僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

21 / 71
第十一話「もう一人の緑谷出久」

 

 午前二時十三分。

 雄英高校附属病院の時計は、今日もその時刻で止まっていた。

 秒針は、十二と十三の間に針先を置いたまま動かない。

 電子時計も、壁掛け時計も、病室のモニターに表示された時刻も、すべてが同じ数字を示している。

 午前二時十三分。

 十三年前、緑谷出久の死亡が記録された時刻。

 そして今。

 その記録に存在しないはずの少年が、雄英の病室で眠っていた。

 緑谷出久と同じ顔をした少年。

 けれど、緑谷出久ではない少年。

 そのベッドを囲む人々は、誰一人として口を開こうとしなかった。

 沈黙を破ったのは、心電図の電子音だった。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

「……もう一度、検査結果を見せてください」

 緑谷出久が言った。

 声は落ち着いていた。

 少なくとも、表面上は。

 相澤消太は、隣に立つ教え子の横顔を見た。

 緑谷は眠っている少年を見つめていた。

 目を逸らさない。

 怯えていないわけではない。

 混乱していないわけでもない。

 むしろ、その逆だった。

 目の前にいる少年の存在を理解しようとするあまり、瞬きさえ忘れている。

 自分と同じ顔。

 自分と同じ声。

 自分の記憶にない傷。

 そして、自分の知らない約束。

 十三年前。

 自分が死んだと記録された夜。

 この少年は、何をしていたのか。

 なぜ、自分を見て「おかえり」と言ったのか。

 なぜ、自分は考えるより先に「ただいま」と答えてしまったのか。

 その答えが、目の前の少年の中にある。

 だからこそ、緑谷は目を逸らせなかった。

「緑谷」

 相澤が呼んだ。

「はい」

「無理に答えを出すな」

「……はい」

「今のお前は、自分のことを調べているつもりで、相手のことまで自分の基準で決めようとしている」

 緑谷は、わずかに眉を寄せた。

「僕は、そんなつもりじゃ……」

「つもりの話はしていない」

 相澤の声は厳しかった。

「お前と同じ顔をしているからといって、そいつがお前と同じ人間だとは限らない。逆に、違う人間だからといって、お前と無関係だとも限らない」

 そこで相澤は、少年の顔を見た。

「まずは本人が起きるのを待つ。話はそれからだ」

「……はい」

 緑谷は頷いた。

 けれど、その視線は、少年の手に残された古い火傷から離れなかった。

 自分の手には、あの傷はない。

 少なくとも、今の自分には。

 では。

 この少年は、何を失って、あの傷を負ったのだろう。

 そして。

 何を守ろうとしていたのだろう。

     *

 午前二時十三分。

 時計が止まったまま、五分が過ぎた。

 もちろん、正確な五分ではない。

 病室の時計は動いていないのだから。

 それでも、リカバリーガールの腕時計は時間を刻んでいた。

 世界のすべてが止まっているわけではない。

 止まっているのは、特定の時刻に関わるもの。

 十三年前の死亡記録に関係するもの。

 そして、その記録に触れた者たちの一部。

 それが、相澤たちが現時点で把握している異常だった。

「……相澤先生」

 飯田天哉が、手にした端末から顔を上げた。

「病院の監視映像に異常が発生しています」

「何があった」

