僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第八十一話「白雲朧と、黒霧の明日」

一 お前は、誰なんだ

病院の面会区画。

 

白雲朧は、窓の近くに置かれた椅子に座っていた。

 

身体の状態は、以前より安定している。

 

しかし、完全な回復には程遠い。

 

治療を続けながら、記憶の確認や意思疎通の訓練も行われていた。

 

彼の中には、二つの名前に結びつく記憶が存在している。

 

白雲朧。

 

かつて雄英高校に在籍し、相澤消太や山田ひざしと共にヒーローを目指した少年。

 

黒霧。

 

死柄木弔を支え、敵連合の一員として行動し、ワープゲートの個性を使って仲間を移動させていた存在。

 

どちらかの記憶が、もう一方を完全に消してしまうわけではない。

 

白雲は、目の前の記録用紙を見ていた。

 

そこには二つの名前が並んでいる。

 

『白雲朧』

 

『黒霧』

 

その下には、担当者による説明が添えられていた。

 

『現在確認されている記憶と、本人の認識について、継続的な確認が必要。現段階で、どちらか一方の人格や記憶のみを本人の全体として扱うことは適切ではない』

 

白雲は、その文章を何度も読んだ。

 

「……どっちなんだろうな」

 

自分に向かって呟く。

 

白雲として過ごした時間は、確かに覚えている。

 

仲間たちとの訓練。

 

屋上で話した未来。

 

相澤の不愛想な返事。

 

山田の大きな声。

 

そして、自分がそこにいたこと。

 

一方で、黒霧としての記憶も残っている。

 

死柄木を迎えに行ったこと。

 

敵連合の拠点で仲間たちを待っていたこと。

 

彼らの帰還を支え、次の行動に備えたこと。

 

その時間も、白雲の中に残っている。

 

「白雲だった頃の自分だけが、本当の自分なのか」

 

答えは出ない。

 

「黒霧として過ごした時間は、全部偽物なのか」

 

それも分からない。

 

自分の身体が、何者かによって改造されたことは分かっている。

 

自分の意思とは無関係に、身体や能力、行動が変化させられたことも。

 

しかし、黒霧として過ごした時間に、何も感じていなかったとは思えなかった。

 

死柄木のことを守るべき対象として認識していた。

 

敵連合の仲間たちを、自分の役割の中で守ろうとしていた。

 

その行動が、自分の意思によるものだったのか。

 

改造や命令によって形成されたものだったのか。

 

あるいは、その両方が混ざっていたのか。

 

簡単には分けられない。

 

「……俺は、何だったんだろうな」

 

そのとき、扉をノックする音が響いた。

 

「白雲さん。面会の方がお見えです」

 

白雲は顔を上げた。

 

「誰?」

 

「相澤消太さんと、山田ひざしさんです」

 

彼は、少しだけ目を伏せた。

 

それから答えた。

 

「会います」

 

二 久しぶりだな、朧

面会室の扉が開く。

 

最初に入ってきたのは、相澤消太。

 

その後ろから、プレゼント・マイク――山田ひざしが続いた。

 

「よお、朧」

 

山田が声をかけた。

 

その瞬間、白雲の表情がわずかに揺れた。

 

朧。

 

その名前を呼ばれたことが、懐かしかったのか。

 

それとも、懐かしいという感情そのものに戸惑ったのか。

 

彼自身にも、まだ分からない。

 

「……久しぶり」

 

白雲は答えた。

 

相澤は、向かいの椅子に座る。

 

「体調はどうだ」

 

「まあまあ。昨日よりはいい」

 

「そうか」

 

「お前は?」

 

「俺はいつも通りだ」

 

「嘘つけ。顔が疲れてるぞ」

 

「お前に言われたくない」

 

以前と似たやり取りだった。

 

それが懐かしくて、白雲は少し笑った。

 

山田も笑う。

 

「おお! 今のは昔みたいだったぞ!」

 

「マイク、声が大きい」

 

「悪い悪い! 病院だからな!」

 

「分かってるなら、最初から小さくしろ」

 

「相変わらず厳しいな、相澤!」

 

笑い声が一度、面会室に広がった。

 

しかし、すぐに静かになる。

 

三人の間に、長い時間が流れた。

 

昔のように話している。

 

けれど、昔と同じではない。

 

「朧」

 

相澤が口を開いた。

 

「今、そう呼んでいいか?」

 

白雲は少し驚いたように相澤を見る。

 

「いいよ」

 

「分かった」

 

「……でもさ」

 

白雲は、二人を見た。

 

