僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十一話「最初に生まれた子ども」

 

 世界が、午前二時十三分で止まっていた。

 

 壁時計の秒針も。

 

 塚内直正の腕時計も。

 

 相澤消太が無意識に確認した携帯電話の表示も。

 

 そして、緑谷久志の喉から漏れかけた呼吸さえも。

 

 すべてが、あの時刻に縫い止められていた。

 

 緑谷久志は、自分の両手を見つめていた。

 

 指先が震えている。

 

 十三年前。

 

 病院の廊下で。

 

 まだ、この世に生まれているはずのない子どもが、彼の前に立っていた。

 

 緑谷出久と同じ顔。

 

 同じ目。

 

 同じ、何かを必死にこらえているような表情。

 

 その少年は、久志を見上げて言った。

 

『お父さん』

 

 そして。

 

『僕を殺して』

 

 久志は、その記憶を十三年間、誰にも話していなかった。

 

 話せなかったのではない。

 

 話せば、何かが起きると知っていたからだ。

 

 あの少年が何者なのか。

 

 なぜ生まれる前の自分を知っていたのか。

 

 なぜ、父親である自分に殺してほしいと願ったのか。

 

 そして――なぜ、その顔が、今ここにいる緑谷出久と同じだったのか。

 

 久志は、ようやく唇を動かした。

 

「……違う」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

「違うんだ。俺は……あの子を殺したくなんかなかった」

 

「緑谷さん」

 

 相澤の声が、凍りついた部屋に落ちた。

 

 時計は止まっている。

 

 だが、相澤は動いていた。

 

 塚内も、爆豪も、麗日も。

 

 そして、机の上に置かれたノートも。

 

 世界そのものが完全に停止したわけではない。

 

 停止させられているものと、停止から取り残されたものがある。

 

 それが何を意味するのか。

 

 相澤には、まだ分からなかった。

 

「十三年前、病院の廊下にいた子ども。そいつが何者なのか、あなたは知っているんですか」

 

「……知らない」

 

「本当に?」

 

「知らないんだ!」

 

 久志の声が裏返った。

 

「俺は、あの子の顔を知っている。声も覚えている。何を言ったのかも、一言一句覚えている。でも、あの子が誰なのかだけは……分からないんだ」

 

 久志は額を押さえた。

 

「いや……違う。分からないんじゃない」

 

 その顔から、血の気が引いていく。

 

「分かってしまうんだ」

 

 爆豪の眉が動いた。

 

「どういう意味だ、クソ親父」

 

「……あの子は」

 

 久志は、震える声で言った。

 

「あの子は、俺の息子だった」

 

 沈黙。

 

「緑谷出久の、兄だったんだ」

 

 麗日が息をのんだ。

 

 爆豪が一歩、前へ出た。

 

「待て」

 

 低い声だった。

 

「さっきから、何人目だの、第一子だの、第三子だの……好き勝手に番号を振りやがって。今度は兄貴だと?」

 

 爆豪の赤い目が、久志を射抜いた。

 

「緑谷に兄貴なんざいねえ」

 

「そうだ」

 

 久志は即答した。

 

「戸籍上は、いない」

 

「戸籍上だけじゃねえ。俺たちが知ってる緑谷にも、兄貴はいねえ。緑谷本人も、そんな話は一度も――」

 

「勝己くん」

 

 麗日が、そっと遮った。

 

 爆豪は舌打ちしかけて、止めた。

 

 麗日は、机の上のノートを見つめていた。

 

 そこには、先ほどまで存在しなかった文章が浮かんでいる。

 

 誰かが書き込んだわけではない。

 

 ページがめくれたわけでもない。

 

 ただ、白かったはずの紙に、黒い文字が滲み出していた。

 

『最初に生まれた子どもは、兄だった』

 

 その下に、さらに一行。

 

『兄は、弟を生かすために死んだ』

 

 そして最後に。

 

『弟は、兄を生かすために生まれなかった』

 

「……これ」

 

 麗日はノートに触れようとして、指を止めた。

 

「緑谷くんの字や」

 

 相澤が顔を上げる。

 

「緑谷の?」

 

「うん。でも……今の緑谷くんが書いた字とは、少し違う」

 

 麗日は、文字の形を確かめるように目を細めた。

 

「同じ人が書いたみたいに似てる。でも、書き癖が違うんよ。こっちは……もっと、ゆっくり書いてる。まるで、間違えたら消されるって分かってるみたいに」

 

 その瞬間だった。

 

 止まっていた壁時計の秒針が、わずかに震えた。

 

 午前二時十三分。

 

 長針が、ほんの一ミリだけ動く。

 

 そして、誰も触れていないノートのページがめくれた。

 

 白紙。

 

 次のページも。

 

 その次も。

 

 何十枚もの紙が、風もない部屋で一斉にめくれていく。

 

 最後のページで、ぴたりと止まった。

 

 そこには、たった一つの質問が書かれていた。

 

『お父さんは、最初に生まれた子どもの顔を覚えていますか?』

 

 久志が、椅子から立ち上がった。

 

「……ああ」

 

 彼は答えた。

 

「覚えている」

 

 ノートの文字が変わった。

 

『本当に?』

 

「覚えている!」

 

『名前は?』

 

 久志の口が開いた。

 

 しかし、声が出なかった。

 

 名前。

 

 そうだ。

 

 名前があったはずなのだ。

 

 息子なのだから。

 

 生まれる前から、名前を考えていたはずなのだ。

 

 緑谷出久。

 

 御影出久。

 

 ならば、その前にいた子どもは?