「この病室の映像です。現在の映像ではなく、過去の記録が混ざっています」

「過去?」

「はい。時刻は十三年前の午前二時十三分。映像の記録そのものは存在しないはずなのですが……」

 飯田は画面を操作した。

 そして、言葉を失った。

 画面には、病室が映っていた。

 今と同じ病室。

 今と同じベッド。

 ただし、ベッドの上にいるのは、現在眠っている少年ではなかった。

 幼い緑谷出久だった。

 まだ幼児と呼ぶべき年齢の少年が、白いシーツの上に横たわっている。

 その隣に、もう一人の子供がいた。

 こちらも緑谷出久に似ている。

 いや。

 似ているという言葉では足りない。

 幼い出久と、現在の病室で眠る少年。

 その二人が、同じ画面の中にいた。

 そして。

 ベッドの脇に立っている人物がいた。

 顔は見えない。

 映像が、そこだけ黒く塗り潰されていた。

「……何だ、これ」

 爆豪勝己が呟いた。

 画面の中の幼い出久が、何かを言っていた。

 音声はノイズに埋もれている。

 けれど、口の動きは確認できた。

 飯田が映像を拡大した。

 幼い出久は、ベッドの隣にいる少年の手を握っている。

 何度も。

 何度も。

 離れないように。

 その口が、ゆっくりと動いた。

『にい……ちゃん』

 音声はない。

 しかし、そこにいた全員が、その言葉を理解した。

 緑谷出久が息を呑んだ。

 少年の唇が、もう一度動く。

『いかないで』

 その瞬間。

 画面が乱れた。

 映像が横に引き伸ばされ、色が反転し、画面いっぱいに無数の文字が走った。

 そして、最後に一行だけが残った。

 《記録対象:緑谷出久》

 その下に、もう一行。

 《記録対象:緑谷出久》

 さらに、その下に。

 《記録対象:緑谷出久》

 三つの名前。

 三つとも、同じ名前。

 飯田が震える指で画面を操作した。

「そんな……」

 彼はもう一度、記録を確認した。

「この映像は、存在しません。十三年前、この病院には現在の病棟自体がありませんでした。建物の構造も違います。そもそも、撮影機器の位置が……」

「飯田」

 相澤が言った。

「はい」

「今の映像を保存しろ。複製も取れ。元データには触るな」

「了解しました!」

 飯田はすぐに作業へ移った。

 爆豪は画面を睨みつけたまま、拳を握っていた。

「三人……だと?」

 彼はベッドの上の少年を見た。

 それから、隣にいる緑谷を見た。

「おい、デク」

「……何?」

「お前、何人いるんだ」

 冗談ではなかった。

 怒鳴り声でもなかった。

 ただ、理解できない現実に対する、率直な問いだった。

 緑谷は答えられなかった。

 答えられるはずがなかった。

 自分は一人だ。

 そう信じて生きてきた。

 だが、十三年前の映像には、自分と同じ名前が三つ並んでいた。

 しかも、その一つは。

 今、目の前で眠っている少年だった。

     *

 そのときだった。

 ベッドの上で、少年の指が動いた。

 ほんのわずか。

 けれど、確かに。

「……っ!」

 緑谷が一歩前に出た。

「先生!」

「分かっている」

 相澤がベッドの脇に移動する。

 リカバリーガールがモニターを確認した。

「意識反応が上がっている……。この子、目を覚ますよ」

 少年の瞼が震えた。

 ゆっくりと。

 まるで、重い扉を押し開けるように。

 少年は目を開いた。

 緑色の瞳だった。

 緑谷と同じ色。

 けれど、その瞳に宿るものは、緑谷のものとは違っていた。

