御影出久が生まれる前に、彼を殺した人間が、もう一人いた。
その言葉が、世界の底から響いた瞬間。
緑谷出久は、理解することを拒んだ。
理解できなかったのではない。
理解してしまえば、もう二度と、今までと同じ自分ではいられないと分かったからだ。
「……生まれる、前?」
唇からこぼれた声は、自分のものとは思えないほど小さかった。
目の前には、二人の少年がいる。
一人は緑谷出久。
もう一人は、御影出久。
同じ顔。同じ声。同じように、誰かを救えなかったことを悔やみ、誰かを救うために自分を犠牲にしようとした少年。
そして、その傍らには麗日お茶子がいた。
三人を囲む白い空間は、もはや完全な白ではなかった。
床には黒い亀裂が走り、天井のない虚空には無数の時計が浮かんでいる。
そのすべてが、二時十三分を指していた。
秒針だけが動いている。
一秒。
二秒。
三秒。
時計は進んでいる。
だが、世界は進んでいない。
まるで、何かが次の瞬間を許していないようだった。
『統合処理を再開します』
感情のない声が響いた。
『対象個体、緑谷出久』
『対象個体、御影出久』
『対象個体、麗日お茶子』
『世界構造の維持に必要な個体数を超過しています』
『余剰個体を削除してください』
空間の中央に、四つの選択肢が再び浮かび上がった。
緑谷出久。
御影出久。
麗日お茶子。
新規個体。
選べば、誰かが消える。
選ばなければ、世界そのものが壊れる。
少なくとも、このシステムはそう告げている。
「……ふざけるな」
出久は、選択肢を睨んだ。
「何度も何度も、同じことを言いやがって……!」
拳を握り締める。
「誰かを消さなきゃ世界を維持できない? じゃあ、世界の方を変えればいいだろ!」
『回答を受理できません』
「受理しなくていい!」
『選択期限まで、残り二十四秒』
時計が一斉に鳴った。
カチリ。
カチリ。
カチリ。
秒針が進むたびに、出久の足元から床が剥がれていく。
その下にあったのは、暗闇ではなかった。
街だった。
雄英高校だった。
母の家だった。
見覚えのある教室。
見覚えのある病院。
見覚えのある、誰かの笑顔。
そして、そのすべての景色に、同じ少年が立っていた。
御影出久。
幼い御影出久。
まだ背の低い御影出久。
泣いている御影出久。
笑っている御影出久。
誰かに手を伸ばす御影出久。
誰にも見つけてもらえず、ひとりで膝を抱える御影出久。
出久は息を呑んだ。
「……何だよ、これ」
その問いに答えたのは、御影自身だった。
「僕の記憶じゃない」
彼は、床の下を見下ろしていた。
「少なくとも、僕が覚えている記憶じゃない」
「でも、君が映ってる」
「うん」
「君が生まれてからの記憶に見える」
「うん」
御影は、少しだけ顔を歪めた。
「……僕が、生まれてからの記憶ならね」
出久は彼を見た。
御影は、こちらを見なかった。
「出久くん」
お茶子が、静かに口を開いた。
「さっきの声、覚えとる?」
「……ああ」
「御影くんが、最初から存在していなかった理由。それを知っとる誰かが、今もここにおるんやと思う」
「システムか?」
「分からへん。でも……」
お茶子は、胸元を押さえた。
そこに何かを隠しているような仕草だった。
「うち、さっきから思い出しかけとるんよ」
「何を?」
「御影くんと初めて会った日のこと」
御影が顔を上げた。
初めて、はっきりとお茶子を見た。
「……お茶子ちゃん」
「でも、変なんよ」
お茶子の声が震えた。
「思い出そうとすると、必ず同じところで途切れるんや」
「どこで?」
「御影くんが……」
お茶子は目を閉じた。
「御影くんが、生まれるはずやった日」
その瞬間。
すべての時計が止まった。
秒針が、二時十三分を指したまま動かなくなる。
そして、世界の底から、もう一度声がした。
『記録を開示します』
『第零回観測記録、補遺』
『対象個体、緑谷出久』
『対象個体、御影出久』
『対象個体、未登録個体』
『三者の因果関係について、再検証を開始します』
空間の中央に、黒い扉が現れた。
扉には、文字が刻まれていた。
――出生記録。
その下に、小さな文字が続いていた。
――ただし、出生した者は存在しない。
御影が、ゆっくりと後ずさった。
出久は、その動きを見逃さなかった。
「御影?」
「……開けないで」
その声は、これまで聞いたどんな声よりも弱かった。
「お願いだから、開けないで」
「何を知ってるんだ?」
「知らない」
「嘘だ」
「知らないんだよ!」
御影の叫びが、白い空間に反響した。
彼は自分の頭を抱えた。
「知ってるんじゃない。覚えてるんじゃない。……僕は、知らないはずなんだ!」
その瞳から、涙がこぼれた。
「なのに、怖いんだ」
彼は、扉を見つめた。
「この扉の向こうに、僕がいる気がする」
唇が震える。
「……僕が、僕になる前の僕が」
出久は、彼の肩に手を伸ばしかけた。
だが、その手が触れるより早く。
黒い扉が、内側から開いた。
扉の向こうにあったのは、病院だった。
白い壁。
白い天井。
消毒液の匂い。
遠くで鳴る心電図の音。
そして、窓のない病室。
ベッドの上には、一人の少年が横たわっていた。
年齢は、五歳か六歳ほど。
緑色の髪。
そばかすのある頬。
小さな手。
そして、胸の上に置かれた名札。
そこには、こう書かれていた。
緑谷出久。
「……僕?」
出久は呟いた。
違う。
自分ではない。
そう思った。
だが、顔立ちも、髪も、そばかすも、自分とまったく同じだった。
その少年は眠っている。
呼吸をしていない。
心電図は、一直線だった。
そして、ベッドの傍らには、一人の女性が座っていた。
緑谷引子。
出久の母親だった。
彼女は、眠る少年の手を握っていた。
泣いてはいなかった。
泣くことさえできなくなった人間の顔をしていた。
「……お母さん」
出久の声が掠れた。
病室の向こう側で、扉が開いた。
一人の男性が入ってくる。
白衣を着た医師だった。
その後ろには、まだ幼い男の子が立っていた。
緑色の髪。
そばかす。
出久によく似た顔。
ただし、その少年は、ベッドの上の子どもよりも少しだけ背が高かった。
医師が、静かに言った。
「……残念ですが、これ以上の蘇生処置は」
「まだです」
引子が答えた。
声は、ひどく穏やかだった。
「まだ、この子は……」
「お母さん」
幼い少年が、引子の袖を引いた。
「もう、いいよ」
引子は振り向かなかった。
「いいわけないでしょう」
「でも」
「いいわけ、ないでしょう……!」
そこで初めて、彼女の声が崩れた。
「この子は、まだ……何もしていないのに」
少年は黙った。
そして、ベッドの上の子どもを見つめた。
「……僕が、代わりになれたらよかったのに」
出久の背筋に、冷たいものが走った。
その言葉を、知っていた。
聞いたことがある。
いや。
聞いたことがあるどころではない。
自分自身が、何度も何度も口にしてきた言葉だった。
誰かが傷ついたとき。
誰かが死にそうになったとき。
自分のせいで誰かが苦しんだとき。
何度も思った。
自分が代わりになれたら。
自分が傷つけば。
自分が消えれば。
誰かが助かるのなら。
その少年は、ベッドの上の子どもに手を伸ばした。
「……ごめんね」
そして、誰にも聞こえない声で言った。
「僕が、君を生まれさせなければよかった」
病室の照明が、一斉に消えた。
出久は息を止めた。
「今……何て?」
少年が顔を上げた。
その顔が、こちらを向いた。
幼い顔。
見覚えのある顔。
何度も夢に見た顔。
自分の中にいる、もう一人の自分。
そして、その少年の唇が動いた。
――僕が、御影出久を殺した。
出久の視界が、真っ白になった。
1 死者の出生届
白い光が消えたとき、出久は病室の中に立っていた。
目の前には、ベッド。
ベッドの上には、死んだ少年。
傍らには、母。
そして、少し離れたところに、幼い自分と同じ顔をした少年が立っている。
だが、今度は違った。
少年の顔が、見えた。
さっきまでは、確かに自分の幼い頃の顔だった。
しかし、今は違う。
緑色の髪は同じ。
そばかすも同じ。
目の形も、眉の動かし方も、唇を噛む癖さえ同じだった。
なのに、出久は分かった。
これは、自分ではない。
自分の兄でもない。
御影出久でもない。
もっと根本的なところで、誰とも違う少年だ。
その少年は、出久を見つめていた。
「……やっと、見つけた」
声は、幼かった。
だが、言葉の響きには、ひどく長い時間を生きた人間の疲労が滲んでいた。
「君が、今の僕なんだね」
「君は……誰?」
少年は答えなかった。
代わりに、ベッドの上の子どもを見た。
「この子は、緑谷出久」
「……僕と同じ名前だ」
