僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二章 第九話「兄の名前」

 

――その名前を呼ぶために、世界は一度、彼を殺した。

午前二時十三分。

世界中の時計が、再び止まった。

スマートフォンの画面。駅の電光掲示板。病院の壁時計。軍事衛星の内部時計。原子時計。人間が作ったものも、自然現象を基準に動くものも、例外なく同じ時刻を示していた。

02:13。

それは、十三年前に緑谷出久の死亡が記録された時刻だった。

そして今、雄英高校の地下医療区画では、緑谷出久と同じ顔を持つ少年が、白いベッドの上で眠っていた。

少年の左手には、包帯が巻かれている。

指先には、何かを強く握り締めていたような跡があった。

右手は、ベッドの端から垂れ下がっている。

その手の甲には、細い黒い線が一本。

皮膚の下を走るそれは、傷ではなかった。

血管でもなかった。

まるで、少年の身体を構成する何かに、誰かが鉛筆で一本の線を引いたようだった。

「……先生」

緑谷出久が呟いた。

ベッドのそばに立っていた相澤消太が、顔を上げる。

「どうした」

「この子……夢を見てるんだと思います」

「根拠は?」

「さっきから、同じ名前を呼んでるんです」

出久は、眠る少年を見つめた。

「でも、その名前だけが聞き取れない」

相澤は黙った。

医療モニターには三つの波形が表示されていた。

心拍。

脳波。

そして、雄英の医療機器では分類できない第三の波形。

その三つ目は、少年の意識が深く沈むたびに、不規則に揺れていた。

まるで、遠く離れた誰かが、少年の身体を通してこちら側に手を伸ばしているかのように。

「……あの子を、返してもらっていない」

先ほど聞こえた声が、相澤の脳裏によみがえる。

声は少年のものに似ていた。

だが、少年本人の声とは、ほんのわずかに違っていた。

同じ旋律を持ちながら、音程だけが異なる。

同じ人間の声を、別の時間から録音して再生したような違和感。

「緑谷」

「はい」

「お前は、あいつを知っているのか」

出久は、すぐには答えなかった。

知っている。

そんな気がする。

けれど、知らない。

初めて見た顔だ。

初めて聞いた声だ。

それなのに、彼が目を覚ましたとき、自分は自然に言った。

――おかえり。

そして彼は、自然に答えた。

――ただいま。

「……分かりません」

出久は、自分の胸元を握り締めた。

「でも、知らない人だとは思えないんです」

「記憶にないだけかもしれない」

「はい」

「お前の記憶が改変されている可能性もある」

「はい」

「それでも、今の段階でこいつを家族だと決めつけるな」

相澤の言葉は冷静だった。

少年の正体が分からない以上、情に流されるわけにはいかない。

しかし。

「……家族じゃないって決めつけるのも、違うと思います」

出久は、少年の手を見た。

「だって、僕はこの子が何者なのか知らない。でも……この子が、ずっと誰かを守ろうとしていたことだけは、分かる気がするんです」

相澤は目を細めた。

「それは、お前の願望かもしれないぞ」

「そうかもしれません」

出久は頷いた。

「だから、確かめたいんです」

そのときだった。

少年の指が、微かに動いた。

二人は同時に顔を向ける。

「……っ」

少年の眉が寄る。

呼吸が乱れた。

医療モニターの波形が、一斉に跳ね上がる。

「緑谷、下がれ!」

相澤が出久の肩を掴んだ瞬間、少年が目を開いた。

瞳は緑色だった。

出久と同じ色。

しかし、その瞳に映っていたのは、医療区画の白い天井ではなかった。

「……まだ、間に合う」

少年は、誰に向けるでもなく呟いた。

「まだ……今度なら……」

その唇が震える。

「出久を、殺さずに済む」

出久の背筋が凍った。

「……え?」

少年の視線が動く。

ベッドの横に立つ出久を見つけた瞬間、少年の顔から血の気が引いた。

恐怖。

安堵。

絶望。

そして、あまりにも深い罪悪感。

それらが一瞬のうちに表情を駆け抜けた。

「――来るな!」

少年が叫んだ。

「僕に近づくな、出久!」

次の瞬間、病室の壁に黒い亀裂が走った。

1 十三年前、存在しなかった兄

「全員、医療区画から離れろ!」

相澤の声が飛んだ。

警報が鳴り響く。

医療区画の隔壁が自動的に閉じようとしたが、扉の中央に黒い線が浮かび、動きを止めた。

亀裂は壁だけではない。

床にも。

天井にも。

そして、少年の影にも。

影が、本人とは別の方向へ動いていた。

「先生!」

「分かってる!」

相澤の目が赤く染まる。

個性抹消。

少年の身体から発生していた黒い亀裂が、一瞬だけ動きを止めた。

だが、消えない。

「個性じゃない……!」

相澤は歯を食いしばった。

「こいつ、個性を発動しているんじゃない。空間そのものが……!」

言葉の途中で、医療モニターが真っ暗になった。

そして、画面いっぱいに文字が浮かび上がる。

【再構築記録:第零回】

【対象:緑谷出久】

【対象数:三】

【同一性:不一致】

【統合処理:失敗】

【再実行まで:六十二時間五十九分】

「六十二時間……」

相澤が呟く。

数字は減り続けていた。

世界の再構築まで、残り六十三時間。

その時計が、今も進んでいる。

「……違う」

ベッドの上で少年が呟いた。

「違う、違う、違う……!」

少年は頭を抱えた。

「これは、僕が見せたいものじゃない……!」

黒い亀裂が、少年の首元まで伸びる。

出久が駆け寄ろうとした。

「来るなって言っただろ!」

「でも!」

「僕に近づいたら、君まで――!」

「だったら、近づいてから考える!」

出久は少年の腕を掴んだ。

その瞬間。

世界が、反転した。

音が消えた。

警報も、呼吸音も、相澤の叫びも。

すべてが遠ざかる。

白い医療区画は、薄い紙のように裏返った。

そして、出久は見た。

知らない部屋を。

知らない家族を。

知らない少年を。

知らないはずなのに、懐かしくてたまらない景色を。

――夕暮れ。

小さな食卓。

三つの椅子。

三つの茶碗。

母親が料理を並べている。

一人の少年が、箸を持って笑っている。

もう一人の少年が、宿題を広げている。

そして、二人の間に座る、もう一人の少年。

三人は、同じ顔をしていた。

違うのは、目の奥に宿るものだけ。

一人は、世界を救おうとしている。

一人は、世界を壊してでも誰かを救おうとしている。

そしてもう一人は。

その二人が、どちらも生きられる未来を探していた。

「……兄ちゃん」

声が聞こえた。

小さな出久の声だった。

食卓の中央に座る少年が、笑った。

「どうした、出久」

「明日も、三人で帰れる?」

「帰れるよ」

「絶対?」

「絶対」

少年は、迷いなく答えた。

「僕が迎えに行くから」

その言葉を聞いた瞬間、現在の出久は息を呑んだ。

――兄ちゃん。

その呼び方が、胸の奥に突き刺さった。

知らない。

覚えていない。

だが、知っている。

この少年は。

自分にとって。

「……兄ちゃん?」

出久が呟いた。

食卓の少年が、顔を上げた。

その笑顔が、ゆっくりと崩れた。

「……ああ」

少年は、泣きそうな顔で笑った。

「そうか」

「……」

「君は、まだ覚えていてくれたんだね」

その瞬間、景色が砕け散った。

「緑谷!」

相澤の声で、出久は現実へ引き戻された。

医療区画。

白い壁。

鳴り響く警報。

そして、目の前で苦しそうに息をする少年。

出久は少年の腕を掴んだままだった。

「今の……」

