一 記録の中のマグネ
「……以上が、現在までに確認されている事件の概要です」
臨時の司法調査施設。
会議室の大型画面には、かつての死穢八斎會と、敵連合が接触した際の記録が表示されていた。
関係者の証言。
現場の記録。
負傷者の報告。
そして、死亡者の記録。
その中に、マグネの名前がある。
彼女は、敵連合の一員として活動していた。
犯罪に関わり、社会に対して危険な行動を取った。
その一方で、彼女は治崎廻の個性によって命を奪われた。
「この記録では、マグネは敵連合の構成員として扱われています」
出久は資料を確認しながら言った。
「それ自体は事実です。ただ……」
「ただ?」
根津校長が尋ねた。
「この記録だけでは、彼女がどんな人だったのか分かりません」
出久は画面を見た。
そこにあるのは、氏名、所属、個性、事件への関与、死亡確認。
必要な情報ではある。
しかし、それだけでは一人の人生を説明できない。
「ヒーロー側の記録は、彼女の個性や危険度、事件にどう関わったかという情報が中心です。でも、彼女が仲間とどんな時間を過ごしていたのか、何を大切にしていたのか、どんな未来を望んでいたのかは、ほとんど記録されていません」
「それは、捜査記録の目的が異なるからだね」
根津は答えた。
「事件を調べるための記録と、一人の人間の人生を記録することは同じではない。だが、事件の記録だけを残すことで、その人のすべてを説明したつもりになってはいけない」
「彼女は犯罪に関わっていた。それは否定しません」
相澤消太が言った。
「だが、犯罪に関わった人間にも、それ以前の人生がある。誰かを大切にしたことも、誰かに大切にされたこともある。その事実まで消えるわけじゃない」
プレゼント・マイクが画面を見つめる。
「マグネは、仲間の一人だったんだよな」
「はい」
出久は頷いた。
「トガさんやトゥワイス、スピナーさんたちと行動していました」
「その仲間たちにとって、彼女がどういう存在だったのかも確認する必要があるね」
根津が言った。
「ただし、残された仲間が話したからといって、その意見がマグネ本人の意思になるわけではない」
「もちろんです」
出久は資料を閉じた。
「僕たちができるのは、彼女について確認できる事実や、彼女を知る人たちの証言を残すことです。マグネさん自身がどう思っていたかを、勝手に決めることはできません」
そのとき、会議室の扉が開いた。
担当者が入ってくる。
「治崎廻との面談準備が整いました」
根津は頷いた。
「では、始めよう」
二 治崎廻は、何を奪ったのか
面談室。
治崎廻は、監督下の椅子に座っていた。
以前のような威圧的な態度は抑えられているものの、その目つきは鋭いままだった。
彼は机の上の資料に目を向けた。
「死穢八斎會についての調査は、まだ続いているのか」
「続いています」
担当者が答える。
「あなたの証言が必要な部分が残っています。資金の流れ、関係者への指示、施設内での行為、個性を利用した研究に関する記録などです」
治崎は何も言わなかった。
担当者は別の資料を開いた。
「本日は、マグネさんの死亡に至った経緯について、改めて確認します」
治崎の目がわずかに動いた。
「まだその話をするのか」
「必要な確認です」
「記録に残っているだろう」
「記録に残っている内容と、あなた自身の証言は別です」
治崎は、少しだけ椅子に深く座り直した。
「彼女は敵連合の人間だった。こちらの目的を妨害し、私に攻撃を仕掛けた」
「その後、あなたは彼女の命を奪いました」
「そうだ」
担当者は続ける。
「あなたは、当時の行為をどう説明しますか?」
「敵対する相手を排除した。それだけだ」
その言葉に、出久の指がわずかに動いた。
彼は今回、調査に協力する立場として同席していた。
治崎の証言を聞き、記録の確認に必要な質問をすることも求められている。
「それだけ、ですか」
出久が尋ねた。
治崎が目を向ける。
「何だ」
「あなたにとっては、敵対する相手を排除した。それだけだったのかもしれません。でも、マグネさんはそこで命を失った」
「結果は知っている」
「彼女が生きていたら、何をしたと思いますか?」
「分かるわけがない」
「家族や仲間と過ごしたかもしれない。別の道を選んだかもしれない。何かを後悔して、やり直そうとしたかもしれない」
治崎は眉を寄せた。
「仮定の話に意味があるのか」
「あります」
出久は答えた。
「彼女には、まだ選べたかもしれない未来があった。でも、あなたの行為によって、その可能性は失われたんです」