「うん」
「でも、僕じゃない」
「うん」
「じゃあ、この子は……」
「君が、生まれるために死んだ子だよ」
出久は、言葉を失った。
少年は淡々と続けた。
「正確には、君が生まれたことで、この子は死んだ。だけど、この子が死ななければ、君は生まれなかった」
「そんなの……」
「おかしいと思う?」
「当たり前だろ!」
思わず声が大きくなった。
「そんなの、命の順番を入れ替えてるだけじゃないか! 誰かが死ななきゃ誰かが生まれないなんて、そんな……!」
「じゃあ、君はどうやって生まれたの?」
少年は尋ねた。
「君の出生記録には、何て書いてある?」
「……母さんから、生まれたに決まってる」
「その前は?」
「その前?」
「君が生まれる前。君の名前が決まる前。君の存在が世界に登録される前。君の心臓が動き始める前」
少年は、ベッドを指差した。
「その場所には、誰がいたの?」
出久は答えられなかった。
少年は笑わなかった。
責めもしなかった。
ただ、出久が答えられないことを、ずっと前から知っていたような顔をしていた。
「……この子の名前も、緑谷出久だったんだ」
出久は、ベッドを見た。
小さな胸は動いていない。
手のひらは、母親の手に包まれている。
その指は、もう何も握り返さない。
「お母さんは……」
「この子を産んだ」
「でも、この子は死んだ」
「うん」
「それで……僕が生まれた?」
「そう」
「そんなの、記録に……」
言いかけて、出久は口を閉じた。
記録。
記録は、あった。
十三年前の報告書。
死亡推定時刻、二時十三分。
遺体未回収。
原因不明。
現場消失。
対象個体、緑谷出久。
それは、現在の自分を示しているものだと思っていた。
だが、違ったのか。
あるいは。
その報告書に記された「緑谷出久」という名前は、最初から二人分の死を記録していたのか。
出久の喉が鳴った。
「……じゃあ、御影出久は?」
少年の目が、わずかに揺れた。
「御影出久は、どこにいるんだ?」
「ここにはいないよ」
「でも、さっき……」
「君が知っている御影出久は、僕が死んだあとに生まれた」
少年は、ベッドの上の子どもを見た。
「そして、僕が生まれる前に死んだ」
言葉が、理解を拒んだ。
出久は、必死に頭を働かせた。
御影出久は、十三年前に死んだ。
自分が彼を殺した。
だが、その御影出久は、自分が生まれる前から存在していたのかもしれない。
いや、少年の言葉はもっと違う。
御影出久は、自分が死んだあとに生まれた。
そして、自分が生まれる前に死んだ。
因果が、輪になっている。
始まりと終わりが、互いの場所を奪い合っている。
まるで世界が、最初から一人の少年を二人に分け、二人の少年を一人に戻そうとしているようだった。
「……君は、御影出久なのか?」
出久は尋ねた。
少年は首を横に振った。
「僕は、御影出久じゃない」
「じゃあ、僕なのか?」
「それも違う」
「……名前は?」
少年は、しばらく黙っていた。
やがて、唇を開いた。
「名前を聞くのは、まだ早いよ」
「どうして?」
「名前を知ったら、君は僕を殺せなくなるから」
出久の全身が強張った。
「……何だって?」
「君は、もう一度、僕を殺すことになる」
少年の声は、静かだった。
「そして今度は、僕が死んだことを、君は忘れられなくなる」
その瞬間、ベッドの上の子どもの指が動いた。
ぴくり、と。
ほんのわずかに。
引子が息を呑む。
「……出久?」
彼女は、眠る子どもの手を握り直した。
「出久、聞こえる? お母さんよ。ねえ、お願い……」
心電図は、一直線のままだ。
医師は首を振った。
幼い少年は、目を伏せた。
そして、ベッドの上の子どもが、ゆっくりと目を開けた。
瞳は、緑色だった。
その目が、母親を見た。
引子の顔が、崩れた。
「……ああ」
彼女は泣いた。
「よかった……よかった……!」
医師が叫ぶ。
「脈拍が戻った! 心拍を確認! 蘇生を続けろ!」
病室が騒然となる。
しかし、出久には分かった。
今、目を開けた子どもは、さっきまでベッドに横たわっていた子どもではない。
同じ身体。
同じ顔。
同じ名前。
だが、その目の奥にあるものが違う。
その子どもは、母親を見て、医師を見て、そして最後に、病室の隅に立っている幼い少年を見た。
幼い少年は、泣きそうな顔で笑った。
「……おかえり」
ベッドの上の子どもが、答えた。
「ただいま、兄さん」
出久の心臓が跳ねた。
兄さん。
その言葉。
その呼び方。
忘れたはずの誰かの声が、胸の奥で蘇る。
誰かが、自分をそう呼んでいた。
誰かが、いつも自分の前を歩いていた。
誰かが、自分の手を引いていた。
誰かが――。
頭の中に、黒い線が走った。
記憶の奥にある、名前のない影。
その影が、こちらを向いた。
『先生、約束を破ってごめんなさい』
誰かの声。
『僕を忘れてください』
別の声。
『僕がいなくなっても、皆さんが生きているなら、それでいいです』
そして。
『出久』
その声だけが、どうしても消えなかった。
出久は頭を押さえた。
「……違う」
何が違うのか、分からない。
「違う、違う……!」
少年が、こちらを見ていた。
「思い出しちゃだめだよ」
「何を……!」
「君が生まれる前に、誰が死んだのか」
少年は、そっと微笑んだ。
「君が生まれた理由を、君自身が知ったら」
病室の光が、赤く染まった。
「君は、今度こそ、生まれてこなかったことになる」
2 兄さんと呼ばれた少年
病室の壁が、紙のように剥がれ落ちた。
白い壁の向こうから、別の景色が現れる。
小さな庭。
木製の柵。
洗濯物を干す母親。
夕暮れの空。
幼い少年が、庭を走っている。
「兄さん! 待ってよ!」
先を走る少年が振り返った。
「遅いぞ、出久!」
緑色の髪。
そばかす。
笑うと少しだけ目尻が下がる顔。
その少年は、出久の知っている誰かに似ていた。
けれど、違う。
今度は、出久にも分かった。
彼は自分の兄ではない。
自分の兄に似ているのではない。
自分が知っている兄という存在の、もっと前にいる人間だ。
少年は幼い出久の手を引き、庭の奥へと走っていった。
そこには一本の木があった。
細い幹。
青々とした葉。
枝の間に、赤い実が一つだけ実っている。
幼い出久が、目を輝かせた。
「りんご!」
「まだ取るなよ」
「どうして?」
「母さんが、みんなで食べるって言ってたから」
「でも、兄さんが取ってくれたら、僕だけ先に食べられるよ」
「こら!」
二人の笑い声が、夕暮れの庭に響く。
その光景を見ていた出久は、胸を押さえた。
痛かった。
理由も分からず、胸が痛かった。
幸せそうな光景だ。
何も失われていない。
誰も死んでいない。
誰も泣いていない。
それなのに。
この光景が永遠に続くことはないと、出久は知っていた。
少年が、ふと空を見上げた。
「……出久」
「なあに?」
「もし、僕がいなくなったら」
「やだ」
幼い出久は即答した。
「まだ何も言ってないだろ」
「いなくなるの、やだ」
「……そうか」
少年は笑った。
少しだけ困ったような顔で。
「じゃあ、いなくならないようにしないとな」
幼い出久は、兄の手を握った。
「絶対だよ」
「うん」
「約束だよ」
「約束」
二人の小指が絡む。
その瞬間。
木の枝に実っていたりんごが、地面に落ちた。
ころり、と。
赤い実が、草の上を転がっていく。
その先に、黒い影が立っていた。
影には顔がなかった。
ただ、胸のあたりに、白い文字が浮かんでいた。
未登録個体。
影が、二人の少年を見下ろした。
『個体数を確認』
『対象個体、二』
『兄弟関係、成立』
『因果関係、安定』
『世界構造、許容範囲内』
出久は息を呑んだ。
システムだ。
あの白い空間で、自分たちを統合しようとしていたもの。
それが、こんなにも古い記憶の中にいる。
いや。
違う。
これは記憶ではない。
世界の記録だ。
システムが、世界を成立させるために観測していた、最初の光景。
影が、もう一度文字を浮かべた。
『異常発生』
『出生予定個体、緑谷出久』
『同一識別名、重複』
『既存個体との因果衝突を確認』
出久の呼吸が止まった。
同一識別名。
重複。
出生予定個体。
幼い出久と、その兄が遊んでいる庭に、もう一人の子どもが生まれる予定だった。
同じ名前を持つ子ども。
同じ存在として登録されるはずだった子ども。
その子どもが生まれれば、すでに生きている出久と、因果が衝突する。
では。
ベッドの上で死んでいた、あの子どもは。
誰だったのか。
『調整を開始します』
影の手が伸びた。
その先にいたのは、幼い出久だった。
兄が、弟を庇うように立つ。
「……何だ、お前!」
影は答えない。
