――十三週間後。
午前六時十三分。
日本、東京都。
夜明け前の街は、まだ眠っていた。
高層ビルの窓には、ところどころ明かりが灯っている。始発電車が線路を走り、コンビニエンスストアの店員が品出しを始め、新聞配達員が自転車を走らせていた。
いつもと変わらない朝。
少なくとも、その瞬間までは。
都内某所の小さな公園で、一人の老人がベンチに腰掛けていた。
手には、紙袋がある。
中身は二つのあんパンと、缶コーヒー。
老人は毎朝、この公園に来る。
かつては妻と一緒だった。
二人で朝の散歩をして、ベンチに座り、あんパンを半分ずつ分け合った。
妻は甘いものが好きだった。
老人が買ってくるあんパンは、いつも妻のほうが大きかった。
「あなた、また大きいほうをくれたの?」
「気のせいだ」
「毎日そう言うじゃない」
「気のせいだと言っているだろう」
そんなやり取りを、何十年も繰り返した。
妻が亡くなってからも、老人は同じ習慣を続けていた。
あんパンを二つ買う。
ベンチに座る。
一つは自分で食べる。
もう一つは、隣に置く。
誰にも理解されない習慣だった。
息子には何度もやめるように言われた。
「もう母さんはいないんだぞ」
わかっている。
そんなことは、痛いほどわかっている。
それでも老人は、やめられなかった。
隣に誰もいないことを認めてしまえば、妻がいなくなったという事実まで、自分の中で確定してしまう気がしたからだ。
だから今日も、老人は二つのあんパンを買ってきた。
一つを食べ終え、缶コーヒーを開ける。
そして、隣のベンチを見た。
「…………お前さんがいたら、また怒るんだろうな」
老人は笑った。
「こんなに甘いものばかり食べて、身体に悪いってな」
返事はない。
当然だ。
老人は空を見上げた。
雲の切れ間から、薄い朝日が差し込んでいる。
「もう少ししたら、そっちに行くからな」
その言葉を口にしたときだった。
――こつん。
隣から、小さな音がした。
老人は顔を向けた。
誰もいない。
ベンチの上には、二つ目のあんパンが置かれている。
その横に。
白い手があった。
「…………え?」
老人は目を見開いた。
手。
間違いなく、人間の手だった。
ベンチの背もたれの向こうから、細い指が伸びている。
五本の指。
皺のある手の甲。
見覚えのある、小さな傷。
老人は呼吸を忘れた。
その傷を、知っていた。
若い頃、妻が台所で包丁を滑らせて切った傷だった。
何十年も前のことだ。
治ってからも、薄い痕が残っていた。
老人は震える手を伸ばした。
「……嘘だろ」
指先が触れる。
温度はなかった。
氷のように冷たい。
それでも、その手は確かにそこにあった。
老人は立ち上がろうとした。
しかし、膝が動かなかった。
ベンチの向こうから、ゆっくりと人影が現れる。
白髪。
小柄な身体。
少し曲がった背中。
そして、老人が何十年も見続けてきた顔。
妻だった。
死んだはずの妻が。
三年前、病院のベッドで手を握りながら、最後まで「ありがとう」と言ってくれた妻が。
そこに立っていた。
老人の口が、何度も開閉する。
声が出ない。
妻は、彼を見つめていた。
その瞳は虚ろだった。
焦点が定まっていない。
自分がどこにいるのかも、理解していないようだった。
やがて、妻の唇が動いた。
「…………あなた?」
老人の手から、缶コーヒーが落ちた。
地面に転がった缶から、黒い液体が流れ出す。
「お前……」
喉が震える。
「お前なのか……?」
妻は首を傾げた。
それから、ゆっくりと老人に近づいた。
「……あれ?」
彼女は自分の手を見つめた。
「私……どうして……」
言葉が続かない。
眉間に皺が寄る。
何かを思い出そうとしている。
何か、大切なものを。
老人は、もう我慢できなかった。
妻を抱きしめた。
「お前……! お前……!」
声を上げて泣いた。
「よかった……! よかった……!」
妻の身体は冷たかった。
けれど、腕の中にいる。
もう一度、抱きしめられる。
もう一度、声を聞ける。
老人は、子供のように泣き続けた。
妻は困惑していた。
抱きしめられながら、何度も瞬きを繰り返す。
「……あなた?」
「そうだ……! 俺だ……!」
「あなた……」
彼女は老人の顔を見上げた。
そして。
ほんの一瞬だけ。
その虚ろな瞳に、懐かしい光が戻った。
「……大きいほう、あげるわね」
老人の涙が止まった。
妻は、ベンチの上のあんパンを見ていた。
「あなた、いつも……大きいほう、くれたでしょう?」
老人は、声を出せなかった。
妻は笑った。
生前と同じ、少し困ったような笑顔で。
「だから……今日は、私が……」
その言葉は、最後まで続かなかった。
彼女の表情が、再び虚ろなものに変わる。
「……あれ?」
首が傾く。
「私は……誰……?」
老人は、妻を抱きしめたまま固まっていた。
彼女の身体が、ゆっくりと震え始める。
「わからない……」
妻は呟いた。
「わからない……わからない……」
「いいんだ」
老人は、必死に笑った。
「いいんだよ……!」
彼女の肩を抱きしめる。
「ゆっくりでいい……! 思い出せなくてもいい……!」
声が裏返った。
「俺が教えてやる……! お前のことなら、全部覚えてる……!」
妻は、彼の胸に顔を埋めた。
老人は泣きながら、何度もその頭を撫でた。
朝日が昇っていく。
公園の木々が、光を受けて輝き始める。
世界のどこかで、同じような再会が起きていた。
母親が、亡くなった息子を抱きしめていた。
青年が、戦死した友人と再会していた。
幼い子供が、写真の中でしか知らなかった祖父に手を引かれていた。
人々は泣いた。
笑った。
名前を呼んだ。
そして、何度も確かめた。
本当に帰ってきたのか。
夢ではないのか。
もう一度、触れてもいいのか。
彼らにとって、それは奇跡だった。
死者の帰還。
人類が何千年も夢見てきた、死という絶対的な壁を越える出来事。
その奇跡が、現実になったのだ。
だが。
奇跡は、いつだって一つの顔だけを持つとは限らない。
