僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二話 南極の死神

 

――十三週間前。

南極大陸。

地球上で最も過酷な大地の一つ。

吹き荒れる暴風は、雪原を削り、氷山を砕き、あらゆる生命の痕跡を白銀の世界へと埋めていく。

そこには国境がない。

街もなければ、墓標もない。

人間が築き上げてきた文明の営みなど、この大陸の前ではあまりにも小さく、あまりにも儚い。

ただ、氷がある。

風がある。

そして、その遥か下には――人類がまだ知らないものが眠っていた。

地表から数千メートル。

太陽の光が決して届かず、音さえも凍りつくような深淵。

そこに、奇妙な空間が存在していた。

自然にできた洞窟ではない。

氷河の亀裂でもない。

ましてや、人間の手で造られた施設などではあり得ない。

それは、空間そのものに刻まれた傷だった。

周囲の氷は幾何学的な模様を描きながら広がり、壁面には文字にも紋様にも見える無数の刻印が浮かんでいる。

地球上のいかなる文明にも属さない。

人間の言語で解読することもできない。

それでも、その紋様を目にした者がいたならば、きっと理解しただろう。

これは何かを封じるためのものだ。

そして同時に――何かが、内側から出てくるのを待っている。

空間の中央には、黒い水面のようなものが広がっていた。

水ではない。

光を反射することもなく、底を見通すこともできない。

ただ、そこに存在している。

その黒い水面の上に、一人の女が横たわっていた。

白い衣。

雪よりも白く、骨よりも白い肌。

長い髪は水面に広がり、まるで夜そのものが彼女の身体を包み込んでいるようだった。

その顔は美しい。

けれど、そこには生き物が持つべき温度がなかった。

悲しみも、喜びも、怒りもない。

死者のように静かな顔。

いや。

彼女は、死者ですらなかった。

死という概念が形を得たもの。

生命の終わりに立ち会い、すべての生き物に等しく訪れる終着点を見届ける存在。

人間たちが、いつか畏れと敬意を込めて呼ぶことになるもの。

死神。

その指先が、ぴくりと動いた。

何万年もの沈黙を破る、あまりにも小さな動き。

それでも、世界のどこかで何かが軋んだ。

地球の磁場が、ほんの一瞬だけ乱れる。

南極上空を覆う雲が、渦を巻いて回転を始める。

遠く離れた海底で、眠っていた深海魚たちが一斉に逃げ出す。

そして、世界中の人間のうち、ごくわずかな者たちが理由もなく空を見上げた。

誰かが、見られていると感じた。

誰かが、背後に立つ気配を覚えた。

誰かが、夢の中で自分の葬式を見た。

だが、誰一人として、その原因に思い至ることはなかった。

南極の地下。

女の瞼が、ゆっくりと開いた。

瞳は、深い闇の色をしていた。

その奥には星々があった。

数えきれないほどの星。

生まれては消えていく星々。

文明が興り、滅び、また別の文明が生まれる、そのすべてを見下ろすような、途方もない時間の痕跡。

女はしばらく、何も言わなかった。

やがて、唇がわずかに動く。

「…………ああ」

声は、かすれていた。

何万年も使われていなかった喉から、初めて空気が漏れたかのような声だった。

「目覚めたのね」

自分の言葉を確かめるように、女はゆっくりと上体を起こした。

黒い水面が波紋を広げる。

その波紋は壁面の紋様へと伝わり、刻まれた文字が一つ、また一つと消えていった。

封印が解けている。

否。

封印そのものが、役目を終えようとしていた。

女は自分の両手を見つめた。

指を曲げる。

開く。

その動作に、どこか不思議そうな表情を浮かべる。

「身体……」

彼女は呟いた。

「まだ、残っていたのね」

その声には、懐かしさも、安堵もなかった。

ただ事実を確認するだけの、淡々とした響き。

彼女にとって、身体とは道具に過ぎない。

魂とは器に宿るもの。

命とは、始まりと終わりを結ぶ現象。

そして死とは――それらを管理する、絶対的な法則。

少なくとも、彼女はそう考えていた。

女は立ち上がった。

白い衣の裾が黒い水面を離れた瞬間、空間の重力が反転した。

天井から氷の結晶が浮かび上がり、彼女の周囲を回り始める。

その一つ一つに、無数の人間の顔が映った。

赤ん坊。

老人。

兵士。

英雄。

犯罪者。

名も知られぬ市民。

彼らは皆、何かを言っていた。

助けてくれ、と。

帰りたい、と。

まだ死にたくない、と。

そして、ときには。

ありがとう、と。

女はそれらを眺め、ほんの少しだけ首を傾げた。

「相変わらず、騒がしい世界」

その瞬間、すべての結晶が砕け散った。

粉雪のように舞い散る光の中で、女は歩き始めた。

一歩。

二歩。

三歩。

彼女が進むたび、足元の黒い水面は凍りつき、氷の上には黒い花のような紋様が咲いた。

