最初に止まったのは、時計だった。
次に、風が止まった。
窓の隙間から入り込んでいた夜気が、まるで透明な壁に閉じ込められたように動きを失う。机の上に置かれた紙片が、落ちかけた姿勢のまま静止した。点滴の管を伝っていた液体も、落ちる寸前の一滴を残して、その流れを止めていた。
そして最後に。
人間の呼吸が、止まった。
「――――っ!」
緑谷出久は息を吸おうとした。
吸えなかった。
肺が動かないのではない。空気そのものが、彼の身体に入ることを拒んでいる。
胸の奥で、三つの心臓が鳴っていた。
どくん。
どくん。
どくん。
一つ目は、自分のものだ。
二つ目は、どこか懐かしい、知らない誰かのもの。
三つ目は――。
「出久くん」
麗日お茶子が、目の前に立っていた。
彼女だけが動いていた。
いや、違う。
動いているのは、麗日お茶子の身体だ。
その身体を動かしているものが、本当に麗日お茶子なのか。
出久には、もう分からなかった。
「お茶子ちゃん……?」
ようやく声が出た。
喉が裂けるように痛かった。
彼女は、いつもと同じ顔で笑っていた。
丸い頬。柔らかな目元。人を安心させる、あの笑顔。
何度も見てきた顔だった。
訓練で転んだとき。
初めて本音をぶつけ合ったとき。
互いに傷つきながら、それでも手を伸ばしたとき。
彼女が泣いているのを見たとき。
彼女が笑ってくれたとき。
そして――。
彼女が、自分の名前を呼んでくれたとき。
そのすべてを覚えている。
覚えているはずなのに。
今、目の前にいる彼女を見ていると、その記憶の一つ一つが、写真の端から焼けていくように消えていく。
出久は手を伸ばした。
「お茶子ちゃん。こっちに来て。ゆっくりでいいから、話を――」
「どうして?」
彼女が首を傾げた。
「どうして、うちがそっちに行かなあかんの?」
出久の手が止まった。
その声は、お茶子の声だった。
しかし、言葉の選び方が違った。
普段の彼女なら、こんな言い方はしない。
少なくとも、出久に向かっては。
「……何を言ってるの?」
「ううん。別に、何も」
彼女は一歩、近づいた。
「ただ、確認したいだけなんよ」
「何を?」
「君が、誰なのか」
出久の背筋を、冷たいものが這い上がった。
彼女は笑っている。
笑ったまま、こちらを見ている。
その瞳の奥には、出久の知っているお茶子がいた。
確かに、いた。
けれど、そのさらに奥に。
出久が一度も見たことのない、深い夜のような何かが潜んでいた。
「緑谷出久くん」
彼女は、彼の名前を口にした。
「君の名前は、緑谷出久くん」
「……そうだよ」
「雄英高校の生徒。ヒーローを目指してる。個性はワン・フォー・オール。幼馴染は爆豪勝己くん。担任の先生は相澤先生。お父さんとお母さんがいて、たくさんの友達がいて――」
そこで、彼女は口を閉じた。
出久を見つめる。
「……あれ?」
彼女の表情から、笑みが消えた。
「君って、誰やったっけ?」
出久の心臓が跳ねた。
「……お茶子ちゃん?」
「ごめんね」
彼女は申し訳なさそうに笑った。
「うち、君のこと、知らんみたい」
その瞬間。
出久の視界の隅で、何かが弾けた。
電子音。
モニターに表示されていた文字列が、勝手に書き換わっていく。
観測対象――麗日お茶子。
認識対象――緑谷出久。
その二つの名前の間に、一本の線が引かれた。
線は、ゆっくりと黒く染まった。
そして。
認識接続:切断開始。
「何だ、これ……!」
出久がモニターへ振り向いた瞬間、背後で相澤の声がした。
「緑谷! 麗日から離れろ!」
時間が動き始めた。
いや。
世界が、再び動くことを許された。
相澤が駆け寄り、出久の肩をつかむ。爆豪が舌打ちしながら前に出て、轟が床に氷を走らせた。飯田が周囲の生徒たちを下がらせ、切島が倒れかけた機材を支える。
その一連の動作は、あまりにも自然だった。
だからこそ。
出久は気づいた。
全員が、お茶子を見ている。
警戒している。
しかし、誰も彼女の名前を呼ばない。
「麗日」
相澤が呼びかけた。
「こちらの声は聞こえるか」
「はい」
お茶子は即答した。
「聞こえてます、相澤先生」
「自分の状態を説明できるか」
「うーん……難しいです」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「なんか、変な感じがするんです。頭の中に、もう一人おるみたいで」
相澤の目が細くなる。
「もう一人?」
「はい」
お茶子は、少し困ったように笑った。
「ずっと寝てた人が、起きたみたいな感じです」
出久は息を呑んだ。
五人目の緑谷出久。
四人目の緑谷出久。
自分の中にいるという、もう一人の自分。
そして、名前も記録も消された、あの少年。
彼らは、いずれも自分の中に何かを残していた。
では。
お茶子の中で目覚めたものは、何なのか。
「麗日。今、自分が誰か分かるか?」
相澤の質問に、お茶子は瞬きをした。
