午前二時十三分。
雄英高校附属病院の時計は、今日もその時刻で止まっていた。
秒針は、十二と十三の間に針先を置いたまま動かない。
電子時計も、壁掛け時計も、病室のモニターに表示された時刻も、すべてが同じ数字を示している。
午前二時十三分。
十三年前、緑谷出久の死亡が記録された時刻。
そして今。
その記録に存在しないはずの少年が、雄英の病室で眠っていた。
緑谷出久と同じ顔をした少年。
けれど、緑谷出久ではない少年。
そのベッドを囲む人々は、誰一人として口を開こうとしなかった。
沈黙を破ったのは、心電図の電子音だった。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
「……もう一度、検査結果を見せてください」
緑谷出久が言った。
声は落ち着いていた。
少なくとも、表面上は。
相澤消太は、隣に立つ教え子の横顔を見た。
緑谷は眠っている少年を見つめていた。
目を逸らさない。
怯えていないわけではない。
混乱していないわけでもない。
むしろ、その逆だった。
目の前にいる少年の存在を理解しようとするあまり、瞬きさえ忘れている。
自分と同じ顔。
自分と同じ声。
自分の記憶にない傷。
そして、自分の知らない約束。
十三年前。
自分が死んだと記録された夜。
この少年は、何をしていたのか。
なぜ、自分を見て「おかえり」と言ったのか。
なぜ、自分は考えるより先に「ただいま」と答えてしまったのか。
その答えが、目の前の少年の中にある。
だからこそ、緑谷は目を逸らせなかった。
「緑谷」
相澤が呼んだ。
「はい」
「無理に答えを出すな」
「……はい」
「今のお前は、自分のことを調べているつもりで、相手のことまで自分の基準で決めようとしている」
緑谷は、わずかに眉を寄せた。
「僕は、そんなつもりじゃ……」
「つもりの話はしていない」
相澤の声は厳しかった。
「お前と同じ顔をしているからといって、そいつがお前と同じ人間だとは限らない。逆に、違う人間だからといって、お前と無関係だとも限らない」
そこで相澤は、少年の顔を見た。
「まずは本人が起きるのを待つ。話はそれからだ」
「……はい」
緑谷は頷いた。
けれど、その視線は、少年の手に残された古い火傷から離れなかった。
自分の手には、あの傷はない。
少なくとも、今の自分には。
では。
この少年は、何を失って、あの傷を負ったのだろう。
そして。
何を守ろうとしていたのだろう。
*
午前二時十三分。
時計が止まったまま、五分が過ぎた。
もちろん、正確な五分ではない。
病室の時計は動いていないのだから。
それでも、リカバリーガールの腕時計は時間を刻んでいた。
世界のすべてが止まっているわけではない。
止まっているのは、特定の時刻に関わるもの。
十三年前の死亡記録に関係するもの。
そして、その記録に触れた者たちの一部。
それが、相澤たちが現時点で把握している異常だった。
「……相澤先生」
飯田天哉が、手にした端末から顔を上げた。
「病院の監視映像に異常が発生しています」
「何があった」
「この病室の映像です。現在の映像ではなく、過去の記録が混ざっています」
「過去?」
「はい。時刻は十三年前の午前二時十三分。映像の記録そのものは存在しないはずなのですが……」
飯田は画面を操作した。
そして、言葉を失った。
画面には、病室が映っていた。
今と同じ病室。
今と同じベッド。
ただし、ベッドの上にいるのは、現在眠っている少年ではなかった。
幼い緑谷出久だった。
まだ幼児と呼ぶべき年齢の少年が、白いシーツの上に横たわっている。
その隣に、もう一人の子供がいた。
こちらも緑谷出久に似ている。
いや。
似ているという言葉では足りない。
幼い出久と、現在の病室で眠る少年。
その二人が、同じ画面の中にいた。
そして。
ベッドの脇に立っている人物がいた。
顔は見えない。
映像が、そこだけ黒く塗り潰されていた。
「……何だ、これ」
爆豪勝己が呟いた。
画面の中の幼い出久が、何かを言っていた。
音声はノイズに埋もれている。
けれど、口の動きは確認できた。