そして、彼女は空間の端にたどり着いた。

そこには扉があった。

扉と呼ぶには、あまりにも巨大なものだった。

壁面の半分以上を占める黒い門。

その表面には、無数の手形が刻まれている。

小さな手。

大きな手。

骨ばった手。

幼い子供の手。

すべてが、内側から外へ向かって伸びていた。

助けを求めるように。

逃れようとするように。

女は門に手を触れた。

「開きなさい」

命令だった。

しかし、門は動かなかった。

女の眉が、わずかに寄る。

「……そう」

彼女は、門に刻まれた紋様を見上げた。

そこに残る力は、もはやほとんどなかった。

それでも、完全には消えていない。

何かが門を閉ざしている。

何かが、彼女を外へ出すことを拒んでいる。

その何かを、女は知っていた。

知っているはずだった。

なのに。

「…………誰?」

問いかけは、闇の中に落ちた。

記憶の底に、何かが引っかかっている。

巨大な影。

星の海。

人間の理解を拒絶する、途方もなく巨大な意志。

そして、その意志の前に立つ自分。

彼女は確かに、誰かと約束をした。

誰かの命令を受けた。

誰かのために、長い眠りについた。

だが、その誰かの名前が思い出せない。

女は自分の胸に手を当てた。

心臓は動いていなかった。

それでも、そこには何かがある。

記憶ではない。

感情でもない。

もっと根源的なもの。

自分という存在を成り立たせている、絶対に失われてはならない何か。

「……そうだったわね」

女は顔を上げた。

「私は、待っていた」

誰を。

何のために。

その答えは、まだ闇の奥に沈んでいた。

だが、一つだけ確かなことがある。

彼女が目覚めた以上、世界は以前と同じではいられない。

女は再び門に手を触れた。

今度は命令しなかった。

ただ、静かに囁いた。

「もう、いいでしょう?」

その言葉に応えるように、門の紋様が光を放った。

次の瞬間。

轟音が、地の底を揺るがした。

黒い門に亀裂が走る。

無数の手形が、次々と崩れ落ちる。

氷の壁が震え、遥か上方に広がる氷河が悲鳴を上げた。

そして――門が開いた。

その向こうに広がっていたのは、洞窟ではなかった。

宇宙だった。

星々が瞬き、銀河が渦を巻き、無数の光が生まれては消えていく。

だが、その光景を宇宙と呼ぶのは、あまりにも人間的な解釈だった。

そこには距離という概念がなかった。

時間という概念もなかった。

過去と未来が同じ場所に存在し、生と死が区別されず、始まりと終わりが一つの輪になっていた。

その中心に――何かがいた。

巨大な影。

あるいは、影と呼ぶことさえできない何か。

それを見た瞬間、女の表情が変わった。

初めて。

本当に初めて、彼女の顔に感情らしきものが浮かんだ。

畏怖。

懐かしさ。

そして、ほんのわずかな恐怖。

「……ああ」

女は呟いた。

「あなた、だったのね」

宇宙の中心にいるものは、答えなかった。

答える必要がなかった。

それは言葉を用いずとも、意思を伝えることができた。

いや。

意思という言葉さえ、人間の理解に合わせた表現に過ぎない。

女の頭の中に、膨大な情報が流れ込んだ。

人類の誕生。

文明の発展。

戦争。

災害。

個性の出現。

そして、かつて世界を恐怖に陥れた一人の男の最期。

すべてが、同時に押し寄せてくる。

女は片膝をついた。

身体が震えたわけではない。

彼女は、理解したのだ。

自分が何をすべきなのか。

自分が何のために目覚めたのか。

「……そう」

彼女は顔を上げた。

そこに、先ほどまでの戸惑いはなかった。

「あなたの駒は、もういない」

その言葉を、彼女は報告として捧げた。

「オール・フォー・ワン。あなたが人間たちの中に置いた、あの男は……すでに滅んでいる」

宇宙の中心で、何かが揺らいだ。

星々が一斉に明滅する。

それは怒りだったのか。

失望だったのか。

あるいは、単なる観測の変化だったのか。

女には判別できなかった。

ただ一つ、伝わってきたものがある。

次を。

言葉ではない。

命令ですらない。

それは、世界そのものに刻み込まれた要求だった。

空席を埋めろ。

計画を進めろ。

人間たちを、次の段階へ導け。

女は目を伏せた。

「承知したわ」

そして、顔を上げる。

「今度は、私が選ぶ」

その宣言に、宇宙は何も答えなかった。

女は立ち上がり、門の外へと歩み出した。

彼女の足元で、空間がひび割れていく。

星々が遠ざかり、黒い門が閉じていく。

最後に見えたのは、宇宙の中心にある巨大な影だった。

女は、その影を見つめながら呟いた。

「人間は、どこまで進んだのかしら」

門が閉じる。

闇が戻る。

そして、南極の地下に、再び静寂が訪れた。

ただし、それは以前と同じ静寂ではなかった。

