一 正義を疑う会議
雄英高校。
本校舎の大会議室には、普段の授業では見られない顔ぶれが集まっていた。
プロヒーローとサイドキック。
雄英教師陣。
A組とB組の生徒たち。
そして、根津校長。
出久たちは、今回の会議が単なる反省会ではないことを理解していた。
机の中央には、根津が作成した提案書が置かれている。
表題は――
『戦後ヒーロー制度改革・初期提案』
その下には、三つの項目が記されていた。
第一に、ヒーロー活動の判断を検証する仕組み。
第二に、被害を受けた人々が、制度に対して異議を申し立てられる仕組み。
第三に、改革そのものが新たな権力となることを防ぐ仕組み。
「では、始めようか」
根津が席についた。
「今回の話し合いでは、ヒーロー制度をどう変えるべきか、その第一歩を考える。最初に確認しておきたいことがある」
根津は、参加者を見渡した。
「私たちは、正義を捨てるつもりはない」
その言葉に、出久は顔を上げた。
「ヒーローが正義を掲げること自体を否定する必要はない。危険にさらされた人を守ること。犯罪を止めること。助けを求める人のもとへ向かうこと。それらをためらう社会にしてはいけない」
「しかし、正義を掲げているからといって、その判断が常に正しいとは限らない」
相澤が続けた。
「助ける側の判断が間違っていた場合、誰がそれを確認するのか。被害を受けた側が異議を申し立てた場合、誰が話を聞くのか。そこが曖昧なままでは、同じ問題が繰り返される」
「なるほどねえ」
プレゼント・マイクが腕を組む。
「俺たちは、これまで『ヒーローが何人救助したか』『どんな敵を倒したか』『どれだけ活躍したか』という結果を見られることが多かった」
「それ自体が悪いわけではありません」
飯田が発言した。
「活動の成果を記録することは、次の救助活動に活かすためにも必要です」
「そうだね」
根津は頷く。
「ただし、数字だけでは分からないことがある」
「例えば、救助された人間が、その後どうなったか」
轟が言った。
「救助された場所が安全でも、帰る場所がなければ生活は戻らない。必要な薬や介護を受けられなければ、救助が完了したとは言えない場合もある」
「それに、救助する側が良かれと思ってしたことが、相手にとって負担になる場合もありますわ」
八百万が続ける。
「支援の方法や、個人情報の扱いも含めて検証する必要があります」
根津は一度、全員に資料を配った。
「そこで、今回の提案では、ヒーロー活動の評価を三つに分けて考える」
根津が資料を指した。
「一つ。現場で何を判断し、何を実行したのか」
「二つ。その判断によって、誰が救助され、誰にどのような影響が生じたのか」
「三つ。活動後に問題が見つかった場合、どのように説明し、修正したのか」
「つまり、戦闘や救助の結果だけじゃなく、その前後も見るわけですね」
出久が言った。
「その通りだよ」
根津は微笑んだ。
「ただし、この三つを誰が評価するかが重要になる」
「ヒーローだけで評価するんじゃ駄目だろ」
爆豪が言った。
「当然だね」
「なら、被害者を参加させればいい」
「それだけで十分だと思うかい?」
根津に問われ、爆豪は少し眉を寄せた。
「……いや」
「被害を受けた人々の参加は重要だ。しかし、すべての人が参加できるわけではない。参加したくない人もいる。専門的な調査が必要な場合もある」
「だから、複数の立場から検証する必要があるんですね」
麗日が言った。
「そう。ヒーロー側、行政側、専門家、そして必要に応じて被害を受けた人々や地域の代表者。誰か一つの立場だけで、結論を決めない仕組みを考える」
「でもさ」
物間が手を挙げた。
「その検証する人間は、誰が検証するんです?」
会議室が静かになった。
物間は普段のように大げさな表情を作らず、真面目に続けた。
「ヒーローの判断を検証する組織を作る。それは分かります。しかし、その組織が間違った判断をした場合はどうするんですか?」
「よい質問だね」
根津が頷く。
「検証組織そのものを、誰が確認するのか。これは今回の提案で特に重要な課題だ」
「つまり、新しい正義を掲げる組織を作るだけでは駄目ということですわね」
八百万が答えた。
「その通り。ヒーローを管理するための組織が、今度は自分たちの判断を絶対視してしまえば、同じ問題を別の形で繰り返すことになる」
「なら、最初から完璧な組織を作ることはできないってことか」
切島が言った。
「そうだね」
根津は頷く。
「だから、間違いを指摘できる仕組みを、最初から設ける必要がある」
出久は資料を見つめた。
正義を掲げることをやめるのではない。
正義を掲げる自分たちが、いつでも正しいとは限らないと認めること。
そのための仕組みを作る。
それが、これから始める改革だった。
二 救助完了という記録
「では、提案の前に、一つ確認してほしい記録がある」
根津は、別の資料を画面に映した。
それは、戦後の避難所と救助活動に関する報告書だった。
ある地域で、複数の住民が避難所へ移動した記録。
救助担当のヒーローが現場に到着した時刻。
避難誘導を完了した時刻。
そして、報告書にはこう記されていた。
『対象者の避難完了。救助活動終了』
「この記録を見る限り、活動は問題なく完了しているように見える」
根津が言った。
「しかし、この報告書には、避難した人々のその後について、ほとんど記載がない」
画面が切り替わった。
そこには、後日実施された聞き取り調査の記録があった。
避難先では、必要な介助を受けられなかった人がいた。
薬の受け渡しが遅れた人がいた。
家族と連絡を取れないまま、別々の施設へ移動した人もいた。
避難所の設備が合わず、体調を崩した人もいた。
「救助活動そのものが失敗だったということですか?」
鉄哲が尋ねた。
「そこは慎重に判断する必要がある」
根津は答えた。
「現場のヒーローが当時知り得た情報と、その後に判明した情報は違う。救助活動そのものは適切だった可能性もある」
「でも、救助完了という記録だけでは、その人たちの生活がどうなったのか分からない」
出久が言った。
「そうだね」
画面には、当時の報告書と、後日調査の記録が並べられていた。
「これは、誰か一人の責任を決めるための資料ではない。制度のどこに問題があったのかを確認するためのものだ」
そのとき、会議室の扉が開いた。
入ってきたのは、西尾だった。
前回の復興支援センターで意見を述べた女性だ。
彼女は、今回の会議にも参加する意思を示していた。
「遅くなりました」
「いえ、予定していた時間です。こちらへどうぞ」
根津が席を案内した。
西尾は、画面に映る記録を見ると、少しだけ表情を変えた。
