僕のヒーローアカデミア 原罪   作:神代シン

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第二十二話「母親は、何人いたのか」

 

第一幕 同じ顔をした二人の母親

 緑谷引子は、自分の息子が生まれた日のことを覚えている。

 

 覚えている、と信じている。

 

 小さな病室。

 

 白いカーテン。

 

 窓の向こうに広がる、雨上がりの街並み。

 

 そして、腕の中で眠っていた赤ん坊。

 

 緑谷出久。

 

 自分の息子。

 

 何度も名前を呼んだ。

 

 何度も頬に触れた。

 

 何度も、何度も。

 

 この子が生まれてきてくれてよかったと、心から思った。

 

 その記憶だけは、誰にも奪わせない。

 

 たとえ世界が何度作り直されても。

 

 たとえ、息子が自分のことを忘れてしまっても。

 

 たとえ、息子が自分の息子ではなかったとしても。

 

 あの日、腕の中にいた子どもを愛したことだけは、嘘にならない。

 

 ――そう、信じていた。

 

 だからこそ。

 

 玄関の前に立つ女を見たとき、引子は、自分の記憶が根底から揺らぐのを感じた。

 

「……あなた」

 

 目の前の女は、引子と同じ顔をしていた。

 

 髪の長さも。

 

 目の形も。

 

 頬の輪郭も。

 

 微笑むときに、ほんの少しだけ左の口角が上がる癖さえも。

 

 同じだった。

 

 違うのは、年齢ではない。

 

 服装でもない。

 

 女の目に宿っているものだった。

 

 引子の目には、息子を心配する母親の不安がある。

 

 目の前の女の目には、息子を失った人間の、長すぎる年月があった。

 

 そして、その年月の奥に。

 

 息子を失ったことを、まだ一度も受け入れていない人間の執念があった。

 

「……あなたは、誰?」

 

 引子が尋ねると、女は少しだけ首を傾げた。

 

「その質問を、私にするのね」

 

「答えて」

 

「ええ。そうね」

 

 女は微笑んだ。

 

「私は、あなたよ」

 

 引子は、反射的に一歩後ずさった。

 

「……違う」

 

「何が違うの?」

 

「私は、ここにいる」

 

「私も、ここにいるわ」

 

「私は、出久のお母さんよ」

 

 その瞬間。

 

 女の表情が変わった。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 微笑みが消え、瞳の奥に、鋭い痛みが走った。

 

「……そう」

 

 女は頷いた。

 

「あなたは、出久のお母さんなのね」

 

「そうよ」

 

「なら、聞かせて」

 

 女は一歩、近づいた。

 

「あなたの息子は、何人いるの?」

 

 引子は答えられなかった。

 

「一人?」

 

 女は尋ねた。

 

「二人?」

 

 さらに一歩。

 

「それとも、三人?」

 

 引子は首を横に振った。

 

「何を言っているの……?」

 

「あなたは、出久を産んだ」

 

「そうよ」

 

「でも、あなたは、もう一人の子どもを産んだことも覚えている」

 

「……っ」

 

「その子の泣き声も、抱いたときの重さも、名前を呼んだときの感覚も、覚えている」

 

「やめて」

 

「その子を失ったときのことも」

 

「やめて!」

 

 引子の声が、家の中に響いた。

 

 女は、黙った。

 

 引子は荒い息をつきながら、目の前の女を睨みつけた。

 

「あなた、何なの……。何を知っているの……?」

 

「私は、あなたよ」

 

「違う!」

 

「私は、あなたが忘れたことを覚えている」

 

 女は、自分の胸元に手を当てた。

 

「あなたが、忘れなければならなかったことを」

 

 引子の指先が冷たくなった。

 

 女は、ゆっくりと語り始めた。

 

「あなたは、二人の子どもを産んだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、引子の脳裏に、映像が走った。

 

 病院。

 

 分娩室。

 

 誰かの叫び声。

 

 医師の声。

 

 そして、二つの泣き声。

 

 一つは、よく知っている声だった。

 

 出久の泣き声。

 

 もう一つは。

 

 誰の声だったのだろう。

 

 引子は、額を押さえた。

 

