一 名前をつければ、分かったことになるのか
「つまり、今のところ原因は分かっていないんですね」
緑谷出久は、会議室の資料を見ながら言った。
「残念ながら、その通りです」
根津校長は頷いた。
会議室には、相澤消太、プレゼント・マイク、警察関係者、医療関係者が集まっていた。
そして、今回の調査に協力することになった出久、爆豪、麗日、通形ミリオも同席している。
机の上には、帰還者に関する調査報告が並んでいた。
ミッドナイトは医療検査を続けながら、今後の生活について考え始めている。
トゥワイスは、仲間たちの状況を知りたがっていた。ホークスとの面会については、まだ明確な意思表示をしていない。
マグネは治崎との面会を望まず、自分の生活を取り戻すことを優先している。
ナイトアイと一致する人物については、本人確認と医療的な調査が続けられていた。
それぞれの希望は違っている。
帰還者という一つの言葉でまとめることはできても、彼らの人生まで一括りにすることはできない。
「問題は、ここからです」
根津は別の資料を示した。
「帰還者に関する調査の過程で、過去の研究記録が複数見つかりました。いずれも古いもので、作成者や目的が不明なものも含まれています」
「今回の異変に関係があるんですか?」
麗日が尋ねる。
「その可能性を排除できません。ただし、関係があると証明できているわけでもありません」
根津は資料をめくった。
そこには、いくつかの言葉が並んでいた。
死神。
名を集めるもの。
最初の接続者。
世界の記録。
どれも簡潔で、説明がほとんどない。
「これらは、別々の資料に記載されていました。年代も違います。すべてが同じ現象について書かれているとは限りません」
「死神って……」
ミリオが首を傾げた。
「文字通り、死を司る存在ということですか?」
「その解釈もできます。しかし、比喩や研究上の呼び名である可能性もあります」
「じゃあ、何なのか分からないってことか」
爆豪が言った。
「そうなりますね」
根津は、隣の資料を示した。
「こちらには『名を集めるもの』とあります。ですが、これが個体名なのか、役割を示す呼称なのか、現象の説明なのかも分かりません」
「名前を集める……」
出久は、その言葉を繰り返した。
名前を集める。
人の名前を記録するのか。
奪うのか。
保存するのか。
それとも、名前を集めるという行為そのものが、何か別の意味を持っているのか。
「名前を集めるって、誰かの名前を知るということなんでしょうか」
出久が尋ねた。
「それすら、まだ分かりません」
根津は答えた。
「ただ、少なくとも、名前というものが単なる記号として扱われていないように見えます」
「どういう意味ですか?」
「例えば、今回の帰還者です」
根津は資料を指した。
「彼らは、自分の名前を覚えています。自分が誰なのかを説明できます。過去の記録とも一致する。しかし、その名前が本人の存在をどこまで証明できるのかは、まだ分かりません」
「本人は本人でしょう」
相澤が言った。
「少なくとも、本人の記憶や意思を尊重するところから始めるべきだ」
「もちろんです」
根津は頷いた。
「私が言いたいのは、名前が一致しているという一点だけで、すべてを理解したつもりになってはいけないということです」
その言葉に、出久は資料を見つめた。
名前。
それは誰かを呼ぶためのものだ。
その人が誰なのかを確かめるための手がかりでもある。
だが、名前だけで、その人のすべてが分かるわけではない。
白雲朧と黒霧。
二つの名前が、一人の人間の人生に残っている。
本人がどちらをどう受け止めるかは、本人にしか決められない。
ならば、今回の帰還者たちについても同じなのではないか。
「名前をつけること自体が、危険になる場合もあるんですね」
出久の言葉に、根津が頷いた。
「ええ。未知のものを理解するために名前をつけることはあります。しかし、その名前を正体そのものだと思い込んでしまえば、観察する前に結論を出すことになる」
爆豪が鼻を鳴らした。
「分かった気になって、勝手に決めつけるなってことだろ」
「そういうことです」
「だったら、名前なんか後でいい。何が起きてるか調べろ」
爆豪は資料を机に置いた。
「ただし、分からないからって放置するのも違う。目の前で人が困ってんなら、そっちを先にどうにかしろ」
「同感です」
根津は答えた。
今回の調査は、まだ始まったばかりだった。
二 死神の記憶
調査のきっかけになったのは、警察が保管していた古い記録だった。
それは、以前から存在が確認されていた資料群の一部だったが、保存状態が悪く、これまで十分な整理ができていなかった。
今回、帰還者の照合に関連して再調査したところ、同じ単語が複数の文書に現れていることが分かった。
その一つが、死神の記憶という題名の記録だった。
「死神って、本当に死神のことなのかな」
麗日は資料を見つめた。
「分からない」
出久は答えた。
「ここに書かれている死神が、実在する人物なのか、個性の名前なのか、何かの装置を指しているのかも分からないんだ」
「でも、記憶が失われたってことは、少なくとも記憶を持っていたんだよね?」
「そうだと思う。ただ、それが誰の記憶なのかが分からない」
資料には、いくつかの短い文章が残っていた。
死神は、見送った者たちの名を覚えていた。
だが、いつからか、見送った者の顔を思い出せなくなった。
