僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十四話 「母さんが呼んだ名前

」

 

第一幕 その名前を、もう一度

「――出久」

 

黒い扉の向こうに立っていた少年が、そう呼んだ。

 

緑谷出久は、息をすることさえ忘れた。

 

その少年は、自分と同じ顔をしていた。

 

髪の色も、目の形も、頬の輪郭も。違うところを探そうとしても、見つかるのは些細な差ばかりだった。

 

髪が少しだけ長い。

 

左の眉の上に、薄い傷がある。

 

そして――笑い方が違った。

 

今の出久は、誰かを安心させようとするとき、少しだけ口元を緩める。

 

けれど、扉の向こうの少年は違う。

 

彼は、何かを諦めた人間の笑い方をしていた。

 

何度も何度も手を伸ばして。

 

そのたびに、目の前で大切なものを失って。

 

それでも、最後の最後まで諦められなかった人間の笑い方だった。

 

「ようやく、ここまで来たね」

 

少年は、もう一度言った。

 

「待ってたよ。出久」

 

「……君は」

 

出久の声が掠れた。

 

「君は、誰なんだ」

 

少年は答えなかった。

 

代わりに、その視線が出久の背後へと流れた。

 

母のように呼ばれた女性。

 

目を見開いたまま、立ち尽くしている彼女。

 

彼女の手には、古びた写真が握られていた。

 

写真の中には、一人の少年が写っている。

 

出久によく似た少年。

 

けれど、出久ではない。

 

そして、先ほどまで意識を失っていた第三の少年が、彼女を見つめながら呟いた。

 

「……母さん」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

女性の手から、写真が落ちた。

 

ひらり、と。

 

紙切れ一枚が床に落ちただけだった。

 

なのに、その場にいた全員が、まるで誰かが息絶えた音を聞いたかのように振り向いた。

 

「……違う」

 

女性は首を振った。

 

「違う、違う、違う……」

 

彼女は写真を拾おうとした。

 

しかし、膝が震えていた。

 

指先が、床に届かない。

 

「そんなはずはない」

 

彼女は第三の少年を見た。

 

「あなたは……あなたは、あの子じゃない」

 

第三の少年は、何も言わなかった。

 

「あなたは、私の子じゃない」

 

「……うん」

 

「あなたは、私が知っているあの子じゃない」

 

「……うん」

 

「じゃあ、どうして」

 

女性の唇が震えた。

 

「どうして、私のことを母さんと呼んだの?」

 

第三の少年は、ゆっくりと目を閉じた。

 

そして、答えた。

 

「……あなたが、そう呼んでくれたから」

 

女性の顔が歪んだ。

 

「違う!」

 

悲鳴だった。

 

怒りではなかった。

 

拒絶でもなかった。

 

その声は、十三年間ずっと閉じ込めてきた何かが、とうとう耐え切れずに壊れた音だった。

 

「私は、あなたを呼んでいない!」

 

彼女は第三の少年を指差した。

 

「私は、あの子を呼んだの!」

 

一歩。

 

彼女は後ずさった。

 

「私は、あの子の名前を呼んだの!」

 

もう一歩。

 

「毎日、毎日、毎日……!」

 

声が大きくなる。

 

「帰ってきてって! どこにいるのって! 寒くないのって! お腹は空いていないのって!」

 

彼女の頬を、涙が伝った。

 

「誕生日にはケーキを買った! あなたが好きだった苺のケーキを! ろうそくも立てた! 誰も座っていない椅子の前に、お皿まで置いた!」

 

彼女は胸元を握り締めた。

 

「馬鹿みたいでしょう? 十三年よ? 十三年間も、私は帰ってこない子供のために、お皿を用意していたの!」

 

誰も口を挟めなかった。

 

相澤も。

 

爆豪も。

 

轟も。

 

警察官である塚内でさえ、今は何を言えばいいのか分からなかった。

 

「それなのに……」

 

女性は、出久を見た。

 

「あなたたちは、何なの?」

 

出久は答えられなかった。

 

「私の息子を知っているの?」

 

「……」

 

「私の息子を覚えているの?」

 

「……」

 

「私の息子が、どこで死んだのか知っているの?」

 

出久の指が震えた。

 

その問いに、彼の中の何かが反応した。

 

知っている。

 

いや。

 

知らない。

 

覚えている。

 

いや。

 

思い出せない。

 

自分の中に、確かに何かがある。

 

幼いころの記憶。

 

誰かと並んで歩いた帰り道。

 

自分より少しだけ背の高い少年の背中。

 

雨の日に差し出された傘。

 

転んだとき、笑いながら手を伸ばしてくれた誰か。

 

『出久、ほら。立てる?』

 

声が聞こえた。

 

『大丈夫。転んだって、死ぬわけじゃないんだから』

 

違う。

 

その声は、もっと優しかった。

 

もっと近かった。

 

もっと――。

 

『だから、泣くなよ』

 

出久の目が見開かれた。

 

「……兄さん」

 

口から、言葉が零れた。

 

その瞬間。

 

女性が顔を上げた。

 

「……今」

 

彼女の瞳が、出久を捉えた。

 

「今、なんて言ったの?」

 

出久は固まった。

 

自分が何を言ったのか、理解できていなかった。

 

けれど、女性は違った。

 

彼女は、聞き逃さなかった。

 

「もう一度」

 

一歩、近づく。

 

「もう一度、言って」

 

「……え?」

 

「お願い」

 

彼女の声が、ひどく小さくなった。

 

「今の名前を、もう一度言って」

 

出久は、喉を押さえた。

 

言葉が出ない。

 

