裏側
午前八時二十分。
会議が終わったあと、出久は一人、医務室の隣にある小さな休憩室にいた。
窓からは、朝の光が差し込んでいる。
いつもなら、何気ない日常の風景に安心できたはずだった。
だが、今は違う。
自分に兄がいたかもしれない。
自分と同じ顔をした少年が、十三年前に死んだかもしれない。
そして、三人目の自分が、世界を繰り返している。
考えれば考えるほど、頭の中が混乱していく。
出久は、ポケットから古い写真を取り出した。
二人の少年と、母親。
以前から持っていた写真だ。
だが、今は違うものが見える。
写真の端。
母親の手。
その指が、二人の少年の間にある何かを隠している。
出久は、写真を裏返した。
そこには、何も書かれていない。
少なくとも、昨日まではそう見えた。
しかし、写真を斜めに傾けた瞬間、薄い文字が浮かび上がった。
鉛筆で書かれた、小さな文字。
『三人で帰る』
出久は、息を止めた。
さらに、その下に。
『出久』
『――』
『出久』
二つの名前の間に、何かが書かれていた。
だが、その部分だけ、紙が削られている。
まるで、名前を消そうとした痕跡のようだった。
「……三人で」
出久は、呟いた。
「三人で帰る……?」
そのとき、休憩室のドアが開いた。
「見つけたか」
相澤だった。
出久は、写真を見せた。
「先生、これ……」
相澤は、写真の裏側を見た瞬間、顔色を変えた。
「……誰から聞いた」
「誰からって……?」
「この言葉だ。誰かに聞いたのか」
「いえ。今、気づきました」
相澤は、写真を受け取った。
指先が、わずかに震えている。
「……そうか」
「先生は、知っているんですか?」
相澤は、すぐには答えなかった。
写真の裏側を、じっと見つめている。
やがて、彼は低い声で言った。
「十三年前、俺はこの言葉を聞いた」
「……誰から?」
「お前だ」
出久は、目を見開いた。
「僕が?」
「そうだ。あの白い部屋で、お前は何度も言っていた」
相澤は、目を閉じた。
「『三人で帰ろう』と」
その瞬間、出久の頭の中に、幼い声が響いた。
『約束だよ』
『三人で帰ろうね』
『誰も置いていかないって、約束したよね』
出久は、頭を押さえた。
「……っ」
「緑谷!」
相澤が肩をつかむ。
「大丈夫か!」
「……聞こえたんです」
「何がだ」
「声が……」
出久は、荒い呼吸を繰り返した。
「僕が、誰かと約束していた声が……」
記憶が、さらに蘇る。
幼い頃。
自分の部屋。
ベッドの上。
二人の少年が、並んで座っている。
その前に、もう一人の少年が立っていた。
三人は、手をつないでいた。
『約束だよ』
真ん中の少年が言った。
『誰か一人だけが助かるなんて、そんなの嫌だ』
左側の少年が頷く。
『うん』
右側の少年も頷く。
『絶対に、三人で帰ろう』
三人は、笑った。
その笑顔は、あまりにも普通だった。
特別な力も、世界の命運も、死者の蘇りもない。
ただ、三人の子どもが、明日も一緒に遊ぼうと約束しているだけだった。
出久は、目を閉じた。
そして、涙が頬を伝った。
「……僕たち」
彼は、震える声で言った。
「僕たちは、三人で帰るって約束したんだ」
相澤は、何も言わなかった。
ただ、写真を机の上に置いた。
「……ああ」
彼は、静かに答えた。
「そして、その約束を守れなかった」
その言葉が、休憩室に落ちた。
出久は、顔を上げた。
「先生。十三年前、僕たち三人に何があったんですか」
相澤は、長い沈黙のあと、答えた。
「……俺は、まだすべてを思い出せていない」
彼は、自分の手を見つめた。
「だが、一つだけ覚えている」
「何ですか?」
「お前たち三人が、最後に俺に頼んだことだ」
相澤は、出久を見た。
「『先生、誰か一人を選ばないでください』」
出久は、息を呑んだ。
相澤は続けた。
「そして、その直後に……世界が壊れた」
第三幕 午前十時、存在しない旧校舎
5 地図にない場所
午前九時五十五分。
雄英高校の敷地内に、誰も知らない道が現れていた。
正確には、道そのものは以前から存在していた。
校舎の裏手にある、古い防火壁。
その壁の向こうには、かつて研究施設があったとされる区画がある。
