序章 世界で最も古い約束
少女は、夢を見ていた。
夢の中には、家があった。
小さな家だった。
玄関の扉は少し歪んでいて、雨が降ると窓の隙間から風が吹き込んだ。廊下の床板は、奥から三枚目だけが軋む。台所の時計は五分遅れていて、母親は何度直しても、いつの間にかそのままにしてしまう。
特別な家ではない。
世界を救う英雄の住む家でもなければ、歴史に名を残す偉人の生家でもない。
ただ、誰かが朝食を作り、誰かが寝坊し、誰かが宿題を忘れ、誰かが叱られる。
そんな、どこにでもある家だった。
少女は、その家が好きだった。
大好きだった。
だからこそ、夢を見るたびに胸が痛んだ。
そこには、いつも三人の子どもがいた。
一人目は、緑色の瞳を持つ少年。
二人目も、緑色の瞳を持つ少年。
三人目は、二人より少しだけ背が低い少女だった。
三人は、同じ食卓を囲んでいた。
「お兄ちゃん、おかわり!」
少女が茶碗を差し出す。
「自分でよそいなよ」
少年が笑う。
「届かない!」
「届くでしょ。さっき棚からお菓子取ってたじゃないか」
「それとこれとは違うの!」
「何が違うんだよ……」
呆れた顔をする少年。
その横で、もう一人の少年が吹き出した。
「兄ちゃん、妹にくらい優しくしてあげなよ」
「君が甘やかすから、こうなるんだよ!」
「えー、僕のせい?」
「そうだよ!」
「二人とも、うるさい!」
少女は頬を膨らませた。
三人で笑った。
母親が、台所から顔を出した。
「こらこら。ご飯の時間は、仲良く食べなさい」
「はーい!」
三人の声が重なる。
母親は微笑んだ。
窓の外では、夕日が沈んでいた。
何も特別なことのない一日。
けれど、少女は知っていた。
この景色が、永遠には続かないことを。
なぜ知っているのかは分からない。
夢の中の自分は、いつも何かを知っていた。
この家が、いつか消えること。
食卓の椅子が、一つずつ空いていくこと。
兄たちの顔を、少しずつ思い出せなくなること。
そして最後には。
自分の名前さえ、分からなくなること。
それでも少女は、笑っていた。
笑わなければ、兄たちが心配するから。
泣けば、兄たちは自分を守ろうとするから。
自分を守るために、兄たちが傷つくから。
だから、少女は笑った。
「ねえ、お兄ちゃん」
食卓の向こうに座る少年へ、少女は尋ねた。
「もし、私がいなくなったら、どうする?」
少年は、箸を止めた。
「……何だよ、急に」
「もしもの話!」
「そんなこと、考えなくていいよ」
「でも!」
少女は身を乗り出した。
「もしもだよ。もし、私がいなくなったら?」
少年は困ったように笑った。
そして、何でもないことのように答えた。
「迎えに行くよ」
少女は目を見開いた。
「……どこまで?」
「どこまででも」
「世界の果てまで?」
「うん」
「世界がなくなっても?」
少年は、少しだけ考えた。
そして、少女の頭を撫でた。
「世界がなくなったら、また作ればいい」
その隣で、もう一人の少年が笑った。
「兄ちゃん、それはさすがに無理だよ」
「何で?」
「世界を作るなんて、神様じゃないんだから」
「じゃあ、神様に頼めばいい」
「神様が断ったら?」
「断られないように説得する」
「……兄ちゃん、すごいな」
二人は笑った。
少女も笑った。
けれど、その言葉だけは。
何度世界が変わっても。
何度記憶が消えても。
何度、自分の存在が失われても。
少女の心から、消えなかった。
――迎えに行くよ。
――どこまででも。
その約束だけが、彼女を世界につなぎ止めていた。
そして、夢の終わり。
家が崩れていく。
食卓が消える。
三つの椅子が、白い光に呑まれる。
少女は、一人きりになった。
目の前には、黒い亀裂が広がっていた。
向こう側には、無数の世界が見える。
無数の緑色の瞳。
無数の少年。
無数の死。
そして、そのすべての中心に。
一人の少年が立っていた。
彼は、自分の名前を忘れていた。
少女は、駆け寄ろうとした。
しかし、足が動かない。
「お兄ちゃん!」
叫んでも、声が届かない。
「お兄ちゃん、待って!」
少年が振り向く。
その顔は、涙で濡れていた。
「……ごめん」
彼は言った。
「今度も、迎えに行けなかった」
少女は、首を横に振った。
違う。
違うよ。
迎えに来てくれた。
何度も。
何度も、何度も。
だから、今度は。
「……私が行くよ」
少女は、笑った。
「今度は、私が迎えに行くから」
その瞬間。
夢が砕けた。
第一節 目覚めた少女
午前三時二十六分。
少女は、目を覚ました。
「……っ!」
息ができない。
胸が苦しい。
喉が焼けるように痛む。
彼女は、ベッドの上で身体を丸めた。
しばらく、呼吸だけを繰り返した。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
夢の内容は、覚えている。
夢の中で何を見たのかも。
誰と話したのかも。
誰を探していたのかも。
全部、覚えている。
それなのに。
「……お兄ちゃん」
声に出した瞬間、涙が溢れた。
会いたい。
ただ、会いたい。
顔を見たい。
声を聞きたい。
名前を呼びたい。
そして、できることなら。
もう一度だけ、あの食卓に帰りたい。
少女は、自分の手首を見た。
白い布のブレスレット。
少し古びている。
端はほつれ、ところどころに小さな染みがあった。
それでも、切れてはいなかった。
少女はブレスレットを握り締めた。
「……まだ、ある」
彼女は呟いた。
「まだ、残ってる」
ブレスレットの裏側には、小さな文字が縫い込まれていた。
何度も解け、何度も縫い直された跡がある。
それでも、文字は残っていた。
『三人で帰る』
少女は、その文字を指先でなぞった。
「……うん」
涙を拭う。
「約束したもんね」
そのとき、部屋の壁に黒い亀裂が走った。
少女は顔を上げた。
驚かなかった。
むしろ、ようやく来たか、という顔をしていた。
「遅かったね」
亀裂の向こうから、声がした。
『対象個体を確認』
『未登録個体』
『記録照合、失敗』
『存在証明、失敗』
『名前の復元、失敗』
少女は、ベッドから降りた。
「……そう」
彼女は、裸足のまま床に立った。
「まだ、私の名前は見つからないんだね」
『対象個体に質問します』
『あなたは、誰ですか』
少女は、微笑んだ。
「私はね」
一歩、亀裂へ近づく。
「お兄ちゃんの妹だよ」
『回答を受理できません』
「どうして?」
『対象個体との血縁関係を確認できません』
少女は、首を傾げた。
「血が繋がっていなかったら、家族じゃないの?」
『回答不能』
「じゃあ、名前がなかったら、人間じゃないの?」
『回答不能』
「じゃあ、誰かが私のことを忘れたら、私はいなくなるの?」
『回答不能』
少女は笑った。
「……そっか」
彼女は、亀裂に手を伸ばした。
指先が黒い線に触れる。
冷たい。
だが、痛みはなかった。
「あなたたちは、何も知らないんだね」
『対象個体の発言を記録』
『対象個体の発言を分析』
『対象個体の――』
