第一幕 午前二時十四分の少年
扉の向こうに、緑谷出久が立っていた。
――そうとしか、言いようがなかった。
緑色の髪。
そばかすの散った頬。
少しだけ下がった眉。
何かを言おうとするとき、相手を怖がらせないように、ほんのわずかに口元を緩める癖。
どれも、見慣れたものだった。
雄英高校の生徒たちが知っている緑谷出久。
爆豪勝己が幼い頃から知っている、泣き虫で、しつこくて、どうしようもなくお節介な幼馴染。
麗日お茶子が、何度もその手を握ってきた恋人。
相澤消太が、危なっかしいほど自分を後回しにする教え子。
そして――。
十三年前、午前二時十三分に死んだはずの少年。
その少年が、扉の向こうからこちらを見ていた。
年齢は、今の出久より少し幼く見えた。
しかし、それだけではない。
顔立ちは同じなのに、印象が違う。
今の出久には、人の顔色を窺うような弱さが残っている。誰かが傷つけば自分の責任だと思い込み、誰かが泣けば自分が何とかしなければと考えてしまう。
それでも、彼は人を信じようとする。
自分が傷つく可能性を知っていても、手を伸ばす。
扉の向こうの少年には、その癖がなかった。
いや。
正確には――。
誰かに手を伸ばすことを、とうの昔に諦めた人間の目をしていた。
「……やっと会えたね」
少年が言った。
その声は、出久と同じだった。
声変わりの時期まで、寸分違わず重なっているように聞こえる。
しかし、言葉の端に滲む疲労だけは、今の出久が持っていないものだった。
何年も。
何十年も。
あるいは、数え切れないほどの人生を繰り返してきた者だけが持つ、諦念。
「……君が」
出久は、喉の奥から声を絞り出した。
「君が……最初の、僕なの?」
少年は答えなかった。
代わりに、扉の縁に手をかけた。
その手の甲には、古い傷跡があった。
右手の甲に一本。
左の親指の付け根に一本。
そして、手首の内側には、細い円形の痕。
出久は、息を呑んだ。
その傷を知っていた。
右手の傷は、幼い頃に転んでできたもの。
左手の傷は、母の台所で割れた皿を片づけようとして切ったもの。
手首の痕は――。
「……それ」
出久は自分の手首を押さえた。
そこには、普段はほとんど見えない薄い痕がある。
幼い頃から、ずっとあった。
母に尋ねても、母は覚えていなかった。
病院で調べても、原因は分からなかった。
ただの古傷だろう。
そう言われて、出久自身も深く考えないようにしていた。
扉の向こうの少年にも、同じ痕があった。
「やっぱり、残っているんだ」
少年は自分の手首を見下ろした。
「……残るんだね。どれだけ世界を作り直しても」
「世界を……作り直す?」
爆豪が一歩、前に出た。
「おい、てめぇ。ふざけたことを言ってんじゃねぇぞ」
声に、怒りが混じっていた。
だが、それは単なる敵意ではなかった。
爆豪は、扉の向こうの少年を睨みながら、無意識に拳を握り締めていた。
似ている。
似すぎている。
目の前の少年は、出久に似ているのではない。
出久そのものが、別の人生を歩んだ結果に見える。
「お前、何者だ」
爆豪が問う。
少年は爆豪を見た。
そして、少しだけ目を細めた。
「ああ……君もいるんだ」
「質問に答えろ」
「勝己」
少年は、懐かしむように名前を呼んだ。
「君は、最後まで僕を殴らなかったね」
「……は?」
「いや。正確には、殴ろうとして、殴れなかった。僕が君の目の前で死んだとき、君はずっと怒っていた」
少年は、ほんの少し笑った。
「泣いていたのに、怒っていた」
「てめぇ……」
「『勝手に死んでんじゃねぇ』って。そう言った」
爆豪の表情が凍りついた。
知らない。
そんな記憶はない。
十三年前、彼はまだ幼かった。
緑谷出久が死んだ記憶など、持っているはずがない。
そもそも、十三年前に死んだ緑谷出久が存在したという記録自体、世界から消されていたのだ。
それなのに。
少年は、爆豪が言ったことのないはずの言葉を、まるで昨日の出来事のように語った。
「……お前、俺を知ってんのか」
「知っているよ」
少年は答えた。
「何度も」
その一言で、空気が変わった。
何度も。
何度も、だと。
爆豪は少年の襟首を掴もうとした。
しかし、その腕を相澤が押さえた。
「待て、爆豪」
「離せ、イレイザー!」
「今、こいつに触るのは危険だ」
「んなことは分かってんだよ!」
「分かっているなら止まれ」
相澤の声は低かった。
彼の視線は、少年から一瞬も離れていない。
教師として、数え切れないほど危険な状況を経験してきた。
敵の個性。
未知の装置。
人の姿をした異形。
記憶操作。
空間そのものを歪める現象。
どれも、最初の一歩を誤れば取り返しがつかない。
しかし、今回の相手は違った。
相澤の直感が告げている。
この少年は、敵か味方かという分類そのものが通用しない。
彼は、ここにいる全員が知っている何かの中心にいる。
そして、誰もその何かを知らない。
「……君は」
相澤が尋ねた。
「緑谷出久なのか」
少年は、すぐには答えなかった。
扉の向こうから一歩、こちらに踏み出した。
靴底が床に触れる。
その瞬間、廊下の照明が一斉に明滅した。
壁に埋め込まれた古い時計が、勝手に動き始める。
午前二時十四分。
午前二時十五分。
午前二時十六分。
十三年間、一秒も進まなかった時計が、まるで溜め込んでいた時間を吐き出すように針を回した。
誰もが時計を見上げた。
そして、時計の秒針が止まった。
午前二時十七分。
少年は、今度こそ答えた。
「僕は、緑谷出久だった」
過去形だった。
「……だった?」
お茶子が呟いた。
少年は彼女を見た。
その目に、初めて感情らしいものが浮かんだ。
「お茶子ちゃん」
お茶子の肩が震えた。
「……どうして」
「ごめんね」
「どうして、私の名前を……」
「ごめん」
「私、あなたのこと、知らない……!」
お茶子の声が裏返った。
知らない。
そうだ。
彼女は、この少年を知らない。
今の出久と出会って、好きになって、何度もすれ違いながら、それでも隣にいると決めた。
その過程のどこにも、この少年はいなかった。
なのに。
少年は、お茶子の名前を知っている。
彼女の声を知っている。
そして、彼女が泣くとき、左手で目元を隠す癖まで知っているような目をしていた。
「……僕の知っているお茶子ちゃんは」
少年は、静かに言った。
「最後に、僕を殴った」
「……え?」
「『出久くんがそんなことを望むわけない』って。そう言って、僕を殴ったんだ」
お茶子の顔から血の気が引いた。
「僕は、君たちが生きていられる世界を作ろうとした。君たちが笑っていられる世界を作ろうとした。君たちが、誰も失わずに済む世界を作ろうとした」
少年の声は穏やかだった。
穏やかすぎた。
「でも、君は怒った」
「……私は」
「君は言ったんだ。『そんな世界で、出久くんだけがいなくなってしまうなら、私はそんな世界はいらない』って」
お茶子は口を開いた。
何か言おうとした。
しかし、言葉にならなかった。
少年は、出久に視線を戻した。
「君は、まだ言っていないんだね」
「……何を?」
「僕に」
少年の目が、わずかに揺れた。
「『そんな世界はいらない』って」
出久は答えられなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
この少年は、何を見てきたのだろう。
どれだけの時間を生きたのだろう。
どれだけの人を失ったのだろう。
そして。
どうして、こんなにも自分に似ているのだろう。
「……君は、僕なの?」
出久は、もう一度尋ねた。
少年は、首を横に振った。
「違う」
その答えは、意外なほど明確だった。
「僕は、君じゃない」
「でも……」
「君も、僕じゃない」
少年は、出久の胸元を見た。
そこに何かがあるかのように。
「君は、僕が作った最後の世界に生まれた、緑谷出久だ」
出久の心臓が、嫌な音を立てた。
「……作った?」
「そう」
「君が……この世界を?」
「正確には、何度も壊して、何度も作り直して、そのたびに失敗した」
少年は、まるで天気の話でもするように言った。
「その最後の一回が、君の世界だ」
静寂。
誰もが、その言葉を理解できずにいた。
世界を壊す。
世界を作り直す。
それは、比喩なのか。
個性による現象なのか。
あるいは、この世界の根本に関わる何かなのか。
相澤は、少年の言葉を頭の中で整理しようとした。
だが、どこから考えても、ひとつの疑問に行き着く。
「……何のために」
相澤は問うた。
「何のために、そこまでする必要があった」
少年は、答えた。
「兄さんを助けるためだよ」
出久の呼吸が止まった。
兄さん。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。
知らないはずの記憶が、扉の向こうから手を伸ばしてくる。
暗い廊下。
小さな手。
誰かの背中。
そして、振り返った少年が言う。
――出久。
――絶対に、僕を忘れないで。
「……兄さん」
出久の唇が、勝手に動いた。
誰のことを呼んだのか、自分でも分からなかった。
目の前の少年なのか。
十三年前に消えた誰かなのか。
それとも、ずっと自分の中に空いていた、名前のない穴なのか。
少年は、出久の呟きを聞いて目を閉じた。
まるで、長い長い祈りが、ようやく届いたかのように。
「……やっと、そこまで来たんだね」
