僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第十五話 「僕の中にいるもう一人」

 

 

 ――二つ目の鼓動が、聞こえた。

 

 どくん。

 

 それは、緑谷出久の心臓が鳴らした音ではなかった。

 

 自分の鼓動なら、知っている。

 

 緊張したときに速くなる音。

 

 恐怖に駆られたとき、耳の奥でうるさいほど響く音。

 

 大切な誰かが目の前で傷ついたとき、何もできない自分への怒りに震える音。

 

 そして、麗日お茶子の手を握ったとき、少しだけ落ち着きを取り戻す音。

 

 出久は、自分の心臓がどんなふうに鳴るのかを、嫌というほど知っていた。

 

 だからこそ、わかった。

 

 今、胸の奥で鳴った二つ目の音は、自分のものではない。

 

 どくん。

 

 もう一度。

 

 まるで、長い眠りから目を覚ました誰かが、自分の胸の内側から壁を叩いているようだった。

 

『――聞こえた?』

 

 黒い扉の向こうから、声がした。

 

 先ほどまで、四人目の存在を告げていた声。

 

 観測者とも、システムとも違う。

 

 もっと古く、もっと深く、もっと人間の理解から遠い何か。

 

 その声が、愉快そうに尋ねた。

 

『聞こえたね』

 

「……何が」

 

『君の中にいる、もう一人の君の鼓動が』

 

 出久は反射的に胸を押さえた。

 

 制服の布越しに、心臓が動いている。

 

 どくん。

 

 自分の鼓動。

 

 どくん。

 

 もう一つ。

 

 二つの鼓動は、最初こそ交互に鳴っていた。

 

 しかし、三度目から違い始めた。

 

 自分の鼓動が鳴る。

 

 その直後、もう一つの鼓動が鳴る。

 

 そして、少しずつ。

 

 ほんのわずかずつ。

 

 二つの音が、同じ間隔に近づいていく。

 

「……やめろ」

 

 出久は呟いた。

 

「何をしているのか知らないけど、やめろ!」

 

『何を?』

 

「僕の中にいる誰かを、勝手に目覚めさせるな!」

 

 黒い扉の向こうで、何かが笑った。

 

『勝手に?』

 

 その言葉が、妙に優しかった。

 

『緑谷出久。君は本当に、何も知らないんだね』

 

「何を知っているっていうんだ!」

 

『その子は、ずっと君を守っていたんだよ』

 

 出久の呼吸が止まった。

 

『君が泣いたときも』

 

 どくん。

 

『君が傷ついたときも』

 

 どくん。

 

『君が、誰かを救えなかったときも』

 

 どくん。

 

『そして、君が――自分自身を殺そうとしたときも』

 

 その瞬間。

 

 胸の奥で、何かが強く跳ねた。

 

 出久は片膝をついた。

 

「っ、あ……!」

 

 痛みではなかった。

 

 少なくとも、肉体的な痛みではない。

 

 脳の奥に、知らない記憶が流れ込んでくる。

 

 暗い部屋。

 

 小さなベッド。

 

 窓の外を流れる雨。

 

 誰かの泣き声。

 

 そして。

 

 幼い自分の声。

 

『お兄ちゃん』

 

 出久は目を見開いた。

 

 知らない。

 

 そんな記憶は知らない。

 

 自分には兄弟なんて――。

 

 いや。

 

 違う。

 

 違う、違う、違う。

 

 その言葉を、何度も何度も繰り返してきた気がした。

 

 誰かに教え込まれたように。

 

 思い出しかけるたびに、頭の中へ白い塗料を流し込まれるように。

 

 何かを忘れている。

 

 何かを。

 

 自分の人生の中で、決して忘れてはいけなかったものを。

 

「……僕は」

 

 唇が震えた。

 

「僕は、何を忘れているんだ?」

 

 答えたのは、黒い扉の向こうの声ではなかった。

 

 出久自身の胸の奥から、だった。

 

『――ごめん』

 

 少年の声だった。

 

 出久と、よく似ていた。

 

 けれど、出久の声より少しだけ低い。

 

 泣くことを我慢するのに慣れすぎたような声。

 

『ごめんね、出久』

 

 出久は、胸を押さえる手に力を込めた。

 

「……誰だ」

 

『ごめん』

 

「誰なんだよ!」

 

『僕が、君の中にいたせいで』

 

 声が、震えた。

 

『君はずっと、一人だった』

 

 その言葉に。

 

 出久の目から、涙が落ちた。

 

 理由はわからなかった。

 

 悲しいのか。

 

 悔しいのか。

 

 それとも、ずっと探していた誰かに、ようやく出会えたからなのか。

 

 わからなかった。

 

 ただ、胸が苦しかった。

 

 まるで、自分の心臓が二つに引き裂かれようとしているみたいだった。

 

「……違う」

 

 出久は首を振った。

 

「僕は、一人じゃない」

 

 脳裏に浮かぶのは、相澤の顔。

 

 爆豪の顔。

 

 轟の顔。

 

 飯田の顔。

 

 切島の顔。

 

 八百万の顔。

 

 そして。

 

 麗日お茶子の顔。

 

「僕には、みんながいる」

 

 胸の奥にいる誰かは、答えなかった。

 

「僕は、みんなと一緒に帰るんだ」

 

 出久は、震える脚に力を込めて立ち上がった。

 

「だから、お前も一緒に来い」

 

 沈黙。

 

 どくん。

 

 もう一つの鼓動が、初めて出久の心臓と同時に鳴った。

 

 その音は。

 

 ひどく寂しそうだった。

 

『……それは、できないよ』

 

「どうして!」

 

『だって』

 

 少年は、かすかに笑った。

 

『僕が外に出たら、君が消えてしまうから』

 

 その瞬間。

 

 世界の時計が、また止まった。

 

 02:15。

 

 秒針が動きを失う。

 

 遠くで鳴っていた機械音が途切れる。

 

 廊下に浮かぶ微細な埃までもが、空中で静止した。

 

 そして、出久の目の前に。

 

 見覚えのない、白い文字が浮かび上がった。

OBSERVATION SYSTEM / INTERNAL ALERT

第四個体・覚醒兆候

 

対象:緑谷出久

 

内部個体数:2

 

個体識別:失敗

 

統合状態:不安定

 

警告:主個体と内部個体の境界が消失しつつあります。

 

警告:分離処理を実行した場合、双方の生存を保証できません。

 

選択してください。

 

[A]主個体を維持する

 

[B]内部個体を解放する

 

[C]観測を終了する

 

 出久は、文字を見つめた。

 

 選択肢。

 

 まただ。

 

 また、選ばせる。

 

 誰かを生かすために、誰かを切り捨てろ。

 

 一人を救うために、一人を犠牲にしろ。

 

 そうすれば世界は安定する。

 

 そうすれば、すべてが元に戻る。

 

 そうすれば――。

 

「……ふざけるな」

 

 出久は、文字に向かって言った。

 

「なんで、そんな選択肢しかないんだ」

 

 システムは答えない。

 

「主個体を維持する? 内部個体を解放する? 観測を終了する?」

 

 出久は、乾いた笑いを漏らした。

 

「どれを選んでも、誰かが消えるんだろ」

 

 その通りだと告げるように、赤い警告が点滅した。

 

「だったら、選ばない」

 

 出久は手を伸ばした。

 

 文字の中央へ。

 

「僕は、誰も切り捨てない」

 

 指先が白い文字に触れた瞬間。

 

 システムが、初めて明確な拒絶を示した。

SYSTEM ERROR

不正な操作を検出。

 

対象個体には選択権がありません。

 

対象個体は選択される側です。

 

「……は?」

 

 出久の顔から、表情が消えた。

 

 選択する側ではない。

 

 選択される側。

 

 つまり。

 

 自分が何を望もうと。

 

 自分が何を決めようと。

 

 この世界のどこかには、最初から自分の結末を決めている何かが存在する。

 

 出久は、歯を食いしばった。

 

「僕の人生を、勝手に決めるな」

 

 その声は、震えていた。

 

 けれど、今度は恐怖だけではなかった。

 

「僕が誰なのかも、僕の中に誰がいるのかも、僕が何を選ぶのかも……!」

 

 拳を握る。

 

「全部、僕が決める!」

 

 白い文字に、亀裂が走った。

 

 同時に。

 

 出久の胸の奥で、二つ目の鼓動が強く鳴った。

 

 どくん。

 

 その音に重なるように。

 

『――そうだよ』

 

 少年の声がした。

 

『そうやって、怒ってよ』

 

 出久は目を見開いた。

 

『君は、いつも自分を後回しにするから』

 

 声が、少しだけ明るくなる。

 

『誰かを救うためなら、どんなことでもする。自分が壊れてもいいと思ってる。誰かが傷つくくらいなら、自分が傷つけばいいと思ってる』

 

 出久の脳裏に、いくつもの光景が浮かんだ。

 

 折れた腕。

 

 砕けた指。

 

 血に濡れた制服。

 

 誰かに向かって伸ばした手。

 

 そして、誰もいない場所で、一人きりになった自分。

 

『それが、君のいいところだって、僕も思っていた』

 

 少年の声が、静かになった。

 

『でも、違ったんだ』

 

 出久は、何も言えなかった。

 

『君が自分を犠牲にするたびに、僕は君の中で目を覚ましかけた』

 

 どくん。

 

『君が死にかけるたびに、僕は君を生かそうとした』

 

 どくん。

 

『君が自分を捨てようとするたびに、僕は君の代わりに、君の痛みを引き受けようとした』

 

 どくん。

 

『だから、僕は君の中にいる』

 

