僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

28 / 71
第十八話 「御影出久は、最初に殺された」

 

序章 死んだ少年は、笑っていた

 世界が崩壊する音は、思っていたよりも静かだった。

 

 轟音ではない。

 

 爆発でもない。

 

 大地が裂ける音でも、空が砕ける音でもなかった。

 

 ただ、誰かが本を閉じるような音がした。

 

 ぱたん、と。

 

 それだけだった。

 

 無数の世界が折り畳まれていく。

 

 雄英高校の校舎が、街並みが、雲が、星が、白い紙を裏返すように消えていく。

 

 そこに暮らしていた人々も。

 

 笑っていた人々も。

 

 泣いていた人々も。

 

 誰かを愛し、誰かを憎み、明日を信じて生きていた人々も。

 

 すべてが、音もなく消えていった。

 

 その中心で。

 

 緑谷出久は、膝をついていた。

 

 目の前に、一人の少年が立っている。

 

 自分と同じ顔。

 

 自分と同じ髪。

 

 自分と同じ声。

 

 しかし、その少年の目だけは、決定的に違っていた。

 

 彼の瞳には、出久が知らないはずの景色が映っていた。

 

 焼け落ちた街。

 

 血に濡れた手。

 

 誰かの亡骸。

 

 そして、何度繰り返しても救えなかった、たった一人の人間。

 

「……御影、出久」

 

 出久は、その名前を口にした。

 

 名前を呼んだ瞬間、胸の奥が軋んだ。

 

 知らない。

 

 知らない名前だ。

 

 知らない少年だ。

 

 それなのに。

 

 その少年の名前を呼ぶことが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。

 

「そうだよ」

 

 御影出久は笑った。

 

 ひどく優しい笑顔だった。

 

 誰かを安心させるために、何度も練習したような笑顔。

 

 泣いている相手を前にして、自分の悲しみを隠すための笑顔。

 

「ようやく思い出してくれたね」

 

「僕は……君を知らない」

 

「うん」

 

「君を殺した覚えもない」

 

「うん」

 

「なのに、どうして……」

 

 声が震えた。

 

「どうして、君は僕をそんな目で見るんだ」

 

 御影出久は、少しだけ首を傾げた。

 

 そして、答えた。

 

「だって、君は僕だから」

 

 出久の心臓が跳ねた。

 

「君が忘れた僕。君が捨てた僕。君が、誰かを救うために殺した僕」

 

 御影出久は、胸元に手を置いた。

 

「そして、君が今も、殺し続けている僕」

 

「……違う」

 

「違わないよ」

 

「僕は、誰も殺してなんか……!」

 

「本当に?」

 

 御影出久は、笑顔を崩さなかった。

 

「じゃあ、どうして君の胸には、三つも心臓があるの?」

 

 出久は息を呑んだ。

 

「どうして君は、知らない少年の記憶を持っているの?」

 

「……っ」

 

「どうして君は、麗日お茶子が泣くと、自分が死にそうになるの?」

 

 御影出久は、一歩近づいた。

 

「どうして君は、十三年前の午前二時十三分を、何度も何度も繰り返しているの?」

 

 もう一歩。

 

「どうして君は、僕の名前を忘れたの?」

 

 さらに一歩。

 

「どうして君は、僕を殺したことを覚えていないの?」

 

 出久は後ずさった。

 

 足元に、大地はなかった。

 

 背後にも、何もなかった。

 

 逃げ場はない。

 

 ただ、白い空間が広がっている。

 

 御影出久は、手を差し出した。

 

「ねえ、出久」

 

 その声は、驚くほど穏やかだった。

 

「僕のことを、思い出してよ」

 

 そして。

 

 その顔から、笑みが消えた。

 

「僕は、君に殺されるとき、君に何て言った?」

 

 出久の視界が、真っ白になった。

 

 知らない。

 

 覚えていない。

 

 答えられない。

 

 それなのに。

 

 胸の奥から、何かが這い上がってくる。

 

 泣き声。

 

 叫び声。

 

 誰かが必死に呼ぶ、自分の名前。

 

 そして。

 

 少年の声。

 

 ――出久。

 

 ――お願い。

 

 ――僕を殺すなら。

 

 ――せめて、最後に。

 

 記憶の向こう側で、誰かが泣いていた。

 

 その涙が誰のものなのか、出久には分からなかった。

 

 分からないまま。

 

 御影出久の声だけが、静かに響いた。

 

「僕は、君に殺されたんだ」

 

「……違う」

 

「うん。君は、そう言うよね」

 

「違うんだ……!」

 

「うん」

 

 御影出久は頷いた。

 

「だから、僕たちは何度でも同じことを繰り返すんだよ」

 

 そして、彼は出久の手を取った。

 

 その手は、冷たかった。

 

「さあ」

 

 御影出久は言った。

 

「最初の朝に帰ろう」

 

第一節 世界が始まる前に、少年は死んでいた

 目を開けると、そこは教室だった。

 

 雄英高校一年A組。

 

 見慣れた教室。

 

 窓から差し込む光。

 

 黒板。

 

 机。

 

 椅子。

 

 壁に貼られた掲示物。

 

 そして、騒がしいクラスメイトたち。

 

「だから、俺は最初から言ってんだろ! そいつの考え方が甘えんだよ!」

 

「爆豪、朝から声が大きいぞ!」

 

「うっせえ、メガネ!」

 

「メガネではない! 飯田天哉だ!」

 

「そこじゃねえだろ!」

 

 いつもの光景だった。

 

 あまりにも、いつもどおりだった。

 

 出久は、自分の机に座っていた。

 

 ノートが開かれている。

 

 シャープペンシルがある。

 

 右手には、書きかけの文字。

 

 彼は、自分の手を見つめた。

 

 震えていない。

 

 血もついていない。

 

 傷もない。

 

 そして、胸の奥で鳴っていた三つの心臓も。

 

 今は、一つしか鳴っていなかった。

 

 どくん。

 

 どくん。

 

 どくん。

 

 いや。

 

 よく聞くと、三つ目の鼓動だけが、遠くから聞こえていた。

 

 壁の向こう。

 

 床の下。

 

 世界の裏側。

 

 どこか分からない場所から。

 

「……夢?」

 

 出久は呟いた。

 

「何が夢なんだ?」

 

 隣から声がした。

 

 顔を上げる。

 

 そこには、麗日お茶子がいた。

 

「お茶子ちゃん……!」

 

 思わず立ち上がりかけた。

 

 彼女は目を丸くした。

 

「わっ、どしたん? びっくりしたぁ」

 

「……あ」

 

 出久は、言葉を失った。

 

 彼女は笑っていた。

 

 いつもの笑顔。

 

 柔らかくて、明るくて、少しだけ照れくさそうな笑顔。

 

 彼女の顔を見た瞬間、出久の胸に、どうしようもない安堵が広がった。

 

 生きている。

 

 ここにいる。

 

 消えていない。

 

 記憶を失っていない。

 

 まだ、自分を見てくれている。

 

「……よかった」

 

「え?」

 

「いや……何でもない」

 

 出久は、思わず笑った。

 

 お茶子は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。

 

「変なの、出久くん」

 

 その呼び方に。

 

 出久の笑顔が、凍りついた。

 

 今、彼女は何と言った?