頭の中で、何かが激しく軋んでいる。

 

名前。

 

誰かの名前。

 

呼ばなければならない名前。

 

けれど、舌の先にあるはずの音が、どうしても出てこない。

 

「……にい、さん」

 

女性は、その場で崩れ落ちた。

 

「……そう」

 

彼女は、床に両手をついた。

 

「そう、なのね」

 

泣いていた。

 

笑っているようにも見えた。

 

「あなたも……あなたも、あの子をそう呼ぶのね」

 

出久は、動けなかった。

 

女性は床に落ちた写真を拾い上げ、胸に抱き締めた。

 

「……あなたは、あの子の弟なのね」

 

その言葉に。

 

黒い扉の向こうの少年が、初めて笑みを消した。

 

「違う」

 

静かな声だった。

 

けれど、はっきりと聞こえた。

 

「その呼び方は、正確じゃない」

 

全員が、少年を振り向いた。

 

少年は、出久を見ていた。

 

「彼は、あの子の弟じゃない」

 

そして、彼は告げた。

 

「あの子が、彼の兄だったんだ。」

 

第二幕 母さんが知っていること

「……どういう意味だ」

 

相澤の声が、低く響いた。

 

黒い扉の向こうの少年は、相澤を一瞥した。

 

「言葉どおりだよ」

 

「ふざけるな。血縁関係の話をしているんじゃない。お前たちは、何を隠している?」

 

「隠している?」

 

少年は、少しだけ首を傾げた。

 

「違うよ。隠したのは、僕たちじゃない」

 

「なら、誰が隠した」

 

「世界だ」

 

爆豪が舌打ちした。

 

「またそれかよ。世界だの、観測だの、再構築だの……! テメェら、分かるように説明する気があんのか!」

 

「あるよ」

 

少年は即答した。

 

「でも、説明するだけじゃ駄目なんだ」

 

「何?」

 

「君たちは、説明を聞いて理解したつもりになる。理解したつもりになったら、原因を特定する。原因を特定したら、対処しようとする。対処しようとしたら、誰かを止めようとする」

 

少年は出久を見た。

 

「そして、最後には、また誰かを選ぶんだ」

 

爆豪の眉が動いた。

 

「……誰かを選ぶ?」

 

「誰を残すか。誰を消すか。誰を救うか。誰を犠牲にするか」

 

少年の声には、怒りも憎しみもなかった。

 

ただ、疲労だけがあった。

 

「君たちは、そういう選択を何度も繰り返してきた」

 

「俺たちは、そんなことをした覚えはねえ」

 

「覚えていないだけだよ」

 

少年は言った。

 

「忘れたんだ。忘れるように作られたんだ。忘れなければ生きていけなかったから」

 

出久は唇を噛んだ。

 

その言葉は、あまりにも自分に似ていた。

 

誰かを救うために。

 

誰かを守るために。

 

自分が傷つけばいいと思ってしまう。

 

自分がいなくなれば、みんなが助かると思ってしまう。

 

そして、そうすることが正しいのだと、どこかで信じてしまう。

 

それが、自分の中にあるものだった。

 

だが、今は違う。

 

今は、その考えを肯定できなかった。

 

自分がいなくなった後、誰かが泣くことを知っている。

 

自分が消えたら、誰かが自分を探し続けることを知っている。

 

自分が犠牲になれば、誰かが救われるとは限らないことも。

 

だからこそ、聞かなければならなかった。

 

「……君は」

 

出久は、扉の向こうの少年に尋ねた。

 

「君は、僕を知っているんだね」

 

少年は頷いた。

 

「知っている」

 

「僕が何をしたのかも?」

 

「知っている」

 

「僕が、誰を殺したのかも?」

 

少年の表情が変わった。

 

ほんのわずか。

 

けれど、確かに。

 

「……君は、まだ誰も殺していない」

 

「でも、記録には――」

 

「記録は嘘をつかない」

 

少年は言った。

 

「ただし、記録が正しいとは限らない」

 

出久は息を呑んだ。

 

少年は続けた。

 

「記録には、君が世界を壊したと書いてある。君が兄を殺したと書いてある。君が何度も世界を作り直したと書いてある」

 

「……」

 

「でも、記録には書かれていないことがある」

 

少年は、自分の胸に手を当てた。

 

「誰が、最初にその記録を書いたのか」

 

次に、指を一本立てた。

 

「誰が、記録の中から名前を消したのか」

 

二本目。

 

「誰が、記録に残された死者を生者として扱い、生者を死者として扱ったのか」

 

三本目。

 

「そして、誰が――」

 

少年は一度、言葉を切った。

 

「死んでいるはずの人間を、母親に会わせ続けているのか。」

 

女性の肩が、大きく跳ねた。

 

「……やめて」

 

彼女は首を振った。

 

「お願いだから、やめて」

 

少年は、彼女を見た。

 

「あなたは、知っているはずだ」

 

「知らない!」

 

「本当に?」

 

「知らないと言っているでしょう!」

 

「じゃあ、どうして十三年前から、毎年同じ日に同じ夢を見るんだ?」

 

女性の顔から、血の気が引いた。

 

その反応を見て、塚内が静かに前へ出た。

 

「……夢?」

 

女性は口を開いた。

 

けれど、何も言わなかった。

 

少年は、答えを待っていた。

 

まるで、彼女が何を言うのかを、十三年間も待ち続けていたかのように。

 

やがて女性は、震える声で言った。

 

「……毎年」

 

その声は、ひどく掠れていた。

 

「毎年、同じ日になると、夢を見るの」

 