「彼女も犯罪者だった」
「はい」
出久は否定しなかった。
「彼女が犯罪に関わっていたことは事実です。誰かを傷つけた可能性も、彼女自身が責任を負うべき行為もあったと思います」
「ならば、話は終わりだ」
「終わりではありません」
出久は、治崎の目を見た。
「彼女が犯罪者だったことと、あなたが命を奪ったことは別です」
治崎は黙った。
「彼女が敵だったから、何をしてもよかったわけじゃない。彼女の行動が間違っていたとしても、それによってあなたの行為がなかったことになるわけでもない」
「……」
「あなたは、彼女を止めるために何をしたのか。なぜ命を奪うという結果になったのか。それを、あなた自身の言葉で説明してください」
治崎はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で答えた。
「私の計画を妨害した。こちらの交渉を拒み、攻撃してきた。私はそれを排除した」
「計画のために?」
「そうだ」
「あなた自身の判断で?」
「そうだ」
「誰かを守るためではなく?」
治崎は、出久を見た。
「私にとって、邪魔だった。それ以上でも以下でもない」
面談室が静まった。
それは、言い訳を一つ取り除いた言葉だった。
治崎は、マグネを命の危険から救おうとしたわけではない。
彼女の将来を守ろうとしたわけでもない。
彼自身の目的を妨げる存在として扱い、排除した。
「……それが、あなたの答えですね」
担当者が確認した。
「そうだ」
「証言として記録します」
治崎は資料に視線を落とした。
その表情から、悔恨が読み取れるわけではない。
しかし、少なくとも、自分の行為を誰かの命令や、マグネの立場だけに押しつけることはできなくなっていた。
三 マグネの未来を、誰が語るのか
面談が終わった後、出久は別室へ向かった。
そこには、スピナーが待っていた。
彼は現在も厳重な監督下にあり、自由に行動できる立場ではない。
それでも、今回の調査に協力する意思を示していた。
「緑谷か」
「スピナーさん」
「治崎の面談は終わったのか」
「はい」
スピナーは、少しだけ目を伏せた。
「マグネの話をしたんだろう」
「はい」
「何を言っていた」
出久は、面談で確認された内容を説明した。
治崎が、マグネを自分の目的を妨げる存在として排除したと証言したこと。
彼女が敵連合の一員だったことを理由に、自分の行為を正当化しようとしていた部分があったこと。
そして、最終的には自分自身の判断だったと認めたこと。
スピナーは、最後まで黙って聞いていた。
「そうか」
それだけ言うと、彼は椅子にもたれた。
「マグネらしいな」
「……え?」
「いや。マグネがあいつに黙ってやられるような奴だったとは思っていない」
スピナーは、どこか遠くを見るような目をした。
「よく笑う人だった。言いたいことははっきり言うし、周りが何を言おうと、自分の考えを曲げない。俺たちの中でも、かなり強い人だった」
「はい」
「俺があの場所にいたときも、あの人は自分の立場を分かっていた。敵連合の一員として、自分が何をしようとしているのかもな」
スピナーは指を握った。
「もちろん、彼女がしたことを全部正しかったと言うつもりはない。俺たちの行動で傷ついた人たちがいる。それは、俺たちが向き合わなきゃならない」
「でも、マグネさんのことを話したいんですね」
「ああ」
スピナーは頷いた。
「彼女が死んだことで、記録の中では敵連合の一人という扱いになった。だが、俺にとっては仲間だった」
「……」
「俺は、あの人が何を望んでいたのかを、全部知っていたわけじゃない」
スピナーは続けた。
「だから、マグネがこう考えていたはずだ、こうしてほしかったはずだ、なんて勝手に決めるつもりはない」
「そうですね」
「だが、あの人が自分の未来を選ぶ機会を奪われたことは、事実だ」
スピナーは出久を見た。
「治崎が責任を取るのは当然だ。だが、それでマグネが戻るわけじゃない」
「はい」
「それに、俺たちが治崎を許すかどうかも、別の話だ」
出久は頷いた。
「マグネさん本人が、許すかどうかを選ぶこともできません」
「そうだ」
スピナーは、強く言った。
「だから、誰も代わりに許すな」
その言葉は、彼自身に向けたものでもあった。
仲間だったから。
一緒に過ごしたから。
マグネなら許すかもしれない。
そういう想像を、自分の都合で結論に変えてはいけない。
「俺は、あの人のことを覚えている」
スピナーは言った。