 出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……お前は」

 

 喉が、ひどく乾いていた。

 

「僕を、守っていたのか?」

 

 長い沈黙があった。

 

 やがて、少年は答えた。

 

『ううん』

 

 その否定は、優しかった。

 

『僕は、君を守りたかったんだ』

 

 たったそれだけの違いが。

 

 出久には、どうしようもなく重かった。

 

『でも、僕は一度も、君を守れなかった』

 

 少年の声が遠ざかる。

 

『だから、今度こそ――』

 

「待って!」

 

 出久は叫んだ。

 

「待ってくれ! まだ聞きたいことがある!」

 

『……うん』

 

「お前は誰なんだ!」

 

 沈黙。

 

 そして、少年は答えた。

 

『僕は――』

 

 その瞬間、白い文字が爆発した。

 

 世界が、裏返った。

 

 出久の視界を覆ったのは、光ではなかった。

 

 真っ黒な闇。

 

 その闇の中に、一本の細い道が伸びていた。

 

 道の両側には、無数の扉が並んでいる。

 

 木の扉。

 

 鉄の扉。

 

 病室の扉。

 

 学校の教室の扉。

 

 見覚えのない家の玄関。

 

 そして。

 

 黒い扉。

 

 そのすべてに、同じ名前が書かれていた。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 無数の名前。

 

 無数の扉。

 

 無数の、出久。

 

 そして、道のいちばん奥。

 

 一枚だけ、名前の書かれていない扉があった。

 

 その扉の前に、少年が立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 痩せた肩。

 

 大きすぎる服。

 

 裸足。

 

 そして、ひどく見覚えのある後ろ姿。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 少年が振り返った。

 

 その顔を見た瞬間。

 

 出久は、理解した。

 

 理解してしまった。

 

 その少年は、自分だった。

 

 今の自分と同じ顔。

 

 今の自分と同じ目。

 

 けれど、その瞳の奥には、今の自分が持っていないものがあった。

 

 長い時間を生きた者の疲労。

 

 何度も失敗した者の諦め。

 

 そして。

 

 誰かを救えなかったことを、永遠に許せない者の悲しみ。

 

 少年は、出久を見つめていた。

 

「……やっと来たね」

 

 出久の唇が震えた。

 

「君は……」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「君だよ」

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「君が忘れた、君自身だ」

 

1 記憶のない部屋

 最初に聞こえたのは、雨の音だった。

 

 窓を叩く雨。

 

 屋根を伝う雨。

 

 遠くの道路を走る車が、水たまりを踏みつける音。

 

 出久は、ゆっくりと目を開けた。

 

 知らない天井だった。

 

 白い壁。

 

 小さな照明。

 

 木製の机。

 

 壁に貼られたカレンダー。

 

 そして、窓際に置かれた、二つの椅子。

 

 片方には、少年が座っていた。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 丸い目。

 

 見慣れた顔。

 

 ただし、少年は出久より少し幼く見えた。

 

 十歳くらいだろうか。

 

 あるいは、もっと幼いのかもしれない。

 

 その年齢すら、正しく判断できなかった。

 

「……ここは?」

 

 出久が尋ねると、少年は窓の外を見たまま答えた。

 

「僕の部屋」

 

「君の?」

 

「うん」

 

「……僕の部屋じゃないの?」

 

 少年は、少し考えてから振り返った。

 

「君の部屋でもあるよ」

 

 出久は眉を寄せた。

 

「どういう意味?」

 

「ここは、僕たちが同じものを持っていた頃の部屋だから」

 

 同じもの。

 

 その言葉が、出久の頭に引っかかった。

 

「同じものって?」

 

「名前とか」

 

 少年は、自分の胸に手を当てた。

 

「心臓とか」

 

 次に、頭を指さす。

 

「記憶とか」

 

 最後に、出久を見つめた。

 

「未来とか」

 

 出久は言葉を失った。

 

 少年は、あまりにも自然に言った。

 

 まるで、今日の天気について話すように。

 

「……君は、僕なの?」

 

「そうだよ」

 

「じゃあ、どうして僕の中にいるんだ?」

 

「君が、僕を入れたから」

 

「僕が?」

 

「うん」

 

「いつ?」

 

「君が、僕を忘れたとき」

 

 出久の背筋に、冷たいものが走った。

 

「……忘れた?」

 

「そう」

 

 少年は、窓の外に目を向けた。

 

「君は、僕を忘れた。僕の名前も、僕が何をしたのかも、僕がどうして君の中にいるのかも。全部、忘れた」

 

「そんなこと……」

 

「覚えていないんでしょう?」

 

 出久は、答えられなかった。

 

 少年の言うとおりだった。

 

 覚えていない。

 

 この少年を見た記憶はない。

 

 この部屋に来た記憶もない。

 

 この雨の音を聞いた記憶もない。

 

 なのに。

 

 胸の奥が、痛い。

 

 目の奥が、熱い。

 

 まるで、長い間、帰りたかった場所に帰ってきたような気持ちだった。

 

「……君の名前は?」

 

 出久が尋ねると、少年は少しだけ困った顔をした。

 

「それを、僕に聞くんだ」

 

「だって……」

 

「うん。そうだよね」

 

 少年は笑った。

 

 その笑顔は、あまりにも出久に似ていた。

 

「君が忘れたんだから、君が知らないのは当然だよ」

 

 少年は机の引き出しを開けた。

 

 中から、古いノートを取り出す。

 

 表紙は擦り切れ、角は丸くなっていた。

 

 何度も開かれた跡がある。

 

 少年はそのノートを机に置き、出久の方へ押し出した。

 

「読んで」

 

「これは?」

 

「僕たちの記録」

 

「僕たちの?」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「僕が君の中に入る前に、書いたもの」

 

 出久は、恐る恐るノートを開いた。

 

 最初のページには、幼い文字で、こう書かれていた。

 

 ――きょう、おにいちゃんができた。

 

 出久の指が止まった。

 

「……お兄ちゃん?」

 

 少年は何も言わなかった。

 

 出久は、次の行を読んだ。

 

 ――おにいちゃんは、ぼくとおなじかおをしている。

 

 ――でも、ぼくよりすこしだけ、おおきい。

 

 ――おにいちゃんは、ぼくをみて、ないていた。

 

 ――どうしてないているのか、わからなかった。

 

 出久は、ゆっくりとページをめくった。

 

 次のページ。

 

 ――おにいちゃんが、ぼくにいった。

 

 ――「出久。僕を忘れないで」

 

 出久の呼吸が止まった。

 

 次の行。

 

 ――ぼくは、うなずいた。

 

 ――「うん。忘れないよ」

 

 その下には、別の筆跡があった。

 

 少し大人びた文字。

 

 強く書きすぎて、紙に跡が残っている。

 

 ――ごめん。

 

 ――僕は、君を忘れさせることになる。

 

 ――君が僕を覚えている限り、君は僕と同じ結末を迎える。

 

 ――君が僕を忘れたら、僕は君の中で眠ることができる。

 

 ――だから、どうか。

 

 ――僕を忘れて。

 

 出久は、ノートを閉じた。

 

 指先が震えていた。

 

「……これは、誰が書いたんだ?」

 

 少年は答えなかった。

 

「君なのか?」

 

 沈黙。

 

「それとも、僕なのか?」

 

 少年は、しばらく出久を見つめていた。

 

 やがて、小さく頷いた。

 

「どっちもだよ」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……どういうこと?」

 

「最初は僕が書いた」

 

 少年はノートを指さした。

 

「でも、最後の方は君が書いた」

 

「僕が?」

 

「うん」

 

 少年は、寂しそうに笑った。

 

「君は、僕を忘れるために、僕の記録を全部読んだんだ」

 

「……」

 

「そして、最後に、自分で書いた」

 

 少年は、ノートの裏表紙を開いた。

 

 そこには、出久自身が書いたとしか思えない文字があった。

 

 何度も書き直した跡。

 

 文字の上から、さらに文字を重ねた跡。

 

 そして。

 

 ――僕は、僕を殺した。

 

 出久は、ノートを取り落としかけた。

 

「……何だよ、これ」

 

「君が決めたことだよ」

 

「違う!」

 

 出久は叫んだ。

 

「僕は、こんなことをしない!」

 

 少年は、黙っていた。

 

「僕は、誰かを救うために戦う! 誰かを助けるために、自分ができることをする! でも、自分自身を殺すなんて……!」

 

「君は、そうしたんだ」

 

 少年の声は静かだった。

 

「僕を救うために」

 

 出久は、何も言えなくなった。

 

 雨が降っている。

 

 窓の外で、雨が降っている。

 

 その音が、遠くなった。

 

 少年は、出久を見つめた。

 

「君は、僕を救うために、自分を殺した」

 

 そして。

 

「僕も、君を救うために、自分を殺した」

 

 出久の目の前が、暗くなった。

 

「……何を、言っているんだ?」

 

「僕たちは、同じことをしたんだよ」

 

 少年は、胸に手を当てた。

 

「ただ、順番が違っただけ」

 

 出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 少年の瞳に、涙が浮かんでいた。

 

「君は僕を忘れて、生きようとした」

 

 少年は言った。

 

「僕は君を忘れさせて、生かそうとした」

 

 そして、声を震わせた。

 

「でも、僕たちは、どっちも失敗したんだ」

 

2 四人目の正体

「……待って」

 

 出久は、額を押さえた。

 

「話が、わからない」

 

「うん」

 

「君は、僕の中にいるんだよね?」

 

「そう」

 

「でも、君は僕の兄さんなの?」

 

「違うよ」

 