「何を見た?」

相澤が問いかける。

出久は答えようとした。

けれど、言葉が出てこない。

夕暮れの食卓。

三つの椅子。

三人の少年。

そして。

――僕が迎えに行くから。

「……家族、です」

ようやく、それだけを口にした。

「家族の夢を見ました」

少年は目を閉じた。

その頬を、一筋の涙が伝った。

「……夢じゃないよ」

彼は言った。

「君が忘れただけだ」

出久は息を止めた。

少年は、ゆっくりと出久の手を握り返した。

「僕は……君の兄だ」

その言葉が、医療区画に落ちた。

だが。

次の瞬間、少年は首を横に振った。

「……いや」

唇が震える。

「違う」

彼は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「僕は……君の兄だった」

過去形。

その違いが、出久の胸を抉った。

「今は違うの?」

少年は答えなかった。

ただ、握り返していた出久の手を、そっと離した。

「……ごめん」

そして彼は、出久の目を見た。

「僕の名前を、探さないで」

2 名前のない少年

午前二時三十七分。

雄英高校、臨時対策本部。

緑谷出久の証言を聞き終えた全員が、重い沈黙に包まれていた。

爆豪勝己は腕を組み、壁にもたれている。

轟焦凍はテーブルに置かれた資料を見つめていた。

麗日お茶子は、出久の隣に座っている。

飯田天哉は、眼鏡を押し上げながら記録を整理していた。

そして、相澤消太は、正面のモニターに映し出された少年の検査結果を見つめていた。

「整理するぞ」

相澤が口を開く。

「現時点で確認できている事実は三つ」

指を一本立てた。

「一つ。緑谷と同じ顔をした少年が、十三年前の記録に関連する異常空間から出現した」

二本目。

「二つ。少年は自分を緑谷の兄だと主張した。ただし、現在は兄ではないとも発言している」

三本目。

「三つ。少年の存在は、通常の生物学的分類だけでは説明できない」

「……それだけかよ」

爆豪が低く唸った。

「世界中の時計が止まって、十三年前に死んだはずの人間の記録が出てきて、出久にそっくりな野郎が三人目として現れたんだぞ。しかもそいつが、出久を殺すだの、兄だっただの、意味分かんねえことを言ってやがる」

「だからこそ、確認できた事実と推測を分ける必要がある」

相澤は淡々と答えた。

「感情で結論を急げば、相手の思惑に乗ることになる」

「チッ」

爆豪は舌打ちしたが、それ以上は言わなかった。

「しかし、相澤先生」

飯田が資料を掲げる。

「少年のDNAは緑谷くんと部分的に一致しています。完全一致ではありません。骨格形成に関わる遺伝的特徴も近似していますが、いくつかの部位には明確な差異があります」

「双子ではない、ということか」

轟が尋ねた。

「少なくとも、通常の一卵性双生児では説明できません」

「なら、別の世界の俺ってことか?」

爆豪が言った。

誰も、すぐには否定しなかった。

「……可能性はある」

相澤が答える。

「だが、別世界という言葉を使うには、まだ情報が足りない。時間軸の分岐なのか、記憶の複製なのか、存在そのものの再構築なのか。そもそも、我々が世界と呼んでいるものが一つなのかすら分からない」

「嫌な話ばかりだね……」

お茶子が小さく呟いた。

出久は俯いていた。

彼の手には、医療区画で少年から離れたとき、無意識に握り締めてしまったものが残っていた。

小さな紙片。

白い紙。

そこには、鉛筆で何かが書かれていた。

少年の手の中にあったものだ。

出久は、それを広げた。

「……これ」

全員の視線が集まる。

紙片には、たった一行だけ記されていた。

『兄の名前を、返してください』

その下には、何かを書きかけた跡があった。

鉛筆で何度もなぞられ、紙が破れそうになるほど強く消されている。

文字の痕跡は残っている。

だが、読めない。

名前の部分だけが、まるで最初からそこに何もなかったかのように、白くなっていた。

「……返してください、か」

轟が呟いた。

「誰に向けた言葉だ?」

「分かりません」

出久は紙片を見つめた。

「でも、この人は自分の名前を忘れたんじゃない」

「どういう意味だ?」

爆豪が問う。

出久は、ゆっくりと言葉を選んだ。

「忘れたんじゃなくて……名前が、なくなっているんだと思います」

「名前がなくなる?」

「はい。記憶が曖昧になったり、思い出せなくなったりすることとは違う。最初から、その名前にたどり着く道がないんです」

出久は、自分の頭を指先で押さえた。

「さっき、あの人のことを思い出しかけました。食卓があって、三人で座っていて……僕は、その人を兄ちゃんって呼んでいた」

お茶子が息を呑んだ。

「でも、顔は思い出せても、名前だけが出てこない。声も、表情も、あの人が何を好きだったのかも、少しずつ分かる気がするのに」

出久は、紙片を見つめる。

「名前だけが、最初から存在しなかったみたいに、そこにないんです」

相澤は黙っていた。

その説明は、奇妙なほど、目の前の資料と一致していた。

検査結果には、少年の名前を入力する欄があった。

しかし、入力しようとすると、システムがエラーを返す。

文字を入力すること自体はできる。

だが、保存されない。

保存した直後に、空欄へ戻る。

紙に書いても同じだった。

音声認識で読み上げても、該当する名前の部分だけが無音になる。

記録媒体を変えても、保存先を変えても、結果は変わらない。

まるで世界そのものが、その名前を受け付けていない。

「……個性による記憶操作では説明できないな」

相澤が言った。

「記憶だけではなく、記録そのものが拒絶されている。こいつは、存在を消されているんじゃない。存在していることは確認できるのに、名前だけが固定できない」

「そんなこと、可能なのかよ」

爆豪が苛立たしげに言った。

「可能かどうかを決める段階は過ぎている」

相澤は、モニターを切り替えた。

「問題は、なぜ名前だけなのかだ」

そのとき。

会議室の扉が開いた。

「相澤先生」

入ってきたのは、警備担当の職員だった。

「来訪者です。事前の連絡はありません」

「今は面会を制限している」

「はい。ただ……その女性は、緑谷出久さんの名前を出しています」

出久が顔を上げた。

「僕の?」

職員は頷いた。

「それと、医療区画にいる少年についても知っているようです」

相澤の表情が変わった。

「身元は?」

「確認中です。本人は、どうしても緑谷さんと話さなければならないと」

「何と言っている?」

職員は、ためらった。

「……『あの子を、二度も殺した人に会わせてください』と」

空気が凍った。

お茶子が出久の腕を掴む。

爆豪が壁から背を離した。

轟の視線が鋭くなる。

相澤は、職員に尋ねた。

「女性の名前は?」

「それが……」

職員は、困惑した顔をした。

「本人は名乗っています。身分証もあります。ですが、照合するたびに記録が変わるんです」

「何だと?」

「名前だけではありません。住所も、生年月日も、経歴も、照合先によって異なる。ですが、本人の顔写真だけは、すべて一致しています」

相澤は数秒、目を閉じた。

そして、静かに言った。

「連れてこい」

「先生!」

出久が立ち上がった。

「僕も会います」

「危険だ」

「分かっています」

「分かっていないから言っている」

相澤の声が鋭くなる。

「お前は、十三年前の記録と関係する可能性がある。三人目の緑谷と接触した直後に、別の異常が現れた。お前を狙っているのか、あの少年を狙っているのか、それすら分からない」

