僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十二話「兄を殺した少年」

 

Ⅰ その言葉だけは、聞きたくなかった

「……僕は、君の兄さんを殺したんだ」

 病室の中から聞こえた声は、あまりにも静かだった。

 叫びではない。

 言い訳でもない。

 許しを求める響きさえなかった。

 ただ、長い時間をかけて磨り減った人間が、ようやく自分の罪を口にしたときの声だった。

 緑谷出久は、病室の扉に手をかけたまま動けなかった。

 扉の向こうには、自分と同じ顔をした少年がいる。

 自分を弟と呼んだ少年。

 自分の友人たちの名前を知っていた少年。

 自分が生きていることを、泣くほど喜んでくれた少年。

 その少年が今、自分の兄を殺したと言った。

 ――君の兄さんを殺した。

 言葉の意味は理解できた。

 理解できてしまった。

 けれど、心が追いつかなかった。

「……待って」

 ようやく、声が出た。

 緑谷は扉を押し開けた。

 病室の中は、白い光に満たされていた。

 壁に浮かんでいた文字は消えている。

 窓ガラスに残っていた亀裂も、いつの間にか元に戻っていた。

 ただ、壁掛け時計だけが、午前二時十三分を示している。

 ベッドの上で、少年は顔を伏せていた。

 手には、古い写真が握られている。

 いつの間に手に入れたのか、緑谷には分からなかった。

 写真の表面は擦り切れている。

 そこには、三人の子供が写っていた。

 一人は幼い緑谷出久。

 一人は、今ベッドにいる少年。

 そしてもう一人。

 顔の部分だけが、黒く塗り潰されていた。

「……それは、何?」

 緑谷が尋ねた。

 少年は答えなかった。

「君が殺したっていう、僕の兄さんは……この写真の人?」

 少年の指が、写真を握りしめた。

「……そうだよ」

「じゃあ、君は……」

 緑谷は言葉を探した。

 兄ではない。

 けれど、自分と同じ顔をしている。

 自分の記憶にない過去を知っている。

 自分の友人たちと過ごしたことがある。

 そのうえで、自分の兄を殺したと言っている。

 何から聞けばいいのか分からなかった。

 何を聞けば、目の前の少年が、今にも壊れてしまいそうな顔をやめてくれるのか。

 そんなことを考えている自分自身が、緑谷には理解できなかった。

 普通なら、まず理由を聞くべきなのだ。

 なぜ殺したのか。

 どうやって殺したのか。

 なぜ自分は何も覚えていないのか。

 けれど、口から出たのは別の言葉だった。

「……君は、僕を守ろうとしたの?」

 少年が顔を上げた。

 緑色の瞳が、揺れていた。

「どうして……」

「え?」

「どうして、そんなことを聞くんだよ」

 少年の声が震えた。

「僕が君の兄さんを殺したって言ったんだぞ」

「うん」

「君の大切な人を、僕が殺したんだ」

「……うん」

「なのに、どうして……!」

 少年は、写真を胸に押し当てた。

「どうして、僕が君を守ろうとしたなんて思えるんだよ!」

 緑谷は答えなかった。

 答えられなかった。

 ただ、少年の顔を見ていた。

 怒りに満ちた顔。

 憎しみを向けている顔。

 自分自身を罰しようとしている顔。

 そのどれとも違う。

 少年は、怯えていた。

 緑谷に憎まれることを。

 緑谷に拒絶されることを。

 そして、緑谷が何も覚えていないことを。

 まるで、その三つすべてが、彼にとって同じくらい恐ろしいことのようだった。

「……君は、さっき泣いていた」

 緑谷が言った。

「僕が生きているって分かったとき、泣いていた」

「……」

「それに、僕のことを何度も出久って呼んだ」

 緑谷は、ゆっくりと一歩近づいた。

「君が本当に僕を殺したかったなら、あんな顔はしないと思う」

「……そんなの」

「君が僕の兄さんを殺したのは、本当なのかもしれない」

 少年の表情が歪んだ。

 緑谷は、目を逸らさなかった。

「でも、僕はまだ、何があったのか知らない」

「……」

「知らないまま、君を許すこともできない。知らないまま、君を憎むこともできない」

 少年は、唇を噛んだ。

「だから、話してほしい」

 緑谷は言った。

「僕の兄さんは、誰だったの?」

 少年の顔から、表情が消えた。

 そして。

 彼は、写真の裏側を緑谷に見せた。

 そこには、震える筆跡で、こう書かれていた。

 『兄弟、三人で帰る』

 その下に、三つの名前が並んでいた。

 一つ目。

 緑谷出久。

 二つ目。

 緑谷出久。

 三つ目。

 黒く塗り潰された名前。

 少年は、その黒い部分を指でなぞった。

「……僕は、その名前を知っている」

 声が掠れた。

「誰よりも、よく知っている」

 彼は目を閉じた。

「でも、口に出したら……また、あの人が死ぬ」

 その瞬間。

 病室の照明が、一度だけ明滅した。

 相澤消太の目が細くなる。

「……あの人?」

 少年は答えなかった。

 代わりに、病室の外で女性が息を呑む音がした。

 先ほど、緑谷に「私の息子を二度殺した」と告げた女性。

 彼女は病室の入口に立ったまま、写真を見つめていた。

 そして、震える声で言った。

「……その名前を、まだ覚えていたのね」

 少年が顔を上げた。

「……母さん」

 女性の膝が崩れた。

     *

Ⅱ 母と呼ばれた人

「……母さん」

 その言葉を聞いた瞬間、女性は顔を覆った。

 泣いていた。

 声を押し殺し、肩を震わせ、まるで泣くことすら誰かに許可されなければならないかのように。

 少年はベッドから降りようとした。

 しかし、身体に力が入らず、途中で崩れかける。

「おい!」

 相澤が支えた。

「動くなと言っただろう」

「……でも」

「でもじゃない。今のお前は立って歩ける状態じゃない」

「母さんが……」

「彼女は逃げない」

 相澤は、少年の肩を支えたまま女性を見た。

「……あなたは、この少年の母親なんですか」

 女性はすぐには答えなかった。

 目の前にいる少年を見つめていた。

 彼の顔。

 彼の髪。

 彼の目。

 そして、彼の声。

 十三年もの間、夢の中で何度も聞いた声。

 もう一度だけでいいから聞きたいと願い続けた声。

 けれど、実際に聞いてしまうと、喜ぶことさえできなかった。

 なぜなら。

 彼が生きているということは、十三年前の出来事が、まだ終わっていないということだから。

「……母親、だったわ」

 女性は答えた。

 過去形だった。

 相澤はその言い方を聞き逃さなかった。

「だった?」

「この子の母親だった。少なくとも、私の知っている世界では」

 女性は、ゆっくりと病室に入った。

 緑谷は、彼女の前に立った。

「……すみません」

 思わず、そう言っていた。

 女性が顔を上げた。

「何が?」

「僕が……あなたの息子さんを殺したって」

 女性の表情が変わった。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

 もっと複雑な感情だった。

 彼女は緑谷を見つめた。

 そして、ゆっくりと首を振った。

「あなたは、まだ何も知らないのね」

「……はい」

「それなのに、謝るの?」

「……」

「どうして?」

 緑谷は答えに詰まった。

 自分でも、よく分からなかった。

 ただ、彼女があまりにも悲しそうだったから。

 自分の知らない誰かを失った人が、目の前にいたから。

 その人に向かって、自分は何もできない。

 何も知らない。

 何も覚えていない。

 だからこそ、せめて謝りたかった。

 女性は、そんな緑谷の顔を見て、目を閉じた。

「……その顔」

「え?」

「昔のあの子に、そっくり」

 女性の視線が、ベッドの少年へ向いた。

「この子にも、そっくり」

 彼女は緑谷に近づき、そっと頬に触れようとした。

 しかし、指先が触れる直前で止まった。

「……違う」

 女性は手を引いた。

「あなたは、あの子じゃない」

 緑谷は、静かに頷いた。

「……はい」

「あなたは、出久なのね」

「……はい」

「それなのに、あの子の顔をしている」

 女性は、苦しそうに笑った。

「本当に、ひどい世界」

 その言葉に、相澤が反応した。

「世界、ですか」

「ええ」

 女性は彼を見た。

「あなたたちは、まだ世界がひとつしかないと思っているの?」

 病室の空気が変わった。

 相澤は、すぐに返答しなかった。

 この女性は、知っている。

 少なくとも、相澤たちよりも多くのことを。

 十三年前に何があったのか。

 三人の緑谷出久とは何なのか。

 そして、なぜ少年の名前が消されているのか。

「……説明してください」

 相澤が言った。

「十三年前、何があったんですか」

 女性は、ベッドの少年を見た。

 少年は、顔を伏せていた。

 彼女はその姿を見て、長い間、何も言わなかった。

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

「十三年前……私は、三人の子供を育てていたの」

 緑谷の胸が、強く跳ねた。

 三人。

 写真に写っていた、三人。

 同じ名前を持つ、三人。

「……三人とも、私の子供だったんですか?」

 女性は頷いた。

「そうよ」

 そして、すぐに付け加えた。

「少なくとも、私にとっては」

 緑谷は、息を呑んだ。

 女性は続けた。

「一人は、あなた。緑谷出久」

「……はい」

「もう一人も、緑谷出久」

「……」

「そして、最後の一人は……」

 女性の声が止まった。

 彼女の目から、涙が落ちた。

「……あの子には、名前があった」

 少年の指が、シーツを握りしめた。

「ちゃんと、名前があったのよ」

 女性は、何度も頷いた。

「私が呼んだ。あの子が振り返った。あの子が返事をした。あの子が笑った。あの子が泣いた。あの子が、私の手を握った」

 彼女は胸元を押さえた。

「全部、覚えている」

 そして、声を絞り出した。

「なのに、世界は、あの子なんて最初からいなかったって言うの」

 誰も、何も言えなかった。

「写真から消えた。戸籍から消えた。学校の記録から消えた。病院の記録から消えた。あの子が使っていた食器も、靴も、服も……いつの間にか、最初からなかったことになっていた」