「お前たちは、俺を白雲朧として見ているんだろ?」

 

山田が答えた。

 

「もちろんだ」

 

「黒霧じゃなくて?」

 

「お前は朧だ」

 

山田は、迷わず言った。

 

その言葉に、白雲の表情が変わった。

 

「……それだけなのか?」

 

「え?」

 

「俺が黒霧として過ごした時間は、どうなる?」

 

山田は言葉を止めた。

 

相澤も、すぐには答えなかった。

 

「俺は、黒霧として死柄木を守っていた。敵連合の仲間たちを移動させていた。彼らのために動いていた」

 

「分かっている」

 

相澤が答えた。

 

「その記録は残っている」

 

「俺の中にも残っているんだ」

 

白雲は、自分の胸元に手を置いた。

 

「俺が覚えている。俺が経験したと思っている。あの時間が、まるごと消えたわけじゃない」

 

山田は、ゆっくり頷いた。

 

「そうだな」

 

「それでも、お前たちは俺を昔の白雲に戻したいんだろ?」

 

相澤は目を伏せた。

 

「俺たちは、お前に戻ってきてほしかった」

 

「……」

 

「昔の友人に、もう一度会いたかった。それは事実だ」

 

「相澤」

 

山田が、少しだけ声を落とす。

 

しかし相澤は続けた。

 

「だが、それを理由に、お前が今どう感じているかを無視するつもりはない」

 

白雲は、相澤の顔を見た。

 

「俺は、昔のお前たちに会いたいと思っている。けれど、俺がどういう存在なのかを、お前たちだけで決めないでほしい」

 

相澤は、静かに頷いた。

 

「分かった」

 

その言葉は、簡単な答えではなかった。

 

しかし、二人が白雲に会うために、最初に越えなければならないものだった。

 

三 黒霧として過ごした時間

「一つ、聞いてもいいか」

 

白雲が言った。

 

「ああ」

 

相澤が答える。

 

「お前たちは、黒霧のことをどう思ってる?」

 

山田は少し考えた。

 

「敵だった」

 

「うん」

 

「俺たちを襲ったこともある。生徒たちを危険にさらしたこともある。死柄木たちを支えて、敵連合の活動を続けていた」

 

山田は、正直に言った。

 

「でも、今のお前を見ていると、それだけで片付けることはできない」

 

「どうして?」

 

「お前が、俺たちの友達だったからだ」

 

白雲は黙っていた。

 

「黒霧として何をしたのか。それは、きちんと調べなきゃいけない。誰が命令を出していたのか。どこまでお前に意思があったのか。どんな状態だったのか」

 

山田は続けた。

 

「でも、今ここにいるお前を、昔の友達という理由だけで全部許すつもりもない」

 

白雲は目を伏せた。

 

「……そうか」

 

相澤が言った。

 

「お前がした行動に関する調査と、お前の身体や意思に対する医療的な検証は分ける。改造されたことは重要な事実だ。だが、それだけで全ての行動について、結論を決めることはできない」

 

「じゃあ、俺はどうなる?」

 

「今後、調査が進む」

 

「それだけ?」

 

「現段階で、すべてを断言することはできない」

 

白雲は、少しだけ笑った。

 

「お前らしいな」

 

「分からないことを、分かったとは言わない」

 

「昔からそうだった」

 

山田が、二人を見た。

 

「でもよ、朧。俺たちが知りたいのは、調査の結果だけじゃないんだ」

 

「何だよ」

 

「お前自身が、どうしたいのかだ」

 

白雲は黙った。

 

「黒霧としての記憶を消したいのか。それとも、残しておきたいのか。白雲朧という名前で生きたいのか。黒霧という名前をどう受け止めているのか」

 

山田は、ゆっくりと話した。

 

「俺たちは、お前がどんな答えを出しても、まず聞きたいと思ってる」

 

「……本当に?」

 

「本当だ」

 

「たとえば、俺が黒霧と呼ばれたいと言ったら?」

 

山田は答えに詰まった。

 

相澤も少しだけ表情を硬くした。

 

その反応を見て、白雲は苦笑した。

 

「やっぱり、嫌か」

 

「嫌だと言いたいわけじゃない」

 

相澤が答えた。

 

「俺たちにとって、黒霧は敵として対峙した存在だ。お前の名前をそのまま呼びたいと思っているわけじゃない」

 

「そうだろうな」

 

「だが、お前がその名前をどう受け止めているかまで、俺たちが決めることではない」

 

山田は頷いた。

 