「もういいよ」
少女は、静かに言った。
「私は、自分のことを自分で決めるから」
亀裂の向こうで、何かが動いた。
無数の目が、少女を見つめている。
その奥に、巨大な存在の気配があった。
少女は、それを見上げた。
恐怖はなかった。
怒りもなかった。
ただ、ひどく疲れていた。
「……ねえ」
少女は問いかけた。
「お兄ちゃんたちを、返して」
返事はない。
「私から、何度も奪ったでしょう?」
亀裂が、わずかに広がった。
「名前を奪った。記憶を奪った。帰る場所を奪った」
少女は、手首のブレスレットを握り締めた。
「それでも、私たちは諦めなかった」
声が震えた。
「何度世界をやり直されても、何度記録を消されても、何度お兄ちゃんが死んでも……」
彼女は、涙を流した。
「私たちは、三人で帰ろうとしたんだよ」
黒い亀裂の向こうから、声が返ってきた。
『三人の同一性は、不一致』
『三人の統合は、失敗』
『再構築において、犠牲は不可避』
少女は、目を閉じた。
「……違う」
小さな声だった。
しかし、はっきりとしていた。
「犠牲なんて、必要ない」
彼女は目を開けた。
「あなたたちが、そう決めただけ」
その瞬間。
少女の手首のブレスレットが、淡く光った。
白い光。
その光は、亀裂の黒を押し返すように広がった。
『警告』
『未知の因果関係を検出』
『観測対象外の記憶が――』
「私は、もう逃げない」
少女は、光の中へ手を伸ばした。
「お兄ちゃんが迎えに来てくれた世界を、今度は私が迎えに行く」
そして、少女は一歩踏み出した。
亀裂の向こうへ。
世界と世界の隙間へ。
名前を奪われた者たちが、存在を失いながらも、最後まで手放さなかった約束の中へ。
少女は、姿を消した。
部屋には、誰もいなくなった。
ただ、ベッドの上に、一枚の写真だけが残っていた。
三人の子どもが写っている。
真ん中にいるのは、緑色の瞳を持つ少年。
その左右に、もう一人の少年と少女。
写真の裏には、文字があった。
『三人で帰る』
その下に、新しい文字が浮かび上がった。
『今度は、私が迎えに行く』
第二節 兄を選ぶ世界
雄英高校、地下医療区画。
「……今のは、何だったんだ」
爆豪勝己の声が、低く響いた。
医療モニターに映っていた無数の出久たちは、すでに消えていた。
黒い亀裂も、壁から引いている。
しかし、誰も安心していなかった。
ベッドの上には、名前のない少年が座っていた。
その顔は、青白い。
目は赤く腫れている。
そして、出久の手を握る指先が、微かに震えていた。
「……妹が」
少年は、呟いた。
「妹が、来る」
出久は、彼を見た。
「……さっきの映像にいた子?」
少年は頷いた。
「……うん」
「君の妹なの?」
「……そうだよ」
その答えは、先ほどよりも確かだった。
「僕たちの妹だ」
出久の胸が、強く締めつけられた。
「……僕たちの?」
「うん」
少年は、ゆっくりと話し始めた。
「僕たちは、三人だった」
「……」
「いつから三人だったのかは、覚えていない。最初からだったのか、途中からだったのか。それすら、もう分からない」
少年は、自分の手を見つめた。
「でも、妹はいたんだ」
その声に、確かな温かさが宿った。
「僕たちが喧嘩したら、間に入ってきた。僕たちが泣いていたら、両方の手を握ってくれた。どちらかが自分を犠牲にしようとしたら、ものすごく怒った」
少年は、少しだけ笑った。
「……僕たちより、ずっと強かったんだ」
出久は、その言葉を胸に刻んだ。
「……名前は?」
少年の笑顔が消えた。
「……」
「妹の名前も、消されているの?」
少年は頷いた。
「僕が自分の名前を消したとき……妹の名前も、巻き込まれたんだと思う」
「どうして?」
「……分からない」
少年は、苦しそうに首を振った。
「僕は、二人を守るつもりだった。僕がいなくなれば、君と妹は、どちらか一人を選ばなくてもよくなると思った」
「……」
「でも、僕が消えたことで、妹まで世界から切り離された」
少年は、目を閉じた。
「……僕は、また間違えたんだ」
出久は、すぐに否定しなかった。
安易に「そんなことない」と言うのは、違う気がした。
少年は、自分の選択を悔いている。
その選択によって、妹が苦しんだことを知っている。
その痛みを、誰かの言葉だけで消すことはできない。
だから、出久は尋ねた。
「……君は、妹を助けたい?」
少年は、顔を上げた。
「……もちろん」
「自分が消えても?」
少年は、答えられなかった。
出久は、続けた。
「妹を助けるためなら、自分が消えてもいいと思っている?」
「……」
「もしそうなら、僕は反対する」
少年の目が見開かれた。
「……どうして?」
「だって、それじゃあ、妹がまた悲しむから」
出久は、少年の手を握り返した。
「君が消えたら、妹は君を探す。君を探して、君を見つけて、君を助けようとする」
少年は、息を呑んだ。
「そして、君はきっと、妹を守るために自分を犠牲にしようとする」
出久は、苦笑した。
「……僕たち、似ているんだね」
少年は、何も言えなかった。
「だから、もうやめよう」
出久は、まっすぐに彼を見つめた。
「誰か一人が犠牲になることで、残りの人が幸せになるなんて、そんな未来を正解にしない」
少年の瞳が揺れた。
「……でも」
「うん」
「僕たちが三人とも生きる方法なんて……」
「探そう」
出久は答えた。
「三人とも生きる方法を」
少年は、出久を見つめた。
「……そんなの、あるのかな」
「分からない」
出久は、正直に答えた。
「でも、最初から諦めたくない」
その言葉を聞いた瞬間、少年は顔を覆った。
「……本当に」
声が震える。
「……本当に、君は……」
言葉が続かない。
出久は、何も言わずに待った。
しばらくして、少年は顔を上げた。
涙で濡れた顔に、わずかな笑みが浮かんでいた。
「……そうだったね」
彼は呟いた。
「君は、そういう人だった」
その瞬間、医療モニターが点滅した。
【仮登録された兄弟関係を検証】
【検証対象:緑谷出久】
【検証対象:未登録個体】
【第三対象の接近を検出】
【再構築条件を更新します】
文字が切り替わる。
【兄:未登録】
【弟:緑谷出久】
【妹:未登録】
【三者の関係:不確定】
そして。
【統合対象:三名】
【残存可能数:二名】
爆豪が、モニターを殴りつけた。
「ふざけんな!」
拳が画面を貫いた。
火花が散る。
「何が残存可能数だ! 勝手に人間の数を決めてんじゃねえ!」
轟が、爆豪の肩を掴んだ。
「落ち着け。壊しても、別の場所に出るだけかもしれない」
「分かってる!」
爆豪は、歯を食いしばった。
「分かってるから腹が立つんだよ!」
相澤は、壊れたモニターを見つめていた。
「……第三対象の接近を検出、か」
「妹が来るということですか?」
飯田が尋ねた。
「そう考えるのが自然だ」
相澤は、少年に向き直った。
「一つ聞く。妹が現れた場合、何が起きる?」
少年は、顔を伏せた。
「……分からない」
「分からない、では困る」
「……本当に、分からないんです」