そして、彼は言った。
「じゃあ、始めようか」
少年が指を鳴らした。
廊下の壁が、音もなく透けた。
壁の向こうに、別の景色が現れる。
古い病院。
白いベッド。
窓の外には、雨。
そして、ベッドの脇に座っている女性。
緑谷引子だった。
若い。
今よりずっと若い。
彼女は、眠っている小さな少年の手を握り、声を殺して泣いていた。
ベッドの上の少年は、緑谷出久だった。
いや。
そう見えた。
しかし、今の出久よりも幼く、頬は痩せ、腕にはいくつもの管が繋がれている。
モニターの数字は、少しずつ下がっていた。
そして、病室の入口に、もう一人の少年が立っていた。
緑谷出久と同じ顔をした少年が。
その少年は、母の背後から病室を見つめていた。
目に涙はなかった。
ただ、唇を噛み締めていた。
その手には、黒い小さな箱が握られていた。
箱の表面には、白い文字が浮かんでいる。
第一対象:緑谷出久。
第二対象:緑谷出久。
第三対象:未登録個体。
そして、いちばん下に。
選択してください。
出久は、壁の向こうの光景を見つめたまま、呟いた。
「……これが」
少年が答えた。
「十三年前」
そして、残酷なほど静かに続けた。
「最初に死んだのは、誰だと思う?」
――その問いに、誰も答えられなかった。
なぜなら。
ベッドの上の出久は、まだ生きていたからだ。
母親は、息子の手を握っている。
モニターは、かろうじて動いている。
病室の入口に立つ少年も、まだ生きている。
そして、黒い箱の向こう側にいるはずの第三の子供も、まだ姿を現していない。
なのに。
記録上では、すでに一人が死んでいた。
死亡時刻――午前二時十三分。
対象個体――緑谷出久。
死因――未登録。
遺体――未回収。
出久は、壁に映る時計を見た。
午前二時十三分。
その針は、今度こそ動かなかった。
十三年前の時間が、そこにあった。
そして、扉の向こうの少年が言った。
「君たちは、ずっと間違えていたんだ」
「……何を」
相澤が問う。
少年は、病室を指さした。
「誰が死んだのか、という問いそのものを」
彼は、出久を見た。
「最初に死んだのは、あの子じゃない」
次に、爆豪を見た。
「僕でもない」
最後に、お茶子を見た。
「そして、君たちが今まで探してきた『三人目』でもない」
少年は、黒い箱を見つめた。
その表面に、ひびが入った。
「最初に死んだのは――」
箱の中から、子供の声が聞こえた。
出久の声だった。
しかし、それは出久が生まれるよりも前の声だった。
『――僕を、僕だと認めてくれる人がいなかった』
少年は、目を閉じた。
「……名前だよ」
彼は言った。
「最初に死んだのは、名前なんだ」
第二幕 名前のない子供
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
名前が死んだ。
そんな表現が、何を意味するのか。
相澤は理解しようとした。
理解しようとしたが、理解するための前提が崩れていた。
名前とは、誰かを識別するためのものだ。
戸籍に記され、出生届に書かれ、家族や友人が呼び、本人が自分のものだと認識する。
名前を失うことはある。
忘れられることもある。
記録から消されることもある。
だが、名前そのものが死ぬとは、いったいどういうことなのか。
「……緑谷」
相澤は、隣に立つ出久を見た。
「お前は、何か思い出したか」
「……いいえ」
出久は答えた。
嘘ではなかった。
思い出してはいない。
ただ、知っていた。
壁の向こうに映し出された病室。
母親の泣き顔。
小さな自分。
そして、黒い箱を持つ少年。
その光景を見ていると、胸の奥に、ひどく古い痛みが蘇る。
痛みだけがある。
何が痛いのか分からない。
誰を失ったのか分からない。
それなのに、失ったという事実だけは、身体のどこかが覚えていた。
「……あの子」
お茶子が、壁の向こうを見つめていた。
「病室にいる、あの子は……出久くんなんだよね?」
「そうだよ」
扉の向こうの少年が答えた。
「じゃあ、入口にいる子も……?」
「そう」
「二人とも、緑谷出久?」
「そうだよ」
「……そんなの」
お茶子は、唇を噛んだ。
「そんなの、おかしいよ」
「うん」
少年は、否定しなかった。
「おかしいんだ。だから、世界はそれを直そうとした」
彼が手をかざすと、壁の映像が拡大された。
病室の入口に立つ少年。
その手に握られた黒い箱。
箱の表面に浮かぶ文字が、より鮮明になる。
第一対象。
第二対象。
第三対象。
未登録個体。
そして、その下に、新しい文字が浮かび上がった。
個体識別照合:失敗。
存在情報の重複を検出。
修正処理を開始します。
直後。
病室の照明が消えた。
「っ!」
映像の中で、母親が顔を上げた。
モニターの電子音が鳴り響く。
ベッドの上の子供が苦しそうに身じろぎした。
入口に立っていた少年は、黒い箱を抱き締める。
「やめて……」
彼が呟いた。
「まだ、選んでない……!」
箱が開いた。
中には、何もなかった。
ただ、真っ黒な空間が広がっていた。
その奥から、無機質な音声が響く。
『重複した存在を確認』
『個体の整合性を維持できません』
『修正対象を選択してください』
少年は、箱を床に叩きつけた。
「選ばない!」
『選択してください』
「選ばないって言ってるだろ!」
『選択が行われない場合、全対象を削除します』
少年の顔が歪んだ。
その瞬間、病室のベッドに横たわっていた出久の身体が、透け始めた。
指先から。
まるで、世界そのものが彼の存在を認識できなくなったかのように。
「……母さん!」
入口の少年が叫んだ。
「母さん、こっちを見て!」
しかし、母親は振り返らなかった。
彼女はベッドの上の子供を抱き締めていた。
「出久! 出久、しっかりして!」
母親の声が、廊下にまで響く。
「お願い、目を開けて……! お母さんはここにいるから……!」
その声を聞いた瞬間。
出久は、胸を押さえた。
「……母さん」
隣で、お茶子が彼の手を握った。
出久の指先が冷たくなっていた。
「出久くん?」
「……母さんが、呼んでる」
「え?」
「でも……」
出久は、映像を見つめた。
「……あの子じゃない」
病室の母親は、ベッドの上の子供を呼んでいる。
入口に立つ子供を呼んでいない。
そのことが、どうしようもなく苦しかった。
入口にいる少年も、同じ顔をしている。
同じ声をしている。
同じ母親を、母さんと呼んでいる。
なのに。
母親は、彼を見ない。
いや。
見えていないのかもしれない。
少年は、母親の背中に向かって、何度も叫んだ。
「母さん!」
「……」
「母さん、僕もいるよ!」
「……」
「僕も、ここにいるんだ!」
母親は振り返らない。
そのたびに、少年の身体から何かが失われていった。
最初は、影だった。
足元の影が、照明の向きとは無関係に薄くなった。
次に、声だった。
叫び声が、少しずつ小さくなっていく。
そして、最後に。
少年の顔から、表情が消えた。
泣いていたわけではない。
怒っていたわけでもない。
ただ、何かを諦めた顔だった。
「……そっか」
彼は、呟いた。
「僕は、いないんだ」
その瞬間。
黒い箱に、文字が浮かんだ。
第三対象:未登録個体。
存在証明:失敗。
修正処理を開始します。
少年は、箱を見た。
そして、ゆっくりと笑った。
「……違う」
その笑顔を見た瞬間、今の出久は理解した。
この少年は、何かを決意したのだ。
誰かを救うための決意ではない。
誰かを助けるための決意でもない。
もっと、恐ろしいものだった。
自分が存在しないことを認めさせられた人間が。
それでも、自分が存在していると証明しようとする。
そのためなら、何をしても構わないと考えてしまった人間の顔だった。
「……僕は、いる」
少年は言った。
「ここに、いるんだ」
箱の文字が変わる。
第三対象:未登録個体。
存在証明:失敗。
修正処理を開始します。
「僕は、いるんだよ!」
少年が箱を踏みつけた。
黒い空間が床に広がる。
病室の壁が、ひび割れた。
モニターの音が消えた。
母親の声が、遠ざかった。
そして――。
ベッドの上の子供が、目を開けた。
「……あ」
その子供は、入口に立つ少年を見た。
同じ顔。
同じ目。
同じ声。
しかし、ベッドの上の出久は、入口の少年を見て、確かに言った。
「……兄さん?」
入口の少年が、凍りついた。
初めてだった。
初めて、誰かが自分を見た。
初めて、誰かが自分を呼んだ。
母親ではない。
医師でもない。
世界でもない。
自分と同じ顔をした、もう一人の子供が。
自分を、兄さんと呼んだのだ。
「……出久」
入口の少年は、箱を落とした。
床に広がった黒い空間が、ゆっくりと彼の足元に戻っていく。
「出久……!」
少年は走り出した。
ベッドに駆け寄り、弟の身体を抱き締めようとした。
だが、その手は。
弟の身体をすり抜けた。
「……え?」
少年は、もう一度、手を伸ばした。
触れられない。
抱き締められない。
そこにいるのに。
そこにいるのに、触れられない。
ベッドの上の子供は、驚いた顔をしていた。
「……兄さん?」
「……僕は」
少年の声が震えた。
「僕は、ここにいるよ」
「うん」
「ここにいるんだ」
「うん……」
「……どうして」
少年は、自分の手を見た。
指先が、透けていた。
「どうして、触れないんだ……?」
その問いに、答える者はいなかった。
