世界が、午前二時十三分で止まっていた。
壁時計の秒針も。
塚内直正の腕時計も。
相澤消太が無意識に確認した携帯電話の表示も。
そして、緑谷久志の喉から漏れかけた呼吸さえも。
すべてが、あの時刻に縫い止められていた。
緑谷久志は、自分の両手を見つめていた。
指先が震えている。
十三年前。
病院の廊下で。
まだ、この世に生まれているはずのない子どもが、彼の前に立っていた。
緑谷出久と同じ顔。
同じ目。
同じ、何かを必死にこらえているような表情。
その少年は、久志を見上げて言った。
『お父さん』
そして。
『僕を殺して』
久志は、その記憶を十三年間、誰にも話していなかった。
話せなかったのではない。
話せば、何かが起きると知っていたからだ。
あの少年が何者なのか。
なぜ生まれる前の自分を知っていたのか。
なぜ、父親である自分に殺してほしいと願ったのか。
そして――なぜ、その顔が、今ここにいる緑谷出久と同じだったのか。
久志は、ようやく唇を動かした。
「……違う」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「違うんだ。俺は……あの子を殺したくなんかなかった」
「緑谷さん」
相澤の声が、凍りついた部屋に落ちた。
時計は止まっている。
だが、相澤は動いていた。
塚内も、爆豪も、麗日も。
そして、机の上に置かれたノートも。
世界そのものが完全に停止したわけではない。
停止させられているものと、停止から取り残されたものがある。
それが何を意味するのか。
相澤には、まだ分からなかった。
「十三年前、病院の廊下にいた子ども。そいつが何者なのか、あなたは知っているんですか」
「……知らない」
「本当に?」
「知らないんだ!」
久志の声が裏返った。
「俺は、あの子の顔を知っている。声も覚えている。何を言ったのかも、一言一句覚えている。でも、あの子が誰なのかだけは……分からないんだ」
久志は額を押さえた。
「いや……違う。分からないんじゃない」
その顔から、血の気が引いていく。
「分かってしまうんだ」
爆豪の眉が動いた。
「どういう意味だ、クソ親父」
「……あの子は」
久志は、震える声で言った。
「あの子は、俺の息子だった」
沈黙。
「緑谷出久の、兄だったんだ」
麗日が息をのんだ。
爆豪が一歩、前へ出た。
「待て」
低い声だった。
「さっきから、何人目だの、第一子だの、第三子だの……好き勝手に番号を振りやがって。今度は兄貴だと?」
爆豪の赤い目が、久志を射抜いた。
「緑谷に兄貴なんざいねえ」
「そうだ」
久志は即答した。
「戸籍上は、いない」
「戸籍上だけじゃねえ。俺たちが知ってる緑谷にも、兄貴はいねえ。緑谷本人も、そんな話は一度も――」
「勝己くん」
麗日が、そっと遮った。
爆豪は舌打ちしかけて、止めた。
麗日は、机の上のノートを見つめていた。
そこには、先ほどまで存在しなかった文章が浮かんでいる。
誰かが書き込んだわけではない。
ページがめくれたわけでもない。
ただ、白かったはずの紙に、黒い文字が滲み出していた。
『最初に生まれた子どもは、兄だった』
その下に、さらに一行。
『兄は、弟を生かすために死んだ』
そして最後に。
『弟は、兄を生かすために生まれなかった』
「……これ」
麗日はノートに触れようとして、指を止めた。
「緑谷くんの字や」
相澤が顔を上げる。
「緑谷の?」
「うん。でも……今の緑谷くんが書いた字とは、少し違う」
麗日は、文字の形を確かめるように目を細めた。
「同じ人が書いたみたいに似てる。でも、書き癖が違うんよ。こっちは……もっと、ゆっくり書いてる。まるで、間違えたら消されるって分かってるみたいに」
その瞬間だった。
止まっていた壁時計の秒針が、わずかに震えた。
午前二時十三分。
長針が、ほんの一ミリだけ動く。
そして、誰も触れていないノートのページがめくれた。
白紙。
次のページも。
その次も。
何十枚もの紙が、風もない部屋で一斉にめくれていく。
最後のページで、ぴたりと止まった。
そこには、たった一つの質問が書かれていた。
『お父さんは、最初に生まれた子どもの顔を覚えていますか?』
久志が、椅子から立ち上がった。
「……ああ」
彼は答えた。
「覚えている」
ノートの文字が変わった。
『本当に?』
「覚えている!」
『名前は?』
久志の口が開いた。
しかし、声が出なかった。
名前。
そうだ。
名前があったはずなのだ。
息子なのだから。
生まれる前から、名前を考えていたはずなのだ。
緑谷出久。
御影出久。
ならば、その前にいた子どもは?