「それでいい。俺ができるのは、俺が知っているマグネのことを証言することだ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
スピナーは顔を上げた。
「ただ、記録に残してくれ。彼女が何をしたかだけじゃなく、彼女がどういう人だったのかも」
「分かりました」
「だが、彼女が犯罪に関わっていたことも隠すな」
「はい」
「それが、俺の知っていたマグネを、都合よく作り変えないことだと思う」
出久は深く頷いた。
四 仲間だった人の証言
スピナーとの面談が終わった後、調査担当者は追加の証言を集め始めた。
トガヒミコからも、書面による証言が提出されていた。
彼女は、マグネと過ごした時間について、短くまとめていた。
『マグネさんは、わたしにとって仲間でした。
わたしが自分のことを話すと、笑って聞いてくれたことがあります。
わたしのことを、最初から変だと決めつけないでくれた。
でも、わたしたちがしていたことが正しかったとは思いません。
マグネさんが何を望んでいたのか、全部を知っていたわけでもありません。
だから、わたしが代わりに許したり、代わりに気持ちを説明したりすることはできません。
ただ、わたしにとって大切な仲間だったことは、記録に残してほしいです』
出久は、その文章を読み終えた。
「トガさんも、マグネさんを覚えているんですね」
「そうだね」
根津が答えた。
「ただ、彼女の証言もまた、一人の仲間から見た記憶だ。記憶に間違いがある可能性もあるし、トガさん自身の受け止め方も含まれている」
「それでも、残す意味はあると思います」
出久は言った。
「マグネさんの人生を、事件の記録だけで終わらせないために」
「そうだね」
根津は資料を整えた。
「ただし、彼女の人生を説明し尽くしたと思ってはいけない。スピナー君にも、トガさんにも、それぞれの記憶がある。私たちに分かるのは、その一部に過ぎない」
「マグネさん本人が話せない以上、そこは変わりませんね」
「その通りだ」
相澤が会話に加わった。
「亡くなった人間の気持ちを、生きている人間が勝手に決めるな。仲間だから分かる、家族だから分かる、そういう言葉で本人の意思を作り上げるな」
プレゼント・マイクも頷いた。
「思い出を語ることはできる。でも、その思い出を本人の最終的な答えにすることはできないんだよな」
「はい」
出久は、もう一度証言を見た。
マグネが何を考えていたのか。
何を望んでいたのか。
どんな未来を選んだのか。
すべてを知ることはできない。
それでも、彼女が確かに生きていたことを、仲間たちは覚えている。
その記憶を残すことは、彼女の罪を消すことではない。
そして、彼女が犯罪に関わっていたという事実を残すことも、彼女の人生を否定することではない。
二つの事実を、どちらか一方に押し込めないこと。
それが今回の記録に必要だった。
五 償いを求める前に
その後、治崎には改めて、事件の調査と責任について説明が行われた。
机の上には、マグネの事件だけでなく、死穢八斎會が行ってきた行為に関する資料が置かれている。
エリに対する行為。
個性を利用した研究。
組織の構成員への指示。
そして、敵対する者に対する暴力。
「あなたには、複数の事件について証言していただく必要があります」
担当者が言った。
「すべて話すつもりはある」
治崎は答えた。
「では、マグネさんの件についても、改めて確認します」
「何度でも同じ答えだ」
「当時、あなたは彼女の行為を止めるためではなく、自身の計画を妨げる存在として排除した。間違いありませんか?」
治崎は、一度だけ目を閉じた。
「間違いない」
「あなたは、彼女に対して謝罪する意思がありますか?」
「謝罪したところで、何が変わる」
「何も変わらない可能性もあります」
「なら、意味がない」
担当者は、すぐに否定しなかった。
「謝罪によって、失われた命が戻るわけではありません。許しが得られるわけでもありません」
治崎は黙った。
「しかし、自分が何をしたのかを認めることは、責任を果たす上で必要な場合があります」
「……」
「あなた自身は、何をすべきだと考えますか?」
治崎は、机の資料を見た。
「私が知っていることを話す」
「それだけですか?」
「組織の記録を提出する。指示系統についても話す。研究に関する記録も、隠さず渡す」
「それによって、被害者への支援につながる可能性があります」
「そうだろうな」
「ただし、それであなたの責任が終わるわけではありません」