少年は、拳を握った。
「妹は、僕たちを助けようとしている。だけど……」
「だけど?」
少年は、出久を見た。
「……妹が来たら、世界は三人を同時に認識してしまう」
相澤の表情が険しくなる。
「それが問題なのか?」
「はい」
少年は頷いた。
「今までは、僕たち三人のうち、誰か一人が記録から消えていました。だから、世界は二人分の存在しか処理しなくてよかった」
「……」
「でも、妹が僕たちを見つけたら……」
少年の声が震えた。
「三人とも、自分が誰なのかを思い出してしまう」
出久は、息を呑んだ。
「それが、いけないことなの?」
少年は、ゆっくりと頷いた。
「……三人の記憶が揃った瞬間、世界は再構築を始める」
「なぜだ?」
「……三人が、同じ約束を思い出すからです」
少年は、出久の手を握り締めた。
「『三人で帰る』という約束を」
その瞬間。
世界のどこかで、巨大な鐘が鳴った。
誰も聞いたことのない音だった。
低く。
長く。
地の底から響いてくるような音。
雄英高校の窓が震えた。
街灯が一斉に消えた。
遠くの空に、黒い亀裂が走った。
そして、すべての電子機器に、同じ文字が表示された。
【第三対象が、世界の境界を通過しました】
【三者の記憶が接続されます】
【再構築まで、残り六十一時間】
第三節 妹が最初に訪れた場所
午前三時四十分。
雄英高校から約八百キロ離れた、とある地方都市。
古びた商店街の片隅に、一軒の小さな写真館があった。
看板の文字は、半分が剥がれている。
店先のガラスには、色褪せた家族写真が並んでいた。
店主は、七十代の男性だった。
彼は、夜中に響いた鐘の音で目を覚ました。
「……何だ、今のは」
窓を開ける。
街は静かだった。
誰も歩いていない。
車の音も聞こえない。
ただ、商店街の向こうに、一人の少女が立っていた。
白い服。
黒い髪。
手首には、白い布のブレスレット。
少女は、店主を見つけると、ゆっくりと頭を下げた。
「……こんばんは」
店主は、眉を寄せた。
「こんな時間に、どうしたんだい?」
少女は、少しだけ笑った。
「お願いがあるんです」
「お願い?」
「写真を、撮ってほしいんです」
店主は困ったように笑った。
「写真? 今からかい?」
「はい」
「……家族写真か何かかね?」
少女は頷いた。
「家族写真です」
その答えに、店主は不思議そうな顔をした。
「ご家族は、どこに?」
少女は、空を見上げた。
黒い亀裂が、夜空を横切っている。
「……迎えに行くんです」
「迎えに?」
「はい」
少女は、店主を見た。
「まだ、全員が揃っていないから」
店主は、何かを言おうとした。
しかし、言葉が出なかった。
少女の目を見た瞬間、胸の奥が痛んだのだ。
長い間、誰かを待ち続けた人間の目だった。
そして、何かを失った人間の目でもあった。
店主は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
彼は店の鍵を開けた。
「入っておいで」
少女は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
店の中は、古い薬品と紙の匂いがした。
壁には、数え切れないほどの写真が飾られている。
結婚式。
七五三。
入学式。
卒業式。
還暦祝い。
家族の記念日。
人々が生きた証。
人々が、誰かと一緒にいた証。
少女は、写真を一枚ずつ見つめた。
「……いい写真ですね」
「そうかい?」
店主は、少し照れたように笑った。
「写真ってのは、不思議なもんでね。撮ったときには、何でもない一日だと思っていても、何十年も経つと、その一枚が宝物になる」
彼は、壁の写真を見た。
「もう会えない人が写っていることもある。喧嘩して口も利かなかった時期の写真もある。写真を撮ったあと、家族がばらばらになったこともある」
少女は、静かに聞いていた。
「それでも、写真は残るんだよ」
店主は言った。
「そのとき、確かに一緒にいたってことだけは、残る」
少女は、手首のブレスレットを握り締めた。
「……そうですね」
店主は、カメラを用意した。
「それで、誰を撮るんだい?」
少女は、答えた。
「私と、お兄ちゃんたちです」
「……三人かい?」
「はい」
「今は、ここにはいないんだろう?」
「はい」
店主は、不思議そうに首を傾げた。
「それじゃあ、どうやって撮るんだい?」
少女は、微笑んだ。
「……一緒に帰ったら、撮ってください」
店主は、しばらく少女を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「分かった」
少女は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
店主は、何気なく尋ねた。
「ところで、お嬢ちゃん。名前は?」
少女の笑顔が、止まった。
店主は、慌てて手を振った。
「いや、言いたくなければいいんだ。無理に聞くつもりはないよ」
少女は、首を横に振った。
「……違うんです」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「私、名前を覚えていないんです」
店主は、言葉を失った。
少女は、笑おうとした。
「でも、大丈夫です」
涙が溢れた。
「お兄ちゃんたちが、きっと思い出してくれるから」
その瞬間。
店内の壁に飾られていた写真が、一斉に揺れた。
一枚の写真が、額縁から落ちた。
店主が拾い上げる。
そこには、三人の子どもが写っていた。
緑色の瞳を持つ少年が二人。
その間に、白い布のブレスレットを身につけた少女。
写真の裏には、文字が書かれていた。
『三人で帰る』
店主は、息を呑んだ。
「……これは」
少女が振り向いた。
写真を見た瞬間、彼女の目から涙が溢れた。
「……ああ」
震える声。
「……あったんだ」
彼女は、写真を受け取った。
「まだ、あったんだ……!」
少女は、写真を抱き締めた。
その瞬間、写真の中の少年たちが、微かに動いた。
片方の少年が笑う。
もう片方の少年が、少女の頭を撫でる。
そして、二人の口が、同時に動いた。
『おかえり』
少女は、声を上げて泣いた。
「……ただいま」
その声が、写真館に響いた。
店主は、何も言わず、少女の背中を見守っていた。
そして、静かに気づいた。
自分の手の中に、別の写真があることに。
見覚えのない写真だった。
そこには、一人の少年が写っていた。
緑色の瞳。
黒髪。
見覚えのある顔。
店主は、眉を寄せた。
「……この子は」
写真の裏を見た。
そこには、名前が書かれていた。
しかし、文字は途中で途切れていた。
『緑谷――』
その下に、別の文字が浮かび上がる。
『兄』
店主は、息を止めた。
写真の少年が、こちらを見ていた。
そして、口を動かした。
『……妹を、頼みます』
店主は、写真を取り落とした。
写真が床に落ちる。
その瞬間、店内の照明が消えた。
暗闇の中で、少女の声がした。
「……見つけた」