現在は封鎖され、立ち入り禁止になっている。
公式記録によれば、十三年前の大規模な施設改修に伴い、旧校舎は解体された。
しかし、改修計画書には奇妙な空白があった。
旧校舎の解体工事を発注した記録がない。
解体業者との契約書もない。
工事中の写真も、完成後の写真もない。
ただ、ある日突然、旧校舎は地図から消えていた。
そして、その場所には最初から何もなかったかのように、新しい防火壁が建てられていた。
「……本当に、ここなのか」
爆豪が、防火壁を見上げた。
「地図上では、ただの壁だぞ」
「でも、写真の背景と一致しています」
八百万が端末を確認する。
「窓の配置、建物の角度、地面に埋め込まれた排水溝。すべて一致しています」
「問題は、どうやって入るかだな」
切島が壁に手を置いた。
「ぶち破るか?」
「やめておけ」
相澤が即座に止めた。
「何が起きるか分からない。壁を壊した結果、向こう側に何があるかも分からない」
「……じゃあ、どうするんです?」
麗日が尋ねた。
相澤は、出久を見た。
「緑谷。何か感じるか」
出久は、防火壁に近づいた。
手を伸ばす。
冷たい。
ただのコンクリートの壁だ。
表面には細かなひびがあり、ところどころに苔が生えている。
だが、指先が壁に触れた瞬間。
「……あ」
出久の耳に、かすかな音が聞こえた。
子どもたちの笑い声。
廊下を走る足音。
教室から聞こえる、教師の声。
そして。
『出久、こっちだよ』
出久は、反射的に手を引いた。
「……聞こえた」
「何がだ?」
爆豪が尋ねる。
「声が……」
出久は、壁を見つめた。
「向こう側に、誰かがいる」
相澤は、全員に下がるよう指示した。
「緑谷。もう一度、触れてみろ。ただし、異常があればすぐに離れろ」
「はい」
出久は、もう一度、壁に手を伸ばした。
指先が触れる。
その瞬間、壁の表面が水面のように揺らいだ。
「……!」
コンクリートの向こうに、景色が見えた。
古い校舎。
木製の窓枠。
色褪せた壁。
そして、校舎の前に立つ三人の少年。
出久は、息を止めた。
一人は、自分。
もう一人も、自分。
そして、三人目は――。
顔が見えなかった。
そこだけ、黒い霧に覆われている。
だが、三人目の少年は、二人の出久の手を握っていた。
三人は、笑っていた。
次の瞬間。
景色が変わった。
校舎が炎に包まれている。
窓が割れ、壁が崩れ、黒い亀裂が空を覆っている。
その中央で、一人の少年が叫んでいた。
『先生!』
『早く、二人を連れて逃げて!』
そして、別の少年が叫ぶ。
『嫌だ!』
『僕は、置いていかない!』
出久は、壁から手を離した。
呼吸が乱れる。
視界が歪む。
「緑谷!」
麗日が駆け寄った。
「大丈夫!?」
「……うん」
出久は、額を押さえた。
「今、見えたんだ。十三年前の……」
そのとき。
防火壁の向こうから、音がした。
コン。
コン。
コン。
誰かが、壁を叩いている。
全員が、動きを止めた。
そして、壁の向こうから、少年の声が聞こえた。
「――出久?」
出久の心臓が跳ねた。
「……誰?」
「出久。来てくれたんだね」
声は、壁のすぐ向こうにある。
「待ってたよ」
爆豪が、出久の前に立った。
「誰だ!」
壁の向こうは、しばらく沈黙した。
やがて、少年が答えた。
「……勝己?」
爆豪の顔が、強張った。
「……何で、俺の名前を知ってやがる」
「覚えてないの?」
少年の声は、悲しそうだった。
「僕たち、昔、一緒に遊んだじゃないか」
爆豪は、答えなかった。
その瞬間、彼の脳裏に、見覚えのない光景が蘇った。
幼い自分。
緑色の髪の少年。
そして、その隣にいる、もう一人の少年。
三人は、川辺で石を投げていた。
『勝己、見て!』
緑色の髪の少年が笑う。
『僕、十回連続で水切りできた!』
「……うるせえな。そんなの、まぐれだろ」
『じゃあ、勝負しようよ!』
『僕もやる!』
もう一人の少年が、手を挙げた。
爆豪は、眉をひそめた。
そんな記憶はない。
自分は、幼い頃から出久を知っている。
だが、出久と一緒に遊んでいたのは、いつも出久一人だったはずだ。
少なくとも、そう覚えている。