「じゃあ、僕の弟?」

 

「それも違う」

 

「……じゃあ、誰なんだよ!」

 

 少年は、しばらく考えた。

 

 そして、静かに答えた。

 

「僕は、君が生きるために、いなくなった君だよ」

 

 出久は、眉を寄せた。

 

「……それは、どういう意味?」

 

「君には、最初から二つの可能性があったんだ」

 

 少年は、窓の外を指さした。

 

 雨の向こうに、街が見える。

 

 見慣れた街並み。

 

 見慣れた家。

 

 見慣れた道路。

 

 けれど、どこかが違う。

 

 街の中心に、巨大な時計塔があった。

 

 その時計は、02:13を指している。

 

「一つは、君が今生きている未来」

 

 少年は言った。

 

「もう一つは、君が生きられなかった未来」

 

「……」

 

「その二つの未来は、最初は同じだった。君が生まれて、君が育って、君がヒーローを目指して、君が誰かを救おうとして」

 

 少年の声が、少しずつ遠くなる。

 

「でも、ある日、世界が君を選んだ」

 

「世界が……?」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「君を残すために、もう一人の君を消したんだ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……それが、君?」

 

「そう」

 

 少年は微笑んだ。

 

「僕は、君が生きるために消された可能性」

 

 その言葉が、出久の胸に突き刺さった。

 

 可能性。

 

 それは、ただの言葉ではなかった。

 

 出久が選ばなかった未来。

 

 出久が歩かなかった道。

 

 出久が知らなかった人生。

 

 そして、そこにいたはずの自分。

 

「……でも」

 

 出久は、かすれた声で言った。

 

「君は、ここにいる」

 

「うん」

 

「消されたんじゃないのか?」

 

「消されたよ」

 

 少年は答えた。

 

「でも、完全には消えなかった」

 

 少年は、自分の胸を押さえた。

 

「君が僕を忘れたから、僕は君の中で眠ることができた」

 

「……」

 

「君が僕を覚えていたら、僕たちは一つになっていた」

 

「一つに?」

 

「うん」

 

 少年は、苦しそうに笑った。

 

「そして、君も僕も、どちらでもなくなっていた」

 

 出久の脳裏に、あの記録が蘇った。

 

 統合状態。

 

 99.9%。

 

 主個体。

 

 内部個体。

 

 そして。

 

 対象個体には選択権がありません。

 

 出久は、ゆっくりと理解し始めていた。

 

 このシステムは、ただ人間を監視しているのではない。

 

 複数の可能性を観測し、必要ならば、一つにまとめようとしている。

 

 世界を安定させるために。

 

 矛盾をなくすために。

 

 存在し続けることのできないものを、消し去るために。

 

「……じゃあ、十三年前に死んだ少年は?」

 

 出久は尋ねた。

 

「母さんが名前を呼んだ、あの子は?」

 

 少年の表情が変わった。

 

 初めて、明確な恐怖が浮かんだ。

 

「……あの子は」

 

 少年は、言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。

 

「僕たちが消されたとき、最後まで消えなかった子」

 

「……」

 

「僕たちが同じ名前を持っていたせいで、世界は僕たちを一人だと判断した」

 

 少年は続けた。

 

「でも、本当は違ったんだ」

 

「何が違ったんだ?」

 

「僕たちは、最初から一人じゃなかった」

 

 少年の目が、出久を見つめる。

 

「四人いたんだよ」

 

 出久の心臓が、大きく鳴った。

 

「……四人?」

 

「君」

 

 少年が、出久を指さした。

 

「僕」

 

 次に、自分の胸を指さした。

 

「最初に死んだ、あの子」

 

 黒い扉の向こうへ、視線を向ける。

 

「そして、名前を失った、あの子」

 

 最後に、少年は自分の影を見た。

 

「……でも」

 

 その声が、かすかに震えた。

 

「本当は、もう一人いたのかもしれない」

 

「……え?」

 

「僕たちが四人だと思っていたのは、世界がそう数えていたからだ」

 

 少年は顔を上げた。

 

「でも、世界が数えられなかったものが、あったとしたら?」

 

 出久は、答えられなかった。

 

「名前を持たないもの」

 

「記録に残らないもの」

 

「誰の記憶にも残らないもの」

 

 少年は、静かに言った。

 

「そういうものが、僕たちの中に入り込んでいたとしたら?」

 

 雨音が、急に大きくなった。

 

 窓の外の時計塔が、軋むような音を立てた。

 

 02:13。

 

 その数字が、赤く光った。

 

 少年は、窓の外を見たまま呟いた。

 

「……出久。君は、四人目を探しているんだよね」

 

「……うん」

 

「でも、気をつけて」

 

 少年は振り返った。

 

 その顔は、今にも泣き出しそうだった。

 

「四人目は、君の中にいる」

 

 出久は頷いた。

 

「それは、君なんだろう?」

 

 少年は、首を横に振った。

 

「違う」

 

 その一言で。

 

 部屋の空気が、凍りついた。

 

「……違うって、どういうこと?」

 

 少年は、自分の胸に手を当てた。

 

「僕は、君の中にいる」

 

 そして。

 

「でも、四人目は、僕の中にもいるんだ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 少年の背後に、影が立っていた。

 

 いつからそこにいたのか、わからない。

 

 人の形をしている。

 

 緑色の髪。

 

 細い肩。

 

 小さな手。

 

 顔は見えない。

 

 影は、少年の肩に手を置いていた。

 

 少年は振り返らなかった。

 

 まるで、そこにいるものを知っているかのように。

 

「……ずっと、僕の中にいた」

 

 少年は呟いた。

 

「僕が君を守ろうとしたときも」

 

「僕が君を忘れようとしたときも」

 

「僕が君の代わりに、死のうとしたときも」

 

 影の指が、少年の肩に食い込んだ。

 

「ずっと、僕の中で笑っていた」

 

 少年の声が、震えた。

 

「そして、今」

 

 影が、顔を上げた。

 

 顔のないはずの影に。

 

 口が現れた。

 

 口だけが、笑っていた。

 

『やっと、見つけてくれたね』

 

 その声は。

 

 出久の声だった。

 

 少年の声でもあった。

 

 そして、どちらとも違っていた。

 

『僕の名前を、呼んでよ』

 

 出久の胸が、強く痛んだ。

 

『――母さんみたいに』

 

 その言葉が響いた瞬間。

 

 部屋の壁が、内側から膨らんだ。

 

 雨が止まった。

 

 時計塔が消えた。

 

 机も、椅子も、ノートも。

 

 すべてが黒い霧に呑み込まれていく。

 

 最後に残ったのは、少年と、出久と、顔のない影だけだった。

 

 影が、出久へ向かって手を伸ばした。

 

『ねえ、出久』

 

 影の声は、ひどく優しかった。

 

『君は、誰を救いたいの?』

 

 出久は、答えられなかった。

 

『僕?』

 

 影が笑う。

 

『それとも、君自身?』

 

 影の指先が、出久の胸に触れた。

 

『それとも――』

 

 その瞬間。

 

 出久の胸の奥で、二つの鼓動が完全に重なった。

 

 どくん。

 

 そして。

 

 世界が、砕けた。

 

3 目を覚ましたのは、誰だったのか

「緑谷くん!」

 

 誰かの声が聞こえた。

 

 遠い。

 

 ひどく遠い。

 

「緑谷くん、聞こえる!? 緑谷くん!」

 

 誰かが、自分の肩を揺さぶっている。

 

 出久は目を開けようとした。

 

 しかし、まぶたが重かった。

 

 身体の感覚がない。

 

 手も、足も、胸も。

 

 自分が横になっているのか、立っているのかさえわからなかった。

 

「……っ、緑谷!」

 

 今度は、別の声。

 

 聞き覚えのある、乱暴な声だった。

 

「おい、デク! 聞こえてんのか!」

 

 爆豪。

 

 そう思った瞬間、出久の中に、わずかな安堵が生まれた。

 

 勝己くんがいる。

 

 お茶子ちゃんもいる。

 

 みんなが、いる。

 

 帰らなければ。

 

 自分は、まだ帰っていない。

 

 そのことだけは、はっきりしていた。

 

 出久は、指を動かした。

 

「……っ!」

 

「緑谷くん!」

 

 誰かが息を呑む。

 

 そして、柔らかい手が出久の手を握った。

 

「よかった……!」

 

 お茶子だった。

 

 声が震えていた。

 

「よかった……ほんまに、よかった……!」

 

 出久は、ようやく目を開けた。

 

 最初に見えたのは、白い天井。

 

 次に、心配そうに自分を覗き込むお茶子の顔。

 

 その後ろに、相澤。

 

 爆豪。

 

 轟。

 

 飯田。

 

 切島。

 

 八百万。

 

 そして、警戒した表情で周囲を見回す塚内。

 

 病院ではなかった。

 

 先ほどまで立っていた廊下だった。

 

 黒い扉も、白い文字も、すべて消えている。

 

 時計は02:15を指していた。

 

「……みんな」

 

 出久は、声を絞り出した。

 

「僕……どれくらい……」

 

「三秒だ」

 

 相澤が答えた。

 

「何が?」

 

「お前が倒れてから、三秒だ」

 

 出久は、目を見開いた。

 

 三秒。

 

 あの部屋で、あれほど長い時間を過ごしたのに。

 

 時計塔を見た。

 

 ノートを読んだ。

 

 もう一人の自分と話した。

 

 顔のない影と対峙した。

 

 そのすべてが、現実の時間では三秒しか経過していない。

 

 時間の流れが違うのか。

 

 記憶だけが流れ込んだのか。

 