そして、少女は姿を消した。
第四節 兄の名前を呼ぶ者
午前四時。
雄英高校、地下医療区画。
「……先生」
出久は、ベッドの少年から目を離さなかった。
「今、妹がどこかにいるんですよね」
相澤は頷いた。
「その可能性が高い」
「……探さないと」
「当然だ。だが、無闇に動くな。世界中で異常が起きている。少女がどこにいるのかも、どんな能力を持っているのかも分からない」
「……はい」
出久は頷いた。
しかし、目は揺れていた。
会いたい。
妹に会いたい。
名前を呼びたい。
自分が覚えていない約束を、もう一度確かめたい。
その気持ちは、抑えようとしても抑えられなかった。
少年が、出久の手を握った。
「……出久」
「うん」
「妹に会ったら……」
少年は、苦しそうに言った。
「……僕を、許してくれって伝えてほしい」
出久は首を横に振った。
「それは、自分で伝えよう」
「……」
「君が、直接」
少年は、目を閉じた。
「……そうだね」
その声には、疲れがあった。
長い時間、何度も同じ失敗を繰り返してきた人間の疲れ。
そして、もう一度だけやり直したいと願う人間の、かすかな希望。
「……出久」
「うん」
「もし、妹が僕を許さなかったら……」
少年は、言葉を切った。
「……どうする?」
出久は、少しだけ考えた。
そして、答えた。
「……許してもらえるまで、謝ろう」
少年は、目を見開いた。
「……」
「でも、許してもらうために謝るんじゃない」
出久は、少年の手を握り締めた。
「自分が何をしたのか、ちゃんと向き合うために謝るんだ」
少年は、何も言わなかった。
出久は続けた。
「それで、もし妹が怒っていたら、怒っている理由を聞こう。悲しんでいたら、悲しんでいる理由を聞こう」
彼は、微笑んだ。
「……僕たち、家族なんでしょう?」
少年の目から、涙がこぼれた。
「……うん」
そのとき。
医療区画の扉が開いた。
「相澤先生!」
職員が駆け込んできた。
「緊急報告です!」
「何が起きた?」
「世界中の記録媒体で、同じ写真が確認されています!」
「写真?」
職員は、タブレットを差し出した。
画面には、一枚の写真が表示されていた。
三人の子ども。
二人の少年。
一人の少女。
そして、写真の裏に記された文字。
『三人で帰る』
「……これは」
相澤が眉を寄せた。
「世界中で、同じ写真が出現しています。古いアルバム、デジタル画像、監視カメラの記録、個人のスマートフォン……どこからともなく、同じ写真が現れているんです」
「……」
「さらに、写真を見た人間の一部が、同じ夢を見たと報告しています」
「どんな夢だ?」
職員は、震える声で答えた。
「三人の子どもが、家に帰ろうとしている夢です」
出久は、写真を見つめた。
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
夕暮れの家。
三つの椅子。
母親の笑顔。
そして、少女の声。
――お兄ちゃん。
――今度は、私が迎えに行くから。
出久は、頭を押さえた。
「……っ!」
「緑谷!」
相澤が駆け寄る。
しかし、出久は首を振った。
「大丈夫です……!」
彼は、写真を見つめていた。
写真の少女が、こちらを見ている。
その瞳は、涙で濡れていた。
そして。
少女の口が、ゆっくりと動いた。
『……お兄ちゃん』
出久は、息を呑んだ。
「……君は」
声が震える。
「……君は、誰なの?」
その瞬間。
写真の裏に、文字が浮かび上がった。
【妹:接続完了】
【兄:接続完了】
【弟:接続完了】
【三者の記憶を統合します】
「――やめろ!」
ベッドの少年が叫んだ。
「やめろ! まだ早い!」
彼は、出久の手を掴んだ。
「妹を、世界に認識させるな!」
しかし、もう遅かった。
写真から、白い光が溢れた。
光は医療区画を満たし、壁を越え、建物を越え、街を越えた。
世界中の写真が、一斉に光り始める。
そして、無数の人間の記憶の中に、三人の子どもが現れた。
誰も知らないはずの子どもたち。
けれど、誰もが懐かしいと感じる子どもたち。
誰かの弟。
誰かの兄。
誰かの妹。
誰かの家族。
その存在が、世界の中に刻まれていく。
そして、世界は初めて。
三人を、同時に認識した。
第五節 三人の記憶
白い光の中で、出久は立っていた。
足元には、見覚えのある床板。
目の前には、小さな食卓。
窓の外には、夕日。
台所からは、料理の匂いがする。
「……ここは」
出久は、周囲を見回した。
「……僕の家?」
そう呟いた瞬間、台所から声がした。
「出久、ご飯できたわよ!」
母親の声だった。
出久は振り向いた。
そこには、母親がいた。
少し若い。
今よりもずっと元気そうで、頬には笑みが浮かんでいる。
そして、食卓には。
二人の少年と、一人の少女が座っていた。
「遅いよ、兄ちゃん!」
少女が頬を膨らませた。
「もうお腹ぺこぺこ!」
「ごめん、ごめん」
出久は、自然に笑った。
「ちょっと、寄り道してたんだ」
「また?」
隣の少年が呆れた顔をする。
「兄ちゃん、妹を待たせちゃ駄目だよ」
「君だって、さっきまで寝てたじゃないか」
「僕は宿題をしてたんだよ!」
「寝ながら?」
「……うるさいなあ!」
少女が笑った。
出久も笑った。
その瞬間、胸の奥が痛んだ。
懐かしい。
懐かしくて、たまらない。
自分は、この場所を知っている。
この食卓を知っている。
この二人を知っている。
そして。
この少女を、知っている。
「……ああ」
出久は、呟いた。
「……そうだったんだ」
涙が溢れた。
「僕たち……」
彼は、食卓を見つめた。
「……三人で、暮らしていたんだ」
その瞬間、景色が揺れた。
食卓の向こうに座っていた少年が、顔を上げる。
名前のない兄。
彼は、出久を見ていた。
「……思い出したの?」
出久は頷いた。
「……少しだけ」
兄は、目を閉じた。
「……そっか」
少女が、二人を見比べた。
「……ねえ」
彼女は、笑った。
「もう、喧嘩しない?」
出久と兄は、同時に顔を上げた。
少女は、二人の手を取った。
「私、もう嫌だよ」
声が震えた。
「二人が喧嘩するのも、どっちかがいなくなるのも……」
涙が溢れる。
「もう、嫌だよ……」
出久は、少女の手を握り返した。
「……ごめん」
兄も、少女の手を握った。
「……ごめん」
少女は、首を横に振った。
「謝らなくていい」
彼女は、二人を見つめた。
「だから、約束して」
「……何を?」
出久が尋ねる。
少女は、笑った。
涙を流しながら。
「三人で帰るって」
その言葉が、世界に響いた。
三人の記憶が、繋がる。
出久が覚えていた記憶。
兄が隠していた記憶。
妹が守り続けていた記憶。
それらが一つになり、失われた時間を埋めていく。
そして、出久は思い出した。
十三年前。
自分が死んだ日のことを。
いや。
正確には。
自分が死ぬはずだった日のことを。
第六節 十三年前、最初の選択
雨が降っていた。
瓦礫が積み重なった街。
燃え上がる建物。
遠くで響く爆発音。