「どんな夢ですか?」

 

塚内が尋ねた。

 

女性は、目を伏せた。

 

「……家の中に、子供が三人いるの」

 

出久の心臓が、強く打った。

 

三人。

 

また、三人だ。

 

「一人は、私の子」

 

女性は言った。

 

「もう一人は、私の子に似た子」

 

そして。

 

「最後の一人は……顔がないの」

 

誰も動かなかった。

 

「顔がない子供が、いつも泣いているの。声も聞こえない。ただ、泣いているのが分かるの」

 

彼女は、自分の手を見つめた。

 

「私は、その子を抱き上げようとする。でも、抱き上げられない。触れようとすると、手がすり抜けてしまう」

 

女性は、ゆっくりと目を閉じた。

 

「それで、私はいつも同じことを言うの」

 

「……何を?」

 

お茶子が、そっと尋ねた。

 

女性は、涙を流しながら答えた。

 

「『ごめんね』って」

 

その瞬間。

 

出久の脳裏に、白い部屋が浮かんだ。

 

白い壁。

 

白い床。

 

白いベッド。

 

そして、そこに横たわる子供。

 

顔がない。

 

いや。

 

顔を、思い出せない。

 

その子供の傍らで、誰かが泣いている。

 

幼い自分だった。

 

幼い自分が、泣いていた。

 

『ごめんね』

 

誰かが言った。

 

『ごめんね、出久』

 

違う。

 

その声は、母の声ではなかった。

 

もっと幼い。

 

もっと弱々しい。

 

そして、出久は思い出した。

 

その子供が、自分の手を握っていたことを。

 

小さな手だった。

 

冷たかった。

 

その手が、最後の力を振り絞るように、自分の指を握り返した。

 

『……忘れないで』

 

出久は、その場で膝をついた。

 

「出久くん!」

 

お茶子が駆け寄った。

 

けれど、彼女が肩に触れるより先に、出久は自分の口を押さえた。

 

「……違う」

 

彼は呟いた。

 

「違う、違う……」

 

「出久、どうした!?」

 

飯田が駆け寄る。

 

出久は首を振った。

 

「僕は……」

 

言葉が出なかった。

 

自分は、何を思い出した?

 

誰を見た?

 

誰の手を握っていた?

 

そして――。

 

自分は、その手を離したのか?

 

「……僕は、あの子を」

 

その先が、言えなかった。

 

黒い扉の向こうの少年が、目を伏せた。

 

「思い出さなくていい」

 

その言葉に、出久は顔を上げた。

 

「……どうして?」

 

「今、思い出したら、君はまた同じことをする」

 

「同じことって何だよ!」

 

出久は叫んだ。

 

「僕は、何をしたんだ!?」

 

少年は答えなかった。

 

「誰を助けようとしたんだ!?」

 

答えない。

 

「誰を犠牲にしたんだ!?」

 

少年の唇が、かすかに震えた。

 

「……君が助けようとしたのは」

 

そして。

 

「僕だよ。」

 

第三幕 息子の名前

「……あなたが?」

 

女性が、扉の向こうの少年を見た。

 

「あなたが、私の息子なの?」

 

少年は、ゆっくりと首を振った。

 

「分からない」

 

「分からない?」

 

「僕が、あなたの息子だったのか。あなたが僕の母親だったのか。それとも、僕たちがそういう関係だったと、誰かに思い込まされているだけなのか」

 

少年は、自分の手を見つめた。

 

「もう、分からないんだ」

 

女性は、震えながら立ち上がった。

 

「……名前は?」

 

少年は顔を上げた。

 

「何?」

 

「あなたの名前よ」

 

女性は、まっすぐ彼を見つめた。

 

「あなたの名前を教えて」

 

少年は黙った。

 

「お願い」

 

女性は続けた。

 

「あなたが誰なのか分からなくてもいい。私の子供じゃなくてもいい。私の知っているあの子じゃなくてもいい」

 

彼女は一歩、前へ出た。

 

「でも、あなたの名前を教えて」

 

少年は何も答えなかった。

 

「名前があるでしょう?」

 

「……」

 

「あなたにも、名前があったでしょう?」

 

沈黙。

 

「誰かに呼んでもらったことがあるでしょう?」

 

沈黙。

 

「誰かに、あなたの名前を呼ばれて、嬉しかったことがあるでしょう?」

 

少年の顔が歪んだ。

 

初めてだった。

 

この少年が、感情を露わにしたのは。

 

彼は唇を噛み締めた。

 

「……ないんだ」

 

「え?」

 

「ないんだよ」

 

少年は、笑おうとした。

 

けれど、失敗した。

 

「僕の名前は、もうない」

 

「そんな……」

 

「記録から消された。戸籍から消された。写真から消された。誰かの記憶からも消された」

 

彼は、自分の胸を叩いた。

 

「ここに残っているのかどうかも、分からない」

 

「でも、あなたは自分のことを覚えているでしょう?」

 

女性の言葉に、少年は首を振った。

 

「覚えているのは、僕が消えたことだけだよ」

 

女性は息を呑んだ。

 

「自分が何者だったのかは、思い出せない。でも、僕が消えたことだけは覚えている」

 

少年は、出久を見た。

 

「君が、僕を消したから」

 

出久の顔が青ざめた。

 

「……僕が?」

 

「そうだよ」

 

少年は静かに頷いた。

 

「君が、僕の名前を消した」

 

「そんな……」

 

「君は、僕を助けたかった」

 

「……」

 

「君は、僕を救いたかった」

 

「……」

 

「君は、僕が死ぬのを見たくなかった」

 

