僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十話 「父親は、二人の息子を殺した」

 

 

序章 午前二時十三分、父親は目を覚ました

 男は、十三年間、夢を見ていなかった。

 

 正確には、夢を見ることを許されていなかった。

 

 眠れば、あの日に戻される。

 

 目を閉じれば、白い病室が現れる。

 

 耳を塞いでも、二人の子どもの泣き声が聞こえる。

 

 一人は、生きるために泣いていた。

 

 もう一人は、生きることを許されず、泣くことすらできなかった。

 

 そして男は、その二人を見下ろしながら、どちらか一人を選べと迫られた。

 

 ――どちらを、生かしますか。

 

 あの声が、今でも耳の奥に残っている。

 

 だから男は眠らなかった。

 

 眠らなければ、夢は見ない。

 

 夢を見なければ、あの声を聞かずに済む。

 

 あの声を聞かなければ、自分が何をしたのか、忘れたふりを続けられる。

 

 それが、十三年間の男の生き方だった。

 

 男の名前は、緑谷久志。

 

 緑谷引子の夫であり、緑谷出久の父親。

 

 そして。

 

 御影出久を殺した人間だった。

 

 もっとも、世間の記録に、御影出久という少年は存在しない。

 

 出生届はない。

 

 死亡届もない。

 

 病院の記録にも、家族の戸籍にも、彼の名前はない。

 

 写真は一枚も残っていない。

 

 彼を知っている人間は、世界の記憶から少しずつ削り取られていった。

 

 それでも。

 

 久志は、覚えていた。

 

 あの子の手の小ささを。

 

 生まれたばかりの子どもが、指を握り返す力の弱さを。

 

 あの子が、目を開けた瞬間に見せた、ひどく静かな瞳を。

 

 そして、あの子が最初に発した言葉を。

 

 ――お父さん。

 

 久志は、ベッドから起き上がった。

 

 壁に掛けられた時計は、午前二時十二分を示している。

 

 秒針が、進まない。

 

 十三年間、ずっとそうだった。

 

 時計が壊れているわけではない。

 

 電池が切れたわけでもない。

 

 時計を交換しても、別の時計を持ってきても、時刻は必ず二時十三分で止まる。

 

 世界のどこかで、誰かが二時十三分を越えられない限り。

 

 この家の時計も、進むことができなかった。

 

 久志は、机の引き出しを開けた。

 

 中には、古びた封筒が入っている。

 

 封筒の表には、震える文字でこう書かれていた。

 

 第二子について。

 

 久志は封筒を開けた。

 

 中に入っているのは、出生証明書だった。

 

 二人分。

 

 一枚目には、こう書かれている。

 

 氏名:緑谷出久。

 

 出生時刻:午前二時十三分。

 

 状態:生存。

 

 二枚目には、こう書かれていた。

 

 氏名:御影出久。

 

 出生時刻:午前二時十三分。

 

 状態:死亡。

 

 ただし、二枚目の証明書には、訂正の跡があった。

 

 名前の上から、何度も何度も、黒い線が引かれている。

 

 死亡の文字は、赤いインクで書き直されている。

 

 そして、証明書の裏には、別の筆跡で一文が記されていた。

 

 この子を生かせば、もう一人の子どもが死ぬ。

 

 久志は、その文字を見つめた。

 

「……違う」

 

 呟く。

 

「違うんだ……」

 

 誰に向かって言っているのか、自分でも分からなかった。

 

 妻にか。

 

 息子にか。

 

 死んだ子どもにか。

 

 それとも、十三年前の自分自身にか。

 

「私は……」

 

 久志は、証明書を握り締めた。

 

「私は、あの子を殺したかったわけじゃない」

 

 そのとき。

 

 机の上の電話が鳴った。

 

 久志は、動きを止めた。

 

 電話は、十三年間、一度も鳴っていなかった。

 

 そもそも、この家には電話回線がない。

 

 スマートフォンも、電源を切っている。

 

 それなのに。

 

 古い黒電話が、机の上で鳴っていた。

 

 リン。

 

 リン。

 

 リン。

 

 久志は、ゆっくりと受話器を取った。

 

「……もしもし」

 

 返事はなかった。

 

 ただ、向こう側から、かすかな呼吸音が聞こえる。

 

 子どもの呼吸だった。

 

 小さく、浅く、苦しそうな呼吸。

 

 そして。

 

『お父さん』

 

 久志の手から、受話器が滑り落ちかけた。

 

 その声を、知っていた。

 

 忘れられるはずがなかった。

 

『お父さん、聞こえる?』

 

「……お前は」

 

『久しぶりだね』

 

 久志は、机に手をついた。

 

 膝が震えている。

 

「……お前は、誰だ」

 

 電話の向こうで、子どもが笑った。

 

『ひどいなあ』

 

 その声は、優しかった。

 

 責めるような響きはなかった。

 

 だからこそ、残酷だった。

 

『僕のこと、忘れちゃったの?』

 

「……やめろ」

 

『僕、ずっと待ってたんだよ』

 

「やめてくれ……!」

 

『お父さんが、僕の名前を呼んでくれるのを』

 

 久志は、受話器を握り締めた。

 

 涙が、頬を伝っていた。

 

「……御影」

 

 その名前を口にした瞬間。

 

 世界中の時計が、一斉に動いた。

 

 午前二時十三分。

 

 午前二時十四分。

 

 午前二時十五分。

 

 そして、二時十六分。

 

 久志は、泣きながら笑った。

 

「……そうか」

 

 受話器の向こうで、子どもが息を呑んだ。

 

「お前は、まだ……」

 

 久志は、顔を上げた。

 

「まだ、私を父親だと思ってくれているんだな」

 

 その瞬間。

 

 電話の向こうの声が、変わった。

 

 優しい少年の声から、ひどく冷たい声へ。

 

『いいえ』

 

 久志の顔から、表情が消えた。

 

『僕は、あなたを父親だと思っていません』

 

 長い沈黙。

 

 そして、子どもは続けた。

 

『だから、教えてください』

 

『あなたが、僕を殺した理由を』

 

 電話が切れた。

 

 久志は、しばらく受話器を耳に当てたまま動かなかった。

 

 やがて、ゆっくりと顔を上げた。

 

 机の上の出生証明書。

 

 二枚目の紙から、黒い線が消えている。

 

 そこには、確かに名前があった。

 

 御影出久。

 

 その下に、新しい文字が浮かび上がっていた。

 

 父親による殺害。

 

 殺害時刻:午前二時十三分。

 

 被害者の年齢:出生前。

 

 久志は、立ち上がった。

 

 十三年間、開けることのできなかったクローゼットへ向かう。

 

 奥には、鍵のかかった小さな箱がある。

 

 箱を開けると、一枚の写真が入っていた。

 

 写真には、病室のベッドが写っている。

 

 ベッドの上には、二人の赤ん坊。

 

 その傍らには、若い久志と引子がいた。

 

 そして、写真の端。

 

 誰もいないはずの場所に。

 