そして、目の前に立つ、巨大な敵。
出久は、傷だらけの身体を引きずりながら、立ち上がろうとしていた。
もう、力は残っていない。
腕は動かない。
脚も震えている。
呼吸をするたびに、胸が痛む。
それでも。
「……まだ」
出久は、呟いた。
「……まだ、終わってない」
目の前には、倒れた人々がいる。
救助を待つ市民。
負傷したヒーロー。
そして、自分の後ろに立つ二人の少年。
兄と、妹。
「出久!」
兄が叫んだ。
「もういい! 下がれ!」
「……駄目だ」
出久は、首を振った。
「まだ、助けられる人がいる」
「君が死んだら、誰も助けられない!」
「それでも……!」
出久は、拳を握り締めた。
「……誰かが、やらなきゃいけないんだ!」
その瞬間。
兄が、出久の前に立った。
「……なら、僕がやる」
「……兄ちゃん?」
兄は、笑った。
「君は、もう十分に頑張った」
「……駄目だ!」
出久は、兄の腕を掴んだ。
「僕がやる!」
「君は、いつもそうだ」
兄は、出久の手をそっと外した。
「自分が傷つけば、誰かが助かると思っている」
「……」
「でも、君が死んだら、僕たちはどうなる?」
出久は、答えられなかった。
兄は、優しく笑った。
「……大丈夫」
そして、出久の頭を撫でた。
「今度は、僕が君を守る番だ」
その言葉と同時に、兄は敵へ向かって走り出した。
「――兄ちゃん!」
出久は叫んだ。
しかし、兄は振り返らなかった。
彼は、最後の力を使った。
敵の攻撃を受け止め。
崩れ落ちる建物を支え。
逃げ遅れた人々を救い。
そして。
出久を、守った。
爆発が起きた。
世界が白く染まる。
出久が最後に見たのは、兄の背中だった。
その背中が、ゆっくりと崩れていく。
「……兄ちゃん!」
出久は、手を伸ばした。
しかし、届かなかった。
兄は、振り向いた。
そして、笑った。
「……ごめん」
その唇が、動く。
「……今度は、君が……」
声は、爆発音に掻き消された。
そして。
兄は、死んだ。
出久は、その場に崩れ落ちた。
何もできなかった。
助けられなかった。
また、自分の目の前で、誰かが死んだ。
その瞬間。
世界が、止まった。
空中に浮かぶ瓦礫。
凍りついた炎。
止まった雨粒。
すべてが、動きを失った。
そして、出久の前に、黒い影が現れた。
顔のない存在。
白い空白。
一本の黒い線。
影は、出久に問いかけた。
『選択してください』
『対象A:緑谷出久』
『対象B:未登録個体』
『どちらを残しますか』
出久は、顔を上げた。
「……何?」
『世界の再構築には、犠牲が必要です』
『対象Aを残す場合、対象Bを削除します』
『対象Bを残す場合、対象Aを削除します』
『選択してください』
出久は、首を横に振った。
「……嫌だ」
『選択してください』
「……嫌だ!」
出久は叫んだ。
「どっちも残す!」
『選択肢に存在しません』
「だったら、選択肢を増やせ!」
出久は、影に向かって叫んだ。
「僕は、どっちも助ける!」
『選択肢に存在しません』
「なら、作る!」
出久は、拳を握り締めた。
「……僕が、作るんだ!」
その瞬間。
世界が、砕けた。
出久の身体が、白い光に呑まれる。
意識が消える直前、彼は聞いた。
兄の声を。
『……ありがとう、出久』
そして。
『……ごめん』
世界が、再構築された。
第七節 妹が見た真実
記憶の中で、出久は立ち尽くしていた。
目の前に広がるのは、十三年前の光景。
兄が死んだ世界。
そして、その後に訪れた世界。
兄が生きている世界。
妹が消えた世界。
自分が死んだ世界。
何度も。
何度も。
何度も。
世界は再構築された。
そのたびに、誰かが消えた。
そのたびに、誰かが記憶を失った。
そのたびに、誰かが自分の名前を捨てた。
そして、三人は。
何度でも、互いを探した。
出久は、膝をついた。
「……僕は」
声が震えた。
「……何度も、兄ちゃんを失っていたんだ」
兄は、隣に立っていた。
「……うん」
「……妹も」
「……うん」
「……僕は、何も覚えていなかった」
兄は、答えなかった。
出久は、拳を握り締めた。
「……ごめん」
兄は、首を横に振った。
「謝らなくていい」
「でも……!」
「君は、何も悪くない」
兄は、出久の肩に手を置いた。
「君は、世界に選ばされたんだ」
「……」
「僕たちのどちらかを残すか。どちらかを消すか。そんな選択を、君に押しつけた」
兄は、苦しそうに笑った。
「……本当は、僕が悪かったんだ」
「……違う」
出久は、首を横に振った。
「君も、選ばされていたんだ」
兄は、目を見開いた。
出久は続けた。
「僕を助けるために、自分を犠牲にした。妹を守るために、自分の名前を消した」
彼は、兄の手を握った。
「……君も、ずっと戦っていたんだ」
兄は、何も言えなかった。
そのとき。
二人の背後から、少女の声がした。
「……二人とも」
振り向くと、妹が立っていた。
彼女は、二人を見つめていた。
涙を流しながら。
「……私のこと、忘れていたんだね」
出久は、息を呑んだ。
「……ごめん」
「……うん」
少女は頷いた。
「……私も、忘れていた」
彼女は、手首のブレスレットを見た。
「名前も、顔も、声も……少しずつ、分からなくなっていた」
少女は、微笑んだ。
「でも、約束だけは覚えていた」
彼女は、二人の手を取った。
「三人で帰るって」
その瞬間。
白い空間に、亀裂が走った。
『警告』
『三者の記憶が完全に接続されました』
『同一性の不一致を検出』
『統合処理を開始します』
兄が、顔を上げた。
「……来た」
出久は、妹の手を握り締めた。
「……大丈夫」
兄は、首を横に振った。
「……いや」
彼の顔は、青ざめていた。
「……これからが、本当の問題なんだ」
亀裂の向こうから、無数の声が響いた。
『三者を統合します』
『統合に必要な犠牲を選択してください』
『対象A:緑谷出久』
『対象B:未登録個体』
『対象C:未登録個体』
『残存可能数:二名』
妹が、顔を上げた。
「……また、それ?」
彼女は、怒ったように笑った。
「何度言ったら分かるの?」
一歩、前に出る。
「私たちは、三人で帰るんだよ」
『選択肢に存在しません』
「じゃあ、増やして!」
少女は叫んだ。
「選択肢にないなら、作ればいい!」
その言葉に、出久は息を呑んだ。
それは、十三年前に自分が叫んだ言葉と同じだった。
兄も、目を見開いた。
少女は、二人を振り返った。
「……お兄ちゃんたちが、そう教えてくれたんだよ」
彼女は笑った。
「誰かが決めた未来しかないなんて、そんなの、おかしいって」
白い空間が揺れた。
「だから、私は……」
少女は、胸元に手を当てた。
「……三人とも生きられる未来を、選ぶ」
その瞬間。
世界が、再び砕け始めた。
第八節 観測者の介入
白い空間の崩壊は、突然止まった。
亀裂が凍りつく。
光が静止する。
三人の身体が、空中で固定された。
そして、彼らの前に。
一人の少女が現れた。
黒い髪。
白い衣。
夜空のような瞳。
死神。