少年は目を閉じた。

 

「だから、君は僕を消した」

 

出久の足元が揺れた。

 

「……どういうこと?」

 

「死んでしまった人間を、死んでいないことにするためには、何が必要だと思う?」

 

少年は尋ねた。

 

誰も答えなかった。

 

「身体を治す? 時間を巻き戻す? 魂を呼び戻す? 世界を作り直す?」

 

彼は、首を振った。

 

「どれも違う」

 

少年は、胸に手を当てた。

 

「その人が死んだという事実を、世界から消すんだ」

 

相澤の目が細くなった。

 

「……存在そのものを消したのか」

 

「正確には、死という結果を成立させないようにした」

 

少年は言った。

 

「でも、死んだという事実だけを消すことはできない。世界は、その人が死んだことを前提にして、いろんなものを作り替えているから」

 

「……」

 

「その人がいなくなった後の時間。その人がいないからこそ起きた出来事。その人がいないからこそ出会った人。その人がいないからこそ救われた人」

 

少年は、出久を見た。

 

「全部、変わってしまう」

 

彼は続けた。

 

「だから、世界は代わりを求めるんだ」

 

「代わり……?」

 

お茶子が呟いた。

 

「死んだ人間の代わり。失われた名前の代わり。欠けた記憶の代わり」

 

少年の声が、少しずつ低くなる。

 

「誰かがいなくなったら、誰かをその場所に置く。誰かの名前が消えたら、別の誰かの名前をそこに置く。誰かが死んだら、別の誰かを死んだことにする」

 

彼は、微笑んだ。

 

「それで、世界は何事もなかったように続いていく」

 

「……そんなの」

 

お茶子の声が震えた。

 

「そんなの、間違ってるよ」

 

「そうだね」

 

少年は、あっさりと認めた。

 

「でも、君たちは何度もそれを選んだ」

 

彼の目が、出久に向けられる。

 

「そして、君が選んだ最後の方法は――」

 

少年は、言葉を切った。

 

「自分の名前を、三つに分けることだった。」

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……三つ?」

 

「君は、自分を三つに分けた」

 

少年は言った。

 

「記録する者。見届ける者。壊す者」

 

彼は、指を一本ずつ立てた。

 

「一人目は、失われたものを記録するため」

 

二本目。

 

「二人目は、失われたものを見届けるため」

 

三本目。

 

「三人目は、失われたものを取り戻すため」

 

彼は手を下ろした。

 

「でも、三つに分けた時点で、もう一つだけ問題が残った」

 

「……何が?」

 

「三つのどれも、本当の君じゃなかったんだ」

 

出久は、理解できなかった。

 

理解したくなかった。

 

「君は、誰かを救うために、自分を三つに分けた」

 

少年は告げた。

 

「その結果、世界は三人を同じ人間だと判断した」

 

「……」

 

「そして、三人を一人に戻そうとした」

 

出久の脳裏に、あの記録が蘇った。

 

《三個体の統合を開始》

 

《統合率:99.9%》

 

《本来の対象:未登録個体》

 

最後の一行。

 

未登録個体。

 

「……じゃあ」

 

出久は、震える声で言った。

 

「本当の僕は……どこにいるの?」

 

少年は答えなかった。

 

その代わり。

 

女性が、ゆっくりと口を開いた。

 

「……違うわ」

 

全員が、彼女を振り向いた。

 

彼女は、写真を見つめていた。

 

写真に写っている少年。

 

その顔を、指先でなぞる。

 

「違う……三人じゃない」

 

「……え?」

 

出久が顔を上げた。

 

女性は、泣きながら言った。

 

「私は、三人の子供を見たことがある」

 

彼女は、写真を胸に抱いた。

 

「でも、夢の中には……いつも、もう一人いた」

 

空気が凍った。

 

「……もう一人?」

 

塚内が尋ねた。

 

女性は頷いた。

 

「夢の中で、私は四人の子供を見ていたの」

 

出久の心臓が、嫌な音を立てた。

 

「一人は、私の息子」

 

女性は写真を見た。

 

「一人は、私の息子によく似た子」

 

次に、第三の少年を見た。

 

「一人は、名前のない子」

 

そして。

 

彼女は、黒い扉の向こうに立つ少年を見た。

 

「最後の一人は……いつも、私の後ろに立っていた」

 

少年の表情が、凍りついた。

 

女性は続けた。

 

「私は、振り返ることができなかった」

 

「……」

 

「振り返ろうとすると、夢が終わるの」

 

彼女の声が震える。

 

「でも、最後の夜だけは違った」

 

女性は目を閉じた。

 

「その子が、私の背中に手を置いたの」

 

そして。

 

「こう言ったのよ」

 

女性は、震える唇で、その言葉を再現した。

 

「『母さん。僕の名前を呼んで』って」

 

第四幕 母親は、嘘をつかなかった

誰も、言葉を発せなかった。

 

女性は、自分の胸に手を当てた。

 

「……私は、呼んだの」

 

彼女は言った。

 

「その子の名前を、呼んだのよ」

 

出久は、顔を上げた。

 

「……何て?」

 

女性は答えようとした。

 

けれど。

 

「……」

 

声が出なかった。

 

彼女は口を押さえた。

 

まるで、名前が喉に詰まっているかのようだった。

 

「……出てこない」

 

女性は呟いた。

 

「どうして……?」

 

目から涙が溢れる。

 

「私は、確かに呼んだのに」

 

彼女は何度も口を動かした。

 

「あの子の名前を……私は……」

 

その瞬間。

 

黒い扉の向こうの少年が、初めて一歩を踏み出した。

 