「出久に触るな!」
少年は、幼い弟を背中に隠した。
その身体は震えていた。
それでも、逃げなかった。
「お前、誰だ!」
『個体識別』
『兄:未登録』
『弟:緑谷出久』
『処理対象:兄』
世界が、音を失った。
出久は叫んだ。
「やめろ!」
だが、声は届かない。
影の手が、兄の胸に触れた。
少年の身体が、透明になっていく。
「……え?」
幼い出久が、兄の服を掴んだ。
「兄さん?」
少年は、自分の手を見た。
指先から、光の粒子が零れている。
「……何だ、これ」
「兄さん!」
「出久、離れろ!」
兄は弟を突き飛ばした。
幼い出久が、地面に倒れる。
兄は振り返った。
そして、笑った。
「大丈夫」
さっきと同じ笑顔だった。
何も心配はいらないと、弟を安心させるための笑顔。
「ちょっと、行ってくるだけだから」
「いやだ!」
「すぐ戻るよ」
「いやだ! 兄さん!」
幼い出久が泣き叫ぶ。
兄は、もう一度、弟に手を伸ばした。
指先が触れる。
その瞬間、兄の姿が消えた。
音もなく。
血も流さず。
悲鳴さえ残さず。
ただ、そこにいた少年が、最初から存在しなかったかのように。
幼い出久は、地面に座り込んだ。
両手を伸ばしたまま。
何もない空間を、見つめたまま。
「……兄さん?」
世界は答えなかった。
母親の声が、遠くから聞こえた。
「出久ー? どうしたの?」
幼い出久は、振り返った。
涙で濡れた顔を、必死に動かした。
「……母さん」
「どうしたの?」
「兄さんが……」
言葉が、途切れた。
母親は不思議そうに首を傾げた。
「兄さん?」
その言葉が、少年の胸に突き刺さった。
「……うん」
「出久。あなた、お兄ちゃんなんていたかしら?」
幼い出久の顔から、表情が消えた。
その目が、ゆっくりと見開かれる。
母親は、何も知らない顔をしていた。
兄がいたことも。
兄が弟を守ったことも。
兄が、弟の目の前で消えたことも。
何も知らない。
世界は、兄を消しただけではなかった。
兄がいたという事実まで、消そうとしていた。
幼い出久は、唇を震わせた。
「……いたよ」
「え?」
「兄さん、いたよ……!」
その声は、届かなかった。
母親は、幼い息子の前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫? 怖い夢でも見たの?」
幼い出久は、母親の胸に顔を埋めた。
そして、声を殺して泣いた。
誰もいない庭で。
誰も知らない兄を失った少年が。
たった一人で。
その姿を見ていた出久は、動けなかった。
自分の中で、何かが音を立てて崩れていく。
記憶の底にあった、名前のない影。
いつも自分を守っていた誰か。
自分が何度も世界を壊してまで取り戻そうとした誰か。
その人物が、ここにいた。
この少年だった。
自分の兄だった。
だが、違う。
この少年は、現在の出久の兄ではない。
現在の出久が生まれるよりも前に、世界から削除された兄だ。
その兄を失った少年が、世界を作り直した。
何度も。
何度も。
何度も。
兄を取り戻すために。
そして、最後に。
自分が存在しない世界を選んだ。
出久の耳元で、声がした。
「……分かった?」
振り返る。
あの少年が立っていた。
名を教えてくれない少年。
自分でもあり、自分ではない少年。
「君は、兄さんを救おうとしたんじゃない」
少年は言った。
「君は、兄さんが死んだ世界を、許せなかったんだ」
出久は、何も言えなかった。
「だから、世界を作り直した。兄さんが死ななかった世界を探した。兄さんが生きている世界を探した。兄さんが君を覚えている世界を探した」
少年は、幼い出久を見た。
「でも、どの世界でも、君は兄さんを失った」
その声には、嘲笑も、怒りもなかった。
ただ、痛みだけがあった。
「……それで、君は決めたんだ」
少年は、ゆっくりと出久を見た。
「兄さんを救えないなら、兄さんが失うものを、全部なくしてしまえばいいって」
出久の喉が震えた。
「……違う」
「違う?」
「僕は……」
言葉が続かなかった。
自分は、誰かを救いたかった。
誰かが死ぬ世界を変えたかった。
そのために、何度も手を伸ばした。
それは、嘘ではない。
だが。
その手が、誰を押し退けたのか。
その願いが、誰の存在を踏み潰したのか。
自分は、見ようとしなかった。
「……僕は、兄さんを」
出久の声が掠れた。
「兄さんを、助けたかったんだ」
「うん」
「僕は……兄さんを失いたくなかった」
「うん」
「だから……」
少年は、静かに頷いた。
「だから、君は生まれる前の自分を殺したんだ」
世界が、再び暗転した。
3 生まれるはずのなかった名前
出久が次に目を開けたとき、そこは病院ではなかった。
巨大な記録室だった。
天井は見えない。
壁も見えない。
無数の棚が、暗闇の中に延々と続いている。
棚には、ファイルが並んでいた。
紙のファイル。
電子記録。
透明なケース。
名前の書かれた箱。
名前の消された箱。
そして、何も書かれていない箱。
それらすべてが、同じ規則に従って並べられていた。
緑谷出久。
緑谷出久。
緑谷出久。
緑谷出久。
何百、何千、何万という記録が、同じ名前を掲げていた。
「……これ、全部」
出久は呟いた。
「僕なのか?」
「いいや」
答えたのは、隣に立つ少年だった。
「君の名前を使った、君ではないものもある」
「どういう意味だ?」
「世界は、名前を使って人間を区別している。でも、名前が同じだからといって、同じ人間とは限らない」
少年は棚から一冊のファイルを抜き取った。
表紙には、緑谷出久と書かれていた。
その下には、識別番号。
そして、赤い文字で記されている。
出生未成立。
「これは?」
「君が生まれなかった世界」
少年は別のファイルを取った。
出生成立。死亡確認。
「これは?」
「君が生まれて、すぐに死んだ世界」
さらに別のファイル。
出生成立。兄弟関係不成立。
「これは?」
「兄さんが最初から存在しなかった世界」
出久は、次々とファイルを見た。
出生成立。母親死亡。
出生成立。個体分裂。
出生成立。観測者転位。
出生成立。対象個体重複。
出生成立。世界再構築。
そして。
棚の一番奥。
他のファイルとは違い、黒い封印が施された一冊があった。
表紙には、名前がない。
ただ、白い文字でこう記されていた。
御影出久。
出久は、そのファイルに手を伸ばした。
少年が、すぐに手首を掴んだ。
「開けないで」
「また、それか」
出久は、少年を睨んだ。
「君は何なんだ? さっきから僕に何も教えない。名前も教えない。なのに、僕が何をしたかは知ってる!」
「……」
「僕が御影を殺したって言う。僕が兄さんを救おうとして世界を壊したって言う。僕が生まれる前の自分を殺したって言う!」
出久は、自分の胸を叩いた。
「だったら、教えてくれよ! 僕は、何なんだよ!」
少年は、手を離した。
しばらく、出久を見つめていた。
それから、言った。
「……僕は、君が選ばなかった未来だよ」
出久の呼吸が止まった。
「君が、兄さんを諦めなかった未来」
少年は続けた。
「君が、世界を何度でも作り直すと決めた未来。誰かが死ぬたびに、誰かが消えるたびに、何度でもやり直すと決めた未来」
「……それが、君?」
「うん」
「でも、君は……」
出久は、少年の顔を見た。
この少年も、自分と同じ顔をしている。
だが、目の奥にあるものは違う。
自分がまだ持っている、誰かを救えるという希望。
それを、少年はすでに失っていた。
「君は、僕を助けようとしてたんじゃないのか?」
「助けたよ」
少年は答えた。
「君が今、ここにいる。それが証拠だ」
「じゃあ……」
「でも、君を助けるために、僕はたくさんの人を殺した」
静かな告白だった。
「君が知らない人も。君が知っている人も。君が大切にしている人も。君がまだ出会っていない人も」
少年は、自分の手を見た。
「僕は、世界を何度も壊した。何度も作り直した。君が生きられる未来を探すために」
「……どうして?」
「君が、僕だったから」
少年は微笑んだ。
「僕は、君を救いたかったんだ」
その言葉は、御影出久の言葉と重なった。
自分を犠牲にして、誰かを救おうとした少年。
兄を取り戻すために、世界を壊し続けた少年。
そして、目の前にいる、名前を教えてくれない少年。
彼らは、みんな同じだった。
救いたかった。
失いたくなかった。
それだけだった。
ただ、その願いを叶える方法が、少しずつ歪んでいった。
「……御影は?」
出久は、黒いファイルを見つめた。
「御影は、僕を救うために死んだって言った」
「そうだね」
「でも、君は……御影が生まれる前に死んだって言った」