「……クソが」
爆豪は、歯を食いしばった。
「俺の記憶に、勝手に入り込んでんじゃねえ」
壁の向こうで、少年が小さく笑った。
「……うん」
その声は、どこか安心したようだった。
「やっぱり、勝己だ」
そして。
防火壁の中央に、細い亀裂が走った。
亀裂は、ゆっくりと広がっていく。
壁が崩れるのではない。
壁の向こう側が、こちら側へと近づいてくる。
古い校舎の輪郭が、現実の空間に重なり始めた。
相澤が叫ぶ。
「全員、警戒しろ!」
轟が氷を展開する。
爆豪が両手に爆破を溜める。
麗日と八百万が、負傷者への対応に備える。
そして、出久は一歩前に出た。
亀裂の向こうから、少年が姿を現した。
緑色の髪。
見覚えのある制服。
そして、顔の左半分に広がる黒い亀裂。
三人目の出久だった。
少年は、出久を見つめた。
「……おかえり」
その言葉を聞いた瞬間。
出久の中で、何かが崩れた。
「……ただいま」
気づけば、そう答えていた。
少年は、泣きそうな顔で笑った。
「うん」
彼は、ゆっくりと手を伸ばした。
「今度こそ、帰ろう」
6 教室の三つ目の机
旧校舎の内部は、外観から想像できるよりもずっと広かった。
廊下は長く、窓の外には見知らぬ街並みが広がっている。
しかし、その街並みは、どこか不自然だった。
道路はある。
建物もある。
信号機も、電柱もある。
なのに、人がいない。
車も走っていない。
風の音さえ聞こえない。
まるで、世界を構成するために必要なものだけを並べ、そこに生きる人間だけを忘れたような景色だった。
「……ここは、本当に雄英なのか?」
飯田が、周囲を見回した。
「建物の構造は、雄英高校の旧校舎の記録と一致しています」
八百万が答えた。
「しかし、外部の景色が一致しません。ここから見える街並みは、現在の雄英高校周辺とは異なります」
「つまり、別の場所にある校舎ってことか?」
切島が尋ねる。
「あるいは、別の時間……」
轟が、窓の外を見た。
「十三年前の世界を再現しているのかもしれない」
相澤は、先頭を歩く三人目の出久に声をかけた。
「おい」
少年が振り返る。
「ここは何だ」
「旧校舎だよ」
「それは分かっている。なぜ、今も存在している」
少年は、少し考えた。
「……僕たちが、忘れられなかったから」
「どういう意味だ」
「世界から消されたものは、全部が消えるわけじゃないんだ」
少年は、廊下の壁に手を触れた。
「誰かが覚えている限り、記録はどこかに残る。誰かが忘れられない限り、存在は完全には消えない」
「記憶が、場所を維持しているのか?」
「うん。正確には、記憶だけじゃないけど」
少年は、歩き始めた。
「名前。写真。声。約束。誰かが誰かを大切に思った、その事実」
彼は、廊下の先を見つめた。
「そういうものが、ここを残している」
出久は、その言葉を聞きながら、胸の奥が痛むのを感じた。
死者が蘇ったときも、同じことが起きていたのではないか。
誰かが、その人を忘れられなかった。
もう一度会いたいと願った。
もう一度、名前を呼びたかった。
そして、その願いが、死者をこちら側へ引き戻した。
しかし、戻ってきた者たちは、完全な存在ではなかった。
記憶を失った者。
黒い霧に侵食された者。
自分が誰なのか分からなくなった者。
もし、世界そのものが、記憶によって存在を維持しているのなら。
蘇った死者たちもまた、誰かの記憶によって、かろうじて形を保っているのかもしれない。
「……君は」
出久は、前を歩く少年に尋ねた。
「ここで、ずっと一人だったの?」
少年は、振り返らなかった。
「……うん」
「どれくらい?」
「分からない」
「十三年?」
「もっとかもしれない」
少年は、廊下の壁に並んだ教室を見つめた。
「時間が進まない場所もあった。何度も同じ朝を繰り返す場所もあった。目が覚めるたびに、違う世界にいたこともある」
彼は、小さく笑った。
「でも、どこにいても、ここだけは覚えていた」
「……どうして?」
「君たちと、最後に会った場所だから」
少年は、ある教室の前で立ち止まった。
扉には、古いプレートが取り付けられている。
第一研究教室。