彼女は、三人を見つめた。
「……なるほど」
静かな声だった。
「これが、三者の記憶が接続された状態ですか」
妹が、死神を睨んだ。
「……あなたが、私たちを見ていたの?」
「はい」
「私たちが苦しんでいるのを、ずっと?」
「観測していました」
死神は、あっさりと答えた。
「あなたたちの存在は、世界の再構築において極めて特殊です。三者の関係性は固定されず、世界ごとに異なる。血縁、記憶、名前、役割。それらの定義が一致しないにもかかわらず、三者は互いを家族として認識する」
妹は、拳を握り締めた。
「……それが、何?」
「興味深い現象です」
死神は言った。
「世界の記録が不一致を解消しようとするたび、あなたたちは互いを選び直す。誰か一人を削除すれば、残された者が欠落を認識し、再び世界へ干渉する。あなたたちは、再構築の過程そのものに影響を与える存在です」
「……私たちは、実験材料じゃない」
妹の声が震えた。
死神は、首を傾げた。
「私は、あなたたちを実験材料として扱っているつもりはありません」
「じゃあ、何なの?」
「観測対象です」
「同じことだよ!」
少女の叫びが、白い空間に響いた。
「私たちは、生きているんだよ!」
死神は、黙った。
妹は、涙を流しながら続けた。
「怖かったんだよ。お兄ちゃんがいなくなるのが。もう一人のお兄ちゃんまでいなくなるのが。自分が誰なのか分からなくなるのが!」
彼女は、胸元を掴んだ。
「それでも、私は……」
声が震える。
「それでも、三人で帰りたかったんだよ……!」
死神は、少女を見つめていた。
その表情に、初めて迷いが浮かんだ。
「……なぜ、そこまでして三人であることにこだわるのですか?」
妹は、目を見開いた。
「……え?」
「あなたたちの記憶は、世界ごとに異なります。ある世界では兄弟であり、ある世界では他人であり、ある世界では存在すらしない。関係性は固定されていない。それでも、あなたたちは三人であることを望む」
死神は、静かに問いかけた。
「なぜですか?」
妹は、しばらく答えられなかった。
そして。
ゆっくりと笑った。
「……だって」
彼女は、二人の兄を見た。
「お兄ちゃんたちが、好きだから」
出久の胸が、熱くなった。
「兄ちゃんが、私を迎えに来てくれたから」
妹は、兄を見た。
「もう一人のお兄ちゃんが、私のために何度も泣いてくれたから」
彼女は、出久を見た。
「二人が、私のことを家族だって言ってくれたから」
そして、死神を見つめた。
「……それじゃ、駄目なの?」
死神は、答えられなかった。
その沈黙の中で。
白い空間のさらに向こう側から、巨大な気配が近づいてきた。
死神の表情が変わる。
「……いけません」
彼女は、三人の前に立った。
「観測者が、こちらへ干渉しています」
出久は、息を呑んだ。
「……観測者?」
「世界の再構築を管理している存在です。私も、その全貌を把握しているわけではありません」
死神は、三人を振り返った。
「あなたたちの記憶が完全に接続されたことで、観測者は再構築条件を変更しようとしている」
「何をするつもりなんですか?」
出久が尋ねた。
死神は、答えた。
「……あなたたちの関係性を、完全に固定するつもりです」
兄が、息を呑んだ。
「……固定?」
「はい」
死神は頷いた。
「三人のうち、誰が兄で、誰が弟で、誰が妹なのか。その関係を一つに定める。すべての世界の記録を、その定義に合わせて書き換える」
妹は、首を横に振った。
「……そんなの、嫌だ」
「そして、固定された関係性に合わない存在は……」
死神は、言葉を切った。
「……消去されます」
白い空間が、震えた。
三人の足元に、三つの円が浮かび上がる。
それぞれに、文字が刻まれていた。
【兄】
【弟】
【妹】
そして、その中央に。
【定義を選択してください】
出久は、円を見つめた。
兄。
弟。
妹。
三つの役割。
三つの存在。
しかし、三人の記憶は、世界ごとに異なっている。
ある世界では、自分が兄だった。
ある世界では、兄が弟だった。
ある世界では、妹が存在しなかった。
ある世界では、三人とも別の家族に生まれていた。
それでも。
彼らは、互いを家族と呼んだ。
出久は、死神を見た。
「……もし、定義を選ばなかったら?」
死神は、答えた。
「世界は、三人のうち二人を残し、一人を削除します」
「……」
「あなたたちが拒否しても、再構築は止まりません」
出久は、拳を握り締めた。
「……だったら」
彼は、二人を見た。
兄と妹。
名前はまだ分からない。
顔も、記憶も、少しずつしか戻っていない。
それでも。
「……三人で、別の定義を作ろう」
兄が、目を見開いた。
妹が、顔を上げた。
出久は、微笑んだ。
「兄とか、弟とか、妹とか……そういう名前に、僕たちを閉じ込める必要はないんじゃないかな」
死神が、息を呑んだ。
「……何を言っているのですか?」
出久は、三つの円を見つめた。
「僕たちが家族だってことは、役割を決めないと証明できないものじゃない」
彼は、二人の手を取った。
「僕は、君たちを大切に思っている」
兄の手。
妹の手。
「君たちも、僕を大切に思ってくれている」
出久は、笑った。
「それだけじゃ、駄目なのかな?」
その瞬間。
三つの円が、音を立てて砕けた。
第九節 家族という名前
砕けた円の破片が、白い空間に浮かんだ。
兄。
弟。
妹。
その文字が、少しずつ薄れていく。
代わりに、別の文字が浮かび上がった。
【家族】
たった二文字。
けれど、その文字は、三つの円よりも強く輝いていた。
死神は、目を見開いた。
「……そんなことが」
妹は、兄たちの手を握り締めた。
「……できた」
兄は、呆然と文字を見つめていた。
「……僕たちが、選んだんだ」
出久は頷いた。
「うん」
その瞬間、白い空間の向こう側から、巨大な声が響いた。
『定義の変更を検出』
『既存の関係性分類と不一致』
『新規分類を確認』
『分類名:家族』
『分類根拠:相互選択』
『分類の固定を試行』
死神が、顔を上げた。
「……固定を?」
彼女の声に、警戒が宿る。
『新規分類を検証します』
『家族とは、何ですか』
出久は、声の主を見つめた。
姿は見えない。
けれど、確かに、そこにいる。
世界を観測し、記録し、再構築する存在。
人間の感情を、数値や条件に置き換えようとする存在。
出久は、静かに答えた。
「……一緒にいたいと思うこと」
沈黙。
『定義が不十分です』
「……うん」
出久は頷いた。
「一緒にいたいと思っても、喧嘩することはある。傷つけることもある。間違えることもある」
兄が、目を伏せた。
妹が、唇を噛んだ。
出久は続けた。
「それでも、もう一度話したいと思うこと。相手が何を考えているのか、知りたいと思うこと。自分が間違えたなら、謝りたいと思うこと」
声が震えた。
「……そして、相手がいなくなったとき、もう一度会いたいと思うこと」
白い空間が、静かになった。
「家族だから、絶対に傷つけないわけじゃない」
出久は、兄を見た。