誰よりも先に生まれ。
誰よりも先に死に。
弟たちの存在を成立させるために、世界から消された子ども。
その子の名前は。
その子の名前は――。
「…………」
久志の顔が、歪んだ。
思い出せない。
思い出そうとするほど、頭の中で何かが擦り切れていく。
名前の最初の一文字さえ、浮かばない。
だが。
名前が分からないのに。
顔は、覚えている。
声も。
最後に伸ばしてきた手も。
自分を見上げたときの、あの悲しい目も。
そして。
『お父さん。僕を殺して』
久志は、両手で顔を覆った。
「……俺が、殺したんだ」
誰も、何も言わなかった。
「俺が……あの子を殺した」
その言葉が落ちた瞬間。
壁時計が、二時十四分を指した。
十三年間、一秒たりとも進まなかった時計が。
初めて。
あの日から、初めて。
前へ進んだ。
しかし、針が動いたのは一秒だけだった。
次の瞬間、時計の文字盤に黒い染みが広がる。
数字の一から、順番に消えていく。
一。
二。
三。
四。
数字がなくなっていく。
時計は、時刻を表示することを拒絶するように、真っ黒になった。
その中央に、白い文字が浮かんだ。
『第一個体の記録を開示します』
相澤が、反射的に身構えた。
「全員、下がれ!」
爆豪の掌に火花が散る。
麗日はノートを胸に抱え、塚内は久志をかばう位置に移動した。
黒い文字盤が、音もなく割れた。
その奥から現れたのは、時計の歯車でも、機械の部品でもなかった。
病院の廊下だった。
白い床。
白い壁。
消毒液の匂い。
遠くから聞こえる、赤ん坊の泣き声。
そして、廊下の真ん中に立つ、小さな少年。
十三年前の姿をした緑谷久志が、そこにいた。
その前に、少年が立っている。
緑谷出久と同じ顔をした少年。
ただし、現在の出久よりも幼い。
五歳ほどだろうか。
いや、違う。
年齢を推定しようとした瞬間、見る者の認識が揺らいだ。
五歳にも見える。
十歳にも見える。
生まれたばかりの赤ん坊にも見える。
まだ母親の胎内にいる子どもにも見える。
彼は、年齢を持っていなかった。
正確には――年齢を決めるための時間が、彼には存在しなかった。
少年は、久志を見上げた。
『お父さん』
映像の中の久志が、後ずさる。
『どうして、泣いているの?』
「……やめろ」
久志が呟いた。
だが、映像は止まらない。
『僕、何か悪いことをした?』
少年は、自分の両手を見つめた。
『僕が生まれたから?』
「やめてくれ……!」
『僕が、お兄ちゃんだから?』
相澤の目が見開かれた。
爆豪の火花が止まる。
麗日は息をすることすら忘れたように、映像を見つめていた。
少年は笑った。
泣きそうな顔で。
『大丈夫だよ、お父さん』
そして。
『僕がいなくなれば、みんな助かるんでしょう?』
映像の中の久志が、少年の肩をつかんだ。
何かを叫んでいる。
しかし、音声はそこだけ欠落していた。
少年は首を横に振る。
『違うんだね』
彼は、父親の手をそっと外した。
『お父さんが悪いんじゃないんだ』
少年は、廊下の奥を見た。
そこには、誰もいない。
誰もいないはずなのに。
少年は、誰かに向けて頭を下げた。
『ごめんなさい』
それから、久志に向き直る。
『僕が、最初に生まれたから』
少年の身体が、白い光に包まれた。
『僕が、最初に死ななきゃいけないんだ』
映像が途切れた。
時計の向こう側で、何かが笑った。
人間の声ではなかった。
機械の音でもなかった。
ただ、世界のどこかに存在するものが、長いあいだ探していた答えを見つけたような、満足げな気配だけがあった。
そして、文字が浮かぶ。
『第一個体の消失を確認』
『第二個体の生成を確認』
『第三個体の再構築を確認』
『記録の整合性――不成立』
『観測を継続します』
最後に、もう一つ。
『なお、第一個体は死亡していません』
相澤は、低く言った。
「……何だと?」
黒い文字盤が、再び震えた。
『訂正』
『第一個体は死亡しています』
『訂正』
『第一個体は生存しています』
『訂正』
『第一個体は、まだ生まれていません』
『訂正』
『第一個体は、緑谷出久によって殺害されました』
文字が次々に重なり、互いを塗り潰していく。
『訂正』
『訂正』
『訂正』
やがて、文字盤いっぱいに、たった一つの文章が残った。
『第一個体の生死を確定することはできません』
相澤は、歯を食いしばった。
「ふざけるな……」
誰に向けた言葉なのか。
時計か。
記録か。
世界そのものか。
それとも、この十三年間、子どもたちを何度も何度も生かし、殺し、作り直してきた何かに対してか。
「生きているか死んでいるかも分からない人間を、何度まで殺せば気が済む」
その問いに、答えはなかった。
代わりに、黒い文字盤の奥から。
小さな手が、伸びてきた。
少年の手だった。
白い指が、時計の縁をつかむ。
そして。
「……お父さん?」
今度は、映像ではなかった。
声が、部屋の中に響いた。