「俺は、朧って呼びたい。でも、それをお前に強制するつもりはない」

 

「……」

 

「お前が今、自分をどう呼んでほしいのか。それを聞かせてくれればいい」

 

白雲は窓の外を見た。

 

「まだ、分からない」

 

「そうか」

 

「白雲だった頃の記憶は、確かに俺の中にある。でも、黒霧として過ごした時間も覚えている」

 

「うん」

 

「黒霧として誰かを守ろうとした自分がいた。それを、全部偽物だったと言うのは嫌だ」

 

山田は、静かに聞いていた。

 

「でも、その時間があったからといって、自分の行動が全部正しかったとも思わない」

 

白雲は続けた。

 

「黒霧として、俺は敵連合を支えていた。彼らの行動に関わっていた。そこに何があったのか、これから調べる必要がある」

 

「そうだな」

 

相澤が答えた。

 

「俺は、白雲朧として生きてきた過去を持っている。黒霧として生きた経験も持っている。でも、今の俺がどちらなのかは、すぐに決められない」

 

白雲は、二人を見た。

 

「それを決める時間が欲しい」

 

「分かった」

 

相澤は、すぐに答えた。

 

「待つ」

 

山田も頷いた。

 

「俺も待つよ」

 

四 お前を取り戻したいという願い

面会の後。

 

相澤と山田は、病院の廊下を歩いていた。

 

二人とも、すぐには口を開かなかった。

 

やがて、山田が足を止めた。

 

「相澤」

 

「何だ」

 

「俺たち、朧に会えたんだよな」

 

「ああ」

 

「でも、会えたからって、元に戻ったわけじゃない」

 

「そうだ」

 

山田は、壁に背中を預けた。

 

「俺は、ずっと朧を取り戻したいと思ってた」

 

相澤は黙って聞いていた。

 

「昔の三人で、また笑いたいと思ってた。あの頃みたいに、くだらない話をして、ヒーローの夢を語って」

 

「俺も同じだ」

 

「でも、それは俺たちの望みなんだよな」

 

山田は、少し顔を伏せた。

 

「朧が今、何を望んでいるのかとは別なんだ」

 

相澤は頷いた。

 

「俺たちが友人を取り戻したいと思うことは、間違いじゃない」

 

「うん」

 

「だが、その願いを理由に、今のあいつを否定してはいけない」

 

山田は、少しだけ笑った。

 

「お前がそれを言うとはな」

 

「どういう意味だ」

 

「昔から、朧のことになると、何でも一人で抱え込んでいた」

 

「……余計なお世話だ」

 

「お前は、朧が生きていると分かったとき、昔の朧を取り戻すことばかり考えていたんじゃないか?」

 

相澤は答えなかった。

 

その沈黙が、答えだった。

 

彼はずっと、白雲朧を取り戻したいと思っていた。

 

もう一度、友人と話したい。

 

かつての約束を思い出したい。

 

三人でヒーローを目指していた頃の時間を、もう一度取り戻したい。

 

その願いは、嘘ではない。

 

しかし、その願いを叶えるために、目の前にいる人間が黒霧として過ごした時間を否定してしまえば、彼はまた誰かに自分の存在を決められることになる。

 

「俺は、あいつに昔へ戻ってほしいと思っている」

 

相澤は、静かに言った。

 

「だが、あいつが戻りたいと思っているとは限らない」

 

「そうだな」

 

「それに、戻れるとも限らない」

 

山田は頷いた。

 

「俺たちが望んでいることと、朧が選ぶことは違う」

 

「……そうだ」

 

相澤は、病室の扉を振り返った。

 

「次に会うときは、あいつが何を望んでいるのかを聞く」

 

「名前も?」

 

「ああ」

 

「黒霧という時間についても?」

 

「本人が話したければ聞く」

 

「聞きたくないことも?」

 

「無理に聞かない」

 

山田は、少しだけ笑った。

 

「それなら、少しずつやっていけそうだな」

 

「最初から、そうするべきだった」

 

相澤は言った。

 

「俺たちは、あいつに会いたいという気持ちを優先していた」

 

「俺もだよ」

 

山田は窓の外を見た。

 

「でも、これからは朧が何を選ぶのか、ちゃんと聞こう」

 

二人は、再び歩き始めた。

 

五 記憶を取り戻すということ

数日後。

 

白雲は、担当医と心理支援担当者による面談を受けていた。

 

机の上には、記憶の整理に使う資料が置かれている。

 

「白雲さん。以前から、記憶の一部が思い出されることがあると話していましたね」

 