 疲労。

 悲しみ。

 そして、何かを諦めることに慣れすぎた人間の、ひどく静かな目。

 少年は天井を見た。

 数秒間、何も言わなかった。

 それから、ゆっくりと首を動かした。

 相澤。

 リカバリーガール。

 飯田。

 爆豪。

 轟。

 麗日。

 切島。

 八百万。

 最後に。

 緑谷出久を見た。

 少年の目が、大きく見開かれた。

「……出久」

 掠れた声だった。

 緑谷は息を止めた。

 少年は、何かを確かめるように手を伸ばした。

 しかし、途中で止めた。

 指先が震えていた。

「……生きて、る」

 その言葉は、問いかけではなかった。

 祈りでもなかった。

 長い年月をかけて、何度も失い、何度も確かめ、何度も絶望してきた人間が、ようやく目にした事実を受け止めるための言葉だった。

「生きてる……」

 少年は、笑おうとした。

 けれど、うまく笑えなかった。

 口元が歪み、喉が震えた。

 そして。

 涙が、一滴だけ頬を伝った。

「……よかった」

 緑谷は何も言えなかった。

 目の前の少年は、自分が生きていることを喜んでいる。

 それだけは分かった。

 けれど、その喜びがどれほどのものなのか、想像することすらできなかった。

「君は……」

 緑谷は、ようやく声を出した。

「君は、誰なの?」

 少年の表情が固まった。

 その問いを予想していたようでもあり。

 その問いを、何より恐れていたようでもあった。

 少年は目を閉じた。

 しばらくして、静かに答えた。

「……それを、僕が教えられたらよかった」

「え?」

「ごめん」

 少年は緑谷を見た。

「君に、僕の名前を教えたかった」

 その瞬間。

 病室の空気が凍りついた。

 名前。

 第三の少年が失ったもの。

 そして、十三年前の記録から消されていたもの。

「……名前を、忘れたの?」

 緑谷が尋ねた。

 少年は答えなかった。

 代わりに、自分の手を見つめた。

 指を折る。

 一本。

 二本。

 三本。

 まるで、何かを数えているようだった。

 やがて、少年は小さく笑った。

「違うんだ」

 その声には、ひどく乾いた響きがあった。

「忘れたんじゃない。……僕の名前は、最初からなかったことになったんだ」

 轟が目を細めた。

「なかったことに?」

「そう」

「誰に?」

 少年は、ゆっくりと轟を見た。

 その目が、一瞬だけ、ひどく冷たくなった。

「世界に」

 誰も口を開かなかった。

 少年は続けた。

「世界が、僕を認識できなくなったんだ。名前を呼ばれなくなった。記録から消えた。写真から消えた。僕がいた場所だけ、最初から誰もいなかったことになった」

 少年は自分の胸に手を当てた。

「でも、僕はここにいる」

 その手が震えた。

「ここにいるのに、誰も僕を覚えていない。誰も僕を見つけられない。僕が何をしたのか、何を守ろうとしたのか、誰も知らない」

 彼は緑谷を見た。

「……君以外は」

 緑谷の胸が、強く締めつけられた。

「僕が……君を覚えていたの?」

「覚えていたよ」

 少年は答えた。

「君だけは、最後まで僕を忘れなかった」

「でも、僕は君のことを知らない……!」

 思わず、緑谷の声が強くなった。

 自分でも驚くほどだった。

「僕は君の顔を見ても、君が誰なのか分からない! 君の名前も、君と過ごした時間も、何も覚えていない! なのに、君は僕を知っている! 僕が生きていることを、そんなに喜んでくれる!」