 

 出久くん。

 

 緑谷出久を呼ぶときの、いつもの呼び方。

 

 何度も聞いた声。

 

 何度も聞いたはずの名前。

 

 なのに。

 

 出久の頭の中に、別の声が重なった。

 

 ――御影出久くん。

 

 ――君って、誰やったっけ?

 

 ――うちは、君のこと知らんみたい。

 

「……っ」

 

 彼は机に手をついた。

 

「出久くん?」

 

「大丈夫。大丈夫だよ」

 

 自分に言い聞かせる。

 

 これは夢だ。

 

 あるいは、記憶だ。

 

 御影出久が見せている幻覚かもしれない。

 

 ここで何が起きても、現実ではない。

 

 そう考えようとした。

 

 しかし。

 

 教室の壁に掛けられた時計を見た瞬間。

 

 出久の思考が、止まった。

 

 時計は、午前二時十三分を指していた。

 

 窓の外には、夜空が広がっている。

 

 教室の明かりはついている。

 

 クラスメイトたちは、何事もないように話している。

 

 爆豪が怒鳴り、飯田が注意し、上鳴が笑い、芦戸が身を乗り出している。

 

 その全員が。

 

 午前二時十三分の教室で、普通に生活していた。

 

「……何だよ、これ」

 

 出久は立ち上がった。

 

「みんな、時計を見て!」

 

「ん?」

 

 上鳴が顔を上げる。

 

「時計? 何だよ、緑谷。時間がどうかした?」

 

「午前二時十三分だ!」

 

「はあ?」

 

 爆豪が眉をひそめた。

 

「何言ってんだ、デク。今は授業中だろうが」

 

「だから、時計が……!」

 

「緑谷君」

 

 飯田が真面目な顔で言った。

 

「時計は正常だ。授業時間内に二時十三分を示すことは、何ら不自然ではない」

 

「違う、そうじゃなくて……!」

 

 出久は、窓を見た。

 

 外は夜だった。

 

 完全な夜。

 

 校庭には誰もいない。

 

 街灯も消えている。

 

 遠くの建物は、黒い影になっていた。

 

 午前二時十三分。

 

 夜空。

 

 教室。

 

 そして、授業中のクラスメイトたち。

 

 この世界は、何かがおかしい。

 

 いや。

 

 世界がおかしいのではない。

 

 世界の方が、これを正常だと思っている。

 

「……お茶子ちゃん」

 

 出久は、彼女を見た。

 

「今、何年何月何日?」

 

「え? 急にどうしたん?」

 

「いいから、答えて」

 

 お茶子は、少し考えた。

 

「えっと……」

 

 彼女は答えた。

 

 その日付は。

 

 十三年前のものだった。

 

 出久は、呼吸を忘れた。

 

「……十三年前?」

 

「うん。そうやけど……」

 

 お茶子は、不安そうに彼を見た。

 

「出久くん、ほんまに大丈夫?」

 

 出久は、教室を見渡した。

 

 全員が、こちらを見ていた。

 

 その表情は、心配そうだった。

 

 誰も、異常に気づいていない。

 

 誰も、夜の教室を不思議に思っていない。

 

 誰も、十三年前という日付を疑っていない。

 

 そして。

 

 教室の最後列。

 

 窓際の席に。

 

 一人の少年が座っていた。

 

 緑色の髪。

 

 痩せた身体。

 

 見覚えのある制服。

 

 その少年は、ノートに何かを書いていた。

 

 出久と同じ顔だった。

 

 御影出久だった。

 

 彼は顔を上げ、出久に向かって微笑んだ。

 

 そして、ノートを掲げた。

 

 そこには、こう書かれていた。

 

 「ここは、僕が死んだ日の教室だよ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

 御影出久は、もう一枚の紙をめくった。

 

 そこには、さらに短い文章があった。

 

 「そして、君が僕を殺す日でもある」

 

 その瞬間。

 

 教室の全員が、一斉に出久を見た。

 

 笑顔のまま。

 

 まばたき一つせず。

 

 そして、声を揃えて言った。

 

「緑谷出久くん」

 

「君は、誰を救うの?」

 

 出久は、叫んだ。

 

 その声と同時に、教室の床が割れた。

 

 世界が、再び裏返った。

 

第二節 十三年前の緑谷出久

 落ちている。

 

 出久は、自分が落下していることに気づいた。

 

 上下の感覚がない。

 

 空も、地面も、壁もない。

 

 ただ、暗闇だけが広がっている。

 

 その暗闇の中を、無数の記憶が流れていた。

 

 知らない街。

 

 知らない人々。

 

 知らない家。

 

 知らない学校。

 

 そして、同じ顔をした少年たち。

 

 一人は、泣いていた。

 

 一人は、笑っていた。

 

 一人は、誰かの手を握っていた。

 

 一人は、血まみれのナイフを持っていた。

 

 一人は、世界の終わりを見つめていた。

 

 全員が、緑谷出久だった。

 

 いや。

 

 全員が、緑谷出久であることを、何者かに強制されていた。

 

「……やめろ」

 

 出久は手を伸ばした。

 

「やめてくれ……!」

 

 記憶の一つに触れる。

 

 すると、その記憶が開いた。

 

 そこには、小さな病室があった。

 

 ベッドの上に、一人の少年が寝ている。

 

 年齢は、十歳にも満たないだろう。

 

 緑色の髪。

 

 痩せた身体。

 

 白い包帯。

 

 少年の手を握っているのは、母親だった。

 

 緑谷引子。

 

 出久の母親。

 

 彼女は泣いていた。

 

「……お願い」

 

 引子は、少年の手を握りしめていた。

 

「お願いだから、起きて……」

 

 少年は目を開けなかった。

 

 モニターの音だけが、静かに鳴っている。

 

 そのベッドの脇に。

 

 もう一人の少年が立っていた。

 

 御影出久だった。

 

 彼は、引子の背後に立っていた。

 

 泣いてはいなかった。

 

 ただ、何かを決意した顔で、眠っている少年を見つめていた。

 

「……お母さん」

 

 御影出久が口を開いた。

 

 引子は振り向かなかった。

 

「僕が、何とかするから」

 

 少年は、そう言った。

 

「僕が、全部、元に戻すから」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 出久の頭の中に、激しい痛みが走った。

 

 ――違う。

 

 ――これは、僕じゃない。

 

 ――僕は、こんなことを言っていない。

 

 そう思った。

 

 しかし、次の瞬間。

 

 自分の口から、同じ言葉が漏れていた。

 

「……僕が、全部、元に戻すから」

 

 出久は、自分の口を押さえた。

 

 声が、勝手に出た。

 

 記憶が、自分の中に流れ込んでくる。

 

 御影出久の記憶。

 

 十三年前。

 

 彼は、確かに存在していた。

 

 緑谷出久と同じ顔をした、もう一人の少年として。

 

 しかし、彼は緑谷家の子供ではなかった。

 

 戸籍もない。

 

 住民記録もない。

 

 出生記録もない。

 

 彼は、世界のどこにも登録されていなかった。

 

 それなのに、緑谷出久と同じ顔をしていた。

 

 同じ声をしていた。

 

 同じように笑い、同じように泣き、同じように誰かを救いたいと願っていた。

 

 ただ一つ、違ったことがある。

 

 彼は、自分が存在しないことを知っていた。

 

 最初から。

 

 生まれたときから。

 

 いや。

 

 生まれる前から。

 

 彼は、自分が世界に認められていないことを知っていた。

 

 それでも、彼は生きていた。

 

 緑谷出久の隣で。

 