「はい」

 

「どのような内容ですか?」

 

「昔の学校のこと。相澤と山田のこと。それから、黒霧として過ごしていたときのことです」

 

「どちらの記憶も、現在のあなたにとって重要だと感じますか?」

 

白雲は少し考えた。

 

「重要かどうかは分からない。でも、どちらも俺の中にある」

 

「記憶を思い出すことに、負担はありますか?」

 

「あります」

 

「どのようなときに?」

 

「昔の記憶と、黒霧としての記憶が重なるときです」

 

白雲は自分の手を見た。

 

「たとえば、相澤の顔を見ていると、昔の教室を思い出す。でも、その直後に、敵連合の拠点で彼を警戒していた記憶も出てくる」

 

「その二つが混ざる?」

 

「混ざるというより、どちらも同じくらいはっきりしているときがある」

 

担当者は頷いた。

 

「無理にどちらかを消そうとする必要はありません。今は、思い出せることと、思い出せないことを整理していきましょう」

 

「もし、黒霧としての記憶を消せたら?」

 

「そのような処置を、本人の意思を確認せずに行うことはできません。そもそも、記憶を安全に選んで消すことができると決まっているわけでもありません」

 

「そうですか」

 

「治療の目的は、あなたが過去の記憶を無理なく扱えるようにすることです。本人が望まない記憶の回復を強制することはありません」

 

白雲は、少しだけ安堵した。

 

「じゃあ、思い出したくないことは、思い出さなくてもいい?」

 

「はい。ただし、事件の調査に必要な確認がある場合は、目的や範囲を説明し、あなたの状態を考慮しながら進めます」

 

「分かりました」

 

担当者は次の資料を出した。

 

「もう一つ、個性についても確認したいことがあります」

 

白雲は、ゆっくり視線を向けた。

 

ワープゲート。

 

黒霧として行動する際に使用していた個性。

 

その力が、今の自分の身体にどのように残っているのか。

 

そして、どこまで自分の意思で扱えるのか。

 

「現在は、安全性の確認が終わっていません。あなたの意思だけで能力を使用することは認められません」

 

「分かっています」

 

「能力を使えるかどうかと、あなたがどの名前を受け入れるかは、別の問題です」

 

「……そうですね」

 

「個性を使えるから黒霧だとか、使えないから白雲だとか、そうした判断はしません」

 

白雲は少し笑った。

 

「それは、ありがたいです」

 

担当者は記録を続けた。

 

「今後の治療について、あなたが希望することはありますか?」

 

白雲は少し考えた。

 

「まず、自分が何を覚えているのかを整理したいです」

 

「分かりました」

 

「それから、ワープゲートについても、今後どうするのか考えたい。使うのか、使わないのか、そもそも使えるようにする必要があるのか」

 

「現段階では、結論を急がない方がいいでしょう」

 

「はい」

 

白雲は頷いた。

 

「俺が黒霧だったから、この個性を使わなければいけないわけじゃない。白雲だったから、使ってはいけないわけでもない」

 

「その通りです」

 

「俺がどうしたいのかを、ちゃんと考えたい」

 

「その意思を尊重します」

 

面談を終えた白雲は、窓の外を見た。

 

記憶を取り戻すことが、過去に戻ることではない。

 

何を覚えているのかを知ること。

 

その記憶を、これからの自分がどう受け止めるのかを考えること。

 

それは、誰かに代わってもらうことのできない作業だった。

 

六 友人の名前と、敵の名前

次の面会の日。

 

相澤と山田は、再び白雲のもとを訪れた。

 

「今日は何の話をする?」

 

白雲が尋ねる。

 

「前回の続きだ」

 

相澤が答えた。

 

「お前の希望を聞きに来た」

 

「名前のこと?」

 

「ああ」

 

山田は少しだけ笑った。

 

「俺たちは、朧って呼びたいと思ってる。でも、前に話した通り、それを押しつけるつもりはない」

 

白雲は頷いた。

 

「俺も、考えてた」

 

「どうだ?」

 

「今は、白雲朧と呼んでほしい」

 

二人の顔が変わった。

 

「ただし」

 

白雲は続けた。

 

「黒霧という名前を、なかったことにしないでほしい」

 

山田は黙って聞いた。

 

「俺が黒霧として過ごした時間は残っている。黒霧という名前で呼ばれていたときに、俺が何をしたのかも覚えている」

 

「分かった」

 

相澤が答えた。

 

「その記録は消さない」

 