死神が目覚めた後の静寂。

嵐が訪れる直前の静寂。

世界が、自らの運命を知らぬまま最後の平穏を享受する、その始まりだった。

* * *

南極大陸。

地表。

暴風が吹き荒れていた。

視界は白一色。

気温は氷点下数十度。

人間が防寒装備なしで長時間活動すれば、数分と経たずに命を落とす環境だ。

その雪原に、一人の女が立っていた。

白い衣をまとい、裸足で雪の上に立つ女。

風は彼女の髪を揺らさない。

雪は彼女の身体に触れる前に消えてしまう。

寒さも、重力も、空気の薄さも、彼女にとっては意味を持たなかった。

彼女は空を見上げた。

どんよりと曇った空。

その向こうに、太陽がある。

彼女は太陽を見つめ、ゆっくりと目を細めた。

「眩しいわね」

それは、彼女がこの世界で口にした最初の、あまりにも人間らしい感想だった。

だが、次の瞬間には、その表情も消えていた。

彼女の視線が、南極の遥か彼方へと向けられる。

距離など関係ない。

地球の裏側にある街も。

その街で暮らす人間たちも。

彼らの胸の内に秘められた恐怖も、希望も、罪も。

彼女は望めば、それらの一端を知ることができた。

しかし、今の彼女に必要なのは世界のすべてではない。

一人の男。

彼女がかつて、駒として利用した男。

世界の裏側で暗躍し、幾多の人間を踏み台にし、ついには自分自身の欲望に呑まれて滅んだ男。

オール・フォー・ワン。

「どこにいるの?」

女は問いかけた。

返答はなかった。

当然だ。

死者は答えない。

少なくとも、普通の死者は。

女は片手を持ち上げた。

白い指先に、黒い光が灯る。

それは炎のように揺らめきながら、やがて無数の細い糸へと分かれていった。

糸は風に逆らって伸びていく。

大気を貫き、地表を越え、海を越え、世界中へと広がっていく。

一本一本が、死者の痕跡を探していた。

墓地。

火葬場。

戦場跡。

崩落した建物の地下。

海底に沈んだ船。

記録から消された実験施設。

名前を与えられることもなく死んでいった人々の、最後の残滓。

それらが女の意識に触れ、瞬時に通り過ぎていく。

そして。

「…………あら?」

女の手が止まった。

見つからない。

おかしい。

死者の痕跡は、確かに存在する。

彼が生きていたという事実も、世界に残した影響も、彼を知る者たちの記憶も、何一つとして消えてはいない。

それなのに。

彼の魂に届くはずの糸だけが、途中で途切れていた。

いや、途切れているのではない。

そこには、もう何もなかった。

残骸すらない。

復元するための欠片もない。

彼という存在が、ある一点を境に世界から切り離されていた。

女は初めて、眉をひそめた。

「消された……?」

死者が蘇らないこと自体は、不思議ではない。

死は終わりだ。

生き物が生まれ、命を燃やし、最後には失われる。

それがこの世界に定められた法則である。

だが、彼の場合は違った。

死んだのではない。

ただ殺されたのでもない。

彼は、存在そのものを否定されていた。

それを成し遂げた人間がいる。

人間の力で。

個性という、人間たちが誇り、恐れ、時には神の恩寵とさえ呼ぶ力で。

女はしばらく沈黙した。

やがて、唇から小さな笑みがこぼれた。

「ふふ……」

笑っていた。

心の底から楽しそうに。

「やるじゃない、人間」

その笑みは、称賛だったのか。

それとも侮蔑だったのか。

彼女自身にも、まだ区別はつかなかった。

「私が眠っている間に、ずいぶん面白いことになったのね」

女は片手を下ろした。

そして、ゆっくりと歩き始める。

雪原に足跡は残らなかった。

「なら、確かめてみましょう」

何を。

誰を。

その答えは、彼女の中ですでに決まっていた。

死者を呼び戻す。

失われたものを、再びこの世界に立たせる。

そして、彼らを通じて、人間たちが何を成し遂げたのかを確かめる。

それが、彼女に与えられた役割だった。

だが、彼女はまだ知らない。

死者を呼び戻すことが、どれほど多くの人間を傷つけるのか。

愛する者を失った人間が、再会をどれほど望んでいるのか。

そして、死者が戻ってきたとき、生きている者たちがどれほど残酷な選択を迫られるのか。

死神は、死を知っている。

けれど、生きている者の痛みを理解しているとは限らなかった。

* * *

十三週間前。

日本。

公安委員会地下特別記録室。

そこは、かつての敵連合やオール・フォー・ワンに関する資料のうち、一般公開が許されないものを保管する施設だった。

壁は厚い。

通信は制限されている。

外部からの侵入を防ぐため、複数の防護システムが稼働していた。

その一室で、老いた職員がモニターを見つめていた。

画面には、膨大な記録が表示されている。

過去の犯罪記録。

個性の分析資料。