「麗日お茶子です」
「では、緑谷は?」
「……緑谷?」
彼女の顔が、わずかに歪んだ。
出久は、反射的に一歩踏み出した。
「お茶子ちゃん、僕だよ」
彼女がこちらを見る。
出久は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「緑谷出久。君の……」
恋人。
そう言いかけて、言葉が止まった。
それを言ってしまったら。
彼女の中にある何かが、決定的に壊れる気がした。
けれど、言わなければ。
自分たちが一緒に過ごした時間まで、なかったことにされてしまう。
「君の、大切な人だよ」
お茶子は、しばらく出久を見つめていた。
やがて。
「……そうなん?」
彼女は、困ったように笑った。
「ごめん。うちには、そう思えへん」
出久の胸が痛んだ。
しかし、彼は目を逸らさなかった。
「……そっか」
「怒らへんの?」
「怒らないよ」
「悲しくない?」
「悲しいよ」
出久は正直に答えた。
「すごく悲しい。でも、君が今、僕を知らないなら……無理やり思い出させるのは違うと思う」
お茶子の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……へえ」
その一言だけが、彼女の口から落ちた。
次の瞬間。
「だからって、諦めるつもりもないけどね」
出久は続けた。
「君が僕を忘れた理由を調べる。君の中にいる誰かが何をしようとしているのかも、絶対に突き止める。君が僕を知らなくなったとしても、僕が君を知っていることまで、誰かに決められる筋合いはないから」
お茶子は、黙っていた。
その顔から、笑みが消えていた。
そして。
彼女は、出久にだけ聞こえるほどの声で言った。
「……あかんよ」
「え?」
「そういうこと、言ったらあかん」
彼女の指が、わずかに震えた。
「君は、また同じことをする」
「同じこと?」
「誰かを救うために、自分をなくす」
出久は息を止めた。
その言葉は、五人目の少年が口にしたものと、あまりにもよく似ていた。
お茶子は、出久の胸を見た。
まるで、そこにいる三つの心臓を見透かしているかのように。
「うちは、それを知っとる」
彼女は顔を上げた。
「君が、何度も何度も、同じことを繰り返したのを」
そして。
彼女は、出久の知らない名前を口にした。
「――だから、今度はうちが止めるんよ。御影出久くん」
室内の空気が、凍りついた。
「……誰だ、それ」
爆豪が、低く唸った。
轟の氷が、床を這うのを止める。
相澤はお茶子から視線を外さなかった。
出久だけが、声を出せなかった。
御影出久。
知らない名前だった。
聞いたこともない。
けれど。
その名前が耳に届いた瞬間、胸の三つの心臓が、同時に脈打った。
どくん。
どくん。
どくん。
そして、頭の奥で。
誰かが、泣いた。
1 麗日お茶子の記憶には、緑谷出久がいない
「……全員、落ち着け」
相澤の声が、部屋を切り裂いた。
「麗日は現在、明らかに異常な状態にある。だが、こちらから刺激を与えるな。緑谷、お前もだ」
「はい……」
返事をしながら、出久はお茶子を見ていた。
彼女は、何事もなかったかのように立っている。
いや、正確には。
何事もなかったかのように振る舞っている。
その手は震えていた。
指先が白くなるほど、強く握りしめられている。
彼女自身も、何かに抵抗しているのだ。
出久には、そう思えた。
「警察への連絡は?」
相澤が問う。
「すでに行っています」
塚内が答えた。
彼は端末を手に、モニターの前に立っていた。
「ただし、今回の現象は通常の個性事故とは異なる。麗日さんの個性による作用も確認できない。身体的な異常はないが、脳波に複数の異常な周期が認められる」
「複数?」
「三つだ」
塚内は画面を拡大した。
「麗日さん本来の脳波に加えて、二つの周期が重なっている。うち一つは、緑谷君の脳波と異常なほど一致している」
全員の視線が、出久に集まった。
「僕と……?」
「完全一致ではない。むしろ、君の脳波を反転させたような周期だ」
「反転……?」
「君が活動するときに沈静化し、君が意識を失うと活発になる。まるで、君の存在を基準にして動いているかのようだ」
塚内は眉間を押さえた。
「そして、もう一つの周期は、どのデータベースにも一致しない。既存の人間の脳波では説明できないんだ」
「それって……」
切島が、言葉を探した。
「麗日の中に、別の人間がいるってことか?」
「断定はできない」
「でも、本人がもう一人いるって言ったじゃねえか」
爆豪の声には苛立ちが滲んでいた。
それは、お茶子に対する怒りではない。
自分たちの理解が追いつかないことへの怒りだった。
「麗日」
爆豪は彼女を睨んだ。
「お前、今の自分が何をしたか分かってんのか」
「……うん」
「緑谷のことを知らねえって言ったな」
「うん」
「じゃあ、何であいつのことを御影出久なんて呼んだ」