 緑谷は拳を握った。

「どうして……?」

 少年は答えなかった。

「どうして、そんな顔をするの……?」

 それは、責める言葉ではなかった。

 むしろ、助けを求める声だった。

 自分の知らない誰かが、自分のために泣いている。

 自分の知らない誰かが、自分の生を、奇跡のように喜んでいる。

 その理由が分からない。

 分からないことが、怖かった。

 少年はしばらく緑谷を見つめていた。

 そして、静かに言った。

「君は、僕の弟だから」

 緑谷の呼吸が止まった。

「……弟?」

「うん」

「僕に……兄さんが、いたの?」

「いたよ」

 少年は笑った。

 今度は、ほんの少しだけ、自然な笑顔だった。

「君が、そう呼んでくれた」

 その言葉に、相澤の目が細くなった。

 爆豪が一歩前に出る。

「待て。さっきの記録じゃ、十三年前のお前らはガキだった。今のデクの年齢と合わねえだろうが」

「……そうだね」

「説明しろ」

 少年は爆豪を見た。

 怒りを恐れている様子はなかった。

 むしろ、彼の声を聞いて、どこか懐かしそうに目を細めた。

「君は、昔から怒るときに声が大きかった」

「は?」

「でも、本当に怖いときは、逆に静かになる」

「テメェ……」

「勝己」

 少年は、何気なくその名を口にした。

 爆豪の動きが止まった。

 病室の全員が、少年を見た。

 少年は、自分が何を言ったのか理解していないようだった。

 いや。

 理解していたのかもしれない。

 ただ、その言葉が口から出たことに、自分自身が驚いているようだった。

「……今、何つった」

 爆豪の声が低くなる。

 少年は唇を動かした。

「勝己」

「俺の名前を、どこで知った」

「どこで……?」

 少年は困惑したように眉を寄せた。

 そして、ゆっくりと首を振った。

「分からない。でも、知っている」

「ふざけんな」

「ふざけてないよ」

 少年は、まっすぐ爆豪を見た。

「君は、出久が初めて友達を連れて帰ってきたとき、ずっと玄関で睨んでいた」

「……!」

「僕が『仲良くしてあげてね』って言ったら、『別に仲良くするなんて言ってねえ』って怒って」

 少年は少しだけ笑った。

「それでも、帰るときには、出久の靴を揃えてくれた」

 爆豪の顔から、表情が消えた。

「……そんな記憶、ねえよ」

「うん」

 少年は頷いた。

「君には、ないんだ」

 その言い方が。

 あまりにも寂しかった。

「でも、僕にはある」

 少年は、目を伏せた。

「君が出久を助けたことも。出久が君を助けたことも。二人で喧嘩したことも。仲直りできなくて、僕に怒られたことも」

 少年の声が、わずかに震えた。

「全部、覚えている」

 彼は、緑谷を見た。

「僕だけが、覚えているんだ」

     *

 病室の扉が開いた。

「……失礼します」

 麗日お茶子が、慎重に顔を出した。

 その後ろには、八百万百と切島鋭児郎がいた。

 三人は、病室の異様な空気にすぐ気づいた。

「何かあったん?」

 麗日が尋ねる。

 緑谷は、彼女を振り返った。

「お茶子ちゃん……」

 その顔を見た瞬間、麗日の表情が変わった。

 緑谷は泣いていなかった。

 けれど、今にも泣き出しそうだった。

 麗日はすぐに彼のそばへ行き、そっと手を握った。

「大丈夫?」

「……分からない」

 緑谷は正直に答えた。

「何も、分からないんだ」

「うん」

「この人は、僕のことを知っている。でも、僕はこの人を知らない」

「うん」

「僕の兄さんだって言ってる。でも、そんな記憶はない」

 麗日は、少年を見た。

 少年も、彼女を見ていた。

 その瞳に、奇妙な感情が浮かんだ。

 驚き。

 安堵。

 そして、深い後悔。

「……お茶子ちゃん」

 少年が言った。

 麗日の肩が震えた。