 女性は顔を覆った。

「私だけが、覚えていた」

 その言葉は、先ほど少年が口にしたものと同じだった。

 ――僕だけが、覚えているんだ。

 けれど、違う。

 少年だけではなかった。

 この女性も、覚えていた。

 世界が消した存在を。

 名前を。

 家族を。

 その記憶を。

「……どうして、あなたは覚えていられたんですか」

 緑谷が尋ねた。

 女性は首を振った。

「分からない」

「何か理由があるんじゃ……」

「分からないのよ!」

 女性は、初めて声を荒らげた。

 緑谷が身を竦める。

 女性は、すぐに自分の口元を押さえた。

「……ごめんなさい」

 彼女は目を伏せた。

「ごめんなさい。あなたに怒鳴りたいわけじゃないの」

「……」

「でも、私はもう、分からないことだらけなの」

 女性は、ベッドの少年を見つめた。

「何が本当だったのか。何が夢だったのか。あの子たちが本当に三人いたのか。私が、誰かの記憶を植え付けられただけなのか」

 そして、最後に。

「それでも、あの子が私の息子だったことだけは、絶対に譲れない」

 その言葉には、強い意志があった。

 世界に何を言われようと。

 記録に何が書かれていようと。

 たとえ、自分自身の記憶が疑わしくなろうと。

 この女性は、息子の存在だけは手放さなかった。

 緑谷は、胸の奥が痛くなった。

 自分には、そんなふうに呼べる誰かがいるのだろうか。

 いや。

 いるはずだ。

 母がいる。

 友人がいる。

 大切な人たちがいる。

 なのに。

 どうして、自分は、この少年のことを覚えていないのだろう。

 どうして、三人で過ごした時間が、まるごと抜け落ちているのだろう。

 そして。

 どうして、この女性は、自分を見て、あんなにも怯えるのだろう。

     *

Ⅲ 兄を殺した理由

「……お母さん」

 ベッドの少年が、ようやく口を開いた。

 女性が振り返る。

「その先は、僕が話す」

「……」

「もう、隠しても意味がない」

 女性は、首を振った。

「あなたは、まだ……」

「大丈夫だよ」

 少年は、弱々しく笑った。

「今度は、逃げない」

 その言葉を聞いた瞬間、女性の表情が歪んだ。

「……あなたは、いつもそう言う」

 少年は目を閉じた。

「……うん」

「逃げないって言う。私を置いていかないって言う。出久を守るって言う。もう誰も死なせないって言う」

 女性は、震える声で続けた。

「なのに、いつも最後には……」

 言葉が途切れた。

 少年は、何も言わなかった。

 ただ、深く頭を下げた。

「……ごめんなさい」

 女性は、少年の顔を見つめた。

 その表情には、怒りもあった。

 悲しみもあった。

 それでも、彼女は少年を憎みきれなかった。

 それが、何よりも苦しかった。

「……話して」

 女性は言った。

「今度こそ、全部」

 少年は頷いた。

 そして、緑谷を見た。

「……出久」

「うん」

「君に、最初に謝らなきゃいけないことがある」

 緑谷は、黙って聞いた。

「僕は、君の兄さんを殺した」

 少年は、もう一度言った。

「でも、僕は……君の兄さんを、殺したくなかった」

 彼の声が震えた。

「僕は、あの人を助けたかったんだ」

 緑谷は、息を呑んだ。

「……助けたかった?」

「うん」

 少年は、目を伏せた。

「僕たちの世界は、十三年前に壊れた」

 相澤が、すぐに尋ねた。

「壊れた、とはどういう意味だ」

「文字通りです」

 少年は答えた。

「建物が壊れたとか、街が破壊されたとか、そういうことじゃない。世界の仕組みそのものが壊れた」

「世界の仕組み?」

「人間が生まれて、成長して、誰かと出会って、何かを選んで、死んでいく。その順番が、壊れたんです」

 少年は、ゆっくりと窓を見た。

「死んだ人間が、生きていることになった。生きている人間が、死んだことになった。起きなかった出来事が記録されて、起きた出来事が消えた」

 彼は自分の手を見つめた。

「僕たちは、それを再構築と呼んでいた」

 緑谷の胸が、冷たくなった。

 再構築。

 今、世界に起きている異常と同じ言葉。

「……それは、誰かが起こしたんですか」

 少年は、しばらく考えた。

「最初は、事故だったのかもしれない」

「事故?」

「誰かが世界を壊そうとしたわけじゃない。誰かが、どうしても助けたい人を助けようとした。その結果、世界が壊れた」

 少年は、緑谷を見た。

「君を助けるために」

 その言葉に、病室の空気が張り詰めた。

 緑谷は何も言わなかった。

 少年は続けた。

「十三年前、君は死んだ」

 その瞬間、緑谷の耳鳴りが始まった。

 頭の奥で、何かが軋む。

 白い廊下。

 冷たい床。

 誰かの泣き声。

 自分の手を握る、もう一つの手。

 そして。

 午前二時十三分。

「……っ」

 緑谷は額を押さえた。

 麗日が、すぐに彼の腕を支える。

「出久くん!」

「大丈夫……」

 緑谷は、息を整えようとした。

 大丈夫ではなかった。

 だが、今は聞かなければならない。

 自分が死んだという記録。

 十三年前の死亡報告書。

 そして、目の前の少年が語る過去。

 それらが、ようやく一つの線で繋がり始めていた。

「……続けて」

 緑谷は言った。

 少年は頷いた。

「君が死んだあと、僕たちは君を取り戻そうとした」

「……僕たち?」

「僕と、もう一人の出久。それから……君の兄さん」

 写真の黒塗りの部分が、緑谷の脳裏に浮かんだ。

「兄さんは、君を取り戻す方法を探していた」

 少年は、声を絞り出した。

「誰よりも必死だった。何日も眠らず、何度も失敗して、それでも諦めなかった」

「……」

「君がいない世界なんて、間違っているって言っていた」

 緑谷は、胸の奥が痛むのを感じた。

 自分の知らない誰かが、自分のために、そこまでしてくれた。

 その事実を、今初めて知った。

「でも、世界は……君を戻さなかった」

 少年は続けた。

「何をしても、君は戻らなかった。記録を調べても、過去を変えようとしても、君の死だけは消せなかった」

「……どうして?」

「君の死が、世界の基準になっていたから」

 相澤が顔を上げた。

「基準?」

「世界は、君が死んだことを前提にしていたんです。君の死を起点にして、その後の歴史を組み立てていた」

 少年は、窓の外を見た。

「だから、君を生き返らせると、世界のほかの部分まで壊れてしまう」

「……」

「それでも、兄さんは諦めなかった」

 少年の声が、かすかに震えた。

「最後に、ひとつの方法を見つけたんです」

 誰も、口を開かなかった。

「君の死をなかったことにするんじゃない。君が死んだという事実を、別の形で保存する。そうすれば、世界は君を失った歴史を維持したまま、君を取り戻せるかもしれない」

「……そんなことが」

「できるはずがなかった」

 少年は、静かに言った。

「でも、兄さんは、それをやろうとした」

 彼は写真を見つめた。

「そのためには、誰かが君の代わりにならなきゃいけなかった」

 緑谷の心臓が、嫌な音を立てた。

「……代わり?」

「君の死を、世界に認識させるための存在です」

 少年は、ゆっくりと自分の胸を指した。

「世界が君を見失わないように、君の死を記録するための存在。君が生きている世界と、君が死んだ世界を繋ぐための……」