* * *
午前六時二十七分。
東京都内、住宅街。
一人の女性が、玄関の前に立っていた。
彼女の名前は、佐伯美奈。
三十二歳。
夫と、小学生の息子との三人暮らし。
十年前、彼女は弟を亡くしていた。
交通事故だった。
弟は当時、まだ二十歳だった。
大学に通いながら、アルバイトをしていた。
将来は教師になりたいと話していた。
子供が好きで、いつも近所の子供たちと遊んでいた。
美奈にとっては、少し生意気で、どうしようもなく優しい弟だった。
事故の知らせを受けたとき、美奈は弟の名前を何度も叫んだ。
病院に駆けつけた。
けれど、弟はもう帰ってこなかった。
それから十年。
美奈は結婚し、息子を産み、日常を築いてきた。
弟の写真は、今もリビングの棚に飾ってある。
息子は、写真の青年を叔父だと知っていた。
「ママ、この人、どんな人だったの?」
そう聞かれるたび、美奈は笑って答えた。
「すごく優しい人だったよ」
そして、心の中で付け加える。
あなたにも、会わせたかった。
今日も、美奈は息子を学校へ送り出すため、玄関の鍵を開けようとしていた。
そのとき。
扉の向こうから、声がした。
「……姉ちゃん?」
美奈の手が止まった。
鍵が、指から滑り落ちる。
「…………え?」
もう一度。
「姉ちゃん」
聞き間違えるはずがなかった。
十年経っても、忘れたことなどない。
その声を。
その呼び方を。
美奈は、震える手でドアノブを握った。
開けるべきではない。
そんな考えが、頭のどこかに浮かんだ。
だが、身体は止まらなかった。
扉を開ける。
そこに、一人の青年が立っていた。
黒い髪。
細い身体。
少し癖のある前髪。
そして、困ったように笑う顔。
「……久しぶり」
青年は言った。
「姉ちゃん」
美奈は、その場に崩れ落ちた。
「……嘘」
声が震える。
「嘘……嘘よ……!」
青年は困惑したように眉を寄せた。
「え、何? どうしたの?」
「だって……だって、あなた……!」
美奈は、青年の顔を見つめた。
十年前のままだった。
死んだ日のまま。
事故に遭う前、玄関で「行ってきます」と笑ったときのまま。
「あなた、死んだのよ……!」
その言葉に、青年は黙った。
自分の身体を見下ろす。
そして、ぽつりと呟いた。
「……そう、なの?」
美奈は息を呑んだ。
青年の顔には、戸惑いしかなかった。
自分が死んだという事実を、彼は知らない。
いや。
知っているのかもしれない。
ただ、理解できていない。
「俺……」
青年は、自分の手を見つめた。
「俺、どうしてここに……?」
美奈は、答えられなかった。
それでも、彼女は弟に手を伸ばした。
「……おかえり」
その一言で、すべてが崩れた。
「おかえり……!」
美奈は弟を抱きしめた。
青年は戸惑いながらも、彼女の背中に腕を回した。
「……ただいま」
その声を聞いた瞬間、美奈は十年前に戻っていた。
何もできなかった自分。
病院の廊下で泣き崩れた自分。
葬儀で、弟の友人たちが泣いているのを見ていた自分。
そして、もう二度と会えないのだと、無理やり納得しようとした自分。
そのすべてが、今になって押し寄せてくる。
「会いたかった……!」
美奈は泣いた。
「ずっと……会いたかった……!」
弟は、彼女の背中を撫でた。
「……うん」
それから、少しだけ笑った。
「俺も」
そのとき。
背後から、ぱたぱたと足音がした。
「ママ、どうしたの?」
学校へ行く準備を終えた息子が、玄関にやってきたのだ。
少年は、母親の腕の中にいる青年を見て、首を傾げた。
「……誰?」
美奈は涙を拭った。
「この人はね……」
言葉が詰まる。
どう説明すればいいのだろう。
この人は、あなたの叔父さん。
十年前に亡くなった、ママの弟。
でも、今は生きている。
いや。
本当に、生きているのだろうか。
美奈が迷っていると、青年が少年を見た。
その瞬間。
彼の瞳が揺れた。
「……大きくなったな」
少年は目を丸くした。
「え?」
青年は、自分の言葉に驚いたようだった。
「……あれ?」
彼は額に手を当てた。
「俺……この子を……」
何かを思い出そうとしている。
「……知ってる?」
美奈の表情が強張った。
弟が死んだとき、息子はまだ生まれていなかった。
二人が会ったことはない。
写真を見せたことはある。
だが、青年は少年を初めて見たはずだった。
それなのに。
青年の口から、自然に言葉がこぼれた。
「……ああ、そうか」
彼は少年の頭を撫でた。
「お前、姉ちゃんの子か」
少年は、困惑しながら母親を見た。
美奈は、ただ弟を見つめていた。
青年は少年に笑いかけた。
「よろしくな」
少年は、少しだけ警戒しながらも頷いた。
「……うん」
その光景は、あまりにも穏やかだった。
十年の空白を越えて、家族が再び一つになった瞬間。
けれど、美奈は気づいていた。
弟の身体が、時折、わずかに透けて見えることに。
朝の光が、その輪郭を通り抜けていることに。
そして、彼の手が、ひどく冷たいことに。
美奈は弟の手を握り直した。
強く。
まるで、少しでも力を緩めれば、また失ってしまうかのように。
「……もう、どこにも行かないでね」
弟は、彼女を見た。
「……うん」
その返事が、どれほど確かなものなのか。
美奈には、わからなかった。
それでも彼女は、弟を家の中へ招き入れた。
扉を閉める。
鍵をかける。
朝食を用意する。
家族のために、いつもの日常を続ける。
奇跡が訪れた朝。
彼女は、何があってもその奇跡を手放したくなかった。
たとえそれが、どんな代償を伴うものだったとしても。
* * *
午前七時十二分。
東京都、雄英高校。
かつて数えきれないほどの若者たちが門をくぐり、ヒーローになる夢を抱いた場所。
幾多の戦いを経た現在も、雄英は日本のヒーロー教育の中心であり続けていた。
校舎の一部は建て替えられ、訓練施設は最新の設備へと更新されている。
かつての戦いの痕跡は、目立たないように修復されていた。