「……違う」

 

 記憶の中で、誰かが自分に赤ん坊を渡している。

 

 小さな身体。

 

 柔らかな髪。

 

 そして、こちらを見つめる、緑色の瞳。

 

 その子どもを抱きしめた瞬間、引子は泣いた。

 

 嬉しかったから。

 

 生きていてくれたから。

 

 この子もまた、自分の子どもだったから。

 

 ――なのに。

 

 次の瞬間、病室の壁が真っ白になった。

 

 誰かの声が響いた。

 

『この子どもの存在は、登録できません』

 

 赤ん坊が消えた。

 

 腕の中から。

 

 記憶の中から。

 

 世界の中から。

 

 そして、引子は、たった一人の赤ん坊を抱いていた。

 

 緑谷出久。

 

 彼女の息子。

 

 彼女が産んだ、たった一人の息子。

 

「……いや」

 

 引子は首を振った。

 

「私は……私は、一人しか……」

 

「そうね」

 

 女は頷いた。

 

「あなたは、一人しか産んでいない」

 

 引子は、顔を上げた。

 

 女は微笑んでいた。

 

「この世界では、ね」

 

     *

 

 同じ頃。

 

 緑谷久志の家では、誰もが、目の前に現れた少年を見つめていた。

 

 少年は、久志の前に立っている。

 

 緑谷出久と同じ顔。

 

 だが、その顔には、現在の出久にはない、奇妙な落ち着きがあった。

 

 そして、彼は言った。

 

「僕のお母さんに、会いに行くんだ」

 

 相澤消太が、すぐに反応した。

 

「待て。お前の言う母親は、誰だ」

 

 少年は振り返った。

 

「……お母さんは、お母さんだよ」

 

「答えになっていない」

 

「そうかな」

 

「お前が誰なのかも、まだ分かっていない。ここで勝手に動かれるわけにはいかない」

 

 少年は、少し困ったように笑った。

 

「先生は、いつもそうだね」

 

 相澤の目が細くなる。

 

「……いつも?」

 

「うん。いつも、僕を止めようとする」

 

 少年は、懐かしそうに目を細めた。

 

「でも、最後には、僕を行かせてくれるんだ」

 

 その言葉に、相澤の胸の奥がざわついた。

 

 覚えていない。

 

 こんな少年に会った記憶などない。

 

 それなのに。

 

 少年の言葉には、嘘がなかった。

 

 彼は、本当に相澤を知っている。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 同じやり取りを繰り返してきた人間のように。

 

「……俺は、お前を知らない」

 

 相澤が言うと、少年は頷いた。

 

「うん」

 

「なら、どうして俺を知っている」

 

「先生が、僕を覚えていないからだよ」

 

 少年は、穏やかに答えた。

 

「僕は、先生に忘れられるたびに、先生のことを覚え直したんだ」

 

 その場の空気が凍りついた。

 

 塚内が、思わず口を開いた。

 

「……覚え直した?」

 

「うん」

 

 少年は、塚内にも目を向けた。

 

「塚内さんも、何度も僕を助けてくれたよ」

 

「私が?」

 

「うん。僕が何をしたのか、どうしてそんなことをしたのか、最後まで聞いてくれた」

 

 少年は、少しだけ笑った。

 

「でも、最後には、僕のことを忘れちゃうんだ」

 

 塚内は、言葉を失った。

 

 自分は警察官だ。

 

 記録を扱い、証拠を追い、証言を積み重ねる。

 

 忘れてはいけないことを、忘れないために仕事をしている。

 

 その自分が、何度もこの少年を忘れていた。

 

 それが事実なら。

 

 それは、単なる記憶障害ではない。

 

 誰かが、意図的に記録を消している。

 

 あるいは、記録を消さなければ、世界そのものが維持できないのだ。

 

「……君は、誰なんだ」

 

 塚内が尋ねた。

 

 少年は、しばらく考えた。

 

「僕は……」

 

 言いかけて、口を閉じた。

 

 そして、少しだけ寂しそうに笑った。

 

「僕も、分からないんだ」

 

 爆豪が苛立ったように舌打ちした。

 