 

 誰よりも先に生まれ。

 

 誰よりも先に死に。

 

 弟たちの存在を成立させるために、世界から消された子ども。

 

 その子の名前は。

 

 その子の名前は――。

 

「…………」

 

 久志の顔が、歪んだ。

 

 思い出せない。

 

 思い出そうとするほど、頭の中で何かが擦り切れていく。

 

 名前の最初の一文字さえ、浮かばない。

 

 だが。

 

 名前が分からないのに。

 

 顔は、覚えている。

 

 声も。

 

 最後に伸ばしてきた手も。

 

 自分を見上げたときの、あの悲しい目も。

 

 そして。

 

『お父さん。僕を殺して』

 

 久志は、両手で顔を覆った。

 

「……俺が、殺したんだ」

 

 誰も、何も言わなかった。

 

「俺が……あの子を殺した」

 

 その言葉が落ちた瞬間。

 

 壁時計が、二時十四分を指した。

 

 十三年間、一秒たりとも進まなかった時計が。

 

 初めて。

 

 あの日から、初めて。

 

 前へ進んだ。

 

 しかし、針が動いたのは一秒だけだった。

 

 次の瞬間、時計の文字盤に黒い染みが広がる。

 

 数字の一から、順番に消えていく。

 

 一。

 

 二。

 

 三。

 

 四。

 

 数字がなくなっていく。

 

 時計は、時刻を表示することを拒絶するように、真っ黒になった。

 

 その中央に、白い文字が浮かんだ。

 

『第一個体の記録を開示します』

 

 相澤が、反射的に身構えた。

 

「全員、下がれ!」

 

 爆豪の掌に火花が散る。

 

 麗日はノートを胸に抱え、塚内は久志をかばう位置に移動した。

 

 黒い文字盤が、音もなく割れた。

 

 その奥から現れたのは、時計の歯車でも、機械の部品でもなかった。

 

 病院の廊下だった。

 

 白い床。

 

 白い壁。

 

 消毒液の匂い。

 

 遠くから聞こえる、赤ん坊の泣き声。

 

 そして、廊下の真ん中に立つ、小さな少年。

 

 十三年前の姿をした緑谷久志が、そこにいた。

 

 その前に、少年が立っている。

 

 緑谷出久と同じ顔をした少年。

 

 ただし、現在の出久よりも幼い。

 

 五歳ほどだろうか。

 

 いや、違う。

 

 年齢を推定しようとした瞬間、見る者の認識が揺らいだ。

 

 五歳にも見える。

 

 十歳にも見える。

 

 生まれたばかりの赤ん坊にも見える。

 

 まだ母親の胎内にいる子どもにも見える。

 

 彼は、年齢を持っていなかった。

 

 正確には――年齢を決めるための時間が、彼には存在しなかった。

 

 少年は、久志を見上げた。

 

『お父さん』

 

 映像の中の久志が、後ずさる。

 

『どうして、泣いているの?』

 

「……やめろ」

 

 久志が呟いた。

 

 だが、映像は止まらない。

 

『僕、何か悪いことをした?』

 

 少年は、自分の両手を見つめた。

 

『僕が生まれたから?』

 

「やめてくれ……!」

 

『僕が、お兄ちゃんだから?』

 

 相澤の目が見開かれた。

 

 爆豪の火花が止まる。

 

 麗日は息をすることすら忘れたように、映像を見つめていた。

 

 少年は笑った。

 

 泣きそうな顔で。

 

『大丈夫だよ、お父さん』

 

 そして。

 

『僕がいなくなれば、みんな助かるんでしょう?』

 

 映像の中の久志が、少年の肩をつかんだ。

 

 何かを叫んでいる。

 

 しかし、音声はそこだけ欠落していた。

 

 少年は首を横に振る。

 

『違うんだね』

 

 彼は、父親の手をそっと外した。

 

『お父さんが悪いんじゃないんだ』

 

 少年は、廊下の奥を見た。

 

 そこには、誰もいない。

 

 誰もいないはずなのに。

 

 少年は、誰かに向けて頭を下げた。

 

『ごめんなさい』

 

 それから、久志に向き直る。

 

『僕が、最初に生まれたから』

 

 少年の身体が、白い光に包まれた。

 

『僕が、最初に死ななきゃいけないんだ』

 

 映像が途切れた。

 

 時計の向こう側で、何かが笑った。

 

 人間の声ではなかった。

 

 機械の音でもなかった。

 

 ただ、世界のどこかに存在するものが、長いあいだ探していた答えを見つけたような、満足げな気配だけがあった。

 

 そして、文字が浮かぶ。

 

『第一個体の消失を確認』

 

『第二個体の生成を確認』

 

『第三個体の再構築を確認』

 

『記録の整合性――不成立』

 

『観測を継続します』

 

 最後に、もう一つ。

 

『なお、第一個体は死亡していません』

 

 相澤は、低く言った。

 

「……何だと?」

 

 黒い文字盤が、再び震えた。

 

『訂正』

 

『第一個体は死亡しています』

 

『訂正』

 

『第一個体は生存しています』

 

『訂正』

 

『第一個体は、まだ生まれていません』

 

『訂正』

 

『第一個体は、緑谷出久によって殺害されました』

 

 文字が次々に重なり、互いを塗り潰していく。

 

『訂正』

 

『訂正』

 

『訂正』

 

 やがて、文字盤いっぱいに、たった一つの文章が残った。

 

『第一個体の生死を確定することはできません』

 

 相澤は、歯を食いしばった。

 

「ふざけるな……」

 

 誰に向けた言葉なのか。

 

 時計か。

 

 記録か。

 

 世界そのものか。

 

 それとも、この十三年間、子どもたちを何度も何度も生かし、殺し、作り直してきた何かに対してか。

 

「生きているか死んでいるかも分からない人間を、何度まで殺せば気が済む」

 

 その問いに、答えはなかった。

 

 代わりに、黒い文字盤の奥から。

 

 小さな手が、伸びてきた。

 

 少年の手だった。

 

 白い指が、時計の縁をつかむ。

 

 そして。

 

「……お父さん?」

 

 今度は、映像ではなかった。

 

 声が、部屋の中に響いた。

 

 久志が顔を上げた。

 

 相澤が振り返る。

 