現在の雄英高校には存在しない教室名だった。
少年は、扉を開いた。
そこには、机が三つ並んでいた。
教室の中央に、一つ。
窓際に、一つ。
そして、教室の隅に、一つ。
机の上には、ノートが置かれている。
三冊。
どれも、同じ表紙だった。
出久は、中央の机に近づいた。
ノートを開く。
最初のページには、幼い字で書かれていた。
『ぼくたちのやくそく』
その下に、三つの名前が並んでいる。
一つ目。
緑谷出久。
二つ目。
緑谷出久。
三つ目。
黒く塗りつぶされている。
「……どうして、名前が消されているの?」
出久が尋ねると、少年は答えた。
「僕が消したんだ」
「……君が?」
「うん」
少年は、教室の隅にある机を見つめた。
「名前を残しておくと、世界がその人を見つけてしまうから」
「世界が……?」
「君たちの名前を見つけて、存在を記録して、どちらが本物なのか決めようとする」
少年は、自分の胸に手を当てた。
「そして、選ばれなかった方を消す」
出久は、息を呑んだ。
「だから、名前を消したの?」
「そうすれば、少なくとも、すぐには見つからないと思った」
少年は、苦笑した。
「でも、駄目だった」
彼は、ノートを一冊取り上げた。
「名前を消しても、存在そのものは消せなかった。むしろ、名前を消したせいで、僕が誰だったのか、僕自身にも分からなくなった」
「……」
「気づいたときには、僕は自分の名前を思い出せなくなっていた」
少年は、ノートを閉じた。
「だから、僕は三人目になった」
その言葉が、教室に響いた。
出久は、目の前の少年を見つめた。
三人目。
それは、単に三人目に生まれた少年という意味ではないのかもしれない。
名前を失った者。
記録から消された者。
二人の緑谷出久の間に残された、空白。
彼は、自分の名前を失うことで、世界から逃れようとしたのだ。
「……君は」
出久は、ゆっくりと尋ねた。
「本当の名前を、思い出したい?」
少年は、答えなかった。
その代わりに、出久の手を見つめた。
「……君は、覚えている?」
「何を?」
「僕たちが、最初に約束したこと」
出久は、目を閉じた。
三人で帰る。
誰も置いていかない。
誰か一人だけが助かるなんて、そんなの嫌だ。
記憶の断片が、少しずつつながっていく。
そして、最後に。
幼い自分が、笑顔で言った言葉が蘇った。
『誰かが間違えたら、みんなで直そう』
出久は、目を見開いた。
「……思い出した」
少年の表情が変わった。
「……本当に?」
「うん」
出久は、涙を浮かべながら笑った。
「僕たちは、そう約束したんだ」
彼は、少年に手を伸ばした。
「誰かが間違えても、一人だけを責めない。誰かが苦しんでいたら、みんなで考える。誰かが間違った選択をしても、そこで終わりにしない」
出久は、少年の手を握った。
「だから、君が何をしたとしても、僕たちは一緒に考えられるはずだ」
少年は、動かなかった。
やがて、彼の目から涙がこぼれた。
「……そんな約束」
声が震える。
「そんな約束、もう守れないよ」
「どうして?」
「だって、僕は……」
少年は、自分の手を見つめた。
黒い亀裂が、指先まで広がっている。
「僕は、もう一人の君を殺したんだ」
その瞬間、教室の扉が激しく閉じた。
壁に亀裂が走る。
机が震える。
ノートのページが、風もないのにめくれ始めた。
そして、すべてのノートに、同じ文字が浮かび上がった。
『観測対象の重複を検出』
『個体数が規定値を超えています』
『存在の統合を開始します』
相澤が叫んだ。
「全員、教室から出ろ!」
だが、扉は開かなかった。
「くそっ!」
爆豪が爆破を放つ。
轟が氷を展開する。
しかし、扉は傷一つつかなかった。
モニターも、通信機器も、すべてが黒い画面に変わっている。
その中央に、文字が浮かび上がった。
『対象A:緑谷出久』
『対象B:緑谷出久』
『対象C:名称不明』
『統合対象を選択してください』
三つの名前の横に、選択肢が表示された。
『Aを残す』
『Bを残す』
『Cを残す』
出久は、画面を見つめた。
「……また、選ばせるのか」
誰か一人を選ぶ。
誰か一人を残す。
誰か一人を消す。
十三年前と同じ。