 それとも。

 

 あの場所は、時間という概念そのものから切り離されているのか。

 

「緑谷くん……?」

 

 お茶子が、不安そうに顔を覗き込んだ。

 

「どこか痛い? 気持ち悪い? 先生、やっぱり病院に――」

 

「お茶子ちゃん」

 

 出久は、彼女の手を握り返した。

 

「……僕、変なことを言うかもしれない」

 

「うん」

 

「信じられないことを言うかもしれない」

 

「うん」

 

「それでも、聞いてくれる?」

 

 お茶子は、一瞬だけ目を伏せた。

 

 それから、出久の手を両手で包み込んだ。

 

「もちろん」

 

 迷いのない返事だった。

 

「緑谷くんが何を見たんか、うちにはわからへん。何が起きたんかも、全部はわからへん」

 

 彼女は、出久の目を見た。

 

「でも、わからへんからって、緑谷くんの話を聞かへん理由にはならんよ」

 

 出久の喉が詰まった。

 

 彼女は続けた。

 

「うちは、緑谷くんが何を見たのか知りたい。何を怖いと思ったのかも、何を隠してるのかも」

 

 少しだけ、眉を下げる。

 

「でも、それ以上に……緑谷くんが、ここにいることを確かめたい」

 

 お茶子の指が、出久の手を握る力を強めた。

 

「ちゃんと、うちの知っとる緑谷くんなんやって」

 

 出久は、目を閉じた。

 

 そして、彼女の手に額を押し当てた。

 

「……ごめん」

 

「謝らんでええよ」

 

「でも……」

 

「謝るんやったら、帰ってきてからにして」

 

 お茶子は、笑おうとした。

 

 うまく笑えなかった。

 

「まだ、帰ってきてへん顔しとるもん」

 

 その言葉に、出久は顔を上げた。

 

 お茶子は、真剣な目をしていた。

 

「緑谷くん」

 

「……うん」

 

「今、ここにおる?」

 

 出久は、答えようとした。

 

 ここにいる。

 

 そう答えるはずだった。

 

 けれど。

 

 胸の奥で、もう一つの鼓動が鳴った。

 

 どくん。

 

 その瞬間。

 

 出久の口から、知らない言葉がこぼれた。

 

「……まだ」

 

 全員の表情が変わった。

 

「……え?」

 

 お茶子が、聞き返す。

 

 出久は自分の口元を押さえた。

 

 今のは、自分の意思で言った言葉ではない。

 

 けれど、嘘でもなかった。

 

「……ごめん」

 

 出久は、震える声で言った。

 

「僕、まだ……全部、帰ってきてない」

 

 相澤が、鋭い目で出久を見た。

 

「緑谷。何があった」

 

 出久は、ゆっくりと息を吸った。

 

「……僕の中に、もう一人いる」

 

 沈黙。

 

 誰も、すぐには言葉を返さなかった。

 

 爆豪の眉が、ぴくりと動く。

 

 轟が、出久の胸元に目を向ける。

 

 塚内は、何かを確認するように手元の端末を操作した。

 

 そして。

 

 相澤が、静かに尋ねた。

 

「もう一人の緑谷出久、ということか」

 

「……たぶん」

 

「たぶん?」

 

「でも……僕が見たのは、僕だけじゃなかった」

 

 出久は、先ほど見た影を思い出した。

 

 少年の中にいた影。

 

 顔のない存在。

 

 自分の声で、自分に名前を呼べと言った何か。

 

「……四人目は、僕の中にいる」

 

 出久は言った。

 

「でも、僕の中にいるもう一人も、四人目のことを知らなかった」

 

 相澤の目が細くなる。

 

「つまり、もう一人の緑谷の中にも、別の存在がいる可能性があると」

 

「……うん」

 

「そして、その存在がお前の中にもいる?」

 

「わからない」

 

 出久は首を振った。

 

「本当に、わからないんだ」

 

 悔しそうに唇を噛んだ。

 

「僕は、もう一人の僕と話した。僕が忘れた、僕自身だって言っていた。僕が生きるために消された可能性だって」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 塚内の手が止まった。

 

「……緑谷くん」

 

 彼は、慎重に尋ねた。

 

「その少年は、何か記録について話さなかったか?」

 

「記録?」

 

「観測記録。再構築記録。あるいは、君自身の死亡記録について」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……どうして、それを?」

 

 塚内は答える代わりに、相澤へ視線を向けた。

 

 相澤は、無言で頷いた。

 

 塚内は端末を操作し、全員に見えるよう画面を向けた。

 

「緑谷くんが倒れた直後、端末に新しいデータが届いた」

 

 画面には、短い文章が表示されていた。

 

 これまでの記録とは違う。

 

 文字化けも、黒塗りもない。

 

 まるで、最初から誰かに読ませるつもりで書かれたような、明瞭な記録だった。

観測記録・追加項目

記録番号:零―四

 

対象:緑谷出久

 

記録状態:新規生成

 

生成時刻:02:15

 

記録者:緑谷出久

 

観測者:緑谷出久

 

破壊者:緑谷出久

 

追記:

 

「四人目を発見した」

 

「ただし、対象は緑谷出久ではない」

 

「対象は、緑谷出久という名前を利用している」

 

最終行:

 

「対象は、すでに全員の中にいる」

 

 誰も、言葉を発しなかった。

 

 出久は画面を見つめたまま、凍りついていた。

 

 記録者。

 

 観測者。

 

 破壊者。

 

 また、同じ名前が並んでいる。

 

 そして、最後の一文。

 

 対象は、すでに全員の中にいる。

 

「……全員?」

 

 飯田が、低い声で呟いた。

 

「全員とは、この場にいる我々のことか。それとも……」

 

「わからねえだろ」

 

 爆豪が吐き捨てた。

 

 しかし、その目は画面から離れていなかった。

 

「ただの脅しって可能性もある。俺ら全員に同じ個性を仕込んだとか、そういうクソみてえな話かもしれねえ」

 

「爆豪くん」

 

 轟が言った。

 

「今までの記録を考えれば、可能性を切り捨てるべきではない」

 

「わかってるよ、半分野郎」

 

 爆豪は舌打ちした。

 

「だから気に食わねえんだろうが」

 

 彼は出久を見た。

 

「おい、デク」

 

「……うん」

 

「お前の中にいる奴は、何か言ったか」

 

 出久は、すぐには答えられなかった。

 

 何を話すべきなのか。

 

 もう一人の自分が語ったこと。

 

 自分が忘れた過去。

 

 四人目の存在。

 

 そして、最後に聞いた言葉。

 

 ――君は、誰を救いたいの?

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「……名前を呼んでほしいって」

 

 爆豪の眉が動いた。

 

「は?」

 

「僕の中にいた影が……名前を呼んでほしいって言ったんだ」

 

 出久は、自分の胸を押さえた。

 

「母さんみたいに、って」

 

 その瞬間。

 

 塚内の端末から、警告音が鳴った。

 

 全員が画面を見る。

 

 新しい文字が、一行ずつ表示されていく。

 

 ――対象個体の発言を確認。

 

 ――呼名要求を確認。

 

 ――呼名による存在固定を開始。

 

 ――対象個体の名前を入力してください。

 

 画面の下に、空欄が現れた。

 

 その空欄には、すでに一文字だけ入力されていた。

 

 緑。

 

 出久は息を呑んだ。

 

 続いて。

 

 谷。

 

 出。

 

 久。

 

 名前が、完成していく。

 

 緑谷出久。

 

 だが。

 

 最後の「久」が表示された瞬間、文字列が乱れた。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 同じ名前が、画面を埋め尽くす。

 

 その下に、別の文字が浮かんだ。

 

 ――同名個体を検出。

 

 ――識別不能。

 

 ――対象の呼名を中止してください。

 

 ――対象の呼名を中止してください。

 

 ――対象の呼名を中止してください。

 

 警告が、画面全体に広がった。

 

 塚内が端末を操作する。

 

「まずい、止まらない……!」

 

「電源を切れ!」

 

 相澤の指示に従い、塚内は端末を強制終了させた。

 

 画面が暗くなる。

 

 警告音が止まる。

 

 全員が、ようやく息をついた。

 

 しかし。

 

 暗くなった画面に、文字が浮かんでいた。

 

 電源が切れているはずの画面に。

 

 白い文字が、一行だけ。

 

 ――ありがとう。

 

 その文字の下に、もう一行。

 

 ――ようやく、僕を呼んでくれたね。

 

 出久は、胸を押さえた。

 

 どくん。

 

 自分の鼓動。

 

 どくん。

 

 もう一つの鼓動。

 

 そして。

 

 自分の胸の奥から、囁きが聞こえた。

 

『……違うよ』

 

 少年の声だった。

 

『今、名前を呼んだのは、僕じゃない』

 

 出久の顔から血の気が引いた。

 

『あの子だ』

 

 胸の奥で、何かが笑った。

 

『四人目が、君たちに名前を呼ばせたんだよ』

 

4 爆豪勝己は、名前を疑う

「全員、ここから動くな」

 

 相澤の声が、廊下に響いた。

 

 その声に、いつもの眠たげな気配はなかった。

 

 完全に教師としての顔。

 

 いや。

 

 今の相澤は、教師であると同時に、目の前の異常事態を前にした一人のプロヒーローだった。

 

「塚内、端末の通信を物理的に遮断しろ。飯田、廊下の出入口を確認。八百万、可能なら外部電源を使わない記録装置を用意してくれ。轟、爆豪、周囲の異常を監視。切島は緑谷のそばを離れるな」

 

「了解!」

 