名だけが残り、記憶が失われていった。
何を見送ったのか。誰を見送ったのか。
それを知る者は、もういない。
最後の数行は、破損していた。
誰が書いたのかも、どの時代の記録なのかも分からない。
相澤は、資料を読んで眉を寄せた。
「死神は、記憶を失ったのか?」
「文章をそのまま読むなら、そうなります」
根津が答える。
「だが、これは記録を書いた者の解釈かもしれません」
「記憶そのものがなくなったのか、記憶を参照できなくなったのか。それとも、記憶が別の場所に移されたのか」
出久が呟く。
「可能性を並べるのはいいが、今は全部仮説だ」
相澤が釘を刺した。
「はい」
出久は頷いた。
すると、マイクが別の資料を取り出した。
「こっちにも似た記述があるぜ」
その資料は、より新しいものだった。
死神に記憶を返せ。
すべての名を取り戻したとき、見送る者は、再び見送ることができる。
「これ、さっきの記録と同じ意味なのか?」
マイクが尋ねる。
「分かりません」
根津は資料を重ねた。
「『記憶を返せ』という言葉が、実際に誰かの記憶を返す作業を指しているのか。失われた記録を復元することなのか。あるいは、単なる比喩なのか」
「死者を見送った記録が、なくなっているってこと?」
麗日が尋ねた。
「そうとも限りません」
根津は、机の上に資料を広げる。
「重要なのは、死神という存在が何かを記憶していたとされていること。そして、その記憶が失われたと記録されていることです」
「その記憶が、今回の死者の帰還と関係している?」
出久が尋ねた。
「可能性はあります。しかし、現在のところ、結びつける証拠はありません」
「……そうか」
出久は、もう一度文章を読んだ。
見送った者たちの名。
名だけが残り、顔が失われた。
それは、単純に死者を忘れたという話なのだろうか。
それとも、名前と記憶が別々に扱われているという話なのか。
名前が残っているのに、誰だったのかを思い出せない。
名前を忘れているのに、その人の存在を覚えている。
そんなことが起こるのだろうか。
「なあ」
爆豪が資料を指した。
「ここ、気にならねえか」
「どこ?」
出久が覗き込む。
「『すべての名を取り戻したとき』って部分だ」
爆豪は言った。
「死神が失ったのは記憶なんだろ。なのに、返せって言ってるのは名前だ。記憶と名前が同じものだって前提になってる」
出久は目を見開いた。
「確かに……」
「違うなら、何を返せばいいのか分からねえってことになる」
爆豪は、資料を指で叩いた。
「名前を返すのか。記憶を返すのか。別々なのか」
その違いは大きい。
名前を知ることと、その人の人生を知ることは違う。
記録に名前が残っていても、その人が何を考えていたのかは分からない。
記憶が残っていても、それが本人の意思をすべて表すとは限らない。
「この資料を書いた人は、何を知っていたんだろう」
出久は呟いた。
根津は、静かに答えた。
「それが最初の問いですね」
三 名前を集めるもの
次に確認されたのは、別の保管庫にあった記録だった。
こちらは文章ではなく、研究用の図表と断片的なメモが中心だった。
何かを分類しようとしていた形跡はある。
しかし、分類項目の意味が分からない。
そこに記されていた言葉が、名を集めるものだった。
「これは、何かの生物について書かれているんでしょうか」
麗日が尋ねる。
「そう見える部分もあります」
根津は資料を示した。
「ですが、特徴の記述が一定していません。ある箇所では人の姿を取るとされ、別の箇所では端末のようなものとして記されています」
「端末?」
出久が身を乗り出した。
「はい。さらに別の箇所では、誰かの声を借りて話すと書かれています」
相澤が資料をめくった。
「姿が変わるのか。記録した人間によって見え方が違うのか」
「そのどちらも考えられます」
根津は続けた。
「しかし、ここにある記述を一つの存在の特徴としてまとめるのは危険です」
資料には、次のようなメモがあった。
それは名を集める。
名を知ることで、相手を識別する。
識別したものを、別の器に移す。
器は、元の名を呼ぶ。
呼ばれた者は、誰の名で呼ばれたのかを知らない。
「……何だよ、これ」
マイクが顔をしかめた。
「名を別の器に移す?」
出久は、思わず黒霧のことを考えた。
人の記憶。
別の姿。
他者の意識を宿す器。
だが、彼はすぐに自分の考えを止めた。
黒霧の記録と、今回の資料が同じ仕組みだとは限らない。
名前を集める存在が、ニャルラトホテプと関係している可能性はある。
しかし、今の段階で同一視してはいけない。
「出久君?」
麗日が声をかけた。
「何か思いついた?」
「ううん。まだ、何も」
出久は正直に答えた。
「似ているところはあるけど、同じものだと決めるには情報が足りない」
「そうだね」
爆豪が資料を覗き込んだ。
「そもそも、こいつは本当に一つの存在なのか?」
全員が爆豪を見る。
「どういうことですか?」
根津が尋ねた。
「名前を集めるってのが、一人の意思でやってることなのか、何かの仕組みがそう動いてるだけなのか分からねえだろ」
爆豪は続けた。
「端末だって書いてあるなら、誰かが作った機械かもしれねえ。人の姿を取るって書いてあるなら、誰かがそう見えたのかもしれねえ」
「つまり、存在と機能を分けて考えるべきだと?」
「そうだよ」
爆豪は腕を組む。