飯田が映像を拡大した。
幼い出久は、ベッドの隣にいる少年の手を握っている。
何度も。
何度も。
離れないように。
その口が、ゆっくりと動いた。
『にい……ちゃん』
音声はない。
しかし、そこにいた全員が、その言葉を理解した。
緑谷出久が息を呑んだ。
少年の唇が、もう一度動く。
『いかないで』
その瞬間。
画面が乱れた。
映像が横に引き伸ばされ、色が反転し、画面いっぱいに無数の文字が走った。
そして、最後に一行だけが残った。
《記録対象:緑谷出久》
その下に、もう一行。
《記録対象:緑谷出久》
さらに、その下に。
《記録対象:緑谷出久》
三つの名前。
三つとも、同じ名前。
飯田が震える指で画面を操作した。
「そんな……」
彼はもう一度、記録を確認した。
「この映像は、存在しません。十三年前、この病院には現在の病棟自体がありませんでした。建物の構造も違います。そもそも、撮影機器の位置が……」
「飯田」
相澤が言った。
「はい」
「今の映像を保存しろ。複製も取れ。元データには触るな」
「了解しました!」
飯田はすぐに作業へ移った。
爆豪は画面を睨みつけたまま、拳を握っていた。
「三人……だと?」
彼はベッドの上の少年を見た。
それから、隣にいる緑谷を見た。
「おい、デク」
「……何?」
「お前、何人いるんだ」
冗談ではなかった。
怒鳴り声でもなかった。
ただ、理解できない現実に対する、率直な問いだった。
緑谷は答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
自分は一人だ。
そう信じて生きてきた。
だが、十三年前の映像には、自分と同じ名前が三つ並んでいた。
しかも、その一つは。
今、目の前で眠っている少年だった。
*
そのときだった。
ベッドの上で、少年の指が動いた。
ほんのわずか。
けれど、確かに。
「……っ!」
緑谷が一歩前に出た。
「先生!」
「分かっている」
相澤がベッドの脇に移動する。
リカバリーガールがモニターを確認した。
「意識反応が上がっている……。この子、目を覚ますよ」
少年の瞼が震えた。
ゆっくりと。
まるで、重い扉を押し開けるように。
少年は目を開いた。
緑色の瞳だった。
緑谷と同じ色。
けれど、その瞳に宿るものは、緑谷のものとは違っていた。
疲労。
悲しみ。
そして、何かを諦めることに慣れすぎた人間の、ひどく静かな目。
少年は天井を見た。
数秒間、何も言わなかった。
それから、ゆっくりと首を動かした。
相澤。
リカバリーガール。
飯田。
爆豪。
轟。
麗日。
切島。
八百万。
最後に。
緑谷出久を見た。
少年の目が、大きく見開かれた。
「……出久」
掠れた声だった。
緑谷は息を止めた。
少年は、何かを確かめるように手を伸ばした。
しかし、途中で止めた。
指先が震えていた。
「……生きて、る」
その言葉は、問いかけではなかった。
祈りでもなかった。
長い年月をかけて、何度も失い、何度も確かめ、何度も絶望してきた人間が、ようやく目にした事実を受け止めるための言葉だった。
「生きてる……」
少年は、笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
口元が歪み、喉が震えた。
そして。
涙が、一滴だけ頬を伝った。
「……よかった」
緑谷は何も言えなかった。
目の前の少年は、自分が生きていることを喜んでいる。
それだけは分かった。
けれど、その喜びがどれほどのものなのか、想像することすらできなかった。
「君は……」
緑谷は、ようやく声を出した。
「君は、誰なの?」
少年の表情が固まった。
その問いを予想していたようでもあり。
その問いを、何より恐れていたようでもあった。
少年は目を閉じた。
しばらくして、静かに答えた。
「……それを、僕が教えられたらよかった」
「え?」
「ごめん」
少年は緑谷を見た。
「君に、僕の名前を教えたかった」
その瞬間。
病室の空気が凍りついた。
名前。
第三の少年が失ったもの。
そして、十三年前の記録から消されていたもの。