「そうだね」
「それじゃ、御影は……」
少年は、黒いファイルに手を伸ばした。
封印に触れる。
その指先が、わずかに震えた。
「御影出久は、最初から一人の人間だったわけじゃない」
出久は目を見開いた。
「……何?」
「彼は、君が失ったものを集めて作られた」
少年は、ファイルを開いた。
中には、一枚の紙が入っていた。
出生証明書。
名前、御影出久。
生年月日、空欄。
出生地、空欄。
父親、空欄。
母親、空欄。
兄弟姉妹、空欄。
出生時の体重、空欄。
出生時刻、空欄。
すべてが空白だった。
ただ一つ。
備考欄だけに、文字が記されていた。
存在理由:未緑谷出久の代替。
その文字を見た瞬間、出久は背筋が凍るのを感じた。
「……未緑谷出久?」
「君が生まれる前の、君だよ」
少年は言った。
「世界が君を生むために、先に存在していた緑谷出久。その存在が消えたあと、世界はその空白を埋めようとした」
「……それで、御影が?」
「そう」
「御影は、僕の代わりに作られた?」
「正確には、君の代わりではない」
少年は、出生証明書を見つめた。
「君が失ったものの代わりだ」
出久は、何も言えなかった。
「君は、兄さんを失った。兄さんを失ったことで、世界を壊した。世界を壊したことで、たくさんの人を失った。失った人たちの記憶は、世界を作り直すたびに消えていった」
少年は、一枚ずつ記録をめくった。
「でも、すべてを消すことはできなかった。君の中に、残ってしまったものがあった」
「……何が?」
「兄さんを失った悲しみ。誰かを救えなかった罪悪感。自分が生きていることへの疑問」
少年は、ファイルを閉じた。
「それらが、形を持ったんだ」
出久は、御影の顔を思い出した。
自分と同じ顔。
自分と同じように、誰かを救いたがっていた少年。
自分の罪を受け入れ、最後には自分を殺させた少年。
あの少年は、最初から存在しなかったのか。
いや。
存在しなかったのなら、なぜ自分は彼を覚えているのか。
なぜお茶子は彼を覚えているのか。
なぜ彼は、自分の兄を取り戻そうとしたのか。
なぜ、彼は自分の命を差し出したのか。
「……違う」
出久は呟いた。
「御影は、そんなものじゃない」
少年が顔を上げた。
「御影は、僕の罪悪感なんかじゃない。僕が失ったものの代わりなんかじゃない!」
出久は、黒いファイルを掴んだ。
「御影は御影出久だ! 彼は、自分で考えて、自分で選んで、僕を救おうとした!」
「……うん」
「僕が彼を殺したことも、彼が僕を救おうとしたことも、全部本当なんだ! 彼が生まれた理由が何だろうと、彼が存在しなかったことにはならない!」
少年は、じっと出久を見つめていた。
そして。
初めて、少しだけ嬉しそうに笑った。
「……そう言えるようになったんだね」
「何?」
「よかった」
少年は、黒いファイルを出久の手からそっと取り上げた。
「君なら、きっとそう言うと思ってた」
その瞬間。
記録室の奥から、拍手が聞こえた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
ゆっくりとした、三回の拍手。
少年の顔から、笑みが消えた。
「……来た」
暗闇の奥に、人影が立っていた。
長い影。
人間の形をしている。
だが、その顔には、目も鼻も口もなかった。
白い仮面のような顔面に、文字だけが浮かび上がる。
観測者。
その下に、別の文字が現れた。
第一記録者。
さらに、その下に。
緑谷出久。
出久は息を呑んだ。
「……君も、僕なのか?」
観測者は、首を傾げた。
『質問を確認』
『回答を修正』
『私は緑谷出久ではない』
文字が、変わる。
『緑谷出久が、私である』
少年が、出久の前に立った。
「出久くん。今すぐ逃げて」
「逃げるって、どこに!」
「どこでもいい。ここにいたら、君は自分の名前を失う」
『対象個体、緑谷出久』
『再定義を開始します』
観測者の顔に、文字が浮かび上がった。
『出生記録を更新』
『緑谷出久』
『出生時刻:未定』
『出生状態:未成立』
『死亡時刻:二時十三分』
『死因:自己消去』
『存在証明:未登録』
出久の身体が、ぐらりと揺れた。
視界の端から、色が消えていく。
指先が透けた。
手のひらが、白い光に変わり始める。
「……っ!」
少年が叫んだ。
「見るな!」
観測者の文字が、さらに変わる。
『御影出久』
『出生時刻:存在せず』
『死亡時刻:出生前』
『死因:緑谷出久による因果消去』
『存在証明:未成立』
出久の心臓が、強く打った。
御影の存在が、記録から削られようとしている。
違う。
御影だけではない。
御影を覚えている自分も。
御影を覚えているお茶子も。
御影と関わったすべての人間も。
御影が存在したことによって変わった世界のすべてが。
なかったことにされようとしていた。
「……やめろ」
出久は、震える手を伸ばした。
「やめろよ……!」
『対象個体の異議申し立てを受理できません』
「やめろって言ってるだろ!」
『個体の定義は、観測によって確定されます』
観測者は、静かに告げた。
『観測されなかったものは、存在しなかったものとして扱われます』
出久の目が見開かれた。
その言葉は、御影の存在を否定するためのものだった。
だが、同時に。
自分自身を否定する言葉でもあった。
自分は、誰かに観測されているから存在しているのか。
誰かに名前を呼ばれているから、緑谷出久なのか。
母親が覚えているから。
友達が覚えているから。
お茶子が愛してくれているから。
自分は、自分でいられるのか。
もし、誰も覚えていなければ。
もし、世界中の記録から名前が消えたら。
自分は、本当に存在しなくなるのか。
そして、御影は。
御影は、誰にも生まれたことを証明されなかった。
誰にも出生を記録されなかった。
誰にも、その存在を保証されなかった。
それでも。
彼は、確かにそこにいた。
出久と話した。
お茶子を守った。
自分の罪を受け入れた。
そして、最後には自分の意思で、死を選んだ。
それを、誰が否定できるというのか。
「……観測なんか、関係ない」
出久は、震える足で立ち上がった。
「僕は、御影を覚えている」
観測者が、首を傾げた。
「僕は、彼に会った。彼と話した。彼に救われた。彼を傷つけた。彼を殺した」
声が震える。
それでも、出久は続けた。
「僕は、彼が存在したことを知っている」
その瞬間。
出久の透けかけた指が、元に戻った。
観測者の顔に、亀裂が走った。
『……異常』
記録室のすべてのファイルが、一斉に開いた。
『観測者による存在確定を経由せず、対象個体が存在を認識』
『矛盾を検出』
『矛盾を検出』
『矛盾を検出』
少年が、息を呑んだ。
「……そうか」
彼は、出久を見た。
「君は、もう観測される側じゃないんだ」
出久は、観測者を睨んだ。
「……僕は、緑谷出久だ」
観測者の顔が、完全に割れた。
その亀裂の向こうに、無数の目が見えた。
無数の世界。
無数の緑谷出久。
無数の死。
無数の再構築。
そして、そのすべてを見つめてきた、巨大な何か。
観測者は、声を発した。
今度は、システムの機械音声ではなかった。
人間の声だった。
ひどく懐かしい、少年の声だった。
『……出久』
その声を聞いた瞬間。
出久の全身から、血の気が引いた。
それは。
自分がずっと探していた。
自分の中から消えてしまった。
兄の声だった。
「……兄さん?」
観測者は、答えなかった。
ただ、顔の亀裂の向こうで。
誰かが、泣いていた。
4 兄は、弟を覚えていない
「兄さん……?」
出久は、もう一度呼んだ。
返事はない。
観測者の顔に走った亀裂は、ゆっくりと広がっていた。
その向こう側に見えるのは、暗闇ではなかった。
無数の記憶だった。
幼い出久が転んだ日。
兄が手を差し伸べた日。
母親が三人分の食事を用意した日。
雨の日に、兄が自分の傘を弟に渡した日。
誕生日に、兄が手作りのカードをくれた日。
その一つ一つが、出久の胸に突き刺さった。
覚えている。
いや。
覚えているはずがない。
自分は一人っ子だった。
母親と二人で暮らしてきた。
兄がいたという記録は、どこにもなかった。
それなのに。
どうして、自分はこの声を知っているのだろう。
どうして、兄が笑うときに少しだけ右肩が上がることを知っているのだろう。
どうして、兄が嘘をつくときには、必ず視線を左に逸らすことを知っているのだろう。
どうして。
どうして。
どうして。
「……兄さん!」
出久は駆け出した。
観測者へ向かって。
亀裂の向こう側にいる誰かへ向かって。
だが、少年が腕を掴んだ。
「駄目だ!」
「離して!」
「近づいたら、君まで消される!」