 彼は、唇を噛んだ。

「……犠牲者」

 その言葉が、病室に落ちた。

 緑谷は、少年を見つめた。

「それが……君だったの?」

「違う」

 少年は首を振った。

「最初は、兄さんだった」

 その瞬間。

 緑谷の脳裏に、誰かの声が響いた。

『僕が代わりになる』

 知らない声。

 けれど、どこか懐かしい声。

『出久は、もう十分頑張った』

『今度は、僕が守る番だ』

 緑谷は、思わず顔を上げた。

「……兄さんは、何をしたの?」

 少年は、答えた。

「君の死を、自分の死に置き換えようとしたんです」

 誰も、動かなかった。

「君の代わりに、自分が死ぬ。そうすれば、君は生きていられる。世界は君を失わずに済む。兄さんは、そう考えた」

 少年は、目を閉じた。

「でも、うまくいかなかった」

「……どうして?」

「君の死は、もう確定していたから」

 少年の声が低くなる。

「兄さんが自分を犠牲にしても、君の死は消えなかった。世界は、兄さんを失ったうえで、君も死んだことにしようとした」

 緑谷の呼吸が浅くなった。

「……そんな」

「兄さんは、君を救えなかった」

 少年は、顔を伏せた。

「そして、世界が兄さんを消そうとした」

 そこで、彼は言葉を止めた。

 長い沈黙が流れた。

 やがて、少年は、ゆっくりと口を開いた。

「……僕は、それを止めようとした」

 緑谷は、少年を見た。

「君の兄さんを、助けようとしたの?」

「うん」

「それなのに、どうして……」

 少年は、答えなかった。

 ただ、目を閉じたまま、唇を噛んでいた。

 その表情を見て、緑谷は理解しかけた。

 この少年は、まだすべてを話していない。

 話せないのではない。

 話したくないのだ。

 自分が何をしたのか。

 何を選んだのか。

 その瞬間を、もう一度、自分の言葉で再現したくないのだ。

 それでも。

 緑谷は聞かなければならなかった。

「……君は、どうして兄さんを殺したの?」

 少年の目から、涙が落ちた。

「……兄さんが、僕に頼んだから」

 その言葉を聞いた瞬間、相澤の表情が変わった。

「何を頼まれた」

 少年は、ゆっくりと顔を上げた。

 そして。

 その場にいる全員を見回した。

「……僕を殺してくれ」

 それは、緑谷が以前、もう一人の緑谷出久から受け取った言葉と、同じだった。

 ――僕を殺してくれ。

 世界を繰り返し壊し、何度も再構築してきた、もう一人の出久。

 その少年もまた、同じ言葉を口にした。

 そして今。

 目の前にいる少年も、同じ言葉を知っていた。

 違うのは、ひとつだけ。

 彼が、その言葉を誰から聞いたのか。

「……兄さんは、自分を殺してくれと頼んだんです」

 少年は言った。

「世界が兄さんを消そうとしたとき、兄さんはもう、どうすることもできなかった」

 彼は、写真を握りしめた。

「兄さんは、僕に言ったんです」

 少年の声が、震えた。

「『僕が死ねば、二人は生きられる』って」

 緑谷の頭の中で、何かが弾けた。

 白い光。

 誰かの手。

 血の匂い。

 そして、泣きながら何かを叫ぶ自分。

 ――やめて。

 ――行かないで。

 ――兄さん。

「……っ!」

 緑谷は膝をつきかけた。

 麗日が、必死に支える。

「出久くん、しっかりして!」

「……今、何か……」

 緑谷は額を押さえた。

「何か、見えた……」

 少年が、顔を上げた。

「……思い出したの?」

「分からない……でも……」

 緑谷は、震える声で言った。

「誰かが、僕の手を握っていた」

 少年の表情が、崩れた。

「……」

「僕は、その手を離したくなかった」

 緑谷は、涙を流していた。

「でも、誰かが……僕の手を、離したんだ」

 少年は、何も言わなかった。

 ただ、顔を覆った。

 そして、泣いた。

「……ごめん」

 彼は、何度も繰り返した。

「ごめん、ごめん、ごめん……」

 それは、謝罪だった。

 緑谷に対する謝罪。

 兄に対する謝罪。

 そして。

 十三年前の自分自身に対する謝罪だった。

     *

Ⅳ その夜、兄は二人を選んだ

「……続きを話して」

 緑谷は、涙を拭った。

 声は震えていた。

 それでも、目を逸らさなかった。

「君が何をしたのか、聞かせてほしい」

 少年は、しばらく緑谷を見つめていた。

 そして、ゆっくりと頷いた。

「……分かった」

 彼は、目を閉じた。

「十三年前の、午前二時十三分」

 その言葉と同時に、病室の照明がわずかに暗くなった。

 壁掛け時計の針が、微かに震えた。

 誰もが息を潜めた。

「兄さんは、僕たちを呼びました」

 少年の声が、遠くなる。

「世界が崩れ始めていた。空に亀裂が入って、建物の形が変わって、人々の記憶が次々に書き換えられていた」

 彼の瞳に、過去の光景が映る。

 誰もいない廊下。

 赤い警告灯。

 崩れ落ちる壁。

 そして、床に座り込んだ一人の少年。

 顔は見えない。

 けれど、その声だけは、はっきりと聞こえた。

『……間に合わなかった』

 兄の声だった。

『ごめん、出久』

 少年は、ゆっくりと語り続けた。

「兄さんは、君を抱きしめていた」

 緑谷は、息を呑んだ。

「君は泣いていた。何が起きているのか分からなくて、ただ、兄さんの服を握りしめていた」

 少年の手が震えた。

「もう一人の出久も、そこにいた」

「……もう一人の、僕?」

「うん」

 少年は頷いた。

「君と同じ顔をした、もう一人の出久。君とは違う未来を選んだ出久」

 その言葉に、相澤が反応した。

「以前、緑谷に接触したという個体か」

「……そうです」

 少年は答えた。

「その出久は、君を救うために世界を繰り返していた」

 緑谷は、唇を噛んだ。

 あの少年の言葉が蘇る。

 ――君が僕を救ったら、君は僕になる。

 ――僕が君になったら、世界は終わる。

 もう一人の出久は、何度も世界を壊した。

 何度も歴史を書き換えた。

 何度も誰かを犠牲にした。

 それでも、緑谷を救おうとした。

「兄さんは、その出久を止めようとしていた」

 少年は続けた。

「もう一人の出久は、君を救うためなら何でもするつもりだった。世界がどうなっても、誰が死んでも、君だけは生きていてほしいと願っていた」

「……」

「でも、兄さんは違った」

 少年の声が、静かになった。

「兄さんは、君だけを救いたいわけじゃなかった」

 緑谷は、顔を上げた。

「……え?」

「兄さんは、三人とも生きていてほしかったんです」

 少年は、笑った。

 涙を流しながら。

「君も。もう一人の出久も。僕も」

 その笑顔は、ひどく痛々しかった。

「兄さんは、誰か一人だけが助かる世界なんて、絶対に認めなかった」

 緑谷の胸が、締めつけられた。

 覚えていない。

 その人の顔も。

 その人の声も。

 その人の名前も。

 それでも。

 その言葉だけは、どこかで聞いたことがあるような気がした。

 ――誰か一人だけが助かるなんて、そんなの嫌だ。

 それは、自分が言いそうな言葉だった。

 自分が、ずっと大切にしてきた言葉だった。

 けれど、今は違う。

 その言葉を最初に口にしたのは、自分ではなかったのかもしれない。

「……兄さんは、最後に何と言ったの?」

 緑谷が尋ねた。

 少年は、長い間、答えなかった。