それでも、完全に消し去ることはできない。
敷地の一角には、かつての戦いで命を落とした者たちの名前を刻んだ記念碑がある。
英雄として讃えられた者。
名も知られずに誰かを救った者。
ヒーローではなかったが、誰かを守ろうとして命を落とした者。
そこに刻まれた名前に、優劣はなかった。
今日、雄英では十三周年追悼式典に向けた最終確認が行われる予定だった。
卒業生たちの参加。
現役ヒーローたちの警備計画。
報道機関への対応。
一般参加者の誘導。
すべての準備は、ほぼ整っていた。
ただ一人、準備が整っていない男がいた。
「…………」
緑谷出久。
かつてワン・フォー・オールを継承し、世界を破滅から救った青年。
その彼が、雄英高校の正門前で、スマートフォンを握りしめていた。
画面には、一通のメッセージが表示されている。
差出人は、麗日お茶子。
『明日の準備、もう終わりそう? 私、先に会場を確認してくるね!』
それだけの文章だ。
何の変哲もない、日常的な連絡。
なのに、出久はその文面を何度も読み返していた。
「…………うん」
誰に向けたものでもない返事をして、画面を閉じる。
そして、また開く。
「いや、違うだろ……」
自分で自分に突っ込んだ。
「そうじゃなくて……!」
彼は頭を抱えた。
今日、言うつもりだった。
明日の式典が終わったら、お茶子に伝える。
ずっと胸の中にしまってきた気持ちを。
戦いの中では、何度だって命を懸けられた。
敵の前に立つこともできた。
自分の限界を超えて、誰かを助けることもできた。
それなのに。
たった一人の女の子に、好きだと伝えることが、こんなにも難しい。
「……何やってんだ、俺」
出久は深く息を吐いた。
十二年前。
世界の命運を懸けた戦いの中で、彼は何度も思った。
生きて帰れたら。
すべてが終わったら。
そのときこそ、自分の気持ちを伝えようと。
しかし、戦いが終わっても、世界はすぐに元通りになったわけではなかった。
復興が必要だった。
傷ついた人々を支える必要があった。
新しい社会を築くために、やるべきことはいくらでもあった。
その間に時間が過ぎた。
仲間たちは大人になった。
それぞれの道を歩き始めた。
そして、出久もまた、自分の人生を生きる時期を迎えていた。
もう、いつかでは遅い。
そう思ったからこそ、明日の式典を一つの区切りにしようと決めたのだ。
明日。
式典が終わったら。
彼女に伝える。
それだけのことなのに。
「緑谷」
突然、背後から声がした。
「ひっ!?」
出久の肩が跳ね上がった。
振り返る。
そこにいたのは、爆豪勝己だった。
「何してんだ、てめェ」
「か、勝己!? いつから!?」
「てめェがスマホ見ながら百面相してるところからだ」
「そんなに!?」
「うるせェ」
爆豪は呆れた顔をした。
その表情には、昔と変わらない苛立ちがある。
だが、かつてのように相手をねじ伏せようとする険しさは、もうなかった。
今の爆豪は、自分の怒りを他人にぶつけることと、自分の意志を貫くことの違いを知っている。
少なくとも、昔よりは。
「麗日か?」
「…………えっ」
「図星かよ」
「い、いや、その……!」
「隠す意味あんのか?」
出久は口を閉じた。
爆豪は小さく舌打ちした。
「ったく。昔からそうだな、てめェは」
「……うん」
「助けるだの、背負うだの、そういうことになると勝手に身体が動くくせに」
爆豪は、出久の顔を見た。
「自分が欲しいもんには、いつまで経っても手ェ伸ばさねェ」
出久は、何も言えなかった。
「……明日、言うつもりなんだ」
ようやく、それだけを口にする。
爆豪は眉を上げた。
「明日?」
「うん。式典が終わったら」
「なんで今日じゃねェんだ」
「えっ?」
「明日じゃなきゃ駄目な理由あんのか?」
「それは……式典もあるし、準備も……」
「言い訳すんな」
即答だった。
出久は言葉を失った。
爆豪は腕を組み、空を見上げた。
「明日になりゃ、何もかも上手くいくって保証があんのかよ」
「……ないけど」
「じゃあ、今日言え」
「いや、でも……!」
「断られんのが怖ェのか?」
出久の胸が、どきりと跳ねた。
爆豪は、そんな彼を見て鼻を鳴らした。
「怖ェなら怖ェでいいだろうが」
その声は、いつもの怒鳴り声よりも低かった。
「だがな。言わなかったことを、後になって相手のせいにすんじゃねェぞ」
出久は顔を上げた。
「…………」
「伝えなかったのは、てめェだ。選ばなかったのも、てめェだ。だったら、その結果くらい自分で引き受けろ」
それは、かつての爆豪なら口にしなかった言葉かもしれない。
彼自身、失敗を恐れていた。
弱さを知られることを嫌っていた。
負けることを許せなかった。
だからこそ、彼は長い時間をかけて学んだのだ。
強さとは、何も恐れないことではない。
恐れていても、自分の選択から逃げないことだと。
出久は、ゆっくりと息を吸った。
「……ありがとう、勝己」
「礼なんざいらねェ」
爆豪は歩き始めた。
「あと、式典で変な顔して麗日に気づかれんなよ」
「そ、それは気をつける!」
「もう顔に出てんだよ」
「ええっ!?」
「うるせェ!」
いつもの調子だった。
二人は並んで正門をくぐる。
その先には、彼らが過ごした日々の痕跡がある。
傷つき、迷い、何度もぶつかりながら、それでも前へ進んできた場所。
出久は、ふと空を見上げた。
薄い雲が流れている。
何も変わらない朝だった。
このときまでは。
* * *
午前七時二十九分。
雄英高校、職員室。
「……何ですって?」
相澤消太は、電話の向こうから聞こえてきた報告に眉を寄せた。
受話器を持つ手に、わずかに力がこもる。
「もう一度、詳しく説明してください」
電話の相手は、公安委員会の緊急分析班だった。
「現在、複数の地域から、死亡確認済みの人物が生存しているという通報が入っています」
「生存?」
「はい。戸籍上、死亡している人物です。家族の証言によれば、本人の顔貌、声紋、身体的特徴が一致しているとのことですが……」