「それでも、会わないといけない気がするんです」

「気がする、で動くな」

「先生」

出久は、相澤を見た。

「……あの人は、僕を二度殺したと言ったんですよね」

相澤は答えなかった。

「もし本当にそうなら、僕は、その人の話を聞かなきゃいけない」

出久は拳を握った。

「僕が覚えていないことが、誰かを傷つけているのかもしれないから」

「……」

「知らないからって、知らないままでいいとは思えないんです」

相澤は長く息を吐いた。

「……俺も同席する」

「はい」

「爆豪、轟。お前たちもだ」

「言われなくても行くわ」

爆豪が答えた。

「緑谷だけで会わせる理由がない」

轟も立ち上がる。

お茶子は、出久の手を握ったまま離さなかった。

「私も行くよ」

「麗日」

「だって、出久くんが一人で背負おうとするの、もう見たくないから」

出久は、何かを言おうとして。

結局、頷いた。

「……ありがとう」

その瞬間、壁のモニターが点滅した。

【対象外個体の接近を確認】

【再構築記録への干渉を検出】

【警告:兄の名前は、まだ確定していません】

誰も、言葉を発しなかった。

最後の一文だけが、何度も点滅していた。

兄の名前は、まだ確定していません。

まるで、世界そのものが。

その少年を兄として認めることを、拒み続けているかのように。

 