「それから、いつか黒霧という名前を自分で受け入れることがあるかもしれない。逆に、受け入れたくないと思うかもしれない」

 

「どちらでもいい」

 

山田が言った。

 

「そのときに、また教えてくれればいい」

 

白雲は少し笑った。

 

「そんなに簡単に言うなよ」

 

「簡単じゃないさ」

 

山田は、少しだけ表情を曇らせた。

 

「俺は、黒霧としてのお前を見たくないと思うこともある。お前が死柄木たちを支えていたことを考えると、今でも怒りが湧く」

 

白雲は、静かに聞いていた。

 

「でも、俺は、お前が黒霧と呼ばれていた時間を消したいわけじゃない」

 

「……」

 

「そこにいたのも、お前だったんだろ?」

 

白雲は、すぐには答えなかった。

 

「分からない」

 

「そっか」

 

「自分で決めたことと、決めさせられたことが、どこまで分かれているのかも分からない」

 

相澤が口を開く。

 

「それは、調査と治療を続けて確認する。だが、お前の認識そのものを、俺たちが決めることはできない」

 

「ありがとう」

 

白雲は続けた。

 

「だから、今は白雲朧でいたい。昔の名前だからという理由だけじゃない。今の俺が、その名前で呼ばれたいと思っているから」

 

山田は、顔を上げた。

 

「分かった。じゃあ、今日は朧だ」

 

相澤も頷く。

 

「白雲」

 

「何だ?」

 

「今後も、そう呼ぶ」

 

白雲は、少しだけ笑った。

 

「うん」

 

しかし、彼はすぐに続けた。

 

「でも、それで全部解決したと思わないでくれよ」

 

「思わない」

 

相澤は答えた。

 

「名前を選んだことと、記憶や人格の問題が解決したことは別だ」

 

「そうだ」

 

山田が頷いた。

 

「今日の答えは、今日の答えだ。明日、変わってもいい」

 

白雲は、窓の外を見た。

 

「それなら、少し安心した」

 

七 黒霧としての責任

「もう一つ、話しておきたいことがある」

 

白雲が言った。

 

相澤と山田は、彼に視線を向けた。

 

「黒霧としての行動についてだ」

 

「……ああ」

 

相澤が答える。

 

「俺は、死柄木を守ろうとしていた」

 

白雲は、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「彼を移動させた。敵連合の仲間たちを支援した。彼らが危険な状況に陥ったとき、俺は彼らを助けようとしていた」

 

「その記憶は残っているんだな」

 

「残っている」

 

「何か、自分の意思として感じているか?」

 

相澤の質問に、白雲は少し迷った。

 

「全部を自分の意思だったと言うのは難しい。けれど、全部が自分の意思ではなかったと言い切ることもできない」

 

「そうか」

 

「俺は、自分がどんな状態に置かれていたのか、まだ分からない。誰が何を変えたのか。どの記憶がどう形成されたのか。どこまで自分で考えていたのか」

 

白雲は二人を見た。

 

「でも、黒霧としての行動が、誰かに被害を与えたことは知っている」

 

「その通りだ」

 

相澤は否定しなかった。

 

「だから、今後の調査に協力したい」

 

「分かった」

 

「俺の状態を確認することも必要だと思う。身体への改造や、意思決定への影響についても」

 

山田が言った。

 

「無理をするなよ。今の身体で、全部を調べる必要はない」

 

「分かってる」

 

「体調が悪くなったら、そこで中断していい」

 

「うん」

 

白雲は少し笑った。

 

「二人とも、昔から心配性だな」

 

「お前が無茶をするからだ」

 

相澤が答えた。

 

「そうだったかな」

 

「そうだ」

 

山田も頷いた。

 

「昔も、勝手に突っ走って、俺たちが後から追いかけることが多かった」

 

「マイクに言われたくないな」

 

「何だと!」

 

少しだけ、昔の空気が戻った。

 

しかし、白雲はその後、真剣な表情に戻った。

 

「俺は、黒霧としての責任をどう考えればいいのか、まだ分からない」

 

「今すぐ結論を出す必要はない」

 

相澤が答えた。

 

「改造や意思への影響は、きちんと調査する。ただし、被害を受けた人々の存在も忘れてはいけない。お前がどのような状態だったのかと、実際に何が起きたのかは、両方確認する」

 

「分かった」

 

「そして、調査の結果を待たずに、自分をすべて悪いと決めつける必要もない」

 

白雲は相澤を見た。

 

「逆に、すべて仕方なかったと考える必要もない?」

 

「そうだ」

 

相澤は頷いた。

 