「名前を集める奴がいるって決めてから資料を読むな。資料に書いてあることから、何が考えられるのかを調べろ」
根津は、満足そうに頷いた。
「素晴らしい指摘です」
「うるせえ。褒めてんじゃねえ」
「事実を述べただけですよ」
相澤が小さく息を吐いた。
「調査方針は決まったな」
「はい」
根津は、資料を別々の束に分けた。
「『死神』と『名を集めるもの』を、同一の存在だと決めつけない。現象、個体、機械、記録上の呼称をそれぞれ分けて調査する。関係性が見つかった場合にのみ、改めて検討しましょう」
出久は、その方針をメモした。
分からないものを、分からないまま扱う。
それは、調査において必要な慎重さだった。
四 最初の接続者
三つ目の資料は、さらに古かった。
紙ではなく、古い記録媒体に残されていた。
現在の機器ではそのまま読み取れず、複数の専門家による復元作業が行われている。
ようやく再生できた文章は、短いものだった。
最初の接続者は、扉を開いた。
彼は世界の記録を見た。
すべてを見たわけではない。
すべてを理解したわけでもない。
それでも、扉は開かれた。
続きは破損していた。
「最初の接続者……」
出久は、その言葉を見つめた。
「接続者って、何と何をつないだんだろう」
「記録には書かれていない」
相澤が答えた。
「人と機械かもしれませんし、何かの空間かもしれません。個性を介した接続という可能性もあります」
根津は、次のページを表示した。
そこには、図のようなものが描かれていた。
いくつもの線が、一本の中心へ向かって伸びている。
中心には、円形の記号。
その外側には、複雑な枝分かれがあった。
「これ、何かに似てるね」
麗日が言った。
出久は画面を拡大した。
「枝……?」
「木の根みたいにも見えます」
八百万が資料を確認する。
「いくつもの線が分岐し、またどこかで接続していますわね」
「木の根っていうより、配線みたいじゃねえか」
爆豪が言った。
「確かに、機械の構造図にも見えます」
根津は頷いた。
「ここで重要なのは、図の形を見て、すぐに世界樹や機械だと決めないことです」
「分かっています」
出久は答えた。
「似ているものは、いくつもありますから」
「そうです」
根津は、図の端に残された文字を示した。
接続者は、記録を読むことができた。
だが、記録を書き換える権利を持っていたとは限らない。
扉を開けた者と、扉の向こうを作った者は同じではない。
相澤が目を細めた。
「これは、誰かが接続者の行為を警告しているように見えるな」
「接続することと、支配することは違うという意味でしょうか」
出久が尋ねる。
「その可能性はある」
根津は答えた。
「あるいは、接続者が見たものを、本人が自由に扱えるわけではなかったという意味かもしれません」
「扉の向こうが何なのか分からない以上、どっちとも言えないな」
相澤の言葉に、根津は頷いた。
出久は、図の中心に描かれた円を見つめた。
そこには、文字のようなものが刻まれている。
完全には読み取れない。
しかし、復元された断片の一つに、同じ形が何度も現れていた。
「接続者は一人だったんでしょうか」
出久が尋ねた。
「資料には『最初の接続者』とあります」
「最初ってことは、二人目や三人目もいたのかもしれない」
「そうですね」
根津は答えた。
「ただし、最初という表現が、時間的な意味なのか、役割の意味なのかは分かりません」
「一番最初に接続した人間なのか、最初の資格を与えられた人間なのか、最初に接続を許された人間なのか……」
出久は考え続ける。
「あるいは、記録した側が便宜上そう呼んだだけかもしれません」
八百万が続けた。
「そうだな」
爆豪は資料を閉じた。
「結局、名前があるだけで中身は分からねえってことだ」
「うん。でも、接続という行為が記録されているのは重要だと思う」
出久は答えた。
「死者が帰ってきたことと、世界の記録が関係しているなら、何かに接続する仕組みがあるのかもしれない」
「そう考えるのはいい」
相澤が言った。
「だが、帰還現象がその接続によって起きたと決めるな」
「はい」
「仮説は仮説として残せ」
出久は頷いた。
まだ何も分からない。
だが、見えていなかった問題の輪郭が、少しずつ現れ始めていた。
五 世界の記録
調査資料の中で、最も多くの断片が残されていたのは、世界の記録に関するものだった。
ある文書では、「世界に起きた出来事は、すべて記録される」と書かれている。
別の文書では、「記録されたものが、必ずしも現実に存在するとは限らない」と記されている。
さらに別の資料では、「記録の欠落は、存在の消失を意味しない」と説明されていた。
一見すると、互いに矛盾している。
「世界の記録って、歴史のことじゃないんでしょうか」
麗日が尋ねた。
「その可能性もあります」
根津は答える。
「しかし、ここで記録されているのは、歴史的な出来事だけではないようです」
「人の記憶も?」
「そう読める部分があります」
根津は、記録の一節を見せた。
生きた者の記憶。
死した者の記録。
選ばれなかった未来の断片。
失われた世界の痕跡。
それらは一つの場所に収められているとは限らない。
出久は、文章を何度も読み返した。
「選ばれなかった未来……」
「気になるか?」
相澤が尋ねた。
「はい。もし本当に世界の出来事だけじゃなくて、選ばれなかった未来まで記録されているなら、それは単なる歴史の記録とは違うと思います」