 もう一人、男が立っていた。

 

 久志は、その顔を見た。

 

 そして、息を呑んだ。

 

 写真に写っている男は。

 

 自分自身だった。

 

 十三年前の自分ではない。

 

 現在の自分でもない。

 

 もっと年老いた自分。

 

 顔に深い皺が刻まれ、片目を失い、手には血のついたナイフを握っている。

 

 その男が、赤ん坊の一人を見下ろしていた。

 

 写真の裏には、短い文章が記されていた。

 

 父親は、二人の息子を殺した。

 

 一人目は、息子を守るために。

 

 二人目は、息子を生かすために。

 

 そして三人目は――

 

 そこから先は、黒く塗り潰されていた。

 

 久志は、写真を握り締めた。

 

「……三人目?」

 

 その瞬間。

 

 玄関のチャイムが鳴った。

 

 ピンポーン。

 

 久志は、顔を上げた。

 

 時計は、午前二時十七分。

 

 十三年ぶりに、時間が進んでいる。

 

 そして、玄関の向こうから、声がした。

 

「緑谷久志さん」

 

 若い男の声だった。

 

「雄英高校の相澤消太です。お話を伺いたいことがあります」

 

 久志は、目を閉じた。

 

 ついに来た。

 

 息子が、世界を動かした。

 

 御影が、自分の名前を取り戻した。

 

 そして、今度は。

 

 自分が、十三年間隠し続けてきた罪を、語らなければならない。

 

 久志は、写真を胸ポケットに入れた。

 

 そして、玄関へ向かった。

 

 扉を開ける。

 

 そこには、相澤消太。

 

 塚内直正。

 

 爆豪勝己。

 

 そして、麗日お茶子が立っていた。

 

 お茶子は、久志の顔を見た瞬間、目を見開いた。

 

「……あなたが」

 

 彼女の声が震えた。

 

「御影くんのお父さん……?」

 

 久志は、答えなかった。

 

 ただ、お茶子を見つめた。

 

 その顔に、御影の面影を見つけたからだ。

 

 御影を覚えている少女。

 

 御影を忘れなかった少女。

 

 そして、御影が最後に守ろうとした人間。

 

 久志は、静かに頭を下げた。

 

「……来てくれて、ありがとう」

 

 お茶子は、唇を噛んだ。

 

「ありがとうなんて、言わんといてください」

 

 その声は、怒りで震えていた。

 

「うちは、あなたに聞きたいことがあるんです」

 

「……分かっている」

 

「どうして、御影くんを殺したんですか」

 

 久志は、目を閉じた。

 

「……その前に」

 

 彼は、家の中へと視線を向けた。

 

「君たちに、見せなければならないものがある」

 

 そして、ゆっくりと告げた。

 

「私が、最初に殺した息子のことを」

 

第一章 父親の告白

 緑谷家の居間には、奇妙な緊張が満ちていた。

 

 テーブルの上には、二枚の出生証明書。

 

 一枚は、緑谷出久。

 

 もう一枚は、御影出久。

 

 その隣には、古い写真が置かれている。

 

 写真を見た相澤は、眉間に深い皺を刻んだ。

 

「……この写真、いつ撮られたものですか」

 

「十三年前です」

 

「撮影者は?」

 

「分かりません」

 

「分からない?」

 

「その写真を撮影した記憶が、私にはないんです」

 

 塚内が写真を手に取った。

 

 拡大鏡を使うように、端から端まで確認する。

 

 病室のベッド。

 

 二人の赤ん坊。

 

 若い久志と引子。

 

 そして、写真の隅に立つ、年老いた久志。

 

 その手に握られたナイフ。

 

「……合成写真の可能性は?」

 

「ないでしょうね」

 

 相澤が答えた。

 

「問題は、合成かどうかではありません。写真の中にいる人間が、いつ、どこで撮影されたものなのか。それが問題です」

 

 塚内は、写真をテーブルに戻した。

 

「緑谷さん。この写真に写っている、もう一人のあなたについて、何か心当たりはありますか」

 

 久志は、しばらく黙っていた。

 

「……あります」

 

 相澤の目が細くなった。

 

「話してください」

 

「ただし、信じてもらえるかどうかは分かりません」

 

「信じるかどうかは、話を聞いてから判断します」

 

 久志は、頷いた。

 

「……十三年前、私は一度、未来の自分に会っています」

 

 爆豪が、椅子を鳴らした。

 

「は?」

 

 相澤が手で制する。

 

「続けてください」

 

「正確には、未来の自分だと名乗る男に会った。彼は、私と同じ顔をしていました。ただ、年齢は今よりもずっと上で、片目を失っていた」

 

「その男が、この写真に写っている人物ですか」

 

「はい」

 

「いつ会ったんです?」

 

「出産の前日です」

 

 沈黙。

 

 誰も、すぐには口を開かなかった。

 

 久志は、二枚の出生証明書を見下ろした。

 

「その男は、私に言いました。翌日の午前二時十三分、二人の子どもが生まれる。そして、私はそのうち一人を殺すことになる、と」

 

 お茶子の指が、膝の上で強く握られた。

 

「……どうして?」

 

「私も、そう聞きました」

 

 久志は、苦笑した。

 

「彼は答えませんでした。ただ、こう言ったんです」

 

 男は目を閉じた。

 

 十三年前の声が、今でも鮮明に蘇る。

 

 病室の白い壁。

 

 夜の窓。

 

 時計の秒針。

 

 そして、未来の自分。

 

 その男は、疲れ果てていた。

 

 長い時間を生きた人間の疲労ではない。

 

 何度も何度も同じ過ちを繰り返し、そのたびに自分の罪を見せつけられた人間の疲労だった。

 

 彼は、久志の前に立ち、言った。

 

 ――明日、二人の息子が生まれる。

 

 ――片方は、世界を救う。

 

 ――片方は、世界を壊す。

 

 ――お前は、どちらかを殺さなければならない。

 

 久志は、その男を殴った。

 

 当然だった。

 

 未来から来たと名乗る男が、自分の子どもを殺せと言っている。

 

 正気の人間の言葉ではない。

 

 だが、男は殴られても抵抗しなかった。

 

 床に倒れ、口元から血を流しながら、静かに言った。

 

 ――私も、そうした。

 

 ――私は、息子を殺した。

 

 ――その結果、もう一人の息子が死んだ。

 

 久志は、その言葉の意味が分からなかった。

 

 二人の息子。

 

 一人を殺した結果、もう一人が死ぬ。

 

 そんなことが、あるはずがない。

 

 男は、さらに続けた。

 

 ――お前は、私と同じことをする。

 

 ――だから、せめて、どちらを殺すのかだけは、自分で決めろ。

 

 その言葉を最後に、男は消えた。

 

 煙のように。

 

 光の粒子のように。

 

 最初からそこにいなかったかのように。

 

 残されたのは、床に落ちた一枚の写真だけだった。

 

 そして、その写真には。

 

 まだ生まれていない二人の息子が写っていた。

 

