――五人目は、君が殺したんだよ。
その声を聞いた瞬間、緑谷出久は、自分がどこに立っているのかわからなくなった。
廊下は消えていた。
相澤も、爆豪も、轟も、麗日も。
誰もいない。
いや。
違う。
誰もいなくなったのではない。
自分以外の誰かが存在しているという事実そのものが、世界から取り除かれていた。
目の前には、白い床が広がっている。
壁はない。
天井もない。
どこまでも続く白の中に、出久だけが立っていた。
足元に影はなかった。
それなのに、胸の奥には、二つの鼓動があった。
どくん。
自分の心臓。
どくん。
もう一つ。
そして、その二つの音の間に。
今まで聞いたことのない、三つ目の音が混じった。
どくん。
出久は胸を押さえた。
「……三つ?」
自分の鼓動。
自分の中にいる、もう一人の鼓動。
そして、今、初めて聞こえた鼓動。
まるで、誰かが遠くから、自分の存在を知らせようとしているようだった。
「……誰だ」
出久は、白い空間に向かって尋ねた。
「誰が、そこにいるんだ」
返事はない。
ただ、遠くから。
小さな足音が聞こえてきた。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
裸足で、床を歩く音。
その音は、少しずつ近づいてくる。
やがて、白い空間の向こうから、一人の少年が現れた。
緑色の髪。
丸い目。
そばかす。
出久と同じ顔。
しかし、その少年は、今まで出久が見てきたどの自分とも違っていた。
年齢は、八歳か九歳ほど。
服は、少し大きな白いシャツ。
ズボンは膝のところが破れていて、裸足の足には、乾いた泥がこびりついていた。
そして。
少年の右手には、赤い風船が握られていた。
風船には、名前が書かれていた。
緑谷出久。
少年は出久の前で立ち止まった。
じっと、出久を見つめる。
そして、にっこりと笑った。
「やっと会えたね」
出久は、息を呑んだ。
「……君が」
「うん」
少年は頷いた。
「僕が、五人目の緑谷出久だよ」
その言葉を聞いた瞬間。
出久の頭の中で、何かが弾けた。
雨。
暗い部屋。
血のついた手。
誰かの泣き声。
そして、自分自身の声。
『ごめんね』
幼い出久の声が、頭の中で響いた。
『君は、いなかったことにする』
少年は、笑っていた。
まるで、その言葉を今も覚えているかのように。
「……僕が」
出久は、震える声で言った。
「僕が、君を殺したの?」
少年は、少し考えた。
それから、首を傾げた。
「ううん」
出久は顔を上げた。
「……違うの?」
「違うよ」
少年は、無邪気に笑った。
「君は、僕を殺していない」
ほっとしかけた出久の胸に。
少年は、次の言葉を落とした。
「君は、僕が生まれる前に、僕をいなかったことにしたんだよ。」
白い世界に、ひびが入った。
第一節 生まれなかった子供
「……どういう意味?」
出久は、少年に尋ねた。
少年は答えなかった。
代わりに、赤い風船を握った手を持ち上げた。
「これ、覚えてる?」
「……風船?」
「うん。僕の誕生日にもらったんだ」
「誰から?」
「お母さん」
出久の胸が、強く鳴った。
母さん。
その言葉を聞くたび、胸の奥で何かが反応する。
だが、今の反応は、今までとは違った。
懐かしさ。
悲しみ。
そして、言葉にできないほどの罪悪感。
「……君の誕生日?」
「そうだよ」
少年は笑った。
「お母さんがケーキを作ってくれて、お父さんが写真を撮ってくれたんだ。お兄ちゃんも来てくれた」
「……お兄ちゃん?」
「うん」
少年は、当たり前のように答えた。
「僕のお兄ちゃん」
出久は、何も言えなかった。
少年は、風船の紐を指に巻きつけた。
「お兄ちゃんはね、僕と同じ顔をしていたんだよ」
その言葉で、出久は思い出した。
最初に死んだ少年。
母親が名前を呼び、観測領域へ戻ってきた少年。
自分と同じ顔をしていた、あの子。
「……十三年前に死んだ子?」
少年は頷いた。
「そうだよ」
「君は、その子の弟なの?」
「ううん」
少年は首を振った。
「弟じゃないよ」
「……じゃあ、兄弟じゃないの?」
「兄弟だったよ」
出久は、混乱した。
「どっちなんだよ……」
少年は、少しだけ困った顔をした。
「僕は、お兄ちゃんの弟だった。でも、君の弟じゃなかった」
「……」
「だって、君は、僕のお兄ちゃんを殺したんだから」
その瞬間。