「……名前を、忘れたの?」
緑谷が尋ねた。
少年は答えなかった。
代わりに、自分の手を見つめた。
指を折る。
一本。
二本。
三本。
まるで、何かを数えているようだった。
やがて、少年は小さく笑った。
「違うんだ」
その声には、ひどく乾いた響きがあった。
「忘れたんじゃない。……僕の名前は、最初からなかったことになったんだ」
轟が目を細めた。
「なかったことに?」
「そう」
「誰に?」
少年は、ゆっくりと轟を見た。
その目が、一瞬だけ、ひどく冷たくなった。
「世界に」
誰も口を開かなかった。
少年は続けた。
「世界が、僕を認識できなくなったんだ。名前を呼ばれなくなった。記録から消えた。写真から消えた。僕がいた場所だけ、最初から誰もいなかったことになった」
少年は自分の胸に手を当てた。
「でも、僕はここにいる」
その手が震えた。
「ここにいるのに、誰も僕を覚えていない。誰も僕を見つけられない。僕が何をしたのか、何を守ろうとしたのか、誰も知らない」
彼は緑谷を見た。
「……君以外は」
緑谷の胸が、強く締めつけられた。
「僕が……君を覚えていたの?」
「覚えていたよ」
少年は答えた。
「君だけは、最後まで僕を忘れなかった」
「でも、僕は君のことを知らない……!」
思わず、緑谷の声が強くなった。
自分でも驚くほどだった。
「僕は君の顔を見ても、君が誰なのか分からない! 君の名前も、君と過ごした時間も、何も覚えていない! なのに、君は僕を知っている! 僕が生きていることを、そんなに喜んでくれる!」
緑谷は拳を握った。
「どうして……?」
少年は答えなかった。
「どうして、そんな顔をするの……?」
それは、責める言葉ではなかった。
むしろ、助けを求める声だった。
自分の知らない誰かが、自分のために泣いている。
自分の知らない誰かが、自分の生を、奇跡のように喜んでいる。
その理由が分からない。
分からないことが、怖かった。
少年はしばらく緑谷を見つめていた。
そして、静かに言った。
「君は、僕の弟だから」
緑谷の呼吸が止まった。
「……弟?」
「うん」
「僕に……兄さんが、いたの?」
「いたよ」
少年は笑った。
今度は、ほんの少しだけ、自然な笑顔だった。
「君が、そう呼んでくれた」
その言葉に、相澤の目が細くなった。
爆豪が一歩前に出る。
「待て。さっきの記録じゃ、十三年前のお前らはガキだった。今のデクの年齢と合わねえだろうが」
「……そうだね」
「説明しろ」
少年は爆豪を見た。
怒りを恐れている様子はなかった。
むしろ、彼の声を聞いて、どこか懐かしそうに目を細めた。
「君は、昔から怒るときに声が大きかった」
「は?」
「でも、本当に怖いときは、逆に静かになる」
「テメェ……」
「勝己」
少年は、何気なくその名を口にした。
爆豪の動きが止まった。
病室の全員が、少年を見た。
少年は、自分が何を言ったのか理解していないようだった。
いや。
理解していたのかもしれない。
ただ、その言葉が口から出たことに、自分自身が驚いているようだった。
「……今、何つった」
爆豪の声が低くなる。
少年は唇を動かした。
「勝己」
「俺の名前を、どこで知った」
「どこで……?」
少年は困惑したように眉を寄せた。
そして、ゆっくりと首を振った。
「分からない。でも、知っている」
「ふざけんな」
「ふざけてないよ」
少年は、まっすぐ爆豪を見た。
「君は、出久が初めて友達を連れて帰ってきたとき、ずっと玄関で睨んでいた」
「……!」
「僕が『仲良くしてあげてね』って言ったら、『別に仲良くするなんて言ってねえ』って怒って」
少年は少しだけ笑った。
「それでも、帰るときには、出久の靴を揃えてくれた」
爆豪の顔から、表情が消えた。
「……そんな記憶、ねえよ」
「うん」
少年は頷いた。
「君には、ないんだ」
その言い方が。
あまりにも寂しかった。
「でも、僕にはある」
少年は、目を伏せた。
「君が出久を助けたことも。出久が君を助けたことも。二人で喧嘩したことも。仲直りできなくて、僕に怒られたことも」
少年の声が、わずかに震えた。