お茶子は、答えなかった。
ただ、自分の胸を押さえていた。
爆豪が一歩踏み出す。
「答えろ」
「かっちゃん!」
出久が思わず声を上げた。
「……何だ、デク」
「今は、やめて」
「てめえは黙ってろ!」
「違うんだ。お茶子ちゃんが嘘をついているとは思えない」
「だから何だ!」
爆豪が振り向いた。
「嘘をついてねえなら、何を言ってもいいってのか! あいつは今、お前を知らねえと言った! お前の名前を別の名前で呼んだ! それがどれだけヤベェことか、分かってんのか!」
「分かってるよ!」
出久の声が、思った以上に大きく響いた。
爆豪が口を閉じた。
出久自身も、驚いていた。
「……分かってる」
彼は、もう一度言った。
「僕だって、怖いんだ」
胸の奥が痛い。
お茶子が自分を知らない。
自分の名前を忘れている。
それだけではない。
彼女は、まるで自分が何度も世界を壊してきたことを知っているかのように話した。
御影出久。
その名を口にした瞬間、自分の中で何かが反応した。
自分ではない自分が。
知らないはずの記憶が。
それでも。
「でも、怖いからって、お茶子ちゃんを追い詰めたくない」
出久は、彼女を見た。
「彼女も、何かと戦っているんだと思う」
お茶子の唇が、わずかに動いた。
声にはならなかった。
その表情を見て、出久は確信した。
彼女は、完全に消えたわけではない。
まだ、ここにいる。
自分のことを忘れていても。
自分の名前を知らなくても。
麗日お茶子は、まだ彼女自身の中にいる。
ならば。
手を伸ばす理由は、十分だった。
「……緑谷」
相澤が、静かに呼んだ。
「お前の気持ちは分かった。だが、今は感情だけで判断するな」
「はい」
「麗日の状態を確認する。塚内さん、個性による記憶操作の可能性は?」
「否定できない。ただし、単純な記憶の消去とは異なる」
塚内は画面を切り替えた。
「麗日さんの記憶を調べたところ、奇妙なことが分かった」
「奇妙なこと?」
「緑谷君に関する記憶だけが、抜け落ちているわけじゃない」
室内が静まった。
「緑谷君に関係する出来事そのものが、別の内容に置き換わっているんだ」
「……置き換わっている?」
「例えば、雄英入学前の記憶だ。麗日さんは入学試験を受けたことを覚えている。しかし、そのときに緑谷君が助けたという記憶が存在しない」
出久の喉が、詰まった。
あの日。
瓦礫に足を取られ、動けなくなった彼女を救うため、出久は身体を投げ出した。
あの一瞬が、出久にとってどれほど大切だったか。
お茶子が自分のためにポイントを譲ろうとしてくれたこと。
彼女が自分を「デクくん」と呼んだこと。
彼女の笑顔に、どれだけ救われたか。
それらが。
最初から、なかったことになっている。
「……じゃあ」
八百万が、慎重に口を開いた。
「麗日さんの記憶の中では、緑谷さんは存在しなかったということですか?」
「それだけなら、まだ説明はつく」
塚内は答えた。
「だが、記憶を調べると、緑谷君がいるはずの場所には、別の人物がいる」
「別の人物……?」
「顔は認識できない。名前も記録されていない。だが、麗日さんの記憶には、その人物が何度も登場している」
塚内は、一枚の画像を表示した。
それは、雄英入学試験の記憶を再現したものだった。
瓦礫の下で動けなくなっている少女。
迫り来るロボット。
そして、彼女を救おうとする少年。
少年の顔には、黒いノイズがかかっていた。
しかし、その身体の輪郭。
髪の形。
立ち方。
何より。
その手の伸ばし方が。
出久には、見覚えがあった。
「……僕だ」
思わず呟いた。
「いや……僕に似ている」
画面の中の少年は、彼と同じように手を伸ばしていた。
けれど、違う。
決定的に違う。
その少年は、瓦礫の下の少女を見ていなかった。
少女の背後にある何かを見つめていた。
まるで。
そこに、もう一人の誰かがいるかのように。
「この人物は、麗日さんの記憶の中で、緑谷君の代わりを務めている」
塚内が言った。
「そして、記録上の名前は――」
彼は、画面の下部を拡大した。
そこには、文字が表示されていた。
御影出久。
出久は息を呑んだ。
自分の名前と同じ。
けれど、違う名前。
その名を見た瞬間、頭の奥で、誰かが囁いた。
――やっと、ここまで来た。
――今度こそ、間に合う。
――君を、忘れさせない。
誰の声なのか。
分からない。
けれど、最後の言葉だけは。
まるで、自分自身が言ったことのように聞こえた。
「……御影出久って、誰なんだ」
出久は、画面を見つめたまま呟いた。
答えたのは、お茶子だった。
「うちの……」
彼女の声が震えた。
「うちの、最初のヒーローや」
出久が振り向く。
お茶子は、自分の口を押さえていた。
まるで、自分が口にした言葉に、自分自身が驚いているようだった。
「……違う」
彼女は首を振った。
「知らん。うち、そんな人、知らんはずやのに……」