病室のモニターが、再び鳴り始めた。
ベッドの上の出久の心拍が、少しずつ安定していく。
その代わりに。
入口に立つ少年の存在が、薄くなっていった。
弟が生きるほど、兄が消えていく。
兄が消えるほど、弟の存在が確かなものになっていく。
まるで、二人分の存在を維持できない世界が、どちらか一人を選ぼうとしているかのように。
少年は、弟を見た。
弟は、兄を見ていた。
そして、兄は気づいた。
このままでは。
このままでは、自分が消える。
弟が、自分のことを忘れる。
母親も、自分のことを忘れる。
誰も、自分がいたことを覚えていない世界になる。
そのとき。
床に落ちた黒い箱から、声がした。
『選択を確認しました』
少年は、顔を上げた。
『修正対象を登録してください』
箱の表面に、二つの選択肢が浮かんだ。
A:緑谷出久。
B:緑谷出久。
その下に、第三の項目があった。
C:未登録個体。
『いずれか一つを削除します』
『選択してください』
少年は、箱を見つめた。
そして、弟を見た。
ベッドの上の出久は、まだ幼かった。
自分が何者なのかも、何が起きているのかも分かっていない。
ただ、自分を兄と呼んだ。
自分を見てくれた。
それだけだった。
「……僕が」
少年は呟いた。
「僕が、選べばいいんだ」
箱に手を伸ばす。
指先が、文字に触れた。
その瞬間。
病室の外に、もう一つの影が現れた。
白い服。
顔のない頭部。
人間のような輪郭をしているのに、そこにいるという感覚だけが、ひどく希薄な存在。
それは、病室の入口に立つ少年を見下ろした。
『あなたは、誰ですか』
少年は、答えた。
「緑谷出久」
『識別に失敗しました』
「……緑谷出久だ」
『識別に失敗しました』
「僕は、緑谷出久なんだ!」
『識別に失敗しました』
少年の顔が歪んだ。
顔のない存在は、淡々と告げた。
『あなたには、名前がありません』
その言葉が。
少年の中で、何かを壊した。
『あなたは、緑谷出久ではありません』
『あなたは、緑谷出久の兄でもありません』
『あなたは、記録に存在しません』
『あなたは――』
少年は、叫んだ。
「黙れ!」
黒い箱が、砕けた。
同時に、病室の窓が割れた。
ガラス片は床に落ちなかった。
空中で停止した。
雨粒も、風も、モニターの音も、母親の涙も。
すべてが止まった。
少年だけが動いていた。
彼は、壊れた箱を拾い上げた。
そして、顔のない存在を睨みつけた。
「……なら」
少年の声は、もう震えていなかった。
「なら、名前を作ればいい」
『……』
「僕の名前がないなら、作ればいい」
少年は、ベッドの上の弟を見た。
「僕が緑谷出久じゃないなら、緑谷出久になる」
そして、壊れた箱を胸に抱いた。
「僕がいないことになっているなら――」
その瞳に、黒い光が宿った。
「僕がいる世界を作ればいいんだ。」
壁の映像が、そこで途切れた。
誰も、声を出せなかった。
扉の向こうの少年は、静かに目を開けた。
「……これが、始まり」
彼は、出久を見つめた。
「最初の緑谷出久が死んだ日じゃない」
その言葉に、出久の胸が冷たくなった。
「最初の緑谷出久が、世界を殺そうと決めた日だよ」
第三幕 母親は、何人の息子を失ったのか
「……待ちなさい」
それまで沈黙していた女性が、声を上げた。
写真を持っていた女性だった。
十三年前に息子を失ったという女性。
彼女は、壁に映し出された病室を見つめたまま、震える手で写真を握り締めていた。
「……今の話」
女性は、少年に向き直った。
「今の話が本当なら……あの子は」
声が掠れる。
「あの子は、ずっと……」
言葉が続かなかった。
少年は、彼女を見た。
「……そうだよ」
「あなたは……」
女性の目から涙が落ちた。
「あなたは、あの子なの?」
「違う」
少年は即答した。
「僕は、あなたの息子じゃない」
「でも、あなたは……!」
「僕は、あなたの息子の顔をしているだけだ」
「そんなこと……!」
女性は一歩、前に出た。
「そんなこと、あるはずがないでしょう!」
彼女は写真を掲げた。
そこに写っているのは、出久によく似た少年だった。
しかし、よく見ると、完全に同じ顔ではない。
目元が少し違う。
鼻筋も違う。
笑ったときの口元も違う。
それでも、出久を知る者ならば、見間違えてしまうほど似ていた。
「この子は……この子は、確かに私の息子だった!」
女性の声が、廊下に響いた。
「生まれたときから、私が育てた! 熱を出せば看病して、泣けば抱き締めて、初めて歩いたときには一緒に喜んだ!」
彼女は写真を胸に押し当てた。
「この子は、確かにいたの!」
「……うん」
「なのに、ある日突然、いなくなった!」
彼女は少年を睨みつけた。
「名前も、記録も、写真も……周りの人間の記憶まで、少しずつ変わっていった!」
その声には、十三年間の怒りがあった。
誰に向ければいいのか分からない怒り。
何をすれば取り戻せるのか分からない悲しみ。
そして、誰に話しても信じてもらえなかった人間の絶望があった。
「……私は、忘れなかった」
女性は言った。
「みんなが、あの子なんて最初からいなかったと言っても……私は忘れなかった」
彼女の指が、写真の端を強く握り締める。
「だから、あなたを見たとき……私は、分かったの」
少年は、黙っていた。
「あなたは、あの子を知っている」
女性は続けた。
「あなたは、あの子を覚えている」
そして。
「あなたは、私の息子を二度殺したんです」
その言葉が、廊下に落ちた。
少年は、目を伏せた。
否定しなかった。
言い訳もしなかった。
ただ、静かに言った。
「……そうだね」
「……!」
「僕は、あの子を殺した」
女性の呼吸が止まった。
「一度目は、名前を消した」
少年は、自分の胸に手を当てた。
「二度目は……あの子が生きていた世界を、消した」
「どうして……」
女性は、呆然と呟いた。
「どうして、そんなことを……」
「……助けたかったんだ」
少年の声は、小さかった。
「本当だよ」
「……何を」
「あなたの息子を」
女性の目が、大きく見開かれた。
「あなたの息子を、助けたかった」
「……嘘」
「嘘じゃない」
「嘘よ!」
女性は叫んだ。
「助けたかったのなら、どうして……!」
「助けられなかったからだ」
少年は、彼女を見た。
「何をしても、助けられなかった」
その瞳には、怒りも、悲しみもなかった。
あるのは、疲労だけだった。
「世界を作り直しても、歴史を変えても、死ぬ前に戻っても……あの子は、必ず死んだ」
女性は、言葉を失った。
「事故を避けても、病気を治しても、敵を倒しても、僕が代わりに死んでも……結果は変わらなかった」
少年は、自分の指を一本ずつ折った。
「一回目は、間に合わなかった」
「二回目は、僕が代わりに死んだ」
「三回目は、あの子を遠くへ逃がした」
「四回目は、世界から死という概念をなくそうとした」
「五回目は……」
少年は、そこで言葉を止めた。
「……もう、覚えていない」
誰もが、息を呑んだ。
「何回、繰り返したの……?」
お茶子が、震える声で尋ねた。
少年は、彼女を見た。
「分からない」
「……百回?」
「もっと」
「千回……?」
「もっと」
「一万回……?」
少年は、答えなかった。
答える必要がなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
出久は、少年を見つめていた。
自分と同じ顔をした少年。
自分と同じ声をした少年。
自分と同じように誰かを助けようとして、世界を壊すところまで行ってしまった少年。
出久は、気づいてしまった。
彼のやり方は間違っている。
どれほど事情があったとしても、他人の人生を何度も作り直し、誰かを犠牲にして、世界そのものを破壊することは許されない。
それでも。
彼が最初に抱いた願いだけは、理解できてしまう。
誰かを失いたくない。
助けられなかった人を、もう一度助けたい。
あのとき手を伸ばしていれば。
あのとき別の選択をしていれば。
もし、やり直せるのなら。
自分だって、同じことを考えるかもしれない。
その想像が、出久には何より恐ろしかった。
「……君は」
出久は、少年に尋ねた。
「君は、最後に何をしたの?」
少年は、しばらく出久を見つめていた。
そして、答えた。
「僕は、兄さんを助けることを諦めた」
その瞬間。
廊下の奥で、何かが軋んだ。
壁に刻まれた文字が、次々と書き換わっていく。
世界再構築記録。
試行回数:――――。
救済対象:――――。
最終目的:――――。
そして、最後の一行だけが残った。
最終選択:対象を救済しない。
「……諦めた?」
女性が呟いた。
少年は、頷いた。
「助けられないなら、せめて……」
彼は、出久を見た。
「兄さんが死んだことを、なかったことにするのはやめようと思った」
出久の心臓が、強く脈打った。
「死んだことを……なかったことに、しない?」
「そう」
「……それって」
「兄さんが死んだ世界を、僕が認めるってことだよ」
少年は、笑った。
今度の笑みには、ほんの少しだけ、苦しみが混じっていた。
「兄さんが死んだことを、誰かのせいにしない。世界のせいにしない。運命のせいにしない。誰かを犠牲にすれば救えるなんて、もう考えない」
「……じゃあ、どうして」
出久は、思わず一歩前に出た。
「どうして、今の世界を作ったの?」