何度も繰り返された、あの選択。
出久は、画面に向かって叫んだ。
「選ばない!」
画面が明滅した。
『選択が必要です』
「必要ない!」
出久は、拳を握った。
「僕たちは、誰か一人を消すためにここに来たんじゃない!」
黒い文字が、画面を埋め尽くす。
『選択が必要です』
『選択が必要です』
『選択が必要です』
『選択が必要です』
少年は、出久の腕をつかんだ。
「……やめて」
「え?」
「君が拒否すると、世界が壊れる」
「だったら、一緒に止めよう!」
「無理だ!」
少年は、出久を突き飛ばした。
「君には分からないんだ!」
その身体から、黒い霧が噴き出した。
「この世界は、選択しなければ維持できない!」
教室全体が震えた。
壁が剥がれ、床が崩れ始める。
「僕たちが三人とも生きようとすれば、世界が壊れる!」
少年は、泣きながら叫んだ。
「だから、誰かが諦めなければならないんだ!」
出久は、床に手をついた。
「……違う」
「違わない!」
「違うよ!」
出久は立ち上がった。
「世界がそう言っているからって、それが正しいとは限らない!」
少年の身体が、びくりと震えた。
出久は、まっすぐに彼を見た。
「君は、世界に選ばせたって言ったよね」
少年は、答えなかった。
「でも、本当は違うんだ」
出久は、一歩前に出た。
「世界に選ばせたんじゃない。世界に、選ばされていると思い込んでしまったんだ」
その瞬間。
少年の表情が、崩れた。
まるで、十三年間ずっと閉じ込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「……だったら」
少年は、震える声で言った。
「だったら、どうすればよかったんだよ……!」
出久は、答えようとした。
しかし、その前に。
教室の中央に、黒い亀裂が開いた。
その向こうから、誰かの声が聞こえた。
『――選択を拒否するのなら』
低く、冷たい声。
人間の声ではない。
だが、完全に人間と無関係な声でもない。
『代替となる回答を提示してください』
出久は、息を呑んだ。
亀裂の向こうに、巨大な影が見えた。
無数の星々を背負った、輪郭のない存在。
その姿を認識しようとした瞬間、頭の中に激痛が走る。
『対象個体、緑谷出久』
『観測回数、五』
『再構築履歴、未確定』
『世界の維持に必要な条件を提示します』
教室のすべての壁に、文字が浮かび上がった。
『対象Aの消去』
『対象Bの消去』
『対象Cの消去』
『いずれか一つを選択してください』
出久は、震える足で立ち上がった。
「……断る」
『回答が成立しません』
「断る!」
『回答が成立しません』
出久は、叫んだ。
「僕たち三人とも、生きる!」
その瞬間。
世界が、真っ白に染まった。
第四幕 最初の犠牲者
7 誰が最初に死んだのか
音が戻ったとき、出久は床に倒れていた。
身体に痛みはない。
だが、目の前の景色が理解できなかった。
教室は消えていた。
机も、椅子も、壁もない。
そこには、果てしない白い空間が広がっていた。
相澤たちの姿もない。
爆豪も、轟も、麗日も、飯田も、切島も、八百万も。
誰もいなかった。
ただ、目の前に一人の少年が立っていた。
三人目の出久。
少年は、両手で顔を覆っていた。
「……まただ」
彼は呟いた。
「また、同じことになった」
出久は立ち上がった。
「みんなは?」
「……分からない」
「先生たちは?」
「分からない」
「勝己は? お茶子ちゃんは?」
少年は、答えなかった。
出久は、彼の肩をつかんだ。
「君が、何かしたの?」
少年は、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、何の感情も残っていなかった。
「……違う」
「だったら、何が起きたの?」
「君が、拒否したからだ」
出久は、息を呑んだ。
「……僕が?」
「そうだよ」
少年は、白い空間を見回した。
「世界は、君たちのうち誰か一人を消せば、維持できると言った。君は、それを拒否した」
「でも、それは……!」
「分かってる」
少年は、静かに頷いた。
「君が間違っているとは思わない」
彼は、出久を見つめた。