「この報告書について、発言してもいいですか」
「もちろんです」
西尾は、資料を手に取った。
「この『救助完了』という言葉ですけど、誰にとっての完了なんでしょうか」
出久は息を呑んだ。
西尾は続けた。
「避難所まで移動できれば、ヒーローの活動は終わりかもしれません。でも、そこで生活を続けられない人はどうするんですか」
「……」
「この記録には、避難誘導を完了したとあります。けれど、その人が必要な薬を受け取れたのか。家族と連絡が取れたのか。介助を受けられたのか。そこまでは分からない」
西尾は、報告書を机に置いた。
「もちろん、現場のヒーローが全部できるとは思っていません。ヒーローにできないこともあります。行政や医療関係者、地域の支援員が担当すべきこともあるでしょう」
「はい」
出久が頷く。
「でも、できないなら、できないと記録してほしいんです」
西尾は、はっきりと言った。
「引き継いだのか。引き継げなかったのか。誰に伝えたのか。伝えた後、どうなったのか。そこを残してほしい」
ロックロックが腕を組んだ。
「現場では、緊急時に動ける人間が限られる。目の前の危険を取り除くために、まず避難させる。その後の生活まで把握できないことはある」
「それは分かっています」
西尾は頷いた。
「でも、それなら、その次の担当へつながったのかを確認できるようにしてほしい。誰かが担当すると思っていた、という言葉だけで終わらせないでほしいんです」
マニュアルが口を開いた。
「引き継ぎの確認ですね。現場の救助記録と、その後の支援記録が分かれている場合でも、本人が同意した範囲でつながりを確認できる方法が必要です」
「そうです」
西尾は言った。
「誰が悪かったのかを探すためだけじゃありません。次に同じことが起きたとき、困る人を減らすためです」
出久は、資料を見つめた。
救助が終わった。
その記録は、間違いではないのかもしれない。
しかし、救助された人の困難が終わったわけではない。
記録の言葉が、現実のすべてを表しているとは限らない。
「僕たちは、報告書を書くときに、何をもって完了とするのかを考えなければいけないんですね」
「そうです」
西尾は答えた。
「その言葉を使う人が、どこまで確認したのか。それが分からなければ、私たちは何を信じればいいのか分かりません」
その言葉に、会議室の誰も反論しなかった。
三 正義を疑うことは、動かないことではない
「ただ、一つ懸念があります」
発言したのは、ロックロックだった。
「検証が必要なのは理解している。しかし、現場のヒーローが判断するたびに、後からすべての行動を問われるとなると、動きが鈍くなる可能性がある」
「確かに」
マニュアルも頷く。
「救助現場では、情報が不十分なことも多い。すべてを確認してから動くことはできません」
「そうですわね」
八百万が考え込む。
「現場の判断を、結果だけで評価してしまうことも危険です。結果として助けられなかった人がいたとしても、その時点で可能な最善の判断をした場合もあるでしょう」
「なら、どうすりゃいい?」
切島が尋ねた。
「判断を疑い続けることと、迅速に行動することを両立させる仕組みが必要だろう」
相澤が答えた。
「緊急時に、検証の許可を待つ必要はない。命に関わる状況なら、ヒーローは必要な行動を取る」
「ただし、緊急事態だったという言葉だけで、すべてを免責しないことも必要ですね」
飯田が指摘した。
「その通りだ」
相澤は頷いた。
「事後に、当時の状況と判断を確認する。緊急時に何を知っていたのか。どんな選択肢があったのか。なぜその行動を取ったのか。結果だけではなく、判断の過程を見る」
「つまり、失敗したという結果だけで責めるんじゃなくて、何を根拠に判断したのかを確認するんですね」
出久が言った。
「そうだ」
相澤は続けた。
「だからといって、現場の判断を無条件で正しいとするわけでもない。救助のために必要だった行動なのか。別の選択肢があったのか。後から見つかった問題を、次の活動にどう反映するのか」
「一つの答えで全部を判断することはできないんだな」
轟が言った。
「そうだね」
根津は、二つの欄を画面に表示した。
左側には、『緊急時の現場判断』。
右側には、『事後の検証と改善』。
「この二つを分ける必要がある。緊急時には、行動を止めない。事後には、判断を確認する。問題が見つかれば、個人の責任と制度の責任を分けて対応する」
「でも、制度の責任って言えば、個人が逃げることもできるんじゃないか?」
爆豪が言った。
「できる」
根津は即答した。
「だから、責任を分けるというのは、個人の責任を消すことではない。個人の判断、組織の指示、制度上の欠陥。それぞれに責任があるなら、それぞれを明らかにするということだ」
「逆に、個人の判断だけに責任を押しつけて、組織の問題を隠すこともできる」
物間が続けた。
「その通り」
「なら、調査する際には、命令を出した側も対象にしなければならない」
「そうだね」
根津は資料に書き加えた。
出久は、そこで一つ気づいた。
「根津校長」
「何かな?」
「検証の仕組みがあるだけでは、ヒーローが間違いを認められるようになるとは限らないと思います」
「どういうことかな?」
「たとえば、失敗を報告したら評価が下がる。間違いを認めたら活動できなくなる。そんな仕組みだったら、ヒーローは自分の判断を隠すかもしれません」
「……」
「間違いを認めた人が、必要な改善に協力できる仕組みも必要なんじゃないでしょうか」
「なるほど」
根津は目を細めた。
「隠蔽を防ぐことと、正直に報告した者を不当に扱わないこと。その両方が必要だね」
「ただし、報告したことだけで責任を免れるわけではない」
相澤が補足する。
「自分の間違いを報告するのは当然のことだ。その上で、何をしたのかを調べる。報告したから許される、黙っていたから必ず悪質だと単純に決めるのではなく、事実を確認する」
出久は頷いた。
「正義を疑うことは、何もできなくなることじゃない」
彼は、ゆっくりと言葉にした。
「自分が正しいと思って行動した後でも、その結果を確かめることなんだと思います」
爆豪が横から言った。
「それと、正しいと思ってる最中にも疑えよ」
「うん」
「後から気づけばいいって話じゃねえ。自分の判断が誰かを置き去りにしてねえか、動く前にも考えろ」
「分かった」
「分かっただけで終わるな」
「うん」
轟が二人を見た。
「いつものやり取りだな」
「うるせえ!」
会議室に、小さな笑いが起きた。
しかし、その笑いは緊張を消すためのものではなかった。