 緑谷出久の影として。

 

 緑谷出久が笑えば、彼も笑った。

 

 緑谷出久が泣けば、彼も泣いた。

 

 緑谷出久が誰かを助ければ、彼も誰かを助けた。

 

 そして。

 

 緑谷出久が、誰かに愛されるたび。

 

 御影出久は、少しずつ、自分が何者なのか分からなくなっていった。

 

 自分は、誰なのか。

 

 緑谷出久なのか。

 

 緑谷出久ではないのか。

 

 緑谷出久の影なのか。

 

 緑谷出久の代わりなのか。

 

 それとも。

 

 緑谷出久が、世界から切り離した何かなのか。

 

 答えは、どこにもなかった。

 

 そして、十三年前のある日。

 

 彼は、答えを求めることをやめた。

 

 代わりに、たった一つのことを願った。

 

 ――兄さんを、救いたい。

 

 出久の呼吸が止まった。

 

 兄さん。

 

 その言葉が、記憶の中で響いた。

 

 御影出久には、兄がいた。

 

 緑谷出久にも、兄がいた。

 

 しかし。

 

 その二人の兄は、同じ人物ではなかった。

 

 御影出久の兄は、十三年前に死んだ。

 

 緑谷出久の兄は。

 

 十三年前に、存在を失った。

 

 そして、その二つの出来事が重なった瞬間。

 

 世界は、最初の再構築を始めた。

 

 出久は、暗闇の中で叫んだ。

 

「……誰なんだ!」

 

 答えはなかった。

 

「御影出久の兄さんは、誰なんだ!」

 

 暗闇が、揺れた。

 

 その奥から、声が聞こえた。

 

「――僕だよ」

 

 出久は、顔を上げた。

 

 そこに立っていたのは。

 

 もう一人の緑谷出久だった。

 

 いや。

 

 その顔は、少し違っていた。

 

 髪は短く、目元には深い隈がある。

 

 頬は痩せこけ、指先には無数の傷が刻まれていた。

 

 その少年は、出久を見つめていた。

 

「僕が、御影出久の兄だ」

 

 出久は、言葉を失った。

 

 少年は、静かに続けた。

 

「そして、君の兄でもある」

 

 暗闇の奥で、何かが動いた。

 

 無数の記憶が、再び流れ始めた。

 

 十三年前。

 

 午前二時十三分。

 

 最初に死んだのは、御影出久だった。

 

 そして。

 

 最初に殺したのは、緑谷出久だった。

 

第三節 兄さんは、一人しかいなかった

「……君が、御影出久のお兄さん?」

 

 出久は、目の前の少年を見つめた。

 

 少年は頷いた。

 

「そうだよ」

 

「でも、さっき……君は、僕の兄でもあるって」

 

「うん」

 

「僕には、兄なんて……」

 

 言いかけて、出久は口を閉じた。

 

 記憶が、揺れた。

 

 自分の家。

 

 緑谷引子。

 

 幼い自分。

 

 その隣に、もう一人の子供がいる。

 

 食卓を囲んでいる。

 

 テレビを見て笑っている。

 

 雨の日に、一つの傘を分け合っている。

 

 転んだ自分を抱き起こしている。

 

 頭を撫でている。

 

 そして。

 

 夜、布団の中で泣いている自分に、こう言っていた。

 

 ――大丈夫だよ、出久。

 

 ――兄ちゃんがいるから。

 

「……っ!」

 

 出久は頭を抱えた。

 

 記憶が、壊れた窓ガラスのように一斉に降り注ぐ。

 

 兄。

 

 兄。

 

 兄。

 

 自分には、兄がいた。

 

 その事実が、心の奥から浮かび上がってくる。

 

 しかし、名前だけが分からない。

 

 顔も、声も、確かに覚えている。

 

 なのに、名前を呼ぼうとすると、そこだけが真っ黒になる。

 

「……兄さん」

 

 出久は、震える声で呟いた。

 

 目の前の少年は、悲しそうに笑った。

 

「うん」

 

「僕の……兄さん?」

 

「そうだよ」

 

「じゃあ、どうして……」

 

 出久は顔を上げた。

 

「どうして、僕は君を忘れていたんだ!」

 

 叫びは、暗闇を震わせた。

 

 少年は答えなかった。

 

 ただ、出久の頭に手を置いた。

 

 それは、記憶の中の手と同じだった。

 

 大きくて、温かくて、少しだけ不器用な手。

 

「忘れたかったんだよ」

 

 少年は言った。

 

「君は、僕を忘れたかった」

 

「違う!」

 

「うん。今の君は、そう思うだろうね」

 

「僕は、兄さんを忘れたいなんて……!」

 

「分かってる」

 

 少年は、優しく頷いた。

 

「君は、誰も忘れたくなかったんだ」

 

 その言葉に、出久は何も返せなかった。

 

「御影出久も、僕も。君は、誰一人として失いたくなかった」

 

 少年は、暗闇の向こうを見た。

 

「だから、君は世界を作り直した」

 

 そこに、無数の光景が浮かび上がる。

 

 燃える街。

 

 崩れる建物。

 

 誰かの叫び。

 

 倒れていく人々。

 

 その中心で、少年が立っていた。

 

 緑色の髪。

 

 血まみれの手。

 

 そして、何もかもを諦めたような瞳。

 

「最初は、ただの事故だった」

 

 兄は語り始めた。

 

「僕たちが暮らしていた世界で、何かが起きた。個性の暴走だったのか、観測装置の異常だったのか、それとも、もっと別の何かだったのか。今となっては、僕にも分からない」

 

 兄の声は、ひどく遠かった。

 

「ただ、午前二時十三分に、世界が一度、途切れたんだ」

 

 出久は息を呑んだ。

 

「その瞬間、御影出久が死んだ」

 

 無数の光景の中で、一人の少年が倒れる。

 

 御影出久だった。

 

「そして、僕も死んだ」

 

 別の光景で、兄が倒れた。

 

「君も死んだ」

 

 さらに別の光景で、緑谷出久が倒れた。

 

「世界中の人間が、死んだ」

 

 暗闇が広がった。

 

 人影が消える。

 

 街が消える。

 

 空が消える。

 

 最後に残ったのは、三人の少年だった。

 

 御影出久。

 

 兄。

 

 そして、緑谷出久。

 

「……何で、僕たちだけが?」

 

「分からない」

 

 兄は首を振った。

 

「僕たちが特別だったのかもしれない。世界の異常に巻き込まれたからかもしれない。あるいは、最初から、僕たちだけが何かの対象だったのかもしれない」

 

「対象……」

 

「でも、確かなことが一つだけある」

 

 兄は、出久を見つめた。

 

「三人のうち、最初に目を覚ましたのは、君だった」

 

 出久の胸が、強く鳴った。

 

「君は、世界が終わったことを理解した。そして、泣いていた」

 

 記憶が開く。

 

 真っ暗な世界。

 

 誰もいない街。

 

 何も聞こえない空。

 

 出久は、その中に一人で立っていた。

 

 足元には、御影出久が倒れていた。

 

 その少し先に、兄が倒れていた。

 

 どちらも動かない。

 

 どちらも、息をしていない。

 

 そして、自分の手には。

 

 一本の、白い針が握られていた。

 

「……これは」

 

 出久は、自分の手を見た。

 

 暗闇の中でも、はっきりと見える。

 

 細い針。

 

 先端に、黒い液体が付着している。

 