「僕だって、本当は、誰も消したくない」
その声が、あまりにも弱々しかった。
「でも、世界は、それを許さない」
出久は、言葉を失った。
少年は、歩き始めた。
白い空間の向こうに、扉が現れる。
その扉には、三つの名前が刻まれていた。
緑谷出久。
緑谷出久。
そして、三つ目の名前。
今度は、黒く塗りつぶされていなかった。
そこに記されていたのは――。
緑谷出久。
三つとも、同じ名前だった。
「……どうして」
出久が呟く。
「どうして、三人とも同じ名前なんだ?」
少年は、扉の前で立ち止まった。
「それが、答えだからだよ」
「何の答え?」
少年は、振り返った。
「僕たちは、三人とも緑谷出久なんだ」
出久は、息を呑んだ。
「……でも、君は」
「僕は、君の兄じゃない」
少年は、静かに言った。
「少なくとも、血のつながった兄じゃない」
「……」
「君たちがそう呼んでくれたから、僕は兄だった」
少年は、自分の手を見つめた。
「君たちが僕を覚えていてくれたから、僕は存在していた」
その言葉に、出久はようやく気づいた。
三人目の少年は、最初から兄だったわけではない。
二人の出久が、彼を兄と呼んだ。
母親が、彼を息子として迎えた。
相澤が、彼を生徒として扱った。
爆豪が、彼と一緒に遊んだ。
その積み重ねが、彼を一人の人間にしていた。
しかし、世界が再構築されるたび、その記憶は消されていった。
彼を覚えている者が減るたび、彼の存在は薄れていった。
そして最後には、彼自身が自分の名前を忘れた。
「……君は」
出久は、ゆっくりと尋ねた。
「どうして、自分の名前を消したの?」
少年は、目を伏せた。
「……君たちを守るためだよ」
「僕たちを?」
「僕の名前が残っている限り、世界は僕を見つける。僕を見つければ、僕が存在する理由を調べる。僕が存在する理由を調べれば、君たち二人の存在も、すべて記録される」
少年は、苦笑した。
「そして、世界は、僕たち三人を一つに統合しようとする」
「統合……?」
「三人のうち、誰が本物なのかを決めるんだ」
少年は、扉を見つめた。
「だから、僕は自分の名前を消した。君たちの記録から、自分の存在を切り離した」
「……それで、君だけが消えたの?」
「最初は、そうだった」
少年は頷いた。
「でも、僕が消えたあと、君たちは僕を探した」
出久の胸が痛んだ。
「君たちは、僕の名前を呼んだ。僕を探して、泣いて、帰ってきてほしいと願った」
少年は、目を閉じた。
「その願いが、僕を戻した」
出久は、息を呑んだ。
死者が蘇る。
名前を失った者が、再び戻ってくる。
世界から消された存在が、誰かの願いによって、もう一度こちら側へ現れる。
それは、奇跡だった。
だが同時に、世界の仕組みそのものを揺るがす現象でもあった。
「……じゃあ」
出久は、震える声で尋ねた。
「死者が蘇ったのも、僕たちと同じなの?」
少年は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……たぶんね」
「たぶん?」
「僕にも、全部は分からない」
少年は、白い空間を見上げた。
「でも、死者が戻ってきたことで、世界は大きく変わった」
彼は、出久を見た。
「これまで世界は、存在しないものを消すことで、安定を保っていた。記録から消えた人間。存在してはいけない人間。死んだはずなのに、誰かが覚えている人間」
その声が、少しずつ強くなる。
「そういうものを、世界は排除していた」
出久は、言葉を失った。
「でも、死者が戻ってきたことで、その仕組みが壊れ始めた。世界は、もう一度、誰が存在していいのかを決めなければならなくなった」
少年は、扉に手を置いた。
「そして、世界は、最初に僕たちを見つけた」
「……どうして、僕たちが最初なんだ?」
少年は、静かに答えた。
「僕たちが、最初に世界の決定を拒んだからだよ」
出久は、息を呑んだ。
十三年前。
二人の出久と、三人目の少年。
彼らは、誰か一人を選ぶことを拒んだ。
誰か一人だけが助かる世界を、受け入れなかった。
その選択が、世界の仕組みを揺るがした。
そして、その選択を取り消すために、世界は何度も再構築を繰り返した。