「分からねえ、知らねえ、覚えてねえ。お前ら、揃いも揃ってそればっかりかよ」

 

 少年は、爆豪を見た。

 

「ごめんね」

 

「謝れっつってんじゃねえ!」

 

 爆豪の声が響く。

 

「お前が誰だろうが、何番目だろうが、そんなことは後でいい! 今、緑谷がどこにいるのか分かってんのか!」

 

 少年の表情が変わった。

 

「……出久くん?」

 

「そうだ! あいつは今、雄英にいる。お前が何をしようとしてんのか知らねえが、あいつに何かあったら――」

 

「出久くんは、もう思い出し始めているよ」

 

 少年は静かに言った。

 

 爆豪の声が止まった。

 

「……何?」

 

「兄さんのこと」

 

 少年は、目を伏せた。

 

「そして、僕のことも」

 

 相澤が一歩、前に出る。

 

「お前は、緑谷の兄なのか?」

 

 少年は、すぐには答えなかった。

 

 彼の瞳に、幾つもの感情が浮かんでは消えていく。

 

 喜び。

 

 悲しみ。

 

 恐怖。

 

 そして、どうしようもない後悔。

 

「……僕は」

 

 少年は、ゆっくりと言った。

 

「出久くんのお兄ちゃんだったことがある」

 

「だったことがある?」

 

「うん」

 

 少年は頷いた。

 

「でも、今は……違うんだ」

 

 その言葉を聞いて、麗日の顔が強張った。

 

「どうして?」

 

 少年は、麗日を見つめた。

 

「僕が、そうしたから」

 

「君が?」

 

「うん」

 

 彼は、自分の手を見た。

 

「出久くんが、僕を忘れても生きていられるように」

 

 少年の声が、かすかに震えた。

 

「僕が、出久くんのお兄ちゃんじゃなくなれば、出久くんは僕を探さなくて済むから」

 

 誰も、すぐには言葉を返せなかった。

 

 少年は、微笑んだ。

 

「……でも、駄目だったね」

 

 彼は、顔を上げた。

 

「出久くんは、僕を忘れても、僕を探してしまうんだ」

 

 その瞬間。

 

 麗日のノートが、激しく震えた。

 

 ページが勝手に開く。

 

 黒い文字が、次々に浮かび上がる。

 

『第一子:兄』

 

『第二子:弟』

 

『第三子:弟』

 

『第四子:兄』

 

『第五子:――』

 

 五番目の記録だけが、黒く塗り潰されていた。

 

 その下に、別の文字が浮かぶ。

 

『母親の登録数:一』

 

 次の瞬間。

 

『母親の登録数:二』

 

 さらに。

 

『母親の登録数:三』

 

 数字が変わり続ける。

 

 一。

 

 二。

 

 三。

 

 四。

 

 五。

 

 そして。

 

『母親の登録数:零』

 

 麗日は、息をのんだ。

 

「……母親が、ゼロ?」

 

 文字が、最後に変わった。

 

『母親は存在しません』

 

 その瞬間、ノートのページが真っ白になった。

 

 誰かが、すべての記録を消したのだ。

 

 少年は、目を閉じた。

 

「……まただ」

 

 彼は呟いた。

 

「また、お母さんが消された」

 

     *

 

 雄英高校。

 

 保健室。

 

 緑谷出久は、ベッドの上で目を覚ました。

 

 先ほどまで、彼は自分の兄の記憶に飲み込まれていた。

 

 兄の声。

 

 兄の手。

 

 兄の笑顔。

 

 そして、兄がいなくなった日のこと。

 

 それらは、今も頭の中に残っている。

 

 だが、記憶の中には、奇妙な矛盾があった。

 

 兄は、確かに存在していた。

 

 出久は、兄を愛していた。

 

 兄もまた、出久を愛していた。

 

 それなのに。

 

 兄の顔を思い出そうとすると、別の顔が浮かぶ。

 

 緑谷久志。

 

 御影出久。

 

 名前のない少年。

 

 そして、自分自身。

 

 全員が、同じ顔をしている。

 

 全員が、自分の記憶の中で、兄だったことがある。

 