「もういい」

 

女性は顔を上げた。

 

「……え?」

 

「もういいんだ」

 

少年は、悲しそうに微笑んだ。

 

「思い出さなくていい」

 

「でも……!」

 

「あなたは、悪くない」

 

女性は、首を振った。

 

「そんなこと、ない……!」

 

「あなたは、ちゃんと僕を呼んだ」

 

少年は言った。

 

「僕が、あなたの声を聞いた」

 

女性の顔が歪んだ。

 

「……じゃあ、どうして?」

 

彼女は泣きながら尋ねた。

 

「どうして、あなたは帰ってこなかったの?」

 

少年は答えなかった。

 

「どうして、私はあなたを忘れてしまったの?」

 

答えない。

 

「どうして、私はあなたを探せなかったの?」

 

少年は、目を伏せた。

 

女性は、声を振り絞った。

 

「どうして、あなたは――」

 

そして。

 

「どうして、あなたは私を置いていったの?」

 

少年の瞳が揺れた。

 

彼は、何かを言おうとした。

 

けれど、その前に。

 

「……母さん」

 

第三の少年が、口を開いた。

 

女性が振り向く。

 

第三の少年は、まだ立ち上がることもできず、床に手をついていた。

 

顔色は悪い。

 

呼吸も浅い。

 

それでも、彼は彼女を見つめていた。

 

「……ごめん」

 

その一言で、女性の表情が崩れた。

 

「……どうして」

 

「ごめん」

 

「どうして、あなたまで謝るの……?」

 

第三の少年は、首を振った。

 

「僕が、あの子を連れていったから」

 

「……」

 

「僕が、あの子の手を離したから」

 

彼は、震える指を握り締めた。

 

「僕が、あの子の名前を忘れたから」

 

女性は、何も言えなかった。

 

「僕は、あの子を救いたかった」

 

第三の少年は続けた。

 

「でも、救えなかった」

 

「……」

 

「だから、僕はあの子を忘れた」

 

彼は、泣いていた。

 

「忘れたら、あの子が死んだことも、忘れられると思ったんだ」

 

女性は、ゆっくりと彼の前に膝をついた。

 

「……あなた」

 

第三の少年は、顔を上げた。

 

「僕は、あの子じゃない」

 

彼は言った。

 

「あなたの息子じゃない」

 

女性は、何も答えなかった。

 

「僕は、あの子の代わりになれない」

 

「……」

 

「僕は、あの子を救えなかった」

 

彼は、唇を噛み締めた。

 

「だから、あなたに母さんと呼ばれる資格なんてない」

 

女性は、しばらく彼を見つめていた。

 

そして。

 

そっと手を伸ばした。

 

第三の少年の頬に触れた。

 

彼は驚いて、身を引こうとした。

 

しかし、女性は手を離さなかった。

 

「……あなた」

 

彼女は、涙を流しながら言った。

 

「私の息子は、もう帰ってこないのね」

 

第三の少年は、目を閉じた。

 

「……うん」

 

「あなたは、私の息子じゃないのね」

 

「……うん」

 

「私の息子の名前も、知らないのね」

 

第三の少年は、声を詰まらせた。

 

「……うん」

 

女性は、何度も頷いた。

 

まるで、ひとつひとつの事実を、自分の中に刻み込むように。

 

そして。

 

「……それでも」

 

彼女は、第三の少年の頬を両手で包んだ。

 

「あなたは、ここにいるのね」

 

少年は、目を見開いた。

 

「……え?」

 

「あなたは、ここにいる」

 

女性は、彼の額に自分の額をそっと寄せた。

 

「あなたは、泣いている」

 

彼女の声は、優しかった。

 

「あなたは、苦しんでいる」

 

そして。

 

「あなたは、まだ生きている」

 

第三の少年の顔が、歪んだ。

 

「……母さん」

 

その言葉を聞いた瞬間、女性は彼を抱き締めた。

 

強く。

 

逃がさないように。

 

けれど、壊さないように。

 

「……いいのよ」

 

彼女は言った。

 

「あなたが私の息子じゃなくても」

 

「……」

 

「あなたが私の知っているあの子じゃなくても」

 

「……」

 

「あなたが、あの子を救えなかったとしても」

 

女性は、少年の背中を撫でた。

 

「あなたが、あなたであることまで、諦めなくていいの」

 

第三の少年は、声を上げて泣いた。

 

それは、十三年間、一度も許されなかった泣き方だった。

 

誰にも聞こえないように。

 

誰にも知られないように。

 

自分が存在していたことすら、忘れられるように。

 

そうやって押し殺してきた涙が、今になって溢れていた。

 

出久は、その光景を見つめていた。

 

胸が痛かった。

 

どうしてなのか、分からなかった。

 

けれど、彼は知っていた。

 

あの少年が泣いている理由を。

 

あの女性が抱き締めている理由を。

 

そして、自分が今、何をしなければならないのかを。

 

「……僕も」

 

出久は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「僕も、知りたい」

 

女性が顔を上げる。

 

第三の少年も。

 

黒い扉の向こうの少年も。

 

出久は、自分の手を見つめた。

 

「僕は、誰を救おうとしたのか」

 

彼は、顔を上げた。

 

「僕は、誰を忘れたのか」

 

一歩。

 

黒い扉へ近づく。

 

「そして……」

 

出久は、扉の向こうの少年を見た。

 

「僕は、本当は誰だったのか」

 

少年は、しばらく出久を見つめていた。

 

そして、静かに頷いた。

 

「……分かった」

 

彼は、手を差し出した。

 