 久志は、ゆっくりと目を開いた。

 

「……私は、彼の言葉を信じませんでした」

 

 相澤が尋ねた。

 

「それでも、子どもを殺したんですか」

 

「はい」

 

「なぜ?」

 

 久志は、すぐには答えなかった。

 

 やがて、深く息を吸い込んだ。

 

「……私は、二人とも助けようとしたんです」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 お茶子の顔が、苦しそうに歪んだ。

 

 出久と御影。

 

 二人とも救いたかった。

 

 誰も失いたくなかった。

 

 その願いが、どれほど残酷な結果を生むのか。

 

 彼女は、もう知っていた。

 

「出産当日、妻は二人の子どもを産みました」

 

 久志は語り始めた。

 

「一人は、泣き声を上げた。もう一人は、泣かなかった」

 

 病院の時計は、二時十三分を指していた。

 

 医師が叫んだ。

 

 看護師が動いた。

 

 母親は、泣きながら二人の子どもを求めた。

 

 そして、久志は見た。

 

 生きている子どもと。

 

 死んでいる子どもを。

 

「……そのとき、私は気づいたんです」

 

 久志は、声を震わせた。

 

「未来の自分が言っていたことが、嘘ではなかったと」

 

 死んだ子どもの顔は、もう一人の子どもと同じだった。

 

 髪の色も。

 

 そばかすも。

 

 顔の形も。

 

 まったく同じだった。

 

 医師は、説明しようとした。

 

 双子の一人が死亡した。

 

 もう一人は生きている。

 

 ただ、それだけのことだ。

 

 だが、久志には分かった。

 

 これは、普通の双子ではない。

 

 世界そのものが、二人の存在を拒絶している。

 

 その証拠に。

 

 死んだ子どもの出生証明書には、名前が書かれていなかった。

 

 いや。

 

 書かれていたはずの名前が、消えていた。

 

 久志は、震える手で医師に尋ねた。

 

「……この子の名前は?」

 

 医師は、不思議そうに答えた。

 

「緑谷出久くんです」

 

「……もう一人の子も、緑谷出久です」

 

「いいえ」

 

 医師は、首を振った。

 

「お子さんは一人です」

 

 その瞬間、久志は理解した。

 

 世界は、二人の子どもを同時に認めることができない。

 

 同じ母親。

 

 同じ父親。

 

 同じ名前。

 

 同じ存在として登録される二人の子ども。

 

 そのうち一人を、世界は余剰として扱っている。

 

 そして、余剰とされた子どもは。

 

 最初から存在しなかったことにされる。

 

「……私は、未来の自分に連絡しようとしました」

 

 久志は言った。

 

「ですが、電話は繋がらなかった。誰に助けを求めても、返事は同じでした。子どもは一人です、と」

 

 塚内が尋ねた。

 

「それで、どうしたんです?」

 

「私は、死んだ子どもを抱き上げました」

 

 お茶子が息を呑んだ。

 

「……抱き上げたんですか?」

 

「はい」

 

 久志は頷いた。

 

「医師たちは止めました。もう亡くなっています、と。でも、私は抱き上げた」

 

 小さな身体だった。

 

 軽かった。

 

 あまりにも軽くて、久志は怖くなった。

 

 この子は、本当に人間なのだろうか。

 

 この子は、本当に自分の子どもなのだろうか。

 

 この子は、本当に死んでいるのだろうか。

 

 そして。

 

 この子を抱き上げている自分は、本当に父親なのだろうか。

 

 久志は、子どもの顔を見つめた。

 

「……そのとき、あの子が目を開けたんです」

 

 全員が、息を止めた。

 

「目を開けて、私を見ました」

 

 久志の声が震える。

 

「そして、笑ったんです」

 

 泣き声ではなかった。

 

 産声でもなかった。

 

 ただ、笑った。

 

 生まれたばかりの赤ん坊が、父親を見て、笑ったのだ。

 

 久志は、その瞬間に理解した。

 

 この子は、生きている。

 

 世界が何と言おうと。

 

 医師が何と言おうと。

 

 記録が何を示そうと。

 

 この子は、生きている。

 

「……私は、名前をつけました」

 

 久志は、二枚目の出生証明書を見た。

 

「御影出久」

 

 その名前を、彼は何度も心の中で呼んだ。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 どちらも、自分の息子だった。

 

 どちらも、生きていてほしかった。

 

 どちらも、幸せになってほしかった。

 

 だからこそ。

 

 久志は、最初の過ちを犯した。

 

「私は、死んだことにされた子どもを、病院から連れ出しました」

 

 相澤の表情が変わった。

 

「……連れ出した?」

 

「はい。医師たちの目を盗み、あの子を抱いて、病院を出ました」

 

「その後は?」

 

「隠しました」

 

 久志は、目を伏せた。

 

「世界があの子を認めないのなら、世界から隠せばいいと思ったんです」

 

 あまりにも単純な考えだった。

 

 だが、当時の久志には、それしか思いつかなかった。

 

 世界に登録されない子ども。

 

 出生したことを認められない子ども。

 

 ならば、世界に知られなければいい。

 

 記録に残さなければいい。

 

 誰にも名前を呼ばれなければ、世界はその存在に気づかない。

 

 そうすれば、もう一人の息子も生きられる。

 

 久志は、御影を小さな部屋に隠した。

 

 食事を運んだ。

 

 服を用意した。

 

 寝床を作った。

 

 そして、毎晩、彼の名前を呼んだ。

 

「御影」

 

「……はい、お父さん」

 

「今日は、何をした?」

 

「絵を描いたよ」

 

「そうか」

 

「お父さん、見て」

 

 小さな紙に描かれた、家族の絵。

 

 父親。

 

 母親。

 

 そして、二人の子ども。

 

 緑谷出久と、御影出久。

 

 御影は、その絵を大切にしていた。

 

「……僕、家族が好きなんだ」

 

 ある夜、御影は言った。

 

「お父さんも、お母さんも、出久も」

 

 久志は、何も言えなかった。

 

「僕、ここにいてもいい?」

 

 久志は、息子を抱きしめた。

 

「……もちろんだ」

 

 そのとき、久志は本気でそう思っていた。

 

 この子を守れる。

 

 世界に存在を認められなくても。

 

 誰にも知られなくても。

 

 自分が覚えている限り、この子は生きていける。

 

 そう信じていた。

 

 だが。

 

 世界は、久志の想像よりもずっと残酷だった。

 

 御影が存在しないことになっている世界では、御影に関する出来事そのものが、少しずつ歪み始めた。

 

 御影が食べたはずの食事が、食卓から消える。

 

 御影が描いた絵が、白紙に戻る。

 

 御影が歩いた床に、足跡が残らない。

 

 御影が眠った布団から、温もりが消える。

 

 そして、ある日。

 

 久志は、御影の姿を見失った。

 

 部屋に入ったとき、そこには誰もいなかった。

 

 布団は空だった。

 

 机の上には、白紙の紙が一枚。

 