 出久は、震える手で顔を覆った。

 

「……何なんだよ、これ」

 

 答えはない。

 

 その代わりに、保健室の扉が開いた。

 

「出久くん!」

 

 麗日お茶子だった。

 

 彼女は、息を切らしていた。

 

 出久は、顔を上げた。

 

「麗日さん……!」

 

 麗日は、出久のもとに駆け寄った。

 

 そして、彼の手を握った。

 

「よかった……!」

 

 その声は、震えていた。

 

「本当に、よかった……!」

 

「どうしたの? 何があったの?」

 

 麗日は、すぐには答えなかった。

 

 ただ、出久の手を握りしめた。

 

 まるで、彼がどこかへ消えてしまわないように。

 

 まるで、今ここにいる出久が、本当に出久なのか確かめるように。

 

「……出久くん」

 

「うん」

 

「私、聞きたいことがあるの」

 

「うん」

 

「あなたには、お兄ちゃんがいたの?」

 

 出久は、目を閉じた。

 

「……いた」

 

 その言葉を口にした瞬間、涙がこぼれた。

 

「いたんだ……」

 

 彼は、震える声で続けた。

 

「僕には、お兄ちゃんがいた」

 

 麗日は、頷いた。

 

「うん」

 

「お兄ちゃんは……僕を守ってくれた」

 

「うん」

 

「僕が転んだら、助けてくれた。怖い夢を見たら、一緒にいてくれた。僕が泣いたら、泣かないでって言ってくれた」

 

 出久は、笑おうとした。

 

 だが、うまく笑えなかった。

 

「……でも、僕は、お兄ちゃんを覚えていなかった」

 

 麗日は、首を横に振った。

 

「違うよ」

 

「え?」

 

「忘れていたことと、覚えていなかったことは、違うよ」

 

 出久は、彼女を見つめた。

 

 麗日は、涙を拭った。

 

「出久くんは、お兄ちゃんのことを忘れたんじゃない。忘れさせられたんだよ」

 

 出久の瞳が揺れた。

 

「……そう、なのかな」

 

「そうだよ」

 

 麗日は、力強く頷いた。

 

「だって、今、思い出したんでしょう?」

 

「……うん」

 

「なら、出久くんの中には、ちゃんと残っていたんだよ」

 

 麗日は、彼の手を握り直した。

 

「誰かに消されたって、誰かに忘れさせられたって……出久くんが、その人を大切に思っていたことまで、なくならへん」

 

 出久は、唇を噛んだ。

 

「……でも」

 

「うん」

 

「僕は、お兄ちゃんを殺したんだ」

 

 麗日の表情が、固まった。

 

 出久は、目を伏せた。

 

「頭の中で、声がしたんだ。『君が、最初に殺した僕だ』って」

 

 彼は、自分の胸元を押さえた。

 

「僕は、何度も世界を作り直したんだと思う。お兄ちゃんを助けるために。お兄ちゃんが死なない世界を作るために」

 

「……うん」

 

「でも、何度やっても、お兄ちゃんは戻ってこなかった」

 

 出久の声が、かすれた。

 

「だから、僕は……」

 

 言葉が途切れた。

 

 その先を口にすることが、恐ろしかった。

 

 麗日は、黙って待った。

 

 出久は、しばらくしてから、ようやく言った。

 

「……お兄ちゃんがいない世界を、なくそうとしたんだ」

 

 麗日は、目を閉じた。

 

 出久は、彼女の手を握り返した。

 

「僕が、世界を壊した」

 

 その声には、深い罪悪感があった。

 

「僕が、みんなを巻き込んだ」

 

 涙が、頬を伝う。

 

「僕が、何度も、何度も……」

 

「出久くん」

 

 麗日が、彼の名前を呼んだ。

 

「……僕は」

 

「出久くん」

 

 もう一度。

 

 今度は、少しだけ強く。

 

 出久は、顔を上げた。

 

 麗日は、彼の目を見つめていた。

 

「私は、あなたが何をしたのか、まだ全部は知らない」

 

 彼女は、正直に言った。

 

「あなたが、どんな世界を壊したのか。誰を傷つけたのか。誰を助けられなかったのか。まだ、何も分からない」

 