少年は答えた。
「君を残すためだよ」
出久の足が止まった。
「……僕を?」
「君が、僕と同じ選択をしないように」
少年は、静かに言った。
「僕は、兄さんを救えなかった。だから、何度も世界を壊した。何度も世界を作り直した。そのたびに、別の誰かが死んだ。別の誰かが消えた。別の誰かが、僕の知らないところで泣いた」
彼は、拳を握り締めた。
「僕は、兄さんを助けるために、兄さんが愛した世界を壊してしまった」
そして、出久を見た。
「だから、君には同じことをしてほしくなかった」
その言葉は、出久の胸に深く突き刺さった。
けれど。
彼には、どうしても聞かなければならないことがあった。
「……君が、僕を残したんだね」
「うん」
「僕の記憶を消したのも?」
「……うん」
「兄さんのことを忘れさせたのも?」
少年は、目を閉じた。
「……そうだよ」
出久は、唇を噛んだ。
「……どうして」
その声は、怒りに震えていた。
「どうして、僕に選ばせてくれなかったんだ!」
少年が顔を上げた。
「……出久」
「僕が何を選ぶか、どうして君が決めるんだよ!」
出久の声が、廊下に響いた。
「僕が君と同じことをするかもしれないから? 僕が世界を壊すかもしれないから? 僕が誰かを助けるために、誰かを犠牲にするかもしれないから?」
彼は、少年を睨んだ。
「それでも、それを決めるのは僕だ!」
少年は、何も言わなかった。
「君が何度も失敗したからって、僕も失敗するとは限らない!」
出久は、自分の手を見た。
震えていた。
怖かった。
目の前の少年が、何をしてきたのか。
どれだけの人を巻き込んできたのか。
そして、どれほど自分に似ているのか。
そのすべてが、怖かった。
それでも。
「……僕は、君じゃない」
出久は言った。
「君が僕じゃないと言ったように、僕も君じゃない」
少年の瞳が揺れた。
「だから、君が正しかったのかどうか、僕が決める」
出久は、一歩踏み出した。
「君が何をしたのか、全部知りたい」
もう一歩。
「君が誰を助けたかったのか、知りたい」
さらに一歩。
「君が誰を失ったのか、知りたい」
そして、出久は、少年の目の前で立ち止まった。
「そのうえで、僕は僕の答えを出す」
少年は、長い間、出久を見つめていた。
やがて。
「……そう」
彼は、ほんの少しだけ笑った。
「それが、君の答えなんだね」
その瞬間、彼の背後にある黒い扉が、再び開き始めた。
扉の向こうには、無数の時計が浮かんでいた。
すべての時計が、違う時刻を示している。
午前二時十三分。
午後十一時五十九分。
午前零時零分。
午前二時十四分。
そして、どの時計にも共通するものがあった。
すべての針が、止まる寸前だった。
「……時間がない」
少年は言った。
「何の時間だ」
相澤が問う。
少年は、答えた。
「世界が、もう一度作り直されるまでの時間」
廊下の壁に、数字が浮かんだ。
残存時間:六十二時間四十七分。
十三年前から続く、世界の修正処理。
その残り時間が、今も刻まれている。
相澤は、数字を見つめた。
「……つまり、六十二時間以内に、お前の目的を止めなければならないということか」
「違うよ」
少年は首を振った。
「止めるだけなら、もっと簡単だった」
「どういう意味だ」
「僕を殺せばいい」
少年は、あまりにも自然に言った。
「僕を殺せば、世界の再構築は止まる」
爆豪が、舌打ちした。
「またそれかよ……!」
「でも」
少年は、出久を見た。
「僕を殺したら、君は僕になる」
その言葉に、廊下の空気が凍りついた。
「……何だと?」
相澤の声が低くなる。
少年は、淡々と説明した。
「この世界は、僕の記憶と、君の存在を使って維持されている。僕が死ねば、世界を支えている観測者がいなくなる。そのとき、世界は代わりの観測者を必要とする」
「……代わりの観測者?」
「君だよ、出久」
少年は言った。
「君は、僕の最後の再構築で生まれた存在だから」
出久は、言葉を失った。
「君が僕を殺せば、僕が持っている記憶も、力も、罪も、君に引き継がれる」
少年は、自分の胸を指さした。
「そして、君は僕になる」
彼は、少しだけ顔を伏せた。
「僕が君になったら、世界は終わる」
それは、以前にも聞いたことのある言葉だった。
出久の脳裏に、あのメッセージが蘇る。
――君が僕を救ったら、君は僕になる。
――僕が君になったら、世界は終わる。
その意味を、出久はようやく理解しかけていた。
彼を救うことが、世界を救うこととは限らない。
彼を殺すことが、世界を救うこととも限らない。
どちらを選んでも、誰かが犠牲になる。
その構造自体が、十三年前から仕組まれている。
「……そんなの」
お茶子が、震える声で言った。
「そんなの、ひどいよ……」
少年は、彼女を見た。
「うん」
「出久くんが何を選んでも……」
「うん」
「誰かが傷つくようになってるなんて……!」
「うん」
少年は、否定しなかった。
「だから、僕は君たちに会いたくなかった」
その声は、初めて、本当の意味で悲しそうだった。
「会ったら、期待してしまうから」
「……何を?」
お茶子が尋ねる。
少年は、彼女を見た。
「君たちなら、何かを変えられるんじゃないかって」
彼は、笑った。
「僕が何万回やってもできなかったことを、君たちならできるんじゃないかって」
その笑顔は、あまりにも弱かった。
長い間、誰にも頼れなかった人間が。
頼ることを諦めたはずの人間が。
それでも、心のどこかで、誰かが助けに来てくれることを待っていた。
そんな顔だった。
出久は、手を伸ばしかけた。
しかし、その手が届く前に。
廊下の奥から、別の声が響いた。
「……感動的な再会だね」
全員が振り返った。
そこに立っていたのは、顔のない存在だった。
病室の映像に現れた、あの白い影。
今度は、輪郭がはっきりしていた。
白い衣服。
人間と同じ手足。
そして、顔があるべき場所に、黒い円が浮かんでいた。
円の中心には、ひとつの目があった。
それは、出久を見ていた。
いや。
出久だけではない。
爆豪も、お茶子も、相澤も。
その場にいる全員を見ていた。
「……観測者」
少年が、低く呟いた。
白い存在は、首を傾けた。
「久しぶりだね、緑谷出久」
その声は、少年の声と同じだった。
しかし、感情がなかった。
「いや」
白い存在は、言い直した。
「君たち三人に、挨拶をするのは初めてだったかな」
出久の背筋が凍った。
白い存在は、彼を見つめたまま続けた。
「訂正しよう。君たち三人に挨拶をするのは、今回が初めてだ」
その言葉に、少年が顔を上げた。
「……やめろ」
「なぜ?」
「そいつらに話すな」
「なぜ?」
「……!」
少年の拳が震えた。
白い存在は、穏やかな声で言った。
「君は、もう十分に話しただろう?」
その瞬間。
少年の足元に、黒い亀裂が走った。
彼の身体が、わずかに揺らぐ。
「……何をした」
「何も」
白い存在は答えた。
「ただ、君の役目が終わりつつあると確認しただけだよ」
「……まだ終わってない」
「そうかな?」
白い存在は、出久を見た。
「彼は、もう答えを出し始めている」
その目が、細くなる。
「君が望んだとおりにね」
少年の顔から、血の気が引いた。
「……違う」
「違わないよ」
「僕は、こんなことを望んでいない!」
「本当に?」
白い存在は、静かに尋ねた。
「君は、彼に自分と同じ選択をさせないために、この世界を作った。彼が自分の意思で答えを出すことを、ずっと望んでいた」
そして。
「今、彼は自分の意思で君に近づいている」
白い存在は、出久を見た。
「君は、彼を救いたいのだろう?」
出久は答えなかった。
「彼を救いたいなら、彼の望みを叶えなさい」
白い存在は、少年を指さした。
「彼を殺すのです」
爆豪が、即座に前に出た。
「てめぇ……!」
「それが、最も合理的な選択です」
白い存在は、爆豪を無視した。
「彼の存在が消えれば、再構築は停止する。緑谷出久が新たな観測者となり、世界は維持される」
「ふざけんな!」
爆豪の掌から、爆発が弾けた。
しかし、爆風は白い存在に届く前に消えた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
「……無意味です」
白い存在は、淡々と言った。
「あなたの個性は、この空間では物理的な現象として認識されません」
「……だったら!」
爆豪は、もう一度、拳を握り締めた。
「物理じゃねぇ方法でぶっ飛ばしてやる!」
「勝己!」
出久が叫んだ。
爆豪は、振り返らなかった。
「黙ってろ、デク!」
その声には、怒りがあった。
しかし、それ以上に。
恐怖があった。
このままでは、出久が何かを選んでしまう。
そして、その選択によって、取り返しのつかない何かが起きる。
それだけは、絶対に許せなかった。
「……俺はな」
爆豪は、白い存在を睨みつけた。
「こいつが何者だろうが、何回世界を作り直そうが、知ったこっちゃねぇ」
彼は、出久を指さした。
「デクはデクだ」
次に、扉の向こうの少年を指さした。
「そいつも、そいつだ」
最後に、白い存在を睨んだ。
「てめぇが勝手に、どっちかを消すなんざ認めねぇ!」
白い存在は、しばらく沈黙していた。
やがて。
「……興味深い」
そう呟いた。
「君は、今回も同じことを言うのか」
爆豪の表情が変わった。
「……今回も?」
「そうだよ」