 飯田が即座に動いた。

 

「相澤先生、外部との連絡はどうしますか?」

 

「こちらからはしない。今は、こちらの情報をどこまで把握されているかすら不明だ」

 

 相澤は、出久を見た。

 

「緑谷。質問するぞ」

 

「……はい」

 

「今の声は、お前にしか聞こえなかったのか?」

 

「……わかりません」

 

「わからない、ではなく、聞こえたかどうかを答えろ」

 

「聞こえました。でも……」

 

 出久は、周囲を見回した。

 

「声が聞こえた瞬間、みんなの顔が少し変わった気がしたんです」

 

「顔?」

 

「はい。何かを聞いたような……でも、誰も反応しなかったから、僕の気のせいかもしれません」

 

 相澤は、数秒考えた。

 

「全員、今の声について、自分の感覚を報告しろ」

 

 最初に口を開いたのは、切島だった。

 

「俺は、何も聞こえなかった。でも……」

 

 彼は、腕を組んだ。

 

「急に、すげえ懐かしい感じがしたんだ」

 

「懐かしい?」

 

「うん。ガキの頃、誰かと約束したことを思い出しそうになったっていうか……でも、誰と何を約束したのか、全然わかんねえ」

 

 飯田が眼鏡を押し上げた。

 

「私も、音声は認識していない。しかし、端末が停止した瞬間、一瞬だけ、自分の名前を呼ばれたような感覚があった」

 

「僕もだ」

 

 轟が言った。

 

「ただし、声ではない。頭の中で、自分の名前を見たような感じだ」

 

 八百万が、青ざめた顔で続けた。

 

「私も……同じです。誰かに呼ばれたのではなく、自分の名前が、どこか遠くから近づいてくるような……」

 

 お茶子は、出久の手を握ったまま、ゆっくりと首を振った。

 

「うちは、声は聞こえへんかった。でも、緑谷くんが急に遠くなった気がしたんよ」

 

 そして、爆豪。

 

「……俺は」

 

 彼は、黙っていた。

 

 全員が、爆豪を見る。

 

「勝己くん?」

 

 出久が呼びかけた。

 

 爆豪は、苛立ったように舌打ちした。

 

「俺は、声を聞いた」

 

 出久の目が見開かれた。

 

「……何て?」

 

「名前だ」

 

「誰の?」

 

「俺の名前だよ」

 

 爆豪は、自分の胸元を睨んだ。

 

「勝己、ってな」

 

 廊下が静まり返った。

 

「……でも」

 

 爆豪の声が低くなる。

 

「俺を呼んだ声は、俺の声だった」

 

 その一言に、出久の背筋が凍った。

 

 自分の声で、自分の名前を呼ばれる。

 

 自分の中にいる、自分ではない自分。

 

 そして、名前を持たない何か。

 

「……勝己くん」

 

 出久は、言葉を探した。

 

 爆豪は、出久の方を向いた。

 

「お前の中にいる奴が、俺の名前を呼んだのか?」

 

「……わからない」

 

「本当に?」

 

「うん……ごめん」

 

「謝んな」

 

 爆豪は即座に言った。

 

「謝る前に考えろ」

 

 その言葉は、いつものように乱暴だった。

 

 けれど、今の爆豪は、出久を責めているわけではなかった。

 

「そいつが何をしたいのか。何を狙ってるのか。どうすりゃ止められるのか。まずはそこだろうが」

 

 爆豪は、画面が暗くなった端末を睨んだ。

 

「名前を呼ばせることで何かが起きるなら、名前を呼ばせるのが目的だ」

 

「でも、名前を呼ばなければいいとは限らない」

 

 轟が指摘した。

 

「十三年前に死んだ少年は、名前を呼ばれたことで観測領域に復帰した。つまり、名前を呼ぶ行為は、存在を取り戻す手段でもある」

 

「だからこそ、厄介なんだよ」

 

 爆豪は歯を剥いた。

 

「助けるために必要なことと、敵がやらせたいことが、同じかもしれねえ」

 

 出久は、目を伏せた。

 

 その通りだった。

 

 母親が名前を呼んだことで、最初に死んだ少年は帰ってきた。

 

 けれど、それと同時に、別の存在が目覚めた。

 

 救済と災厄。

 

 その二つが、同じ行為の中にあった。

 

 だからこそ、簡単には選べない。

 

 だからこそ、選択肢を疑わなければならない。

 

「……でも」

 

 出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「名前を呼ばないままにしたら、あの子はずっと一人なんじゃないかな」

 

 誰も答えなかった。

 

「僕たちが怖がって、名前を呼ばなかったら……あの子は、また忘れられる」

 

 出久の声は、震えていた。

 

「それは、嫌なんだ」

 

 お茶子が、そっと手を握り直した。

 

「緑谷くん……」

 

「もちろん、何も考えずに呼ぶわけにはいかない。呼んだら何が起きるのか、ちゃんと調べなきゃいけない。でも……」

 

 出久は、暗い画面を見つめた。

 

「誰かが、自分の名前を呼んでほしいって願うこと自体は、間違いじゃないと思う」

 

 その言葉に、相澤はすぐには返事をしなかった。

 

 やがて、静かに言った。

 

「……それは、間違いじゃない」

 

 出久が顔を上げる。

 

「だが、願いが正しいことと、その願いを利用する存在が正しいことは別だ」

 

 相澤の声は、厳しかった。

 

「緑谷。お前が救いたいと思う相手が、必ずしもお前を救おうとしているとは限らない」

 

「……はい」

 

「そして、お前を救おうとしている相手が、必ずしもお前の望む方法で救おうとしているとも限らない」

 

 出久は、黙って聞いていた。

 

「お前の中にいる存在が、お前を守ろうとしているのか。お前を利用しようとしているのか。それすら、まだわからない」

 

 相澤は、一歩近づいた。

 

「だから、決めつけるな。敵だとも、味方だとも」

 

「……はい」

 

「お前は、ヒーローになるために、他人の話を聞こうとしてきた。それは間違っていない」

 

 相澤の目が、出久を射抜く。

 

「だが、他人の話を聞くことと、他人の望みを無条件に受け入れることは違う」

 

 出久は、深く息を吸った。

 

 その言葉を、胸に刻み込む。

 

 自分の中にいる少年の声。

 

 名前を呼んでほしいと願った影。

 

 そして、十三年前に死んだ少年。

 

 誰もが、何かを望んでいる。

 

 誰もが、何かを失っている。

 

 けれど。

 

 そのすべてを、自分一人で背負う必要はない。

 

 それだけは、忘れてはいけない。

 

 出久は、お茶子の手を握り返した。

 

「……ありがとう、先生」

 

 相澤は、いつものように目を細めた。

 

「礼は、問題が解決してからにしろ」

 

 そして。

 

 爆豪が、ふいに口を開いた。

 

「……デク」

 

「うん?」

 

「お前、さっきの記録を見て、気づかなかったのか」

 

「え?」

 

「記録者、観測者、破壊者。全部、お前の名前だった」

 

 出久は頷いた。

 

「うん……」

 

「だが、今回の記録には、もう一つ変なところがある」

 

 爆豪は、暗い端末を指さした。

 

「記録番号だ」

 

 塚内が、すぐに画面を確認した。

 

「記録番号……零―四?」

 

「そうだ」

 

 爆豪は、低い声で言った。

 

「零―四だ。第零回観測記録の続きってことだろ」

 

「……そう考えるのが自然だな」

 

 相澤が頷いた。

 

「しかし、今回の記録は、これまでのものと違う。生成時刻が明確で、記録者も明記されている」

 

 塚内は、端末の電源を入れずに、内部の保存データを確認しようとした。

 

「さらに、記録の生成時刻は02:15。つまり、緑谷くんが倒れた直後だ」

 

「……うん」

 

 出久は、嫌な予感を覚えた。

 

「それが、どうしたの?」

 

 爆豪は、まっすぐに出久を見た。

 

「記録者がお前だってんなら、誰が書いた?」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「お前は倒れてた。意識もなかった。なのに、記録が生成された」

 

 爆豪は、拳を握った。

 

「つまり、その記録を書いたのは――」

 

 その瞬間。

 

 塚内の端末が、勝手に起動した。

 

 画面が明るくなる。

 

 新しい記録が、表示されていた。

 

 記録番号:零―五。

 

 生成時刻:02:15。

 

 記録者:爆豪勝己。

 

 爆豪の表情が、凍りついた。

 

 画面に、文字が浮かび上がる。

 

 ――記録者は、記録を否定した。

 

 ――記録者は、対象を認識した。

 

 ――記録者は、対象の存在を許容した。

 

 そして、最後の一文。

 

 ――よって、記録者は対象の一部となった。

 

「……は?」

 

 爆豪が、低く呟いた。

 

 次の瞬間。

 

 爆豪の右手が、勝手に動いた。

 

 彼自身の意思とは無関係に。

 

 指先が、端末へ向かって伸びていく。

 

「勝己くん!」

 

 出久が叫んだ。

 

 爆豪は、反対の手で自分の右腕を掴んだ。

 

「っ、クソ……!」

 

 右腕が震える。

 

 まるで、見えない誰かが、内側から動かしているようだった。

 

「動くな……!」

 

 爆豪は、自分自身に命じた。

 

「俺の身体だ……!」

 

 右手の指が、端末に触れた。

 

 その瞬間。

 

 画面に、文字が一つだけ表示された。

 

 ――勝己。

 

 爆豪の顔が、歪んだ。

 

 その声が聞こえたのか。

 

 それとも、その名前が見えただけなのか。

 

 彼にしかわからなかった。

 