 やがて、ゆっくりと目を閉じた。

「……僕に、頼んだんです」

 声が震える。

「『もう一人の出久を止めてくれ』って」

 病室の空気が張り詰めた。

「『あの子が世界を壊し続けるなら、いつか本当に世界が終わる。だから、止めてくれ』って」

 少年は、顔を伏せた。

「僕は、嫌だと言いました」

 彼は、自分の手を見つめた。

「そんなことはできない。もう一人の出久だって、僕たちの家族だ。君を救いたいだけなんだ。だから、誰も殺さずに、何とかしようって」

 少年の声が、かすかに震えた。

「でも、兄さんは……」

 彼は唇を噛んだ。

「兄さんは、僕に言ったんです」

 そして。

 その言葉を、ゆっくりと口にした。

「『僕を殺してくれ』」

 緑谷は、目を閉じた。

 少年の声が続く。

「兄さんは、もう一人の出久が世界を壊すための鍵になっていたんです。兄さんの命が、世界の再構築に必要なものとして登録されていた」

「……どういうことだ」

 相澤が尋ねた。

「兄さんが生きている限り、世界は何度でも再構築される。もう一人の出久が君を救おうとするたび、世界はその矛盾を解消しようとする。そのたびに、兄さんが犠牲になる」

 少年は、目を伏せた。

「だから、兄さんは、自分の命を使って、再構築そのものを止めようとしたんです」

 誰も、すぐには理解できなかった。

 いや。

 理解したくなかったのかもしれない。

 兄は、世界を救うために、自分の死を選んだ。

 それだけではない。

 弟たちを守るために。

 もう一人の弟が、世界を壊し続ける未来を止めるために。

 そして。

 自分の死によって、誰か一人だけが犠牲になる仕組みそのものを壊そうとした。

「……それで、君は」

 緑谷は、声を絞り出した。

「君は、兄さんを殺したの?」

 少年は、頷いた。

「……うん」

 その答えは、あまりにも簡単だった。

 あまりにも残酷だった。

「僕は、兄さんを殺した」

 少年は言った。

「兄さんに頼まれて、兄さんを殺した」

 彼は、自分の両手を見つめた。

「この手で」

 そして、声を震わせた。

「……でも、僕は、兄さんを救いたかった」

 緑谷は、何も言えなかった。

「兄さんを殺せば、世界は再構築を止めるはずだった。もう一人の出久も、君を救うために世界を壊すことができなくなる。君は、別の世界で生き続けられる」

 少年は、苦しそうに笑った。

「兄さんは、そう言っていた」

「……それで、うまくいったの?」

 少年は首を振った。

「……いいえ」

 その一言で、すべてが変わった。

 少年は、ゆっくりと顔を上げた。

「兄さんが死んでも、世界は止まらなかった」

 病室の空気が、冷たくなる。

「兄さんの死は、再構築を止めるための鍵じゃなかった」

 少年の瞳が、絶望に染まった。

「兄さんの死そのものが……世界を再構築するための記録に組み込まれていたんです」

 相澤が、低く呟いた。

「……つまり」

「僕たちは、最初から騙されていたのかもしれない」

 少年は言った。

「誰が、何のために仕組んだのかは分からない。でも、兄さんが死んだ瞬間、世界はその死を記録した」

 彼は、緑谷を見た。

「そして、君をもう一度、死んだことにした」

 緑谷の呼吸が止まった。

「……僕も?」

「うん」

「でも、僕は……」

「君は生きていた」

 少年は、はっきりと言った。

「君は生きていたのに、世界は君を死んだことにした」

 その言葉が、緑谷の胸に突き刺さった。

 十三年前。

 死亡報告書。

 遺体未発見。

 現場消失。

 そして。

 誰かが残した、あの手書きの文章。

 ――僕を忘れてください。

 ――僕がいなくなっても、皆さんが生きているなら、それでいいです。

 誰が書いたのか。

 誰が、誰を忘れさせようとしたのか。

 その答えは、まだ分からない。

 しかし。

 ひとつだけ、分かったことがあった。

 十三年前に死んだのは、一人ではなかったのだ。

 世界が死んだことにした人間は、緑谷出久だけではなかった。

 その兄も。

 そして、もう一人の誰かも。

 同じ夜に、世界から消されていた。

     *

Ⅴ 母親が隠していたもの

「……ひとつ、聞いてもいいですか」

 八百万百が、静かに口を開いた。

 全員の視線が集まる。

「先ほど、あなたは三人の子供を育てていたと仰いました」

 女性は、ゆっくりと頷いた。

「はい」

「では、なぜ……」

 八百万は、言葉を選んだ。

「なぜ、緑谷さんのお母様は、そのことを覚えていないのでしょうか」

 その問いに、女性の顔が強張った。

 緑谷は、思わず彼女を見た。

「……母さん?」

 自分の母親。

 緑谷引子。

 彼女は、十三年前のことをどこまで覚えているのだろう。

 自分に兄がいたことを。

 三人で暮らしていたことを。

 あの夜に、何があったのかを。

 女性は、ゆっくりと目を閉じた。

「……引子さんは、忘れたんじゃない」

 彼女は言った。

「忘れさせられたのよ」

「……誰に?」

「世界に」

 その答えに、相澤が眉をひそめた。

「また世界か」

「ええ。あの子たちの存在を世界から消すために、世界は、あの子たちを知っている人間の記憶まで書き換えようとした」

 女性は、緑谷を見た。

「でも、すべての記憶を消すことはできなかった」

「……どうして?」

「分からない」

 彼女は、首を振った。

「私にも分からない。ただ、引子さんは、あの夜のあと、あの子たちのことをほとんど覚えていなかった」

 緑谷は、唇を噛んだ。

「……僕の母さんが?」

「ええ」

「でも、僕は……」

 緑谷は、言葉を失った。

 自分は母と暮らしてきた。

 母は、自分を愛してくれた。

 自分がヒーローになりたいと言ったときも、個性がないと分かったときも、ずっと自分を支えてくれた。

 なのに。

 その母が、自分に兄がいたことを覚えていない。

 それが本当なら。

 母は、何を失ったのだろう。

 何を忘れさせられたのだろう。

 そして、自分は。

 自分自身の過去を、どれほど失っているのだろう。

「……母さんに、会いたい」

 緑谷が呟いた。

 その声は、ひどく小さかった。

「今すぐ、母さんに会いたい」

 麗日が、そっと彼の手を握った。

「うん。会おう、出久くん」

 彼女は、強く頷いた。

「一緒に行こう」

 緑谷は、彼女を見た。

 その瞳に、ほんの少しだけ光が戻る。

 しかし。

 女性が、首を振った。

「……今は、やめたほうがいい」

 緑谷が振り返る。

「どうしてですか」

「引子さんに会えば、何かを思い出すかもしれない」

「それなら……!」

「でも、思い出すことが、必ずしも救いになるとは限らないの」

 女性の声は、悲しかった。

「十三年前の記憶は、ただの思い出じゃない。世界が再構築されるたびに、何度も書き換えられてきた記録なのよ」

 彼女は、写真を見つめた。

「思い出した瞬間、その人の記憶が、世界に認識される可能性がある」

「……認識されたら、どうなるんですか」

 轟が尋ねた。

 女性は、答えた。

「消されるかもしれない」

 誰も、口を開かなかった。

「十三年前、あの子たちを覚えていた人間は、次々に記憶を失った。ある人は、あの子たちと過ごした時間を忘れた。ある人は、あの子たちと出会ったこと自体を忘れた。ある人は……」