「分からないことは、分からないままでいい。事実を確認する前に、自分で自分を裁くな」

 

山田も続けた。

 

「俺たちだって、お前の過去を全部知っているわけじゃない。だから、昔の友人だからといって、勝手にお前を許すことも、全部を否定することもしない」

 

「ありがとう」

 

白雲は、静かに答えた。

 

「俺も、自分で考えていく」

 

八 昔の約束

面会の終わりが近づいた頃。

 

山田が、少しだけ身を乗り出した。

 

「なあ、朧」

 

「何だ?」

 

「覚えてるか?」

 

「何を?」

 

「俺たちが、三人でヒーローになろうって話してたこと」

 

白雲は、目を細めた。

 

「……覚えてる」

 

「俺が有名になって、相澤が面倒くさそうにして、朧が間に入るんだ」

 

「それ、俺がいつも間に入る役だったのか?」

 

「そうだろ!」

 

「いや、お前が騒ぎを起こして、相澤が怒って、俺まで巻き込まれてただけだろ」

 

「細かいことはいいんだよ!」

 

「細かくないだろ」

 

三人の間に笑いが生まれた。

 

山田は、少しだけ目を伏せた。

 

「俺は、あの約束を覚えている」

 

「俺も」

 

白雲が答える。

 

「でも、今から同じようにヒーローを目指せるかは分からない」

 

「無理に目指す必要はない」

 

相澤が言った。

 

「お前が何をしたいかを考えればいい」

 

「……」

 

「昔の約束を守ることが、今のお前の義務ではない」

 

白雲は相澤を見た。

 

「お前は、あの約束をどう思ってる?」

 

「大切な記憶だ」

 

「今でも?」

 

「ああ」

 

相澤は迷わなかった。

 

「だが、約束は相手の人生を縛るためにあるものじゃない」

 

山田は、ゆっくり頷いた。

 

「俺もそう思うよ。あの頃の俺たちが何を夢見ていたかは、忘れたくない。でも、今のお前に、同じ夢を持てとは言わない」

 

「……そうか」

 

白雲は、少しだけ笑った。

 

「じゃあ、別のことを約束してくれ」

 

「何だ?」

 

「次に来るときも、普通に話してくれ」

 

相澤は少しだけ眉を動かした。

 

「普通に?」

 

「そう。調査のことばかり聞くんじゃなくて、昔みたいにくだらない話もしてほしい」

 

山田がすぐに笑った。

 

「それなら得意だ!」

 

「お前は、ちょっと静かにしてほしい」

 

「ひどい!」

 

相澤は、わずかに口元を緩めた。

 

「分かった。次も来る」

 

「俺も来るぞ!」

 

「声が大きい」

 

「分かってるって!」

 

白雲は笑った。

 

それは、昔とまったく同じ笑顔ではない。

 

けれど、昔の記憶と今の感情が、少しだけ同じ場所に並んだような笑顔だった。

 

九 名前を決めるということ

その日の面会後、白雲は担当者に一つの希望を伝えた。

 

「今後の面会では、白雲朧と呼んでほしいです」

 

「分かりました」

 

「ただし、記録上の黒霧という名前も残してください」

 

「その点は、これまでの記録と同様に扱います」

 

「それから、今後、俺自身が別の呼び方を希望することがあれば、変更を相談したい」

 

担当者は頷いた。

 

「可能な範囲で対応します。名前をどう受け止めるかについては、今後も本人の意思を確認していきます」

 

「ありがとうございます」

 

白雲は、少し考えてから続けた。

 

「ただ、俺はまだ、黒霧という名前をどう考えればいいのか分かっていません」

 

「はい」

 

「その名前を嫌だと思うときもある。でも、黒霧として過ごした時間があったことを、全部なかったことにしたいわけでもない」

 

「無理にどちらかの感情に決める必要はありません」

 

「そうですね」

 

担当者は、記録に追記した。

 

『本人は現時点で、面会時には「白雲朧」と呼ばれることを希望している。一方で、「黒霧」としての記録や経験を消去することは望んでいない。今後の呼称や自己認識については、本人の意思を継続して確認する』

 

白雲は、その文章を確認した。

 

「これでいいです」

 

「分かりました」

 

彼は、記録用紙を見つめた。

 

名前は、他人が勝手に決めるものではない。

 

昔の名前だから正しいとも限らない。

 

長く使っていた名前だから、これからも受け入れなければならないわけでもない。

 

どの名前を選ぶのか。

 

何を自分の一部として受け止めるのか。

 