難しい問題を考え続けるために、必要な余裕だった。
四 誰も参加できない検証会
「次の問題に移ろう」
根津が新しい資料を表示した。
「被害を受けた人々が、ヒーロー活動の検証に参加できる仕組みについてだ」
「前回の復興支援センターでも話し合いましたね」
出久が言った。
「そう。参加することを保障する一方で、参加しない自由も保障する必要がある」
西尾が口を開いた。
「私は、会議に参加すること自体が難しい人のことを考えてほしいです」
「具体的には?」
根津が尋ねる。
「仕事があって来られない人。体調が悪くて外出できない人。人前で話すのが苦手な人。ヒーローと同じ部屋にいることがつらい人。会議の存在を知らない人もいます」
「参加する意思があっても、参加できない場合があるということですね」
飯田が確認した。
「そうです。だから、会議に来た人の意見だけを、地域の総意として扱わないでほしいんです」
「では、意見書や匿名の提出も可能にする?」
拳藤が提案した。
「それも必要だと思います」
西尾は頷いた。
「ただし、匿名だからといって、内容を勝手に公開していいわけではありません。個人が特定されないようにしてほしい」
「もちろんです」
バブルガールが資料を確認した。
「提出方法を複数用意しましょう。対面、書面、匿名の意見、代理人を通じた提出など。それぞれに、情報の扱いと公開範囲を確認する項目を設けます」
「音声での提出もできるようにした方がいいですね」
プレゼント・マイクが提案した。
「文字を書くのが難しい人もいる。音声の記録を受け付けられれば、意見の出し方が増える」
耳郎が頷く。
「ただ、音声を誰が聞くのか、文字起こしをどう保管するのかも決めないとね」
「そうですわね」
八百万が続けた。
「視覚や聴覚に困難がある方にも対応できるよう、複数の方法を用意する必要があります」
小森が小さく手を挙げた。
「それと、会議の場所も大事だと思う」
「どういうことだ?」
鉄哲が尋ねる。
「学校や役所みたいな建物に入ること自体が苦手な人もいるかもしれないし、遠い場所まで来られない人もいる。地域の小さな集会所とか、別の場所でもできるといいと思う」
「開催場所を固定しないということですね」
飯田が整理した。
「そうだね。必要なら、地域ごとの小規模な話し合いもできる」
根津は資料に追加していく。
「ただし、ここで一つ問題がある」
根津が続けた。
「参加者が限られる以上、誰かが意見を代弁する場面は避けられないかもしれない。その場合、どこまでを本人の意思として扱うのか」
「本人の許可を取る」
拳藤が答えた。
「それは基本だね。ただし、意思を確認できない場合もある」
「そういう場合は、本人の意思が分からないと記録するべきだ」
物間が言った。
「分からないことを、周囲が勝手に埋めてはいけない」
「その通りですわ」
八百万が頷いた。
「家族や支援者が、必ず本人の意思を正確に理解しているとは限りません。本人の意思が確認できなかった場合は、その状態を明確に記録する必要があります」
出久は、先ほどの会議を思い出した。
誰かの代わりに話すことは、必要な場合もある。
しかし、代わりに話す人が、いつの間にか本人の意思を決めてしまうこともある。
「だから、参加する人の意見と、参加できなかった人の意見を、同じものとして扱わないようにしたいです」
出久が言った。
「どういうことかな?」
根津が尋ねた。
「たとえば、会議に参加した十人が、ある支援方法に賛成したとしても、その地域に住む全員が賛成しているわけじゃない。会議に来られなかった人の意見は、まだ確認できていない」
「その通りだね」
「だから、結果を公表するときには、何人が参加したのか、どのような方法で意見を集めたのか、確認できていない人がどれだけいるのかも、分かる範囲で記録するべきだと思います」
「つまり、参加者の意見を地域全体の総意にすり替えない」
相澤が言った。
「そうです」
根津は頷いた。
「これは、非常に重要な点だ。参加できた人の声を尊重することと、参加できなかった人の声を存在しないものとして扱わないこと。その両方が必要になる」
西尾は、資料を見ていた。
「それなら、少し安心できます」
「まだ提案の段階です」
根津は正直に答えた。
「これから、実際に運用できるかどうかを検証する必要があります」
「分かっています」
西尾は頷いた。
「だから、私たちにも確認させてください。私たちの意見が、どこに反映されたのか。反映されなかったなら、どうしてなのか」
「もちろんです」
五 ヒーローを評価する数字
会議の中盤。
根津が、別の資料を表示した。
そこには、従来のヒーロー活動の評価に用いられてきた項目が並んでいた。
救助人数。
犯罪の検挙件数。
災害対応の実績。
活動範囲。
市民からの評価。
報道上の反響。
「これらの指標は、一定の意味を持っている」
根津が説明する。
「しかし、数字だけでヒーローの活動を評価しようとすると、どうしても見えなくなるものがある」
「目立たない救助とかですか?」
切島が言った。
「それも一つだね」
根津は頷いた。
「たとえば、大規模な災害現場で多くの人を救助したヒーローと、普段から地域の小さな問題に対応し続けているヒーローを、単純な救助人数だけで比較できるだろうか」
「難しいと思います」
飯田が答える。
「活動する地域の条件も違います。担当する仕事も違う。単純な比較では不公平になる可能性があります」
「それに、救助人数を増やすことが目的になってしまえば、救助が必要になる前の予防活動が評価されにくくなる」
マニュアルが言った。
「問題が起きないように活動したヒーローは、数字に残りにくいからな」
ロックロックが頷く。
「現場でもそうだ。大きな事故が起きる前に危険な構造物を見つけて補強したとしても、何も起きなければ、成果として見られないことがある」
「それに、ヒーローの人気が高いことと、現場で適切な活動をしていることは、必ずしも同じではありませんわ」
八百万が指摘した。
物間が口元に笑みを浮かべた。
「なるほど。ついに僕の出番というわけですね。人気投票と実際の能力は別物であると、以前から主張していましたが――」
「今はお前の話じゃない」
拳藤が即座に止めた。
「何だい、拳藤くん!」
「余計な方向へ話を持っていかない!」
会議室に笑いが起きる。
その後、根津は資料を切り替えた。
「今後は、活動の成果だけでなく、判断の過程や、救助後の支援につながったかどうか、地域との連携なども確認する必要がある」
「ただし、評価項目を増やしすぎても、現場の負担が大きくなる」
相澤が言った。