「全部、覚えている」
彼は、緑谷を見た。
「僕だけが、覚えているんだ」
*
病室の扉が開いた。
「……失礼します」
麗日お茶子が、慎重に顔を出した。
その後ろには、八百万百と切島鋭児郎がいた。
三人は、病室の異様な空気にすぐ気づいた。
「何かあったん?」
麗日が尋ねる。
緑谷は、彼女を振り返った。
「お茶子ちゃん……」
その顔を見た瞬間、麗日の表情が変わった。
緑谷は泣いていなかった。
けれど、今にも泣き出しそうだった。
麗日はすぐに彼のそばへ行き、そっと手を握った。
「大丈夫?」
「……分からない」
緑谷は正直に答えた。
「何も、分からないんだ」
「うん」
「この人は、僕のことを知っている。でも、僕はこの人を知らない」
「うん」
「僕の兄さんだって言ってる。でも、そんな記憶はない」
麗日は、少年を見た。
少年も、彼女を見ていた。
その瞳に、奇妙な感情が浮かんだ。
驚き。
安堵。
そして、深い後悔。
「……お茶子ちゃん」
少年が言った。
麗日の肩が震えた。
「どうして、私の名前を……?」
「君は、出久が一番苦しいときに、いつも隣にいてくれた」
少年は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「出久が自分を責めるとき、君は怒ってくれた。出久が誰かを助けるために無茶をするとき、君は泣きながら止めてくれた」
「……」
「それでも、最後には、出久の選んだ道を信じてくれた」
少年は麗日を見つめた。
「ありがとう」
麗日は息を呑んだ。
「……何で」
声が震えた。
「何で、あなたがそんなことを言うんですか……?」
少年は答えられなかった。
「私、あなたのこと知らない。あなたと会ったこともない。なのに……」
麗日は、緑谷の手を握りしめた。
「なのに、どうして、そんなに悲しそうにお礼を言うんですか」
少年は目を閉じた。
そして、静かに答えた。
「君たちに、謝りたかったんだ」
麗日の表情が変わる。
「謝る……?」
「うん」
少年は、緑谷を見た。
「僕が、出久を守れなかったから」
緑谷が首を振った。
「まだ、何も分からないよ。何があったのかも、君が何をしたのかも……」
「そうだね」
少年は頷いた。
「だから、これから話すよ」
彼はベッドの上で身体を起こそうとした。
しかし、腕に力が入らなかった。
リカバリーガールがすぐに肩を押さえる。
「無理をするんじゃないよ。あんた、まだまともに動ける状態じゃないんだから」
「……すみません」
「謝る暇があるなら寝てな」
少年は苦笑した。
「昔も、同じことを言われたな……」
「誰に?」
リカバリーガールが尋ねた。
少年の笑みが消えた。
「……分からない」
まただ。
記憶はある。
感情もある。
誰かに何かを言われたことも覚えている。
しかし、その相手の名前だけが抜け落ちている。
まるで、記憶の中に穴が空いているかのようだった。
少年は、自分の胸を押さえた。
「……おかしいな」
「何がだ?」
相澤が尋ねた。
「僕は、覚えているんです」
少年は言った。
「出久のことも。勝己のことも。お茶子のことも。みんなのことを、覚えている」
彼は額に手を当てた。
「でも、思い出そうとすると……」
その瞬間。
少年の瞳が、見開かれた。
「……っ!」
全身が強張る。
心電図の音が乱れた。
「おい!」
相澤がベッドに近づく。
少年は頭を抱えていた。
「違う……!」
呻くような声が漏れる。
「違う、違う、違う……! その名前じゃない……!」
「落ち着きなさい!」
リカバリーガールが声を上げた。
だが、少年は聞いていなかった。
何かを思い出そうとしている。
あるいは。
思い出してはいけない何かに、触れてしまったのか。
「僕は……僕は……!」
少年の指が、シーツを握りしめる。
「僕は、あの子を……!」
そこで、言葉が途切れた。
病室の照明が、一斉に明滅した。
壁掛け時計の針が動いた。
午前二時十三分。
秒針が、一つ進んだ。
カチッ。
そして、止まった。
次の瞬間。
病室の窓ガラスに、文字が浮かび上がった。
誰も触れていないガラスの内側に。