3 あなたは、私の息子を二度殺した

女性が案内されてきたのは、臨時対策本部に隣接する面会室だった。

年齢は、四十代後半から五十代前半ほど。

肩まで伸びた黒髪には、ところどころ白いものが混じっていた。化粧はほとんどしていない。顔色も悪い。眠っていないのか、目の下には濃い隈がある。

そして、両手で一枚の写真を握り締めていた。

「……」

女性は、部屋に入るなり出久を見た。

正確には、出久の顔を見た瞬間、視線を動かせなくなった。

彼女の唇が震える。

何かを言おうとしている。

けれど、声が出ない。

出久は立ち上がった。

「初めまして。緑谷出久です」

その瞬間。

女性の表情が崩れた。

「――違う」

声は、かすれていた。

「違うわ……」

彼女は一歩、後ずさった。

「どうして……」

握り締めた写真が、くしゃりと音を立てる。

「どうして、あなたが……」

そして。

女性は、出久を指差した。

「あなたは、私の息子を二度殺したんです」

誰も動かなかった。

出久は、息をすることさえ忘れていた。

「……僕が?」

「ええ」

女性は涙を流していた。

「あなたが、殺したの」

「待て」

相澤が間に入る。

「まずは落ち着いて話を聞かせてください。あなたの身元が確認できていない以上、こちらも状況を把握する必要がある」

「身元?」

女性は、相澤を見た。

そして、悲しそうに笑った。

「先生。あなたも、あの子を忘れたんですね」

相澤の目が細くなる。

「……俺を知っているのか」

「ええ」

「いつ、どこで会った?」

「何度も」

女性は即答した。

「何度も、何度も、何度も……あの子が死ぬたびに、あなたに会いました」

相澤の表情が変わった。

「……死ぬたびに?」

「最初は、あなたがあの子を守ろうとしてくれた。次は、あの子があなたを守ろうとした。その次は……」

女性は言葉を詰まらせた。

「その次は、あなたがあの子の死を知らない世界になった」

面会室に、重い沈黙が落ちた。

女性は写真を見下ろした。

「そして、最後には……誰も、あの子の名前を呼ばなくなった」

「……その写真を見せてください」

出久が言った。

女性は、すぐには動かなかった。

彼女にとって、その写真は最後の拠り所なのだろう。

何度も見つめ、何度も泣き、何度も自分が正気であることを確かめてきたもの。

他人に渡すことなど、考えられないのかもしれない。

しかし、やがて彼女は写真を差し出した。

出久は、それを受け取った。

写っていたのは、一人の少年だった。

年齢は、十三歳か十四歳ほど。

黒髪。

緑色の瞳。

少しだけ垂れた眉。

そして、照れたように笑う口元。

緑谷出久に似ていた。

似ている、という言葉では足りない。

顔立ちの基本的な構造は、ほとんど同じだった。

だが、出久本人ではない。

少年の左眉には、小さな傷がある。

右手首には、白い布のブレスレット。

制服は雄英高校のものではなかった。

そして、何より。

写真の少年の笑顔には、出久が知らない種類の諦めがあった。

何かを失うことを、すでに知っている人間の笑顔だった。

写真の裏には、文字が書かれていた。

『おかえり、兄ちゃん。今度は僕が迎えに行くから』

出久の指が止まった。

「……この子は」

女性は、答えた。

「私の息子です」

「名前は……?」

その問いを口にした瞬間。

女性の顔から、表情が消えた。

「……」

彼女は口を開いた。

名前を言おうとした。

しかし、声が出なかった。

「……あれ?」

女性は、自分の喉に触れた。

「おかしいわね……」

もう一度、口を開く。

「この子の名前は……」

声が震える。

「この子は……」

涙が溢れた。

「……あの子は、私の……」

言葉が途切れた。

彼女は、自分の頭を押さえた。

「どうして?」

その声は、幼い子どものようだった。

「どうして、出てこないの?」

出久は、写真を握り締めた。

女性は何度も、何度も名前を呼ぼうとした。

口は動いている。

音にならない。

まるで、声帯だけではなく、名前という概念そのものが、彼女の口から奪われているようだった。

「違う……違うの……」

女性は首を振った。

「忘れたんじゃない……私は、忘れてなんかいない……!」

その場に崩れ落ちた。

「だって、覚えているもの……!」

涙が床に落ちる。

「この子が初めて歩いた日も、熱を出して泣いた夜も、好き嫌いをして怒られたことも……!」

彼女は胸元を掴んだ。

「初めて、自分の足で学校へ行った日も……!」

声が震える。

「この子が、私のことを母さんって呼んだことも……!」

嗚咽が漏れた。

「全部、覚えているのに……!」

彼女は顔を覆った。

「どうして、名前だけがないの……!」

誰も、すぐには答えられなかった。

お茶子が口元を押さえた。

轟は、写真の少年から目を離せない。

爆豪の拳が、ぎりりと音を立てた。

そして出久は。

写真の裏に書かれた言葉を、もう一度見た。

『おかえり、兄ちゃん。今度は僕が迎えに行くから』

その文字は、見覚えのある筆跡だった。

自分の筆跡に似ている。

だが、完全には同じではない。

出久が普段書く文字より、少しだけ角張っている。

まるで、幼い頃の自分が、誰かの真似をしながら一生懸命に書いたような字だった。

「……この子は」

出久は、女性に尋ねた。

「僕のことを、兄ちゃんって呼んでいたんですか?」

女性は顔を上げた。

「ええ」

「僕は……この子の兄だった?」

「いいえ」

その答えは、あまりにもはっきりしていた。

「あなたは、あの子の兄ではありません」

出久は、目を見開いた。

女性は涙を拭おうともせず、続けた。

「あなたは、あの子の弟だった」

その言葉と同時に、写真の表面に黒い線が浮かび上がった。

出久が手を離すより早く、線は少年の顔を横切った。

額から頬へ。

頬から首へ。

そして、写真の裏にある文字へと伸びていく。

「――触るな!」

爆豪が叫んだ。

しかし、黒い線は止まらない。

写真の少年の笑顔が、少しずつ黒く塗り潰されていく。

女性が悲鳴を上げた。

「やめて!」

彼女は出久から写真を奪い返した。

「やめて、やめて、やめて……!」

そのとき。

写真の少年が、微かに笑った。

写真の中で。

確かに。

静止していたはずの少年の口元が動いた。

『――兄ちゃん』

出久の耳に、声が届いた。

『今度は、僕が迎えに行くから』

そして、写真は元に戻った。

黒い線は消えていた。

ただし。

少年の右手首にあった白いブレスレットだけが、写真から消えていた。

女性は写真を抱き締め、泣き崩れた。

「……あの子は、また……」

その声は、ほとんど聞き取れなかった。

「また、あなたを迎えに行くつもりなのね……」

出久は、写真を見つめた。

胸の奥で、何かが軋んだ。

知らない少年。

知らない母親。

知らないはずの約束。

けれど、そのすべてが、自分の人生の一部だったと告げている。

そして。

「あなたは、私の息子を二度殺したんです」

その言葉の意味を、出久はまだ知らなかった。

4 一度目の死

「説明してください」

相澤は、女性の前に椅子を置いた。

「あなたが言う、一度目と二度目の死について」

女性は、しばらく写真を見つめていた。

その目には、怒りがあった。

しかし、それ以上に深いものがある。

疲労。

悲しみ。

そして、何度も同じ結末を見届けてきた人間だけが持つ、底の見えない諦め。

「……一度目は、十三年前です」

彼女は、ようやく口を開いた。

「あなたたちが、オール・フォー・ワンとの戦いを終わらせようとしていた頃」

相澤は眉を寄せた。

「その時期に、緑谷が亡くなったという記録はある」

「ええ。あなたたちが知っている記録では、そうなっています」

女性は出久を見た。

「でも、あの子が死んだのは、緑谷出久が死んだからではありません」

「……何?」

爆豪が低く唸った。

女性は続ける。

「あなたが死んだからです」

面会室の空気が、再び凍った。

「……俺?」

出久は、自分を指差した。

「はい」

女性は頷いた。

「あなたは、一度、死んでいます」

「……」

「そして、その死をなかったことにするために、あの子が死んだ」

出久は言葉を失った。

相澤が静かに尋ねる。

「どういう仕組みだ?」

「私にも、すべては分かりません」

女性は正直に答えた。

「ただ、あの子は……世界をやり直す方法を見つけたんです」

その言葉を聞いた瞬間、出久の脳裏に、別の少年の声がよみがえった。

――君が僕を救ったら、君は僕になる。

――僕が君になったら、世界は終わる。

もう一人の緑谷出久。

異なる未来を選び、何度も世界を再構築してきた少年。

彼は、出久を救うために、多くのものを犠牲にしてきた。

そして。

「……その子は、何度も世界をやり直したんですか?」

出久の問いに、女性は首を横に振った。

「いいえ」

「……え?」

「あなたが知っている子とは、違います」

女性は、写真の少年を撫でた。

「私の息子は、世界をやり直したんじゃありません」

「では、何を……」

「世界がやり直されるたびに、あなたを探したんです」

出久の心臓が跳ねた。

女性は、ゆっくりと言葉を続けた。

「最初の世界では、あなたが死にました」

「……」

「次の世界では、あなたは生きていました。でも、あの子が死にました」

「……」

「その次の世界では、あなたも、あの子も生きていました」

彼女は、そこで一度、言葉を切った。

「でも、三人目の子が消えました」

相澤が顔を上げた。

「三人目?」

女性は頷いた。

「ええ。あなたと、私の息子と、もう一人の子」

その瞬間、出久の脳裏に、三つの椅子が浮かんだ。

夕暮れの食卓。

三つの茶碗。

三人の少年。

そして。

――僕が迎えに行くから。

「……三人で、暮らしていたんですか?」

出久が尋ねた。

女性は、悲しそうに笑った。

「いいえ」

「……?」

「三人で暮らせる世界を、あの子は探していたんです」

出久は息を呑んだ。

「私の息子は、最初からあなたの弟だったわけではありません」

女性は言った。

「血の繋がりも、家族という関係も、最初から決まっていたわけではない。世界によって、立場が違った。ある世界では同級生。ある世界では幼馴染。ある世界では、あなたがあの子の兄だった」

彼女は、写真を抱き締めた。

「でも、どの世界でも、あの子はあなたを兄と呼んだ」

「……どうして?」

「あなたが、そう呼んでいいと言ったからです」

出久は、何も言えなかった。

女性は続ける。

「私の息子は、あなたに憧れていたんです」

「……僕に?」

「ええ」

その顔に、初めて穏やかな色が浮かんだ。

「誰かを助けるためなら、自分が傷つくことを恐れないあなたに。どれだけ苦しくても、諦めずに立ち上がるあなたに。誰かが間違えたとき、その人を切り捨てるのではなく、どうすれば救えるのかを考えるあなたに」