久志が顔を上げた。
相澤が振り返る。
爆豪が歯をむき出しにする。
麗日は、ノートを抱きしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。
時計の向こう側にいた少年が。
こちらを見ていた。
「お父さん」
少年は、困ったように笑った。
「やっと、見つけた」
久志の唇が震えた。
「……お前は」
少年は首を傾げる。
「うん?」
「お前は……誰だ」
その問いに、少年は傷ついた顔をした。
けれど、怒らなかった。
泣かなかった。
ただ、ひどく寂しそうに笑った。
「そっか」
彼は、ゆっくりと頷いた。
「まだ、名前を思い出せないんだね」
その言葉に。
久志は、膝から崩れ落ちた。
少年は時計の縁を乗り越えようとした。
しかし、その身体は向こう側に引き戻される。
まるで、世界そのものが、彼の侵入を拒絶しているようだった。
「待ってくれ!」
久志が叫んだ。
「待ってくれ、頼む! 今度こそ……今度こそ、俺はお前を――!」
「ううん」
少年は首を横に振った。
「今度こそ、じゃないよ」
彼は、父親を見つめた。
「お父さんは、もう何度も僕を助けてくれた」
「……何?」
「何度も、僕を殺した」
久志の顔が凍りつく。
「何度も、僕を忘れた」
少年の声は、穏やかだった。
「何度も、僕の名前を呼んでくれた」
彼は胸に手を当てた。
「でも、全部、同じじゃなかったんだ」
少年の背後に、無数の扉が浮かび上がった。
病院の扉。
家の玄関。
学校の教室。
見知らぬ街の路地。
崩壊した世界。
真っ白な部屋。
その一つ一つの向こう側に、異なる緑谷出久がいた。
泣いている出久。
怒っている出久。
血に染まった手を見つめる出久。
誰かを抱きしめている出久。
誰もいない世界で、一人だけ立ち尽くす出久。
そして。
何もかもを諦めたように、笑っている出久。
少年は、それらを見渡した。
「みんな、僕なんだ」
爆豪が低く唸る。
「……緑谷」
「うん」
少年は、爆豪に目を向けた。
「君の知っている出久くんも、僕なんだよ」
「知ったような口を利くんじゃねえ」
爆豪の声には怒りがあった。
だが、それ以上に。
何かを見失いかけている人間の、焦りがあった。
「俺の知ってる緑谷は、あいつだ。今ここにいねえ、あいつだ。お前が何人いようが、何回世界を作り直そうが、俺はあいつを他の誰かと混ぜる気はねえ」
少年は、少しだけ目を見開いた。
そして、嬉しそうに笑った。
「……そっか」
彼は呟いた。
「君は、ちゃんと覚えてるんだね」
「当たり前だろうが」
「うん」
少年は頷いた。
「それなら、よかった」
その瞬間。
背後に浮かぶ扉の一つが、激しく揺れた。
向こう側から、誰かが扉を叩いている。
何度も。
何度も。
叩くたびに、扉の表面にひびが走る。
少年の顔から笑みが消えた。
「……ああ」
彼は、初めて怯えたような表情を浮かべた。
「もう、来ちゃったんだ」
相澤が身構える。
「誰が来た」
少年は答えなかった。
扉の向こうから、声が聞こえた。
『見つけた』
低く、擦れた声。
『見つけた、見つけた、見つけた』
同じ言葉が、何十人もの声で繰り返される。
『今度こそ』
『今度こそ』
『今度こそ』
扉が、内側から砕けた。
その向こうに立っていたのは。
緑谷出久だった。
ただし、今ここにいる出久ではない。
顔立ちは同じ。
髪の色も同じ。
しかし、目だけが違った。
その目には、長い年月を生き延びた人間の疲労と、何度も世界を失った人間の絶望が刻まれていた。
彼は、時計の向こうにいる少年を見た。
少年もまた、彼を見つめた。
二人は、しばらく黙っていた。
やがて。
年長の出久が、口を開いた。
「……まだ、ここにいたのか」
少年は頷いた。
「うん」
「どうして」
「帰れなかったから」
年長の出久は、目を伏せた。
「そうか」
その声には、怒りも、驚きもなかった。
ただ、ひどく疲れた響きがあった。
「……ごめん」
少年は、首を横に振った。
「謝らないで」
「僕が君を殺した」
「うん」
「僕が、君の名前を消した」
「うん」
「僕が、君を最初からいなかったことにした」
「……うん」
少年は、泣きそうな顔で笑った。
「でも、それでも僕は、君を恨めなかった」
年長の出久は、目を閉じた。
そして。
「それが、いちばん残酷なんだよ」
そう言った。
少年の表情が変わった。
「……え?」
「君が僕を恨んでくれたら、僕は君を悪者にできた。君を殺したのは仕方なかったって、自分に言い聞かせられた」
年長の出久は、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、君は僕を許した」
「僕は、君を許したかったんじゃない」
少年の声が、初めて強くなった。
「僕は、君と一緒に生きたかったんだ!」
時計の縁が軋んだ。
「僕を殺さないでほしかった!」