白い世界が、赤く染まった。
出久の目の前に、景色が広がった。
緑谷家のリビング。
テーブルの上に、誕生日ケーキ。
小さなロウソクが、五本立っている。
テーブルの前に座る、幼い少年。
その隣には、緑色の髪をした、もう一人の少年がいた。
そして、二人の向かい側に。
幼い出久が立っていた。
いや。
幼い出久に、よく似た少年だった。
出久は、その光景を見つめた。
誕生日ケーキ。
五本のロウソク。
赤い風船。
そして、写真を撮ろうとする父親。
母親が、笑顔で言った。
『さあ、みんな。写真を撮るわよ』
幼い少年が、嬉しそうに手を挙げた。
『お母さん! 僕、真ん中がいい!』
『はいはい。じゃあ、出久はこっちね』
母親は、少年を抱き上げた。
その隣に、もう一人の少年が座る。
そして。
幼い出久が、二人の前に立った。
『……僕は?』
その声を聞いた瞬間。
出久の全身が凍りついた。
幼い自分に似た少年が、母親を見上げていた。
『僕も、写真に入っていい?』
母親は、きょとんとした。
『……誰のこと?』
少年の笑顔が、消えた。
『……え?』
『出久は、ここにいるでしょう?』
母親は、膝の上の子供を抱きしめた。
『あなたは、誰なの?』
その瞬間。
幼い少年の顔が、歪んだ。
泣きそうになったのではない。
怒ったのでもない。
ただ。
自分が存在しているという事実を、初めて疑ったような顔だった。
『……僕は』
少年は、自分の手を見た。
『僕は、出久だよ』
母親は答えなかった。
父親も、何も言わなかった。
写真の中にいる、二人の少年だけが、そこにいた。
幼い出久に似た少年は、ゆっくりと後ずさった。
『……そっか』
その声は、あまりにも小さかった。
『僕は、いないんだ』
次の瞬間。
景色が消えた。
出久は、白い空間に戻っていた。
少年が、目の前に立っている。
「……今のは」
「僕が、いなくなった日」
少年は答えた。
「僕が生まれなかったことになった日」
出久は、震える手を伸ばしかけた。
しかし、少年は一歩下がった。
「触らないで」
出久の手が止まる。
「……どうして?」
「君が触ると、僕はまた消えちゃうから」
少年は笑った。
「僕は、そういうふうにできているんだ」
出久は、唇を噛んだ。
「……誰が、そんなことをしたんだ?」
少年は、少し考えた。
そして。
「君だよ」
答えた。
「君が、僕を消した」
出久は首を振った。
「違う……」
「ううん」
「僕は、そんなこと……」
「君は、覚えていないだけだよ」
少年は、静かに言った。
「君は、僕を消すために、世界を作り直したんだ」
その言葉が、出久の胸に突き刺さった。
世界の再構築。
記録者。
観測者。
破壊者。
何度も繰り返された世界。
誰かを救うために、何度も壊された世界。
その中心にいたのは、緑谷出久だった。
少年は続けた。
「君は、僕が生まれる前の世界に戻したんだよ」
「……」
「僕が生まれなかった世界に」
出久の呼吸が乱れた。
「……なんで」
声が、震えた。
「なんで、そんなことを……」
少年は、赤い風船を見つめた。
「僕が、お兄ちゃんを殺したから」
出久は、顔を上げた。
「……え?」
少年は、ゆっくりと説明した。
「お兄ちゃんは、僕を守ろうとして死んだんだ」
赤い風船が、微かに揺れた。
「僕が生まれたから、お兄ちゃんは死んだ」
「……」
「僕がいなければ、お兄ちゃんは死ななかった」
少年は、笑った。
「だから、僕がいなくなれば、お兄ちゃんは生きていられる」
出久は、言葉を失った。
それは、あまりにも単純で。
あまりにも残酷な理屈だった。
誰かが死んだ。
その原因が自分にあると思った。
だから、自分が消えればいいと考えた。
それは、出久自身が何度も繰り返してきた考え方だった。
自分が傷つけば、誰かが助かる。
自分が壊れれば、誰かが生きられる。
自分が消えれば、世界が救われる。
そして、その考え方の果てに。
五人目の少年は、自分自身を世界から消した。
出久は、震える声で尋ねた。
「……君は、本当に、それでよかったの?」
少年は、答えなかった。
ただ、赤い風船を見つめていた。
風船には、名前が書かれている。
緑谷出久。
五人目の緑谷出久。
生まれなかった子供。
存在しなかったことにされた子供。
そして。
自分の存在を、誰よりも否定した子供。
「……僕は」
出久は、言葉を探した。
「僕は、君を消したくなかった」