「……僕たちは」
出久は、呟いた。
「世界を壊したんだね」
少年は、首を振った。
「違うよ」
彼は、出久を見つめた。
「僕たちは、世界が隠していたものを見つけただけだ」
その言葉が、白い空間に響いた。
そして、少年は、扉を開いた。
その向こうには、十三年前の教室が広がっていた。
机が三つ。
窓から差し込む夕日。
そして、机の上に置かれた、一冊のノート。
少年は、ノートを手に取った。
「……これが、最初の記録だ」
出久は、隣に立った。
ノートの表紙には、こう書かれていた。
『第零回観測記録』
そして、その下に。
『対象個体:緑谷出久』
『対象個体:緑谷出久』
『対象個体:緑谷出久』
三つの名前。
三人の存在。
その下に、手書きの文字が残されていた。
『三人とも、生きている』
『三人とも、同じ世界に存在している』
『したがって、世界は三人を排除する必要がない』
出久は、息を呑んだ。
「……これは」
少年は、ノートをめくった。
次のページには、別の文字が記されていた。
『しかし、観測者は三つの存在を一つの個体として認識した』
『個体の重複を確認』
『存在の統合を開始』
『統合に失敗』
『世界の再構築を開始』
その下に、赤い文字で書かれていた。
『誰かが、最初に死ななければならなかった』
出久は、顔を上げた。
「……誰が書いたんだ?」
少年は、ノートの最後のページを開いた。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
『僕は、僕を殺した』
出久は、息を止めた。
それは、十三年前の死亡報告書に書かれていた言葉と同じだった。
しかし、その下には、もう一つの文章があった。
『僕が死ねば、二人は生きられる』
そして、さらにその下。
『でも、僕が死んだら、二人は僕を忘れる』
『だから、僕は――』
そこで、文章は途切れていた。
出久は、ノートを握りしめた。
「……君が、最初に死んだの?」
少年は、答えなかった。
その代わりに、出久の手を取った。
「……出久」
彼は、静かに言った。
「今度こそ、君に選んでほしい」
「何を?」
少年は、扉の向こうを見た。
そこには、二人の出久が立っていた。
一人は、十三年前の自分。
もう一人は、今の自分。
そして、その二人の間に、三人目の少年がいた。
「……誰を生かすかじゃない」
少年は、出久を見た。
「誰を、僕たちの家族として覚えているか」
その瞬間、白い空間が揺れた。
扉の向こうで、巨大な影が動いた。
『観測対象の存在を確認』
『第零回観測記録を検出』
『記録の完全開示を開始します』
出久は、少年の手を強く握った。
「……僕は、君を覚えている」
少年の目が、大きく見開かれた。
「君が誰なのか、まだ全部は分からない。でも、君が僕たちと一緒にいたことは、分かった」
出久は、笑った。
「だから、もう一度、名前を教えてよ」
少年は、口を開いた。
その瞬間。
白い空間のすべてが、黒く染まった。
『名称復元を拒否します』
『対象個体の名前は、世界の再構築に影響を与えます』
『名称の復元は、許可されていません』
少年の口から、声が消えた。
彼は、苦しそうに喉を押さえた。
出久は、叫んだ。
「やめろ!」
『名称復元を拒否します』
「彼は、人間だ!」
『対象個体の存在は、未確定です』
「名前が分からなくても、人間だ!」
出久は、少年を抱きしめた。
「君が誰であっても、僕たちが一緒にいたことは変わらない!」
その瞬間。
黒い空間に、緑色の光が走った。
巨大な影が、わずかに揺らいだ。
『……』
初めて、観測者が沈黙した。
出久は、少年を抱きしめたまま、叫んだ。
「僕たちは、三人とも生きている!」
その言葉が、世界に響いた。
そして。
どこか遠くで、誰かが笑った。
『……そうか』
その声は、少年の声でも、出久の声でもなかった。
人間の声ではない。
だが、どこか懐かしい声だった。
『君たちは、まだ、その段階にいるのか』
黒い空間が、ゆっくりと裂けていく。
その向こうに、無数の星々が見えた。
そして、その星々のさらに向こうに。