黒い文字が、まるで血で書かれるように、ゆっくりと現れる。
《記録対象が自己認識を開始しました》
続いて。
《個体識別を再開します》
少年が、悲鳴を上げた。
「やめろッ!」
その声は、病室全体を震わせた。
「やめてくれ! もう、僕から奪わないでくれ!」
彼は、必死に何かを拒絶していた。
目には、恐怖があった。
単なる記憶喪失への恐怖ではない。
自分が誰なのか分からなくなることへの恐怖でもない。
もっと深い。
自分の存在そのものが、また消されることへの恐怖。
「僕は、ここにいる……!」
少年は叫んだ。
「ここにいるんだ! 僕は、まだ……!」
窓ガラスに、新しい文字が浮かんだ。
《識別結果:緑谷出久》
緑谷が息を呑んだ。
少年の叫びが止まった。
その表示の下に、さらに文字が現れる。
《既存個体との重複を確認》
《統合処理を開始します》
「させるかよ」
爆豪が低く呟いた。
彼はベッドの前に立った。
その身体から、爆発音が小さく弾ける。
「前にも言っただろうが。勝手に人間を選んで、勝手に消そうとしてんじゃねえ」
轟も前に出た。
右手から冷気が広がり、窓の周囲を白く凍らせていく。
「対象を統合するってことは、どちらかを消すつもりか」
返答はなかった。
代わりに、窓ガラスの文字が変わった。
《統合候補を選択してください》
その下に、三つの項目が表示された。
《緑谷出久》
《緑谷出久》
《緑谷出久》
全員が、言葉を失った。
また三つ。
同じ名前。
同じ個体。
同じ存在。
世界は、三人を区別することができない。
だから、ひとつにまとめようとしている。
その結果、誰が残るのか。
誰が消えるのか。
誰も知らない。
しかし、ひとつだけ確かなことがあった。
このままでは、また誰かが消える。
「……いい加減にしろよ」
緑谷が、静かに言った。
彼は少年の手を握った。
少年の手は冷たかった。
震えていた。
まるで、十三年前からずっと、誰かに見つけてもらうことを恐れていたかのように。
「君は、僕の兄さんなんでしょう?」
少年が顔を上げた。
「出久……?」
「僕は、君のことを覚えていない」
緑谷は言った。
「でも、君が僕を守ろうとしてくれたことは、分かる」
「……」
「君が何をしたのか、まだ知らない。君が何を隠しているのかも分からない」
緑谷は、少年の手を握る力を強めた。
「それでも、君がここにいることを、僕は否定しない」
少年の瞳が揺れた。
「だから……」
緑谷は窓の文字を見上げた。
「僕たちを、勝手に一つにしないでくれ」
その言葉と同時に。
窓ガラスの文字が、激しく明滅した。
《警告》
《個体の拒絶を確認》
《世界再構築まで、残り――》
数字が、変化した。
六十三時間。
六十二時間五十九分。
六十二時間五十八分。
そして。
六十二時間五十七分。
カウントダウンは、確かに進んでいた。
*
午前二時十三分。
病室の騒ぎが収まったあと、相澤は緑谷たちを廊下へ出した。
リカバリーガールが少年の容態を確認している間、病室には余計な刺激を与えないほうがいい。
それは医学的な判断であると同時に、別の理由もあった。
少年は、あまりにも多くのことを知っている。
そして、彼が何かを思い出そうとするたび、世界そのものが反応する。
彼の記憶は、単なる個人の記憶ではない。
十三年前の記録。
三人の緑谷出久。
消された名前。
再構築される世界。
それらすべてが、彼の中で繋がっている可能性があった。
「……先生」
廊下の壁にもたれながら、緑谷が言った。
「何だ」
「さっきの表示、見ましたよね」
「ああ」
「僕と同じ名前が、三つありました」
「見た」
「先生は……僕が三人いると思いますか?」
相澤はすぐには答えなかった。
しばらく考えてから、言った。
「今の情報だけじゃ判断できない」
「……そうですよね」
「ただし」
相澤は緑谷を見た。
「少なくとも、三つの記録がある。それは事実だ」
「記録があることと、本人がいることは別です」
「その通りだ」
相澤は続けた。