「分かっている」
治崎は、顔を上げた。
「私は、自分の目的のために他人を利用した。自分の計画を邪魔する者を排除した。そういうことだ」
「マグネさんについても?」
「ああ」
「彼女に対して、今、何を思いますか?」
治崎は少し考えた。
「彼女は私の敵だった」
「それだけですか?」
「当時の私は、そう認識していた」
治崎は言葉を続けた。
「だが、それだけで彼女の人生が説明できるわけではない。彼女には彼女の仲間がいて、目的があり、選ぼうとしていた未来があったのだろう」
「今になって、それを理解したのですか?」
「理解したと言えるかどうかは分からない」
治崎は、表情を変えずに答えた。
「私は、彼女が何を望んでいたかを知らない。仲間の証言を聞いても、彼女のすべてが分かるわけではない」
「では、あなたはどうするのですか?」
「私が何を奪ったのかを、事実として認める」
治崎は一言ずつ区切って話した。
「私の行為によって、彼女は未来を選べなくなった。私は、その事実を変えられない」
担当者は記録を続けた。
「それを償いと考えますか?」
「違う」
治崎は答えた。
「認めることは、償いの完成ではない」
部屋が静かになった。
「私は、何をしたのかを認めたからといって、責任を果たしたことにはならない。記録を提出しても、被害が消えるわけではない。今後も必要な調査に協力する。それが、私にできることだ」
「分かりました」
担当者は資料を閉じた。
「面談の内容を記録します」
治崎は、椅子の上で少し姿勢を変えた。
その顔に、劇的な変化はない。
彼がマグネを許すようになったわけでもない。
マグネのことを理解し尽くしたわけでもない。
ただ、自分が彼女の命を奪ったという事実を、他人の責任にすり替えることはできなくなっていた。
六 エリを理由にしない
面談の後、治崎は担当者から別の資料を渡された。
それは、今後の証言協力に関する確認書だった。
「提出する記録の中には、エリさんに関する情報も含まれます」
担当者が言った。
治崎の表情が変わる。
「エリのことか」
「はい。あなたが関わった事件の被害者として、彼女の情報をどの範囲で扱うかは慎重に判断されます」
「私が説明する必要がある」
「あなたが知っている事実については、調査に必要な範囲で証言していただきます。ただし、本人との面会や、本人への情報開示は別の問題です」
治崎は、しばらく黙っていた。
「彼女は、私に会いたいと思っているのか」
「本人の意思について、あなたに伝えることはできません」
「……そうか」
「エリさんが会いたくないのであれば、その意思は尊重されます。あなたが謝罪を望んでいることは、面会を求める理由にはなりません」
治崎は、資料に目を落とした。
「私は、あの子を利用した」
「はい」
「自分の目的のために、あの子の人生を壊した」
「その通りです」
「……」
治崎は手を握った。
「謝罪したいと思う」
「その意思は記録します。ただし、謝罪を受け取るかどうかは、エリさんが決めます」
「分かっている」
彼は、以前ならエリの能力を、組織の目的を実現するためのものとして見ていた。
今は、その能力を失ったとしても、彼女の人生がそこにあることを認めなければならない。
彼女は治崎のために存在していたわけではない。
治崎の目的を叶えるための道具でもない。
彼女自身の人生を生きる一人の人間だ。
「彼女が私に会わなくても、調査には協力する」
治崎は言った。
「彼女の意思を無視して、自分の謝罪を押しつけることはしない」
「その言葉も、記録します」
治崎は頷いた。
だが、これもまだ行動の始まりにすぎない。
言葉を口にすることと、責任を果たすことは違う。
七 奪われた未来の、その先へ
数日後。
出久は、スピナーと再び面談していた。
スピナーは、マグネについての証言を追加で提出することにしていた。
「記録に残してほしいことがある」
「何ですか?」
出久が尋ねる。
「マグネは、死穢八斎會との戦いで死んだ。それは事実だ。だが、彼女の人生は、その瞬間から始まったわけじゃないし、その瞬間で終わっただけでもない」
「はい」
「俺は、彼女が何を望んでいたのか、全部知っていたわけじゃない。でも、一緒にいた時間は覚えている」
スピナーは、一度目を閉じた。
「笑っていたこと。怒っていたこと。仲間に声をかけていたこと。自分のことを、自分で決めようとしていたこと」
「分かりました」
「彼女は、敵連合の一員だった。俺たちは犯罪に関わった。その責任から逃げるつもりはない」