「記録を作ることが目的になれば、肝心の活動が疎かになる」
「その通りだね」
根津は考え込む。
「だから、記録は必要な範囲に絞る。すべての行動を細かく書き残すのではなく、重要な判断と、引き継ぎ、問題があった場合の対応を確認できるようにする」
「記録する人間も必要だな」
センチピーダーが言った。
「現場で活動するヒーローが、救助をしながらすべての記録を取るのは難しい。サイドキックや支援担当との連携も考えるべきだ」
「そうですね」
バブルガールが応じる。
「記録担当と現場担当を分けることができれば、情報の抜けを減らせます。ただし、小規模な現場では人員を確保できない場合もあります」
「その場合は、後から確認する仕組みを設ける」
根津が言った。
「全てを同じ形式で処理するのではなく、現場の規模や危険度に応じて記録方法を変える。大切なのは、必要な情報が欠けたときに、それを隠さないことだ」
出久は資料を見ながら考えた。
ヒーローの活躍を数字で評価することは、分かりやすい。
誰が何人救助したか。
どの事件を解決したか。
どれだけの成果を上げたか。
しかし、数字に表れにくいものを無視すれば、ヒーローは数字に表れる活動ばかりを優先するようになるかもしれない。
救助が必要になる前に危険を防ぐこと。
助けを求められない人を見つけること。
救助後の生活を支援につなぐこと。
そうした活動も、社会を守るために必要だった。
「評価の目的自体を、見直す必要があるんですね」
出久が言った。
「評価は、誰が優れているかを順位づけするためだけにあるんじゃない。何を改善する必要があるのかを知るためにも使える」
根津が答える。
「ヒーローの順位を決めるための数字だけでは、社会が必要としている活動を見失うことがある」
爆豪が鼻を鳴らした。
「順位が全部悪いとは思わねえけどな」
「爆豪くん?」
「競争があるから伸びる奴もいる。目標になる数字があるから努力する奴もいる。だが、数字を追うために必要なことを見落とすなら意味がねえ」
「うん」
出久は頷いた。
「数字をなくすんじゃなくて、数字だけで決めないようにするんだね」
「そういうことだろ」
爆豪は腕を組んだ。
「数字が正しいかどうかも疑え。使い方を間違えんな」
六 正義を掲げる側にも、異議を申し立てる権利がある
「もう一つ、重要な問題があります」
プレゼント・マイクが手を挙げた。
「これまでの話は、ヒーローに対して市民が異議を申し立てる仕組みだった。けど、ヒーロー自身が制度に異議を申し立てる場合はどうする?」
会議室の空気が変わった。
「組織から不適切な指示が出た場合、現場のヒーローが拒否できるのか。報告したことで仕事を外されたり、立場を失ったりしないのか」
プレゼント・マイクは真剣な顔で言った。
「これも、今回の改革では考えなきゃいけない」
ホークスの過去を思い出した者もいた。
誰かの指示に従うこと。
組織のために行動すること。
その行動が正義の名の下に行われているとき、現場にいる人間は疑問を口にできるのか。
「ヒーローが組織の判断に疑問を持ったとき、相談できる窓口が必要ですね」
飯田が言った。
「ただし、指示を拒否すれば全て正しいというわけではない」
相澤が釘を刺した。
「個人的な感情で命令を拒否することもある。だから、拒否した理由を確認する仕組みは必要だ」
「もちろんです」
プレゼント・マイクが頷いた。
「大事なのは、疑問を口にしただけで不利益を受けないことだ」
「内部通報の仕組みですね」
八百万が言った。
「それに、通報した人間の身元や安全を守る必要があります」
「ただし、通報内容が虚偽だった場合もある」
物間が指摘した。
「だからこそ、通報したというだけで相手を処分することもできない。調査を行い、事実を確認しなければならない」
根津は、資料に項目を加えた。
「ヒーロー側にも、適切な異議申し立ての機会を設ける。現場からの問題提起を受け付ける窓口と、報復的な不利益を防ぐための仕組みを検討しよう」
「それは、ヒーローを守るためだけの仕組みではありませんね」
出久が言った。
「そうだね」
根津が答えた。
「組織の中にいる人間が、組織の判断を疑うことができる。そうでなければ、間違いがあっても外に出てこない」
「正義を掲げる側が、正義の名を使った命令に逆らえなくなったら、本末転倒です」
飯田が言った。
「その通りだ」
相澤は続けた。
「現場で命を守ることと、組織の命令に従うことは、常に同じとは限らない。どちらを優先すべきか考えるためにも、異議を申し立てる道は必要だ」
出久は、その言葉に頷いた。
正義を掲げる者が、正義の名によって黙らされる。
それは、決してあってはならないことだった。
七 正義を決める者が、正義を独占しないために
話し合いは、さらに難しいところへ進んだ。
「ここまでの提案をまとめると、検証を行う組織が必要になる」
根津が言った。
「しかし、その組織を誰が作るのか。誰が人を選び、誰が権限を与えるのか。そこを決めなければならない」
「最初から、ヒーロー側だけで決めるのは避けるべきです」
八百万が言った。
「行政、法律や医療などの専門家、地域の人々、被害を受けた人々など、複数の立場から参加してもらう必要があります」
「ただ、被害を受けた人を代表として選ぶのは難しいだろうな」
マニュアルが言った。
「一人の被害者が、他の被害者全員を代表できるわけではない」
「その通りですね」
出久が頷いた。
「だから、代表者を一度決めたら終わりにするんじゃなくて、参加する人や意見を出す方法を複数用意する必要があると思います」
「全員の意見を集めることはできない」
相澤が言った。
「だが、集められなかった意見があることを、なかったことにはするな」
「そうですね」
根津は、提案書をめくった。
「もう一つ。検証組織には、ヒーローの活動を確認する権限が必要になる。しかし、その権限が強くなりすぎれば、今度は検証組織が自らの判断を絶対視する可能性がある」
「なら、検証組織の決定に対しても、異議申し立てができるようにする」
物間が言った。
「さらに、一定期間ごとに組織の運営自体を見直す必要がありますね」
飯田が続ける。
「誰が参加しているのか。どのような案件を扱ったのか。どのような結論を出したのか。公開できる範囲で記録を公開するべきです」
「ただし、個人の安全やプライバシーに関わる情報は守らなければならない」
バブルガールが確認する。
「公開することと、何でも見せることは違います」
「そうだね」
根津は頷いた。