果てしない暗闇が広がっていた。
『ならば、観測を継続しよう』
その声が消えた瞬間。
出久は、誰かの手に引かれた。
「――出久!」
爆豪の声だった。
視界が戻る。
教室。
机。
椅子。
相澤。
麗日。
轟。
飯田。
切島。
八百万。
全員が、そこにいた。
出久は、床に膝をついていた。
腕の中には、三人目の少年がいる。
少年は、気を失っていた。
だが、呼吸をしている。
心臓も動いている。
そして、左腕に走っていた黒い亀裂は、わずかに薄くなっていた。
「……戻ってきた」
出久は、呟いた。
爆豪が、彼の肩をつかんだ。
「おい! 何があった!」
「……分からない」
出久は、少年を抱きしめた。
「でも、僕たちは……」
彼は、顔を上げた。
「三人とも、生きている」
その言葉に、相澤が目を閉じた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で、呟いた。
「……今度こそ、か」
終幕 名前を呼ぶ
午前十時三十七分。
旧校舎からの帰還後、三人目の少年は医務室に運ばれた。
身体に目立った外傷はない。
しかし、検査結果は異常だらけだった。
血液型は判定不能。
指紋は、緑谷出久と一致する部分と、一致しない部分が混在。
DNAも、出久と極めて近いが、完全には一致しない。
さらに、脳波の記録には、複数の異なるパターンが重なっていた。
まるで、三人分の人間の記録が、一つの身体に保存されているかのようだった。
「……何なんだ、こいつは」
爆豪が呟いた。
「緑谷と同じ顔で、緑谷と同じ遺伝情報を持っていて、それでいて別人だと?」
「まだ、断定はできない」
相澤は、ベッドに横たわる少年を見つめた。
「だが、少なくとも、こいつは緑谷出久そのものではない」
麗日が、そっと少年の手を握った。
「……怖かったよね」
彼女は、小さく呟いた。
「ずっと、一人だったんだよね」
少年は、目を閉じたまま動かなかった。
しかし、麗日の言葉を聞いた瞬間、彼の指先がわずかに動いた。
その様子を見て、出久は息を呑んだ。
「……お茶子ちゃん」
「うん?」
「もう一度、名前を呼んであげてくれる?」
麗日は、少年を見つめた。
「……名前、分からないよ?」
「うん」
出久は頷いた。
「だから、今は……」
彼は、少年の手を取った。
そして、ゆっくりと声をかけた。
「……おかえり」
少年の指が、出久の手を握り返した。
ほんのわずかに。
しかし、確かに。
その瞬間、医務室のモニターに、文字が浮かび上がった。
『対象個体の生存を確認』
『対象個体の名称:未確定』
『対象個体の存在履歴:復元中』
そして、その下に。
『家族関係の再構築を開始します』
出久は、画面を見つめた。
「……家族関係?」
文字が変わる。
『母親:緑谷久美子』
『弟:緑谷出久』
『弟:緑谷出久』
そして、最後に。
『兄:――――』
名前の欄が、黒く塗りつぶされていた。
出久は、少年の手を握りしめた。
「……大丈夫」
彼は、静かに言った。
「名前が分からなくても、君はここにいる」
そのとき。
少年の唇が、かすかに動いた。
「……で……く……」
出久は、身を乗り出した。
「何?」
少年は、もう一度、口を動かした。
「……出久……」
「うん。僕だよ」
少年は、目を閉じたまま、涙を流した。
「……ごめん……」
その声は、あまりにも小さかった。
「……僕が……君を……」
そこで、少年の意識は再び途切れた。
出久は、彼の手を握ったまま、しばらく動けなかった。
そして、医務室の窓の外。
誰も気づかない空の彼方で、巨大な存在が、再び世界を観測していた。
『対象個体の生存を確認』
『存在の統合は失敗』
『再構築の必要性を再評価』
『対象個体の意思決定を観測』
その記録の最後に、ひとつの項目が追加された。
『新たな可能性を検出』
『三つの存在が、同一世界に共存する可能性』
『観測を継続します』
そして、さらに深い場所で。
誰かが、囁いた。
「……まだ、終わらせない」
その声は、三人目の少年の声に似ていた。
「僕は、まだ……」
声が途切れる。
そして、最後に。
「あの子を、返してもらっていない。」