スピナーは続けた。
「だが、彼女の人生を、敵連合の一員という言葉だけで終わらせたくない」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「その証言を残します」
「それと、もう一つ」
「はい」
「治崎を許すかどうかを、俺たちに聞かないでくれ」
出久は、少しだけ目を伏せた。
「はい」
「俺が許さないと言えば、マグネも許さなかったことになるわけじゃない。俺が許したとしても、マグネが許したことにはならない」
「その通りです」
「彼女の代わりに答えを出すことはできない」
スピナーは、強い声で言った。
「それだけは、忘れないでくれ」
「忘れません」
出久は答えた。
「僕たちは、彼女が何を望んでいたのかを勝手に決めません。確認できる事実と、仲間の証言を分けて記録します」
「そうしてくれ」
面談が終わり、スピナーが席を立った。
出久は、彼の背中を見送りながら考えた。
奪われた未来。
それは、ただ一つの予定が失われたという意味ではない。
何を選ぶか。
誰と過ごすか。
どこへ行くか。
どんな人間になるか。
その選択を積み重ねる時間そのものが、失われたということだ。
それを、後から誰かが代わりに作り直すことはできない。
「緑谷くん」
根津が近づいてきた。
「今の面談はどうだった?」
「マグネさんのことを、改めて考えました」
「そうか」
「治崎が責任を取っても、彼女の未来は戻りません。スピナーさんが彼女を覚えていても、彼女が何を望んでいたのか、全部分かるわけではありません」
「その通りだね」
「それでも、覚えている人がいる。彼女のことを話せる人がいる。その言葉を残すことはできる」
「うん」
「償いは、失った未来を取り戻すことじゃないんですね」
出久は、資料を見た。
「失ったことを認めて、それでも責任から逃げずに、これからの被害を減らすために行動することなんだと思います」
根津は頷いた。
「それも、償いの一部だろうね。ただし、行動を続けたからといって、誰かが許さなければならないわけではない」
「はい」
「許されないまま責任を果たすこともある。感謝されないまま支援を続けることもある。自分が望む結果にならなくても、しなければならないことはある」
出久は、静かに頷いた。
八 マグネの名前を残す
その日の夕方。
調査記録の整理が行われていた。
担当者は、マグネに関する資料を三つの分類に分けていた。
一つ目は、事件に関する確認済みの事実。
二つ目は、マグネ本人の行動や犯罪への関与についての記録。
三つ目は、彼女を知る人々の証言と記憶。
それぞれが混ざらないように整理されている。
「これでいいでしょうか」
担当者が根津に尋ねた。
「確認しよう」
根津は資料に目を通す。
「事件記録としての情報は、これで必要な部分を押さえている。仲間の証言は、本人の意思を示すものではなく、証言者が記憶している内容として扱う」
「はい」
「本人の意思が確認できない部分については、分からないと明記する」
「承知しました」
出久は、その記録を見ていた。
そこには、短い紹介文が添えられている。
『マグネ。敵連合の一員として活動し、複数の事件に関与した。死穢八斎會との交戦において、治崎廻の行為により死亡した。仲間たちの証言によれば、仲間を大切にし、自分の意思を持って行動していた人物であった』
出久は文章を読み、少し考えた。
「根津校長」
「何かな?」
「この最後の部分ですが、『仲間たちの証言によれば』と書いてあるのは大切だと思います」
「そうだね」
「彼女がどういう人だったのか、僕たちが全部知っているわけではないから」
「その通りだ」
根津は頷いた。
「私たちが知ることのできる範囲を、正直に記録することが大切だ」
出久は、資料に目を戻した。
「彼女は、犯罪に関わっていた。それと同時に、誰かの仲間で、誰かに覚えられている人だった」
「そうだね」
「そして、彼女が生きていたら何を選んだのかは、もう分からない」
出久は、静かに息を吐いた。
「僕たちができるのは、その分からなさを勝手に埋めないことなのかもしれません」
根津は微笑んだ。
「とても大切な考え方だよ」
資料は整理され、調査記録として保管されることになった。
そこに、彼女の人生すべてが記されたわけではない。
しかし、事件の結果だけでもない。
マグネという名前が、誰かにとって大切な存在だったという事実も、記録の中に残った。
九 戻らないものを前にして