「そこで、検証組織の運営についても、定期的に外部の確認を受ける。委員の選び方、調査方法、結論の出し方、異議申し立ての処理。それらを公開できる範囲で明らかにする」
「でも、公開する情報を選ぶ側も、組織の中の人間でしょう?」
西尾が尋ねた。
根津は、彼女を見た。
「その通りです」
「なら、都合の悪い情報だけ、個人情報や安全の問題を理由に隠される可能性もありますよね」
「あります」
「それを防ぐ方法は?」
「公開しない理由についても、確認できるようにする必要があります。必要なら、別の立場の人間が非公開情報を確認する仕組みを検討します」
西尾は、すぐには頷かなかった。
「それでも、完全には防げないでしょうね」
「そうだね」
根津は正直に答えた。
「完全に防げるとは約束できない」
西尾は、しばらく根津を見ていた。
「それなら、間違いが見つかったときに、ちゃんと認めてください」
「もちろんです」
「その組織が、自分たちは正しいと言い始めたら、また私たちが意見を言えるようにしてください」
「そうします」
「その約束も、後で確認します」
根津は微笑んだ。
「ぜひ、確認してほしい」
その瞬間、出久は理解した。
制度改革の成功とは、誰も疑問を持たなくなることではない。
疑問を持った人が、きちんと声を上げられること。
その声を聞いた側が、必要に応じて自分たちの判断を修正できること。
そして、修正したことを隠さずに記録すること。
それを繰り返す仕組みこそ、今必要だった。
八 生徒たちが作る、小さな検証
会議の終盤。
根津は、A組とB組の生徒たちに視線を向けた。
「みんなにも、意見を聞きたい」
「我々にもですか?」
飯田が尋ねた。
「もちろん。これから社会を担うのは、今の大人だけではない。君たち自身が、ヒーロー制度をどう見ているのかも大切だ」
根津は、別の資料を取り出した。
「そこで、一つ試してほしい」
画面に映し出されたのは、仮想の救助事例だった。
ある地域で、複数の住民が避難を必要としている。
ヒーローは、危険な場所から住民を移動させることに成功した。
しかし、避難先には十分な設備がない。
移動を望まない住民もいる。
また、複数の人々が、それぞれ異なる支援を必要としている。
「この状況で、ヒーローはどう行動するべきか。君たちに考えてもらいたい」
根津が言った。
「全員を同じ避難先に移すのは問題がありそうですね」
八百万が言った。
「まず、本人の意思と安全を確認する必要があります」
「ただし、緊急性が高いなら、意思の確認に時間をかけすぎるわけにもいかない」
飯田が続けた。
「命の危険がある場合は、まず安全を確保するべきです」
「でも、全員を同じ基準で扱っていいわけじゃないよね」
麗日が言った。
「必要な支援が違うから」
「避難場所を複数用意する必要があるかもしれない」
轟が提案した。
「ただし、移動先が増えれば、情報の管理も難しくなる」
障子が続ける。
「家族が別々になった場合の連絡手段も必要だ」
「じゃあ、避難先の確認担当と、住民の情報を整理する担当を分けるのはどうだ?」
切島が言った。
「人員が十分にいる場合は有効だね」
物間が答えた。
「だが、人数が少ない場合は?」
「そのときは、優先順位を考える」
「その優先順位を誰が決めるんだい?」
物間が問い返す。
「現場のヒーローだろ」
鉄哲が答える。
「なら、判断の理由を残しておく必要がある」
骨抜が静かに続けた。
「後から、どうしてその人を先に避難させたのかを確認できるようにする。全員を同時に助けられなかった場合も、どんな条件だったのか分かるようにするんだ」
「でも、記録を取ることに時間を使って、避難が遅れたら本末転倒だよ」
上鳴が言った。
「緊急時は、まず行動する。記録は、可能な範囲で取る。足りない部分は後から確認する」
耳郎が答えた。
「それに、避難した人たちが、その後どんな支援を必要としているかを確認する人も必要だね」
「それなら、支援担当の人と連携する仕組みを作らないと」
拳藤が言った。
「ヒーローだけで全部やろうとしないことね」
小森が頷いた。
「あと、情報を受け取れない人がいないか確認することも大事」
「そこは複数の伝達手段を使う」
塩崎が言った。
「声、文字、掲示、個別の案内。ひとつの方法に頼らないことです」
「さらに、住民がその方法を望まない場合も考えなければなりませんわ」
八百万が続けた。
「支援の方法を増やすことと、その中から本人が選べることは別です」
生徒たちの議論は、どんどん具体的になっていった。
彼らは、これまで学んできた救助技術や個性の使い方だけでなく、支援の方法そのものを見直していた。
「よし、ここで一度、実際に配置を組んでみよう」
飯田が提案した。
「仮想の避難所を設けて、各自の役割を確認する。ヒーローの救助担当、情報担当、支援担当、記録担当。それぞれの役割を分けてみよう」
「では、机を移動しますわ」
八百万が必要な器具を創造する。
麗日は机を浮かせ、通路を広く確保した。
骨抜は床の状態を確認し、ロックロックが仮設設備の固定を担当する。
耳郎は音声による案内が各場所に届くかを確認し、プレゼント・マイクは音量や案内内容の伝わり方を調整した。
マニュアルは水の補給場所を設け、バブルガールは個人情報を扱う場所を仕切る。
センチピーダーは複数の区域をつなぐ移動経路を確認し、拳藤と鉄哲は重い机や器具を運んだ。
障子は周囲の状況を確認するため、複数の方向へ感覚器を伸ばす。
小森は空気の流れを確認し、塩崎の蔓が通路を妨げないよう配置を調整した。
物間は、必要な役割を見ながら自分の個性を使うかどうか判断していた。
「物間くん、今回はコピーを使わないの?」
拳藤が尋ねた。
「使う必要があるかどうかを考えているんだよ」
「珍しく慎重だね」
「失礼だな。僕は常に慎重だよ」
「はいはい」
「君はもっと僕を尊重すべきだ!」
いつもの掛け合いに、周囲が笑う。
そのとき、出久が仮想の避難者役を務めることになった。
「僕が、移動を望まない住民の役をやるよ」
「緑谷くんが?」
麗日が尋ねる。
「うん。安全が確保されていると判断されている場所から動きたくない人。理由は、家族と連絡が取れていないから」
「なるほど」
轟が言った。
「では、我々はどう説得するかではなく、まず理由を確認する」
「そうだね」
出久は、用意された椅子に座った。
「私はここを動きたくありません。家族が戻ってくるかもしれないので」
飯田が近づく。
「現在、こちらの地域には危険が迫っている可能性があります。避難をお願いできますか」
「でも、家族が戻ってきたときに、私がいなかったらどうするんですか?」
「家族の安否確認については、こちらで情報を確認します」