 出久は、目を伏せた。

 

「……うん」

 

「でも、私は、あなたの代わりに罪を背負うことはできない」

 

 出久の肩が震えた。

 

「……うん」

 

「あなたがしたことを、全部正しかったことにすることもできない」

 

「……うん」

 

「それでも」

 

 麗日は、彼の手を強く握った。

 

「私は、あなたと一緒に、その答えを探したい」

 

 出久は、顔を上げた。

 

「……麗日さん」

 

「あなたが何をしたのか、ちゃんと知りたい。あなたが何を失ったのか、ちゃんと知りたい。そして、これから何をするのか、一緒に考えたい」

 

 麗日の目から、涙が落ちた。

 

「だから、勝手に一人で、自分を殺さないで」

 

 出久は、息をのんだ。

 

「誰かを救うために、自分が消えればいいなんて、思わないで」

 

 彼女は、涙を拭った。

 

「私は、あなたが生きている世界にいたい」

 

 出久は、何も言えなかった。

 

 ただ、麗日の手を握りしめた。

 

 そのときだった。

 

 保健室の窓に、影が映った。

 

 誰かが、外に立っている。

 

 出久と麗日は、同時に振り返った。

 

 窓の向こう。

 

 校庭の片隅に、一人の少年が立っていた。

 

 緑谷出久と同じ顔。

 

 少年は、こちらを見ていた。

 

 そして。

 

 口を動かした。

 

 出久には、読めた。

 

『お母さんに、会いに行こう』

 

 次の瞬間、少年の姿が消えた。

 

 出久は、ベッドから立ち上がった。

 

「……行かなきゃ」

 

 麗日が、彼の腕をつかんだ。

 

「どこへ?」

 

「お母さんのところへ」

 

 出久は、震える声で答えた。

 

「僕は……僕のお母さんが、誰なのか、知らなきゃいけない」

 

     *

 

 緑谷家。

 

 引子は、目の前の女を見つめていた。

 

「……あなたは、私なの?」

 

 女は頷いた。

 

「ええ」

 

「じゃあ、どうして……」

 

 引子は、言葉を探した。

 

「どうして、あなたは、そんな顔をしているの?」

 

 女は、自分の頬に触れた。

 

「どんな顔?」

 

「……息子を、失った人の顔」

 

 女は、微笑んだ。

 

「そうね」

 

 そして、静かに答えた。

 

「私は、息子を失ったの」

 

 引子は、息を止めた。

 

「……出久を?」

 

「いいえ」

 

 女は、首を横に振った。

 

「出久ではないわ」

 

 彼女は、胸元から一枚の写真を取り出した。

 

 写真には、幼い少年が写っていた。

 

 緑色の髪。

 

 緑色の瞳。

 

 そして、緑谷出久と同じ顔。

 

 ただし、その少年は、笑っていた。

 

 出久よりも少しだけ幼い顔で。

 

 誰かに向かって、手を伸ばしていた。

 

 写真の裏には、名前が書かれていた。

 

 引子は、その文字を見た。

 

 そして。

 

 声を失った。

 

 そこに書かれていた名前は。

 

 緑谷出久。

 

「……え?」

 

 引子は、写真を見つめた。

 

「……どうして」

 

 女は、静かに言った。

 

「私の息子も、緑谷出久という名前だったの」

 

 引子の手が震えた。

 

「そんな……」

 

「あなたの息子と、同じ名前」

 

 女は、写真を胸に抱いた。

 

「同じ顔」

 

「同じ声」

 

「同じ、生年月日」

 

 彼女は、引子を見つめた。

 

「そして、同じ父親」

 

 引子の顔が、青ざめた。

 

「……久志さん?」

 

 女は、頷いた。

 

「ええ」

 

 そして。

 

「あなたの夫よ」

 

 引子は、後ずさった。

 

「……嘘」

 

「嘘じゃないわ」

 

「そんなはずない!」

 

 引子は、首を振った。

 

「私が、出久を産んだのよ! 私が、あの子を産んだの! あなたが、同じ名前の子どもを産んだなんて……!」

 