「ですが?」
「本人の記憶や行動に、不自然な点が見られるケースがあります」
相澤は目を細めた。
「具体的には?」
「自分の名前を思い出せない。家族のことを認識できない。あるいは、死亡時点の記憶しか持っていない。そうした報告が複数あります」
「個性による犯罪の可能性は?」
「調査中です。ただし、発生地域が広範囲にわたっています。単一の個性による現象と断定するには、説明できない点が多すぎます」
相澤は黙り込んだ。
死亡した人物が、蘇った。
普通なら、そんな報告をまともに受け取ることはない。
だが、彼は普通の教師ではなかった。
個性という常識を覆す力を持つ人間たちと、長年向き合ってきた。
常識外れの現象が、常識外れだからという理由だけで否定できないことを知っている。
そして、彼はもう一つのことも知っていた。
説明できない現象ほど、最初の判断を誤ると被害が拡大する。
「警察と各地のヒーロー事務所には?」
「連絡を進めています。公安委員会としても、正式な緊急警戒態勢を検討しています」
「検討している場合ですか」
思わず、声が鋭くなった。
相手が息を呑む気配が伝わってくる。
相澤は目を閉じ、呼吸を整えた。
怒っている場合ではない。
必要なのは、情報だ。
「……すみません。続けてください」
「はい。もう一つ、気になる報告があります」
「何です?」
「蘇った人物の一部が、極端な身体能力を示しています。現時点では個性の発現かどうか判明していませんが、通常の人間では考えられない挙動を見せたという証言があります」
相澤の目が、細くなった。
「被害は?」
「軽傷者が数名。現段階で、死亡者は確認されていません」
「わかりました。こちらでも警戒を強めます」
電話を切る。
職員室に、静寂が戻った。
相澤は机の上の書類を見つめた。
明日の式典には、多くの人々が集まる。
現役のヒーロー。
卒業生。
遺族。
一般参加者。
かつての戦いを知る者も、知らない者も。
もし、今回の現象が何らかの犯罪行為であれば。
もし、蘇った人物たちが制御不能になれば。
あの場は、一瞬で危険な場所に変わる。
相澤はスマートフォンを取り出した。
最初に連絡する相手は決まっていた。
「……緑谷」
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
『はい、相澤先生!』
いつもと変わらない声だった。
相澤は、わずかに息を吐いた。
「緑谷。今、少し時間はあるか」
『はい。どうしました?』
「妙な報告が入っている」
彼は、短く要点を伝えた。
死亡した人物の帰還。
記憶の欠落。
身体能力の異常。
世界各地での同時発生。
電話の向こうが静かになった。
『……死者が、蘇った?』
「あくまで現時点の報告だ。まだ断定はできない」
『でも、複数の地域で同時に……?』
「そうだ」
沈黙。
そして、出久の声が少し低くなった。
『……わかりました。僕も情報を集めます』
「頼む。ただし、独断で動くな」
『はい』
「それと、明日の式典の警備計画を見直す。何かあればすぐ連絡しろ」
『わかりました』
電話が切れた。
相澤は椅子に深く腰掛けた。
窓の外では、生徒たちが登校している。
笑い声が聞こえる。
誰かが遅刻しそうになって走っている。
いつもの朝。
いつもの学校。
それなのに、相澤の胸には、嫌な予感が残っていた。
彼は机の引き出しを開けた。
そこには、古い写真が一枚入っている。
若い頃の自分と、白雲朧。
かつて同じ夢を追いかけた友人。
今は、もういないはずの友人。
相澤は写真を見つめた。
「…………まさかな」
小さく呟く。
その言葉は、誰にも聞かれなかった。
* * *
午前八時四分。
日本各地。
異変は、すでに止めようのない勢いで広がっていた。
ある病院では、死亡確認から数時間が経過した患者が、霊安室の中で起き上がった。
医師たちは混乱した。
心停止を確認していた。
蘇生処置も行った。
それでも助からなかった。
なのに、その患者は自分の足で立ち上がっていた。
「……先生?」
看護師が、震える声で呼びかける。
患者は、ゆっくりと顔を向けた。
「……ここは?」
「病院です。あなたは……」
言葉が続かない。
患者は、自分の胸に手を当てた。
「俺……死んだんじゃ……」
その場にいた全員が、息を呑んだ。
患者はしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「……家に帰らなきゃ」
そして、歩き始めた。
止めようとした医師の手を振り払い、病院の廊下へと出ていく。
彼の身体には、点滴の痕が残っていた。
心臓は動いている。
呼吸もしている。
しかし、モニターが記録していた数値は、正常な人間のものとは明らかに異なっていた。
医師は、その場に立ち尽くした。
自分が何を見たのか。
何が起きたのか。
理解することができなかった。
別の地域では、事故で亡くなった消防士が、自宅に戻っていた。
彼は家族を抱きしめ、涙を流した。
しかし、家族が彼の死について話し始めると、突然、激しく取り乱した。
「死んだ……?」
消防士は、自分の胸を叩いた。
「俺が……死んだ?」
妻が泣きながら頷く。
「あなた……あの日……」
「嘘だ!」
消防士は叫んだ。
「俺は死んでない! 俺は……俺は……!」
その瞬間、彼の腕が異様な形に膨れ上がった。
筋肉が膨張し、皮膚が裂ける。
家族が悲鳴を上げる。
消防士は自分の腕を見つめ、呆然とした。
「……何だ、これ」
彼の身体から、見覚えのない力が溢れ出していた。
生前、彼は個性を持たなかった。
少なくとも、本人も家族もそう認識していた。
それなのに、今。
死者として帰ってきた彼の身体は、何か別のものへと変わり始めていた。
そして、その異変は一人だけではなかった。
世界中で。
同じような現象が起きていた。
死者たちが戻ってくる。
だが、その中には、生前の個性とは異なる力を示す者もいた。