「どこで確認できるんですか?」
飯田は一瞬言葉に詰まった。
「……担当窓口へ案内します」
「その窓口はどこですか?」
「こちらです」
「今、家族と連絡が取れるんですか?」
「確認します」
出久は、飯田の返答を待った。
だが、飯田はまだ答えられなかった。
「緑谷くん」
飯田が振り返った。
「少し待ってくれ。確認できる情報を調べる」
「うん」
飯田は情報担当へ向かう。
その間に、麗日が別の避難者役を担当する。
「私は移動したいですが、車椅子を使っています。ここから動けません」
「搬送方法を確認します」
センチピーダーが近づいた。
「移動経路の確認が必要です。段差や通路の広さも調べます」
「必要なら、私が周辺の物を浮かせます」
麗日が言った。
「ただし、本人に確認してからね」
「もちろん」
そこで、別の生徒が声を上げた。
「待ってください! こちらの避難先は、今のところ受け入れ人数に余裕がありますが、介助が必要な人の対応設備がありません!」
「なら、別の場所を確認する必要があるな」
轟が言った。
「その間、本人を安全に待機させられる場所も必要だ」
「支援担当と連絡します」
飯田が戻ってきた。
「家族の安否情報は、確認中です。現時点では、避難先の窓口でも情報を照合できます。ただし、回答まで時間がかかる可能性があります」
「それを本人に説明するんだね」
出久が言った。
「はい。確認できていないことを、確認できたように伝えてはいけません」
「いいと思う」
出久は頷いた。
「それと、避難した後も、家族の情報を確認できる方法が必要だね」
「その通りです」
飯田は記録用紙に書き加えた。
仮想訓練が終わる頃には、会場のあちこちに改善点が書き出されていた。
しかし、出久は一つ気になっていたことがあった。
「根津校長」
「何かな?」
「今回の訓練では、最初から全員がこちらの指示を聞いてくれました」
「そうだね」
「でも、実際には、ヒーローを信用していない人もいると思います。避難を拒む人もいる。話を聞きたくない人もいる」
「その通りだ」
「今回の方法がうまくいったとしても、相手が受け入れてくれるとは限らない。だから、成功した場合だけじゃなく、うまくいかなかった場合も検証しなければいけないと思います」
根津は、嬉しそうに目を細めた。
「その通りだね。訓練で成功したことを、現実でも必ず成功する証拠にしてはいけない」
「訓練の中でも、うまくいかなかった部分を残しておくべきだと思います」
「そうしよう」
根津は、訓練結果の記録方法に新たな項目を加えた。
『想定通りに進まなかった状況と、その理由』
成功だけではなく、失敗も残す。
それもまた、制度を疑い続けるための第一歩だった。
九 最初の提案
会議は、夕方まで続いた。
最終的に、根津がまとめた提案は、五つの柱から成り立っていた。
第一、ヒーロー活動の判断過程を記録すること。
緊急時の行動を妨げない範囲で、重要な判断、確認した情報、他機関への引き継ぎなどを記録する。
第二、事後検証の仕組みを設けること。
現場の結果だけでなく、当時の状況や判断の過程、組織からの指示、制度上の問題を確認する。
第三、被害を受けた人々が意見を届ける手段を増やすこと。
対面だけでなく、書面、匿名、代理人を通じた提出など、複数の方法を用意する。参加しない自由も尊重する。
第四、検証組織そのものを確認すること。
人員の選出、調査方法、決定の過程、情報公開の基準について、外部から確認できるようにする。
第五、改善状況を継続的に報告すること。
提案を受け取っただけで終わらせず、実施したこと、未実施のこと、実施できない理由を記録して公表する。
「この五つを、最初の改革案として関係機関へ提出する」
根津が言った。
「ただし、これは完成した制度ではない」
参加者たちが資料に目を通す。
「今後、実際に試行し、問題が見つかれば修正する。必要であれば、提案そのものを変更することもある」
「誰が修正を決めるんですか?」
西尾が尋ねた。
「関係機関だけで決めることはしません。試行に参加する地域の方々や、検証に関わる人々からも意見を受け付けます」
「意見を受け付ける期間は?」
「定期的に設けます。緊急の問題については、その都度受け付ける仕組みも検討します」
西尾は資料をもう一度確認した。
「これなら、最初の一歩としてはいいと思います」
「ありがとうございます」
「でも、私はまだ、この制度を信用しているわけではありません」
「当然です」
根津は笑った。
「最初から信用してもらえるとは考えていません。これからの行動を見て判断してください」
西尾は頷いた。
「そうします」
そこへ、プレゼント・マイクが手を挙げた。
「俺からも一つ提案していいか?」
「どうぞ」
「この制度改革の説明をするとき、ヒーローが反省しました、これから変わります、という言い方はやめた方がいいと思う」
「どうしてですか?」
麗日が尋ねた。
「それだと、ヒーロー側が自分たちの変化を主役にしてしまうからだ」
プレゼント・マイクは資料を指した。
「大切なのは、誰が反省したかじゃない。何を変えるのか。誰が確認できるのか。問題が起きたときに、どう修正するのかだ」
相澤が頷く。
「その通りだ。反省したという言葉を、成果として扱うな」
「じゃあ、制度の説明では、実際に使える仕組みを中心に伝えるべきですね」
八百万が言った。
「そうだね」
根津は、資料の説明文を修正することにした。
「ヒーロー側の決意を語るだけでは、制度改革にはならない。利用する人が、何をできるのかを明確にしなければならない」
「それから、制度を利用したことで不利益を受けた場合も、再度申し立てられるようにする必要があります」
飯田が続ける。
「一度の申請で終わる仕組みではなく、対応に納得できなかった場合の手続きも考えるべきです」
「いい指摘だ」
根津は追加の項目を記録した。
「では、この提案を正式に提出する前に、もう一つだけ確認したい」
根津は、会議室の全員を見た。
「ここまで話し合ってきたことに、反対意見はあるかな?」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、物間が手を挙げた。
「あります」
「どうぞ」
「この提案は、かなり多くの確認事項を含んでいます。人員も時間も必要になる。すぐには実行できないものもあるでしょう」
「その通りだね」
「そして、制度を導入したからといって、問題が減るとは限りません。新しい手続きが増えただけで、現場が疲弊する可能性もあります」
物間は資料を置いた。