少年の瞳から、涙が落ちた。
「僕を忘れないでほしかった!」
背後の扉が、次々に砕けていく。
「僕だって、生きたかったんだ!」
その叫びは、十三年間、世界のどこにも届かなかった声だった。
誰にも聞かれなかった声。
記録されなかった声。
名前と一緒に、存在そのものを削り取られた子どもの声。
その声を聞いて。
久志は、声を上げて泣いた。
「……ごめん」
何度も。
何度も。
「ごめん……ごめんな……」
しかし、少年は父親を見なかった。
彼が見ているのは、もう一人の自分だった。
「ねえ」
少年は、年長の出久に尋ねた。
「君は、どうしてここに来たの?」
年長の出久は、答えるまでに時間がかかった。
「……君を連れ戻しに来た」
「どこへ?」
「僕たちの世界へ」
「僕たちの世界?」
少年は、笑った。
「そんなもの、もうないよ」
「ある」
「ないよ」
「あるんだ!」
年長の出久が、叫んだ。
「僕が、作り直した!」
その言葉に、世界が震えた。
「何度も、何度も、何度も! 君が死ぬたびに、僕は世界を作り直した! 君がいなくなるたびに、別の君を探した! 君を救える世界を探して、何もかもを壊した!」
彼は、胸元を握りしめた。
「それでも、君は戻らなかった!」
少年は、静かに聞いていた。
「だから、僕は決めたんだ」
年長の出久は、涙を拭った。
「君がいない世界を、君が生きている世界に変える」
少年は、首を傾げた。
「……どうやって?」
「分からない」
「え?」
「分からないんだよ!」
年長の出久は、笑った。
泣きながら。
自分自身を嘲笑うように。
「方法なんて、分からない。そんなもの、最初から分かっていなかった。僕はただ、君が死んだ世界を認められなかった。君が死んだという結果を、受け入れられなかった。それだけなんだ」
少年は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと尋ねた。
「……じゃあ」
彼は、父親を見た。
「お父さんも、そうだったの?」
久志は、顔を上げた。
「俺は……」
「僕が死んだ世界を、認められなかったの?」
久志は、答えられなかった。
答えは、決まっていた。
そうだったのだ。
彼は、息子を失ったことを認められなかった。
だから、記憶を守ろうとした。
だから、名前を残そうとした。
だから、誰もいない部屋に食事を並べた。
だから、存在しないはずの足音を聞き続けた。
そして。
息子を生かすために、別の息子を選んだ。
愛していたから。
失いたくなかったから。
誰か一人を犠牲にすれば、もう一人を救えると信じたから。
彼は、選んだ。
選んでしまった。
その選択を、十三年間、正しいものにしようとしてきた。
「……そうだ」
久志は、ようやく答えた。
「俺も、そうだった」
少年は、父親を見つめた。
「そっか」
彼は、頷いた。
「じゃあ、お父さんも、ずっと苦しかったんだね」
その優しさに。
久志は、顔を覆った。
「違う……違うんだ……!」
彼は泣いた。
「苦しかったのは、お前だ! お前たちだ! 俺は……俺は、お前たちを守るはずだったのに……!」
少年は、静かに首を横に振った。
「お父さん」
「……何だ」
「もう、僕を選ばなくていいよ」
久志が顔を上げる。
「もう、誰かを殺して、誰かを生かさなくていい」
少年は、年長の出久を見た。
「君も」
そして、時計の向こう側から、こちらにいる相澤たちを見た。
「みんなも」
最後に。
現在の緑谷出久がいるはずの、遠い場所を見つめた。
「今度は、僕たちを選ばないで」
彼は、微笑んだ。
「僕たちが、自分で決めるから」
その瞬間。
時計の向こう側で、何かが破裂した。
白い光が広がった。
少年の身体が、輪郭を失っていく。
「待て!」
年長の出久が手を伸ばした。
「待ってくれ!」
少年もまた、手を伸ばした。
二人の指先が触れた。
その瞬間、年長の出久の顔が歪んだ。
「……ああ」
彼は、小さく呟いた。
「やっと、分かった」
少年が首を傾げる。
「何が?」
年長の出久は、涙を流しながら笑った。
「君は、僕が救いたかった人じゃない」
少年は、黙っていた。
「君は、僕が失ったものでもない」
年長の出久は、少年の手を握った。
「君は、僕自身だった」
白い光が、二人を包み込む。
「僕が殺した、僕自身だったんだ」
その言葉が終わる前に。
時計が、砕けた。
世界が、再び動き始めた。
けれど。
その場にいた誰もが、同じものを見ていたわけではなかった。
相澤には、砕けた時計しか見えなかった。
塚内には、文字盤の破片が床に落ちていく光景が見えた。
爆豪には、一瞬だけ、二人の緑谷が手を握り合っている姿が見えた。
麗日には。
白い光の中で、少年が何かを口にしているのが見えた。
声は聞こえなかった。
だが、唇の動きは読めた。
少年は、最後にこう言った。
『僕の名前を、返して』
そして、消えた。