「君は、そのとき、僕を救おうとした」

 

 兄が言った。

 

「死んでいた僕を、もう一度、生き返らせようとした」

 

「僕が……?」

 

「うん」

 

「どうやって?」

 

「世界を作り直すことで」

 

 兄は、静かに答えた。

 

「君は、世界が終わる前の時間に戻ろうとした。僕たちが死ぬ前に。御影出久が死ぬ前に。誰も失わずに済む時間まで、世界を巻き戻そうとした」

 

「そんなこと……できるはずがない」

 

「普通はね」

 

 兄は頷いた。

 

「でも、君はできてしまった」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「君は、世界を再構築したんだ」

 

 暗闇が、白く染まる。

 

 壊れた街が修復される。

 

 倒れた建物が元に戻る。

 

 人々が立ち上がる。

 

 空が戻る。

 

 時計の針が逆回転し、午前二時十三分より前へと戻っていく。

 

 そして。

 

 世界は、もう一度、始まった。

 

「最初の再構築は、成功したように見えた」

 

 兄が言った。

 

「僕たちは生きていた。御影出久も生きていた。君も生きていた。誰も、何も覚えていなかったけれど、世界は元に戻ったんだ」

 

「だったら……」

 

 出久は顔を上げた。

 

「それで、よかったんじゃないか」

 

「うん」

 

 兄は、微笑んだ。

 

「僕も、そう思ったよ」

 

 その笑顔が、消えた。

 

「でも、君は違った」

 

 暗闇の向こうで、時計が鳴った。

 

 午前二時十三分。

 

 世界が、再び停止した。

 

「君は、覚えていたんだ」

 

 兄は言った。

 

「世界を作り直す前のことを。僕たちが死んだことを。御影出久が死んだことを」

 

 出久は、自分の手を見つめた。

 

 針は、まだ握られていた。

 

「そして、君は考えた」

 

 兄の声が、少しずつ冷たくなっていく。

 

「次は、もっと上手くやればいい」

 

「……違う」

 

「もっと早く動けばいい」

 

「違う……!」

 

「誰かが死ぬ前に、原因を取り除けばいい」

 

「やめろ……!」

 

「そして、誰かが死んだら、また作り直せばいい」

 

 兄は、出久を見つめた。

 

「君は、そうやって、何度も世界を作り直した」

 

 無数の世界が、出久の周囲に現れた。

 

 ある世界では、兄が死んだ。

 

 ある世界では、御影出久が死んだ。

 

 ある世界では、出久自身が死んだ。

 

 ある世界では、三人とも生きていた。

 

 しかし、その世界でも。

 

 午前二時十三分になると、誰かが死んだ。

 

 何度繰り返しても。

 

 何度やり直しても。

 

 誰かが死んだ。

 

「……どうして」

 

 出久は、震える声で尋ねた。

 

「どうして、そんなことが起きるんだ」

 

「世界が、君の願いを完全には叶えられなかったからだよ」

 

 兄は答えた。

 

「君は、誰も死なない世界を望んだ。でも、世界は君の願いをそのまま実現できなかった。誰かを生かせば、誰かが消える。誰かを救えば、別の誰かが犠牲になる」

 

「そんなの……!」

 

「君は、それを認めなかった」

 

 兄の目が、悲しみに沈んだ。

 

「だから、君は世界そのものを疑い始めたんだ」

 

 出久の足元に、黒い亀裂が走った。

 

「この世界は間違っている」

 

 兄が言った。

 

「この世界では、誰かを救うために、誰かを犠牲にしなければならない」

 

「……」

 

「だったら、世界の方を変えればいい」

 

 出久は、首を振った。

 

 その言葉は、自分のものだった。

 

 自分が考えそうな言葉だった。

 

 誰かを救うために、誰かが死ぬ。

 

 そんな仕組みが間違っているなら、仕組みそのものを変えればいい。

 

 誰かが犠牲になることを前提とした世界なら、その前提を壊せばいい。

 

 その考え方自体は、間違っていないはずだった。

 

 しかし。

 

「君は、世界を変えようとするうちに」

 

 兄が、静かに言った。

 

「世界を壊すことと、誰かを救うことの区別がつかなくなってしまったんだ」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

「君は、御影出久を救おうとした」

 

 兄は続けた。

 

「そのために、世界を壊した」

 

「……」

 

「僕を救おうとした」

 

「……」

 

「そのために、世界を壊した」

 

「……やめてくれ」

 

「そして最後に」

 

 兄は、出久の手を見た。

 

 そこには、白い針が握られている。

 

「君は、御影出久を殺した」

 

 出久の世界が、止まった。

 

「……何を」

 

「君は、御影出久を殺したんだ」

 

 兄は、繰り返した。

 

「彼が死ねば、世界を再構築する必要がなくなると思った」

 

「違う……」

 

「彼がいなくなれば、彼を救うために世界を壊すこともなくなると思った」

 

「違う!」

 

「彼が消えれば、僕たちは生きられると思った」

 

「違うッ!」

 

 出久は叫んだ。

 

 その声に応えるように、無数の世界が震えた。

 

「僕は、そんなこと……!」

 

「うん」

 

 兄は、頷いた。

 

「君は、そう思っていなかった」

 

 出久は、言葉を失った。

 

「君は、彼を殺したくなかった」

 

 兄は、悲しそうに微笑んだ。

 

「でも、君は彼を殺したんだ」

 

 そして。

 

 出久の手の中の針が、ゆっくりと黒く染まっていった。

 

「君が世界を救おうとしたからじゃない」

 

 兄は言った。

 

「君が、自分の願いを叶えるために、彼の存在を消したからだ」

 

 その言葉と同時に。

 

 出久の記憶が、決定的に開いた。

 

第四節 最初に殺された少年

 十三年前。

 

 午前二時十三分。

 

 その部屋には、三人の少年がいた。

 

 御影出久。

 

 緑谷出久。

 

 そして、緑谷出久の兄。

 

 窓の外には、雨が降っていた。

 

 部屋の中には、古い時計があった。

 

 秒針が、音を立てて動いている。

 

 御影出久は、ベッドの上に座っていた。

 

 顔色が悪い。

 

 身体が震えている。

 

 何日も眠っていないような目をしていた。

 

「……もう、やめようよ」

 

 御影出久は、出久に言った。

 

「お願いだから、もう世界を作り直すのはやめて」

 

 幼い緑谷出久は、首を振った。

 

「でも、兄さんが死んじゃう」

 

「兄さんは、もう死んだんだよ」

 

「そんなの、嫌だ!」

 

 出久は叫んだ。

 

「僕は、兄さんを助けたいんだ!」

 

「分かってるよ!」

 

 御影出久も叫んだ。

 

「僕だって、助けたい!」

 

 彼の目から、涙が溢れた。

 

「僕だって、兄さんに生きていてほしい!」

 

 御影出久は、自分の胸を押さえた。

 

「でも、もう無理なんだよ……!」

 

「どうして!」

 

「世界が、僕たちを拒んでるからだよ!」

 

 その声に、部屋が震えた。

 

 時計の針が、一瞬だけ逆回転した。

 

「僕たちが何度やり直しても、世界は同じ結果に戻ろうとする。誰かが死ぬ。誰かが消える。僕たちが何をしても、世界は僕たちを一つにしようとするんだ!」

 

「だったら、もっとやり直せばいい!」

 

「違う!」

 