肉体の構造が変化する者。
周囲の物体に干渉する者。
影の中に潜り込む者。
触れたものの時間を狂わせる者。
それらの能力が、以前から備わっていたのか。
死者として蘇ったことで新たに発現したのか。
あるいは、人間の個性という概念そのものが、何者かによって書き換えられているのか。
まだ、誰にもわからなかった。
そして。
最初の死亡事件が報告された。
* * *
午前八時十七分。
東京都、郊外の住宅街。
一軒の家から、悲鳴が上がった。
「お父さん! やめて!」
少女の声だった。
近隣住民が、窓の外から様子をうかがう。
家の中では、男が暴れていた。
男は、三年前に亡くなったはずの人物だった。
かつて酒に溺れ、家族に暴力を振るっていた。
死因は交通事故。
男が亡くなったとき、家族は悲しんだ。
だが、それ以上に、安堵していた。
暴力が終わったからだ。
恐怖に怯えなくてよくなったからだ。
それなのに。
男は帰ってきた。
生前と同じ顔で。
生前と同じ声で。
生前と同じように、妻の腕を掴んでいた。
「おい……何で泣いてんだ」
男が唸る。
「俺が帰ってきたんだぞ」
妻は、震えながら首を振った。
「……お願い。やめて」
「何だと?」
男の顔が歪む。
「誰のおかげで生きてこられたと思ってんだ!」
拳が振り上がった。
少女が母親の前に飛び出した。
「やめて!」
拳が振り下ろされる。
その瞬間。
窓ガラスが砕けた。
黒い影が、室内へと飛び込んできた。
男の拳が、空中で止まった。
いや。
止められたのだ。
男の腕を、誰かが掴んでいた。
黒いマスク。
動きやすい戦闘服。
腰には拘束具。
現場に駆けつけたプロヒーローだった。
「そこまでだ」
ヒーローは男を睨みつけた。
「暴力行為を確認した。抵抗するな」
男は、掴まれた腕を見下ろした。
そして、ゆっくりと笑った。
「……ヒーロー?」
その笑みは、どこか不自然だった。
「そうか……そういうことか」
ヒーローが眉を寄せる。
「何を言っている」
男は顔を上げた。
「俺は……帰ってきたんだな」
次の瞬間。
男の腕が、ヒーローの手の中で崩れた。
肉体が泥のように変形する。
ヒーローは反射的に手を離した。
男の腕は床に落ちる前に黒い霧となり、再び肩へと戻っていく。
「なっ……!」
男の身体が膨れ上がった。
皮膚の下で、何かが蠢いている。
顔の輪郭が歪む。
口が裂ける。
目が増える。
それでも、男の表情には、どこか人間らしい怒りが残っていた。
「俺を……邪魔するな!」
男が叫ぶ。
衝撃波が室内を吹き飛ばした。
ヒーローは壁に叩きつけられ、家具が砕け散る。
少女が母親を庇う。
悲鳴。
破壊音。
粉塵。
そして、静寂。
男は、ゆっくりと自分の手を見つめた。
「……俺が、やったのか?」
その顔には、困惑があった。
自分が何をしたのか、理解できていない。
男は床に倒れたヒーローを見た。
ヒーローは、動かなかった。
「…………あ」
男の口が、わずかに開いた。
そのとき、少女が叫んだ。
「お父さんなんか、大嫌い!」
男の身体が、ぴたりと止まった。
少女は泣いていた。
恐怖に震えながら。
それでも、母親を守るために、必死に男を睨みつけていた。
「帰ってこなければよかったのに!」
男の顔から、表情が消えた。
「…………そうか」
声が、低くなる。
「お前たちは……俺を、いらないのか」
少女は答えなかった。
男は、自分の胸に手を当てた。
何かを探すように。
何かを確かめるように。
そして、突然、笑い始めた。
「……はは」
乾いた笑いだった。
「ははは……そうか……」
男の身体から、黒い霧が噴き出した。
「俺は、死んだんだな」
その言葉と同時に、彼の目が赤く光った。
「だったら……!」
男は、再び拳を振り上げた。
「もう一度、全部壊してやる!」
ヒーローが立ち上がろうとする。
だが、間に合わない。
男の拳が、少女へと向かっていく。
その瞬間。
鋭い声が響いた。
「――そこまでだ!」
青白い光が走った。
男の腕が、途中で止まる。
次の瞬間、拘束用のワイヤーが男の身体を縛り上げた。
窓の外から、二人目のヒーローが飛び込んでくる。
「市民の安全を最優先! 対象を拘束する!」
複数のヒーローが、次々と現場に到着した。
男は暴れた。
叫んだ。
自分は被害者だと訴えた。
家族に捨てられたと叫んだ。
自分を死なせた世界が悪いのだと喚いた。
その言葉の一つ一つに、彼が生前抱えていた歪みが滲んでいた。
だが、彼が何を訴えようとも。
床に倒れたヒーローは、もう動かなかった。
救急隊が到着したとき、彼は死亡を確認された。
死者が蘇った世界で。
生きていたヒーローが、最初の犠牲者となった。
* * *
午前八時三十一分。
公安委員会、緊急対策室。
警報音が鳴り響いていた。
モニターには、世界各地から送られてくる報告が次々と表示されている。
死亡者の帰還。
個性の異常発現。
暴行事件。
市街地での破壊行為。
正体不明の存在による襲撃。
そして、ヒーローの死亡。
「発生件数が増えています!」
分析官が叫ぶ。
「発生地域は国内だけでなく、海外にも広がっています! 死者の帰還を確認した地域は、少なくとも二十七か国!」
「帰還した人物の共通点は?」
「現時点では、死亡時期、死因、個性の有無に共通点は見られません。ただし、帰還者の一部に異常な身体能力や、従来の個性分類では説明できない能力が確認されています!」
「各国の対応は?」
「警察とヒーローによる保護・拘束が始まっていますが、現場の混乱が大きく、対応が追いついていません!」
対策室の中央に立つ女性が、モニターを見つめていた。
ヒーロー公安委員会の関係者。
彼女は、膨大な報告を一つずつ確認していた。
顔には疲労が滲んでいる。
だが、目は冷静だった。
「……状況を整理しましょう」
彼女は、周囲に告げた。
「現在、我々が確認している事実は三つです」
モニターに、三つの項目が表示される。
一つ目。