少年は、顔を上げた。
「……本当に?」
「うん」
「じゃあ、どうして?」
その問いに、出久は答えられなかった。
少年は、悲しそうに笑った。
「ねえ、出久」
「……うん」
「君は、僕を救いたいって言ってくれた」
「……うん」
「でも、君は、僕が何を望んでいるのか、知っている?」
出久は、首を振った。
「……わからない」
「そうだよね」
少年は頷いた。
「君は、僕を救いたい。でも、僕がどうして消えたのか、まだ知らない」
そして。
「僕が、何をしたのかも」
少年の目が、変わった。
幼い子供の目ではなかった。
そこにあったのは、十三年という時間の中で、何度も何度も絶望を繰り返した者の目だった。
「……僕は、お兄ちゃんを殺した」
少年は言った。
「それから、君を殺した」
出久の心臓が、強く鳴った。
「そして、最後に」
少年は、赤い風船を手放した。
風船は、ゆっくりと空へ浮かんでいく。
「僕は、世界を殺した」
白い空間に、無数の亀裂が走った。
「だから、出久」
少年は、まっすぐに出久を見つめた。
「僕を救うなんて、言わないで」
その瞬間。
少年の身体が、透け始めた。
「僕は、救われちゃいけないんだ」
第二節 十三年前、午前二時十三分
世界が、もう一度、再構築された。
今度は、白い空間ではなかった。
出久は、見覚えのある場所に立っていた。
緑谷家。
十三年前の、緑谷家。
ただし、現在の家よりも、ずっと古い。
壁紙は色褪せ、床には細かな傷がある。
リビングの時計は、02:12を指していた。
出久は、自分の身体を見下ろした。
手が小さい。
腕が細い。
視界が低い。
自分は、幼い子供の姿になっていた。
「……ここは」
『十三年前の夜だよ』
声がした。
振り返ると、少年が立っていた。
五人目の緑谷出久。
今度は、赤い風船を持っていなかった。
代わりに、小さなノートを抱えていた。
『ここで、すべてが始まった』
少年は、時計を見上げた。
『そして、ここで、すべてが終わった』
出久は、リビングを見回した。
母親の姿はない。
父親の姿もない。
ただ、奥の部屋から、誰かの話し声が聞こえていた。
少年は、出久を見た。
『……聞いて』
出久は頷いた。
その瞬間。
奥の部屋の扉が開いた。
そこから出てきたのは、二人の少年だった。
一人は、緑谷出久。
もう一人も、緑谷出久。
顔も、髪も、背格好も、同じ。
ただし、一人は泣いていた。
もう一人は、泣いていなかった。
泣いている少年が、もう一人の少年にしがみついた。
『お兄ちゃん……!』
泣いていない少年は、その頭を撫でた。
『大丈夫だよ』
『でも……でも、僕……!』
『大丈夫』
兄と呼ばれた少年は、優しく笑った。
『僕が、なんとかするから』
出久は、息を呑んだ。
これが。
十三年前に死んだ少年。
母親が名前を呼び、帰ってきた少年。
そして、五人目の少年が兄と呼んだ存在。
彼は、弟を抱きしめていた。
その姿は、あまりにも普通だった。
特別な力もない。
世界を救う能力もない。
ただ、弟を守ろうとしている兄だった。
泣いている弟が、顔を上げた。
『……お兄ちゃん』
『うん?』
『僕がいなければ、よかったのかな』
兄の表情が変わった。
『……どうして、そんなことを言うんだ?』
『だって、僕が生まれたから……』
弟は、泣きながら言った。
『お兄ちゃんは、いつも僕を守ってくれる』
『……』
『僕のせいで、いつも怪我をする』
『……』
『僕がいなければ、お兄ちゃんは、もっと幸せだったのに』
兄は、しばらく黙っていた。
そして。
弟の頬を、そっと両手で包んだ。
『出久』
その名前を聞いた瞬間。
出久の胸が、強く痛んだ。
兄は、弟の目を見つめた。
『僕はね、お前が生まれてきてくれて、嬉しかったんだ』
弟の目が、見開かれた。
『お前がいたから、僕は兄さんになれた』
兄は笑った。
『お前がいたから、僕は誰かを守りたいと思えた』
そして。
『だから、お前が生まれたことを、間違いだなんて思わない』
弟の涙が、止まった。
兄は、弟を抱きしめた。
『お前がいなくなったら、僕は悲しい』
その声は、震えていた。
『お前がいなくなったら、僕は……』
そこで、兄は言葉を止めた。
出久には、わかった。
この少年は、泣いていた。
弟に見せないように。
弟を不安にさせないように。
それでも、泣いていた。