「だから、実施する前に、試行地域を限定して、実際にどの程度の負担が生じるのかを確認すべきです」
拳藤が頷いた。
「そうだね。いきなり全国一律で始めるより、試して改善した方がいい」
「ただし、試行地域だけが負担を背負うことにならないようにする必要もある」
障子が言った。
「試行に参加する住民に、必要な説明をしなければならない」
「その通りです」
根津は頷いた。
「試行地域を決める際にも、参加する意思と支援体制を確認する。協力を強制することはしない」
「それなら、僕も賛成できます」
物間は腕を組んだ。
「ただし、試行が成功したという報告だけで終わらせないでくださいね」
「もちろんだよ」
根津は微笑んだ。
こうして、最初の提案はまとまった。
それは、完璧な制度ではない。
すべてのヒーローを正しく導く、魔法の仕組みでもない。
けれど、間違いを指摘できる場所を作り、指摘された側が自分たちの判断を見直せるようにする。
そのための第一歩だった。
十 正義を掲げる者の責任
会議が終わった後。
出久は、会議室の片付けを手伝っていた。
机の上には、今日使った資料が積まれている。
一枚一枚に、意見と修正案が書き込まれていた。
その中には、すぐに採用された意見もあれば、まだ検討が必要なものもある。
出久は、資料の端に書かれた言葉を見つめた。
『制度が自分たちの正しさを証明するためのものにならないこと』
その言葉が、今回の話し合いを象徴しているように思えた。
「緑谷」
相澤が近づいてきた。
「まだ残っていたのか」
「片付けを少し手伝っています」
「他の生徒は?」
「飯田くんたちは資料の整理を、八百万さんたちは備品の確認をしています。爆豪くんは先に帰りました」
「そうか」
相澤は机の上の資料を見た。
「今日の会議、どう思った?」
「制度を変えることが、思っていた以上に難しいと感じました」
「だろうな」
「正しい仕組みを一つ作れば終わり、というわけじゃないんですね」
「そんなものはない」
相澤は淡々と答えた。
「どれだけ考えて作った仕組みでも、運用する人間が変われば問題が出る。時代が変われば、必要な対応も変わる」
「それでも、作る必要はあるんですね」
「当然だ。完璧ではないからといって、何もしない理由にはならない」
出久は頷いた。
「でも、制度を作った人が、自分たちは正しいと思い始めたら……」
「また同じことになる」
相澤は言った。
「だから、制度そのものを疑う。運用する人間を確認する。問題があれば修正する。これを続けるしかない」
「先生は、ヒーローが正義を疑うことについて、どう思いますか?」
相澤は少し考えた。
「正義を疑うこと自体が目的になっても困る」
「目的に?」
「何をするにも、自分は間違っているかもしれないと考えすぎて動けなくなる。そうなれば、助けられる人間も助けられなくなる」
「……」
「だが、自分は正しいと信じ込んで、相手の声を聞かなくなるのも問題だ」
相澤は、出久を見た。
「必要なのは、自分の判断を疑うことと、責任を持って行動することを両立することだ」
「行動した後に、間違いがあれば修正する」
「それだけじゃない。行動する前にも考える。行動している最中にも確認する。終わった後にも検証する」
出久は、ゆっくり頷いた。
「ずっと続くんですね」
「そうだ」
相澤は資料を片付け始めた。
「ヒーローを辞めるまで続く。いや、辞めた後も、社会の一員として続くことになるかもしれないな」
「先生らしいですね」
「どういう意味だ」
「ずっと厳しいという意味です」
「余計なことを言うな」
出久は笑った。
その笑い声に、プレゼント・マイクが近づいてきた。
「お、何だ? 相澤と緑谷で真面目な話か?」
「お前には関係ない」
「おいおい、俺だって今日の会議では真面目に話しただろ!」
「いつも真面目に話せ」
「厳しい!」
プレゼント・マイクは笑った後、少し真剣な顔になった。
「でも、今日の提案は大事だと思うよ」
「はい」
「正義を疑うって言葉だけ聞くと、何でも否定するみたいに聞こえるかもしれない。でも、そうじゃないんだよな」
「自分たちの正義が、誰かを置き去りにしていないか確認することです」
出久が答えた。
「そう。俺たちは、正義を掲げることをやめる必要はない。でも、その正義を振りかざして誰かの声を止めるようなことがあったら、立ち止まらなきゃいけない」
プレゼント・マイクは、少し遠くを見た。
「昔の俺たちも、そういうことを考えなきゃいけなかったんだろうな」
相澤は、何も言わなかった。
白雲朧のことを思い出しているのかもしれない。
三人が歩んだ道。
失われた時間。
取り戻せない過去。
その問題も、まだ終わってはいない。
「先生たちも、これから向き合っていくんですね」
出久が言った。
「当然だ」
相澤は答えた。
「俺たちが教師だからといって、間違えないわけじゃない。教える側だからといって、常に正しいわけでもない」
「それなら、僕たちも先生たちに意見を言います」
「必要なら言え」
「はい」
「ただし、何でも言えばいいというわけではない。相手の話も聞け」
「分かっています」
「本当か?」
「……努力します」
「実行しろ」
相澤の言葉に、プレゼント・マイクが笑った。
「いやあ、相変わらずだな!」
十一 正義を疑うことを、やめない
会議の翌日。
根津校長は、戦後の制度改革に向けた初期提案を、関係機関へ提出するための準備を進めていた。
その提案には、まだ正式な決定事項ではないことが明記されている。
これから関係者との協議を行い、試行する地域や運用方法を検討する。
問題が見つかれば、修正する。
必要であれば、提案そのものを見直す。
その過程も、可能な範囲で公開する。
根津は、文書の最後に一文を書き加えた。
『本提案は、ヒーローの正義を保証するためのものではない。ヒーローの判断が、常に検証される可能性を持つことを保障するためのものである』
書き終えたところで、相澤がやってきた。
「文書はまとまったのか」
「一通りはね」
相澤は内容を確認した。
「悪くない」
「ありがとう」
「ただ、まだ足りない部分もある」
「どこかな?」
「制度の利用者が、実際にどこへ申し立てればいいのか。誰が受け付けるのか。どれくらいの期間で回答するのか。そのあたりは、これから詰める必要がある」
「その通りだね」
根津は頷いた。
「最初の提案は理念と基本方針を示すものだ。具体的な手順は、試行に向けてさらに整理しよう」
「それと、ヒーロー側の教育も必要になる」
「どういう意味だい?」
「制度ができても、使う側が何も変わらなければ意味がない。ヒーローが市民の異議申し立てを面倒な仕事だと考えたり、批判を敵意だと受け取ったりすれば、仕組みは形だけになる」