涙が、一筋、頬を伝った。
「なんで……」
彼女は、出久を見た。
いや。
出久の背後を見ていた。
「なんで、うちは……その人が死んだこと、知っとるん……?」
その瞬間、モニターが暗転した。
新しい文字列が浮かび上がる。
観測記録:麗日お茶子。
対象認識、部分復旧。
第一記憶層――欠損。
第二記憶層――封鎖。
第三記憶層――開放禁止。
そして、その下に。
誰かが手書きしたような文字が現れた。
「あの子に、三度目の死を与えてはいけない」
出久の全身から、血の気が引いた。
あの子。
誰のことだ。
御影出久か。
五人目の緑谷出久か。
名前を失った少年か。
それとも。
自分自身か。
画面の文字が、一つずつ消えていく。
最後に残ったのは、たった一文だった。
「麗日お茶子は、緑谷出久を知らない。」
その下に、もう一行。
「緑谷出久もまた、麗日お茶子を知らない。」
出久は、息をするのを忘れた。
直後。
彼の記憶から、お茶子の笑顔が一つ、消えた。
2 彼女が忘れたのは、彼の名前ではなかった
「緑谷」
相澤の声が、遠くから聞こえた。
「緑谷、聞こえているか」
「……はい」
出久は答えた。
答えられたことに、少しだけ安心した。
自分の名前は覚えている。
雄英高校の生徒であることも。
ヒーローを目指していることも。
母親の顔も、爆豪の声も、相澤の厳しい授業も。
覚えている。
何も失っていない。
そう思った。
だが。
「……お茶子ちゃん」
その名前を口にした瞬間、出久は違和感を覚えた。
何かが足りない。
麗日お茶子。
名前は分かる。
顔も分かる。
声も分かる。
彼女が笑うとき、少しだけ目を細めることも。
緊張するとき、指先を握りしめることも。
出久を心配するとき、無理に明るく振る舞うことも。
知っている。
全部、知っているはずなのに。
――二人で、何を話した?
その問いに、答えられなかった。
いや。
正確には、答えが見つからなかった。
出久の頭の中には、たくさんの記憶がある。
訓練場。
教室。
病院。
夜の校舎。
手をつないだ感触。
涙に濡れた頬。
互いに名前を呼び合った声。
しかし、それらの記憶を一つずつ確かめようとすると、記憶の中心だけが曖昧になる。
誰と話していたのか。
誰の手を握っていたのか。
誰のために、あんなに必死になったのか。
記憶はある。
感情もある。
けれど、感情が向けられていた相手だけが、霧の向こうに隠れていた。
「……っ」
出久は額を押さえた。
「緑谷君?」
八百万が駆け寄ろうとした。
「大丈夫です。少し、頭が……」
「嘘をつくな」
爆豪が即座に言った。
「顔色が死体みてえになってんぞ」
「かっちゃん、そんな言い方は……」
言いかけて、出久は口を閉じた。
何かがおかしい。
爆豪の声を聞いて、いつものように反応した。
反射的に言い返そうとした。
しかし、その直後。
頭の奥に、別の光景が浮かんだ。
誰かが、同じように怒鳴っている。
誰かが、同じように手を伸ばしている。
誰かが、血まみれになって倒れている。
そして、その人物を見下ろす少年がいる。
緑色の髪。
震える手。
泣きそうな顔。
その少年は、倒れた人物に向かって言った。
――ごめん。
――今度こそ、助けるから。
――次の世界では、絶対に。
「……っ、あああっ!」
出久は膝をついた。
「緑谷!」
相澤が肩を支える。
爆豪が舌打ちし、轟が周囲を警戒する。
「どうした、デク!」
「分からない……!」
出久は頭を押さえた。
「今、何か……誰かが……」
「誰だ!」
「分からないんだ!」
その声は、悲鳴に近かった。
「誰かが死んでる。でも、誰が死んだのか分からない! 僕は、その人を助けようとしてたはずなのに……何度も、何度も……!」
息が乱れる。
視界が揺れる。
そして、頭の奥で声がした。
――まだ、思い出すな。
――君は、知らなくていい。
――君が思い出せば、彼女が死ぬ。
出久は、顔を上げた。
「……誰だ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「誰が、そんなことを決めたんだ……!」
胸の奥で、三つの心臓が脈打った。
一つ目が、恐怖を訴える。
二つ目が、怒りを訴える。
三つ目が。
ただ、悲しんでいた。
その悲しみだけが、どうしようもなく懐かしかった。
「緑谷」
相澤が、出久の目をのぞき込んだ。
「今、何が見えた」
「……人が、死んでいました」
「誰だ」
「分かりません」
「顔は?」
「見えませんでした」
「声は?」
「……聞こえました」
「何と言っていた」
出久は唇を噛んだ。
言いたくなかった。
言ってしまえば、何かが確定する。
自分の中にあるものが、もう一度目を覚ます。
そんな予感があった。
それでも。
「……次の世界では、絶対に助けるって」
相澤の目が変わった。
塚内が、端末を操作する手を止める。
そして、お茶子が。