治崎は、別の面談室で、正式な証言書に署名していた。
そこには、彼の行為に関する記録が整理されている。
マグネに対する行為。
死穢八斎會の活動。
エリに対する行為。
組織内の指示と、彼自身の判断。
彼は、資料を最後まで確認した。
「ここに署名すれば、すべての責任が終わるわけではありません」
担当者が説明する。
「分かっている」
「証言内容に誤りがあれば、追加の確認が行われます」
「分かった」
「今後も、必要に応じて調査への協力を求めます」
「応じる」
治崎は、署名欄に名前を書いた。
そこに書かれた文字は、かつて自分の組織を支配していた男の名前と同じだった。
しかし、署名をしたからといって、組織が戻るわけではない。
マグネが戻るわけでもない。
エリの失われた時間が戻るわけでもない。
彼が奪ったものは、元の形には戻らない。
「……私は、何をすればいい」
治崎が呟いた。
担当者が尋ねる。
「何か言いましたか?」
「いや」
治崎は資料を閉じた。
「今の質問は、私自身に向けたものだ」
彼は、かつて自分が何かを成し遂げれば、失ったものを取り戻せると考えていたのかもしれない。
組織の再建。
研究の完成。
自分の目的の達成。
それらを実現すれば、自分の中の何かが満たされると信じていた。
しかし、今はその道がない。
自分の行為によって、他人の未来を奪った。
自分がどれほど知識を持っていても、どれほど過去を説明できても、失われた人生を元に戻すことはできない。
それでも、何もしなくていい理由にはならない。
「調査には、引き続き協力する」
治崎は言った。
「必要な記録は提出する。知っていることも話す」
担当者は頷いた。
「その内容を記録します」
治崎は、椅子の上で目を閉じた。
償いとは、過去を帳消しにすることではない。
失ったものを取り戻すことでもない。
それでも、自分が奪ったものの大きさを認め、残された責任を引き受けること。
治崎にとって、それは終わりのない作業になるだろう。
十 未来を奪われた人に、未来を押しつけない
面談を終えた出久は、施設の外へ出た。
夕暮れの空には、薄い雲が広がっていた。
そこへ、相澤とプレゼント・マイクが歩いてきた。
「緑谷」
「相澤先生。プレゼント・マイク先生」
「治崎の証言は終わったのか?」
「はい。今後も調査に協力するそうです」
「そうか」
相澤は、簡潔に答えた。
「それで、何か変わったか?」
出久は少し考えた。
「変わったことはあると思います。でも、マグネさんが戻るわけではありません」
「当然だ」
プレゼント・マイクが静かに言った。
「償うっていうのは、失ったものを全部元に戻すことじゃないんだよな」
「はい」
「でも、元に戻らないからって、何もしなくていいわけでもない」
「そうですね」
相澤は出久を見た。
「お前は、治崎が変わったと思うか?」
出久は、すぐには答えなかった。
「まだ分かりません」
「そうだな」
「自分の行為を認めたことは、変化の一部かもしれません。でも、それだけで本当に変わったとは言えないと思います」
「その通りだ」
「これから何をするか。どれだけ正直に証言するか。被害を受けた人たちの意思を尊重できるか。そこで判断する必要があると思います」
プレゼント・マイクは頷いた。
「言葉じゃなく、行動を見続けるってことだな」
「はい」
出久は遠くを見た。
「僕は、奪われた未来の、その先へ進むという言葉を、最初は被害を受けた人たちが前に進めるようにすることだと思っていました」
「今は違うのか?」
相澤が尋ねる。
「違うというより、少し考えが増えました」
出久は続けた。
「未来へ進むことを、誰かが勝手に決めてはいけないんだと思います」
相澤は黙って聞いていた。
「被害を受けた人が、今は前に進みたくないと思うなら、その気持ちも尊重しなければならない。忘れたいと思う人もいれば、覚えていたい人もいる。謝罪を聞きたい人もいれば、二度と会いたくない人もいる」
「そうだな」
「だから、僕たちができるのは、未来を取り戻してあげることじゃなくて、その人たちが自分で未来を選べるように、必要な支援や環境を整えることなんだと思います」
プレゼント・マイクは、少しだけ笑った。
「いい考えだと思うよ」
「ただし、それも僕たちが勝手に決めてはいけないんですよね」
「そうだ」
相澤が答えた。
「結局、本人の意思を確認するところから始まる」
出久は頷いた。
奪われた未来の、その先へ。
その言葉は、誰かに前へ進むことを強制するためのものではない。