「だが、俺たちはすでに、記録に存在しないはずの人間が目の前に現れるのを見た。映像に映らないはずの過去が映るのも見た。今さら、記録と現実が一致すると思い込むほうが危険だ」
緑谷は俯いた。
「……僕は、何なんでしょう」
その言葉に、相澤の目が鋭くなった。
「自分を記録の一部として扱うな」
「でも……」
「お前は緑谷出久だ」
相澤は、はっきりと言った。
「少なくとも、俺が知っているお前はそうだ」
緑谷が顔を上げた。
「お前が何者なのか、世界が何と記録しているのか。そんなものは、あとからいくらでも調べられる」
相澤は一度、病室の扉を見た。
「だが、目の前にいる人間を、記録の都合で消させるわけにはいかない」
その言葉に、緑谷は小さく頷いた。
しかし。
相澤の脳裏には、ひとつの疑問が残っていた。
なぜ、あの少年は、緑谷だけでなく爆豪や麗日のことまで知っているのか。
単なる別世界の緑谷なのか。
それとも。
もっと根本的な何かが違うのか。
そして、少年が口にした言葉。
――僕が、出久を守れなかったから。
あれは、過去の話なのか。
それとも。
何度も繰り返されてきた未来の話なのか。
*
午前二時十四分。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
速い。
しかし、慌てているというより、何かを決意して歩いているような足音だった。
相澤が振り返る。
廊下の角から、一人の女性が現れた。
年齢は四十代後半ほど。
黒いコートを着ている。
髪は乱れ、顔色は悪い。
目の周りには、長年眠れなかった人間特有の影が刻まれていた。
彼女は病室の前まで来ると、足を止めた。
そして、扉の向こうを見つめた。
「……いた」
その声は、ひどく小さかった。
けれど、確かな憎しみがあった。
相澤が一歩前に出る。
「失礼ですが、どちら様ですか」
女性は答えなかった。
彼女の視線は、病室の扉に釘付けになっていた。
「……やっと、見つけた」
彼女はコートの内側から、一枚の写真を取り出した。
古い写真だった。
端が擦り切れ、表面には細かな傷がついている。
そこには、少年が写っていた。
年齢は十歳前後。
緑色の髪。
緑色の瞳。
そして、緑谷出久によく似た顔。
ただし。
その少年は、緑谷出久ではなかった。
少なくとも、相澤が知っている緑谷出久とは、決定的に違うところがあった。
写真の少年は、右の眉尻に小さな傷があった。
病室で眠っている少年の額にある傷とは違う。
けれど、どちらも古い傷だった。
女性は写真を握りしめた。
「……あの子を、返して」
相澤の表情が変わった。
「あなたは、あの少年を知っているんですか」
「知っている?」
女性は笑った。
乾いた、壊れた笑いだった。
「知っているに決まっているでしょう」
彼女は顔を上げた。
その瞳には、十三年分の涙が溜まっていた。
「私が産んだ子なんだから」
廊下の空気が、一瞬で凍りついた。
緑谷が、女性を見つめた。
女性もまた、緑谷を見た。
そして。
彼女の顔が、恐怖に歪んだ。
「……あなた」
写真を持つ手が震えた。
「どうして、あなたが生きているの?」
緑谷は答えられなかった。
女性は一歩、後ずさった。
「違う……違うわ……」
彼女は何度も首を振った。
「だって、あなたは……」
唇が震える。
「あなたは、あの子と一緒に死んだはずなのに……!」
その言葉が、廊下に響いた。
相澤が女性の前に立つ。
「落ち着いてください。まず、話を聞かせてください」
「話?」
女性は相澤を睨んだ。
「あなたたちは、何も知らない!」
声が、廊下全体を震わせた。
「何も知らないくせに、またあの子を連れていこうとしている!」
「誰も連れていきません」
「嘘よ!」
女性は写真を胸に押し当てた。
「十三年前も、そう言った! あの子を守るって! 絶対に返すって! なのに、あの子は帰ってこなかった!」
緑谷の顔から血の気が引いた。
十三年前。
また、その言葉だ。
女性は緑谷を見つめた。
その目に浮かんでいるのは、単純な憎しみではなかった。
憎しみだけなら、まだ分かりやすかっただろう。
彼女の目には、愛情があった。
失われた息子への愛情。