 御影出久は、出久の肩をつかんだ。

 

「もっとやり直したら、もっとたくさんの人が死ぬ!」

 

 出久は、動きを止めた。

 

「……何?」

 

「君は、覚えていないんだ」

 

 御影出久は、涙を流していた。

 

「世界を作り直すたびに、誰かが消えている。君が救おうとした人だけじゃない。君が知らない人も。君が会ったことのない人も。誰かの父親も、誰かの母親も、誰かの兄弟も」

 

 御影出久の声が震えた。

 

「君が世界を作り直すたびに、誰かの人生がなかったことになるんだ」

 

「……でも」

 

「僕たちが生きるために、何人殺せばいいの?」

 

 出久は、答えられなかった。

 

 御影出久は、彼の手を握った。

 

「お願い、出久」

 

 その手は、冷たかった。

 

「もう、やめよう」

 

「……」

 

「兄さんが死んだことを、認めよう」

 

「……嫌だ」

 

「出久」

 

「嫌だ!」

 

 幼い出久は、泣きながら首を振った。

 

「だって、兄さんは……!」

 

 言葉が、途切れた。

 

 兄は、二人の少年を見つめていた。

 

 その顔は、ひどく疲れていた。

 

 何度も世界を繰り返し、何度も弟を失い、何度も誰かの死を見てきた人間の顔だった。

 

 それでも。

 

 彼は、笑おうとした。

 

「……出久」

 

 兄が呼んだ。

 

「こっちにおいで」

 

 出久は、兄に駆け寄った。

 

 抱きついた。

 

 兄は、彼を抱きしめた。

 

「大丈夫だよ」

 

 兄は言った。

 

「もう、大丈夫だから」

 

「……ほんとう?」

 

「うん」

 

「兄さん、死なない?」

 

 兄は、答えなかった。

 

 ただ、出久の頭を撫でた。

 

 そして。

 

「……ごめんな」

 

 そう言った。

 

 出久は、その意味が分からなかった。

 

 御影出久だけが、理解していた。

 

「……兄さん?」

 

 御影出久は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「何をするつもり?」

 

 兄は、彼を見た。

 

「もう、終わりにしよう」

 

「……何を?」

 

「この繰り返しを」

 

 御影出久の顔から、血の気が引いた。

 

「待って」

 

 彼は、兄の腕をつかんだ。

 

「待ってよ、兄さん」

 

「……」

 

「何をするつもりなの?」

 

 兄は、答えなかった。

 

 代わりに。

 

 彼は、出久を見た。

 

「出久」

 

「……何?」

 

「兄ちゃんのこと、好きか?」

 

 出久は、泣きながら頷いた。

 

「うん……!」

 

「そっか」

 

 兄は笑った。

 

「よかった」

 

 その笑顔を。

 

 御影出久は、忘れられなかった。

 

 そして。

 

 午前二時十三分。

 

 兄は、自分の存在を世界から切り離した。

 

 誰かが死ぬことでしか成立しない世界なら。

 

 誰かが犠牲になることでしか救われない世界なら。

 

 最初に死ぬべきなのは、自分だと。

 

 彼は考えた。

 

 自分がいなくなれば、二人は生きられるかもしれない。

 

 自分が消えれば、世界は二人を一つにまとめる必要がなくなるかもしれない。

 

 自分が死ねば。

 

 少なくとも、弟たちは、もう誰かを救うために世界を壊さずに済むかもしれない。

 

 だから、彼は消えた。

 

 その瞬間。

 

 御影出久は、叫んだ。

 

「兄さんッ!」

 

 世界が、真っ白になった。

 

 御影出久は、兄が消えた場所へ手を伸ばした。

 

 何もない。

 

 何も残っていない。

 

 ただ、空白だけがあった。

 

 彼は、その場に崩れ落ちた。

 

「……嫌だ」

 

 泣いた。

 

「嫌だ……」

 

 何度も、何度も。

 

「兄さん……」

 

 その声を聞きながら。

 

 緑谷出久は、立ち尽くしていた。

 

 兄がいなくなった。

 

 御影出久が泣いている。

 

 世界は、元に戻った。

 

 そして、自分だけが。

 

 何も理解できていなかった。

 

「……兄さん?」

 

 出久は、周囲を見回した。

 

 どこにもいない。

 

 さっきまで、そこにいたのに。

 

「……兄さん!」

 

 叫んだ。

 

 返事はなかった。

 

 その瞬間、出久の中で何かが壊れた。

 

 悲しみ。

 

 恐怖。

 

 絶望。

 

 そして、怒り。

 

 世界への怒り。

 

 自分への怒り。

 

 兄を失ったことへの怒り。

 

 そのすべてが、一つの願いに変わった。

 

 ――兄さんを、返せ。

 

 世界が、震えた。

 

 ――兄さんを、返せ。

 

 時計の針が、逆回転を始めた。

 

 ――兄さんを、返せ。

 

 空が、砕けた。

 

 ――兄さんを、返せ。

 

 そして。

 

 緑谷出久は、世界を再構築した。

 

 兄が消える前の世界へ。

 

 御影出久が泣く前の世界へ。

 

 誰も、何も失っていない世界へ。

 

 しかし。

 

 その再構築の瞬間。

 

 世界は、ある条件を突きつけた。

 

 「再構築対象を選択してください」

 

 出久は、何も考えずに答えた。

 

 ――全員。

 

 世界は、答えた。

 

 「不可能です」

 

 ――じゃあ、兄さんだけでも。

 

 「不可能です」

 

 ――どうして!

 

 「対象個体が、世界の構造と矛盾しています」

 

 出久は、意味が分からなかった。

 

 兄は、そこにいた。

 

 自分の兄だった。

 

 御影出久の兄だった。

 

 世界のどこにも、矛盾などなかったはずだ。

 

 それなのに。

 

 世界は、兄を拒んだ。

 

 「対象個体を復元する場合、別の対象個体を消去する必要があります」

 

 出久は、震えた。

 

 ――誰を?

 

 世界は答えた。

 

 「御影出久」

 

 その瞬間。

 

 出久の目の前に、御影出久が現れた。

 

 泣いていた少年。

 

 兄を失った少年。

 

 自分と同じ顔をした少年。

 

 御影出久は、出久を見つめた。

 

「……そっか」

 

 彼は、小さく笑った。

 

「そういうことなんだね」

 

 出久は首を振った。

 

 ――嫌だ。

 

 ――そんなの、嫌だ。

 

 ――御影出久を消すなんて、できない。

 

 しかし。

 

 世界は、待っていた。

 

 選択を。

 

 そして、出久は。

 

 御影出久を選んだ。

 

 正確には。

 

 御影出久を、犠牲にすることを選んだ。

 

 兄を救うために。

 

 世界を元に戻すために。

 

 誰も失わない未来を作るために。

 

 最初に、もう一人の自分を消した。

 

 御影出久は、抵抗しなかった。

 

 ただ、出久を見つめていた。

 

「……出久」

 

 彼は言った。

 

「君は、兄さんを救いたいんだよね」

 

 出久は、泣きながら頷いた。

 

「うん……!」

 

「そっか」

 

 御影出久は、笑った。

 

「じゃあ、いいよ」

 

「……え?」

 

「僕がいなくなれば、兄さんが戻ってくるんだよね?」

 

 出久は答えられなかった。

 

「だったら、いいよ」

 

 御影出久は、優しく笑った。

 

「僕は、もう十分だから」

 