「だが、実際に存在した未来なのか、可能性として記録されたものなのかも分からない」
「そうですね」
「それに、記録されていることと、現実に戻せることは別だ」
相澤は強調した。
「仮に、亡くなった人の記録が残っているとしても、それを使えば本人が戻るという結論にはならない」
「記録と本人は別、ということですね」
「そうだ」
出久は頷いた。
資料の中には、さらに奇妙な言葉があった。
記録は、記憶の墓ではない。
記録は、存在そのものでもない。
それを読む者は、そこに残されたものと、そこに残らなかったものを区別しなければならない。
「これは、誰が書いたんでしょう」
八百万が尋ねた。
「分かりません。文書の一部は同じ筆跡ですが、複数の時期に追記された形跡があります」
根津は、資料を整理した。
「つまり、長い時間をかけて、複数の人間が記録を追加した可能性がある」
「そう考えると、記録の内容が矛盾している理由も説明できるかもしれないな」
相澤が言った。
「異なる時代の人間が、それぞれ違うことを見ていた」
「はい。ただし、同じ記録体系を共有していたかどうかも不明です」
根津は、少し間を置いた。
「一つだけ、注意しておきたいことがあります」
全員が彼を見る。
「今回の異変について、死者の記録が残っているから帰還できたのだと考えるのは、まだ早いです」
「分かっています」
出久が答えた。
「でも、調べる価値はあると思います」
「ええ。もちろんです」
根津は資料の最後に目を通した。
そこには、短い言葉が書かれていた。
記録を管理する者が、記録された存在のすべてを理解しているとは限らない。
根津は、その一文をしばらく見つめていた。
「……この文章を書いた人は、何かを知っていたのかもしれません」
「何を?」
相澤が尋ねる。
「記録を扱うことの危険性です」
六 死者の書
その日の午後、出久たちは、過去の調査記録と一緒に保管されていた一冊の資料を確認することになった。
表紙には、題名が記されていた。
『死者の書』
「これが、死者の書……」
出久は表紙を見つめた。
「名前だけ聞くと、何かの魔術書みたいだね」
麗日が言う。
「そう見えるが、実際には資料の名称として使われていた可能性もある」
相澤が答えた。
「そもそも、これが原本なのかどうかも分かりません。複数の資料をまとめたものかもしれない」
根津は、慎重にページを開いた。
そこには、人物の記録が並んでいた。
名前。
生まれた場所。
活動した時期。
関係者。
死亡したとされる日時。
その一方で、別のページには、人物の記憶に関する断片が書き込まれている。
「これ、普通の人物記録とは違うね」
麗日が言った。
「うん」
出久も頷いた。
「亡くなった人のことだけじゃない。生きている人の記憶についても書かれている」
あるページには、名前が記されていた。
しかし、その横の記録は空白だった。
別のページには、顔の特徴と行動だけが記され、名前がない。
また別のページには、誰かの名前が何度も書かれているのに、その人物が何者なのかを説明する文章がなかった。
「名前があるのに、記憶がない」
出久は呟いた。
「名前がないのに、記憶だけが残っている」
八百万が言った。
「そして、名前も記憶もあるのに、本人の所在が分からない場合もある」
根津が続ける。
資料には、まるで誰かが人物を分類しようとした痕跡があった。
しかし、分類の基準が途中で変わっている。
ある部分では、生者と死者を分けている。
別の部分では、その区別がなくなっている。
さらに、名前の欄に「未定義」と記されたページが存在していた。
「未定義……」
出久は、そのページを慎重に確認した。
そこには、人物の説明がなかった。
ただ、いくつかの記号と、短い文章だけが残っている。
名を定めるな。
記録に存在することと、名を持つことは同じではない。
名を与えることで、対象のすべてが決まるわけではない。
「これって……」
麗日が不安そうに言った。
「名前をつけることそのものを、警告しているのかな」
「そうかもしれません」
根津が答える。
「ですが、なぜ警告する必要があったのかは分かりません」
「名前をつけると、何かが起こるのか?」
爆豪が尋ねる。
「その可能性はあります。しかし、それが危険な作用なのか、単に誤解を防ぐための注意なのかも不明です」
相澤は、資料を閉じようとした。
そのときだった。
出久が、ページの端に小さな文字を見つけた。
「待ってください」
「どうした?」
「ここ、何か書いてあります」
全員が覗き込む。
紙の端に、ほとんど消えかけた文字が残っていた。
名を与えた者は、対象を理解したと思い込んだ。
だが、名を与えられた側は、その名を望んでいなかった。
一同は沈黙した。
白雲朧のことが、出久の脳裏に浮かぶ。
黒霧という名で呼ばれた存在。
その名前が、彼にとって何を意味していたのか。
彼自身がどう受け止めるのか。
それを他人が決めることはできない。
「名前は、呼ばれる側のものでもあるんですね」
出久は言った。
相澤は頷いた。
「そうだ。呼ぶ側だけの都合で決めるものじゃない」
「でも、相手が名前を望まない場合は?」
麗日が尋ねた。
「無理につける必要はない」
相澤は答えた。
「分からないなら、分からないまま扱えばいい」
「それだと、調査が進まないんじゃないか?」
爆豪が言う。