 壁には、何も掛かっていない。

 

 御影がいた痕跡が、すべて消えていた。

 

 久志は、叫んだ。

 

「御影!」

 

 返事はない。

 

「御影! どこだ!」

 

 家中を探した。

 

 押し入れも。

 

 屋根裏も。

 

 庭も。

 

 近所も。

 

 どこにもいなかった。

 

 そして、最後に。

 

 玄関の前で、幼い出久が立っていた。

 

「……お父さん?」

 

 久志は、息子を見つめた。

 

「出久……御影を知らないか?」

 

 幼い出久は、首を傾げた。

 

「御影?」

 

「……御影出久だ」

 

 その瞬間。

 

 幼い出久の表情が、変わった。

 

 何かを思い出そうとしている。

 

 だが、思い出せない。

 

 頭の中に、何かがある。

 

 確かにある。

 

 けれど、その何かを見ようとすると、黒い霧がかかる。

 

「……知らない」

 

 幼い出久は、そう答えた。

 

「そんな子、知らないよ」

 

 久志は、膝をついた。

 

 世界は、息子を奪った。

 

 ただ、存在を認めなかっただけではない。

 

 久志が隠し、育て、名前を呼び続けた子どもを。

 

 世界は、文字どおり消してしまったのだ。

 

「……私は、取り戻そうとしました」

 

 久志は、現在の居間で語り続けていた。

 

「世界に逆らいました。記録を調べ、病院を探し、あの子の名前を残そうとした」

 

 相澤は、黙って聞いていた。

 

「しかし、何をしても無駄でした。あの子の記録は存在しない。あの子の写真は消える。あの子を覚えている人間は、時間が経つにつれて、あの子のことを忘れていく」

 

 久志は、お茶子を見た。

 

「……君以外は」

 

 お茶子の顔が強張った。

 

「君だけは、あの子を覚えていた」

 

「……」

 

「どうしてなのか、私には分かりませんでした。だが、君があの子を覚えている限り、あの子は完全には消えなかった」

 

 久志は、深く頭を下げた。

 

「ありがとう」

 

 お茶子は、首を振った。

 

「……まだ、ありがとうなんて言われること、してません」

 

「そうだな」

 

 久志は、静かに頷いた。

 

「私は、君に謝らなければならない」

 

 お茶子は、彼を見つめた。

 

「……何を?」

 

「私は、御影を守ろうとした」

 

 久志は言った。

 

「だが、最後には、あの子を殺した」

 

 居間の空気が、凍りついた。

 

 爆豪が、立ち上がった。

 

「……おい」

 

 声が低い。

 

「今、何つった?」

 

 久志は、目を逸らさなかった。

 

「私は、御影出久を殺しました」

 

 爆豪の拳が、震えた。

 

「……テメェ」

 

 相澤が、すぐに腕を伸ばした。

 

「爆豪」

 

「離せ!」

 

「今は聞け」

 

「聞けるわけねえだろ!」

 

 爆豪は、久志を睨んだ。

 

「こいつは、緑谷の……!」

 

 言葉が止まった。

 

 緑谷の何なのか。

 

 兄なのか。

 

 弟なのか。

 

 友達なのか。

 

 もう一人の緑谷なのか。

 

 それさえ、まだ分からない。

 

 それでも。

 

 御影は、出久にとって大切な存在だった。

 

 そして、お茶子にとっても。

 

 爆豪は、歯を食いしばった。

 

「……理由を言え」

 

 久志は、頷いた。

 

「分かりました」

 

 彼は、二枚の出生証明書を並べた。

 

「私が御影を殺したのは、もう一人の息子を救うためでした」

 

 そして。

 

 十三年前、午前二時十三分。

 

 世界が初めて、二人の息子を同時に殺そうとした夜の話を始めた。

 

第二章 二人の息子と、ひとつの世界

「……御影が消えたあと、私は、ある場所にたどり着きました」

 

 久志は語った。

 

 その場所は、地図に存在しなかった。

 

 住所もなかった。

 

 入口も、出口もなかった。

 

 ただ、そこへ行かなければならないと、なぜか分かっていた。

 

 御影を失った夜、久志は家を出た。

 

 妻には、仕事だと嘘をついた。

 

 息子には、すぐ帰ると約束した。

 

 そして、その約束を破った。

 

 彼は、二度と戻れないかもしれない場所へ向かった。

 

 道の先には、古い建物があった。

 

 病院のようにも見える。

 

 研究所のようにも見える。

 

 しかし、建物の看板には、何も書かれていなかった。

 

 扉を開けると、廊下が続いていた。

 

 壁には、無数の時計が掛けられている。

 

 どれも、二時十三分を指していた。

 

 久志は、奥へ進んだ。

 

 誰もいない。

 

 音もない。

 

 ただ、廊下の先から、子どもの泣き声が聞こえていた。

 

 その声を追っていくと、扉があった。

 

 扉には、こう書かれていた。

 

 出生管理室。

 

 久志は、扉を開けた。

 

 そこには、一人の男がいた。

 

 白い服。

 

 顔の見えない仮面。

 

 そして、机の上に並べられた二枚の出生証明書。

 

「……誰だ」

 

 久志は尋ねた。

 

 男は答えなかった。

 

 代わりに、机の上の紙を指差した。

 

 一枚目。

 

 緑谷出久。

 

 二枚目。

 

 御影出久。

 

 そして、その下には、もう一枚。

 

 対象個体:未登録。

 

 久志は、目を見開いた。

 

「……何だ、これは」

 

 男が、初めて口を開いた。

 

『世界を維持するための記録です』

 

「世界?」

 

『はい』

 

「ふざけるな。私の息子が消えたんだぞ!」

 

『確認しています』

 

「確認しているなら、返せ!」

 

『返還は不可能です』

 

 久志は、机を叩いた。

 

「なぜだ!」

 

『対象個体は、世界構造に登録されていません』

 

「だから何だ!」

 

『登録されていない個体は、世界の因果に参加できません』

 

「……何を言っている?」

 

『出生していない個体は、存在できません』

 

 久志は、男の胸ぐらを掴んだ。

 

「なら、なぜあの子は生きていた!」

 

 男は、動かなかった。

 

『あなたが、あの子を存在させたからです』

 

 久志の手が止まった。

 

『あなたが、名前を与えた』

 

『あなたが、食事を与えた』

 

『あなたが、あの子を抱きしめた』

 

『あなたが、あの子を息子と呼んだ』

 

 男は、淡々と告げた。

 

『あなたが観測していたから、あの子は存在できました』

 

 久志は、息を呑んだ。

 

『しかし、あなたの観測には限界があります』

 

「……限界?」

 

『あなた一人が、あの子の存在を支え続けることはできません』

 

 男は、二枚の出生証明書を並べた。

 

『緑谷出久と御影出久』

 

『両者は、同一の母親から生まれた、同一の名前を持つ二個体です』

 

『世界構造は、二個体の同時存在を許容できません』

 