「どうして、私の名前を……?」

「君は、出久が一番苦しいときに、いつも隣にいてくれた」

 少年は、ゆっくりと言葉を選んだ。

「出久が自分を責めるとき、君は怒ってくれた。出久が誰かを助けるために無茶をするとき、君は泣きながら止めてくれた」

「……」

「それでも、最後には、出久の選んだ道を信じてくれた」

 少年は麗日を見つめた。

「ありがとう」

 麗日は息を呑んだ。

「……何で」

 声が震えた。

「何で、あなたがそんなことを言うんですか……?」

 少年は答えられなかった。

「私、あなたのこと知らない。あなたと会ったこともない。なのに……」

 麗日は、緑谷の手を握りしめた。

「なのに、どうして、そんなに悲しそうにお礼を言うんですか」

 少年は目を閉じた。

 そして、静かに答えた。

「君たちに、謝りたかったんだ」

 麗日の表情が変わる。

「謝る……?」

「うん」

 少年は、緑谷を見た。

「僕が、出久を守れなかったから」

 緑谷が首を振った。

「まだ、何も分からないよ。何があったのかも、君が何をしたのかも……」

「そうだね」

 少年は頷いた。

「だから、これから話すよ」

 彼はベッドの上で身体を起こそうとした。

 しかし、腕に力が入らなかった。

 リカバリーガールがすぐに肩を押さえる。

「無理をするんじゃないよ。あんた、まだまともに動ける状態じゃないんだから」

「……すみません」

「謝る暇があるなら寝てな」

 少年は苦笑した。

「昔も、同じことを言われたな……」

「誰に?」

 リカバリーガールが尋ねた。

 少年の笑みが消えた。

「……分からない」

 まただ。

 記憶はある。

 感情もある。

 誰かに何かを言われたことも覚えている。

 しかし、その相手の名前だけが抜け落ちている。

 まるで、記憶の中に穴が空いているかのようだった。

 少年は、自分の胸を押さえた。

「……おかしいな」

「何がだ?」

 相澤が尋ねた。

「僕は、覚えているんです」

 少年は言った。

「出久のことも。勝己のことも。お茶子のことも。みんなのことを、覚えている」

 彼は額に手を当てた。

「でも、思い出そうとすると……」

 その瞬間。

 少年の瞳が、見開かれた。

「……っ!」

 全身が強張る。

 心電図の音が乱れた。

「おい!」

 相澤がベッドに近づく。

 少年は頭を抱えていた。

「違う……!」

 呻くような声が漏れる。

「違う、違う、違う……! その名前じゃない……!」

「落ち着きなさい!」

 リカバリーガールが声を上げた。

 だが、少年は聞いていなかった。

 何かを思い出そうとしている。

 あるいは。

 思い出してはいけない何かに、触れてしまったのか。

「僕は……僕は……!」

 少年の指が、シーツを握りしめる。

「僕は、あの子を……!」

 そこで、言葉が途切れた。

 病室の照明が、一斉に明滅した。

 壁掛け時計の針が動いた。

 午前二時十三分。

 秒針が、一つ進んだ。

 カチッ。

 そして、止まった。

 次の瞬間。

 病室の窓ガラスに、文字が浮かび上がった。

 誰も触れていないガラスの内側に。

 黒い文字が、まるで血で書かれるように、ゆっくりと現れる。

 《記録対象が自己認識を開始しました》

 続いて。

 《個体識別を再開します》

 少年が、悲鳴を上げた。

「やめろッ!」

 その声は、病室全体を震わせた。

「やめてくれ! もう、僕から奪わないでくれ!」

 彼は、必死に何かを拒絶していた。

 目には、恐怖があった。

 単なる記憶喪失への恐怖ではない。

 自分が誰なのか分からなくなることへの恐怖でもない。

 もっと深い。

 自分の存在そのものが、また消されることへの恐怖。

「僕は、ここにいる……!」

 少年は叫んだ。

「ここにいるんだ! 僕は、まだ……!」