未来を選ぶ機会を奪われた人が、もう一度、自分の意思で選べるようにすること。
そのために、周囲ができることを続ける。
そして、奪った者は、失われたものが戻らない現実から逃げてはいけない。
その二つは、同時に必要だった。
十一 マグネがいた場所
数日後。
出久は、スピナーから預かった証言資料を確認していた。
そこには、マグネとの思い出がいくつか記されていた。
特別な出来事ばかりではない。
仲間と過ごした時間。
何気ない会話。
冗談。
互いの考え方が違ったときの言い合い。
そして、危険な状況でも仲間を気にかけていたこと。
出久は、その資料を読み終えた。
そこへ、根津がやってきた。
「読んだかい?」
「はい」
「どう思った?」
「事件の記録だけでは見えなかったことが、少し分かった気がします」
「そうだね。ただし、これはスピナー君の記憶だ。彼の視点から見たマグネさんの姿だということを忘れないように」
「分かっています」
出久は資料を閉じた。
「でも、こうした証言が残ることは大切だと思います」
「どうしてかな?」
「彼女が何をしたかだけでなく、誰と一緒にいて、どんなふうに生きていたのかが残るからです」
根津は頷いた。
「一人の人間を、事件の結果だけで説明することはできない」
「はい」
「しかし、過去を美化することもできない。彼女が仲間を大切にしていたことと、彼女が犯罪に関わったことは、どちらも記録されなければならない」
「それが、彼女の人生を勝手に作り変えないことにつながるんですね」
「その通り」
出久は、窓の外を見た。
「マグネさんには、これから先も生きていく時間があったはずです」
根津は、何も言わなかった。
「誰と過ごすのか。何をしたいのか。どこへ行きたいのか。何を変えたいのか。彼女自身が考える時間があったはずです」
「そうだね」
「それを、僕たちが代わりに決めることはできない」
出久は、少しだけ目を伏せた。
「だから、彼女が生きていたことも、奪われたことも、両方を記録に残したいです」
根津は微笑んだ。
「それでいいと思うよ」
十二 償いの始まり
治崎は、追加の証言を提出するため、再び面談室に呼ばれていた。
そこには、死穢八斎會の組織運営に関する資料が並んでいる。
彼は、関係者への指示や、施設内で行われた行為について、確認できる範囲で説明を続けていた。
すべてを話せば、彼にとって不利な事実も明らかになる。
それでも、彼は証言を続けた。
「この記録について、確認したいことがあります」
担当者が言った。
「何だ」
「マグネさんの件について、あなたは当初、敵対する相手を排除したと説明しました。現在も、その認識に変わりはありませんか?」
「当時の私が、そう考えていたことは事実だ」
「現在は?」
「その言葉だけでは、自分の行為を説明できないと考えている」
担当者は、ペンを止めた。
「具体的には?」
治崎は、資料を見た。
「私は、自分の計画を優先した。彼女が私の目的を妨げたため、排除した。彼女の未来がどうなるかを考えたわけではない」
「その結果、彼女は命を失った」
「そうだ」
「あなたは、それをどう受け止めますか?」
治崎は、しばらく沈黙した。
「私が、彼女の未来を奪った」
その言葉を、治崎は初めて明確に口にした。
「彼女が何を望んでいたのかは知らない。私が何を言っても、彼女の望みを取り戻すことはできない」
「では、今後は?」
「私が知っていることを隠さない。調査に協力する。関係者への指示についても、誰がどのように関わっていたのかを説明する」
「それを続けることが、あなたの考える責任ですか?」
「そうだ」
治崎は目を閉じた。
「それで許されるとは思っていない」
担当者は、記録を続けた。
「その点については、今後も確認します」
「ああ」
面談は終わった。
治崎は、部屋を出る前に一度だけ振り返った。
「一つ、聞きたい」
担当者が顔を上げる。
「何でしょう」
「私が責任を果たし続けたとして、それで何かが変わるのか」
担当者は、少し考えた。
「失われたものは戻りません。それでも、あなたの証言によって事実が明らかになることはあります。被害を受けた人々への支援につながることもあります。今後同じことが起きる可能性を減らすこともできます」
「それだけか」
「それだけではないでしょう。ただし、その結果をあなたが自分のために決めることはできません」
治崎は、黙って聞いていた。