「家族だから、絶対に分かり合えるわけでもない」
妹を見た。
「でも、家族だからこそ、分かり合おうとするんだと思う」
出久は、二人の手を握り締めた。
「……僕たちは、そうしたい」
その瞬間。
白い空間に、無数の光が浮かび上がった。
三人の記憶。
三人の人生。
三人が互いに向けた言葉。
三人が交わした約束。
そして、三人が失ったもの。
それらが、世界の中に広がっていく。
『分類名:家族』
『分類根拠:相互選択』
『検証結果――』
声が、途切れた。
『……未確定』
死神が、息を呑んだ。
「……未確定?」
『分類の固定に失敗』
『対象の関係性は、変動を継続』
『再構築条件との不一致を確認』
『処理を中断します』
白い空間に、巨大な亀裂が走った。
その向こう側に、無数の世界が見えた。
それぞれの世界で、三人の子どもたちが生きている。
ある世界では、兄が出久を抱き締めている。
ある世界では、妹が二人の兄に怒っている。
ある世界では、三人が別々の道を歩いている。
ある世界では、三人が出会っていない。
それでも。
どの世界でも。
三人のうち、誰かが誰かを探していた。
そして、どこかの世界で。
三人は、再び出会っていた。
『……観測を継続します』
巨大な声が響いた。
『対象の選択を記録』
『対象の関係性は、固定されない』
『再構築条件を再計算します』
死神は、三人を見つめた。
「……あなたたちは」
彼女は、初めて、少しだけ笑った。
「本当に、厄介な存在ですね」
妹が、涙を拭った。
「……褒めてる?」
「半分は」
「もう半分は?」
死神は、静かに答えた。
「……理解できない、という意味です」
妹は、笑った。
「じゃあ、これから理解してね」
死神は、目を見開いた。
「……私が?」
「うん」
少女は頷いた。
「あなたも、私たちのことを見ていたんでしょう?」
「はい」
「だったら、これからは、見ているだけじゃなくて、一緒に考えてよ」
死神は、答えられなかった。
彼女は、これまで多くの人間を観測してきた。
人間の欲望。
人間の憎悪。
人間の愛情。
人間の絶望。
人間の希望。
そのすべてを見てきた。
しかし、誰かに。
一緒に考えてほしいと頼まれたことは、なかった。
「……私は」
死神は、言葉を探した。
「……人間ではありません」
妹は、首を傾げた。
「うん」
「あなたたちと同じように、感情を持っているわけでもありません」
「うん」
「私は、世界を観測するために存在しています」
「……それで?」
死神は、沈黙した。
妹は、笑った。
「それなら、観測しながら考えればいいよ」
その言葉に、死神は目を見開いた。
そして、初めて。
彼女は、自分の役割について、疑問を抱いた。
観測するだけでいいのか。
記録するだけでいいのか。
世界の選択を見届けるだけでいいのか。
それとも。
自分自身もまた、選択することができるのか。
その疑問は、小さな亀裂となって、彼女の中に生まれた。
第十節 名前を返すために
白い空間が、崩れ始めた。
三人の身体が、少しずつ透けていく。
死神が、顔を上げた。
「……時間です」
「……何の?」
妹が尋ねた。
「あなたたちが、元の世界へ戻る時間です」
出久は、周囲を見回した。
「……僕たち、帰れるんですか?」
「はい」
死神は頷いた。
「ただし、すべての記憶が戻ったわけではありません。あなたたちの関係性も、完全には安定していない」
兄は、苦笑した。
「……つまり、まだ問題だらけってことか」
「その通りです」
「……はは」
兄は、笑った。
「そっか」
妹は、兄の袖を掴んだ。
「……ねえ」
「ん?」
「今度は、勝手にいなくならないでね」
兄は、目を伏せた。
「……うん」
「自分を犠牲にして、私たちを守ろうとしないで」
「……うん」
「名前を消したり、記憶を消したり、勝手に一人で決めたりしないで」
兄は、涙を流した。
「……うん」
妹は、彼を見つめた。
「……約束だよ」
兄は、妹を抱き締めた。
「……約束する」
その隣で、出久も二人を抱き締めた。
三人は、しばらく何も言わなかった。
ただ、互いの温度を確かめていた。
失われた時間を、取り戻すように。
そして、出久は気づいた。
兄の名前が、まだ分からない。
妹の名前も、まだ分からない。
けれど。
名前が分からなくても、今、目の前にいる二人が大切な存在だということは、分かる。
それだけは、もう失いたくなかった。
「……ねえ」
出久は、兄に尋ねた。
「君の名前、いつか思い出せるかな」
兄は、少しだけ笑った。
「……どうだろう」
「……そっか」
「でも」
兄は、出久の頭を撫でた。
「君が呼んでくれるなら、どんな名前でもいい気がする」
出久は、目を見開いた。
兄は、微笑んだ。
「……僕は、君の兄だから」
その言葉が、胸に響いた。
妹が、二人の手を握った。
「……私も」
彼女は、笑った。
「名前が戻ったら、ちゃんと教えるね」
「うん」
出久は頷いた。
「……待ってる」
三人の身体が、光に包まれる。
白い空間が消えていく。
死神は、最後まで三人を見つめていた。
そして、彼らが消える直前。
死神は、初めて、自分の意思で言葉を発した。
「……どうか」
三人が振り向く。
死神は、静かに続けた。
「どうか、あなたたちの選択が、あなたたち自身を救うものでありますように」
妹は、微笑んだ。
「……ありがとう」
そして、三人は消えた。
白い空間に、死神だけが残された。
彼女は、しばらく立ち尽くしていた。
そして、ゆっくりと自分の手を見つめた。
「……選択、ですか」
その指先に、小さな光が宿っていた。
それは、これまで観測したことのない種類の光だった。
死神は、その光を見つめた。
そして、初めて。
自分が何を望んでいるのか、考え始めた。
第十一節 帰還
午前四時十三分。
雄英高校、地下医療区画。
出久は、目を覚ました。
白い天井。
医療モニター。
消毒液の匂い。
そして、隣に座っているお茶子。
「……出久くん!」
彼女は、涙を浮かべて出久の手を握った。
「よかった……!」
「……お茶子ちゃん?」
出久は、身体を起こそうとした。
「待って! まだ動かないで!」
「……うん」
出久は、ゆっくりと周囲を見回した。
相澤がいた。
爆豪がいた。
轟がいた。
飯田も、切島も、八百万も。
そして。
ベッドの隣には、名前のない少年が座っていた。
少年は、出久を見つめていた。
目が合う。
二人は、しばらく何も言わなかった。
やがて、少年が笑った。
「……おかえり」
出久は、微笑んだ。
「……ただいま」
その言葉を聞いた瞬間、少年の目から涙が溢れた。
「……そっか」
彼は、顔を覆った。
「……帰ってきたんだね」
出久は、頷いた。
「……うん」
そのとき。
医療区画の扉が開いた。
全員が振り向く。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
黒い髪。
白い服。
手首には、白い布のブレスレット。
彼女は、ゆっくりと部屋に入ってきた。