 窓ガラスに、新しい文字が浮かんだ。

 《識別結果:緑谷出久》

 緑谷が息を呑んだ。

 少年の叫びが止まった。

 その表示の下に、さらに文字が現れる。

 《既存個体との重複を確認》

 《統合処理を開始します》

「させるかよ」

 爆豪が低く呟いた。

 彼はベッドの前に立った。

 その身体から、爆発音が小さく弾ける。

「前にも言っただろうが。勝手に人間を選んで、勝手に消そうとしてんじゃねえ」

 轟も前に出た。

 右手から冷気が広がり、窓の周囲を白く凍らせていく。

「対象を統合するってことは、どちらかを消すつもりか」

 返答はなかった。

 代わりに、窓ガラスの文字が変わった。

 《統合候補を選択してください》

 その下に、三つの項目が表示された。

 《緑谷出久》

 《緑谷出久》

 《緑谷出久》

 全員が、言葉を失った。

 また三つ。

 同じ名前。

 同じ個体。

 同じ存在。

 世界は、三人を区別することができない。

 だから、ひとつにまとめようとしている。

 その結果、誰が残るのか。

 誰が消えるのか。

 誰も知らない。

 しかし、ひとつだけ確かなことがあった。

 このままでは、また誰かが消える。

「……いい加減にしろよ」

 緑谷が、静かに言った。

 彼は少年の手を握った。

 少年の手は冷たかった。

 震えていた。

 まるで、十三年前からずっと、誰かに見つけてもらうことを恐れていたかのように。

「君は、僕の兄さんなんでしょう?」

 少年が顔を上げた。

「出久……?」

「僕は、君のことを覚えていない」

 緑谷は言った。

「でも、君が僕を守ろうとしてくれたことは、分かる」

「……」

「君が何をしたのか、まだ知らない。君が何を隠しているのかも分からない」

 緑谷は、少年の手を握る力を強めた。

「それでも、君がここにいることを、僕は否定しない」

 少年の瞳が揺れた。

「だから……」

 緑谷は窓の文字を見上げた。

「僕たちを、勝手に一つにしないでくれ」

 その言葉と同時に。

 窓ガラスの文字が、激しく明滅した。

 《警告》

 《個体の拒絶を確認》

 《世界再構築まで、残り――》

 数字が、変化した。

 六十三時間。

 六十二時間五十九分。

 六十二時間五十八分。

 そして。

 六十二時間五十七分。

 カウントダウンは、確かに進んでいた。

     *

 午前二時十三分。

 病室の騒ぎが収まったあと、相澤は緑谷たちを廊下へ出した。

 リカバリーガールが少年の容態を確認している間、病室には余計な刺激を与えないほうがいい。

 それは医学的な判断であると同時に、別の理由もあった。

 少年は、あまりにも多くのことを知っている。

 そして、彼が何かを思い出そうとするたび、世界そのものが反応する。

 彼の記憶は、単なる個人の記憶ではない。

 十三年前の記録。

 三人の緑谷出久。

 消された名前。

 再構築される世界。

 それらすべてが、彼の中で繋がっている可能性があった。

「……先生」

 廊下の壁にもたれながら、緑谷が言った。

「何だ」

「さっきの表示、見ましたよね」

「ああ」

「僕と同じ名前が、三つありました」

「見た」

「先生は……僕が三人いると思いますか?」

 相澤はすぐには答えなかった。

 しばらく考えてから、言った。

「今の情報だけじゃ判断できない」

「……そうですよね」

「ただし」

 相澤は緑谷を見た。

「少なくとも、三つの記録がある。それは事実だ」

「記録があることと、本人がいることは別です」

「その通りだ」

 相澤は続けた。

「だが、俺たちはすでに、記録に存在しないはずの人間が目の前に現れるのを見た。映像に映らないはずの過去が映るのも見た。今さら、記録と現実が一致すると思い込むほうが危険だ」