女性は、出久を見つめた。

「でも、あの子は……あなたの真似をしてはいけなかった」

その言葉は、静かだった。

静かすぎて、かえって残酷だった。

「あなたは、自分を犠牲にしても誰かを救おうとするでしょう?」

出久は答えられなかった。

「私の息子も、そうだったんです」

女性は目を伏せた。

「あなたに憧れて。あなたのようになりたくて。あなたに褒めてもらいたくて。あなたを守りたくて……」

唇が震える。

「最後には、あなたと同じことをした」

「……」

「自分が死ねば、誰かが助かると思ったんです」

出久は、拳を握り締めた。

「……それで、僕を救うために死んだんですか?」

女性は、ゆっくり頷いた。

「一度目は、そうです」

「一度目……」

その言葉が、重く響く。

一度目。

ならば、二度目は。

出久は尋ねた。

「二度目は、どうして……?」

女性は、写真の少年を見つめた。

「あなたが、あの子を忘れたからです」

出久は息を止めた。

「……僕が?」

「いいえ」

女性は首を振った。

「あなたが忘れたくて忘れたわけではありません。あの子が、あなたに忘れさせたんです」

「……!」

「あなたがあの子を覚えていれば、あなたはまた、あの子を探すから」

彼女は、震える声で続けた。

「あなたがあの子を探せば、世界はまた、三人のうち誰を残すか選ぼうとするから」

出久の脳裏に、あの文字が浮かんだ。

――統合対象を選択してください。

――A。

――B。

――C。

三つの存在のうち、一つだけを残す選択肢。

そして、それを拒絶した少年。

「……あの子は、僕に忘れさせたんですね」

「ええ」

「自分の名前も、存在も、僕の記憶から消して……」

「ええ」

女性は、涙を流した。

「それなのに、あなたはまた、あの子を見つけてしまった」

出久は、顔を覆いたくなった。

自分が何をしたのか分からない。

何を忘れたのかも分からない。

それでも、誰かが自分のために苦しんだことだけは分かる。

そして、その苦しみを終わらせるために、自分が何をすべきなのかも、まだ分からない。

「……二度目の死は?」

出久は、かすれた声で尋ねた。

女性は、答えるまでに長い時間を必要とした。

「二度目は……」

彼女は、写真の裏側を見た。

「あなたが、あの子の名前を呼んだ日です」

5 呼んではいけない名前

十三年前。

ある病室で、一人の少年が目を覚ました。

身体中に包帯が巻かれていた。

窓の外には、雨が降っていた。

少年は、自分がどこにいるのか分からなかった。

何が起きたのかも分からなかった。

ただ、隣のベッドに横たわる少年の顔だけは、はっきりと見えた。

自分と同じ顔。

自分と同じ緑色の瞳。

そして、ひどく疲れた顔。

「……出久?」

少年は、声を絞り出した。

ベッドの隣にいた少年が、顔を上げる。

「……起きたんだね」

その声を聞いた瞬間、眠っていた少年は泣きそうになった。

「よかった……」

「……」

「よかったよ……!」

少年は、手を伸ばした。

隣の少年も、手を伸ばす。

二人の指先が触れた。

「……兄ちゃん」

その呼び方に、隣の少年は微笑んだ。

「うん」

「……僕、死んだの?」

「……」

「ねえ、兄ちゃん」

少年は、必死に問いかけた。

「僕、死んだの?」

隣の少年は、答えなかった。

ただ、彼の手を握り締めた。

そして、泣きながら言った。

「……ごめん」

その一言で、少年はすべてを理解した。

自分は、死んだのだ。

一度。

二度。

何度も。

世界がやり直されるたびに、何かが失われてきた。

そして今、自分は生きている。

隣の少年も生きている。

だからこそ、何かがおかしい。

「……兄ちゃん」

少年は、ゆっくりと尋ねた。

「もう一人は?」

隣の少年の顔から、笑顔が消えた。

「……」

「僕たち、三人で帰るって約束したよね?」

沈黙。

「ねえ」

少年の声が震える。

「もう一人は、どこにいるの?」

隣の少年は、目を閉じた。

そして。

「……いないよ」

そう答えた。

「……嘘だ」

「……」

「嘘だよ、兄ちゃん」

少年は首を振った。

「だって、三人で帰るって……!」

「もう一人はいないんだ」

隣の少年は、声を荒らげた。

「もう、どこにもいない!」

少年は、言葉を失った。

隣の少年は、すぐに後悔したような顔をした。

「……ごめん」

しかし、少年は首を横に振った。

「……違う」

彼は、隣の少年を見つめた。

「兄ちゃんは、嘘をついてる」

「……」

「だって、兄ちゃんは……」

少年は、涙を流した。

「その子のこと、覚えてるもん」

隣の少年の手が震えた。

「……覚えていないよ」

「嘘だ」

「覚えていない」

「嘘だよ!」

少年は叫んだ。

「だって、兄ちゃん、さっき……!」

言葉が止まる。

彼は、自分の口元を押さえた。

今、何を言おうとした?

隣の少年は、何を言った?

自分は、誰を知っている?