「責任を果たしたことで、誰かがあなたを許すかもしれない。許さないかもしれない。関わりたくないと言うかもしれない。それは相手の意思です」
「……そうか」
「あなたが引き受けるべきことは、相手がどんな答えを出しても、事実を隠さず、必要な行動を続けることです」
治崎は、短く頷いた。
そして部屋を出た。
十三 未来を返せない者の責任
夜。
出久は、雄英の自室で、今日の記録をまとめていた。
机の上には、マグネの証言資料、治崎の面談記録、スピナーとトガの書面が並んでいる。
彼は、一枚の紙に言葉を書き込んだ。
『償いは、失われたものを元に戻すことではない』
その下に続ける。
『奪われた未来を、奪われた本人に代わって作り直すこともできない』
さらに、その下に。
『それでも、奪った者には責任が残る。』
出久はペンを置いた。
この言葉は、治崎だけに向けたものではない。
誰かの人生を、自分の都合で変えてしまった者。
誰かの意思を無視して、未来を決めてしまった者。
自分の正義や目的を理由に、相手の選択肢を奪った者。
それぞれが、失われたものを取り戻せない現実と向き合わなければならない。
もちろん、責任を果たすことと、被害を受けた人が前へ進むことは別だ。
加害者が責任を果たしたからといって、被害者が立ち直る義務を負うわけではない。
被害者が立ち止まっているからといって、加害者が責任を放棄していいわけでもない。
その二つは、それぞれ別の道として続いていく。
出久は、ノートを閉じた。
「……奪われた未来の、その先へ」
呟いた言葉が、部屋の中に静かに響く。
その未来を選ぶ権利は、誰かに奪われた人自身のものだ。
周囲は、その選択を支えることしかできない。
そして、奪った者は、戻らないものを戻ったことにしてはいけない。
それが、今の出久に見えた答えだった。
十四 まだ、終わらない
翌朝。
出久は、復興支援センターへ向かう途中で、スピナーから受け取った資料の写しを確認していた。
そこには、マグネの名前が記されている。
敵連合の一員。
死穢八斎會との交戦で死亡。
仲間たちの証言。
彼女に関する記録は、これからも追加されていくかもしれない。
だが、それが増えたとしても、彼女の人生をすべて知ることはできない。
「緑谷くん」
声をかけてきたのは、相澤だった。
「どうした?」
「資料を確認していました」
「治崎の件か」
「はい」
相澤は、出久の隣に立った。
「今回の件で、何か分かったか?」
「責任を果たすことと、相手が許すことは別だということです」
「それは、前にも話したな」
「はい。でも、今回はもう一つあります」
出久は、資料を閉じた。
「本人が亡くなっている場合、許すかどうかを聞くことさえできない。だから、仲間が代わりに答えてはいけないんだと思いました」
「そうだな」
「彼女を覚えている人が、彼女について語ることはできる。でも、それを彼女の答えにすることはできない」
相澤は頷いた。
「亡くなった人間の意思を、生きている人間の都合で作り変えるな。それが今回の教訓だ」
「はい」
「そして、治崎が責任を果たしたからといって、マグネの未来が戻るわけじゃない」
「はい」
相澤は歩き始めた。
「だから、調査を続ける。記録を残す。被害を受けた人たちへの対応を続ける。できることを一つずつやるしかない」
出久は、相澤の後を追った。
復興の進む街には、いくつもの人々の生活がある。
失われたものを抱えながら暮らす人。
新しい生活を始めようとする人。
まだ前へ進むことを望めない人。
そして、これから何を選ぶのか考え続ける人。
その全員に、未来を選ぶ権利がある。
誰かの正義によって、その選択を奪われてはならない。
出久は、空を見上げた。
戦いは終わった。
後始末も、一つずつ進んでいる。
けれど、責任は続く。
そして、まだ向き合うべき人々がいる。
その中には、白雲朧という名前を持つ人間もいた。
相澤とプレゼント・マイクが、長い間、取り戻したいと願ってきた友人。
同時に、黒霧という人格と記憶を持つ存在。
白雲という名前に戻せば、すべてが解決するわけではない。
彼が何を覚えていて、何を望み、どのような存在として生きていきたいのか。
それを決めるのは、彼自身だった。
「次は……白雲さんたちのことか」
出久は呟いた。
誰かの未来を、周囲が勝手に決めないこと。
それは、亡くなった人だけの問題ではない。
生きている人にも、同じように必要なことだった。
奪われた未来の、その先へ。
誰かが代わりに答えを出すのではなく、本人が選べる可能性を残すために。
第八十話・了