『……だから、約束してくれ』
兄は、弟の背中を撫でた。
『自分を、いらないものだと思わないで』
その言葉が。
出久の胸を、深く貫いた。
それは、今の出久自身が、何よりも必要としている言葉だった。
自分を犠牲にすることを、救済と呼ぶな。
相澤の声が、頭の中で響いた。
自分が消えれば、誰かが救われる。
そんな考え方を、やめなければならない。
五人目の少年は、その言葉を聞いていた。
兄の腕の中で、静かに泣いていた。
やがて。
彼は、小さく頷いた。
『……うん』
兄は、笑った。
『約束だよ』
その瞬間。
時計が、02:13を指した。
かちり。
秒針が止まった。
兄の笑顔が、消えた。
弟の身体が、硬直した。
そして。
世界が、真っ黒に染まった。
出久は、叫んだ。
「やめろ!」
しかし、声は届かなかった。
黒い霧が、部屋の中へ流れ込んでくる。
床を這い、壁を覆い、家具を飲み込んでいく。
兄は、弟を抱きしめたまま、動かなかった。
『……お兄ちゃん?』
弟が、顔を上げた。
『どうしたの?』
兄は、何も答えなかった。
その身体が、少しずつ透けていく。
『……お兄ちゃん?』
弟の声が、震えた。
『ねえ、どうしたの?』
兄の手が、弟の頭から滑り落ちた。
『……お兄ちゃん!』
弟が、叫んだ。
『嫌だ! 行かないで!』
兄は、ようやく顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
『……ごめん』
兄は、弟の頬に触れた。
『約束を、守れなくてごめん』
『嫌だ!』
『出久』
兄は、微笑んだ。
『僕を忘れないで』
その言葉が。
最後だった。
兄の身体が、光になった。
そして。
消えた。
『――あ』
弟の口から、声が漏れた。
何も言えない。
何もできない。
ただ、目の前で、自分の兄が消えていく。
その事実だけが、幼い少年の心に刻まれていく。
『……お兄ちゃん?』
弟は、手を伸ばした。
そこには、何もなかった。
『……ねえ』
涙が、頬を伝った。
『どこにいるの?』
返事はない。
『……帰ってきてよ』
世界は、答えなかった。
弟は、その場に崩れ落ちた。
そして。
誰もいない部屋で、何度も何度も、同じ言葉を繰り返した。
『……僕が悪かったの?』
出久は、目を閉じた。
見ていられなかった。
いや。
違う。
見なければならなかった。
これは、十三年前の真実だ。
自分たちが忘れていたもの。
世界が隠したもの。
そして、五人目の少年が、自分を消した理由。
出久は、目を開けた。
幼い弟が、泣いている。
その背後に、黒い影が立っていた。
影は、弟の肩に手を置いた。
そして。
出久にだけ聞こえる声で、囁いた。
『――ここからが、君の罪だよ』
その瞬間。
幼い弟が、顔を上げた。
彼は、影を見つめた。
そして、言った。
『……僕が、代わりになる』
出久の全身が、凍りついた。
『僕が、お兄ちゃんの代わりになる』
弟は、震える手で、床に落ちていたノートを拾った。
『お兄ちゃんがいなくなった世界なんて、いらない』
その目から、涙が消えた。
『僕が、お兄ちゃんを救う』
そして。
『そのためなら、僕が何人いたっていい』
黒い影が、笑った。
『いい子だ』
出久は、叫んだ。
「やめろ! そいつに何も言うな!」
しかし、幼い少年は聞こえていない。
『僕が世界を作り直す』
少年は、ノートを開いた。
『何度でも』
『何度でも』
『何度でも』
その言葉が繰り返されるたび、世界が歪んでいった。
最初の世界。
兄が死ななかった世界。
弟が生まれなかった世界。
兄も弟も存在しなかった世界。
そして。
誰も死ななかった代わりに、誰も生まれなかった世界。
無数の可能性が、目の前を流れていく。
少年は、そのすべてを見ていた。
何度も、何度も、やり直した。
兄を救うために。
兄が死なない未来を見つけるために。
そして。
そのたびに、誰かが消えた。
ある世界では、弟が消えた。
ある世界では、兄が消えた。
ある世界では、母親が消えた。
ある世界では、緑谷家そのものが存在しなかった。
少年は、それでも諦めなかった。
『……次こそ』
その声が、だんだんと壊れていく。
『次こそ、救える』
世界が崩れる。
『次こそ、間に合う』
世界が消える。
『次こそ――』
そして、あるとき。
少年は、とうとう見つけた。
兄が生きている世界。
弟も生きている世界。