 だが。

 

 爆豪の唇が、わずかに動いた。

 

「……誰だ」

 

 端末の画面に、返事が表示された。

 

 ――君だよ。

 

 爆豪は、歯を食いしばった。

 

「……俺は、俺だ」

 

 ――知っているよ。

 

 ――だから、君に頼んでいるんだ。

 

 爆豪の目が、見開かれた。

 

 画面の文字が、ゆっくりと変わる。

 

 ――出久を、助けて。

 

 その瞬間。

 

 爆豪の右腕から、力が抜けた。

 

 彼は膝をつき、荒い息を吐いた。

 

「勝己くん!」

 

 出久が駆け寄ろうとした。

 

「来るな!」

 

 爆豪の声が、廊下に響いた。

 

 出久の足が止まる。

 

 爆豪は、自分の右手を睨んでいた。

 

 指先が、微かに震えている。

 

 その震えは、恐怖によるものではなかった。

 

 怒りだった。

 

 自分の身体を勝手に使われたことへの怒り。

 

 自分の名前を勝手に呼ばれたことへの怒り。

 

 そして。

 

 その声が、自分に助けを求めてきたことへの、どうしようもない怒りだった。

 

「……ふざけんな」

 

 爆豪は、立ち上がった。

 

「誰だか知らねえが、勝手に俺の名前を使ってんじゃねえ」

 

 彼は、端末を睨みつけた。

 

「出久を助けてほしいだと?」

 

 口元が、歪む。

 

「上等だ」

 

 爆豪は、出久を見た。

 

「助けてやるよ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「ただし」

 

 爆豪の目が、鋭く光る。

 

「俺が助けるのは、俺が助けるって決めたデクだ」

 

 彼は、端末を指さした。

 

「お前が誰だろうと、何を知ってようと、俺に命令する権利はねえ」

 

 そして。

 

「俺の名前を使って、俺の行動を決めるな」

 

 端末の画面が、暗くなった。

 

 今度こそ、完全に。

 

 その直後。

 

 爆豪の胸元で、何かが鳴った。

 

 どくん。

 

 出久の心臓が、反応した。

 

 どくん。

 

 もう一つの鼓動が、反応した。

 

 そして。

 

 どくん。

 

 爆豪の胸の奥からも、何かが応えた。

 

 出久は、理解した。

 

 四人目は、緑谷出久の中だけにいるわけではない。

 

 誰かの名前を利用している。

 

 誰かの記憶に入り込んでいる。

 

 そして、誰かの心の中で、目を覚まそうとしている。

 

 その存在は、出久だけを狙っているのではない。

 

 爆豪も。

 

 轟も。

 

 飯田も。

 

 切島も。

 

 八百万も。

 

 お茶子も。

 

 もしかしたら、相澤や塚内でさえも。

 

 すでに、その影響下にあるのかもしれなかった。

 

 出久は、胸を押さえた。

 

 そして、初めて理解した。

 

 この戦いは、自分の中にいるもう一人を見つけるだけでは終わらない。

 

 もう一人の自分を救うことだけでも、終わらない。

 

 世界そのものが、誰かの名前を使って、何かを隠している。

 

 そして、その隠されたものは。

 

 自分たちが、互いを大切に思う気持ちさえ、利用しようとしている。

 

5 母親の夢に、五人目がいた

 午前二時十五分。

 

 世界が十三年ぶりに動き始めてから、まだ一分も経っていない。

 

 それなのに、出久たちは、すでにいくつもの異常に遭遇していた。

 

 死んだはずの少年が戻った。

 

 消された名前が復活しかけた。

 

 出久の中に、もう一人の出久がいる。

 

 そして、四人目と呼ばれる存在は、そのもう一人の中にも潜んでいる。

 

 さらに、爆豪の名前を使って、何かが語りかけてきた。

 

 ここまでの出来事を整理すればするほど、ひとつの結論に近づいていく。

 

 この世界は、最初から正常ではなかった。

 

 いや。

 

 もしかしたら。

 

 正常だった時期など、一度もなかったのかもしれない。

 

「……塚内さん」

 

 出久は、ふと顔を上げた。

 

「さっきの記録、もう一度確認できますか?」

 

「電源を切った端末に表示されたものか?」

 

「はい。それと、零―四の記録です」

 

「内部データの抽出は試している。だが、通常の記録領域とは異なる場所に保存されているようだ」

 

「通常の記録領域じゃない?」

 

「ああ。端末の中にデータがあるわけではない。端末を通して、どこか別の場所にある記録を表示しているように見える」

 

 塚内は、慎重に言葉を選んだ。

 

「つまり、この端末が情報を受信しているのではなく、記録そのものが、こちら側に現れている可能性がある」

 

 轟が眉を寄せた。

 

「記録が現実に干渉している、ということか」

 

「あるいは、現実と記録の境界が、すでに失われているのかもしれない」

 

 相澤が目を閉じた。

 

「……最悪だな」

 

 そのとき。

 

 飯田の携帯電話が鳴った。

 

 全員が、反射的にそちらを向いた。

 

「失礼します」

 

 飯田は着信元を確認し、表情を変えた。

 

「……相澤先生」

 

「誰だ」

 

「先ほどから連絡が取れなかった、警察の協力者です」

 

 塚内が顔を上げる。

 

「誰からだ?」

 

「女性です。以前、緑谷くんが会ったという……」

 

 飯田は、一瞬だけ出久を見た。

 

「写真を持っていた方です」

 

 出久の胸が、強く鳴った。

 

 あの女性。

 

 十三年前に死んだ少年の写真を持っていた女性。

 

 自分に向かって言った人。

 

 ――あなたは、私の息子を二度殺したんです。

 

 そして、息子の名前を呼んだ人。

 

「出てくれ」

 

 相澤の指示で、飯田は通話をつないだ。

 

『もしもし……?』

 

 女性の声は、ひどく弱々しかった。

 

 泣いているのか。

 

 それとも、何かに怯えているのか。

 

 判別できないほど、震えていた。

 

「こちら飯田です。どうされましたか?」

 

『あの子が……』

 

「はい?」

 

『あの子が、目を覚ましたんです』

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 第三の少年。

 

 名前を失った少年。

 

 出久のことを「出久」と呼び、何かを伝えようとしていた少年。

 

 彼は、目を覚ましたのか。

 

『でも……違うんです』

 

 女性の声が、急に低くなった。

 

『あの子は、あの子じゃない』

 

 飯田が顔を強張らせた。

 

「落ち着いてください。何があったのか、順番に――」

 

『お願いです』

 

 女性は、飯田の言葉を遮った。

 

『緑谷くんに、代わってください』

 

 出久は、飯田から携帯電話を受け取った。

 

「……もしもし」

 

 女性は、しばらく何も言わなかった。

 

 ただ、呼吸の音だけが聞こえた。

 

 やがて。

 

『……出久くん』

 

「はい」

 

『あなた、今、何かを思い出しましたか?』

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「……少しだけ」

 

『そうですか』

 

 女性の声が、かすかに震えた。

 

『なら、聞いてください』

 

「はい」

 

『夢を見たんです』

 

 出久は、眉を寄せた。

 

「夢……?」

 

『あの子が戻ってきた夜から、何度も同じ夢を見るようになりました』

 

 女性は、ゆっくりと話し始めた。

 

『最初は、三人でした』

 

 出久は、黙って聞いていた。

 

『私の前に、三人の子供が立っているんです。一人は私の息子。一人は、息子と同じ顔をした子。そして、もう一人は……名前のない子』

 

 あの夢だ。

 

 先ほど聞いた、四人の子供の夢。

 

 けれど、女性は続けた。

 

『それから、夢の中で、一人増えました』

 

 出久の指先が冷たくなった。

 

『最初は、四人でした』

 

 女性の声が震えた。

 

『でも、昨日の夜から……五人になったんです』

 

 廊下の空気が、変わった。

 

 誰も動かなかった。

 

 出久は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……五人?」

 

『はい』

 

「四人目は……」

 

『わかりません』

 

 女性は、苦しそうに答えた。

 

『私は、四人目の顔を見たことがありません。いつも、誰かの後ろに立っているんです。振り返ろうとすると、夢が終わってしまう』

 

 そこで、女性は息を呑んだ。

 

『でも、五人目は違いました』

 

「……どんな子だったんですか?」

 

『あの子は……』

 

 女性の声が、途切れた。

 

 長い沈黙。

 

 そして、ようやく。

 

『私の顔をしていたんです』

 

 出久は、言葉を失った。

 

『五人目の子供は、私と同じ顔をしていました。髪も、目も、声も……全部、私と同じだったんです』

 

 女性は、泣いていた。

 

『そして、私に言ったんです』

 

「何と……?」

 

『――お母さん。どうして、僕だけ産んでくれなかったの?』

 

 出久の背筋が、凍りついた。

 

 女性は、嗚咽をこらえながら続けた。

 

『私は、何も答えられませんでした。だって、私は……あの子を産んだ覚えなんてないんです』

 

 そのとき。

 

 女性の背後で、何かが落ちる音がした。

 

 がしゃん、と。

 

 陶器が床に落ちて割れるような音。

 

『……あ』

 

 女性が、小さく声を上げた。

 

「どうしました?」

 

『いえ……何でも……』

 

 しかし、その声は明らかに変わっていた。

 

 先ほどまでの震えとは違う。

 

 何かを見つけた人の声。

 

 そして。

 

 それを、見てはいけなかったと気づいた人の声。

 

『……出久くん』

 

「はい」

 

『今、あなたの後ろに……誰かいますか?』

 