 爆豪が歯をむき出しにする。

 

 麗日は、ノートを抱きしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。

 

 時計の向こう側にいた少年が。

 

 こちらを見ていた。

 

「お父さん」

 

 少年は、困ったように笑った。

 

「やっと、見つけた」

 

 久志の唇が震えた。

 

「……お前は」

 

 少年は首を傾げる。

 

「うん?」

 

「お前は……誰だ」

 

 その問いに、少年は傷ついた顔をした。

 

 けれど、怒らなかった。

 

 泣かなかった。

 

 ただ、ひどく寂しそうに笑った。

 

「そっか」

 

 彼は、ゆっくりと頷いた。

 

「まだ、名前を思い出せないんだね」

 

 その言葉に。

 

 久志は、膝から崩れ落ちた。

 

 少年は時計の縁を乗り越えようとした。

 

 しかし、その身体は向こう側に引き戻される。

 

 まるで、世界そのものが、彼の侵入を拒絶しているようだった。

 

「待ってくれ!」

 

 久志が叫んだ。

 

「待ってくれ、頼む! 今度こそ……今度こそ、俺はお前を――!」

 

「ううん」

 

 少年は首を横に振った。

 

「今度こそ、じゃないよ」

 

 彼は、父親を見つめた。

 

「お父さんは、もう何度も僕を助けてくれた」

 

「……何?」

 

「何度も、僕を殺した」

 

 久志の顔が凍りつく。

 

「何度も、僕を忘れた」

 

 少年の声は、穏やかだった。

 

「何度も、僕の名前を呼んでくれた」

 

 彼は胸に手を当てた。

 

「でも、全部、同じじゃなかったんだ」

 

 少年の背後に、無数の扉が浮かび上がった。

 

 病院の扉。

 

 家の玄関。

 

 学校の教室。

 

 見知らぬ街の路地。

 

 崩壊した世界。

 

 真っ白な部屋。

 

 その一つ一つの向こう側に、異なる緑谷出久がいた。

 

 泣いている出久。

 

 怒っている出久。

 

 血に染まった手を見つめる出久。

 

 誰かを抱きしめている出久。

 

 誰もいない世界で、一人だけ立ち尽くす出久。

 

 そして。

 

 何もかもを諦めたように、笑っている出久。

 

 少年は、それらを見渡した。

 

「みんな、僕なんだ」

 

 爆豪が低く唸る。

 

「……緑谷」

 

「うん」

 

 少年は、爆豪に目を向けた。

 

「君の知っている出久くんも、僕なんだよ」

 

「知ったような口を利くんじゃねえ」

 

 爆豪の声には怒りがあった。

 

 だが、それ以上に。

 

 何かを見失いかけている人間の、焦りがあった。

 

「俺の知ってる緑谷は、あいつだ。今ここにいねえ、あいつだ。お前が何人いようが、何回世界を作り直そうが、俺はあいつを他の誰かと混ぜる気はねえ」

 

 少年は、少しだけ目を見開いた。

 

 そして、嬉しそうに笑った。

 

「……そっか」

 

 彼は呟いた。

 

「君は、ちゃんと覚えてるんだね」

 

「当たり前だろうが」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「それなら、よかった」

 

 その瞬間。

 

 背後に浮かぶ扉の一つが、激しく揺れた。

 

 向こう側から、誰かが扉を叩いている。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 叩くたびに、扉の表面にひびが走る。

 

 少年の顔から笑みが消えた。

 

「……ああ」

 

 彼は、初めて怯えたような表情を浮かべた。

 

「もう、来ちゃったんだ」

 

 相澤が身構える。

 

「誰が来た」

 

 少年は答えなかった。

 

 扉の向こうから、声が聞こえた。

 

『見つけた』

 

 低く、擦れた声。

 

『見つけた、見つけた、見つけた』

 

 同じ言葉が、何十人もの声で繰り返される。

 

『今度こそ』

 

『今度こそ』

 

『今度こそ』

 

 扉が、内側から砕けた。

 

 その向こうに立っていたのは。

 

 緑谷出久だった。

 

 ただし、今ここにいる出久ではない。

 

 顔立ちは同じ。

 

 髪の色も同じ。

 

 しかし、目だけが違った。

 

 その目には、長い年月を生き延びた人間の疲労と、何度も世界を失った人間の絶望が刻まれていた。

 

 彼は、時計の向こうにいる少年を見た。

 

 少年もまた、彼を見つめた。

 

 二人は、しばらく黙っていた。

 

 やがて。

 

 年長の出久が、口を開いた。

 

「……まだ、ここにいたのか」

 

 少年は頷いた。

 

「うん」

 

「どうして」

 

「帰れなかったから」

 

 年長の出久は、目を伏せた。

 

「そうか」

 

 その声には、怒りも、驚きもなかった。

 

 ただ、ひどく疲れた響きがあった。

 

「……ごめん」

 

 少年は、首を横に振った。

 

「謝らないで」

 

「僕が君を殺した」

 

「うん」

 

「僕が、君の名前を消した」

 

「うん」

 

「僕が、君を最初からいなかったことにした」

 

「……うん」

 

 少年は、泣きそうな顔で笑った。

 

「でも、それでも僕は、君を恨めなかった」

 

 年長の出久は、目を閉じた。

 

 そして。

 

「それが、いちばん残酷なんだよ」

 

 そう言った。

 

 少年の表情が変わった。

 

「……え?」

 

「君が僕を恨んでくれたら、僕は君を悪者にできた。君を殺したのは仕方なかったって、自分に言い聞かせられた」

 

 年長の出久は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「でも、君は僕を許した」

 

「僕は、君を許したかったんじゃない」

 

 少年の声が、初めて強くなった。

 

「僕は、君と一緒に生きたかったんだ!」

 

 時計の縁が軋んだ。

 

「僕を殺さないでほしかった!」

 

 少年の瞳から、涙が落ちた。

 

「僕を忘れないでほしかった!」

 