*
時計の破片は、床に落ちる前に消えた。
音もなく。
跡形もなく。
まるで、最初から時計など存在していなかったかのように。
久志は床に膝をついたまま、何もない壁を見つめていた。
「……名前」
その唇が、かすかに動いた。
「名前を……返して、か」
相澤は返事をしなかった。
できなかった。
今の光景を、どう理解すればいい。
あの少年は誰だったのか。
年長の緑谷出久は何者だったのか。
そして、あの二人は、どうして同じ顔をしていたのか。
何よりも。
あの少年が消える直前に、麗日が見たという言葉。
――僕の名前を、返して。
それは、単なる願いではなかった。
返してほしいということは、奪われたということだ。
誰かが、あの子から名前を奪った。
誰かが、あの子の存在を奪った。
そして、その結果として、緑谷出久という少年が生まれた。
だが。
「……いや」
相澤は、ふと気づいた。
「違うな」
塚内が顔を向ける。
「何がです?」
「名前を奪われたから、緑谷出久になったんじゃない」
相澤は、砕けた時計があった壁を見つめた。
「緑谷出久という名前を成立させるために、誰かの名前が奪われたんだ」
その言葉に、爆豪の眉間が深く寄った。
「同じことだろうが」
「違う」
相澤は即座に否定した。
「順番が逆だ」
彼は、机の上のノートを指した。
「今までの記録では、緑谷出久という存在が先にあって、そこに別の個体が混ざったように見えていた。だが、今の映像は違った」
相澤の脳裏に、少年の言葉がよみがえる。
『僕が、最初に生まれたから』
『僕が、最初に死ななきゃいけないんだ』
「最初に生まれた子どもがいた。その子どもが死んだ。あるいは、死んだことにされた。その結果として、二番目の子どもが生まれた」
「……御影出久か」
塚内が呟いた。
「そして、御影出久が消されたあとに、現在の緑谷出久が成立した……そう考えれば、記録上の第三子という説明にはつながります」
「だが、まだ足りない」
相澤は首を横に振った。
「御影出久は、最初の子どもじゃない。少なくとも、あの記録が正しいならな」
麗日がノートを開いた。
そこには、先ほどまで存在していた文章が残っていた。
しかし、一番下のページに、見覚えのない文字が増えている。
『第一子は、弟を救った』
『第二子は、兄を忘れた』
『第三子は、兄を探した』
『第四子は、兄を殺した』
『第五子は、兄のいない世界を選んだ』
麗日は、息を止めた。
「……まだ、ある」
ページの下部。
五つの文章のさらに下に、黒い文字が浮かび上がった。
『なお、上記の番号は出生順を示すものではありません』
爆豪が舌打ちした。
「だったら何の番号だ」
文字が変わった。
『観測順です』
相澤の表情が険しくなる。
『観測順と出生順は一致しません』
『出生順と死亡順は一致しません』
『死亡順と消去順は一致しません』
『消去順と再構築順は一致しません』
『再構築順と存在順は一致しません』
文字が、一行ずつ増えていく。
『存在順と記憶順は一致しません』
『記憶順と家族順は一致しません』
『家族順と――』
そこで、文字が途切れた。
代わりに、ページの中央に、赤い線が一本引かれた。
その線は、まるで誰かが紙の裏側から爪で引っかいた傷のようだった。
麗日が、そっと紙を裏返す。
裏側には、文字が書かれていた。
『それでも、兄は兄だった』
その一文を見た瞬間。
麗日の目から、涙がこぼれた。
「……ひどいよ」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
「こんなの……あんまりや」
彼女は、ノートを胸に抱いた。
「何回生まれ直したって、何回世界を作り直したって……誰かが誰かを忘れたことにされても……」
声が震える。
「その子が、お兄ちゃんだったことまで、なくならへんやん……!」
爆豪は、何も言わなかった。
相澤も、塚内も。
麗日の言葉は、あまりにも単純で。
あまりにも、この異常な事態の核心に近かった。
番号が何番であろうと。
世界が何回作り直されようと。
誰かが誰かを兄と呼んだなら。
誰かが誰かを弟と呼んだなら。
その関係は、記録の都合だけで消していいものではない。
少なくとも、麗日はそう思った。
そして、ノートが震えた。
彼女の腕の中で。
小さな紙片が、ページの隙間から落ちた。
麗日は、それを拾い上げた。
そこには、幼い子どもの字で、たった一行だけ書かれていた。
『お兄ちゃんは、僕のことを覚えているかな』
麗日は、唇を噛んだ。
「……覚えてるよ」
彼女は答えた。
誰に届くとも分からない言葉だった。
「絶対に、覚えてる」
紙片が、かすかに光った。
その瞬間、部屋の隅から声がした。
「……それは、違うよ」
全員が振り返った。
そこに、少年が立っていた。
先ほど時計の向こうにいた少年ではない。
年長の出久でもない。