ヒーローたちの戦闘映像。

そして、オール・フォー・ワンの最終決戦に関する機密文書。

職員は、記録の一つを開いた。

緑谷出久。

かつて、世界を救った少年。

その名前を目にした瞬間、職員は小さく息を吐いた。

「……あの戦いから、もう十二年か」

時間が経つのは早い。

あの日、世界は終わりかけた。

数えきれない人々が傷つき、数えきれないものが失われた。

それでも人々は生き残り、復興し、新しい日常を築き上げた。

英雄たちは次の世代を育て、かつての敵の中にも、罪を償おうとする者たちが現れた。

完璧な世界ではない。

犯罪はなくならない。

差別も、偏見も、貧困も、争いも残っている。

それでも、以前よりは良くなった。

そう信じられるだけの年月が、積み重なっていた。

職員は画面を閉じようとした。

そのときだった。

モニターが、一瞬だけ暗転した。

「ん?」

彼はキーボードを操作した。

画面が復帰する。

異常はない。

ログにも記録されていない。

職員は首を傾げたが、すぐに気を取り直した。

長時間の勤務で目が疲れているのだろう。

そう考え、椅子から立ち上がる。

そして、背後のガラスに映った自分の姿を見た。

そこには、職員の姿が映っていた。

当然だ。

しかし。

その背後に、もう一人、誰かが立っていた。

職員は凍りついた。

振り返る。

誰もいない。

もう一度、ガラスを見る。

やはり、自分しか映っていない。

「…………疲れているな」

彼はそう呟いた。

その声が、地下室に虚しく響いた。

だが、彼は気づかなかった。

机の上に置かれた一枚の資料。

オール・フォー・ワンの最終戦闘記録。

その端に、黒い染みが浮かんでいたことに。

染みは、まるで生き物のようにゆっくりと広がっていく。

そして、資料の文字を一つずつ呑み込んでいった。

『個性の強奪』

『生命活動の停止』

『存在の消滅』

最後に、黒い染みは一つの名前の上で止まった。

――オール・フォー・ワン。

次の瞬間。

紙の表面に、細い亀裂が走った。

それは、紙にできるはずのない亀裂だった。

まるで、その資料の向こう側に、別の世界が存在しているかのように。

亀裂の奥から、かすかな声が聞こえた。

『……まだ……』

声は途切れた。

続きは聞こえなかった。

黒い染みが消える。

資料は、元通りになった。

何事もなかったかのように。

* * *

同じ頃。

南極大陸から遠く離れた、とある国の墓地。

そこでは、幼い少女が花を手向けていた。

墓石に刻まれているのは、父親の名前だった。

少女の父親は、数年前の災害で命を落としていた。

救助活動に参加し、崩落した建物の中に取り残された人々を助けようとして、帰らぬ人となったのだ。

少女は父親のことを覚えていた。

優しかった手。

大きな背中。

寝る前に読んでくれた絵本。

誕生日に買ってくれた、少し不格好なぬいぐるみ。

もう二度と会えない。

その事実を理解するには、少女はまだ幼すぎた。

だから、少女は毎週ここへ来ていた。

花を供えて。

今日あったことを話して。

返事がなくても、父親が聞いてくれていると信じながら。

「ねえ、パパ」

少女は墓石に頬を寄せた。

「わたし、きょうね、じてんしゃに乗れたんだよ」

少し前まで、補助輪がなければ乗れなかった。

何度も転んだ。

膝を擦りむいた。

それでも練習した。

母親は何度も褒めてくれたが、少女は本当は父親にも見てほしかった。

「今度、もっと速く走れるようになるからね」

返事はない。

それでも少女は笑った。

「だから……」

言葉が途切れた。

少女は俯いた。

「だから、パパも、見ててね」

風が吹いた。

花弁が一枚、墓石の上を滑っていく。

その瞬間。

墓地の地面が、かすかに震えた。

少女は顔を上げた。

「……地震?」

周囲を見回す。

墓石が揺れたようには見えない。

木々も動いていない。

気のせいだったのかもしれない。

そう思い、少女は立ち上がった。

帰ろうとした、そのとき。

背後で音がした。

こつん。

何かが、石に当たったような音。

少女は振り返った。

父親の墓石。

その下にある土が、ほんのわずかに盛り上がっていた。

「…………え?」

少女は一歩、後ずさった。

土の表面に、黒い筋が浮かんでいる。

血管のような筋だった。

それは墓石の根元から伸び、地面の下へと潜り込んでいく。

少女にはわからなかった。

それが何なのか。

なぜ、こんなことが起きているのか。

ただ、本能的に恐怖を覚えた。

「ママ……?」

その声に答える者はいない。

黒い筋が、一瞬だけ脈打った。

そして、消えた。

墓地は再び静まり返った。

少女はしばらく動けなかった。

やがて、震える足で墓地を後にした。

その日、少女は母親に何も話さなかった。