「ええ」

 

 女は、穏やかに答えた。

 

「あなたも、私も、出久を産んだの」

 

 引子は、絶句した。

 

 女は、写真を見つめた。

 

「でも、私の出久は、あなたの出久とは違った」

 

「……何が違うの?」

 

「私の出久は、最初に生まれた子どもだった」

 

 引子は、息をのんだ。

 

「そして、あなたの出久は……」

 

 女は、顔を上げた。

 

「最初に生まれた子どもが死んだあとに、生まれた子どもだった」

 

 引子の頭の中で、何かが砕けた。

 

 記憶が、溢れ出す。

 

 分娩室。

 

 二つの泣き声。

 

 二人の赤ん坊。

 

 そして。

 

 赤ん坊を抱いた自分の隣に立っていた、もう一人の女。

 

 同じ顔をした女。

 

 同じ夫を持つ女。

 

 同じ名前の息子を持つ女。

 

 彼女は、引子に向かって言った。

 

『お願い』

 

『私の子どもを、忘れないで』

 

 引子は、震える声で呟いた。

 

「……ああ」

 

 涙が、頬を伝った。

 

「……私、知っていたんだ」

 

 女は、何も言わなかった。

 

「私、知っていたのね……」

 

 引子は、胸を押さえた。

 

「私には、もう一人、息子がいた……」

 

 その瞬間。

 

 女の表情が変わった。

 

「……違うわ」

 

 引子が顔を上げる。

 

 女は、悲しそうに笑った。

 

「あなたには、もう一人、息子がいたんじゃない」

 

 彼女は、引子の手を取った。

 

「あなたには、最初から、二人の息子がいたのよ」

 

 引子は、泣き崩れた。

 

 女は、その背中に手を回した。

 

 同じ顔をした二人の母親が、抱き合って泣いていた。

 

 世界が、二人の存在を否定しても。

 

 記録が、二人の息子を一人にまとめても。

 

 彼女たちの記憶が、何度消されても。

 

 母親たちは、泣いていた。

 

 自分たちが失った子どものために。

 

 自分たちが忘れてしまった子どものために。

 

 そして。

 

 自分たちが、忘れさせられた子どものために。

 

 しばらくして、引子が顔を上げた。

 

「……あなたは、どうして、私のところに来たの?」

 

 女は、涙を拭った。

 

「あなたに、謝りたかったの」

 

「……謝る?」

 

「ええ」

 

 女は、頷いた。

 

「私は、あなたの息子を殺したから」

 

 引子の表情が凍りついた。

 

「……何を言っているの?」

 

「あなたの出久を、殺したの」

 

「違う……」

 

「私の出久を生かすために」

 

「違う!」

 

 引子は、女の肩をつかんだ。

 

「そんなこと、あるはずがない! あなたは、私なのよ! 私が、私の息子を殺すはずがない!」

 

 女は、静かに引子を見つめた。

 

「……そうね」

 

 彼女は、頷いた。

 

「あなたは、殺していない」

 

 引子の手が、止まった。

 

「でも、私は殺した」

 

 女の目から、涙が落ちた。

 

「私は、あなたの息子を殺したの」

 

 彼女は、引子の手を握り返した。

 

「だから、お願い」

 

 女は、震える声で言った。

 

「今度こそ、私を許さないで」

 

 引子は、何も言えなかった。

 

「私を許してしまったら、私はまた、同じことをする」

 

 女は、引子の目を見つめた。

 

「あなたが私を許してくれるたびに、私は、自分がしたことを正しかったことにしてしまう」

 

 彼女は、涙を拭った。

 

「だから、今度こそ、私を憎んで」

 

 引子は、首を横に振った。

 

「……できない」

 

「どうして?」

 

「だって……」

 

 引子は、女の顔を見つめた。

 

「あなたは、私だから」

 

 女の表情が崩れた。

 

「……私は、あなたじゃないわ」

 

「いいえ」

 

 引子は、首を横に振った。

 

「あなたは、私よ」

 

 そして。

 

「あなたが、あの子を殺したのなら……」

 

 引子は、涙を流しながら言った。

 