死亡が確認された人物が、再び活動を始めている。
二つ目。
帰還者の一部は、記憶や人格に欠落がある。
三つ目。
帰還者の一部は、通常の個性では説明できない能力を示している。
「この三つを、一つの現象として扱います。個別の犯罪として処理してはいけません」
分析官たちが頷く。
「ただし、帰還者を一律に敵性存在と判断することも禁止します。家族のもとへ戻った者の中には、明確に敵意を示していないケースもあります」
「しかし、すでに死者が出ています」
「ええ。だからこそ、必要なのは分類です」
彼女は別の資料を表示した。
「帰還者を三段階に分けてください。意思疎通が可能で、他者に危害を加えていない者。記憶や行動に異常があり、経過観察が必要な者。そして、明確な攻撃行動を示す者」
「分類基準が不十分では?」
「今は不十分で構いません。情報が揃うまで何もしない、という選択肢はありません」
その声には、決断する者の重みがあった。
「現場のヒーローには、可能な限り救助と保護を優先するよう伝えてください。ただし、生命に危険が及ぶ場合は、対象の制圧を許可します」
彼女は一度、言葉を切った。
「……それから」
全員の視線が集まる。
「明日の十三周年追悼式典について、警備計画を全面的に見直します」
対策室の空気が張り詰めた。
「式典の中止も検討すべきでは?」
一人の職員が口を開いた。
彼女は、すぐには答えなかった。
明日の式典には、多くの遺族が参加する。
戦いで命を落とした者たちの名前を読み上げ、花を手向け、祈りを捧げる。
その中には、家族を失った者もいる。
友人を失った者もいる。
そして、二度と会えないと知りながら、今日まで生きてきた者たちがいる。
もし、死者が帰ってくるという現象が本物なら。
その人々にとって、明日はどんな日になるのだろう。
彼女は目を閉じた。
「……現時点では、中止を決定しません」
「ですが!」
「安全を確保できるか、至急判断します」
彼女は、もう一度モニターを見た。
そこには、帰還者たちの映像が映っていた。
泣いている者。
笑っている者。
自分の手を見つめている者。
そして、何かを思い出そうとしている者。
その中に、一人の男の姿があった。
顔は不鮮明だった。
映像の乱れもある。
だが、彼女はその男を見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
男は、カメラの方を向いていた。
まるで、画面の向こう側にいる誰かを認識しているかのように。
そして、ゆっくりと口を動かした。
音声は記録されていない。
それでも、彼女には、男が何と言ったのか理解できた気がした。
――見つけた。
彼女は、画面を見つめた。
男の映像が、ノイズに覆われる。
そして、消えた。
「……今の映像、保存してください」
「はい?」
「すべてです。映像も、音声も、通信記録も。可能な限り復元してください」
分析官が頷き、作業を始める。
彼女は、胸の内に生まれた不安を押し殺した。
これは、単なる死者の帰還ではない。
何かがある。
死者たちを蘇らせている、何かが。
そして、その何かは、人間たちを観察している。
彼女は、そう確信し始めていた。
* * *
午前九時五分。
東京都、雄英高校。
出久は、会議室のモニターに映し出された映像を見つめていた。
画面の中では、帰還者の一人が拘束されている。
その顔を見た瞬間、出久は息を呑んだ。
見覚えがあった。
直接会ったことはない。
だが、その人物については、何度も資料を読んだことがある。
かつて社会を脅かした犯罪者。
個性によって多くの人々を傷つけ、最終的に命を落とした男。
その人物が、再びこの世界に現れている。
「……本当に、死者が蘇っているんですね」
出久は呟いた。
隣に座る相澤が、腕を組んだ。
「現時点では、そう考えるしかない」
「でも……」
出久は画面から目を離せなかった。
「帰ってきた人たちは、みんな同じなんでしょうか」
「どういう意味だ?」
「記憶がない人もいる。家族のことを覚えている人もいる。個性が変わっている人もいる……」
出久は、言葉を探した。
「もし、本当に亡くなった人が戻ってきたのなら……その人たちは、どこまで元の本人なんでしょう」
相澤は答えなかった。
それは、まだ誰にもわからない問いだった。
顔が同じなら、本人なのか。
記憶が同じなら、本人なのか。
魂というものが存在するなら、それが戻ってきたのか。
あるいは。
死者の記憶と身体を持つ、別の何かなのか。
出久は、画面に映る男を見つめた。
男は拘束具の中で、何度も自分の名前を繰り返していた。
自分が誰なのか。
なぜここにいるのか。
何をすればいいのか。
わからない。
その表情には、恐怖があった。
敵意だけではない。
苦しみもあった。
出久は、拳を握りしめた。
「……助けられるなら、助けたいです」
相澤が彼を見る。
「緑谷」
「もちろん、危険な人を放置するつもりはありません。でも……もし、帰ってきた人たちが、自分でも何が起きているのかわからないなら」
出久は、画面から目を離した。
「最初から敵だと決めつけたくないんです」
相澤は、少しだけ目を細めた。
その言葉は、出久らしかった。
かつての彼なら、きっと同じことを言っただろう。
そして、相澤自身も、その考えを否定するつもりはなかった。
ただし。
「助けたいという気持ちだけで、現場に立つな」
相澤は言った。
「相手が何者なのか。何ができるのか。何を望んでいるのか。それを見極めろ」
「……はい」
「お前が助けようとした相手が、別の誰かを傷つける可能性もある」
出久は頷いた。
わかっている。
誰かを救うということは、単に手を差し伸べればいいわけではない。
救おうとした相手が、別の誰かにとっての脅威であることもある。
誰かを守るためには、誰かを止めなければならないこともある。
その選択が、どれほど難しいのか。
彼は、もう知っていた。
「……わかっています」
出久は、静かに答えた。