自分でも、何を見たのか理解できなかったからだ。

ただ、その夜。

少女は夢を見た。

父親が、いつものように自分を抱き上げてくれる夢。

大きな手で頭を撫でてくれる夢。

そして、耳元で囁く夢。

――もうすぐ、会えるよ。

少女は笑った。

夢の中で、幸せそうに。

その夢が、何を意味するのかも知らずに。

* * *

南極大陸。

死神は、氷の大地を歩いていた。

その足取りはゆっくりとしていた。

急ぐ必要がなかったからだ。

時間は、彼女にとって絶対的な制約ではない。

十三週間という期間も、人間からすれば長い時間だろう。

だが、彼女にとっては、ほんの短い瞬きに過ぎなかった。

それでも彼女は、急いでいた。

世界に何が起きているのか。

人間たちが何を成し遂げたのか。

そして、オール・フォー・ワンを滅ぼした者が、どのような存在なのか。

それを知る必要があった。

彼女は空中に手を伸ばした。

すると、何もない場所に黒い円が生まれた。

円の向こう側に、無数の映像が浮かび上がる。

街並み。

人々。

ヒーローたち。

かつての戦場。

個性を使う者たちの姿。

その一つ一つを、死神は観察した。

「個性……」

彼女は、その言葉を口にした。

人間たちが自分たちの力をそう呼んでいることは知っていた。

身体から炎を出す者。

氷を操る者。

他者の姿を模倣する者。

物体を複製する者。

触れたものを分解し、再構築する者。

人間という種が、かつて持っていなかったはずの力。

それらは偶然の産物ではなかった。

少なくとも、彼女はそう理解していた。

「あなたは、本当に人間を変えてしまったのね」

彼女は、誰にともなく呟いた。

遠い昔。

人類は、あまりにも脆弱な生き物だった。

鋭い爪もない。

強靭な牙もない。

自然の脅威に対抗するためには、知恵と道具と、集団での協力に頼るしかなかった。

それでも、人類は生き延びた。

火を使い、言葉を生み、文明を築いた。

やがて、自らの身体そのものを変化させる力を得た。

個性。

それは、人間にとって奇跡だった。

同時に、呪いでもあった。

力を持つ者と、持たざる者。

他者を救える者と、他者を傷つける者。

生まれながらにして与えられた差異は、人間たちの社会に新たな境界を生み出した。

力があるから尊敬される者がいる。

力があるから恐れられる者がいる。

力がないから見下される者がいる。

力がないから、誰かに助けを求めることすら許されない者がいる。

人間は進化した。

だが、進化したからといって、過去の過ちを克服できたわけではなかった。

死神は、それを知っていた。

彼女は何度も、人類の歴史を見てきた。

争いを。

殺戮を。

復讐を。

愛を。

そして、愛を理由にした残酷な行為を。

だからこそ、彼女には一つの疑問があった。

「あなたは……人間たちに、何を期待しているの?」

返事はない。

彼女は空中の映像に手を伸ばした。

そこに映っていたのは、一人の少年だった。

緑色の髪。

真っ直ぐな瞳。

傷だらけの身体。

そして、誰かを救おうとする意志。

緑谷出久。

オール・フォー・ワンを倒した者たちの中でも、特別な存在。

かつて、世界の命運を背負った少年。

死神は彼の姿をじっと見つめた。

「あなたが……」

彼女は呟いた。

「彼を終わらせたの?」

映像の中の少年は、仲間たちと笑っていた。

その笑顔は、戦場で見せたものとは違っていた。

どこにでもいる青年の笑顔。

大切な人たちに囲まれ、日常を生きる者の顔。

死神は、その姿に奇妙な違和感を覚えた。

かつて、彼女が知っていた英雄たちは、もっと単純だった。

敵を倒す。

人々を守る。

正義を掲げ、悪を討つ。

その構図は、いつの時代も変わらない。

しかし、この少年は違う。

彼の周囲には、かつて敵だった者たちの痕跡があった。

罪を犯した者。

多くの人間を傷つけた者。

それでも、何かを変えようとする者たち。

彼らは一つの世界で、同じ未来を生きようとしている。

それは、死神の知る英雄譚とは少し違っていた。

「……面白い」

彼女は笑った。

「あなたは、私の問いに答えてくれるかしら」

少年の映像が消える。

代わりに、無数の人間たちの姿が浮かび上がった。

彼らは皆、死者を悼んでいた。

愛する者を失った者。

友を失った者。

家族を失った者。

戦争で命を落とした者たちの遺族。

事故で帰らぬ人となった者たちの家族。

人間たちは、死者を忘れない。

墓を建て、花を供え、記念日を作り、名前を語り継ぐ。

もう会えない者たちのために、涙を流す。

その姿を見て、死神は不思議そうに首を傾げた。

「なぜ、そんなに悲しむの?」

死は、終わりだ。

生きている者は生き、死んだ者は死ぬ。

それは自然なことだ。