「なら、見せてあげる」

 

その瞬間。

 

黒い扉の奥で、何かが動いた。

 

壁が開く。

 

床が裂ける。

 

闇の中に、無数の白い光が浮かび上がる。

 

それらは、星のように見えた。

 

しかし、よく見ると、ひとつひとつが小さな窓だった。

 

窓の向こうには、違う景色が映っている。

 

ある窓には、幼い出久が笑っていた。

 

ある窓には、病室で泣いている少年がいた。

 

ある窓には、爆発する街があった。

 

ある窓には、誰もいない教室があった。

 

そして、ある窓には。

 

母親が、誰もいない部屋で、ケーキを切っている姿が映っていた。

 

十三年間。

 

毎年、同じ日に。

 

誰も座っていない椅子の前に、お皿を置いて。

 

誰もいない席に向かって、笑いかけて。

 

「……これは」

 

お茶子が呟いた。

 

「全部、記憶なの?」

 

「違うよ」

 

扉の向こうの少年が答えた。

 

「これは、選ばれなかった世界だ」

 

彼は、無数の窓を見上げた。

 

「君たちが選ばなかった未来。救えなかった人。失われた時間。消された名前」

 

その声が、少しだけ震えた。

 

「そして、僕が何度も作り直した世界だ」

 

出久は、窓のひとつを見た。

 

そこには、幼い自分がいた。

 

その隣に、少年がいる。

 

少年は笑っていた。

 

出久も笑っていた。

 

二人の間には、もう一人、小さな子供がいた。

 

三人で手を繋いでいる。

 

その光景を見た瞬間。

 

出久は、胸を押さえた。

 

「……あ」

 

思い出した。

 

ほんの一瞬。

 

本当に、ほんの一瞬だけ。

 

その少年の名前が、喉の奥まで上がってきた。

 

音の形。

 

呼吸のリズム。

 

呼ぶときの声の高さ。

 

その名前を呼んだとき、相手がどんな顔で振り向くのか。

 

全部、分かった。

 

「……っ!」

 

出久は口を開いた。

 

「――」

 

けれど。

 

音にならなかった。

 

窓が、砕けた。

 

パリン、と。

 

ガラスが割れるような音がした。

 

その瞬間、すべての窓が一斉に揺れた。

 

白い光が赤く染まる。

 

そして、空間全体に、あの無機質な声が響き渡った。

 

《警告》

 

《未登録個体による識別行為を検出》

 

《記録領域への侵入を確認》

 

《個体名の再登録を開始》

 

出久は、顔を上げた。

 

「……未登録個体?」

 

《対象:緑谷出久》

 

《対象:緑谷出久》

 

《対象:緑谷出久》

 

《対象:――――》

 

最後の一行だけが、何度も明滅した。

 

《対象:――――》

 

《対象:――――》

 

《対象:――――》

 

そして。

 

《警告》

 

《登録名が存在しません》

 

《警告》

 

《登録名が存在しません》

 

《警告》

 

《登録名が存在しません》

 

黒い扉の向こうの少年が、目を見開いた。

 

「……まずい」

 

彼は、出久へ手を伸ばした。

 

「出久、戻って!」

 

「え?」

 

「今すぐ、扉から離れて!」

 

けれど、遅かった。

 

窓のひとつが、出久の目の前で開いた。

 

そこに映っていたのは、幼い自分。

 

そして、その隣にいる少年だった。

 

少年は、笑っていた。

 

何かを言っている。

 

出久は、その口の動きを見た。

 

――名前を。

 

――僕の名前を。

 

――思い出して。

 

出久は、必死にその音を追った。

 

けれど、次の瞬間。

 

窓の向こうの少年の顔が、黒く塗り潰された。

 

「――っ!」

 

出久が叫んだ。

 

その瞬間、すべての窓が閉じた。

 

白い光が消える。

 

空間が暗闇に沈む。

 

そして、最後に。

 

あの無機質な声が告げた。

 

《再登録に失敗しました》

 

《対象個体:緑谷出久》

 

《識別結果:不一致》

 

《記録上の死亡者と、現存個体の一致率――》

 

沈黙。

 

長い、長い沈黙。

 

そして。

 

《一致率:100%》

 

第五幕 十三年前、母さんが呼んだ名前

闇の中で、誰かが笑った。

 

「……ああ」

 

その声は、扉の向こうの少年のものではなかった。

 

「やっぱり、そうだったんだ」

 

出久は、顔を上げた。

 

「……誰だ?」

 

闇の向こうで、何かが動いた。

 

「君は、まだ自分の名前を知らないんだね」

 

その声は、幼かった。

 

いや。

 

幼いだけではない。

 

懐かしかった。

 

あまりにも懐かしくて、聞いた瞬間に胸が締めつけられる。

 

「でも、君は僕の名前を知っている」

 

出久は息を呑んだ。

 

「……君は、誰なんだ」

 

「僕?」

 

その声は、笑った。

 

「僕は、君が最初に忘れた人間だよ」

 

暗闇の中に、小さな光が灯った。

 

その光の中に、一人の少年が立っていた。

 

緑谷出久に似ていた。

 

しかし、今度は違う。

 

黒い扉の向こうの少年とも。

 

第三の少年とも。

 

現在の出久とも。

 

明確に違うところがあった。

 

彼は、幼かった。

 

まだ小学生にもなっていないくらいの、小さな少年だった。

 

髪は少し長く、頬には涙の跡が残っていた。

 

そして、その手には。

 

一枚の紙が握られていた。

 

少年は、紙を広げた。

 

そこには、四人の子供が描かれていた。

 