「それでもいい!」
「よくない!」
少年の声が、初めて激しくなった。
「君は、何も分かってない!」
「だったら教えてくれよ!」
出久は、少年の手を振り払おうとした。
「君は僕の何なんだ! 僕の兄さんは誰なんだ! 御影は何なんだ! 僕は何度、誰を殺したんだ!」
少年は、唇を噛んだ。
「……全部、君が知るべきことだよ」
「なら、今すぐ教えろ!」
「今、教えたら、君は壊れる!」
「もう壊れてる!」
出久の叫びが、記録室を震わせた。
「僕はもう、自分が何なのかも分からない! 自分が誰を救おうとして、誰を殺したのかも分からない! 僕が今まで信じてきた記憶が、本当に僕の記憶なのかどうかさえ分からない!」
涙が、頬を伝った。
「それでも……それでも、僕は……!」
出久は、観測者を見た。
「兄さんを、もう一度失いたくないんだ……!」
その言葉に。
観測者の動きが止まった。
無数の目が、一斉に出久を見つめた。
亀裂の向こうで、誰かが顔を上げた。
『……出久』
今度は、はっきりと聞こえた。
兄の声だった。
優しくて。
少しだけ困ったような。
それでも、いつも弟のために笑ってくれた声だった。
『大きくなったね』
出久の膝が崩れた。
「……兄さん」
『こんなに大きくなって』
声は、穏やかだった。
『こんなに、たくさんの人を救えるようになって』
「兄さん……!」
『……なのに、どうして』
声が変わった。
穏やかさの奥に、深い悲しみが滲んだ。
『どうして、まだ僕を探しているの?』
出久は、息を止めた。
『僕は、君に生きていてほしかったんだ』
観測者の身体から、黒い粒子が零れ始めた。
『君が笑ってくれれば、それでよかった』
『君が誰かを助けてくれれば、それでよかった』
『君が、僕のことを忘れてくれれば、それでよかった』
出久は首を振った。
「……嫌だ」
『出久』
「嫌だよ……!」
『僕は、君のために死んだんだ』
その言葉は、刃物のように出久の胸に突き刺さった。
出久は、口を開いた。
だが、何も言えなかった。
兄は、弟を救うために死んだ。
それが本当なら。
自分が何度も世界を作り直したことは、兄の願いに反していたのか。
兄は、自分に生きてほしかった。
なのに、自分は兄を取り戻すために、他の誰かを犠牲にし続けた。
兄が自分のために捨てた命を、取り戻すために。
自分は、どれだけの命を捨てたのだろう。
「……僕は」
出久は、声を絞り出した。
「僕は、兄さんを忘れたくなかった」
『うん』
「兄さんがいない世界なんて、嫌だった」
『うん』
「兄さんが死んだことを、なかったことにしたかった」
『……うん』
「だから……」
涙が止まらない。
「だから、何度も世界を壊したんだ……」
観測者の向こう側で、兄が目を閉じた。
『知っているよ』
その声は、ひどく優しかった。
『ずっと、見ていたから』
出久の心臓が止まりそうになった。
「……見ていた?」
『君が世界を作り直すたびに』
観測者の顔に、別の記録が浮かび上がる。
最初の世界。
二度目の世界。
三度目の世界。
百回目の世界。
千回目の世界。
何度も、何度も、何度も。
そのすべてで、出久は兄を探していた。
そのすべてで、兄は死んでいた。
そのすべてで、出久は世界を壊した。
『君は、僕を救うために、たくさんの人を傷つけた』
兄は、静かに言った。
『それでも、僕は君を責められなかった』
「……どうして?」
『君が、僕の弟だから』
その一言で。
出久の中に残っていた、最後の抵抗が崩れた。
兄は、責めなかった。
自分が世界を壊したことも。
自分が誰かを殺したことも。
自分が、御影出久を犠牲にしたことも。
兄は、責めなかった。
だからこそ。
出久は、自分を許せなかった。
「……兄さん」
出久は、顔を覆った。
「僕は、どうすればよかったの?」
返事は、すぐにはなかった。
長い沈黙。
その間にも、観測者の身体は崩れていく。
やがて、兄は答えた。
『分からない』
出久は顔を上げた。
『僕にも、正解は分からないよ』
兄の声は、震えていた。
『君が僕を救いたかったことは、間違いじゃない』
『君が、誰も失いたくなかったことも、間違いじゃない』
『でも、誰かを救うために、別の誰かを殺さなきゃいけない世界が、本当に正しいのか』
兄は、ゆっくりと顔を上げた。
『……僕にも、分からないんだ』
その言葉は、出久が想像していたものとは違った。
兄なら、答えをくれると思っていた。
兄なら、自分の罪を許してくれると思っていた。
兄なら、何をすればいいのか教えてくれると思っていた。
だが、兄は答えを持っていなかった。
正解を知らなかった。
自分と同じように、迷っていた。
ただ一つ違うのは。
兄は、迷いながらも、自分の命を差し出すことを選んだということだった。
『出久』
兄が呼んだ。
『お願いがあるんだ』
「……何?」
『もう、僕を探さないで』
出久は、首を振った。
「……嫌だ」
『出久』
「嫌だよ……!」
『僕は、君に生きていてほしい』
「僕だって、兄さんに生きていてほしかった!」
出久は叫んだ。
「僕だって、兄さんと一緒に生きたかった! 兄さんと笑いたかった! 兄さんと喧嘩したかった! 兄さんが大人になって、僕が大人になって、母さんが年を取って……!」
声が、涙で途切れる。
「そんな未来を、僕は……!」
兄は、目を閉じた。
『……ごめんね』
その瞬間。
観測者の身体が、崩壊した。
無数の目が、光の粒子になって散っていく。
亀裂の向こうにいた兄の姿が、少しずつ遠ざかっていく。
「兄さん!」
出久は、手を伸ばした。
「待って! まだ、聞きたいことがあるんだ!」
兄は、微笑んだ。
『うん』
「僕は……僕は、どうして生まれたの?」
兄の笑顔が、止まった。
その表情を見て。
出久は、初めて気づいた。
兄は、答えを知らないのではない。
答えを知っている。
けれど、それを言えないのだ。
「……兄さん?」
兄の唇が、動いた。
『君は……』
その言葉は、最後まで届かなかった。
観測者が消滅した。
記録室のすべての棚が、崩れ落ちた。
何万ものファイルが、白い光となって空中に舞い上がる。
その光の中で。
兄の最後の言葉だけが、出久の耳に残った。
『……君は、僕を殺して生まれたんだ』
5 麗日お茶子の知らない記憶
出久が消えた記録室の中で、少年は一人、立ち尽くしていた。
周囲では、記録が崩壊している。
世界の出生記録。
死亡記録。
再構築記録。
観測記録。
それらすべてが、紙吹雪のように舞い上がっていた。
少年は、その中から一枚の紙を拾った。
紙には、幼い少女の字で、こう書かれていた。
御影出久くんは、うちの最初のヒーローです。
少年は、目を閉じた。
「……ごめんね、お茶子ちゃん」
その声は、誰にも届かない。
「僕は、君にまで嘘をついた」
紙を握り締める。
「御影出久は、最初から存在していなかった」
少年は、呟いた。
「でも、存在していなかったのは……」
言葉が途切れた。
記録室の奥で、何かが動いた。
崩れた棚の隙間から、黒い腕が伸びてくる。
少年は振り返った。
そこにいたのは、観測者ではなかった。
観測者よりも、ずっと小さい。
人間の子どもほどの大きさしかない。
しかし、その顔には何もなかった。
目も、鼻も、口も。
ただ、胸元に白い文字が浮かんでいる。
第零個体。
少年は、その文字を見つめた。
「……君が、最初なんだね」
第零個体は答えない。
「僕たちが生まれる前から、ここにいた」
少年は、手に持った紙を見た。
「御影出久が生まれる前に死んだ少年」
紙が、光の粒子に変わっていく。
「その少年を殺した人間が、もう一人いた」
少年は、ゆっくりと第零個体に近づいた。
「……それが、君なんだね」
その瞬間。
第零個体の胸に、文字が浮かび上がった。
緑谷出久。
少年は、目を見開いた。
「……違う」
文字が変わる。
御影出久。
「違う!」
さらに変わる。
麗日お茶子。
少年は後ずさった。
「……君は、誰でもないはずだ」
最後に、文字が一つだけ残った。
母。
少年の顔から、血の気が引いた。
「……そんな」
第零個体が、初めて口を開いた。
声は、女性のものだった。
「――おかえりなさい、出久」
少年は、震えた。
その声を知っていた。
忘れるはずがなかった。
自分を産んだ人の声。
自分を抱きしめた人の声。
自分が何度も世界を作り直すたびに、失い続けた人の声。
緑谷引子。
だが。
目の前の存在は、母親ではなかった。
母親の声を使っているだけだ。
その顔に、母親の姿はない。
胸元にあるのは、名前ではない。
役割だ。
母。
世界が、人間を役割としてしか認識していない証拠だった。