相澤たちが、これまで何度も記録の中で見てきた、名前のない少年だった。
十三年前に死んだとされる子ども。
病院で発見された、緑谷出久と部分的に同じDNAを持つ子ども。
そして、何度も記憶の中から消えかけながら、それでも誰かの前に現れ続けている子ども。
彼は、部屋の隅で俯いていた。
「……覚えている人もいる」
少年は言った。
「でも、覚えていない人もいる」
麗日は、ゆっくりと立ち上がった。
「君……」
「僕は、覚えているよ」
少年は顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「僕は、あの子のことを覚えている」
相澤が一歩、前に出る。
「お前は、あの少年を知っているのか」
「うん」
「名前は?」
少年は、答えなかった。
ただ、自分の胸元を押さえた。
「……知っているはずなんだ」
彼は呟いた。
「僕は、あの子の名前を知っているはずなんだ。でも……」
少年の指先が震える。
「思い出そうとすると、僕の中から、別のものが消える」
「別のもの?」
「顔とか、声とか……」
少年は、目を閉じた。
「僕が、誰を好きだったのか」
相澤は、息を止めた。
「誰を憎んでいたのか」
少年の声が、少しずつ小さくなる。
「何を守りたかったのか」
彼は、胸元を強く握った。
「僕が、僕だった理由が……一つずつ、なくなっていくんだ」
塚内が、慎重に尋ねた。
「それは、誰かに消されているのか?」
少年は首を横に振った。
「分からない」
「自分で消している可能性は?」
「……分からない」
「なら、何か覚えていることはないか。あの子について、どんなことでもいい」
少年は、しばらく考えた。
そして。
「……あの子は、嘘をつくのが下手だった」
そう言った。
「嘘をつくとき、いつも、少しだけ左を向いたんだ」
麗日が、息をのんだ。
少年は、かすかに笑った。
「僕が初めてそれに気づいたとき、あの子はすごく怒った。『そんなことない』って言い張って……でも、そのときも左を向いていた」
彼は、笑いながら泣いていた。
「……そんな、どうでもいいことばかり覚えてる」
相澤は、黙って聞いていた。
「名前は思い出せない。顔も、もう、ちゃんと思い出せない。でも……」
少年は、両手を見つめた。
「嘘をつくと左を向くことだけは、覚えてる」
そして、彼は言った。
「だから、僕は……あの子が死んだっていう記録を、信じられないんだ」
相澤の目が細くなった。
「……どういう意味だ」
「だって」
少年は、顔を上げた。
「僕は、あの子に嘘をつかれたことがあるんだ」
部屋の空気が変わった。
「最後に会ったとき」
少年は言った。
「僕に、『また明日』って言ったんだ」
沈黙。
「でも、あの子は、次の日にはいなかった」
彼は、ゆっくりと首を傾げた。
「……ねえ」
誰に向けた問いなのか、分からなかった。
「それって、嘘だったのかな」
麗日は、答えられなかった。
相澤も、塚内も。
爆豪は、拳を握りしめた。
その問いに、簡単な答えを返せる者など、この部屋にはいなかった。
死ぬつもりで言ったのか。
生きるつもりで言ったのか。
明日が来ると信じていたのか。
それとも、相手を安心させるために、最後の嘘をついたのか。
どれであっても。
その少年が「また明日」と言ったことは、変わらない。
そして、その明日が来なかったことも。
「……嘘じゃない」
爆豪が言った。
全員が、彼を見た。
爆豪は少年を睨んでいた。
「そいつが、本当に次の日に会うつもりだったかどうかなんざ、俺には分からねえ」
彼は、歯を食いしばった。
「だが、会うつもりもねえのに、わざわざ『また明日』なんて言う奴ばっかじゃねえだろ」
少年は、目を見開いた。
「……でも、来なかった」
「だから何だ」
爆豪は吐き捨てた。
「来なかったからって、昨日までの約束まで嘘になるわけじゃねえ」
少年は、何も言わなかった。
「約束を守れなかった理由があるかもしれねえ。守ろうとして、守れなかったのかもしれねえ。そもそも、約束を守るために何かをしてたのかもしれねえ」
爆豪は、一瞬だけ目を伏せた。
「……それを全部、死んだっていう結果だけで決めつけるな」
少年の目から、涙が落ちた。
爆豪は、乱暴に頭をかいた。
「クソが。泣くなとは言わねえが、そんな顔すんな」
「……どうして?」
「何がだ」
「どうして、そんなことを言ってくれるの?」
爆豪は、答えに詰まった。
しばらく黙ったあと、低い声で言った。
「……俺が、そういうのを、間違えたことがあるからだ」
それ以上は、話さなかった。
少年も、それ以上は聞かなかった。
ただ、彼は小さく頷いた。
「……ありがとう」
その声が消えると同時に。
ノートの紙片が、再び光った。
今度は、文字が浮かび上がっていた。
『また明日』
麗日は、目を見開いた。
紙片の裏側にも、文字が現れる。
『明日、僕は帰ってくる』
さらに。