 背後の扉が、次々に砕けていく。

 

「僕だって、生きたかったんだ!」

 

 その叫びは、十三年間、世界のどこにも届かなかった声だった。

 

 誰にも聞かれなかった声。

 

 記録されなかった声。

 

 名前と一緒に、存在そのものを削り取られた子どもの声。

 

 その声を聞いて。

 

 久志は、声を上げて泣いた。

 

「……ごめん」

 

 何度も。

 

 何度も。

 

「ごめん……ごめんな……」

 

 しかし、少年は父親を見なかった。

 

 彼が見ているのは、もう一人の自分だった。

 

「ねえ」

 

 少年は、年長の出久に尋ねた。

 

「君は、どうしてここに来たの?」

 

 年長の出久は、答えるまでに時間がかかった。

 

「……君を連れ戻しに来た」

 

「どこへ?」

 

「僕たちの世界へ」

 

「僕たちの世界?」

 

 少年は、笑った。

 

「そんなもの、もうないよ」

 

「ある」

 

「ないよ」

 

「あるんだ!」

 

 年長の出久が、叫んだ。

 

「僕が、作り直した!」

 

 その言葉に、世界が震えた。

 

「何度も、何度も、何度も! 君が死ぬたびに、僕は世界を作り直した! 君がいなくなるたびに、別の君を探した! 君を救える世界を探して、何もかもを壊した!」

 

 彼は、胸元を握りしめた。

 

「それでも、君は戻らなかった!」

 

 少年は、静かに聞いていた。

 

「だから、僕は決めたんだ」

 

 年長の出久は、涙を拭った。

 

「君がいない世界を、君が生きている世界に変える」

 

 少年は、首を傾げた。

 

「……どうやって?」

 

「分からない」

 

「え?」

 

「分からないんだよ!」

 

 年長の出久は、笑った。

 

 泣きながら。

 

 自分自身を嘲笑うように。

 

「方法なんて、分からない。そんなもの、最初から分かっていなかった。僕はただ、君が死んだ世界を認められなかった。君が死んだという結果を、受け入れられなかった。それだけなんだ」

 

 少年は、しばらく黙っていた。

 

 そして、ゆっくりと尋ねた。

 

「……じゃあ」

 

 彼は、父親を見た。

 

「お父さんも、そうだったの?」

 

 久志は、顔を上げた。

 

「俺は……」

 

「僕が死んだ世界を、認められなかったの?」

 

 久志は、答えられなかった。

 

 答えは、決まっていた。

 

 そうだったのだ。

 

 彼は、息子を失ったことを認められなかった。

 

 だから、記憶を守ろうとした。

 

 だから、名前を残そうとした。

 

 だから、誰もいない部屋に食事を並べた。

 

 だから、存在しないはずの足音を聞き続けた。

 

 そして。

 

 息子を生かすために、別の息子を選んだ。

 

 愛していたから。

 

 失いたくなかったから。

 

 誰か一人を犠牲にすれば、もう一人を救えると信じたから。

 

 彼は、選んだ。

 

 選んでしまった。

 

 その選択を、十三年間、正しいものにしようとしてきた。

 

「……そうだ」

 

 久志は、ようやく答えた。

 

「俺も、そうだった」

 

 少年は、父親を見つめた。

 

「そっか」

 

 彼は、頷いた。

 

「じゃあ、お父さんも、ずっと苦しかったんだね」

 

 その優しさに。

 

 久志は、顔を覆った。

 

「違う……違うんだ……!」

 

 彼は泣いた。

 

「苦しかったのは、お前だ! お前たちだ! 俺は……俺は、お前たちを守るはずだったのに……!」

 

 少年は、静かに首を横に振った。

 

「お父さん」

 

「……何だ」

 

「もう、僕を選ばなくていいよ」

 

 久志が顔を上げる。

 

「もう、誰かを殺して、誰かを生かさなくていい」

 

 少年は、年長の出久を見た。

 

「君も」

 

 そして、時計の向こう側から、こちらにいる相澤たちを見た。

 

「みんなも」

 

 最後に。

 

 現在の緑谷出久がいるはずの、遠い場所を見つめた。

 

「今度は、僕たちを選ばないで」

 

 彼は、微笑んだ。

 

「僕たちが、自分で決めるから」

 

 その瞬間。

 

 時計の向こう側で、何かが破裂した。

 

 白い光が広がった。

 

 少年の身体が、輪郭を失っていく。

 

「待て!」

 

 年長の出久が手を伸ばした。

 

「待ってくれ!」

 

 少年もまた、手を伸ばした。

 

 二人の指先が触れた。

 

 その瞬間、年長の出久の顔が歪んだ。

 

「……ああ」

 

 彼は、小さく呟いた。

 

「やっと、分かった」

 

 少年が首を傾げる。

 

「何が?」

 

 年長の出久は、涙を流しながら笑った。

 

「君は、僕が救いたかった人じゃない」

 

 少年は、黙っていた。

 

「君は、僕が失ったものでもない」

 

 年長の出久は、少年の手を握った。

 

「君は、僕自身だった」

 

 白い光が、二人を包み込む。

 

「僕が殺した、僕自身だったんだ」

 

 その言葉が終わる前に。

 

 時計が、砕けた。

 

 世界が、再び動き始めた。

 

 けれど。

 

 その場にいた誰もが、同じものを見ていたわけではなかった。

 

 相澤には、砕けた時計しか見えなかった。

 

 塚内には、文字盤の破片が床に落ちていく光景が見えた。

 

 爆豪には、一瞬だけ、二人の緑谷が手を握り合っている姿が見えた。

 

 麗日には。

 

 白い光の中で、少年が何かを口にしているのが見えた。

 

 声は聞こえなかった。

 

 だが、唇の動きは読めた。

 

 少年は、最後にこう言った。

 

『僕の名前を、返して』

 

 そして、消えた。

 

     *

 