何も間違っていない。

なのに、人間たちは死を受け入れようとしない。

失われたものを惜しみ、元に戻そうと願い、存在しないはずの再会を夢見る。

死神には、それが理解できなかった。

いや。

理解できないはずだった。

彼女は映像の一つを選んだ。

先ほどの少女。

父親の墓前で花を手向けていた少女。

その小さな顔が、映像の中に浮かび上がる。

少女は眠っていた。

枕元には、父親から贈られたぬいぐるみが置かれている。

その腕を抱きしめながら、少女は笑っていた。

「……会いたいのね」

死神は呟いた。

その声に、ほんのわずかな変化があった。

それが何なのか、彼女自身にもわからなかった。

「会いたいなら、会わせてあげればいい」

あまりにも簡単な結論だった。

人間たちが望むものを与える。

失ったものを取り戻す。

死によって断ち切られた関係を、再び結び直す。

それは、彼女にとって不可能なことではなかった。

ただし。

死者を呼び戻すには、器が必要だった。

魂が必要だった。

そして、死という法則に逆らうための力が必要だった。

死神は、黒い円を閉じた。

「一人では、足りないわね」

彼女の視線が、遠い場所へと向けられる。

世界のあちこちに、奇妙な痕跡が散らばっていた。

かつて強大な力を振るい、死んでいった者たち。

欲望に囚われた者たち。

愛を求め、憎しみに沈み、世界を変えようとした者たち。

彼らの魂は、完全には消えていない。

世界に刻まれた執着。

叶えられなかった願い。

消えることを拒む感情。

それらは、死者を呼び戻すための足掛かりになり得る。

「そうね……」

死神は指を折りながら、名前を選び始めた。

「傲慢」

一つ目の影が、暗闇の中に浮かび上がった。

「強欲」

二つ目の影が、その隣に現れる。

「色欲」

「虚飾」

「嫉妬」

「暴食」

「怠惰」

そして、最後に。

「悲嘆」

八つの影が並んだ。

それぞれ異なる形。

異なる輪郭。

異なる執着。

それでも、共通しているものがあった。

彼らは皆、何かを求めていた。

力。

名誉。

愛。

復讐。

救済。

あるいは、自分自身が存在したという証明。

死神は八つの影を見つめた。

「あなたたちなら、きっと役に立つわ」

彼女は微笑んだ。

「死者を呼び戻すために」

影の一つが、かすかに揺れた。

まるで、その言葉に反応したかのように。

死神は気づかなかった。

影の奥に、彼女の予想とは異なる意思が潜んでいることに。

彼らは単なる道具ではない。

かつて生きていた者たちの執着は、死してなお消えていない。

呼び戻されれば、彼らは再び望むだろう。

生前に叶わなかった願いを。

失ったものを。

あるいは、自分を死に追いやった世界への復讐を。

死神は、その危険性を理解していた。

それでも、彼女は計画を進めた。

なぜなら、彼女はまだ信じていたからだ。

自分が死者を呼び戻せば、人間たちは喜ぶはずだと。

愛する者が帰ってくれば、悲しみは消えるはずだと。

失われたものが戻れば、世界は以前より幸福になるはずだと。

そして何より。

死者を取り戻すことこそが、世界にとって正しいことなのだと。

彼女は、まだ知らなかった。

人間が望む奇跡と、人間を救う奇跡は、必ずしも同じではない。

* * *

十三週間。

九十一日。

人間たちにとって、それは季節が移り変わるほどの時間だった。

その間、世界ではさまざまな出来事が起きた。

ある国では大規模な復興事業が始まり、別の国では新しいヒーロー制度が導入された。

かつて敵連合に関わった者たちの処遇を巡り、議論が起こった。

ヒーローたちは犯罪者を追い、災害から人々を救い、次の世代を育てた。

社会は少しずつ変わり続けていた。

南極の死神は、そのすべてを見ていた。

そして、少しずつ世界に手を伸ばしていった。

最初は、夢だった。

死んだ家族の姿を見る夢。

亡くした友人の声を聞く夢。

もう会えないはずの恋人に、名前を呼ばれる夢。

夢の中の死者たちは、懐かしい顔をしていた。

優しい声で話しかけてきた。

時には、生前には言えなかった言葉を口にした。

ごめんなさい。

ありがとう。

愛している。

待っていたよ。

夢を見た人々は、目を覚ますと涙を流した。

ある者は、久しぶりに笑った。

ある者は、夢の内容を忘れてしまった。

ある者は、もう一度あの夢を見たいと願った。

そして、ごく一部の者たちは、夢と現実の境目に気づき始めた。

死者が、何かを伝えようとしている。

そんな気がした。

次に起きたのは、記録の異常だった。

過去の写真に、存在しないはずの人物が写り込む。

亡くなったはずの人間の名前が、古い名簿に浮かび上がる。

焼失したはずの手紙が、封筒に入った状態で見つかる。

科学的に説明できるものもあった。