『だから、待っていて』
最後の一文が浮かび上がった瞬間。
部屋の奥で、扉が開く音がした。
誰も触れていない扉だった。
その向こうには、暗い廊下が続いていた。
そして、廊下の先に。
一人の少年が立っていた。
緑谷出久と同じ顔。
ただし、その顔は、誰も見たことがないほど穏やかだった。
彼は、こちらに向かって歩いてきた。
一歩。
また一歩。
足音が、床に響く。
相澤は、すぐに動けなかった。
爆豪も、麗日も、塚内も。
少年は、久志の前で立ち止まった。
そして、微笑んだ。
「……お父さん」
久志は、顔を上げた。
その目が、大きく見開かれた。
「……お前」
少年は、頷いた。
「ただいま」
久志の口が、震えた。
「……ただいま、って……」
「うん」
少年は、何でもないことのように答えた。
「帰ってきたよ」
久志は、立ち上がろうとした。
しかし、膝に力が入らなかった。
「……お前は……」
少年は、父親の前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫だよ」
彼は笑った。
「今度は、ちゃんと帰ってきたから」
そして。
彼は、父親の耳元で、何かを囁いた。
久志の表情が、凍りついた。
「……何?」
少年は、もう一度囁いた。
「僕を殺したのは、お父さんじゃないよ」
久志の顔から、血の気が引いた。
「……じゃあ、誰が……」
少年は、父親の目を見つめた。
その瞳は、緑谷出久と同じ色をしていた。
「僕を殺したのは――」
少年は、微笑んだ。
「お父さんが、僕を殺す前に、僕を殺した人だよ」
その瞬間。
久志の背後で、誰かが笑った。
相澤が振り返る。
そこには、誰もいない。
しかし、床に落ちた時計の破片の一つに、黒い文字が浮かび上がっていた。
『第一個体、帰還』
『第二個体、帰還』
『第三個体、帰還』
『第四個体、帰還』
『第五個体、帰還』
『全個体の帰還を確認』
その下に、さらに一行。
『なお、帰還した個体のうち、一名は本来の死亡時刻を超過しています』
そして。
『死亡時刻を超過した個体は、現在の緑谷出久です』
相澤が、息をのんだ。
「……何だと?」
文字が、最後に一度だけ変わった。
『訂正』
『現在の緑谷出久は、死亡時刻を超過した個体ではありません』
『現在の緑谷出久は――』
そこから先の文字は、黒く塗り潰されていた。
まるで、誰かが意図的に、その先を読ませないようにしたかのように。
久志の前にいる少年は、ゆっくりと立ち上がった。
「……お父さん」
彼は、部屋の奥を見た。
「僕、会いに行かなくちゃ」
「誰に……?」
少年は、振り返った。
その顔から、笑みが消えていた。
「僕を殺した人に」
そして、彼は言った。
「僕のお母さんに」
*
同じ頃。
雄英高校。
保健室のベッドで眠っていた緑谷出久は、突然、目を開けた。
息ができなかった。
胸が痛い。
身体が重い。
まるで、長いあいだ水の底に沈んでいた人間が、ようやく水面に顔を出したときのようだった。
「……っ、は……!」
出久は、上半身を起こした。
周囲を見渡す。
見慣れた保健室。
白いカーテン。
ベッドの脇に置かれた椅子。
そして、誰もいない。
「……麗日さん?」
声が掠れていた。
返事はない。
「相澤先生……?」
やはり、返事はない。
出久は、自分の手を見た。
指先が震えている。
何かを、忘れている。
何か、とても大切なものを。
誰かの名前を。
誰かの声を。
誰かの手の温度を。
思い出そうとする。
だが、思い出せない。
ただ、胸の奥に、どうしようもない痛みだけが残っていた。
「……なんで」
出久は、唇を噛んだ。
「なんで、こんなに……」
悲しいのだろう。
理由が分からない。
誰かが死んだのだろうか。
誰かを失ったのだろうか。
それとも、自分が誰かを殺したのだろうか。
考えた瞬間。
頭の中で、声がした。
『出久』
少年の声だった。
『僕の名前を、返して』
出久は、息を止めた。
「……誰?」
答えはなかった。
代わりに、枕元のスマートフォンが震えた。
画面には、麗日お茶子からの着信が表示されていた。
出久は、すぐに電話に出た。
「麗日さん!?」
『緑谷くん!』
麗日の声が、飛び込んできた。
泣いていた。
出久には、すぐに分かった。
「どうしたの!? 何があったの!?」
『緑谷くん……聞いて』
「うん!」
『今から、すごく変なことを言うね』
「うん!」
『信じられないかもしれない。でも、お願い。最後まで聞いて』
「分かった!」
電話の向こうで、麗日が息を吸った。
『……緑谷くんには、お兄ちゃんがいたんだよ』
出久の世界が、止まった。
時計の針が、二時十三分で止まった。
心臓の鼓動が、遠くなった。
そして。
出久の口から、知らない言葉がこぼれた。
「……兄さん」
自分でも、驚いた。
どうして、その呼び方を知っているのだろう。
どうして、その言葉を口にしただけで、涙が出るのだろう。