「確かに」
根津は考え込んだ。
「ヒーロー教育の中にも、判断を検証する訓練を組み込む必要があるね」
「生徒にも必要だ」
「もちろんだよ」
根津は、新たな項目を追加した。
「ただし、生徒たちに社会全体の責任を背負わせることのないようにしなければならない」
「それは分かっている」
相澤は窓の外を見た。
校庭では、A組とB組の生徒たちが、訓練の準備をしている。
麗日が備品を確認し、飯田が全員へ連絡をしている。
八百万は必要な道具を用意し、轟は周囲の安全を確認していた。
爆豪は何かに不満を言いながら、切島たちと作業を進めている。
彼らもまた、これからの社会を作っていく一人ひとりだった。
「根津」
相澤が言った。
「この制度を作れば、ヒーローへの批判は増えるかもしれない」
「そうだね」
「今までなら、問題にされなかったことも指摘されるだろう」
「その可能性はある」
「ヒーローを目指す人間が減るかもしれない」
根津は、少しだけ笑った。
「それでも、必要なら受け入れるべきだろう」
「ヒーローが嫌われることも?」
「ヒーローが嫌われないことを、制度の目的にしてはいけない」
根津は答えた。
「もちろん、根拠のない中傷や嫌がらせからヒーローを守る仕組みは必要だ。だが、正当な批判まで避けるようになれば、制度は自分たちを守るためだけのものになる」
相澤は頷いた。
「そうだな」
「ヒーローが必要とされる社会を作ることと、ヒーローが常に称賛される社会を作ることは違う」
根津は、文書の表紙を整えた。
「私たちが目指すのは、後者ではない」
十二 後始末編・終幕
数日後。
雄英高校の敷地内にある訓練場。
出久は、訓練を終えた仲間たちと並んで座っていた。
身体には疲労が残っている。
しかし、以前とは少し違う感覚があった。
戦いの中で自分が何をしたのか。
誰を救えたのか。
誰を救えなかったのか。
そして、その後に何が残されたのか。
それらを、少しずつ整理できるようになってきた。
「緑谷」
轟が声をかけた。
「どうしたの?」
「今回の提案、どう思う?」
「まだ始まったばかりだと思う」
「そうだな」
「でも、最初の一歩にはなった」
麗日が笑顔で頷く。
「今までは、何か問題が起きたときに、その問題をどう解決するかを考えることが多かった。でも、これからは、問題が起きたときに声を上げられる場所を作ることも大切なんだね」
「そうだね」
飯田が続けた。
「そして、その声を聞いた側には、対応する責任がある。聞いたふりをして終わらせることはできない」
「ヒーローになってからも、ずっと考えることになるんだろうな」
切島が言った。
「そりゃそうだろ」
爆豪が立ち上がる。
「一回考えたくらいで終わるなら、苦労しねえ」
「爆豪くんは、今回の話し合いで何か変わった?」
出久が尋ねた。
「何も変わってねえ」
「え?」
「正しいと思ったことをやる。それは変わらねえ」
爆豪は振り返った。
「だが、正しいと思ったことが、実際にどうだったかを確認する。それは今まで以上にやる」
「……そっか」
「それに、間違っていたなら直す。必要なら謝る。必要ならやり直す。それだけだ」
「簡単に言うね」
轟が言った。
「簡単じゃねえから言ってんだよ」
爆豪は鼻を鳴らした。
「面倒くせえことを続けんのが、これからの仕事になるんだろ」
その言葉に、出久は笑った。
「うん。そうだと思う」
少し離れたところでは、B組の生徒たちも片付けを終えていた。
拳藤が物間に声をかける。
「次の検証会、参加するんでしょ?」
「当然だよ。僕がいなければ、誰が君たちの議論の欠陥を指摘するんだい?」
「余計なことを言わない」
「まったく、僕の価値を理解しないとは!」
鉄哲が大声で笑う。
「まあ、次も一緒に考えようぜ!」
骨抜も頷く。
「実際に試してみないと分からないことも多いからね」
塩崎は静かに手を組んだ。
「誤りを認め、正しい道を探し続けること。それもまた、歩む者の務めなのでしょう」
小森が小さく笑う。
「難しいけど、みんなで考えるなら、少しずつできるかも」
生徒たちは、それぞれの言葉でこれからのことを話し合っていた。
出久は、その姿を見ていた。
この世界は、まだ壊れたままだ。
失われたものは戻らない。
傷ついた人々の中には、今も苦しんでいる人がいる。
責任を果たし続けなければならない人たちもいる。
それでも、何も変えられないわけではない。
誰かが正しいと決めた答えを、そのまま受け入れるのではなく。
誰かが間違っていると決めつけて、切り捨てるのでもなく。
一つずつ、事実を確かめる。
声を聞く。
行動する。
そして、必要ならば修正する。
「緑谷くん」
麗日が呼んだ。
「そろそろ戻ろう」
「うん」
出久は立ち上がった。
校舎へ戻る途中、彼は一度だけ振り返った。
訓練場には、まだ片付けられていない器具が残っていた。
一つの訓練が終わっても、次の訓練が始まる。
一つの戦いが終わっても、守るべき日常は続いていく。
一つの制度を作っても、それを見直す責任は終わらない。
「正義の名を、疑い続ける……」
出久は小さく呟いた。
正義を掲げることは、悪いことではない。
誰かを助けたいと願うことも、間違いではない。
けれど、その願いを理由に、他人の気持ちを決めつけてはいけない。
自分が救いたいと思ったからといって、相手が救われたと感じるとは限らない。
自分が正しいと思ったからといって、その判断が誰にとっても正しいとは限らない。
だから、問い続ける。
自分の正義は、誰の声を聞いているのか。
誰の声を、聞こえないものにしていないか。
もし誰かを取り残していたのなら、どうすればその人の声を聞けるのか。
その問いから逃げない。
それが、これからヒーローとして生きていく自分たちに必要なことだった。
そして、その問いは、ヒーローだけのものではない。
社会を作る一人ひとりが、考え続けなければならないことなのだ。
出久は仲間たちとともに、校舎へ戻っていった。
後始末は終わった。
だが、それは過去の問題がすべて解決したという意味ではない。
責任を果たすための道筋をつけ、次の時代へ進む準備が始まったということだ。
これから、それぞれの人生に残された問題と向き合っていく。
家族のこと。
友人のこと。
失われたもののこと。
自分自身のこと。
出久たちは、まだその答えを知らない。
それでも、進んでいく。
正義を掲げることを恐れず。
正義を疑うことから逃げず。
誰かの声を聞き続けるために。
第七十六話・了
後始末編・完結
後始末編終幕、次話後日談編