「だから、名前以外の特徴を調べる。何をしたのか。何が確認できたのか。どんな影響があったのか。本人が何を語ったのか」
相澤は、資料を閉じた。
「名前を決めなくても、調べられることはある」
根津は、その言葉を記録した。
未知のものを理解したいという欲求は、危険なものではない。
だが、理解したいという気持ちが、相手を勝手に定義する理由になってはいけない。
それは、人間同士の関係でも、未知の存在に向き合う場合でも同じだった。
七 白雲朧の名前
その夕方、相澤とマイクは、白雲朧と面会していた。
朧は、現在の自分の状態を整理するための医療的な支援を受けている。
名前や記憶についても、無理に結論を出さないようにしていた。
「それで、最近はどうだ?」
相澤が尋ねる。
「悪くないよ。少しずつだけど、生活にも慣れてきた」
朧は答えた。
マイクが笑う。
「そりゃよかった!」
「ただ、まだ分からないことは多いけどね」
「そうか」
相澤は、持ってきた資料の一部を見せた。
「少し相談したいことがある」
「何?」
「今回、死亡した人間が戻ってくる現象が起きている。その調査の中で、名前と記憶を扱った古い記録が見つかった」
朧は資料を受け取った。
文字を読み、しばらく黙る。
「名前を与えた側が、相手を理解したと思い込む……か」
「どう思う」
「僕には、分かるような気がするよ」
朧は、資料を見つめた。
「僕は、白雲朧という名前で呼ばれることを望んでいる。でも、黒霧として過ごした時間がなくなるわけじゃない」
「そうだな」
「僕を白雲朧と呼ぶ人がいてもいい。黒霧としての記録を残すことも必要だと思う。でも、どちらか一つで僕の全部を説明できるわけじゃない」
マイクは、静かに聞いていた。
「僕がどういう人間なのかを、他の人が勝手に決めてしまうことには抵抗がある。だけど、僕自身もまだ、自分のことを全部理解できているわけじゃない」
朧は、資料を机に置いた。
「だから、名前だけで決めないでほしい」
「分かった」
相澤は答えた。
「本人の意思を優先する」
「ありがとう」
マイクが、少し身を乗り出す。
「なあ、朧」
「何?」
「俺は、お前を朧って呼びたい」
朧は、マイクを見た。
「うん。今はそれでいいよ」
「今は?」
「これからどう感じるかは分からないからね」
マイクは、少しだけ笑った。
「そりゃそうだな」
「でも、僕が何を選んでも、君たちが僕をどう思うかまで、全部決めるつもりはないよ」
相澤は、少しだけ視線を落とした。
「俺たちも、お前に何かを押しつけるつもりはない」
「うん」
朧は窓の外を見た。
「名前って、便利だけど難しいね」
「そうだな」
「名前があるから、呼びかけられる。覚えてもらえる。でも、名前だけで分かった気になられることもある」
朧は、自分の手を見つめた。
「自分が何者なのかって、名前だけじゃ決まらないんだと思う」
マイクは頷いた。
「俺たちは、お前の話を聞くよ」
「ありがとう」
朧は少し笑った。
その後、三人は別の話をした。
昔の学校のこと。
生徒たちのこと。
マイクの近況。
相澤の仕事の忙しさ。
何もかもが元通りになったわけではない。
それでも、彼らは今の関係を少しずつ作り始めていた。
名前を決めることよりも、目の前の相手と向き合うこと。
それが、彼らにとって必要なことだった。
八 未来を見る男
同じ日の夜。
サー・ナイトアイと一致する人物が保護されている医療施設に、通形ミリオが訪れていた。
面会室に入ると、そこには一人の男性が座っていた。
「……サー」
ナイトアイは、ミリオを見た。
「久しぶりですね」
「はい」
ミリオは、いつもの笑顔を作ろうとした。
しかし、うまくいかなかった。
「本当に、サーなんですね」
「私自身も、まだ状況を理解できていません」
ナイトアイは、淡々と答えた。
「ですが、あなたの名前は覚えています」
「……ありがとうございます」
ミリオは椅子に座った。
しばらく、言葉が出なかった。
ナイトアイは、そんな彼を見ていた。
「あなたは、大人になりましたね」
「はい。いろいろありました」
「そうでしょう」
「話したいことがたくさんあります」
「聞かせてください」
ミリオは、現在の社会について話した。
死柄木との戦い。
復興の進行。
帰還者の存在。
そして、過去の事件の責任を整理しようとしていること。
ナイトアイは、静かに聞いていた。
「なるほど」
話を聞き終えると、彼は資料に目を落とした。
「未来を予測することと、未来を決めることは違います」
「……え?」
「私の個性は、相手の未来を見るものでした。しかし、未来が見えたからといって、それが必ず正しい選択を意味するわけではありません」
ナイトアイは、自分の手を見つめた。
「私は未来を見てきました。ですが、未来を見たことで、他の可能性を見落としたことがあるのかもしれない」
ミリオは黙って聞いた。
「今回の帰還者についても同じです」
ナイトアイは続けた。
「死亡したと記録されている。だが、今ここに存在している。ならば、現在の事実を確認する必要がある。過去の記録だけで、今の本人の存在を否定することはできません」
「はい」
「しかし、本人が戻ってきたことによって、過去の出来事がすべて変わるわけでもない」
「……はい」
「失われた時間は、失われた時間として残ります」
ナイトアイは、ミリオを見た。
「あなたが私に会いたかった気持ちを、私は否定しません。ただし、私が戻ってきたことで、あなたがこれまで歩んできた時間を、なかったことにはしません」