 緑谷は俯いた。

「……僕は、何なんでしょう」

 その言葉に、相澤の目が鋭くなった。

「自分を記録の一部として扱うな」

「でも……」

「お前は緑谷出久だ」

 相澤は、はっきりと言った。

「少なくとも、俺が知っているお前はそうだ」

 緑谷が顔を上げた。

「お前が何者なのか、世界が何と記録しているのか。そんなものは、あとからいくらでも調べられる」

 相澤は一度、病室の扉を見た。

「だが、目の前にいる人間を、記録の都合で消させるわけにはいかない」

 その言葉に、緑谷は小さく頷いた。

 しかし。

 相澤の脳裏には、ひとつの疑問が残っていた。

 なぜ、あの少年は、緑谷だけでなく爆豪や麗日のことまで知っているのか。

 単なる別世界の緑谷なのか。

 それとも。

 もっと根本的な何かが違うのか。

 そして、少年が口にした言葉。

 ――僕が、出久を守れなかったから。

 あれは、過去の話なのか。

 それとも。

 何度も繰り返されてきた未来の話なのか。

     *

 午前二時十四分。

 廊下の向こうから、足音が聞こえた。

 速い。

 しかし、慌てているというより、何かを決意して歩いているような足音だった。

 相澤が振り返る。

 廊下の角から、一人の女性が現れた。

 年齢は四十代後半ほど。

 黒いコートを着ている。

 髪は乱れ、顔色は悪い。

 目の周りには、長年眠れなかった人間特有の影が刻まれていた。

 彼女は病室の前まで来ると、足を止めた。

 そして、扉の向こうを見つめた。

「……いた」

 その声は、ひどく小さかった。

 けれど、確かな憎しみがあった。

 相澤が一歩前に出る。

「失礼ですが、どちら様ですか」

 女性は答えなかった。

 彼女の視線は、病室の扉に釘付けになっていた。

「……やっと、見つけた」

 彼女はコートの内側から、一枚の写真を取り出した。

 古い写真だった。

 端が擦り切れ、表面には細かな傷がついている。

 そこには、少年が写っていた。

 年齢は十歳前後。

 緑色の髪。

 緑色の瞳。

 そして、緑谷出久によく似た顔。

 ただし。

 その少年は、緑谷出久ではなかった。

 少なくとも、相澤が知っている緑谷出久とは、決定的に違うところがあった。

 写真の少年は、右の眉尻に小さな傷があった。

 病室で眠っている少年の額にある傷とは違う。

 けれど、どちらも古い傷だった。

 女性は写真を握りしめた。

「……あの子を、返して」

 相澤の表情が変わった。

「あなたは、あの少年を知っているんですか」

「知っている?」

 女性は笑った。

 乾いた、壊れた笑いだった。

「知っているに決まっているでしょう」

 彼女は顔を上げた。

 その瞳には、十三年分の涙が溜まっていた。

「私が産んだ子なんだから」

 廊下の空気が、一瞬で凍りついた。

 緑谷が、女性を見つめた。

 女性もまた、緑谷を見た。

 そして。

 彼女の顔が、恐怖に歪んだ。

「……あなた」

 写真を持つ手が震えた。

「どうして、あなたが生きているの?」

 緑谷は答えられなかった。

 女性は一歩、後ずさった。

「違う……違うわ……」

 彼女は何度も首を振った。

「だって、あなたは……」

 唇が震える。

「あなたは、あの子と一緒に死んだはずなのに……!」

 その言葉が、廊下に響いた。

 相澤が女性の前に立つ。

「落ち着いてください。まず、話を聞かせてください」

「話?」

 女性は相澤を睨んだ。

「あなたたちは、何も知らない!」

 声が、廊下全体を震わせた。

「何も知らないくせに、またあの子を連れていこうとしている!」

「誰も連れていきません」

「嘘よ!」

 女性は写真を胸に押し当てた。

「十三年前も、そう言った! あの子を守るって! 絶対に返すって! なのに、あの子は帰ってこなかった!」

 緑谷の顔から血の気が引いた。

 十三年前。

 また、その言葉だ。

 女性は緑谷を見つめた。

 その目に浮かんでいるのは、単純な憎しみではなかった。

 憎しみだけなら、まだ分かりやすかっただろう。

 彼女の目には、愛情があった。

 失われた息子への愛情。

 そして、その愛情を向ける相手が、目の前にいるという事実に耐えられない人間の絶望があった。

「……あなたは」