 出久の呼吸が止まった。

 

 全員が、一斉に出久の背後を見た。

 

 誰もいない。

 

 廊下の奥には、閉じた扉。

 

 壁。

 

 非常灯。

 

 そして、床に伸びる、彼ら自身の影。

 

「……誰もいません」

 

 出久は答えた。

 

 女性は、すぐには返事をしなかった。

 

 やがて、ひどく小さな声で言った。

 

『そうですか』

 

 そして。

 

『よかった』

 

 その一言が、あまりにも不自然だった。

 

 出久は、携帯電話を握り直した。

 

「……どういう意味ですか?」

 

『あなたの後ろに、誰もいないなら……』

 

 女性は、泣きながら笑った。

 

『まだ、間に合うかもしれません』

 

「間に合う?」

 

『出久くん』

 

 女性の声が、急に明瞭になった。

 

『お願いがあります』

 

「……何ですか?」

 

『もし、あなたの中にいる子が目を覚ましたら』

 

 出久の胸が、強く鳴った。

 

『絶対に、その子の名前を呼ばないでください』

 

 その瞬間。

 

 出久の胸の奥から、声がした。

 

『……どうして?』

 

 少年の声。

 

 自分に似た声。

 

 しかし、今度ははっきりと聞こえた。

 

『僕は、ずっと待っていたのに』

 

 出久は息を呑んだ。

 

 女性が、電話の向こうで叫んだ。

 

『聞こえているんですか!? 出久くん! その子が何を言っても、絶対に――』

 

 通話が途切れた。

 

 携帯電話の画面に、文字が浮かび上がる。

 

 通話終了。

 

 そして。

 

 その下に、見覚えのない着信履歴が追加された。

 

 発信者。

 

 緑谷出久。

 

 出久は、自分の携帯電話を持っていなかった。

 

 にもかかわらず。

 

 その履歴には、出久自身の電話番号が表示されていた。

 

 着信時刻は、02:13。

 

 十三年前の時刻だった。

 

6 名前を呼んではいけない

「……塚内さん」

 

 出久は、携帯電話を差し出した。

 

「これ、確認してもらえますか」

 

 塚内は受け取り、画面を確認した。

 

 そして、顔を強張らせた。

 

「……この番号は」

 

「僕の番号ですか?」

 

「いや」

 

 塚内は首を振った。

 

「君の番号ではない」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「じゃあ、誰の……?」

 

「君の番号と、ほぼ同じだ。ただし、末尾の一桁が違う」

 

「一桁……?」

 

 塚内は、画面を見つめた。

 

「この番号は、十三年前に存在していた番号だ」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

「当時、この番号を使っていた人物の記録は残っていない。契約者情報も、通信履歴も、すべて欠落している」

 

 塚内は、顔を上げた。

 

「ただし、一つだけ記録がある」

 

「……何ですか?」

 

「十三年前の02:13。この番号から、君の母親の携帯電話へ、一度だけ発信されている」

 

 出久の心臓が、止まりそうになった。

 

「……母さんに?」

 

「ああ」

 

 塚内は、ゆっくりと頷いた。

 

「そして、その通話記録には、発信者の名前が記載されていた」

 

 出久は、唇を震わせた。

 

「……誰の名前ですか?」

 

 塚内は、答えなかった。

 

 代わりに、端末を出久へ向けた。

 

 そこに表示されていたのは。

 

 緑谷出久。

 

 ただし、いつもの名前とは違っていた。

 

 名前の末尾に、奇妙な記号がついている。

 

 緑谷出久〈五〉。

 

「……五?」

 

 出久は呟いた。

 

 塚内が頷く。

 

「記録上、この番号の契約者は緑谷出久。ただし、識別番号は五だ」

 

「……五人目」

 

 お茶子が、かすれた声で言った。

 

 出久は、彼女を見た。

 

 彼女の顔は、真っ青だった。

 

「夢の中の、五人目……」

 

 誰も否定できなかった。

 

 女性が見た夢。

 

 四人だった子供たち。

 

 そこへ加わった、五人目。

 

 母親と同じ顔をした子供。

 

 そして、十三年前の02:13に、母親へ電話をかけた、五人目の緑谷出久。

 

 偶然だと考えるには、あまりにも一致しすぎていた。

 

「……でも、待ってください」

 

 出久は、頭を抱えた。

 

「僕たちは、四人目を探していたんですよね?」

 

 相澤が頷く。

 

「そうだ」

 

「なのに、五人目がいる……?」

 

「現時点では、そう考えざるを得ない」

 

「じゃあ、四人目は……」

 

 出久は、言葉を失った。

 

 四人目は、最初から自分の中にいた。

 

 そう告げられた。

 

 だが、今の情報が正しいなら、四人目と五人目は別の存在なのか。

 

 それとも。

 

 四人目という呼び方自体が、何かを誤認させるためのものだったのか。

 

 相澤は、静かに言った。

 

「緑谷。今までの記録を思い出せ」

 

「……はい」

 

「第零回観測記録では、三人とも生きていると書かれていた」

 

「はい」

 

「その後の記録では、記録者、観測者、破壊者が、すべて緑谷出久になっていた」

 

「……はい」

 

「つまり、記録の中では、個体の数と名前が一致していない」

 

 相澤は、一つずつ言葉を区切った。

 

「我々が四人目と呼んでいる存在が、本当に四番目に生まれたものなのか。五人目と呼ばれる存在が、本当に五番目なのか。それすら、まだ確定していない」

 

 出久は、ゆっくりと頷いた。

 

「……番号は、存在の順番じゃない」

 

「その可能性が高い」

 

 轟が続けた。

 

「観測された順番かもしれない。記録された順番かもしれない。あるいは、何かを分類するために、後から付けられた番号なのかもしれない」

 

「なら、どうすりゃいい」

 

 爆豪が苛立ったように言った。

 

「全員の名前を疑えってか? 自分が誰かも、誰が何人いるかもわからねえまま、適当に動けって?」

 

「そうではない」

 

 飯田が答えた。

 

「むしろ、確かなことを一つずつ確認する必要がある」

 

「確かなこと、ねえ……」

 

 爆豪は鼻を鳴らした。

 

「だったら、一つ聞く」

 

 彼は、出久を見た。

 

「お前は、自分が緑谷出久だって、どうやって証明する?」

 

 出久は、言葉を失った。

 

 名前。

 

 記憶。

 

 家族。

 

 友人。

 

 自分が歩んできた人生。

 

 それらが、自分を自分だと証明してくれるものだと、今までは信じていた。

 

 しかし。

 

 名前が同じ者が複数いる。

 

 記憶が共有される。

 

 家族の記憶さえ、書き換えられる。

 

 そして、自分自身の人生が、別の可能性から作られたものだとしたら。

 

 何をもって、自分を証明すればいいのか。

 

 出久は、長い沈黙の後に答えた。

 

「……わからない」

 

 爆豪は、黙っていた。

 

「でも」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「僕が何をしてきたのか。誰を大切に思っているのか。これから、何を選びたいのか。それを考えることはできる」

 

 彼は、お茶子を見た。

 

 相澤を見た。

 

 爆豪を見た。

 

 轟たちを見た。

 

「もし、僕の記憶が全部偽物だったとしても」

 

 出久は言った。

 

「今、みんなを大切だと思う気持ちまで、偽物だとは思いたくない」

 

 お茶子の目に、涙が浮かんだ。

 

「……うん」

 

 彼女は頷いた。

 

「うちも、そう思う」

 

 爆豪は、舌打ちした。

 

「……相変わらず、甘ぇな」

 

 しかし、その声には、いつもの棘だけではない何かがあった。

 

「だが、まあ……」

 

 爆豪は出久の肩を軽く殴った。

 

「お前が何者だろうと、俺がお前をぶっ飛ばす理由は変わんねえ」

 

「えっ、そこ!?」

 

「うるせえ。勝手に消えようとしたらぶっ飛ばす。勝手に一人で背負おうとしてもぶっ飛ばす。自分を犠牲にすりゃ全部解決すると思ってんなら、なおさらだ」

 

 爆豪は、出久を睨んだ。

 

「それだけ覚えとけ」

 

 出久は、少しだけ笑った。

 

「……うん」

 

 けれど。

 

 その笑顔は、長く続かなかった。

 

 胸の奥で、もう一つの鼓動が鳴ったからだ。

 

 どくん。

 

 そして、聞こえた。

 

『……いいなあ』

 

 少年の声。

 

『君には、そんなふうに怒ってくれる人がいるんだね』

 

 出久は、目を伏せた。

 

『僕には、誰もいなかった』

 

 その声は、あまりにも寂しかった。

 

『僕が何者なのか、誰も知らなかった』

 

『僕が何をしたのか、誰も覚えていなかった』

 

『僕が、どれだけ君を守りたかったのか……誰も、知らなかった』

 

 出久の胸が痛んだ。

 

『だから、お願い』

 

 少年は、囁いた。

 

『一度だけでいいから』

 

『僕の名前を呼んで』

 

 出久は、目を閉じた。

 

 呼びたい。

 

 名前を知りたい。

 

 誰なのかを知りたい。

 

 救えるのなら、救いたい。

 

 けれど。

 

 女性は言った。

 

 ――絶対に、その子の名前を呼ばないでください。

 

 そして、相澤は言った。

 

 ――他人の話を聞くことと、他人の望みを無条件に受け入れることは違う。

 

 出久は、ゆっくりと息を吸った。

 

「……ごめん」

 

 胸の奥へ向かって、言った。

 

「今は、まだ呼べない」

 

 沈黙。

 

 その後。

 