ミリオの目が少し潤んだ。
「サー」
「何ですか」
「また、あなたと話せて嬉しいです」
「私もです」
ナイトアイは静かに答えた。
「ですが、私たちが以前と同じ関係に戻れるかどうかは、これから考えていきましょう」
「はい」
「急ぐ必要はありません」
ミリオは、頷いた。
その日の面会は、長く続いた。
ミリオは、今までのことを話した。
ナイトアイは、その話を聞いた。
二人は、師弟関係を取り戻すと決めたわけではない。
それでも、もう一度会話を始めることはできた。
九 死者の名前を呼ぶ者
警察の資料室では、別の調査が進められていた。
帰還者についての記録を照合しているうちに、死亡者一覧と一致するはずのない名前が見つかったのだ。
その名前は、ある人物の記録の中に何度も現れていた。
しかし、どの資料にも、その人物の顔や経歴が残されていない。
ある記録では、存在したとされている。
別の記録では、存在しなかったことになっている。
さらに別の記録では、その人物の名前を呼んだ者だけが、何かを失ったと記載されていた。
「名前を呼ぶと、何かが起きるのか?」
担当者が呟く。
「そう書いてあるだけだ。事実かどうかは分からない」
別の職員が答えた。
「そもそも、この名前は本当に人間の名前なのか?」
「分からない」
二人は、資料を確認した。
そこには、短い文章が残っていた。
名を集めるものは、名を求めない。
名を呼ばれた者が、名を差し出す。
しかし、名を差し出した者が、何を渡したのかは分からない。
職員は顔を見合わせた。
「まるで契約だな」
「そう見えるが、契約だと決めるのも早い」
「じゃあ、何だと思う?」
「分からない」
そのとき、資料の端にある小さな文字が目に入った。
名前を集めるものは、名前を持たない。
職員は、画面を拡大した。
「……名前を持たないのに、名前を集める?」
「どういう意味だ」
「それが分からないから、困ってるんだろ」
彼らは、それ以上のことを判断できなかった。
その記録には、作成者の署名がない。
作成年月日も不明。
保存場所だけが、古い調査資料の一部として残されている。
もしこれが、誰かの想像によって書かれたものなら、今回の現象とは無関係かもしれない。
もし事実の断片なら、帰還現象に関わる重要な手がかりかもしれない。
どちらとも決められない。
しかし、資料にはもう一つの記述が残っていた。
その存在に、名を与えるな。
その警告だけが、何度も繰り返されていた。
十 名を与える者
翌日、雄英高校の校長室。
出久たちは、調査結果を共有していた。
「『名を集めるもの』については、現時点では存在を確認できていません」
根津が説明する。
「資料の記述だけが残っている状態です」
「でも、複数の資料に同じような内容があるんですよね?」
麗日が尋ねる。
「はい。ただし、同じ資料を参照して書かれた可能性もあります。独立した証言とは限りません」
「つまり、同じ話が何度も書かれているからといって、事実とは限らない」
出久が整理する。
「その通りです」
根津は頷いた。
「さらに、『最初の接続者』に関する資料も、複数の時代の記録が混在している可能性があります」
相澤が腕を組む。
「その接続者が、死神なのか?」
「分かりません」
「名前を集める存在なのか?」
「それも分かりません」
「同じ存在の別名という可能性は?」
「否定できませんが、肯定する証拠もありません」
爆豪が苛立ったように椅子へ背を預けた。
「結局、分からないことだらけじゃねえか」
「その通りです」
根津は、平然と答えた。
「ですが、分からないことが明確になったのも、調査の成果です」
「それで納得できるかよ」
「納得する必要はありません。調査を続ければいいのです」
出久は資料を見た。
「校長。今回の記録に、何度も『名前を与えるな』という警告が出てきます」
「ええ」
「でも、調査するためには対象を識別する必要があります。名前をつけないと、話を進められないこともありますよね」
「そうですね」
根津は、少し考えた。
「ですから、対象の本質を表す名前ではなく、調査上の仮番号を使うという方法があります」
「仮番号?」
「確認された場所、資料の番号、発見時期などを組み合わせれば、少なくとも調査対象を区別できます。存在の正体を決めつける必要はありません」
「それなら、本人が望まない名前をつけることもない」
麗日が言った。
「はい」
根津は頷いた。
「名前を与えることが、未知の存在を誤って定義する危険性があるなら、まずは定義しない方法を選べばいい」
相澤が資料を指した。
「ただし、調査上の仮番号を使うだけだ。本人がいる場合は、本人の希望する名前を使う」
「もちろんです」
「分からないものと、目の前にいる人間を混同するな」
相澤は出久たちを見た。
「名前のない記録を追うことに集中して、帰還者本人の意思を忘れるな」
出久は頷いた。
「はい」
「今回の調査は、まだ仮説の段階だ。名前をつけて安心するな。名前がないからといって、危険だと決めつけるな」
「分かっています」
爆豪が口を開いた。
「名前のねえ奴が危険とは限らねえ。名前のある奴が安全とも限らねえ」
その言葉に、相澤が頷く。
「そういうことだ」
調査の方向性が、少しずつ定まってきた。
十一 名前のない記録
その日の夜、出久は一人で資料を読み返していた。