そして、出久を見た。
その顔が、くしゃりと歪んだ。
「……お兄ちゃん」
出久は、息を呑んだ。
少女は、泣きながら笑った。
「……やっと、見つけた」
出久は、ベッドから降りようとした。
お茶子が慌てて支える。
「出久くん、無理しちゃ駄目!」
「……ごめん」
出久は、少女に向かって手を伸ばした。
「……おいで」
少女は、走った。
出久の胸に飛び込む。
出久は、彼女を抱き締めた。
小さな身体。
温かい体温。
確かな重み。
少女は、出久の胸に顔を埋めた。
「……お兄ちゃん」
「……うん」
「……ずっと、探してた」
「……うん」
「……何度も、何度も……」
声が震える。
「……もう、会えないと思ってた……」
出久は、少女を抱き締める腕に力を込めた。
「……ごめん」
少女は、首を横に振った。
「……ううん」
涙が溢れる。
「……帰ってきてくれて、ありがとう」
その隣で、少年も泣いていた。
出久は、片手を伸ばし、少年の肩を掴んだ。
「……君も」
少年が顔を上げる。
「……一緒に帰ろう」
少年は、目を見開いた。
出久は、笑った。
「……三人で」
その瞬間。
医療モニターが点滅した。
【三者の接続を確認】
【関係性:家族】
【登録状態:暫定】
【再構築条件を再計算します】
数字が表示される。
【再構築まで、残り六十時間】
そして、その下に。
新しい文字が浮かんだ。
【第一段階:完了】
【第二段階:進行中】
【第三段階:未確定】
出久は、モニターを見つめた。
「……まだ、終わってないんだね」
相澤が頷いた。
「そのようだ」
爆豪が拳を鳴らした。
「上等だ。だったら、全部ぶっ壊して終わらせてやる」
轟は、少女を見つめた。
「……君の名前は?」
少女は、顔を上げた。
そして。
口を開いた。
「……私の名前は……」
声が、途切れた。
彼女は、自分の喉に触れた。
「……あれ?」
出久が、顔を上げた。
少女は、困ったように笑った。
「……ごめんね」
涙が溢れる。
「……まだ、思い出せないみたい」
出久は、少女の手を握った。
「……大丈夫」
彼は、微笑んだ。
「……いつか、思い出そう」
少女は、頷いた。
その瞬間。
少年が、ゆっくりと顔を上げた。
「……いや」
全員が、彼を見た。
少年は、少女を見つめていた。
そして。
「……名前は、思い出すものじゃない」
彼は、静かに言った。
「……取り戻すものだ」
少女の目が、大きく見開かれた。
少年は、自分の胸元に手を当てた。
「……僕たちが、奪われたものを」
その声は、震えていた。
「……僕たち自身の手で、取り戻すんだ」
出久は、頷いた。
「……うん」
少女も、頷いた。
「……うん」
三人は、手を握り合った。
その瞬間、医療区画の窓の外で、夜空が揺れた。
黒い亀裂が、一本。
二本。
三本。
そして、その向こう側に。
無数の光が浮かび上がった。
それは、星ではなかった。
世界の記録だった。
人間の記憶だった。
失われた名前だった。
そして。
そのすべてを見つめる、巨大な存在の瞳だった。
第十二節 妹の名前
午前四時二十分。
少女は、医療区画の窓辺に立っていた。
出久と兄は、ベッドのそばで眠っている。
疲れ切っていたのだろう。
二人とも、深い眠りに落ちていた。
少女は、二人を振り返った。
「……お兄ちゃんたち」
小さく呟く。
「……今度こそ、守るからね」
彼女は、手首のブレスレットを握り締めた。
白い布。
縫い込まれた文字。
『三人で帰る』
その文字が、淡く光った。
少女は、目を閉じた。
そして。
自分の名前を、思い出そうとした。
母親が呼んでくれた名前。
兄たちが呼んでくれた名前。
自分が、自分自身を呼ぶための名前。
何度も、何度も。
思い出そうとした。
けれど。
何も、出てこなかった。
少女は、唇を噛んだ。
「……まだ、駄目なんだね」
涙が溢れる。
そのとき。
窓ガラスに、文字が浮かび上がった。
【未登録個体の名前を復元します】
少女は、顔を上げた。
文字が続く。
【復元候補:一件】
【照合を開始】
少女は、息を止めた。
文字が、ゆっくりと変化する。
【対象:緑谷出久】
【関係:妹】
【名前:――――】
そして。
最後の一文字が、浮かび上がった。
少女の瞳が、見開かれる。
「……あ」
声が漏れた。
彼女は、自分の胸に手を当てた。
その名前を。
確かに、知っている。
呼ばれたことがある。
何度も。
何度も。
兄たちに。
母親に。
そして、自分自身に。
少女は、涙を流した。
「……私は」
唇が震える。
「……私は、――――」
名前を口にしようとした瞬間。
窓ガラスが砕けた。
黒い亀裂が、少女の身体を包み込む。
「――っ!」
出久が目を覚ました。
「……妹!?」
少年も飛び起きる。
「……駄目だ!」
二人が駆け寄る。
しかし、黒い亀裂は、少女の身体を飲み込んでいく。
少女は、二人を見た。
その顔には、恐怖があった。
けれど。
同時に、笑顔もあった。
「……ごめんね」
彼女は言った。
「……名前、思い出せたよ」
出久は、手を伸ばした。
「……待って!」
少女は、首を横に振った。
「……大丈夫」
涙が頬を伝う。
「……今度は、私が迎えに行くから」
その言葉を最後に。
少女の姿が、消えた。
医療区画に、静寂が落ちた。
出久は、床に膝をついた。
「……そんな」
少年は、呆然と立ち尽くしていた。
そして。
彼の口から、かすれた声が漏れた。
「……また、だ」
出久は顔を上げた。
「……え?」
少年は、震える手で、自分の胸を掴んだ。
「……僕たちは、また……」
彼の瞳から、涙が溢れた。
「……妹を、失ったんだ」
その瞬間。
医療モニターが、最後の文字を表示した。
【第二段階:完了】
【第三段階:開始】
【対象:緑谷出久】
【選択権:兄】
【最終選択まで、残り五十九時間】
出久は、モニターを見つめた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
その目に、迷いはなかった。
「……もう、選ばない」
彼は、静かに言った。
「誰かを犠牲にする未来なんて、もう選ばない」
拳を握る。
「……僕たち三人で、帰るんだ」
その言葉が、医療区画に響いた。
そして、世界のどこかで。
少女は、目を覚ました。
真っ暗な空間。
無数の記録。
無数の名前。
無数の世界。
その中心に、少女は立っていた。
目の前には、巨大な扉があった。
扉の向こうから、声が聞こえる。
『対象個体を確認』
『未登録個体』
『名前の復元、完了』
『最終段階へ移行します』
少女は、扉を見つめた。
そして、微笑んだ。
「……やっと、見つけた」
彼女は、手首のブレスレットを握り締めた。
「……お兄ちゃんたちを、返してもらうよ」
扉が、ゆっくりと開いた。
その向こう側にいたのは。
緑色の瞳を持つ、もう一人の出久だった。
彼は、少女を見つめた。
そして。
「……おかえり」
そう言った。
少女は、涙を流した。
「……ただいま」
第二章 第十話「迎えに来た妹」――完。