 彼女は、目を閉じた。

「自分が誰だったのかさえ、分からなくなった」

 病室の空気が、冷たくなる。

「……だから、私は逃げたの」

 女性は言った。

「記憶を消される前に、あの子の名前を残そうとした。写真を隠した。記録を書き写した。誰かに名前を呼んでもらおうとした」

 彼女は、写真の裏側を見た。

「でも、名前を残せば残すほど、世界は私を見つけやすくなった」

 その言葉に、相澤の目が鋭くなった。

「……つまり、名前が記録されること自体が危険なのか」

「そうよ」

「だから、この少年の名前も消された?」

 女性は、頷いた。

「名前が残っている限り、世界はあの子を見つける。見つければ、あの子を再構築の仕組みに組み込もうとする」

 彼女は、ベッドの少年を見つめた。

「だから、あの子は自分の名前を捨てた」

 少年は、目を閉じた。

「……母さん」

「でも、私は忘れなかった」

 女性は、彼の手を握った。

「あなたが、どんな名前だったのか。あなたが、どんな子だったのか。あなたが、何を好きだったのか」

 少年の目から、涙が落ちた。

「……もう、いいんだ」

「よくない!」

 女性が叫んだ。

 その声に、少年が目を見開いた。

「よくないわよ……!」

 女性は、彼の手を握りしめた。

「あなたは、まだ生きている。あなたは、ここにいる。なのに、どうして、あなたまで自分をいなかったことにしようとするの……!」

 少年は、何も言えなかった。

「私は、もう二度と、息子を失いたくない」

 女性は、泣きながら言った。

「たとえ世界があなたを忘れても、私は忘れない。たとえ、あなたの名前が消えても、私は呼び続ける」

 彼女は、少年の額に手を当てた。

「だから、お願い……」

 声が震えた。

「今度こそ、生きて」

 少年は、母親の手を握り返した。

 そして。

 初めて、子供のように泣いた。

「……ごめんなさい」

 彼は、何度も繰り返した。

「ごめんなさい、母さん……」

 その姿を見て、緑谷は、胸の奥が痛くなった。

 彼は、思った。

 この少年は、自分と同じ顔をしている。

 けれど、きっと、自分とは違う人生を生きてきた。

 自分が知らない場所で。

 自分が知らない時間の中で。

 自分が知らない誰かを守ろうとして。

 そして、すべてを失った。

 名前も。

 家族も。

 記憶も。

 それでも、彼は生きている。

 ならば。

 自分にできることは、ひとつしかなかった。

「……僕は、君の名前を知りたい」

 緑谷は言った。

 少年が顔を上げた。

「君が何をしたのかも、何を失ったのかも、全部知りたい」

 彼は、まっすぐ少年を見た。

「だから、君の名前を教えて」

 少年は、目を見開いた。

「……出久」

「君が覚えていないなら、一緒に探そう」

 緑谷は言った。

「君が自分の名前を捨てたのなら、どうして捨てなきゃいけなかったのか、一緒に考えよう」

 少年の唇が震えた。

「……どうして」

「え?」

「どうして、君は……」

 少年は、涙を流しながら笑った。

「どうして、そんなに優しいんだよ」

 緑谷は、困ったように笑った。

「……分からない」

 正直な答えだった。

「でも、君が僕のことを大切に思ってくれていたのなら、僕も君を大切にしたい」

 少年は、顔を覆った。

 そして、嗚咽を漏らした。

「……ずるいよ」

 彼は言った。

「そんなことを言われたら……」

 声が震えた。

「また、君を守りたくなるじゃないか……」

 その言葉を聞いた瞬間。

 病室のモニターが、一度だけ点滅した。

 誰も気づかなかった。

 ただ、画面の片隅に、一行だけ文字が表示されていた。

 《未登録個体の感情反応を確認》

 《保護対象との接続を検出》

 そして。

 誰にも見えない場所で。

 世界のどこかにある、巨大な記録装置が、静かに動き始めた。

     *

Ⅵ もう一人の出久からの通信

 病室を出たあと、相澤は緑谷たちを会議室へ集めた。

 これ以上、個別の情報を断片的に扱うのは危険だった。

 十三年前の出来事。

 三人の緑谷出久。

 消された名前。

 世界の再構築。

 それらを一度、整理する必要がある。

 会議室の中央には、雄英の情報端末が置かれていた。

 画面には、これまでに確認された記録が並んでいる。

 十三年前の死亡報告書。

 旧校舎で見つかった三冊のノート。

 第零回観測記録。

 そして、三人の緑谷出久の映像。

「……現時点で、俺たちが確実に言えることは三つだ」

 相澤が口を開いた。

「一つ。十三年前、緑谷出久に関する異常な記録が発生した」

 画面に死亡報告書が表示される。

「二つ。現在の緑谷と同じ名前、同じ顔を持つ個体が、少なくとも三つ存在した可能性がある」

 三つの記録が並ぶ。

「三つ。世界は、そのうちの一つを存在しないものとして扱っている」

 黒塗りの名前が表示された。

「問題は、その理由だ」

 相澤は、全員を見回した。

「この少年が、なぜ名前を失ったのか。なぜ、もう一人の緑谷が世界を再構築し続けているのか。なぜ、十三年前の死亡記録が現在の世界に影響を及ぼしているのか」

 彼は、画面を切り替えた。

 そこには、先ほど少年が語った内容が記されていた。

 ――兄が死ねば、再構築が止まるはずだった。

 ――しかし、再構築は止まらなかった。

「この証言が正しいなら、十三年前の計画は失敗したことになる」

 轟が言った。

「あるいは、最初から成功させるつもりがなかったか」

 相澤は、彼を見た。

「その可能性もある」

 爆豪が机を叩いた。

「だったら、黒幕をぶっ飛ばせばいいだろうが」

「相手の正体も、場所も分かっていない」

「見つけりゃいい」

「見つけるための情報が足りない」

「じゃあ、足りるまで調べろ!」

「だから、今調べている」

「てめぇ、俺に説教してんのか!」

「今はお前の相手をしている暇はない」

「上等だコラ!」

「二人とも、落ち着いてください!」

 飯田が慌てて割って入る。

 いつものやり取りだった。

 いつものように、爆豪が怒鳴り、相澤が冷静に返し、飯田が仲裁する。

 けれど、緑谷は、その光景を見ていて、妙な感覚に襲われた。

 このやり取りを、誰かが見ていた。

 誰かが、同じように笑っていた。

 自分たちのやり取りを、少し離れたところから眺めていた誰か。

 そして、その誰かが言った。

『……君たちは、本当に変わらないね』

 緑谷は、目を閉じた。

 知らない記憶。

 知らない声。

 けれど、その声を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなった。

「……緑谷?」

 相澤が呼んだ。

「大丈夫か」

「……はい」

 緑谷は目を開いた。

「少し、思い出しそうになっただけです」

「無理はするな」

「はい」

 そのときだった。

 会議室の端末が、突然、警告音を鳴らした。

 画面が暗転する。

 次の瞬間、見覚えのある映像が表示された。

 白い空間。

 無数の文字。

 そして、緑谷出久と同じ顔をした少年。

 もう一人の出久だった。

 世界を繰り返し壊してきた少年。

 彼は画面の向こうから、こちらを見ていた。

『……見つけたんだね』

 その声に、緑谷の背筋が凍った。

「……君は」

『その子を見つけたんだね』

 もう一人の出久は、病室の少年のことを言っているのだろう。

 彼の表情には、安堵があった。

 そして、深い悲しみがあった。