白い存在は、穏やかに告げた。
「君は、過去のすべての世界で、同じことを言った」
爆豪の喉が鳴った。
「誰を消すか選べと言われるたびに、君は拒絶した」
「……」
「しかし、最後には必ず、誰かを選んだ」
白い存在は、爆豪を見つめた。
「君自身がね」
爆豪の拳が、震えた。
「……何だと」
「君は、誰かを救うために、自分が犠牲になることを選んだ」
白い存在は、言った。
「そして、緑谷出久を救おうとして、何度も死んだ」
その瞬間。
爆豪の頭の中で、何かが弾けた。
知らない光景。
燃える街。
倒れた出久。
自分の手から流れる血。
誰かの叫び。
そして、目の前に立つ、別の自分。
その自分が、笑いながら言う。
――次は、間に合わせる。
「……っ!」
爆豪は、頭を押さえた。
「勝己!」
出久が駆け寄る。
「触んな!」
爆豪は、出久の手を振り払った。
しかし、その声は、いつものような鋭さを失っていた。
「……俺は」
爆豪は、息を荒くしながら呟いた。
「俺は……何回、死んだ?」
白い存在は、答えた。
「記録上、四百十二回」
沈黙。
誰もが、その数字を理解できなかった。
四百十二回。
爆豪勝己が、四百十二回死んだ。
それが、記録されている。
「……ふざけんな」
爆豪は、震える声で言った。
「そんな記憶、ねぇぞ……」
「もちろんです」
白い存在は答えた。
「あなたの記憶は、世界の再構築ごとに初期化されました」
そして、出久を見た。
「ただし、完全には消去できなかった」
白い存在の目が、わずかに輝いた。
「あなたたちは、忘れても、覚えている」
お茶子が、息を呑んだ。
「……どういう、意味?」
「記憶は、脳だけに保存されるものではない」
白い存在は言った。
「繰り返し選択された行動は、存在そのものに刻まれる。誰かを助けようとする癖。特定の相手を見たときの反応。理由のない恐怖。説明できない懐かしさ」
彼は、出久を見た。
「それらは、過去の世界の残骸です」
出久は、自分の手を見た。
自分が誰かを助けようとするとき。
自分が誰かを失うことを恐れるとき。
自分が、どうしても諦められないとき。
その根底には、何があるのだろう。
自分の意志なのか。
それとも、何度も繰り返された過去の残骸なのか。
もし、すべてが誰かに仕組まれたものだったとしたら。
それでも、自分の選択は自分のものだと言えるのだろうか。
「……そんなの」
出久は、顔を上げた。
「そんなの、関係ない」
白い存在が、彼を見る。
「関係ない?」
「僕が、誰かを助けたいと思うことが、過去の世界から残ったものだったとしても」
出久は、拳を握り締めた。
「今、僕がそう思っていることは、変わらない」
白い存在は、何も言わなかった。
「僕が何回死んだとしても、勝己が何回死んだとしても、お茶子ちゃんが何回泣いたとしても……」
出久は、目の前の少年を見た。
「僕は、今ここにいる」
そして。
「だから、僕は僕の答えを出す」
白い存在の目が、細くなった。
「……そうですか」
その声は、初めてわずかに変化した。
「では、観測を続けましょう」
白い存在の身体が、ゆっくりと崩れ始めた。
白い衣服が、紙片のように剥がれていく。
その下から、黒い空間が現れる。
そして、消える寸前。
彼は、出久に向かって言った。
「ただし、ひとつだけ忠告しておきます」
出久は、彼を見つめた。
「この世界には、あなたがまだ一度も救っていない人間がいます」
黒い円が、ゆっくりと閉じる。
「その人物こそが――」
声が途切れた。
白い存在は、消えた。
残された廊下には、静寂だけがあった。
そして、壁に。
新しい文字が浮かび上がった。
未登録個体:観測開始。
対象名:緑谷出久。
観測者:緑谷出久。
被観測者:緑谷出久。
破壊者:緑谷出久。
最後の行に、別の文字が浮かんだ。
本来の対象:未登録個体。
その文字を見た瞬間。
出久の背後から、声がした。
「……見つけた」
全員が振り返った。
そこには、誰もいなかった。
ただ。
床に、一枚の写真が落ちていた。
写真には、四人の子供が写っていた。
緑谷出久。
もう一人の緑谷出久。
そして、顔の分からない二人の子供。
写真の裏には、手書きの文字があった。
最初に死んだのは、誰だ?
その下に、もう一行。
その質問をした人間が、最初に殺した人間だ。
出久は、その文字を見つめた。
そして、気づいた。
写真の四人の子供のうち。
一人だけが、笑っていなかった。
その子供は、カメラではなく。
写真の外側にいる、誰かを見つめていた。
まるで。
写真を撮った人間の顔を、知っているかのように。
第四幕 十三年前、午前二時十三分
その夜。
緑谷引子は、夢を見た。
白い病室。
雨の音。
消毒液の匂い。
そして、小さな手。
彼女は、その手を握っていた。
「……出久」
夢の中で、彼女は息子の名前を呼んだ。
「出久、お願い……目を開けて……」
ベッドの上の子供は、目を閉じていた。
モニターの数字が、ゆっくりと下がっていく。
引子は泣いた。
泣きながら、息子の手を握り締めた。
「お母さん、ここにいるから……」
そのとき。
背後から、声がした。
「……母さん」
引子は振り返った。
そこには、もう一人の出久が立っていた。
彼は、病室の入口にいた。
小さな身体。
緑色の髪。
自分と同じ顔。
しかし、その目は、ひどく疲れていた。
「……出久?」
引子は、彼の名前を呼んだ。
少年は、頷いた。
「うん」
引子は、ベッドの上の子供を見た。
そして、入口の少年を見た。
二人。
同じ顔の子供が、二人。
彼女は混乱した。
しかし、すぐにベッドの上の子供へ視線を戻した。
「……今は、待っていてね」
引子は言った。
「お母さん、今……この子を助けなきゃいけないから」
入口の少年は、動かなかった。
ただ、母親を見つめていた。
「……母さん」
「ごめんね、出久」
引子は、泣きながら言った。
「もう少しだけ、待っていてね」
少年は、頷いた。
「……うん」
その瞬間。
少年の影が、消えた。
引子は気づかなかった。
ベッドの上の子供の手を握り締め、何度も名前を呼んでいた。
「出久……出久……お願い……!」
その声を聞きながら。
入口に立つ少年は、静かに笑った。
誰にも見られない場所で。
誰にも名前を呼ばれない場所で。
彼は、母親に向かって、最後に一度だけ言った。
「……ありがとう、母さん」
そして、消えた。
いや。
正確には。
彼がいたという事実そのものが、世界から消え始めた。
病院の記録から、彼の名前が消えた。
出生届から、彼の名前が消えた。
家族写真から、彼の姿が消えた。
母親の記憶から、彼の存在が消えた。
そして、最後に。
世界が、彼を認識しなくなった。
その瞬間。
病室のベッドの上で、子供が目を開けた。
「……母さん?」
引子は、息子を抱き締めた。
「出久……!」
泣きながら、何度も名前を呼んだ。
子供は、母親の胸に顔を埋めた。
「……母さん、僕……」
「大丈夫、大丈夫だから……!」
「……僕、夢を見たんだ」
引子は、息子の頭を撫でた。
「どんな夢?」
子供は、少し考えてから言った。
「……僕に、兄さんがいる夢」
引子の手が止まった。
「……兄さん?」
「うん」
子供は、頷いた。
「僕と同じ顔をしていて……」
その声が、少しずつ震え始める。
「僕を、助けようとしてくれて……」
子供は、泣き始めた。
「……でも、僕、忘れちゃったんだ」
引子は、息子を抱き締めた。
「大丈夫よ」
そう言った。
「大丈夫。怖い夢だったのね」
子供は、母親の胸に顔を埋めた。
「……うん」
引子は、息子の背中を撫でた。
そして、微笑んだ。
「お母さんがいるからね」
その言葉を聞きながら。
子供は、目を閉じた。
母親の腕の中で。
安心したように。
彼は眠った。
そのまま。
十三年間。
自分が何を失ったのかを知らずに。
自分が何を忘れたのかも知らずに。
そして、自分が生き残るために、誰が消えたのかも知らずに。
――世界は、修正された。
午前二時十三分。
十三年前の、その時刻。
最初の緑谷出久が消えた。
そして、二人目の緑谷出久が生き残った。
しかし。
それを見ていた者が、もう一人いた。
病室の天井。
誰にも見えない位置。
そこに、小さな黒い目が浮かんでいた。
目は、母親を見た。
ベッドの上の子供を見た。
そして、誰もいないはずの病室の入口を見た。
そこには、もう誰もいない。
誰もいないはずだった。
しかし、黒い目には見えていた。
消えたはずの少年が。
名前を失ったはずの少年が。
世界から存在を否定されたはずの少年が。
まだ、そこに立っている。
少年は、黒い目を見つめた。
そして、言った。
「……ねえ」
その声は、誰にも届かなかった。
「僕がいなくなったら、誰が僕を覚えていてくれるの?」
黒い目は、答えなかった。
「……誰もいないんだね」
少年は、笑った。
「そっか」
そして。
「じゃあ、僕が覚えていればいいんだ」
黒い目が、わずかに震えた。
少年は、病室の出口へ歩き始めた。
「僕が、僕を覚えている」
一歩。
「僕が、兄さんを覚えている」
二歩。
「僕が、母さんを覚えている」
三歩。
そして、最後に。
「僕が、世界を覚えている」
少年は、振り返った。
そこには、眠っている弟がいた。
母親の腕の中で、安心して眠る弟がいた。
少年は、笑った。
「……だから、いつか」
その目に、黒い光が宿る。