母親も、父親も、誰も死んでいない世界。
少年は、泣いた。
『……やっと』
その世界で、兄は笑っていた。
弟も笑っていた。
家族は、食卓を囲んでいた。
誰も、何も失っていなかった。
少年は、その光景を見つめていた。
自分だけが、その世界に存在しないことにも気づかずに。
いや。
気づいていた。
気づいていたからこそ、彼は、その世界を選んだのだ。
自分がいなくなれば、兄が生きられる。
自分がいなくなれば、家族は幸せになれる。
自分がいなくなれば、誰も悲しまない。
少年は、笑った。
『……よかった』
その瞬間。
世界が、彼を認識しなくなった。
名前が消えた。
記録が消えた。
写真から、姿が消えた。
母親の記憶から、彼の存在が消えた。
父親の記憶から、彼の存在が消えた。
兄の記憶から、彼の存在が消えた。
そして。
世界から、彼が生まれたという事実そのものが消えた。
少年は、何も言わなかった。
ただ、笑っていた。
それが。
五人目の緑谷出久が、自分自身を消した瞬間だった。
第三節 消された子供は、どこへ行く
出久は、膝をついていた。
目の前の世界は、再び白くなっていた。
幼い少年も、黒い影も、もういない。
ただ、出久の前に、五人目の少年が立っていた。
彼は、何も言わなかった。
出久は、しばらく顔を上げられなかった。
胸が痛い。
息が苦しい。
自分が、何をすべきなのかわからない。
五人目の少年は、自分を消した。
兄を救うために。
家族を救うために。
世界を救うために。
そして、その行為が、世界の再構築を引き起こした。
多くの可能性が消えた。
多くの人間が、存在を失った。
何度も何度も、世界が作り直された。
その中心にいたのが、五人目だった。
そして。
その五人目を消すために、出久自身もまた、世界を作り直した。
つまり。
自分は、五人目を救おうとしていたのではない。
五人目を消すことで、世界を安定させようとしていたのかもしれない。
出久は、顔を上げた。
「……君は」
少年は、出久を見つめた。
「……君は、どうして僕を恨まないの?」
少年は、少しだけ驚いたような顔をした。
「……どうして?」
「僕が、君を消したんだろう」
出久は、震える声で言った。
「君が世界を壊したから、僕は君を消した。君が兄さんを救おうとしたから、僕は君を消した」
少年は、黙っていた。
「……君の人生を、僕が終わらせたんだ」
出久は、拳を握った。
「なのに、どうして……そんな顔をするんだよ」
少年は、ゆっくりと目を伏せた。
そして。
「……だって」
声が、震えた。
「君も、同じことをしたから」
出久は、息を呑んだ。
「僕が兄さんを救おうとしたように、君も誰かを救おうとしたんだよ」
少年は、顔を上げた。
「君も、誰かが死ぬのを見たくなかった」
その目には、涙が浮かんでいた。
「君も、誰かを失いたくなかった」
出久の脳裏に、いくつもの顔が浮かんだ。
救えなかった人。
救えなかったと思い込んだ人。
自分のせいで傷ついたと思っていた人。
そして。
もう二度と失いたくないと願った人。
お茶子。
爆豪。
相澤。
仲間たち。
彼らの顔が、胸の奥に浮かんだ。
少年は、言った。
「僕たちは、違う人間じゃないんだよ」
出久は、首を振った。
「……違う」
「ううん」
「僕は、君とは違う!」
少年は、黙っていた。
「僕は、誰かを消して救おうなんて思わない!」
出久は叫んだ。
「僕は、みんなを救いたいんだ! 誰かを犠牲にして、誰かを救うんじゃない! みんなで生きて帰りたいんだ!」
少年は、静かに出久を見つめていた。
そして。
小さく笑った。
「……そうだね」
その声は、優しかった。
「今の君は、そう思っているんだね」
出久は、言葉を失った。
「でも、出久」
少年は、一歩近づいた。
「君が、いつまでもその考えを持っていられると思う?」
出久は、答えられなかった。
「もし、お茶子さんが死んだら?」
胸が、強く鳴った。
「もし、爆豪くんが死んだら?」
息が止まる。
「もし、相澤先生が死んだら?」
頭の中が、真っ白になる。
「もし、みんなが、君の目の前で消えていったら?」
少年は、悲しそうに笑った。
「そのときも、君は同じことを言える?」
出久は、唇を噛んだ。
「……言える」
少年は、何も言わなかった。
「僕は……言えるようになる」
出久は、顔を上げた。