「……君は、母さんじゃない」
少年は言った。
第零個体は、首を傾げた。
「そうね」
「じゃあ、どうして……」
「あなたが、そう呼んだからよ」
少年は、言葉を失った。
「あなたが、母さんを失いたくなかったから」
第零個体の声が、柔らかくなる。
「あなたが、兄さんを失いたくなかったから」
「……やめろ」
「あなたが、誰も失いたくなかったから」
「やめろ!」
「だから、世界はあなたの願いを叶えたの」
第零個体は、少年に手を伸ばした。
「あなたが失った人たちを、役割として再構成した」
少年の目が見開かれた。
「兄さんは、兄さんという役割になった」
「……」
「母さんは、母という役割になった」
「……やめろ」
「御影出久は、あなたが失った弟という役割になった」
少年は、首を振った。
「違う……」
「麗日お茶子は、あなたを愛する人という役割になった」
「違う!」
「そして、あなたは」
第零個体は、少年の頬に触れた。
「……誰かを救うために、何度でも自分を犠牲にする子どもになった」
少年は、息を呑んだ。
その言葉が、あまりにも正確だったから。
「でもね、出久」
第零個体は、優しく微笑んだ。
「あなたは、最初からそんな子どもだったわけじゃないのよ」
少年の目から、涙がこぼれた。
「……じゃあ、僕は」
「あなたは、ただの子どもだった」
その声は、母親のものだった。
記憶の中にある、あの優しい声だった。
「お兄ちゃんと遊んで、お友達と喧嘩して、好きなものを食べて、嫌いなものを残して」
母親の声が続く。
「転んだら泣いて、怖かったら隠れて、寂しかったら誰かを呼んで」
少年は、両手で顔を覆った。
「……やめて」
「あなたは、世界を救うために生まれたわけじゃない」
「やめてよ……」
「誰かの代わりになるために生まれたわけでもない」
「やめて……!」
「あなたは、ただ……」
第零個体は、少年を抱きしめた。
「生きていてよかったのよ」
少年は、声を上げて泣いた。
何度も世界を壊した少年が。
何度も誰かを犠牲にした少年が。
何度も自分の罪を正当化しようとした少年が。
初めて、誰かの腕の中で泣いた。
だが。
その抱擁の中で。
少年は、あることに気づいた。
母親の腕は、冷たかった。
母親の身体は、空っぽだった。
そして、胸元の文字が、ゆっくりと変わっていく。
母。
兄。
弟。
恋人。
友人。
英雄。
最後に。
緑谷出久。
少年は、顔を上げた。
「……違う」
第零個体の身体が、ゆっくりと崩れていく。
「あなたは、私を覚えている」
母親の声が、遠ざかる。
「だから、私は存在できる」
「……違う!」
少年は、母親の腕を掴んだ。
「母さんは、そんなものじゃない!」
第零個体の顔に、初めて表情が浮かんだ。
それは、悲しみだった。
「……そうね」
彼女は、微笑んだ。
「だから、あなたが思い出さなければならないの」
「何を……?」
「本当の母さんを」
その瞬間。
第零個体の身体が、完全に崩壊した。
残されたのは、小さな紙切れだった。
そこには、手書きの文字が記されていた。
御影出久は、私の息子ではありません。
その下に、別の筆跡で。
それでも、私はあの子を産んだ。
少年は、紙を握り締めた。
そして、初めて理解した。
御影出久を殺したのは、緑谷出久だけではない。
御影出久が生まれる前に、彼を殺した人間が、もう一人いた。
その人間は。
御影出久を産んだ人間だった。
6 産声のない出産
同じ頃。
白い空間のどこかで、お茶子は一人、立ち尽くしていた。
出久がいない。
御影もいない。
目の前には、あの四つの選択肢だけが浮かんでいる。
緑谷出久。
御影出久。
麗日お茶子。
新規個体。
その下に、数字が表示されていた。
残り時間――00:00:00。
時間切れだった。
世界は、選択を待つことをやめた。
普通なら、その瞬間に何かが起こるはずだった。
誰かが消える。
世界が壊れる。
新しい個体が生まれる。
だが、何も起こらなかった。
時計は止まったまま。
床の亀裂も、広がらない。
選択肢だけが、白い空間に浮かび続けていた。
「……なんで?」
お茶子は、呟いた。
「時間切れ、なんやろ……?」
返事はない。
彼女は、胸元から小さなノートを取り出した。
表紙には、御影出久と書かれている。
何度も読み返したノートだった。
何度も書き直したノートだった。
何度、世界が作り直されても、彼の存在を忘れないために残してきたものだった。
ページを開く。
最初のページ。
御影出久くんは、うちの最初のヒーローです。
二ページ目。
御影出久くんは、緑谷出久くんに殺されました。
三ページ目。
でも、緑谷出久くんは、悪くありません。
四ページ目。
だから、うちが覚えていなければいけません。
お茶子は、指で文字をなぞった。
「……うち、ずっと間違えとったんかな」
御影を忘れないこと。
それが、彼を救うことだと思っていた。
御影が存在した証拠を残すこと。
それが、彼の命を守ることだと思っていた。
でも。
彼は、なぜ自分を殺させたのだろう。
なぜ、自分が消えれば出久が生きられると思ったのだろう。
なぜ、出久に罪を背負わせることを選んだのだろう。
そして。
なぜ、御影は自分の出生を、誰にも覚えていてほしいと言わなかったのだろう。
「……御影くん」
お茶子は、ノートを抱きしめた。
「うち、忘れへんよ」
涙が、ページに落ちた。
「絶対に、忘れへん」
その瞬間。
ノートの最後のページが、ひとりでに開いた。
そこには、見覚えのない文章が書かれていた。
お茶子の字ではない。
御影の字でもない。
それでも、彼女には分かった。
この筆跡を、知っている。
誰かが、ずっと昔に書いたものだ。
出久へ。
その一行だけで、お茶子の心臓が強く打った。
続きには、こう書かれていた。
もし、この手紙を読んでいるなら、僕はもう、君の知っている僕ではないのだと思います。
お茶子は、息を呑んだ。
僕は、君の兄ではありません。
ページが震えた。
君の弟でもありません。
君の友人でも、君の恋人でもありません。
僕は、君が誰かを失ったとき、その空白を埋めるために生まれたものです。
お茶子の指が止まった。
その先を、読むのが怖かった。
それでも、読まなければならなかった。
でも、僕は、誰かの代わりになるために生まれたくなかった。
僕は、僕として生きたかった。
お茶子は、ノートを抱きしめた。
声が出なかった。
ページの最後には、短い一文が記されていた。
だから、どうか、僕が誰の代わりだったのかではなく、僕が誰だったのかを覚えていてください。
お茶子は、泣いた。
今度は、声を殺さなかった。
ずっと我慢してきた。
御影が消えたことを。
出久が彼を殺したことを。
世界が、彼の存在を否定し続けてきたことを。
出久を守るために、御影を忘れたふりをしてきたことを。
そのすべてを。
もう、我慢しなかった。
「……御影くんは」
お茶子は、ノートを握り締めた。
「御影出久くんは、御影出久くんや……!」
その声が、白い空間に響いた。
「誰の代わりでもない! 誰かの罪でもない! 誰かが失ったものを埋めるためだけに生まれたんやない!」
彼女は、顔を上げた。
「御影くんは、御影くんなんや!」
その瞬間。
四つの選択肢が、揺らいだ。
緑谷出久。
御影出久。
麗日お茶子。
新規個体。
文字が、少しずつ崩れていく。
その下に、新しい文字が浮かび上がった。
存在証明:本人による自己定義。
お茶子は、息を止めた。
さらに、文字が続く。
観測者の承認を必要としない個体定義を検出。
対象個体:御影出久。
存在証明――再審査開始。
お茶子は、顔を上げた。
「……御影くん?」
白い空間の向こうで。
誰かが、笑った気がした。
7 生まれる前の名前
記録室は、もう存在しなかった。
そこにあった棚も、ファイルも、観測者も。
すべてが崩壊し、白い光の中に溶けていた。
残されたのは、出久と、名前を教えてくれない少年だけだった。
出久は、床に座り込んでいた。
兄の最後の言葉が、頭の中で繰り返されている。
――君は、僕を殺して生まれたんだ。
「……僕が」
出久は、自分の手を見た。
「僕が、兄さんを殺した?」
「違うよ」
少年は、即座に答えた。
「君が、兄さんを殺したわけじゃない」
「でも、兄さんは……」
「君が生まれるために、兄さんが死んだ。それは事実だよ」
少年は、出久の隣に座った。
「でも、君が兄さんを殺したわけじゃない」
「……何が違うんだよ」
出久は、顔を覆った。
「僕が生まれたことで兄さんが死んだなら、僕が兄さんを殺したのと同じじゃないか……!」
「違う」
「何が違うんだ!」