見間違いで片づけられるものもあった。

いたずらだと判断されたものもあった。

世界は、それらを一つずつ処理していった。

誰も、それらが一つの現象に繋がっているとは考えなかった。

いや。

考えた者はいた。

ヒーロー公安委員会の一部の分析官。

各国の超常現象研究機関。

個性研究の第一線にいる学者たち。

彼らは異常の発生時期を記録し、関連性を調べ始めていた。

だが、データはあまりにも断片的だった。

発生場所は世界中に散らばっている。

対象となる死者にも共通点がない。

個性の影響なのか。

集団心理なのか。

未知の犯罪なのか。

どれも決定的な証拠を欠いていた。

そして、九十一日目。

南極大陸の中心で、死神は立ち止まった。

彼女の目の前には、黒い円が浮かんでいた。

その向こうには、無数の人間たちが見える。

彼らは眠っていた。

泣いていた。

祈っていた。

死者の帰還を望んでいた。

死神は満足そうに頷いた。

「準備は整ったわ」

彼女は手を差し出した。

黒い円が、ゆっくりと広がっていく。

その縁から、細い糸が伸びる。

糸は世界へと向かい、各地に散らばった八つの影へと繋がっていった。

傲慢。

強欲。

色欲。

虚飾。

嫉妬。

暴食。

怠惰。

悲嘆。

八つの欲望が、同時に脈打つ。

そして、そのさらに奥。

八つの影とは異なる場所に、もう一つの気配があった。

死神は、そちらを見た。

そこには、怒りがあった。

世界そのものを憎むような怒り。

自分を生み出したものすべてを否定するような怒り。

それは、八つの影とは違う。

死神は、その存在を知っていた。

知っているはずだった。

だが、彼女の記憶はまだ不完全だった。

「あなたも……目覚めるのね」

その気配は答えなかった。

ただ、闇の奥で静かに蠢いていた。

死神は一瞬だけ迷った。

八つの欲望。

そして、怒り。

それらを同時に解き放てば、世界はどうなるのか。

人間たちは、耐えられるのか。

だが、迷いはすぐに消えた。

「大丈夫」

彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。

「彼らなら、きっと乗り越えられる」

誰が。

何を。

なぜ。

その問いに答える者はいなかった。

死神は、両手を広げた。

「さあ、帰っていらっしゃい」

声が、世界の果てまで響き渡る。

「あなたたちが愛した者たちのもとへ」

その瞬間。

世界各地で、異変が起きた。

墓地の土が盛り上がる。

古い戦場跡に、無数の足跡が現れる。

海底に沈んでいた船の内部で、音が響く。

閉ざされた霊安室で、モニターが一斉に乱れる。

病院の地下にある保管庫で、死者の指が動く。

そして、誰もいないはずの部屋で。

「…………ただいま」

そんな声が聞こえた。

最初に気づいたのは、墓地の管理人だった。

彼は深夜の見回り中、奇妙な音を耳にした。

土を掘る音。

何かが地面を這う音。

そして、誰かが息を吸い込む音。

彼は懐中電灯を向けた。

墓石の前に、一人の男が立っていた。

古い服。

汚れた顔。

青白い肌。

男は、自分の両手を見つめていた。

何度も握り、開き、確かめている。

管理人は声をかけた。

「……あんた、誰だ?」

男が顔を上げた。

その顔を見た瞬間、管理人は息を呑んだ。

知っている顔だった。

この墓地に眠っているはずの男。

十年前に亡くなった、近隣住民。

葬儀にも立ち会った。

墓石に名前を刻んだのも覚えている。

男は、管理人を見つめた。

その目には、何の感情もなかった。

「……俺は」

男は呟いた。

声が掠れている。

「俺は……誰だ?」

管理人は答えられなかった。

男は自分の顔を撫でた。

身体を見下ろした。

そして、もう一度、同じ言葉を繰り返した。

「俺は……誰なんだ?」

その背後で、墓石が音を立てた。

一つ。

二つ。

三つ。

次々と、土が盛り上がっていく。

管理人は後ずさった。

懐中電灯を握る手が震えていた。

「うそだろ……」

墓地の奥で、何かが起き上がる。

白い布に包まれた身体。

泥に汚れた顔。

骨ばった指。

その一つ一つが、ゆっくりと動き始める。

生きているはずのない者たちが。

死んだはずの者たちが。

次々と、地面の下から姿を現していた。

そして、そのうちの一人が空を見上げた。

雲の向こうに、月が見える。

男はしばらく月を見つめていた。

やがて、唇を動かした。

「……帰らなきゃ」

誰のもとへ。

どこへ。

それすらも、彼にはわからなかった。

ただ、身体の奥に何かが残っていた。

帰らなければならない。

会わなければならない。

取り戻さなければならない。

それが何なのか思い出せないまま、男は歩き始めた。

一歩。

また一歩。