「いつか、僕のことを忘れた世界を、全部思い出させてやる」
黒い目が、閉じた。
世界が、再び動き始めた。
時計の針が、午前二時十四分を指した。
そして。
十三年後。
その針が、もう一度動いた。
第五幕 記録に存在しない兄
「……ここまでが、最初の記録だ」
少年は、壁に映し出された光景を消した。
廊下は、再び元の姿に戻っていた。
白い壁。
冷たい床。
非常灯の赤い光。
しかし、そこにいる全員が、もう同じ場所には立っていなかった。
彼らは、十三年前の出来事を見た。
見てしまった。
そして、理解した。
十三年前に死んだ緑谷出久は、ひとりではなかったのかもしれない。
あるいは。
十三年前に死んだのは、緑谷出久という人間ではなく。
緑谷出久という名前を持つ、もう一人の存在だったのかもしれない。
「……確認したいことがある」
相澤が言った。
「何でも」
少年は答えた。
「お前は、さっき『兄さんを助けることを諦めた』と言った」
「うん」
「だが、今の記録では、お前が消えたように見えた」
「……そうだね」
「それなら、お前は誰なんだ」
少年は、少しだけ目を伏せた。
「……僕は、あの子じゃない」
「お前は、緑谷出久ではないと言ったな」
「うん」
「では、何者だ」
少年は答えなかった。
その沈黙に、相澤は眉を寄せた。
「……答えられないのか」
「違う」
少年は首を振った。
「答えたら、君たちが僕を殺すことになる」
爆豪が、舌打ちした。
「だったら、殺されねぇように答えろ」
「……勝己」
「名前を呼ぶな」
爆豪の声は、冷たかった。
「てめぇが俺を何百回知ってようが、俺はてめぇを知らねぇ」
少年は、黙っていた。
「俺の知らねぇ記憶を勝手に持ち出して、俺が何をしただの、何回死んだだの、勝手に決めつけんじゃねぇ」
爆豪は、一歩前に出た。
「俺は、今ここにいる俺だ。過去に何があろうが、今の俺が何をするかは、俺が決める」
少年は、爆豪を見つめた。
その目に、ほんの少しだけ光が戻った。
「……そうだね」
「分かったなら答えろ」
「……僕は」
少年は、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、最初の緑谷出久が消えたあとに、残された記録から作られた存在だ」
出久が息を呑んだ。
「……記録から?」
「そう。最初の緑谷出久の記憶。二人目の緑谷出久の記憶。そして、世界が消去したはずの第三の存在の記録」
少年は、自分の胸に手を当てた。
「その全部を集めて、ひとつの存在にまとめた」
「……それが、お前?」
「うん」
「じゃあ、お前は……」
出久は、言葉を探した。
「……三人目の、出久?」
少年は、少しだけ笑った。
「そう呼ぶしかないのかもしれないね」
「でも、君は……」
「僕は、誰かの代わりじゃない」
少年は、はっきりと言った。
「最初の僕でもない。二人目の僕でもない。君でもない」
その言葉には、強い意志があった。
「僕は、僕だ」
出久は、彼を見つめた。
その瞬間、胸の奥にあった痛みが、ほんの少しだけ形を変えた。
この少年もまた、誰かの代わりにされてきたのだ。
名前を失った子供の代わり。
死んだ少年の代わり。
世界を維持するための観測者の代わり。
そして、今度は。
出久の代わりに、罪を背負わされようとしている。
「……君の名前は?」
出久は尋ねた。
少年の表情が、凍りついた。
「……え?」
「君の名前」
出久は、もう一度言った。
「緑谷出久じゃないんだよね」
「……うん」
「最初の緑谷出久でも、二人目の緑谷出久でもない」
「……うん」
「だったら、君の名前を教えてほしい」
少年は、何も言わなかった。
口を開いた。
しかし、声が出なかった。
何度も。
何度も。
自分の名前を思い出そうとするように、唇を動かした。
そして。
「……ないんだ」
彼は、呟いた。
「僕には、名前がない」
その声は、ひどく小さかった。
「記録から消えたから?」
出久が尋ねる。
「……違う」
「じゃあ、どうして?」
少年は、顔を伏せた。
「僕が、捨てたから」
沈黙。
「……捨てた?」
「うん」
少年は、目を閉じた。
「最初の緑谷出久が消えたとき、僕は、その子の名前を使った」
出久の胸が痛んだ。
「その名前を使って、世界を作り直した。何度も。何度も。何度も」
少年は、自分の手を見た。
「そのたびに、僕は少しずつ、自分が誰なのか分からなくなっていった」
彼は、笑った。
「最初は、僕が緑谷出久だと思っていた」
その笑顔は、ひどく寂しかった。
「次は、僕が兄さんだと思っていた」
彼は、ゆっくりと首を振った。
「その次は、僕が世界そのものだと思っていた」
誰も、言葉を返せなかった。
「そして、最後には……」
少年は、出久を見た。
「僕は、誰でもないと思うようになった」
その瞬間。
廊下の照明が、すべて消えた。
暗闇の中で、何かが動いた。
床を擦る音。
壁を叩く音。
そして、誰かが笑う声。
少年が顔を上げた。
「……来た」
相澤が、即座に警戒態勢を取る。
「何が来た」
「……僕の名前を、取り戻しに来たんだ」
暗闇の奥から、足音が聞こえた。
一歩。
二歩。
三歩。
ゆっくりと近づいてくる。
やがて、非常灯が再び点灯した。
その光の中に、ひとりの人影が浮かび上がった。
少年だった。
緑色の髪。
そばかす。
見慣れた顔。
しかし、その身体には、いくつもの黒い亀裂が走っていた。
まるで、存在そのものが壊れかけているかのように。
その少年は、出久を見た。
そして、笑った。
「……やあ」
声は、出久と同じだった。
「久しぶりだね」
扉の向こうに立つ少年が、震える声で言った。
「……嘘だろ」
黒い亀裂のある少年は、彼を見た。
「嘘じゃないよ」
「……君は」
「うん」
少年は、笑ったまま答えた。
「僕だよ」
そして、出久に向き直った。
「初めまして、緑谷出久」
彼は、丁寧に頭を下げた。
「僕の名前を返してもらいに来たんだ」
出久は、息を呑んだ。
「……君は、誰?」
少年は、微笑んだ。
「君が、最初に殺した人間だよ」
その瞬間。
出久の視界が、真っ黒に染まった。
頭の中に、無数の声が流れ込む。
誰かの泣き声。
誰かの叫び声。
誰かの笑い声。
そして。
何度も繰り返される、ひとつの言葉。
――僕を忘れないで。
――僕を忘れないで。
――僕を忘れないで。
出久は、頭を抱えた。
「……やめて……!」
声が漏れた。
「……もう、やめて……!」
しかし、声は止まらない。
無数の記憶が、出久の中へ流れ込んでくる。
見知らぬ病室。
見知らぬ家。
見知らぬ街。
そして、何度も繰り返される死。
爆豪が倒れる。
お茶子が泣く。
相澤が血を流す。
母が、誰かの名前を呼ぶ。
そして、自分が。
何度も。
何度も。
何度も。
誰かを救うために、誰かを殺していた。
「……違う!」
出久は叫んだ。
「僕じゃない!」
黒い亀裂のある少年は、静かに答えた。
「そうだね」
その声は、優しかった。
「君じゃない」
少年は、出久に手を伸ばした。
「でも、君の中にいるんだ」
出久の意識が、遠ざかっていく。
最後に見えたのは。
自分と同じ顔をした、三人の少年だった。
ひとりは、扉の向こうで泣いていた。
ひとりは、暗闇の中で笑っていた。
そして、ひとりは。
出久の目の前で、静かに呟いた。
「……ようやく、君に会えた」
その少年の胸元に、文字が浮かんだ。
個体名:緑谷出久。
存在状態:死亡。
死亡時刻:十三年前、午前二時十三分。
そして、その下に。
誰も見たことのない、新しい項目が表示された。
死亡原因:緑谷出久による殺害。
出久の意識が、完全に途切れた。
第六幕 最初に死んだのは誰だ
目を覚ましたとき、出久は暗闇の中にいた。
そこには、床も壁もなかった。
上下も、左右も、前後もなかった。
ただ、自分の身体だけが存在していた。
「……ここは」
声が、どこまでも響いた。
返事はない。
出久は、自分の手を見た。
いつもの手だった。
傷だらけで、少しだけ震えていて。
何度も誰かを助けるために伸ばしてきた手だった。
しかし、その手の甲には、黒い文字が浮かんでいた。
殺害者:緑谷出久。
「……違う」
出久は、手を握り締めた。
「僕は、誰も殺していない……!」
その瞬間。
暗闇の中から、声がした。
「……本当に?」
出久は振り返った。
そこに、少年が立っていた。
自分と同じ顔。
自分と同じ声。
しかし、その目は。
どこまでも、悲しそうだった。
「……君は」
「やあ」
少年は、微笑んだ。
「やっと、二人きりになれたね」
「……ここは、どこなの?」
「君の中」
少年は答えた。
「正確には、君が忘れたものを置いてある場所」
「……忘れたもの?」
「そう」
少年は、周囲を見渡した。
「名前。記憶。約束。罪。願い」
そして、出久を見た。
「それから、僕」
出久は、息を呑んだ。
「……君は、誰なんだ」
少年は、少し考えてから答えた。
「その質問を、ずっと待っていた」
「……え?」
「君が僕を見て、僕の名前を聞いてくれるのを」
少年は、自分の胸に手を当てた。
「僕は、緑谷出久」
出久は、首を振った。
「……僕も、緑谷出久だよ」
「うん」
「だから、君は……」
「僕も、緑谷出久なんだ」
少年は、優しく言った。
「君が生まれる前に、死んだ緑谷出久」
出久は、何も言えなかった。
「君が生きるために、消えた緑谷出久」