『したがって、どちらか一方を削除する必要があります』

 

 久志は、首を振った。

 

「……そんなこと、できるわけがない」

 

『選択してください』

 

「できるわけがない!」

 

『選択してください』

 

 男の声は、変わらなかった。

 

『緑谷出久を削除する』

 

『御影出久を削除する』

 

『新規個体を生成する』

 

 三つの選択肢が浮かび上がった。

 

 久志は、それを見つめた。

 

「……新規個体?」

 

『既存の二個体を削除し、新たな個体を生成することで、因果衝突を解消します』

 

「……二人とも消えるのか」

 

『はい』

 

「そんなもの、選べるわけがない!」

 

『選択してください』

 

 久志は、後ずさった。

 

 目の前の男が、恐ろしくなった。

 

 この存在は、命を数字として扱っている。

 

 子どもの人生を、記録として扱っている。

 

 父親が息子を愛していることも。

 

 母親が子どもを産んだことも。

 

 二人の子どもが、互いを兄弟として愛していることも。

 

 すべて、世界の都合の前では無意味だと言っている。

 

「……私は、選ばない」

 

 久志は言った。

 

『選択を拒否した場合、世界構造の再構築が開始されます』

 

「……再構築?」

 

『現在の世界を破棄し、矛盾のない世界を生成します』

 

「その世界で、二人は生きられるのか?」

 

『回答できません』

 

「……ふざけるな」

 

『選択してください』

 

 久志は、拳を握り締めた。

 

「……私は、父親だ」

 

 男は、黙っていた。

 

「二人とも、私の息子だ。どちらかを選ぶことなんて、できるわけがない」

 

『父親という役割は、選択を免除する理由にはなりません』

 

 その言葉に。

 

 久志は、男を殴った。

 

 仮面が割れた。

 

 その下にあったのは、人間の顔ではなかった。

 

 無数の文字だった。

 

 出生記録。

 

 死亡記録。

 

 再構築記録。

 

 観測記録。

 

 そのすべてが、男の顔を形成していた。

 

 久志は、後ずさった。

 

 男は、割れた仮面を拾い上げた。

 

『あなたは、選択を拒否しました』

 

『したがって、世界構造の再構築を開始します』

 

 その瞬間。

 

 久志の視界が、真っ白になった。

 

 そして、彼は見た。

 

 世界が壊れる光景を。

 

 街が消えていく。

 

 建物が消えていく。

 

 人々が消えていく。

 

 妻が消えていく。

 

 息子が消えていく。

 

 そして。

 

 二人の息子が、同時に消えていく。

 

「……やめろ!」

 

 久志は叫んだ。

 

「やめてくれ!」

 

 世界は、答えなかった。

 

 ただ、すべてを消していった。

 

 最後に残ったのは、白い空間だった。

 

 久志は、その中に立っていた。

 

 目の前には、二人の子ども。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 二人は、互いの手を握っていた。

 

 そして、久志を見つめていた。

 

「……お父さん」

 

 緑谷出久が呼んだ。

 

「……お父さん」

 

 御影出久も呼んだ。

 

 久志は、二人に駆け寄ろうとした。

 

 だが、足が動かなかった。

 

 二人の子どもの背後に、巨大な影が立っていたからだ。

 

 影は、久志に向かって手を伸ばした。

 

『選択してください』

 

 久志は、叫んだ。

 

「……嫌だ!」

 

『選択してください』

 

「嫌だ!」

 

『選択してください』

 

「……二人とも、私の息子だ!」

 

『選択してください』

 

 久志は、膝をついた。

 

 泣きながら、二人の子どもを見つめた。

 

 そのとき。

 

 御影が、出久の手を離した。

 

「……お父さん」

 

 久志は、顔を上げた。

 

「……僕を選んで」

 

 その言葉に。

 

 久志は、息を止めた。

 

「……御影?」

 

 少年は、微笑んだ。

 

「僕を選んで」

 

「……何を言っているんだ」

 

「僕を消して」

 

 久志は、首を振った。

 

「……やめろ」

 

「僕が消えれば、出久は生きられるんでしょう?」

 

「やめろ!」

 

「僕は、最初から生まれていなかったことになってるんだよね?」

 

「やめろと言っている!」

 

「だったら、僕が消えるのが、一番いいんだ」

 

 御影は、優しく笑った。

 

「お父さん。僕、出久が好きなんだ」

 

 久志の目から、涙がこぼれた。

 

「出久が生きていてくれるなら、僕は……」

 

「やめろ!」

 

 久志は、立ち上がった。

 

「お前は、そんなことを言うために生まれてきたんじゃない!」

 

 御影は、少しだけ目を見開いた。

 

「……でも」

 

「お前は、私の息子だ!」

 

 久志は叫んだ。

 

「お前も、出久も、私の息子だ! お前たちが生きるために、どちらかを犠牲にするなんて、そんなこと……!」

 

 言葉が、途切れた。

 

 目の前の世界が、再び揺らいだ。

 

 巨大な影が、久志を見下ろしている。

 

『選択してください』

 

 久志は、二人の息子を見た。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 どちらも、自分の子どもだった。

 

 どちらも、守りたかった。

 

 どちらも、失いたくなかった。

 

 そして、久志は。

 

 選んでしまった。

 

 ――緑谷出久を、生かす。

 

 その瞬間。

 

 御影出久の身体が、光に包まれた。

 

「……お父さん」

 

 御影は、最後まで笑っていた。

 

「ありがとう」

 

 久志は、叫んだ。

 

 だが、声は届かなかった。

 

「……ありがとう、お父さん」

 

 御影の姿が、消えた。

 

 世界が、静かになった。

 

 巨大な影が、告げた。

 

『選択を受理しました』

 

『緑谷出久の存在を維持します』

 

『御影出久の存在を削除します』

 

『世界再構築を開始します』

 

 久志は、膝をついた。

 

 息子を救うために、息子を殺した。

 

 父親として。

 

 人間として。

 

 決して許されない選択をした。

 

 だが、その瞬間。

 

 久志は、まだ知らなかった。

 

 御影を削除したことで、もう一人の息子に何が起こるのか。

 

 世界が、どのような代償を要求するのか。

 

 そして。

 

 自分が選んだはずの息子が、実は、最初から生まれていなかったことを。

 

第三章 父親は、二度目の選択をした

 久志が目を覚ましたとき、そこは病院のベッドだった。

 

 窓から朝日が差し込んでいる。

 

 妻が、隣に座っていた。

 

 腕の中には、一人の赤ん坊。

 

 緑谷出久。

 

 久志は、ゆっくりと身体を起こした。

 

「……引子」

 

「どうしたの?」

 

 妻は、不思議そうに首を傾げた。

 

「……子どもは?」

 

「この子だけよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 久志は、すべてを思い出した。

 

 白い空間。

 

 巨大な影。

 

 御影出久。

 

 そして、自分が選んだこと。

 

 久志は、妻の腕の中の赤ん坊を見た。

 