「やめて!」
叫んだ。
全員が振り向く。
彼女は、自分の耳を塞いでいた。
「それ以上、言わんといて!」
涙が溢れていた。
「お願いやから……それ以上、思い出さんといて……!」
「お茶子ちゃん……」
「君が思い出したら、また始まってしまう!」
彼女は、出久を見つめた。
その目には、明らかな恐怖があった。
「世界が、また壊れる!」
次の瞬間。
お茶子の身体が、ぐらりと傾いた。
出久が反射的に手を伸ばす。
「お茶子ちゃん!」
しかし、彼の手が届く寸前。
お茶子の身体は、宙に浮いた。
足元から、少しずつ。
重力が消えていく。
いや、違う。
彼女自身が、自分の個性を発動している。
無意識に。
自分の身体を、この世界から浮かせようとしている。
「麗日! 個性を解除しろ!」
相澤が叫んだ。
「できへん!」
お茶子は泣きながら答えた。
「止まらへんの! 身体が、勝手に……!」
浮かび上がる。
十センチ。
二十センチ。
五十センチ。
その身体の輪郭が、わずかに歪み始めた。
肌の表面に、黒い文字が浮かび上がる。
数字。
記号。
見たことのない識別番号。
それらが彼女の腕から首へ、頬へと広がっていく。
そして。
彼女の右手の甲に、数字が刻まれた。
0213。
「……時間?」
飯田が呟いた。
「いや、違う」
塚内が、震える声で答えた。
「これは時間ではない」
画面を見つめる。
表示された解析結果に、彼は言葉を失った。
「個体識別番号……?」
そこに表示されていたのは、たった一つの記録だった。
対象個体:麗日お茶子。
分類:非存在個体。
登録状態:未出生。
死亡記録:十三年前、午前二時十三分。
死因:緑谷出久による再構築。
塚内の手から、端末が滑り落ちた。
「……そんな、馬鹿な」
彼は呟いた。
「麗日さんは……十三年前には、まだ……」
言葉が続かなかった。
当然だ。
麗日お茶子は、緑谷出久と同世代の少女だ。
十三年前なら、まだ幼い子供だった。
それなのに。
記録上では、彼女はその時点で死んでいる。
いや。
死んでいるどころではない。
生まれてすらいなかった。
出久は、宙に浮かぶ彼女を見つめた。
「……お茶子ちゃん」
彼女は、泣いていた。
それでも、必死に笑おうとしていた。
「ごめんね、出久くん」
その名前を聞いた瞬間。
出久の胸の三つの心臓が、同時に停止した。
ほんの一瞬。
世界から、音が消えた。
彼女は確かに言った。
緑谷出久を知らないはずの麗日お茶子が。
彼の名前を、呼んだ。
「……今」
出久は震える声で尋ねた。
「今、僕の名前を……」
「……あ」
お茶子が、自分の口を押さえた。
驚愕。
困惑。
そして、絶望。
それらが一度に彼女の顔に浮かんだ。
「……なんで」
彼女は、泣きながら呟いた。
「なんで、うち……君の名前、知っとるん……?」
その瞬間。
彼女の身体が、光に包まれた。
そして、彼女は。
消えた。
3 消失地点には、誰もいなかった
「麗日ぃぃぃッ!」
爆豪の叫びが響いた。
彼は床を蹴り、彼女が浮かんでいた場所へ飛び込んだ。
掌から爆発を放ち、空中を薙ぎ払う。
轟が氷を展開し、八百万が即座に捕獲用の装備を創造した。切島が腕を硬化させ、飯田が室内を駆け巡る。
しかし。
何もなかった。
そこには、誰もいなかった。
衣服も。
髪の毛一本も。
血痕も。
個性の残滓さえも。
ただ、床に落ちた小さなものだけが、彼女がそこにいたことを示していた。
それは、髪留めだった。
小さな、ありふれた髪留め。
出久は、それを知っていた。
知っているはずだった。
彼女が大切にしていたもの。
彼女がいつも身につけていたもの。
そう思った。
しかし。
なぜ大切なのか。
誰からもらったものなのか。
どんなときに使っていたのか。
何も思い出せなかった。
「……返せ」
爆豪が、床に膝をついた。
拳を握りしめる。
「返せよ……!」
誰に向けた言葉なのか、分からない。
「ふざけんな……。勝手に消えてんじゃねえぞ……!」
その声は、怒りに震えていた。
出久は、何も言えなかった。
ただ、床に落ちた髪留めを拾い上げた。
冷たかった。
金属の感触が、指先に伝わる。
その瞬間。
視界が、白く染まった。
見覚えのない場所。
見覚えのない空。
見覚えのない街。
その中心に、少女が立っていた。
幼い少女だった。
丸い頬。
短い髪。
大きな瞳。
その少女は、泣いていた。
目の前には、少年が倒れていた。
緑色の髪。
痩せた身体。
血に染まった制服。
顔は見えない。
しかし、出久には分かった。
あれは、自分だ。
少女は、少年の手を握りしめていた。
「……いやや」
少女が泣いていた。
「いやや、出久くん……!」
少年は、何も答えない。
少女は、彼の胸に顔を埋めた。
「起きてよ……。お願いやから……」
その背後に、黒い影が立っていた。
人間の形をしている。
しかし、顔がない。
影は、少女を見下ろしていた。