少年は、一歩近づいた。
「君が僕を忘れるために、殺した緑谷出久」
「……違う……」
「君が僕を忘れたから、僕は誰でもなくなった」
「違う!」
「君が僕を忘れたから、僕は世界を作り直した」
「やめて!」
「君が僕を忘れたから、僕は何度も死んだ」
少年は、目を閉じた。
「そして、君が僕を忘れたから……」
彼は、静かに言った。
「僕は、君を忘れられなかった」
出久は、膝をついた。
胸が痛い。
呼吸ができない。
目の前の少年が何を言っているのか、頭では理解できない。
しかし、心のどこかが、その言葉を知っていた。
彼は、忘れた。
この少年を。
この少年が誰だったのかを。
この少年が、自分に何をしてくれたのかを。
そして、この少年が、自分のために何を失ったのかを。
「……僕は」
出久は、震える声で言った。
「僕は、君を殺したの?」
少年は、答えなかった。
ただ、出久の前にしゃがみ込んだ。
「……君は、僕を殺した」
静かな声だった。
「でも、君だけが悪いわけじゃない」
出久は、顔を上げた。
「……どういう、意味?」
「君は、選ばされたんだ」
少年は言った。
「誰かを救うために、誰かを消すように。誰かを守るために、誰かを忘れるように。世界が壊れないように、僕がいないことを認めるように」
彼は、出久の手を取った。
「君は、まだ子供だった」
その手は、温かかった。
「何も知らなかった」
出久の目から、涙が落ちた。
「だから、僕は君を責めない」
「……でも」
「でも、ひとつだけ」
少年は、出久の目を見た。
「僕に、答えてほしい」
暗闇の中に、ひとつの時計が現れた。
午前二時十三分。
その針は、止まっていた。
少年は、時計を見上げた。
「最初に死んだのは、誰だと思う?」
出久は、答えられなかった。
「僕?」
少年が尋ねる。
「君?」
出久は、首を振った。
「それとも、僕たちを見ていた、誰か?」
時計の針が、わずかに動いた。
「……分からない」
出久は、正直に答えた。
「僕には、分からないよ……」
「うん」
少年は、頷いた。
「それでいい」
彼は、立ち上がった。
「分からないまま、考えてほしい」
「……何を?」
「誰が、最初に僕たちを殺したのか」
暗闇の向こうに、扉が現れた。
その扉には、無数の名前が刻まれていた。
緑谷出久。
緑谷出久。
緑谷出久。
緑谷出久。
すべて同じ名前だった。
しかし、その中にひとつだけ。
名前が刻まれていない場所があった。
少年は、その空白を指さした。
「ここに、僕の名前があった」
出久は、その場所を見つめた。
「……君の、本当の名前?」
「うん」
「……思い出せないの?」
「思い出せない」
少年は、笑った。
「でも、君なら見つけられるかもしれない」
「……僕が?」
「そう」
少年は、扉の前に立った。
「君が僕を殺したのなら、君には僕の名前を知る責任がある」
出久は、立ち上がった。
「……分かった」
少年は、目を見開いた。
「……本当に?」
「うん」
出久は、頷いた。
「君の名前を見つける」
そして、彼は続けた。
「でも、そのあとで……僕は、君に謝る」
少年の顔が、歪んだ。
「……謝らなくていいよ」
「謝りたいんだ」
「……出久」
「君が僕を許すかどうかは、君が決めていい」
出久は、涙を拭った。
「でも、僕が君に何をしたのか、知らないままにはしたくない」
少年は、長い間、出久を見つめていた。
やがて。
「……そっか」
彼は、笑った。
その笑顔は、初めて。
ほんの少しだけ、子供らしかった。
「じゃあ、ひとつだけ教えてあげる」
少年は、出久の耳元に顔を寄せた。
「僕の名前は、緑谷出久じゃない」
出久の心臓が、強く脈打った。
「……え?」
「僕は、最初から緑谷出久じゃなかった」
少年は、静かに言った。
「僕が緑谷出久になったのは、君が生まれる前」
「……どういうこと?」
「君が生まれるためには、緑谷出久という名前が必要だったんだ」
出久は、言葉を失った。
「だから、僕がその名前を使った」
少年は、扉の空白を見つめた。
「そして、君が生まれたとき、僕は名前を失った」
彼は、出久に向き直った。
「……最初に死んだのは、僕じゃない」
その瞬間。
時計の針が、午前二時十四分を指した。
「最初に死んだのは――」
少年は、微笑んだ。
「緑谷出久という名前を、僕に与えた人間だ。」
暗闇が、砕けた。
出久は、現実へと引き戻された。
第七幕 答えは、まだ誰も知らない
「――出久くん!」
最初に聞こえたのは、お茶子の声だった。
出久は、目を開けた。
冷たい床。
非常灯。
心配そうに覗き込む顔。
お茶子が、彼の身体を支えていた。
「出久くん! 大丈夫!?」
「……お茶子、ちゃん……?」
「よかった……!」
彼女は、出久を抱き締めた。
その腕が震えている。
「急に倒れたから……! 何度呼んでも、返事がなくて……!」
「……ごめん」
「謝らないで……!」
お茶子は、出久の胸に顔を埋めた。
「お願いだから……もう、勝手にいなくならないで……」
出久は、彼女を抱き締め返した。
自分が、どこにいたのか。
何を見たのか。
何を聞いたのか。
すべてが夢だったのかもしれない。
しかし。
手の甲を見ると、黒い文字は消えていた。
代わりに、手首の痕が、わずかに熱を持っていた。
「……お茶子ちゃん」
「……なに?」
「僕、何か言ってた?」
「……え?」
「倒れている間、何か……」
お茶子は、少しだけ考えた。
「……ううん」
彼女は首を振った。
「何も言ってなかったよ」
その瞬間。
出久は、ほんの少しだけ安心した。
自分の中に、何かが入り込んだのではない。
自分が、誰かに乗っ取られたのでもない。
そう思いたかった。
しかし、お茶子は続けた。
「……ただ」
「……ただ?」
「一度だけ、笑ったの」
出久の身体が、固まった。
「……笑った?」
「うん」
お茶子は、不安そうに彼を見つめた。
「すごく悲しそうな顔で……誰かに、ごめんって言ってた」
出久は、何も言えなかった。
お茶子は、彼の手を握った。
「……出久くん」
「……うん」
「私、怖いよ」
その言葉は、あまりにも率直だった。
「何が起きてるのか、分からない。出久くんが何を抱えているのかも、分からない。あの人たちが何者なのかも、分からない」
お茶子は、唇を噛んだ。
「でも……」
彼女は、出久の手を強く握り締めた。
「分からないからって、出久くんをひとりにしたくない」
出久は、彼女を見た。
「……お茶子ちゃん」
「一緒に考えたい。出久くんが何を思い出しても、何を知っても……私は、隣にいたい」
彼女は、少しだけ笑った。
「……だめかな?」
出久は、首を振った。
「……だめじゃない」
そして。
「ありがとう」
そう言った。
その瞬間。
「……おい」
横から、低い声がした。
爆豪だった。
彼は、壁にもたれながら、出久を睨んでいた。
「感動の再会は終わったか、デク」
「……かっちゃん」
「だったら、さっさと起きろ」
爆豪は、出久の前にしゃがみ込んだ。
「……聞きてぇことがある」
「……何?」
「お前、今、何を見た」
出久は、答えに詰まった。
爆豪は、それを見逃さなかった。
「……何か、見たんだな」
「……うん」
「誰を見た」
「……最初の、僕」
爆豪の眉が動いた。
「……それで?」
「……僕は」
出久は、拳を握った。
「僕は、誰かを殺したらしい」
爆豪は、しばらく黙っていた。
そして。
「……そうか」
それだけ言った。
出久は、驚いた。
「……怒らないの?」
「何で俺が怒るんだよ」
「だって……」
「お前が何をしたか、まだ分かってねぇんだろ」
爆豪は、立ち上がった。
「だったら、決めつけんな」
彼は、出久を見下ろした。
「自分が悪いって決めつけて、勝手に背負って、勝手に死のうとする」
その声が、少しだけ低くなる。
「……それ、俺が一番嫌いな、お前の癖だ」
出久は、目を見開いた。
「……かっちゃん」
「お前が誰かを殺したってんなら、何があったか調べる」
爆豪は、拳を握った。
「お前が何かを忘れてんなら、思い出させる」
そして。
「お前が間違ったことをしたんなら、俺が殴る」
「……えっ」
「ただし」
爆豪は、出久を睨んだ。
「何も分かってねぇうちから、自分を犯人にするんじゃねぇ。」
出久は、何も言えなかった。
その言葉は、胸に響いた。
彼は、ずっと自分を責めてきた。
誰かを救えなかったとき。
誰かが傷ついたとき。
自分の力が足りなかったとき。
そのたびに、もっとできたはずだと考えてきた。
だからこそ。
今の自分が何をしたのか分からないことが、怖かった。
自分が知らないところで、誰かを傷つけていたのかもしれない。
自分が忘れているだけで、誰かを殺していたのかもしれない。
その可能性を否定できないことが、怖かった。
それでも。
爆豪は、まだ自分を犯人だと決めつけるなと言った。
その言葉に、出久は少しだけ救われた。
「……うん」
出久は、頷いた。
「……ありがとう、かっちゃん」
「礼を言うな。気色悪ぃ」
爆豪は顔を背けた。
しかし、その耳が、ほんの少しだけ赤くなっていた。
そのとき。
「……皆さん」
相澤が、静かに声を上げた。
全員が、彼を見る。
相澤は、床に落ちていた写真を拾い上げていた。
四人の子供が写っている写真。
その裏には、例の問いが刻まれていた。
最初に死んだのは、誰だ?