「今は、まだわからない。怖いし、迷うと思う。何度も、誰かを犠牲にした方がいいんじゃないかって、考えてしまうかもしれない」
声が震える。
それでも。
「でも、だからって、誰かを犠牲にすることを、最初から正しいことにしたくない」
出久は、少年を見つめた。
「君が、自分を消したことを、僕は正しいとは思わない」
少年の目が、揺れた。
「でも、君がそうするしかないと思ったことは、否定したくない」
出久は、ゆっくりと手を伸ばした。
今度は、少年は逃げなかった。
「……僕は、君を知らなかった」
出久は言った。
「君が何をしたのかも、どうしてそうしたのかも、知らなかった」
指先が、少年の手に触れる。
冷たい。
けれど、確かにそこにある。
「だから、これから知りたい」
出久は、少年の手を握った。
「君が何を望んでいたのか。何を失ったのか。何を守ろうとしたのか」
少年の目から、涙が落ちた。
「……出久」
「うん」
「僕は、君を許していないよ」
出久は、頷いた。
「……うん」
「君が僕を消したことも、僕が君を消そうとしたことも」
「……うん」
「僕たちは、何度も間違えた」
少年は、涙を拭った。
「だから、君が僕を救うなんて言っても、僕は信じられない」
出久は、少しだけ笑った。
「……そうだね」
そして。
「でも、僕は、君を見捨てない」
少年の表情が、変わった。
「……どうして?」
「君が、僕だから」
出久は答えた。
「それだけじゃない。君が、僕と同じ顔をしているからでもない」
少年の手を握る力を、少しだけ強める。
「君が、誰かを救いたいと思っていたから」
出久は、少年を見つめた。
「その願いまで、間違いだったことにしたくないんだ」
少年は、何も言わなかった。
ただ、泣いていた。
その涙が、白い床に落ちた。
そして。
床に落ちた涙が、赤く染まった。
出久は、息を呑んだ。
少年の身体が、急に震え始めた。
「……っ、あ……!」
「どうしたの!?」
出久は、少年を支えた。
少年は、自分の胸を押さえた。
「……だめだ」
声が、震えている。
「……来る」
「何が?」
「……あいつが」
少年の背後に、黒い影が現れた。
顔はない。
口だけが、笑っている。
『いい話だね』
影は、楽しそうに言った。
『実に感動的だ』
出久は、少年を背後にかばった。
「……お前は」
『でも、残念だ』
影は、出久を見た。
『君は、まだ何も理解していない』
白い空間が、再び歪み始めた。
『五人目は、君が消した』
『君は、五人目を消すことで世界を救おうとした』
『そして、五人目は、君を消すことで世界を救おうとした』
影の口が、さらに大きく開いた。
『では、誰が、君たちを消したのかな?』
出久は、息を呑んだ。
「……何?」
『君たちは、互いを消し合った』
『でも、その選択肢を用意したのは、誰だ?』
影が、ゆっくりと手を広げた。
『誰が、君たちに、誰かを犠牲にしろと教えた?』
『誰が、君たちに、世界を作り直せる力を与えた?』
『誰が、君たちを、同じ名前の人間として記録した?』
出久は、何も言えなかった。
影は、笑った。
『君たちは、自分たちの意思で選んだと思っている』
『でも、本当にそうかな?』
その瞬間。
出久の脳裏に、あの記録が蘇った。
――対象個体には選択権がありません。
――対象個体は選択される側です。
出久の目が、見開かれた。
「……まさか」
影は、楽しそうに頷いた。
『そう』
『君たちが世界を壊したのは、君たちだけの意思ではなかった』
影は、出久を指さした。
『そして、五人目が君の中にいるのも』
次に、少年を指さした。
『彼が君の中にいるのも』
そして。
『君たち全員が、同じ名前を持っているのも』
影は、笑った。
『全部、僕が用意したんだよ』
その瞬間。
出久の胸の奥で、三つ目の鼓動が鳴った。
どくん。
そして、少年が叫んだ。
「――違う!」
少年は、出久を突き飛ばした。
「そいつの言うことを、信じないで!」
黒い影が、少年の身体を掴んだ。
少年の身体が、黒い霧に呑み込まれていく。
「出久!」
少年が叫んだ。
「僕を見つけてくれて、ありがとう!」
「待って!」
「でも、僕を救おうとしないで!」
少年の身体が、消えていく。
「僕を救おうとしたら、君は――」
言葉が途切れた。
黒い影が、少年の口を塞いだ。
そして。
影は、出久に向かって言った。
『さあ、五人目の緑谷出久』