「君が生まれたことと、誰かが君を生まれさせるために兄さんを犠牲にしたことは、同じじゃない」
少年は、静かに言った。
「君が存在することを、君自身の罪にしないで」
出久は、顔を上げた。
少年の瞳は、まっすぐだった。
「君は、生まれたかった?」
「……え?」
「君は、自分が生まれる前に、兄さんが死ぬことを知っていた?」
「そんなわけ……」
「君は、兄さんの命と引き換えに生まれることを、自分で選んだ?」
「……選んでない」
「なら、君が背負うべき罪は、君が生まれたことじゃない」
少年は、出久の手を取った。
「君が、これから何を選ぶかだよ」
出久は、唇を噛んだ。
その言葉は、簡単だった。
簡単すぎて、今までの自分には理解できなかった。
生まれたことは、罪ではない。
誰かが自分を生まれさせるために、別の誰かを犠牲にしたとしても。
その罪を、何も知らずに生まれた子どもに押しつけることはできない。
だが。
その子どもが、自分の出生を知ったあと、何を選ぶのか。
そこから先は、別の話だ。
出久は、顔を上げた。
「……君は、どうしてそんなことが言えるんだ?」
少年は、少しだけ笑った。
「僕も、同じことをしたから」
「……君も?」
「うん」
少年は、遠くを見つめた。
「僕は、兄さんを救うために、世界を壊した」
出久は、黙って聞いていた。
「僕は、兄さんを失ったことを、自分の罪だと思った。僕がもっと強ければ。僕がもっと賢ければ。僕がもっと早く気づいていれば」
少年は、自分の胸に手を当てた。
「そう考え続けた。だから、兄さんを救えない世界を許せなかった」
「……」
「でも、本当は」
少年は、目を閉じた。
「僕は、兄さんが死んだことを、受け入れられなかっただけなんだ」
その言葉に、出久は息を呑んだ。
「僕が何度も世界を作り直したのは、兄さんを救うためだった。でも、それだけじゃない」
少年は、出久を見た。
「兄さんが死んだ世界で、生き続ける自分を許せなかったんだ」
出久は、何も言えなかった。
「君も同じだよ」
少年は、穏やかに言った。
「御影を殺した君は、御影を失った世界で生き続ける自分を、許せなかったんだ」
出久の胸が痛んだ。
「……僕は」
「君は、御影を救いたかった」
「……うん」
「でも、御影を救えなかった」
「……うん」
「だから、君は御影を失った世界そのものを、変えようとした」
少年は、出久の手を握った。
「でも、出久くん」
初めて。
少年は、彼を名前で呼んだ。
「御影を失った世界で生きることと、御影を忘れることは、同じじゃないよ」
出久の目から、涙がこぼれた。
「……僕は、御影を忘れたくない」
「うん」
「僕が彼を殺したことも、彼が僕を救おうとしたことも、全部覚えていたい」
「うん」
「でも……」
出久は、少年を見つめた。
「覚えているだけじゃ、駄目なんだろう?」
少年は、頷いた。
「うん」
「御影が存在したことを証明するために、誰かを犠牲にするんじゃなくて」
「うん」
「御影が存在した世界を取り戻すために、今生きている誰かを殺すんじゃなくて」
「うん」
「僕は……」
出久は、震える息を吐いた。
「僕は、御影がいなくても生きられる世界を、作らなきゃいけないんだ」
少年は、何も言わなかった。
ただ、静かに笑った。
その笑顔を見た瞬間。
出久は、気づいた。
この少年も、御影と同じだ。
自分を救おうとしている。
自分が壊れないように、必死に言葉を選んでいる。
自分が、自分の罪を背負えるように。
自分が、自分の命を捨てずにいられるように。
「……君は、誰なんだ?」
出久は、もう一度尋ねた。
少年は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「僕は、君が生まれる前に死んだ少年だよ」
「……名前は?」
「まだ、言えない」
「どうして?」
「僕の名前を知ったら、君は僕を救おうとするから」
出久は、眉を寄せた。
「それの何が悪いんだ?」
「君が、僕を救おうとすること自体は悪くない」
少年は、微笑んだ。
「でも、君が僕を救うために、また誰かを犠牲にするなら」
その瞳に、深い悲しみが宿った。
「僕は、今度こそ君を許せなくなる」
出久は、息を止めた。
「……君は、僕に救われたくないのか?」
「ううん」
少年は首を振った。
「僕だって、救われたいよ」
その声は、ひどく小さかった。
「僕だって、本当は……」
少年は、俯いた。
「……生きたかった」
出久は、何も言えなかった。
「僕だって、母さんに抱きしめてほしかった。兄さんと遊びたかった。友達が欲しかった。自分の名前を呼んでほしかった」
少年の頬を、涙が伝った。
「僕だって、僕として生きたかったんだ」
その瞬間。
出久は、少年を抱きしめていた。
何も考えなかった。
救えるかどうかも。
彼を救うことで、何が起こるのかも。
ただ、目の前の少年が泣いていたから。
自分と同じ顔をした少年が。
誰にも名前を呼ばれず。
誰にも生まれたことを認められず。
それでも、誰かを救おうとした少年が。
泣いていたから。
「……ごめん」
出久は、呟いた。
「君が誰なのか、まだ分からない」
少年の肩が震えた。
「君が何をしたのかも、全部は分からない」
出久は、少年を抱きしめる腕に力を込めた。
「でも……君が生きたかったことは、分かった」
少年は、声を殺して泣いた。
「……君が、僕として生きたかったことも」
白い空間に、光が戻り始めた。
時計の針が、ゆっくりと動き出す。
二時十三分。
二時十四分。
二時十五分。
止まっていた時間が、ようやく先へ進み始めた。
少年は、出久の胸に顔を埋めたまま、呟いた。
「……ありがとう」
そして。
出久の腕の中で。
少年の身体が、光になり始めた。
「……え?」
出久は、慌てて彼を抱き締め直した。
「待って! 何で……!」
「大丈夫」
少年は、笑った。
「今度は、消えるんじゃないよ」
「でも……!」
「僕は、君の中に戻るだけ」
その言葉に、出久の顔が強張った。
「……君は、僕の中にいたのか?」
「うん」
「ずっと?」
「ずっと」
少年は、優しく頷いた。
「君が、僕を忘れたときから」
光が、少年の身体を包んでいく。
「君が僕を忘れたことで、僕は君の中に残った」
「……何だよ、それ」
出久は、泣き笑いのような顔をした。
「そんなの……ずるいだろ」
「そうだね」
少年は笑った。
「でも、僕は君に生きていてほしかったんだ」
その言葉を最後に。
少年の姿が、消えた。
光は、出久の胸の中へと吸い込まれていく。
心臓が、強く打った。
一度。
二度。
三度。
出久は、胸を押さえた。
そこに、誰かがいる。
自分ではない誰か。
自分と同じ名前を持つ、誰か。
自分が生まれる前に死んだ少年。
そして。
自分が生まれたことで、存在を失った少年。
出久は、目を閉じた。
「……君の名前を、いつか必ず見つける」
その誓いは、誰にも聞こえなかった。
だが、胸の奥で。
誰かが、確かに答えた。
――うん。
8 世界が、初めて嘘をついた
雄英高校。
午前二時十五分。
職員室の時計が、突然、動き出した。
「……今、何時だ?」
相澤消太は、顔を上げた。
机の上に積まれた書類。
消えた生徒の記録。
説明できない死亡報告。
そして、何度確認しても、同じ時刻で止まっていた時計。
それが、今。
確かに動いた。
二時十五分。
二時十六分。
二時十七分。
「……おい、塚内」
相澤は、隣にいた塚内直正に声をかけた。
塚内は、腕時計を確認していた。
「こちらも動いている」
「何が起きた?」
「分からない。ただ……」
塚内は、机の上の資料を見た。
そこには、緑谷出久の名前が記されていた。
その下に、もう一つの名前。
御影出久。
つい数分前まで、その名前は黒く塗り潰されていた。
今は違う。
文字が戻っている。
ただし、記録の内容は、以前とは変わっていた。
対象個体:御影出久。
出生記録:未成立。
死亡記録:未成立。
存在証明:本人による自己定義を待機。
塚内は、息を呑んだ。
「……死亡していない?」
「いや、出生もしていない」
相澤は、眉間を押さえた。
「何なんだ、これは……」
そのとき。
職員室の扉が開いた。
爆豪勝己が、飛び込んできた。
「おい、クソ教師!」
「声を落とせ、爆豪」
「そんな場合か!」
爆豪は、机の上の資料を叩いた。
「緑谷の記録が変わった!」
相澤の目が鋭くなる。
「どう変わった?」
「知らねえよ! ただ、さっきまであった死亡記録が消えてんだ! それに……!」
爆豪は、言葉を詰まらせた。
その手には、一枚の写真が握られていた。
幼い頃の爆豪。
幼い頃の出久。
そして、その間に立つ、もう一人の少年。