『観測対象、消失』
声がした。
どこからともなく。
『記憶接続、切断』
『世界再構築、開始』
少女が顔を上げた。
「……いや」
彼女は、影を睨みつけた。
「いやや!」
叫ぶ。
「うちは、忘れへん!」
黒い影は、動かなかった。
『対象個体、麗日お茶子』
『認識の維持を確認』
『再構築に対する抵抗を確認』
『処理を変更します』
少女の身体が、光に包まれた。
彼女は、それでも手を離さなかった。
「出久くん!」
叫ぶ。
「うちが覚えとるから!」
「うちが、君を覚えとるから!」
「何回、世界が変わっても!」
「何回、君がいなくなっても!」
「絶対に――!」
声が途切れた。
光が消えた。
少女の姿も。
少年の姿も。
何もかもが、消えていた。
ただ一つ。
黒い影だけが残っていた。
影は、出久のほうを向いた。
顔のない頭部が、ゆっくりと傾く。
『……失敗した』
その声に。
出久は、聞き覚えがあった。
それは、五人目の少年を連れ去った存在の声だった。
『また、失敗した』
影が呟く。
『あの子は、忘れなければならなかった』
『あの子は、君を知らないままでいなければならなかった』
『それなのに』
影は、ゆっくりと両腕を広げた。
『どうして、君たちは』
『何度でも、互いを見つけてしまうのだろう』
出久は叫んだ。
「お前は誰だ!」
影は答えない。
「お茶子ちゃんをどこへやった!」
『君は、まだ知らない』
「答えろ!」
『麗日お茶子は、君を知らない』
影の身体が、崩れ始めた。
『だが、君を知らない彼女は』
『君を知っている彼女よりも、はるかに危険だ』
「……何だって?」
『なぜなら』
影の声が、初めて震えた。
『彼女は、君を忘れることで、君を救おうとしているからだ』
白い世界に、亀裂が走った。
『そして、君は』
『彼女を救うために、彼女の忘却を破壊するだろう』
『その瞬間』
影が、出久を指差した。
『君は、彼女を殺す』
出久の身体が硬直した。
「……嘘だ」
『嘘ではない』
「嘘だ!」
『ならば、確かめるといい』
影が消えた。
最後に残った声だけが、白い空間に響いた。
『次に彼女と会うとき』
『君は、彼女の恋人ではない』
『彼女は、君の敵でもない』
『彼女は――』
声が途切れた。
白い世界が砕け散った。
4 麗日お茶子のいない世界
出久が目を開けると、医療室の床に倒れていた。
「緑谷!」
相澤が駆け寄る。
出久は、荒い息を繰り返した。
頭が痛い。
胸が痛い。
何より、手の中が空っぽだった。
握っていたはずの髪留めがない。
「……お茶子ちゃんは?」
最初に口にしたのは、その言葉だった。
相澤は、答えなかった。
爆豪が、壁を殴った。
「クソが……!」
轟が、凍りついた床を見つめている。
八百万は、青ざめた顔で端末を操作していた。
切島は拳を握りしめ、飯田は何度も周囲を確認している。
塚内は、画面に映る記録を見ていた。
全員が、同じものを見ていた。
麗日お茶子の個人記録。
プロフィール。
学籍番号。
家族構成。
ヒーロー名。
個性。
すべて、残っている。
彼女は確かに存在していた。
それなのに。
彼女がいた痕跡だけが、消えていた。
「……おかしい」
塚内が呟いた。
「何がおかしいんですか?」
出久が尋ねる。
「記録が……更新されている」
「更新?」
「麗日さんの記録が、さっきまでのものと違う」
画面には、彼女のプロフィールが表示されていた。
名前。
生年月日。
出身地。
家族。
経歴。
そして、交友関係。
出久は、そこに視線を向けた。
友人関係の欄に、見慣れた名前が並んでいる。
飯田天哉。
蛙吹梅雨。
八百万百。
芦戸三奈。
切島鋭児郎。
爆豪勝己。
轟焦凍。
そして。
緑谷出久。
名前はあった。
しかし、その隣に表示されている関係性は。
「接触記録なし」
出久は、目を疑った。
「……何だよ、これ」
爆豪が画面を覗き込む。
「ふざけんな……!」
飯田が、信じられないという顔で首を振った。
「そんなはずはない! 緑谷君と麗日君は、雄英入学以前から接点があり、入学後も数多くの活動を共にしている!」
「記録上は、そうなっていない」
塚内の声は低かった。
「入学試験での接触記録もない。体育祭での対戦記録もない。仮免試験での共同活動もない。共同訓練、合同任務、救助活動……すべて、緑谷君との接点が存在しないことになっている」
「そんな……」
八百万が口元を押さえた。
「でも、私たちは……」
「俺たちは覚えている」
轟が言った。
その声には、確信があった。
「麗日が緑谷と話していたことも、二人が互いを大切にしていたことも。覚えている」
「そうだよ」
切島が頷いた。
「忘れるわけねえだろ。あんなに……あんなに一緒にいたんだ」
爆豪は、何も言わなかった。
ただ、画面を睨みつけていた。
そして。
出久は、一つの事実に気づいた。
「……みんなは、覚えているんだね」
誰も答えなかった。