 出久は、眠っていた。

 

 小さな手。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 何も知らない顔。

 

 この子は、生きている。

 

 自分が選んだから。

 

 御影を犠牲にしたから。

 

 この子は、生きている。

 

 久志は、息子の頬に触れた。

 

「……出久」

 

 赤ん坊が、目を開けた。

 

 緑色の瞳。

 

 その目が、父親を見つめた。

 

 久志は、泣いた。

 

 嬉しかった。

 

 息子が生きている。

 

 息子が、ここにいる。

 

 だが。

 

 その喜びは、すぐに崩れた。

 

 赤ん坊の胸が、動かなくなった。

 

「……え?」

 

 久志は、息子を見た。

 

 呼吸が止まっている。

 

 顔色が変わっていく。

 

 妻が叫んだ。

 

「出久!?」

 

 医師たちが駆け込んできた。

 

 蘇生処置が始まる。

 

 だが、心臓は動かない。

 

 赤ん坊は、再び死にかけていた。

 

 久志は、立ち尽くした。

 

 何が起こっているのか、分からなかった。

 

 御影を削除した。

 

 出久を選んだ。

 

 世界は、その選択を受理したはずだった。

 

 なのに。

 

 どうして。

 

 どうして、息子が死ぬのか。

 

 そのとき。

 

 病室の壁に、文字が浮かび上がった。

 

 因果衝突を検出。

 

 対象個体:緑谷出久。

 

 存在維持に失敗。

 

 死亡予測時刻:午前二時十三分。

 

 久志は、目を見開いた。

 

「……何だ、これは」

 

 文字が、続く。

 

 削除対象の再設定が必要です。

 

 選択してください。

 

 久志の前に、二つの選択肢が浮かび上がった。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 久志は、叫んだ。

 

「……御影は、もう消したはずだ!」

 

 文字は、変わらない。

 

 選択してください。

 

「もう一度、あの子を殺せというのか!」

 

 選択してください。

 

「……ふざけるな!」

 

 久志は、壁を殴った。

 

 拳が血に染まる。

 

「私は、選んだんだ! 出久を生かすために、御影を……!」

 

 言葉が、止まった。

 

 久志は、妻を見た。

 

 妻は、泣いていた。

 

 腕の中で、赤ん坊が息をしていない。

 

 医師たちは、必死に蘇生を続けている。

 

 そして、久志の前には、選択肢が浮かんでいる。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 もう一度、選べと。

 

 久志は、膝をついた。

 

「……そんな」

 

 その瞬間。

 

 病室の扉が開いた。

 

 そこに立っていたのは、御影出久だった。

 

 小さな身体。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 そして、穏やかな笑顔。

 

「……お父さん」

 

 久志は、顔を上げた。

 

「……御影?」

 

 少年は、頷いた。

 

「うん」

 

「……どうして」

 

「僕、戻ってきたんだ」

 

 御影は、病室のベッドを見た。

 

 そこには、死にかけている出久がいる。

 

 御影は、ゆっくりと近づいた。

 

「……出久」

 

 その声に、赤ん坊の指が動いた。

 

 御影は、笑った。

 

「よかった」

 

 久志は、息を呑んだ。

 

「……お前、どうして……」

 

「僕が消えても、出久は生きられなかったんだね」

 

 御影は、静かに言った。

 

「……だから、僕は戻ってきたんだ」

 

 久志は、首を振った。

 

「……違う」

 

「うん?」

 

「違うんだ……!」

 

 久志は、御影に手を伸ばした。

 

「お前は、戻ってきちゃいけない!」

 

 御影の表情が、変わった。

 

「……どうして?」

 

「お前が戻れば、また……!」

 

 言葉が、続かない。

 

 御影が戻れば、世界は再び矛盾を起こす。

 

 出久が死ぬ。

 

 御影が消える。

 

 どちらか一人を選ばなければ、世界は維持できない。

 

 久志は、分かっていた。

 

 だからこそ、御影を選べなかった。

 

 だからこそ、出久を選んだ。

 

 だが。

 

 御影は、出久を見つめた。

 

 そして、父親に向かって言った。

 

「……お父さん」

 

 その声は、ひどく優しかった。

 

「僕を、もう一度殺して」

 

 久志は、動けなかった。

 

「……何を言っているんだ」

 

「僕を殺せば、出久は生きられるかもしれない」

 

「やめろ……」

 

「今度は、僕がお願いするから」

 

「やめろ!」

 

「僕は、出久が生きていてくれるなら……」

 

「やめろと言っている!」

 

 久志は、御影を抱きしめた。

 

 小さな身体。

 

 確かに、温かい。

 

 存在している。

 

 生きている。

 

 自分の息子だ。

 

 それなのに。

 

 この子を、もう一度殺さなければならない。

 

 父親として、決して選んではいけない選択を。

 

 久志は、泣きながら息子を抱きしめた。

 

「……すまない」

 

 御影は、父親の背中に手を回した。

 

「ううん」

 

「すまない……!」

 

「お父さん」

 

 御影は、微笑んだ。

 

「僕、あなたのこと、好きだったよ」

 

 久志の呼吸が止まった。

 

 過去形だった。

 

 好きだった。

 

 今は違う。

 

 今は、もう。

 

 父親ではない。

 

 御影にとって、久志は父親ではなくなっていた。

 

 それでも、御影は彼を憎みきれなかった。

 

 自分を生かそうとした父親。

 

 自分を隠して育ててくれた父親。

 

 自分の名前を呼んでくれた父親。

 

 そして、自分を殺した父親。

 

 そのすべてが、同じ人間だったから。

 

 御影は、久志の腕の中で目を閉じた。

 

「……だから、今度は」

 

 その声は、聞き取れないほど小さかった。

 

「僕が、あなたを許さない」

 

 久志は、息子を抱きしめたまま、泣いた。

 

 そして。

 

 再び、選択肢が浮かび上がった。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 久志は、今度こそ選ばなかった。

 

 選べなかった。

 

 その結果。

 

 世界は、三度目の選択を要求した。

 

 新規個体を生成しますか?