そして、その愛情を向ける相手が、目の前にいるという事実に耐えられない人間の絶望があった。
「……あなたは」
女性は、ゆっくりと言った。
「あなたは、私の息子を二度殺したんです」
緑谷の心臓が、強く跳ねた。
二度。
殺した。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
「……僕が?」
女性は頷いた。
「一度目は、十三年前」
彼女の声が低くなる。
「そして二度目は……」
彼女は病室の扉を見た。
その向こうにいる少年を。
「あなたが、あの子を忘れたときよ」
緑谷は、何も言えなかった。
女性は写真を差し出した。
その写真の裏には、震える文字で、こう書かれていた。
『兄弟、三人で帰る』
その下に、三つの名前が並んでいた。
最初の名前は、緑谷出久。
二つ目の名前も、緑谷出久。
そして、三つ目の名前は――。
黒く塗り潰されていた。
女性は、泣きながら言った。
「お願い……」
彼女は緑谷に手を伸ばした。
「今度こそ、あの子を殺さないで」
その瞬間。
病室の中から、警報音が鳴り響いた。
相澤が振り返る。
扉の隙間から、白い光が漏れていた。
窓ガラスに浮かび上がる文字。
《第三個体の識別を完了》
《本名照合を開始します》
女性の顔が、真っ青になった。
「……やめて」
彼女は呟いた。
「お願い、やめて……!」
光が強くなる。
《照合対象:緑谷出久》
女性は首を振った。
「その名前を、呼ばないで……!」
《照合対象の真名を復元します》
女性が悲鳴を上げた。
「その子の名前を返して!」
そして。
病室の中から、少年の声が響いた。
「――やめろ」
それは、先ほどまでの弱々しい声ではなかった。
低く、鋭く、何かを拒絶する声だった。
「その名前だけは……!」
光が、爆発した。
廊下の照明が消える。
窓ガラスが震える。
壁の時計が、午前二時十三分から動き始めた。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
秒針が、逆方向へ回り始める。
そして、すべての時計が、一斉に同じ数字へ戻った。
午前二時十三分。
女性が、膝から崩れ落ちた。
「……また、始まる」
彼女は顔を覆った。
「また、あの子が……」
緑谷は、病室の扉を見つめていた。
その向こうにいる少年は、いったい誰なのか。
なぜ、女性は彼を息子だと言うのか。
なぜ、彼女は自分が息子を殺したと責めるのか。
そして。
写真に書かれた、三人の約束。
――兄弟、三人で帰る。
緑谷の脳裏に、覚えのない光景が浮かんだ。
夕暮れの帰り道。
三人の子供。
真ん中を歩く、自分。
左側には、今の自分と同じ顔をした少年。
右側には、顔が見えないもう一人。
三人は手を繋いでいた。
誰かが笑っていた。
誰かが泣いていた。
そして、誰かが言った。
『約束だよ』
その声を聞いた瞬間。
緑谷の目から、涙が落ちた。
自分でも理由が分からなかった。
記憶はない。
顔も分からない。
名前も分からない。
なのに。
胸が痛かった。
どうしようもなく。
その誰かに、会いたかった。
その誰かに、謝りたかった。
その誰かと、もう一度。
三人で帰りたかった。
病室の扉の向こうから、少年の声が聞こえた。
ひどく小さな声だった。
誰にも聞かせたくない、秘密の告白のような声だった。
「……出久」
緑谷は、扉に手を伸ばした。
「僕は……」
少年は、泣いていた。
「僕は、君の兄さんじゃない」
その言葉に、緑谷の手が止まった。
病室の中で、少年は続けた。
「僕は――」
声が、途切れた。
そして。
窓ガラスに、最後の一行が浮かび上がった。
《第三個体の真名:復元失敗》
《再構築まで、残り六十二時間》
その下に。
誰かの手書きのような文字が、ゆっくりと浮かび上がった。
『本当の兄は、まだ帰ってきていない』
緑谷は、その文字を見つめた。
そして、病室の中にいる少年の声を聞いた。
「……ごめんね、出久」
少年は、泣きながら言った。
「僕は、君の兄さんを殺したんだ」
――第二章 第十一話「もう一人の緑谷出久」 了。