それが答えだった。
彼らは覚えている。
麗日お茶子が緑谷出久を知っていたこと。
緑谷出久が麗日お茶子を愛していたこと。
二人が、互いを支え合ってきたこと。
それなのに。
記録だけが、二人の関係を否定している。
いや。
記録だけではない。
出久自身の記憶も、少しずつ壊れ始めていた。
「……相澤先生」
出久は、ゆっくりと立ち上がった。
「僕、調べたいことがあります」
「何だ」
「お茶子ちゃんが消えた場所。あの場所に、何があったのか。彼女がどこへ行ったのか。どうすれば戻ってこられるのか」
「当然、調べる。だが、お前は休め」
「先生」
出久は、相澤を見つめた。
「お願いします」
相澤は、しばらく黙っていた。
そして、深く息を吐いた。
「……分かった。ただし、一人で動くな。塚内さんと連携しろ。爆豪、轟。お前たちも同行しろ」
「当然だ」
爆豪が即答した。
「こんなもん、放っとけるかよ」
轟も頷いた。
「麗日を連れ戻す」
出久は、二人を見た。
胸が痛かった。
自分のために、こんなにも怒ってくれる友人たちがいる。
自分の恋人を、取り戻そうとしてくれる仲間たちがいる。
それなのに。
彼らが何を覚えているのか。
何を失っているのか。
自分には、もう分からない。
だからこそ。
絶対に、確かめなければならなかった。
麗日お茶子が、自分を知らなくなった理由を。
そして。
自分が、彼女を知らなくなる前に。
5 午前二時十三分、存在しない部屋
その夜。
雄英高校の地下に、存在しないはずの部屋が現れた。
誰も、その部屋の存在を知らなかった。
設計図にもない。
建築記録にもない。
監視カメラにも映らない。
ただ一つ。
相澤消太の端末に、警告が表示された。
未登録空間を検出。
座標:地下施設、第四区画。
空間識別番号:0213。
そして。
内部観測対象:麗日お茶子。
相澤は即座に塚内へ連絡し、出久たちを呼び集めた。
地下施設へ向かう途中、誰も口を開かなかった。
ただ、出久だけは、胸の痛みを抑えながら歩いていた。
近づいている。
何かが。
自分の中にある三つの心臓が、同じリズムで脈打っていた。
どくん。
どくん。
どくん。
そして、地下の最奥。
壁の一部が、黒い扉へと変わっていた。
扉には、文字が刻まれていた。
麗日お茶子のための部屋。
その下に、小さく。
緑谷出久立入禁止。
「……ふざけやがって」
爆豪が扉を殴ろうとした。
「待って」
出久が止めた。
「何だ、デク!」
「これは……僕を入れないための扉じゃない」
出久は、文字を見つめた。
「僕が入ったら、何かが起きる。だから、わざわざ警告しているんだ」
「だからって、入らねえ理由にはならねえだろ」
「うん」
出久は頷いた。
「でも、僕が入る前に、みんなで確認したい」
塚内が扉の表面を調べた。
「鍵穴も電子認証装置もない。物理的に開く構造ではないようだ」
「個性で壊せばいいんじゃねえのか?」
「爆豪君、待ってください。構造が不明な以上、破壊による影響を予測できません」
八百万が制止した。
そのとき。
扉の向こうから、声が聞こえた。
「……出久くん?」
出久は息を呑んだ。
間違いない。
お茶子の声だった。
「お茶子ちゃん!」
扉に駆け寄る。
「そこにいるの? 大丈夫? 怪我はない?」
「……出久くん?」
もう一度、声がした。
今度は、少しだけ不思議そうだった。
「誰?」
出久の足が止まった。
扉の向こうで、何かが動いた。
小さな足音。
衣擦れ。
そして、扉に手を触れる音。
「ごめんね」
お茶子の声がした。
「うち、君のこと、知らんねん」
出久は、唇を噛んだ。
「……分かってる」
「ほんまに、ごめん」
「謝らなくていいよ」
「でも……」
声が震えた。
「君、泣いとるん?」
出久は、自分の頬に触れた。
濡れていた。
いつの間にか、涙が流れていた。
「……少しだけ」
「そっか」
扉の向こうで、お茶子が小さく笑った。
「なんでか分からへんけど……君が泣いとると、うちも悲しくなる」
出久は、目を閉じた。
それだけで、十分だった。
彼女はまだ、ここにいる。
自分を忘れていても。
自分の名前を知らなくても。
その心のどこかに、確かに何かが残っている。
「お茶子ちゃん」
出久は、扉に手を触れた。
「僕は、君を連れ戻しに来た」
返事はなかった。
「君が僕を知らなくてもいい。僕のことを好きじゃなくなっていてもいい。もう一度、最初から友達になってもいい」
声が震える。
「でも、君がどこにもいなくなるのだけは、嫌なんだ」
扉の向こうで、何かが床に落ちた。
小さな音だった。
それから。
お茶子の声がした。
「……あかんよ」
出久は、顔を上げた。
「何が?」
「君が、ここに来たら」
声が遠ざかっていく。
「うちは、君を忘れられなくなる」
出久の手が、扉に食い込んだ。
「……忘れなくていいんだよ」
「違うの」
お茶子は、泣いていた。