彼の足跡が、墓地の外へと続いていく。

その足跡の先に、街の灯りがあった。

人々が暮らす街。

眠る子供たち。

帰宅する人々。

明日の予定を考える者たち。

そして、愛する者を失ったまま、今日という日を生きている人々。

彼らはまだ知らない。

死者が帰ってきたことを。

彼らが待ち望んだ奇跡が、すでに始まっていることを。

そして、その奇跡が、必ずしも幸福だけを連れてくるわけではないことを。

* * *

南極大陸。

死神は、遠く離れた世界の様子を見つめていた。

黒い円の中では、次々と死者が立ち上がっている。

泣きながら家族を探す者。

自分の名前を思い出せない者。

何もわからないまま歩き続ける者。

そして、蘇った瞬間から誰かを殺そうとする者。

そのすべてが、彼女の目に映っていた。

「…………そう」

死神は静かに頷いた。

「まだ、足りないのね」

死者を呼び戻すことはできた。

だが、戻ってきた者たちは不完全だった。

記憶が欠けている。

感情が失われている。

自分が何者だったのかさえ、わからなくなっている者もいる。

彼らは、かつて生きていた人間の姿をしている。

その声を持ち、その顔を持ち、その身体を持っている。

けれど、それだけでは足りない。

死神は、黒い円の中に映る一人の男を見つめた。

男は、暗い部屋の中に立っていた。

自分の手を見つめながら、何かを思い出そうとしている。

その顔に、一瞬だけ感情が浮かんだ。

悲しみ。

怒り。

そして、誰かへの執着。

「……ああ」

死神は呟いた。

「そういうことなのね」

死者は、ただ蘇らせればいいわけではない。

記憶を取り戻さなければならない。

自分が何者だったのか。

誰を愛していたのか。

何を憎んでいたのか。

どんな人生を歩み、どんな最期を迎えたのか。

そのすべてを取り戻さなければならない。

死神は、その仕組みを理解し始めていた。

「なら、戦わせればいい」

彼女は微笑んだ。

「生きていた頃の自分を、思い出すように」

強い刺激。

極限の状況。

かつての仲間との再会。

かつての敵との対峙。

それらは、死者の中に眠る記憶を呼び起こすだろう。

失われた人格が戻ってくる。

感情が蘇る。

執着が形を得る。

そして、彼らは再び、自分自身の意思で行動するようになる。

死神は、その先に何があるのかを考えなかった。

あるいは、考える必要がないと思っていた。

彼らが完全に蘇れば、計画は成功する。

人間たちは、愛する者たちを取り戻す。

死という絶対的な壁を越え、再び同じ世界で生きられるようになる。

それが、彼女の望みだった。

そのはずだった。

「……緑谷出久」

死神は、少年の名前を口にした。

彼なら、きっとこの異変に気づく。

彼なら、きっと死者たちを救おうとする。

そして、彼なら。

この奇跡を、否定するかもしれない。

死神は、少しだけ考えた。

もしも彼が、自分の望みを拒んだら。

もしも彼が、死者を再び眠らせようとしたら。

もしも彼が、死者を取り戻すことよりも、生きている者たちの未来を選んだら。

そのとき、自分はどうするのだろう。

彼女は、自分の手を見つめた。

白い指。

冷たい肌。

動かない心臓。

死者を呼び戻すための力。

その力を使って、何ができるのか。

何をするべきなのか。

彼女は、まだ答えを持っていなかった。

「……会ってみたいわね」

死神は、静かに微笑んだ。

「あなたが、何を選ぶのか」

黒い円が閉じる。

その向こうで、世界は混乱の始まりを迎えていた。

死者が帰ってくる。

人々は歓喜するだろう。

泣きながら抱きしめるだろう。

奇跡に感謝するだろう。

けれど、やがて気づくはずだ。

帰ってきた者たちが、必ずしも以前と同じではないことに。

そして、死者が帰ってくるということは。

生きている者たちが、もう一度、別れと向き合わなければならないということに。

死神は、南極の空を見上げた。

雲の隙間から、わずかな光が差し込んでいる。

彼女は、その光を見つめながら呟いた。

「さあ……始めましょう」

誰に向けた言葉なのか。

世界に向けたものか。

死者たちに向けたものか。

それとも、遠い宇宙の中心にいる何かに向けたものか。

その答えは、まだ誰にもわからなかった。

ただ一つ、確かなことがある。

十三週間後。

人々が亡き者たちを悼むために集う日。

世界が英雄たちの功績を讃え、失われた命を記憶する日。

その日、死者たちは再び人々の前に姿を現す。

奇跡として。

災厄として。

そして、誰もが避けられない問いとして。

――死者を取り戻すことは、本当に正しいのか。

その答えを求める戦いが、もう始まっていた。

――第二話・了

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