 時計の破片は、床に落ちる前に消えた。

 

 音もなく。

 

 跡形もなく。

 

 まるで、最初から時計など存在していなかったかのように。

 

 久志は床に膝をついたまま、何もない壁を見つめていた。

 

「……名前」

 

 その唇が、かすかに動いた。

 

「名前を……返して、か」

 

 相澤は返事をしなかった。

 

 できなかった。

 

 今の光景を、どう理解すればいい。

 

 あの少年は誰だったのか。

 

 年長の緑谷出久は何者だったのか。

 

 そして、あの二人は、どうして同じ顔をしていたのか。

 

 何よりも。

 

 あの少年が消える直前に、麗日が見たという言葉。

 

 ――僕の名前を、返して。

 

 それは、単なる願いではなかった。

 

 返してほしいということは、奪われたということだ。

 

 誰かが、あの子から名前を奪った。

 

 誰かが、あの子の存在を奪った。

 

 そして、その結果として、緑谷出久という少年が生まれた。

 

 だが。

 

「……いや」

 

 相澤は、ふと気づいた。

 

「違うな」

 

 塚内が顔を向ける。

 

「何がです?」

 

「名前を奪われたから、緑谷出久になったんじゃない」

 

 相澤は、砕けた時計があった壁を見つめた。

 

「緑谷出久という名前を成立させるために、誰かの名前が奪われたんだ」

 

 その言葉に、爆豪の眉間が深く寄った。

 

「同じことだろうが」

 

「違う」

 

 相澤は即座に否定した。

 

「順番が逆だ」

 

 彼は、机の上のノートを指した。

 

「今までの記録では、緑谷出久という存在が先にあって、そこに別の個体が混ざったように見えていた。だが、今の映像は違った」

 

 相澤の脳裏に、少年の言葉がよみがえる。

 

『僕が、最初に生まれたから』

 

『僕が、最初に死ななきゃいけないんだ』

 

「最初に生まれた子どもがいた。その子どもが死んだ。あるいは、死んだことにされた。その結果として、二番目の子どもが生まれた」

 

「……御影出久か」

 

 塚内が呟いた。

 

「そして、御影出久が消されたあとに、現在の緑谷出久が成立した……そう考えれば、記録上の第三子という説明にはつながります」

 

「だが、まだ足りない」

 

 相澤は首を横に振った。

 

「御影出久は、最初の子どもじゃない。少なくとも、あの記録が正しいならな」

 

 麗日がノートを開いた。

 

 そこには、先ほどまで存在していた文章が残っていた。

 

 しかし、一番下のページに、見覚えのない文字が増えている。

 

『第一子は、弟を救った』

 

『第二子は、兄を忘れた』

 

『第三子は、兄を探した』

 

『第四子は、兄を殺した』

 

『第五子は、兄のいない世界を選んだ』

 

 麗日は、息を止めた。

 

「……まだ、ある」

 

 ページの下部。

 

 五つの文章のさらに下に、黒い文字が浮かび上がった。

 

『なお、上記の番号は出生順を示すものではありません』

 

 爆豪が舌打ちした。

 

「だったら何の番号だ」

 

 文字が変わった。

 

『観測順です』

 

 相澤の表情が険しくなる。

 

『観測順と出生順は一致しません』

 

『出生順と死亡順は一致しません』

 

『死亡順と消去順は一致しません』

 

『消去順と再構築順は一致しません』

 

『再構築順と存在順は一致しません』

 

 文字が、一行ずつ増えていく。

 

『存在順と記憶順は一致しません』

 

『記憶順と家族順は一致しません』

 

『家族順と――』

 

 そこで、文字が途切れた。

 

 代わりに、ページの中央に、赤い線が一本引かれた。

 

 その線は、まるで誰かが紙の裏側から爪で引っかいた傷のようだった。

 

 麗日が、そっと紙を裏返す。

 

 裏側には、文字が書かれていた。

 

『それでも、兄は兄だった』

 

 その一文を見た瞬間。

 

 麗日の目から、涙がこぼれた。

 

「……ひどいよ」

 

 誰に向けた言葉なのか、分からなかった。

 

「こんなの……あんまりや」

 

 彼女は、ノートを胸に抱いた。

 

「何回生まれ直したって、何回世界を作り直したって……誰かが誰かを忘れたことにされても……」

 

 声が震える。

 

「その子が、お兄ちゃんだったことまで、なくならへんやん……!」

 

 爆豪は、何も言わなかった。

 

 相澤も、塚内も。

 

 麗日の言葉は、あまりにも単純で。

 

 あまりにも、この異常な事態の核心に近かった。

 

 番号が何番であろうと。

 

 世界が何回作り直されようと。

 

 誰かが誰かを兄と呼んだなら。

 

 誰かが誰かを弟と呼んだなら。

 

 その関係は、記録の都合だけで消していいものではない。

 

 少なくとも、麗日はそう思った。

 

 そして、ノートが震えた。

 

 彼女の腕の中で。

 

 小さな紙片が、ページの隙間から落ちた。

 

 麗日は、それを拾い上げた。

 

 そこには、幼い子どもの字で、たった一行だけ書かれていた。

 

『お兄ちゃんは、僕のことを覚えているかな』

 

 麗日は、唇を噛んだ。

 

「……覚えてるよ」

 

 彼女は答えた。

 

 誰に届くとも分からない言葉だった。

 

「絶対に、覚えてる」

 

 紙片が、かすかに光った。

 

 その瞬間、部屋の隅から声がした。

 

「……それは、違うよ」

 

 全員が振り返った。

 

 そこに、少年が立っていた。

 

 先ほど時計の向こうにいた少年ではない。

 

 年長の出久でもない。

 

 相澤たちが、これまで何度も記録の中で見てきた、名前のない少年だった。

 

 十三年前に死んだとされる子ども。

 

 病院で発見された、緑谷出久と部分的に同じDNAを持つ子ども。

 