「私も、あの子を殺したの」

 

 女は、息をのんだ。

 

「……違う」

 

「違わない」

 

「あなたは、知らなかった!」

 

「知らなかったから、何なの!?」

 

 引子の声が、部屋に響いた。

 

「知らなかったから、あの子が死んでもいいの!? 知らなかったから、あの子を忘れてもいいの!? 知らなかったから、あの子が生きていたことを、なかったことにしてもいいの!?」

 

 女は、言葉を失った。

 

 引子は、涙を拭った。

 

「……私は、あの子を覚えていなかった」

 

 彼女は、ゆっくりと続けた。

 

「でも、今は覚えている」

 

 女を見つめる。

 

「だから、もう一度、教えて」

 

「……何を?」

 

「私たちの息子のことを」

 

 引子は、女の手を握った。

 

「私たちが、何をしたのか」

 

 その瞬間。

 

 玄関の扉が、開いた。

 

「……お母さん!」

 

 緑谷出久の声だった。

 

 引子が振り返る。

 

 そこには、息を切らした出久と、麗日お茶子が立っていた。

 

 出久は、二人の女を見た。

 

 そして。

 

 その場で、立ち尽くした。

 

 同じ顔をした母親が、二人いる。

 

 同じ目。

 

 同じ髪。

 

 同じ表情。

 

 だが、一人は自分を見て、涙を流している。

 

 もう一人は、自分を見て、恐怖に顔を歪めている。

 

 出久は、震える声で言った。

 

「……お母さん?」

 

 二人の女が、同時に答えた。

 

「出久!」

 

 その瞬間。

 

 世界が、再び停止した。

 

 午前二時十三分。

 

 引子の腕時計も。

 

 出久のスマートフォンも。

 

 麗日のノートも。

 

 すべてが、同じ時刻を示していた。

 

 そして。

 

 二人の母親の間に、黒い文字が浮かび上がった。

 

『母親個体A:緑谷引子』

 

『母親個体B:緑谷引子』

 

『遺伝情報:一致』

 

『記憶情報:不一致』

 

『出産記録:一致』

 

『出生児:不一致』

 

『親子関係:成立』

 

『親子関係:不成立』

 

『親子関係:成立』

 

『親子関係:不成立』

 

 文字が、激しく明滅する。

 

 やがて、最後の一行が浮かんだ。

 

『母親は二人ではありません』

 

 出久は、息をのんだ。

 

『母親は、一人です』

 

 その文字の下に。

 

 さらに、別の文字が現れた。

 

『ただし、母親は――』

 

 そこで、記録が途切れた。

 

 引子が、震える声で尋ねた。

 

「……私は、誰なの?」

 

 もう一人の引子が、首を横に振った。

 

「……分からない」

 

「あなたも、分からないの?」

 

「ええ」

 

 女は、涙を流した。

 

「私も、自分が誰なのか、分からない」

 

 そして、出久を見つめた。

 

「でも、一つだけ、分かることがある」

 

 出久は、彼女を見た。

 

「……何?」

 

 女は、震える声で答えた。

 

「私は、あなたを産んだ」

 

 引子が、息をのんだ。

 

「そして、私は……」

 

 女は、出久の頬に触れようとした。

 

 だが、その指先は、彼の肌に触れる前に消えた。

 

 女は、自分の手を見つめた。

 

「……あなたを、殺した」

 

 出久は、動けなかった。

 

 女は、涙を流しながら笑った。

 

「ごめんね、出久」

 

 その瞬間。

 

 出久の中で、何かが繋がった。

 

 記憶の奥にあった、あの声。

 

 病院の廊下で、自分を見つめていた少年。

 

 そして、何度も繰り返された、あの言葉。

 

『お母さん。僕を殺したのは、あなたでしょう?』

 

 出久は、震える唇を動かした。

 

「……お母さん」

 

 二人の女が、同時に顔を上げた。

 

「僕を、産んだのは……どっち?」

 

 沈黙。

 

 誰も答えられなかった。

 

 出久は、二人の顔を見つめた。

 

「僕を、育てたのは……どっち?」

 

 沈黙。

 

「僕を、愛してくれたのは……どっち?」

 