どうして。
胸の奥が、こんなにも痛むのだろう。
『緑谷くん……?』
麗日の声が遠くなる。
出久は、ベッドのシーツを握りしめた。
「……兄さん」
もう一度、呟いた。
その瞬間。
頭の中に、記憶が流れ込んできた。
小さな手。
笑い声。
夕焼けの公園。
自分より少しだけ大きな背中。
転んで泣いたとき、差し出された手。
怖い夢を見た夜、隣で眠ってくれた人。
そして。
最後の日。
その人は、笑っていた。
『また明日』
出久は、声にならない悲鳴を上げた。
「……あああああっ!」
スマートフォンが、床に落ちた。
涙が止まらない。
何もかも、思い出せないはずだった。
なのに。
あの人の手の温度だけは、覚えていた。
あの人が笑ったときの、目元の皺だけは。
自分が泣いたときに、頭を撫でてくれた指先だけは。
そして。
あの人が最後に言った言葉だけは。
『出久』
『僕がいなくなっても』
『君は、生きて』
出久は、頭を抱えた。
「……違う」
震える声で、否定する。
「違うよ……兄さん……」
彼は、誰もいない部屋に向かって、必死に訴えた。
「僕、まだ……何もできてないよ……!」
涙が、シーツを濡らした。
「僕、まだ……君を助けてない……!」
その言葉を口にした瞬間。
出久の胸元に、黒い文字が浮かび上がった。
皮膚の上に刻まれた文字ではない。
服の上でもない。
彼の存在そのものに、直接書き込まれている文字だった。
『第一個体との接続を確認』
『記憶の逆流を確認』
『自己同一性の崩壊率――七十二パーセント』
『緊急処理を開始します』
出久は、文字を見つめた。
「……何、これ」
その直後。
頭の中で、別の声がした。
自分と同じ声。
けれど、自分ではない誰かの声。
『思い出すな』
出久は息をのんだ。
『思い出したら、また同じことになる』
「……誰?」
『思い出すな、出久』
声が震えていた。
『お願いだから、思い出さないで』
出久は、目を閉じた。
その声を知っている。
この声を、知っている。
自分を止めようとしている。
自分を守ろうとしている。
そして、何よりも。
自分と同じ痛みを抱えている声だった。
「……君は」
出久は、ゆっくりと尋ねた。
「君は、誰なの?」
長い沈黙。
やがて、その声は答えた。
『僕は』
そして。
『君が、最初に殺した僕だ』
出久の目の前が、真っ暗になった。
意識が遠のいていく。
最後に聞こえたのは、誰かの泣き声だった。
自分の声なのか。
兄の声なのか。
それとも、まだ生まれていない誰かの声なのか。
分からなかった。
ただ、その声は、何度も何度も繰り返していた。
『今度こそ』
『今度こそ』
『今度こそ、君を救うから』
そして、暗闇の中で。
緑谷出久は、初めて思い出した。
自分には、兄がいた。
兄は、自分を守るために死んだ。
そして、自分は――。
兄を救うために、世界を壊した。
何度も。
何度も。
何度も。
それでも、兄は帰ってこなかった。
だから最後に。
自分は、兄がいない世界そのものを消そうとした。
その果てに。
自分は、何を選んだのか。
その答えだけが、どうしても思い出せなかった。
*
その頃。
どこでもない場所。
白い部屋の中で、一人の女性が目を覚ました。
彼女は、自分の膝の上に置かれた写真を見つめていた。
写真には、三人の子どもが写っている。
一人は、緑谷出久。
一人は、顔の部分が黒く塗り潰された少年。
そして、もう一人は。
まだ幼い、見知らぬ子どもだった。
女性は、写真の端を指でなぞった。
「……帰ってきたのね」
彼女の声は、ひどく穏やかだった。
「やっと、帰ってきた」
部屋の向こう側で、扉が開いた。
誰かが入ってくる。
女性は、顔を上げなかった。
「あなたは、誰ですか」
訪問者が尋ねた。
「……誰?」
女性は、少しだけ笑った。
「そうね。今のあなたには、分からないでしょうね」
彼女は写真を裏返した。
裏側には、名前が書かれていた。
だが、その名前は、何度も何度も削られた跡に覆われていた。
女性は、その傷だらけの文字を見つめた。
「私は、あの子の母親よ」
訪問者は、沈黙した。
「ただし」
女性は、静かに続けた。
「あなたたちが知っている母親ではない」
彼女は、立ち上がった。
「あなたたちが知っている緑谷出久の母親でもない」
そして、写真を胸に抱いた。
「私は、最初に生まれた子どもの母親」
彼女の背後で、白い壁がひび割れた。
「そして、あの子を殺した人間の母親よ」
訪問者が、息をのむ。
女性は、振り返った。
その顔は。
緑谷出久の母親、緑谷引子と、まったく同じだった。
「……さあ」
彼女は微笑んだ。
「今度こそ、話をしましょう」
そして、誰もいないはずの部屋に向かって、問いかけた。
「ねえ、出久」
「あなたは、今度こそ――」
その先の言葉は、記録されなかった。
世界が、再び午前二時十三分で停止したからだ。