 そして、何度も記憶の中から消えかけながら、それでも誰かの前に現れ続けている子ども。

 

 彼は、部屋の隅で俯いていた。

 

「……覚えている人もいる」

 

 少年は言った。

 

「でも、覚えていない人もいる」

 

 麗日は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「君……」

 

「僕は、覚えているよ」

 

 少年は顔を上げた。

 

 その目には、涙が浮かんでいた。

 

「僕は、あの子のことを覚えている」

 

 相澤が一歩、前に出る。

 

「お前は、あの少年を知っているのか」

 

「うん」

 

「名前は?」

 

 少年は、答えなかった。

 

 ただ、自分の胸元を押さえた。

 

「……知っているはずなんだ」

 

 彼は呟いた。

 

「僕は、あの子の名前を知っているはずなんだ。でも……」

 

 少年の指先が震える。

 

「思い出そうとすると、僕の中から、別のものが消える」

 

「別のもの?」

 

「顔とか、声とか……」

 

 少年は、目を閉じた。

 

「僕が、誰を好きだったのか」

 

 相澤は、息を止めた。

 

「誰を憎んでいたのか」

 

 少年の声が、少しずつ小さくなる。

 

「何を守りたかったのか」

 

 彼は、胸元を強く握った。

 

「僕が、僕だった理由が……一つずつ、なくなっていくんだ」

 

 塚内が、慎重に尋ねた。

 

「それは、誰かに消されているのか?」

 

 少年は首を横に振った。

 

「分からない」

 

「自分で消している可能性は?」

 

「……分からない」

 

「なら、何か覚えていることはないか。あの子について、どんなことでもいい」

 

 少年は、しばらく考えた。

 

 そして。

 

「……あの子は、嘘をつくのが下手だった」

 

 そう言った。

 

「嘘をつくとき、いつも、少しだけ左を向いたんだ」

 

 麗日が、息をのんだ。

 

 少年は、かすかに笑った。

 

「僕が初めてそれに気づいたとき、あの子はすごく怒った。『そんなことない』って言い張って……でも、そのときも左を向いていた」

 

 彼は、笑いながら泣いていた。

 

「……そんな、どうでもいいことばかり覚えてる」

 

 相澤は、黙って聞いていた。

 

「名前は思い出せない。顔も、もう、ちゃんと思い出せない。でも……」

 

 少年は、両手を見つめた。

 

「嘘をつくと左を向くことだけは、覚えてる」

 

 そして、彼は言った。

 

「だから、僕は……あの子が死んだっていう記録を、信じられないんだ」

 

 相澤の目が細くなった。

 

「……どういう意味だ」

 

「だって」

 

 少年は、顔を上げた。

 

「僕は、あの子に嘘をつかれたことがあるんだ」

 

 部屋の空気が変わった。

 

「最後に会ったとき」

 

 少年は言った。

 

「僕に、『また明日』って言ったんだ」

 

 沈黙。

 

「でも、あの子は、次の日にはいなかった」

 

 彼は、ゆっくりと首を傾げた。

 

「……ねえ」

 

 誰に向けた問いなのか、分からなかった。

 

「それって、嘘だったのかな」

 

 麗日は、答えられなかった。

 

 相澤も、塚内も。

 

 爆豪は、拳を握りしめた。

 

 その問いに、簡単な答えを返せる者など、この部屋にはいなかった。

 

 死ぬつもりで言ったのか。

 

 生きるつもりで言ったのか。

 

 明日が来ると信じていたのか。

 

 それとも、相手を安心させるために、最後の嘘をついたのか。

 

 どれであっても。

 

 その少年が「また明日」と言ったことは、変わらない。

 

 そして、その明日が来なかったことも。

 

「……嘘じゃない」

 

 爆豪が言った。

 

 全員が、彼を見た。

 

 爆豪は少年を睨んでいた。

 

「そいつが、本当に次の日に会うつもりだったかどうかなんざ、俺には分からねえ」

 

 彼は、歯を食いしばった。

 

「だが、会うつもりもねえのに、わざわざ『また明日』なんて言う奴ばっかじゃねえだろ」

 

 少年は、目を見開いた。

 

「……でも、来なかった」

 

「だから何だ」

 

 爆豪は吐き捨てた。

 

「来なかったからって、昨日までの約束まで嘘になるわけじゃねえ」

 

 少年は、何も言わなかった。

 

「約束を守れなかった理由があるかもしれねえ。守ろうとして、守れなかったのかもしれねえ。そもそも、約束を守るために何かをしてたのかもしれねえ」

 

 爆豪は、一瞬だけ目を伏せた。

 

「……それを全部、死んだっていう結果だけで決めつけるな」

 

 少年の目から、涙が落ちた。

 

 爆豪は、乱暴に頭をかいた。

 

「クソが。泣くなとは言わねえが、そんな顔すんな」

 

「……どうして?」

 

「何がだ」

 

「どうして、そんなことを言ってくれるの?」

 

 爆豪は、答えに詰まった。

 

 しばらく黙ったあと、低い声で言った。

 

「……俺が、そういうのを、間違えたことがあるからだ」

 

 それ以上は、話さなかった。

 

 少年も、それ以上は聞かなかった。

 

 ただ、彼は小さく頷いた。

 

「……ありがとう」

 

 その声が消えると同時に。

 

 ノートの紙片が、再び光った。

 

 今度は、文字が浮かび上がっていた。

 

『また明日』

 

 麗日は、目を見開いた。

 

 紙片の裏側にも、文字が現れる。

 

『明日、僕は帰ってくる』

 

 さらに。

 

『だから、待っていて』

 

 最後の一文が浮かび上がった瞬間。

 

 部屋の奥で、扉が開く音がした。

 

 誰も触れていない扉だった。

 

 その向こうには、暗い廊下が続いていた。

 

 そして、廊下の先に。

 

 一人の少年が立っていた。

 

 緑谷出久と同じ顔。

 