 彼は、自分の胸に手を置いた。

 

「だって、僕も兄さんが大好きだったから」

 

 その言葉が。

 

 最後だった。

 

 御影出久の身体が、光に包まれた。

 

 輪郭が崩れる。

 

 髪が消える。

 

 指が消える。

 

 声が消える。

 

 そして。

 

 世界から、御影出久という存在が消えた。

 

 出久は、その場に立ち尽くしていた。

 

 兄は、戻ってきた。

 

 世界も、元に戻った。

 

 誰も死んでいない。

 

 誰も消えていない。

 

 少なくとも、記録上は。

 

 それなのに。

 

 出久の胸には、どうしようもない空白が残っていた。

 

 何かを失った。

 

 何かを殺した。

 

 その事実だけが、消えなかった。

 

 そして、世界の奥から。

 

 誰かの声が聞こえた。

 

 「第一再構築、完了」

 

 「犠牲個体、御影出久」

 

 「記憶消去、開始」

 

 「次回観測まで、対象を休眠状態に移行します」

 

 出久は、最後に一つだけ思った。

 

 ――御影出久って、誰だろう。

 

 そして。

 

 その記憶も、消えた。

 

第五節 許された犠牲は、次の犠牲を生む

「……違う」

 

 現在の緑谷出久は、暗闇の中で首を振っていた。

 

「違う……違うんだ……!」

 

 記憶が戻ってきた。

 

 十三年前の出来事。

 

 御影出久という少年。

 

 兄が消えた夜。

 

 そして、自分が選んだ、最初の犠牲。

 

 だが、すべてを思い出したわけではなかった。

 

 なぜ、御影出久が世界から切り離されていたのか。

 

 なぜ、彼の存在が緑谷出久と重なっていたのか。

 

 なぜ、兄が消えることになったのか。

 

 その原因は、まだ見えない。

 

 ただ一つ、確かなことがあった。

 

 自分は、御影出久を殺した。

 

 世界を救うために。

 

 兄を救うために。

 

 そして、その選択を忘れたまま、何度も同じことを繰り返してきた。

 

「……僕は」

 

 出久は、自分の手を見つめた。

 

「僕は、何をしてきたんだ……」

 

「君は、間違えたんだよ」

 

 御影出久の声がした。

 

 顔を上げると、彼は少し離れた場所に立っていた。

 

 その身体は、先ほどよりも透き通っている。

 

 世界が彼を拒んでいるのだ。

 

 ここに存在することそのものが、許されていない。

 

「でも、僕だけが悪かったわけじゃない」

 

 御影出久は、静かに続けた。

 

「兄さんを救いたかった。君も、僕も。誰も悪くなかったんだ」

 

「……だったら、どうして」

 

「どうして僕が死ななきゃいけなかったのか、って?」

 

 御影出久は頷いた。

 

「僕にも分からない」

 

 彼は、苦笑した。

 

「ただ、あのときの僕は、君を責められなかったんだ」

 

「……」

 

「君は泣いていたから」

 

 出久は顔を上げた。

 

「君は、僕を消すことを選びながら、ずっと泣いていた。僕に謝っていた。何度も、何度も」

 

 御影出久は、自分の胸に手を置いた。

 

「だから、僕は君を許そうとした」

 

「……許す?」

 

「うん」

 

 彼は頷いた。

 

「僕が消えれば、君は幸せになれると思ったから」

 

 その言葉は、あまりにも残酷だった。

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「でもね」

 

 御影出久の表情が、変わった。

 

「君は、僕が消えても幸せにならなかった」

 

 彼の背後に、無数の世界が浮かび上がる。

 

「兄さんが戻ってきても、君はまた別の誰かを失った」

 

「……」

 

「その誰かを救うために、君は世界を作り直した」

 

「……」

 

「世界を作り直したら、今度は別の誰かが消えた」

 

 御影出久は、出久を見つめた。

 

「そして君は、その人を救うために、また世界を作り直した」

 

 無数の世界が、同時に崩壊する。

 

「そうやって、君は何度も繰り返したんだ」

 

 出久は、膝をついた。

 

 その光景を、否定できなかった。

 

 自分は、何度も誰かを救おうとした。

 

 そのために、世界を作り直した。

 

 誰かを失うたびに。

 

 誰かを救えなかったと知るたびに。

 

 自分の選択が間違っていたと認めることができず、別の選択を探し続けた。

 

 その結果。

 

 世界そのものが、彼の願いを処理するための装置になってしまった。

 

 人間は、観測対象になった。

 

 人生は、再構築の材料になった。

 

 死は、やり直しのための条件になった。

 

 そして。

 

 自分が何をしているのかさえ、分からなくなった。

 

「……じゃあ」

 

 出久は、震える声で尋ねた。

 

「お茶子ちゃんも……?」

 

 御影出久は、答えなかった。

 

 その沈黙だけで、十分だった。

 

「お茶子ちゃんも、僕が世界を作り直すたびに……」

 

「うん」

 

「何度も、消えていたの?」

 

「うん」

 

 出久は、目を閉じた。

 

 胸が痛い。

 

 呼吸ができない。

 

 彼女の笑顔が浮かぶ。

 

 彼女の声が聞こえる。

 

 彼女が自分の名前を呼んでくれたこと。

 

 彼女が、自分を信じてくれたこと。

 

 彼女が、自分の手を握ってくれたこと。

 

 それらすべてが。

 

 自分の選択によって、何度も壊されていたのだとしたら。

 

「……僕は」

 

 出久は、声を絞り出した。

 

「僕は、お茶子ちゃんを……」

 

「君は、彼女を救いたかったんだよ」

 

 御影出久は言った。

 

「それは、本当だ」

 

「……」

 

「でも、君は彼女を救うために、彼女が生きている世界そのものを壊してしまった」

 

 御影出久は、出久の前にしゃがみ込んだ。

 

「君は、彼女を愛していた」

 

 出久は顔を上げた。

 

「だからこそ、彼女を失うことに耐えられなかった」

 

 御影出久は、悲しそうに笑った。

 

「そして、彼女を失うことに耐えられない君は、彼女が生きる世界を壊してしまう」

 

「……じゃあ、どうすればいいんだ」

 

 出久は、初めて、助けを求めるように尋ねた。

 

「どうすれば、僕は……」

 

 言葉が途切れる。

 

 どうすれば、誰も失わずに済むのか。

 

 どうすれば、もう誰も殺さずに済むのか。

 

 どうすれば、世界を壊さずに済むのか。

 

 どうすれば。

 

 どうすれば。

 

 どうすれば。

 

 御影出久は、しばらく出久を見つめていた。

 

 そして、ゆっくりと立ち上がった。

 

「それを、君自身が考えなきゃいけないんだ」

 

「……」

 

「僕が答えを教えたら、君はまた、僕の答えを正解にしようとする」

 

 御影出久は、自分の手を見た。

 

「僕を犠牲にすればいいと思ったように」

 

 彼の身体が、さらに透き通る。

 

「兄さんを犠牲にすればいいと思ったように」

 

 その輪郭が、白い光に溶け始める。

 

「そして、今度は麗日お茶子を犠牲にすればいいと思うかもしれない」

 

「……そんなこと、するわけない!」

 

 出久は叫んだ。

 

「僕は、もう誰も犠牲にしない!」

 

「うん」

 

 御影出久は頷いた。

 

「そう言うと思った」

 