『……よかった』

 彼は笑った。

 けれど、その笑顔は、すぐに消えた。

『でも、もう遅い』

 相澤が、端末に近づいた。

「おい。お前は何者だ」

『……先生』

 少年は、相澤を見た。

『久しぶりです』

「質問に答えろ」

『僕は、緑谷出久です』

「お前が緑谷だということは分かっている。問題は、どの緑谷なのかだ」

 画面の向こうの少年は、目を伏せた。

『……そうですね』

 彼は、静かに言った。

『僕は、君たちが知らない未来から来た緑谷出久です』

 緑谷の心臓が跳ねた。

「未来……?」

『君たちがこれから進む未来。その先にいる僕です』

 少年は、こちらを見つめた。

『そして、僕は……』

 彼の声が震えた。

『あの子を、もう一度殺すことになる』

 緑谷は、息を呑んだ。

「……あの子?」

『君たちが見つけた、名前のない子』

 もう一人の出久は、目を閉じた。

『僕は、あの子を殺す』

「何だと……!」

 爆豪が、画面に向かって怒鳴った。

「ふざけたこと言ってんじゃねえ! 今度こそ、てめぇの好きにはさせねえぞ!」

『……勝己』

「その名前で呼ぶんじゃねえ!」

『ごめん』

 少年は、悲しそうに笑った。

『でも、僕は……』

 彼は、緑谷を見た。

『君を救うために、あの子を殺す』

 会議室の空気が凍りついた。

 緑谷は、画面を見つめた。

「……どうして」

『そうしなければ、君が死ぬから』

「……!」

『あの子が生きている限り、世界は君を死んだことにし続ける。君が生きている限り、世界はあの子を消そうとする。二人を同時に存在させることはできない』

 もう一人の出久は、苦しそうに言った。

『だから、どちらかを選ばなければならない』

「……そんなこと、ない」

 緑谷は言った。

『……出久』

「そんなこと、ないよ」

 緑谷は、首を振った。

「僕たちは、もう知っている。誰か一人だけが助かる世界なんて、間違っているって」

 画面の向こうの少年は、目を伏せた。

『……僕も、そう思っていた』

「だったら……!」

『でも、僕は失敗したんだ』

 少年の声が、鋭くなった。

『何度も。何度も。何度も……!』

 画面が乱れた。

 少年の背後に、無数の映像が浮かび上がる。

 燃える街。

 崩れ落ちる建物。

 泣き叫ぶ人々。

 血に染まった手。

 そして、何度も繰り返される午前二時十三分。

『僕は、君を救おうとした』

 もう一人の出久は言った。

『世界を何度も壊した。過去を何度も書き換えた。何度も、何度も、やり直した』

 彼の目から、涙が落ちた。

『それでも、君は死んだ』

 緑谷は、何も言えなかった。

『僕は、あの子を救えなかった』

 少年は、唇を噛んだ。

『兄さんも、救えなかった』

 その言葉に、緑谷の胸が痛んだ。

『だから、今度こそ……』

 もう一人の出久は、顔を上げた。

『今度こそ、君だけは救う』

 緑谷は、首を振った。

「……僕だけじゃない」

『……え?』

「僕だけじゃないよ」

 緑谷は、はっきりと言った。

「君もだ。あの子も。兄さんも。母さんも。みんなだ」

 少年は、呆然とした。

「僕は、誰か一人だけが生き残る未来なんて、選ばない」

『……出久』

「君が何度失敗したとしても、僕は君を見捨てない」

 緑谷は、画面に向かって手を伸ばした。

「だから、もう一度、一緒に考えよう」

 少年は、しばらく黙っていた。

 そして。

 ゆっくりと笑った。

 ひどく悲しい笑顔だった。

『……やっぱり、君は優しいね』

 緑谷は、何も言わなかった。

『でも、君はまだ、何も知らない』

 画面の向こうで、少年の表情が変わった。

『あの子が、何をしたのか』

 その瞬間。

 病室のモニターから、別の声が響いた。

『――もう一人の緑谷出久を確認』

 会議室の全員が振り返った。

 画面に、赤い文字が浮かび上がる。

 《第三個体の記憶領域に異常を検出》

 《最終記録の再生を開始します》

 もう一人の出久が、目を見開いた。

『……やめろ』

 その声は、明らかな恐怖に満ちていた。

『やめてくれ……!』

 画面が白く染まる。

 そして。

 無数の記録が、一斉に表示された。

 十三年前の夜。

 白い部屋。

 三人の少年。

 一人の少年が、床に倒れている。

 もう一人の少年が、泣きながら、その身体を抱きしめている。

 そして。

 最後の一人が、血に濡れた手を見つめていた。

 その顔は、今の緑谷出久と同じだった。

 いや。

 正確には、違った。

 目の色も。

 髪の長さも。

 表情も。

 すべてが、微妙に違っていた。

 けれど、その少年は、確かに緑谷出久だった。

 彼は、床に倒れた少年を見下ろしていた。

 そして、静かに呟いた。

『……これで、よかったんだ』

 もう一人の出久が、悲鳴を上げた。

『違う……!』

 画面が乱れる。

『違う、違う、違う……!』

 少年は、必死に何かを否定していた。

『僕は、そんなつもりじゃ……!』

 しかし、記録は止まらなかった。

 床に倒れた少年の顔が、映し出される。

 緑色の髪。

 緑色の瞳。

 そして、額に一本の傷。

 病室で眠っている少年と、同じ顔。

 その少年が、血に濡れた手を伸ばした。

『……出久』

 声が響いた。

『……ごめんね』

 そして。

 記録の最後に、ひとつの名前が表示された。

 《殺害実行者:緑谷出久》

 緑谷は、息を呑んだ。

 画面の向こうの少年が、泣きながら言った。

『……君は、まだ知らない』

 彼は、緑谷を見つめた。

『あの子を殺したのは……』

 画面が、真っ暗になった。

 数秒間。

 何も映らなかった。

 そして。

 最後に、ひとつだけ文字が浮かび上がった。

 《殺害実行者の個体識別:現行個体と一致》

 緑谷出久は、動けなかった。

 誰も、何も言わなかった。

 ただ、会議室の時計だけが、午前二時十三分を示していた。

 もう一人の出久の声が、暗闇の中から聞こえた。

『……君が、あの子を殺したんだ』

 緑谷は、目を見開いた。

 そして。

 画面が、完全に消えた。

     *

Ⅶ 僕は、本当に殺したのか

 会議室には、誰もいなかった。

 いや。

 人はいた。

 相澤も、爆豪も、轟も、麗日も、飯田も、切島も、八百万も。

 全員が、そこにいた。

 それなのに、緑谷には、誰もいないように感じられた。

 音が遠い。

 視界が歪む。

 自分の呼吸さえ、他人のもののようだった。

 ――殺害実行者。

 ――緑谷出久。

 ――現行個体と一致。

 その文字が、頭の中で繰り返される。

 自分が。

 あの少年を。

 殺した。

 そんなはずはない。

 自分は覚えていない。

 十三年前のことなど、覚えているはずがない。

 自分は今、ここにいる。

 生きている。

 なのに。

 なぜ、あの記録には、自分の名前があったのか。

 なぜ、もう一人の自分は、あんなにも苦しそうに泣いていたのか。

 なぜ。

 あの少年は、最後に「ごめんね」と言ったのか。

「……出久くん」

 麗日の声が聞こえた。

 緑谷は、顔を上げた。

 彼女は、すぐ目の前にいた。

 心配そうに、自分を見つめている。

「……大丈夫?」

 緑谷は答えられなかった。

 大丈夫なはずがなかった。

 自分が誰かを殺したという記録を見た。

 その誰かは、自分の兄だったかもしれない。

 自分の家族だったかもしれない。

 自分を守ろうとしてくれた人だったかもしれない。