そして、何を自分の未来に持っていくのか。

 

その選択を、自分自身で考える時間が必要だった。

 

十 黒霧という役割の中にいた者

その夜。

 

白雲は、記憶の整理を続けていた。

 

机の上には、担当者と一緒に作った記録の一覧がある。

 

『白雲朧としての記憶』

 

『黒霧としての記憶』

 

『現在の本人の認識』

 

三つの欄に分けて、思い出せることを整理していく。

 

黒霧として、死柄木弔を守っていた。

 

敵連合の仲間たちを安全な場所へ移動させていた。

 

彼らが戻ってくる場所を整え、食事や生活に必要なものを用意していた。

 

それは、彼に与えられた役割だった。

 

同時に、彼の中には、その役割を果たすことに意味を感じていた記憶も残っている。

 

死柄木を見ていたときの感覚。

 

仲間たちを迎えたときの感覚。

 

その記憶を、すべて誰かに書き換えられたものだと断言できるのか。

 

まだ分からない。

 

「……俺は、あの子を守っていた」

 

白雲は呟いた。

 

死柄木のことを思い出す。

 

彼は、誰かに助けられたかったのだろうか。

 

誰かに認められたかったのだろうか。

 

それとも、世界そのものを壊すことだけを望んでいたのだろうか。

 

黒霧としての記憶の中では、彼を守ることが役割だった。

 

だが、役割を果たすことが、彼の行動を正当化するわけではない。

 

「俺は、あの子を守っていたつもりだった」

 

白雲は、手を止めた。

 

「でも、そのために誰かを傷つけたこともある」

 

それは、自分の中に残っている事実だった。

 

彼は、記録用紙に書き込む。

 

『黒霧として行った行動について、自分がどのような意思で判断していたのか、現段階では明確に説明できない。改造による影響と本人の認識を分けて確認する必要がある。ただし、当時の活動によって他者に被害が生じたことは、調査の対象として受け止める』

 

ペンを置く。

 

白雲は、深く息を吐いた。

 

答えが出たわけではない。

 

それでも、分からないことを分からないまま記録することはできた。

 

それは、今の自分にできる最初の一歩だった。

 

十一 友人として、教師として

翌週。

 

相澤と山田は、再び白雲の面会を訪れた。

 

今回は、面会室に入る前から、山田が何かを持っている。

 

「何を持ってきたんだ?」

 

相澤が尋ねる。

 

「昔の写真だよ!」

 

「何で今さら」

 

「いいだろ! 朧にも見せたかったんだ!」

 

「本人が見たいか確認したのか」

 

「確認した!」

 

山田は得意げに写真を掲げた。

 

相澤は、少しだけ眉を寄せる。

 

「ならいい」

 

扉が開く。

 

白雲は二人を見ると、少し笑った。

 

「何だよ、その顔」

 

「お土産だよ!」

 

「また騒がしいな」

 

「今日はこれでも抑えてる!」

 

「抑えてその声か」

 

相澤が突っ込んだ。

 

山田は、写真を机に置いた。

 

そこには、三人で写った昔の写真があった。

 

まだ若く、何も知らず、未来を当然のように語っていた頃。

 

白雲は、写真を手に取った。

 

「……懐かしいな」

 

「ああ」

 

相澤は、隣に座った。

 

「このとき、お前が変な顔をしていたんだ」

 

「何だよ、変な顔って」

 

「お前が写真を撮る直前に、山田が余計なことを言ったからだ」

 

「俺のせいかよ!」

 

「違うのか?」

 

「違う!」

 

白雲は笑った。

 

「まあ、確かにこのときは変な顔してたな」

 

三人は、しばらく写真を見ていた。

 

そして、白雲が尋ねた。

 

「お前らは、これからどうするんだ?」

 

「教師を続ける」

 

相澤が答えた。

 

「もちろん!」

 

山田も頷く。

 

「生徒たちも、これから先の社会を作っていく。俺たちが教えられることは、まだあると思ってる」

 

「そうか」

 

「ただし、昔みたいに、何も考えずに夢だけ語るわけにはいかないけどな」

 

山田は苦笑した。

 

相澤が続ける。

 

「お前が今後、どういう立場で生きるかは分からない。俺たちの仕事に戻る必要もない」

 

「……」

 

「ただ、会いたいときには連絡してくれ。面会の手続きも、できる範囲で続ける」

 

山田は少しだけ笑った。

 

「もちろん、俺たちからも会いに来るぞ」

 

白雲は写真を机に置いた。

 

「ありがとう」

 