 女性は、ゆっくりと言った。

「あなたは、私の息子を二度殺したんです」

 緑谷の心臓が、強く跳ねた。

 二度。

 殺した。

 その言葉が、頭の中で何度も反響する。

「……僕が?」

 女性は頷いた。

「一度目は、十三年前」

 彼女の声が低くなる。

「そして二度目は……」

 彼女は病室の扉を見た。

 その向こうにいる少年を。

「あなたが、あの子を忘れたときよ」

 緑谷は、何も言えなかった。

 女性は写真を差し出した。

 その写真の裏には、震える文字で、こう書かれていた。

 『兄弟、三人で帰る』

 その下に、三つの名前が並んでいた。

 最初の名前は、緑谷出久。

 二つ目の名前も、緑谷出久。

 そして、三つ目の名前は――。

 黒く塗り潰されていた。

 女性は、泣きながら言った。

「お願い……」

 彼女は緑谷に手を伸ばした。

「今度こそ、あの子を殺さないで」

 その瞬間。

 病室の中から、警報音が鳴り響いた。

 相澤が振り返る。

 扉の隙間から、白い光が漏れていた。

 窓ガラスに浮かび上がる文字。

 《第三個体の識別を完了》

 《本名照合を開始します》

 女性の顔が、真っ青になった。

「……やめて」

 彼女は呟いた。

「お願い、やめて……!」

 光が強くなる。

 《照合対象:緑谷出久》

 女性は首を振った。

「その名前を、呼ばないで……!」

 《照合対象の真名を復元します》

 女性が悲鳴を上げた。

「その子の名前を返して!」

 そして。

 病室の中から、少年の声が響いた。

「――やめろ」

 それは、先ほどまでの弱々しい声ではなかった。

 低く、鋭く、何かを拒絶する声だった。

「その名前だけは……!」

 光が、爆発した。

 廊下の照明が消える。

 窓ガラスが震える。

 壁の時計が、午前二時十三分から動き始めた。

 カチッ。

 カチッ。

 カチッ。

 秒針が、逆方向へ回り始める。

 そして、すべての時計が、一斉に同じ数字へ戻った。

 午前二時十三分。

 女性が、膝から崩れ落ちた。

「……また、始まる」

 彼女は顔を覆った。

「また、あの子が……」

 緑谷は、病室の扉を見つめていた。

 その向こうにいる少年は、いったい誰なのか。

 なぜ、女性は彼を息子だと言うのか。

 なぜ、彼女は自分が息子を殺したと責めるのか。

 そして。

 写真に書かれた、三人の約束。

 ――兄弟、三人で帰る。

 緑谷の脳裏に、覚えのない光景が浮かんだ。

 夕暮れの帰り道。

 三人の子供。

 真ん中を歩く、自分。

 左側には、今の自分と同じ顔をした少年。

 右側には、顔が見えないもう一人。

 三人は手を繋いでいた。

 誰かが笑っていた。

 誰かが泣いていた。

 そして、誰かが言った。

『約束だよ』

 その声を聞いた瞬間。

 緑谷の目から、涙が落ちた。

 自分でも理由が分からなかった。

 記憶はない。

 顔も分からない。

 名前も分からない。

 なのに。

 胸が痛かった。

 どうしようもなく。

 その誰かに、会いたかった。

 その誰かに、謝りたかった。

 その誰かと、もう一度。

 三人で帰りたかった。

 病室の扉の向こうから、少年の声が聞こえた。

 ひどく小さな声だった。

 誰にも聞かせたくない、秘密の告白のような声だった。

「……出久」

 緑谷は、扉に手を伸ばした。

「僕は……」

 少年は、泣いていた。

「僕は、君の兄さんじゃない」

 その言葉に、緑谷の手が止まった。

 病室の中で、少年は続けた。

「僕は――」

 声が、途切れた。

 そして。

 窓ガラスに、最後の一行が浮かび上がった。

 《第三個体の真名:復元失敗》

 《再構築まで、残り六十二時間》

 その下に。

 誰かの手書きのような文字が、ゆっくりと浮かび上がった。

 『本当の兄は、まだ帰ってきていない』

 緑谷は、その文字を見つめた。

 そして、病室の中にいる少年の声を聞いた。

「……ごめんね、出久」

 少年は、泣きながら言った。

「僕は、君の兄さんを殺したんだ」

 ――第二章 第十一話「もう一人の緑谷出久」 了。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。