 ただし、その顔は、誰も見たことがないほど穏やかだった。

 

 彼は、こちらに向かって歩いてきた。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 足音が、床に響く。

 

 相澤は、すぐに動けなかった。

 

 爆豪も、麗日も、塚内も。

 

 少年は、久志の前で立ち止まった。

 

 そして、微笑んだ。

 

「……お父さん」

 

 久志は、顔を上げた。

 

 その目が、大きく見開かれた。

 

「……お前」

 

 少年は、頷いた。

 

「ただいま」

 

 久志の口が、震えた。

 

「……ただいま、って……」

 

「うん」

 

 少年は、何でもないことのように答えた。

 

「帰ってきたよ」

 

 久志は、立ち上がろうとした。

 

 しかし、膝に力が入らなかった。

 

「……お前は……」

 

 少年は、父親の前にしゃがみ込んだ。

 

「大丈夫だよ」

 

 彼は笑った。

 

「今度は、ちゃんと帰ってきたから」

 

 そして。

 

 彼は、父親の耳元で、何かを囁いた。

 

 久志の表情が、凍りついた。

 

「……何?」

 

 少年は、もう一度囁いた。

 

「僕を殺したのは、お父さんじゃないよ」

 

 久志の顔から、血の気が引いた。

 

「……じゃあ、誰が……」

 

 少年は、父親の目を見つめた。

 

 その瞳は、緑谷出久と同じ色をしていた。

 

「僕を殺したのは――」

 

 少年は、微笑んだ。

 

「お父さんが、僕を殺す前に、僕を殺した人だよ」

 

 その瞬間。

 

 久志の背後で、誰かが笑った。

 

 相澤が振り返る。

 

 そこには、誰もいない。

 

 しかし、床に落ちた時計の破片の一つに、黒い文字が浮かび上がっていた。

 

『第一個体、帰還』

 

『第二個体、帰還』

 

『第三個体、帰還』

 

『第四個体、帰還』

 

『第五個体、帰還』

 

『全個体の帰還を確認』

 

 その下に、さらに一行。

 

『なお、帰還した個体のうち、一名は本来の死亡時刻を超過しています』

 

 そして。

 

『死亡時刻を超過した個体は、現在の緑谷出久です』

 

 相澤が、息をのんだ。

 

「……何だと?」

 

 文字が、最後に一度だけ変わった。

 

『訂正』

 

『現在の緑谷出久は、死亡時刻を超過した個体ではありません』

 

『現在の緑谷出久は――』

 

 そこから先の文字は、黒く塗り潰されていた。

 

 まるで、誰かが意図的に、その先を読ませないようにしたかのように。

 

 久志の前にいる少年は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……お父さん」

 

 彼は、部屋の奥を見た。

 

「僕、会いに行かなくちゃ」

 

「誰に……?」

 

 少年は、振り返った。

 

 その顔から、笑みが消えていた。

 

「僕を殺した人に」

 

 そして、彼は言った。

 

「僕のお母さんに」

 

     *

 

 同じ頃。

 

 雄英高校。

 

 保健室のベッドで眠っていた緑谷出久は、突然、目を開けた。

 

 息ができなかった。

 

 胸が痛い。

 

 身体が重い。

 

 まるで、長いあいだ水の底に沈んでいた人間が、ようやく水面に顔を出したときのようだった。

 

「……っ、は……!」

 

 出久は、上半身を起こした。

 

 周囲を見渡す。

 

 見慣れた保健室。

 

 白いカーテン。

 

 ベッドの脇に置かれた椅子。

 

 そして、誰もいない。

 

「……麗日さん?」

 

 声が掠れていた。

 

 返事はない。

 

「相澤先生……?」

 

 やはり、返事はない。

 

 出久は、自分の手を見た。

 

 指先が震えている。

 

 何かを、忘れている。

 

 何か、とても大切なものを。

 

 誰かの名前を。

 

 誰かの声を。

 

 誰かの手の温度を。

 

 思い出そうとする。

 

 だが、思い出せない。

 

 ただ、胸の奥に、どうしようもない痛みだけが残っていた。

 

「……なんで」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「なんで、こんなに……」

 

 悲しいのだろう。

 

 理由が分からない。

 

 誰かが死んだのだろうか。

 

 誰かを失ったのだろうか。

 

 それとも、自分が誰かを殺したのだろうか。

 

 考えた瞬間。

 

 頭の中で、声がした。

 

『出久』

 

 少年の声だった。

 

『僕の名前を、返して』

 

 出久は、息を止めた。

 

「……誰?」

 

 答えはなかった。

 

 代わりに、枕元のスマートフォンが震えた。

 

 画面には、麗日お茶子からの着信が表示されていた。

 

 出久は、すぐに電話に出た。

 

「麗日さん!?」

 

『緑谷くん!』

 

 麗日の声が、飛び込んできた。

 

 泣いていた。

 

 出久には、すぐに分かった。

 

「どうしたの!? 何があったの!?」

 

『緑谷くん……聞いて』

 

「うん!」

 

『今から、すごく変なことを言うね』

 

「うん!」

 

『信じられないかもしれない。でも、お願い。最後まで聞いて』

 

「分かった!」

 

 電話の向こうで、麗日が息を吸った。

 

『……緑谷くんには、お兄ちゃんがいたんだよ』

 

 出久の世界が、止まった。

 

 時計の針が、二時十三分で止まった。

 

 心臓の鼓動が、遠くなった。

 

 そして。

 

 出久の口から、知らない言葉がこぼれた。

 

「……兄さん」

 

 自分でも、驚いた。

 

 どうして、その呼び方を知っているのだろう。

 

 どうして、その言葉を口にしただけで、涙が出るのだろう。

 

 どうして。

 

 胸の奥が、こんなにも痛むのだろう。

 

『緑谷くん……?』

 

 麗日の声が遠くなる。

 

 出久は、ベッドのシーツを握りしめた。

 