死神の失われた記憶。
名前を集めるもの。
最初の接続者。
世界の記録。
これらは本当に一つにつながっているのだろうか。
死神が失った記憶を、名前を集める存在が保管しているのか。
最初の接続者が世界の記録を読んだことで、何かが起きたのか。
名前を集める存在が、死者の記録を扱っているのか。
どれも可能性はある。
だが、どれも証明されていない。
出久はノートに、四つの項目を書き出した。
一、死神の記憶。
二、名前を集める存在。
三、最初の接続者。
四、世界の記録。
その下に、疑問を書き加える。
「死神は誰なのか」
「何を失ったのか」
「名前を集めるものは、何を集めているのか」
「最初の接続者は、何と接続したのか」
「世界の記録は、何を記録しているのか」
そして、最後の行に書いた。
「これらは、同じ仕組みなのか」
答えは出ない。
出久はペンを置いた。
そのとき、端末が鳴った。
根津からの連絡だった。
追加の資料が見つかりました。
今回の調査対象とは別の古い保管庫に、世界の記録に関係すると思われる図面が残されています。
原本の確認が必要です。
明日、調査班を編成します。
出久は、返信を打った。
分かりました。参加します。
端末を閉じる。
窓の外には、復興の進む街が見えた。
かつての戦いで壊れた場所。
戻ってきた人々が生活を始めようとしている場所。
そして、まだ帰ってこない人々を待っている場所。
世界には、確かに記録が残されている。
人の名前。
人の記憶。
人が選んだ行動。
そして、誰にも知られなかった出来事。
それらは、どこかに残っているのかもしれない。
だが、記録されていることと、理解できることは違う。
理解できることと、自由に扱っていいことも違う。
出久は、ノートの最後にもう一つ書き加えた。
「記録を読む者は、そこに残された人間の意思を忘れてはならない」
彼はノートを閉じた。
十二 名前を呼ぶ声
同じ夜。
誰もいないはずの資料保管室で、古い端末の画面が点灯していた。
電源が入っていることを示す表示はない。
通信も確認されていない。
画面に表示されているのは、古い記録の一覧だった。
名前がある。
名前がない。
生きている。
死亡している。
記録が残っている。
記録が失われている。
それらが、まるで誰かの手によって並べ直されているように見えた。
やがて、画面の一部に文字が浮かび上がった。
記憶の欠落を確認。
別の文字が続く。
名の収集を確認。
さらに、その下に。
接続の痕跡を確認。
画面が一度暗くなる。
そして、新しい文章が表示された。
最初の接続者は、まだ記録されていない。
その文字の隣に、小さな空欄があった。
名前を書くための欄なのか。
それとも、名前を消した痕跡なのか。
分からない。
画面の下には、もう一つの文が表示されていた。
名を与える者は、何を見ている。
名を与えられる者は、何を失う。
記録する者は、何を記録しなかった。
その文章を最後に、端末は消灯した。
誰も見ていない。
誰も聞いていない。
ただ、古い記録の中に、一つの問いだけが残った。
まだ名を持たないものに、名前を与えてはいけないのか。
それとも、名前を与えなければ、存在そのものを見落としてしまうのか。
答えは、まだない。
十三 目の前の人間から、世界そのものへ
翌朝。
調査班は、古い保管庫へ向かう準備を整えていた。
出久、爆豪、麗日、相澤、根津。
マイクも同行する。
現場の安全確認と資料の搬送については、プロヒーローたちが協力することになっていた。
「今回の目的は、古い図面の確認だ」
相澤が説明する。
「記録に書かれている内容をそのまま事実として扱うな。物理的な資料の状態、作成時期、使用されていた技術、記録の改変がないかを確認する」
「了解です」
出久は頷いた。
「もし、今回の帰還現象と関係があるものが見つかったら?」
麗日が尋ねた。
「その場合は、関係があると確認できる証拠を集める」
相澤が答えた。
「関係がない可能性も考えておく」
「はい」
根津は、準備された資料を確認した。
「ここまで調べて分かったのは、私たちが思っていた以上に、古い時代から死者の記録や記憶について研究していた者たちがいたらしい、ということです」
「でも、死者を戻す方法を知っていたとは限らない」
出久が言った。
「その通りです」
根津は頷く。
「記録を残すことと、記録された人物を現実に戻すことは、別の問題です」
「じゃあ、今回の帰還現象は何なんだ?」
爆豪が言った。
「それを調べるために行くのです」
根津は答えた。
「今までは、戻ってきた人々と、彼らに関係する人々の過去や因縁を中心に見てきました。しかし、これからは視点を変える必要があります」
「個人の問題だけじゃない」
相澤が続けた。
「死者の帰還を可能にした仕組みが存在するなら、それを調べなければならない」
出久は、ゆっくり頷いた。
トゥワイスとホークスの関係。
ミッドナイトと教え子たちの再会。
マグネと治崎の過去。
ナイトアイとミリオの師弟関係。
それらは、一人ひとりにとって重要な問題だ。
だが、彼らがなぜ帰ってきたのかという問いは、それだけでは解けない。
帰還現象が起きる仕組み。
人間の記憶と存在の関係。
名前と記録の意味。
世界に何が残されているのか。
その構造そのものを調べなければならない。
「緑谷君」
根津が声をかけた。
「はい」