思い出そうとした瞬間、頭の奥に激痛が走った。

「――っ!」

少年は、頭を抱えてうずくまった。

「やめて……!」

視界が白くなる。

「やめてよ……!」

耳の奥で、誰かが囁いた。

【統合対象の記憶を検出】

【禁止情報への接触を確認】

【記憶の再封印を開始】

「……嫌だ!」

少年は叫んだ。

「忘れたくない!」

彼は、隣の少年の腕を掴んだ。

「兄ちゃん、僕、覚えてるよ!」

「……」

「もう一人がいたこと、覚えてる!」

涙が溢れる。

「三人で帰ろうって約束したことも、覚えてる!」

隣の少年は、何も言えなかった。

「だから……!」

少年は、必死に訴えた。

「お願いだから、僕に名前を教えて!」

その瞬間。

病室の壁に、黒い亀裂が走った。

そして、少年の口から。

消されていたはずの名前が、こぼれ落ちた。

――その名を聞いた瞬間、世界は彼を認識した。

そして。

世界は、彼を殺した。

「――っ!」

面会室で、出久が息を呑んだ。

目の前の景色が揺れていた。

病室。

雨。

二人の少年。

そして、誰かの名前。

あと少しで思い出せる。

あと少しで。

「……名前」

出久は、呟いた。

「兄ちゃんの……名前……」

女性が顔を上げた。

「……思い出したの?」

「……分かりません」

出久は頭を押さえた。

「でも、僕……」

頭の奥で、何かが軋んでいる。

思い出そうとするたびに、記憶が遠ざかる。

それでも、諦められなかった。

「僕は、あの子の名前を知っている気がします」

女性の顔が、恐怖に染まった。

「駄目!」

彼女は立ち上がった。

「思い出しては駄目!」

「……え?」

「お願い……!」

女性は出久の肩を掴んだ。

「その名前だけは、思い出さないで!」

「どうしてですか!」

「思い出したら、あの子が……!」

そのときだった。

女性の背後に、黒い影が立った。

誰も、扉が開いたことに気づかなかった。

いや。

扉は、開いていなかった。

影は、壁の中から滲み出るように現れた。

人間の形をしている。

背丈も、体格も、成人男性ほど。

しかし、顔がない。

顔があるはずの場所には、白い空白が広がっていた。

その中央に、細い黒い線が一本。

線は、ゆっくりと曲がり、口の形になった。

「――思い出して」

声がした。

女性が悲鳴を上げた。

「やめて!」

影は、出久に向かって手を伸ばした。

「名前を呼んで」

「……!」

「彼の名前を」

黒い線が、笑うように歪んだ。

「そうすれば、彼は戻ってくる」

相澤が動いた。

「全員、離れろ!」

爆豪の掌で爆発が弾ける。

轟の氷が床を走る。

しかし、影は攻撃を受ける直前、音もなく形を崩した。

爆発は壁を穿ち、氷は何もない空間を覆った。

影は、別の場所に現れていた。

出久の背後。

「名前を呼んで」

囁きが、耳元に落ちる。

「君の兄の名前を」

出久は振り向いた。

そこには、誰もいなかった。

ただ。

床に、一枚の紙が落ちていた。

紙には、たった一文字だけ書かれていた。

『兄』

その文字が、黒く染まっていく。

そして、その下に。

もう一文字。

『出』

さらに。

『久』

三つの文字が並んだ。

兄。

出久。

その二つが、一本の黒い線で繋がれた。

モニターが、一斉に点滅した。

【警告】

【兄弟関係の再定義を検出】

【対象:緑谷出久/未登録個体】

【警告:兄の存在を確定すると、弟の記録が上書きされます】

「……何だ、これは」

相澤がモニターを見つめる。

「兄を確定すると、弟が上書きされる……?」

爆豪が出久の肩を掴んだ。

「おい、デク。聞こえるか」

「……聞こえてる」

「なら、勝手に名前を思い出そうとすんな」

「でも……!」

「でもじゃねえ!」

爆豪の声が響いた。

「またお前だけで何とかしようとしてんじゃねえぞ!」

出久は、言葉を失った。

爆豪は、出久の目を真正面から見た。

「てめえが何を思い出そうが、何を忘れてようが、こっちは関係ねえ」

「……」

「そいつが本当にお前の兄貴なら、そいつ自身に話を聞け。世界だの記録だの、わけ分かんねえもんに決めさせるな」

爆豪は、床に落ちた紙を踏みつけた。

「他人の名前を奪って、他人の人生を勝手に決めるような奴がいるなら、ぶっ飛ばしてから考えりゃいい」

「……勝己くん」

「何だ」

「……ありがとう」

「礼はいい。あとで全部説明しろ」

「うん」

出久は、ようやく少しだけ笑った。

しかし。

女性だけは、笑わなかった。

彼女は、爆豪が踏みつけた紙を見つめていた。

その顔には、絶望が浮かんでいた。

「……もう、始まってしまった」

彼女は呟いた。

「何がだ?」

相澤が問う。

女性は、震える指で写真を指した。

「名前を呼ばなくても……あの子が戻ってくる方法を、誰かが見つけてしまったんです」

「……」

「でも、それは……」

女性は、出久を見た。

「あなたが、もう一度死ぬ方法でもある」

6 病室の少年が見た夢

同時刻。

雄英高校、地下医療区画。

三人目の緑谷出久は、眠っていた。

医療モニターの波形は、先ほどより安定している。

黒い亀裂も、皮膚の下へと引っ込んでいた。

しかし、少年の意識は戻っていなかった。

夢の中。

少年は、暗い廊下を歩いていた。

壁には、写真が並んでいる。

家族写真。

学校の集合写真。

雄英高校の入学式。

文化祭。

体育祭。

卒業式。

そして、戦いの記録。

写真の中には、緑谷出久がいた。

爆豪勝己がいた。

轟焦凍がいた。

麗日お茶子がいた。

相澤消太がいた。

多くの人間がいた。

しかし、少年が写真の中に入ろうとすると、必ず一人分の場所が空いた。

そこに立っていたはずの人間だけが、いなくなる。

誰も、その不自然さに気づいていない。

少年は、写真に手を伸ばした。

「……ここにいたんだ」

指先が触れる。

写真が揺れた。

空白の部分に、薄い輪郭が浮かび上がる。

少年の顔だった。

少年は笑った。

「……そっか」

だが、その笑顔は長く続かなかった。

写真の端から、黒い線が伸びてくる。

空白を塗り潰すように。

少年の輪郭を消すように。

「……やめて」

彼は、写真を抱き締めた。

「それだけは、やめて……」

黒い線が、腕に絡みつく。

「僕は、ここにいたんだ」

声が震える。

「僕も、みんなと一緒にいたんだ……!」

写真が、音を立てて砕けた。

破片が床に落ちる。

その一枚一枚に、少年の人生が映っていた。

幼い頃。

母親と手を繋いで歩いた道。

学校で初めて友達ができた日。

自分の個性が発現した日。

誰かを助けられなかった日。

誰かを助けられた日。

そして。

一人の少年が、手を差し伸べてくれた日。

「……兄ちゃん」

彼は、泣いた。

「僕、もう……」

言葉が続かない。

黒い線が、喉元まで伸びてくる。

「……もう、覚えていられないよ」

そのとき。

廊下の奥から、足音が聞こえた。

一歩。

また一歩。

ゆっくりと近づいてくる。

少年は顔を上げた。

そこに立っていたのは、白い衣を纏った少女だった。

年齢は、十代にも、何千年にも見える。

長い髪は、光を吸い込むように黒い。

瞳は、夜空のように深い。

その顔を、少年は知っていた。

知っているはずがないのに。

「……死神」

少女は首を傾げた。

「その呼び方は、好きではありません」

「……」

「私は、死を司る者ではありますが、死そのものではありませんから」

少年は、少女を睨んだ。

「……何をしに来た」

「あなたを見に来ました」

「帰れ」

「そうはいきません」

少女は、砕けた写真の破片を拾い上げた。

「あなたは、世界の記録に存在しない。それなのに、世界に干渉している。非常に興味深い事例です」

「……僕を観察するために来たのか」

「はい」

少女は、あっさり頷いた。

「あなたは、何度も死んでいますね」

少年は答えなかった。

「そして、何度も戻っている」

少女は、写真の破片を指先で撫でた。

「あなたが死ぬたびに、誰かの記憶が失われる。あなたが戻るたびに、世界の記録が書き換えられる。あなたは、世界の再構築にとって非常に重要な変数です」

「……変数?」

少年は、笑った。

「人間を、変数って呼ぶのか」

「観測する立場から見れば、そうなります」

「……」

「しかし」

少女は、少年を見た。

「あなた自身は、そう思っていないのでしょう?」

少年の表情が変わった。

「……僕は」

「あなたは、誰かを救いたかった」

少女は静かに言った。

「誰かを失いたくなかった。誰かの名前を守りたかった。だから、あなたは自分の名前を捨てた」

少年は拳を握った。

「……知ったようなことを言うな」

「私は、あなたの記録を見ました」

「記録?」

「あなたが自分自身を消した瞬間の記録です」

少女の瞳が、わずかに細くなった。

「あなたは、世界に命じられたのではありません」

少年は息を止めた。

「あなた自身が、選んだ」

「……」

「あなたは、二人を救うために、自分の名前を消した。自分が存在しなければ、統合対象は二人になる。二人のどちらかを選ばせる必要がなくなる。そう考えたのでしょう?」

少年は、答えなかった。

少女は、静かに続けた。

「けれど、世界はあなたを完全には消せなかった」

「……」

「あなたの名前を消しても、あなたが誰かを愛したという事実までは消せなかった。あなたの存在を記録から消しても、あなたが誰かの手を握ったという事実までは消せなかった」