「それでも、考えることをやめたくないんです」
相澤は、しばらく彼を見つめていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……お前らしいな」
それだけ言って、視線をモニターに戻す。
「緑谷。これから公安と連携して情報を集める。現時点では、現場への単独出動は許可しない」
「はい」
「それと、明日の式典は警備を強化する。お前にも協力してもらう」
「わかりました」
出久は立ち上がった。
会議室の扉へ向かう。
そのとき、相澤が声をかけた。
「緑谷」
「はい?」
「……今日、麗日と会う予定はあるか?」
出久は固まった。
「な、なんでそれを!?」
「さっき爆豪が廊下で騒いでいた」
「勝己ぃ……!」
相澤は、呆れたように目を閉じた。
「仕事に支障が出ない程度にしろ」
「は、はい……」
「以上だ」
出久は会議室を出た。
廊下を歩きながら、頭を抱える。
世界規模の異変。
死者の帰還。
正体不明の力。
明日の式典の警備。
考えるべきことは山ほどある。
それなのに。
頭の片隅では、どうしても別のことが気になっていた。
今日、彼女に会ったら。
何を話せばいいのだろう。
どんな顔をすればいいのだろう。
そして、もしも。
もしも明日、何かが起きてしまったら。
そんな考えが浮かび、出久は足を止めた。
「…………」
彼は、すぐに首を振った。
今は、余計なことを考えるべきではない。
まずは目の前の問題に向き合う。
それが、自分のやるべきことだ。
出久はスマートフォンを取り出した。
お茶子から、新しいメッセージが届いていた。
『出久くん、今どこにいる? ちょっと相談したいことがあるんだけど!』
出久は画面を見つめた。
心臓が、跳ねる。
「…………よし」
小さく呟く。
「まずは、返信……!」
彼は文字を打ち始めた。
その指が、ほんの少し震えていた。
* * *
午前九時二十分。
東京都、某所。
地下にある古い施設。
長い間、使われていないはずの部屋で、一台のモニターが点灯していた。
画面には、世界各地の映像が映し出されている。
死者の帰還。
混乱する家族。
現場に駆けつけるヒーロー。
拘束される帰還者。
そして、逃げ惑う人々。
それらを見つめている人物がいた。
痩せた男だった。
顔には疲労が滲み、目の下には濃い隈がある。
彼は画面を見つめながら、指先で机を叩いていた。
「……馬鹿な」
呟きは、誰にも届かない。
「こんなことが……」
男はキーボードを操作した。
過去の記録を呼び出す。
個性の異常発現に関する資料。
死者の身体に関する研究。
人間の記憶と人格に関する分析。
彼は、それらを次々と確認していった。
やがて、一つの画面で手が止まる。
そこには、古い研究記録が表示されていた。
人間の個性。
その発現過程。
個性因子の構造。
そして、個性という力が、単なる遺伝的変異では説明できない可能性についての仮説。
男は、画面を見つめた。
「……まさか」
喉が鳴る。
彼は、さらに別の記録を開いた。
その資料は、正式な研究記録ではなかった。
誰かが、極秘裏に残したもの。
文書の最後に、短い一文が記されている。
『個性の起源に、人類以外の意志が介在している可能性を否定できない』
男は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……始まったのか」
そのとき。
モニターの一つが、突然暗転した。
男は振り返った。
画面には、何も映っていない。
ただ、黒い背景の中央に、白い文字が浮かび上がっていた。
『見つけた』
男の顔から、血の気が引いた。
「…………誰だ」
返事はない。
文字が消える。
代わりに、画面の中央に一つの映像が浮かんだ。
南極大陸。
雪原。
白い衣をまとった女。
女は、まるでカメラの向こう側にいる男を見ているかのように、顔を上げた。
そして、微笑んだ。
『あなたも、知りたいの?』
声がした。
男は、椅子を倒しながら後ずさった。
「……何者だ!」
女は答えなかった。
ただ、穏やかな声で告げた。
『もうすぐ、わかるわ』
画面が消えた。
部屋に、静寂が戻る。
男は、しばらく動けなかった。
やがて、震える手で机を掴む。
「……くそ」
彼は歯を食いしばった。
死者の帰還。
個性の異常。
そして、南極に現れた謎の女。
すべてが、何か一つの大きな計画に繋がっている。
そのことだけは、理解できた。
だが、彼はまだ知らなかった。
自分が見た女が、計画の中心にいる存在ではないことを。
彼女もまた、何者かの意思を受け取る端末に過ぎないことを。
そして、そのさらに奥には。
人間という種そのものを、次の段階へと押し上げようとする、途方もない存在がいることを。
* * *
午前十時四十分。
東京都内、公園。
出久は、ベンチに座っていた。
手元には、飲みかけのペットボトル。
スマートフォンには、お茶子からの返信が表示されている。
『今、公園の近くにいるよ! 出久くんも来られる?』
『うん。今向かってる』
それだけのやり取りだった。
それなのに、彼は何度も画面を確認していた。
落ち着かない。
どうしようもなく、落ち着かない。
世界が危機に陥っているかもしれないというのに。
自分は今、好きな女の子と会うことに緊張している。
その事実に、少しだけ罪悪感を覚えた。
だが、同時に思う。
自分が守りたいものは、世界という大きな概念だけではない。
家族。
友人。
仲間。
そして、いつか自分の隣にいてほしいと願う人。
そんな、ありふれた日常こそが、彼にとって守りたいものだった。
「……出久くん?」
声がした。
出久は勢いよく顔を上げた。
そこに、お茶子が立っていた。
「お、お茶子ちゃん!」
「ふふ。そんなにびっくりしなくても」
お茶子は笑った。
その笑顔を見た瞬間、出久の心臓がさらに速くなる。
彼女は、昔と変わらないところもあれば、変わったところもあった。
大人になった。