写真の中で、三人は笑っていた。
爆豪は、その写真を見つめていた。
「……俺、こんな奴、知らねえはずなんだ」
声が、震えていた。
「なのに……」
爆豪は、歯を食いしばった。
「何で、こんな写真があるんだよ……!」
相澤は、写真を受け取った。
そこには、確かに三人の少年が写っていた。
緑谷出久。
爆豪勝己。
そして、御影出久。
だが、写真の裏には、別の文字が記されていた。
撮影日:十三年前。
被写体:緑谷出久、爆豪勝己、未登録個体。
未登録個体。
相澤は、その文字を見つめた。
そして、気づいた。
写真の中の御影出久は、カメラを見ていなかった。
彼は、写真の外側にいる誰かを見つめていた。
その視線の先には。
誰もいない。
ただ、空白だけがあった。
「……塚内」
相澤は、低く言った。
「緑谷を探せ」
「もう捜索班を出している」
「違う」
相澤は、写真を握り締めた。
「今度は、緑谷だけじゃない」
彼は、写真の中の三人を見た。
「この写真に写っている、全員を探せ」
爆豪が顔を上げた。
「……全員?」
「そうだ」
相澤は、静かに答えた。
「俺たちは、緑谷が一人で世界を壊していると思っていた」
写真の中の少年たち。
笑っている三人。
その背後に、かすかに映り込んでいる、もう一人の影。
「だが、違うのかもしれない」
相澤は、目を細めた。
「世界の方が、緑谷を一人にしようとしているんだ」
その瞬間。
職員室のすべてのモニターが、同時に点灯した。
画面に表示されたのは、一つの文章だった。
第零回観測記録、更新。
対象個体、緑谷出久。
対象個体、御影出久。
対象個体、麗日お茶子。
そして、最後に。
対象個体、緑谷引子。
相澤の表情が、凍りついた。
「……母親まで、対象に入ったのか」
モニターの文字が、ゆっくりと変わる。
出生記録を再構築します。
対象個体の母親を、再定義します。
新たな出生を開始します。
その下に、赤い文字が浮かび上がった。
警告:同一の母親から、同一の名前を持つ二人の子どもは生まれません。
相澤は、椅子から立ち上がった。
「……全員、緑谷の家に向かえ!」
塚内が叫ぶ。
「何が起こるか分からないぞ!」
「だからだ!」
相澤は、職員室を飛び出した。
「今度こそ、誰も一人にさせるな!」
9 母親が、二人の息子を産んだ日
緑谷家。
引子は、寝室のベッドに座っていた。
目の前には、二人の少年がいる。
一人は、幼い出久。
もう一人は、顔の見えない少年。
いや。
顔はある。
緑色の髪。
そばかす。
優しそうな目。
出久によく似た顔。
だが、引子には分からなかった。
この子は、誰なのだろう。
「……お母さん」
幼い出久が、彼女の手を握った。
「この子、誰?」
引子は答えられなかった。
目の前の少年は、何も言わない。
ただ、彼女を見つめている。
その目に、深い悲しみがあった。
まるで、長い間、彼女に会いたかったかのように。
「……お母さん」
少年が、口を開いた。
「僕のこと、覚えてる?」
引子の胸が、痛んだ。
覚えている。
この子を、知っている。
抱きしめたことがある。
泣き声を聞いたことがある。
この子の名前を、何度も呼んだことがある。
けれど。
その記憶は、どこにもない。
引子は、震える手を伸ばした。
「……あなたは」
少年は、目を閉じた。
「……うん」
「あなたは、誰なの?」
少年は、笑った。
泣きそうな顔で。
「……分からないんだ」
引子の目から、涙がこぼれた。
「でも……」
少年は、彼女の手に頬を寄せた。
「僕は、あなたの子どもだったんだと思う」
引子は、息を呑んだ。
「……だった?」
「うん」
「今は、違うの?」
少年は、答えなかった。
代わりに、幼い出久が口を開いた。
「お母さん」
「……何?」
「僕、この子を知ってるよ」
引子は、息を止めた。
「……本当に?」
「うん」
幼い出久は、頷いた。
「僕、この子と一緒に遊んだことがある」
「……」
「この子が、僕の手を引いてくれた」
幼い出久は、少年を見た。
「この子が、僕を守ってくれた」
少年は、俯いた。
「……でも」
幼い出久は、言葉を続けた。
「僕、この子の名前を知らないんだ」
引子は、二人を見つめた。
その瞬間。
彼女の中で、何かが動いた。
記憶の奥底。
母親になる前の自分。
病院のベッド。
産声。
小さな手。
生まれたばかりの二人の子ども。
一人は、緑谷出久。
もう一人は――。
記憶が、黒く塗り潰された。
引子は、頭を押さえた。
「……あ、ああ……!」
少年が、慌てて彼女を支えた。
「お母さん!」
その声を聞いた瞬間。
引子は、すべてを思い出した。
十三年前。
病院。
午前二時十三分。
彼女は、二人の子どもを産んだ。
一人は、元気な産声を上げた。
もう一人は、産声を上げなかった。
医師たちは、懸命に蘇生を試みた。
だが、その子どもは、息をしなかった。
心臓は動かなかった。
名前を呼んでも、返事はなかった。
彼女は、泣いた。
夫はいなかった。
誰も、彼女の手を握ってくれなかった。
ただ、隣のベッドで、もう一人の子どもが泣いていた。
その子の名前は、緑谷出久。
そして。
産声を上げなかった子どもの名前も、緑谷出久だった。
同じ名前。
同じ母親。
同じ日に生まれた、二人の息子。
世界は、それを許さなかった。
医師が告げた。
「お子さんは、一人です」
看護師が記録を書き換えた。
出生証明書から、一人分の名前が消えた。
死亡記録も、残らなかった。
母親は、二人目の子どもを抱くことさえ許されなかった。
ただ、最初に生まれた子どもを抱きしめて、泣いた。
その夜。
彼女は、誰にも聞こえない声で、死んだ子どもの名前を呼んだ。
出久。
その瞬間。
死んだはずの子どもが、目を開けた。
引子は、息を呑んだ。
その子は、母親を見た。
そして、泣かなかった。
ただ、静かに言った。
「……お母さん」
その声を聞いた瞬間。
世界が、二つに分かれた。
一つは、緑谷出久が生まれた世界。
もう一つは、緑谷出久が生まれなかった世界。
その二つの世界の間に、少年が立っていた。
御影出久。
彼は、二人の少年の間に生まれた。
誰にも認められず。
誰にも記録されず。
それでも、確かに生まれた。
そして、世界は彼を殺した。
生まれる前に。
存在する前に。
名前を呼ばれる前に。
引子は、涙を流しながら、目の前の少年を抱きしめた。
「……ごめんね」
少年は、何も言わなかった。
「ごめんね……!」
引子は、何度も謝った。
「あなたを、産んであげられなくて……!」
少年の身体が、震えた。
「……お母さん」
「ごめんね……ごめんね……!」
「……お母さん」
少年は、彼女の背中に手を回した。
そして。
十三年分の涙を、初めて流した。
「……ただいま」
引子は、声を上げて泣いた。
その瞬間。
世界中の時計が、二時十六分を指した。
そして、初めて。
御影出久の出生記録に、文字が浮かび上がった。
出生時刻:二時十三分。
出生状態:成立。
死亡状態:未確定。
存在証明:母親による認知。
その下に、最後の一行が記された。
名前:御影出久。
世界が、彼の名前を認めた。
だが。
その直後。
新しい警告が表示された。
警告。
対象個体、緑谷出久。
対象個体、御影出久。
同一母親から出生した二個体の因果衝突を検出。
世界再構築まで、残り六十三時間。
引子は、二人の息子を抱きしめたまま、顔を上げた。
「……まだ、終わっていないのね」
彼女の声は、震えていた。
それでも。
その目には、もう迷いはなかった。
「今度は、二人とも、私が守る」
その言葉が、世界に届いた。
そして、どこか遠い場所で。
誰かが、笑った。
――ようやく、母親が思い出した。
――では、次は。
――父親に、思い出してもらおう。
白い闇の中。
名前のない男が、ゆっくりと目を開いた。
彼の手には、一枚の出生証明書があった。
そこには、二人の子どもの名前が記されていた。
緑谷出久。
御影出久。
その下に、父親の名前。
だが、その名前は。
出久も。
御影も。
そして、引子さえも。
一度も聞いたことのない名前だった。
男は、静かに呟いた。
「……遅くなって、ごめんな」
そして、出生証明書を閉じた。
その表紙には、こう記されていた。
第二子、死亡。
死因――父親による殺害。
男は、顔を上げた。
「今度こそ、私があの子を殺した理由を、話そう」
時計が、二時十六分を指していた。
世界は、十三年ぶりに動き始めた。
だが、動き始めた世界の先に待っているのは、救済ではない。
次に明かされるのは。
御影出久が生まれる前に、彼を殺した父親の罪。
そして。
緑谷出久が、そもそも生まれてはならなかった理由だった。