少女は、床に落ちた写真の破片を見た。

「だから、あなたは戻ってきた」

少年は、唇を噛んだ。

「……僕は、戻りたくなかった」

その声は、かすれていた。

「……戻ったら、また、あの子を傷つける」

「それでも、戻ってきた」

「……」

「なぜですか?」

少年は、長い沈黙の後、答えた。

「……あの子が」

声が震える。

「僕を、探していたから」

少女は、何も言わなかった。

「僕の名前を忘れたはずなのに。僕の存在を知らないはずなのに。あの子は……」

少年は、顔を覆った。

「……僕を、探していたんだ」

そのとき。

廊下の壁に、巨大な亀裂が走った。

白い空間の向こう側から、無数の目が現れる。

少女は、初めて表情を変えた。

「……これは」

亀裂の向こうから、声が響いた。

【対象個体:未登録】

【観測結果:異常】

【名前の復元を確認】

【再構築処理を開始します】

少年は立ち上がった。

「……やめろ」

声が震える。

「やめろ!」

亀裂が広がる。

「その子に、手を出すな!」

少年は、少女を押し退けた。

そして、亀裂の前に立った。

「僕を消せばいい!」

叫びが、廊下に響いた。

「僕の名前を消せばいい! 記憶を消せばいい! 僕が何度でも消えるから!」

彼は両手を広げた。

「だから……!」

涙が溢れる。

「もう、あの子を殺さないでくれ……!」

その瞬間、亀裂の向こうから、声が返ってきた。

『対象の要求を確認』

『対象の存在を再定義』

『――要求は、受理できません』

少年は、目を見開いた。

「……何?」

『対象は、すでに選択されています』

『再構築に必要な犠牲は、確定済みです』

少年の足元に、文字が浮かび上がった。

【犠牲対象:緑谷出久】

【代替対象:未登録個体】

【代替対象の拒否:無効】

少年の顔から、血の気が引いた。

「……嘘だ」

文字が、赤く染まる。

【再構築まで、残り六十二時間三十一分】

「嘘だ……!」

少年は、文字を踏みつけた。

「そんなの、認めない!」

亀裂の向こうで、何かが動いた。

それは、少女が知るどの存在とも違っていた。

死神でもない。

人間でもない。

世界を作る者でも、壊す者でもない。

ただ、そこにある。

あらゆる観測の外側に。

あらゆる記録の外側に。

そして、少年の声を聞いていた。

『対象個体に、質問します』

声が響く。

『あなたは、誰ですか』

少年は、顔を上げた。

「……僕は」

答えようとした。

自分の名前を。

自分が誰なのかを。

けれど。

何も、出てこなかった。

少年は、自分の胸に手を当てた。

「……僕は……」

名前がない。

記録がない。

誰も、自分を呼べない。

それでも。

少年は、顔を上げた。

「僕は……」

涙を拭った。

「……あの子の、兄だ」

その言葉が、白い廊下に響いた。

そして。

亀裂の向こうで、初めて、何かが沈黙した。

7 名前のない兄を、誰が覚えているのか

午前三時十二分。

雄英高校、臨時対策本部。

面会室で起きた異常は、映像として記録されていた。

だが、映像を再生すると、問題の部分だけが乱れる。

女性の発言。

写真の変化。

黒い影。

そして、モニターに浮かんだ警告。

それらはすべて、記録されているはずだった。

しかし、再生画面には何も映らない。

女性が入室する。

出久が写真を受け取る。

相澤が質問する。

そこまでは正常だった。

そして、次の瞬間。

映像は、女性が退室する場面に飛んでいる。

「……またか」

相澤は、再生を止めた。

「記録から消されている」

「でも、俺たちは覚えてる」

爆豪が言った。

「目の前で起きたことは、覚えてるんだろ」

「そうだ」

相澤は頷いた。

「少なくとも、現時点ではな」

「なら、映像なんかいらねえだろ」

爆豪は吐き捨てた。

「見たことまで消されるわけじゃねえ」

「その保証はない」

「……チッ」

爆豪は舌打ちした。

そのとき、出久が顔を上げた。

「……先生」

「どうした」

「さっきの女性、医療区画にいる少年に会わせてください」

相澤は、即座に首を横に振った。

「駄目だ」

「でも、あの人は……」

「今の状態で会わせるのは危険だ。あの女性の存在自体が、記録と矛盾している。少年との関係も、まだ確定していない」

「それでも、あの人は母親なんです」

「本人がそう言っているだけだ」

相澤は厳しい声で言った。

「お前が見た写真も、映像も、すべて記録から消されかけている。彼女が本当に少年の母親なのか、少年を利用しようとしているのか、それすら分からない」

出久は俯いた。

正論だった。

今の段階では、相澤の判断が正しい。

それでも。

「……先生」

出久は、静かに言った。

「僕、あの人の涙を覚えています」

相澤は黙った。

「写真を抱き締めて、名前を呼ぼうとして……何度も、何度も、声が出なくなっていた」

出久は、自分の手を見た。

「僕は、その人の息子が誰なのか、まだ分かりません。僕の兄なのか、弟なのか、別の世界の人なのか……」

彼は顔を上げた。

「でも、あの人が誰かを大切に思っていたことは、嘘じゃないと思うんです」

相澤は、長い沈黙の後に答えた。

「……俺も、そう思いたい」

出久は目を見開いた。

相澤は、窓の外を見つめていた。

「だが、俺たちは、思いたいことと、確認できたことを区別しなければならない」

「……はい」

「その上で、できることをする」

相澤は振り返った。

「女性を医療区画に案内する。ただし、面会は監視下で行う。お前たちも同席しろ。異常が起きたら、即座に中断する」

「ありがとうございます」

「礼は、まだ早い」

相澤は、端末を操作した。

「……問題は、少年が目を覚ましているかどうかだ」

その瞬間、医療区画から通信が入った。

『相澤先生、こちら医療区画です!』

職員の声は、ひどく慌てていた。

『対象少年が……目を覚ましました!』

出久が立ち上がった。

『それと……』

通信の向こうで、何かが落ちる音がした。

『少年が、自分の名前を名乗っています!』

相澤は、すぐに尋ねた。

「名前は何と言った?」

数秒の沈黙。

そして、職員が答えた。

『それが……』

声が震えている。

『名前の部分だけ、聞き取れないんです』

出久の胸が、強く締めつけられた。

『ですが、少年は……』

職員が続けた。

『自分は、緑谷出久の兄だと』

8 兄弟の再会

医療区画に到着したとき、少年はベッドの上に座っていた。

顔色は悪い。

額には汗が浮かんでいる。

しかし、目は覚めていた。

そして、出久の姿を見つけると、ゆっくりと顔を伏せた。

「……来たんだ」

その声は、疲れ切っていた。

出久は、ベッドのそばで足を止めた。

「……うん」

少年は、苦笑した。

「来るなって、言ったのに」

「ごめん」

「……謝るところじゃないよ」

少年は、顔を上げた。

「君は、昔からそうだった」

その言葉に、出久の心臓が跳ねた。

「……昔から?」

「うん」

少年は、目を細めた。

「僕が来るなって言っても、危ないからやめろって言っても、君はいつも……」