 引子が、口を押さえた。

 

 もう一人の引子が、泣き崩れた。

 

 出久は、涙を流しながら、最後の質問をした。

 

「……僕のお兄ちゃんを、殺したのは、どっち?」

 

 その瞬間。

 

 二人の母親が、同時に答えた。

 

「私よ」

 

 そして。

 

 同じ顔をした二人の母親が、互いを見つめた。

 

 どちらも、嘘をついていなかった。

 

 どちらも、本当に自分が殺したと信じていた。

 

 どちらも、本当に息子を愛していた。

 

 どちらも、息子を救うために、何かを犠牲にした。

 

 そして。

 

 どちらも、息子を救えなかった。

 

     *

 

 世界の外側。

 

 観測者のいない観測室。

 

 無数の記録が、壁一面に並んでいた。

 

 そのすべてに、同じ名前が記されている。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 緑谷出久。

 

 そして、その中に。

 

 たった一つだけ、名前のない記録があった。

 

 記録番号は、零。

 

 出生時刻、午前二時十三分。

 

 死亡時刻、午前二時十三分。

 

 母親、緑谷引子。

 

 父親、緑谷久志。

 

 出生児名――未登録。

 

 記録の下部には、赤い文字で、こう書かれていた。

 

『当該個体は、緑谷出久の母親によって殺害された』

 

 その文字が、ゆっくりと変わった。

 

『当該個体は、緑谷出久の母親を殺害した』

 

 さらに。

 

『当該個体は、緑谷出久である』

 

 最後に。

 

『当該個体は、緑谷出久ではない』

 

 記録が、音もなく閉じた。

 

 暗闇の中で、誰かが呟いた。

 

「……違う」

 

 少年の声だった。

 

「母親は、二人じゃない」

 

 彼は、記録を見つめた。

 

「三人でもない」

 

 その手には、一枚の写真が握られていた。

 

 写真には、三人の子どもが写っている。

 

 一人は、緑谷出久。

 

 一人は、御影出久。

 

 そして、もう一人は。

 

 名前を奪われた、最初の子ども。

 

 少年は、写真の裏を見た。

 

 そこには、幼い文字で、こう書かれていた。

 

『お母さんは、僕たちを産んだ』

 

『でも、お母さんは、僕たちを殺した』

 

『だから、僕たちは――』

 

 最後の行だけが、破り取られていた。

 

 少年は、破れた紙の端を指でなぞった。

 

「……そうか」

 

 彼は、ようやく理解したように頷いた。

 

「僕たちは、お母さんを探していたんじゃない」

 

 暗闇の向こうで、何かが目を開いた。

 

 少年は、顔を上げた。

 

「お母さんが、僕たちを探していたんだ」

 

 その瞬間。

 

 観測室のすべての記録が、同時に開いた。

 

 無数の緑谷出久。

 

 無数の母親。

 

 無数の兄。

 

 無数の死。

 

 無数の再構築。

 

 そして、そのすべての中心に。

 

 一つだけ、空白があった。

 

 最初に生まれた子どもの名前。

 

 誰もが忘れた名前。

 

 誰もが思い出せない名前。

 

 それでも、誰かが必死に守り続けていた名前。

 

 その空白に、文字が浮かび上がった。

 

『母親の本来の個体数:一』

 

 続いて。

 

『母親の分裂回数:不明』

 

 さらに。

 

『分裂の原因:第一子の死亡』

 

 最後に。

 

『第一子を殺害した母親は、現在も生存しています』

 

 暗闇の中で、少年が微笑んだ。

 

「……やっと、見つけた」

 

 彼は、写真を胸に抱いた。

 

「お母さん」

 

 そして、静かに言った。

 

「今度は、僕があなたを救う番だよ」

 

 その瞬間、観測室の壁に、新たな記録が浮かび上がった。

 

『第二十三話』

 

『母親殺害事件』

 

『被害者:緑谷引子』

 

『加害者:緑谷出久』

 

『事件発生予定時刻:午前二時十三分』

 

 その下に、小さな文字が付け加えられた。

 

『ただし、被害者はまだ生まれていません』

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