その質問をした人間が、最初に殺した人間だ。
「……ひとつ、分かったことがある」
相澤は、写真を裏返した。
「この写真は、十三年前に撮影されたものではない」
「……え?」
出久が顔を上げた。
「どういうことですか、先生?」
相澤は、写真の端を指さした。
そこには、小さな数字が刻まれていた。
撮影日時:二〇二六年十月二十一日。午前二時十四分。
全員が、息を呑んだ。
今日の日付だった。
つい先ほど。
世界が、十三年ぶりに動き始めた時刻だった。
「……つまり」
相澤は、写真を見つめた。
「この写真は、過去の記録ではない」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「今、撮影されたものだ。」
その瞬間。
写真の中の四人の子供が、動いた。
最初は、目だけだった。
次に、口元。
そして、身体全体が。
まるで、静止画の中から抜け出そうとするかのように。
写真の中で、一人の子供が顔を上げた。
その子供は、カメラを見つめた。
そして、口を動かした。
声は聞こえない。
しかし、出久には分かった。
その子供は、こう言っていた。
――見つけた。
写真が、ひとりでに裏返った。
新しい文字が浮かび上がる。
第零回観測記録。
観測対象:四名。
記録者:緑谷出久。
観測者:緑谷出久。
破壊者:緑谷出久。
その下に、最後の一行。
被害者:未登録個体。
そして、そのさらに下に。
今まで存在しなかった項目が、ゆっくりと浮かび上がった。
撮影者:――――。
文字が、一文字ずつ埋まっていく。
緑。
谷。
出。
久。
全員が、出久を見た。
出久は、首を振った。
「……僕じゃない」
しかし、文字は止まらない。
最後の一文字が、浮かび上がった。
撮影者:緑谷出久。
写真の中の子供が、笑った。
そして。
廊下のどこかから、声が聞こえた。
「……正解」
誰の声だったのか。
誰にも分からなかった。
「最初に死んだのは、誰だ?」
その声は、もう一度、問いかけた。
「最初に殺したのは、誰だ?」
非常灯が消えた。
暗闇の中で、誰かが歩く音がした。
一歩。
二歩。
三歩。
その足音は、出久たちの背後から近づいてくる。
相澤が振り返る。
爆豪が身構える。
お茶子が、出久の手を握る。
そして、出久は。
ゆっくりと、振り返った。
そこに立っていたのは。
緑谷引子だった。
母だった。
いつもの服。
いつもの顔。
いつもの、優しい目。
しかし。
彼女は、出久を見ていなかった。
彼女が見ていたのは、出久の背後。
出久の影だった。
「……ああ」
母は、涙を流した。
「やっと、見つけた」
出久は、振り返った。
そこには、誰もいなかった。
ただ、自分の影だけがあった。
しかし、その影は。
出久と同じ動きをしていなかった。
影は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、出久に向かって笑った。
母が、震える声で言った。
「……おかえりなさい」
出久の影が、口を動かした。
「……ただいま、母さん」
その声は。
出久の声ではなかった。
十三年前に死んだはずの、最初の緑谷出久の声だった。
そして、母は。
出久ではなく、その影に向かって。
泣きながら、両手を伸ばした。
「……ごめんね」
その言葉を聞いた瞬間。
出久は、理解した。
母は、覚えていたのだ。
十三年前に消えた、もう一人の息子を。
忘れたのではなかった。
最初から、存在を知らなかったのでもなかった。
彼女は、ずっと覚えていた。
ただ。
目の前にいる息子を守るために、もう一人の息子を忘れたふりをしていた。
出久の影が、母の手に触れた。
その瞬間。
廊下の時計が、午前二時十五分を指した。
十三年間、世界が止まっていた時刻が。
また、一秒進んだ。
そして、出久の影が言った。
「……ねえ、母さん」
その声は、優しかった。
「今度こそ、僕の名前を呼んでくれる?」
母は、泣きながら頷いた。
「……もちろんよ」
そして。
彼女は、十三年間、一度も口にできなかった名前を呼ぼうとした。
その瞬間。
世界中の時計が、すべて止まった。
午前二時十五分。
その針の先に。
新しい文字が浮かび上がった。
最初の死亡者:未確定。
最初の殺害者:未確定。
最初の被害者:未確定。
そして。
次の犠牲者:緑谷引子。
出久が叫んだ。
「母さん――!」
しかし、声は届かなかった。
母の身体が、光に包まれた。
影が、母の手を握っていた。
十三年前に消えた息子が。
十三年間、名前を失っていた息子が。
ようやく母に名前を呼んでもらおうとしていた。
その願いが叶う直前に。
世界は、彼女を犠牲にしようとしていた。
出久は、走った。
手を伸ばした。
母を救うために。
影を救うために。
そして。
もう二度と、誰かを忘れないために。
しかし、彼の手が届く寸前。
影が、出久を見た。
その顔は、怒っていなかった。
憎んでもいなかった。
ただ、ひどく悲しそうだった。
「……出久」
影は言った。
「今度は、君が選んで」
そして。
母の姿が、光の中に消えた。
廊下に、静寂が戻った。
時計は、午前二時十五分を指していた。
出久の手には、何も残っていなかった。
母も。
影も。
写真も。
ただ、床に落ちた一枚の紙だけがあった。
そこには、たった一行。
最初に死んだのは、まだ誰も知らない。
その下に、もう一行。
だから、次に死ぬ人間を決めるのは、あなたです。
出久は、その紙を握り締めた。
そして、顔を上げた。
彼の目から、涙が流れていた。
しかし、その瞳には。
今までになかったものが宿っていた。
怒りだった。
世界に対する怒り。
自分自身に対する怒り。
そして、誰かを犠牲にしなければ成立しない、この理不尽な構造そのものに対する怒り。
「……もう」
出久は、呟いた。
「もう、誰も選ばせない」
その瞬間。
暗闇の奥から、誰かが笑った。
「……そう」
声がした。
「それが、最初の緑谷出久が望んだ答えだよ」
出久は、声のした方向を見つめた。
「……誰だ」
返事はなかった。
ただ、暗闇の中に、ひとつの扉が現れた。
その扉には、名前が刻まれていた。
緑谷出久。
緑谷出久。
緑谷出久。
そして、最後に。
誰の名前も刻まれていない、空白の場所。
その空白に、ゆっくりと文字が浮かび上がった。
緑谷引子。
出久は、息を呑んだ。
母の名前が。
そこに刻まれていた。
そして、扉の向こうから。
母の声が聞こえた。
『出久』
優しい声だった。
『お母さんを、忘れないでね』
出久は、走り出した。
扉に向かって。
母の声に向かって。
その先に何があるのかも知らずに。
ただ、今度こそ。
誰も失わないために。
しかし、扉に手をかけた瞬間。
彼の耳元で、誰かが囁いた。
「……忘れないで」
その声は、最初の緑谷出久のものだった。
「君が、最初に僕を殺したことを。」
扉が開いた。
その向こうにあったのは、病室ではなかった。
街でもなかった。
世界でもなかった。
そこに広がっていたのは。
緑谷出久が、これまでに救えなかったすべての人間が、名前を失ったまま眠っている場所だった。
そして、その最奥に。
たった一人。
出久の母が、立っていた。
彼女は、出久を見て微笑んだ。
「……おかえり、出久」
出久は、涙を流した。
「……母さん!」
彼女は、手を伸ばした。
しかし、その手は。
出久に向かってではなく。
出久の背後にいる、もう一人の少年に向かって伸ばされていた。
「……おかえりなさい」
母は、その少年の名前を呼んだ。
その名前を聞いた瞬間。
出久は、すべてを思い出しかけた。
――けれど。
名前が、聞こえなかった。
世界が、その名前だけを消した。
そして、物語は。
最初の問いへと戻る。
最初に死んだのは、誰だ。
その答えを知る者は、まだ誰もいない。
ただひとつ、確かなことがある。
十三年前、午前二時十三分。
世界は、誰かを殺した。
そして、その殺害を。
緑谷出久という名前の下に、記録した。
――第二章 第十三話「最初に死んだのは誰だ」・了