 

 久志は、その文字を見つめた。

 

 そして、理解した。

 

 このシステムは、二人の息子を救おうとしているのではない。

 

 このシステムが求めているのは、矛盾のない世界だ。

 

 誰が生きるのか。

 

 誰が死ぬのか。

 

 誰が存在するのか。

 

 誰が存在しなかったことになるのか。

 

 その答えを、父親に選ばせている。

 

 そして。

 

 父親が選んだ結果を、世界の正解にしようとしている。

 

 久志は、顔を上げた。

 

「……お前は」

 

 目の前の空間に向かって、呟いた。

 

「誰なんだ」

 

 システムは、答えなかった。

 

 ただ、新しい文字を表示した。

 

 選択してください。

 

 久志は、息子たちを見た。

 

 生きてほしい。

 

 二人とも。

 

 それだけだった。

 

 それだけの願いを、どうして世界は許してくれないのか。

 

 そのとき。

 

 病室の隅に、もう一人の男が立っていることに気づいた。

 

 未来の自分。

 

 片目を失い、血のついたナイフを握っている男。

 

 その男が、久志を見ていた。

 

 そして、静かに言った。

 

「……まだ、分からないのか」

 

 久志は、顔を上げた。

 

「……何がだ」

 

 未来の久志は、笑った。

 

「お前は、二人の息子を救おうとしているんじゃない」

 

 その目に、深い悲しみが宿った。

 

「お前は、二人の息子を、自分の息子であり続けさせようとしているんだ」

 

 久志の顔が、強張った。

 

「……何を言っている」

 

「御影は、お前の息子だった」

 

 未来の久志は、御影を見た。

 

「だが、今は違う」

 

 御影が、顔を上げた。

 

「……」

 

「お前が殺した瞬間、御影は、お前の息子であることをやめた」

 

 久志は、首を振った。

 

「……違う」

 

「お前は、あの子を自分のものだと思っている」

 

「違う!」

 

「だから、あの子を救うことも、殺すことも、自分が決めていいと思っている」

 

 未来の久志は、ナイフを握り締めた。

 

「……それが、お前の罪だ」

 

 久志は、言葉を失った。

 

 未来の久志は、続けた。

 

「お前は、父親として二人を愛した。だが、二人が自分とは別の人間であることを、最後まで受け入れられなかった」

 

「……」

 

「だから、世界に選ばされたとき、お前は自分の愛を理由に、御影を殺した」

 

 未来の久志は、ゆっくりと近づいた。

 

「だが、あの子は、お前の愛のために生きていたわけじゃない」

 

 御影は、父親を見た。

 

 その目に、怒りはなかった。

 

 ただ、深い悲しみがあった。

 

「……僕は、僕として生きたかった」

 

 御影は、静かに言った。

 

「お父さんの息子である前に、僕は、僕だったんだ」

 

 久志は、膝をついた。

 

 ようやく、理解した。

 

 御影を救うために必要だったのは、世界を説得することでも、システムに従うことでもなかった。

 

 御影を、父親の所有物として扱わないことだった。

 

 御影が、自分の意思で生きることを認めることだった。

 

 たとえ、それが父親の望まない選択だったとしても。

 

 久志は、息子を見つめた。

 

「……御影」

 

「……うん」

 

「お前は……」

 

 言葉が、詰まった。

 

「お前は、どうしたい?」

 

 その問いに。

 

 御影は、初めて、父親をまっすぐ見た。

 

「……生きたい」

 

 久志の目から、涙がこぼれた。

 

「僕は、生きたい」

 

 御影は、続けた。

 

「出久にも、生きていてほしい」

 

 その言葉は、矛盾していた。

 

 世界のルールに従えば、二人は同時に存在できない。

 

 どちらかを選ばなければならない。

 

 それでも。

 

 御影は、自分の意思を口にした。

 

「僕は、出久を殺して生きたいわけじゃない」

 

 御影は、出久を見た。

 

「僕は、出久と一緒に生きたいんだ」

 

 その瞬間。

 

 世界のすべての時計が、止まった。

 

 そして、システムが初めて、回答を返した。

 

 要求を受理できません。

 

 御影は、微笑んだ。

 

「……そう」

 

 その笑顔は、悲しかった。

 

 けれど、もう迷っていなかった。

 

「じゃあ、僕は、君の言うことを聞かない」

 

 御影は、システムに向かって言った。

 

「僕は、僕の意思で生きる」

 

 その瞬間。

 

 白い空間に、巨大な亀裂が走った。

 

 世界が、初めて。

 

 自分自身のルールに、逆らわれた。

 

第四章 殺したのは、父親だけではない

「……ここまでが、私の知っていることです」

 

 久志は、話を終えた。

 

 居間には、長い沈黙が落ちていた。

 

 誰も、すぐには口を開かなかった。

 

 相澤は腕を組み、目を閉じている。

 

 塚内は、出生証明書を見つめていた。

 

 爆豪は、怒りを押し殺すように拳を握っている。

 

 そして、お茶子は。

 

 御影出久の名前が記された紙を、じっと見つめていた。

 

「……一つ、確認させてください」

 

 最初に口を開いたのは、塚内だった。

 

「あなたの話では、御影出久という少年は、世界に存在を認められていなかった。それでも、あなたは彼を育て、彼はあなたを父親と呼んでいた」

 

「はい」

 

「しかし、あなたが彼を殺したあと、緑谷出久くんも生存できなくなった」

 

「……そうです」

 

「それは、なぜですか?」

 

 久志は、首を振った。

 

「分かりません」

 

「本当に?」

 

「本当に、分からないんです」

 

 久志は、両手を見つめた。

 

「私は、出久を生かすために御影を選んだ。ですが、御影を消したことで、出久の存在そのものが不安定になった」

 

「つまり、二人の存在は、互いに依存していた?」

 

「おそらく」

 

 相澤が、静かに口を開いた。

 

「違うな」

 

 全員が、彼を見た。

 

「依存していたというより、最初から一つの存在として扱われていたんだろう」

 

 相澤は、二枚の出生証明書を並べた。

 

「同じ母親。同じ父親。同じ出生時刻。同じ名前。そして、同じ顔。世界のシステムは、二人を別々の人間として登録できなかった」

 

 塚内が頷く。

 

「だから、片方を削除しようとした」

 

「そうだ」

 

 相澤は、二枚の紙を見比べた。

 

「だが、問題はここからだ」

 

 彼は、御影の出生証明書を指差した。

 

「御影出久の記録には、最初から名前があったわけじゃない。誰かが名前を書き込んだ。つまり、御影という個体は、世界のシステムが認める前に、誰かによって定義されていた可能性がある」

 

 お茶子が顔を上げた。

 

「……誰かって」

 

「最初は、父親だろう」

 

 相澤は久志を見た。

 

「あなたが名前を与えた。あなたが息子と呼んだ。だから、御影は存在できた」

 

 久志は、静かに頷いた。

 

「……はい」

 

「しかし、あなたが御影を殺したことで、その存在を支えていた観測が失われた」

 

 相澤は、言葉を切った。

 

「それだけなら、御影だけが消えるはずだ」

 

 塚内が、続きを引き取る。

 

「ところが、緑谷出久くんまで存在を維持できなくなった」

 

「……つまり」

 

 お茶子が呟いた。

 

「御影くんが、出久くんを支えていた……?」

 

 相澤は、答えなかった。

 

 代わりに、テーブルの上の写真を手に取った。

 

 幼い出久。

 

 爆豪。

 

 そして、御影。

 

 写真の裏には、十三年前の日付が記されている。

 

 だが、その写真には、もう一つ、おかしな点があった。

 

 撮影された場所が、記されていない。

 

 撮影者も、分からない。

 

 そして、三人の少年の背後には、もう一人、誰かが立っている。

 

 顔は見えない。

 

 身体も、ぼやけている。

 

 ただ、その人物だけが、他の被写体と違っていた。

 