 そして、その人は。

 自分に「ごめんね」と言った。

「……お茶子ちゃん」

「うん」

「僕は……」

 声が震えた。

「僕は、誰かを殺したのかな」

 麗日は、すぐに答えなかった。

 緑谷は、彼女の手を握った。

「……僕は、本当に……?」

「出久くん」

 麗日は、彼の両手を握り返した。

「今は、まだ分からないよ」

 その言葉は、慰めではなかった。

 事実だった。

「でも、ひとつだけ分かる」

 彼女は、緑谷の目を見た。

「今の出久くんは、まだ何も知らない」

「……」

「だから、これから知ろう。何があったのか。誰が何をしたのか。どうして、そんな記録が残っているのか」

 麗日は、強く頷いた。

「一人で決めつけないで」

 緑谷の目から、涙が落ちた。

「……でも、僕の名前があった」

「うん」

「僕が殺したって、書いてあった」

「うん」

「それなのに、僕は何も覚えていない……!」

 緑谷は、顔を覆った。

「何も知らないまま、誰かを殺していたかもしれないんだ……!」

 麗日は、彼を抱きしめた。

「……今は、分からないよ」

 彼女は、何度も繰り返した。

「今は、分からない。だから、私たちが一緒に調べる」

 緑谷は、彼女の肩に顔を埋めた。

 泣いていた。

 自分でも、どうして泣いているのか分からなかった。

 ただ、怖かった。

 自分が知らない自分がいることが。

 自分が知らない誰かを傷つけた可能性があることが。

 そして。

 自分が、これから何を思い出してしまうのかが。

 麗日は、彼を抱きしめたまま、目を閉じた。

 彼女にも、分からなかった。

 緑谷が本当に誰かを殺したのか。

 記録が正しいのか。

 世界が、また何かを仕組んでいるのか。

 ただ。

 彼が今、苦しんでいる。

 その事実だけは、確かだった。

 だから、彼女は離さなかった。

 彼が、自分自身を恐れてしまわないように。

 彼が、自分自身を憎んでしまわないように。

 そして。

 彼が、自分の存在を否定してしまわないように。

     *

Ⅷ 名前を呼ぶということ

 病室では、名前のない少年が、再び眠りについていた。

 女性は、その手を握っていた。

 少年は目を閉じている。

 呼吸は安定している。

 けれど、その表情は、ひどく苦しそうだった。

「……あなたは、何も悪くない」

 女性は、囁いた。

「あなたは、何も悪くないのよ」

 彼女は、少年の手を撫でた。

「あなたは、あの子を守ろうとしただけ」

 その言葉に、少年の指がわずかに動いた。

 女性は、微笑んだ。

「……そうでしょう?」

 少年は答えない。

 それでも、彼女は話し続けた。

「あなたは、いつもそうだった。誰かが困っていたら、真っ先に助けに行った。自分が傷ついても、誰かが泣いていたら放っておけなかった」

 彼女の目から、涙が落ちた。

「だから、私は怖かったの」

 声が震えた。

「あなたが、いつか自分を犠牲にしてしまうんじゃないかって」

 女性は、少年の額に手を当てた。

「……そして、私の心配は当たってしまった」

 彼女は、長い間、何も言わなかった。

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

「ねえ……」

 その声は、母親の声だった。

 世界の記録でも、観測者の言葉でもない。

 ただ、子供を呼ぶ母親の声だった。

「……あなたの名前を、もう一度呼んでもいい?」

 少年の瞼が、震えた。

 女性は、息を呑んだ。

「……覚えているのよ」

 彼女は言った。

「私は、あなたの名前を覚えている」

 彼女は、少年の耳元に顔を寄せた。

 そして。

 誰にも聞こえないほど小さな声で、その名前を呼んだ。

 その瞬間。

 少年の心電図が、大きく跳ね上がった。

 病室の時計が、逆方向に回り始めた。

 壁のモニターに、無数の文字が走った。

 《未登録個体の真名を検出》

 《観測対象の再定義を開始》

 女性の顔が、真っ青になった。

「……そんな」

 彼女は、少年の手を握りしめた。

「どうして……?」

 モニターに、さらに文字が浮かび上がる。

 《記録の復元を確認》

 《削除対象の再登録を確認》

 そして。

 最後に。

 《対象個体の名前を――》

 画面が、真っ黒になった。

 女性は、息を呑んだ。

「……だめ」

 彼女は首を振った。

「まだ、早い……!」

 その瞬間。

 病室の扉が開いた。

 相澤消太が、険しい顔で立っていた。

「今、何をした」

 女性は答えなかった。

 相澤は、モニターを見た。

 それから、少年を見た。

 そして。

 少年の手に握られた、古い写真に気づいた。

 写真の裏側。

 三つの名前。

 そのうちの一つを塗り潰していた黒い跡が、消えかけていた。

 相澤は、ゆっくりと近づいた。

「……名前を呼んだんですか」

 女性は、頷いた。

「……ええ」

「何という名前を?」

 女性は、相澤を見た。

 その瞳には、恐怖があった。

 しかし、それ以上に。

 決意があった。

「……言えません」

「なぜです」

「その名前を、あなたが知ったら……」

 彼女は、少年の手を握りしめた。

「あなたも、あの子を失うことになるから」

 相澤は、黙った。

 女性は続けた。

「名前は、ただの呼び方じゃない。この子がここにいたという証拠なの」

 彼女は、写真を見つめた。

「世界は、この子を消した。記録から消した。記憶から消した。存在そのものを消そうとした」

 声が震えた。

「でも、名前だけは……」

 彼女は、涙を拭った。

「名前だけは、私が守る」

 相澤は、しばらく彼女を見つめていた。

 やがて、静かに言った。

「……分かりました」

 女性が顔を上げた。

「ただし」

 相澤の目が鋭くなる。

「この少年が、世界の再構築に関わっている可能性がある以上、俺たちは何もしないわけにはいかない」

「……」

「あなたが名前を守るなら、俺たちは、この少年が名前を奪われない方法を探す」

 女性の目が、大きく見開かれた。

「……本当に?」

「教師として、目の前の生徒を見捨てるつもりはありません」

 相澤は言った。

「それが、どんな世界の仕組みであろうと関係ない」

 彼は、眠る少年を見た。

「この少年が生きているなら、俺たちは、そいつを生徒として扱う」

 女性は、顔を覆った。

 そして、声を殺して泣いた。

 十三年間。

 誰にも言えなかった。

 誰にも信じてもらえなかった。

 自分の息子が、確かに存在したということを。

 その息子を、世界が消そうとしているということを。

 そして今。

 初めて、誰かが言ってくれた。

 ――生きているなら、守る。

 その言葉を聞いて、彼女はようやく、少しだけ息ができた。

     *

Ⅸ 世界が恐れているもの

 会議室に戻った相澤は、すぐに情報端末を起動した。

 画面には、先ほどの映像が残っていた。

 殺害実行者。

 緑谷出久。

 現行個体と一致。

 その文字を見つめながら、相澤は考えていた。

 映像は、誰が送ってきたのか。

 もう一人の緑谷出久は、なぜあの映像を見て、あれほど取り乱したのか。

 そして。

 なぜ、映像の最後に、現行個体と一致という表示が出たのか。

 それが意味するものは、ひとつではない。

 緑谷自身が、十三年前に誰かを殺した可能性。

 別の緑谷の行動が、現行個体の記録に誤って紐づけられている可能性。

 あるいは。