 彼は笑った。

 

 しかし、その笑顔には、希望がなかった。

 

「でも、出久」

 

 御影出久は、最後に言った。

 

「君は、もう一度だけ、選ばなきゃいけない」

 

「……何を?」

 

「僕を救うか」

 

 御影出久は、自分の胸に手を置いた。

 

「それとも、世界を救うか」

 

 出久は、首を振った。

 

「そんな選択はしない」

 

「……」

 

「僕は、君も救う。世界も救う。お茶子ちゃんも、兄さんも、みんな救う」

 

 御影出久は、目を閉じた。

 

 そして。

 

 初めて、泣いた。

 

「……やっぱり、君は変わらないんだね」

 

 その涙は、透き通っていた。

 

 消えていく身体から、雫だけが零れ落ちる。

 

「だから、僕は……」

 

 御影出久は、何かを言いかけた。

 

 しかし、その声は途中で途切れた。

 

 彼の背後に、黒い影が現れたからだ。

 

 顔のない影。

 

 観測者。

 

 十三年前から、世界の再構築を見つめ続けていた存在。

 

 影は、御影出久の肩に手を置いた。

 

『対象個体、御影出久』

 

『記憶復旧率、100%』

 

『統合処理を再開します』

 

「……待て!」

 

 出久が叫んだ。

 

「そいつを離せ!」

 

 影は動かない。

 

『対象個体の存在は、再構築システムにとって不適合です』

 

『統合による消去を実行します』

 

「やめろ!」

 

 出久は走った。

 

 御影出久に手を伸ばす。

 

 しかし、その手が届く寸前。

 

 御影出久が、出久を見た。

 

 そして、笑った。

 

「……今度は、僕を忘れないでね」

 

 その言葉とともに。

 

 彼の身体が、白い光に包まれた。

 

「御影ッ!」

 

 出久の叫びが、暗闇に響いた。

 

 しかし。

 

 御影出久は消えなかった。

 

 影の手を振り払い、出久の手を握り返した。

 

 その瞬間。

 

 世界の奥底から、警報が鳴り響いた。

 

 「統合処理、拒絶」

 

 「対象個体、独立を確認」

 

 「再構築システム、異常」

 

 影の身体が、激しく揺れた。

 

『……何をした』

 

 御影出久は、出久の手を握ったまま答えた。

 

「何も」

 

 彼は、笑った。

 

「ただ、もう一度、僕自身を選んだだけだよ」

 

 その瞬間。

 

 出久の胸の三つ目の心臓が、強く脈打った。

 

 どくん。

 

 その鼓動に呼応するように。

 

 遠くから、別の鼓動が聞こえた。

 

 どくん。

 

 どくん。

 

 それは、麗日お茶子の心臓だった。

 

 御影出久は、顔を上げた。

 

「……ああ」

 

 彼は、ようやく何かを理解したように呟いた。

 

「そういうことだったんだ」

 

「何が……?」

 

「お茶子ちゃんは、僕を覚えていたんだ」

 

 出久は、息を呑んだ。

 

「……御影を?」

 

「うん」

 

 御影出久は頷いた。

 

「彼女は、僕が消えたことを覚えていた。だから、君が僕を忘れても、世界が僕を消しても、彼女だけは僕の存在を忘れられなかった」

 

「……」

 

「それで、彼女は何度も君を救おうとしたんだ」

 

 御影出久は、悲しそうに笑った。

 

「君が僕を殺したことを、君自身が思い出さないように」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

「彼女は、君を愛していたから」

 

 御影出久は言った。

 

「君が自分を憎まなくて済むように、君の記憶を守ろうとしたんだ」

 

 その瞬間。

 

 出久の胸に、強烈な痛みが走った。

 

 お茶子の声が聞こえた。

 

 遠くから。

 

 泣きながら。

 

 何度も、何度も。

 

 ――出久くん。

 

 ――忘れんといて。

 

 ――うちのことは忘れてもええから。

 

 ――でも、あの子のことだけは。

 

 ――御影出久のことだけは、忘れんといて。

 

 出久は、叫んだ。

 

「……お茶子ちゃん!」

 

 暗闇が、砕けた。

 

第六節 麗日お茶子が隠したもの

 白い部屋の中で、麗日お茶子は目を開けた。

 

 そこには、誰もいなかった。

 

 緑谷出久も。

 

 御影出久も。

 

 観測者も。

 

 ただ、白い壁と、白い床と、白い天井があるだけだった。

 

 彼女は、自分の手を見つめた。

 

 手の甲には、数字が刻まれている。

 

 0213。

 

 十三年前の午前二時十三分。

 

 自分が存在しなかったはずの時間。

 

 彼女は、その数字を指でなぞった。

 

「……やっと」

 

 小さく呟く。

 

「やっと、ここまで来たんやね」

 

 彼女の声には、疲労が滲んでいた。

 

 何度も同じ夢を見た。

 

 何度も同じ世界を生きた。

 

 何度も、同じ少年を失った。

 

 そして、そのたびに。

 

 自分の記憶を差し出してきた。

 

 彼を救うために。

 

 彼を忘れるために。

 

 彼が、自分を殺した記憶を思い出さずに済むように。

 

 お茶子は、胸元から小さなノートを取り出した。

 

 表紙には、名前が書かれている。

 

 御影出久。

 

 彼女は、その文字を見つめた。

 

「……ごめんね」

 

 ノートを開く。

 

 そこには、十三年前から書き続けてきた記録があった。

 

 最初のページには、幼い文字で、こう書かれていた。

 

 『御影出久くんは、うちの最初のヒーローです』

 

 次のページ。

 

 『御影出久くんは、世界がなくなっても、うちを助けてくれました』

 

 さらに次のページ。

 

 『御影出久くんは、緑谷出久くんに殺されました』

 

 その文章の下には、何度も消して書き直した跡があった。

 

 『でも、緑谷出久くんは、悪くありません』

 

 『緑谷出久くんは、御影出久くんを殺したことを覚えていません』

 

 『だから、うちが覚えていなければいけません』

 

 お茶子は、ページをめくった。

 

 文字が、少しずつ乱れていく。

 

 記録が、増えていく。

 

 何度も何度も、同じことが繰り返されている。

 

 そして、最後のページ。

 

 そこには、現在の彼女の筆跡で、こう書かれていた。

 

 『次に世界が再構築されたら、緑谷出久くんの記憶から、御影出久くんの存在が完全に消える』

 

 その下に、もう一行。

 

 『その代わり、うちが御影出久くんの存在を引き受ける』

 

 お茶子は、目を閉じた。

 

 彼女は知っていた。

 

 自分が何者なのか。

 

 自分が、なぜ緑谷出久を知らないふりをしていたのか。

 

 自分が、なぜ十三年前の記憶を持っているのか。

 

 そして。

 

 自分が、何をしようとしているのか。

 

 彼女は、ノートを閉じた。

 

「……もう、終わりにしよう」

 

 その声は、震えていた。

 

 怖い。

 

 苦しい。

 

 逃げたい。

 

 出久に会いたい。

 

 出久に抱きしめてほしい。

 

 出久に、名前を呼んでほしい。

 

 それでも。

 

 彼女は、立ち上がった。

 

 白い部屋の奥に、一つの扉がある。

 

 扉には、こう書かれていた。

 

 再構築装置。

 

 お茶子は、その扉へ向かって歩き始めた。

 

 その瞬間。

 