それから、少し考えて言った。

 

「俺は、まだ自分が何をしたいのか分からない」

 

「そうか」

 

「何か役に立ちたいと思うことはある。でも、今すぐ誰かを助ける仕事をしたいのか、自分でも分からない」

 

「それでいい」

 

相澤は答えた。

 

「無理に役割を決めるな」

 

「でも、何もできないままなのも嫌だ」

 

「何もしないことと、何もできないことは違う」

 

相澤は、落ち着いた声で続けた。

 

「今は治療を受ける。自分の状態を知る。必要な調査に協力する。それも、今のお前にできることだ」

 

「そうだな」

 

「将来、何かをしたいと思ったときに考えればいい」

 

山田も頷く。

 

「そのときに、俺たちが手伝えることがあれば手伝うよ」

 

白雲は二人を見た。

 

「昔みたいに、俺が間に入って、二人の喧嘩を止める役になるかもしれないぞ」

 

「俺は喧嘩してない!」

 

山田が叫ぶ。

 

「声が大きい」

 

相澤が即座に言った。

 

白雲は笑った。

 

「やっぱり、変わらないな」

 

「変わったところもあるさ」

 

山田は、少しだけ真剣な顔になった。

 

「俺たちは、あの頃と同じじゃない。お前も同じじゃない。でも、変わったからといって、友人でなくなるわけじゃないだろ」

 

白雲は、その言葉をしばらく考えた。

 

「……そうだな」

 

相澤は、静かに頷いた。

 

「これからの関係は、これから作ればいい」

 

十二 明日を決めるのは、本人だ

面会の帰り。

 

相澤と山田は、病院の外で立ち止まった。

 

「今日は、少しよかったな」

 

山田が言う。

 

「ああ」

 

「朧、笑ってたな」

 

「そうだな」

 

「昔のあいつみたいだった」

 

相澤は、少しだけ考えた。

 

「昔と同じに見えたから、よかったわけじゃない」

 

「え?」

 

「今のあいつが、笑ったからだ」

 

山田は、相澤を見た。

 

「……そうだな」

 

相澤は続ける。

 

「昔に戻ったわけじゃない。今のあいつが、今の自分で笑った。それが大事なんだ」

 

山田は、ゆっくり頷いた。

 

「俺たちは、朧を取り戻したかった。でも、本当に必要だったのは、今の朧に会うことだったのかもしれない」

 

「ああ」

 

二人は歩き始めた。

 

一方、病室では白雲が一人、窓の外を見ていた。

 

机の上には、昔の写真が置かれている。

 

その横には、黒霧としての活動記録。

 

二つの名前が、同じ場所に並んでいた。

 

白雲は、写真を手に取る。

 

「白雲朧」

 

自分の名前を口にする。

 

次に、活動記録を見る。

 

「黒霧」

 

こちらも、口にしてみる。

 

どちらの名前にも、記憶がつながっている。

 

そして、どちらの名前にも、まだ整理できない感情が残っていた。

 

「……俺は、これからどうするんだろうな」

 

答えは出ない。

 

けれど、今はそれでよかった。

 

明日になれば、また治療がある。

 

記憶の確認がある。

 

必要な調査への協力もある。

 

相澤と山田が、また会いに来るかもしれない。

 

そのときには、もう少し話せることが増えているかもしれない。

 

あるいは、何も話せない日もあるかもしれない。

 

それでも、自分で決めていけることがある。

 

今日は、白雲朧と呼んでほしい。

 

黒霧として過ごした時間も、記録から消さない。

 

明日、その気持ちが変わるかもしれない。

 

変わったなら、改めて考えればいい。

 

名前は、過去を一つに決めるための鎖ではない。

 

記憶を消すための道具でもない。

 

そして、誰かの願いを満たすために、自分の人生を決める必要もない。

 

白雲は、窓を見つめた。

 

「俺の明日は、俺が決める」

 

小さく、しかし確かな声だった。

 

彼の中には、白雲朧の記憶がある。

 

黒霧として過ごした時間もある。

 

そのすべてを、今すぐ一つの答えにまとめる必要はない。

 

白雲朧という名前だけに戻せば、すべてが解決するわけではない。

 

黒霧として過ごした時間だけで、今後の人生が決まるわけでもない。

 

彼は、まだ選んでいる途中なのだ。

 

その選択を誰かに奪わせないために。

 

これからの明日を、自分の意思で迎えるために。

 

白雲朧と、黒霧の明日。

 

その答えは、まだ始まったばかりだった。

 

第八十一話・了

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