 世界が、緑谷を特定の行動へ導くために、記録を改変している可能性。

 どれも、否定できない。

「……先生」

 飯田が、端末を操作しながら言った。

「先ほどの映像について、ひとつ気になる点があります」

「何だ」

「殺害実行者の識別情報です」

 飯田は、画面を拡大した。

「この記録は、通常の映像ファイルではありません。画像データ、音声データ、時間情報が、すべて同じ記録領域に保存されています」

「それがどうした」

「記録の中に、現在の緑谷君の個体識別情報が含まれているのです」

 相澤は、眉をひそめた。

「現在の緑谷の情報が、十三年前の記録に含まれている?」

「はい。しかも、単なる名前や顔の一致ではありません。個体識別情報そのものが一致している」

「……つまり、どういうことだ」

 飯田は、慎重に言葉を選んだ。

「記録が正しいなら、十三年前に殺害を実行した個体と、現在の緑谷君は同じ個体です」

 相澤は、目を細めた。

「記録が正しいなら、か」

「はい。しかし、別の可能性もあります」

 飯田は、別の画面を開いた。

「この記録は、時間の順序が正常ではありません」

「時間の順序?」

「記録の作成時刻が、十三年前と現在の両方になっています。しかも、現在の時刻情報が、十三年前のデータに上書きされている」

 相澤の表情が険しくなる。

「……誰かが、現在の情報を過去に挿入した?」

「その可能性があります」

 飯田は、頷いた。

「つまり、現行個体と一致という表示は、必ずしも、現在の緑谷君が過去にその行為をしたことを意味しません」

 相澤は、しばらく黙っていた。

 そして、静かに言った。

「……記録そのものが、未来から過去へ書き換えられている可能性があるわけか」

「はい」

 轟が、腕を組んだ。

「それなら、誰がそんなことをする」

「分からない」

 相澤は答えた。

「だが、少なくとも、俺たちが見ている記録は、単なる過去の映像じゃない」

 彼は画面を見た。

「これは、誰かが俺たちに見せている記録だ」

 その言葉に、爆豪が舌打ちした。

「だったら、見せてる奴をぶっ飛ばす」

「相手がどこにいるか分からない」

「見つけりゃいい」

「そればかりだな」

「うるせえ!」

 いつものやり取り。

 しかし、今度は、相澤も少しだけ口元を緩めた。

 この場にいる者たちは、まだ何も分かっていない。

 敵の正体も。

 世界の仕組みも。

 十三年前の真実も。

 それでも、彼らはここにいる。

 互いに声をかけ、考え、調べ、次の一手を探している。

 それが、今できることだった。

「……ひとつ、試してみたいことがあります」

 八百万が、静かに口を開いた。

「何だ」

「記録の中で、名前が消された個体についてです」

 彼女は、写真を拡大した。

 三つの名前。

 二つは緑谷出久。

 もう一つは、黒く塗り潰されている。

「名前が消されたことによって、世界がその個体を認識できなくなっているのなら……」

 八百万は、ゆっくりと続けた。

「名前以外の情報から、その個体を認識させることはできないでしょうか」

 相澤が顔を上げた。

「名前以外?」

「はい。例えば、その人物が何を好んでいたのか。どんな癖があったのか。誰と仲が良かったのか。どんな約束をしていたのか」

 八百万は、写真を見つめた。

「名前が消されても、その人物が誰かと過ごした時間まで、すべて消えているとは限りません」

 緑谷が、ゆっくりと顔を上げた。

「……記憶から、名前を探すんだ」

「そうです」

 八百万は頷いた。

「名前そのものを直接復元するのではなく、その人物が確かに存在したという情報を集める。そうすれば、名前を復元できる可能性があるかもしれません」

 相澤は、しばらく考えていた。

 そして、頷いた。

「やってみる価値はある」

 緑谷は、写真を見つめた。

 黒く塗り潰された名前。

 その下に残る、三人の約束。

 ――兄弟、三人で帰る。

 彼は、静かに拳を握った。

「……僕も、探したい」

 相澤が彼を見た。

「緑谷」

「僕は、何も覚えていない。でも、何かを思い出せるかもしれない」

 緑谷は、写真を見つめた。

「僕がこの人を殺したのかどうか。それを知るためにも、この人が誰だったのか、知らなきゃいけない」

 その声には、恐怖があった。

 しかし、それ以上に。

 覚悟があった。

「……僕は、逃げたくない」

 相澤は、しばらく彼を見つめた。

 そして、静かに頷いた。

「分かった。ただし、一人では動くな」

「はい」

「何か異常が起きたら、すぐに報告しろ」

「はい」

「それから、自分を犯人だと決めつけるな」

 緑谷が顔を上げた。

 相澤は、厳しい目で彼を見ていた。

「記録は証拠のひとつだ。だが、記録そのものが改変されている可能性がある以上、それだけで結論を出すことはできない」

「……はい」

「お前が何をしたのか、何をしなかったのか。それは、調べてから判断する」

 相澤は、はっきりと言った。

「誰かが作った記録に、お前の人生を決めさせるな」

 緑谷は、ゆっくりと頷いた。

「……ありがとうございます」

     *

Ⅹ 最後の記録

 その夜。

 誰もいない旧校舎の地下で、ひとつの装置が起動した。

 無数の記録媒体。

 壁一面に並ぶ画面。

 その中央に、白い文字が浮かび上がる。

 《第零回観測記録:更新》

 《第三個体の真名復元を確認》

 《現行個体との接続を確認》

 《再構築予定時刻まで、残り六十二時間》

 画面が切り替わった。

 そこには、十三年前の記録が表示されていた。

 白い部屋。

 三人の少年。

 床に倒れた一人。

 その傍らに立つ、もう一人。

 そして、血に濡れた手を見つめる最後の一人。

 記録の下には、短い文章が残されていた。

 《殺害実行者:緑谷出久》

 《被害者:緑谷出久》

 《観測者:未登録》

 その三行の下に、さらに新しい文字が浮かび上がった。

 《記録の矛盾を検出》

 《殺害実行者の存在時刻が一致しません》

 《被害者の死亡時刻が一致しません》

 《記録そのものが、再構築されています》

 そして。

 最後に、一つの文章が表示された。

 《本来、殺害実行者は存在しない》

 その瞬間。

 画面の向こう側で、誰かが笑った。

 少年の声だった。

 緑谷出久と同じ声。

 けれど、今まで聞いたどの緑谷出久の声とも違う。

『……やっと、ここまで来たね』

 声は、静かに続けた。

『君たちは、ようやく最初の嘘に辿り着いた』

 画面が、一斉に暗転した。

 そして。

 真っ暗な画面の中央に、ひとつだけ文字が浮かび上がった。

 《第一観測者:緑谷出久》

 その下に。

 新しい文章が、ゆっくりと刻まれていく。

 《観測開始時刻:十三年前、午前二時十三分》

 《観測終了条件:三人全員の死亡》

 そして、最後の一行。

 《ただし、第一観測者は、まだ自分が観測者であることを知らない》

 画面が消えた。

 装置の音が止まった。

 旧校舎の地下に、再び静寂が戻った。

 午前二時十三分。

 世界は、まだ止まっている。

 けれど、記録は進んでいた。

 誰かが、十三年前の夜を繰り返そうとしている。

 誰かが、三人の緑谷出久を、同じ結末へ導こうとしている。

 そして。

 その誰かは、緑谷出久自身なのかもしれなかった。

 ――第二章 第十二話「兄を殺した少年」 了。

 

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