「……兄さん」

 

 もう一度、呟いた。

 

 その瞬間。

 

 頭の中に、記憶が流れ込んできた。

 

 小さな手。

 

 笑い声。

 

 夕焼けの公園。

 

 自分より少しだけ大きな背中。

 

 転んで泣いたとき、差し出された手。

 

 怖い夢を見た夜、隣で眠ってくれた人。

 

 そして。

 

 最後の日。

 

 その人は、笑っていた。

 

『また明日』

 

 出久は、声にならない悲鳴を上げた。

 

「……あああああっ!」

 

 スマートフォンが、床に落ちた。

 

 涙が止まらない。

 

 何もかも、思い出せないはずだった。

 

 なのに。

 

 あの人の手の温度だけは、覚えていた。

 

 あの人が笑ったときの、目元の皺だけは。

 

 自分が泣いたときに、頭を撫でてくれた指先だけは。

 

 そして。

 

 あの人が最後に言った言葉だけは。

 

『出久』

 

『僕がいなくなっても』

 

『君は、生きて』

 

 出久は、頭を抱えた。

 

「……違う」

 

 震える声で、否定する。

 

「違うよ……兄さん……」

 

 彼は、誰もいない部屋に向かって、必死に訴えた。

 

「僕、まだ……何もできてないよ……!」

 

 涙が、シーツを濡らした。

 

「僕、まだ……君を助けてない……!」

 

 その言葉を口にした瞬間。

 

 出久の胸元に、黒い文字が浮かび上がった。

 

 皮膚の上に刻まれた文字ではない。

 

 服の上でもない。

 

 彼の存在そのものに、直接書き込まれている文字だった。

 

『第一個体との接続を確認』

 

『記憶の逆流を確認』

 

『自己同一性の崩壊率――七十二パーセント』

 

『緊急処理を開始します』

 

 出久は、文字を見つめた。

 

「……何、これ」

 

 その直後。

 

 頭の中で、別の声がした。

 

 自分と同じ声。

 

 けれど、自分ではない誰かの声。

 

『思い出すな』

 

 出久は息をのんだ。

 

『思い出したら、また同じことになる』

 

「……誰?」

 

『思い出すな、出久』

 

 声が震えていた。

 

『お願いだから、思い出さないで』

 

 出久は、目を閉じた。

 

 その声を知っている。

 

 この声を、知っている。

 

 自分を止めようとしている。

 

 自分を守ろうとしている。

 

 そして、何よりも。

 

 自分と同じ痛みを抱えている声だった。

 

「……君は」

 

 出久は、ゆっくりと尋ねた。

 

「君は、誰なの?」

 

 長い沈黙。

 

 やがて、その声は答えた。

 

『僕は』

 

 そして。

 

『君が、最初に殺した僕だ』

 

 出久の目の前が、真っ暗になった。

 

 意識が遠のいていく。

 

 最後に聞こえたのは、誰かの泣き声だった。

 

 自分の声なのか。

 

 兄の声なのか。

 

 それとも、まだ生まれていない誰かの声なのか。

 

 分からなかった。

 

 ただ、その声は、何度も何度も繰り返していた。

 

『今度こそ』

 

『今度こそ』

 

『今度こそ、君を救うから』

 

 そして、暗闇の中で。

 

 緑谷出久は、初めて思い出した。

 

 自分には、兄がいた。

 

 兄は、自分を守るために死んだ。

 

 そして、自分は――。

 

 兄を救うために、世界を壊した。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 それでも、兄は帰ってこなかった。

 

 だから最後に。

 

 自分は、兄がいない世界そのものを消そうとした。

 

 その果てに。

 

 自分は、何を選んだのか。

 

 その答えだけが、どうしても思い出せなかった。

 

     *

 

 その頃。

 

 どこでもない場所。

 

 白い部屋の中で、一人の女性が目を覚ました。

 

 彼女は、自分の膝の上に置かれた写真を見つめていた。

 

 写真には、三人の子どもが写っている。

 

 一人は、緑谷出久。

 

 一人は、顔の部分が黒く塗り潰された少年。

 

 そして、もう一人は。

 

 まだ幼い、見知らぬ子どもだった。

 

 女性は、写真の端を指でなぞった。

 

「……帰ってきたのね」

 

 彼女の声は、ひどく穏やかだった。

 

「やっと、帰ってきた」

 

 部屋の向こう側で、扉が開いた。

 

 誰かが入ってくる。

 

 女性は、顔を上げなかった。

 

「あなたは、誰ですか」

 

 訪問者が尋ねた。

 

「……誰?」

 

 女性は、少しだけ笑った。

 

「そうね。今のあなたには、分からないでしょうね」

 

 彼女は写真を裏返した。

 

 裏側には、名前が書かれていた。

 

 だが、その名前は、何度も何度も削られた跡に覆われていた。

 

 女性は、その傷だらけの文字を見つめた。

 

「私は、あの子の母親よ」

 

 訪問者は、沈黙した。

 

「ただし」

 

 女性は、静かに続けた。

 

「あなたたちが知っている母親ではない」

 

 彼女は、立ち上がった。

 

「あなたたちが知っている緑谷出久の母親でもない」

 

 そして、写真を胸に抱いた。

 

「私は、最初に生まれた子どもの母親」

 

 彼女の背後で、白い壁がひび割れた。

 

「そして、あの子を殺した人間の母親よ」

 

 訪問者が、息をのむ。

 

 女性は、振り返った。

 

 その顔は。

 

 緑谷出久の母親、緑谷引子と、まったく同じだった。

 

「……さあ」

 

 彼女は微笑んだ。

 

「今度こそ、話をしましょう」

 

 そして、誰もいないはずの部屋に向かって、問いかけた。

 

「ねえ、出久」

 

「あなたは、今度こそ――」

 

 その先の言葉は、記録されなかった。

 

 世界が、再び午前二時十三分で停止したからだ。

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