一人目。

 

二人目。

 

三人目。

 

そして、四人目。

 

四人目だけ、顔が黒く塗り潰されていた。

 

少年は、その絵を見せた。

 

「ねえ、出久」

 

その声は、優しかった。

 

「この中で、誰が一番最初に死んだと思う?」

 

出久は答えられなかった。

 

少年は、にっこりと笑った。

 

「正解はね――」

 

その瞬間。

 

女性が、悲鳴を上げた。

 

「――やめて!」

 

全員が振り向いた。

 

彼女は、扉の前に立っていた。

 

いや。

 

立っているというより、何かに引き寄せられるように、闇の中へ歩き出していた。

 

「やめて……!」

 

女性は、少年を見つめていた。

 

その目は、恐怖に見開かれていた。

 

「その子の名前を……!」

 

彼女は叫んだ。

 

「その子の名前を、言わないで!」

 

少年は、ゆっくりと女性を振り向いた。

 

「……どうして?」

 

その問いは、無邪気だった。

 

あまりにも無邪気で。

 

だからこそ、残酷だった。

 

「母さんは、僕の名前を呼んだでしょう?」

 

女性は、口元を押さえた。

 

「……違う」

 

「呼んだよ」

 

「違う……!」

 

「十三年前のあの日」

 

少年は言った。

 

「母さんは、僕の名前を呼んだ」

 

女性の目から、涙が溢れた。

 

「……やめて」

 

「僕が死ぬ前に」

 

「やめて……!」

 

「母さんは、僕を抱き締めてくれた」

 

「やめて!」

 

「そして――」

 

少年は、少しだけ首を傾げた。

 

「僕を、忘れてくれた」

 

女性は、その場に崩れ落ちた。

 

「……ああ」

 

彼女は、頭を抱えた。

 

「……ああ、そうだった」

 

その声を聞いた瞬間、出久の脳裏に、ひとつの光景が蘇った。

 

十三年前。

 

雨の日。

 

白い病室。

 

泣きながら、誰かを抱き締める女性。

 

その腕の中で、眠る少年。

 

その傍らに立つ、幼い出久。

 

そして。

 

もう一人。

 

扉の前で、何もできずに立っている少年。

 

その少年が、出久に向かって手を伸ばした。

 

『出久』

 

声が聞こえた。

 

『僕のこと、忘れないで』

 

出久は、幼い自分の姿を見た。

 

幼い自分は、泣いていた。

 

何度も首を振っていた。

 

『嫌だ』

 

『忘れたくない』

 

『僕は、忘れない』

 

少年は、悲しそうに笑った。

 

『……そっか』

 

そして。

 

彼は、出久の額に手を置いた。

 

『じゃあ、僕が君を忘れるね』

 

その瞬間。

 

世界が、白く染まった。

 

記憶が、ひっくり返った。

 

生きていた人間が、死んだことになった。

 

死んでいた人間が、生きていることになった。

 

そして、ひとつの名前が、世界から消えた。

 

――緑谷出久。

 

いや。

 

違う。

 

消えたのは、出久の名前ではない。

 

出久の名前を呼んでいた、もう一人の少年の名前だった。

 

「……あ」

 

出久は、震えながら顔を上げた。

 

「……母さん」

 

女性が、彼を見た。

 

出久は、涙を流していた。

 

「……母さんが」

 

彼は、言葉を絞り出した。

 

「母さんが、呼んだ名前は……」

 

女性は、息を止めた。

 

出久は、少年を見つめた。

 

その顔を。

 

その目を。

 

その涙を。

 

その笑顔を。

 

そして、ようやく。

 

口を開いた。

 

「――」

 

音にならなかった。

 

やはり、名前だけが出てこない。

 

けれど。

 

女性は、出久の口の動きを見ていた。

 

その唇の形を。

 

その息遣いを。

 

その声にならない音を。

 

そして。

 

彼女は、目を見開いた。

 

「……ああ」

 

涙が、頬を伝う。

 

「……そうだった」

 

彼女は、少年を見つめた。

 

「あなたの名前は……」

 

少年は、微笑んだ。

 

「……うん」

 

女性は、震える声で。

 

十三年間、忘れていた名前を。

 

もう二度と呼べないと思っていた名前を。

 

もう一度、呼んだ。

 

「――――」

 

その瞬間。

 

世界が、止まった。

 

時計の針が、止まる。

 

空気が止まる。

 

涙が、頬を伝う途中で静止する。

 

相澤も。

 

爆豪も。

 

轟も。

 

お茶子も。

 

塚内も。

 

第三の少年も。

 

黒い扉の向こうにいた、もう一人の出久も。

 

全員が、動きを止めた。

 

ただ一人。

 

出久だけが、その名前を聞いていた。

 

確かに。

 

はっきりと。

 

母が呼んだ、その名前を。

 

その名前は。

 

自分の名前ではなかった。

 

けれど。

 

自分が、誰よりもよく知っている名前だった。

 

自分が、誰よりも呼びたかった名前だった。

 

自分が、誰よりも忘れたくなかった名前だった。

 

そして。

 

その名前を聞いた瞬間、出久は理解した。

 

自分が、何をしたのか。

 

誰を救おうとしたのか。

 

誰を犠牲にしたのか。

 

そして――。

 

誰が、最初に死んだのか。

 

「……違う」

 

出久は、呟いた。

 

「違う……」

 

彼は、震える手で自分の顔を覆った。

 

「僕が……僕が、忘れたんじゃない」

 

涙が、指の隙間から零れた。

 

「僕が、あの子を殺したんじゃない……」

 