『君は、何を選ぶ?』
出久は、歯を食いしばった。
目の前には、消えかけた少年。
その背後には、黒い影。
そして、自分の胸の奥には、三つ目の鼓動。
選択肢が、浮かび上がった。
――五人目を救う。
――五人目を消す。
――世界を再構築する。
出久は、画面を睨みつけた。
「……またか」
声が震えた。
「また、同じことをさせるのか」
影は、笑った。
『君は、選ばなければならない』
『君が選ばなければ、五人目は消える』
『君が選ばなければ、世界は崩壊する』
『君が選ばなければ――』
「うるさい!」
出久は、叫んだ。
「もう、わかった!」
拳を握る。
「君が何をさせたいのか、わかった!」
影の笑みが、止まった。
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「君は、僕たちに選ばせたいんじゃない」
声が、強くなる。
「僕たちが、選択肢の中からしか答えを出せないと思わせたいんだ!」
影の口が、わずかに閉じた。
「誰かを救うか、誰かを消すか。世界を作り直すか、世界を壊すか」
出久は、歯を食いしばった。
「でも、僕は、そんな選択肢しかないなんて認めない!」
彼は、消えかけた少年に手を伸ばした。
「五人目!」
少年の目が、見開かれた。
「僕は、君を救う!」
影が、笑った。
『ほら』
『やっぱり、君はそう言う』
出久は、首を振った。
「違う!」
その声が、白い世界を揺らした。
「僕は、君を救うために、世界を壊したりしない!」
出久は、少年の手を掴んだ。
「君を救うために、君を消したりもしない!」
そして。
「君が生きている世界を、僕たちで作るんだ!」
その瞬間。
選択肢が、砕け散った。
白い空間が、光に包まれた。
黒い影が、初めて悲鳴を上げた。
『――なぜだ!』
その声は、怒りに満ちていた。
『なぜ、選ばない!』
出久は、少年の手を握りしめた。
「僕が、決めるからだ!」
光が、すべてを呑み込んだ。
そして。
世界が、再び崩壊した。
第四節 誰も知らない記録
目を覚ましたのは、出久だった。
いや。
目を覚ましたのは、本当に出久だったのだろうか。
それを確認する方法は、なかった。
目の前にあるのは、白い天井。
見慣れた廊下。
壁に掛かった時計。
そして、目の前に立つ、相澤の姿だった。
「……緑谷」
相澤が、低い声で呼びかけた。
「聞こえるか」
出久は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「意識はあるか」
「……あります」
「今、何が起きた?」
出久は、答えようとした。
五人目の少年。
十三年前の夜。
兄が消えたこと。
世界の再構築。
そして、黒い影。
しかし。
口を開いた瞬間、すべての記憶が、霧のように遠ざかっていった。
「……僕は」
出久は、額を押さえた。
「……何かを、見たんです」
「何を?」
「……わかりません」
相澤の表情が、険しくなった。
「本当に、何も覚えていないのか?」
「……いえ」
出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「一つだけ、覚えています」
「何だ」
出久は、胸に手を当てた。
「……僕は、誰かの手を握っていました」
その言葉に、相澤は黙った。
「その子は、僕と同じ顔をしていたんです」
出久は、続けた。
「僕は、その子を救おうとした。でも……」
声が、震えた。
「その子の名前を、思い出せないんです」
相澤は、しばらく出久を見つめていた。
そして。
「……そうか」
それだけ言った。
出久は、ゆっくりと周囲を見回した。
お茶子がいる。
爆豪がいる。
轟がいる。
飯田も、切島も、八百万も。
塚内もいる。
全員、無事だった。
少なくとも、見た目には。
「……みんな」
出久は、声を絞り出した。
「大丈夫?」
「それはこっちの台詞だ、デク」
爆豪が吐き捨てた。
「お前、またぶっ倒れやがって」
「……ごめん」
「謝んなっつってんだろうが」
爆豪は、顔を背けた。
しかし、出久の胸元を確認する目は、ひどく真剣だった。
お茶子が、出久の手を握った。
「緑谷くん……」
「お茶子ちゃん」
「……帰ってきた?」
出久は、彼女を見つめた。
そして。
「……うん」
頷いた。
「今度は、ちゃんと帰ってきたよ」
お茶子は、泣きそうな顔で笑った。