「この先、私たちの理解を超えるものが見つかる可能性があります」
「それでも、調べます」
「なぜですか?」
出久は、少し考えた。
「帰ってきた人たちが、なぜここにいるのかを知りたいからです。でも、それだけじゃありません」
出久は窓の外を見た。
「もし、この世界の仕組みが誰かの意思を無視して人の生死や記憶を扱えるものなら、その仕組みが何をしているのか知らないままにするのは危険だと思います」
「……そうですね」
根津は答えた。
「ただし、知ることと、利用することは別です」
「はい」
「何かができると分かったからといって、それを使ってよいとは限らない」
「分かっています」
相澤が言った。
「俺たちが調べるのは、支配するためじゃない。何が起きているのかを把握し、被害を防ぐためだ」
爆豪が肩を回した。
「話は終わりか。さっさと行くぞ」
「まだ説明が残っています」
根津が言う。
「長えんだよ!」
「大事なことです」
「分かってる!」
マイクが笑った。
「相変わらずだな、お前ら!」
出久も少し笑った。
だが、その胸の奥には、まだ答えの出ない問いが残っていた。
死神は何を忘れたのか。
名前を集める存在は何を求めているのか。
最初の接続者は、何に触れたのか。
世界の記録は、何を残しているのか。
そして、死者が帰ってきたことに、それらはどう関係しているのか。
彼らは、まだ答えを持っていない。
だからこそ、答えを決めつけずに進む必要があった。
十四 問いの先にあるもの
保管庫へ向かう車の中。
出久は、窓の外を見ていた。
隣には麗日。
前方には相澤と爆豪。
後ろには根津とマイクが座っている。
「ねえ、緑谷君」
麗日が声をかけた。
「何?」
「最初の接続者って、どんな人だったんだろうね」
「分からない。でも、少なくとも何かに接続した人として記録されている」
「それが世界の記録だとしたら?」
「その可能性はあると思う」
「その人は、何のために接続したんだろう」
出久は考えた。
「知りたかったのかもしれない。何かを救おうとしたのかもしれない。あるいは、誰かに命令されていたのかもしれない」
「どれもありそうだね」
「うん」
出久は、少し目を伏せた。
「でも、その人が何を望んでいたのかは、記録だけでは分からないかもしれない」
「記録に残っているのに?」
「記録に残っているのは、その人の行動や、誰かが見た姿だけかもしれないから」
麗日は頷いた。
「そっか」
「それに、仮に記録が全部残っていたとしても、その人の意思を完全に理解できるとは限らない」
「難しいね」
「うん。でも、だからって調べないわけにはいかない」
車の前方で、爆豪が言った。
「聞こえてんぞ」
「えっ」
「考えるのはいいが、勝手に答えを作るなよ」
出久は苦笑した。
「分かってるよ」
「本当かよ」
「本当だって!」
相澤が静かに口を挟んだ。
「話は現場に着いてからにしろ」
「はい」
車内が静かになる。
やがて、目的地が見えてきた。
古い保管庫。
長い間、使われていなかった施設。
その壁には、消えかけた管理番号が記されている。
出久は、その数字を見つめた。
ここにある資料が、今回の異変と関係する保証はない。
何も見つからない可能性もある。
それでも、彼らは向かう。
目の前の人間との因縁に向き合うことは、まだ終わっていない。
しかし、それだけでは足りなくなった。
死者が帰ってきた理由を知るには、世界そのものの仕組みに踏み込まなければならない。
そして、その仕組みが人間の意思をどう扱うのかを知らなければならない。
出久は車を降りた。
目の前には、古い扉があった。
その向こうにあるものは、まだ分からない。
「行こう」
出久が言った。
爆豪が先に歩き出す。
「遅れんなよ、デク」
「分かってる!」
麗日も続いた。
相澤は全員の様子を確認してから、保管庫の扉へ向かった。
根津は、手元の資料を一度見直す。
そこには、まだ解読されていない一文があった。
世界の記録に接続する装置は、世界の外側にあるとは限らない。
その下には、別の筆跡で、こう書き加えられていた。
根をたどれ。
ただし、根を世界そのものだと思い込むな。
根。
世界。
接続。
装置。
それらの言葉が、まだ意味を持たないまま並んでいた。
そして、資料の最終ページには、かすれた二つの名称が残されていた。
デウス・マキナ。
ユグドラシル。
根津は、その文字を見つめた。
「……ようやく、ここまで来ましたか」
しかし、彼もまだ、それらが何を意味するのかを断定できなかった。
世界の記録に接続する装置なのか。
世界そのものを支える構造なのか。
それとも、別の何かを説明するための名前なのか。
答えは、これから調べるしかない。
扉が開かれた。
暗い保管庫の中に、長い年月を経た記録が眠っている。
出久たちは、その奥へと進んでいった。
彼らの前には、まだ知らない世界の仕組みが広がっている。
そして、これから向き合う問いは、これまでのどんな因縁とも違うものになる。
誰が悪かったのか。
誰が傷つけたのか。
誰が責任を取るべきなのか。
それらを一つずつ確認してきた彼らは、今度は別の問いに向き合わなければならない。
そもそも、この世界は何によって記録されているのか。
そして、誰がその記録に触れることができるのか。
第六章「憤怒の継承」。
その物語は、ここで一つの区切りを迎える。
しかし、物語の奥にあるものは、まだ姿を見せていなかった。