 背後から、声がした。

 

「……お茶子ちゃん」

 

 彼女の足が止まった。

 

 振り向かなくても分かる。

 

 何度も聞いた声。

 

 何度も失った声。

 

 そして、何度も自分を救ってくれた声。

 

「……出久くん」

 

 彼女は、振り返らなかった。

 

「お願いだから、こっちを見て」

 

 出久の声が震えている。

 

「お願いだから、もう一度、話をさせて」

 

 お茶子は、目を閉じた。

 

 涙が零れた。

 

「……あかんよ」

 

「どうして?」

 

「君が、全部思い出してしまうから」

 

「思い出してもいい!」

 

 出久は叫んだ。

 

「僕は、もう逃げない!」

 

 お茶子は、唇を噛んだ。

 

「……そう言うと思った」

 

 彼女は、ようやく振り返った。

 

 そこには、緑谷出久が立っていた。

 

 その隣には、御影出久もいた。

 

 二人は、同じ顔をしていた。

 

 しかし、今度は。

 

 御影出久の姿が、消えかけてはいなかった。

 

 彼は、確かにそこに存在していた。

 

 お茶子は、その姿を見て、涙を流した。

 

「……御影くん」

 

 御影出久は、驚いたように目を見開いた。

 

「……覚えていてくれたんだね」

 

「当たり前やん」

 

 お茶子は笑った。

 

「うちが、君を忘れるわけないやろ」

 

 そして。

 

 彼女は、出久を見た。

 

「出久くん」

 

「……うん」

 

「君は、御影くんを殺した」

 

 出久は、頷いた。

 

「……うん」

 

「君は、御影くんを犠牲にして、世界を作り直した」

 

「……うん」

 

「そして、君は、そのことを忘れた」

 

「……うん」

 

 お茶子は、涙を拭った。

 

「でも、うちは、君を責めへん」

 

 出久が顔を上げる。

 

「……どうして?」

 

「君が、御影くんを殺したくて殺したわけやないって、知っとるから」

 

 お茶子は、静かに答えた。

 

「君は、兄さんを救いたかった。御影くんを救いたかった。誰も失いたくなかった」

 

 彼女は、一歩近づいた。

 

「それは、間違いやなかったと思う」

 

「……」

 

「でもね、出久くん」

 

 お茶子は、出久の胸に手を当てた。

 

「誰も失いたくないって願うことと、誰も失わないために、誰かを犠牲にすることは、同じやないんよ」

 

 出久の目から、涙が落ちた。

 

「……うん」

 

「だから、もう一度、考えてほしい」

 

 お茶子は、彼を見つめた。

 

「君が、ほんまに救いたいものは何なのか」

 

 その瞬間。

 

 再構築装置が、起動した。

 

 白い部屋が、赤く染まる。

 

 警報が鳴り響く。

 

 壁に、無数の文字が浮かび上がる。

 

 「再構築条件、成立」

 

 「観測対象、緑谷出久」

 

 「観測対象、御影出久」

 

 「観測対象、麗日お茶子」

 

 「三対象の統合を開始します」

 

 お茶子の顔から、血の気が引いた。

 

「……そんな」

 

 御影出久が、装置を見つめた。

 

「まさか……」

 

 出久は、二人を見た。

 

「何が起きるんだ?」

 

 お茶子は、震える声で答えた。

 

「三人が……一人になる」

 

 出久の胸が、冷たくなった。

 

「……一人?」

 

「うん」

 

 お茶子は、頷いた。

 

「緑谷出久と、御影出久と、麗日お茶子。その三人の存在が、ひとつにまとめられる」

 

「そんなことをしたら……」

 

 御影出久が呟いた。

 

「誰が残るんだ?」

 

 お茶子は、答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 装置が、さらに強く光る。

 

 そして。

 

 新しい文字が浮かび上がった。

 

 「統合後の個体名を選択してください」

 

 画面に、三つの名前が表示された。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 麗日お茶子。

 

 その下に、第四の選択肢が現れた。

 

 「新規個体」

 

 出久は、画面を見つめた。

 

 誰か一人を選べば、残りの二人は消える。

 

 新規個体を選べば、三人とも、今の自分ではなくなる。

 

 また、同じ選択だ。

 

 また、誰かを犠牲にする選択だ。

 

 そして。

 

 今度は、御影出久だけではない。

 

 お茶子も、自分自身も。

 

 すべてが、犠牲になるかもしれない。

 

 御影出久は、出久を見た。

 

「……どうする?」

 

 出久は、画面を見つめた。

 

 そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「選ばない」

 

 お茶子が目を見開いた。

 

「……え?」

 

「僕は、もう誰かを犠牲にする選択はしない」

 

 出久は、装置に向かって歩き始めた。

 

「世界が、誰かを消さなければ成立しないって言うなら」

 

 拳を握る。

 

「世界の方を変える」

 

 その瞬間。

 

 画面が、真っ赤に染まった。

 

 「選択を拒否しました」

 

 「再構築システム、異常」

 

 「世界崩壊まで、残り――」

 

 数字が表示される。

 

 63。

 

 62。

 

 61。

 

 出久は、数字を見つめた。

 

 世界崩壊まで、残り六十一秒。

 

 御影出久が、笑った。

 

「……やっぱり、君は変わらない」

 

 お茶子も、泣きながら笑った。

 

「うん。ほんまに、変わらへんね」

 

 出久は、二人を見た。

 

 そして、初めて。

 

 自分の中にある三つの心臓が、同じリズムで脈打つのを感じた。

 

 どくん。

 

 どくん。

 

 どくん。

 

 その音は、もう恐ろしくなかった。

 

 三つの心臓は、三つの命だった。

 

 消されるべきものではない。

 

 一つにまとめられるべきものでもない。

 

 それぞれが、それぞれの人生を生きるべきものだった。

 

「……二人とも」

 

 出久は、手を差し伸べた。

 

「一緒に、帰ろう」

 

 御影出久は、その手を見つめた。

 

 お茶子も、その手を見つめた。

 

 そして。

 

 二人は、同時に手を伸ばした。

 

 その瞬間。

 

 装置の奥から、誰かの声がした。

 

『――その選択は、認められない』

 

 出久は、顔を上げた。

 

 白い部屋の壁が、ゆっくりと開いていく。

 

 その向こうに、巨大な空間が広がっていた。

 

 無数の世界。

 

 無数の記憶。

 

 無数の緑谷出久。

 

 その中心に。

 

 一人の人間が立っていた。

 

 顔は、見えない。

 

 しかし、その声だけは。

 

 出久が、十三年前から知っている声だった。

 

『君たちは、まだ理解していない』

 

 その存在は、静かに告げた。

 

『緑谷出久が、御影出久を殺したのではない』

 

 出久の全身が、硬直した。

 

『御影出久が、緑谷出久を生かすために、自分を殺させたのだ』

 

 御影出久の顔から、笑みが消えた。

 

 お茶子が、息を呑んだ。

 

 そして、存在は最後に告げた。

 

『――では、なぜ御影出久は、最初から存在していなかったのか』

 

 世界崩壊まで、残り三十秒。

 

 出久は、答えを知らなかった。

 

 御影出久も。

 

 麗日お茶子も。

 

 誰も、知らなかった。

 

 ただ一つ。

 

 その問いが、すべての始まりだった。

 

 そして。

 

 十三年前の午前二時十三分、最初に死んだ少年は、まだ生まれていなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。