「……よかった」
彼女は、出久の手を握りしめた。
その温かさに、出久は目を閉じた。
自分は、ここにいる。
仲間たちも、ここにいる。
誰も消えていない。
誰も、犠牲になっていない。
少なくとも、今は。
しかし。
出久の胸の奥では、まだ三つの鼓動が鳴っていた。
どくん。
自分の心臓。
どくん。
もう一人の自分。
どくん。
そして。
名前を思い出せない、誰か。
出久は、ゆっくりと息を吸った。
そのとき。
塚内が、低い声で言った。
「……一つ、確認したいことがある」
全員が、彼を見た。
「緑谷くんが倒れた直後、端末に新しい記録が生成された」
相澤が眉を寄せる。
「またか」
「ああ。だが、今回は少し違う」
塚内は、記録を表示した。
画面には、見慣れた項目が並んでいた。
記録者。
観測者。
破壊者。
そして。
対象個体。
そのすべてに、同じ名前が記されていた。
緑谷出久。
ただし。
今回は、その下に、別の名前があった。
出久は、目を見開いた。
そこには。
「対象個体:緑谷出久/識別番号五」
と記されていた。
その下に、もう一行。
「対象個体:緑谷出久/識別番号六」
そして。
さらに、その下に。
「対象個体:緑谷出久/識別番号七」
八。
九。
十。
名前は、どこまでも続いていた。
画面の下には、スクロールバーが表示されていた。
どれだけスクロールしても、終わりが見えない。
緑谷出久。
緑谷出久。
緑谷出久。
無数の名前。
無数の識別番号。
無数の、緑谷出久。
「……これは」
出久は、声を失った。
塚内が、静かに言った。
「五人目は、五人目ではなかったのかもしれない」
相澤が、画面を見つめた。
「どういう意味だ」
「識別番号は、単純な個体数ではない可能性がある。だが、これだけの数が記録されている以上……」
塚内は、言葉を切った。
「緑谷くんと同じ名前を持つ存在が、五人どころではないことは確かだ」
出久は、画面を見つめたまま動けなかった。
四人目。
五人目。
六人目。
七人目。
そのすべてが、自分と同じ名前を持っている。
そして。
そのすべてが、何らかの形で世界に干渉している。
出久は、ゆっくりと口を開いた。
「……僕たちは」
声が、震えた。
「僕たちは、何人いるんですか?」
誰も答えなかった。
その問いに答えられる者は、この場にはいなかった。
いや。
この世界に、いるのだろうか。
そのとき。
端末の画面に、最後の記録が表示された。
これまでの記録とは違い、文字は短かった。
記録者も、観測者も、破壊者も記載されていない。
ただ、一つの文章だけ。
――五人目は、緑谷出久ではない。
その下に、もう一行。
――緑谷出久が、五人目なのだ。
出久は、息を呑んだ。
そして。
画面の文字が、ゆっくりと変わった。
――記録を終了します。
――次の観測対象を選択してください。
画面の中央に、名前が一つ浮かび上がった。
麗日お茶子。
その瞬間。
お茶子の胸元で、何かが鳴った。
どくん。
彼女が、目を見開いた。
「……え?」
出久は、彼女を見た。
「お茶子ちゃん?」
お茶子は、自分の胸に手を当てた。
その表情が、ゆっくりと変わっていく。
恐怖。
困惑。
そして。
どこか、懐かしそうな顔。
「……うち」
彼女は、小さく呟いた。
「……この名前、知っとる」
出久の全身が、凍りついた。
「……え?」
お茶子は、画面を見つめていた。
麗日お茶子。
その名前を。
まるで、初めて見るものではないかのように。
そして。
彼女の口から、知らない声がこぼれた。
「……やっと、順番が来た」
出久は、息を呑んだ。
お茶子が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、いつもの彼女のものだった。
けれど。
その奥に、別の誰かがいた。
「……出久くん」
彼女は、微笑んだ。
その笑顔は、お茶子のものだった。
声も、表情も、仕草も。
何もかもが、麗日お茶子そのものだった。
だからこそ。
出久には、わかった。
今、彼女の中で目を覚ましたものは、麗日お茶子ではない。
彼女は、出久を見つめたまま、静かに言った。
「今度は、うちが、君を忘れさせてあげるね」
その瞬間。
すべての時計が、02:13を指した。
そして、出久の胸の奥で。
三つの鼓動が、同時に鳴った。
どくん。
どくん。
どくん。
世界が、再び止まった。