 少年は、静かに笑った。

 

『……そっか』

 

 その声に、怒りはなかった。

 

 恨みもなかった。

 

 ただ、ひどく疲れたような響きだけがあった。

 

『やっぱり、君はそうなんだね』

 

 出久は、眉を寄せた。

 

「……どういう意味?」

 

『ううん』

 

 少年は答えなかった。

 

『それでいいんだよ』

 

 そして。

 

『今度は、君が僕を忘れてもいい』

 

 どくん。

 

 胸の奥で、鼓動が鳴った。

 

『ただ、お願い』

 

 少年の声が、少しずつ遠ざかっていく。

 

『あの子にだけは、忘れたって言わないで』

 

「……あの子?」

 

 出久は、問い返した。

 

「誰のこと?」

 

 返事はなかった。

 

 代わりに。

 

 出久の脳裏に、一枚の写真が浮かんだ。

 

 十三年前に死んだ少年の写真。

 

 その隣に、もう一人の少年が立っている。

 

 さらに、その後ろに、名前のない子供がいる。

 

 そして。

 

 写真のいちばん端。

 

 そこに、誰もいないはずの空間があった。

 

 だが、今は違う。

 

 そこには、小さな子供が立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 出久と同じ顔。

 

 その子供は、カメラに向かって笑っていた。

 

 その笑顔を見た瞬間。

 

 出久は、理解した。

 

 あの子は、写真を撮ったときから、そこにいたのだ。

 

 ただ。

 

 誰も、その子を認識できなかっただけなのだ。

 

7 午前二時十六分

 その後の調査は、すぐに打ち切られた。

 

 原因は、単純だった。

 

 情報が足りなかったからではない。

 

 情報が増えるたびに、現実の方が変化していたからだ。

 

 塚内が記録を確認すれば、記録の内容が変わる。

 

 端末に保存した画像を開けば、写っている人数が変わる。

 

 写真を印刷すれば、印刷された写真には、最初から存在しなかった子供が写り込む。

 

 そして、奇妙なことに。

 

 その子供を見た人間は、必ず同じ反応を示した。

 

 最初は、違和感。

 

 次に、懐かしさ。

 

 最後に。

 

 自分が、その子供を知っていたような気がするという、根拠のない確信。

 

 八百万が作り出した、外部ネットワークに接続しない記録装置でさえ、例外ではなかった。

 

 記録装置に残った写真を確認した瞬間、切島は顔を強張らせた。

 

「……なあ」

 

 彼は、写真を見つめたまま言った。

 

「俺、この子に会ったことがある気がする」

 

 飯田が眉を寄せた。

 

「誰にだ?」

 

「この、端っこにいる子」

 

 写真には、五人の子供が写っていた。

 

 最初の少年。

 

 もう一人の緑谷出久。

 

 名前を失った少年。

 

 そして、二人の間に立つ、顔の見えない子供。

 

 五人目は、カメラに向かって笑っていた。

 

 切島は、その五人目を指さした。

 

「こいつ……」

 

 声が、震えた。

 

「俺が、小さい頃に助けられたことがある気がする」

 

「切島くん?」

 

 お茶子が、不安そうに呼びかけた。

 

「でも、そんなはずねえんだ」

 

 切島は首を振った。

 

「俺が小さい頃、住んでたところは……」

 

 そこで、言葉が止まった。

 

 彼は、目を見開いた。

 

「……あれ?」

 

「どうした?」

 

 相澤が尋ねる。

 

 切島は、自分の額を押さえた。

 

「俺……小さい頃、どこに住んでたんだ?」

 

 沈黙。

 

 誰も、すぐには答えられなかった。

 

「いや、わかるんだ。わかるはずなんだよ」

 

 切島は、必死に記憶を探ろうとした。

 

「家があって、学校があって、近所に公園があって……」

 

 彼の呼吸が速くなる。

 

「でも、その家の場所が……」

 

 顔から血の気が引いていく。

 

「思い出せねえ」

 

 出久は、写真を見た。

 

 五人目の少年。

 

 その顔は、穏やかだった。

 

 まるで、切島が思い出せないことを、最初から知っていたかのように。

 

「……切島くん」

 

 出久は、慎重に声をかけた。

 

「無理に思い出そうとしなくていいよ」

 

「でも……」

 

「大丈夫。今は、わからなくてもいい」

 

 切島は、唇を噛んだ。

 

 そして、しばらくしてから、小さく頷いた。

 

「……悪い」

 

「謝らなくていいよ」

 

 出久は、写真から目を離さなかった。

 

 五人目の少年。

 

 母親の夢に現れた、母親と同じ顔の子供。

 

 十三年前に母親へ電話をかけた、五人目の緑谷出久。

 

 そして、切島が幼い頃に出会ったかもしれない、名前のない子供。

 

 もし、それらがすべて同じ存在なのだとしたら。

 

 五人目は、緑谷家だけの問題ではない。

 

 緑谷出久の過去だけの問題でもない。

 

 世界のどこかで、ずっと人々の記憶に入り込んできた存在なのかもしれない。

 

 名前を持たず。

 

 記録に残らず。

 

 誰かの記憶に紛れ込みながら。

 

 そして。

 

 誰かに、自分の名前を呼ばれる日を待っている。

 

 出久は、写真を見つめた。

 

 五人目の少年の口元が、少しだけ動いたように見えた。

 

 気のせいだろうか。

 

 いや。

 

 写真の中の少年は、確かに笑っていた。

 

 そして、その唇の形は。

 

 ――ありがとう。

 

 そう言っているように見えた。

 

「……相澤先生」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「僕、もう一度、あの女性と話したいです」

 

「理由は?」

 

「彼女が見た夢には、僕たちが知らない情報がある」

 

 出久は、写真を指さした。

 

「それに、五人目の存在を知っているのは、今のところ彼女だけです」

 

「……そうだな」

 

 相澤は、慎重に頷いた。

 

「ただし、次は一人で行かせない」

 

「はい」

 

「そして、緑谷」

 

「はい」

 

「お前の中にいる存在と、これ以上、無防備に接触するな」

 

 出久は、少しだけ目を伏せた。

 

「……努力します」

 

「努力ではなく、約束しろ」

 

 出久は、顔を上げた。

 

 相澤の目は、真剣だった。

 

「お前が何を考えているのかはわかる。中にいる存在を見捨てたくないんだろう」

 

「……はい」

 

「だが、お前が倒れれば、そいつを救うこともできなくなる」

 

 相澤は、静かに言った。

 

「自分を犠牲にすることを、救済と呼ぶな」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

 それから。

 

「……約束します」

 

 そう答えた。

 

 相澤は、小さく頷いた。

 

 そのとき。

 

 廊下の時計が、音を立てた。

 

 かちり。

 

 全員が、時計を見上げた。

 

 02:15。

 

 止まっていた秒針が、動いている。

 

 かちり。

 

 かちり。

 

 そして。

 

 02:16。

 

 午前二時十六分。

 

 世界が、十三年ぶりに一分進んだ。

 

 その瞬間、塚内の端末が再び起動した。

 

 今度は、誰も触れていない。

 

 画面に、短い文章が表示される。

 

 ――時刻の更新を確認。

 

 ――観測領域の拡張を開始。

 

 ――対象個体の認識範囲を更新。

 

 そして。

 

 最後の一行。

 

 ――緑谷出久以外の対象者について、観測を開始します。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 その直後。

 

 端末に、名前が一つ表示された。

 

 切島鋭児郎。

 

 続いて。

 

 飯田天哉。

 

 八百万百。

 

 轟焦凍。

 

 爆豪勝己。

 

 麗日お茶子。

 

 相澤消太。

 

 塚内直正。

 

 一人ずつ。

 

 この場にいる全員の名前が、画面に並んでいく。

 

 そして、最後に。

 

 全員の名前の下へ、新しい文字が浮かび上がった。

 

 ――対象者は、全員、緑谷出久である。

 

 出久は、目を見開いた。

 

「……そんな」

 

 爆豪が、端末を睨みつけた。

 

「クソが……!」

 

 相澤は、すぐに全員へ指示を出した。

 

「全員、端末から離れろ! 互いの顔を確認しろ! 名前を呼ぶな、記録を読むな、表示された情報を鵜呑みにするな!」

 

 しかし。

 

 もう、遅かった。

 

 出久の胸の奥で、二つ目の鼓動が鳴った。

 

 どくん。

 

 そして。

 

 廊下のあちこちから、同じ音が響き始めた。

 

 どくん。

 

 どくん。

 

 どくん。

 

 誰の胸から鳴っているのか、わからない。

 

 誰の心臓が鳴っているのか、わからない。

 

 ただ。

 

 その場にいる全員が、同じ音を聞いていた。

 

 そして、全員が。

 

 同じ声を聞いた。

 

『――ようやく、みんなに会えたね』

 

 出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 誰も、口を開いていない。

 

 誰も、声を発していない。

 

 それなのに。

 

 全員の頭の中で、同じ声が響いていた。

 

『僕の名前を、覚えている?』

 

 出久の胸が、痛んだ。

 

 その声は、寂しそうだった。

 

 そして。

 

『……ねえ、出久』

 

 声が、出久だけに向けられた。

 

『君は、僕を何人殺したの?』

 

 出久は、息を呑んだ。

 

『一人?』

 

『二人?』

 

『三人?』

 

 声が、笑った。

 

『それとも――』

 

 その瞬間。

 

 すべての時計が、02:13へ戻った。

 

 世界が、静止した。

 

 そして、出久の耳元で。

 

 誰かが、囁いた。

 

『五人目は、君が殺したんだよ』

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