以前よりも落ち着いて、周囲を見渡す余裕がある。
けれど、誰かを助けたいと思う気持ちは変わっていない。
その優しさを、出久はずっと見てきた。
「……どうしたの?」
お茶子が首を傾げる。
「顔、赤いよ?」
「えっ!? そ、そうかな!?」
「うん。熱でもある?」
彼女が手を伸ばしてくる。
出久は、思わず息を止めた。
お茶子の手が、額に触れる。
温かい。
その温度を感じた瞬間、出久の頭の中が真っ白になった。
「……うん。大丈夫そう」
お茶子は手を離した。
出久は、ようやく息を吐いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は隣に座った。
しばらく、二人は何も話さなかった。
公園には、子供たちの声が響いている。
遊具で遊ぶ子供。
犬を散歩させる人。
ベンチで新聞を読む老人。
何も変わらない、穏やかな日常。
お茶子は、空を見上げた。
「……ねえ、出久くん」
「うん?」
「明日の式典、終わったらさ」
出久の心臓が跳ねた。
「う、うん」
「ちょっと、話したいことがあるんだ」
出久は、目を見開いた。
「……話したいこと?」
「うん」
お茶子は、少しだけ頬を赤くした。
「大事な話」
出久は、言葉を失った。
もしかして。
いや、そんなはずは。
けれど、彼女の表情は真剣だった。
出久は、拳を握りしめた。
「……わかった」
声が、少し震えた。
「僕も……話したいことがあるんだ」
お茶子は、驚いたように目を丸くした。
そして、ゆっくりと笑った。
「そっか」
その笑顔を見て、出久は思った。
明日が来てほしい。
何事もなく、式典が終わってほしい。
そして、明日こそ。
自分の気持ちを伝えたい。
その願いは、あまりにもささやかだった。
世界を救うことよりも。
強大な敵を倒すことよりも。
ずっと小さくて、ずっと個人的な願い。
それでも、出久にとっては大切なものだった。
「……出久くん?」
「えっ?」
「また顔が赤いよ?」
「だ、大丈夫!」
お茶子は笑った。
出久も、つられて笑った。
その瞬間。
公園の向こう側で、悲鳴が上がった。
二人は同時に顔を向けた。
道路の向こう。
歩道に、一人の男が立っていた。
男の身体は、異様なほど痩せている。
衣服は泥に汚れ、顔には乾いた血が付着していた。
その周囲には、数人の通行人が立ち尽くしている。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、道路を挟んだ向こう側にいる出久を見つめた。
その目は、虚ろだった。
けれど。
その奥には、確かに何かがあった。
憎悪。
執着。
そして、忘れられない何かを求める意思。
男の唇が動いた。
「……みどりや……」
出久の表情が変わった。
「……え?」
男は、ふらつきながら一歩踏み出した。
「緑谷……出久……」
お茶子が立ち上がった。
「出久くん……?」
男の声が、少しずつ大きくなる。
「……お前……」
その瞬間。
男の身体から、黒い霧が噴き出した。
通行人が悲鳴を上げる。
霧が地面を這い、街路樹を覆い、道路の白線を塗りつぶしていく。
出久は、お茶子の前に立った。
「お茶子ちゃん、下がって!」
「うん!」
男の顔が歪む。
骨が軋むような音が響く。
そして、彼は笑った。
「……やっと……」
黒い霧の中から、腕が伸びた。
人間のものとは思えない、長く歪んだ腕。
その指先が、出久へと向けられる。
「やっと、見つけた……!」
出久は、構えた。
個性を失った今の自分に、かつてのような力はない。
それでも、彼には戦う理由があった。
目の前にいる人々を守る。
それだけは、変わらない。
「……君は、誰だ」
出久は問いかけた。
男は答えなかった。
代わりに、黒い霧が爆発した。
地面が砕ける。
ベンチが吹き飛ぶ。
街路樹が根元から折れる。
出久は、お茶子を庇いながら横へ飛んだ。
衝撃波が、二人のいた場所を薙ぎ払う。
粉塵が舞い上がる。
その向こうで、男がゆっくりと立ち上がった。
そして、再び口を開く。
「……返せ」
その声は、悲痛だった。
「返せ……!」
出久は、男を見つめた。
男の目から、涙が流れていた。
「俺の……人生を……!」
男が叫んだ。
「俺の死を……! 俺の……!」
言葉が、途中で途切れる。
彼は頭を抱えた。
「……俺は……誰だ……?」
黒い霧が、さらに濃くなる。
その奥で、何かが蠢いていた。
出久は拳を握りしめた。
目の前にいるのは、ただの敵ではない。
自分が何者なのかもわからず、苦しんでいる存在だ。
それでも、放置するわけにはいかない。
「……大丈夫だ」
出久は、男に向かって声をかけた。
「僕が、君を止める」
男が顔を上げた。
その表情に、一瞬だけ驚きが浮かんだ。
そして。
「……緑谷」
彼は、笑った。
「お前なら……そう言うと思った」
次の瞬間。
男の身体が、完全に黒い霧に包まれた。
その中心から、巨大な腕が伸びる。
出久は、構えを取った。
お茶子が、彼の隣に立つ。
「出久くん」
その声は、震えていなかった。
「一緒に、止めよう」
出久は、彼女を見た。
そして、頷いた。
「ああ!」
二人が前へ踏み出す。
死者が帰ってきた世界で。
生者と死者の境界が崩れた世界で。
ヒーローたちは、再び選択を迫られる。
目の前にいる者を、敵として倒すのか。
それとも、苦しむ一人の人間として救おうとするのか。
その選択に、簡単な答えはない。
だが、緑谷出久は、いつだって答えを探し続けてきた。
そして今。
彼の前に現れた死者は、彼の名前を知っていた。
まるで、ずっと彼を待っていたかのように。
まるで、彼に何かを託そうとしているかのように。
黒い霧の向こうで、男が囁いた。
「……死神が……お前を……」
その声は、風にかき消された。
出久の目が見開かれる。
「……死神?」
男は、答えなかった。
ただ、黒い霧が大きく膨れ上がる。
そして、その中心で。
何かが、目を開いた。
――第三話・了。