「うちは、忘れなあかんの」
その声の奥に、別の声が重なった。
低く、冷たい、機械のような声。
『認識接続、再開を検出』
『記憶層、再活性化』
『警告。観測対象間の接続を確認』
『世界再構築の危険性が上昇しています』
扉の表面に、文字が浮かび上がった。
緑谷出久の侵入を確認。
出久は、息を止めた。
まだ、扉を開けていない。
それなのに。
システムは、彼が侵入したと認識している。
そして。
扉に刻まれた文字が、ゆっくりと変化していった。
麗日お茶子のための部屋。
その文字が消える。
新しい文字が浮かぶ。
緑谷出久の墓。
「……は?」
爆豪が呆然と呟いた。
次の瞬間。
扉が、内側から開いた。
そこには、白い部屋があった。
壁も、床も、天井も、すべて白い。
中央に、一つのベッドが置かれている。
その上に。
麗日お茶子が座っていた。
彼女は、いつもの制服を着ていた。
髪も、顔も、何も変わっていない。
ただ。
その手には、一冊のノートが握られていた。
表紙には、名前が書かれている。
緑谷出久。
出久は、一歩を踏み出した。
「お茶子ちゃん……」
彼女が顔を上げた。
そして。
驚いたように目を見開いた。
「……あれ?」
彼女は、出久を見つめた。
「なんで……?」
その目から、涙が零れた。
「なんで、君がここにおるん……?」
出久は、何も答えられなかった。
彼女は、自分の手元のノートを見た。
ページをめくる。
そこには、びっしりと文字が書かれていた。
同じ文章が。
何度も。
何度も。
何度も。
「緑谷出久を忘れろ」
「緑谷出久を忘れろ」
「緑谷出久を忘れろ」
「緑谷出久を忘れろ」
その文章の最後に、別の文字が書かれていた。
お茶子自身の筆跡だった。
震える文字。
滲んだインク。
何度も書き直された跡。
「それでも、うちは君を好きになってしまう。」
お茶子は、その文字を見つめていた。
そして、出久を見た。
「……うち」
彼女は、泣きながら笑った。
「君のこと、知らんはずやのに」
ノートを胸に抱きしめる。
「君のこと、忘れようとしてたはずやのに」
震える声で、言った。
「……どうして、こんなに好きなんやろ」
出久は、彼女に手を伸ばした。
その瞬間。
部屋の壁が、赤く染まった。
警報が鳴り響く。
ノートの文字が、一斉に黒く塗り潰されていく。
そして、ページの最後に。
新しい文字が浮かび上がった。
「観測対象、麗日お茶子。」
「記憶復旧率、99.9%。」
「再構築条件、成立。」
お茶子の身体が、強く震えた。
「……あかん」
彼女は、出久を見た。
「出久くん、逃げて!」
その声は、もう彼を知らない少女の声ではなかった。
彼を知っている。
彼を愛している。
そして、彼を失うことを何よりも恐れている少女の声だった。
「お願い、逃げて!」
彼女の身体から、光が溢れた。
「君がここにおったら……!」
白い部屋が崩れ始める。
壁が剥がれ、床が砕け、天井の向こうに、見たことのない星空が広がった。
そこには、無数の世界があった。
無数の雄英高校。
無数の緑谷出久。
無数の麗日お茶子。
そして、そのすべての世界で。
彼女たちは、同じ少年を見つめていた。
ある世界では、彼を抱きしめていた。
ある世界では、彼を拒絶していた。
ある世界では、彼の墓の前で泣いていた。
ある世界では。
彼女自身が、彼を殺していた。
出久は、息を呑んだ。
「……これは」
お茶子が、涙を流しながら叫んだ。
「見たらあかん!」
彼女は、出久に手を伸ばした。
「君は、まだ知らんでええ!」
だが、もう遅かった。
星空の中心に、一つの世界が浮かび上がった。
その世界には、誰もいなかった。
人間も。
建物も。
空も。
大地も。
何もかもが、存在しない。
ただ一人。
少年だけが、立っていた。
緑色の髪。
痩せた身体。
白い服。
その少年は、こちらを向いた。
顔は、出久と同じだった。
しかし、その瞳には。
出久が一度も見たことのない、深い絶望が宿っていた。
少年は、口を開いた。
「……やっと、見つけた」
出久の胸が、激しく痛んだ。
「君は……誰だ?」
少年は、笑った。
「僕?」
そして、答えた。
「御影出久。君が、最初に殺した僕だよ。」
世界が、完全に停止した。
お茶子の悲鳴が響く。
出久の胸で、三つの心臓が再び動き始める。
どくん。
どくん。
どくん。
その三つ目の鼓動が、今までとは違う音を立てた。
まるで。
ずっと閉ざされていた扉が、内側から開いたかのように。
そして、出久の頭の中に。
自分自身の声が響いた。
――そうだ。
――僕は、あいつを殺した。
――世界を救うために。
――お茶子ちゃんを救うために。
――そして、誰も救えなかった。
出久は、その場に膝をついた。
目の前の少年が、静かに手を差し伸べる。
「さあ、出久」
御影出久は言った。
「今度こそ、僕たちの物語を終わらせよう」
そして。
白い世界が、崩壊した