彼は、顔を上げた。

 

母親の腕の中で、少年が笑っていた。

 

その笑顔を見た瞬間、出久の中で何かが壊れた。

 

「……あの子が」

 

出久は、泣きながら言った。

 

「あの子が、僕を忘れたんだ」

 

その瞬間。

 

止まっていた時計が、再び動き始めた。

 

02:14。

 

秒針が、一つ進む。

 

02:15。

 

世界のどこかで、警報が鳴った。

 

そして、あの無機質な声が響いた。

 

《第零回観測記録を更新します》

 

《死亡者の定義を再確認》

 

《記録上の死亡者:一名》

 

《現存する緑谷出久:一名》

 

《記録の矛盾を検出》

 

《矛盾の原因を特定》

 

《――――》

 

声が途切れた。

 

次に、聞こえたのは。

 

誰かの、泣き声だった。

 

《警告》

 

《最初の死亡者が、観測領域に復帰しました》

 

《警告》

 

《最初の死亡者が、観測領域に復帰しました》

 

《警告》

 

《最初の死亡者が、観測領域に復帰しました》

 

そして。

 

黒い扉の向こうに立っていた少年が、出久に向かって手を差し出した。

 

「……おかえり」

 

その声は、ひどく優しかった。

 

「出久」

 

彼は笑った。

 

「今度こそ、一緒に帰ろう」

 

出久は、泣きながら、その手を見つめた。

 

手を伸ばせば、届く。

 

ほんの少しだけ、手を伸ばせば。

 

十三年間、ずっと欲しかったものが手に入る。

 

十三年間、ずっと失っていたものが戻ってくる。

 

けれど。

 

出久は、その手を取らなかった。

 

「……駄目だ」

 

少年の笑顔が、止まった。

 

「……どうして?」

 

出久は、涙を拭った。

 

「君が帰ってくるために、また誰かが消えるんだろう?」

 

少年は答えなかった。

 

「君が戻ってきたら、今度は誰が代わりになるんだ?」

 

「……」

 

「第三の僕? 今の僕? それとも、ここにいるみんな?」

 

出久は、首を振った。

 

「もう、誰かを代わりにするのは嫌だ」

 

少年は、しばらく黙っていた。

 

そして。

 

「……そっか」

 

小さく笑った。

 

「君は、そう言うんだね」

 

その笑顔を見た瞬間。

 

出久は、理解した。

 

この少年は。

 

自分が何を言うのか、知っていた。

 

自分がどんな答えを出すのか、知っていた。

 

それでも。

 

十三年間、待ち続けていたのだ。

 

自分が、その答えを出す瞬間を。

 

少年は、ゆっくりと手を下ろした。

 

「じゃあ、仕方ないね」

 

その瞬間。

 

彼の身体に、亀裂が走った。

 

「……っ!」

 

出久が手を伸ばす。

 

けれど、今度は少年が後ずさった。

 

「待って!」

 

「大丈夫」

 

少年は、笑った。

 

「もう、君が僕を救わなくてもいい」

 

彼の身体が、光に変わっていく。

 

「だって、君は――」

 

声が、遠ざかる。

 

「僕を、覚えているから」

 

光が、弾けた。

 

出久は、叫んだ。

 

「待って!」

 

手を伸ばす。

 

「まだ、名前を――!」

 

けれど。

 

光は、消えた。

 

少年の姿は、どこにもなかった。

 

残されたのは、一枚の紙だけだった。

 

床に落ちた紙を、出久は震える手で拾い上げた。

 

そこには、四人の子供が描かれていた。

 

今度は。

 

四人目の顔にも、目と口があった。

 

その顔は。

 

出久に、そっくりだった。

 

そして、紙の裏側に。

 

小さな文字が書かれていた。

 

『母さんへ』

 

『僕の名前を呼んでくれて、ありがとう』

 

『でも、ごめんね』

 

『僕は、まだ帰れない』

 

『だって、僕が帰ったら――』

 

その先は、血のような赤い線で塗り潰されていた。

 

出久は、紙を握り締めた。

 

「……まだ、終わってないんだね」

 

黒い扉の向こうから、声がした。

 

今度は、あの少年の声ではない。

 

もっと低く。

 

もっと深く。

 

世界の底から響くような声だった。

 

『そうだ』

 

闇の奥で、何かが目を開いた。

 

『一人目は、帰った』

 

『二人目は、目覚めた』

 

『三人目は、名前を取り戻しかけている』

 

そして。

 

『では、四人目はどうする?』

 

出久の背後で、第三の少年が顔を上げた。

 

彼の目から、涙が止まっていた。

 

「……四人目」

 

彼は、呟いた。

 

そして、出久を見た。

 

「出久」

 

その声は、今までとは違っていた。

 

怯えていた。

 

恐れていた。

 

何かを知ってしまった人間の声だった。

 

「……君は、まだ分かっていない」

 

「……何が?」

 

第三の少年は、震える唇を開いた。

 

「母さんが、あの子の名前を呼んだ瞬間……」

 

彼は、黒い扉を見た。

 

「あの子だけじゃなく、もう一人の名前も、世界に戻ってしまったんだ。」

 

出久は、息を呑んだ。

 

「……もう一人?」

 

第三の少年は、ゆっくりと頷いた。

 

「そう」

 

そして。

 

彼は、出久の胸元を指差した。

 

「四人目は、最初から君の中にいたんだよ。」

 

その瞬間。

 

出久の心臓が、二度鳴った。

 

一度目は、自分の鼓動。

 

二度目は。

 

自分の中にいる、もう一人の鼓動だった。

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