言葉が止まった。

少年の表情が、苦痛に歪む。

「……ごめん」

彼は、頭を押さえた。

「まただ……」

「大丈夫!?」

「違う……大丈夫じゃない……」

少年は、必死に何かを思い出そうとしていた。

「僕は……君と……」

言葉が、途切れる。

「……君と、何を約束した?」

出久は、答えられなかった。

少年は、苦しそうに目を閉じた。

「……ごめん」

また、その言葉。

「僕、君のこと……」

唇が震える。

「君のことを、ちゃんと覚えていたいのに……」

出久は、ベッドの横に椅子を引き寄せた。

「……ゆっくりでいいよ」

少年は、顔を上げた。

「……え?」

「無理に思い出さなくていい」

出久は、微笑んだ。

「僕も、まだ何も分からないから」

「……」

「君の名前も、君がどんな人だったのかも、僕たちがどういう関係だったのかも……まだ分からない」

出久は、少年の手を見た。

「でも、これから知っていけばいいと思うんだ」

少年は、目を見開いた。

「……これから?」

「うん」

出久は頷いた。

「もし君が本当に僕の兄なら、僕は君のことを知りたい。もし兄じゃなかったとしても……君が僕を守ろうとしてくれたことは、知っているから」

少年の目に、涙が浮かんだ。

「……そんなことを言わないで」

「……え?」

「そんなことを言ったら……」

少年は、唇を噛んだ。

「……僕は、また君を信じたくなる」

出久は、何も言わなかった。

少年は、震える手を伸ばした。

「……出久」

その声に、出久は顔を上げた。

「……僕は、君の兄だ」

少年は、はっきりと言った。

「血が繋がっているかどうかは、分からない。どの世界で、どんな関係だったのかも、全部は思い出せない」

彼は、出久の手を握った。

「でも、君が泣いているとき、僕は君を抱き締めたかった。君が笑っているとき、僕も笑いたかった。君が傷ついたとき、僕は君を守りたかった」

涙が頬を伝う。

「そして、君が死んだとき……」

声が震えた。

「……僕は、君を助けたかった」

出久は、少年の手を握り返した。

「……うん」

「だから、僕は……」

少年は、目を閉じた。

「……君の兄だ」

その言葉が、静かに響いた。

出久は、頷いた。

「……分かった」

少年の瞳が揺れる。

「……信じるの?」

「うん」

「……どうして?」

出久は、少しだけ考えた。

そして、答えた。

「君が、そう言ったから」

少年は、目を見開いた。

「……」

「もちろん、これから色々なことを確かめていく必要はあると思う。でも、今この瞬間、君が僕の兄だと言ってくれたことまで、疑いたくないんだ」

出久は、微笑んだ。

「だから、今はそれでいいと思う」

少年の顔が、くしゃりと歪んだ。

「……ずるいよ」

「え?」

「君は、昔から……」

少年は、泣きながら笑った。

「そうやって、僕が一番欲しかった言葉をくれるんだ」

その瞬間。

医療区画の照明が、消えた。

暗闇の中で、警報が鳴り響く。

そして、モニターに文字が浮かんだ。

【兄弟関係の仮登録を確認】

【登録者:緑谷出久】

【対象:未登録個体】

【仮登録に対する異議申し立てを検出】

「……何だ?」

相澤がモニターを見上げた。

文字が、赤く染まる。

【異議申し立て者:緑谷出久】

「……は?」

爆豪が声を上げた。

「デクは、今ここにいるだろうが!」

モニターは答えない。

代わりに、別の文字が浮かび上がった。

【異議申し立て者:緑谷出久】

【異議申し立て者:緑谷出久】

【異議申し立て者:緑谷出久】

次々と。

同じ名前が。

同じ顔を持つ者たちの記録が。

世界のあらゆる場所から、こちらへ向かって集まり始めていた。

「……三人じゃない」

出久が呟いた。

「何がだ?」

轟が尋ねる。

出久は、モニターを見つめた。

「……僕たちは、三人だけじゃないのかもしれない」

その言葉と同時に、医療区画の壁に無数の映像が浮かび上がった。

見知らぬ街。

見知らぬ家。

見知らぬ学校。

見知らぬ病室。

そして、それぞれの場所にいる、緑谷出久。

年齢も違う。

服装も違う。

傷の数も違う。

中には、幼い子どももいた。

中には、老人のように年老いた者もいた。

そして。

そのすべてが、同じ顔でこちらを見つめていた。

『……見つけた』

声が重なった。

『やっと、見つけた』

『今度こそ』

『今度こそ、助ける』

『今度こそ、殺させない』

『今度こそ――』

最後の声だけが、はっきりと聞こえた。

『今度こそ、兄さんを返してもらう』

出久は息を呑んだ。

ベッドの少年が、悲鳴を上げた。

「――違う!」

少年は、出久の手を握り締めた。

「そいつらの声を聞くな!」

「……!」

「そいつらは、君を助けたいんじゃない!」

少年は、涙を流しながら叫んだ。

「そいつらは……!」

言葉が、途切れた。

少年の瞳が、大きく見開かれる。

彼の背後に、黒い影が立っていた。

顔のない影。

白い空白。

中央に浮かぶ、一本の黒い線。

影は、少年の肩に手を置いた。

そして。

「――ありがとう」

声がした。

「よく、名前を思い出してくれたね」

少年の身体が、硬直した。

出久は、彼の手を握り締めた。

「……兄ちゃん!」

その呼び方を口にした瞬間。

少年の目から、涙が溢れた。

「……ああ」

彼は、笑った。

「……やっと、呼んでくれた」

そして。

世界中の時計が、一斉に動き始めた。

02:13。

02:14。

止まっていた時間が、再び進み始める。

だが、モニターに表示された再構築までの残り時間は、変わっていなかった。

【再構築まで、残り六十二時間】

その下に、新しい一文が浮かんだ。

【第一段階:兄の名前を確定】

【第二段階:弟の存在を確定】

【第三段階:どちらか一方を削除】

そして最後に。

【選択権は、兄にあります】

少年は、出久の手を離した。

「……ごめん」

彼は、泣きながら笑った。

「また、僕が君を殺さなきゃいけない」

出久は、首を横に振った。

「……そんなこと、させない」

「……」

「今度は、僕が君を助ける」

その言葉を聞いた瞬間、少年の顔から笑みが消えた。

「――それだけは、駄目だ」

声は、震えていた。

「それだけは……絶対に、駄目なんだ」

少年の背後で、黒い影が笑った。

そして、世界のどこかで。

一人の少女が、目を覚ました。

少女は、見知らぬ部屋の中で、自分の手を見つめた。

その手首には、白い布のブレスレットが巻かれていた。

彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

そして、誰もいない部屋に向かって、囁いた。

「……お兄ちゃん」

涙が、頬を伝う。

「今度は、私が……」

少女は、笑った。

「今度は、私が迎えに行くから」

窓の外。

夜空に、黒い亀裂が一本、走った。

第二章 第九話「兄の名前」――続く。

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