 写真の中にいるのに、影がない。

 

「……緑谷さん」

 

 相澤が尋ねた。

 

「この写真に写っている、四人目の人物について、心当たりはありますか?」

 

 久志は、写真を見た。

 

 その瞬間。

 

 顔から血の気が引いた。

 

「……そんな」

 

「知っているんですね?」

 

「……いえ」

 

 久志は、首を振った。

 

「知っているはずがない」

 

 彼は、写真を見つめたまま、震える声で言った。

 

「この人物は……私が、御影を殺したあとに出会った人間です」

 

 お茶子が息を呑んだ。

 

「……御影くんを殺したあと?」

 

「はい」

 

 久志は、写真を握り締めた。

 

「御影を削除した世界で、出久が死にかけたあと。私は、未来の自分に会いました」

 

「さっき話した、片目を失った男ですか?」

 

「……違います」

 

 久志は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「その男とは、別の人間です」

 

 相澤の表情が変わった。

 

「別の人間?」

 

「はい」

 

 久志は、目を閉じた。

 

 記憶の奥に、あの夜の光景が蘇る。

 

 白い空間。

 

 死にかけた出久。

 

 消えた御影。

 

 そして、目の前に立つ、もう一人の男。

 

 その男は、久志と同じ顔をしていなかった。

 

 年齢も違う。

 

 声も違う。

 

 背格好も違う。

 

 ただ、一つだけ。

 

 彼は、久志に向かって、こう言った。

 

 ――あなたは、私の息子を二度殺したんです。

 

 久志は、目を開いた。

 

「……あの人は、御影の母親でした」

 

 お茶子の呼吸が止まった。

 

「……え?」

 

「御影の母親です」

 

 久志は、震える声で繰り返した。

 

「私は、あの人に会った。あの人は、御影の写真を持っていた。そして、私に言ったんです」

 

 久志は、目を伏せた。

 

「……あなたは、私の息子を二度殺したんです、と」

 

 居間の空気が、凍りついた。

 

 塚内が、ゆっくりと口を開く。

 

「待ってください。御影出久の母親は、緑谷引子さんではないんですか?」

 

「……分かりません」

 

「分からない?」

 

「私は、御影を自分の息子だと思っていました。引子も、御影を自分の子どもとして認識していた時期がある」

 

 久志は、二枚の出生証明書を見た。

 

「しかし、あの女性は、御影を自分の息子だと言った」

 

 相澤の目が細くなる。

 

「……二人の母親がいる?」

 

「あるいは」

 

 久志は、苦しそうに答えた。

 

「どちらか一人が、本当の母親ではないのかもしれません」

 

 お茶子は、ノートを取り出した。

 

 御影出久の名前が書かれたノート。

 

 そのページを開く。

 

 そこには、以前から記されていた言葉があった。

 

 御影出久くんは、うちの最初のヒーローです。

 

 その下に、別の文章が浮かび上がっていた。

 

 今まで、そこには何も書かれていなかった。

 

 それなのに。

 

 今、文字が現れている。

 

 お母さんは、二人いた。

 

 お茶子は、息を呑んだ。

 

 さらに、文字が続く。

 

 一人は、僕を産んだ人。

 

 もう一人は、僕を生まれなかったことにした人。

 

 お茶子の手が震えた。

 

「……御影くん」

 

 ノートの最後に、もう一文が浮かび上がった。

 

 お父さんは、僕を殺した。

 

 でも、僕が生まれる前に、僕を殺した人がいた。

 

 その人は、僕の母親だった。

 

 お茶子は、顔を上げた。

 

「……緑谷さん」

 

 久志が、彼女を見た。

 

「御影くんを殺したのは、あなた一人じゃないんですね」

 

 久志は、目を閉じた。

 

「……はい」

 

 その答えに、誰もが言葉を失った。

 

 そして、その瞬間。

 

 テーブルの上の二枚の出生証明書が、ひとりでに裏返った。

 

 裏面には、今まで存在しなかった文字が記されていた。

 

 一枚目。

 

 緑谷出久。

 

 出生順位:第二子。

 

 二枚目。

 

 御影出久。

 

 出生順位:第一子。

 

 相澤が、目を見開いた。

 

「……順番が、逆だ」

 

 塚内が、二枚の紙を見比べる。

 

「緑谷出久くんが第二子で、御影出久くんが第一子……?」

 

 久志は、首を振った。

 

「……違う」

 

 声が震えていた。

 

「私たちは、出久が最初に生まれたと思っていた」

 

 久志は、出生証明書を見つめた。

 

「でも、本当は……」

 

 言葉が途切れた。

 

 そのとき。

 

 居間の壁に、巨大な影が浮かび上がった。

 

 人間の形をしている。

 

 だが、その顔には何もない。

 

 胸元に、白い文字が浮かんでいた。

 

 第零個体。

 

 全員が立ち上がった。

 

 相澤は、即座に身構える。

 

 爆豪の掌に、爆発の火花が散った。

 

 お茶子は、ノートを抱きしめた。

 

 そして、影が口を開いた。

 

『出生順位を訂正します』

 

 文字が変わる。

 

 第一子:御影出久。

 

 第二子:緑谷出久。

 

 その下に、赤い文字が浮かび上がった。

 

 ただし、第一子は出生前に死亡。

 

 第二子は出生後に死亡。

 

 現在の緑谷出久は、第三子です。

 

 久志は、息を呑んだ。

 

「……第三子?」

 

 影が、ゆっくりと顔を上げた。

 

『はい』

 

『あなたが知っている緑谷出久は、最初に生まれた子どもではありません』

 

『あなたが知っている御影出久も、最初に生まれた子どもではありません』

 

『二人は、最初の子どもが死亡したあとに再構築された個体です』

 

 相澤が叫んだ。

 

「……待て! 最初の子どもとは誰だ!」

 

 影は、答えなかった。

 

 ただ、胸元の文字が変わる。

 

 第一子:未登録個体。

 

 名前:――――。

 

 そして。

 

 最後の一行が浮かび上がった。

 

 第一子を殺したのは、父親ではない。

 

 久志の顔から、血の気が引いた。

 

 影が、静かに告げた。

 

『第一子を殺したのは』

 

『――緑谷出久です』

 

 世界が、再び二時十三分で止まった。

 

 そして、久志は思い出した。

 

 十三年前。

 

 二人の息子が生まれる前。

 

 まだ誰も、御影出久という名前を知らなかった頃。

 

 自分は、病院の廊下で、一人の少年に会っていた。

 

 緑色の髪。

 

 そばかす。

 

 自分の息子と同じ顔。

 

 その少年は、久志を見上げて、こう言った。

 

 ――お父さん。

 

 ――僕を殺して。

 

 久志は、そのとき。

 

 その少年が、まだ生まれていない息子だとは知らなかった。

 

 そして、その少年が。

 

 自分の息子たちを生まれさせるために、最初に死んだ子どもだということも。




本日できる限り第二章完結まで更新予定です
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